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石清水八幡宮の二の鳥居を過ぎると、山の上の本殿に向けて上り坂が始まります。二の鳥居しばらく坂道を上がっていくと、岩肌を深く削ったような谷があります。「祓谷(はらいだに)」と呼ばれています。参道には小さな石橋、「神幸橋(しんこうばし)」が架けられています。「祓谷(はらいだに)」もともと、ここには橋がありませんでした。というのは、一般の参拝者はもっとふもとの方を通り、神幸橋のルートは、石清水祭のときに八幡大神が山を降りるための道(神幸道)でした。そのたびに、仮の橋が架けられたといいます。祓谷を過ぎると、やがて「七曲り」とよばれる階段があります。「七曲り」の階段「七曲り」を合わせて、表参道の階段の段数は396段だそうです。ちなみに裏参道のほうは距離は短くなりますが、階段は555段あるそうです。「旧跡 かげきよ」七曲りの階段を上りきると、「影清塚」と呼ばれている場所があります。ただし、実際には塚ではなく、周囲の土を削り取ったために出来たためだということです。滅亡した平家の武者、景清(平景清とも言われますが、正しくは藤原景清)がここで源頼朝を待ち伏せしたとか、景清の墓だとかの言い伝えもあるそうですが、史実的には何の根拠もないそうです。
2010年10月31日
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石清水八幡宮のある男山のふもとです。頓宮から二の鳥居の間の参道を歩いています。「源頼朝手植松」(二代目)さきほどご紹介した「絹屋殿」の近くに、斜めに生えた松の木があります。昭和22年8月、この場所にあった大きな松の木に雷が落ち、燃えてしまったそうです。樹齢700年ほどの松の大木だったそうです。かつてこの場所に、「六本松」があったといいます。源頼朝が自ら植えたとも伝えられています。源頼朝と北条政子の夫婦、そして頼家・実朝兄弟と娘ふたりの6人家族。6本の松に家族の健康と幸せの祈りを込めて植えたのでしょう。落雷で燃えた松は「六本松」の生き残りだったと言われています。その後、昭和30年(1955年)に、今の松が新たに植えられました。「六本松」の2代目だということです。
2010年10月30日
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石清水八幡宮の頓宮から二の鳥居にかけての参道は、ゆったりと広くなっています。二の鳥居(正面)9月15日に行われる勅祭「石清水祭」や、高良神社のお祭りなどのときには、この参道上で行事が行われたりします。二の鳥居の手前、右側にある階段が裏参道の入口です。ところで、上の写真、鳥居の前に四角く囲まれた場所があるのですが、分かりますでしょうか?「絹屋殿」の敷地 少し段差がありますよね。毎年9月15日に行われる「石清水祭」のときに用いる「絹屋殿(きぬやでん)」を建てるための場所なんです。「絹屋殿」から頓宮方向上の写真は、絹屋殿が建てられる場所から頓宮方向を見たところです。写真、手前の左半分に四角い囲みの一部が見えています。これが敷地です。9月15日の未明、山から降りて来られた八幡の神様は、いったん絹屋殿で待機します。そして頓宮へと向かいます。その間、約30分ほどだそうです。祭事の数日前に建てられ、終わるとすぐに撤去されますので、なかなかお目にかかれない建物です。写真の右手に見えているのは「特設拝観席」です。「石清水祭」が終わってしばらくすると、この拝観席も撤去されていました。
2010年10月29日
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石清水八幡宮のふもとの参道を歩いています。その参道の脇、高良神社のそばに、四角く囲まれた場所があります。参道脇の囲み「石清水八幡宮齋田」の石碑「齋田(斎田、さいでん)」とは、神に供える米を栽培するところですが、耕作されていた形跡はありません。かつてはここで米が作られていたのでしょうか? 石清水八幡宮の6月の祭事に「お田植祭」がありますが、八幡市内の別の場所で行われているようです。
2010年10月28日
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このところ多忙につき更新が遅れ気味ですが、気長にお付き合いくださいませ。さて、石清水八幡宮の頓宮は修復工事に入りましたが、そのすぐ隣には「高良(こうら)神社」という神社があります。高良神社高良神社は石清水八幡宮の摂社であるとともに、旧八幡町の氏神でもあります。拝殿創建は9世紀半ば、貞観2年(860年)あるいは同11年(869年)と言われております。本殿(正面)と拝殿(左)社殿は慶應4年(1868年)の「鳥羽伏見の戦」(戊辰戦争)によって焼かれてしまいましたが、明治17年(1884年)に再建、明治39年(1906年)に現在の場所に移されました。現在の社殿は大正4年(1915年)に再築されたものです。高良神社は、吉田兼好の徒然草にも出てきます。第五十二段、「仁和寺にある法師」です。仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。読まれた方もいらっしゃると思います。石清水八幡宮の社殿は山の上にあるのに、ふもとの神社などに詣でて満足して帰ってきたという話です。何事にも「せんだち」、つまり案内役は必要だ、ということなんですが、それにしても、勘違いするほどに賑わっていたということなんでしょうね。
2010年10月27日
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また、石清水八幡宮の周辺に戻ってきました。一の鳥居から入り、放生池を過ぎると、頓宮(とんぐう)北門があります。頓宮北門 頓宮の「頓」とは休息して留まるという意味で、行宮(あんぐう)と同じく、本来は天子が一時的に宿泊や滞在をされる所のことだそうです。祭礼の時に神輿が立ち寄ったりする場所を指して、御旅所(おたびしょ)などと呼ぶこともあります。ところでこの頓宮北門は、昭和3年の昭和天皇の即位のとき、京都御所内の春興殿(しゅんこうでん)の正門として建てられたもので、即位の大礼後、下賜されたものだということです。頓宮内頓宮北門をくぐると、内部は四角い広場のようになっています。ここで毎年9月15日、勅祭(石清水祭)の主な儀式が行われます。頓宮殿石清水祭のとき、八幡の神様(八幡三所大神)が滞在するのが頓宮殿です。わずか半日滞在するだけなんだそうです。頓宮南門廻廊頓宮南門(外側)頓宮南門や回廊は、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの兵火によって焼失しました。 頓宮南門は、昭和13年(1938年)に山上の本宮・南総門が新築されたときに、旧門を移設したものだそうです。 回廊は昭和43年(1968年、明治維新100年)に一部が復元されました。修復中の頓宮南門ところで先日、再び頓宮を訪れてみると、頓宮内への立ち入りができなくなっていました。工事のお知らせ9月下旬から来年6月下旬まで工事なんだそうです。石清水祭が終わるのを待って、工事が始まったみたいです。
2010年10月25日
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寝屋川車庫には「びわこ号」が静態保存されています。「びわこ号」の展示びわこ号60形と呼ばれる車両で、天満橋から浜大津までの直通特急運転用に開発されました。2両固定編成の連接車で、3編成が製造されました。編成ごとに61、62、63の番号が付けられました。同上びわこ号の車内同上連接部三条~浜大津は急坂でカーブの連続ですから、連接部もくねくねと動いたのでしょうね。
2010年10月23日
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保線用の車両は、線路沿いに住んでいない限り、まずは見ることのないものです。見たとしても夜中ですしね。レール研磨車上の車両は、レール面を研磨しながら走行します。車両の正面に「Rail Grinding Train」と書かれていました。保線用車両上の写真で、左側が「軌道検測車」、右側が「マルチプル・タイタンパー」です。軌道検測車は、時速25~50キロメートルで走行しながら、線路の幅や凸凹を測定します。「マルチプル・タイタンパー」とは、線路を移動しながらバラスト(線路下の砂利)を掘り起こして詰め直す機械です。「まるたん」マルチプル・タイタンパーの愛称は「まるたん」。ブルドッグがヘルメットをかぶったイラストが描かれています。保線区のマスコットでしょうか。タイタンパー同上枕木と枕木の間に、装置を突き入れます。同上震動を与えてバラストを掘り起こします。バラスト・コンパクター掘り起こしたバラストを固める装置です。やはり震動を与えています。すぐそばで実演してくれたので、震動がはっきりと足元に伝わってきました。
2010年10月22日
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10月17日の京阪・ファミリーレールフェアはとてもよい天気だったこともあり、多くの家族連れで賑わっていました。電車と綱引き小さな子どもたちが綱を引いて、電車を動かそうというイベントです。子どもたちより応援する親の方が一生懸命でしたね。「軌陸車」線路上を走ることができるトラックです。「軌陸車」と呼ばれることもあります(ただし、この名称は商標登録されているとか)。線路と道路の両方を走ることができるという意味では「デュアル・モード・ビークル(DMV)」の仲間と言っていいんですかね?
2010年10月21日
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京阪のファミリーレールフェアでは、いろいろな「ほんもの」に触れることができます。運転のシミュレーター?同上まるで実験室のような雰囲気ですが、マスコンやブレーキハンドルは本物です。操作すると、目の前にある電車(8000系)のリレースイッチがカチャカチャと音を出して動く様子がわかります。実際に走るわけではないので、速度は適当に表示させているのでしょうね。種別・行先表示装置普段は見ることのない行き先が出てこないかと目を凝らしてしまいますが、子どもが操作しているので、面白い組み合わせにはなりませんでした。残念。NCガス切断機鉄をガスで切断していました。紙に書かれた形状を画像として読みとって、その通りに切断していました。鉄の融点は1200度以上です。鉄を切る炎の温度は2600度にもなるそうです。切り抜かれた鉄実演では5ミリの鉄の板が使われていました。5センチの厚さの板まで加工できるそうです。
2010年10月19日
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ファミリーレールフェアの目玉の1つは、クレーンで車体を持ち上げるデモンストレーションです。何度も写真では見ているのですが、実物を目の前にすると迫力がありました。デモとはいえ、実物を使います。しかも主力車両の3000系トップ車番。準備完了ゆっくり上昇台車と分離見上げる女の子のまなざしも真剣です。空中に浮遊?奥へと移動車体の裏側台車に乗っかる部分(上の写真の中央部分、円筒形の突起)が見えています。こんな小さな部分で車体を支えているんですね。降下中ほぼ1両分を移動して、しだいに降下してきました。この様子をムービーで撮っている人もいました。いい記念になりますね。
2010年10月18日
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今日(10月17日)、京阪の寝屋川車両基地に行ってきました。目的は、ファミリーレールフェア。この日は寝屋川車両基地の内部を見せてもらえるからです。実はにぎやかなところが苦手なのですが、良い天気に誘われて出掛けることにしました。「ファミリー」の名がついているように、小さいお子さんを連れたファミリーが詰めかけていました。おじさんが一人でやってくると、どうしても「テツ」のカテゴリーに入れられてしまうようですね。会場入口即売コーナーシミュレーター?ミュージアム・トレイン1552という車番を付けていますが、実際は2812です。京阪の1550形はかつて「ロマンスカー」と呼ばれた車両です。7月から9月にかけて、中之島駅や中書島駅で展示されてきたもので、京阪の歴史や、懐かしい写真・ヘッドマークなどが展示されていました。5000系深夜急行・樟葉行きの表示です。深夜に1本だけ走る深夜急行を昼間に見ることができることができるのも、この日ならではです。同上少しして戻ってきたのですが、あれ? 同じ5605号車ですが、種別・行先の表示が変わっていました。いまはもうなくなったK特急という種別も懐かしいですが、深草行きとは面白い。10000系8000系それにしても、地上から見上げると、電車って大きいことが実感できます。いろいろと見学してきましたので、もう少しご紹介するつもりです。
2010年10月17日
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石清水八幡宮の一の鳥居をくぐったところ、右側に「放生池」があります。放生池毎年9月15日の朝に行われる「放生行事」で使われていましたが、平成12年からは近くの放生川(大谷川)で行事が行われるようになりました。この池ができたのは明治に入ってからのようで、それ以前はやはり、放生川を使っていたようです。ハスの花同上訪れたのは9月下旬。ハスの花が咲いていました。先日、もう一度見に行ってきましたが、花はすでに見えなくなっていました。季節は確実に移ろいでいるようです。
2010年10月16日
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京阪の八幡市駅周辺を散策しております。走井餅老舗の店の目の前に、石清水八幡宮の一の鳥居が立っています。ここが、男山の山上にある石清水八幡宮まで続く参道の入口です。石清水八幡宮(一の鳥居)一の鳥居高さ約8.8メートル、柱の直径約86センチだそうです。古くは木製だったものを、寛永13年(1636)に石造に改めたということです。鳥居の額鳥居の額には、鮮やかな紺色の地に金で「八幡宮」と書かれています。「八」の字は2羽の鳩が向かい合って顔を外を向いたデザインです。武士の守り神であり戦の神様であった八幡宮と、平和のシンボルと言われている鳩との結びつきがなんとなく不思議ですが、鳩は八幡宮の神の使いなんだそうです。八幡市の市章にも鳩の図柄が使われていますが、こちらのほうは顔が内側を向いています。八幡市の市章(市役所)
2010年10月14日
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京阪の八幡市駅を降りてすぐ、駅前のスーパーマーケットの1軒おいて隣りに、「走井餅老舗(はしりいもちろうほ)」という和菓子のお店があります。走井餅老舗古そうな建物ですね。「かつては、街道筋の旅籠であった建物を改築した」と走井餅老舗のHPに書かれています。この街道筋とは「東高野街道」のことです。東高野街道は京都と大坂を結ぶ「京街道」から分かれ、洞ヶ峠(ほらがとうげ)を越え、交野から生駒山地の西側を通って高野山へと続く街道です。八幡の地がその起点となっています。HPによると「走井餅老舗」の創業は明和元年(1764年)といいますから、今から約250年前になります。場所は大津追分(京阪・京津線の追分~大谷の辺り)で、「井口市郎右衛門正勝」が「走井」の名水を用いて餡餅を作っていたということです。「歌川広重(安藤広重)」が描いた「東海道五十三次」は有名ですが、その「大津」には「走井茶屋」が描かれています。描かれているだけでなく、「走井茶屋」の文字もあります。江戸時代には賑わっていたようです。走井餅のパッケージ走井餅パッケージにも大津の茶屋が描かれています。歌川広重が描いた絵と似ているのですが、人物の格好や配置が違います。六代目の四男によって八幡の地に移ったのは明治43年(1910年)のことです。そう、京阪電気鉄道が天満橋~五条間で開業した、まさにその年ですね。現在、十代目が家業を営んでいるそうです。一方、大津の本家は昭和初期に廃業したということです。現在は「月心寺」になっています。ところで、大津には、「走り井餅」を扱う会社があります。「株式会社 走り井餅本家」です。この会社のHPを見ると、やはり追分の茶屋を創始とし、「走井市郎右衛門の末裔である片岡家に伝承され」たと書かれています。「走井市郎右衛門」は「井口市郎右衛門正勝」と同じ人物のようです。それぞれに歴史があるんでしょうね。
2010年10月12日
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男山ケーブルに乗って、石清水八幡宮から下りてきました。再び八幡市駅の周辺です。駅前ロータリーここから樟葉駅に向かう路線のほか、八幡市内、さらには近鉄・新田辺方面まで行く路線もあります。このロータリーができるまでは、バスはケーブルの前から発着していたそうです。同上ロータリーの中に、八幡の竹をモチーフにしたモニュメントがありますね。モニュメント男山を背景に上の写真は、別の日に撮ったものです。すごくよく晴れていたので、空と山とのコントラストがきれいでした。エジソンの像ロータリーの一画に、エジソンの像が置かれていました。もちろん、八幡の竹との関係が記されています。ロータリー付近の道を地元では「エジソン通り」と呼んでいるそうです。
2010年10月11日
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世の中、3連休ですが、私は仕事を片付けるのに翻弄されています。このあと、出勤予定です。金曜日、久々に東京近郊に出張があって、夜は友人と積もる話に花を咲かせていました。その日は泊って、翌朝、テツ分補給をしようと思っていたのですが、土曜日は雨模様で荒れそうな予報、それに二日酔い。遅めにチェックアウトして、ゆっくり帰ることにしました。東海道新幹線の東京駅ホーム、久々に16号車のところでホームウォッチング。車掌の交代風景や、清掃スタッフの出入りなどを「観察」してました。いつもながら、家族連れが列車を背景に記念撮影する姿が見られます。東京駅右がN700系、左が700系、左端に動き出した300系が写っています。こうやって並ぶと、N700系の運転席の窓がいかに狭いかがよくわかりますね。
2010年10月09日
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しばらく石清水八幡宮の本殿周辺を散策したあと、男山ケーブルで下山することにしました。登りは本殿の西側を通ってきたので、帰りは東側の道を選びました。途中までは「裏参道」を通ることになります。裏参道との分岐点上の写真で、左の道をまっすぐに行けばケーブルの乗り場に着きます。右側の階段を下りると裏参道です。裏参道のほうはまた後日、ご紹介するつもりです。ケーブルの駅へ「ケーブル参道」の鳥居東側の道にも鳥居がありました。西側と違って、こちらは石造りです。展望台へ(左手)右手の坂を下りていくとケーブルカーの駅に着きますが、ここはやはり、左手の展望台へと進むべきです。展望台男山からの眺望上の写真、左右に横切っている高架道路が京滋バイパスで、左手の先が大山崎ICです。その手前、写真の中央に交差点が見えていますが、交差点の手前が木津川、向こう側が宇治川です。この辺りへは後日、行ってみようと思います。同上上の写真は、木津川の上流です。やや右寄りに、赤と白に塗り分けられた鉄塔が見えてますが、あれがKBS京都の久御山ラジオ送信所です。AMラジオ放送の送信に使われています。AMラジオ単独のアンテナは珍しいそうです。 (2010.10.7 訂正) AMラジオ単独としては珍しい自立式タワー型の送信所です。かすんでいますが、背後には宇治の山々が見えています。山向こうは滋賀県です。(2010.10.7 写真追加)KBS京都のタワー
2010年10月05日
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石清水八幡宮の本殿の南側は、山上にありながらも意外と広く平坦です。開けた場所に、なにやら塔が建っています。「湧峰塔」同上「涌峯塔」と書かれています。「ゆうほうとう」と読むようです。UFO塔?境内の地図にも載っていて「涌峯塔(シンボルタワー)」と書かれているのですが、とくに説明も無く、だれが何の目的で建てたのか、いまひとつ分かりません。この塔の西側に「エジソン記念碑」があります。エジソン記念碑残念ながら、入口には鍵が掛かっていて中には入れません。男山ケーブルのところでもご紹介したように、エジソンが発明した白熱電灯には、八幡の竹が使われました。エジソンは白熱電球の点灯時間を延ばすために、いろんな材料(その数、6000種!)を使って実験を繰り返したといいます。まさに「発明は99%の努力」ですね。たまたまでしょう、研究室にあった扇の竹を使ってみたところ、良い結果を得られたそうです。そして最良の竹を手に入れるため、世界各国を探しました。明治13年(1880年)、エジソンの助手が竹を探しに日本に来た時、当時の京都府知事から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と紹介され、男山付近で採った真竹がエジソンのもとへ送られました。実験結果は良好で、1000時間も光り続けたそうです。その後、セルロースのフィラメントにとって変わられるまでの10年以上の間、八幡の竹はエジソン電灯会社に輸出されました。「八幡竹(はちまんだけ)」と呼ばれたそうです。
2010年10月03日
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三の鳥居のすぐ前に、神馬舎(じんめしゃ)があります。本殿に正対する形で建っています。昭和34年(1959年)に建てられたそうです。神馬舎建坪6坪余といいますから13畳ほどですね。ずっと以前に訪れたときには、開いた扉の中に白馬がいるのを見ましたが、今回久しぶりに訪れたところ、戸が閉められたまま。暑い日でしたし、中に馬がいる雰囲気もしませんでした。昭和58年(1983年)に「五代目彌櫻号」がやってきたことは、石清水八幡宮のホームページに書かれていましたが、そのまま読むかぎりでは、現在もまだ健在かのような印象を受けました。しかし、ネットの情報によると2004年に死亡という情報がありました。ところで戦前までは、神馬舎は山麓の二の鳥居の脇にあったそうです。現在、その場所には石碑が建っています。ふもとにある「神馬」の石碑「神馬」の碑の足元に書かれている「榊講社」の人たちが初代の「彌櫻号」以来、歴代の神馬を奉納してきたそうです。
2010年10月02日
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石清水八幡宮の本殿から南へ、表参道のまっすぐな道が続いています。表参道(山上)本殿側から、参道の向こうに鳥居が見えています。三の鳥居です。三の鳥居三の鳥居側から本殿方向を撮ったのが上の写真です。ずいぶん高い大きな鳥居です。現在の鳥居は昭和37年(1962年)に建てられました。瀬戸内産の花崗岩が使われたということです。それ以前はここに、江戸時代に建てられた鳥居がありました。しかし、昭和36年(1961年)9月16日、第二室戸台風によって倒壊してしまったそうです。倒壊して割れてしまった元の鳥居は、参道脇に庭園として再構成されました。石組の庭園この石組は、重森三玲氏によるものです。重森氏は香里団地の「以楽公園」などを手掛けた著名な造園家です。
2010年10月01日
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