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蕗の薹 福寿草庭の温州ミカンの木の下に、今年もフクジュソウが顔を出した。フキとフクジュソウは5m以上も離して植えたのだが、40年も経つ間に精力範囲を広げたフキがフクジュソウの定植場所にまで進出し二つが混在することになってしまった。♪ 年のはじめの福寿草 黄金の色の暖かく つヾいてかをる梅が香に…。明治43年文部省尋常小学読本巻八に、「花ごよみ」と題した唱歌が載っている。冬に最も早く咲く花とされる福寿草は、旧暦の正月のめでたい時期に落ち葉や雪の間から花を咲かせ開花の期間も長いことから、めでたい「福」と、長寿の「寿」をあてて、福寿草の名がつけられたとされる。北海道から東北地方の草地や林内に自生するが、観賞用の栽培は九州まで可能である。地上部は夏には枯れるが、太い根を残して越冬する多年草である。一見蕗の薹に似た蕾の擡げ始めは2cmほどの茎の先端に一輪の花を咲かせるが、やがて枝葉を10~30cmにも伸ばし次々と3月終わり頃まで花を咲かせる。根茎は短く肥厚し、茎は分枝する。花期は2~4月で、大型の目の覚めるような黄色花を単生する。別名元日草とも言われるが、英語ではpheasant’s eye(雉の目)である。フクジュソウ属は北半球に20種ほどが知られており、日本のフクジュソウは黄色花だがヨーロッパ原産のアドニスの多くは赤い色をしている。アドニスの名前は、ギリシャ神話に由来している。「アドニスが狩りをしている時、恋敵の軍神アレスに殺されてしまう。恋人のアフロディテがアドニスの死を悲しんで流した涙と、アドニスの血の落ちた場所から赤い花が咲いた。」という。pheasant's eyeの名前は、赤い花と中央の黒い紋を雉子の目に譬えたものである。Every rose has its thorn.を直訳すれば「薔薇に棘あり」で、日本語の「綺麗な花には毒がある。」と同義語である。この言葉は和洋を問わず、「美人の怖さ」を比喩したものだ。この格言を捩って「綺麗な花には毒がある」と言っても通用しそうである。その多くが美しい花を咲かせるキンポウゲ科の植物の殆どは有毒であり、福寿草も例外では無い。元日草とも言われて目出度いとされる福寿草の全草には、強心配糖体のシマリン・アドニトキシンなどの他に20種以上ものアルカロイド物質を含有することが知られている。そのうちアドニトキシンの含有量は、0.25%という。アドニトキシンは非常に水溶性が高く、花瓶に挿した水にさえ容易に溶出する。シマリンはジギタリスと類似作用があり、露出した蛙の心臓に滴下すると最初は拍動を増強・緩徐にし、ついで不整になって蠕動状を呈し収縮期に停止する。毒と薬は紙一重で、使い方によっては有用に作用するが用法を誤ると死亡することもあり猛毒に作用する。医療で福寿草根は浸剤・チンキ剤として、強心・利尿薬のジギタリスの代用とされる。毒性が非常に強く用量と用法を誤ると、心臓麻痺を起こして死亡する危険が大きい。人では、0.7mg/kgが致死量とされる。医師の指示指導が無ければ絶対に用いるべきではなく、ましてや民間療法での使用は自殺行為であり絶対に使用してはならない。8年間以上心臓病と糖尿病で苦しんでいた76歳の女性が知人から、福寿草根を煎じて飲めば心臓病に効くと聞かされた。そこで採取した福寿草の根を薬罐で煮詰めた後、180mlほど飲んだ。一緒に少量を飲んだ夫も一緒に、直後に激しい嘔吐と腹痛に襲われた。救急で入院手当てを受けたのだが、女性は5時間後に心室性不整脈で死亡した。夫は命を取り留めたが、1週間の入院・治療が必要であった。福寿草の服用を勧めた人には、民事・刑事上の罪は無かったのだろうか。福寿草は花言葉とは裏腹に、人を死に追いやるほど強烈な毒を持つ植物なのである。私には蕗の薹と福寿草の芽の鑑別は容易であり、二者を誤って採取することは絶対に無い。しかし将来私が居なくなった後のことを考えると、長男には見分け方をしっかり教えておく必要があると毎年この時期には思うのである。 何もなき 床に置きけり 福寿草 虚子 花言葉 永久の幸福 思い出 幸福を招 祝福
2015年01月31日

顕鏡寺境内 蕾が堅い山荘の蝋梅ロウバイ(蝋梅・蠟梅・臘梅・唐梅)は、ロウバイ科の3mほどの高さになる落葉低木である。関東では1月~2月に蝋細工に似た、2cmほどの黄色い花を咲かせる。花には芳香があり開花した樹の近くでは、強く香る。梅の名前がついているのでバラ科のウメと縁があるようにも思われるが、赤の他人で全く近縁関係にはない。花が似ていることから名前に梅が入ったとする説を唱える人がいるが、日本へは17世紀頃に唐から中国名で「南京梅」と呼ばれていた本種が伝来したことから、唐梅(からうめ)と呼ばれるようになった。開花の時期が蠟月に重なることから、蠟月に咲く梅でロウバイになったとする説が有力である。しかし、花の形はウメの花とは全く似ていないように思える。1596年に明の李時珍が動植物の形態などについて記述した「本草綱目」には、「花弁が蝋のような色感であり、且つ臘月(旧暦の12月)に咲く」ことからこの名がついたと記述がある。旧暦の12月は、太陽暦の12月下旬から2月上旬ごろに当たる。花や蕾から抽出した蝋梅油は水虫・真菌・細菌などの感染症、かゆみ・生理かぶれなどの塗布剤「華佗膏(かだこう)」に香料として配合されている。素心蝋梅・満月蝋梅・唐蝋梅などの、品種がある。基本種の花の中心部は暗紫色で周囲が黄色であるが、もっとも多く栽培されているのはソシンロウバイである。素心の名前は蝋梅以外では、唇弁の斑紋が消え、緑・黄色・白(又はこれらの中間色)以外の色素を含まない花を咲かせる蘭の花にも使われている。素芯ロウバイとは、花弁中心部の褐色の色素が抜け黄色一色になった品種のことである。蝋梅の果実は5cmほどの大きさがあり、蛸や烏賊の赤ん坊に見えなくもないユニークな形をしており開裂しない。強健で土壌を選ばず、半日陰でも良く育ち花をさかせる。繁殖は種子・接ぎ木・挿し木などの何れも適応するが、呼び接ぎと実生からの育成がお勧めである。移植を好まないので、場所を良く考えてから定植することが必要である。10月頃茶色に熟した閉果から小豆大の種子を採り蒔きすれば、年内には殆どが発芽する。発芽後は、防寒した方が良い。種子には植物アルカロイドのカリカンチンを含み、有毒である。中毒すれば、強直性痙攣・後弓反張・痙笑などのストリキニーネ様中毒症状を示す。カリカンチンのラットの致死量は、17mg/kg(静脈注射)である。ロウバイはその年に伸びた枝に花芽をつけるが、徒長枝にはほとんど花芽がつかない。花は枝や幹の基部に付く短い枝につくので、長くのびた枝は落葉後に基部から20cm残して短く切り詰める。ふところ枝を多く出すが、光を遮る原因になるので剪定して取り除く。樹勢が強く樹形が暴れるので花を咲かせた枝は、5~6年で短く剪定して更新を図る。山荘の一隅に、14年前実生から育てた素心ローバイがある。標高は630mほどなのだが1~2月は甲斐駒ケ岳や八ヶ岳から吹き下ろす冷たい強風と、零下10℃近くにまで下がる日もあって開花は例年3月に入ってからである。 1月27日の誕生花 花言葉 先導 先見
2015年01月30日

巣・栖・窼は「す」と読み、鳥・獣・虫などの棲む所あるいは人の住処などをいう。悪い仲間が寄り集まる場所も巣といい、特に害獣や悪さをする集団が集まれば巣くうと使う。巣は動物が生活する上での必要から作る構造物と定義され、摂食・休眠・繁殖などに用いる。巣と呼ぶのは、動物体と独立しているもののことを指し、カタツムリや貝が持つ殻を巣とは言わない。クモの網・アリジゴクの穴など、捕食のためのワナを巣と呼ぶことがある。英語で巣はnestで「小鳥がすわる所」が起源とされ、一般的にnestといえば鳥・昆虫・小動物などの巣のことである。ただし、ミツバチの巣はbeehive、蜘蛛の巣はcobweb、クマやキツネ・狸など獣の巣穴に対してはdenあるいはlairが使われる。鳥の巣を英語表現すれば、Nest of the birdである。ワシやタカ類・ツバメの例を除いて大抵の鳥類は、雛が巣立つと再び巣に戻って同じ巣を利用することはない。アシナガバチやスズメバチなども冬が近くなると一斉に巣を飛び立って、受精した女王蜂は樹木の洞等で単独で越冬するが雄蜂や働き蜂は生涯を終えてしまい普通は巣が再利用されることがないのは同じである。鳥の巣の場合小鳥によって巣の材料・形態・作り方などに特徴があるので、空になった巣を見るだけで鳥の種類を判断することができる。ヒトの世界の文化は口伝・書物・映像などで継承されるが、鳥は誰にも教えられることなく遺伝子に刷り込まれていて種類ごとに必ず同じような材料で同じ形の巣を作る。多くの鳥は非常に神経質で営巣の時期に巣に近づくと、警戒して巣作りや抱卵を放棄してしまうことが多い。冬になり葉がすっかり落ちた枝に見える巣は、最早用済みになった巣である。コケや枯草をクモ糸等で編んだ椀形の巣で、平地から山地の樹の枝に架けられ産座に毛状のシュロの皮などが敷かれた巣はメジロの巣である。ほとんどが外径8~7cm、産座は4.5cm、深さ3.5cmの巣を作る。渡り鳥のカワラヒワも、枯草・細根・蔦などを使ったお椀形の巣を作る。こちらは産座に獣毛や羽毛などが敷かれることや、巣の外径が約11cmと全体に少し大きいことがメジロの巣とは異なる。この時期に散歩すると営巣中は緑の葉で全く見えなかったのだが、木の枝に揺れている小鳥の巣を見ることが多い。いつも多くの人が通る通路沿いのエゴノキに、メジロの巣を見付けた。隣の木には、キジバトの巣もあった。メジロは繊細で精巧な手の込んだ巣を作るのに、キジバトは木の枝に枯れ枝を集めただけの非常に大雑把な巣である。今では血液型と性質の因果関係は否定されているが、東京女子高等師範の古川竹二が1932年に「血液型と気質」を出版した。これに当てはめると神経質で細かいメジロはさしずめA型で、私に似た大雑把なキジバトはO型なのであろうか。
2015年01月29日

沖縄では殆どの土産物店で、シーサーの置物が売られている。沖縄出身者でなくても、あの狛犬に似た置物を見てシーサーの名前が言える人はかなり多い。現在の沖縄では屋根にシーサーが乗っている風景を殆ど見ることはできないが、名護市役所の二階回廊の外枠にはズラリと並んでいる。シーサーはスフィンクスや狛犬・龍・マーライオンなどと同じで、伝説の獣の像である。家や人・村に災いをもたらす悪霊を入れないための魔除けの意味で、門や瓦屋根の上・村落の高台などに設置されるものでもある。名前の由来は「獅子」を沖縄方言で発音したもので、形は古代オリエントから伝わったライオンでスフィンクスや中国の石獅子・日本の狛犬などと源流は同じだと言われる。沖縄でのシーサーの始まりは、1689年とされる。火事が頻発するので占って貰った所、島尻郡東風平の八重瀬岳が影響しているので獅子の像を作って山に向けて設置すればよいとお告げがあった。早速シーサーを設置したところ、火事の発生がなくなったと球陽(1743年~45年に編纂された琉球王国の正史)に記載されているという。多くは狛犬・仁王・シーサーに見られるように、口が開いているものと閉じている像とが一対となっている。口を開けている方は阿形、閉じている方は吽形と言う。そこから転じて2人の呼吸がぴったり合うさまを指して、阿吽の呼吸とか阿吽の仲などと呼ぶようになった。阿吽とは仏教の呪文(真言)の1つで阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であることから転じて「宇宙の始まりと終わり」を表し、さらに阿は「真実や求道心」を、吽は「智慧や涅槃」を表すとされる。一般的に口を開けた像は雄で「福を招く」といって向かって右側に置き、口を閉じた像は雌で「災難を入れない」とされ左側に置かれる。しかし、雌雄の区別があるのかどうかについては、さまざまな議論がある。現在は沖縄の原風景にあるような赤瓦と漆喰の屋根の家を殆ど見なくなったが、屋根の上にシーサーが設置されるようになったのは瓦葺きが許されるようになった明治以降とされる。それまでは、寺社や城の門・御嶽(祭祀などを行う施設)・貴族の陵墓・村落の出入り口等に設置されるのみだった。シーサーにはその役割によって、「宮獅子」・「村落獅子(御嶽獅子)」・「家獅子(屋根獅子、門獅子)」の三種類がある。再建された首里城正殿の屋根には、大きな阿吽の龍が載っている。正殿前の大・小龍柱や内外の柱の多くにも龍が描かれている。首里城の象徴は龍で、城内に一般に知られた形のシーサーの像を見ることは無い。最初の門の前の両側に設置されている大きな狛犬に似た像と、正殿前石段脇の大・小の龍柱の後ろの欄干に十数体の小型の像が並べられている。本土の狛犬に酷似しているが宮獅子に分類されるもので、14世紀後半に琉球と明の朝貢貿易によって伝わった石獅子が源流だという。正殿欄干に並べられた十数体の石獅子のどれを見ても、同じ表情のものは無くまるで十六羅漢を見るようである。中には両手を上げてチンチンをし、アッカンベーの惚けた表情をした像もある。多分これら様々な表情には特別な意味が無く、像を作った職人の遊び心が込められているような気がした。
2015年01月28日

オトギリソウ科は、約9属560種もの植物から構成されているという。これらの中には低木から草本、蔓性のものもあり、分布帯も温帯から熱帯までと幅広い。草本のオトギリソウ・セントジョーンズワートなどは「小連翹」の名前で生薬とされる。黄色い花が美しいビヨウヤナギやキンシバイなどは、観賞用として栽培される。関東でも鉢植えとして園芸店で販売されているが、常緑高木のフクギ(福木)はオトギリソウ科に属する。原産地はフィリピンとされ、日本には移入されたものだが八重山諸島には自生個体もあるという。フクギは漢字で「福木」または「福樹」と書き表されるが、語源は不明である。恐らく「フクギ」の名称は、沖縄諸島から発生したものと考えられる。沖縄の島々では、フクジ・フクンまたはプクイキなどの別名でも呼ばれている。沖縄では、防風林や街路樹として植えられる常緑高木である。幹は直立し、高さは20mになる。長楕円形の葉は厚い革質で光沢があって対生し、4月~6月ごろ穂状花序に黄白色の花を葉の付け根に咲かせる。花が終わると、6~7cmにもなる球形果実がオレンジ色に熟す。フクギは果物の女王といわれるマンゴスチンと同属だが、フクギの果実は食用にはされない。専ら、沖縄に生息するクビワオオコウモリの餌にされるのだという。フクギは一本で植えて街路樹にもなり、並べて植栽すると緑の壁のように育つので防風林とされる。沖縄県本部町備瀬の「備瀬のフクギ並木」や久米島町真謝の「チュラフクギ」が有名である。沖縄でクヮジバギ(火事場木)といわれるように、密植すると緑の壁となって火事の延焼防止にも役立つ。備瀬のフクギ並木は美ら海水族館の先、本部半島先端部の弓型になった長さ1,100mもの海辺に沿った村落に形成されており古い樹の推定樹齢は300年という。度々テレビや雑誌に取り上げられてすっかりメジャーな観光地となったが、本当に沖縄の空気を感じるには矢張り真夏の太陽の下が似合う風景である。訪問時は生憎強風が吹く寒い日であったが、並木の中は風も無く観光客の二組ほどがチラホラと見え隠れするのみで、民家の庭には全く人影も見えなくひっそりと静まりかえっていた。備瀬のフクギ並木の20mを超えるほどのフクギの防風林で仕切られ入り組んだ狭い路地は、全く久米島と同じで水牛車による遊覧ができるのも同じ風景である。芋畑やサトウキビ畑が並ぶ並木の外から一歩並木の中の異空間に入ると今、備瀬にいるのか久米島に居るのかが分からなくなるほど似た風景である。
2015年01月27日

野に咲くスミレは誠に愛らしいのに、万葉集でスミレは四首(うち一種は長歌)しか詠まれていない。山振の 咲きたる野辺のつぼ菫 この春の雨に 盛りなりけり 高田女王茅花抜く 浅茅が原のつぼ菫 今盛りなり わが恋ふらくは 田村大嬢 高田女王は「やまぶきの咲いている野のつぼすみれは、この春雨に濡れて盛んに咲いていることよ」と、ヤマブキの黄色・つぼすみれの淡い紫色・やさしい春の雨を詠い、田村大嬢は「私があなたを恋い慕うことは浅茅が原のつぼすみれのようなもので、今が盛りです、恋しくて仕方がありません」と切ない女心を詠っている。スミレ属は世界の温帯に約400種が分布するが日本には50種があって、その内10種は琉球列島にある。万葉集に詠われたツボスミレの他にも、つぼすみれの名を持つものが数種あり平地や丘陵・山地の湿った草地や林内に普通に見られる。これらつぼすみれの仲間に共通する特徴はいずれも茎が長く伸長して、花の色は淡い紫色である。これに対してスミレは花の色は濃い紫色で株立ちの茎葉は伸長せず、せいぜい10センチ程度である。一般に植物の花は開花して受粉し結実するのだが、蕾の状態で自家受粉する閉鎖花をつける種がある。日本では、閉鎖花は11科14属19種に見られるという。スミレは早春の野に可憐な紫色の花を咲かせるが、春の終わり頃になると蕾のままで開花しない閉鎖花をつけるようになる。開放花では遺伝子の組み合わせが起きて環境対応がし易くなるが、閉鎖花では受粉が確実となって開花のためにエネルギーを消費することが少ない利点がある一方でクローンのため大きな環境変化に対応できない不利がある。スミレの名前は「花の形が墨壷に似ていることから」というのは、牧野富太郎説である。607年に建立された法隆寺の柱にはわが国最古の墨付けの跡が見られると言い、時代的には合うが名前由来の資料も無く信憑性には乏しい。関東は寒に入って、これから立春までが一年で最も寒い季節となる。先日沖縄県を訪問したが、ゆいレールの県庁前駅近く久茂地3丁目にある久茂地小学校の植え込みと前の街路樹の下には1月だというのに夥しいスミレの花が咲いていた。沖縄本島の露地で普通に見られるスミレには、10種類が知られている。リュウキュウコスミレ(ミヤマスミレ類)は沖縄で最も普通に見られるスミレで10月頃から咲きはじめ、4月ごろまでが花期である。海岸から山地までの路傍、畑、林縁に普通に見られる。沖縄のタチツボスミレは海岸近くから耕作地周辺や道路の法面の向陽地や日陰などに自生しタチツボスミレ・シロバナタチツボスミレ・アカフタチツボスミレの3種が見られる。11~4月が花期である。沖縄本土に冬季に咲くスミレにはこの2種があるが、今回見たスミレは花の形などからタチツボ系のスミレでは無いと鑑定した。4回目の首里城を訪問したが門の右側、石垣との間に土も無いのにリュゥキュウコスミレが一株生えて花を咲かせていた。城内の全てが掃き清められて他に雑草も見えないのだから清掃など庭を管理している人は、とっくに気がついているのだろうが可憐な花を咲かせる野草一株を排除しないで残す心遣いにホットした瞬間でもあった。
2015年01月26日

南城市は沖縄本島の南の端で以前は島尻郡であったが、紆余曲折を経て2006年1月1日に佐敷町、知念村、玉城村、大里村が合併して誕生した新しい市である。ここ南城市には有名な、「玉仙洞」と名前がついた鍾乳洞がある。1967年3月、愛媛大学学術探検部の調査によって全貌が明らかにされたものである。鍾乳石の数は100万本以上で国内最多、全長は5000メートルで国内最大級といわれ、現在890メートルが公開され残りは研究用として保存されている。国道131号線を挟んで玉泉洞と、8年前から公開されるようになったガンガラーの谷とがある。ガンガラーの谷という名前から何か特別な意味があるように感じるが、古代インドの王国ガンダーラとは何のつながりも無い。実は鍾乳洞の天井が崩れて落ちるときに反響した音が、名前の由来だという。玉泉洞は過去に何回も訪れたので、今回はガンガラーの谷を見学することにした。ガンガラーの谷は30年も前に玉泉洞と同時の公開を考えて整備を進めてきたが、谷を流れる川の上流域で飼育されていた家畜の糞尿によって悪染を受けた川が悪臭を放っていたので公開を断念したものである。公開されて8年になるが開放部は兎も角、洞窟の中は未だに異臭が漂っていた。この洞窟は約1万8千年も前に港川人が居住していた可能性が高く、考古学や民俗学的な面からも非常に価値が高いと言われる。2008年の発掘調査により、武芸洞と呼ばれる広い洞から2500年前の石棺墓と埋葬された人骨が発掘された。人骨は沖縄県立博物館に移されて、レプリカが常設展示されている。洞窟には石棺墓の周りの石積みと、人骨の上に乗っていたという貝に替わるシャコ貝がポツンと置かれている。沖縄ではシャコ貝に魔除けの力があるとされており、埋葬時の遺体にシャコ貝を乗せる習俗があると伝わっている。1967年にガンガラーの谷から約1km離れた具志頭村港川の石灰岩採石場で、9体分の人骨とその内復元可能な成人骨格4個体が発見された。骨と一緒に発掘された資料の放射性炭素年代解析で、1万8250年前の旧石器時代のものと推定されている。発掘場所が港川であったところから、この骨を港川人と名づけた。港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられたこともあったが、本土の縄文人とは異なり5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高いとする研究結果が発表されている。その存在が知られたのは約40年前と新しいこともあって、50歳代後半の人にはなじみの薄い歴史である。ガンガラーの谷の観光は、東京ドーム1個分の広さの谷約1kmを1時間20分で廻るツアーである。集合場所のケイブカフェは広く荘厳で、この場所でコンサートや結婚式が行われるという。中でも種之子御嶽(サニヌシーウタキ)は命の誕生を願う信仰の場所として、数百年も昔から各地の人が訪れて来た御願所(ウガンジュ)である。この左側にはイナグと呼ばれるガマ(沖縄本島南部に多く見られる自然洞窟)がポッカリ口を開けている。イナグは沖縄方言で、女性のことである。崩落で現在は中を確認できないがツアーガイドの女性が説明するパネルには、大きな一対の乳房と背中から下の女性の後ろ姿の裸体にも見える鍾乳石の写真が貼られている。 その先の洞窟には、天井から突き出した巨大な鍾乳石がある。イキガ(男)洞と呼ばれる。女性が嬉しそうにこの巨大な鍾乳石に寄り添って写真に収まっているのを見ると、苦笑したくなる光景でもある。崩落を免れた天井から樹高20mを越える巨大なガジュマルが谷底に無数の気根を伸ばした光景はこのツアーの見どころの一つでもある。料金は2200円と割高だが、ツアー満足度調査では満足とやや満足併せて96%となっている。どちらもおきなわワールドの運営だが、玉泉洞の方を好む人も多いと思われる。
2015年01月25日

一年の太陽の動きを四季にわけ、更に六つに分けたのが二十四節気である。二十四節気の一つ大寒は、その中で冬最も寒い日とされる。寒い冬に入る日という意味で、寒の入りという言葉がある。小寒から節分の前日までの30日間のことを、寒の内という。小寒は1月6日であった。小寒と立春前日の中間の、1月20日午前9時43分が大寒となった瞬間であった。大寒は一年で最も寒い時期と説明されているが、統計上では1月26日ころから2月4日頃が最も寒い時期となっている。日本の桜の開花は、本州の最も寒いと言われる寒の時期に沖縄県本部半島から始まる。この本部半島にはやんばるの三大桜祭りといわれる、第53回名護さくら祭り・第8回今帰仁グスク桜まつり・第37回本部八重岳桜まつりがある。今帰仁と八重岳は「桜まつり」だが、名護は「さくら祭り」の名称である。今年は今帰仁と八重岳は1月17日から始まり名護は2週間も遅い31日だが、終わりは同じ2月1日である。本部では八重岳の麓の海岸から標高454mの山頂まで4.2kmの道路の両側に植えられた、7000本の寒緋桜の開花に合わせて毎年日本一早い桜まつりが開催される。22日現在、濃いピンクや白っぽく薄いピンク色の花を3~5分咲かせた。寒緋桜は大木にならず然も群落を作らないことから、花の下に陣取って飲んだり食ったりの花より団子式の花見の習慣はなく車で移動しながらあるいは散策しながら静かに花を楽しむ。この早咲きの桜の名は、まだ寒い時期に咲く緋色の花から「ヒカンザクラ(緋寒桜)」と名付けられた。この桜が本州に移入されるようになって、本州にあったヒガンザクラ(彼岸桜)と音が似ていて混乱するため、カンヒザクラ(寒緋桜)と呼ばれるようになったものだが、今でも昔のままヒカンザクラと呼ぶ人も多い。別名で、元日桜ともいわれる。サクラの花芽は落葉すると休眠期に入るが、寒気に当たることによって花芽が休眠打破されるその後暖かな気温が続くことによって開花する性質がある。本州では南の低地から高地、北へと桜の開花が進むが、冬季に暖かな沖縄では、桜前線が本州と異なり北部・高所から中・南部、低所へと移動する。今帰仁城跡の桜まつりは、八重岳と30年の歴史の開きがあるため木の大きさや花に見劣りがあるのはやむをえないところなのであろうか。今年の沖縄の気温が暖かであったせいか、昨年に比べて開花が遅れている。昨年は山頂から見る山腹を曲がりくねった山路の両脇が緋色に彩られて見事であったが、残念ながら車から降りて観賞するほどには咲いていなかった。随所に幟旗がはためいて観光客にアピールしていたが、花を観賞に訪れる人も車も疎らで淋しい花見であった。 花言葉 あでやか あでやかな美人 善行
2015年01月24日

ノンフィクション女性史家永畑道子(1930年9月27日~2012年6月24日)が著した単行本「恋の花・白蓮事件」(19909年4月10日初版)の巻末に、3人目の夫宮崎龍介の「柳原白蓮との半世紀」から引用した次のような文の掲載がある。あき(火篇に華)子の骨は相模湖の石老山にある顕鏡寺という寺に納めました。小さな寺ですが、見晴らしのいいところです。あき子が心から可愛がっていた香織の骨と一緒に納めました。その寺の坊さんと、「極楽へ行く道も一人で行くんじゃなくて、最愛の息子と二人連れだから、まあ淋しくないだろう」と話したことでした……。大正天皇の従妹でもある白蓮は恋多き女として生き、1959年に貧血で倒れた2年後の1月には緑内障によって両眼失明をしている。1967年2月に没するまでの6年間は、龍介に支えられて歌を詠むだけの日々であったという。前出の香織とは龍介との間にできた男子で白蓮は溺愛していたが、1945年8月11日に23歳の若さで戦死した。白蓮の骨と一緒に埋葬したのだから、宮崎家の墓石が石老山顕鏡寺に建てられたのは1967年以後のことである。白蓮はNHKの朝ドラ「花子とアン」では蓮さまとして登場したが、ほぼ史実に基づいて再現されていた。宮崎家の墓所が辺鄙な石老山顕鏡寺に定められたのは、宮崎龍介の述懐にもあるように以前友人の案内で石老山に登った際に見た景色が余りにも良かったことからこの地に骨を埋めることに決めたのだという。顕鏡寺の創建が876年とすれば今から1200年も前の事になるのだが、墓所は小じんまりとしていて墓石もそれほど古いものは見当たらない。こちらもそれほどの古さを感じない小さな山門と本堂があり、名木として紹介される蛇木杉は樹齢400年とされていることから、寺創建から700年以上も時代が下がってから植えられたものであろうか。白蓮は3回結婚しており最初の北小路資武との間に北小路功光、3人目の宮崎龍介との間に香織と蕗苳(ふき)の3人の子供を産んでいる。墓碑は娘の蕗苳が建立したもので、香織・白蓮・龍介の順に亡くなったのだが右端には龍介の次いで雅号柳原白蓮の肩書がついて「妙光院心華白蓮大姉」の戒名があり、次いで香織の戒名が認められる。龍介の戒名に石老山から採った「石老」の文字が使われており、如何にこの山に深い思い入れがあったのかを窺い知ることができる。朝ドラで顕鏡寺詣りがブームとなったが、放送終了後5か月を過ぎると流石に落ち付いてきて詣でる人も少なくなってきているようだ。1月半ばに訪れた墓には、年末に供えられたと思われる花が枯れて風に揺れていた。
2015年01月20日

道志岩窟 石老山(せきろうざん)は丹沢山地の北に位置する道志山地に属し、山中には奇岩が点在することで知られている。山頂は結構広くて標高は700mに充たないが、南から西の方角には丹沢山地・富士山などを遠望することができる。石老山の登山道は八王子市の明治の森高尾国定公園から大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園を結ぶ「東海自然歩道」のコースの一区間として、有志によりハイキングコースの整備が進められている。国道412号線の「さがみ湖リゾートプレジャーフォレスト前」からのコースと、その先の「石老山入口」バス停から登るコースとがある。「石老山入口」バス停側から登るコースには、巨石や奇岩が集中しておりお勧めコースである。相模湖の南東に位置する石老山の中腹340mには平安時代の貞観18年(876年)に源海法師によって創建されたという石老山顕鏡寺があり、ハイキングコース途中には随所に巨大な奇岩がある山として知られている。顕鏡寺縁起によれば仁寿年間(851~54年)頃、洛陽高家の宮人三条武庫郎と八条殿の姫が駆け落ちし、山中の「道志岩窟」に隠れ棲んでやがて授かった男子に岩若丸と命名した。この道志岩窟の由緒書きには、二か所大きなミスがある。最も大切である寺号の「鏡」が、「鐘」になっているのだ。これを書いた者と、納入時校正しなかった寺の関係者のダブルミスが原因であろう。現在も訂正されていないところを見ると多くの人は気がつかず、気がついた人でもあまり気に留めなかったのかも知れない。かなり時代のある案内板であり、多くの人は誤った情報を鵜呑みにしたままなのであろう。開祖源海法師の父の武庫郎は、後に道志法師となり乳飲み子を置いて諸国行脚に出かけるのだが、その際所持していた銀の鏡を2つに割り半分を岩若丸に与えた。成人した岩若丸はこの鏡を持って父を尋ねて諸国を旅した結果、鏡のお陰で父との再開を果たすことが叶えられた。岩若丸は貞観18年(876年)に出家して源海と改名し、この岩窟に戻って寺を建立した。古い石(?)がごろごろしている山であるところから山号を石老山とし、鏡にちなんで寺号を顕鏡寺と名付けたという。山の名前は、顕鏡寺の山号から取って付けたといわれている。同じ真言宗の寺院の高尾山薬王院有喜寺は、山の名前が山号となったとされている。高尾山が高天ヶ原(富士山のこと)から連なる山なみの端にあってまるで尻尾のようであるところから、高天ヶ原の尾から高尾山の名前となったものという。このように普通は山の名前の方が先にある場合が多いのに、石老山については逆で寺の山号が山の名前になったとされる。岩若丸の両親の駆け落ちが発端でこの場所に顕鏡寺が創建されたものであり、この寺が大正10年の白蓮事件で有名になった大正天皇の従妹、柳原アキ子の墓所となったこととに何か不思議な因縁めいたものを感じる。本堂は明かりも灯っていずに暗くひっそりとしていて、人の気配もしない。家内は寺社を参拝する度びにご朱印を頂いてくるのだが今回は諦めたようである。蛇木杉を眺めていると突然鐘楼の鐘が撞かれて、吃驚した。寺の関係者の姿は全く見えないので、12時寸前に20回ほど鳴った鐘の音は時報の鐘では無く観光客が撞いたものであったのかも知れない。
2015年01月19日

庭のピラカンサやセンリョウ・マンリョウ・ナンテンなどの木の実が少なくなって、実の成る木に集まっていた小鳥が急に姿を見せなくなった。代わって地上を独特な歩行をしながら餌を探す鳥の姿が、目につくようになった。越冬のために、はるばるシベリアから飛来したツグミである。漢字でツグミは鶫または、鶇と書き表される。東に鳥と書くのが元字で、鶫は国字だという。ツグミ亜科に属する鳥には、コマドリなど小形のものからトラツグミなどの大形の種まで310種を含む。ツグミの名前は冬季に盛んに聞こえたこの鳥の鳴き声が夏季になると聞こえなくなることから、口を「つぐんでしまった」ために啼き声が聞こえなくなったものと考えられたことに由来するという説がある。10月ごろシベリアから大群で渡ってくる冬鳥の代表で、冬季には日本全域で普通に見られ雌雄がほぼ同色なので見た目で見分けがつけにくい。飛来当初は山地で群れて木の実などを食べ木の実がなくなって来ると、次第に分散して平地の畑や河原などに移動する。地面を数歩跳ねて止まり胸をそらして辺りを警戒する動作を繰り返し、特徴有る歩き方をしながらミミズや昆虫などを採食する他木の実を食べる。ツグミの仲間では夏に日本で繁殖するクロツグミ・日本で越冬するシロハラ・夏季に日本で繁殖するアカハラ・日本の留鳥または漂鳥であるトラツグミなど数種類が見られる。クロツグミは「キョロンキョロンチー」と綺麗な囀りに加えて、他の鳥の囀りを真似る。ツグミは、美しい囀りをする他のツグミの仲間とは異なり、濁った大きな声で「クァッ・クァックァ」・「キキキッ」などのように鳴く。繁殖期には日本に居ないので生の囀りを聞くことはできないが、地鳴きからは想像できない綺麗な囀りをするという。24cmほどの大きさで、尾羽を取ったヒヨドリかムクドリの大きさである。古名では「鳥馬」と呼ばれたが、地面を飛び跳ねるように移動する格好からついた名前と言う。カスミ網猟は大群で飛来するツグミを大量に捕らえるために石川県で始まった後、全国へと広がっていった。カスミ網の大きな物では長さ100m×高さ3mのものが、3段に設置されることもある。渡り鳥が峰を越える時網の仕掛けの下でテープに録音した鳥の声を流して鳥をおびき寄せ、一度に数百羽のツグミを一網打尽にする。以前はカスミ網で捕らえられた年間数百万羽のツグミが、「焼き鳥」にされた。今でも、居酒屋のメニューに出ていることがある。ツグミ自体も禁狩猟鳥となり1950年にはカスミ網の売買や所持・使用が禁止され、1991年には製造も禁止された。しかし現在もネットにはカスミ網の広告がでているし、海外で捕獲された野鳥が焼き鳥用として大量に輸入され続けているのが現状である。さらに伝統的にカスミ網猟をしていた北陸や中部地方では、今でも小鳥を食用にする習慣が残っているため相変わらずカスミ網を使った密猟が行われていると指摘されている。
2015年01月16日
永久磁石はエネルギーを消費せず、安定した磁界を発生し続けることができる。この性質を利用して、産業や日常生活のあらゆる面で磁石が幅広く使用されている。近年、永久磁石の特性が飛躍的に向上したことからほとんどの電化製品の動力源として、あるいは高度医療機器のCTスキャナーやMRIなどから文房具・玩具にいたるまでの400種類以上といわれる製品に幅広く利用されている。自動車1台には、100個もの磁石が使われているという。昨年建設許可が下りたことで話題になったリニア中央新幹線は、2027年に東京~名古屋間286kmを500km/hの速さで営業運転を目指すという。リニアは、磁石が動力源で磁力で車両を浮かせて進む。車両は自力走行しないため運転士はいなくて、運転指令所の遠隔操作で制御される。この区間の86%は、大深度地下やトンネル区間となる。地上であっても走行音を削減するため周りはコンクリートで覆われる構造となり閉塞感を覚えることになるので、覆いに小窓を開けてパラパラマンガのように連続して景色が目に入ってくるように工夫されるという。2045年に予定されている大阪までの延伸経費を含めると、9兆300億という気の遠くなるような建設費が必要になるとされ、東海道新幹線が3800億円で完成したことを考えると如何に膨大な経費が必要になるかが分かる。これほどの多額の経費を費やしても建設することの意義は、地震などで東海道新幹線の運行が不能に陥ったときの代替交通機関の役割を持たせるのが目的とされる。営業運転では1時間あたり東海道新幹線の1/3ほどの、5本程度の運行が予定されている。東海道新幹線は昭和39年の東京オリンピックに間に合わせて開業したが、リニア中央新幹線の場合どんなに工事を急いでも2020年のオリンピックに間に合わせることは不可能だという。ほぼ直線のルートで建設されるため、品川~名古屋間は東海道新幹線より2割短くなる。しかし2千~3千m級の山が立ちはだかる南アルプスの下の標高500m~1000mを、60kmもの長いトンネルで抜かなくてはならない。この場所は静岡~糸魚川断層と中央構造線が交わっており、難工事になることが予想されている。大阪までの営業運転は30年後の予定であり、生きている間には全く間に合わない。12年後に開通予定の名古屋までの営業運転にも、多分乗ることは不可能であろう。山梨県上野原と境川の間にはすでにフルマラソンの距離に近い42.8kmの実験線が完成しており、この区間で現在試験運転が行われている。この実験線を使って2015年3月17~20日と24~27日の計8日間、一般試乗会を行うことが発表された。電話とネットによる試乗申し込み募集は、13日から始まった。一般向け試乗会は昨年11~12月に続いて2回目で、前回は1日3回だった運行回数が今回は5回に増やされた。回ごとに50区画の100座席が、1区画4320円で販売される。多分大規模遊園地のアトラクションよりつまらないと思いながら、敢えて今生の思い出にと第一回目の試乗会を申し込んだのだが125倍という高倍率に敢え無く撃沈した。今回も必勝を期して2回目試乗会への申し込みをしたのだが、結果は2月下旬に当選者にのみ連絡されると言う。
2015年01月15日

蜂蜜を初めて舐めたのは、昭和18年頃母の実家だった記憶がある。すでに砂糖は貴重品で、蜂蜜も採取する人が少なく常時手に入る物では無かった。蜂蜜には蜜源によって、植物の名前を冠したものがあることもその頃教えられた。最も多いのはマメ科の、クローバー・レンゲ・アカシアなどであろうか。ところが厳密には、アカシア蜂蜜はアカシアが蜜源ではない。一般にアカシアの名前で通っているのは1873年に北米から移入されたハリエンジュで、別名はニセアカシアである。移入された当時ニセアカシアの名前で呼ばれていたため、いつの間にかニセが取れてアカシアと呼ばれるようになってしまった。マメ科の特長として荒れ地でも良く生育するので街路樹・公園樹・砂防用土止めに植栽され、材は器具用等に用いられる。しばしば野生化して河川敷などで群落となり在来の植生に影響を与えるため、外来生物法で要注意外来植物に指定されている。山梨県内を流れる富士川上流の釜無川河川敷には広範囲に繁茂しており、国の河川管理事務所では民間に無償で払い下げて伐採させている。一般に動物・植物を問わず似て非なるものには「…モドキ」の名前がつくが、ハリエンジュには「偽…」の名前がつけられた。和名の語源ともなっているように、托葉が鋭い棘となることから針槐と書いてハリエンジュと読ませる。蕀を持つため枝は極めて扱いにくく、この木の炭は爆ぜるので注意を要する。ところで本家のアカシアは同じマメ科でも針槐とは異なり、ネムノキ亜科に分類される。アカシア属には千数百種があって、そのうち約600種がオーストラリア大陸に分布すると言われる。ハリエンジュには耐寒性があるがアカシア属は耐寒性に乏しいため、最低気温が零下になる地域では育たないとされる。花を見る植栽されるフサアカシアなどは、本来はオジギソウを意味するミモザの名前で呼ばれている。オジギソウはラテン語「ミモサ」で、代表選手として通称「ミモザ」で通っている鮮黄色の粟粒のような花を咲かせる植物は、ギンヨウアカシアのことで別名ギンバアカシア・銀葉アカシアと呼ばれる。名前が示すように、葉柄についた3対6枚のギザ葉は、銀色をしている。この花は目の覚めるような色をしていることからカクテルの名前や、サラダの名称としてこの名が冠せられている。シャンパン・ア・ロランジェはシャンパンとオレンジジュースを同量で割ったカクテルだが、その色合いから一般には「ミモザ・カクテル」の名前で通用している。水に晒さない玉ネギスライス・レタス・キュウリ・セロリ・パプリカ・二十日大根・プチトマト等を盛り付けた上に茹玉子を細かく刻むか裏ごしして粒状にしてタップリ振り掛けたサラダを、ミモザ・サラダという。山荘の庭にギンヨウアカシアを植えて夏の間に3mにも成長したのに、冬を越せないで枯死してしまった。この樹は低温にさえ遭わせなければあまり土地も選ばなくて極めて成長が早く、狭い庭では持て余すことになる。以前は関東地方でも民家の庭に多く見かけたが、近頃あまり目にしなくなった。今年も早くも蕾全体が黄色味を帯びてきたので、2月末には開花することだろう。
2015年01月14日

水草のアナカリスは和名をオオカナダモといい、よく似た植物にカナダモがある。カナダモはカナダ原産の水草で、このカナダモより少し大きい葉をしている方はオオカナダモといい、少し小さなものがコカナダモといわれる2種類の水草がある。コカナダモはカナダモと同じ北米原産なのだが、オオカナダモはアルゼンチン原産でカナダとは関係もないのにカナダモに似ているところからカナダの国名がつけられてしまった。茎を軸として、透明感のある細長く細かな葉を密に階層状に対生する。極めて丈夫で寒さにも強く、光が当たる場所では驚くほどに増殖する。もともとは植物実験観察用の植物として、大正時代に移入された。小学校の理科では今も、光合成の実験観察用の植物として使われている。日本の河川では普通に見られる帰化植物であり、金魚やメダカを飼育する水槽に最も多く使われる水草でもある。水槽の水草は炭酸同化作用を行うことで水中に酸素を供給し水中酸素が多くなると、好気性細菌の活動が活発になり水中窒素酸化物の無害化が促進される。さらに水草の増殖には水中の窒素が消費されるので、水槽を見苦しくするアオゴケに栄養が行き渡らなくなってその繁茂を抑えるという効果もある。極めて丈夫なため、二酸化炭素や光量が少なくても育つ。メダカや金魚に産卵場所を提供する他、稚魚の隠れ家として有用である。水槽の砂利に挿しても浮きやすいので、そのまま砂利に植えるのは難しく重石を付ける必要がある。長くなったら切り取って、植えつけるとまた育つ。雌雄異株とされるが、日本には雄株だけしか無いと言う。剽軽な人が遊び心でつけたものであろうか、「妻無藻」の別名がある。秋の彼岸の頃、深紅に燃えるように咲く彼岸花も雄花しか咲かせず種子を実らせることが無い。これはその昔雄株だけが救慌植物として移入され、雌株は持ち込まれなかったためと言われているが、この植物は3倍体のためもともと不稔であるとの研究報告もある。若しかしたらアナカリスも雌雄異株ではなく、元々雌株は存在せず栄養繁殖のみで増殖するのかも知れない。熱帯魚ショップでは「カボンバ」や「マツモ」と共に一括して金魚藻の名前で扱われており、ショップならどこでも手に入る。池や湖沼などに自生しているものには寄生虫や雑菌が付着していることがあり、水槽に入れるには事前に殺菌等をした方が無難である。アナカリスは水上葉を付けることはなく、常に水中に没しており茎の下方の節から根を出す。水質はpH4.5~9.5の酸性からアルカリ性まで広い範囲に適応し、水温10~30℃でも生育する。孫が貰って来たメダカの面倒を見ることになり、ペットショップからアナカリスを購入してきた。田舎の水溜りには普通に繁茂している水草なのに、15cmほどの茎7本位を束ねて重りをつけたものがショップで450円の値段を付けて売られていた。子供の頃流れの少ない河川や湖沼で良く見たのだが、水槽に浮かべるだけで砂や土に植え込まれていなくても盛んに増殖し茎を伸ばすとは知らなかった。メダカの排泄物を養分としてすくすくと育ち、今では水槽の半分以上を覆うまでに増えてしまった。暖かくなったら、少し整理しなくてはと考えている。
2015年01月13日

植物の組織や仕組みにかなり興味を持つ人にとっては良く知られているが、ある特定の植物の葉をライターや蝋燭の炎で炙ると死環(death ring)という現象が起きる。炎で炙られて熱せられた場所は緑のままで直接炎が当たった場所から離れた周辺が、やがて黒変し黒褐色の円環ができる。この輪のことを、死環といっている。この現象はモチノキ科の樹木の葉で顕著に見られることから、植物を同定する際に役立つがモチノキ科以外の多くの樹の葉でも現れる。死環の発現には葉緑素とタンニンなどの酸化物質及び酸化酵素が関与しており、葉に耐熱性の葉緑素と易熱性酸化酵素が存在することによって発現する現象である。葉が火炎で炙られると細胞壁がこわれ、飛び出した酸化酵素の作用によって細胞に含まれる酸化物質が酸化されて黒変する。しかし、火焔が直接当たった場所では耐熱性の葉緑素は残るが、高温によって酸化酵素が破壊されてしまうために酸化現象が起こらず黒変しないで緑色が残る。加熱された場所から酸化酵素を壊さない温度になる距離まで離れたところでは、同心円状に酸化作用が始まる。より離れた場所は温度が低くなり、細胞を破壊しないため同心円状の黒褐色の輪を形成する。このようなメカニズムで、死環が形成される。したがって高温加熱をしなければ、黒く塗りつぶされて円にならない。モチノキ科やモクセイ科の樹木の葉の裏には、文字を書くことができる。割り箸などの尖った先で葉に文字を書くと葉の細胞が潰れて破壊され酸化酵素が飛びだし、タンニン類が酸化され文字となる。これはは火炎で炙って細胞を破壊したのと、同じ効果による現象である。ハガキ(葉書き)の語源になったとも言われるモチノキ科のタラヨウの葉は、特にこの死環がはっきりと表れることで知られる。「ハガキの木」とされ、郵便局の前などに植樹され謂れが書かれた立て札を目にすることがある。昔はタラヨウの葉の裏に経文を書いたともいわれ、お寺に植えられていることがある。死環ができやすい植物としてモチノキ科植物の、ナナミノキ・モチノキ・ソヨゴ・クロガネモチ・タラヨウ・ウメモドキなどが知られている。
2015年01月12日

尉の字源は尻の下に物を並べて重みをかけ、火熨斗(アイロン)をかけて押さえつけ皺を伸ばすさま。熨の原字。尉を「イ」と読めば上から押し付けて騒ぎを鎮めることで、その役職の官名及び武官の階級名となる。これを「ジョウ」と読めば、老翁のことで能の翁が用いる能面のことでもある。謡曲の「高砂」を題材とした「尉と姥」は、能の衣装をつけた老夫婦が熊手と箒で松の落ち葉を掻き寄せる姿を人形・絵画・彫刻などにしたもので、婚礼・ひな祭りなどの祝いに用いられる。日本の冬によく見られる渡り鳥で、尉鶲と書いてジョウビタキと読ませる小鳥の名前がある。ジョウビタキは頭が灰色をしているところから、翁の白髪に見立て「尉」を当てたものであろう。ヒタキ科の鳥は300種以上知られておりヒタキ亜科に属するキビタキ・サメビタキ・コサメビタキなどの総称でもある。しかしこれらの他にツグミ亜科のノビタキ・ルリビタキ・ジョウビタキなどにも、ヒタキの名前がつけられている。マッチやライターが無かった時代には燧石を叩き合わせて点火したが、この鳥がその時にでる音に似た鳴き声を出すことから付いたのが名前の由来とされる。ジョウビタキはチベットから中国東北部・バイカル湖周辺で繁殖し、10~11月に日本の積雪が少ない地域へ渡って越冬する。住宅地で見られる小鳥にはスズメ・シジュウカラ・メジロ・トラツグミ・ムクドリ・ハクセキレイなどの他、稀にコガラなども見られるがそれらの中では最も美しい部類に入る。翼にある白い斑点をキモノの紋に見たてて、紋付鳥と呼ぶ地方がある。ジョウビタキは群れることなく、1羽ずつが縄張りを持って冬を越す。秋になると庭先に飛んで来て、名前の由来になった「ヒッヒッ、カッカッ」と言う音を盛んに立てて縄張り宣言をし時には人の3~4mの近い場所にも降り立つこともあるのだが、ジョウビタキの姿を認識している人は案外少ない。ヒタキ類は餌の昆虫を空中で捕獲し捕食するが、ツグミ類のように地上に降りて採食することもある。ジョウビタキは昆虫類の他、ピラカンサやヒサカキなどの実もよく食べる。冬の渡り鳥とされてきたが、渡りをせずに日本で営巣し繁殖をする個体もあることが30年ほど前から確認され報告されるようになった。大きさも仕草もかなり似ている小鳥に、キビタキ(黄鶲)がいる。こちらはツグミ亜科でなく、ヒタキ亜科に分類される。ジョウビタキとは渡りの季節が逆で、日本の夏鳥として全国の山間部に見ることができる。どちらにも強い縄張り意識があって同種の他の個体を排斥する習性があり、車のバックミラーやガラスに映った自分の姿にも攻撃を加えるほどである。すっかり葉を落とした公園のコナラの林に、2羽のジョウビタキの雄が確認できた。時々林の外の駐車場の車のバックミラーに激しく体当たりした後、揃ってコナラの30mもある高い枝にとまる。ジョウビタキの単独行動説に反すると、暫く観察していたところいつの間にか1羽の姿が消えた。盛んにじゃれ合っているように見えたのは、縄張り争いをしていたのかも知れない。
2015年01月11日

年始以来日本列島は大陸から押し寄せる寒波にスッポリと覆われて、北海道や日本海側の豪雪地帯は積雪に悲鳴を挙げている。関東平野は逆で、西高東低の冬型気圧配置が強ければ強いほど、晴天となって外気温は低くても日差しを受ければ暖房要らずである。直接の外気は皮膚を指すように冷たいのだが、次第に強くなる日差しに散歩に出ると畑の隅の陽だまりにはもう既に、普通3月中旬ころから咲き出すホトケノザが数輪のピンクの花を咲かせている。正月七日にもなると漸く正月気分も抜けて、日常の生活に戻る頃である。そのけじめとして暮れに飾った松飾りを外し、春の七草を入れた粥を炊いて食べるのもこの日に行われる行事である。春の七草のホトケノザと言われるのは、小鬼田平子(コオニタビラコ)と呼ばれるキク科の植物のことである。一般に仏の坐(ホトケノザ)の名前で呼ばれているは、春の七草の一つとされるコオニタビラコとは似ても似つかないシソ科のオドリコソウの仲間で日本全国に分布する雑草のことである。タビラコが同じ黄色の花を付ける蒲公英と近縁なのは、冬季に根出葉がロゼットを作って越年することからも分かる。この地面に張り付いたロゼット状の葉の様子が、蓮華座に似ていることからホトケノザの名前で呼ばれていたものである。後になってシソ科の植物にホトケノザの名前が付けられたことで、紛らわしいとしてキク科のホトケノザの方には新たにタビラコという名前がつけられた。田平子の名前は、ロゼット状の葉が地面にピッタリくっついている様子を的確に表現している。シソ科のホトケノザの名前の由来もコオニタビラコと同一起原で、花が対生する葉の上に咲く形が蓮座に似ているとして「仏の座」と呼ばれるようになった。この葉が何段にも階層になって茎につくことから、サンガイグサ(三階草)の別名もある。何処にでも生える雑草だが、よくよく見ると唇形をしたピンク色の花が可愛らしく、群生するとピンクの絨毯のようになり見応えがある。唇の形に似た唇形花には対称的な濃い色の部分があって、見方によっては動物の顔に見えなくもない。この植物は、普通では考えられないような特異的な特徴を持っている。3月から6月頃にかけて一茎に多数の花を咲かせるが、中には開花しないまま自家受粉して結実する蕾がある。開花して授粉する殆どの植物の花は開放花といい、風や虫などの媒介者の力を借りて受粉する。植物はこうすることで、遺伝子を交換し多様化を図っている。この場合条件によっては受粉が不確実になる危険性や花を咲かせるのに多大なエネルギーを費やすが、交雑に依って環境に適合した性質を獲得し種を繁栄させることが可能になる。これに対して花冠の一部または全体が開かず、同一個体で自家受粉する花を閉鎖花という。自家受粉することで確実に次世代の種を作ることができ、開花に費やすエネルギーも少なくて済み効率的であるが遺伝子の多様性は望めない。このようにして何世代も続けて個体のクローンを作って行くと、弱体遺伝子が引き継がれたり、環境変化に適応できない場合は淘汰されることの危険も高くなる。日本の植物で閉鎖花の性質を有する植物には、コスミレ・ミゾソバ・フタリシズカ・タツナミソウ・センボンヤリ・ツリフネソウ・ホトケノザ・ヤブマメ・ヒメハギ・サワトウガラシ・ノミノフスマ・オニバス・キキョウソウ・メドハギ・ムジナモ・アザミ・ミヤマカタバミなどが知られている。ホトケノザは繁殖力が強く、どこにでも自生しあっという間に群生する。5月を過ぎる頃になると、全草に白い粉が着くウドンコ病になり易く特にキュウリやカボチャなどのウリ科の植物に感染し易いので、畑の中に見付けたら早めに除去した方が無難である。 花言葉 輝く心
2015年01月10日

史記は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。司馬遷自身は書名を「太史公書」としたが、後世になって史記と呼ばれこれが書名とされるようになった。司馬遷は武帝から死刑の決定を受けたが、死刑に次いで重い宮刑(外性器の切除)を受けることで助命され、後には皇帝の私的な秘書長である官職「中書令」に任じられた。王侯将相いずくんぞ種あらんや・唇破れて歯寒し・狡兎死して走狗煮らる・先んずれば人を制す・将に将たり・断じて行えば鬼神もこれを避く・智者も千慮必ず一失あり、愚者も千慮また一得あり・忠言耳に逆らい、良薬口に苦し・天道是か非か・桃李もの言わざれど下おのずから小径をなす・謀を帷幄の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する・匹夫の勇、婦人の仁・寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ・臥薪嘗胆・管鮑の交わり・完璧・鴻門の会・国士無双・左袒・屍を鞭打つ・鹿を馬となす(馬鹿の語源という説がある)・四面楚歌・酒池肉林・宋襄の仁・背水の陣・刎頸の交わり・流言蜚語・怨み骨髄に入る・曲学阿世・右に出るもの・士は己を知る者のために死す・雌雄を決す・傍若無人・満を持す・立錐の地なし・一敗、地に塗る・百発百中・鳴かず飛ばずなどは史記が出典となった故事・成語の一部である。この中に有名な言葉、「嚢中の錐」がある。嚢中の錐は「史記の平原君伝」が出典で、「夫れ賢士の世に処るや、たとえば錐の嚢中に処るが若しその末、たちどころに見わる」とある。戦国時代末の紀元前258年、趙の都邯鄲は秦の大軍に包囲された。趙は楚に救援を求めるために、平原君を使者に立てた。平原君は日頃から多くの人材を集めており、その中から二十人を同行させることにし十九人を選んだが最後の一人に誰を選ぶかどうしても決断がつかなかった。その時、食客の毛遂が自ら名乗り出た。これを聞いた平原君は、「賢人は譬えば袋の中の錐のようなもので、その穂先はすぐに嚢から飛び出して現れてくるものだ。しかし、毛先生を褒める人が誰もいないのでは賢人とは言えない。今回は残ってもらう。」といった。そこで毛遂が、「私は今日こそ、袋の中に入りたい。私を早く袋の中に入れておけば、穂先どころか柄まで突き抜けておりましたでしょう。」と重ねていうので毛遂を同行させ、道中他の者と議論させて見ると誰も毛遂に敵う者がいない。楚に着いて同盟の交渉に入ったが、なかなか話が進まなかった。そのとき毛遂が進み出て、楚王に同盟の重要性を説くと即座に盟約が成立した。無事に楚との合従同盟を果たして帰国した平原君は、「わしはもう二度と、男の器量の見立てはしない。毛先生を、すっかり見損なっていた。毛先生の弁舌は、百万の軍にも勝る」と褒め称えた。嚢中の錐は、「嚢の中に錐を入れると、嚢を突き破って自然に穂先が出てくる。才能のある人も同じで、黙っていても自然に周りがそれを認めるようになる。」という意味で使われる。この言葉は平原君が毛遂を否定するのに譬えて使った言葉で、毛遂自身は自分の能力が勝っていることを直訴している。逆の意味を持つ言葉に、「出る杭は打たれる」がある。杭は釘でも同じで、浮き上がって来た杭は打ちこんでおかないと危険である。
2015年01月09日

年明け早々の元日、昼前から夕方まで雪が舞った。道路への積雪は無かったのだが、車や家の屋根・樹の枝が白くなった。気象庁は年末の長期予報で今年の関東地方はエルニーニョの影響で暖冬か例年並みと言っていたが、年末からずっと低温状態が続いている。厳しい寒さの冬はこれからが本番になるが、寒さにメゲズに我が家の庭には蕗の薹が頭を出した。2月中旬まで待たないと、採取するには未だ小さくて食べるところが無い。蕗の薹の臺(たい)は音ではダイ・タイ、訓ではとう・あぶらな・はますげである。臺は高と至が合体したもので、高は下部がアーチ状の楼門形式の建物の意味である。臺・室・屋もそれと同じ、神聖な建物を表している。臺は台の旧字とされるが、北海道雨竜郡幌加内町に蕗之台(だい)の地名があるがフキノトウは「蕗の臺」と書き「蕗の台」とは書かない。臺は野菜類の花のつく茎がのび出たもので、花のつく台座をいう。菜類では薹が伸びはじめると、葉が堅くなり食用にならなくなる。このことから女性の盛りが過ぎて新鮮さがなくなる、あるいは適齢期が過ぎることを薹が立つという。蕗の薹はフキの蕾で早春葉が出る前に、地下茎から直接出る。花が開く前の蕾を、天婦羅や佃煮などにして食用とする。ほろ苦く、独特の春の香味がある。フキノトウには、蕗の芽・蕗の花・蕗の姑・蕗のじいなどの別名がある。花を見ればハッキリ区別がつくが、6月下旬頃に2千m以上の高山地帯の陰湿地に群生し葉がまるで蕗にそっくりな雄宝香の名前を持つ植物が見られる。根茎の香りが龍脳香(宝香)に似てメタカラコウより花が大きく多いことから、オタカラコウの名になったとか。別に葉が蕗や石蕗(ツワブキ)の葉に似ているところから、ツワブキの別名「タカラコ」に雄や雌をつけたという説もある。蕗はソメイヨシノが咲く頃には花茎を長く展ばして頭頂に白い花を咲かせるが、雄宝香は夏の終わり頃になってから大きな花茎を伸ばし菊に似た黄色い花を咲かせる。葉の姿がよく似ていることから、頻繁に山歩きをしている人であっても雄宝香の花を蕗の花と誤認している人も多い。雄宝香は蕗と異なり、食用にはしない。 莟(つぼみ)とは 汝も知らずよ 蕗の薹 蕪村フキの蕾が「ふきのとう」であることを知らない多くの人がいることを、フキノトウ自身だって「蕗の蕾とは認識していないだろう。」と蕪村が皮肉って詠んだ句であろう。
2015年01月08日

正月七日は、正月料理の締めくくりとして七草粥を食べる習慣がある。紀元前200年頃の前漢の時代に、元日は鶏・2日は狗・3日は猪・4日は羊・5日は牛・6日は馬・7日は人の日として占い8日に穀を占って新年の運勢をみていたことから7日は「人日」と言われる。唐の時代には、「人日」に七種菜羹(ななしゅさいのかん)の若菜を入れた汁物を食べて、無病息災を願うようになった。また、官吏の昇進を1月7日に決めたことからその日の朝に七種菜羹を食べ、立身出世を願ったといわれる。これが日本へ伝来し、日本古来の「若菜摘み」の風習と結びつき平安時代の宮中行事として七草粥が食べられるようになった。江戸時代になって「人日の節句」(七草の節句)として、五節句の一つに定められことから七草粥を食べる習慣が庶民の間に定着した。後からの理由付けとして正月料理に疲れた胃腸を労わり、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給をする効用を挙げてこの日に七草粥を食べ新年の無病息災を願うようになっていった。粥はかゆ・かい・しゅくと読まれ、米・粟・ソバなどの穀類や豆類・芋類などを多めの水で柔らかく炊いたもののことである。粥の字を使った慣用句として人から依頼され金をとって文章をつくる代書屋のことは、粥文(いくぶん)と言う。木魚の別名は粥魚(しゅくぎょ)で、貧しくて十分な食事が摂れなく増量した粥しか食べられないのを粥腹といい、「粥腹で腹に力が出ない」などとと使う。鬻ぐ・販ぐと同じで粥ぐ(ひさぐ)とも読み、物を売って商売をすることの意である。芋粥(うしゅく)はいもがゆとも読み、サツマイモや山芋などの芋を加えて炊いた粥のことをいう。芥川の小説で赤鼻の五位が苛められた話で有名だが、ここでは芋粥を「食べる」でなく「飲む」と表現している。中国北宋時代の政治家で文人の范仲淹(989年~1052年)は若い頃貧乏だったことから、薺(せり)を刻んでおかずとし、一晩置いて固まった粥を四つに切って朝晩二個ずつ食べたといい、そこから「断薺画粥(だんせいかくしゅく)」の言葉が生まれた。「薺を断ち粥を画す」と読み、貧乏に耐えて勉学に励むことの意味である。同義語に、蛍雪の功がある。粥の字源は米と弜(きょう)で、「弜」は炊飯時に湯気が立つ様子を表している。七草粥は芹・薺・御形・繁縷(はこべら)・仏の座(コオニタビラコ)・菘(カブ)・蘿蔔(ダイコン)の7種類の野草を米の粥に炊き込んだもの。粥は米・水・熱源と煮るための鍋一つあれば簡単に調理できる上、消化が良く胃腸が弱っている時や風邪などの病気の際に食べる事が多い。米から炊いたもの、ご飯に水を加えて再度炊いたもののどちらも「粥」と呼ばれる。似たものにだし汁と醤油や味噌などの調味料を加え他の食材などとともに炊き上げたものがあり、これは粥とは区別しておじや或いは雑炊と呼ばれる。ご飯の倍程度の量の湯を加えて炊き直して作る粥は入れ粥と呼ばれ、余りご飯を粥にして食べる場合などの調理法で簡単に手早く作れるが粘りが出やすく炊き粥にくらべると味が落ちる。これに対して米を炊いて作る粥は、炊き粥と呼ばれる。白粥は掻き混ぜると米が崩れて粘りが出、味が落ちるので掻き混ぜない方がよい。吹きこぼれしない程度の火力で、米が自然に対流するように炊く。米の5倍量の水で炊いた粥を全粥といい、重湯がない。米の7倍量の水で炊いたものは、七分粥。米の10倍量の水で炊いた粥が、五分粥。米の20倍量の水で炊けば、三分粥と言われる。米だけで炊いた粥で、七草粥のように具を入れていない粥は白粥という。少量の隠し塩を加えた方が、味が良い。料亭などで宴の締めに出されることが多い茶粥は、米に焙じ茶または粉茶を加えて炊いたものである。奈良の僧坊で食べられていたものが由来で、その後民間に広まったと伝わっている。茶袋に入れた茶を鍋の湯で抽出してから米を入れて炊く方法と、先に粥を炊きはじめ米が踊りだすころを見はからって茶を入れる炊き方があるが、こちらは渋みが出るので途中で引き上げる。粥は離乳食や精進料理の主食として、欠かすことができない。ただし炊きあがってから時間とともに糊状に固化して触感や味が落ちるので、炊きあがったら直ぐ食べるようにする。
2015年01月07日

今年は新年早々に、長径50cm×幅30cm×高さ35cmで、重量20kgもある磨き赤玉石が嫁入りしてきた。正月2日家内の実家へ、習わしとなっている新年の挨拶に行った。その際義兄から、「良かったら一つ石を持って行かないか」と言われたのだ。義父は「一流○○」を集めるのが趣味で、存命中は家に骨董屋や石屋が始終出入りしていた。今でもその頃石屋に勧められるままに買い込んだいわゆる「○○名石」が、家の中や庭に所狭しとばかりに置かれている。三大名石或いは三大銘石として「菊花石・カムイコタン渓谷石・赤玉石」、「赤玉石・神戸の本御影石・鳥取の佐治川石」を挙げる人が多い。佐渡に産する翡翠・碧玉ほか多くの飾り石は他に例を見ない美石とされるが、その一つに有名な赤玉石がある。佐渡の民家の玄関先や施設の入り口などの至る所に置かれている赤い石は、赤玉石と呼ばれる。この石は両津地区より産出したもので、今より2000万年前に地中で形成されたとされる。非常に硬い石であることから縄文時代には矢じりや石器等に利用され、弥生時代には管玉などの装身具に利用されていたことが遺跡からの出土によって判明している。赤玉石は石英と多量の酸化鉄が、高熱と高圧で結合してできた石である。非常に硬く硬度は6.5~7.0で、磨いたときに透明感のある光沢がでる。赤玉石の色彩の美しさは日本一と言われており、故に日本三大名石の一つとされる。赤玉の名前の由来として玉のように一つずつ出てくるから、あるいは玉のような輝きのある石からだとする説とがある。古くから朱・赤は魔を払うと言われることから、赤玉石は縁起の良い石とされ家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきた。現在は採掘が禁止されているため希少性もあって、庭石・飾石・貴石として非常に貴重な石となった。赤玉石は安土桃山時代には、朱真石の名前で呼ばれていたと伝わっている。古く弥生時代には勾玉や管玉に加工され、江戸時代になると根付などの材料としても使われた。石自体は磨いても自然のままでも見栄えがすることから観賞石や水石として珍重され、大きなものは庭石として使われた。庭石は組石でなく必ず一石を単独で、庭や玄関等の飾り石として用いた。中国では朱・赤色は縁起が良いと言われており、祝い事の飾り物は赤色になっている。日本でも赤色は魔を払うと言われており、そのため赤玉石は縁起の良い石とされ佐渡では古くから家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきた。採掘が禁止されたことから昭和57年以降の産出は殆ど無く、貴重な石になっている。
2015年01月06日

紫雲山頂法寺(六角堂)十六羅漢子供の物真似遊びに、「羅漢さん」というのがあった。私自身はこの遊びに加わった記憶は無いが、何故か囃子言葉だけは頭の片隅に残っている。♪羅漢さんがそろったら回わそじゃないか。 よいやさのよいやさ、よいやさのよいやさこの囃子言葉は江戸時代から京都地方を中心に、唄われたと伝わっている。記憶の底にこの歌があるのは、この遊びをどこかで実際に見たか或いは聞いたことがあるに違いない。「親」を中心にして他の子が輪になって囲み、歌を唄いながら親の動作を他の子が真似する遊びと、円陣をつくった子供たち各自が動作を決め最初は自分のしぐさ、次から右隣の子の真似を伝達しながら次第に掛け声を早くしていって、真似し損なったら輪から抜けていくという遊び方もある。羅漢は釈迦の十人の高弟のことで、十大弟子ともいう。釈迦亡き後は、これらの弟子が仏教教団を指導した。この十大弟子を「悟りを開いた者」の意味で阿羅漢といい尊敬や施しを受けるに相応しい聖者とされ略されて羅漢と言われるようになった。煩悩の賊(ari)を殺す(han)からでた言葉の、殺賊(せつぞく)が語源との説もあるがこれは俗説で、「価値ある」「立派な」などを意味する「語根〈arh-〉」から派生したものという。理想的な修行僧の姿を表わしたものとして禅宗寺院に祀られることが多く、庶民信仰の中心になっていった。日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子のことを十六羅漢といい、十六羅漢にさらに二人の羅漢を加えた十八羅漢もある。仏滅後の仏典編集に集まった弟子は「五百羅漢」といわれて、これを尊崇・敬愛することも盛んにおこなわれてきた。禅宗では釈迦の弟子たちの修行の姿が理想化され、五百羅漢図や羅漢像が作られ祈願の対象とされた。羅漢さん遊びの囃子言葉の「羅漢さん」とは、恐らく釈迦の高弟の羅漢のことを指していると思われるが、500では多いから十大弟子か16羅漢のことなのかも知れない。小田原市の大雄山線には、一日凡そ800人ほどの乗降客がある五百羅漢駅がある。ここには駅名の由来となった、羅漢像で知られる玉宝寺がある。この寺には五百羅漢や十六羅漢などが安置されていることから、羅漢寺とも言われる。この夥しい数の羅漢像は、享保15年(1730)から27年の歳月をかけて北条家臣伊予守兄弟二人の努力で完成されたものである。安政の大地震でその多くが破損したが、万延年間(1860〜1861)に補足・補修が行われ24cmから60cmの羅漢像526体が本堂内に所狭しと並んでいる。五百羅漢は一体一体が異なった喜・怒・哀・楽・笑・泣・嘆・柔・剛など様々な面相をしていて、必ず死者に似た顔に逢えるとの言い伝えがある。遊びの囃し歌♪羅漢さん…は、羅漢像の面相・仕草がそれぞれ異なることから発想された遊びであろう。今では遊びの文化はすっかり様変わりしてこの遊びができるほど子供が集まることは少ないし、子供はデジタル機器での遊びに夢中で正月定番であった凧揚げ・羽根突き・独楽回しなどの遊びには全く興味を示さない。
2015年01月05日
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