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野郎は罵り蔑すみを込めて、男の代名詞として使われる。野郎と同音異語の、「夜郎」という言葉がある。夜郎は中国漢の時代にあった国の名で、当時の西南地区では最大の国であったとされる。前漢時代の歴史家司馬遷著の「史記」によれば、武帝が南越(現中国南部からベトナムにかけての地域)国討伐のために兵を派遣した際、蜀(現四川省)で産出された枸醬(枸の実でつくった味噌)が夜郎よりもたらされたことを知り南越国を牽制する目的で、現地に郡県を設置し夜郎王族を県令に任じたとある。※枸とは、カラタチ(枸橘)またはヒイラギ(姫楮)のことか。夜郎は大きいとはいえ多寡が地方の一つの国に過ぎなかったのだが、自分の国が最も大きいと信じ込んでいた夜郎の王は王朝の使者に対して、「漢孰與我大」(漢と夜郎ではどちらが大きいか)と尋ねた。これが、「夜郎自大」という言葉の由来とされる。「自大」とは自ら威張り尊大な態度をとることで、夜郎王と結び付けて「自分の力量を知らずに威張っている者」の譬えとして使われる言葉となった。夜郎の中心地の可楽遺址からは、多くの遺跡・遺物が発掘されているという。夜郎の建国時期は明らかではないが戦国時代には既に存在していたとされ、宋代に至るまで文献には夜郎県の名が登場する。河平2年(紀元前27年)夜郎王の「興」は反漢の兵を起こしたが、漢軍の猛攻に敢え無く敗れ捕えられた興は斬首された。それによって、夜郎国は滅亡したと考えられている。同じような意味で使われる熟語に、井の中の蛙大海を知らずがある。井戸の中に住む蛙は自分の住んでいるところが全てと思っていて、外に大きな海があることを知らない(だろう)ということから、狭い見識にとらわれて他に広い世界があることを知らないで自分がすべてだと思い込んでいる人等のことを指して使う。事故か人為的に投げ入れない限り井の中で一生を過ごす蛙が居ることは考えられず、話の譬えとして使われたものであろうか。荘子の、秋水第十七(1)が出典である。秋の洪水の季節、百川の流れが黄河に注いだ。水域がいっぱいに広がり、広すぎて向こう岸や川の中州にいる牛と馬の見分けがつかなかった。それを見た河の精は、「地上の美という美が俺の所に集まった」と大喜びであった。彼は河を下って東の方に旅して、北海にまでやって来た。そこでさらに東の方を見たがどこまでも広々として、見極めがつかなかった。……北海の若(海の精)は「井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏蟲不可以語於氷者、篤於時也。」(井戸の中の蛙に海の話をしても通じないのは、蛙が井戸という狭い場所に囚われているからで夏の虫に氷のことをわからせられないのは、その一生がごく短いからだ。)と言った。何処かの小国では世界を敵に回し、国民の生活を犠牲にしてまで核爆弾の開発を重ねている。さらに近々、ミサイルの発射まで目論んでいるという。世界と手を携え協調すれば国民は貧困と飢餓から抜け出すことができるのにと思うと、この国のリーダーの資質は「夜郎自大」で「井蛙」だと言われても仕方ないのではないか。
2016年01月29日

標準原色図鑑全集ブタは、イノシシを改良して家畜化した動物であることはよく知られる。極めてイノシシに近いため、良く交雑する。山間部で養豚業を営んでいると、いつの間にかイノシシの雄が豚舎に入り込んで仔を作ってしまうこともある。東関東大震災と原発事故で住めなくなって放置された福島県浪江町一帯の地域では、養豚場から逃げ出したブタとイノシシがかつての市街地まで荒らしまわっているとして捕獲を試みているという。多くは爆発的に殖えた、交雑種だとも言われる。イノシシとの交雑で生まれた仔は、両方の親から名前をとってイノブタと呼ばれブランド名にもなっている。太った女性を侮辱して時にブタ言うがブタは知能が高く清潔を好む動物で、餌場や寝床から離れた決まった一か所で排泄する。毎年沖縄の友人から、特産の「アグー」ブタの肉やハンバーグ等が送られてくる。古墳等から発掘されるブタの骨を調べると、琉球でも古くから飼育されていたとされる。アグー豚は肉の歩留まりが悪く小型で成長も遅いため、殆ど飼育されなくなったが1980年代に北部の農林高等学校の努力で復活したものである。系統には黒毛大型のバークシャ―が交配されていると言われ顔体型が似るが、より小型で大人しい。ブタを使った「遼東の豕(いのこ)」、という諺がある。当たり前のことを独りよがりで得意に思うこと。見聞が狭いためごく当たり前のことを、特異なことと思い込んで得意になることの意味で使われる。出典は、後漢書「朱浮伝」とされる。漁陽大守彭寵發突騎、転糧不絶。自負其功、意望甚高。不能滿。幽州牧朱浮與書曰、遼東有豕、生子、白頭。將献之。道遇羣豕。皆白。以子之功、論於朝廷、遼東之豕也。(漁陽の大守彭寵は、精鋭な騎兵を出して、兵糧を次から次へと送り届けて絶やさなかった。自分でその功績を鼻にかけ、恩賞の望みも甚だ高く、少しのことでは満足しなかった。それで朱浮は次のような手紙を送って言った。「遼東地方で豚が子供を生んだが頭が白かった。大変珍しく、これを朝廷に献上しようとした。ところが届ける道中で豚の群れに出あうと、どの豚も皆頭が白かった。あなたの功績を朝廷で品定めすれば、あたかもこの遼東のブタのようなものでしょう。)※朱浮は、後漢時代初期の政治家で武将「遼東の豕」が世間知らずの・独りよがりの意味と言うのは判るが、その意味で朱浮が使ったのならそれ以前に出典や譬え話があるはずだから「朱浮伝」が初出とは考えられない。ブタはイスラム圏を除いて、古くから世界各地で食用にされて来た結果多くの品種がある。中国で飼育されていたブタは、品種に関係なく中国種と呼ばれている。「遼東の豕」で言う頭の白いブタを探したが、それらしいものは見当たらない。後にイギリスで作出されたパークシャ―種は、黒色の地色に顔の一部・四肢下端および尾の先端が白い「六白」と言われるブタで、中国種の改良に使われたがこれとも違うような気がする。中国種の中には顔面・耳まで無毛または体毛が少なく、皮膚の色が見えるものがある。これが、「遼東の豕」と言われたブタに近い品種なのかもしれない。それにしても「井の中の蛙大海を知らず」では無いが、人生には似たような出来事が多くありくれぐれも気をつけなくてはと今更ながら自戒しているところである。
2016年01月28日

中上から左下に3個の福寿草。右端が蕗のとう 昭和45年(1970)を最後に、東京では最低気温が零下4℃以下になった年は無い。-4℃になると、家の外の水道管が凍結する。鉄製のドアノブに触ると、粘着テープに触ったみたいにクチャッと張り付いて気持ち悪い。今冬は年末~年始に掛けて例を見ないほどの暖かさで、多くの花木に不時咲き・早咲き・咲き残りなどの異変があった。キンポウゲ科の多年草に縁起の良い名前がついたフクジュソウ(福寿草)がある。別名も目出度く元日草と呼ばれるが、名前に似ず全草に人を殺すほどの猛毒を含有している。早春に鮮やかな黄色の花を咲かせるため、縁起花として正月にこの鉢植えを飾る家が多い。日本原産の多年草で、自生地では山野の落葉樹の下などに見られる。正月前に寄せ植えの鉢が多く出回るが、これらは秋に畑から掘り上げて1か月ほど寒さに当てその後ハウスでふかした促成ものである。路地植の場合は2月~3月が開花時期で、これは旧暦の正月ころに当たる。花芽が完成する晩秋に根を傷めないように庭から掘り上げ、約1か月寒さにあわせて室内に取り込み水を切らさないようにして窓辺に置けば正月頃には開花する。福寿草の花と南天の寄せ植えが売られることが多いが、「難を転じて福となす」という縁起を担いだものである。フクジュソウは江戸時代から好んで栽培され、多数の園芸品種が作出されている。全草に含有されるアドニンには強心利尿作用があり、民間療法で薬として使われることがある。しかしジギタリスと同じように毒性も強いため、服用すれば死に至る危険があり医師の指導なしには用いるべきでは無い。同じ頃に芽を出す開花前のフクジュソウは、フキノトウに似ているので誤食しやすい。中毒症状は嘔吐・呼吸困難・心臓麻痺などで重症では死に至る。 1月1日の誕生花 花言葉 永久の幸福 思い出 幸福を招く 祝福。1月1日の誕生花根及び根茎は、福寿草根という。堀取った根及び根茎を水洗いの後日干しにしたものを煎じて服用する。シマリンにはジギタリスと似た作用があり、福寿草根は浸剤・チンキ剤として、ジギタリスの代用とされる。ウサギに投与すると少量で心臓の拍動を増強かつ緩やかにし血圧は僅かに上昇する。次いで不整になって蠕動状を呈し、収縮期に停止する。平成4年4月永年心臓を患っていた女性が、フクジュソウの根が「心臓に効く」と教えられ根を煎じて服用し死亡した事件があった。大学で公衆衛生を学び勤務でも永年その知識を生かしてきた身にとっては、フクジュソウと蕗の薹の芽がどんなに近くにあっても見誤ることは絶対にない。元々は離れた場所に植えたのだが、フクジュソウはジッとしているのに蕗の場合は遠慮も無く勢力を伸ばし我が家の狭い庭をわがもの顔に占領しつつある。どんどん領地を広げる様は、何処かの国の様でもある。例年だと2月にならないと芽を出さないのに、暖冬異変で正月には芽を出し蕾の頭が割れ始めた。所が急な寒波の来襲で、もう20日間もそのままの状態である。今のところ家内も長男もフクジュソウにも蕗の薹にも興味が無いからいいのだが、やがて代がかわったら知識の無い者にとっては2種類が混植されていることは危険極まりない状態である。早い時期にフクジュソウをしかるべき場所に移して、安全を確保しておきたいと思っている。
2016年01月27日

平家物語巻第一は「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」の書き出しで方丈記と並び称される名文で始まる。平家物語の成立年代については諸説があり、そのうち鎌倉時代との説が有力である。「徒然草」第二百二十六段に、次のような記述がある。後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきけるを、心うきことにして、学問をすてて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給いけり。この行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へ語らせけり。…。とある。兼好法師は、信濃行長入道が作者だと断定している。日本の初期の系図集「尊卑分脈」や寺院資料「醍醐雑抄」・「平家物語補闕剣巻」では、行長と同じ顕時の孫の葉室時長が作者であるとしている。その他に法然門下の、僧西仏との説もある。冒頭の「祇園精舎」の正式名称は「祇樹給孤独園精舎」(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)で、昔インドの舎衛城(シャエジョウ)の南にあった寺院に釈迦が付けた名前と伝わる。正式名称の「祇樹」とは樹林、「給孤独園」は孤独者を憐れむ意で「精舎」は寺のことである。略して「祇園精舎」と呼ばれるようになった。三代将軍家光は、オランダ通詞の嶋野兼了に命じて「祇園精舎」を視察させた。その頃、カンボジア・ブノンペンに住む日本人達はアンコール・ワットを祇園精舎と思いこんでいてその情報が日本にも伝わっていた。そのため日本からも多くの巡礼の人々が、アンコール・ワット参詣に出かけたという。嶋野兼了も、アンコール・ワットを天竺の「祇園精舎」と思い込んだまま視察した。その際「祇園精舎図」を作成したが明治末期になってこの図面を鑑定した結果、祇園精舎ではなくアンコール・ワットの見取図であることが判明した。13世紀に成立したという平家物語では「鐘の音」が、この物語を貫く諸行無常の理念となっている。仏教の起源はインドで、インドからアジア各地に広まった宗教である。中国や日本の寺院には梵鐘があるが、梵鐘の発祥はインドでは無い。原型は殷・周時代に制作されるようになった青銅器の「編鐘」(へんしょう)が、梵鐘の源流と推定されている。平家物語の作者は祇園精舎の鐘を想像あるいは伝聞によって作中にとりこんだものであり、釈迦の時代に実際には諸行無常の音を響かせる鐘は祇園精舎には無かった。現在、祇園精舎の跡地は遺跡公園となっている。時代がずっと下がって2004年に、「日本国祇園精舎の鐘の会」から鐘と異国風の鐘楼が寄贈されこの公園に設置された。
2016年01月26日

骨董の「董」は、奥深く仕舞っておくことをいう。古董とも書かれ、愛玩すべき古物という意味である。昔の中国にはこの漢字の細かなものを入れ混ぜ合わせるという意味から、魚や野菜を種々混ぜ合わせた煮物汁を「骨董羹」炊き合わせ飯を「骨董飯」と呼んだという。江戸時代には骨董と言う言葉がコトコトやゴタゴタ等と同じ擬声語として用いられたのだといわれ、ここから派生して五目飯は「骨董飯」・トン汁の様な汁物は「骨董汁」・雑多な物入れ箱を「骨董箱」などといたという。骨董の骨は「物事を組みたてる芯になるもの」で、董と組合わさって雑多なになりさらに時代を経て希少価値のある古いものという意味へと変化していったものという。明代の文人董其昌は「骨董十三説」で骨董として、金・玉・書画墨跡・石印・鐫刻・窯器・漆器・琴・剣・鏡・硯などをあげている。1994年4月19日からテレビ東京がキー局となって始まった、「開運!なんでも鑑定団」というバラエティ番組が21年も続いている。現在のテレビはどのチャンネルを回しても同工異曲で食傷気味の旅と飲食番組が多い中、演出が工夫されていて面白く放送の殆どを見ている。地デジ移行による多チャンネル化が進んだ現在でも11%、再放送でも9%の視聴率を堅持していることからも多くの人に支持されている番組である。バラエティにありがちな一過性の番組では無く、その気になれば勉強にもなる。この番組が切掛けとなって、骨董ブームが起きたとさえ言われる。我が家には大して古い美術品等無く高価な骨董品を買う意志も無いのだが、骨董市や陶器市を巡るのは好きである。佐賀県有田町に事務所を置く、全国大陶器市振興組合がある。組合員は各地域の産地小売卸業者の他窯元生産者などによって構成されていて、年間20回ほど日本各地の都市公園で全国大陶器市を開催しているという。23日の新聞折り込みで、自宅の近くの公園で陶器市開催のチラシが入った。この市に出品されている陶器は家庭用雑器が多いが、人間国宝作家の作品も並べられていて目の保養にもなる。一般には値札で購入する人が多い中、組合の陶器市のホームページにも書いているように値切ることができるのも面白い。私は骨董市でも陶器市でも、値札で購入したことは先ずない。前々から備前焼の壺が欲しくて岡山市にある備前焼を再興した人間国宝の甥の窯まで見に行ったことがあるが、新作ぐい飲み一個が5万円と言われ、とても大壺などには手が届かなく諦めて帰ったことがある。30店舗程出店の中に、備前焼を揃えたテントがあった。最初は金重陶陽の茶道具や酒器、抹茶茶わんを見ていたのだが、前の棚に無造作に置かれた壺を見付け欲しくなり衝動買いをしてしまった。どう見ても新作では無く、かなり年代を遡るように見える。口から丸く張った肩に掛けて流れてはいないが、胡麻釉が掛かって景色を作っている。まさかと思ったのだが値切るとあっさり25%も値引きし、さらに湯のみ一個と家内が欲しがったマグカップまでおまけしてくれた。売り子の女性は「この人は気に入った人には、どんどんおまけしてしまうんですよ」と自嘲気味に話していた。値切らなければ、値札で購入していたところだ。一寸得した気分の、一日であった。
2016年01月25日

石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ(海辺の砂がなくなったとしても、世の中に盗人がいなくなることはないであろう。)石川五右衛門の、辞世と伝えられる歌である。石川五右衛門は安土桃山時代の希代の盗賊の頭とされ、文禄3年秀吉の手勢に捕えられ京都三条河原でその子と共に大釜の油茹でにより処刑された。五右衛門はこの時、三十七歳であったと伝わる。五右衛門が実在したことに疑問を投げかける説もあるが、司祭修道会宣教師の日記に「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。」と盗賊処刑の記述がある。また処刑の光景を、絵師が残している。ただこの処刑が夏に行われたとすれば、「五右衛門釜茹の図」の人物の着ているものと季節が全然合わない。寛文10年(1670)成立した歴史書続本「朝通鑑」や一代要記の後継「歴朝要紀」には、石川および石川五右衛門の名前が見える。これらの文献が示すように石川という盗賊が油で煮られて処刑されたことは史実で、五右衛門が実在したのかも知れない。ところで、このところ週刊文春がスクープを連発している。一つは芸能界に良くある男と女のスキャンダルで、当事者以外の者には大した影響は無く興味も無い。他の一つは、政治家と金に関わる話である。発売された週刊誌の内容は金銭提供側の一方的な話が土台になっていて、本人や秘書からの説明が無いので部外者には事実かまたは無根なのかの判断はつかない。それにしても後日の証拠として政治家あるいはその秘書とのやり取りが、50時間以上も録音されていたとは驚きである。まるで、スパイ映画を見ているようである。週刊誌が暴いているように政治家が自ら現金をポケットに入れたことが事実としたら、既に彼の政治生命は終わったのも同然である。現在衆議院475人と参議院242人の計717が議員定数となっているが、明らかにされていないだけで身辺を洗えばそのような例を抱えている議員は未だ多数いるのではないか。汚れた金銭は有能で仕事ができ、権力と権限を手にしたところに集まる。日本の政治が、疑獄と共に歩んできたことは歴史が証明している。金銭絡みのどの例をとって見ても国会議員が権限を持たない市井の人と同じであれば、起こらなかったであろう事件ばかりである。憲政の神様・議会政治の父と呼ばれる尾崎行雄は、金銭的にも清廉潔白であったとして有名である。献金を受付けなかった萼堂は、犬養毅に言われたという。「そりゃ確かに君は清廉潔白で献金をもらわんかもしらんが、その代わり、我々に借金をするじゃないか。」と。献金は住民個人であれ、企業・団体であれ何らかの利益の還流を期待して行われる。政治家の行政への権限が増せば、花の蜜を求めて集まる蜂のようにその権限と権力に擦り寄る企業者は殖えて来る。五右衛門では無いが、「…の種は尽きまじ。」なのだ。議員は地域住民の代表者であることから、住民との会合は必要なことではある。「李下に冠を正さず」の諺があるが、李下に足を踏み入れることさえ憚るべきである。五右衛門は油で茹でられて、生涯を終え事件は終着した。金が絡めば政治家は折角築いてきた功績が泥に塗れ、政治生命を断たれることになってしまう。僅かな金で、末世までの語り草とならないよう心して欲しいものだ。
2016年01月22日

清少納言が詠み、百人一首にもなっている有名な歌がある。後拾遺集(巻16・雑上・939)詞書大納言行成、物語などし侍りけるに、内の御物忌にこまればとて、いそぎ帰りて、つとめて、鳥の声にもよほされて、といひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関のことにや、といひつかはしたりけるを、たちかへり、これは逢坂の関に侍る、とあればよみ侍りける。(大納言行成が雑談した時に、内裏の物忌に参内するといって急いで帰り、翌朝、「鶏の声に促されまして」と言って寄越しました。そこで私は「深夜のうちに鳴いた鶏の声は、函谷関の故事でしょうか」と言い遣ったところ、折り返し「函谷関ではなく、恋人たちが逢い引きするという逢坂の関です」とあったので、詠みました。)夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ(深夜のうちに鶏の鳴き声を真似て騙そうとしても、函谷関ならばともかく、私の操は堅く守られているので決して通ることを許しません。)清少納言と藤原行成は宮中で親しく言葉を交わす仲であったことから、この歌が決して高飛車に行成を拒否しているのでは無く日ごろ親しい間柄故に戯れてやり取りをしているに過ぎない。「鳥のそら音ははかるとも」と、それに続く「関」はで司馬遷の「史記」に出てくる孟嘗君の函谷関の故事であることを表している。孟嘗君が抱える食客(才能のある者を客人として処遇し、代わりに何かあった時主人を助ける)の中に鳥の鳴き真似が上手い者がいた。孟嘗君は追われて逃げ、夜中に函谷関に辿り着いた。ところが、関所は鶏の鳴き声がするまで開門しない決まりとなっていた。食客の中に鶏の鳴き真似が上手い者がいて、真似をすると周りの鶏がその真似た声に呼応して一斉に鳴き始めた。関所役人は騙されて、開門してしまう。おかげで、孟嘗君一行は逃げ延びることができた。清少納言は教養がありこの故事を知っていたため、「夜をこめて…」の歌を詠むことができたものである。「箱根八里」は中学唱歌として、明治34年(1901)に発表された。この歌の中にも、函谷関の名前が出てくる。作詞者の鳥居 忱(忠一)には実際に函谷関を見たという記録が無いので、この詩もまた故事から引っ張ったものであろう。随分と勇ましく驚くほどに誇張された表現だが、20世紀に向けての希望の年であり気分高揚を狙ったものであろうか。♪箱根の山は、天下の嶮函谷關もものならず萬丈の山、千仞の谷前に聳え、後方にささふ雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす昼猶闇き杉の並木羊腸の小徑は苔滑らか一夫關に当たるや、萬夫も開くなし …。前には萬丈(3,300m)の山、後ろは千仞(2,000m)の谷である。万人もの男が攻めて来ても、一人の男が護っていればこの関所を落とすことができない…。と大風呂敷を広げている。ただ実際には箱根旧街道の最高地点は、標高800mしかない。箱根の関所の険しさに比較したら比べものにならないという「函谷関」とは、長安と洛陽の間の関所で王朝の死命を制する要衝であったとされ劉邦と項羽の攻防や、孟嘗君の故事などで知られる。孟嘗君の故事からは、鶏鳴狗盗という諺が生まれた。鶏の鳴き真似をして騙したり、犬のようにこっそり物を盗んだりするしか能がない者のことの意味の他にとるに足らない技能や芸でも役に立つことがあることの譬えとして使われる。
2016年01月21日

18日に列島南岸を発達しながら東に進んだ南岸低気圧は、首都圏に雪を降らせて交通を混乱させたが19日は北海道の東に進み東北・北海道に大雪を降らせた。20日には日本海に進んだ低気圧が、北陸・東北・北海道にも大雪と強風をもたらせている。豪雪地帯では特殊な職業を除いては降れ降れとはしゃぐ人はいないが、滅多に雪を見ない地方では歌を唄って降雪を喜ぶ。♪雪やこんこ霰やこんこ降っては降ってはずんずん積る山も野原も綿帽子かぶり枯木残らず花が咲くこの歌は明治44年(1911)「尋常小学唱歌(二)」に、文部省唱歌として始めて載った。平成19年(2007)に、「日本の歌百選」に選ばれたこともあって、多くの人がこの歌を知っている。多くの人がこの歌を愛唱しているにも関わらず題名を正確に「雪」と答えられる人は案外少なく、歌の出だしが「雪やこんこ 霰やこんこ」であるため「雪やこんこ」を歌の題名と勘違いしている人がかなり多い。歌詞に、「こんこ」と出てくる。「こんこ」は「来む、来む」で、「来い」すなわち命令形の「降れ」だとする説がある。動詞の「来」のみが活用するカ行変格活用は、こ・き・く・くる・くれ・こい(文語ではこ、こよ)である。むと結びつく「来」は、未然形の「こ」だとする約束がある。続く「む」は多くの場合、推量(~だろう)または意志の(~しよう)の意味である。命令形の「来い」すなわち「降れ」の意味とする説が有力だが、カ変活用では説明できない。「雪」の作詞者、作曲者ともに不詳とされている。しかしメロディーは、ドボルザークの「聖書の歌」の10番目の前奏と酷似しており、全く同じ旋律部分のあることが知られている。万人に知られている歌なのに、1番の第2節から2番の第3節につなげて歌う人が案外多くいる。兼好法師は徒然草の第181段 降れ降れ粉雪で、降れ降れ粉雪、たんばのこ雪といふ事、米搗き篩ひたるに似たれば、粉雪といふ。「たまれ粉雪」と言ふべきを、誤りて「たんばの」とは言ふなり。「垣や木の股に」と謡ふべし」と、或物知り申しき。昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍が日記に書きたり」(降れ降れ粉雪、たんばの粉雪という言葉は、米を搗いて篩いにかけた米の粉に似ているので、粉雪というのである。溜まれ粉雪と言うべきところを、誤ってたんばのと言うようになったのだ。続けて垣や木の股にと歌うことになっていると、ある物知りが言った。昔からそう言っているのだろうか。鳥羽院がご幼少の頃、雪が降った時に、この言葉を口になさったということが、讃岐典侍の日記に書いてある。)唱歌「雪」の発表よりかなり以前に、東くみが作詞して瀧廉太郎が作曲した「雪やこんこん」では、♪雪やこんこん、あられやこんこん もっとふれふれ、とけずにつもれ つもった雪で、だるまや燈籠こしらへましょう、お姉様の歌がある。徒然草の「降れ降れ粉雪、たんばのこ雪 垣や木の股に」という1000年も前の童歌や、東くみが作詞した「雪やこんこん」などが唱歌「雪」の主題に使われたのかもしれない。
2016年01月20日

沖縄の友人は風速40m以下の台風は、そよ風と評する。また豪雪地帯の知人は、2m程度の積雪では少しも驚かないという。ところが首都圏では30m超の強風で建物の屋根が飛んだり電柱が折れることがあり、たかだか5~6cm程度の積雪でも停電や交通麻痺・人身事故が多発する。昨日は日付が変わるころから雨が雪に変わり、都内では6cm横浜で5cmの積雪となった。2014年2月に降った数回の大雪により、架線が切れたりして駅間で動けなくなり乗客が長時間車内に閉じ込められるなど大混乱があった。これを教訓とした国交省の指導もあり、首都圏の鉄道は始発から大幅な間引き運転を行なった。間引き運転に加えて発生した架線事故が混乱に拍車をかけ、他線への振替輸送がさらに混乱に拍車をかけたという。殆どの駅では入場規制が行われ、ホームへ辿りつくのに1時間~2時間を要したとニュースで伝えられている。日本列島南岸を発達しながら東に進んでいく低気圧を南岸低気圧と呼び、冬から春にかけてよく発生する。低気圧の南側には暖気が流れ込み、北側には大陸の寒気が流れ込む。したがって列島の南を東に進む南岸低気圧は寒気を呼び込み、太平洋側に大雪や大雨を降らせることが多い。関東地方南部に降らせる大雪は、南岸低気圧によるものである温暖前線付近では強い南風に伴う高温と雨がまた低気圧の周囲では強風が吹き、寒冷前線付近では強い北風・東風と大雨・大雪に見舞われることになる。南岸低気圧の接近時に中心が陸地に近ければ雨、離れているほど雪になりやすい。八丈島付近が境界とされ、それより南を通ると雪になり北を通れば雨の確率が高くなる。これが陸地からさらに離れると低気圧の雨域の外になり、降水がなくなる。南岸低気圧は例年大陸高気圧が弱まる晩冬から初春の関東太平洋側に大雪を降らせる典型的な低気圧である。エルニーニョ現象などで大陸高気圧の張り出しが弱いと、発達した低気圧が列島の南岸に近づいて通りやすくなる。2014年2月8日未明から9日未明にかけて関東甲信・東北では、観測史上最高或いは数十年振りの記録的な大雪となった。さらに2月14~15日に関東甲信で、記録的な豪雪となった。甲府ではこれまでの記録49cmの2倍を超える114cmを記録した。いずれも発達した南岸低気圧が、列島に近付いて通ったことが原因である。昨日は1月18日未明から振りだした雪が、東京6cm・ 横浜5cmの積雪となった。日本気象協会は18日午後5時の予報では、「今日から明日、本州の南岸を低気圧が通過。関東や、東北太平洋側は今夜から次第に雪に。明日18日の朝にかけ、内陸部を中心に積雪のおそれ。東京23区内も、うっすら積もる所がある見込み。」との予報を出していたが、低気圧が予報より陸地を離れて通ったことで東京地方に寒気を呼び込んだ。関東平野は北と南に山脈が聳えている地形であることから、冷気の層(滞留寒気)が形成されやすい。予報がほぼ外れて予想外の積雪を見たのは、低気圧の通り道が予想に反して陸地を離れて通ったことに加えて滞留寒気が発生して関東平野に吹きこんだ二つの影響があるという。東京とその近郊では昨日未明からの降雪で鉄道などの交通機関の運行見合わせが18路線で実施され、地下鉄やモノレールも含めて殆どの鉄道が間引き運転・駅への入場規制等を行って午後まで麻痺に近いほどにダイヤが乱れた。空の便では羽田発着便が、250便以上欠航した。スリップなどによる人身事故は200件を超え、車の事故や着雪などにより広範囲の停電も発生した。長男は早朝のニュースで利用している鉄道の架線が切れて、運行不能になっていることを知り振替交通を選んで乗り替え駅まで行ったのだが、集中した乗客のため入場制限があり1時間以上待たされたという。目的の鉄道駅には1時間30分以上遅れて着き、勤務地への高速バスを1時間30分以上待ったのだが満員で乗れず次のバスは昼頃までないとのことで止むを得ず引き返して帰ってきた。「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」とは、黒船来航の際に詠まれた狂歌である。気の毒にも交通機関を利用する通勤・通学者にとって、昨日の「たった5~6cmの積雪」が地獄の一日となった。
2016年01月19日

標準原色図鑑全集5イスカ(交喙、鶍)は、カナリヤの仲間112種の一つに分類されている。ヨーロッパ、アジアの北部や北アメリカなど広い地域に分布している。日本へは冬鳥として渡って来るが、年によって渡りの数に大きな差がある。繁殖期は他の鳥よりかなり早く、2月頃からとされる。本来冬の渡り鳥だが、キビタキと同じように日本でも何例かの繁殖が確認されている。スズメよりやや大きく雄は翼と尾羽は黒褐色と暗赤色で目立つ美しい小鳥で、雌は薄い緑色で目立たない、採食の関係から、針葉樹林内で生活する。非繁殖期は、10数羽の群れで行動することが多い。シジュウカラと群れいることがある。マツ・モミやカラマツなど針葉樹の種子が主食だが、小さな昆虫も食べる。主に樹上で採餌し、地上では水を飲みに来るのがよく観察される。イスカは体の大きさに比べて大きめの上下の嘴が交差して互い違いになっており、この嘴を使ってマツやモミなど針葉樹の松毬をこじ開けて種子を啄んで食べる。イスカの語源は「ねじれている」という意味の古語、很し(ひすかし)だと言われている。喙はくちばしで鳥の嘴や獣の口を意味し、転じて口先または言葉も指すようになった。イスカの嘴は誕生した時から、嘴が交差しているわけでは無い。孵化したときから暫くの間は、他の鳥と同じ様に上下が正しく咬み合った普通の嘴をしているが、2週間ほどすると下の嘴の先が捩れて上の嘴と交差してくる。イスカの嘴と同じように、体の一部に不思議な性質と形態を持つ魚がいる。ヒラメやカレイなどカレイ目の稚魚は、他の魚と同じ体型をしており目も正中線の両側にある。これが成長にと共に、左右どちらかに目が移動して正中線を超える。ヒラメでは体長13〜14センチになると、その完全に右目が左側に移動してしまう。イスカは個体によって下の嘴が右あるいは左になっているが、交差の向きが偶然に決まるのか遺伝子が関係しているのかどうかについては不明である。松毬を着けるアカマツ・クロマツ・カラマツ・エゾマツ・トドマツなどの他、松毬状の果実を着ける榛の木(ハンノキ)類の実も主食にする。西洋にはキリストが貼り付けになったとき、イスカが釘を引き抜こうとしたためにこのような嘴になったという伝承がある。そのため、キリスト教ではイスカに「義人」としてのイメージがある。正教会で「義人」は聖人の称号で、キリスト受難以前の聖人に対して「義なる預言者モーゼ」或いは「義なる神の祖父母(マリヤの両親))等のように用いられた。広辞苑には義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」のこと。」と出ている。一見変形した嘴は使い難そうに見えるが、この変形嘴は松毬の間に挿しこんで抉じ開けて中の種子を食べるのに適している。このようなイスカの嘴の形態から、物事が食い違って旨く事が運ばないことを指して言う「イスカの嘴の食い違い」という諺が生まれた。
2016年01月18日

自宅の標高は92mで、北杜市にある山荘は622mである。自宅の庭の冬至梅の開花は早い年で1月中旬、大概は遅くても下旬頃までには開花する。これが同じ種でありながら冬季の気温が零下10℃にもなる山荘の庭では、開花は遅く3月下旬から4月上旬に掛けてとなる。ウメはもともとサクラより休眠が浅いため、開花時期は気候によって大きく左右される。高温・適湿・多照の年は開花時期が早くなり、乾燥して気温の低い年は遅くなる傾向がある。ウメとサクラでは、開花の仕組みが異なっている。どちらの花芽も秋には休眠期に入るが、サクラの休眠は深くウメは浅いことが知られている。ウメの休眠打破には、日長より気温が深く関わっている。ウメは1月に咲き始め5月上旬までかけて、列島を南から北或いは低地から高地へ向けて開花して行く。ウメの開花は気候に敏感に左右されるので、温暖な年では開花が早まり気温の低い年では開花が遅くなる。年末に購入したウメの鉢植えを正月に間に合う様に開花させるには、クリスマスの頃から毎日樹全体に霧吹きで水を吹きかけてビニールでスッポリ覆って湿度を保ち、20℃以上の温度環境に約1週間置けば容易に開花する。「冬至梅 暖炉の側で ふくらみぬ」と前田青邨も詠んでいるように、昔から温めて人工的に開花を促していたものであろう。ウメの開花は、時速約0.3kmの比較的でゆっくりした速度で列島を北上する。これに比べてサクラは3倍以上の速さの、時速約1kmで北上・高地へ咲き広がって行く。このため高地や北国ではウメより遅く咲き始めたサクラが、ウメの開花と重なることになる。今冬の暖冬は関東一円に及び、例年10月末には連日霜が降り11月には氷が張る気候なのだが、年が明けても暖かく最低気温が零下を記録する日は少なかった。多くの植物が春が来たと勘違いして年末の内に開花したり、耐寒性のある植物では葉を落とさない現象が起きている。ウメの開花も、然りである。冬至梅は文字通り冬至の頃に開花する早咲きのウメであるが、多分これは旧暦の冬至の頃開花するウメと言う意味である。したがって現在の暦では、1月中・下旬以降の開花を意味しているものである。所が今年は年末の20日頃には東京でも、標高の高い地域でも一斉に開花が始まった。10日に清里をドライブすると、沿道のあちこちの民家の庭に開花したウメの木を見ることができた。山荘周辺ではウメはサクラと同時期かサクラより遅れての開花だが、この地域では5月連休の後頃まで晩霜があるので凍害を避けるための仕組みであろうと思われる。関東甲信地方では、高地・寒冷地でも平地と同じ高めの気温が続いたためと思われる。当時梅は、虫媒花で自家受粉が困難な種である。今は、昆虫の少ない時期でもある。さらにこれから平年並みの寒気の襲来が予想されている。今冬のこのような例を見ない寒冷地での早咲き現象の結果として、結実が大幅に減少してしまう事になるかもしれない。
2016年01月15日

僧侶のことを坊さんまたは坊主といい、男の幼児も親しみや逆に侮蔑をこめて坊主と呼ぶ。奈良から平安時代に、都の四面が区画された一部が「坊」と呼ばれていた。時代が下がると大寺院に所属する小寺院を指して坊というようになり、その寺の主人の住職は坊の主であるところから坊主の俗称で呼ばれるようになった。昔の男児は丸刈りであったことから、僧の頭からの連想で男児のことを坊主と呼ぶようになったものである。広辞苑には坊主が付く言葉にギンダラ科の油坊主を初めとして、坊主丸儲けまで合計88もの言葉が並んでいる。この中に、「葱坊主」がある。都会人は余り目にすることは無いが、春暖かくなると冬季に収穫し切れないで畑に残された長ネギに花がつく。ネギの語源は「根葱(ねぎ)」で、根を食用とする古名の葱(キ)が由来となっている。晩春の頃薹立ちし、聚繖花序(しゅうさんかじょ=集散花序)の花球をつける。これが、葱坊主である。ネギの旬は、霜が降りる11月から2月の冬期である。霜が降りると他の葉物野菜と同じように柔らかくて甘くなり、春になって気温が上昇し日が長くなってくると花茎を伸す。冬の寒い間柔らかかったネギは、花芽の抽苔(薹立ち)に伴って急激に堅くなって品質が極端に落ちる。ネギ坊主は、ネギ科の植物に見られる聚繖花序のことである。小さな6弁花が、数十輪から数百も球形に集まって咲く。聚繖花序の聚(シュウ)は多くのものを一所に集める意、繖(サン)は傘の形のことで葱坊主や球形花の紫陽花などの花の形を良く表わしている。ネギに球状に咲く花が坊主頭に似ているとしてネギ坊主が一般的な俗称であるが、球形のネギの花が擬宝珠に似ていることからギボシと呼ぶ場合がある。擬宝珠は橋や寺社の欄干に付けられた飾りのことなのだが、蕾の形が擬宝珠に似ているところから種の名前となったユリ科の多年草があるので注意を要する。今冬は例年にない高温が続いたため、植物界にも異常現象が発現している。例年だと、2月以降の春に咲くツバキやボケ・ウメなどの花が既に咲いている。花芽分化には、日長と気温が関係すると言われる。我が家の菜園のネギには早くも薹立ちが現れ、本来この季節が旬であるはずなのに堅くなって品質が低下し始めている。永年一本根深を作っているが、こんな現象は初めての経験である。異常な暖冬で、春以降に出荷する予定の葉物野菜が育ち過ぎて安くなっている。消費者にはこの状態は歓迎されるものの、生産農家は計画出荷が出来なくなって出荷価格が暴落しニュースになっている。本来2か月も後に収穫する予定の作物を今収穫してしまって春以降に出荷される野菜が無くなると、その反動から一時は価格の上昇が心配なところではある。
2016年01月14日

山荘のある北杜市には、市営(指定管理運営)温泉施設が数多くある。明野温泉太陽館(ハイジの村クララ館)・須玉増富の湯・健康ランド須玉・たかねの湯・泉温泉健康センター・甲斐大泉温泉パノラマの湯・延命の湯(スパティオ小淵沢)・白州尾白の湯・塩沢温泉フォッサマグナの湯・むかわの湯である。これほど多くの温泉施設を地方公共団体が所有している例は、少ないと思われる。一昨年10月までは一冊の回数券で、白州塩沢温泉フォッサマグナの湯・むかわの湯・大泉パノラマの湯・高根の湯・明野温泉太陽館・泉温泉健康センターの6湯が利用できた。26年10月1日から利用料を大幅に上げたのに伴い、回数券の廃止が行われた。別荘を有する住人からは市条例によって、別荘利用の有無に関わらず一戸年間5000円の住民税が課せられており、その対価として市の6施設については利用料が軽減されて来た経緯がある。ところが10月からこのサービスが無くなり、別荘居住者への優遇は打ち切られた。指定管理者に聞くとこの制度が始まってから、どの施設も利用が減ったという。市の外れに位置する施設では、営業中に利用者が居ない時間もあるのだと聞いた。市民や常時利用者の感情や利用動向を無視した政策故であったことが、原因と思われる。市の担当部署にはかなりの苦情と共通入浴券の復活要望があっと言われ、平成27年10月から5施設についてはどの施設で購入した回数券(入浴手形)であつても入浴が可能に成った。1年で制度が変わり、将に朝礼暮改の見本のような施策である。1月10日に山荘の周りの片付けや、外壁の洗浄作業を行ったので汗をかいた。山荘に来た際にはいつも近場の、むかわの湯か塩沢温泉を利用している。しかしこの時期には珍しく雲一つ無い青空が広がって暖かく、こんな日にはノンビリ露天風呂で富士山を眺めようと考えて制度改悪と料金値上げの前は、年に何回も訪れていた大泉甲斐パノラマの湯へ行くことに決めた。パノラマの湯は八ヶ岳の南麓、標高1,000mの高原に位置する施設である。JR小梅線の、甲斐大泉駅から徒歩数分の場所である。泉質は炭酸水素塩泉で、ポンプアップ量は毎分177L/分で源泉温度は51.9℃という。浴槽水はかけ流し・循環の併用で効能書きには、きりきず、やけど、慢性皮膚炎、神経痛筋肉痛、関節痛、五十肩運動麻痺、関節のこわばり打ち身、くじき、慢性消化器病、痔病冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進に効果あると記載されている。内湯と広い露天風呂があり、露天風呂からは正面南に富士山が見える。1・2月は寒さと道路凍結等があって入浴客が少なく、7・8月は避暑やリゾートに訪れた客が利用するので入浴者が多いという。そんな利用状況の分析にも関わらず、駐車場はぼぼ満車で入浴者も多かった。各入浴施設では指定管理者毎に知恵を競い合っている。ある施設では金曜日に入浴手形を購入すると無料券2枚を上乗せし、さらに入浴毎にポイントを付けてポイント数で無料入浴が可能であったりする。パノラマの湯では語呂合わせで毎月26日を「風呂の日」として、内湯に薬草を入れたり食事割引券・優待券が当たるくじ引きイベントが行われる。露天風呂の正面に秀峰富士の姿があり、首を巡らせるとその左には瑞牆山が右側には南アルプスの山塊を見ることができる。八ヶ岳の麓なのだが、施設が南を向いているため風呂からは八ヶ岳の姿を見ることはできない。この時期には珍しく暖かで空は蒼く清んでおり、四囲の山々の姿を見ながら温めの露天風呂にのんびりと小一時間浸かった。入浴料金は820円と高めだが、泉質と露天風呂からの眺めにかなりの価値があるのでまた来たいと思わせる。しかし、時期と天候によっては景色を見られないことがあるので訪問する時季は選んだほうがよい。
2016年01月13日

洗浄前 洗浄後青苔は土や石・樹木にのみ生えるだけでなく、生育条件さえ合えば住宅の壁面や屋根にも生える。外壁に生える苔は、空中を飛散する胞子が壁に付くことによって発生する。都会地に比較して、自然の多い地域では苔が付きやすいとされる。苔の胞子は湿度があれば発生・生育するので、日が当たらない北や西側の壁面に知らない間に苔が発生していることがある。さらに凸凹のある壁は滑らかな壁に比べて胞子が付きやすいこともあり、苔が発生しやすい。壁面に生じた苔は壁の美観を損ねて見苦しいばかりでなく、腐食を起こして壁を損傷することもある。そのため一般的には中性洗剤や住宅用洗剤等を使って、ブラシなどで擦って除去する。専門業者の多くは、高圧洗浄機を使って洗い流す。専門業者の壁面洗浄平米単価は200~250円が平均とされている。業者に任せれば仕事は綺麗に仕上がるが、特段の道具が無くても手が届く範囲であれば洗剤とブラシを用いてDIYでも壁面の青苔落としは可能である。高圧洗浄機があれば、素人でも専門家の作業と甲乙付けがたいほどの仕上がりが期待できる。「高圧洗浄機」は1万円位から各種あるが、最低「吐出圧力」が約70~100kg f/c m2以上の能力を持つものが必要で付属の耐圧ホースの長さは10m以上あるものを選ぶ。ホームセンターなどで、2万円程度で購入できる。我が家では6年前に洗車用として高圧洗浄機を購入したのだが、稼働までのセットが煩わしくて泥道や融雪剤散布の道路を走った後に使用する位で眠ったままになっていた。築後15年になる山荘の北・西側の壁面に、いつともなく青苔が発生していた。例年厳しい寒さの時期である成人の日の連休は、暖冬の影響で今年は長閑な春の日に包まれ外気温13℃と水を使っても寒さを感じない陽気であった。洗車のために久しぶりに引っ張り出した高圧洗浄機を、車の洗浄だけで仕舞ってしまうのはもったいなくて壁面洗浄を行うことにした。山荘を訪問してもじっくりと外観を眺める習慣がなかったのだが、改めて壁面を見ると埃や青苔でかなり汚れていた。長男が約2時間奮闘した作業で、15年間放置していて薄汚れていた壁面が驚くほど綺麗になった。今後は数年に一度手入れをして、綺麗に保っていきたいと長男とも話した所である。
2016年01月12日

時代と共に多くの正月の行事が忘れられてきたが、七草粥は未だ多くの家庭で行われている風習の一つである。中国の前漢時代には元日から順に鶏、狗(犬)、猪、羊、牛、馬の日に割り振り、7日を「人の日」として各日を占い、8日にそれらから運勢を観たのが起源とされる。唐代になると「人日」に7種類の若菜を入れた汁物(七種菜羹)を食べ、無病息災を願う行事になった。またこの日が官吏の昇進日と決められたことから、その朝に七種菜羹を食べて立身出世を願うようになったのだという。この風習が奈良時代に日本へ伝わると、年のはじめに若菜を摘んで食べる「若草摘み」の風習ができ、7種類の穀物でお粥を作っていた「七種粥」から「七草粥」に変化したのだという。江戸時代に「人日」が五節句の一つに定められたことで、民間にもこの風習が定着していった。七草粥には、「正月料理で疲れた胃腸を休ませる、青菜から栄養補給をする」など後付けの理屈がつけられ無病息災を願う新年の行事に変化した。七草粥の中には、「すずしろ」が入れられる。漢字の「清白」が、ダイコンの古名で「古事記」には「大根(おおね)」と出てくる。文字通り、大きな根を意味するおおねが名称の由来である。ダイコンが白いところから、スズシロと言われたとの説がある。ダイコンは中国を経由して日本弥生時代に日本へ伝わったとされ、平安中期の「和名類聚抄」に於保禰(おほね)の名が見られる。於保禰はダイコンのことで、「延喜式」には大根(おほね)と記されている。ダイコンは漬け物・鍋料理・おでん等の他薬味としても、欠かすことのできない野菜で栄養も豊富である。冬は、ダイコンのアツアツの煮物が旨い。ダイコンと一緒に煮るのはブリ・豚肉・スルメ・タコの干物・ロースハムなどどんな食材との組み合わせにも良く合い我が家でも良く作る。煮ダイコンは、下拵えと出汁でその味が決まる。先ずダイコンを2cmの輪切りにして、皮の下の層まで厚く皮を剥く。厚鍋にタップリの水・ダイコン・米糠または米軽く一抓み・鷹の爪一本を入れ、ダイコンが柔らかくなるまで茹でる。茹であがったら自然に冷めるまでそのまま放置し、流水で洗った後鍋に戻す。ダイコンの煮物には濃い目の出汁が良く、乾燥トビウオの出汁粉が良い味を出してくれるので専ら粉末のアゴ出汁を利用している。最初醤油は控えめで味付けし20分ほどしてから、下拵えした好みの食材を加えて蕎麦ツユで味を調え落とし蓋をしてさらに10分煮て味がダイコンに染みたら完成である。昨日は一本分のダイコンを煮たのだが、評判が良くて3人で殆ど一鍋を完食してしまった。 冬ざれや 青きもの 只菜大根 漱石
2016年01月08日

八仙渡海図新年になると宴席やテレビなどで、藤野君山の七言絶句「寶船」の詩吟を耳にする。我が家の床の間にも、「壽海波平紅旭鮮 遙看寶字錦帆懸 同乘七福皆含笑 知是金銀珠玉船」の軸が掛けられる。この詩の転句の「皆含笑」を漢詩読みでは「みなえみをふくむ」、詩吟では「みなわらいをふくむ」と吟ずる場合が多い。どちらでも意味は同じだが、この場合「わらい」より「えみ」と読んだ方が奥が深いように感じる。結句の「金銀珠玉船」とは、宝船のことである。七福神が乗り、金銀財宝の宝物が積み込まれた帆船が宝船である。宝船の原型は悪夢を乗せて流すという、「夢違え」または「夢祓え」の船であったという。室町時代には正月2日の夜寶船の絵を布団の下に敷いて寝た後、翌朝集めて流したり埋めたりしていたとされる。宝船は珊瑚・金銀・宝石など様々な宝物が積み込まれていて目出度い船とされ、帆に「寶」の文字が書かれて七福神が乗っている置物や絵などが知られている。この寶の文字とは異なり、「獏」の文字を書いたものもある。人の夢を喰って生きると言われる動物の獏は、中国から伝わった想像上の生物である。悪い夢を食ってくれるとして室町時代末期に、獏の図や文字が縁起物として用いられた。現在は帆に「寶」と書かれるのが一般的だが、室町時代末期には良い初夢を見るために枕の下に敷く宝船の絵には帆に「獏」と書く風習があった。また、宝船の絵には「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」(永き世の(あるいは長き夜の) 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな)先後どちらから読んでも同じ言葉になることで有名な、回文歌である。室町時代に編まれた俗世辞書「運歩色葉集」(1548年に成立)に「なかきよの…。」の記載がみられることから、宝船の風習そのものは16世紀後半になって広まったと推察できる。それにしても宝船に乗るのは、何故七人なのであろうか。中国には、明の時代に起原する八仙がある。八仙は全員実在の人物とされ、漢鍾離・張果老・呂洞賓・李鉄拐・韓湘子・藍采和・曹国舅・女性の何仙姑が船に乗る「八仙渡海図」が信仰の対象となっている。日本では宝船に乗っているのは、恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七神である。恵比寿は平安末期の「伊呂波字類抄」が文献初出で、「大漁追福」の漁業の神であった。やがて時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神とされるようになった。七福神の中では、唯一日本由来の神である。ヒンドゥー教起原では、次の三神がいる。シヴァ神の化身と日本の大国主命が合体して大黒天となり、食物・財福を司る神とされるようになった。クベーラ神が毘沙門天で元戦いの神であったものが、仏教では福徳増進の神とされる。女神のサラスヴァティー神が、弁才天(弁財天)である。仏教では音楽・弁才・財福・知恵の、徳のある天女とされた。福禄寿は道教の神で南極星の化身で南極老人とされ、長寿と福禄をもたらす神で時に寿老人と同一神とされることもある。寿老人は、白鬚明神とされることもある。布袋は弥勒菩薩の化身あるいは実在した禅僧とも言われ、袋から財を出し与えてくれるといわれる。七福神は中国の「八仙」が変化したものだとする説の他、東山文化の隆盛期に墨画の「竹林七賢図」が持て囃されたことから竹林七賢を真似て7つの福の神を集め七福神としたものとする説などがある。文献によれば始め最澄が比叡山で台所の神として大黒を祀り、やがて日本の信仰の神である恵比寿との二神が信仰されるようになった。次いで平安時代以降になると鞍馬の毘沙門信仰から毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されるようになった。さらに平安末期から鎌倉初期の頃竹生島の弁天信仰が盛んになり、室町時代になると仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人などが伝来してきて、室町時代末頃近畿地方でそれらをまとめて七柱セットの神仏ができ上がったとされる。江戸時代にほぼ現在の顔ぶれに定まったものの、寿老人と福禄寿はともに南極老人の化身とされることから、寿老人の代わりに吉祥天・お多福・福助・稲荷神・猩猩・虚空蔵菩薩・宇賀神・達磨・ひょっとこ・楊貴妃・鍾馗・不動明王・愛染明王・白髭明神のどれかが入れられることがあった。全国には七福神を祀った多くの神社仏閣があり、招福萬來を祈願する七福神巡りなどが行われる。
2016年01月07日

ソフィア農園の柿を襲ったサルあけましておめでとうございます。今年は申年。申は猿に通じ、猿は馬の守護神とされています。陰陽五行説で馬は火、猿は水に相当し、猿は火災や病気から馬を守る。あるいは天馬と人との仲を猿がとりもち、馬が病気になると猿が治したといった中国の伝承に基づくとするなどが由来とされています。ただ人との関わりは、現在では作物を荒らす害獣として嫌われる面が多い。我が家の山荘の菜園には収穫時期になると猿の大集団が現れ、トウガラシ類を除いたほとんどの作物が根こそぎ被害に遭います。昨年も人参・長ネギ・ナス・枝豆・大根が全滅しました。野菜作りは年寄りのささやかな楽しみではありますが、今年はこれらの作物の栽培を諦めることにします。2012年10月12日から始めた「ひこじいさんのブログ」へのアクセス総数が、皆さまの応援のお蔭で昨年末に15万千回を超えました。今年も、できるだけアップできるよう頑張ってまいります。みなさまの訪問をお待ちします。
2016年01月01日
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