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豪徳寺は招き猫の発祥地だという説があります。かつての豪徳寺は寂れた貧しい寺だったそうです。それでも和尚さんは飼っていた猫を我が子のように思い、自分の食べ物を分け与えていたといいます。あるとき和尚さんは「汝 我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と猫に言い聞かせました。数ヶ月たったある日、藩主の井伊直孝が鷹狩りをしていて豪徳寺の前を通りかかったところ、猫が門前で手招きの仕草をしていたといいます。直孝が寺に立ち寄って休憩していると、雷雨が降り始めました。雨に濡れずにすんだ直孝は喜んで、その後、荒れていた豪徳寺に多額の寄進をしたといいます。似たようなものとして、樹木の下で雨宿りをしていた直孝が、手招きする猫に近づいたところ、さきほどまで雨宿りしていた木に落雷があり難を逃れた、という話もあります。「猫が顔を洗うと雨が降る」といわれますが、豪徳寺の招き猫の話と関係あるという説もあるようです。豪徳寺境内の一画に、「招猫殿」という建物があります。招猫殿ここの絵馬は、招き猫です。招き猫の絵馬ここでは猫は観世音菩薩の使いなのでしょう。奉納された招き猫招猫殿の左側に、たくさんの招き猫がいます。豪徳寺ではこれを「招福猫児(まねぎねこ)」と呼び、願いがかなったお礼として奉納されます。同上ところで、平成19年(2007年)の彦根城築城400年を記念して登場したゆるキャラ「ひこにゃん」は、井伊家ゆかりの豪徳寺の招き猫が原型になっているという話です。ひこにゃんも招き猫だったんですね。2011年、皆さんのもとにたくさんの福が来ますように。
2010年12月31日
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豪徳寺の山門から入って右手には、延宝7年の作と伝えられる梵鐘があります。有形文化財として平成12年(2000年)、世田谷区の指定を受けました。梵鐘正面に向かって進んでいくと、何やら大きなものが。香炉これで線香を焚くのでしょうね。仏殿正面に仏殿があります。この仏殿は延宝5年(1677年)に建てられたもので、平成2年(1990年)世田谷区指定有形文化財になりました。中には5体の仏像が安置されており、井伊直孝の娘、掃雲院(そううんいん)が父の菩提を弔うために造らせたものだそうです。この仏殿の奥には、本殿があります。こちらは近代的な様式に見えます。本殿三重塔この三重塔は、平成18年(2006年)に新しく建立されたものです。
2010年12月29日
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世田谷区役所からさらに西に向かい、塀に沿って南へ回ると、豪徳寺(ごうとくじ)の山門にたどり着きました。豪徳寺山門同上豪徳寺の山号は大谿山(だいけいざん)。もともとは臨済宗でしたが、現在は曹洞宗のお寺です。世田谷城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の菩提を弔うために文明12年(1480年)に建立した「弘徳院(こうとくいん)」を前身としています。「井伊直弼墓」の石標門の手前左側には、「井伊直弼墓」と書かれた石標があります。井伊家の墓所寛永10年(1633年)、彦根藩世田谷領が成立し、彦根藩主井伊直孝が井伊氏の菩提寺としました。寺号の豪徳寺は、直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」に由来します。井伊家の墓所は平成18年(2006年)、国の史跡に指定されています。ここに井伊直弼(なおすけ)の墓もあります。それにしても、安政の大獄で処刑された吉田松陰の墓と、処刑した井伊直弼の墓が、1キロメートルに満たない距離にあるとは、なんとも不思議な気がします。
2010年12月28日
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桂太郎の墓所をあとにして、さらに西向きに歩いてみました。若林公園すぐ西側が若林公園。土曜日の午前中、幼稚園児の集団でしょうか、大人も大勢いて、なにやら賑やかそうでした。国士舘大学道沿いには国士舘大学の学舎が建っていました。世田谷キャンパスです。世田谷区役所道を挟んで向かい側には、世田谷区役所の庁舎があります。国士舘の学舎がきれいなだけに、区役所の庁舎がくすんで見えてしまいます。しかたないですけどね。それを隠すわけではないでしょうが、色付いた木々が秋の名残りを感じさせてくれました。散策マップ若林公園の前にあった散策マップによると、ちょうど散策ルートになっているようです。この先、豪徳寺がありますので、そこへ向かって行こうと思います。
2010年12月26日
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あまり知られていないようですが、松陰神社の西隣に、桂太郎の墓所がありました。桂太郎墓所入口「明治・大正の宰相 桂太郎先生墓所」と書かれています。桂太郎は長州(現在の山口県)藩士で、萩の出身です。陸軍大臣のあと、明治34年(1901年)、首相に就任。西園寺公望と交代で首相を務め、首相在職日数は歴代1位だそうです。在任中に日英同盟(1902年)を結び、そして日露戦争(1904年~1905年)が起こりました。大正2年(1913年)10月、66歳で急逝。遺言により、尊敬する吉田松陰の墓に隣接するこの地に葬られたということです。墓石「公爵 桂太郎之墓」と書かれています。
2010年12月25日
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世田谷線の松陰神社前駅の東側で南北に交差する道沿いに松陰神社通り商店街があります。この道沿いに北に200メートルほど歩くと、松陰神社の鳥居が見えてきます。松陰神社同上鳥居から入り参道を進むと、左手に吉田松陰先生が座っている像がありました。吉田松陰像手には書物を持っておられます。教育者らしい凛とした姿でした。社殿松下村塾社殿の右側には松下村塾を模した建物があります。本物の松下村塾は萩にあります。久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文など、明治維新前後の時代を動かした人々が、松下村塾で吉田松陰の教えを受けたんですね。教育は国を造る礎だと感じます。社殿の手前を左に行くと、吉田松陰先生のお墓があります。墓地手前の鳥居吉田松陰のお墓安政5年(1858年)には井伊直弼が大老となり、日米通商条約に調印します。そしてこれに反対する人々を投獄し罰しました。いわゆる安政の大獄です。吉田松陰も捕らわれ、安政6年(1859年)、江戸伝馬町の獄において処刑されました。享年30歳、満29歳のことです。そして南千住の回向院に葬られました。4年後の文久3年(1863年)、門下生の高杉晋作や伊藤博文らによって世田谷・若林の地に改葬されました。この一帯は長州毛利藩の抱屋敷(かかえやしき=別邸)のあったところだそうです。明治15年(1882年)、門下の人々が相談し、墓の傍らに社殿を築きました。これが松陰神社です。現在の社殿は昭和に入って造営されたものです。
2010年12月24日
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世田谷線の松陰神社前駅です。駅名標ホーム東側の踏切駅名の通り、近くには松陰神社があります。安政の大獄で刑死した吉田松陰を祀る神社です。
2010年12月23日
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三軒茶屋から2駅目、若林駅にやってきました。若林駅同上若林駅は2面2線の相対式ホームを持つ駅です。というか、世田谷線の駅はほとんどがこのタイプですね。どの駅にもスロープがあってバリアフリーに配慮されています。それだけでなく、運転士および案内係の全従業員が「サービス介助士」の資格を取得しているそうです。若林踏切若林駅の東側で、環状七号線(都道318号)と交差しています。「若林踏切」と呼ばれています。もともとは遮断機があったのだそうですが、交通渋滞を招くので撤去したそうです。同上踏切手前の信号機同上普通の踏切では列車が優先で、接近すれば警報機が鳴り遮断機が降りて、車は通行できなくなります。しかし若林踏切では、交差点の交通整理をしているのは道路側の信号機で、電車も道路手前で信号機が青になるまで待ちます。踏切に進入する車両環状七号線としても唯一の踏切なんだそうです。同上世田谷線唯一の道路との併用区間として、外すことのできないスポットとなっています。
2010年12月22日
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世田谷線の300系車両を紹介しています。306編成@山下駅307編成@三軒茶屋駅308編成@下高井戸駅309編成@三軒茶屋駅310編成@三軒茶屋駅307編成の運転席ほぼ全線にわたって専用線を走ります。
2010年12月20日
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現在の東急・世田谷線では、300系車両が10編成あるそうです。それぞれ編成ごとに塗装の色が違っています。300系三軒茶屋から下高井戸まで、片道の所要時間は約17分。3分で折り返すと片道20分、往復で40分です。昼間の運転間隔は5分ごとですし、両端の駅にはホームは1本しかありませんので、8編成が走っていることになります。2編成はお休みです。実はこの日は、301編成は上町の車両基地でお休みしているのを目撃しました。301編成@上町基地玉電カラーに塗装されています。302編成@三軒茶屋駅303編成は目撃できず。304編成@三軒茶屋駅305編成@三軒茶屋駅
2010年12月19日
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東急の世田谷線(三軒茶屋~下高井戸)は、玉川電気鉄道(通称、玉電)の支線として開業しました。大正14年(1925年)のことです。今でも「玉電(たまでん)」と、親しみを込めて呼ばれています。一日乗車券三軒茶屋駅で一日乗車券「世田谷線散策きっぷ」を買いました。一日乗って320円。世田谷線の運賃は、東急の他の路線とは独立していて、一乗車140円(均一)。3回乗ればモトが取れます。このきっぷの表紙は、いずれも懐かしい路面電車型の車両で、これが玉電カラーなんですね。三軒茶屋駅にて2面1線のホームです。同上同上同上
2010年12月18日
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東急・田園都市線の三軒茶屋駅の改札を出て、地下通路を「三茶パティオ」に向かって歩きました。地下通路「三茶パティオ」「パティオ」とはスペイン語で「中庭」のことだそうです。地下に掘り下げた空間になっています。正面奥の階段を上がって、地上に出ました。キャロットタワー正面のビルは駅前再開発で誕生した「キャロットタワー」です。正面はベージュ色ですが、上層階はキャロットつまり人参色をしているところから名付けられたそうです。世田谷線三軒茶屋駅キャロットビルの1階部分に、世田谷線の三軒茶屋駅舎があります。もともとは田園都市線に近い場所に駅舎があったのですが、駅前再開発のときに離れた場所に移動してしまいました。平成4年(1992年)のことです。改札口出口専用正面向かって左側が改札口です。右側は「出口専用」と書かれていますが、降車ホーム兼自由通路になっているため、一般の人もひっきりなしに通り抜けていきます。降車ホーム兼自由通路
2010年12月17日
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ちょうどいま、東京の世田谷ではボロ市が開かれていますね。毎年12月15日16日、そして翌年1月15日16日の4日間、曜日に関係なく開催されます。来年1月は土日に当たっているので、きっとすごい人出になるのでしょうね。ボロ市のルーツは、1578年に小田原城主北条氏政が、世田谷城の城下町に開いた楽市にまで遡るそうです。北條氏が豊臣秀吉に滅ぼされ(小田原の役、1590年)、楽市は衰退しますが、農具を扱う市や年末の歳市として生き残ってきました。ボロ布が多く売られたことから明治時代には「ボロ市」と呼ばれるようになりました。現在では東京都の無形民俗文化財に指定されています。実は先日の12月11日、世田谷まで行ってきました。目的は東急・世田谷線です。これからしばらくは世田谷線沿線の話をしたいと思います。そのときはボロ市開催直前の土曜日でしたが、まだその雰囲気はほとんどありませんでした。ボロ市通り「代官餅」のバナーボロ市の時しか手に入らないという「代官餅」。2時間近くの行列ができると予想されていましたが、どうだったのでしょうねえ。案内板次回は、世田谷線の始発駅、三軒茶屋からスタートします。お付き合いください。300系(三軒茶屋駅付近)
2010年12月15日
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JR浅野駅から大川行きに乗りこみました。平日で1日9本。朝に4本と、夕方以降に5本です。土日となると、朝2本、夕方1本の合計3本しかありませんので、この電車に乗り遅れることはできません。先頭のかぶりつきには小学生の二人連れ。大人は我慢して、おとなしく座席に座っていました。本当は、武蔵白石駅に接近する様子を見たかったんですけどね。大川駅手前の運河大川支線に入ってからは、さらにゆっくり進んでいきます。運河に架かる橋を渡ると、まもなく大川駅終点です。大川駅にて大川駅は、1面1線の単式ホーム。上の写真、停まっている車両の右側に線路はあるようなのですが、草に埋もれて良く見えません。架線も2本分あったようですが、今は1本分の設備しかないようです。駅舎駅舎は木造で、ずいぶん傷んでいます。無人駅です。駅名標同上終端方向ホームの先、数段の階段を降りたところが改札です。安善駅方向ホーム前寄りホームは鉄製です。20メートル級の車両が導入されたときに、ホームを延長した部分だそうです。ヘッドマーク鶴見線80周年の記念ヘッドマークを付けています。1930年10月28日、鶴見駅~扇町駅間が開業したそうです。列車の前後でヘッドマークのデザインが異なっていました。
2010年12月14日
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2007年5月に、いちど鶴見線を訪問しました。そのときの記事はこちら→(クリック)前回はどうしても行けなかった大川駅。今回はぜひとも訪れたくて、朝早くホテルを出て鶴見駅までやってきました。鶴見駅鶴見線はどの駅も無人駅なので、中間改札が設けられています。上の写真は、手前が鶴見線、向こう側は京浜東北線のホームへと続く橋上のコンコースです。鶴見駅で待っていれば大川行きが来るんですけど、じっと待っていられなくて、停車していた海芝浦行きに飛び乗って、とりあえず浅野駅まで乗りました。浅野駅の駅名標浅野駅。ここは、海芝浦支線の分岐駅です。右が海芝浦方面ホームは本線が島式2線1面、海芝浦支線は相対式2面2線になっています。上の写真の正面が海芝浦方面行きのホーム(3番線)です。0キロポスト前回、見つけることが出来なかった0キロポストです。本線側のホームの向かい側に立っていました。その向こうは海芝浦方面のホームです。海芝浦発鶴見行き海芝浦発・鶴見行きの205系1100番台です。海芝浦側から本線へと進入しているところです。大川行き数本見送ったあと、大川行きがやってきました。行先表示(オレンジ色)大川支線用の行先表示はオレンジ色です(本当は黄色だそうです)。ちなみに本線は赤色、海芝浦支線は緑色です。今日の目的地の一つ、大川駅に向けて、乗り込みました。(続く)
2010年12月12日
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12月10日は東京方面へ出張でした。毎度おなじみ、車窓からの富士山。E席(山側)の座席から前方を眺めていると、かなり遠くからでも富士山が見えることがあります。とくに山頂が雪で白いとよく目立ちます。この日はかなり手前からしっかり見えていたのですが。残念ながら、正面に見えるころ、富士山の山頂付近には雲がかかっていました。でもなんとか山頂が見えたので、良しとしておきましょう。
2010年12月10日
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京阪の駅名にもある「淀屋橋」。その橋の名前は、江戸時代の豪商「淀屋」にちなんだものであることはよく知られています。淀屋の初代は「淀屋常安(じょうあん)」。淀屋橋のさらに下流に「常安橋」がありますが、もちろん、初代淀屋の名に由来しています。中之島で米市場を開き、大坂を天下の台所とならしめた、その基礎を築いた人です。大阪冬の陣では徳川方に肩入れし、陣屋や兵への食料を提供しました。その功績が家康に認められ、八幡に山林田地300石の土地を与えられ、名字帯刀が許されたということです。代々、淀屋は発展を続け、四代目になると多くの大名に金を貸していたようで、「上方以西の大名で淀屋から借金をしていない者はない」と言われるぐらいでした。その総額は20億両、現在なら120兆円とも言われています。日本の国家予算(一般会計)が85兆円だそうですから、途方もない金額ですね。ところが、元禄15年(1702年)に五代目を引き継いだ淀屋辰五郎は、宝永2年(1705年)、幕府から闕所(けっしょ)処分を受けてしまいます。いわゆるとり潰しです。「町人の身分をわきまえず、ぜいたくが目に余る」という理由で、米商の免許を取り消された上、家財等を没収されて、大坂から所払いにされました。ほんとうの理由は大名貸しの借金棒引きだとも言われています。淀屋辰五郎旧邸の碑同上正徳5年(1715年)、初代が徳川家康から拝領した八幡の土地が淀屋に返還されました。日光東照宮の100年祭の恩赦だそうです。享保元年(1716年)、江戸に潜伏していた辰五郎は八幡に戻り、八幡柴座に住まいを構えたということです。上の写真は八幡柴座に建てられた石碑です。栄華を極めた淀屋の夢の跡は、この石碑だけでは想像しづらいですね。
2010年12月06日
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京阪の八幡市駅の南東方向に、八幡市の市役所があります。路線バスだと3つめのバス停で、所要時間は5分。徒歩なら20分ほどです。八幡市役所付近市役所前の広場市役所庁舎庁舎の上部に八幡市の市章が掲げられています。八幡町だった昭和39年(1964年)に公募により制定され、昭和52年(1977年)に市制に移行したときにそのまま引き継がれました。交通の要所であり、長く石清水八幡宮の門前町として栄えましたが、男山団地の造成以降ベッドタウンとして人口が増加し、現在は7万4000人前後になっています。市役所に隣接して「八幡市文化センター」があります。八幡市文化センター同上ここではいろいろな催しが行われています。ときには歌手のコンサートもあるようですね。休日応急診療所敷地の一画には、八幡市立休日応急診療所があります。内科・小児科と歯科があります。インフルエンザの流行が心配されますが、いざというときにはこのような施設が身近にあると心強いですね。
2010年12月04日
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八幡市内を流れる大谷川は、石清水八幡宮の付近では古来より「放生川(ほうじょうがわ)」と呼ばれています。放生川そのほぼ中央付近に、ひときわ目立つ橋が架かっています。「安居橋(あんごばし)」です。安居橋同上同上「放生」とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放すことで、「放生会(ほうじょうえ)」という行事が各地にあります。放生会は殺生を戒める仏教の戒律を起源とする宗教儀式ですが、神仏習合によって神道にも取り入れられ、収穫を感謝する意味合いも込められています。石清水八幡宮でも、毎年9月15日に行われる「石清水祭」の朝、放生行事が行われています。明治以降、平成11年(1999年)までは、一の鳥居の傍らにある「放生池」で行われていましたが、その後、もとのように放生川で行われるようになりました。安居橋の上では「胡蝶の舞」を舞うのだそうです。安居橋と男山なお、現在の安居橋は、八幡市によって平成3年(1991年)に架け替えられたものです。安居橋の「安居」とは、ひとところに籠って修行に専念するという仏教の言葉に由来するそうです。石清水八幡宮では、幕末まで「安居神事」が行われていました。旧暦4月16日から7月15日までの3ヶ月間行われ、これを「夏安居(げあんご)」と称したそうです。
2010年12月03日
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