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先週の火曜日、我が大学へ日本からの訪問団がやって来た。 はるばるやって来られたのは三重県の『松尾芭蕉俳句記念館』のご一行。 一昨年、その記念館が『中国人俳句コンテスト』を実施したところ、 うちの大学から多数の応募があり、それ以来、去年、今年と交流が続いている。 今回の訪問は、去年のコンテストの表彰式と、学生との交流会の開催が主な目的。 去年のコンテストで優秀賞を獲得した作品は次の通り。 「頭撫で 春風母の 手のごとし」 「出稼ぎに 発つ父母(ちちはは)に 花吹雪」 「クローバー 友と一緒に 摘みしこと」 この大学では3年生から古典の授業が始まる。 古典の文法を勉強することによって、俳句で使う語彙や文法が格段に増える。 上記の優秀作は、それぞれ母親や両親、或いは友達との深い愛を感じさせてくれる。 最優秀賞に選ばれたのは、彼のこの作品。 「泥運び どんどん造る 燕の巣」 素朴な中に生命の躍動感と自然の輝きが感じられる作品。 彼自身はこの作品より、他の応募作品のほうに自信があったようだが、 ともあれ、全中国で第2位の評価を得た。 他にも佳作に選ばれた学生はこんなにたくさんいる。 その後、学生側からは、歓迎の歌の披露(四季の歌)があり、 最後に、俳句訪中団の皆さんと学生たちの交流会へと移っていった。 この会には2年生もたくさん出席していたが、 その2年生たちは、まだ「俳句」について何も知らない。 それでも上級生を見ているうちに、大いに興味をそそられたらしく、 この頃、「先生、俳句を教えてください」というリクエストが多くなった。 というわけで、来週の「作文」の授業は『俳句』について教えることにした。 まずは、堅苦しいことは抜きにして、五七五による言葉遊びから始め、 賑やかな雰囲気の中で、学生同士で創作しあいながら、 俳句に対する興味を深めるような授業にしようと思っている。 「中国人俳句コンテスト」で、この大学からの応募が多いことから、 今回は、『松尾芭蕉俳句記念館』と我が校との友好提携も調印された。 この大学が、中国で最も俳句の創作が盛んな学校になるのも夢ではないかもしれない。
2008年10月31日
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先週から今週にかけて、いろいろなイベントがあった。 日本から「俳句」の交流のために、10人近い訪中団がやってきたり、 学生たちの自主イベントもあった。 そんなことを書こうと思っていたのだが、その気がすっかり失せた。 私のブログにはいろいろな方が書き込みをしてくださっている。 それはとても嬉しいことで、読みながら勇気づけられたり、考えさせられたりしている。 だが、以前から、どこの誰かは分からないある個人からの、 悪意に満ちた書き込みが続いている。 昨日も、また、来た。 曰く、学生と頻繁に交流をしている私は「独善」的で「自己英雄化」なのだそうだ。 学生が私と会話をするのは、「娯楽が少なくて暇しているから」だそうで、 学生が私を会話の相手として選ぶのも、「おしゃべり好きな日本人というだけ」 「暇つぶしを兼ねて」と「物珍しさに引かれて」なのだという。 私に対してはともかく、学生の向上心に対して、あまりにも失礼すぎる言い方だ。 そして、私以外の日本語教師は「体制派」で、私は「反体制派」らしい。 そして、そんな私のブログを読むと「吐き気を催す」とも書いていらっしゃる。 学生が話をしたいから、その相手になっているだけで、 私は「体制派」「反体制派」などとは考えたことはない。 それに、学生と親しく交流をすることが「反体制派」だとも思わない。 日本語を学ぶ学生の身近に、日本人の私がいるのだから、 会話の練習相手になってあげたり、日本人を身近に感じてもらったりすれば、 私も嬉しい、というそれだけのことだ。 今、日本語を勉強している中国人学生は多い。 そして、その数は年々、増えている。 覚えた日本語を使って、日本人と話をしたいとい気持ちは当たり前のことだと思うし、 学生たちの知識欲や向上心は、日本人が想像できないほど強い。 だが、会話の相手になる日本人の数が、特に内陸部では少ない。 学生たちが日本人教師の部屋を訪ねて、会話の練習をするのも、 「物珍しさ」や「暇つぶし」では決してない、と私は信じている。 たとえ、暇つぶしであっても、日本人と話すことによって、何かを得ることができるなら、 それは無駄ではないと思うし、 学生の会話の相手をしている私を「自己英雄化」しているわけでもない。 私の考えとの相違を指摘するコメントに対して、どうこう思うわけではないが、 その方のコメントは目を覆いたくなるほど、ひどい。 毎回、「なんでここまで言われなきゃならないんだ」と思っている。 「恥知らず」と書かれたこともある。 発信元を見ると、中国国内からの書き込みで、 なんだか、いつも背後から付け狙われているような感じを受けている。 その後は、日記を更新するたびに、また何か罵倒されるのでないか、 といつも不安に思いながら、折々のことを書いていた。 家族と離れて異国で暮らしている私にとっては、 このブログは家族への国際電話の代わりとしての近況報告として始めたものだった。 その後、多くの人とブログを通じて知り合うことができ、 そのたびに嬉しさや感動をいただいてきた。 そういう方々には本当に感謝している。 しかし「吐き気を催す」とまで書かれて、日記を更新する気は、もうなくなった。
2008年10月29日
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内容盛りだくさんの週末が終わった。 土曜も日曜も朝8時に学生が来て、その後は途切れることなく、夜11時まで いつも傍に学生がいた。 これまでと違うのは、今週は新しい学生がとても多かったこと。 去年、T先生のクラスだった1年生(現2年生)が頻繁に部屋に来るようになった。 これが大きな変化。 そして、もう一つは日本語学部以外の学生と話す機会が多くなった。 大半は学校の中を散歩している時に知り合って、 その時に日本語を教えたことがきっかけで、私の授業に来るようになった。 すべて第2外国語で、「日本語」を選んだ他学部の学生たち。 もう一つは、以前紹介した『桜花日本語交流協会』の活動を通じて知り合った学生たち。 日本語に興味を持っている他学部の学生たちに、日本語と日本文化を教えようという、 目的で結成されたこのクラブには、全クラブ中で最高の200人が入会し、 その授業が今週から始まった。 教師役は日本語学部の4年生(つまり去年の私の教え子)。 それぞれ教え方は違うけれど、共通しているのは、教室の雰囲気が明るいこと。 初めての授業だから、教える側も教わる側も、緊張感はあるのだろうが、 それでもみんなの顔に笑顔が浮かんでいる。 ちょっと口幅ったいが、 何だか、私の授業の遺伝子を受け継いでいてくれるような感じがあって、私も嬉しかった。 私も3つのクラス、すべてに顔を出して、賑やかな雰囲気作りに一役買った。 大半の学生は、初めて見る日本人が、私だったという。 というわけで、大サービスして、爆笑の中で日本語を教えた。 私が何かできることで、学生たちが日本と日本人に興味を持ってくれれば、言うことはない。 ただ、私以外にそういう活動に参加する日本人教師はいない。 「それは大学としての活動なのか?」「参加することは義務なのか?」 「参加しなかったらペナルティは?」「授業の準備が忙しいから」 そんな理屈を忘れれば、学生が寄ってくるのに。 というわけで、学生たちとの楽しい付き合いを、 私、独占させていただいちゃおうかな……(笑)。。
2008年10月26日
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今年の新入生は90年世代と言うのだそうだ。 4年生たちは80年世代で、彼ら曰く「90年世代の考えていることはわからない」 そのせいかどうか分からないが、今年の1年生は積極的だ。 校内で会うと、すぐに駆け寄ってきて、覚えたての日本語で話をしようとする。 メールを送って来ては、「先生の部屋に行きたい」(中国語)と言う。 まだ「あいうえお」も全部は覚えていないのに、である。 今夜、2年生の学生と外を歩いていた時のこと。 私たちの日本語を聞きつけて、夜の自習から帰る途中の1年生が寄ってきた。 授業で教えた挨拶の復習をしようとして、 「こんばんわ」「こんにちは」「ありがとう」などを言わせたところ、 「さようなら」のところで、 「今『さようなら』は言いたくない。先生ともっと話したい」(『さようなら』以外は中国語) そんなこんなで、最初は2年生と2人で歩いていたのが、 校内の寮に着いた頃には、いつの間にか8人の1年生が私を取り囲んでいた。 今年の1年生、史上最強だと思われている去年の私のクラスの1年生より、 もっと弾けるかもしれない。
2008年10月23日
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1年生の授業が始まって2週間が過ぎた。 先週は運動会のために、授業がなかったから、まだ1回しか授業をしていない。 それでも学内で会った時には、たくさんの1年生たちが、覚えたての日本語で、 「先生、こんにちは!」と挨拶をしてくれる。 中にはメールをくれる学生もいるし、自分たちの授業に誘ってくれる学生もいる。 たった1回の授業だが、私という日本人にすんなり溶け込んでくれた気がする。 外国人を相手に、単語や文法を知らずに、話しかけることは勇気がいることだが、 今年の1年生は、その勇気を持っているように思う。 問題は、学生が多いこと。 1クラスが28人で、去年の1クラス12人から、倍以上の人数になった。 私は3つのクラスを担当しているから、約90人。 それに加えて、他の先生のクラスの学生や他の学部の学生も、私の授業を聞きに来るので、 一人ひとりの発音を直したり、それぞれと話をすることが、去年より難しくなった。 ただ、人数が多い分、授業は賑やかだ。 学生たちは、みんな楽しそうな顔で、授業に臨んでくれる。 学生たちの笑顔を見れば、こちらも楽しくなるし、 教師として、更にやる気が出るというものだ。 学生たちのこの笑顔は、私にとってビタミン剤であり、心の栄養でもある。 後は、学生たちの名前を全部、覚えること。 1年生は、他の先生のクラスの学生も合わせて120人ぐらい。 名前を呼んで話ができるようになれば、もっと親しくなれるだろう。
2008年10月21日
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水曜日から金曜日まで、我が大学は運動会。 週末の土日を合わせて、5日間は授業がない。 この機会を利用して、河南省の濮陽に行ってきた。 以前から、濮陽出身の学生に「私の家に来てください」と、何度も誘われていたからだ。 濮陽は、プレステで『三国志』をやったことがある人にはお馴染みの街。 歴史的には、三国志の呂布が死んだところとして有名。 濮陽で何をしていたかといえば、「食べる」、「飲む」。 そして、学生の家族やお父さんの同僚、その友達の皆さんたちと 「話す」「笑う」「握手をする」「肩を抱く」「教育問題について話す」……など。 つまり、小さな日中友好促進をやっていた。 朝、大学を出発して、濮陽に着いたのが昼前。 着くと同時に、挨拶もそこそこに、豪華なレストランに連れて行かれて、早速、昼ごはん。 手前は魚料理で、頭はまず主賓の方へ向けるというのが魚料理のルール。 まず主賓が魚を食べ、その後でなければ他の人は食べることができない。 その後も出るわ、出るわ、次から次へと料理が出てきた。 出てきた料理を食べた後には、更に、麺の実演。 麺を食べた後には、こんなものまで。 亀! そして、最後は記念写真。 日本人教師を家に招くということは、我々が考えている以上に、 学生や家族にとっては光栄なことのようだ。 私が家に来ると聞いて、学生の両親は方々に連絡を取り、 同僚や友人を集めての、このような盛大な食事会を催してくれた。 しかも、初日の昼ごはんだけでなく、夜ごはん、二日目の昼ごはん、と3回も。 こちらは二日目の昼ごはん。 これまで学生の家は何軒か訪ねた。 その回数は両手では足りないくらいになった。 そして、いつもいつも、言葉では言い表せないくらいの歓迎を受けた。 一緒に酒を飲み、料理に舌鼓を打ちながら、冗談を言い、真面目な話もする。 会う人、会う人、誰もが底抜けに親切で、日本人に対する好意を表してくれる。 そして、私が帰った後で、日本人に対するイメージがもっと良くなっていれば、 私が中国で仕事をしている意味があるというものだ。
2008年10月17日
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私が勤めている大学は、それほど広いわけではない。 だが、中国の大学がどこでもそうであるように、校内に木々が多い。 そして、その木々には、多くの鳥が集まってくる。 これは、私の部屋から窓越しに撮った写真。 生憎と私は、鳥の種類にはまったく詳しくないので、名前がわからない。 今年、新しく赴任してこられた先生は、鳥の写真を撮ることが趣味で、 いろいろな鳥をご存知だ。 その先生がおっしゃるには、この大学の中で、カササギ、尾長、椋鳥、ヤツガシラなどの 鳥を見つけたとのこと。 いずれも日本では、目にする機会が、それほど多くないという。 夕方近くになると、鳥たちが集団で、空を真っ黒に染めながら、寝床に戻っていく光景を 見ることがある。 こんな学校だから、木々の下は、鳥の糞で真っ白になっているところもある。 それを称して、学生たちは「天使の小道」と呼んでいる。 「天使」とは「天屎」と発音が同じで、 つまり、天から屎尿が落ちてくる、という意味。 あまりありがたくない贈り物ではある。
2008年10月14日
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この週末は、校内で「クラブの勧誘」が行われていた。 音楽や美術、太極拳などのスポーツから、学問的な研究会まで、課外活動の種類はいろいろ。 我が日本語学部では、「桜花日本語交流協会」という団体を作って、新入生の募集をしていた。 日本語に興味を持っている学生は多く、土曜日一日だけで、 日本語学部以外の入会者が100人にも達した。 私の授業にも、クラスの学生以外にたくさんの、他の学部、他の学年の学生などが、 授業を聞きにやってくる。 昨夜は、私のクラスの学生に連れられて、法律学部、生物学部など、 他学部の学生が訪ねてきた。 日本語に興味を持っている学生は多い。 後は、その興味をもっと大きくしてあげること、 日本語を話す楽しさを教えてあげること、 話す練習相手になってあげること、 そうすれば、やがて、校内のあちこちで日本語が聞こえてくるようになるだろう。
2008年10月12日
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毎日、学生たちが部屋を訪ねてくる。 午前、午後、夜と、それぞれ違うグループが話をしにやって来る。 去年教えていた4年生や2年生、他の先生の学生だった2年生、 更に担当したことがない3年生も顔を見せてくれる。 話をしにきた学生たちは、次に来る日を予約してから帰っていく。 だから、カレンダーは来週の週末まで、学生たちとの会話の予定でぎっしり埋まっている。 そんな中、昨日は2年生のL君がやって来た。 L君は去年と今年、私のクラスの学生で、今年の冬休みは遼寧省の彼の家を、私が訪ねた。 彼は高校生の時は、成績がクラスで一番良い学生だったという。 明るい性格で、気配りもでき、クラスの中でも人気者である。 そのL君に最近、元気がなく、ふさぎこんでいることが多い。 聞けば、日本語の成績が暮らすの下位を低迷していて、そのことに悩んでいるのだという。 好きな女の子もいるが、こんな成績では告白さえできない、とも。 昨日はL君と、他の先生の授業(1年生)を見学に行き、 その後、校内を散歩した後で、学食で昼ごはんを一緒に食べた。 食べたのは餃子。 思えば、冬休み、彼の家に行った時が、ちょうど私の誕生日で、 彼とお母さんが作ってくれた餃子をご馳走になったものだ。 結局、彼とは3時間、日本語で話をした。 冬休みの時は、すべて中国語での会話だったことを思えば、大きな進歩だ。 外国語は教科書を眺めているだけでは上手にならない。 話しているうちに知識が定着し、日本人の話が耳に入って、語彙も増えていく。 来週もL君と話す予定になっている。 L君が「もういいです」と言うまで、続けようと思っている。
2008年10月11日
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2年生の「会話」の授業では、今年から毎回の授業で、日本の歌を歌っている。 名付けて「今月の歌」。 同じ曲を1か月間、毎回、授業の前に歌っている。 今月は「もしもピアノが弾けたなら」。 歌詞も分かりやすく、メロディも覚えやすいから。 特に「もし(も)~た(な)ら」という仮定法を身に付けるにはもってこいの曲。 それ以外にも、「聴く・聴かせる」、「する・し切れない」など、 重要で使用頻度の高い文法を覚えることができる。 来月は、「tomorrow」(岡本真夜)か、「愛は勝つ」(KAN)、或いは「負けないで」(ZARD) この中のどれかにするつもり。 選曲の根拠は、本当のことを言えば、文法や単語などではなく、 私がそれなりにうまく歌えるかどうか、ということ。 だから授業の前日は、部屋で歌の練習をしているのです。
2008年10月09日
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昨日から1年生の授業が始まった。 入学式を終えた後は、ずっと軍事教練をやっていたのだが、 国慶節が明けた昨日から、いよいよ大学での授業が始まった。 私は今年も1年生を担当する。 1年生たちは、日本語は、まだ「あいうえお」さえわからない。 ほとんどの学生が、日本人に会うことさえ、初めてだ。 だから、初めての授業はいつも以上に緊張する。 初めての授業で「日本語は面白い」「授業が楽しい」「この先生は良さそうだ」 という感じを抱かせることができれば、 学生たちは日本語の勉強に興味を持ち、自分で自発的に勉強を始めるからだ。 日本語初心者の学生たちにとっては、まさに「一年の計は初授業にあり」。 だから昨日は、まず賑やかで、笑いが絶えず、緊張感を払拭するような授業を心掛けた。 外国語をマスターするためには、たくさん話した方が良い。 そのためには話しやすい雰囲気を作ることから始めなければならない。 結果として、爆笑や拍手が絶えない、活発な授業になった。 隣の教室で4年生(去年の私の学生たち)が授業をしていたが、 その教室まで、私のクラスの賑やかさが届いていたという。 私の授業には2年生や4年生たち、去年教えた学生たちが見学に来てくれた。 授業ちゅう、彼女らは、教室の後ろに座って、 笑ったり、頷いたりしながら、親指を立てた手を上げて、 「先生、グー!」「いいよ!」 などと賞賛の合図を送ってくれた。 そういうことも、私の励みになり、自信につながっていく。 また1年、新しい1年生たちと、うまくやれそうだ。
2008年10月07日
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旅日記の3回目、そして最終回。 襄樊で一泊した次の日は、また長距離バスで武漢へ。 武漢での観光と言えば、まずは、漢詩に詠われた「黄鶴楼」。 山を登って、正面から見たら、こんな感じ。 そして「黄鶴楼」から見下ろすと長江が。 特に何も予定を決めていなかったのだが、この景色をみた時に閃いたのは、 長江を歩いて渡りたい、ということ。 思えば、数日前、新郷から列車に乗って、黄河を越え、 長江が流れる武漢に来たのだった。 秋の風 昨日黄河か きょう長江 思えば、小学生の頃、世界地図を見て、「黄河」「長江(揚子江)」などという 名前を覚えた。 その時、地図の上でしか知らなかった土地を、 今、足の下に感じながら、渡っている。 それは有名な観光地を訪れて写真を撮ることよりも、 私にとっては大きな感慨を抱かせるものだった。 橋を渡った後も、この感慨を胸の中で味わいながら、 そのまま大勢の中国人で賑わう街中を、4時間以上、ずっと歩き続けた。 一人旅の時は、いつも同じことを思うが、 異国にいて、日本人である私が一人で、中国人の中に平気な顔をして混じっている。 そのことに、不思議な縁を感じる。 そして、それが妙に嬉しい。 旅とは、自分の成長を確認し、実感するもの。 私にとって、中国国内の一人旅とは、そういうものだ。
2008年10月05日
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昨日の続き。 武漢に着いた翌日は、早起きをして長距離バスターミナルへ。 襄樊へ行く予定だが、切符が売り切れていれば、新たな予定を考えなければならない。 幸いにも切符は最後の1枚が残っていて、窓口で買った途端に、 「もうすぐ出発するから、急いで! 早く、早く!」と急かされることに。 これが長距離バスの中。 武漢から襄樊まで400キロで、乗車賃は140元、所要時間は4時間半。 列車で行くより割高だが、座席が必ずあることと、乗り降りが便利という理由で、 私は長距離バスを気に入っている。 襄樊は人口579万人。 街の真ん中を縫うように漢江が流れ、川を挟んで行政区域と商業区域が分かれている。 バスを降りるとすぐに、その日の宿探し。 翌日は、またバスで武漢に帰るため、ホテルを選ぶ条件は、 バスターミナルに近いこと、繁華街が近いこと、部屋代が安いこと(150元以下)。 立地や外観を見て、真っ先に飛び込んだホテルが、1部屋150元。 宿選びも一発で決まって、今回は何もかも非常にスムーズ。 まずは『襄陽城』を見学。 唐代に創建されたものだが、その後明代に修復されて、現在に至っている。 城の内側はみやげ物店が並ぶ、商業地。 奥の方に城が見える。 襄陽城を見た後は、『古隆中』へ。 そもそも、襄樊に来た最大の目的が『古隆中』を見ること。 『古隆中』は諸葛孔明が隠遁していた場所で、ここに劉備が訪ねてきた。 いわゆる「三顧の礼」の舞台。 『古隆中』とは景観区の名勝で、一つの山の中のあちこちに いにしえを偲ばせる建築物が建っている。 『三顧堂』。 孔明の兄が寝起きしていた建物。 こちらは孔明の居室。 建物と建物は、こんな道で結ばれている。 全部見て歩くと、けっこうな運動量になる。 実は、ここで、「すいません、アンケートをお願いしてよろしいですか?」 と(勿論、中国語で)声を掛けられた。 旅行の目的、旅行での飲食費、滞在日数、印象など10項目ぐらいの質問を受けた。 以前から、私は道を聞かれたり、アンケートをお願いされることが多い。 というか、非常に多い。 今回の旅でも、何度か、道を聞かれた。 夕方、ホテルに帰って、晩ご飯を食べる店を探しながら、市内を散策。 見つけたのが、この店。 旅に出てから、牛肉拉麺や蒸菜など、安いものばかり食べていたので、 この日だけは、多少、豪華に、という気もあった。 注文するのは、食べたことがないもの、どんな食べ物かわからないもの、というのが原則。 そこで選んだのが「花飯」と「農家小炒肉」、そして湖北省のビール。 何が運ばれてくるかわからないから、面白い。 私が注文したのは、このようなものだった。 「花飯」はチャーハン。 薄い味付けで、油も少なく、さっぱりして美味しい。 「農家小炒肉」はピーマンと豚バラ肉炒め。 何の変哲もない、普通の家庭料理。 だが、中国では、こういう家庭料理こそが実に美味しい。 学生たちからの「先生、今、何をしていますか?」「ご飯を食べましたか?」 「旅行は楽しいですか?」「いつ、帰ってきますか?」 などというメールに返事を出しながら、食事を終え、 夜の襄樊を、爽やかな風に吹かれながら、歩いた。 明日はまた、早起きをして武漢へ。 そこで旅のクライマックスが待っていた。 というわけで、続きはまた明日。
2008年10月03日
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湖北省3泊4日の旅から帰ってきました。 行ったのは、湖北省の省都である武漢、そして諸葛孔明が隠遁していたという襄樊。 私が住んでいる新郷(河南省)から武漢(湖北省)までは約600キロ。 東京から姫路ぐらいの距離。 今回の旅の目的は、諸葛孔明が住んでいた「古老中」でいにしえに想いを馳せ、 そして漢詩にも詠われた「黄鶴楼」に登ること。 もっと大事なことは、まったく予定なしで、自分が何ができるかを確かめること。 すべてが行き当たりばったり。 そもそもどこへ行くにも、切符が手に入るかどうかさえ、わからなかったのだから。 武漢は人口が788万人で湖北省の省都。 中国の「3大かまど」と言われるほど、夏は暑いところ。 武漢の近くには「三国志」での有名な「赤壁の戦い」の場もある。 新郷を朝10時半に出発し、武漢に着いたのが、夕方の6時。 それから早速、その日、泊まるホテルを探し、 飛び込んでみたところ、運よく空き部屋があったのでチェック・イン。 そして晩ご飯を食べるところを探しに、街を散策。 ホテルの近くに、こんな屋台がずらりと並んだ通りを発見。 美味しそうなにおいと、猥雑な雰囲気。 この雰囲気に引かれて、ここで食べようと思いつつも、もう少し街をうろつくことに。 10分ほど歩くと、こんどはこんな店を発見。 看板の「蒸湯」「蒸菜」「蒸飯」という字に引かれて、店の中へ。 何を注文していいのやら、迷っていると、店の主人が見せてくれたのが、これ。 熱い湯気の中に見えたのは、壷に入ったいろいろなスープ。 そして、こっちはおかず。 いくつかのたらい(?)の中から、私が選んだのは、下の写真のとおり。 トンポーローのような豚肉料理、豚の内臓を細かく切ったスープ、 あっさりした熱い卵豆腐(これがとても美味しかった)、そしてご飯。 店の壁にはメニューごとの効能(「胃腸」「腎臓」など)が書いてあり、 食べながら、なんとなく元気になったような気がしてきた。 旅の面白さは、こういう「見知らぬ」料理との出会いからも得ることができる。 まして中国なら尚更。 土地ごとに料理も違い、同じメニューでも味付けが違う。 ちなみに今回の旅で、私が2回も食べたのが、これ。 「牛肉拉面」。 「拉」は「引っ張る」という意味で、 このラーメンも、注文を受けてすぐに、小麦粉を引っ張りながら、細くして作ったもの。 下の写真で、今、鍋の中に入れようとしているのが、その麺。 「牛肉拉面」は、武漢と襄樊で、それぞれ食べた。 というわけで、お腹がいっぱいになった後、 武漢に着いた翌日、襄樊へのバスの切符があるかどうか、心配しながら、 ホテルに帰って、眠りについたのでした。 続きはまた明日。
2008年10月02日
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