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神社・寺院・教会などの宗教施設が占有している土地を、境内といっている。神奈川県の座間神社には境内社として、伊奴寝子社(いぬねこしゃ)がある。多くの神社では日本神話に登場する神を祭神としている例が多いが、伊奴寝子社の祭神は愛育大神・犬祖大神・猫祖大神だという。神社は通常二柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀ることが多く、この形態は寄宮といわれる。座間神社は明治四十二年村内各所にあった、天神社・蚕神社・浅間社・明王社・山王社・道神社を境内に寄宮として移したものが座間神社である。座間神社の由緒には寺院のことは出てこないが、神仏習合により寺院も共に有ったらしい。そのため77の石段を上った右側には享保5年鋳造の鐘が吊られた立派な鐘楼が、神仏分離が行われた後も引き続いてそのまま残っている。神道は元々海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社ではそこに祀られる神には特に名前はなかった。鎌倉時代末期になり地名・社名から日本神話の神に移行したり、稲荷・八幡など有力な神を勧請して主神とすることも行われた。明治の神仏分離で、村社・末社・無格社までがこれに倣うようになった。そのため神社の由緒には疑問の残るものが多く、論社( 似たような名の神社が二つ以上あって、どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難いものをいう。)においてそれぞれの主張がある。延喜式神名帳に記載された神社とその論社を延喜式内社(式内社・式社)と言って、社格とされている。イヌの語源はイヘ(家)・「イヌ(寝ぬ)」・「家で寝る」などの意味など諸説がある。 一方寝子はネコのことで、猫の語源は「ネコマ」の下を省略した形という説がある他、猫は夜行性で昼間よく寝ることから、「寝子」に「獣」の意味の「マ」が付いたとする説。 寝と熊が「ネコマ」になったとする説などがある。日本書紀の「神産みの段の第十一の一書」に、女神と考えられる保食神(うけもちのかみ)が登場する。「天照大神は月夜見尊に、葦原中国の保食神への使いを命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は陸に向かって口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出したもので月夜見尊を饗した。月夜見尊は汚らわしいと怒り、保食神を斬殺してしまった。それを聞いて天照大神は怒り、月夜見尊と合わないで済むようにした。太陽と月が、昼と夜とに別れて出るようになったのだという。やがて保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生じた。天照大神は、民のためにこれらを種とした。」蚕は保食神の屍の眉から生じたとされることから養蚕の守護神とされ、蚕影明神・おしらさまなどが信仰対象とされた。 おしら様(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕・農業・馬の神とされている。2012年(平成24年)に、座間神社境内に「伊奴寝子社 蚕神社」が創建された。小さな赤い鳥居を潜った参道の右に犬、左に猫の石像が向かい合いに配されている。突き当たり奥には、台座を含め2mほどの高さの社殿が設置されている。寄宮として祀られていた蚕神社は時代が変遷しその役割を終えたことから、新たに伊奴寝子社を創建し蚕神社に合祀したのだという。伊奴寝子社の右傍に、移された名残の蚕神社が申し訳のように立っている。案内板によると蚕神社の別名を、伊奴寝子社としている。全国には、犬・猫を祀っている神社数社がある。山形県高畠町には、犬の宮・猫の宮の二つの神社が隣接して祀られている。名古屋市西区稲生町に旧郷社の伊奴神社あり、本殿向かって左側に秋田犬らしき形の犬の石像があり保食神も祀られている。磐田市見付天神矢奈比賣神社・武蔵御嶽神社の犬の像は、オオカミに近い姿をしている。藤枝市鬼岩寺の境内社の黒犬は狼だと言うが、その姿は秋田犬に似ている。 伊奴寝子社の祭神は愛育大神・犬祖大神・猫祖大神 となっているが、神話にその神のルーツを見出すことはできない。したがって伊奴寝子社の三神は、創造神である可能性が高い。由緒書にそそられて、極小さな赤く塗られた鳥居を潜るといきなり違和感に包まれる。秋田犬は体重40kgを超え大型犬の仲間に入るほどの犬で猫はその半分にも満たない大きさであるはずなのに、それに相対している猫の石像の大きさが犬と同じなのである。「困った時の神頼み」という言葉もあるように神社仏閣を訪れる目的には、神の力にすがり・ 神助・ 加護を求めたり頼る心がどこかにあるのだと思われる。毎年神社仏閣にお参りに訪れる多くの人の中、実際に神の力を感じた人がどれ位いるのだろうか。同じように伊奴寝子社に参って、御利益があった例があれば知りたいものである。
2018年03月16日

昨年11月、男女9人が殺害されバラバラにされた陰惨な事件の報道によって座間市の名前が全国に知られるようになったのは皮肉なことでもある。市名の「座間」は、高座郡の郷名伊参(イサマ)が転じたものとの説がある。(新編相模国風土記)この座間市に、神社の創祀は神代とも伝わる座間神社がある。欽明天皇(539~571)の時代に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した。ある夜飯綱権現の化身が白衣の老人の姿で現われ村人に、悪疫封じには崖下の森の中に湧く清水を使うようにと告げたという。村人がその勧めに従うと悪疫が収まったことから、飯綱権現を祀ったという話が伝わっている。飯綱権現は飯綱山が御神体の神仏習合で、長野県の飯綱権現社が本社である。明治になって村社とされる際祭神が日本武尊に改められ、廃仏毀釈により明治九年に「飯綱権現」から郷名の座間神社に改名された。座間神社は相模川の河岸段丘の上にあり、相模川の流れの向こうに丹沢連峰を望むことができ落陽の景色の眺望が良いことでも知られている。そのため神社に行くには、車道から77段の幅3mほどの狭い石段を登らなくてはならない。千葉県浜勝浦の遠見岬神社では60段の石段一面に、1,800体のひな人形が飾られ夜間ライトアップされることで有名だが、座間神社ではこの77段の石段の左片側にひな人形千体が飾られた。ライトアップの設備は見えなく提灯がぶら下がっていたので、夜間は提灯に明かりを入れるのかも知れない。実行委員会主催で多くのボランティアが交代で関わって三月二日から三月四日までの三日間飾られるが、昨年に続き2回目の試みだそうである。「雛祭り」の起源については、複数の説がある。平安時代に貴族の子女の間で紙の人形を用いた、「雛遊び」が盛んになったという。小さな御所風の「屋形」を設えて飾り、子女の人形(ひとがた)遊びとして行われていたとの説が有力である。当初は子女の「遊び」であったことから、今でも「ひなあそび」と呼ばれることがある。江戸時代になると「人形遊び」と「節句の儀式」とが結びつき、「上巳」の節句に「災厄よけ」の「守り雛」として祀られるようになりこの風習は全国的に広まっていった。3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは、天正年間以降のことだと推測されている。平安貴族の子女の人形遊びとは異なり、紙で作った人形に穢れ・罪・悪霊を背負ってもらって川に流す「流し雛」といわれる儀式が同じ頃からから行われるようになったとされる。江戸時代初期には立った形の「立雛」や座った形の「坐り雛」が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛だけであった。しかし、飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。そのため次第に人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」や大型の「享保雛」などが作られた。次第に華美な人形になっていくと、やがて幕府は華美を禁ずる「御触書宝暦集成」を出して大型で華やかな人形を禁止した。江戸後期には男雛・女雛に加えて、「有職雛」が作られるようになり幕末ころまでには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案された。三月三日は五節句の一つ「上巳の節句」で、桃の花が咲く頃であることから「桃の節句」ともいわれる。古代より人形(ひとがた)が身代わりとなって、災厄を引き受けてくれると考えられてきた。人形(ひとがた)や形代(かたしろ)と呼ぶ草木・紙・藁で作られた人形に、自分の災厄を移して海や川に流した祓いの行事と、平安時代の人形遊び(ひいな遊び)とが結びついて現在の「ひな祭り」の形ができあがった。草・藁・木や布で作った人形を子供の魔よけにする風習もあり、人の厄を祓うための道具として人形(ひとがた)が使われた。ひな祭りは上巳の日に厄を祓って幸せを願う行事であることから草・藁・紙などの人形に災厄や穢れの身代わりとなってもらい、川や海に流して厄を祓って幸せを願う行事である。その原型は今も一部で行われている「流しびな」の行事に引き継がれ、現代に伝わっている。「雛」には、小さくてかわいらしいものという意味である。ひな祭りは、古語では「ひいなあそびまたはひなあそび」といった。昔は嫁入り道具として婚家へ贈る風習があったので、今でも母方の実家から孫娘の誕生に際してひな人形を贈って初節句を祝う。その娘の災厄を身代わりとなって受けてもらうよう人形を飾って祈願し、健やかな成長と幸せな人生を願うのである。林柳波のひな祭りの歌詞は、「お内裏様は上の段…」とある。お内裏様とは、男雛・女雛の二体を指していることに疑問は無い。ところがよく知られたサトーハチロー作詞の「うれしいひなまつり」の二番の歌詞は、「お内裏様とおひな様二人ならんですまし顔…」となっている。内裏は御所のことで内裏びなは「男びなと女びな」一対を指し、さらにここに住んでいるのは天皇と皇后を意味している。お雛さまとは、小さい人形の意味である。サトーハチローはおひな様をその語感から、女雛を指していると誤って理解していたものであろう。作詞の際間違いを犯し、それが現在も残って伝わっているのである。内裏雛の並びが、関西と関東で異なっていると言われる。古来より左側上位の思想があり右に男びな、左に女びなを飾っていた。昭和天皇は皇后と並ぶ場合、諸外国では男が左に並んでいるのを見てそれに倣ったのだという。このことから昭和初期に関東の人形業界が向かって左に男びな、右に女びなを並べるようになった。ところが京都など伝統ある地域では、日本古来の並べ方を踏襲しているため並びが異なっているのである。雛人形はただ単に飾って楽しむだけのものではなく、祖父母や両親・家族の健やかな成長を願う深い気持ちが込められており、上巳の節句には毎年飾られるのである。しかし雛人形にも、その役目を終える時がやって来る。誕生の際贈られた雛人形の役目は、一般的に成人あるいは嫁ぐことで終わるとの考え方がある。 したがって結婚した時が、雛人形を処分する時期とも言われている。祖父母が心を込めて贈ってくれた雛人形を、ゴミとして処分するのでは心が痛む。そこで多くの人は、神社へ持ち込んで長年守護してくれたことを感謝し御祈祷してもらってお炊き上げで処分する。近年は住宅事情などもあって、神社に持ち込まれるひな人形が増えてきたという。座間神社では従来お炊き上げをして処分してきたが、明治・大正時代の貴重な人形も多くこれらが消滅してしまうのは忍びないとして10年ほど前から神社で保管してきたものが2千体以上になったという。昨年実行委員会が立ちあがり2~4日の雛祭りの期間に、神社の石段に緋毛氈を敷き詰めて千体を飾ったのだという。狭い石段は、右側上りの一方通行で下りることはできない。4日は低気圧の影響で南風が強く暖かくなったのはいいのだが、折角並べた人形が倒れたりコロコロ転がったりとそれを直すボランティアのご婦人方は狭い階段を上ったり下りたりの大忙しであった。各所で不用のひな人形を集めた展示も行われるがそもそものお雛様の由来を考える時、これらの人形にはかつて持っていた人の「念」が籠っているようで一面怖くも感じる。
2018年03月06日
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