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同じく足立寺史跡公園の一画に、和気神社がありました。和気神社石標「和気清麿公?跡」「足立寺古跡」と書かれた石標がありました。和気神社御祭神は和気清麻呂(清麿)。古びた感じはなく、さりとて神秘的な感じでもなく、比較的最近に建てられたもののように見えます。和気清麻呂は備前の国、現在の岡山県和気町の出身です。和気町にある和気神社は、和気氏の氏神です。 和気清麻呂のことを語るとき、「宇佐八幡宮神託事件」が出てきます。奈良時代の769年、宇佐八幡宮から称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣(神のお告げ)が出されたというものです。「道鏡事件」とも呼ばれています。道鏡は、女帝の称徳天皇の寵愛を得て、僧でありながら太政大臣に、そして法王になりました。ついには天皇の位を望むようになったということです。天皇は、宇佐の神託を確認するために和気清麻呂を遣わしました。そして「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり」と、道鏡を天皇にしてはならぬという神託を持ち帰り、天皇に言上しました。結局、和気清麻呂は失脚し、大隈国(鹿児島県)に流罪となります。道鏡を皇位につけたがっていた称徳天皇の怒りをかったからとも言われています。ほんとうに道鏡が皇位を狙っていたのかどうか、いろいろな異説もあり、かならずしもはっきりとはしていないようです。いずれにせよ、称徳天皇は道鏡を皇位につけることはしませんでした。和気清麻呂は身をもって道鏡の横暴を阻止したわけです。2年後、称徳天皇の崩御により道鏡は失脚。和気清麻呂は許されて都に戻ったということです。和気清麻呂が大隈国に流されるとき、道鏡に両足を切られたという逸話があります。しかし八幡宮の力で元通りになったので「足立寺」を建てた、という言い伝えです。ここまでくると、何が事実なのかわからなくなりますね。
2010年08月31日
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「足立寺史跡公園」の中に、復元された窯があります。奈良時代末から平安時代初期にかけてのもので、瓦を焼く窯だそうです。瓦窯手前の、舟の底のような形をした部分で燃料を燃やします。一番手前、石が2つ並んでいるところが焚口だそうです。炎は3つの窓を通って、奥の囲い部分(燃成部)に入ります。ここに瓦を置きます。燃成部炎は燃成部に置かれた瓦を焼き、一番奥の下方にある3つの煙突を通して外へ出ます。焼くときには天井があるのですが、瓦を取り出すときに壊したままになっています。説明によると、一度に400枚ほどの瓦を、1週間ほどかけて焼いたのだそうです。その2割ほどが不良品だったようです。
2010年08月29日
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さつき公園から西に4、5分歩いたところに、「足立寺史跡公園」があります。「足立寺」は「そくりゅうじ」と読むようです。「西山和気」という交差点の近くで、公園の住所も「八幡市西山和気」となっていますので、正確にいうと「男山団地」の一画とは言えないかもしれません。公園入口小高い場所にありました。名標公園内それほど広くはありませんが、散歩に立ち寄るにはいいかもしれません。三重塔跡この辺り(西山地区)に古代寺院跡があることは以前から知られていたようです。昭和40年代の発掘調査の結果、急な斜面を削って東側に堂、西側に塔が建てられていたということです。塔の大きさは、3間×3間(1間は約1.8m)で、1辺10mの基壇の上に乗っていて、高さは推定で25mくらいの三重塔だっただろうということです。上の写真は、塔の心柱を支える「塔心礎(とうしんそ)」で、直径36cmのほぞ穴が開いています。お堂の跡三重塔の東側には、桧皮葺(ひわだぶき)のお堂があったということです。南北朝時代のものだそうです。そのお堂の下の層からは奈良時代の礎石や瓦が出土したことから、古いお寺が壊れたあとに建てられたと推測されているそうです。その古いお寺というのが「足立寺(そくりゅうじ)」です。江戸時代の記録によると、「石清水八幡宮の西南方の山中に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)をまつる寺と、和気清麿(わけのきよまろ)をまつる神社があった」ということで、お寺の方が「足立寺」なのでしょう。「清麿」は「清麻呂」とも書きますが、ここでは説明板に合わせます。ちなみに、当地の地名「西山和気」は、和気清麿の名前に由来しているようです。出土品は8世紀中ごろ(奈良時代前期)から12世紀(平安時代後期)の物で、足立寺は和気清麿より100年ほど古い時代に建立されたとみられています。そして平安時代の終わりごろ、土砂に埋まったものと考えられています。(つづく)
2010年08月27日
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京阪バスの男山営業所(男山車庫)の南西側に、さつき公園があります。さつき公園夏の間は市民プールがオープンしています。25m、17m、それに子ども用の3種のプールがあります。プールの入口15歳未満は100円。18歳未満が200円。18歳以上が500円。手軽ですね。なによりも団地の中にあるっていいですね。ときどき、近所の子どもたちが付添いの大人に連れられてやってきます。市民プール臨時駐車場隣のグラウンドは、臨時の駐車場になっていました。ここは「多目的グラウンド」なんですけど、この日は借り手がいなかったのでしょうかねえ。プールは8月31日までだそうです。学校も始まりますが、まだしばらくは夏が続きそうな雰囲気ですね。
2010年08月25日
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今度は、男山団地の北部にやってきました。北東の端、樟葉駅から一番遠いところに京阪バスの「男山営業所」があります。「男山車庫」同上正式には「京阪バス株式会社 男山営業所」なのですが、最寄りのバス停が「男山車庫」ということもあり、営業所自体も「男山車庫」のほうが馴染みがあります。同上かつて「京阪宇治交通」だったころ、男山車庫にいるのはワインレッドのラインが入った車両か、渋めの緑色(お茶のイメージ?)の車両でした。その後、京阪バスに吸収され、担当区域が変わったりして、男山営業所に配備される車両も入れ替わったりしたのでしょうね。この日、車庫で休んでいた車両の多くが京阪バス仕様の赤い塗装でした。男山営業所の開業は昭和49年(1974年)のことです。改めていうまでもないですが、新たに造成された「男山団地」内のバス輸送を担当するためです。しかし、「男山団地」の入居が始まったのは昭和47年(1972年)ですから、男山営業所の開業は間に合わなかったことになります。どうやら日本住宅公団(当時)からの土地取得に手間取っていたようです。そこで暫定的な措置として、1971年から1974年までの間、暫定的に「くずは営業所」(正式には宇治営業所くずは分室)が樟葉駅近くに設けられました。「くずは営業所」の跡地は現在、「西駐車場」になっています。
2010年08月24日
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男山団地は南北に長く、地図上で測ってみると2.5キロほどあるようです。全部を見て回るのはたいへんですが、ピンポイントでいくつか訪れてみました。国道1号「八幡洞ヶ峠」の交差点から男山団地に向かうと、「男山竹園」交差点にやってきます。この辺りは男山団地内の南寄りに位置しています。「男山竹園」交差点竹園地区の団地群図書館(1階)「くすのき近隣公園」野球場くすのき近隣公園内には野球場がありました。付近の道路久しぶりに訪れたのですが、かつては40キロだった速度制限が50キロに緩和されていました。しかし信号のない横断歩道もけっこう多いですし、実際、道路を横断する歩行者も多いので、スピードは控えめでちょうどいいと思います。
2010年08月23日
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男山団地内の「さくら公園」に隣接して、「八幡市こども動物園」があります。こども動物園同上八幡市民は無料だそうです。八幡市民以外は? 管理を請け負っている「八幡市公園施設事業団」のホームページを探してみると、「5名以上に限り一人50円」なんだそうです。園内には、猛獣はもちろん、象やキリンもいません。いるのはヤギ、ウサギ、モルモット、シマリス、アライグマなどの小動物、コブハクチョウ・キュウカンチョウ・インドクジャクなどの鳥類。小学校の飼育小屋を大規模にしたような感じでしょうか。就学前の子ども向け、といったところでしょう。月曜日は休園ですおっと、この日は月曜日でした。入園できず。残念。園内のようす同上同上同上小さな敷地の周囲から中を覗き見てみました。間近で観察することはできませんでしたが、鳥舎ではときどき、大きな鳥が羽ばたいているのが見えました。上述のホームページによると、「モルモットとふれあいコーナー」「ヤギ舎」「クジャク舎」などがあるようです。気軽に入れるのがいいですね。
2010年08月22日
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男山団地内、「さくら公園」の一画に、その記念碑はあります。竣功記念碑同上この記念碑、なんとなく「スター型」の団地の形をモチーフにしたような雰囲気ですね。同上手前には「男山団地竣功記念 日本住宅公団施行」と書かれています。同上「見晴かす山城の国」で始まる句碑が添えられています。十有余年をかけて「新たなる住まひの邑(むら)」が生まれたことの喜びと、「この邑の未来の倖(しあわせ)」を祈る碑です。昭和52年4月と刻まれています。1977年、いまから33年前ですね。
2010年08月21日
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男山美桜の交差点近く、遊水池に隣接して「さくら公園」があります。さくら公園ひょっとしたら、この遊水池を含めて「さくら公園」と呼ぶのかもしれません。地図によっては「さくら近隣公園」と書かれていたりします。上に書かれている「こども動物園」というのも気になりますので、あとで行ってみようと思いますが、まずは公園内に入ってみることにします。さくら公園公園の入口は何ヶ所かあります。上の写真は北寄りの入口です。同上木々の間に小路があり、散歩にはちょうどよさそうです。名の通り、桜の木が多いようです。同上上の写真は、北東端の入口です。同上中央部は木々がなく、明るい空間があります。訪れたのは休日の午後。猛暑のせいでしょうか、ほとんどだれもいませんでした。歌碑同上「薮入や 鳩をめでつつ 男山」 蕪村与謝蕪村が詠んだ俳句が句碑として置かれていました。「薮入」は夏にもありますが、俳句では新年の季語です。ところで与謝蕪村には「菜の花や 月は東に日は西に」という有名な句があります。どうやら、こちらの句も男山からの景色を詠んだものだそうで。昔から、多くの歌人や俳人に詠まれてきた男山。石清水八幡宮の山として、その名は広く聞こえていたようです。
2010年08月19日
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男山中央センターの東側に、「男山美桜」という交差点があります。「男山美桜」交差点行き先案内板男山団地内の住居表示はどこも「男山〇〇」となっています。遊水池同上モニュメント「男山美桜」交差点近く、遊水池側になにやらモニュメントが立っています。説明文このモニュメントは「信楽焼常夜灯」だそうです。八幡の地の竹をモチーフにしたそうです。男山の竹この辺り一帯は竹林だったのでしょうね。「男山美桜」交差点の北側には、歩道に沿って立派な竹が生えていました。同上(道の左側)京阪バスの車体は赤が基調ですが、ここを走る京阪バスは、旧・京阪宇治交通の緑色が基調です。男山地区を走るバスには緑色が似合います。
2010年08月17日
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京阪本線・樟葉駅の駅前から東に向かって延びる「くずはアベニュー」は、京都府八幡(やわた)市との境にある「男山泉」交差点で終わりです。この愛称は枚方市の道に付けられたものだからです。「男山泉」の交差点を過ぎると、すぐ先に「男山中央センター」があります。商店が何件か集まっています。中央センター同上中央センター付近上の写真は中央センターから樟葉駅方向を写したものです。同上上の写真は同じ場所から反対方向(東の方向)を写したものです。はるか後方には宇治・城陽の山並みが見えています。男山中央センターの名の通り、この付近は「男山団地」のほぼ中央になります。男山団地は八幡市の西部に位置し、日本三大八幡(はちまん)の一つである石清水(いわしみず)八幡宮をいただく男山丘陵の南麓一帯に開発された団地です。国道1号の付け替え計画に伴って計画され、当時の日本住宅公団によって建設されました。昭和37年(1962年)、宅地開発が正式に決定され、昭和44年(1969年)、団地南部から造成工事が着手されました。昭和47年(1972年)に入居開始、昭和52年(1977年)に全体が完成しました。当時の八幡町の人口が約2万人に対して、男山団地の計画人口は3万人以上。昭和50年(1975年)には人口5万人を超え、昭和52年(1977年)に市制が施行され八幡市となりました。その一方で市域の東部を中心に人口は減少しており、男山団地はいろんな意味で八幡町に大きな影響を及ぼしています。中央センターの商店UR都市機構の案内所奥には、いわゆる「スター型」の建物が写っています。これも日本住宅公団らしい建物ですね。香里団地ではすでにこのタイプの建物は取り壊されて残っていません。
2010年08月16日
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円福寺は臨済宗の禅道場として、現在も多くの僧が修業されています。その山門に掲げられている「江湖道場」という額。「江湖道場」の額「江湖(ごうこ、こうこ)」とは、中国の「江」=「揚子江(長江)」と「湖」=「洞庭湖」のことで、さらには「江」=「江西省」と「湖」=「湖南省」の地域一帯を指しているそうです。中国の唐の時代、禅宗の代表的な二人「馬祖道一」と「石頭希遷」が活躍した地域が、現在の江西省と湖南省だということです。したがって多くの禅僧がその周辺を行き来しました。そこから転じて、禅宗僧侶の世界を「江湖」と称するようになり、僧侶が集まり修業する場所を「江湖道場」としたようです。「創開……」の碑山門に向かって右側には、上のような写真の碑が建てられています。「創開於雄峰圓福江湖道場」と記されています。「示現……」の碑もう一つ、山門に向かって左側には、上の写真のような碑が建っています。「示現於片岡初祖達磨霊像」と書かれているようです(「霊」の字が少し違うのですが、、、)。「片岡に於いて初祖(=初代)達磨の霊像が示現された(=この世に現れた)」という意味でしょう。おそらくこれは、聖徳太子が達磨大師と出会ったという「片岡山飢人伝説」を指すのだと思います。その場所というのが「片岡に於いて」、つまり奈良県北葛城郡王寺町、現在の達磨寺(山号:片岡山)のあるところです。奈良・片岡山の達磨寺、京都・男山の円福寺ともに、国の重要文化財に指定された達磨像があり、いずれも日本三大達磨といわれているそうです。ではあと1つは? これが分からない。。。。山梨県の向嶽寺にある達磨図(国宝)かな? 山門の両側には金剛力士像(仁王像)が置かれていました。金剛力士像(阿形像)同上(吽形像)「碧巌録提唱」山門には、「碧巌録提唱」の文字が掲げられていました。「碧巌録(へきがんろく)」というのは、禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題集のようなものです。つまり「禅問答」ですね。山門の中に入ることはできませんでしたが、静かな中にも凛とした雰囲気のするお寺でした。この中で日々、修業を積んでおられるお坊さんがいらっしゃるんですね。
2010年08月15日
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国道1号の洞ヶ峠にある茶屋から、狭い道を西に入ってほどなくすると、「円福寺(えんぷくじ)」の入口があります。円福寺への道八幡円福寺霊園円福寺の入口大きな石標「達磨堂円福禅師」と書かれた大きな石標が目につきます。境内への道「西国三十三ヶ所巡拝道」同上中に入れないよう仕切りがありましたが、階段の両側にはたくさんの仏様。ここで拝めば西国三十三ヵ所を巡礼するのと同じ霊験が得られるのでしょう。円福寺山門円福寺は、山号を雄徳山と称し、臨済宗妙心寺派のお寺で、1783年に開創されました。臨済宗の専門道場「江湖道場」で、現在も多くの修行僧が修行に励んでいます。「江湖道場」の額ここに安置されている「達磨大師坐像」は鎌倉時代の木像で、もともとは奈良の達磨寺にあったものだそうです。その後、石清水八幡宮社務の田中家に秘蔵されていましたが、文化4年(1807年)に妙心寺の和尚が譲り受け、円福寺に安置したということです。日本最古の達磨大師像と言われており、国の重要文化財に指定されています。なお、毎年4月と10月に行われる万人講のときのみ、その姿を拝むことができるということです。
2010年08月14日
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国道1号線(京阪国道)、大阪府と京都府の府境から京都に寄ったところに「八幡洞ヶ峠」という交差点があります。「八幡洞ヶ峠」交差点同上ここは、国道1号と「山手幹線」(京都府道284号)との交差点です。京都に向かって右手が山手幹線、左に曲がると男山団地へと入って行きます。同上上の写真は、国道を横断する方向に撮ったもので、奥へ続く道が「山手幹線」です。横断歩道の向こう側に「摂南大学薬学部」「大阪工業大学情報科学部」の看板が建っています。2枚の看板の間に、石標が立っているのが分かりますでしょうか?「筒井順慶陣所跡」の碑山崎の合戦のとき、筒井順慶は大和郡山城に籠城していて洞ヶ峠には来ていなかったのが真相だということですが、じゃあ、この碑は何?この碑も、三宅安兵衛氏の遺志によって建てられたものですので、昭和初期の歴史観に基づいているはずです。そのころはまだ「洞ヶ峠の筒井順慶」だったのでしょうか? なかなか名誉回復には至らないようです。しかしその一方で、筒井順慶は偵察隊として兵を洞ヶ峠まで派遣したという説もあり、あながち「嘘」ではないのかもしれません。なお、この碑は「山手幹線」の開通にともなって移設されたということです。「右 西二子塚、左 圓福寺」と書かれていますが、円福寺は右手にあります。移設により向きが変わってしまったようです。
2010年08月13日
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洞ヶ峠にある「洞ヶ峠茶屋」の入口脇に、枚方市が設置した「洞ヶ峠」の説明板が立っています。 説明板洞ヶ峠がどこにあるかは知らなくても、「洞ヶ峠を決め込む」という故事を知っている方はいらっしゃると思います。天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたとき、羽柴秀吉は備中高松城を攻めていました。しかし報を聞くや毛利軍と和議し、近畿へと取って返し、明智光秀と戦うことになります。「山崎の合戦」、いわゆる「天王山の戦い」です。山崎は、洞ヶ峠の北西方向、淀川の対岸にあります。明智光秀の要請を受けた筒井順慶は、大和郡山城から出て洞ヶ峠に陣を敷き、戦況を眺めていて、秀吉が勝ったとみるや秀吉側についたということで、日和見主義のことを「洞ヶ峠を決め込む」と言われるようになったそうです。ところが実際には、筒井順慶は光秀の出陣要請は受けたものの、それを蹴り、大和郡山城に籠城していたというのが真相だそうです。説明板には「そのおかげで洞ヶ峠は天下に知れわたって伝えられている」と書かれていますが、筒井順慶にしてみれば、えらい迷惑な話ですね。
2010年08月12日
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国道1号線(京阪国道)、大阪府と京都府の府境に「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」があります。かつての「東高野街道」の道筋であり、交通の要衝でもありました。国道1号「洞ヶ峠」付近京都に向けて車を走らせていると、左側に「ぼたもち」の看板が見えてきます。「ぼたもち」の看板山城・河内国境にある、まさに峠の茶屋です。住所も電話番号も京都側になってますが、地図を確認したら、ほんとうに府境上に建っているみたいです。「洞ヶ峠茶屋」同上以前、一度だけですが買ったことがあります。とにかく1個が大きくてビックリ。小さめのお茶碗1杯分くらいありそうでした。
2010年08月11日
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神戸までひとっ走りしてきました。信号待ちをしているときにメーターを見ると、お!もうすぐだということは認識していましたので、助手席に積んでいたカメラで撮影。10万キロの記念も、と思ったのですが、100メートル先に停める場所はなさそうだったので、あきらめました。やっと10万キロです。
2010年08月10日
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京阪本線の沿線からは離れて、国道1号線(枚方バイパス)までやってきました。枚方市内を北に向けて走ると、京都府八幡市に入る手前に「家具団地前」という交差点があります。「家具団地前」交差点同上長尾家具町(午前9時)この交差点を東に入ると、家具店が集まる「枚方家具団地」です。通りに沿って21店舗があり、売場総面積は40,000平方メートル(甲子園球場のグランドの約3倍)と、すごく広いです。実は我が家の食器棚は家具団地内の某店で買ったものです。20年来、ずっと使い続けています。産業振興のため、枚方市は昭和32年(1957年)に「枚方市工場等誘致条例」を制定して、積極的に工場誘致を図りました。昭和40年(1965年)にこの条例が廃止されるまでに適用を受けた工場等は75に達したということです。もともとこの付近は山林だったそうです。近くには「中小企業団地」「紳士服団地」「鉄工塗装団地」などもあります。ちなみに、「家具団地」は商標登録されているそうですよ。
2010年08月09日
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交野天神社から西へ真っ直ぐ進むと、京阪・樟葉駅の北寄りにある、「楠葉野田1丁目」という交差点に出ます。樟葉駅から「北楠葉町」方面に向かうバスが通る道です。「楠葉野田1丁目」この交差点に、交野天神社と継体天皇樟葉宮伝承地の案内標識が立っています。案内標識これまで何度か、この標識を見たことがあるのですが、今回、交野天神社や樟葉宮のことを知るまでは、ほとんど気に留めることのなかった案内標識です。この交差点の東西の道沿いには、「樟葉宮表参道商店街」という名の商店街があります。商店街の名標店が密集している感じはしないのですが、枚方市商業連盟のホームページによると26店が加盟しているようです。もともとの名は「楠葉新町本通り商店街」でした。先の記事でも触れましたが、継体天皇が楠葉宮で即位したのが507年。つまり2007年は即位1500年だったわけです。実はこの「樟葉宮表参道商店街」という名称は即位1500年にちなんで改名したものです。慣れ親しんだ名前を変えた背景には、空き店舗が目立ち活動が停滞していることに加え、駅前のKUZUHA MALLがリニューアルし、なんとかしようという危機感があったようです。継体天皇は82歳まで生きたといいます。その長寿にあやかって、「長寿」「健康」をコンセプトに活性化を目指しているといいます。私が通りかかったのは休日の午前。あまり人通りのない時間帯で、見た目には分からなかったのですが、改名から3年が過ぎ、その効果は出ているのでしょうか。今度通りかかった時には、なにか面白そうなものがないか、探してみたいと思います。ところで、継体天皇は5年ほどして樟葉宮から「筒城宮(つつきのみや)」に遷都しています。その場所は京都府京田辺市で、同志社大学の京田辺キャンパスがある場所なんだそうです。実は、商店街の活性化策には同志社大学の学生のアイデアが取り入れられています。残念ながら、参加したのは「政策学部」で今出川キャンパスの学生だったようですが、1500年の時間を経た、「継体」つながりの連携、というのはちょっと大げさですかね。
2010年08月08日
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貴船神社からの帰りは交野天神社に戻らず、階段を下りて真っ直ぐに進みました。正面奥が貴船神社貴船神社の鳥居貴船神社は西に向いて建てられています。そして参道は西(正確にいうと、西南西の方向)に延びていています。参道は鳥居までですが、地図上でさらにずっと西南西の方向を見ると、淀川を越えて、大阪府高槻市郡家新町にある今城塚(いましろづか)古墳に行き当たります。今城塚古墳は前方後円墳で、6世紀前半に造られた古墳の中では最大級と言われています。国の史跡に指定されています。被葬者は、6世紀の大和政権の大王墓と推定されており、継体天皇だろうというのが定説になっているようです。継体天皇が即位したと言われている樟葉宮跡伝承地。その小高い丘に建てられている貴船神社。その参道は西南西に延び、そのはるか先には、継体天皇が眠る今城塚古墳が見えていた。。。。(もちろん、今は見えませんが)歴史って身近にあるんですねえ。
2010年08月07日
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交野天神社の拝殿の右側に、「貴船神社 樟葉の宮旧跡」と書かれた張り紙がありました。貴船神社の案内貴船神社への小路拝殿に向かって右手に回ると、森の奥に続く小路があります。人の気配すらありません。貴船神社への階段小路を進んでいくと、正面に案内板、そして右手に階段が見えてきました。階段の下に石標もあります。「此付近継體天皇樟葉宮址」案内板によると、この付近が継体天皇が即位した樟葉宮跡と伝えられている場所だそうです。武烈(ぶれつ)天皇の死後、直系が途絶えたので、越前の三国(福井県)から迎えられた男大迹(おおど)王が、507年に樟葉で即位したとされています。「日本書紀」によれば、継体天皇は、5年後に山背国(やましろのくに)筒城(つつき)(現在の京田辺市付近)、12年後に弟国(おとくに)(長岡京市付近)に移り、大和国に入ったのは20年後だということです。しかし「古事記」には、樟葉宮以降のことは記されていないということです。「日本書紀」によれば、武烈天皇の非道さが記されていますが、「古事記」にはそのような記述はないそうです。「日本書紀」では、「悪逆非道な天皇が途絶え、新しい王朝が開かれた」とする歴史観が込められているのではないかと言われています。またそのような背景もあり、武烈天皇の存在そのものを疑問視する考えもあるようです。貴船神社同上伝承地の碑(貴船神社横)貴船神社は、村の産土(うぶすな)神、つまり村の鎮守様であって、穂掛神社とも呼ばれていたそうです。もともとは交野天神社の社殿近くにあったものを、この丘に移されたと伝えられているそうです。何かが出土したわけでもなく、おそらくこの辺りではなかろうか、ということで「伝承地」とされているわけですが、一人でたたずんでいると、なんとなく歴史を感じることができました。大阪府の指定史跡となっております。いつまでもこの環境を守っていってほしいと思います。それにしても撮影中、蚊に刺されてかゆかったです。虫よけスプレーがお勧めです。
2010年08月06日
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交野天神社の一の鳥居から中へ入りました。変わった石像?参道の右側に、不思議な形をした石像がありました。像といっても人や動物ではなく、これは「茶巾袋」みたいな形をしてますね。どんな意味が込められているんでしょうね。文字が書いてあるのですが読み取れませんでした。奥には「七福神」「金毘羅大権現」「不動明王」といった石碑もあります。左の巣箱みたいなのは賽銭箱ですね、たぶん。二の鳥居同上二の鳥居を過ぎると、参道は左に曲がっています。「大阪みどりの百選」の石標大阪府のホームページで大阪みどりの百選の一覧表を見ると、「樟葉交野天神社の森」とあり、「継体天皇が即位されたと伝えられる樟葉宮跡の社。神殿を囲む自然林にさす木洩れ日が、訪れる人を遠い昔に誘いこむ風情がある。」と書かれていました。三の鳥居と拝殿拝殿同上先日も申しましたが、延暦6年(787年)、桓武天皇が先帝(光仁天皇)をこの地に祀ったのが交野天神社の起源です。長岡京の南の地を選んで郊祀壇を設け、父親である光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀ったということです。中国の皇帝が、毎年冬至に都の南に天壇を設けて天帝を祀る例にならったものだそうです。本殿本殿の外観は鎌倉時代の様式を残しつつ、彫刻などは繊細で室町時代初期の特色を備えているそうです。右側の末社は八幡神社で、同じ時期に造営されたものです。規模は小さく簡素な造りではありますが、天神社と似た構造です。ともに昭和25年(1950年)に、国の重要文化財に指定されています。
2010年08月05日
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交野天神社の入口付近です。交野天神社同上石碑がいくつか並んでいます。右端の碑碑の文字を読むのはけっこう難しいのですが、「左 やまさき ふしみ」と書かれているような気がします。右面には「嘉永」の年号が読めます。1850年ごろです。「樟葉宮◆蹟」◆には、「推」の「てへん」を「にんべん」に変え、さらに上には「くさかんむり」、下には「旧」の字を添えた文字が入ります。う~ん、難しい。「旧」の意味だそうです。その下には、「左 橋本道 一丁」「右 樟葉停留所 七丁」と書かれています。一丁は約108メートルですが、七丁では一番近い京阪の線路までたどり着けそうもありません。謎です。「三宅安兵衛」の名この碑の裏側には、「昭和二年七月京都依三宅安兵衛遺志建之(京都三宅安兵衛の遺志によりこれを建つ)」と書かれています。南山城一帯を中心に、この「三宅安兵衛」さんの名の入った石碑がたくさん建てられています。その数は400にもなるそうです。三宅安兵衛氏は、1842年(天保13年)に若狭小浜で生れ、幕末の京都へ奉公に出たのち、帯織物業を営み、一代で財をなしました。1920年(大正9年)に亡くなる前に、長男に1万円(今の金額だと5000万円)を渡して「公利公益に使え。用途は一任する」と遺言したと伝えられています。長男の清治郎氏は上のような石碑の建立を決め、1923年(大正12年)から1930年(昭和5年)の8年間にわたって実行し、総額は2万円(約1億円の価値)に達したということです。これから先、おそらく三宅安兵衛さんの遺志で建てられた石碑に何度も出会うことと思います。「桓武天皇先帝御追尊之地」一番左の石碑には「桓武天皇先帝御追尊之地」とあります。桓武天皇の先帝、すなわち光仁(こうにん)天皇をこの地に天神(あまつかみ)として祀ったということです。これが交野天神社の起源とされています。延暦6年(787年)、平安京遷都の7年前のことです。(続く)
2010年08月03日
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楠葉中学校の西側を進むと、正面に交野天神社の境内の森が見えてきます。楠葉中学校横ところが、どこから神社の境内に入ればいいのか、なんだかよく分からず、うろうろ。楠葉中学校の裏手「神社公園」境内の南側は、東西に細長い公園になっていました。その名は「神社公園」。けっきょく、公園を西側に抜けたところに鳥居がありました。南西側の鳥居神社公園を抜けると、上の写真の鳥居の右側に出てきます。ここから神社公園へと通り抜けている地元の人を何人も見かけました。「樟葉宮跡の杜」鳥居の脇に、枚方八景のひとつ「樟葉宮跡の杜」の案内板が設置されています。それによると、507年に継体天皇が樟葉宮(くずはのみや)で即位したと日本書紀に記されており、この境内の奥にその跡と伝えられている場所があるそうです。実際に何かが出土したというわけではないそうですが、日本書紀にも記述されているという「樟葉宮」を想像するだけで、なんとも不思議な空気を感じてしまいます。 (続く)
2010年08月02日
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枚方「市民の森」の中央部にある「鏡伝池(きょうでんいけ)」は、交野天神社(かたのてんじんしゃ、かたのあまつかみのやしろ)の祭事を行うために用いられたと言われています。ということで、市民の森から交野天神社へ向かって歩いていました。その間に割り込むように、楠葉中学校があります。楠葉中学校同上ただ通り過ぎようとして、ふと、学校のフェンスの外側を見ると、そこに説明板が設置されていました。へえ、「楠葉中学校遺跡」ねえ。説明板楠葉中学校の校舎ができたのは昭和49年(1974年)です。その前年、発掘調査が行われ、「奈良時代から平安時代にかけての高杯・土師皿など数多くの遺物が出土」したそうです。交野天神社の祭祀に関係する遺跡と考えられるといいますから、この一帯も交野天神社の聖域だったのかもしれませんね。
2010年08月01日
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