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日本人でも敬語を使いこなすことは難しいのだから、日本語学習者なら、尚更難しい。 まるで、新しい外国語を覚えるようなものだという。 3年生たちは、去年、2年生の後期に「敬語」の授業を受けている。 しかし、その難しさと、つまらなさに、教室に来る学生の数が次第に減っていったという。 後期は、その「敬語」を私の「会話」の授業で教えようと思っていた。 卒業した後で、敬語の知識は必ず必要になるからだ。 そして、昨日、学生たちに「敬語」を教えた。 問題は、どのように教えるかということ。 つまらないこと、難しいことを、楽しく、興味深く教えるというのが私のポリシー。 で、いろいろと秘策(というほどのものではないが)を練った。 授業ではまず、雑談を通じて、学生たちの語彙を増やした。 語彙を増やしながら、教室の雰囲気を温めていった。 この時点で笑いが漏れ、私の話に敏感に反応するようになっていた。 これはいつものこと。 「敬語」は会話の形で覚えるに限る。 ということで、社長と社員、社員と顧客というパターンの会話集を、自分で作っておいた。 それを学生に配った。 この会話集のミソは、敬語を使う部分を空欄にしていること。 その空欄を、学生たちに考えさせて(思い出させて)埋めさせ、二人組みで発表させた。 出てくる、出てくる、奇妙な敬語! 「おわかりしました」「どうなさいますでしょうか?」「そうでございましょう」 その度に、クラスが笑いに包まれる。 学生の間違いを訂正し、正しい敬語を教えるたびに、教室じゅうから 「ああっ! そうだ!」 という声、ため息、笑い声……。 忘れていたこと、思い出せないことを、思い出した時の「ああっ、そうだ」「そうか」は、 知識の定着を約束したサインともいえる。 思い出すことが喜びになり、知識が身についていく。 4つの会話集を終え、ある程度の敬語に慣れてきたら、今度はその実践。 学生たちに、こう提案した。 「じゃあ、今から全て敬語を使って話をしよう……いかがでございますか?」 充分に温まっている学生たちは、戸惑いを見せながらも、きっちり反応した。 そして、私との敬語による会話を楽しみ始めた。 私が何か言うと「承知いたしました」「かしこまりました」。 或いは「さようでございます」「いかがいたしましょうか」。 間違えたら直し、直したら、また言わせる。 間違えても、恥ずかしくないという雰囲気だったので、教室中がうるさいくらいになった。 その授業を終え、校内で学生に出会った時、彼女らはこう言った。 「どちらへお出かけでございますか?」「お気をつけ下さい」 なんだか、とても嬉しかった。
2008年02月29日
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jiaさんのリクエストにお応えして、WANG XIN選手の写真をアップします。 WANG XIN選手は中国の飛び込みチームの代表選手。 16歳(?)だが、世界大会では常に優勝か準優勝という実力者。 彼女といつも優勝を争っているのも中国人選手でCHEN ROULING選手。 二人飛び込みは、この両選手が組んで出場するので、いつもぶっちぎりの優勝です。 中国の飛び込みは20年ぐらい前から力をつけてきて、今や世界のトップクラス。 国内でもとても人気のあるスポーツです。 中でも断然の人気なのが郭晶晶選手ですが、いずれWANG XINがその座を奪うでしょう。 私は、そう信じています(笑)。 では、ご覧下さい、WANG XIN選手です。 彼女がこういう本を読んでいるというところがいいですね(笑)。 これまでオリンピックで、飛び込み競技にはあまり興味がなかったのですが、今年は違います。 テレビにかぶりついて、見ます。 早く始まれ、オリンピック!
2008年02月27日
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3年生の「作文」の教室に入って、まず驚いた。 学生の数が、前期より2倍以上に増えていたからだ。 実は、私が担当している「作文」と「会話」は選択科目。 人気がなければ学生は選択してくれないし、人気があれば学生がたくさん集まる。 学生が集まらず、授業がなくなった科目がある中で、多くの学生が選択してくれたことが嬉しい。 今日の作文の授業は、数学の問題を出すところから始めた。 例えばこういう問題。 1234567 - 999999 = 他には分数問題を2問。 作文の時間に数学の問題を出したのには、実は大きな理由がある。 右脳と左脳の働きを説明するためだ。 右脳と左脳は、それぞれ働きが違う。 それを説明しながら、日本人の特性について、例を挙げながら、解説した。 目的は、学生たちの「日本語らしい日本語」で文章を書きたいという要求に応えるため。 脳の働きを説明しながら、日本語らしさを例示していったのだ。 実は、これは去年から温めていたアイディア。 資料なども揃えて、いつか学生たちに話したいと思っていた。 こういう授業をしたからといって、すぐに作文がうまくなるわけではない。 だが、学生たちの日本人に対する興味は、一層かきたてられたようだ。 「作文」の授業で、数学の問題を出したり、脳の生理学を教えたり……。 そんな教師がいてもいいじゃないか、と思う。 また、プロの教師の方にお叱りのコメントを頂きそうだが……。
2008年02月26日
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冷凍餃子の影響で、中国への日本人旅行客が減っているのだという。 食べ物の安全が保証されない国に旅行をするのは危ないということらしい。 私はその中国で1年半、暮らしている。 以前、反日・抗日デモが起こった時も、旅行客が激減した。 当時、日本では、来る日も来る日も、デモの風景をニュースで流していたからだ。 だから日本人は、中国全土に反日の嵐が吹き荒れている、と思い込んだのだ。 とてつもなく広大な中国の、ほんの数ヶ所の出来事でしかなかったのに。 なんだか日本に帰るのがいやになってきたな。 日本に帰れば、きっといろんな人が質問してくるんだろうな。 「中国の食べ物は大丈夫なの?」 「体は何も問題がないの?」 それもみんな、最初から疑いを持った質問でさ。 そんな質問にいちいち答えるのも、面倒くさい。 でも一応、言っておこう。 私は中国に来てから、中華料理以外は食べたことがない。 しかし、食べ物によって体調を崩したことは一度もない。 むしろ、血液検査の結果は以前より良好な数値が出た。 中国ではたくさんの中国人と知り合ったが、日本人だからと蔑視されたことは一度もない。 むしろ、私が日本人だからこそ、大歓迎を受けたことは何度もある。 街の人たち、お店の人、タクシーの運転手、学生の家族、その親戚、列車で乗り合わせた人々。 私が日本人だと知ると、いろいろ話しかけてきて、会話の花が咲いた。 勿論、日本を嫌いな中国人はいると思う。 でも、それは中国を嫌いな日本人がいるのと、同じことだ。 相手が嫌うから、こっちももっと嫌ってやる、と互いにエスカレートしているみたいだ。 そんなことしても、何もいいことないのに。 いつも心を痛めているのは、日本に住んでいる中国人と、中国に住んでいる日本人だけ。 なんだか悲しい話だな。
2008年02月25日
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強風の一日から一転、今日は寒波の到来を思わす、真冬の一日へと逆戻り。昨日、こちらへ帰ってこられた先生に誘われて、昼ごはんは外で食事をした。外で食事というから、私はいつもの「破街(通称:おんぼろ街)」を想像した。だが、さすがに他の先生は、格が違う(?)タクシーで市内に出かけ、豪華な店構えのレストランへ連れていかれた。食べたのは、こんな料理。 まず、酒のつまみにピーナッツの炒め物。こちらではピーナッツを油で揚げたり、炒めたりして食べる。塩でさっと味付けすると、絶好のつまみになる。遼寧省の学生の家では、揚げピーナッツに砂糖をまぶして食べていた。 次に出てきたのが鶏肉の料理。一羽をぶつ切りにした鶏肉と、ジャガイモのでんぷんで作った麺の炒めもの。写真で見るより、実物はもっと大きな皿だった。鶏肉が柔らかくて、ホクホクした歯応え。味も辛すぎず、さして油っこくもなく、箸が進んだ。 野菜料理は、セロリときのこの炒め物。 スープはこれ。名前は忘れたけど、牛肉と春雨、凍み豆腐などが入っていて、味は酸辣味。寒い日に酸っぱくて辛いスープを飲むと、体が芯から温まる。最後に出てきたのが、これ。 中国名は「鍋貼(グォ・ティエ)」。日本の感覚では「焼き餃子」。鍋に貼り付けて焼いた餃子を、そのままひっくり返した形で出てきた。緑色は(多分)ほうれん草が練りこんであるから。以上にプラスして、ビールが3本。〆て145元(2000円ぐらい)。3人で食べたから一人当たり約50元(700円)程度。日本の感覚では、安い!だが、いつも大学近くの市場通り(破街)の食堂で食べている私にとっては、10回分の食費。高い!しかし50元を高い、と感じるなんて。やばい、金銭感覚が狂っている。日本に帰ったら、しばらく苦労するかも?
2008年02月24日
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強い風が吹きまくった1日だった。 その中を、学生たちが次々に学校に戻ってきた。 学生だけではなく、日本人の先生方も2人、帰ってこられた。 今、中国では重慶でサッカーの東アジア選手権が行なわれている。 今日は日本対韓国戦。 試合開始はこちらの時間で6時15分から。 というわけで、6時半からの夕食をキャンセルして、テレビの前で放送開始を待っていた。 待っていたが、始まったのは、「女子3メートル飛び込み」。 そりゃ、そうだろうな。 日本対韓国だから。 中国チームの試合じゃないし。 で、「飛び込み」をずっと見ちゃいました(爆)。 中国の飛び込みのレベルは、世界のトップクラス。 昨日、紹介したのは10メートルのWANG XIN選手。 もう一度、写真を載せちゃいます(笑)。 そのWANG XIN選手よりも、もっと人気があるのが郭晶晶(グォ・ジン・ジン)選手。 テレビのCM(東芝)にも出ているし、新年の特番ではパーソナリティも務めていた。 登場の時の拍手もダントツに大きい。 でも、写真はありません。 あまりタイプではないので(笑)。 今日、その郭選手に勝って優勝したのが呉敏霞(ウ・ミン・シャ)選手。 この2選手が、ほぼ完璧な演技で、他国の選手をぶっちぎっていた。 でも、私はやっぱりWANG XINだな(笑)。 ちなみに、サッカーはネットで、経過を追っていました。
2008年02月23日
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中国のテレビは意外なほど、チャンネル数が多い。 地方によって違うのだろうが、私の部屋のテレビは全部で30くらいのチャンネルが映る。 CCTV(中央電視台)だけでも12チャンネル。 他に河南省、新郷などの地元テレビ局があり、安徽、四川、広西、湖北など、地方局も入る。 ドラマやニュースも時々目にするが、よく見ているのはCCTV6とCCTV5。 CCTV6は映画専門チャンネルで、先日は「ターミネーター3(終結者3)」をやっていた。 台詞は英語のままで、画面の下に中国語の字幕が出ていた。 CCTV5は以前は「体育チャンネル」だったが、今年から「オリンピック・チャンネル」になった。 こちらはスポーツ専門チャンネル。 日本と違って、ローカル局がスポーツ中継をやることは、ほとんどない。 今日、チャンネルをサーフィンしていたら、こんな番組をやっていた。 ウルトラマンも新しいシリーズが次々に出てきて、もう覚えられない。 ジェズグさんならご存知だと思うけど。 CCTV5はスポーツ専門だが、日本とはさすがに好みが違う。 よく放送されるのは「バスケット・ボール」「バドミントン」「卓球」。 どれも日本ではほとんど放送されない競技ばかり。 その他には「ビリヤード」「バレーボール」「ボクシング」「重量挙げ」。 「サッカー」は週末にまとめてヨーロッパ・サッカーを見ることができる。 バレーボールは、日本チームを見る機会は全然ないが、中国チームの試合はよく見る。 セッターのウェイさんは、美人ではないが、ほのぼのとした雰囲気がいい。 ここ数日は、「飛び込み」中継も頻繁にやっている。 日本では人気がないが、中国のお家芸ともいえる競技で、人気も高い。 で、見つけた! WANG XIN選手です。 若い、というより、まだあどけない少女という感じ。 しかし、技術は他の国の選手よりも、圧倒的に優れている。 個人2位になった時のインタビューで、こんな受け答えがあった。 インタビュアー「応援してくれた方に何か一言を!」 WANG XIN「えっ! んーとぉ、それじゃあ……新年快楽!」 受けました! オリンピックの飛び込み競技を見る時は、注目してください。
2008年02月22日
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今日の最低気温は3度で、最高気温は13度。 陽射しが明るくて、日課の散歩をすると、すっかり汗ばむほど。 思えば1か月前は遼寧にいたのだった。 当時、最高気温がマイナス8度で、最低気温はマイナス20度だった。 氷点下の気温は、思ったほど、苦痛でもなく、日中はずっと外を歩いていた。 特に遼寧では家の中は暖かくて、外の寒さも忘れるほど。 だが、ある日の夜、ダウン・ジャケットを着ないで、外に出たら、やはり寒かった。 「寒い」という言葉を超えた「寒さ」だった。 歯の根が合わないほどガタガタし、体もおこりにかったように、震えた。 家の中に戻っても、震えは止まらなかった。 あの時に比べると、気温は30度以上も違う。 新学期から、新しくアメリカ人の英語教師が授業を担当する。 連絡のミスから、今年度は英語教師が一人少ないまま、スタートしていた。 そのしわ寄せがボブ先生にきていたようで、彼は毎日、とても忙しかった。 それも、新しい先生の赴任で解消されるだろう。 新しい先生は、とても若く、まるで映画スターのような格好良さ。 アジアに来るのは初めてだというが、あの若さで中国に単身やってくるというのが凄い。 きっと学生たちの人気を得るだろう。 話は変わるが、私のブログも昨日、40000hitを達成した。 このブログを始めた頃は40000hitなんて、夢のような数字だった。 開設した当初は、まだ中国には来ていなかったし、不安と期待の入り混じった毎日だった。 ブログのhit数が増えるに連れて、不安はなくなり、楽しい思い出が増えていった。 来年はどんなことを書いているだろう。 わからないから面白いのだろうな。 というわけで、記念すべき40000hit目の方を発表します。 残念ながら、証拠データは紛失してしまいましたが(笑)、 ご本人はきっとご存知だと思います。 40000hit目の訪問者は……! qianqian-cさん! あなたでした! 何か記念品を贈呈したいのですが、 もしこの先、ずっと中国にいらっしゃるなら、 そして、私がこの先も中国にいるなら、 そのチャンスもあると思います(笑)。
2008年02月21日
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最近、ずっといい天気。 旅行に行った時も、ずっと晴天続きだった。 今年は「晴れ男」伝説のスタートだな。 大学は来週の月曜日から、後期が始まる。 学生たちもだんだん学校に戻ってきた。 学生たちが帰ってきた、というのは、こういうところを見てもわかる。 学生たちの大半は寮で寝起きしている。 だから、戻ってきたらまず、布団干し。 毎日、午前と午後は1時間ずつ散歩をしている。 歩いてみると、学校の中も、随分と変わってきた。 これは化学学部の教室楼で、その向こうは数学学部の教室楼。 こんなの、1年前にはなかった。 大学の敷地もどんどん広がって、こんな校舎もできていた。 これも1年前には、影も形もなかった。 中国の大学は学生数が毎年、増えている。 この大学の日本語学部でいえば、8年前は隔年募集で、その数も20人だけ。 今は、毎年の募集で、今年の1年生は96人。 だから、学生を収容する寮も、新しく建てられた。 1部屋に住む人数は8人。 1棟に1500人ぐらい入室することができる。 それが、ずらっと建ち並んでいる。 こちらは家族楼。 この大学の教師や職員が、家族と一緒に住んでいる。 退職した後も、ずっとここで生活を続ける。 中国は人が多い。 大学の中だけを見ても、それはわかる。
2008年02月20日
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外事弁ではそろそろ、来年度(08~09年)の外国人教師招聘計画が話題になっている。 後期も来週の月曜から始まる。 学生たちも、3割ぐらいは学校に帰ってきた。 先日、ネットでこんなニュースを見つけた。 「給食費未払いの生徒の名前を、クラス全員の前で発表」 「○○君は、給食費を払っていません」 と、他のクラスメートの前で、教師が言ったというのである。 当の子供が、どういう気持ちになるか、ちょっとは考えないのだろうか。 そういう愚か者が「教育者」を名乗っていることが腹立たしい。 私が小学生の時のこと。 担任の教師(女)は、鉄棒の逆上がりができない生徒の名前を黒板に書いていた。 生徒の名前は、日一日と減っていった。 「あと、○○君と△△さんの二人だけね、どちらが先にできるかな」 そう言って、子供たちの心を傷つけ、持て遊んでいた。 最後まで名前が残ってしまった子供がどういう気持ちでいるのか、わからないのだろうか。 そのくせ、逆上がりの練習を手伝いもしない。 私は、その教師とはどうも折り合いが悪かった。 成績は良かったが、素直ではなかった。 そんな教師を相手に素直になることができなかった。 当然、その教師にとっては、扱いにくい生徒だったのだろう。 ある日、その教師が突然、こう言った。 「□□くん(私のこと)をクラスから追放する」 その教師は、私がした失敗を、理由もきかずに、責めた。 理由を言っても、「嘘に決まっている」と信じてくれなかった。 挙句が「クラス追放」宣言である。 勿論、幼い頃の私は、大いに傷ついた。 「なんで?」ずっと、そう思っていた。 でも、そのことは、家に帰っても、家族の誰にも言わなかった。 一番嫌だったのは、家庭訪問。 その教師は、学校での態度は打って変わって、私の父に、私のことを誉めていた。 その教師のことは、それ以後、絶対に信用できないと思った。 学生の心を傷つけるような人間に、「教師」などと名乗ってほしくない。 学生を好きな人だけが「教師」になってほしい。 ニュースを見ながら、心からそう思った。
2008年02月19日
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毎週の週末には、CCTV5で欧州サッカーが放送されている。 CCTV5はスポーツ専門チャンネルで、今年から「オリンピック・チャンネル」と改称された。 中国だから、当然、チーム名も漢字。 だから、時々、どこのチームが試合をやっているのかわからない時がある。 昨夜はオリバー・カーンが出ていたので、バイエルン・ミュンヘンの試合だとわかった。 見ているうちに、Jリーグの試合を見たくなった。 Jリーグの全試合を見て、自分で代表チームを編成できたらいいだろうな、と思った。 今、日本代表チームは中国の重慶で東アジア選手権を戦っている。 昨日は北朝鮮を相手に、ドローだったという。 引き分けという結果もさることながら、試合内容に見るべきものがなかったようだ。 代表チームのメンバーを見ても、「?」と首を傾げたくなるのが多いし。 監督が一度は、失格の烙印を押された岡田さんだし。 岡田監督の試合には、わくわく、どきどきということがない。 戦って、勝ってやる! という意気込みが感じられない。 試合後には、ネット上で「岡田監督更迭」論が飛び交っていた。 日本の試合では、相変わらず中国人サポーターからのブーイングがひどかったらしい。 これも、日本チームは強い、と認められているからこそ。 現在のような、弱い日本代表では、ブーイングする気も失せるのではないか。 それとは別に、外国のナショナル・チームを相手にブーイングをするとは。 そういう行為が、国際社会での中国に対する認識を損ねているということに気がつかない。 世界を知るということが、必要だな。
2008年02月18日
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昨夜はまた学生(1年生)の家に行ってご馳走になった。 冬休み以前から「私の家に来てください」と誘われていた。 彼女は地元、新郷在住の学生で、家は大学から歩いて5分ほどのところ。 「私の家は新郷で一番高い建物です」と彼女は説明した。 高層マンションの8階が、彼女の家だった。 中国に来てから、既に何人かの学生の家にお邪魔をした。 農村だったり、都会のマンションだったり、街中の普通の家だったり、と様々だが、 共通しているのは、家族仲がとても良いということ。 先日も書いたが、家族同士での会話が非常に多い。 息子と母親が一緒に餃子を作ったり、家族でテレビを見ながら、話をしたり。 食卓に話の花が咲く、といった感じ。 昨夜は、学校であったいろんなことを、両親がよく知っていることに驚いた。 日本語スピーチ大会のこと、クラスの友達のこと、餃子作りのこと……。 そして、私の授業についても、よく話題になっているという。 彼女が、毎日の出来事を、嬉しそうに家族に話している姿が目に浮かぶ。 そういう話を聞くと、ますます責任の重さを感じる。 昨夜も、そんな話をしながら、お父さんと酒を酌み交わした。 酒は嫌いだというお父さんが、昨夜は46度の白酒を取り出して、「さあ、飲もう」と言った。 娘が教わっている先生を迎えるのが、嬉しいのだそうだ。 結局、6時から9時まで、3時間も話し続けた。 私が携帯電話を買ったのが10月10日。 あれから4ヶ月余りが経過した。 この4ヶ月で、受け取ったメールの数は1727件。 私が送信したメールは1565通。 大半は中国語でのメール。 1年生の中には、日本語をローマ字化してメールをくれる学生もいる。 昨夜、私を招待してくれた学生も、その一人。 覚えた単語、文法を駆使して、それをローマ字に直して、メールを送ってくれる。 冬休みに遼寧省にいた時は、 「sensei o tanjoubi omedetou gozaimasu」 というメールが届いた。 昨夜、彼女が私を大学まで送ってくれた後、こんなメールが届いた。 「sensei jikan ga arimasu. mata watasi no ie ni ikimasu」 (先生、時間があります。また、私の家に行きます) 正しくは、「先生、時間があったら、また、私の家に来てください」 早速、添削のメールを返しておいた。 間違えた時、失敗した時が、進歩する最大のチャンス。 彼女のために、「~れば、~たら」「~てください」の例文を作って渡すことにした。 教師の仕事って、教室の中だけじゃないから。
2008年02月17日
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春節から1週間以上が過ぎて、学生たちも少しずつ学校に戻ってきた。 近くの市場通り(破街)も、何軒かは店を開けている。 後期が始まるまであと1週間余り。 旅から帰ってきてからは、もっぱら後期の授業の資料作りをしている。 いくつかアイディアがあるので、それを形にするという作業。 それ以外は、読書。 そして、午前と午後、それぞれ1時間ずつジョギングを交えた散歩。 部屋に戻ってくると、すっかり汗をかいている。 今、読んでいるのは「新・平家物語」(吉川英治) 吉川英治が7年を費やして書き上げたという作品だけあって、長い。 全集で全6巻。 文庫本に換算すれば18巻になる。 実を言うと、私がもっぱら読んでいたのは純文学とミステリー、海外翻訳小説。 1日に1冊のペースで読破していた頃もあった。 「歴史」もまた子供の頃から好きだった。 好きだったが、授業を面白いと思ったことは一度もない。 「歴史」に限らず、学校の授業に興味をそそられたことが、ない。 だから、いつも自習、独学へと走った。 中国語も日本語教師資格も、やはり独学で身につけた。 学校の授業が何故面白くないか? 覚えるだけだから、だ。 「なぜ、どうして」「それじゃ、もしかしたら」 教科書の記述を掘り下げたり、教科書から離れて、想像を広げる、ということが、ない。 生徒(学生)を歴史の世界にいざなうということが、私が教わった教師には、できなかった。 そういう発想がない。 そして、物事を面白く聞かせる話術もない。 「三世一身の法」「墾田永代私財法」の発布が、なぜ武家政権へと結びつくのか? これを、学生と問答をしながら、面白く解説すれば、学生はきっと興味を持つ。 だいたい、学生と問答をする教師って、私が教わった中には、いなかった。 話がずれた。 というわけで、歴史小説を読むと、断片的に記憶だけした知識が、しっかり結びつく。 「新・平家物語」を読んで、やっと「保元の乱」と「平治の乱」の原因がわかった。 「ああ、そうだったのか!」 という、発見の喜び、謎が解けた、物事を理解できた……という喜びがある。 学校で、授業が終わった後、そういう喜びって、一度もなかった。 でも……。 文庫本換算で18冊って。 「三国志」は全8巻で、読み終わった時、もっと読みたい! って思ったけど。 「新・平家物語」を読んでいると、海外翻訳ものも、読みたくなってくる。 後期が始まると、本を読む時間なんて、寝る前の1時間ぐらいになっちゃうし。 ああ、D・フランシスも読みたい。 F・マーゴリンもN・デミルも読みたい。 あれも読みたい、これも読みたい。
2008年02月16日
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昨日あたりから学生の数が少しずつ目につくようになった。 2月25日が後期の始まりだから、まだ10日間の休みがある。 しかし、25日近辺は、学生たちの一斉大移動で、交通機関は大混雑する。 去年は、その時期、学生と一緒に学校に帰ってきたのだった。 あれからもう1年が経つ。 今年の冬休みは遼寧省に10日間、河南省内で10日間、それぞれ旅をした。 学生の家に行き、家族たちと一緒に食事をし、酒を酌み交わし、大いに語った。 その時、奇しくも3組の家族が、それぞれ別々に私に同じ質問をした。 どういう質問かというと、 「日本人は食事をする時、箸を使うのか?」 という質問。 日本の総理大臣の名前は知っていても、箸を使って食事をするかどうか、知らない。 こんな質問もあった。 「日本の春節はどうやって過ごすの?」 中国だけではない。 日本人も、中国のことは実は知らない。 ある日本人は、日本に来ている中国人にこんな質問をした。 「中国にアイスクリームはあるの?」 ある日本人の教師は、中国での赴任にあたって、ありとあらゆるものを日本から送った。 歯ブラシ、ホッチキス、ボールペン、靴下、シャンプー、石鹸、お茶、傘、ノート……。 中国は今や、世界の工場だ。 だから何でもある。 しかし、中国にはものがないと思い込んでいる日本人は、多い。 私はこの大学に赴任する以前に、中国には7回来たことがあった。 個人的な観光旅行は1度だけで、あとは仕事、或いは友好訪中団の随行記者として。 7回も来たのだから、自分ではいっぱしの中国通だと思い込んでいた。 だが、それは単なる思い込みにしか過ぎなかった。 仕事相手として、或いは訪中団として、大歓迎を受け、豪華な食事をご馳走になる。 車を用意してもらい、観光地を案内してもらう。 ホテルに泊まり、優雅にバイキング朝食を食べる。 そういうことを何度、繰り返しても、中国を知ったことにはならない。 それは中国での普通の生活ではないからだ。 日本で中華料理といえば「麻婆豆腐」「回鍋肉」「チンジャオロース」などを想像する。 だが、学生の家(たいていは農村)で食べた食事にそういうものは一つもない。 主食でさえ、広大な中国では地域によって、食べるものが違う。 米を食べる地域もあれば、小麦、麺を食べるところもある。 都会と農村とでは、まったく違う。 同じ国かと思うほど、別の世界である。 学生たちと話をしていると、よくこういう話題になる。 「日本の若者は普段どういう生活をしているのか?」 源氏物語は知っていても、そういうことは知らない。 中国人も、日本人も、お互いのことを知らない。 日中友好などと、誰もが口では簡単に言う。 だが、友好訪問団を何度派遣しても、 政府首脳が握手をしても、 果たしてそれが日中友好なのか、といえば、ちょっと違うような気がする。 私でさえ、ほんの数回、農村の生活を体験しただけにすぎない。 そして、そういう私のような存在は、ごく少数でしかない。 ほとんどの人は、マスコミを通じてでしか、相手の国を知らず、 庶民同士の交流によって、相手の国を知ることはない。 そして、誰もが、自分が「知らない」ということに、気がついていない。 知らないにもかかわらず、中国を蔑視している日本人は多い。 団体旅行は自分を写真家にし、 旅は自分を哲学者にする。
2008年02月15日
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今日は、そうかバレンタイン・デイか。 すっかり忘れていたが、学生からのメールで思い出した。 春節から1週間、そろそろ里帰りしていた人たちが仕事場に戻る時期。 駅前に人が溢れて、身動きできなくなる光景が見られる頃。 これも中国の、この季節の風物詩。 さて、旅行記の続き。 犬鍋を食べた、次の朝は、学生の家族と一緒に登山をした。 目指したのは、車で1時間半のところにある天台山。 天台山というだけあって、中国の天台宗の修験場なのだそうだ。 日本で最澄が興した天台宗と、どう関係があるのかはわからない。 そういう質問をする語学力は私にはないし、答えられる人もいない。 今年の冬は中南部に大雪が降り、天台山にもその名残がたっぷりあった。 おまけに最低気温がマイナス10度くらいだったから、雪がカチコチの氷になっていた。 その山を、白い息を吐きながら、ずっと登っていった。 修験場だけあって、勾配は急で、気を緩めると滑り落ちそうなほど。 写っているのは、学生のおじさんの息子。 それでも登ると、この絶景。 いにしえの昔には、こういう山を越えて、曹操や劉備の軍が進軍していたのだろうな。 山の向こうには、諸葛孔明が住んでいた襄陽がある。 山の中には、誰が作ったのか、あんなところに、こんなものが。 そして、目指したのは山頂に見える、あの地点。 その場に立つと、こんなうら寂れたお寺。 山から下りると、今度はおじいさんの家へ。 昔ながらの農家といった風情で、レンガと木でできていて、下は土。 家の中を温めているのは、この囲炉裏。 この囲炉裏の火を使って、食事は鍋料理。 具は羊の肉と、自分で栽培した野菜。 これはおいしかった。 どこに行って、何を食べても、いつもおいしいと思った。 歓迎の気持ちを、心を込めて作ってくれる料理が、おいしくないはずがない。 料理を作る台所はここ。 電気やガスではなく、燃料は薪。 家の外には肉が。 気温が低くて、空気が乾燥しているので、すっかりハムになっている。 こういう農村の生活を「不便だ」の一言で片付けることは簡単だ。 中には、中国は遅れている、と嘲る日本人もいるかもしれない。 しかし、その農村の生活で目に付くのは、今の日本では見られなくなったことばかり。 貴重な水を、私が起きる前に湯を沸かして、洗面用に出しておいてくれたり、 親子が一緒に、なにやら話をしながら餃子を作ったり、 夜は家族そろってテレビを見て、お互いのことを話し合う。 家族同士の中の良さ、会話の多さ、 これは本当に感心するほど。 そして、見慣れぬ客人に対しても、大歓迎をしてくれる。 そして、家族の一員のように仲間に入れてくれる。 何事も便利で手軽な日本の生活と、中国のこういった農村の生活と、 どちらがいいか、と訊ねられても、答えるのは難しい。 日中友好など、そんな大層な役目を負うつもりはないし、負えない。 だが、中国人と一緒に食べて、酒を酌み交わし、たくさん話をして、笑い合うことはできる。 そうやって肩を組んでいる時に、日本だ中国だ、という感覚はない。 あるのは、同じ人間だ……その感じだけ。
2008年02月14日
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一人旅の良さは、自分の思い通りにできること。 どこに行こうが、何を食べようが、何をしようが、すべて自分で決めることができる。 その分、他の人には頼れず、何もかも自分でやるしかない。 だから、旅から帰ってくるたびに、成長している自分に気づく。 そして、そのたびに次の一人旅の時の不安がなくなっていく。 というわけで、許昌を後にして、一路、信陽へ。 信陽は河南省最南部の都市で、湖北省との境をなしている。 湖北省には劉備軍と孫権軍が、曹操の大軍を破った赤壁の戦いの地がある。 また劉備が諸葛孔明を三度訪ねた古隆中などの名所がある。 この一帯はまさに歴史の宝庫といえる。 信陽までは、許昌から約2時間。 学生の家は、その信陽から更にバスで2時間余りの新県というところにある。 新県からは多くの若者が国外に労働者として派遣されている。 私は以前、日本に働きにきた労働者(研修生という)の世話をしていたことがある。 日本語を教え、日記を添削し、教科書や問題集も自分で作って、研修生たちに渡していた。 その研修生たちの多くが、この新県の出身者だった。 だから街並は、近隣の町と比べて、新しく、そして大きい。 研修生たちが外貨をたくさん稼いでくるからだ。 ホテルもたくさん建ち並び、行政施設も集まっている。 人口は30万人ぐらい。 学生の家はこういう街のマンションにある。 マンションといっても、1階から3階までが自分の家。 階ごとに部屋がいくつもあり、また階ごとにトイレやシャワー室が完備されている。 農村生活ばかり体験してきた身には、まるで別世界の趣きがある。 家にたどり着いたのが夕方の6時頃。 晩ご飯は、お母さんが私のために豪華な食事を用意してくれた。 おいしそうな鍋である。 中には肉がごろごろと入っており、ぐつぐつと煮えたぎっている。 おいしそうでしょ。 実はこれ、 犬の肉。 犬を食べたいと思ったことはない。 でも、まあ、いつかは食べる時が来るのだろうな、とは思っていた。 そして、料理として出てくれば、きっと食べるだろうとも思っていた。 で、食べた。 さすがに(?)、犬だけあって、肉は歯応えがあって、脂身も少ない。 家族の人たちが「食べなさい」「遠慮しないで」「さあ、どんどん」と言ってくれたので、 食べた。 たくさん食べた。 食べながら、その日はワインを飲んだ。 犬の肉を食べて、ワインを飲み、タバコを1本だけ吸って、たくさん話をした。 ワインは私ともう一人(学生のおじさん)とで1本空けた。 旅というのは、何もかもありのままに受け入れればいいのだと思う。 遠慮せず、かといって無理もせず、自然体で雰囲気に溶け込む。 私は決して社交的でもないし、人付き合いが上手というわけでもない。 一人で一日中、本を読んでいても、それが苦痛ではない。 だが、中国では、会う人、会う人、誰もが私を社交的にしてくれる。 犬の肉も、羊の眼も、それが料理であれば、まず食べてみればいいと思う。 食べてみて、おいしくなければ、そう言って、後は食べなければいい。 そして、そういう料理は、ほぼ例外なくおいしい。 というか、おいしいからこそ、名物料理になっている。 というわけで、犬鍋以外に、羊肉の鍋、その他5皿くらいのご馳走が出た晩ご飯だった。 すっかり、ご馳走になり、その日は就寝。 翌日、冬山登山へと出かけたのだった。
2008年02月13日
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許昌、信陽の旅から、昨夜、無事帰宅。 信陽で切符を買う時は、長い行列に並んで、窓口に着くまでに3時間。 春節で家に帰った人たちが、再び仕事先に戻るための切符販売が始まったから。 こういうのも、中国ならでは。 何事も経験だから、日本でできないことは体験したほうがいい。 私は旅に出る時は、いつもそんな気持ちでいる。 初めの訪問地は「許昌」。 中国の汽車は、車内アナウンスがない(あっても、車内が賑やかで聞こえない)。 だから次がどこの駅か、或いはどこの駅に到着したか、わからない。 この時も、あやうく乗り過ごしそうになった。 三国志で曹操が長安(西安)から帝を連れてきて、都を置いた地が、ここ許昌。 しかし1800年も前のことなので、建物などの遺跡は残っていない。 で、とりあえず「春秋楼」へ。 春秋楼は関羽が春秋(中国の兵書)を読んだところ。 だから、中にはこんな絵がある。 これは関羽が曹操のもとを去っていくところ。 曹操はかねてから関羽に、自分の配下になるよう勧めていたのだが、関羽は劉備との信義を重んじて、曹操の申し出に最後まで首を縦に振らなかった。 この信義に厚いところが、後に関羽が商売の神様と崇められるようになった所以。 連日、最低気温はマイナス6度ぐらい。 池の水もすっかり凍っている。 許昌は都会だから、古い遺跡を探すことは難しい。 それでも、街を歩いていると、突然、こんなものを目にする。 近づいてみると、博物館。 この塔をシンボルにして、そこに博物館を作っている。 中には「三国回廊」があって、こんな絵がたくさん飾ってある。 劉備と関羽、張飛の3人が諸葛孔明の宅を訪ねた場面。 いつも留守なので、結局、3度足を運び、やっと孔明を軍師に迎えることができた。 この故事が現在では「三顧の礼」という言葉として残っている。 これは孔明が敵の大軍に攻められた時、城壁の上で琴を弾いた場面。 敵は、孔明が悠々と琴を弾いていることを訝り、何かの策略かと、攻撃をやめてしまう。 これも三国志の有名な場面。 旅のメインは観光ではなく、学生の家を訪ねて、家族と交流を深めること。 そして中国の普通の人たちがどんな生活をしているかをつぶさに見ること。 それを自分でも体験すること。 学生の家は許昌からバスで1時間の禹州というところ。 ここで新年(春節)を迎えた。 新年は学生のおじいさんの家へ。 新年ということで、おじいさんの息子たちの家族が、各地から集まっていた。 そこに仲間入りさせてもらった。 おじいさんの家は、禹州郊外の農村。 同じ農村でも家の形はいろいろあるが、ここは門もなく、レンガによる平屋建て。 天気のいい日だったので、女性たちは台所で食事を作り、男性たちは外でトランプを。 中国の人たちは、トランプ好きな人が多く、こういう光景をよく見かける。 食事も外にテーブルを出して、太陽の下で。 ほとんどの野菜は自分の畑で育てたもの。 農村に行くと、どの家でも、自分の家で育てた野菜(時には鶏や豚)を食べさせてくれる。 酒を飲み、食事を満喫し、たくさん話をした。 話をすればするほど、座は盛り上がり、酒のピッチも進む。 日本人は私一人だが、やがてそれも感じなくなる。 一人旅のいいところはこういうところ。 日本人と一緒に「旅行」をすると(「旅」をする、とは言わない)、こういう感じはない。 いつも日本人同士で日本語を話し、観光地を訪ねて、記念写真を撮って終わり。 中国人の心の温かさに触れることも、中国の普通の生活を満喫することもない。 その分、一人旅は不安が大きい。 何より、言葉が通じないというのは、本当に不安なことだ。 移動の際に切符を買う時でさえ、目的地の発音を間違えると通じない。 ただ、不安の大きさを補って余りある楽しさを掴むことができる。 許昌に2泊、禹州に2泊して、次の訪問地である信陽へ。 そして、この信陽で、予期せぬ出来事が起こったのだった。 それはまた明日。
2008年02月12日
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夕方の列車で許昌へ行く。 許昌は三国志の雄・曹操が都を置いた地。 許昌へ行く目的の一つは、当時の面影を訪ねること。 もう一つの目的は、中国の普通の家庭で年越しをすること。 今年は2月7日は旧正月(春節)にあたる。 去年の春節は大学の、自分の宿舎で迎えた。 1週間ばかり四川省に旅行し、春節の前日に大学に帰ってきたのだった。 だから、中国の家庭で年を越すのは今年が初めて。 許昌へ行った後は、どうするかまだ決めていない。 もっと南へ下って、他の学生の家に行く予定にはしているが、これも天候しだい。 今年は北部では雪が降らないが、中部や南部では大雪という変な天気。 だから、天気さえ良くて、道路が開通しているなら南へ足を伸ばすかもしれない。 旅行に行く時に欠かせないものは、本。 今回は3冊だけ持って行くことにした。 かばんに本だけ詰め込んで、という感じ。 読むべき本があって、列車の窓の外に広々とした景色が広がり、聞きなれない言葉を聞く。 旅をする幸せって、これだな。 というわけで行ってきます。
2008年02月05日
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中国製の冷凍餃子の安全性が日本で大きな問題になっているという。 なんだかなあ、と思う。 「中国製の」ではなく、「中国の○○会社の」というのが正しい。 「中国製の」と言ってしまえば、「中国で作られた全ての冷凍餃子」という意味になる。 少なくとも、多くの人はそういう意味に受け取る。 では、中国で作られた全ての冷凍餃子が危険なのかといえば、そんなことはない。 当たり前のことだ。 当たり前のことだが、日本人はその当たり前のことがわかっていない。 一人の政治家が汚職事件を起こすと、 政治家は汚職をするものだ、と短絡に決め付ける人がいる。 真面目に政治活動をしている政治家がいても、そういう政治家のことは目に入らない。 少年が何か事件を起こすと、 最近の子供は怖い、と言い切ってしまう人がいる。 愛らしく、正直な子供がいても、そういう子まで怖いと決め付けてしまう。 何かのはずみで犯罪を犯してしまえば、 その人の善行には目も留めず、犯した犯罪だけを責める人がいる。 何年か前、中国での反日・抗日デモが毎日のニュースで取り上げられたことがあった。 大使館に投石があった。 日本レストランのガラスが割られた。 日本の国旗が焼かれた。 そんなニュースが、毎日毎日、繰り返し放送された。 そういう反日の風が吹き荒れたことは確かに事実には違いない。 しかし、私もその当時、中国にいたが、反日の雰囲気を感じたことがなかった。 出会う人、誰もが友好的で、我々を大歓迎してくれた。 上海でデモがあったよ、という電話を上海の友達から聞いて、へえと思っていた。 反日・抗日運動は、中国の大都市の中のほんの一部での出来事にしか過ぎなかったからだ。 マスコミとはそういうものだ。 物事の一面だけしか取り上げない。 そして視聴者は、それを深く考えず、単純に受け取る。 そうやって世論が作られていく。 残念なことだと思う。 そういうマスコミがある限り、 そしてマスコミの言うことを何の疑問もなく信じる人たちがいる限り、 日中友好なんて、夢のまた夢だろうな。
2008年02月04日
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クラスにL君という学生がいる。 外国語学部には男子学生が少ない。 男女比は1対5ぐらいである。 しかも彼は遼寧出身。 遼寧出身者の枠は1学年に5人でしかない。 見るからに腕白そうで、言葉使いもはすっぱなところがある。 クラス中の人気者で、行事があると進んで参加する積極性と社交性を兼ね備えている。 しかし、ナイーブな一面を持っていて、故郷を懐かしむことがよくあるという。 写真は学内での1年生交歓会。 右端がL君。 冬休みに遼寧に行く予定をたてた時、私はメールで彼の都合を尋ねてみた。 すると、すぐに私の部屋に飛んできて、 「先生、俺の家に来るの?」 「来るのはいいけど、うちは農村だから、家はおんぼろ(破)で、きれいじゃない」 「食べるものも、農村の料理だけど」 と慌てたように言うのだった。 彼の家に行くことが決まると、今度はあれこれと世話を焼いてくれた。 朝陽や瀋陽にいた時にも、「今、どこ? 元気?」と何度もメールがきた。 その後も「切符は買った?」「今、列車の中?」「何時に着く?」と心配をしてくれた。 私が彼の家に行くことで、彼も興奮していたのだと思う。 彼の家にお世話になったのは28日と29日。 28日の夜は、仕事が忙しいはずのお父さんも、早めに家に帰ってきた。 そして、好きではないというお酒をテーブルに出して、「一緒に飲もう」と言ってくれた。 飲むほどにお父さんが酔っていくのがよくわかった。 私と一緒に飲むのが嬉しいのだという。 L君が河南に行くと決めた時、どう思ったかと尋ねたら、 「そりゃ、やっぱり寂しい気持ちがあったよ」 としんみりとした答が返ってきた。 早々に酔い潰れたお父さんは9時にはもう布団に入った。 そして、翌日の朝6時過ぎに起きて出勤していった。 夜、トイレに行くために外に出てみると、空には満天の星が輝いていた。 日本で眺めていた星座と同じだった。 当たり前のことだが、なんだかとても嬉しかった。 中国だ、日本だなんて、垣根を作らなくても、同じ空の下にあるじゃないか。 29日はちょうど私の誕生日だったので、そのお祝いもしてくれた。 中国全土がそうなのかどうか知らないが、誕生日にはタマゴを食べるのだという。 起きたら、すでにたくさんのゆで卵ができあがっていた。 無論、自分の家で飼っている鶏のタマゴだ。 そして、誕生日の食事ということで餃子も作ってくれた。 親子で話をしながら、餃子を作る。 具はニラと豚肉。 強い火力で茹でて、 テーブルに並ぶ。 見た目は武骨な餃子だが、味は一級品だった。 餃子は主食だから、この他におかずが5皿くらい出てきた。 ここは中国の農村。 話をしているのは、つい半年前まで見ず知らずだった人。 その家庭に行き、誕生日を祝ってもらえる。 こんなこと、考えたこともなかった。 冬の農村は、何もすることがない。 することがないから、ずっと話をしていた。 L君はまだ1年生で、しかも日本語での会話は苦手ときている。 だから中国語で話をした。 家族の人の方言や訛りが聞き取れない時は、L君が普通語に通訳してくれた。 夜は二人並んで布団に入り、長い時間、話をしていた。 彼の家では、こんな経験もした。 ホーム・カラオケ。 当初、農村の生活や住居に引け目を感じているように見えたL君は、やがてこう言うようになった。 「先生、これが農村だから、気にすんなよ」 そして、こうも言ってくれた。 「先生、また必ず来てね。大歓迎するから!」
2008年02月03日
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遼寧から帰って2日目。 今日の新郷の最高気温は0度。 曇っているが、暖かい。 遼寧省の瀋陽では最低気温がマイナス18度、最高気温がマイナス6度だった。 風がない時はいいのだが、ひとたび風が吹くと、白い息が砕けて舞った。 瀋陽は遼寧省の省都で人口は700万人。 ヌルハチが女真族を統一して、ここに都を置いた。 その後、北京に遷都して、国号を「清」と改める。 「清」の時代にはここに奉天府が置かれた。 日本人にはこの「奉天」という地名の方が身近に感じられる。 司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、秋山好古が死の間際に言い残した言葉が、 「奉天へ」 だった。 瀋陽の見所の一つは「故宮」。 これが故宮への入口。 故宮は清朝初期の王宮で、清の太祖ヌルハチと第2代皇帝ホンタイジが暮らしたところ。 以下は故宮の写真。 屋根の上にはちゃんと「龍」がいる。 北京の故宮の屋根はすべて黄色い瓦だが、ここ瀋陽の故宮は黄色と緑の2色。 その理由は、ヌルハチが、自分の育った草原の色を建物に取り入れたかったからだそうだ。 (どこかの団体客のガイドさんがそう説明していた) 柱の上にも龍が。 ▲大政殿。柱に龍がとぐろを巻いている。 女真族の民族衣装を着て記念写真を撮っている人たち。 もう一箇所訪れたのが「昭陵(北陵)」。 陵とは墓のこと。 墓は大きさによって、陵、林、塚と名前が変わる。 西安にある始皇帝の墓は「始皇帝陵」で、洛陽にある関羽の墓は「関林」。 曲阜の孔子の墓も「孔林」だった。 昭陵は清朝2代皇帝であるホンタイジの墓。 「陵」というだけあって、広い。 まずは銅像の前で記念写真。 ずっと向こうに見えるのが入口。 上の写真に写っている門から、更に歩いたところにある門。 とにかく広い。 故宮では何組かいた団体ツアー客も、ここにはいない。 歩いている人もまれで、実にゆったりとしたもの。 むしろヌルハチの墓である「福陵」の方が観光客は多かったかもしれない。 こちらに来たのは、場所がわかりやすかったという理由から。 学生が言うには、高校生の時には、ボランティアでこの敷地内の草取りをしたという。 瀋陽ではこの他に「日本総領事館」も見に行った。 かつて脱北者親子が駆け込み、そこを警備員に捕まって、騒動になったところ。 写真を撮ろうとしたら、怒られたので、写真はない。 瀋陽には2日半いた。 そして、次は大連にほど近い瓦房店市へ。 そこでも、また得がたい体験をしたのだが、それはまた次回。
2008年02月02日
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帰ってきました。 遼寧省10日間の旅。 終わってみればあっという間。 珍しい経験や温かい人情、歴史的な名所などを巡った旅だった。 最初に訪れたのは遼寧の省都である瀋陽(中国語では「沈陽」)。 瀋陽はかつてヌルハチが都を置いたところで、その後北京に遷都し、国号を「清」と改めた。 人口は約700万人で、東北地方でも最大級の都市。 瀋陽に着くとすぐに、そこから高速バスで4時間の朝陽市へ。 そして、更に普通のバスで1時間かけて学生の家へ。 遼寧省の農村はこんな風景。 まさに荒涼原野風ありて(西村寿行の「荒涼山河風ありて」のもじり)という感じ。 見渡すばかりの畑、畑、畑。 それ以外には、四方のどこにも何もない。 家の門をくぐると、こんな出迎え。 積んであるのはとうもろこしを収穫した後の茎。 これが煮炊きの燃料になる。 家の中にはこういう一角がある。 この上で食事をしたり、寝転んだり、或いは睡眠を取ったりする。 日本の座敷と同じ感覚。 この座敷の下を暖かい空気が流れている。 戸外は最低気温が氷点下20度近くになるが、家の中は暖かくて息も白くならない。 おかげで滞在中は寒さを感じることなく過ごすことができた。 家の外でも、雪はまったくなく、明るい陽射しが注いでいた。 この時、中国の中部と南部では雪が、それもかなりの豪雪が降ったという。 だが、本来、雪が積もっているはずの東北では、毎日いい天気が続いていた。 夜は、学生とその家族と一緒に雑魚寝をした。 部屋の隣には台所があり、煮炊きに使った暖気が家の中を巡るようになっている。 この家では、学生とそのお母さんと一緒に餃子を作った。 白い小麦粉が、こねるごとに一つの塊になっていく。 それを伸ばして、皮を作り、具を包む。 作る工程を見るたびに、いつもある種の感慨を持つ。 餃子はまさに中国の文化だ。 古く、米が取れなかった北部では、小麦粉が主食だったという。 小麦粉をこねて饅頭(具のない肉まん)を作ったり、麺にしたりする。 だから、餃子はおかずではなく主食。 私は皮を作るのは苦手なので、専ら包むだけ。 農村の生活と都会の生活とでは、まったく違う。 水道がないから、水は本当に貴重品。 それを料理や洗面などに、大事に大事に使う。 刈り取ったとうもろこしの茎を煮炊きや暖房に使う。 夏は収穫のために朝4時から仕事をし、昼休憩もないという。 だが、冬の間は時間がのんびりと流れ、あくせくすることもない。 日本では、或いは中国の都市部では四六時中何かをして、周囲に必ず何かがある。 そういう生活に慣れてしまえば、農村の生活には不便さを感じることもあるのだろう。 だが、生活は「便利」か「不便」かだけで決め付けるものではないのだろうな。 家族と雑魚寝し、鶏の鳴き声で目を覚まし、畑の中を散歩しながら、いろいろなことを考えた。 遼寧の旅、初めの3日間はこうやって過ぎていったのだった。
2008年02月01日
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