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大津市役所前の道を歩進し大津京駅方向に戻ると、第1回目にご紹介したこの石標の場所に至ります。この右の道を山麓側、西方向に入って行きます。道路の北側が山上町で、南側が御陵町です。緩やかな坂道を上って行くと、目印は右手前方の建物門前に「FURIAN」という暖簾がかけられた邸宅です。この辺りで分岐していますので左折して南方向に道沿いに進みます。 路傍に「地蔵尊」と刻された石柱が祀られています。ここでこの景色に見える道を進むと、新羅善神堂の方に行けます。駐車場に使われている空地があり、その先に簡易な門扉がありました。午後4時を過ぎた頃だったせいか探訪時は閉じられていました。ここでこの道に右折せずに、南方向に道を歩みますと、 道の右側に石仏が祀られています。 螺髪と定印が彫られていますので、多分阿弥陀坐像なのでしょう。 道沿いにさらに先に進むと、東側に「弘文天皇 長等山前陵」という表示板があります。この御陵があるのでたたぶん「御陵町」という地名が付けられているのでしょう。ここは、大津市役所の西側になります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 正面に向かって右側、石柵前に「弘文天皇長等山前陵」の石標が見えます。私は、石山の蛍谷からJR石山駅へと歩いた時に大津市鳥居川町に入ったところで「御霊神社」を訪れ、後で調べていてこの天皇名を知りました。そして、その後に大津市役所前の道を歩き、三井寺を探訪するときに、御陵の位置をまず認識したという次第です。それから、また時間がたって・・・・探訪は今に至りました。弘文天皇とは、天智天皇の長子・大友皇子に対して、明治3年(1870)に明治天皇から贈られた諡号(しごう)です。つまり、この時点で追称された天皇名なのです。そして、明治10年に長等山麓にあった一古墳、つまりこの地が陵墓と撰定され、「皇子の死地『山前(やまさき)』の名をとって長等山前陵と命名され、現在に至っている」(資料1)次第です。「陵墓については、滋賀県令籠手田安定(こてだやすさだ)が、長等山麓にあった亀丘とよばれる古墳を政府に申請し、1877年政府もこれを認め、弘文天皇陵(長等山前陵)と定められた。」(資料2)という説明もあります。「しかし、この古墳は、まったく年代があわず、弘文天皇陵が大友皇子の墓であるとはいえない」(資料2)とも。大友皇子と言えば、日本史を学んだ人の多くは、大凡のことを思い出すでしょう。天智天皇が大津京(近江大津宮)で没すると、近江朝廷を継いだ大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で王位継承をめぐり戦が始まります。それが壬申の乱(672年)です。大津京は陥落し大友皇子が自殺して乱が決着します。大海人皇子は飛鳥浄御原宮に戻り、673年に即位して天武天皇となります。「それまで『大王(おおきみ)』とされていた君主号にかわるものとして、『天皇』号が制定されたのも、天武朝であったと考えられる」(資料3)そうです。『日本書紀』巻第二十八「天武天皇」には、大海人皇子の吉野入りから記述を始めて、正史の立場で壬申の乱の経緯を記録しています。ここには、大友皇子の敗死について、以下の記述がなされているのです。「(秋7月:追記)23日、男依(おより)らは近江軍の将、犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)と、谷直塩手(たにのあたいしおて)を粟津市(あわずのいち)で斬った。こうして大友皇子は逃げ入る所もなくなった。そこで引き返して山前(やまさき)(大津市長等山の前、あるいは京都府乙訓郡大山崎等諸説あり)に身をかくし、自ら首をくくって死んだ。左右の大臣や群臣は皆散り逃げた。ただ物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と、一、二の舎人(とねり)だけが皇子に従っていた」(資料4)と。いわくのある御陵ですが、歴史を振り返るきっかけにはなると思います。当日はこの後半の探訪で少し試行錯誤しましたが、ここでは編集してご紹介します。 弘文天皇陵の西側に、この石鳥居が立っています。この石鳥居を通り抜けたあたりの広場(境内地)は荒廃しています。 そこを横切って西に進むと、石段がありその先に檜皮葺き流造の屋根が見えます。 石段を上がった広場の奥に見えるのが、「新羅善神堂」です。ここが園城寺(三井寺)鎮守社の一つです。現在の三井寺境内地からは飛地になっています。そのせいなのかどうかは分かりませんが、三井寺の公式サイトに掲載の「境内案内」には、この飛地の「新羅善神堂」の記載はありません。(資料5)明治期に弘文天皇と諡号を贈られた大友皇子と園城寺との間に繋がりがあることを調べていて知りました。上記のとおり大友皇子は壬申の乱で敗死しました。大友皇子には皇子・大友与多王がいたそうです。この与多王が「父の霊を弔うために、『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、 天武天皇から『園城』という勅額を賜わったことが園城寺の始まり」(資料6)だとされているそうです。 一方で、この建物は三間社流造の神社本殿の建築であり、園城寺(三井寺)最古の木造建築といわれています。足利尊氏が暦応3年(1339)に再建した建造物だそうです。尚、一説に貞和3年(1347)と(資料2)も記されています。「新羅善神堂 附(つけたり)須弥壇(しゅみだん)及び厨子」が国宝に指定されています。堂内には、木造新羅明神坐像(国宝、非公開)が祀られているそうです。新羅明神は園城寺を再興した円珍(智証大師)の守護神で、「円珍が入唐求法の旅から帰国する途中にあらわれ、その教法を守護することを誓った」(資料2)と伝えられているとか。この像は平安時代の作といいます。もとは、新羅社、新羅明神社と呼ばれていたそうなので、石鳥居があるのも、境内地が広いのも、かつては園城寺の守護神として崇敬され、隆盛していたのでしょう。明治の神仏分離に伴い、守護神の神社という側面が消されて、現在の「新羅善神堂」という名称になったようです。今は園城寺のお堂の一つという位置づけなのでしょう。そこで神社的側面は荒廃した空間として残っているというところでしょうか。神仏分離令の残滓がここにもみられます。円珍(智証大師)は天台宗寺門派の祖となった人です。寺門派は園城寺(三井寺)を総本山としています。円珍は弘仁5年(814)に四国の讃岐国(現在の香川県善通寺市)に生まれ、俗姓は和気氏で、空海の甥にあたるそうです。15歳で比叡山延暦寺に登り、義真に師事しました。20歳で師より菩薩戒を受け僧侶となります。そして、12年間の籠山修業に入ります。籠山中の承和5年(838)冬に、黄不動尊を感得されたと言います。そして、仁寿3年(853)に入唐求法の旅に出られ、在留5年を経て、帰国されます。帰国の途次に、新羅明神が示現されたということです。円珍は帰朝の折りに441部1000巻の経典を請来されます。この経典類は新羅明神の夢告により、園城寺唐院に永藏されることになったそうです。貞観8年(866)5月に、太政官牒により、円珍の説いた天台寺門の教法が正式に認められたそうです。同年に、円珍は園城寺の別当職にも任じられることになり、園城寺の再興に繋がっていきます。貞観10年(868)には第五代天台座主となり、寛平三3年(891)10月29日、78歳をもって入滅されます。延長5年(927)、醍醐天皇より智証大師の諡号(しごう)が贈られたのです。(資料7) 本殿は唐破風の平唐門と菱格子窓の付いた透かし塀で囲まれています。 唐門の蟇股や笈形、兎毛通の部位の彫刻は比較的シンプルですが、がっしりした感じです。木鼻は出ていません。 その代わりにかどうかわかりませんが、門柱の上部の大斗に載る肘木に彫りの深い線彫りの彫刻が施されています。 菱格子窓から、本殿を覗いてみました。こちらの正面の向拝の柱上部の肘木は基本形そのものです。 菱格子窓から本殿正面の欄間が一部見えましたので、ズームアップで撮ってみますと、瑞鳥と草花文様の透かし彫りが為されています。なかなか優美な感じです。全体を見ることができないのが残念です。 この広場の東側はまるで城の石垣に通用門が設けられた感じの区画が東にあります。園城寺の北院のようです。詳細は不詳です。ここが新羅明神と称されていた頃、源氏との関わりが深まったそうです。源頼義が前九年合戦(1051~1062)の出陣にあたり、新羅明神に戦勝を祈願したことで、園城寺との関係ができたと言います。そして、頼義の三男義光が、新羅明神の社前で元服し、新羅三郎義光と名乗ったと言います。この新羅三郎義光の墓があるということを事前に知っていましたので、そこも探訪しました。 これは左が弘文天皇陵、右が石鳥居である通路で南方向を撮ったものです。この道の突き当たりに行けば、 東の方向に進める道があります。 この道には、四角い石板が敷かれています。この道沿いに進みます。 途中に、この手摺のついた石段があります(後で触れます)。この石段を右に眺めながら さらに通路沿いに回って行きますと、 この道標が立つ分岐点に至ります。「新羅三郎の墓」への道標が設置されています。どれだけ奥に行くのだろうかと、少し不安な感じがしたのですが、思ったよりも短い距離を進むだけでした。 石鳥居と瑞垣が見えます。 正面から眺めた景色。 これが「新羅三郎義光の墓」と称されるものです。 瑞垣の傍に、この駒札が設置されています。 墓の正面に立ちますと、左側に駒札、少し離れた右方向に左の石碑が見えます。石碑の上部には、「新羅公墓碑」と判読できる銘文碑です。文末には、明治12年5月25日という日付が刻されていますので、この時に建立された碑なのでしょう。最後に、当日の探訪で少しルートを試行錯誤した副産物としての補足です。この記事の冒頭に、石標の写真を載せました。上記の通り坂道を上って行き、上記の目印と記した「FURIAN」の暖簾の掛かった邸宅の前を通り過ぎ、そのまま坂道沿いに上って行きます。道路の両側には民家が立ち並んでいます。そのまま進むと、 この道標が立っている分岐に至ります。左側へ進みます。左が「歓喜天 法明院」への方向です。国際交流セミナーハウスへの道でもあります。この左の道を進んでいくと、「皇子が丘公園弓道場」の表示が見えます。法明院は弓道場の建物の西側です。今回、時間的な問題でこちらの探訪は断念。弓道場の表示のある前の道路を南に進むと、坂道が下りになり、左前方の少し下方向に芝生の四角い広場空間が見えます。この広場の端が、上掲の手摺のある石段の上側に当たるのです。いずれにしても、「新羅三郎義光の墓」の位置は、マピオンの地図にも、グーグルマップにも表記はありません。今回の大津歴史博物館の企画展と往還での探訪のご紹介を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 『大津 歴史と文化』 発行・大津市 p22,p462) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p62-633) 『詳説 日本史研究』 五味・高埜・鳥海編 山川出版社 p57-584) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p2565) 境内案内 :「三井寺」6) 三井寺について :「三井寺」7) 智証大師円珍の生涯 :「三井寺」補遺弘文天皇 :「コトバンク」弘文天皇 明治政府により追号された大友皇子 壬申の乱の敗者 :「歴史くらぶ」三井寺 公式観光サイト三井寺 ホームページ新羅神社考-「新羅神社」への旅 出羽弘明氏 :「三井寺」与多王 :ウィキペディア源義光 :ウィキペディア源義光 :「コトバンク」新羅(しんら)三郎 :「劇場国家にっぽん」FURIAN 山ノ上迎賓館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 大津京駅と大津歴史博物館の往還にて -1 アートな道沿いを歩く へ観照&探訪 大津京駅と大津歴史博物館の往還にて -2 企画展と大津歴博周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 滋賀・大津 石山の蛍谷からJR石山駅への道
2018.10.25
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緩やかな坂道を上っていくと長等山を背景にして大津歴史博物館の建物が見えてきます。 坂道を回り込み大津歴博の正面に向かうとき、琵琶湖の対岸に三上山が見えます。 建物前からエントランスを眺めると、前売券を購入したときに入手したこの企画展のチラシと類似の立て看板が柱の前に設置されています。「神仏のかたち -湖都大津の仏像と神像-」と題したこの展覧会は、「湖都大津十社寺・湖信会設立60周年記念・日本遺産登録記念企画展」という形で実施されたものです。 博物館の前のテラスから眺めた琵琶湖を臨む景色 三上山をズームアップしてみました。それでは、この企画展のご紹介から始めます。 薬師如来坐像(西教寺藏) 大日如来坐像(石山寺蔵)これはこの企画展を鑑賞後に購入した図録の表紙と裏表紙です。大津市で、当初「二社三寺」連絡協議会が発足した以降に「湖信会」が結成され、統合で大津市域が拡大するとともに、湖信会の加盟社寺が10社寺となったそうです。この湖都大津十社寺とは、「満月寺[浮御堂]・西教寺・比叡山延暦寺・日吉大社・近江神宮・園城寺[三井寺]・石山寺・建部大社・岩間山正法寺[岩間寺]・立木山安養寺[立木観音]」だそうです。あらためてチラシを見ると主催者の中に、湖信会として並記されていました。また、文化庁が平成27年(2015)に、「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産-」として、「日本遺産」に認定したそうです。大津市では、現在、比叡山延暦寺・園城寺・日吉大社・西教寺・建部大社・満月寺の7社寺が登録されているとか。図録の「発刊にあたって」によると、「湖信会加盟10社寺、日本遺産登録の7社寺を中心とした大津市市内の各社寺に伝来する仏像や神像」を展示する企画展が実現したという訳です。今回の図録がちょっとおもしろいのは、会場に展示された仏像の傍に置かれた解説パネルやキャプションがそのまま図録に取り入れられていることです。仏像の部位の名称説明や着目ポイントの説明などがそのまま収録されているようです。わかりやすいユニークな図録になっています。会場内は撮影禁止でした。上掲の入口正面の立て看板は、現在なら手軽に入手できるチラシとほぼ同じです。手許のチラシで、そこに紹介されている諸仏像の部分を切り出して、一部ご紹介します。総論としての感想は、全体的に小振りな仏像・神像の展示ですが、各社寺を拝観しても多分見られない諸像を間近に眺められることが魅力です。一番小さな仏像は、白鳳時代の誕生釈迦仏立像(聖衆来迎寺藏)で、総高7.8cmというもの。このシャカ像に「私は生まれた時、七歩歩いて天と地を指したんです」というキャプションが記されていました。 チラシの右上の三像です。上段は満月寺の観音堂に安置されている聖観音坐像(平安時代、重文)。「厚ぼったいまぶた、それも魅力的でしょ?」なんて、記されていました。 前回、冒頭にご紹介したこの象です。高い「髻(もとどり)」に、筒型宝冠を被っておられるのです。今はありませんが、もとはこの宝冠に五仏が付けられていたそうです。その孔が宝冠に残っています。中段は、図録の表紙に載る仏像です。角度が変化すると仏像の相貌の感じも微妙に変わります。会場で立ち位置を変えて間近に眺められるのはいいですね。京都の法勝寺が西教寺に併合されたとき、もたらされた薬師如来坐像(鎌倉時代・重文)なんだとか。普段は客殿内の厨子に安置されているそうです。これには「運慶仏みたいにちょっとムチムチしています」というキャプションです。運慶工房が造立した諸仏にみられる作風が漂っているんです。会場には具体的な説明パネルがあります。下段は、比叡山延暦寺藏の維摩居士坐像(平安時代・重文)ですが、木造彩色で像高34.8cm。「維摩経」という経典に登場する主人公です。「こ難しい顔で釈迦の弟子たちに法論をふっかけます」この一文、ナルホド!にやりです。「維摩経」にはその状況が描かれています。会場には、これと並べて、石山寺蔵の維摩居士座像(平安時代・重文・像高51.5cm)が展示されています。こちらの像は頭巾の形状も、表情もかなり違います。2つ並んでいるのがおもしろい。維摩居士の別の対応場面をあらわすというところでしょうか。「釈迦の在家の弟子で、病気でも脇息に肘をかけてお話し中」なんです。 上段は園城寺藏の不動明王立像(平安時代)ですが、その相貌にユニークなところがあるのです。わかりますか? 会場で説明パネルを読んでみてください。ほかにも各社寺の様々な種類の明王像が展示されていて興味深く鑑賞できました。金剛夜叉明王像には正面の顔に5つの眼があるのですが、それほど違和感はないのです。これもおもしろい。中段は、図録の裏表紙に載っている快慶作の大日如来坐像(石山寺蔵・重文・像高101.7cm)です。大日如来坐像は「智拳印」の印相です。これに対して、「忍者に似ているって?いやいやわしの方が先ですよ」とありました。ふふふ・・・です。下段は、建部大社蔵の男神坐像(平安時代)です。女神坐像も出ています。また、葛川坊村町にある地主神社蔵からも8躯の神像が出陳されています。それぞれ顔の表情が異なります。僧形神坐像(像高44.7cm)という興味深いのも展示されていいます。 日吉大社(東本宮)藏の獅子・狛犬一対(木造彩色・桃山時代)は、木造の狛犬としては全国屈指の大きさだそうです。会場にデンと置かれたその姿はやはり見応えがあります。玉眼造なのです。眼力を感じますね。崇福寺跡は2回探訪に出かけたことがあります。今回、崇福寺塔心礎納置品(白鳳時代・国宝・近江神宮藏)を見ることができ、関連付けができました。岩間寺藏の十一面観音立像(像高89.0cm、大津市指定文化財)は素朴な感じの仏像です。像高37.0cmという小振りな千手観音立像(平安時代・大津市指定文化財)も出陳されています。近松寺の本尊で銅造鍍金の仏像です。典型的な平安時代後期の作風がみられるという仏像です。立木山安養寺藏の三面大黒天立像(木造古色・江戸時代)は、像高21.5cm・総高30.0cmの像です。ほぼ同じサイズの園城寺藏・三面大黒天立像が出陳されています。正面の大黒天に対して、向かって左に毘沙門天、右に弁才天が合体している像です。他に、大黒天だけの像もあります。 これはPRチラシの裏面です。左側の毘沙門天曼荼羅図(不動寺藏)、普賢菩薩坐像(園城寺藏)は今回が初出陳というものです。右下、大石東一丁目・法楽寺藏の薬師如来坐像(平安時代・重文・像高134.1cm)は普段は厨子にまつられた秘仏で、12年に1度、寅年の数日だけ御開帳されるそうですが、今回初出陳されたそうです。なかなか拝見できない仏像も出ています。右上は普賢延命菩薩像(南北朝時代・比叡山延暦寺像・重要美術品)です。蓮台を4頭の白象が支えている図なのです。この白象の描写に「照り隅」の技法が使われているそうです。この技法を初めて知りました。説明パネルから色々学べる企画展です。「よろいがぱっつぱつなのは、10世紀頃の流行です」このキャプション、どんな仏像のことを表現していると思います? 会場で確かめてみてください。この企画展への誘いはこのくらいにとどめましょう。歴史博物館を出た後、冒頭写真の分岐点まで下り、右側の道路の方に行きました。以前、一度見たことがあるのですが、再見する為です。 分岐点のすぐ傍に、石塔の十三重塔が置かれています。軸部には四面に仏像がレリーフされています。 その先にあるのがこの覆屋です。 穴太(アノウ)遺跡で発見された特殊カマド(温突[オンドル]遺構)がここに復元されています。 立ち位置を変えて撮ってみました。 その北側には、車石の道が再現されています。 傍に説明板が設置されていますが、説明文が褪色していて写真では読めません。表題は「車石」です。「琵琶湖水運によって大津の港に集められた米などの物資は、主に牛車(うしぐるま)で京都に運ばれた。米だけをみても、江戸時代には多い年で年間73万俵と記録されている。牛車は雨天時には車輪が泥道にとられ、その通行は困難を極めた。そのため江戸幕府は、文化元年(1804)から翌年にかけて「車石」の敷設工事を行った。これは、牛車の車輪の幅に合わせて二列の平板な花崗岩を敷き並べるというもので、今も大津、京都間の街道沿いに、車の轍の跡が残る石を、多く見ることができる。工事区間は大津八町筋から京都三条大橋までの三里(約12km)で、石は大津側が木戸石、京都側では白川石などが使われた。工費は約1万両といわれ、その一部は心学者の脇坂義堂や近江国日野の商人中井源左衛門らの寄付によって賄われた。」(判読して転記) この後、道沿いに坂を下り、大津市役所の傍から元の道路に戻りました。この後は、夕刻までまだ時間がありましたので、未探訪の史跡を探訪することにしました。そこでまずは「弘文天皇御陵参拝道」の石標まで戻ります。つづく参照資料『神仏のかたち -湖都大津の仏像と神像-』 大津市歴史博物館補遺大津歴史博物館 ホームページ 神仏のかたち 企画展詳細情報のページ崇福寺跡・梵釈寺跡(滋賀県大津市) :「京都風光」崇福寺跡 :ウィキペディア崇福寺のロマン 浪漫紀行・三井寺 :「三井寺」穴太遺跡 :「遺跡ウォーカーβ」大津の穴太・南滋賀遺跡 渡来人築いた?古墳時代後期の遺構発見 2014.7.31 :「産経ニューズ」穴太遺跡 ドーム状石室持つ古墳/滋賀 :「古墳にコーフン協会」脇坂義堂 :「コトバンク」脇坂義堂 :「古典と楽しむ名言集」中井源左衛門 :「コトバンク」中井源左衛門 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 大津京駅と大津歴史博物館の往還にて -1 アートな道沿いを歩く へ
2018.10.23
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日曜日(10.21)の午後、大津歴史博物館で始まったこの企画展を鑑賞にいくことと併せて、近辺の未探訪地を訪れてきました。少し探訪で試行錯誤しましたが、撮った写真などを整理・編集して、ご紹介したいと思います。当日は、JR湖西線の「大津京駅」と大津歴史博物館の間にある未訪史跡の探訪を兼ね、往復しました。この往還区域はこちらの地図(Mapion)をご覧いただくとわかりやすいでしょう。JR湖西線の大津京駅を出て、南西方向に位置する京阪電車石山坂本線の京阪大津京駅の方向に進みます。京阪電車の踏切を西に横断すると、あとは京阪電車と平行する道路沿いに南に進みます。道路の西側が山上町、東側が御陵町です。御陵町は「皇子山総合運動公園」になっています。この南北の道路沿いが、秋にふさわしく「アートな」道なのです。今回は西側の歩道を歩いたのですが、歩道に貼られたタイルは、水が流れているようなデザインが取り入れられています。 車道との境には、一定間隔で、こんな図柄の絵タイルがモニュメントとして設置されています。1枚ずつ撮っていくと、同じ絵柄がありますので、ここでは重複を避けます。 これは「大津絵」と呼ばれています。 大津絵の筆のはじめは何仏 元禄4年(1691)、大津の乙州(おとくに)宅で新年を迎えた松尾芭蕉が正月4日に、この年の最初の句としてこの発句を詠んだのです。なんとこの発句が大津絵という言葉が文献にみえる最初のものだと言います。(資料1)余談ですが、芭蕉は元禄3年(1690)4月6日、大津の国分山の幻住庵に入り、在庵中に「幻住庵記」を書いています。幻住庵を出た後は、膳所にある義仲寺の無明庵を居所としました。9月末に、一旦上野に帰りますが、冬、京都・湖南に出て来て、川井乙州宅で越年したのです。そして、上掲の発句が作られたのです。(資料2)いつから大津絵が始まったのかは定かではないようですが、17世紀前半の『近江名所図』(サントリー美術館蔵)に「大津絵を掛ける勧進僧の姿が描かれており、おそらく17世紀の初期には、東海道を上り下りする旅行者用に土産物として絵が売られるようになったと思われる」(資料1)そうです。当初は芭蕉の句にあるように、仏画が多かったようですが、次第に様々な絵が描かれるに至ったとか。 *オランダ商館長の江戸参府に随行したドイツ人医師のケンペルは、「追分村」(現在の大津市追分町や大谷町あたり)で絵師や仏具屋の多いことを記録している。*井原西鶴作『好色一代男』に大津絵が遊女屋の屏風に貼られていたことを記されている。*民芸運動の主唱者柳宗悦(やなぎむねよし)が大津絵を高く評価した。柳は昭和5年(1930)にボストンで大津絵展を開催した。 (資料1) 大津絵の大宣伝となったのは、大津にも住んだことがある近松門左衛門が作った浄瑠璃『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』だとか。この浄瑠璃は宝永5年(1708)に初演されました。大津絵を描く浮世又平が主人公の浄瑠璃で、この作の趣向がヒットして全国に大津絵の存在を知らしめたと言います。さらに、幕末には大津絵節が流行したそうです。(資料1)再び余談です。この浄瑠璃、「吃又(どもまた)」とも称されるようです。というのは、歌舞伎で全三段で演じられたものが、今は初段「土佐将監閑居」の場だけが上演を重ねるとか。この初段の通称が「吃又」なのです。又平は土佐光信の弟子ですが、吃音(きつおん)の上に田舎者、女房のおとくと大津に住み、大津絵を描いていたのです。土佐の名字を許してもらえないことから、絶望します。最後に手水鉢を石塔に見立て、そこに自画像を一心に描くのです。描いたあと、女房と死ぬ決心だったのですが、なんとその描かれた人物が手水鉢から抜け出て活躍するというもの。土佐光信はその技倆に感じて、又平が土佐光起と名乗るのを許したという筋です。勿論話はそこからさらに展開するのです。(資料2)これから、伊吹山の艾(もぐさ)についての江戸時代のPRエピソードを連想しました。 歩道脇に、「弘文天皇御陵参拝道」の石標と近くで右の案内板が目にとまります。この案内板は山上町の南東角側に設置されています。この御陵は後でご紹介します。 石標のすぐ南、歩道脇に、こんなモニュメントがあります。 以前この道を歩いた時から気になっていた代物です。このご紹介をまとめるに際して、調べてみて、情報を得ました。現代美術家・今井祝雄氏創作の『連鎖球体』という作品です。「いっぽう、カラフルなヴォワイアンとは異なり、アースカラーの球体の造形を1996年に制作した。滋賀県の主要地方道である伊香立浜大津線マイロード事業の完成を記念したモニュメント『連鎖球体』である」(『成安造形大学紀要 第2号』)と作者が記されているそうです。(資料4)これでモヤモヤが一つ解消しました。 南の方に、こんな景色が見えてきます。 「大津市制100周年記念」のモニュメントです。上掲の塔のすぐ傍、北隣にあります。これは「タイムカプセル」だそうです。「タイムカプセルの扉が開くのは、2028年、市制130周年の市制記念日です」と下部の銘板に記されています。「大津市市政功労者の会」が設置されたもの。 コンクリート造りの塔の下に、この球体が設置されています。ここは、大津市市役所前です。市役所エリアの北東側にあります。「柿本人麻呂歌碑」です。昭和42年(1967)に大津市が建立したそうです。(資料1) さざなみの志賀の大わだよどむとも昔の人に亦も逢はめやも『万葉集』の巻一には、有名な 春過ぎて夏来たるらし白たへの衣ほしたり天の香具山という歌が載っています。その次に、「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」という詞書に続き、長歌が載っています。それに対する反歌が二首詠まれていて、その二番目に載っているのが上掲の歌です。最初に詠まれているのは、 さざなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ です。(資料5)後の時代に、平忠度が『千載和歌集』に収録されたことで名を残すことになった歌があります。 さざなみや志賀の都は荒れにしをむかしながらの山ざくらかな 66大津市役所のある辺りは、山上町の南側で御陵町になります。道路を挟んで東を眺めると、「皇子山総合運動公園」の中央部です。「多目的運動広場」になっています。 運動公園の入口を少し入ったところに、この塔が見えます。少し、立ち寄ってみましょう。 今は水が抜かれていますが、塔の北側には池が作られています。その近くに「びわこ国体記念植樹」という銘板が置かれていました。 石段があり、上ってみると石敷の広場空間が広がっていて、西側に彫刻像が並んでいます。 びわこ国体を記念した彫刻像群なのでしょう。 第36回国民体育大会が1981年に開催され、この時の夏・秋季大会が「びわこ国体」だったのです。そのときのスローガンは「水と緑あふれる若さ」でした。9月13~16日には、5競技が大津市・彦根市・湖東町で実施され、10月13~18日には、滋賀県下各地で39競技が実施されたようです。(資料6)この年、第17回全国身体障害者スポーツ大会も滋賀県で開催され、この総合公園の陸上競技場も会場の一つとなったそうです。こちらのスローガンは「わたしにもこんな力が生きがいが」です。(資料7)再び西側歩道に戻ります。 大津市役所に一番近いバス停が「別所」です。歩道の並木も紅葉していました。別所バス停の少し先に交差点があり、大津歴史博物館への標識が出ています。右折して、大津歴博へのゆるやかな坂道を上ることになります。つづく参照資料1) 『図説 大津の歴史 上巻』 大津市編 p238-239, p912) 『芭蕉入門』 井本農一著 講談社学術文庫 芭蕉略年譜 p2173) 『歌舞伎鑑賞辞典』 水落潔著 東京堂出版 p854) 【ART】現代美術家・今井祝雄『連鎖球体』 @大津市役所付近 :「写遊百珍」5) 『新訂 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波書店 p51-526) 第36回国民体育大会 :ウィキペディア7) 『図説 大津の歴史 下巻』 大津市編 p185補遺親しみやすく奧深い「大津絵」の世界 龍谷 2005 No.60 :「龍谷大学」大津絵 :「コトバンク」大津絵とは :「大津絵の店」 大津絵の代表的な画題大津絵美術館 :「本山圓万院門跡」大津絵-民画の魅力- :「福岡市美術館」傾城反魂香 歌舞伎の演目 :「歌舞伎への誘い」傾城反魂香 :ウィキペディア土佐光起 :ウィキペディア土佐派中興の祖・土佐光起の画業と「近世やまと絵」の魅力 :「サライ」今井祝雄 :ウィキペディア今井 祝雄 :「ARTCOUTRT Gallery」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.10.22
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錦小路通に戻ります。錦市場のお店のシャッターに描かれた若冲の絵の写しの続きからです。 麩屋町通と交差する辻の上にも、ステンドグラス絵があります。これらが誰の作品なのかは不詳です。 鶴図押絵貼屏風 六曲一双・左隻、第1~3扇部分 (資料1) 若冲は様々な姿態の鯉を数多く描いています。美術館でずらりと並んだ遊鯉の掛幅を初めて見たときは、オ~ッと感じたものでした。若冲は求められると快くスラスラと鯉図を描いてやったそうです。「なぜ、京都の町家に鯉の絵がかくも多いのかといえば、新しく生まれた男児が、鯉が龍に変容するのと同じように、すくすくと育って出世することを、親たちが望むからである」(資料2)という背景があったようです。京の絵師、円山応挙を祖とする円山派も数多くの鯉の絵を制作しているとか。その一端を展覧会で見たことがあります。 錦小路通には、若冲の絵の部分図を使ったバナーも飾り付けてあります。西から東方向を見上げたところです。 「動植綵絵」のうち「鸚鵡図」の部分図 (資料3) ステンドグラスがもう一つ。 この絵のソースは不詳。手許の図録や調べた範囲では確認できませんでした。ご存知の方がいらっしゃれば、ご教示ください。 錦小路通を振り返って眺めた景色 錦小路通が寺町通と交差し、その先に錦天満宮の石鳥居が見えます。 錦小路通は、「錦天満宮」の境内地が東の突き当たりになります。新京極通に西面して、数多くの奉納提灯が吊されています。この石鳥居、お気づきでしょうか?鳥居の笠木・島木・貫の両端が、南北両側のビルにあたかも突き刺さったようになってしまているのです。繁華街のビルが立て込んできた結果のなせる苦肉の共存共栄というところでしょうか。こんな景観、滅多にないでしょうね。 それでは、かつて若冲も参拝したかもしれない「錦天満宮」を拝見しましょう。 この錦天満宮もまた創建から数度移転を重ね、最後は豊臣秀吉の京都改造計画の一環として、天正年間に時宗四条道場として有名だった「金蓮寺」の敷地に、「歓喜光寺」とともに移転し、「錦天満宮」として鎮座し、現在に至るそうです。明治の神仏分離令により独立したというわけです。この時(明治5年/1872)、歓喜光寺は、東山五条に移され、昭和47年(1972)に山科大宅に三転しています。(資料4,5) 鳥居のすぐ内側にブロンズ製の狛犬がいます。少し小振りな狛犬です。 入口を入ると、左側に手水舎があり、右側には神牛像(臥牛像)が奉納されています。「撫で牛」として親しまれているそうです。 正面に、唐破風屋根の参拝所があります。 「天満宮」と記した扁額が掛けられ、要所に星梅鉢紋が見えます。 本殿の手前、左右に随身像が配されています。 正面奧に本殿があります。勿論、祭神は菅原道真です。 参拝所の左側に「獅子舞 おみくじ」 この前に人が近づくと、「越天楽」が鳴り出し、左の獅子が舞を始めるというカラクリを楽しめる「おみくじ」販売機です。獅子が頭を下げてしまい、ちょっとタイミングを外してしまいました。 社殿の左側には、一番西に「塩竃神社」があり、その東隣は「日之出稲荷神社」です。源融の六条河原院跡に「歓喜光寺」が創建された時に、この塩竈神社が祭神を源融として創祀されたそうです。その神社が上記の理由でこの地に移ってきたのです。(資料4) 日之出稲荷神社の祭神は、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)です。(資料4) その東隣には、「白太夫神社」が祀られています。祭神は渡會春彦(ワタライハルヒコ)。渡會春彦は、伊勢神宮外宮神官だった人で、世継ぎのいない菅原是善がこの神官を通じて伊勢神宮に祈願したところ子を授かったことが縁で、その子(=道真)の守役となった人だそうです。若い頃から頭髪が白く「白太夫」と称されていたと言います。摂社として祀られています。(資料4) 振り返ってみた眺め。 境内地の東端にある「七社の宮」。ここには、次の七社とその神々が勧請されています。(資料4) 八幡神社 応神天皇 床浦神社 竃神(カマノカミ) 竃神社 竃神(カマノカミ) 市杵島神社 市杵島姫命 熊野神社 伊拝再尊(イザナミノミコト) 恵美須神社 事代主神(コトシロヌシノカミ) 事比良神社 大物主神(オオモノヌシノカミ)・少彦名命(スクナヒコナミコト) 社殿の南側に社務所がありますが、その前方に京の名水「錦の水」の井戸があります。地下百尺(30数m)より湧き出ている水です。「検査の結果、無味、無臭、無菌の良質な湧き水」(駒札)だそうです。最後に余談です。「歓喜光寺」の移転はわかったのですが、歓喜光寺と錦天満宮がともに「金蓮寺」の敷地に移ってきたということでした。跡地に移ったのではなく、敷地が割譲されたということなら、金蓮寺はどこに? という疑問が湧きました。現在の地図をみても、「金蓮寺」はこの界隈には存在しません。「金蓮寺」がこの辺りに実在したとわかるものが新京極通の四条通に近い場所、現在の染殿院への入口のところにあります。「時宗開祖一遍上人 念仏賦算遺跡」と太い文字で刻された石標です。「応長元(1311)年,この地に金蓮寺が創建され,時宗四条派の本山となり四条道場と称された」起源になることを明示するのがこの石標です。「江戸時代には衰退し,天明8(1788)年の大火で焼失。のち再興されたが、大正15(1926)年現在地(北区鷹峯藤林町)に移転した。」と説明があります。(資料6)地図で確かめると、千本通と北山通で形作られるV字の中に鷹峯藤林町が紫野西蓮台町の北西隣に位置します。そこに金蓮寺がありました。調べてみて経緯が判明しました。もう一つ、調べていて連動してわかったことがあります。歓喜光寺は六條道場と呼ばれ、時宗のお寺でした。金蓮寺と同じ時宗の寺なので、秀吉の命令で金蓮寺の敷地に移転することが円滑にできたのかも知れません。(資料7)若冲徒然としてご紹介してきましたが、これで一区切りと致します。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 特別展覧会図録『没後200年 若冲』 京都国立博物館 2000年 作品名確認に使用2) 図録『生誕300年 若冲の京都 KYOTOの若冲』 京都市美術館 2016年3) 図録『開基足利義満600年忌記念 若冲展』 相国寺承天閣美術館 2007年4) 錦天満宮 ホームページ5) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p2806) 一遍上人念仏賦算遺跡 :「京都市」7) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p317-318補遺六條道場 紫苔山河原院 歓喜光寺(六條道場) :「京都観光Navi」山科の歓喜光寺 :「京都検定を目指す京都案内」歓喜光寺~六條道場 :「古都の礎」金蓮寺(京都市) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 若冲徒然 -1 「若冲の京都 KYOTOの若冲」展と過去の若冲展 へ観照 若冲徒然 -2 「生誕300年記念 伊藤若冲展」と相国寺承天閣美術館 へ観照 若冲徒然 -3 [番外編] 相国寺承天閣美術館へのアプローチ・前庭 へ探訪&観照 若冲徒然 -4 石峰寺 晩年の若冲と五百羅漢石像ほか その1 へ探訪&観照 若冲徒然 -5 [番外編] 石峰寺 本堂ほか その2 へ観照 若冲徒然 -6 特別陳列(京都国立博物館)生誕300年伊藤若冲と泉涌寺、とりづくし観照 若冲徒然 -7 「はじまりは、伊藤若冲」(細見美術館)へ探訪&観照 若冲徒然 -8 伊藤若冲生家跡(錦小路通・錦市場)・若冲の墓・宝蔵寺 へ伊藤若冲に関する小説を読み、読後印象をまとめて、もう一つの拙ブログ「遊心逍遙記」に載せています。こちらからお読みいただけるとうれしいです。『若冲』 澤田瞳子著 文藝春秋『遊戯神通 伊藤若冲』 河治和香著 小学館
2018.09.10
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この景色は、南北の通りである高倉通の少し手前で、錦小路通から東方向を撮ったもの(2018.7)です。アーケード街になる西の入口で上部に「錦」の文字が見えます。「錦市場」と称される区域の始まりといえます。 この正面に伊藤若冲の絵が掲げてあり、その傍に「高倉通」の道路標識が南北方向に取り付けてあります。伊藤若冲の略年譜を参照しますと、江戸時代の正徳6年(1716)2月8日、京都高倉錦小路の青物問屋「桝屋」(通称桝源)主人三代目伊藤源左衛門(宗清)の長男として生まれました。丁度、この辺りです。 高倉錦小路の南東角に、若冲の鶏図に「伊藤若冲生家跡」と記された表示塔が設置されています。7月に祇園祭前祭の宵山巡りの後、錦市場を通り抜けるつもりで、西から錦小路通りを歩いてきて、これに気づきました。 その傍の柱に、上部に「伊藤若冲生家跡」と記され、2つの見出し語での案内文が記されています。部分拡大してみます。 上半分は、伊藤若冲(1716-1800)についての説明です。若冲の絵画の特徴について説明しています。狩野派や中国絵画に学び基礎を築いた後は、様々な技法を駆使して、独創的な表現を追求し続け、独自の世界を生み出した絵師だったと具体的に説明しています。 下半分は、若冲と錦市場との関係についてです。若冲が青物問屋に産まれたことが「野菜涅槃図」という特徴的な絵を描かせた由来と言われることを紹介する一方で、「京都錦小路青物市場記録」(1771~1774)という史料の発見により、若冲が青物問屋の主人として錦市場の営業許可をめぐる問題について調整活動を行っていたという実務的な側面が判明したということに触れています。家督を譲り、絵画三昧の生活を送っただけの人ではなかったのです。 (2018.9.5)一方、北東角には、こちらの鶏図の表示塔(左)があります。右は北面を撮ったものです。 それでは、錦市場を東に通り抜けていきます。 この通りは左右のお店を眺めつつあるくので、上を見上げることが少なかったのです。堺町通と交差する辻で初めて、ステンドグラスがあることに気づきました。また、アーケードの屋根は黄・緑・赤の三筋模様の意匠になっています。9月5日の夕方に訪れたときには、休業日でシャッターの閉まっているお店がありました。すべてのお店ということではありませんが、シャッターに若冲の作品を写したのが見られます。私の記憶では、伊藤若冲生誕300年(平成28年/2016)のイベントの一環として実施されたと記憶します。次の様な作品の写しを見ることができました。 鳥獣花木図屏風(六曲一双・左隻) 右隻 左隻 鹿苑寺大書院障壁画 葡萄図(一の間)襖四面錦市場の通り抜け半ばですが、ここで観点を変えたご紹介を入れたいと思います。伊藤若冲関連のお墓についてです。 これは既にご紹介したものの再掲ですが、伏見区深草の「石峰寺」にある若冲のお墓です。寛政12年(1800)に若冲は85歳(87歳とも)で没しました。そして「石峰寺」に土葬をされました。逝去した日付は9月8日(『参暇寮日記』・「碣銘」)あるいは、10日(相国寺祖塔過去帳・宝蔵寺過去帳)という記録があるようです。10月27日、相国寺で法要が営まれています(『参暇寮日記』)。そして、相国寺にも若冲のお墓があります。このシリーズをまとめてご紹介をしていた頃に、お墓があることを知ったのですが、実際に参拝する機会がありませんでした。今年7月下旬に訪れてみました。 相国寺境内の北西域に「浴室」の建物があります。 その北側が総墓地への通路になっています。 その墓地域に入ると通路の南側に石柵で囲われた墓所があります。墓石は南面しています。 反時計回りに、南側に回り込みます。 墓所を正面から眺めた姿です。 東側が伊藤若冲の墓です。正面に「斗米菴若冲居士墓」と刻されています。 中央に宝篋印塔が建立されています。室町幕府の第八代将軍「足利義政の墓」です。応仁の乱のさなかに、東山殿(=銀閣)を建てた人物です。風雅な東山文化を育んだ人物。 西側には五輪塔が建立されていて、「藤原定家の墓」です。鎌倉時代前期の歌人で古典学者として誰もが知る人。御子左家・藤原俊成の子であり、『小倉百人一首』の撰者です。立場が全く異なる3人の墓が並んでいますので、併せてご紹介しておきます。共通する要素として美に対する意識・感性という要素、「文化」という視点がありますね。明和3年(1766)11月、51歳にときに、大典の碣名による寿蔵を相国寺松鴎菴に建てるということをしています。寿蔵とは「生前に自分で作っておく墓」(『大辞林』三省堂)のことです。大典和尚による墓碑銘が彫られているそうです。若冲が斗米菴と号するのは石峰寺近くに隠棲し始めた頃(1791年)からだったと思います。この寿蔵は上掲の相国寺の墓とは異なるようです。若冲は石峰寺に土葬されたということですので、上掲の墓は遺髪でも納めた墓かと想像します。詳細不詳。若冲と相国寺との間には深い縁があります。1752年 宝暦2年 37歳 この頃より大典禅師と交わり、若冲居士と号す。1765 明和2 50 「釈迦三尊像」三幅、「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進 同年12月28日 相国寺と永代供養の契約を結ぶ1770 明和7 55 10月、父の33回忌にあたり、「釈迦三尊像」三幅、「動植綵 絵」三十幅の寄進を完了1791 寛政3 76(78)10月8日、大火類焼後の窮乏につき、相国寺との永代供養の 契約を解除 ⇒ 天明8年(1788)1月の京都大火災をさす若冲は、相国寺所蔵の中国絵画の模写作業を通して絵の技法を学ぶという段階から、相国寺との関わりを深めたようです。そして若冲の精神的パトロンとなったのが大典和尚だったそうです。 河原町通から一筋西が、裏寺町通です。この南北の通りで、六角通(北)と蛸薬師通(南)の間の東側に「宝蔵寺」があります。 この宝蔵寺は浄土宗西山深草派本山誓願寺に属するお寺です。そして、伊藤若冲の生まれた伊藤家の菩提寺です。 山門を入ると、正面に本堂があります。本尊は阿弥陀如来立像です。 現在は、本堂に向かって左斜め手前に、「伊藤若冲親族の御墓」が墓地から移されて、参拝しやすくされています。 若冲の作品「髑髏図」(宝蔵寺蔵) その髑髏の絵がこの碑に写されています。 この2基の墓石に触れておきましょう。伊藤若冲は、元文3年(1738)23歳のとき、父・宗清が没し、青物問屋「桝屋」の四代目当主となりました。そして、寛延4年(1748)9月29日、この伊藤家の菩提寺に父母の墓を建てています。中央の少し大きな墓だと推測しますが不詳です。若冲は、宝暦5年(1755)、40歳の折に、次弟宗厳に家督を譲り、若冲は茂右衛門と改名して、画業に専念する道を選びました。「白歳居士」と刻された墓石が建立されていますが、若冲の次弟宗厳のお墓です。明和2年(1965)50歳の時に、弟宗寂の墓を建てています。「心元宗寂居士」と刻された墓石がそれでしょう。墓石の左側面に「伊藤若冲建」と刻されています。 若冲親族の墓の傍、本堂前に本堂に向かい合う形で、この像が置かれているのに目がとまりました。 門を入ると左側に庫裡と書院があります。こちらは右側、本堂前庭の南辺に見える景色です。西側に「天道大日如来」の祠があり、東側には「八臂辨財天(はっぴべんざいてん)」の社が祀られています。 山門の屋根を見ると、軒丸瓦には五七桐紋がレリーフされています。飾瓦は菊花のようです。宝蔵寺境内の前庭と伊藤若冲親族の墓は自由に拝観・拝見できました。宝蔵寺のご紹介をここまでとし、錦市場の続きに戻ります。つづく参照資料特別展覧会図録『没後200年 若冲』 京都国立博物館 2000年宝蔵寺 ホームページ補遺伊藤若冲 :「コトバンク」伊藤若冲 :ウィキペディア動植綵絵 :ウィキペディア伊藤若冲画 動植綵絵三十幅伊藤若冲という生き方 : 作品の分析と求道の考察 : 「動植綵絵」を中心に、禅宗、分析心理学の視点から 村上千鶴子著 論文 日本橋学館大学紀要 :「J・STAGE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 若冲徒然 -1 「若冲の京都 KYOTOの若冲」展と過去の若冲展 へ観照 若冲徒然 -2 「生誕300年記念 伊藤若冲展」と相国寺承天閣美術館 へ観照 若冲徒然 -3 [番外編] 相国寺承天閣美術館へのアプローチ・前庭 へ探訪&観照 若冲徒然 -4 石峰寺 晩年の若冲と五百羅漢石像ほか その1 へ探訪&観照 若冲徒然 -5 [番外編] 石峰寺 本堂ほか その2 へ観照 若冲徒然 -6 特別陳列(京都国立博物館)生誕300年伊藤若冲と泉涌寺、とりづくし へ観照 若冲徒然 -7 「はじまりは、伊藤若冲」(細見美術館)へ探訪&観照 若冲徒然 -9 錦市場の若冲絵づくし・錦天満宮ほか へ
2018.09.09
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先月(2017.10)の中旬に、京都駅前に集合し、徳島県鳴門市の鳴門公園内に所在する「大塚国際美術館」への日帰りバスツアーに参加しました。「世界初の陶版名画美術館」として設立された美術館です。一度現地に行って眺めてみたいと思っていたところです。陶板に原寸大に焼き付けた複製画が地下3階から地上2階のフロアーに1000余点展示されているというところです。世界25ヶ国、190余の美術館から選りすぐりの名画(コピー)が展示されているという、その状況がどんなものなのかに関心があったのです。このバスツアーで私は明石海峡大橋を車上から眺めつつ横断する初体験をした次第です。冒頭の景色は、明石海峡大橋を横断し始めて少し経った頃に、明石市の方向を撮ったものです。神戸市垂水区の舞子と淡路島の北端に架橋された橋の先は高速道路として、淡路島をS字形に孤を描きながら縦断していきます。今まで意識しなかったのですが、改めて地図をみるとこの道路は「神戸淡路鳴門道」と明記されています。こちらから地図(Mapion)をご覧ください。拡大図にして各地をご覧いただくとイメージを重ねていただくことができるでしょう。バスから撮った景色を点描としてまずはご紹介です。 この景色の少し後で、ハイウエイオアシスまで2kmの道路標識を見ました。 津名一宮の道路標識が見える少し手前あたりです。 淡路島の南端・福良と四国徳島県の北東端・鳴門町土佐泊浦の間に架橋されたことで、本州-淡路島-四国が結合されました。それにより京都から日帰りでの四国入りが可能となり、便利になったものです。土佐泊浦に入るとすぐに車窓から美術館の建物の上部が見えます。この美術館は鳴門市の北東端近く、まさに四国への一つの入口間際に立地していました。事前に場所を地図で確認していなかったので、あっ!こんなところに位置したのか・・・・という感じです。鳴門公園内に立地するため、地上は2階までの建築制限があったとか。そこで、山の斜面の地形を利用し山裾に掘り下げる形で地下3階まで、つまり5階建ての美術館が建築されたそうです。高速道路側からは、地上部が遠望できるだけなので、この美術館の規模が想像できませんでした。鳴門北ICで高速から出ると、海岸沿いの道路を北上します。天気が良かったので、海岸を走るバスの車窓から、鳴門ー淡路島間の橋の景色を楽しめました。「大塚国際美術館」の正面玄関は地下3階より更に低い位置になります。この画像は正面玄関へのアプローチです。 円弧状の玄関前のスペースの先には、各国の旗が揚げられています。多分、この美術館に展示された絵画の原画を所蔵する国の国旗だろうと思います。掲揚された旗の先に見える建物は、地図を見ると大塚製薬潮騒荘です。当日入手したパンフレットによると、大塚製薬創立75周年記念事業としてこの「大塚国際美術館」が設立されたのです。入口カウンターを通過すると、長さ41mのエスカレーターに乗り、地下3階に至ることになります。余談ですが、建物内に入り私は2つの美術館を連想しました。一つは、山の中に包まれるような感じで建築された美術館として、滋賀県の信樂にある MIHO MUSEUM を思い浮かべました。MIHO MUSEUM を訪れたとき、設立経緯のビデオを拝見し、山を穿ち建物を建てて再び周辺を埋め戻し、山容を復元し、景観を損なわないということがなされたということを知りました。もう一つは、熱海にあるMOA美術館を訪れたとき、入口から美術館の展示フロアーまで山の斜面に設けられたエスカレーターに乗って上がるという体験をしたことです。本筋に戻ります。この大塚国際美術館の特徴は、地下3階から上階に順次上がっていく行程が、西洋美術史の変遷に併せた時代区分構成になっていることです。絵画鑑賞のプロセスで記しますと次の構成になっています。 地下3階 古代・中世 地下2階 ルネサンス・バロック 地下1階 バロック・近代 1 階 現代 、テーマ展示 2 階 現代 、テーマ展示全館を通して、基本的展示方法として「系統展示」の手法が採られ、西洋美術変遷史という視点で、名画を眺めて行くことができる仕組みです。地下3階から館内ガイドに沿って鑑賞していけば、西洋美術の歴史的アウトラインが理解できるのです。この形で原絵画を見るということは、各国に出かけても不可能です。また、美術書・図録の形で写真を介して名画を楽しむことができますが、原寸大複製画を介した視覚的な体感はやはりこの美術館の利点でしょう。美術学習館として機能しています。大型美術陶板である故に、展示絵画を触って感触で感じていただいてOKですという説明が美術館のガイド担当者からありました。ちょっと、驚きでもあります。いくつか触ってみました。もう一つの展示方法がこれです。 その一例が、「システィーナ・ホール」と名づけられたミケランジェロ作「最後の審判」ほか礼拝堂の空間全体の展示です。「環境展示」と称され、「古代遺跡や教会などの壁画を環境空間ごとそのまま再現」するという手法が採られているのです。このホールは、地下3階・2階を吹抜けにして、システィナ礼拝堂の内部を飾る絵画の原寸複製が行われているそうです。こちらは、地下2階から全体空間の上側を撮ってみました。システィナ礼拝堂は、イタリアの中に存在するヴァチカン市国、つまりキリスト教の總本山と言うべき国にあります。美術館並びに教会の建物が巨大なので、その一環としての「システィナ礼拝堂」の内部を現地で鑑賞した折には、その空間の大きさについて相対感覚で少し鈍っていました。このシスティーナ・ホールを見て、その空間の大きさを再認識した次第です。礼拝堂現地では、この地下2階部分の立ち位置、視角から眺めることはできませんのでその意味で違った臨場感もあります。 もう一つ、面白かったのはこれです。見上げる天井画の一隅に描かれた「デルフォイの巫女」は小さく見えますが、その原寸同形の絵陶板がその下のフロアーに置かれているのです。こういう展示は、インパクトがあります。地下3階には、環境展示されているものが、他に8箇所あります。その一つが、これです。「エル・グレコの祭壇衝立復元」です。「復元」という言葉があるように、エルグレコの作品をはめ込んだオリジナルのこの形での衝立はもはや存在せず、それら作品の所蔵先が分散してしまっているそうです。陶板による複製画ですが、この形で見られるのはこの美術館だけだとか。補遺に掲げた、ホームページから、展示フロアマップをご覧いただくと、「聖マルタン聖堂」から続く7箇所の名称をご確認いただけます。大型美術陶板といえども制作上のサイズの技術的制約があるため、例えば「デルフォイの巫女」を観察していただくと、大型陶板5枚でこの一つの絵を複製していることがわかります。ちょっと残念ですが、しかたがないことでしょう。環境展示による複製画の最大のメリットは、世界各国の現地に行かなければ見られない巨大な絵画、絵画群を手軽にこの美術館内で、臨場感を持って眺めることができるということです。勿論、個別の絵画作品も著名画家の代表作、名画がズラリと複製されています。これだけを個人が美術書として揃えようと思うと大変だと想像します。同様に、一つの独立した作品とはいえ、サイズが巨大すぎて、日本に搬入してきて展覧会に展示するのはほぼ不可能と思える絵画の複製も見られることです。その原寸大の臨場感はこの画像サイズでは感じ取れません。この画像をモニターのサイズ大で眺めたとしても、やはり無理でしょう。この絵は、地下1階の77号室という大きな部屋の壁面に掛けられているジャック=ルイ・ダヴィッド作「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの載冠」という作品です。原画は、6.21m×9.79mというサイズで、フランスのルーヴル美術館所蔵です。ルーヴル美術館を訪れれば、そんなサイズの絵もゴロゴロしているというくらい数多く展示されていますけれど・・・・。 たとえば、地下3階の古代のセクションには、古代系統展示についてのこんなパネルプレゼンテーションが行われています。各箇所にある説明ガイドです。「バベルの塔」展のご紹介の折、ピーテル・ブリューゲル1世がヒエロニムス風の版画を制作しているということに触れていました。そこで、ルネサンス期の画家、ヒエロニムス・ボスの名画にここで触れておきましょう。 ヒエロニムス・ボス作「快楽の園」という作品が展示されています。この3枚で一つの作品です。地下2階には、受胎告知、ヴィーナスに関連し様々な作家の絵がまとめて展示してあり、その表現の違いや類似パターンなども対比的に見られて楽しめます。ここには勿論、この作品も展示されています。ルーブル美術館では、正面に厚いガラスがはめ込まれ厳重に防御された空間に展示されているのを眺めた記憶があります。もう一つ、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の壁画が、その修復前と修復後の両方が複製されていて、向かい合う壁に展示されています。こんな形で眺めることができるのもここならではと言えます。写真を撮りたかったのですが、鑑賞客が多くて無理でした。ここでも、その壁画の大きさに改めて驚いた次第です。ミラノに旅行した折、教会に予約を入れておき指定時刻前に待機して、少人数単位のグループに加わり、鑑賞したのですが、壁面を見上げる形で眺めるため、どうしても大きさの感覚がぶれてしまいます。目も高さで数十cmの距離で眺めることのできる感覚は別世界という感じです。 地下2階の興味深い所は、建物の外に円形の池が設置され、その池の中央の島に壁面を設けて、モネの「大睡蓮」が描かれていることです。勿論、池には睡蓮が。この池庭の少し先を高速道路が通っています。地下1階では、環境展示として、 「ゴヤの家『黒い絵』」をご紹介しておきます。ここにも説明パネルがあります。ちょっと異質で、異様感を感じる部屋です。ここに展示のゴヤの絵をどこかで見たという記憶がありません。地下1階のテラスからの景色です。マドリードにあるプラド美術館所蔵、フランシスコ・デ・ゴヤ作の連作です。「裸のマハ」と「着衣のマハ」。鑑賞後に購入した2006年に京都であった「プラド美術館展」の図録を改めてみるとやはり他のゴヤ作品が来ていましたがこれらは含まれていませんでした.2011年、東京の国立西洋美術館での「プラド美術館展」ではこれらの作品が来日していたそうです。このときも40年ぶりだと言いますから、この2作が並ぶ展覧会を日本で見られることは多分当分ないのでは・・・・と思います。地下1階の「近代・バロック」では、ドラクロア、マネ。ルノワール、ミレー、ゴッホ、ミレイ、クリムト、ムンクなど多分一番知られている画家たちの名画を一堂に見ることができます。そして、1階です。庭園に出てみました。芝生の広々とした庭から高架の高速道路が見え、その先に海が広がっています。北東方向の山の上に、展望台のある「エスカヒル鳴門」の白い建物が見えます。 庭園の反対側は白い垣根の先は森になっています。 1階には、パブロ・ピカソの大作「ゲルニカ」が庭園に面したガラス壁を通して外部からも見える室内の壁面を飾っています。また、「ストゥディオーロ」と呼ばれる環境展示があります。 こんな空間表現を主体にした部屋もあります。2階にはピカソ、シャガール、パウル・クレー、モンドリアン、フェルナン・レジェ、モディリアーニ等々、現代画家の諸作品が並んでいます。複製画とはいえ原寸大の名画が展示されているのは壮観です。鑑賞ルートを普通に辿れば約4kmほど歩くことになるそうです。一通りほぼ鑑賞ルートに沿って鑑賞していくと、あっという間に帰路の集合時刻になってしまいました。途中、「淡路ハイウェイオアシス」に立ち寄り、ここがトイレ利用を兼ねたしばしの休憩タイムです。 道路沿いから撮った明石海峡大橋の景色大きな淡路島公園案内のイラスト地図が建物の壁面に描かれています。大橋上を走る車内の反対列側では、もっぱら夕焼けの景色を撮ろうと華やいでいました。車窓からの夕景と撮れない座席に居た私が撮ったのは、少しズームアップして垂水区の海岸沿いの景色です。大橋を渡りきった後は高速道路を走るバス任せで、帰路の暮れゆく景色を漫然と眺めていました。ほぼ、予定時刻に京都駅前八条口のターミナルに帰着。これは、京都駅正面側の東側に設けられた羅生門のミニチュアを撮ってみました。モニュメントとして作られていたことは新聞報道で知っていたのですが、見るのはこの時が初めてでした。京都駅の正面側に出向き、写真を撮ってみましたので、ご紹介しておきます。これで、秋晴れの日帰りバスツアーの探訪記を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料*「大塚国際美術館 マップ&ガイド」 入館の折に入手したパンフレット* ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 :ウィキペディア* 裸のマハ :ウィキペディア* 着衣のマハ :ウィキペディア補遺大塚国際美術館 ホームページヒエロニムス・ボス :ウィキペディアエスカヒル鳴門 :「鳴門NAVI」エスカヒル鳴門 東洋一の長~い エスカレーター / 徳島観光 :YouTubeMIHO MUSEUM ホームページMOA美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.04
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中之島にある国立国際美術館で、2017年7月18日から10月15日まで「バベルの塔」展が開催されていました。このとき、中之島から梅田まで歩いてみたときの記録を兼ねたご紹介です。冒頭の画像は国立国際美術館の入口です。この時は円筒形の入口部分の内側に、「バベルの塔」の画像が拡大されて、塔の中に迎え入れるかのように展示されていました。入口を入り、エスカレーターで地下1階に向かうと、受付の傍にも大きく拡大した絵が展示されています。これは展覧会を鑑賞後に購入した図録の表紙です。(資料1)ピーテル・ブリューゲルは父子がともに画家ですが、この「バベルの塔」を描いたのは父親のピーテル・ブリューゲル1世です。そして、この絵はボイスマン美術館に所蔵されていて、1568年頃に板に油彩で描いた作品です。この展覧会で、ピーテル・ブリューゲル1世が1569年に没する少し前、最晩年に描いた作品であることを知った次第です。この「バベルの塔」の絵の実物を一度直に眺めたかったのです。それがやっと実現しました。『旧約聖書』の『創世記』第11章の1節から9節に記されている話です。(資料2)ノアの洪水の後、ノアの箱舟で生き延びたノアの子らが、再び地上で諸民族の分かれ出でる祖となって行きます。ノアの洪水話の後にこの塔の話が出て来ます。『創世記』によると、このとき人々は同じ言語を使っていたとしています。そして、東の方からシナルの平地に移住し、「さあ、われわれは一つの町を建て、その頂が天に達する一つの塔を造り、それによってわれわれの名を有名にしよう。全地の面に散らされるといけないから」(4節・資料2)と巨大な塔造りを煉瓦と瀝青を使って築き始めたのです。シナルの地に来て最初に始めたのが塔づくりだと記します。これを天上からその在り様を眺めたヤハウエが、「今に彼らの企てる何事も不可能なことはなくなるだろう」とみて、地に降りていき、人々の言葉を混乱させ、全地の面に人々を散らされたと述べています。このとき、神の怒りが鉄槌を下し、塔を破壊し、「全地の言葉を乱し(バーテル)」し、人々を地球上に分散させたというのです。それが諸民族諸言語の起こりだと記すのです。「バベルの塔」の絵を本で見て、その出処を知りたくて、かつてこの章を読んだ時、世界に諸言語の違いがあることの起源を旧約聖書がこのように説明しているのが非常に印象深かったことを記憶します。そして、バベルの塔の大凡のイメージがピーテル・ブリューゲル1世の描いた絵のイメージで私には定着したのです。会場に東京藝術大学COI拠点複製画「バベルの塔」コーナーがあり、その研究のプロセスと成果の展示が併設展示されていて、興味深く見ることができました。それにより、一層この作品の緻密な細部の描写に着目することになった次第です。59.9cm×74.6cmという比較的小さなサイズの作品だったので、少し意外な印象もありました。もっと大きな絵のイメージがあったからでしょう。残念ながら展覧会は既に閉会となりました。これは、先日四国の入口、鳴門に所在する「大塚国際美術館」を訪ねた時に館内で撮ったピーテル・ブリューゲル1世のもう一つの作品です。この美術館は著名作品のレプリカを陶板で制作して展示しています。これは同じ画家により1563年に描かれた「バベルの塔」で、ウィーン美術史美術館所蔵のものです。上記「大凡のイメージ」と記したのは、私が最初に本で見た絵がどちらの「バベルの塔」だったのか・・・・・記憶が判然としないことによります。図録の解説によると、より広く親しまれ、画集に掲載される頻度が高かったのはウィーン美術史美術館所蔵の作品の方だそうです。今回の美術展で知ったのは、バベルの塔をテーマに様々な画家が描いていることと、ピーテル・ブリューゲル1世の作品が影響力を持っているということでした。もう一つ、この展覧会で印象深かったのは、ヒエロニムス・ボスの描いた数点の原画を見ることができたことと、この奇想画家の作品が原点となって、「ボスのように描く」という様々な画家が後に輩出してきたことです。そしてピーテル・ブリューゲル1世自身が、ヒエロニムス流の版画を数多く制作しているということでした。それは時代の要請、流行だったのかもしれません。館内には、こんな「撮影コーナー」が設置されていました。最近、展覧会に行き、こういう記念写真用特設コーナーの設置が当たり前になってきているな・・・と感じます。美術館を出た後、所用で梅田に行く予定があったので、JR大阪駅を目指して久しぶりに適宜写真を撮りながら「犬も歩けば」式に準備なしの探索ウォーキングをすることにしました。この後は、その折に発見したスポットを含めたご紹介です。美術館を出ると、北に田簑橋南詰まで行き、右折して中島通を一筋東の渡辺橋まで歩きます。ここで渡辺橋を北に渡ります。 堂島川を西に眺めると、阪神高速1号環状線の高架道路の橋脚が川に沿って林立し、同11号池田線の高架道路が川上を斜めに横切っていきます。川端には高層ビルが林立する大都会の無機質な機能美の風景です。堂島1丁目の交差点まで北上し、この交差点で今までに歩いたことのない道を歩いて大阪駅方向に行ってみようという意図だけで右折し、高層ビルの谷間の道に折れ曲がりました。そして、発見したのがこのミラーボールのような建造物。円形の池の中に四角い舞台があるので、好奇心からちょっと回り込んでみると、 黒っぽい門柱に「堂島薬師堂」と刻されています。ミラーボールのように見えたのがお堂でした。後で少し調べてみました。この傍に建つ高層ビルは「堂島アバンザ」という名称でした。このビルの東側に位置します。この堂島薬師堂は、推古天皇の時代からこの地にあったお堂だそうです。かつては洲の中にお堂が建っている状態で、海上を航行する舟からお堂がよく見えたことから、このお堂の建つ島が「堂島」と呼ばれ、地名の由来になったと言われています。「戦後、毎日新聞社が増築した際、敷地内に祀られていた薬師堂を敷地東向いの社有地に移設しました。そして、堂島アバンザを建設するにあたり、奈良・薬師寺と地元の堂島薬師堂奉賛会の要請もあり、かつてあった場所に戻ったのです。」(資料2)以前は瓦屋根の建物だったそうです。高層ビルの景観との調和を考慮し、お堂をミラーガラス127枚を使った直径7mの球状にデザインしたと言います。本尊は薬師如来像ですが、併せて地蔵菩薩、弘法大師像も安置されているそうです。お堂の前には、「合掌」をモチーフとした燭台アーチが設置されています。(資料2,3,4)あれ!これ何?と人目を引きつけておもしろいと思います。この近辺の地図(Mapion)はこちらからご覧ください。この堂島薬師堂では、毎年2月に「節分お水汲み祭り」が盛大に催されているそうです。ネット検索していて知ったのですが、今年(2017)が第14回だったのです。薬師堂でお水汲み並びに護摩苦厳修が行われます。一方で、龍の巡業や仮装行列が行われたり、北新地選考会で「北新地クイーン」が選ばれるという催しも行われているようです。土地柄の面白さを加えている感じです。(資料5)このすぐ近くで、もう一つの史跡を見つけました。「曽根崎川跡」という史跡です。これはその説明碑です。 傍に建てられた「蜆橋」の碑です。この川跡碑の設置された少し南に、堂島1丁目と曽根崎新地1丁目の境界道路が東西方向にあります。この道路の北側を堂島川から分流した川がかつては西方向へ孤を描きながら流れ、船津橋付近で堂島川に合流していたと言います。この付近では「蜆(しじみ)川」と呼ばれていた曽根崎川が存在していたのです。この蜆川(曽根崎川)は、旧淀川の支流、つまり自然河川の1本でした。「その名前の由来は、堂島シジミと呼ばれるシジミがとれたからとも、川幅が徐々に縮んだので、ちぢみ川から転訛(てんか)したものともいわれる」(資料6)とか。「元禄初期、河村瑞賢(かわむらずいけん)により改修され、曽根崎新地や堂島新地がひらかれ、茶屋がならび賑わった。明治42年北の大火後、焼跡の瓦礫の捨場となり、上流部が埋めたてられ、大正13年にはすべて姿を消した」(資料7、説明碑)そうです。この曽根崎川、この辺りで俗に蜆川とも呼ばれ、そこに「蜆橋」が架けられていたという次第です。(資料8、説明碑)近松門左衛門の「心中天網島」を読むと、下之巻の冒頭の語りに、「恋なさけ爰(ここ)を瀬にせん蜆川、流るる水も行き通ふ、人も音せぬ丑満つの、空十五夜の月冴(さ)えて・・・・」と、蜆川が語りに出てきます。そして、「名ごりの橋づくし」の冒頭の語りの後半部に、曽根崎川に関わる橋名が綴られているのです。「・・・・移香も何と冷泉流の蜆川、西に見て朝夕渡る此橋の、天神橋は其昔、菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、君を慕ひて太宰府へ、たつた一飛梅田橋、跡老松の緑橋、別れを歎き悲しみて、跡にこがるる桜橋、今に咄を聞渡る、一首の歌の御威徳」と(資料9)。蜆橋・梅田橋・緑橋・桜橋の橋名が組み込まれています。近くにタクシー乗車の制限の掲示の地図が掲示されています。これで位置関係がご理解いただけるでしょう。現在地の赤丸が記されています。川跡碑はこの場所の近くです。 大阪駅前ビル群の間を抜けて、 大阪マルビルの近くから、ビルの谷間の空間にこんな時計タワーを眺めつつ、JR大阪駅に至りました。無計画の大阪駅前ミニ探訪記を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『BABEL ブリューゲル「バベルの塔」展』 当日購入した図録2) 堂島薬師堂 :「堂島アバンザ」3) 堂島薬師堂 :「eoおでかけ」4) 大阪駅徒歩圏内に1400年の歴史!堂島の地名由来の薬師堂 :「Travel.jp」5) 堂島薬師堂 節分お水汲み祭り :「OSAKA INFO」6)『大阪「地理・地名・地図」の謎』 谷川彰英著 実業之日本社7) 曽根崎川(そねざきがわ)跡碑 :「大阪市」8) 蜆橋 :「大阪市」9) 古典の部屋 直接pdfファイルが開くサイトです。補遺北新地の華、仮装で行列 堂島薬師堂「お水汲み祭り」 2017.2.4 :「産経ニュース」 曽根崎川 :ウィキペディア大阪駅の変貌~大火で消えた幻の曽根崎川 :「今日は何の日? 徒然日記」堂島アバンザ ホームページ平成28年 堂島薬師堂節分お水汲み祭り :YouTube堂島薬師堂お水汲み祭り :YouTube現代語訳 心中天網島 下之巻2 :「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」 名残の橋尽くしの現代語訳が冒頭に出てきます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.03
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今年(2017)の祇園祭見物のまとめを終えることができました。これで記憶の引き出しが一つまとまりました。この目次から関心のある項目をご覧いただき、祇園祭を一見される誘いになれば幸いです。今年は、山鉾の巡行そのものは観覧しませんでした。山鉾巡行の観覧については、2016年以前の掲載並びに再録の記事をご覧いただければ、うれしい限りです。このページの末尾に、そちらの掲載一覧へのリンク行を設定してます。鉾建てと神輿洗式探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ前祭 宵々山 山鉾巡り探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ神幸祭探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -19 神幸祭 神輿渡御 (1) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -20 神幸祭 神輿渡御 (2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -21 神幸祭 神輿渡御 (3) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -22 神幸祭 神輿渡御 (4) へ後祭 宵々山 山鉾巡り探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ還幸祭探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -9 還幸祭 御旅所にて(1)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -10 還幸祭 御旅所にて(2)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -11 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(1) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -12 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(2) へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.22
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四条通を東御座が西楼門に向かって進んで来ます。この時点で午後9時55分頃です。予定より少し遅れ気味なのかもしれません。四若神輿会の大旗を先頭にして、担ぎ手が四条通の道幅一杯に広がって前進する後に東御座が続きます。神輿の周りには「東御座」「四若」と墨書した提灯が懸けてあります。高い竿に「四若」と墨書した提灯を掲げて進む人もいます。 東御座が交差点に至ります。 中御座と同様に、いよいよ神輿回しが始まります。ここからは、東御座の神輿回しをコマ送り画像でご紹介します。 威勢良く行われた神輿回しが最後に、東御座をさらに一層高々と差し上げることで締めくくられて、見せ場が終わります。 東大路通を南に向かい、八坂神社の南楼門をめざします。午後10時10分を過ぎていました。この後、しばらくの時間をおいて、西御座が還幸してきて、同様の所作があり、神輿3基が八坂神社境内に戻った後に、神霊を本殿に遷す祭典が始まるのでしょう。しかし、帰宅のための交通機関の便宜を考えると、タイムリミットです。やむなく東御座の還幸を見物したところで、還幸祭の見物を終わりました。東御座は、中御座と同種のパフォーマンスでしたが、神輿回しの行われた位置の関係か、私には少し写真の撮りやすい位置関係になっていました。デジカメのフラッシュ機能を使わずに撮った画像ですが、夜更けの祭事の雰囲気を感じ取っていただければ幸いです。これで「還幸祭」のご紹介を終えます。そして、2017年の私の祇園祭見物はこれで終わりました。尚、八坂神社の祇園祭の行事は、7月1日の「吉符入」で始まり、この還幸祭の後、7月31日の「疫神社夏越祭」で幕を閉じるということになります。未だにすべてを網羅的には拝見していません。祇園祭は、それほど長丁場の祭事です。来年は見逃し、見落としている祇園祭の行事をできれば見物したいもの・・・・と思っています。ご一読ありがとうございます。参照資料主な神事・祭事 :「八坂神社」補遺疫神社夏越祭 :「八坂神社」疫神社夏越祭 :「京都通百科事典」祇園祭のお話 :「祇園商店街振興会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -9 還幸祭 御旅所にて(1)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -10 還幸祭 御旅所にて(2)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -11 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(1) 探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.22
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御旅所で中御座が氏子区域への巡行に出発するのを眺め、少し休憩タイムを取った後、八坂神社に向かいました。まずは本殿付近を訪れてから四条通の東端になる西楼門の石段上まで戻ります。冒頭の画像は、午後7時48分頃の景色です。この時刻で既に西楼門の石段には見物客が既にほぼ一杯に座り込み、待機していました。石段の最上段、西楼門の前には三脚を据えた写真愛好家もズラリといます。実は、八坂神社のホームページにある「還幸祭」の説明ページには、「午後9時から10時頃八坂神社に還幸」と説明されています。そして、「御神霊を神輿より本殿にお遷しし、祭典を行います」という狭義の還幸祭は午後11時頃に行われるのです。私が石段上に至った後でも、1時間はじっと待たなければならない状態です。待機が長くなると、今まで石段に座り込んでいた人々で、待ちきれずに退去する人たちもちらほらいました。午後9時ごろ、宮本組神宝奉持列がまず先導として四条通を八坂神社に向かってきました。 石段下のT字路のところで、東大路通を南に進み、八坂神社の南楼門つまり、神社の正門に向かうのです。神幸祭のご紹介の折に、この行列をご紹介しています。 中御座を先導する白馬に跨がった騎馬稚児が東大路通に進みます。そして、いよいよ最初の神輿として、中御座が四条通を東に進んできました。午後9時半近くになっています。中御座の前、馬に乗った神官の先導する後に、三若神輿会の担ぎ手が四条通の幅一杯に広がって幾重にも列を成しています。勇壮な雰囲気です。 その背後に神輿が見えます。 交差点の南西角近くには、「八坂神社宮司輿」が止められています。宮司が中御座が八坂神社の西楼門まえに還幸してくるのを出迎えるということなのでしょう。 中御座が交差点の中央まで戻ってくると、そのまま東大路通に進むのでなく、西楼門前で神輿回しが始まるのです。このパフォーマンスが八坂神社へ還幸してきた神輿の見せ場になっています。コマ送りの画像で、その雰囲気を感じてくだされば幸いです。 神輿会の大旗も勢いよく振り回されています。 神輿を高々と差し上げて回す場面が勇壮に連続します。 交差点中央で、中御座が威勢良く高々と差し上げられて、揺らされながら、3周りだったでしょうか、回された後、東大路通を進みます。南楼門から神社の境内に還幸することになります。この後、東御座、西御座が還幸してきます。つづく参照資料主な神事・行事 還幸祭 :「八坂神社」補遺7月24日 還幸祭ルート :「KYOTOdesign」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -9 還幸祭 御旅所にて(1)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -10 還幸祭 御旅所にて(2)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -12 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(2) へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.21
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御旅所の建物から出された西御座は、神輿に本棒が固定された状態で、東側の本殿前に置かれます。東側の本殿から、この神輿に八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)の神霊が再び遷られるのです。 錦神輿会の担ぎ手は四条通に坐り、本殿前での儀式が執り行われます。 儀式が終わると、氏子区域への巡行出発前の神輿回しに取りかかります。3基の神輿の最後ですので、西側の本殿と東側の本殿前までの区域を最大限に使った神輿回しが行われます。神輿回しの広がりが勇壮さと相乗効果を生み出します。コマ送り風にそのプロセスをご紹介します。 二巡目へ 神輿を最後に高々と差し上げて、いよいよ氏子区域への出発です。 四条通一杯に広がって担ぎ手の交替要員が神輿に付き従う光景はやはり壮観です。御旅所前での出発を見物するために、新京極通で錦神輿会の人々に出会ったことを最初に触れました。西御座は氏子区域の巡行を御旅所前から寺町通を少し北に上がる形でスタートするのです。寺町通に入る場面だけ撮りました。神輿3基はそれぞれが氏子区域を練り歩き巡行します。西側の本殿 東側の本殿私は、この後少し休憩タイムを取り、八坂神社の西門前に移動し、神輿が本社に戻るところを見物することにしました。還幸祭行事の全体を今回初めてですが見物したいと思っていたからです。還幸祭の大凡の行程を理解しているだけでしたので、見物する場所の混み具合のこともあり、早いめに行動することにしました。還幸祭は大きくとらえると、四条御旅所からの出発、氏子区域の巡行、八坂神社への還幸、八坂神社本殿での儀式というステップと理解していたのです。事前の情報収集不足でいくつか見落としていたことがありました。事後に理解を深めるために改めて調べていて気づいたことです。次回の見物プランの為の反省材料として列挙しておきます。*御旅所に着いた時刻が少し遅かったため、宮本講社神宝奉持列の出発の儀式が先に行われているのを見落としたこと。神輿の出発が午後5時頃ですので、その前に神幸祭で御旅所に置かれていた神宝が搬出され、中御座より先行することになるはずです。*還幸祭の3基の神輿渡御の巡行だけを見物するつもりなら、寺町通と堀川通の区間の三条通に居れば見られること。*氏子区域を巡行する3基の神輿は、巡行経路の途中で、堀川通三条西入ル御供町にある「又旅社」(八坂御供社)に至り、ここで祭典(奉饌祭:午後7時半)が行われること。 この又旅社で神霊が還御するための神輿に対して神饌がお供えされる儀式が行われるそうです。今回は八坂神社西門前から眺めた還幸祭の見物に一挙に進みます。つづく参照資料「祇園祭 山鉾行事」(祇園祭山鉾連合会) 今年入手した資料主な神事・行事 還幸祭 :「八坂神社」補遺7月24日 還幸祭ルート :「KYOTOdesign」祇園祭 還幸祭 宮本講社神宝奉持列巡行(寺町通り) :YouTube境外末社 又旅社(またたびしゃ)(御供社ごくうしゃ) :「八坂神社」又旅社 :「KYOTOdesign」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -9 還幸祭 御旅所にて(1)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -11 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(1) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -12 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(2) へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.21
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今年の後祭は、例年の巡行見物をやめて、夕刻からの還幸祭を初めて拝見することにしました。午後の所用を終えた後、新京極通を南に下り四条通の御旅所に向かう時、目の前に「錦」を染め抜いた半被を着た神輿の担ぎ手集団(錦神輿会)が前を行くのに出会いました。錦神輿会は西御座の担当です。還御に臨むための道行きです。24日の夕刻、御旅所に7日間とどまった神輿が、八坂神社本社に還るのです。 神輿の本棒の先端部分に取り付ける鳴り物金具を威勢良く上下に揺らせてシャカシャカと音を立てながら進んで行きます。これも一つの祭の雰囲気を盛り上げる演出でもあり、これから還幸祭が始まるぞというメッセージでもあるのでしょう。御旅所前に着いた時には、既に中御座が御旅所の西側本殿前に据えられて、三若神輿会の神輿担ぎ手は四条通に座り込み、儀式が進行していました。御旅所の東西本殿の間に3基の神輿がとどまっていたのですが、中央に置かれていた中御座が還御前の儀式に入っていますので、中央がすっぽり空いています。 御旅所の本殿に逗留されていた神霊を神輿に遷す儀式なのでしょう。中御座は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の神霊の乗り物です。儀式が終わると、担ぎ手は一斉に立ち上がり拍手で締めます。 中御座御旅所前で、還御の出発にあたり、一頻り神輿を差し上げ、四条通の幅一杯に神輿回しを数回行って、担ぎ手の威勢が上がります。御旅所を出ると、本社に戻る前に、氏子区域を神輿が練り歩き巡行します。そして、24日の夜更けに本社に還るという形になります。 東御座を担当する四若神輿会の人々が、中御座が出発した後のタイミングで、四条通を進んで来ます。 神輿の屋根に、再び稲の束が結わえられ、東御座を担ぎ出して、東側本殿の前に据え、中御座と同様に、還御のための儀式が行われます。東御座は櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)の神霊が乗る神輿です。 東御座併行して、若神輿の搬出が行われています。 東御座を担ぐための本棒も御旅所から引き出されます。儀式が終わると神輿の花棒に本棒を縛り付ける作業に入るための準備が進みます。 儀式を終えた東御座は本殿前から一旦、四条通を少し東に行き、花棒に本棒を固定することになります。それが終わると、御旅所前で中御座と同様に神輿回しのパフォーマンスです。神輿が高々と差し上げられ、神輿を四条通の幅一杯につかて、神輿回しを数回行う儀式が行われます。その姿をコマ送りでご紹介します。 神輿回しを終えた東御座もまた氏子区域への巡行に進んで行きます。神霊と神輿の関係は次のとおりです。 中御座 素戔嗚尊 (スサノオノミコト) 六角形の神輿 三若神輿会 東御座 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト) 四角形の神輿 四若神輿会 西御座 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ) 八角形の神輿 錦神輿会中御座と西御座は神輿の屋根の頂上には鳳凰が立ち、東御座は宝珠が載せられています。新京極通で出会った錦神輿会の担当する西語座が還御への出発が最後になります。つづく参照資料「祇園祭 山鉾行事」(祇園祭山鉾連合会) 今年入手した資料主な神事・行事 還幸祭 :「八坂神社」補遺7月24日 還幸祭ルート :「KYOTOdesign」祇園祭 神幸祭神輿渡御・還幸祭神輿渡御 :「KEIHAN」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -10 還幸祭 御旅所にて(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -11 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(1) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -12 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(2) へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.20
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烏丸通を北に上り、六角通で左折すると、浄妙山が見えます。六角通烏丸西入ル骨屋町が所在地です。この町名は昔からのもののようです。骨屋って?何だろうと思いますが、扇子の骨を作る職人さんたちが住んでいたところのようです。京扇子の製造と関係する地域だったのでしょう。 宵山には、多分かつての巡行に使われていたと思われる懸装品が懸けられています。輸入された絨毯が使われていたのでしょう。調べた範囲では詳細不詳です。これらは、前懸と後懸です。 山側面の全景こちらの胴懸は「エジプト風景図」でイギリス織の絨毯です。江戸時代後期に輸入された作だそうです。 この胴懸の上の水引の部分画像です。宵山の懸装品などが展示されているビルの前の提灯です。ここが会所なのかどうかは未確認です。入口を入ると、1階フロアーの一番奥、金屏風の前に、御神体(人形)が並べて安置されています。左が一来法師で右が僧兵筒井浄妙坊です。後の金屏風は六曲一双で、明治44年、鈴木松年筆による「宇治川合戦図屏風」です。この屏風の図がほとんど見えないのが残念なところです。この浄妙山は『平家物語』の一節、宇治川での「橋合戦」を題材に、勇壮な場面を二体の人形で表現したものです。平家追討を目指した後白河法皇の第三皇子以仁王(もちひとおう)側と平家側の戦いです。宇治の平等院に立てこもり、平家軍を迎え撃つ以仁王側の源頼政と平家軍が宇治橋を挟み戦うのです。この橋合戦において、一来法師が浄妙坊の頭に手をかけてその頭上を跳び越えて、平家軍に躍りかからんとする場面の再現です。このとき、浄妙坊に一来法師が「悪(あ)しゅう候(そうろう)」と言ったとか。そのために「悪しゅう候山」も呼ばれたのです。明応9年鬮(くじ)定の項にはこちらの呼び名で記録があるとか。既にご紹介している浄妙山についての拙ブログ記事を併せてご覧いただけると、展示品について相乗効果で楽しんでいただけると思います。過去、幾度か宵山見物で訪れた折りには、長谷川等伯原画から昭和58・59年に新調された「柳橋水車図」が飾られていたのですが、今年は以前に使われていた胴懸のビロード織「琴棋書画図」が展示されていました。 この胴懸の部分図 胴懸の前には、橋合戦の場となる宇治橋を象った橋が展示されています。この橋が巡行の山を飾る舞台となる大道具です。合戦中に数多くの矢が橋に突き刺さった様子も現出しています。 前懸は長谷川久蔵原画の「桜図」です。後懸の展示は見られませんでしたが、長谷川等伯原画の「楓図」があります。これらは平成18・19年に新調された作品です。前懸の前には、他の山の欄縁に相当するものが展示されています。これは、宇治橋とともに橋合戦の舞台を構成する大道具の一部となっているのです。45cm幅の黒漆塗額縁仕立てのこの欄縁が胴組の四周に飾りつけられます。これが通常の水引を兼ねることにもなっています。そこには宇治川の矢の如き流れの荒波が高浮彫されて金色に塗られています。宇治橋の下の水の流れを表しています。宇治川の川幅が広くて流れが速いため渡渉が難しく、川を挟んで対峙し、宇治橋を渡って攻めざるをえないがために、橋合戦となったのです。歴史をふりかえると、近江の瀬田川、瀬田の唐橋でも同く橋合戦が繰り広げられています。この欄縁の左側と後面が天明の大火で焼失したそうですが、この町内の住人だった本山善右衛門という人が、家業でもないのに焼失した部分の模刻を一手で仕上げたと言います。毛氈の敷かれた床面に並べて展示してある織物の図柄に着目して部分図を撮ってみました。 この後、烏丸通に戻り、三条通上ル場之町に行きます。ここは烏丸通で見られる唯一の山です。烏丸通の西側にあります。 北側からの眺め 山の正面は南向きに置かれ、この山も正面の欄縁は凹型に切り下げられています。宵山の懸装品には防水用の透明シートが被せてありました。鑑賞するのにはちょっと残念です。 東海道の難所といわれた鈴鹿峠には、古来様々な伝説があるようです。鈴鹿峠が伊勢国鈴鹿山でもあります。8世紀初めにこの峠に棲む「立(たて)えぼし」という女妖を桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が滅ぼしたという伝説。醍醐天皇の時代、鈴鹿峠に鬼丸を大将とする群盗が出没し、それを長野の荘司が退治したという伝説。などです。一方で、垂仁天皇の御子で景行天皇の妹にあたる倭姫命が勅を奉じて神器を伊勢に奉持する際、鈴鹿峠に頓宮・身曽岐(みそぎ)殿を設けて、祭神に瀬織津比売神を祀ったとされています。どうも、こういう一連の伝説が渾然一体となり、悪鬼を鈴鹿権現「瀬織津姫神」が退治したという伝説が生まれ、それが題材とされたようです。現在の鈴鹿峠には、「片山神社」があり、「延喜式内片山神社」の標柱が立っているそうです。祭神は九柱が祀られ、その中に瀬織津姫神が入っています。(ナント神殿が放火で焼失!だそうです)「場ノ町」の辺りに昔は駅馬の休憩所があり「馬ノ町」といったのが、後に場ノ町と変わったという言い伝えがあるそうです。駅馬は街道に関係し、鈴鹿峠にも繋がって行きます。この題材が受け入れられる素地があったのでしょう。烏丸通と姉小路通が交差する南西角の位置、つまり、場ノ町の区域の西側北端に会所と山土蔵があります。これは会所の入口の一つです。鈴鹿山の会所は、「コ」の字を左右方向でひっくり返したように、烏丸通から会所の通路に入り、時計回りに宵山飾りを拝見しつつ巡って烏丸通に抜ける形です。会所の座敷には中央に「瀬織津姫神」と墨書された扁額が懸けられた帷があり、その中には午頭天王と墨書した掛軸が懸けてあります。御神体に相当するのでしょう。左右に見送りが北壁面に懸けられています。向かって左に懸けられた見送は、皆川月華作・染彩「ハワイの蘭花」が懸けられています。昭和57年(1982)に新調されたものです。その手前に、大型の金幣が置かれています。向かって右の見送は、明治35年(1902)初代川島甚兵衛作の金茶色地牡丹鳳凰文様の綴刺繍作品です。今では古見送の一つになるようです。東壁面には、胴懸「紅葉図」綴織が懸けてあります。今井俊満氏原画で平成13年(2001)に新調された作品。その前には、欄縁が階段状に見やすく展示されています。欄縁金具は山鹿清華下絵による四季花鳥文様です。この欄縁は山鹿清華氏が昭和12年(1937)に寄進されたもと言います。「山瑞和親」と題するそうです。金具部分を撮った画像から比較的見やすく撮れたものをご紹介します。 庭の一隅に、お地蔵様を祀る小堂があります。山土蔵の中に、前に朱塗りで「鈴鹿山」の扁額を懸けた明神鳥居が見え、その奧に鈴鹿山の御神体である瀬織津姫神の立像人形が安置されています。帷があるため、面を付けた頭部が部分的にしか見えませんでした。この瀬織津姫神の立像は、左手に中啓、右手には長刀を立てて持ち、腰には錺太刀を佩くという姿です。能の巴御前がモデルとなっているそうです。巴御前は源平合戦で太刀と強弓を携えて戦う女武者ですので、その姿が鬼退治と重ねられたのでしょうね。 山を飾る胴懸 鈴鹿山の会所を出て、烏丸通を東に横断し、東側の歩道から鈴鹿山を眺めた景色です。山籠がそのまま眺められます。巡行の折には緋羅紗が被せられます。その上の真松には、銅鈴2個が吊され、この鈴鹿山に限って、松の枝に多くの絵馬が吊されるのです。そして山籠の前方に、退治された鬼の首をあらわすしゃぐまの頭が懸けられます。最後に過去に拙ブログでまとめた関連のご紹介記事を列挙します。こちらも併せてご覧いただけるとうれしいです。観照 祇園祭点描 -8 浄妙山・鈴鹿山と京の町家(亀末廣と八百三) ← 2016年観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -3 浄妙山 観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -5 橋弁慶山と浄妙山これで2017年の後祭の宵山見物のご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。今年は、後祭も巡行の見物はせずに、その後の還幸祭の全体を見物することに切り替えました。長年、祇園祭を楽しんで来ていますが、還幸祭を観察するのは今年が初めてでした。つづく参照資料『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会今年の祇園祭で入手したチラシ 祇園祭宵山会議・祇園祭山鉾連合会祇園祭宵山・巡行ガイド2016 祇園祭宵山会議発行祇園祭-浄妙山の名宝- :「京都文化博物館」浄妙山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)鈴鹿山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺浄妙山保存会 ブログトップページ鈴鹿山(すずかやま) :「京都通百科事典(京都観光・京都検定)」瀬織津姫 :ウィキペディア日本には歴史の闇に【愛する人と共に葬り去られた女神】がいた。それは… :「NAVERまとめ」片山神社 :「亀山市観光協会」東海道の昔の話(156)片山神社の成立 :「温故知新」旧東海道 片山神社→鈴鹿峠 鏡岩 :YouTube巴:巴御前と木曽義仲(能、謡曲鑑賞) 日本語と日本文化 :「壺齋閑話」巴 能楽事典 :「銕仙会~能と狂言~」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.14
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室町通六角を下がると鯉山町です。室町通を下って行くと、左の山形提灯が見えます。右側は室町通を南から上がってきたときの景色です。鯉山の町会所は通りの東側にあります。「登龍門 鯉山」という看板が軒のところに掲げられています。そこから路地を東に入って行くことになります。 山は南を正面にして据えられています。正面は山の舞台が見やすいように凹型にしてあります。宵山での山本体は他の山とは違い、黒い幕で覆われているだけです。黒地に大きな「鯉」の赤文字が鮮やかです。中国の伝説では、黄河の中流、山西省と陝西省の境を南下する峻険な峡谷にある「龍門の滝」を登った鯉は龍になると言われています。「登龍門」という言葉はここに由来し、立身出世の金言として日常でも使われています。この登龍門を題材にしたのが「鯉山」です。路地を進むと、扉の上部に「鯉山」と記された土蔵があります。懸装品等一式が保管される蔵です。 路地の南側は東西に細長い庭があり、灯籠や鬼板、手水鉢などが目に止まります。鬼板の中央に「鯉」という文字が陽刻されています。路地の東端には、「天道大日如来」と墨書された提灯が吊された小祠があります。大日如来が祀られているようです。路地の北側は戸が取り払われて座敷が一望できるようにして、懸装品が北側壁面に展示され、その前に欄縁他が飾られています。座敷の北東隅に、山に奉戴される社殿と明神鳥居並びに、向かって左側に鯉山のシンボルでもある巨大な鯉が安置されています。明神鳥居には「八坂神社」と記された扁額が掲げてあります。巨大な鯉は左甚五郎作と言われています。木彫彩色のこの鯉、1m半ほどの大きさだそうです。宵山では向かって左側に置かれていますが、巡行当日は正面の鳥居に向かい、右側に置かれます。鳥居の陰になり見づらいですが、北壁面に滝が吊されています。「滝は麻緒を幅30cmほどに貼り付けた長さ1m半ほどのものを、真松に懸けて垂らし」てそこを鯉が登るという景色です。鯉の周りには、水玉をはじけさせた波が彫刻されています。人々は、この鯉の姿に立身出世への願いを投影しつつ、巡行を眺めてきたのでしょう。座敷の東端には、山の四隅の水引部と胴懸部に二段にして隅房が飾られます。房掛金具は20cmほどの不規則な円形で、鯉の瀧登りの関連でしょうか、波が意匠化されています。各金具には1羽ずつ、飛翔姿のことなる千鳥が丸彫りされています。後でまとめてご紹介する拙ブログに、そのいくつかの画像をクローズアップして載せています。この見送を含め、鯉山の四周を飾るのは、16世紀のベルギー製タペストリーを裁断して各側面を飾る懸装品に仕立てられているのです。(どういう組み合わせかも拙ブログでご紹介ずみです。)古代ギリシャの長編叙事詩「イーリアス」にあるトロイア戦争物語の一場面、トロイのプリアモス王とその后ヘカベーを描いたタペストリーだそうです。この見送部分は、大きなタペストリーの中央より左側になります。左側面の胴懸です。中央がタペストリーの中央より右側の上半分にあたります。その両側に4爪龍の綴織と組み合わせ、東西統合の胴懸とするところが、おもしろいところです。上部の水引は、タペストリーの外周の図柄、上縁部が切り出されたものです。 前懸は縦長の4枚の図柄が縫い合わせてあります。これは、タペストリーの外周部の風景画部分を左右上下で二分し、左右の上半分を内側に、下半分を外側にして縫い合わせるという形で、巧みに一つの風景に転換しているのです。前水引は、平成21年(2009)に新調された「金地果実文様」の作品。前水引の上には、「登龍門」と揮毫された扁額が掲げてあります。どなたの書でしょう?ご存知の方、ご教示くださるとうれしいです。右側面の胴懸です。こちらも東西の統合版です。中央のタペストリーは、元のタペストリーの中央より右側下半分です。左右の龍文様がそれぞれ異なる意匠であるところがおもしろいところです。上部の水引は元のタペストリーの外周の図柄、下縁部にあたります。 今回は、写真の撮りやすさという点もあり、懸装品に着目して拝見しました。この後、鯉山から更に室町通を下り、蛸薬師通を東に入ったところにある橋弁慶町に向かいます。橋弁慶山の町会所は蛸薬師通に面した北側にあります。二階の前面が全開されて、牛若丸(義経)と弁慶の御神体(人形)が通りに面して正面向きで並べられています。橋弁慶と言うだけで、大体想像がつくことでしょう。五條大橋の上で戦う場面を活写した山です。謡曲「橋弁慶」を題材とした山だそうです。この2体の人形には、永禄6年(1563)大仏師康運作の銘があるそうです。 牛若丸の眉は「八文字眉」に描かれています。これは室町末期の公家男子元服前の風習だそうです。やさしそうな眼ですが、一方で凝視する力強い意志を示しているようにも見えます。牛若丸(義経)・弁慶の相貌もまた、昼間に眺めるのと夜の光の中で眺めるのではその雰囲気に微妙な変化があっておもしろいものです。宵山の橋弁慶山を眺めて、ちょっと残念に思うのは、巡行に使われる懸装品が2階に飾られているようなので、通りから見上げるとほんのわずかに水引の端部分しか見えないことです。垣間見えているのは、唐子嬉遊図の綴錦、水引の左面の右端部分です。その代わり、一階も表の戸はすべて外され、室内に橋弁慶山の舞台になる「五条大橋」という大道具をつぶさに観察できるというメリットがあります。巡行の場では、山を見上げる形になりますので、この橋や欄縁の精緻な錺金具類を隅々まで眺めることはできません。それが間近で拝見できるのが宵山の楽しみの一つです。 室内の奥壁に張られた手ぬぐいの図柄です。巡行の折の義経と弁慶の丁々発止と戦う姿がそのまま描かれています。牛若丸は橋の擬宝珠の一つの先端にm左足の足駄の前歯だけで立つという離れ業の場面です。少し位置を変えて1階の全景を撮ってみました。西側の壁面には、 後懸 江戸末期の雲龍図刺繍の作品かつては巡行で使われた 前懸も展示されています。現在、前懸は昭和58年(1983)に新調された富岡鉄斎原画の「椿石(ちんせき)霊鳥図」が使われています。同様に、胴懸も新調されていて、円山応挙の下絵とされる「加茂祭礼行列図」の綴錦になっています。やはり、目は欄縁や橋の錺金具の繊細豪華さに引き寄せられて行きます。以前は欄縁の上面に少し着目して写真を撮ったのですが、今回はこの欄縁の見える側の側面にびっしりと連なる装飾彫刻を重点的に撮って見ました。おつきあいください。 欄縁のこの鍍金金具は昭和初年にとりつけられたそうです。五条大橋が架かる鴨川に照応して、波の上を飛翔する千鳥の姿が精巧な高浮彫で表されています。飛翔する千鳥の様々な姿が、コマ送りのように躍動感豊かに表現されています。正面の欄縁は凹型に切り下げられて、橋が欄縁からはみ出す形で載せられています。ダイナミックな演出効果がうまれています。 欄縁側面の波と千鳥の文様は、橋板の側面の文様にも展開されていきます。 こちらは正面の欄縁の凹型に切り下げられた底になる部分の欄縁側面です。1階正面の奥に展示されている懸装品の部分図です。橋弁慶山の特徴の一つは、古来くじとらずで、後祭では巡行列の先頭を行くというしきたりになっています。ゆっくりと装飾金具の躍動感と美しさを楽しんで、終盤に入ることに。蛇足ですが、2013年~2016年に、拙ブログで鯉山と橋弁慶山をその都度、視点をかえつつご紹介しています。ここに再録したものも含めて、次の記事もご覧いただけるとうれしいです。 観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -4 鯉山 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -2 鯉山 観照 祇園祭点描 -7 黒主山・鯉山・橋弁慶山 ← 2016年 観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -5 橋弁慶山と浄妙山 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -1 橋弁慶山このあと烏丸通に出て、北に上がり六角通西入ルの浄妙山と、さらに北の鈴鹿山を巡ります。つづく参照資料『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会今年の祇園祭で入手したチラシ 祇園祭宵山会議・祇園祭山鉾連合会祇園祭宵山・巡行ガイド2016 祇園祭宵山会議発行鯉山町衆 ホームページ鯉山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)橋弁慶山 オフィシャルサイト橋弁慶山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺祇園祭鯉山 facebookホーム祇園祭・鯉山の名宝 :「京都文化博物館」鯉山 :「Yokoso! JAPAN」 鯉山 ~大人から子どもたちに語り継がれる昔話 :「京都トリビア× Trivia in Kyoto」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ 探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.10
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室町通三条をさがると、そこは烏帽子屋町、「黒主山」です。昔、このあたりに神主が被る烏帽子を作る職人さんたちが住んでいたところから、その名前が付いたそうです。 胴懸ここの山を囲む柵は黒塗りで、黒主山の「黒」の文字が独特の書体で彫り込まれた朱文字で鮮やかです。この書体、ネットで調べてみると白舟書体の隷書に近い感じです。山や鉾を囲む柵は「埒(らち)」と称されるようです。熟語で「埒外」という単語は知っていましたが、この「埒」という文字が宵山の柵の張り紙(注意・依頼文)の文中で使われているのを初めて読んだとき、ああこれに由来するのか・・・・と思ったことがあります。どこの山鉾だったか・・・・記憶は定かではありません。 見送はかつて使われていたと思われる「唐子喜遊図」が懸けてあります。手許の本に「『綴錦瑞花宝散額唐子喜遊図文見送』(清)(17世紀)と祇園祭染色名品集に題されているものは元禄庚辰の記銘があり、・・・・唐宋以来大婚時の祝贈品だという」と記されるものだと推測します。黒主山の町会所の前には、宵山の折にはテントが張られています。そこでは黒主山特製Tシャツをはじめ様々なグッズが売られています。そこを通り抜けて町会所に入ると、 フロアーの正面中央奧に黒主山の御神体(人形)を拝見できます。左右、背後の三方の壁面に懸装品類が展示され、御神体の前方には欄縁その他が展示されています。 この御神体は大伴黒主で、桜の花を見上げている姿です。黒主は古今和歌集で六歌仙の一人。謡曲「志賀」を題材にした山と言われています。黒主は、手許の『古今和歌集』の作者略伝には次のように紹介されています。「大伴氏。近江国滋賀郡大友郷の人。園城寺の地主。郡の大領となり、八位に叙せらる。寛平の頃醍醐天皇の大嘗会に風俗歌を奉った。六歌仙の一人。」古今集に大伴くろぬしと明記され載る歌は三首です。 春雨のふるは涙か桜花ちるををしまぬ人しなければ 88 思ひいでて恋しき時は初かりのなきてわたると人しるらめや 735 近江のやかがみの山をたてたればかねてぞ見ゆる君がちとせは 1086古今集の編者の一人、紀貫之が「仮名序」を記し、その中で「近い世に歌人として名声の聞こえている人といえば」として、僧正遍昭を皮切りに6人を挙げ、最後がこの黒主です。そこから六歌仙と呼ばれるのですが、貫之は次のように批評しています。現代文を引用しましょう。「大伴黒主は、歌の心はおもしろいが、歌の体(さま)は低俗なところがある。たとえて言えば、薪を背負った山働きの人が、桜の花の下で休んでいるような、不調和なところがある」と。貫之は6人を挙げながら、それぞれを酷評しているところがあります。黒主さんも貫之評でいささか損をしているかもしれません。ただ、多分に伝説的な人物で詳しいことはあまりわからないようです。町会所のフロアの広さの関係で、数多くの展示品が前後に置かれていますので、個別の懸装品は部分的に拝見できるだけなのが、ちょっと残念ですが、間近で拝見できる楽しみで、毎年のように訪れています。他の山とも併せてですが、拙ブログで今までにご紹介していますので、併せてご覧いただけるとうれしいです。 観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -6 黒主山、役行者山 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -4 黒主山 観照 祇園祭点描 -7 黒主山・鯉山・橋弁慶山 ← 2016年さて今年は、展示の見やすさから特に欄縁の錺金具に着目しました。まずはそこからご紹介します。4本並べられた欄縁の全容を拝見でき、それを部分撮りして行きました。 元治元年(1864)6月に新調されたもので、菊・紅葉・牡丹・芍薬・桐・椿・桜・松等が繊細に浮彫彫刻された錺金具が取り付けられています。水引の一番と二番の一面が見えます。一番水引は、繻珍地の下部には岩と波濤をあしらい、三頭の龍を五彩の瑞雲を散らした中に精巧に刺繍で描き出した作品です。背面と側面の三方共にこの文様の水引が懸けられます。二番水引は、緋羅紗地に有職文風の模様が鮮やかに極彩色で刺繍されています。菊や牡丹他の草花と様々な姿態の瑞鳥が組み合わされています。後懸の三つ爪龍文図で綿入刺繍の作品です。手前に丈の高い展示品が置かれていなかったので、今年は龍の全体像を無理なく眺めることができました。御神体(黒主人形)に向かい、右側の壁面に目を転じると、水引の下に胴懸が展示されています。草花胡蝶文様の綴錦です。 正面に向かい左側の上掲後懸から、少し距離を離して、この金幣・幣串が展示されていましたので今回は全容が見やすかったのです。奥側には衣桁に大伴黒主の衣装が展示されているために背後の見送が残念ながら見えません。一つの見送の上端、帽額(もこう)部はズームアップで撮れました。天蓋・華鬘・輪宝などが瑞雲と共に散らされた宝飾りの構図で刺繍されています。 こちらは別の見送の上端帽額部の部分図です。こちらは獅子と瑞雲を主体にした図柄です。前懸の部分図です。これは萬暦帝即位の折の御服と伝えられる古錦を復元した五爪龍文様錦です。御神体の右側奧の壁面に見送が懸けられています。こちらは、帽額部に宝飾(天蓋・華鬘・輪宝等)を散らした唐子嬉遊図で、復元新調されたものです。今回の宵山の見送の後継と言えるものでしょう。 初代の見送には、80余名の唐子が描かれているようですので、これも同様でしょう。今回、写真を撮れませんでしたが、平成16年(2004)に復元新調された牡丹鳳凰文様の見送も展示されていました。2014年の後祭山鉾巡行のまとめを再録したこちらの拙ブログ記事をご覧いただけると、巡行中のその見送全体の場面を載せています。 ( 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 山鉾巡行 -2 (2) )竹垣をあしらった桜の木が会所のフロアーを華やかにしていました。黒主山の近くには、宵山の期間この時計回りにダイナミックに遊泳する鯉群像図の巨大な幟風の作品が立てられています。誉田屋源兵衛創業278年を記念して2008年5月に製作された作品です。木村英輝作。木村氏のオフィシャルサイトを見ると、この作品が「Carp is dragon in heaven」という見出しで作品の一つとして「Works Cllection」のページに載せてあります。この後、室町通を下り、「鯉山」に向かいます。つづく参照資料『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会今年の祇園祭で入手したチラシ 祇園祭宵山会議・祇園祭山鉾連合会祇園祭宵山・巡行ガイド2016 祇園祭宵山会議発行黒主山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)黒主山 ホームページ「「黒」-文字拡大 :「文字拡大」『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫補遺公益財団法人 黒主山保存会 facebookホーム祇園祭・黒主山の象徴 桜を40年ぶり植え替え 後祭復活を区切りに 2015.3.7 :「産経ニューズ」謡蹟めぐり 志賀 しが :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」宝生流謡曲 志賀 :「小原隆夫のホームページ」大友、大伴二つの「おおとも」氏 :「近江歴史回廊倶楽部」黒主神社 :「神奈備にようこそ」黒主神社(大供黒主神社) :「滋賀県神社庁」木村英輝 オフィシャルサイト Carp is dragon in heaven 自由な精神、ロックと融合 画家 木村英輝さん :「日本経済新聞」 琳派テーマに展示会と舞台 2015.8.30Ki-Yan + DOPPEL TSUBAKI ART PROJECT :YouTube誉田屋源兵衛 ホームページ ← 西陣工芸帯地製造卸 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.07
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八幡山から、三条通を東に進み、室町通を北に上がると、室町通三条上ル役行者山町です。町名のとおり「役行者山」があります。 この山は、修験道の開祖、役行者が一言主神を使い葛城と大峰の間に石橋を架けたという伝説を題材にしたものです。そこで、巡行当日は役行者を中心に安置し、向かって右側に葛城神、左側に一言主神の三体の人形が祀られます。宵山の飾り付けです。宵山では、四本柱切妻破風棟飾り付きで反りがある立派な板屋根が山を保護しています。水引は八坂神社の紋が大きく描かれ、前懸には剣先のような大岩が荒々しい波濤の間にいくつもそそり立ち、上空には日輪が中央に輝き、雲がたなびいている少し幻想的な意匠のものです。宵山の常懸になっています。胴懸は躍動する龍を主体にして、左右で二頭の龍が向き合う構図にした刺繍です 片側の胴懸を視点を変えて撮ってみました。龍の躍動感が見事です。 見送2016年の宵山見物で正面から撮ったものをその折に拙ブログでご紹介しています。こちらから併せてご覧いただけるとうれしいです。 (観照 祇園祭点描 -6 役行者山)役行者町北端東側の路地を入ると、北側に「葛城会館」と称される町会所があります。 この幟を手始めに、懸装品と御神体等の拝見を致しましょう。 広い座敷には懸装品の全体がかなり見やすく展示されています。露地を入って行くと、座敷西側の壁面前に水引と前懸が展示されています。前懸は「牡丹胡蝶図」を中央に、左右を真向龍での雲龍文様との3枚継ぎにした作品で、平成9年(1997)に復元新調されたものです。前懸の上部の水引は、右隣りに展示されている胴懸(北壁面前)の上部の水引と一連の図となっているものです。綴錦の名手西山勘七作「唐子遊戯図」です。「中国宮廷貴族の出産時贈答用の唐子図は山鉾の見送として他にも二三あるが、これはその形式を四枚の水引に分けて構成されたもの」といいます。二番水引は同様に四方とも唐織綴錦で龍、草花などがデザインされています。正面の中央には寿の文字を記した玉が織り出されています。胴懸は唐織綴錦で「雲龍波濤文」の図です。真向龍を中心に左右から二頭の龍が向かい合っています。2枚の見送の先、路地から入ると、座敷の一番奥側に展示されているのがこの胴懸です。こちらも唐織綴錦で雲龍波濤文の図です。基本的な構成はこちらも同じですが、図柄を対比して観察すると両者の違いが鑑賞の楽しみにつながります。2枚胴懸の間に、二枚の見送が展示されています。「金地唐美人園遊図」は昭和57年(1982)に復元新調されたもので、戸田与謝作。苑地に29人の唐女性が描かれているといいます。その上部の帽額には紅地に四種の草花が描かれています。こちらは茶色地に登り龍が刺繍されたものが二枚繋がれたもので、元は中国の旗だったものを転用したと考えられているようです。その「縁には牡丹唐草金襴の安楽庵裂模織」を用いているそうです。見送の前には、細型の金幣が立ててあります。巡行の折には山の前後に左右一対として飾られるものです。幣串には梅鉢結びと総角結びをした朱房がついています。 山の四つの角に取り付けられる隅房と房掛金具です。左は水引部に華鬘風の飾り結びの緋房がかけられ、右は胴懸部に浅葱色総角結びの房が二段にかけられます。今回は特に展示された欄縁の錺金具に注目して写真を撮ってみました。すべてのご紹介とまではいきませんが、それなりに部分画像を撮りました。 黒漆塗の欄縁に付けられた雲龍の透かし高浮彫鍍金金物です。昭和4年(1929)の製作で、金物師藤原秀治郎、塗師鈴木表朔による作品とのこと。座敷の西側、つまり露地を通って入って来た時一番手前に見える掛軸の祇園祭巡行図です。 かつぎ棒の先端に取り付けられる金具とその前に、安楽庵裂地が額入りで展示されています。安楽庵策伝(1554~1642)は落語の祖とも言われますが、『醒睡笑』を著した浄土宗の僧です。新京極に誓願寺というお寺があります。誓願寺竹林院に住していて、その安楽庵策伝が所持していた袈裟の金襴裂に由来するようです。これは名物裂の一つとなっています。会所の敷地には、土蔵が2つあります。一つが南側にある「にしのくら」です。こちらは、土蔵そのものが御神体の社殿で、寄棟造りです。役行者を中央にして、向かって右に葛城神、左に一言主神の御神体(人形)が安置されています。 もう一つが、会所の庭の東端に位置する土蔵「ひがしのくら」です。切妻の土蔵の扉上部に「役行者山」の文字が浮彫りになっています。こちらの土蔵に山の部材や懸装品類が保管されるようです。 土蔵前南側にある「行者石」屋根の鬼板が置かれた後に、方形の板蓋に注連縄が張られた場所が近くにあります。説明が付いていなかったと思います。これがたぶん「一言井戸」と称される井戸なのでしょう。手許の本では「影向(ようごう)の井戸」と記されています。オフィシャルサイトには、「この井戸は役行者神が生地茅原の里(現在の奈良県御所市にある吉祥草寺)から時空を超え瞬間移動する際に用いたとされています。吉祥草寺にも現存します。」と説明されています。 座敷の一隅には、大きな山鉾配置図が展示されていました。以前にも展示を見たことがありますが、反射が入るものの今回は写真を撮ることができました。この配置図は、応仁の乱前の山鉾の配置図を示しています。下部には、前祭・後祭と二段に分け、山鉾名を列挙してあります。その当時は今よりも簡素な山鉾の状態だったことでしょうが、その数ははるかに多かったことが窺えます。室町通を下り、三条通を超えて黒主山に向かいます。三条通を横切り、振り返って撮った写真です.室町通に役行者山の横断幕が張ってありました。姉小路通寄りに山が遠望できます。つづく参照資料『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会今年の祇園祭で入手したチラシ 祇園祭宵山会議・祇園祭山鉾連合会祇園祭宵山・巡行ガイド2016 祇園祭宵山会議発行役行者山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)茶の湯の裂地 :「茶の湯の楽しみ」補遺京都 祇園祭 役行者山 オフィシャルサイト役行者山 :「京都通百科事典」役行者山 京都祇園祭2017 後祭山鉾巡行 00077 :YouTube役行者山 護摩焚き :「京都いいとこブログ」山鉾巡行の無事祈願 役行者山で護摩焚き 2017.7.24 :「産経ニュース」役行者山護摩焚きレポート ?山伏さんについて行ってみた? :「京都ツウ読本」安楽庵裂 :「きもの用語大全」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.06
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北観音山から北に歩みます。新町通三条下ル三条町に八幡山があります。この町に祀られている八幡宮を山に勧請して八幡山の曳山ができたと言います。 新町通から会所の露地を東に入っていくと、北側の会所の庭に、現在は覆屋を設けた中に八幡宮が祀られています。「八幡山」の扁額が正面に掛かっています。町立の八幡宮というめずらしい神社です。こういう例は少ないようです。社殿の屋根軒先の金色吊り灯籠には、八幡さんのシンボルである向かい合う二羽の鳩がレリーフされています。会所の南側の座敷には、巡行当日に山上に飾られる総金箔の社殿を宵山で間近に拝見できます。社殿の高さは1mほどです。江戸時代・天明年間(1781~1789)に製作されたものだとか。階段上の回縁に置かれた一対の狛犬像のうち、胴が金塗り、たてがみが藍色に塗られた獅子の像です。 脇障子は極彩色の雲の中に金塗りの昇り龍彫刻が施されています。左側は降り龍の彫刻です。 唐破風の向拝の木組みは極彩色で塗り分けられ、木鼻には、三方向に犀、獅子、象が彫刻されています。少し離れて眺めると、巡行当日に山上に載る黒漆塗りの欄縁の中に、細手の朱塗明神鳥居が置かれています。よく見ると鳥居の貫には楔がありません。画像の右下部分には、巡行における籤あらための儀式に用いられる文箱が展示されています。 欄縁の隅金具は雲が高浮彫に彫刻されていて、その間に飛翔する鶴があしらわれています。 座敷の赤毛氈の上にも、鶴の錺金具が展示されています。宵山で八幡山を訪れた時は、この優美な鶴の飛翔する姿を見るのが私には楽しみの一つです。鶴は八木寄峰の下絵で、細工人河原林秀興、錺師嘉兵衛、彫師彦七が天保9年(1838)に制作したそうです。総金箔の社殿に向かって右側に、左甚五郎作の2羽の鳩像とその復元像が並べて展示してあります。現在はこの復元品が、巡行当日に鳥居のちょうど柱の位置の黒塗笠木上に枘(ほぞ)挿しして紐で結わえて飾りつけられます。傍に、この陶製燭台が置かれています。加彩唐子人形の姿です。安永9年(1780)、松下堂法橋一潤の作と説明が付されています。この燭台も楽しみの一つです。見る角度によって蝋燭の前を見つめる唐子の顔の表情が異なって見えておもしろいのです。さて、今年は壁面や床上の展示の懸装品類の展示方法がかなり変更されていました。そのために、過去何回か訪れていて、宵山で見えなかったものが見えるようになっていたりして、興味深く拝見できました。過去にご紹介したまとめに掲載した画像を併せてご覧いただけると、その差異を楽しんでいただけると思います。大きいところでは、社殿に向かい左側壁面に懸けてあった胴懸などが、逆に右側壁面に移されて、過去見づらかった図柄のものが今回は見やすくなっていました。 これらの胴懸は過去の展示では左側壁面の奧側に懸けられていて見えづらかったものです。今回は「聖獣三態」のうちの獏(ばく)の図に代わり、唐獅子と麒麟の図がよく見えるようになっていました。平成2年(1990)に復元新調されたものです。これは「童の見送」です。上辺に日輪双鳳の帽額(もこう)附きで、中国女性と子供たちが庭園中に琴棋書画する図柄です。以前はその前に隅房と房金具が前に展示されていてこの図柄が見えなかったのですが、今回は見えました。総刺繍の「雲龍波濤図」(宝暦年間)で、「龍の見送」です。中央に二頭の大きな五爪の昇龍、降龍の姿態、そのまわりに三頭の小龍(左上・左下・右中程)、そして瑞雲、岩、波などが描かれています。 巡行当日には、四隅の房飾りが三段構成で飾り付けられます。上段の画像に写るのが水引部の房掛と浅葱総角結房です。房掛は20cmほどの木彫金色法相華文薬玉風のものです。掛具隠しとして陶風の木彫飾りを被せてあります。これは「花」と呼ばれる房掛です。その下に、胴懸部分の隅房飾りが見えます。直線的な松菱文の掛具は上の房飾りの陰になっています。「菱」と呼ばれる房掛です。下段の画像の上側が、三段目の掛具と総角結びの房です。こちらの掛具は不規則な岩波文様が彫られた木彫金箔押です。「岩」と呼ばれているもの。その下側に並ぶ7つの房掛金具と総角結房飾は見送裾飾り用のものです。 房掛の飾り台の前には、見送を掛けるために鳥居形に組み立てられる見送掛金具が展示されています。「和州法隆寺写し水滴模様木彫漆箔押」と称されるもので、天保8年に作られたものといいます。 座敷の赤毛氈の上には、かき棒の轅(ながえ)先金具が2種類、計16個が置かれています。その一種は山の前後方向のかき棒先端に付けられる金具で笹の葉の落とし彫りがしてあります。この下絵も八木寄峰で、天保9年作だそうです。 他方は、山の側面方向のかき棒の先端に取り付けられる金具になります。画像には4個だけ写っています。その左にあるのは、見送の房掛金具です。瑞鳥文様と草花文様の2種類があります。瑞鳥文様と草花文様のものが一対となり、見送りを挟み込み、見送掛金具に掛けられる方と、見送の上部で房が飾られる掛金具となる方の2枚でセットになるようです。 (八幡山のホームページでは、その仕組みが画像で説明されています。ご覧になると興味深いと思います)拙ブログで過去に次のまとめ記事を宵山絡みでご紹介しています。併せてご覧いただけるとうれしいです。 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -6 八幡山 観照 祇園祭点描 -5 八幡山・屏風飾り ← 2016年「八幡山の屏風飾り」としては、町会所の展示以外で、今年は4カ所の町家で拝見できました。町会所の場合は露地を入って行ったとき、正面のガラス越しに、海北友松の子である海北友雪の描いた「祇園祭絵図」のうち、後祭山鉾巡行図四曲分の屏風を拝見できます。17世紀の、宝永大火以前の情景が活写されている作品です。肉眼では支障なく拝見できたのですが、ガラスの反射で写真に撮れなかった町家の屏風飾りもありました。 この町家の屏風飾りを私は初めて拝見するように思います。 この町家の屏風飾りも毎年拝見するのを楽しみにしているものの一つです。 六曲の屏風に雲龍が描かれています。 入口のガラス戸越しに拝見しましたので、少し反射がありますが、揮毫された大きな墨書の屏風は、飾り方が変えてありました。 八幡山拝見は、やはりこの2羽の鳩を描いた垂れ幕で締めくくりましょう。この後、新町通から室町通に東に移動します。つづく参照資料『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会今年の祇園祭で入手したチラシ 祇園祭宵山会議・祇園祭山鉾連合会祇園祭宵山・巡行ガイド2016 祇園祭宵山会議発行八幡山 ホームページ補遺八幡山の宵山 :「八幡山」祇園祭宵山の屏風飾り 小嵜善通氏 :「京都市文化観光資源保護財団」八幡山 京都祇園祭2017 後祭り 宵山 00058 :YouYube写真集 八幡山 宵山 (4) 2000.7.14 :「Mira House」 屏風の解説 (駒札) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.10.04
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南観音山から北観音山に行く時に、毎年のように新町通端から屏風などが飾られた室内を拝見する町家があります。屏風祭のスポット箇所になっている町家です。南観音山は百足屋町にありますが、蛸薬師通の北、六角通の南という区間で新橋通の両側が六角町です。ここに北観音山があります。北観音山は別名「上り観音山」とも呼ばれています。この六角町で毎年拝見する2軒の町家の屏風飾りを最初にご紹介します。拙ブログ記事で、今までに屏風祭に関連してご紹介した次の記事も併せてご覧いただけるとうれしいです。 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -10 屏風祭 観照 祇園祭点描 -3 南観音山と屏風祭 ← Y2016屏風祭のための開放展示において、毎年趣向を加えておられる点も、対比していただくとお解りになるでしょう。こういう一工夫も「おもてなし」の一つなのかもしれません。宵山見物の楽しめるところです。 一軒の町家は新町通に面した窓が開放されていて、柵越しに室内の左右に飾られた屏風と座敷にミニチュアの山が置かれ、その傍にミニチュアの尾長鳥の図柄の見送が置かれています。六角町にある町家ですので、北観音山のミニチュアでしょう。 左側奧の二曲屏風には能の一場面が題材にされているのでしょうか。面をつけ左手に茶碗らしき物をもつ立ち姿が描かれています。不案内にてその演目のソースが何かは知りません。もう一軒は新町通に面した戸がすべて取り払われて、室内空間を開放的に拝見できるようにされている町家があります。この画像の右端に敷居が斜めに写っていることで、広々とした座敷が拝見できる様子がお解りになるでしょう。上記の拙ブログ記事をご覧いただくと、毎年基本的な展示形式は同じで、そこに趣向をこらした展示がされていることがおわかりいただけます。 通りから西に向かって室内を拝見すると、こんな感じです。 一段高くなった座敷の奧に立てられた六曲屏風の水墨画です。六曲屏風の第五扇めと第六扇めの草花の図。墨を主体に少し彩色が施された絵です。 座敷の北側に立てられた金地に扇面絵を散らした六曲一双の屏風の(たぶん)右隻です。今年は一段高く土台を置かれたようです。2016年の記録写真と対比してみて気づきました。昨年はこの屏風の左隻が上掲の水墨画の屏風の位置に、展示されていました。北観音山拝見に進みましょう。北観音山に近い南西寄りの位置から撮ってみました。山形に吊された提灯は頂点に御神燈と赤地に墨書された提灯とその下の白地に北観音山と墨書された提灯以外は白地に赤い巴文と町名に由来する六角の紋を描いた提灯が吊されています。提灯の間から、会所の二階と山舞台を繋ぐ階段通路が見えます。 さらに近づき、南西側から北観音山の全景を見上げます。過去の拙ブログ記事の画像との重複をできるだけ避けつつ、懸装品類をご紹介します。山の後方、下水引の東側の部分で上から一番~三番と呼ばれます。一番の下水引は金地に様々な唐人物百余の王侯行列風俗図です。関帝祭の図と伝えられていて、中島来章の下図による作品だとか。豪華な刺繍が見事です。二番水引は「赤地牡丹唐草文様綴織」、三番水引は「金地紅白牡丹文様唐織」で、平成18年(2006)に復元新調されたもの。江戸時代の姿に戻されたそうです。 上掲の下水引の左側部分図 会所側で山舞台への階段通路横(南側)から会所の建物には「京都上上(ええ)もん屋」という木札が掲げてあります。四隅の房掛金具は祇園守。華鬘結びの上下に総角結びを配した浅葱色の大房が提げられています。 上掲下水引の部分図 階段通路の横(北側)北東側からの眺め前懸がほんの一部しか写っていませんが、前懸・後懸ともに19世紀のペルシャ絨毯です。 正面の屋根、破風下には雲鶴の木彫彩色像が見えます。片岡友輔作だそうです。 正面を北西側から見上げた景色山舞台の格子天井。天井中央に六角の穴があり、赤い布地を幹に巻かれた真松が立てられています。北観音山も巡行当日、この山舞台には楊柳観音像が安置されるのですが、南観音山が善財童子を脇侍とするのに対し、北観音山は韋駄天(いだてん)立像が脇侍として安置されます。 山の左側面。この場所では通りの西側からの眺めです。天水引の上部がこの画像では切れていますが、金地に観音唐草図です。元の天水引は文化14年(1817)に製作されたもの。それが平成2年(1990)に西陣の織匠山口安次郎により復元新調され使われています。胴懸の西面は、インド絨毯「斜め格子草花文様」の復元品です。東面の方は、トルキスタン絨毯だそうです。 今年は、特に欄縁に着目して眺めていました。唐獅子牡丹等が精巧に装飾された錺金具です。この側面には牡丹が装飾されています。この厚彫金具の下絵は六角町住人中村玉舟筆で、昭和7年の作だそうです。 山の後方。屋根には獅子口に雲形の鰭が付いています。懸魚は金箔置木彫です。精緻な錺金具がびっしりと。 破風下の雲鶴木彫彩色の装飾彫刻は正面と同じ片岡友輔作です。残念ながら見送を拝見できませんでした。「紅地百子嬉遊図」の綴織が使われています。17世紀の中国明朝のものだとか。手許の本には、「金地縫詰通釈人物図」で絽刺作法により寛政3年(1792)に製作されたものだとか。私は未見です。 (今年は夕刻からの還幸祭に焦点を絞り、巡行はテレビ視聴になりました。)八幡山に向かう折に、振り返って眺めた北観音山です。 つづく参照資料『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会今年の祇園祭で入手したチラシ 祇園祭宵山会議・祇園祭山鉾連合会祇園祭宵山・巡行ガイド2016 祇園祭宵山会議発行北観音山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)京都府 :「山車・だんじり 悉皆調査」補遺六角会 ホームページ 「蔵出し」のページに観音様の画像が載せてあります。祇園祭の北観音山 facebook ホーム山鉾の特徴と見どころ「北観音山」と「南観音山」:「京都の今日と明日」北観音山 京都祇園祭2017 後祭り 宵山 00059 by kaomaru42さん :YouTube北観音山百足屋町(2017/7/24) by 根岸貴規さん :YouTube祇園祭 山鉾篇 文化史29 :「京都市」現代の名工 山口安次郎作 能装束遺作展 :「Bunkamura」総角結び :「結 YUU」けまん結び :「結 YUU」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -7 北観音山 へ 観照 祇園祭点描 -4 北観音山 へ ← Y2016
2017.10.01
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この画像は今年の祇園祭にいただいたチラシに載っていた地図です。祇園祭宵山会議と祇園祭山鉾連合会の名称が記されていました。引用します。御旅所から真っ直ぐに四条通を西進し、新町通に左折します。まずは新町通四条下ル四条町の大船鉾から見物です。 大船鉾は「禁門の変」または「蛤御門の変」とも言われる元治元年(1864)の大火で懸装品類を除いて焼失したことで休み鉾となっていたのですが、150年間を経て平成26年(2014)に遂に復興しました。四条町の南隣り、新町通綾小路下ル船鉾町は前祭で巡行する「船鉾」が鉾建てされた場所です。船鉾が神功皇后の出陣船鉾と称されることに対し、大船鉾は凱旋船鉾と称されています。大船鉾の舳先には、大金幣が飾られています。今年はこちらが使用される番だったのでしょう。前懸は紅地雲龍青海波文綴織です。復元新調と思われます。オリジナルは17世紀の中国製のもので、大きな掛け物の一部だったと推定されているものです。 前懸の上部で、大金幣で隠れる形になっている前水引は、飛龍に波濤の図が渡来赤羅紗地に刺繍が施されたものです。19世紀に日本で製作された作だそうです。この前水引きの文様が次の下水引の一番水引に連なっていきます。一番下水引は激しい波濤の上を鳥の翼を持つ飛龍が同様に刺繍されています。緋羅紗地飛龍波濤文様刺繍です。二番水引は金地雲龍文様です。この飛龍の形は、船鉾の大舵の螺鈿細工の図柄や丸彫の彫刻像に見られるものと共通します。船鉾のご紹介の方もご覧きただけるとうれしいです。また、胴懸は18/19世紀のヨーロッパ製の赤羅紗無地と日本製の緑色系の毛織物無地を縫い合わせたもののようです。これを眺めると私は歌舞伎の三色の定式幕を連想します。 楫(かじ)は、両面が降り龍と波濤の図で、渡来の赤羅紗地に刺繍が施された刺繍裂です。緋羅紗地雲龍波濤文様刺繍。その刺繍裂が木製の楫本体に被せてあるそうです。刺繍された龍の目はガラス製のものが使われているとか。18世紀に日本で製作されたものです。後懸には、6頭の真向龍が並ぶ雲龍文様の図です。 車輪 大船鉾の会所には、新規に製作された龍像と、その製作にあたりモデルとなった瀧尾神社の龍頭が並べて展示されていました。このモデルに絡んだご紹介は、2016年の拙ブログ記事でまとめています。こちらから御覧いただけるとうれしいです。 (観照 祇園祭点描 -2 大船鉾と瀧尾神社) こちらが瀧尾神社の拝殿天井を飾る迫力満点の丸彫り龍像の頭部です。滝尾神社の拝殿は、今年屋根の修復工事が進められていますので、祇園祭の宵山に並べて披露できる機会が得られたということではないでしょうか。会所の奧には、ご神体の人形が安置されています。安曇磯良神と記された紙が御簾前の上部に掲示されています。「大船鉾の御祭神は鎧を脱ぎ狩衣をまとったお姿です。また、船鉾には渡海の無事を守るために住吉明神・鹿島明神・安曇磯良の三神がお供されています」と大船鉾のホームページでは説明されています。会所で船の舳先に大金幣と交替に飾られる龍像と瀧尾神社の龍頭を眺めた後、四条通を横切り、北に上ります。 錦小路通と一筋北になる蛸薬師通との間で、新町通の両側が百足屋(むかでや)町で、「南観音山」のあるところです。画像は新町通を上がって、南観音山の南面を眺めた景色で、山の後方部です。新町通の北側が山の正面になります。南観音山はその名の通り、山ですが、外観は鉾と同じように見えます。しかし、外観から区別できる箇所があります。それは屋根の上に突き出ているのが、鉾のように真木ではなく、真松が立てられていることで識別できるのです。名前の通りこの山には観音様の楊柳観音像と善財童子像が巡行当日に祀られるのです。楊柳観音は病気の苦しみから人々を救済する観音様として信仰されています。江戸時代には、八坂神社は感神院という名称で、延暦寺の末寺であり、明治以前は神仏混淆で本地垂迹という思想が広まっていた時代ですので、祇園祭に観音様が登場しても不思議ではありません。この南観音山は別名「下り観音山」とも呼ばれるそうです。下水引の一番は四周に楽器を奏する優美な天女群像を眺めることができます。日本画家加山又造原画による「飛天奏楽図」です。二番水引は猩々緋に下向きの剣と巴文が金糸伏せ縫いされたものです。 後方の下水引を部分撮りしてみました。 こちらは側面の下水引の部分撮り画像です。三番水引きは紺繻子地に小さな真向龍が整然と数多く刺繍されています。これは北西側から撮った画像です。飛天奏楽の姿が四周の下水引となっているのがわかりやすいと思います。また、南観音山の四隅の木彫漆箔四君子文薬玉角飾が目を引きます。欄縁角の下に角房掛金具が取り付けられ、総角結びの金小房が下げられて、これに直径30cmほどの大薬玉が吊されます。その下に金糸丸組紐の長い束が総角結びで二段結びにされた大房です。現在のものは2011年に110年ぶりに復元新調された作品だとか。 四君子とは、蘭・菊・梅・竹を意味します。この大薬玉は薬王観音を象徴しているそうです。明治24年、吉田雪嶺作。前懸は、中東の「連花葉文様段通」で17世紀中期のものを2014年に復元新調されたものといいます。段通は絨毯を意味します。胴懸はペルシャ花文の絨毯(段通)です。後懸は2011年に新調されたイランの真珠織のペルシャ絨毯で「中東連花水辺に魚文様」と題されているとか。切妻屋根の破風は黒漆塗りで金具の装飾はありません。三つ花懸魚に雲鰭が付いています。屋根裏は金箔押しで、正面の鱗板部は盬川文麟下絵で幸野楳嶺・山母雙竹両画家の彩色による作だそうです。後面も同じです。 夫人、雲、麒麟(?)などが透かし彫りで極彩色で煌びやかです。天水引の図柄の一部をズームアップしてみました。真向龍が刺繍されています。一方、後面の屋根裏を見上げると、こちらには 夫人、雲、龍などが彫刻されています。南観音山の正面側を眺めて、更に新町通をあがります。北観音山が見え始めます。やはり、山鉾そのものの細部を鑑賞しようとすると、宵山も昼間に巡る方が楽しめます。つづく参照資料『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会今年の祇園祭で入手したチラシ 祇園祭宵山会議・祇園祭山鉾連合会祇園祭宵山・巡行ガイド2016 祇園祭宵山会議発行大船鉾の懸装品 :「大船鉾」南観音山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)「祇園祭-南観音山の名宝-」出品資料一覧 pdfファイル補遺禁門の変 :「コトバンク」瀧尾神社(たきおじんじゃ):「HIGASHIYAMA」瀧尾神社 京のスポット :「KYOTOdesign」ドキュメント 南観音山 :「京都祇園祭 南観音山の一年」祇園祭-南観音山の名宝- :「京都文化博物館」加山又造 :「コトバンク」華麗にして斬新!戦後日本画の旗手・加山又造の画業をたどる大回顧展 2017.2.23 :「サライ」日本画家 加山又造 :YouTube日本橋高島屋「生誕90年 加山又造展~生命の煌めき」 :YouTube塩川文麟 :ウィキペディア幸野 楳嶺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.30
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7月22日、後祭の宵々山の日に前祭同様、午後の明るいうちに見物に出かけました。夜の混雑の中を巡ることを避けたいことと、拝見した際に写真を撮ることを優先したかったからです。今年は神幸祭を重点的に見物しましたので、出かけた時にまず御旅所を訪れました。冒頭の画像は、四条通南側歩道の東側から、3基の神輿が御旅所に奉安されて並んでいる状態を撮ったものです。神幸祭・神輿渡御のご紹介の折に、神輿は3基で祭神は3柱というご説明をしました。神霊と神輿の関係は次のとおりです。 中御座 素戔嗚尊 (スサノオノミコト) 六角形の神輿 三若神輿会 東御座 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト) 四角形の神輿 四若神輿会 西御座 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ) 八角形の神輿 錦神輿会中御座と西御座は神輿の屋根の頂上には鳳凰が立ち、東御座は宝珠が載せられています。神幸祭見物の折、再認識したことを記していました。それは御旅所の御殿の配置のことです。冒頭の画像は、四条通南側で神輿が北面している状態です。そして、この神輿の置かれた空間が、普段は四条センターとして、京都の銘菓・物産が展示販売されている場所であり、この左右、つまり東西に御旅所の御殿があるのです。普段、あまり意識せずこの前を通り過ぎていて、御殿が別れてあることを意識していなかったのです。河原町通から四条通を西に進んでくると、最初に目にとまるのが、こちらの御殿「東御殿」です。通り過ぎて西側から撮ってみました。 正面から眺めた東御殿神幸祭の後、西御座(神輿)から、この御殿に八柱御子神(やつはしらのみこがみ)が遷座されるそうです。こちらが「西御殿」です。前を通り過ぎて、同様に西側から撮ってみました。 正面から東御殿を拝見したのがこの画像です。 御殿の正面階段の前に、随身(随神)が弓を携えて椅座して護衛の役割を果たしています。随身の口が向かって右が阿形、左が吽形になっているところが興味深いところです。お寺の仁王門の力士像の阿形・吽形の発想が取り入れられているのでしょうか。御殿の扉の上には円鏡が掲げられています。東御殿も同様です。こちらの御殿には、中御座・東御座の2基の神輿から、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が遷座されるそうです。 正面の階段の側面中央には、錺金具がつけられています。その草花文様はよく観察するとすべてデザインが異なるのです。一方、上掲の扉の補強を兼ねた錺金具は左右対称の文様のように見えます。 東御殿の東隣に小社が並んでいます。「冠者殿社(かんじゃでんしゃ)」です。官社殿社と表記されることもあるそうです。御旅所は祇園祭の前祭~後祭の一週間だけ八坂神社の本殿からこちらに祭神が遷座されるだけですので、まさに仮宿だからでしょうか、特に駒札のようなものはなかったと思います。普段は建物があるだけということに戻るのでしょう。こちらの「冠者殿社」は、駒札に記されていますが、素戔嗚尊の荒魂が普段も祀られているということになるようです。説明板によると、「全国の神社の本社には和魂(にぎみたま)を、荒魂(あらみたま)は別に社殿を設け祭るという例が多い」とのことで、ここもその典型例といえるようです。もとは、烏丸高辻に八坂神社大政所御旅所があり、そこに鎮座していたとのことですが、その後幾度かの移転を経て、現在地に移されたといいます。私もそうですが、多くの観光客や見物客は、左右の御殿もさることながら、しばらく立ち止まり、3基の神輿に目を留めて感心している風情が見られます。神輿が3基並び、ここに一週間仮置きされることを「御駐輿(ごちゅうれん)」と言うそうです。冒頭の画像とは逆に、歩道の西側から3基の神輿を撮ってみました。その後、それぞれの神輿の正面に立ち、八坂神社に近い方、つまり東側から順に神輿を個別に撮りました。 西御座 中御座 東御座これをまとめている時にあらためて気づいたことがあります。 「神幸祭 神輿渡御」でご紹介したこの画像が記憶に残っていたのです。これは御旅所に最初に到着した中御座です。それがこの空間の東端に奉安されて、次の東御座の到着待ちの景色でした。22日に御旅所前に再訪した時は、上掲の状態で御駐輿されているのですから、東御座が西側に奉安された後に、中御座が中央に移されて位置が定められたということでしょう。そして、最後に西御座が到着し、東御殿側での儀式を経て、東側のスペースに西御座が奉安されたと理解せざるをえません。こんなことも今回初めて知った次第です。過去に祇園祭を見るために四条通に出て来たときは、御旅所に神輿が並んでいる状態しか拝見したことがありません。3基の神輿の違いもほとんど意識していませんでした。御旅所での神輿の位置からここで改めて、神輿の名称と祭神の関係が気になりました。八坂神社の「御祭神」のページを見て理解できました。神輿の名称は、祭神が神社本殿に鎮座される御座の位置関係なのですね。今頃になって、ナルホド!です。勿論、本殿では中央に主祭神の素戔嗚尊が南面して鎮座されます。その左側つまり東側に櫛稲田姫命が、右側つまり西側に八柱御子神がそれぞれ鎮座されているということなのです。八坂神社には現在、祭神として、十三座が祀られているという説明になっています。そして、東御座の下に、「御同座 神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)・佐美良比売命(さみらひめのみこと)」と記され、西御座の下に、「傍御座 稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)」と記されています。これら諸神を合わせて十三座になります。ということは、八坂神社の主祭神は祇園祭の時、御旅所に遷座されますが、たぶん四柱の祭神は本殿にそのまま留まられるということなのでしょうね。祇園祭の前祭・後祭の期間において、八坂神社の祭神が本殿を空っぽにされる訳ではなさそうです。ただし、主祭神にまず祈願したい方は、この期間は御旅所に行くべきという事になるのでしょう。八百万の神々としてあまり気にすることもないのかも知れませんが・・・・・。素戔嗚尊を中心に左右の祭神の配置が決まるのですから、北面する御旅所では、方位の西に東御座、方位の東に西御座の神輿が奉安されて並ぶのは当然のことになります。神輿「東御座」の西側は、垂れ幕で囲った区画が設けられ、そこには神幸祭の神輿渡御において、中御座の先導をした神宝奉持列により運び込まれた「お宝」が陳列されています。基本は7種のお宝がここに運び込まれているそうです。 資料を参考に、少し推測を交えて確認してみましょう。左の画像で観察すると、一番手前が琴でしょうか。靭(ゆき)に入れられた矢、十六菊の紋を付けた楯、弓、剣が並んでいます。その奧にあるのは、長い柄の付いた団扇のようです。上掲画像の正面に3つ立て掛けてあるものには、手前に「御太刀袋」という説明木札が置かれています。その右側奧には、これも長い柄のついた矛が並べてあります。一番奥に御帳台のようなものが見えます。神宝奉持列では先頭を行く「勅板(ちょくばん)」は、御旅所について、儀式が終わると、本殿に戻されるとか。「その勅板には、天延二年(974年)、円融天皇(位:969~989年)の高辻東洞院の地に大政所御旅所を賜り、この地に毎年神幸することとの勅令が記されているという。」(参照資料より)ものだそうです。7種のお宝とは、勅板、矛、楯、弓、矢、剣、琴をさすようです。武具と楽器が神様の携行品として運ばれて、傍に置かれていることになります。武具はそれぞれ3本です。自分なりにまとめる過程が、学びを深める機会となり、おもしろいものです。それでは、後祭の宵山見物に参りましょう。つづく参照資料「八坂神社」ホームページ八坂神社御旅所 :「京都通百科事典」知られざる祇園祭 神宝奉持列 by 五所光一郎 :「祇園祭」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -2 後祭宵々山 大船鉾・南観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -3 屏風祭・北観音山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -4 八幡山・屏風祭(2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -5 役行者山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -6 黒主山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -7 鯉山・橋弁慶山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -8 浄妙山・鈴鹿山 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.28
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予定は21:45着でしたが、21:57頃に、東若御座(子供みこし)が到着しました。 東若御座も、西側の社殿前で神輿を差し上げて回すという神輿渡御最後のパフォーマンスを見せてくれます。そして、社殿前に神輿を据えて、御旅所着の儀式が行われました。御旅所の建物では中御座の飾り付けの調整も終了し、東御座の到着を待つ態勢に入っています。神官が迎えの為に中御座の西側に立たれています。 22:00着予定の東御座が22:15頃に、東側社殿寄りに到着しました。神輿を差し上げて、御旅所前の四条通の幅をフルに使い、神輿を時計回りに回すという神輿渡御最後の威勢よさが披露されます。担ぎ手が加わり、倍近くの人数で掛け声とともに高く差し上げて神輿を回す姿は、勇壮かつ熱気に溢れるパフォーマンスです。コマ送り画像で、その雰囲気を感じ取ってください。立っていた場所の関係で、中御座よりも東御座をより間近で見物し、こちらまで気分が高揚してきます。見物客からも掛け声が飛び交います。神輿の担ぎ手と観客の共振というところです。 この時点で、22:20を過ぎました。中御座が東側に対して、中央を空けて東御座が西側に安置されます。この後の手順は、多分中御座の場合と同様だろうと思いますが、交通機関の運行時刻を考えて、この辺りで帰宅することにしました。最後まで見られずに残念です。西御座の奉安まで見るとするなら23:30を超えることになりますので。 京阪電車に乗るために、四条河原町の交差点を渡る時、河原町通の南を眺めると、氏子区域を巡行してきた西御座が高島屋の東側までやってきたところでした。22:25過ぎに交差点にかかる西御座の行列を最後に眺めて、「神幸祭 神輿渡御」の初見物が終了しました。ご一読ありがとうございます。参照資料神輿渡御コース図 今年見物の折に入手の資料以下は、「祇園祭 Y2017の記憶」としてまとめてきた一覧リストです。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -19 神幸祭 神輿渡御 (1) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -20 神幸祭 神輿渡御 (2) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -21 神幸祭 神輿渡御 (3) へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ
2017.09.20
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四条通の南側にある八坂神社御旅所です。神輿が氏子区域を巡行している間に、新京極通の南端が四条通に合流する地点より少し東寄りで、御旅所の中央あたりに対応する北側歩道に運良く見物場所を確保できました。紅白縦縞の幕を張った空間に神輿が安置されます。この建物空間、祇園祭の期間以外は「Otabi Kyoto」四条センターとして、京都の名品物産の展示販売所となっているところです。四条通に来るときは結構この前を通る機会が多いのですが、迂闊にも今回再認識をしたことがあります。それは、この明るい建物の左右に御旅所の社殿があるということです。私はこの四条通を普段歩いていて、左右にあるということをそれほど意識していませんでした。あたかも一つという風に頭の中で統合してしまう合理化をしていたのかもしれません。太鼓と「清々講社」の幟を掲げた「神宝列」の先頭が18:20頃に到着しました。予定は18:15です。その後に、騎馬武者が続きます。 「豊園泉正寺榊列」が続きます。榊を山鉾にし、「豊園榊」として継承されているものだそうです。白い御幣が多く付けられています。 邪鬼を祓い、幸いを招来するとされる「幸鉾」です。神宝列でここまで持ち運ばれてきたものが、南西隅の一画に陳列されていきます。 その後に、馬上の久世駒形稚児が中御座の先導として現れました。すぐ後には、やはり馬上の神官が従っています。 そして、八坂神社宮司輿が到着しました。中御座に従ってきた宮司輿は、中御座より早くここに到着して、今度は宮司がこの御旅所前で、中御座と後の2基の神輿を出迎えるという立場になるようです。宮司をはじめ神社関係者と裃姿の氏子代表関係者が神輿の到着を出迎えます。 予定より10分ほど遅く、20:15頃に、中御座が三若と大書された提灯を先頭に到着です。 西側の社殿前まで進むと、そこで神輿は四条通の幅一杯にホイット!ホイット!の掛け声とともに威勢よく神輿をグルグル回し、さらに神輿を高々と差し上げるという儀式が行われます。その雰囲気は迫力満点です。この行為のために神輿担ぎに参加する誉があるという感じです。担ぎ手の心意気と力のパフォーマンス! 勇壮でひとしきり熱いムードに覆われる瞬間です。神輿を社殿前に据えると、担ぎ手は一斉に四条通に座り込みます。動から静への転換。当りに静けさが訪れます。そして、宮司による儀式が始まりました。距離があるので、儀式の詳細は分かりかねますが、宮司が社殿に向かって多分神輿渡御の祝詞をあげられているのでしょう。その後で、神輿並びに関係者、担ぎ手の方に出て来て向き直って、お祓いが行われました。 神輿の巡行のための長い轅(ながえ:担ぎ棒)がまず取り払われて、神輿の本来の轅だけの状態に戻してから、建物に中御座を安置する行動に移ります。この空間に3基の神輿がピッタリとおさめることができるようにする必要があります。中御座は八坂神社に一番近くなる東側に安置されました。 建物内への安置が終わると、すぐさま神輿の飾り付けの調整が行われます。神輿の頂上の鳳凰像には神輿渡御の間、稲の束が結わえつけてあります。神輿が御旅所に安置されると、これが取り外されます。この稲は熱冷ましの薬効や縁起物として担ぎ手や一般の人々やが分け与えられるそうです。この稲は京丹波町下山尾長野に所在の八坂神社の神田で作られた稲が奉納されたものだとか。この神社は昭和45年(1970)に京都の八坂神社の神撰田となり、毎年5月末の日曜日に御田祭(田植えの神事)が行われているそうです。それが完了すると、中御座自身の神輿渡御は完了です。これで、還幸祭まで素戔嗚尊の御霊はこの御旅所に滞在されるという次第です。神輿自体は御霊が遷座される為の手段と考えると、御旅所の社殿に遷られたのでしょうね。と言うことは、神幸祭から還幸祭までは、八坂神社本殿よりも、この御旅所の社殿で祈願するのが多分本筋ということでしょうか。予定では中御座到着から東若御座(子供みこし)到着までは40分の間隔です。この間隔の時間で上記の行程が進行して行きましたので、少し待てば、東若御座がやってきます。つづく参照資料神輿渡御コース図 今年見物の折に入手の資料神幸祭神輿渡御:神宝捧持列 :「祇園祭」(京都cf祇園祭特設サイト)三条台若中(さんじょうだいわかじゅう) :「京都通百科事典」八坂神社 京丹波町下山 :「丹波の神社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -19 神幸祭 神輿渡御 (1) へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -20 神幸祭 神輿渡御 (2) へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ
2017.09.18
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神輿渡御出発式が終わると、3基の神輿はそれぞれ氏子区域の巡行に入ります。最初はしばらく東御座の後を随行しました。出発式を見物し写真を撮るための立ち位置は、3基のうち東御座の追っかけに一番適している場所でした。前回冒頭に引用した神輿渡御コースの部分図です。八坂神社石段下から、東御座は青色実線のコースを進みます。東若御座(子供みこし)もまた、緑色実線で東御座とは一部異なるコースを巡行します。石段下の東大路通をまず北に出発するのです。一方、中御座は赤色実線のコースで、四条通を西に出発し、大和大路通に右折して北上するコースです。西御座は四条通から花見小路通~団栗通~川端通~四条通と迂回するコースを巡り、大和大路通を北上するコースに入ります。 東御座は東大路通を北に進み、知恩院新門前の交差点で新橋通に左折します。 コマ送り風に新橋通を掛け声とともに東御座が西に進みます。 花見小路通で一旦南に入り、折り返して新橋通に戻るのです。 花見小路通に入ると少し、東御座は休憩タイムに入りました。画像右奧に見えるのは、四条通に面した有名な「一力」の赤壁です。花見小路通の北を眺めると、中御座が見えました。ここで東御座から中御座の追っかけに切り替えることに。 いずれの神輿も、巡行コースの交差路で少し広い空間があると、神輿を回したり、差上げたりというパフォーマンスを行われるようです。単に神輿を担ぎ巡行として通り過ぎるだけでないところが、威勢の良さ、神幸祭・神輿渡御の雰囲気、情緒を盛り上げます。少し先行して、中御座が北に進んでくるところを撮ってみました。 大和大路通の北は、市バスのターミナルで、広々とした空間です。ここを道路沿いに川端通に移り、三条大橋を渡るのです。三条大橋は既に大勢の見物客が密集しています。川端通の端から、三条大橋を渡り始めた中御座を撮ってみました。 この位置で中御座が三条大橋を渡る姿を眺めることにしました。 三条大橋を渡り終えると、中御座は三条通から木屋町通に右折し、二条通に向かう巡行コースをとります。そこで中御座は三条大橋西詰のところで、休憩タイムに入りました。写真の記録時刻は19:19頃です。 これを三条通で見かけました。これは何? 関心を抱いて調べてみると、情報が得られるものです。インターネット検索のメリットです。「八坂神社宮司輿」だそうです。中御座は八坂神社の主神である素戔嗚尊の御霊が乗られる神輿です。そこで、この輿には宮司が乗り、中御座神輿の後に従い氏子地区を進むとのことです。遅ればせながら、初めて知りました。新しいものだなと眺めながら写真を撮ったのですが、2013年に約80年ぶりに新調されたそうです。神幸祭神輿渡御の予定では、神輿渡御を先導する神宝列が御旅所前に到着するのが20:15ということですので、この休憩タイムを区切りとして、神輿の追っかけをやめ、三条大橋西詰から四条通にある御旅所に向かいました。見物客の出具合もわかりませんし、記録写真を撮る位置決めも必要ですので。御旅所は、新京極通の南端が四条通であり、新京極通からみれば、四条通を挟んで南東側にあります。つづく参照資料神輿渡御コース図 今年見物の折に入手の資料神幸祭神輿渡御:神宝捧持列 :「祇園祭」(京都cf祇園祭特設サイト)補遺八坂神社 ホームページ http://www.yasaka-jinja.or.jp/ 祇園祭 概要 ・祇園祭の由来 ・ 祇園祭の行事予定祇園祭 :「綾戸國中神社」 神幸祭・還幸祭で中御座を先導する久世稚児(久世駒形稚児)と祇園祭の関係 が説明されています。祇園祭 清々講社 by 五所光一郎 :「祇園祭」祇園祭 :「京都新聞社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -19 神幸祭 神輿渡御 (1) へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.16
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祇園祭において、山鉾巡行は神様を楽しませる神賑(かみにぎ)わいという位置づけになっていて、祇園祭としての最も重要な行事は八坂神社の神輿渡御(みこしとぎょ)なのです。八坂神社の本殿から祭神の御霊が四条通にある御旅所にしばらく移られて、再び八坂神社に戻られるという行事です。この時の御霊の乗り物が神輿で、この移動が渡御となります。狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」を見ると、神輿と山鉾が一緒に描かれています。今年の山鉾巡行当日は、その巡行風景をテレビの報道で眺め、この神輿渡御をできる限り見物することにしました。現在は、山鉾巡行が前祭が午前9:00出発、後祭が午前9:30出発で午後にかけての巡行行事となるのに対して、7月17日の神幸祭、7月24日の還幸祭の神輿渡御はそれえぞれ夕刻から始められ深夜近くに及びます。両方見物するのはかなりハードです。今まで宵山や巡行の見物を主体に祇園祭に触れてきていましたので、神輿渡御をホンの一部眺めたことは過去にありますが、神輿渡御を中心に見物するということがありませんでした。今年はその初ウォッチングとなりました。冒頭の画像は今年入手した神輿渡御での氏子区域巡行コース図です。引用します。今年は見ていないのですが、神輿渡御に先立ち2つの神事があるのです。諸資料を参考にして少しご紹介します。7月10日の夜に、神輿洗式が行われ、八坂神社境内の舞殿に3基の神輿が奉安されるのは、既にご紹介しました。その続きの神事になります。まず、15日午後8時に、八坂神社の境内で「宵宮祭」の神事が行われるそうです。境内の灯火を消し、本殿に祀られている祭神の神霊を、舞殿に奉安されている神輿に遷すという神事です。祭神は3柱、神輿は3基です。神霊と神輿の関係は次のとおり。 中御座 素戔嗚尊 (スサノオノミコト) 六角形の神輿 三若神輿会 東御座 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト) 四角形の神輿 四若神輿会 西御座 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ) 八角形の神輿 錦神輿会櫛稲田姫命は素戔嗚尊の妃神で、八柱御子神は素戔嗚尊の御子神です。中御座と東御座は屋根に鳳凰を、東御座は擬宝珠を頂く形です。そして、17日午後4時、神輿渡御に先立つ前に、本殿で「神幸祭」の神事が行われます。その後、午後6時に八坂神社石段下で「神輿渡御出発式」が行われます。見物人にとってこれが「神幸祭」の大きな見所の一つで、ある意味始まりになります。今年は、ここから見物した次第です。 八坂神社の南門を出た先導が東大路通を北に上がり石段下に向かって来ます。写真に撮れなかったのですが、神幸祭・還幸祭において、久世稚児が神宝列を従えて神輿渡御を先導するそうです。その際久世稚児は国中神社のご神体を胸に提げ、スサノオの荒御霊を抱いているといいます。 雅楽奏者も行列に加わり、演奏しながら緩やかに続きます。 中御座 神輿が石段下の三叉路に来ると、そこで掛け声と共に神輿を数回時計回りに回します。回すだけでなく神輿の差上げもあります。「ホイット!ホイット!」と声高らかに。3基の神輿に東若御座(子供御輿)が1基加わっています。子供御輿といえども、小型化してあるだけで本格的な神輿仕様です。 東御座 西御座3基の神輿が石段下に勢揃いすると、神輿渡御出発式が行われます。 宮司の挨拶の後で、並んだ神輿に対してお祓いが行われます。 石段下での神輿の「差上げ」が神輿渡御への威勢づけともなり、高々と差上げられた神輿はひとつの見所です。 手前・東御座 中御座 東御座 西御座そして、いよいよ3基の神輿はそれぞれの氏子区域を巡行してから、時間をずらせて、四条通の御旅所に向かうのです。冒頭の巡行図で大凡お解りいただけるでしょうが、3基の神輿は時差をつけて、大和大路通(四条-三条間)、三条大橋、河原町通(三条-四条間)、四条通(河原町通-御旅所前)を通過します。今回は少しの区間、東御座の神輿のコースに随行してみました。つづく参照資料祇園祭 山鉾行事 今年見物の折に入手の資料神輿渡御コース図 今年見物の折に入手の資料神幸祭 :「祇園祭」(KBS京都)久世駒形稚児社参補遺祇園祭神幸祭2017/7/17 :「京都観光・旅行」 神輿3基が石段下に並んだ写真の掲載あり。(私は立ち位置の関係で撮れなかった!)三条台若中 三若神輿会 ホーム facebook祇園祭 三若みこし会会頭の神幸祭 :「Club Fame.」神輿について神輿について錦神輿会 CLOSE UP 錦市場 :「ローム彩時記」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.15
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新町通から錦小路通を東に入ります。そこが霰天神山のある天神町です。宵山提灯の山形をながめると、八坂神社の神紋を描いた提灯に、赤色の星梅鉢紋が併せて描かれています。永正年間(1504~1520)、京都に大火があった際、急に霰が降り、猛火がたちどころに鎮下した。その時、霰とともに小さな天神様(約3.6cm)が降りてきたのでこれを祀ったのが霰天神山の起こりと言われています。また、錦小路通にあることから錦天神山、あるいは火除天神山とも呼ばれるようです。 宵山には、黒と白の市松模様の覆屋根が設置されています。ここも前懸、胴懸、水引などはかつて巡行に使われた懸装品が山に懸けて展示されています。透明のシートが被せてあるため、図柄が大凡でしかおわかりいただけなくて残念です。前懸は中国刺繍の「太湖岩鳳凰図」のようです。胴懸については確定できそうな資料がみつかりません。不詳です。霰天神山は欄縁の上に、朱塗り極彩色の回廊が巡らされます。この回廊が他の山の水引に相当するために、欄縁の下に水引が懸けられずに前懸、胴懸、後懸の全体図が見える形で巡行されます。ここでは見送は使用されません。新町通高辻上ルから錦小路通あたりまでは、室町通とともに、宵々山の昼間といえどもそれなりに観光客の見物が多かったところです。霰天神山の懸装品が展示されている会所の座敷を露地から眺めるのにも列ができていて、写真を撮ることもままなりませんでした。「霰天神山」の幟が立てられてある背後には、この山の収納庫となっている蔵が見えます。座敷の奥側に、天神の扁額を懸けた鳥居と桧皮葺唐破風春日造の社殿が安置されています。巡行日にはこれが山の上に移されます。社殿の左側壁面に、前懸が展示されています。これは鯉山所蔵の前懸、胴懸などに仕立て直された16世紀ベルギー製のタペストリーと一連のタペストリーであり、鶏鉾の見送に使われているタペストリーの一部ではないかと推定されているそうです。タペストリーの額縁部下縁が巧みに三段に編集されているのです。鯉山の右側面水引がそれを推測させる類似の図柄でもあります。画像で下部が切れているのは、座敷の前に関係者の人々が座っておられたのです。なお、このタペストリーは平成21年(2009)に復元新調されています。社殿が置かれた場所からは座敷の左端の奧側角に、胴懸の1枚がL字形に欄縁に懸けてあります。上村松篁(しょうこう)下絵による「白梅金鶏図 綴織」(昭和60年・1985新調)です。白梅が少し垣間見えます。手前には角房と房掛金具が並べてあります。房掛金具はやや楕円形大形で松・梅・紅葉厚肉彫です。角房は浅葱色で総角結び、その下に短冊形の飾り金具が懸けてあります。図柄は、杜若・菊・紅葉・桜とそれに合う鳥が配されています。そして房となります。もう1枚の胴懸の右上部分がわずかに撮れただけ。この部分図柄は、上村淳之(あつし)下絵による「銀鶏図 綴織」(平成14年・2002新調)の一部分です。上村という姓でお解りでしょう。上村松園-上村松篁-上村淳之と親子三代の日本画家一家です。後懸は全く撮れなかったのですが、平成21年(2009)に「紅地雲龍宝尽図」が新調されています。会所を出た後、錦小路通から室町通に左折し、北に上ります。そこに、山伏山が見えます。室町通西小路上ル山伏山町です。ここは、山の胴組がそのまま見える形で置かれていました。 その名の通り、この山の御神体は、淨蔵貴所の大峰入りの姿を表す人形です。淨蔵貴所は昔、八坂の塔が傾いたとき、法力によってなおしたという伝承がある山伏だとか。今回は素通りすることにしました。2013年の宵山散策の折に、会所2階に展示された写真を撮っています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。 (観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -3 占出山、山伏山、伯牙山)室町通では山伏山が一番北なので、室町通の一番南の白楽天山を見物して終わりとすることにしました。今年の前祭の宵々山巡りも未訪の山を残す結果になります。白楽天山もまた胴組が置かれているだけで、懸装品類は会所の1階に展示されています。提灯の山形を眺めると、八坂神社の神紋の描き方は、山ごとに少しずつ違いがあります。ここもまた異なります。提灯に「白」の文字が篆書体様で記されています。 会所の入口が全開され、前にテーブルを置き、係の人が坐っています。その前から展示品を拝見しました。正面奧には八坂神社の神紋を金糸で刺繍した幕が吊され、その奧に「八坂皇大神」と墨書した掛軸が懸けられて、その前に山に安置される御神体の人形が二体並んでいます。白楽天山は、中国・唐代の白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うという場面を題材にしたものです。この二人の問答も大変有名になり各種の書に載っているようです。道林禅師は、西湖の北に位置する秦望山に蟠踞する老松の樹上に好んで坐したと言います。坐する道林の傍らで鵲(かささぎ)が巣を作ったので、道林は鳥窠禅師とか鵲巣禅師と称されました。白楽天が杭州の刺吏となったとき、秦棒山の道林禅師を訪ねたのです。「あなたはそんなところに住んでいてはあぶないではないじゃありませんか」と問うと、「わしよりお前たちの方こそあぶないではないか」と答えたのです。「どうしてか」「薪のような家に住んで火を焚いたり、常に考えが変わったりする、よほどそのほうが危ないではないか」という対話になったそうです。そこで、白楽天がストレートに「仏法の大意は如何に?」と詰め寄ったのです。「よいことをして、悪いことをするなということだよ」とはぐらかすような答を道林が返してきたのです。「そんなことは三つの子でも知っていますよ」と白楽天が言うと、「左様。そして八十の老翁でもなかなか行いがたいことなのだ」。この答に白楽天は礼拝恭敬して下山したというエピソードです。道林禅師の答えは「諸悪莫作 衆善奉行」という禅語として伝わっています。このエピソードからすれば、道林禅師が主役で白楽天が脇役なのでしょうが、やはり世間には白楽天の名前が親炙していることから、山の名前が付いたようです。老松上に好んで坐したという道林禅師から私が連想するのは、高山寺の「明恵上人樹上坐禅図」です。左の壁面には、山鹿清華作「北京万寿山図 手織錦」が懸けられています。昭和28年(1953)以降この見送りが使われています。見送には左右に朱色の華鬘結びの見送大房が、掛金具にかけてあります。この房掛金具は華鬘形の雲中に麒麟の雌雄が浮彫にされているという作品です。昭和32年(1957)野田嘉一郎製作とのこと。万寿山は北京の西北にある乾隆以来の清朝の離宮です。昆明湖とあわせて頤和園(いわえん)と称されています。見送の左には、万延元年(860)に蟷螂山から購入したというタペストリーが展示されています。トロイ戦争の一場面が題材になっているそうです。飾毛綴のこの図を中央にして両側に藍地散雲波濤を背景に小龍が二頭ずつ配された唐織唐縫で構成されています。水引と胴懸の一部が写っているだけですが、昭和53年(1978)にフランスから購入された17世紀製作の毛綴だそうです。水引には、縁のところに「CONCORDIA」という文字が見えます。 白楽天山の会所白楽天山を拝見した後、仏光寺通に左折して、真っ直ぐに東に通り抜け、河原町通から京阪殿舎の祇園四条駅を目指しました。烏丸通を横断し、東に進むと学校の建物があります。後で地図を見ると「洛央小学校」です。 通りに面して、これらの石標類が立てられています。左の画像は、「盲人総取締所 当通職屋敷趾」の石標です。「琵琶法師明石覚一(?~1371)は,平曲家の等級を整備し,当道座と呼ばれる盲人組織を確立した。覚一の邸宅を職屋敷と呼び,盲人の技芸試験・裁判・売官などが行われた。のち当道座は江戸幕府から保護を受け,全国盲人支配機関となるが,明治4(1871)年当道制度が廃止され,同屋敷も廃された。この石標は当道職屋敷跡を示すものである。 」(説明文転記)右の石標はここに「京都市立豊園幼稚園」があったことを示します。豊園小学校内に設立されていたそうです。その傍に「京都市立豊園幼稚園記念碑」が建立されています。昭和62年(1987)に100周年記念として建立されたもの。現在は洛央小学校です。つまり、平成4年(1992)に豊園小学校が統合されるに際して、幼稚園が閉園されたとか。 道路に面して、校舎の南東角あたりになりますが小さな井戸があり、道路沿いに湧き出た水が流れるミニチュアの小川風の池が作られています。これは「豊園水」と称されています。豊臣秀吉は、五条坊門高倉に別荘として「龍臥城」を設けたといいます。その豊園の井戸水を秀吉が茶の湯に使用したというのです。かつての豊園小学校の豊園の由来がそこにあるそうです。龍臥城の趾地の一画にあたるようです。一旦は市内の地下工事の影響で水が涸れたそうですが、地下からポンプで汲み上げて復元しているといいます。普段滅多に通らない洛中の道をあるくと、様々な史跡に出会います。これも昼間の宵山巡りによるうれしい副産物です。これで、「前祭宵々山」のまとめを終わります。ご一読ありがとうございます。 参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会宵山・巡行ガイド2016 2016年に入手の資料霰天神山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)白楽山天保存会 ホームページ当道職屋敷址 :「いしぶみデータベース」(フィールドミュージアム・京都)豊園幼稚園記念碑 :「いしぶみデータベース」(フィールドミュージアム・京都)第10回下京ビジネス街の旧跡(2) pdfファイル補遺山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)上村松篁 :「コトバンク」上村松篁展 2014年 :「京都国立近代美術館」松伯美術館 トップページ国宝・重要文化財 :「栂尾山高山寺」洛央小学校の発掘調査 京都市埋蔵文化財研究所 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.14
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岩戸山から新町通を北に上ると、綾小路通の手前に船鉾町があり、船鉾の提灯が見えます。あるとき気づいたのですが、「船」という漢字に「舩」という俗字が使われていることでした。船鉾の提灯に「舩」が使われていたのです。余談ですが、「舟」と書けば「高瀬舟」のように、普通はこぶねの場合に使いますね。岡崎の疏水では「十石舟めぐり」が行われ、京都の伏見では「十石舟・三十石船」遊覧船が運航されています。また、辞典を引くと、「ふね」について、むかし中国では、函谷関から東では舟、函谷関より西では船というという使い分けがあったそうです。(『角川新字源』)船鉾は新町通で北に向いていますので、船の後方から近づいて行くことになります。『日本書紀』に記載される神功皇后が新羅に出船することを題材とした鉾です。秋9月10日に諸国に勅令し船舶を集めて兵を調練し、冬10月3日に鰐浦から出発したという記述があります。神功皇后の新羅出征の船を題材にした「船鉾」は「出陣の鉾」とも言われます。一方、帰国の凱旋の船を題材にしたのが、2015年に復活された「大船鉾」です。宵山までは、鉾の上部に格子枠で半透明の覆い屋根が設けてありますので、この画像では戦場の屋形の屋根との境界が分かりづらいかもしれません。船鉾も当初は質素な形から始まったようですが、現在の船鉾は「安宅船」と称された中規模の軍船をモデルにしているそうです。また、現在の船鉾の姿になるのは江戸時代中期以降のようです。 私が幾度見ても魅了されるのは、艫(とも)の櫓の下に垂下しているこの大舵です。黒漆塗の厚板に青貝で螺鈿細工が施され、左舷には逆巻く荒波の上に接近し飛び込むかのごとき飛龍、右舷には荒波から躍り出て天を目指す飛龍が描き出されています。狩野派鶴沢探泉の下絵に、塗師田中次兵衛、青貝師佐々木吉兵衛が協働した寛政4年の作だといいます。櫓の下、大舵の前の船尾側面に見送が懸けられています。和綴錦で、真向の登り龍と青海波の意匠です。猩々緋の外縁には左右に3本、下端に8本の浅葱小房が房掛金具に掛けられています。 艫櫓の三方には、擬宝珠勾欄がめぐらされ、その下の腰板には極彩色の雲に金色7頭の飛龍の丸彫りがあしらわれ、飛龍が躍動しています。 右舷の船尾、櫓を見上げた景色 屋形の天水引は猩々緋で正面には雲に鳳凰の刺繍がされたものです。元の天水引は天保5年(1834)製ですが老朽化が進み、今年(2017)7月に復元新調されました。「緋羅紗地雲鳳凰図 刺繍」と称され、新聞報道によれば、刺繍家の樹田紅陽氏が手掛けられたそうです。側面の天引は更紗風鉄仙金糸の縫とか。紫地に五葉木瓜(五瓜唐花)紋を白抜きした幕が屋根の軒下側面に掛けられています。他の鉾なら欄縁に囃子方が坐るのですが、船上の屋形の両舷は朱塗の跳高欄が張り出された形になっています。これは船鉾が他の鉾に比べて幅が狭く、さらに中央に御神体の人形が祀られることからの工夫のようです。それがまた、船鉾の装飾にもなっている次第です。下水引は、金地雲龍の厚肉入繍でレリーフの感じを抱かせるものです。龍の目にはレンズ状の玻璃が嵌められ、下端には金唐革細縁が付いています。円山応挙門下の西村楠亭の下絵によるもので、天保7年の作だそうです。西村楠亭は船鉾町生まれの絵師だとか。二番水引は2013年に新調され、2014年に完成したものです。麻地に青色の濃淡で波を、緑の濃淡で岩を意匠にした「岩に波文様」です。波は青海波のイメージが基調のように思います。元の二番水引は天保7年(1836)に製作され、昭和期に大規模な修理も行われてきたそうですが、老朽化により、177年ぶりの新調だったそうです。船首には、木彫総金箔置の瑞鳥「鷁(げき)」が飾られています。「鷁は風に強い鳥で、鵜に似て白いという想像上の鳥」だそうです。鷁は水難除けという意味で船に飾られ、龍頭と一対にして昔から貴人の御座船に使われてきています。「高さ1.3m、両翼端で2.7mに及ぶ大きいもの、十数個に分解できるという」ものです。この鷁と上掲の鯱は宝暦10年、長谷川若狭作と言われています。前懸は、見送と同様に真向龍の図柄です。昭和8年(1933)山鹿清華作の綴錦です。サイズは1.6m×40cm。上部に鶴一羽と彩雲、龍の下部には岩と波が描かれています。舳先部の両端には、6個ずつ、総角(あげまき)結びの浅葱小房が飾られています。山鉾巡行で、宵山までの上部の覆屋根がない船鉾を眺めると、この鷁の姿が一層映えるのです。 屋形の前面は唐破風の向拝です。兎毛通の箇所が金色丸彫の菊花で飾られています。右の画像は、屋根の上の獅子口あるいは鬼板が置かれている箇所です。雲形の造形のようです。屋形の主屋は入母屋造りで前に千鳥破風が付き、屋根の後方は唐破風の造りです。この屋形も天保5年作だそうです。巡行当日は、船鉾に三体の御神体の人形が祀られます。主屋中央に神功皇后の人形が安置されます。その後方に鹿島明神の人形、前方の向拝の場所に住吉明神の人形が立ちます。住吉明神はそこから航路前方を望見されるという形です。 船鉾の左舷を眺めた景色鉾拝観で船上に上がり、張り出し高欄に腰掛けている人々が見えますが、そこが囃子方の坐る場所になります。高欄の下部には緋色の幕が吊され、神紋の三つ巴紋と五葉木瓜(五瓜唐花)紋が金色に輝いています。二番水引の下部の船腹は朱色と黒っぽく見えますが鶯茶色の二段の広幅羅紗で覆われています。新町通を北に上がります。船鉾町の北隣は四条町です。ここは後祭での巡行、復活した「大船鉾」の鉾町です。会所建物の表戸が外されて、船首の飾りを拝見できるように展示されていました。大金幣と龍が並んでいます。ちょっと拝見することに・・・・・。 大船鉾の復活にあたり、JRと京阪電車の東福寺駅近くにある瀧尾神社拝殿の天井に彫刻された龍像をモデルに製作された龍です。2016年に少しまとめて書いています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。 (観照 祇園祭点描 -2 大船鉾と瀧尾神社)四条通を横断し、新町通を北上します。放下鉾が見え始めます。 放下鉾は新町通四条上ル小結棚(こゆいたな)町にあります。真木の「天王座」に放下僧の像を祀ることに鉾名の由来があります。この鉾が創建された当時には、放下師、放下僧と呼ばれる人々が存在しました。彼らは「放下(ほうか)」を大道や寺社境内で演じたそうです。放下とは「中世から近世にかけて大道で行われた手品・曲芸の類。品玉・輪鼓など田楽から転じた芸が主」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。修練した雑芸を社寺などで演じて米銭を乞うたのです。また「仏家が法を説くための人寄せの手段に用いた。また後世の虚無僧に似て諸国行脚により修行する人、あるいはその立場を利用して権威者の隠密となるなど、これには高邁・低俗両様の生活があった」ようです。「放下」は禅語では「ほうげ」と読まれます。この場合、諸縁を捨てて無心の境となり、執着しないことを意味するようです。これが後には、「一切の妄念を去り、一つの技芸錬磨に専心する」という意味でも使われるようになります。また、謡曲に「放下僧」という演目があります。放下鉾の鉾頭には、日・月・星の三つの光が下界を照らすという形が象られています。 前懸 花文様のペルシャ段通(絨毯)です。右側面の胴懸は猩々緋の外縁が付けられた花文様のコーカサス段通(絨毯)だそうです。下水引が三番まで懸けてあります。 一番水引は、平成6年(1994)から栂尾高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織です。右側面には「雲と龍」が描かれ、正面には「渡海船」、左側面は「善妙の投身と龍への変化」の場面です。他に、天明の頃に新調され、晩年の与謝蕪村が下絵を描いたという総刺繍の「琴棋書画図」が蔵されています。二番水引は緋羅紗地に金糸綴付刺繍がなされ、上部円下部角という輪郭に牡丹と兎が図案化されたものが二種、その裏返しの図案と併せて四種が交互に並べられています。三番水引は紺地に白い青海波が整然と並ぶ形に刺繍されていて、駒井源琦の下絵によるものです。下から三段目には波2つおきに波の代わり鳥が刺繍されています。おしどりの雌雄一羽ずつが写実的に描かれています。これは本圀寺曼荼羅の表装を模したと言われるものだとか。現在は復元品が使われているそうです。ズームアップした部分図ですが、鉾の内部天井に彩色雲形が見え、屋根を貫く真木が見えます。欄縁は中央部ですが、雲菱つなぎの錺金具と小形丸龍肉彫の錺金具が取り付けられています。四隅は雲菱つなぎの金具で、欄縁全体がこの二種のパターンの組み合わせになっています。 後懸と右側面の胴懸巡行当日には、見送として昭和57年(1982)に新調された皆川泰蔵作の「バクダッド」という独創的な作品が懸けられます。左側面から眺めた後懸。角房は、浅葱絹太組紐が二重に用いられて、総角・窠文・総角の三段に結び目が作られています。房は80cmほどの長さがあり、見栄えがあります。 大屋根の破風部を見上げると、雲の上に丹頂鶴がニ羽高浮彫にされています。金雲の上に、白色の鶴が優雅に飛翔しています。正面の破風部には三羽の丹頂鶴が彫られています。これは幸野楳嶺(1844~95)の下絵により製作され大正6年に完成したそうです。放下鉾は元治の大火で被災し、明治中期に胴組が新調され、屋根や天井部他についても、白木の時代、黒漆だけの時代を経て新調が継続され、現在に至るそうです。山鉾巡行の継承んために、各山鉾それぞれの努力がなされているそうです。復活した大船鉾は現在その途上にあるということなのでしょう。後部の天水引をクローズアップしてみました。金地彩糸丸龍が2つ雲文の間に描かれています。側面はこれが3つになります。明治中期に胴組が新調されたころにできたものと言います。 左側面の一番水引 後部の一番水引義湘の帰国、出航を知った膳妙が投身する場面。膳妙は龍に変化し義湘の渡海を見守るのです。左側面の胴懸。右側と同じ製作地がこの絨毯の由来でしょうが、図柄が少し異なります。 子供達のわらべ歌を耳にしつつ、錦小路通の「霰天神山」に向かいます。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会宵山・巡行ガイド2016 2016年に入手の資料祇園祭船鉾保存会 ホームページ放下鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)華厳宗祖師絵伝 :「京都国立博物館」補遺山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭・船鉾の「二番水引」を177年ぶり新調 制作費は1900万円 2013.7.3 :「産経WEST」祇園祭、177年前の水引を新調/「船鉾」へさきなどに飾る 2017.7.3 :「四国新聞社 SHIKOKU NEWS」輝く鳳凰、船鉾の天水引新調 祇園祭 2017.7.3 :「京都新聞」放下鉾祇園囃子保存会 ホーム facebook十石舟めぐり詳細情報 :「京都府旅行業組合」十石舟・三十石船 :「じゃらん」淀川三十石船今昔 :「きょうとwel.com」国宝・重要文化財 :「高山寺」祇園祭-放下鉾の名宝- :「京都文化博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 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2017.09.12
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仏光寺通から新町通に右折します。菅大臣町の東隣が岩戸山町です。新町通を挟む両側が一つの町となっています。新町通仏光寺下ルという位置になります。新町通高辻上ル岩戸山町の表記が一般的です。 岩戸山の正面。新町通の北から眺めた全景 北西側からの眺め岩戸山は一見、鉾のように見えますが山に区分され、曳山と呼ばれます。鉾と同様に車輪を付けた山です。名前から想起されると思いますが、記紀に記される「国生み」と「天の岩戸」の二つの神話を題材とした山です。 北東側からの眺め 鉾が屋根を突き抜ける形で真木が立てられるのに対して、岩戸山は屋根の上に真松が立てられていることからも鉾でないことがわかります。 天水引は緋羅紗地に鳳凰が丸の形に刺繍され前後に3個、側面に5個配置され、その間に彩雲が刺繍されています。下水引は一番から三番までの3枚が重ねて飾られています。三番水引は前回認識を新たにしたと述べましたが、八坂神社の神紋2つが交互に文様として綴織にされています。「紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様綴織」と記されています。三ツ巴は右三つ頭巴紋、五瓜唐花は五葉木瓜紋と記してきたものと同じ意味合いです。駒札の後半に記されていますが、平成17年(2005)に復元新調されたものです。前懸は「玉取獅子図 中国絨毯」です。一番水引は「鳳凰瑞事彩雲岩に波文様」(平成15年・2003 復元新調)、二番水引は「緋羅紗地宝相華文様 刺繍」(平成17年・2005 復元新調)です。 左右側面の胴懸は、図柄が似ていますがよく観察すると微妙に違う意匠です。駒札には「唐草文様インド絨毯」と説明されています。一方、手許の本では、段通でペルシャ・アゼルバイジャン地方の18世紀の作品と記しています。段通は敷物用の厚い織物のことですので、絨毯とも言えるものでしょう。宵山までは、拝観用の登り口が後部に設けてありますので、見送が懸けられていません。そのため、逆に後懸の全体が見えます。胴懸と同じものと思いますが、調べた範囲では記載資料がありません。 正面の屋根裏を見上げると、屋根の妻側のけらば裏板には鶺鴒(せきれい)6羽の飛ぶ姿が描かれています。前後あわせると12羽、今尾景年の弟子である中島華凰が昭和6年(1931)に描いたそうです。この妻側の三角形の部分には、金色の雲を背景に、素戔嗚尊像が彩色彫刻されています。 後部には八岐大蛇(やまたのおろち)と酒瓶の彩色彫刻が同様に施されています。これらは山村光月作といいます。 両側の屋根裏の垂木には八双金物が打たれています。垂木間の金箔板には今井景年が極彩色で四季草花を大正7年(1918)に描いたものだそうです。73歳の作。今井景年は1924年に80歳で没した日本画家。鈴木百年に師事し四条円山派を学んだ画家だとか。最晩年の作品の一つがここに残され、光彩を放っていることになります。函谷鉾の屋根裏にも今井景年が鶏図などを描いていることは、既にご紹介しています。「函谷鉾の鉾建て」ご紹介をご覧いただけるとうれしいいです。会所に見送や御神体等が展示されていますが、見物客が多かったので写真を撮りませんでした。2014年の宵山で会所に展示の見送を拝見しています。こちらから2つの見送の画像をご覧いただけると、うれしいです。 (観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山)少しネット検索で調べていて、國學院大學デジタルライブラリーに「祇園祭礼絵巻」が公開されているのを知りました。山鉾巡行が絵巻に描かれています。岩戸山は、こちらをご覧いただくと興味深いと思います。屋根の形が違うのです。また、岩戸山のホームページの「history」をご覧になると、岩戸山の変遷が詳しく説明されています。現在までの変遷が興味深いと思います。この辺りで新町通を北に上がり、船鉾を訪ねることにしました。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会宵山・巡行ガイド2016 2016年に入手の資料今井景年 :コトバンク補遺岩戸山 ホームページ山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)天岩戸 :ウィキペディア天岩戸神話 :「日向國 天岩戸神社」今井景年 :ウィキペディア中島華凰 :「コトバンク」洛中洛外図陶板 (上杉本) :「ギャラリー 洛中洛外」 屏風の右隻三曲目の中央より下め、鶏鉾の東、船鉾の南という間の位置に 当時の岩戸山が描かれています。拡大すると車輪が描かれています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.10
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太子山から、油小路を少し北に上がり、仏光寺通に右折します。仏光寺通東入ルに木賊山が見えます。東側が木賊山の正面になり、仏光寺通の西から近づくと、提灯の山形の前に後部の見送が懸かっているのが見えます。 この木賊山も、宵山までの山車には、かつての巡行において使用された懸装品が飾りに使われています。旧水引は中東幾何文様イギリス織絨毯のようです。山の正面から見て右側面(北側)は、中国の故事に基づく「飲中八仙図」です。画像は撮っていませんが左側面は「仙人観楓図」だとか。これらは平成11~13年(1999~2001)に復元新調されています。なお、展示の説明と手許の本、他のネット情報も総合すると、胴懸の「飲中八仙図]という名称は、以前「松陰仙人図」と称されていたものと思われます。ここも旧欄縁が使われていて、かつての欄縁を見ることができます。五葉木瓜紋が使われています。「見れども見えず」という言葉があります。見ていても意識化しないとその真意が見えないという意味合いと受け止められます。私にとっては、山鉾を連続で見てきて、この五葉木瓜紋や右三つ頭巴紋がなぜ共通的に欄縁や提灯に使われているのかということが遅ればせながら気になり出しました。手許の本とネット検索で調べてみると、当たり前のことを意識していなかったのです。頭にガツン!これらの紋は八坂神社の神紋なのでした。神紋が使われるのは当然ですね。八坂神社は三つ巴紋と木瓜紋を一部重ねて横に並べたものが神紋です。八坂造の紋に由来するようです。ここでは『日本史小辞典』の紋章の項を参考に「五葉木瓜紋」と記しています。しかし、いくつか調べた範囲では「窠に唐花紋(かにからはなもん)」(参照資料より)、「五瓜に唐花」という名称での説明がありました。興味を抱かれた方は補遺をご参照ください。学ぶ材料・情報源を求めれば方々にあって有益でありがたいです。三つ巴紋も勾玉のような形の頭と尻尾の回転方向の捉え方で右と左が真逆の名称になるようです。欄縁と提灯の三つ巴紋を前回まで「右三つ頭巴紋」として記してきました。頭の回転方向に着目すると時計回りの方向に見え、右三つ頭巴紋です。一方、尻尾が時計回りであるかどうかに着目すると、これが「左三つ頭巴紋」という風に逆の名称になります。二説あるところがおもしろい。八坂神社の神紋については、左三つ巴紋・左巴紋と説明する情報源を見つけています。 駒札 木賊山の会所は、京の町家の典型のように、間口が狭く奥行きが深い形です。道路に面した入口を入ってそこから拝見するのですが、一番奥に山の御神体として載る等身大の翁像が安置されています。左手に木賊、右手に鎌を持つ姿です。木彫に彩色(胡粉黄肌色)された頭は仏師春日の作と伝わり、足台の墨書から元禄5年(1692)6月と製作年代がわかるようです。木賊山は世阿弥作の謡曲「木賊」を題材にした山だそうです。「わが子を人にさらわれて、一人信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁をあらわす」といいます。木賊は多年生常緑シダ植物。「茎は珪酸質を含み、表面に細かい突起があり、細工物などをみがくのに使う」(『日本語大辞典』講談社)という用途があるようです。両側の壁には、欄縁・水引・胴懸・前懸・見送が展示されています。こちらは左壁面です。奧側の水引は「西王母黄初年図 刺繍」、その下の胴掛は復元新調された「仙人観楓図 綴織」です。手前には水引「寿老人図 刺繍」と前懸「唐人交易図刺繍」が一部写っています。 西王母黄初年図の部分図 寿老人図の部分図斜めでわかりづらいですが、右壁面の奧側の水引「蝦蟇鉄拐夢応図 刺繍」、胴懸「飲中八仙図 綴織」のようです。名札が置かれています。手前には、見送「牡丹鳳凰文」が見えます。中国明時代の綴錦だそうです。 翁像の手前天井よりに懸けてあるのが、木賊山正面の水引「日輪鳳凰文 刺繍」です。 水引部の角金具は八藤のレリーフの中央に五葉木瓜があり、中央の唐花が突き出され、そこに総角結び浅葱房がかけられます。 胴懸部の角金具は、軍扇形の中に木賊がレリーフされ、中央に銀の兎がはめこまれているという趣向。胴懸部には角金具が二段に取り付けられ、同様に総角結び浅葱房がつけられます。 欄縁には龍の錺金具が見えます。山車の担棒の先端に取り付けられる錺金具です。金色に輝く先端部にはいくつかの意匠が見られます。同じ図柄で統一するという発想はどの山鉾にもなさそうです。違い、変化、動きを楽しむ遊び心でしょうか。この後、木賊山のある仏光寺通を東に進み、新町通で仏光寺通より南に位置する岩戸山から、新町通を北上して、船鉾、放下鉾を巡ることにしました。木賊山町から、西洞院通を横切り少し進むと、菅大臣町です。ここには、「菅大臣神社」があります。久しぶりにちょっと立ち寄ってみました。昼間に宵々山巡りをするメリットかもしれません。仏光寺通に面して、境内側面の石鳥居が立ち南に北参道が延びています。仏光寺通と、一筋南の高辻通との中間あたりになりますが、西洞院通に面し東側に正面になる石鳥居と表参道があります。また、高辻通から入る南参道もあります。この画像の右下に「菅家邸趾」という石標の文字が見えます。通りの北側にも石標があります。この辺り、菅家、つまり菅原道真が降誕した邸宅(白梅殿)および菅家学問所の旧地と伝えられるところだそうです。その一画に菅原道真及び尼神・大己貴命(おおなむちのみこと)を祭神として祀る神社があるという次第です。道真の没後、間もない頃に創祀された神社だそうです。「天満宮降誕之地」という大きな石標はそれを意味するのでしょう。社殿は手前に唐破風の屋根の拝所、その後に千鳥破風の付いた拝殿、そして本殿が続きます。この画像は、拝殿を眺めていることになります。 拝所には「天満宮」の扁額が掲げてあります。 木鼻には玉眼入りの獅子像が彫られています。唐破風屋根の獅子口は星梅鉢紋一色です。これまた当然かもしれません。 狛犬像はちょっと異質。若干ユーモラスさすら感じる相貌です。ギョロ目づくりだからでしょうか。 社殿の前、両側には境内末社が並んでいます。 境内の一隅には、「飛梅」があり、覆屋の中に臥牛が奉納されています。ほんのひととき境内に佇んでいただけですが、雑踏、喧騒から離脱した静けさの漂う空間でした。境内地の参道を通り抜ける地元の人を数人見かけただけでした。神社の行事の日でなければ、ここもまた都会の中心部にありながら、雑然・喧騒の世界とは隔絶された静寂空間です。臥牛が人待ち顔にもみえそうです。下京の史蹟めぐりをしたときに、この菅大臣社を五条天神社の続きに2回に分けてご紹介したものを再録しています。詳しくはこちらをご覧いただけるとうれしいです。 (探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -2 五条天神社、管大臣神社)新町通をめざしてふたたび仏光寺通に戻ります。まずは東へ・・・・・・。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会宵山・巡行ガイド2016 2016年に入手の資料『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 補遺山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)木賊山の名宝 :「京都文化博物館」謡蹟めぐり 木賊 :「謡蹟めぐり 初心者の方のためのガイド」八坂神社 ホームページ トップページの左上隅に神紋が描かれています。八坂造 :「神紋と者毛の姓氏」神紋 :「祇園商店街振興組合」神紋/左三巴と木瓜(五瓜に唐花) :「鞆の浦検定[山紫水明處]」木瓜紋 :ウィキペディア巴紋 :「家紋の由来」左巴と右巴 :「家紋の由来」巴紋の種類木賊山(とくさやま)のわらべ歌 祇園祭2012 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.09
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油天神山から、油小路通を下ると、仏光寺通と交差します。その少し南に行けば、赤色の和傘がまず目に止まります。その先に太子山の提灯の山形が見えます。 「奇応丸」という薬の小屋根付き看板が軒先の上、二階の虫籠窓の中央に掲げられ、軒屋根にレトロなガス灯風の街灯が設置されています。私が好きなのは、この赤い傘と提灯が、この京町家と調和し一体となって雰囲気を醸し出しているからです。この町家の1階が会所に使われ、ご神体の人形が安置され、懸装品等が展示されています。この町家は元禄年間に創業した薬屋さんです。京都市登録有形文化財となっている「秦家住宅」です。土間に入ると、昔ながらの町家を想起できるちょっと薄暗く自然な雰囲気の中で懸装品等を眺めるということになります。後で触れることにします。 まずは山車を鑑賞します。 「太子」という言葉から多分すぐに連想が働くと思います。「聖徳太子」を祀る山です。聖徳太子が難波(大阪)に四天王寺を建立する時、自ら良材を求めて山に入り、翁に大杉の霊木を教えられ、その霊木を得て六角堂を建立したという伝説を題材にしているそうです。 前懸山車に飾られた懸装品には透明なシートで覆われています。ちょっと残念ですが、仕方ありません。側面は、水引と胴懸ですが、部分写真に留まります。水引は龍の意匠です。他の山が真松を立てるしきたりであるのに対して、この太子山だけが題材となった伝説に関係する真杉を立てます。教わった霊杉に聖徳太子自ら斧を入れられる情景に見立てているのだそうです。そして、巡行当日、この真杉にはお守りと如意輪観音像の厨子が懸けられるのです。2014年の山鉾巡行を見物した時のまとめを再録しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。山に載った聖徳太子が右手に斧を持つ姿もよくわかります。 (観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -2 10番・太子山から16番・蟷螂山まで)路上では南側になる後部。宵山まで懸けてある見送は、かつて使われていたものでしょう。『御霊会細記』に「綴錦花色地龍の模様縁猩々緋」と記されているという見送です。中国王室の服地を素材として見送りに仕立てたもののようです。上半の真向きの大きな龍は、この部分図に見るとおり、五爪龍です。 欄縁の錺金具 太子山の欄縁にも右三つ頭巴紋錺金具が使われています。水引の龍図をほぼご覧いただけます。それでは、懸装品の拝見に参りましょう。町屋正面には幔幕が吊されています。入口の右側だったと記憶しますが、紅殻格子の前に、「担茶屋」が置かれています。 入口を入った土間の右側(北)に表の間があり、そこに懸装品などが展示されまています。私が宵山で今までに訪れた記憶の範囲ではいつもこの町家でした。 今年はこんな風に懸想品などが展示されていました。以前とは少し諸品の展示配置を変えてあり、胴懸の全体図が見やすくなっていました。表の間の北端中央、聖徳太子像が祭壇の奧、帷の中に鎮座します。見送は「波濤に飛龍文様錦織」(平成15年・2003 新調)です。山車の上に懸けられた旧の龍図は、上半に真向の五爪龍一頭、下半に向き合う二頭の龍という構図です。この新調品は上部に二頭の龍、中央から下部にかけて一頭の横向き四爪龍の構図とかなり変化しています。 見送の上部の縁に付けられた錺金具前懸は、「緋羅紗地に阿房宮の刺繍」(平成11年・1999)です。これは復元新調されたものです。上掲山車の前懸と見比べてみてください。胴懸はこの前懸の右側に展示されていますが、その手前に置かれた諸品の陰になっていますので、部分写真を撮りませんでした。胴懸は「金地孔雀唐草図のインド刺繍」です。前懸・胴懸の上に、欄縁が展示してあります。部分図として撮れる範囲で撮りました。 錺金具の装飾文様が透かし彫りの草花文となり、右三つ頭巴紋の他に五葉木瓜紋も錺金具となっています。また、欄縁の下に濃紺の編み目状のものが見えます。これは「濃紺の房付き編目」であり、水引として使われています。胴懸の上部の水引は「濃紺の太い組紐を七宝編にした幅40cmくらいのあらい網」という作りです。前懸の上は、「花頭窓風に短く切り上げ」た作りになっています。 鯱を象った金具 紅殻格子の内側に置かれ、背後から光が差し、分かりづらいですが、房を懸ける角金具と房飾りです。 これは、「舞台裏中釣幕(ぶたいうらなかつりまく)」と称される特殊な懸装品のようです。駒札の末尾に記されているもので平成19年(2007)に復元新調されています。舞台裏がどこをさすのか? 中釣とはどこに吊すのか? 私には今のところ不詳です。 最後に、やはりこの傘と提灯を眺めてから、移動しました。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会宵山・巡行ガイド2016 2016年に入手の資料京都秦家 ホームページ補遺山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭太子山、光と織りなす花鳥 ベトナムで胴掛新調 2017.7.7 :「京都新聞」 記録のまとめをしていて、遅ればせながらこの胴掛新調報道を事後的に知った。 懸装品等の展示にはなかったと記憶する。もう1枚の完成を待ち2018年から使用予定 別の場所で関係者用に展示されていたのかもしれないが・・・・。【◆京都】「阿房宮図」表情生き生き 祇園祭・太子山前掛けの下絵発見 2016.7.2 :「ワル爺の『あれやこれや』」【2008年】京都祇園祭 宵山:太子山のわらべ歌 :YouTube頂法寺 :ウィキペディア 「歴史」の項に、縁起が紹介されています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.08
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芦刈山から綾小路通を西に歩むと、油小路通と交差します。油小路通に左折し南に下ると、「油天神山」が見えます。山の正面(北面)に白地に油天神山と墨書された提灯の左右には、星梅鉢紋と右三つ頭巴紋がそれぞれ赤地に白抜き紋の提灯が吊られています。提灯の山形には右三つ頭紋と五葉木瓜紋の提灯が飾られています。これは芦刈山と家紋が共通するところです。色の使い方は異なっています。これもまたおもしろいところです。ここには遠祖を藤原氏とする風早家という公家の邸があったところだそうです。風早町という名称はそこに由来するのでしょう。この風早家に天神様が祀られていたそうです。座高10cmほどの精巧な彩色木像の天神様のようですが、この天神様を勧請してできた山で油小路に位置することからこの名称が由来するそうです。駒札には、「牛天神山」とも呼ばれるという由来も記されています。前祭の巡行には、天神を冠する山に「霰天神山」というのもあります。2014年の宵山では、油天神山から芦刈山、四条傘鉾、蟷螂山という風に、南から北に巡って行ったのは、前回のブログ記事を介してアクセスしていただいた方にはおわかりいただけることでしょう。油天神山関係では3枚の画像を載せていました。夜のこの山の雰囲気はそちらを御覧いただくとして、他の2枚は少しアングルの違う画像をここに含めてご紹介します。路上の山車から鑑賞していきましょう。宵山までは組まれた胴組にかつて使用された懸装品が飾られて展示されているように見うけました。宵山当日までに訪れた人が眺めることができる景色です。 山車の正面(北面)です。欄縁が正面だけ凹形切り込んであります。これは山車の上に天神様を祀る社殿が積載されるので、その社殿を見やすくする工夫だそうです。 左右の胴懸です。19世紀のカザフ絨毯だそうです。上部に水引が掛けてあります。 水引の中央部を部分拡大してみました。鳳凰と龍が対決している図柄のようです。かなり退色していますが、もとはかなり煌びやかな色合いの精緻な刺繍だったのではないでしょうか。 見送です。 見送の部分図。これと同じ箇所の画像をを2014年に載せました。 欄縁には梅の木を透かし彫りし、竹の葉をあしらった意匠の錺金具が取り付けてあります。四隅には蝶番が見えますので、欄縁の固定支持の機能も担っているようです。山車上には、籠の後半部だけの形の大きな「山洞」が置かれ、山洞の上には真松が立てられています。真松及び梅の木を主体に竹の葉を要所に配した飾り金具で、「松・竹・梅」が揃うという趣向も潜んでいるということでしょうか・・・・。ここからは会所となっている家の座敷に飾られた懸装品の拝見です。比較的狭い空間の三方向の壁沿いにびっしりと懸装品や社殿が展示されています。通りに面する側は開放されていますが、中央に関係者の方々が展示品と山関連グッズのお世話をされています。そこで、撮れる範囲での部分的ご紹介ということになります。 胴懸は、前田青邨原画による「紅白梅図」で平成12年・13年に新調されたもの。水引はパリのクリュニイ博物館所有のタピストリーを図案に用いて、平成18年(2006)に新調されたものです。北壁面に水引・胴懸・見送が並び、その右に社殿、胴懸・見送の前には角金具と房、金幣が置かれています。見送は梅原龍三郎原画の「朝陽図」綴織です。図柄がほとんど見えないのが残念!山に載せられる社殿と鳥居です。手許の本では、この金色の社殿を次のように説明しています。「社殿は高さ約1m、木賊葺流造千鳥破風全体金塗。虹梁や斗供部には、朱、緑、青の彩色が施され、朱塗錺附前階段のほか、両側にも欄干附の急な階段がついている。階上に狛犬金塗一対、正面に金襴縁附の御簾を垂れ、その前に円鏡を釣る」と。 社殿に向かって右側(南側)には、凹形に切り込んだ形の欄縁の下に、前懸が見えます。駒札に記されていますが、これは平成6年(1994)に「木瓜波濤龍図」錦織が新調されたものです。巡行に使用される欄縁は懸想品とともに宵山まではここに展示されています。こちらの錺金具もまた梅の木が透かし彫りにされていますが、この正面の凹形に切り込まれた底の部分には、牛と梅の木が描かれた錺金具となっています。天保4年(1833)の製作だそうです。右側の道路側に近い所に、もう一方の欄縁、水引と胴懸が展示されています。 山車の四隅に上下二段で付けられる角金具と総角結びの角房です。 見送「朝陽図」の上部に取り付けられた房を掛ける金具です。瑞鳥の意匠のようです。 錺金具の一部 綾小路通から油小路通に左折し、風早町に入った所で東側の民家の間にひっそりと鎮座する小さな神社があります。 「火尊天満宮」と記された扁額が掲げてあります。この火尊天満宮から山に天神様が勧請されたのでしょう。星梅鉢紋入りの脚付き膳にするめ・昆布・果物などが盛られて社殿前に供えられていました。併せて、こちらも宵山巡りの一環としてのご紹介です。芦刈山から油天神山に巡る途中の一軒で、玄関が開かれていて表座敷に屏風が飾られていたので、拝見しました。宵山見物の楽しみの一つが屏風祭です。このお宅もその風習を継承されているのでしょう。 座敷の手前に、この屏風の説明書が置かれていました。「蘭亭曲水図屏風」(6曲1双)で、江戸時代末期、岸禮筆の作品です。中国晋の時代に、書聖と称される王義之(おうぎし)が会稽山の蘭亭で文人たちと集い、宴を催し曲水に杯を流して各々が詩を詠んだと言う故事を題材にしたものだそうです。右隻の一曲目右下に「朝散太夫下野守岸禮」と墨書し落款が押されています。岸禮(がんれい:1816~83)は、岸駒(がんく)を祖とする岸派の画家で、19世紀に京都で活躍した人です。手許に『京の絵師は百花繚乱』と題する展覧会図録があります。改めてそれを参照しますと、岸派二代目・岸岱(がんたい)の次男として生まれ、父の画法を学び、御所に仕えて近衛府官人となった絵師。明治維新の折に、東京に移住し当地で没したそうです。上掲説明書にも後半に細述されていました。余談ですが、この「蘭亭曲水」の故事を踏まえた行事が、京都・伏見に所在する城南宮で「曲水の宴」という風流な恒例行事が行われています。さて、油天神山から次の山に進みましょう。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会油天神山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)『京の絵師は百花繚乱』 京都文化博物館開館十周年記念特別展 図録 1998年10月 京都文化博物館補遺山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)巴紋 :「家紋の由来」火尊天満宮 :「京都風光」岸駒 :ウィキペディア岸礼 :ウィキペディア虎図 岸礼筆 :「GALLERY 創」曲水の宴 :「城南宮」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.07
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蟷螂山の後は、まず西洞院通より西側に位置する山を探訪することにしました。それらは四条通より南に位置しますので、西洞院通を下り、綾小路通を西に入ります。そこに見えるのが「芦刈山」です。山の置かれた位置は同じですが、今年は懸装品展示の場所(家)が変わっていました。2014年の宵山では夜に巡ったのと、そのときの展示場所での展示方法、見物客の混み具合の関係などであまり写真を撮っていませんでした。今回は宵々山の昼間ということで、縦長の空間に展示された懸装品類を家の奥まで入って間近に拝見できました。2014年の画像はこちらからご覧いただくとうれしいです。画像8枚を掲載しています。(観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -2 油天神山、芦刈山、四条傘鉾、蟷螂山、放下鉾、孟宗山、孟宗山、菊水鉾、占出山)芦刈山に近づくと、やはり前懸のライオンが目に飛び込んで来ます。 山口華楊原画の段通「凝視」(1986)です。以前の前懸は会所となった場所に展示されていますので、宵山まで旧品を拝見できるのです。かつて巡行に使用された懸装品などの歴史的遺品を見るのも宵山巡りならではのことです。復元新調ということで、新旧両方の展示というケースもあり楽しめます。一方で近年の新調という懸装品を眺めると、祇園祭の連綿とした継承が、伝統墨守ではなく各時代の息吹を取り込んで行く意気込みの中で行われていることがわかります。また、復元新調を行うことで、かつての技術・技法の伝統継承と研究の道も維持発展されているのです。 前懸の上には旧金幣が掲げてあります。幅広二段の紙垂形式です。山車の欄縁の角を飾り連結支持する金具をクローズアップしたのですが、金具には「芦」の文字がデザイン化されています。胴懸は錦織「豊公獅噛鳥獣文様」(平成2年・1990)が掛けてあります。豊臣秀吉が獅噛鳥獣文様の陣羽織を作り、使用していたそうです。高台寺にその陣羽織が所蔵されているとか。(補遺)獅子が鳥あるいは獣を襲い噛みつく姿がどのように図柄として織り込まれているか、細部を観察してみましょう。 この図柄を陣羽織に仕立てて戦陣で着用していたとするなら、秀吉が己の武威をアピールするシンボルとして意識的に使ったのでしょうね。秀吉の心理作戦がこんなところにも反映していたのかも・・・・・・。北西側から山車の北側の胴懸(上掲文様)と後部の見送を中心に全景を撮ってみました。山車の上には、緋羅紗をかけた山籠に真の雄松が立てられています。この山車の胴組部分を「櫓(やぐら)」と呼ぶそうですが、2015年に143年ぶりに新調されたものだとか。月鉾のところで胴組の部材の新調に触れています。芦刈山は櫓そのものを新調されたのです。見送は、18世紀末、中国の明時代のもので、「鳳凰と幻想動物に牡丹の図」です。斜めからしか拝見できませんので、部分図を撮ってみました。 左が鳳凰、右がたぶん幻想的動物に相当するのでしょうか。今年の会所になっていた冒頭画像の建物に入ります。入口に警備員さんが立っています。では.懸装品を鑑賞しましょう!芦刈山の幟の両側に、見送が並べてあります。「唐子嬉遊図」(文政3年・1820)です。現在使われている前懸と同じ山口華楊原画の見送「鶴図」(昭和60年・1985)です。 房を掛ける金具は雁が象られ、その雁の飛翔する姿が表されています。私の想像ですが、それまでの見送に使われてきた飾りが継承されているのでしょう。掛け金具以外にも雁が配されていて、雁の飛翔する姿をコマ送りで見るようです。 胴懸(南)胴懸(北) 尾形光琳原画の「燕子花図」。平成5年・6年(1993・1994)の新調です。燕子花図の前には、山車上に飾られる群生する穂花のついた芦の造花が置かれています。その向こうに置かれているのは、山車の四隅に飾られる山車の四隅に飾られる角金具と角房です。 角金具を2つクローズアップ。この角金具も芦の葉がレリーフされています。図柄は異なります。 菊結びの房御神体の人形です。 この人形の頭については、2014年の折のまとめで、少し触れています。この前懸「欧風景」は2014年の記事に明細しています。今回は焦点をその上部に飾られている欄縁と水引きにあててご紹介します。その前に、前懸自体について、少し手許の本から引用して、補足してみます。「前掛は飾毛綴壁掛の左右の額縁部断片四枚を方形にならべたもので、霰天神山前掛(上下額縁部ともと同一の壁掛けから切離したものらしく、鶏鉾タベストリーの周囲と考えると辻つまがよくあう。天保三年から使用されている。図柄は城郭のある風景で、七面鳥や象・鹿などが森の中にいる。金唐革細縁つきである」と。 角には波濤が配置されています。飛翔する雁 欄縁飾金具を部分的に撮り、右から左に巡に並べてみました。「波に雁文様鍍金(雁)」(重要有形民俗文化財) 明治36年(1903)の作品波の鍍金金具の裏には、製作者の名前が刻まれていて、「画工は日本画家の河辺華挙、錺金具師には藤原重治郎、藤原秀治郎、水谷美顕らの名が見える」(説明シートより)欄縁の下の水引は正面だけのもので27cm角色紙型5枚を繋ぎ合わせています。総縫いつめ刺繍というものです。「5枚の鳥の刺繍は明末清初の品で中国の官服に付けられていた補子(階級章)」(説明シートより)だそうです。平成12年(2000)に新調された金幣で、唐草文様金具、朱房付きです。左後方に見えるのが胴懸の「雲龍図」(天保3年・1832)中国刺繍の作品です。これが芦刈山の左右の胴懸としてかつては使われてきた懸装品です。この雲龍図の龍をいくつかクローズアップしてみました。 下部には岩波と一面に白雲を散らした刺繍が施されています。「18世紀中頃に中国清朝で用いられていた、官服に施されていた波濤に飛龍文様の、刺繍の部分だけを切り取って裁断し、日本の生地に載せて新たに図案を直して仕立て、さらに細部を刺繍によって直したもの」(説明シートより)という工夫をこらして天保3年に新調されたものなのです。龍の爪が5本ですから、その官服は中国の皇帝が着用していた服でしょうか・・・・。 「見送掛」を部分ごとに撮ってみました。「七宝透し地彫に?巴紋入、消鍍金」と称される優美な装飾です。 これは「荷茶屋(にないちゃや)」です。傍に次の説明文が置かれていました。「芦刈山町に伝来する品。茶や茶釜などの茶道具を収納した二台の木箱を前後に担ぎ棒を差して運ぶもので、かつては山鉾巡行に随伴し、行列に供奉する人びとの喉を潤したとされる。(以下略)」なんと、2011年に町内の土蔵から発掘され、壊れていたのですが2015年に修理を完了し、今は巡行に使用されています。こんなところで、芦刈山の展示を新鮮な気持ちで鑑賞してから、次の山に向かいました。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会芦刈山の会所にて懸装品展示の傍に置かれた説明シート 芦刈山の懸装品 :「芦刈山」補遺芦刈山 ホームページ龍村織物・豊公獅噛鳥獣紋錦 :「株式会社天鳳堂」山口華楊 :「京都国立近代美術館」山口華楊 :「東京文化研究所」山口華揚 作家作品一覧 :「おいだ美術」手元房、菊結びの結び方 :「旗店」(清田工芸)菊結び :YouTube菊結び :「池尻紐房工場」 動画も見られます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.05
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西洞院通を北に入ると、南を正面にして「蟷螂山(とうろうやま)」があります。「かまきりやま」とも呼ばれます。この山が少し変わっているのは、鉾の胴組に相当する山車(だし)の上に、唐破風造りの屋根の御所車そのものが載っているのです。そして、その屋根の上に、大かまきりが正面を向いて乗っかっているという珍しい組み合わせです。宵山までは覆屋の中に収まっています。西洞院通ではここに山があるだけです。比較的幅広い通りの東寄りに置かれていて、宵山でも室町通、新町通の混雑と比較すると寂しさすら感じるくらいです。他の山鉾からみれば位置が外れているから、そうなるのでしょう。逆に、ゆっくりと見物できるところです。この屋根の上の大かまきりの大きな羽と鎌、御所車の車輪が動くからくり仕立てとなっていて、山鉾の中で唯一のからくり山です。 名古屋のカラクリ師玉屋庄兵衛氏が、古式の鯨鬚をばねに用いた精巧な糸あやつり木彫の大かまきりを復元されたのだそうです。「蟷螂の斧を以て降車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事から発想された山です。この言葉は中国梁の時代の詩文集「文選(もんぜん)」の中に記されているそうです。弱い者が自分の分や力を考えず、果敢に斧をたよりに大敵に向かい妄進することを諷刺した言葉だと言います。「山鉾について」(祇園祭山鉾連合会)を参照すると、南北朝時代にこの町内に住んでいた公卿・四条隆資(1292~1352)の戦いぶりと故事を結び付けたところから発想されたと伝えています。中国のこの表現の別バージョンがいくつかの書に取り上げられているようです。『荘子』(外篇 天地)には、「蟷螂の臂を怒らして以て車軼(しゃてつ)に当たるがごとし」と記しています。蟷螂山は応仁の乱前からあったそうですが、元治の大火(1864)の大火で大部分を喪失するということもあり、昭和56年(1981)に117年ぶりに再興された山です。今回、初めて宵々山でこの蟷螂山の細部を鑑賞することができました。 轅(ながえ)には龍頭が付いています。 轅の先端です。屋根の軒裏から沢山の総角結びの房飾りが吊されています。山車の欄縁の角には透かし彫りの飾り金具が取り付けてあります。 欄縁の側面も透かし彫りの金具で装飾され、三頭巴の紋や五葉木瓜の紋が使われています。 この御所車の場合、『源氏物語図典』に掲載の牛車の種類毎の挿絵を見ても、明らかに違う点があり興味深いところが散見されます。御所車は貴人が乗ったことからくる牛車の俗称ですが、唐破風造りですので、唐車と呼ばれる種類になります。唐車は上皇・皇后・東宮・親王・摂関などの乗用だったようです。唐車の挿絵と比べてみると、この御所車は極度に豪華絢爛な装飾性を過剰なまでに取り入れていると思われるのです。ひょっとしたら、祇園祭の行事に御所車を取り入れる発案をした京の町衆が、意図的に実際の唐車とは次元の違う架空の豪華な御所車を仕立て上げたのかもしれません。まず一つ、人の乗る屋形の外回りに装飾性の高い欄干があるのです。欄干の下部は花々の浮彫彩色で飾られています。橋や建物の欄干では擬宝珠が一般的ですが、ここの擬宝珠に相当する装飾金具は草花に造形されています。これもまためずらしい意匠です。 屋根には棟の両端に金塗鯱鉾が取り付けてあります。唐車の挿絵ではここももっとシンプルな飾りです。 正面、唐破風の兎毛通は瑞鳥が彫刻され金彩色されています。金箔が施されているのかもしれません。頭貫には草花や正面から見たかまきりの図案化された形が彫刻され、虹梁は雲と鱗の文様が見えます。その上の大瓶束と装飾彫刻などは極彩色に塗られています。 こちらがたしか屋形の正面です。そして正面から撮ると、虹梁(前)と頭貫(後)の遠近感がなくなり、平面的に見えています。それでも対比的に眺めていて気づいたことがあります。おわかりになるでしょうか? 改めて、再観察の課題が残りました。 屋形の袖の部分には、昇り龍と降り龍の彩色彫刻像が取り付けられています。 山車の四隅には角房を掛ける角金具が欄縁の下に付けられて、角房が吊されています。角金具の意匠がいいですね。角房は総角結びと八坂紋結びが併用されているようです。 水引と胴懸 透明保護シートがかけてあるために見送がよく見えないのが実に残念!その代わり山車の担棒の部分のなわがらみがよく見えます。ちがう角度からの眺め。裾幕には蟷螂の蟷の文字が並んでいます。担棒の先端にはめ込まれた金具にも「蟷」の文字がデザイン文字風に記されています。 近くの家に、御神体や胴懸などが展示されています。右側の壁にも2枚ずつの水引と前懸・胴懸が見えます。 正面の覆いの中に「祇園三社」と神号が墨書された軸が掛けてあります。 その左前には竹芯に萌葱色薄絹張のかまきりが飾台付で置かれています。これらが巡行当日御所車に載せられるのでしょうか・・・・。手許の資料では不詳です。 「瑞苑浮遊之図」 「瑞苑巡巡之図」 水引は「吉称橘蟷螂図」、胴懸は「瑞光孔雀之図」 前懸「瑞祥鶴浴之図」壁に吊して展示されているこれらは、人間国宝・羽田登喜男作の友禅作品です。この日、比較的見物人が少なかったので、ゆっくりと時間をかけ、写真を撮りかつ眺めることができました。それでも見落としている箇所がけっこうありそうです。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会宵山・巡行ガイド2016 2016年に入手の資料『源氏物語図典』 秋山 虔・小町谷照彦 編 須貝 稔 作図 小学館 p70-74祇園祭と八坂紋結び :「茶香房ひより」補遺山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)山鉾の説明 :「京都市観光協会」牛車の種類 :「風俗博物館」牛車 :ウィキペディア牛車いろいろ :「雪月花」下鴨神社 唐車 :「旅 瀬戸内(たびせと)」紐の結びと基本の結び方 :「MACHIDA」八坂紋結び :「かめこ」日本結び文化学会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -12 前祭宵々山(3) 芦刈山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -13 前祭宵々山(4) 油天神山ほか へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -14 前祭宵々山(5) 太子山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -15 前祭宵々山(6) 木賊山、そして菅大臣神社 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.03
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7月15日の前祭宵々山は京阪電車の祇園四条駅から四条通を西に歩み、14:15頃長刀鉾に着きました。夕闇が迫れば、宵々山も多くの人が出始めるでしょうが、昼間はそれなりの人数の観光客がいるにしてもまだ比較的閑散としています。釘を1本も使わずに、「なわがらみ」技法で木の部材を組み立て、縄で結わえた胴組の本体に屋形を汲み上げて懸装品で外装を整えて、鉾建てが完了といえます。その完成した姿で鉾町にあるのを宵々山、宵山でそぞろ歩いて眺め楽しむわけなので、鉾建て巡りをした鉾をまず一通り眺めるところから、ご紹介していきます。 四条通北側歩道から見上げた長刀鉾宵山の夜まで、どの鉾でも有料ですが鉾の屋形の内部を拝見することができます。長刀鉾保存会の会所の2階から張り出して設けられた通路を渡って見物人が順次、鉾の囃子台の中に出入りしています。 この後部には、巡行当日、「見送」が懸けられます。屋根の軒下には「天水引」、豪華な欄縁の下には「下水引」がここでは3番手まで懸けられ、その下に「後懸」が飾られています。正面は「前懸」、側面は「胴懸」と称されます。車輪の間には「裾幕」が懸けられています。鉾の胴の四隅には房掛の金具が取り付けられ、そこに角房が飾られます。 函谷鉾 鉾の後部雨対策として、大屋根の上に覆屋根が設けてあり、欄縁から下には透明のシートが掛けてあるので、鑑賞という点からは興ざめですが、仕方ありません。函谷鉾からすぐ西で室町通を北に入ると、目の前に道路幅一杯の感じで菊水鉾の提灯の山形が見えます。ここも鉾は覆屋根と透明シートで覆われています。 唐破風の装飾彫刻と軒裏の絵画 室町通の北側からの眺め 四条通の南西側にある月鉾を函谷鉾から眺めた景色 菊水鉾から月鉾に向かうときの眺め 月鉾の正面 鶏鉾の後部 北側から眺めた景色 鶏鉾の後部。現在の位置では南側になります。鶏鉾大屋根の鱗板の部分には鶏の浮彫が見えます。それではさらに山鉾巡りに入ります。私の今回の第一の目的は、昼間の蟷螂山を詳細に見物することでした。いつも遅い時間帯で少し眺めるだけに終わることが多かったので、まずはここをクリアしてから巡って行こうと考えていました。そこで四条通に戻り、西方向に進みます。西洞院通と交差する手前にあるのが郭巨山です。西洞院通を北に入れば少し先に蟷螂山ですが、ちょっと通りを渡って西に進むと、 この2つの山を確認してから、西洞院通に入り、蟷螂山へ。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会宵山・巡行ガイド2016 2016年に入手の資料鉾と山の解説 :「京都市観光協会」補遺山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)山鉾の説明 :「京都市観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.02
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祇園祭の山鉾巡行では見えない隠れた美、裏方の美があります。それが山鉾建てで伝統として継承されてきた「なわがらみ」技法による山鉾の胴組(本体)の仕上がりにみられる美しさです。個別の鉾建てとしてご紹介してきたものからピックアップして、対比的にご覧いただけるようにまとめてみました。鉾の裏方の美集約編をご覧ください。☆胴組の正面(前部)あるいは後部 長刀鉾 正面 函谷鉾 後部 鶏鉾 正面 月鉾 正面 菊水鉾 後部☆胴組の側面 長刀鉾 函谷鉾 鶏鉾 月鉾 菊水鉾☆胴組の各所上掲の画像に既にいくつか各所に相当する部分が含まれています。胴組の柱と上(中・下)の貫、筋違いなどが組み合わされる箇所を結わえるところにも「なわがらみ」技法の異なる仕上がりの美しさがみられます。ここは一部サンプリング的に例示します。 長刀鉾上貫、柱、筋違い、囃子台の土台の横木と食い合わされる横木をなわがらみで固定する各所の仕上がりの処理が様々です。 函谷鉾 函谷鉾 鶏鉾☆真木を支持する4本柱(禿柱)の集まる上部のなわがらみによる仕上がり 長刀鉾 函谷鉾 鶏鉾 月鉾 菊水鉾「なわがらみ」技法の基本は同じなのでしょうが、鉾により少しずつその処理方法が異なるところがあって、見比べていくと興味深くかつおもしろいものです。鉾建ての仕上がりは、胴組に囃子台が設けられ、四隅の柱、屋根がついて屋形ができ、そこに懸装品を飾り付け、御神体を山鉾に安置するか、その一歩手前までの準備を完了することです。その後で、鉾の場合は曳き初めの行事が行われます。7月15日、前祭の宵々山の午後、明るい時間帯に山鉾見物・散策に出かけました。その散策は、鉾建ての最終状態を眺めることにもなります。つづく以下は、祇園祭関連でまとめたものの一覧です。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.09.01
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鶏鉾から移動して菊水鉾に行くと、室町通を入って数m先で目に止まったのがこれです。15:08頃です。鉾建て工程の中で見所となる「引き起こし」作業がまだこれからというタイミングでした。胴組を引き起こすときの引手側を長刀鉾では見物場所からは見られず、函谷鉾・月鉾ではその先の工程に既に入っていて、鶏鉾では、引き起こしの作業後の引く側の杭と使用後の機材が一部置かれている状態だけを見ました。菊水鉾では、鉾に対して長刀鉾とは異なる視角から見物できることになります。既に鉾の周辺にはかなりの見物客が待機されていて、幅の狭い室町通を先に進んでも見物の場所取りができそうにないので、少し鉾に近づく程度で道路の南西側で待つことにしました。この巻き上げ機の前にもう一つの機具の先端からワイアがぴんと張られているのを見ると、鶏鉾で放置されていたのは、この前にある方の機具だったようです。巻き上げ機は手動で扱う方式なのでしょう。画像の右側にハンドルが見えます。写真を撮ったときは意識していなかったのですが、画像を観察すると、巻き上げ機のところでは、道路に挿した杭と巻き上げ機の前後に上から横木を渡し、石持の大きな部材を重石代わりに利用しているのがわかります。幅の狭い室町通で、引き起こした後の次の工程の準備を兼ねた工夫なのでしょう。 巻き上げ機の位置からわかることですが、胴組が北方向に倒されて、テコが南に面しています。左の画像から、2つのことがよく見えます。一つはテコに使われている部材と胴組の下貫との合わせ方です。長刀鉾のところでご紹介しています。下貫の下面から下貫の上面に部材が差し挟まれる形にして部材と下貫が結わえられていることです。これでテコが砲身のように角度を持って突きだしています。もう一つは、他の鉾見物では見られなかった部分をみることができました。それは下貫の中央部に幅はそれほど広くはないのですが厚みのある角材が結わえられ、その中央に刳りぬかれた長方形の穴に真木の下端部のほぞがはめ込まれて、木製楔で固定されているのがわかります。そして上側は胴組上面の筋違いの交差するところで真木が結わえられているのです。真木に取り付けた榊に小しでを付ける作業が行われていました。 倒された胴組のなわがらみの仕上がりの一部です。下貫と真木を支える部材のなわがらみ、そして引き起こし作業用のテコ部材と下貫を結わえたなわがらみの部分です。木材の色の黒い方が、テコの部材です。4802, 4803鉾を引き起こすときに、支点となる回転軸。胴組後部の柱が丸い軸棒に緊縛され、一方回転軸は道路に穿たれた四角の穴に挿し込まれたと結わえられています。こちらは回転軸を回すための固定です。回転軸に固定された胴組の後部柱に水瓶とお皿が置かれていました。何故だろうと思っていたら、引き起こしを始める前に、胴組の周囲を周り一種の清め、お祓いをする儀式が行われ、それに使われていました。菊水鉾ですから水瓶に入っていたのは神水でしょうか、それとも神酒でしょうか・・・・。お皿は塩? 未確認です。これは鉾建てで重要な引き起こしが無事執り行えるように祈願する儀式なのでしょう。 鉾の木製車輪、つまり御所車の車輪と同じ形のものが道路東側の建物に立て掛けてあります。2つがセットで結わえられているのを見るのは初めて。巡行が終わり、鉾の解体作業途中で個別に立て掛けてあるのを見たことがありますが、鉾建ての作業前の状態を見るのは初めてです。車輪の輻(や)の一つに「菊水鉾」と銘が刻まれています。左の画像をご覧いただくと、車輪が地面に接する面ですが、大羽(おおば)と呼ばれるパーツが車輪の円形に組み合わされているのがわかります。大羽のかみ合わせ部がはっきりとみえます。車橖(しゃどう)と称される車軸が黒々としています。車橖の胴部に輻がはめ込まれ、互いに接する大羽(外周)を連結する形で小羽(こば)がはめ込まれるのです。車輪の側面を見ると2つの大羽が結合する箇所がV字に凹んでいます。その内側で輻との間にある部材が小羽です。大羽の内側の中央は3分の1が凸型になり、そこに輻の一つが直接はめ込まれます。左右の三分の一はそれぞれ接する大羽2つを結合する小羽が組み込まれます。その小羽それぞれにも輻がはめ込まれる形になります。7個の大羽、7個の小羽、21個の輻、1つの車軸で御所車が構成され、直径約1.9mだそうです。つまり、部材がはめ込み式で組み合わされ、大きな木製車輪が組み立てられるという匠の技がこの御所車を生み出しているのです。この御所車が石持に取り付けられると、前後に回転するだけですので、巡行の折に道路の交差点で、その都度「辻回し」という妙技が披露されることになります。車輪の前に斜めに写っているのは、引き起こしのために張られているワイヤーです。少し横道に逸れました。本筋に戻ります。10分弱の待ち時間で引き起こし作業が始まりました。コマ送りでその状況をご紹介します。鉾正面左斜めからの見物です。 鉾が立ち上がりました。真木を眺めてみましょう。ご紹介のため立ち上げ中に撮ったものを併せて、わかりやすいように編集します。鉾頭には、小林尚珉作の金色透かしの天向きの十六菊(径50cn)が取り付けられています。その下に「吹きちり」が付けられています。 小屋根の下に天王像がくくりつけられています。小屋根には厚みのある菊の紋章が正面に見えます。天王像は、列仙伝にある長生の仙人・彭祖といわれています。「人形は白木彫30cm、金襴の小袖と袴をつけ、右手に柄杓、左手に盃を差出すように持ち、頭髪を後頭で巻き束ね、謡い舞う姿」だそうです。少し離れた下に天王台が取り付けられ、白地に葉附菊と紋が描かれた幕が垂れ下がり、天王台の四隅には色の違う菊の造花小枝が立てられています。天王台と榊の中間、真木の背面に、紺地に白抜きの菊花紋の角幡が取り付けてあります。菊水鉾のしゃぐまは5つです。上から3つ目のしゃぐまの下に、榊が左右に付きだした形に取り付けられ、榊には沢山の小しでが付けられています。榊の中央にはこの菊水鉾に限った飾りとして額が掲げられています。紺地に金の篆字(てんじ)で「菊水」と掘り出してあり、登り龍と降り龍の二頭が額の両側を抱えるというものです。田丸京阿弥氏の製作寄進によるものといいます。その下には、さらにしゃぐまが2つあり、そして真木が4本の禿柱で支えられることになります。この画像は胴組の引き起こし前、真木が横倒しになっているときに撮ったもの。禿柱が集合する箇所は縄をびっしりと隙間なく巻き付けて固定し、水平方向で柱の間隔を支えるのは金具です。これは長刀鉾や函谷鉾と同じですが、長刀鉾が4柱を粗い編み目のなわがらみで結わえるのではなく、鶏鉾と同じやり方で結わえられています。鉾それぞれの流儀がここにも出ています。 菊水鉾の右側面の縄絡みの仕上がり美引き起こしが終わった後で眺めた胴組後部のなわがらみの仕上がり美胴組の内側から眺めたなわがらみの仕上げ。仕上がりの舞台裏も見えておもしろい。菊水鉾を離れたのは、16:00ころでした。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会補遺菊水鉾 山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)京都祇園祭り 菊水鉾の囃子 :「祇園囃子アーカイブズ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.08.31
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四条通に戻り、月鉾の鉾建て現場を訪ねる(14:48頃)と、胴組の上部に囃子台と手摺ができていて、その上に作業用の張り出しが出来上がっていました。なわがらみの仕上がり写真を撮っていると、鉾建ての過程で石持を胴組の下部に取り付ける工程が行われるタイミングでした。後ほど触れます。まずは、月鉾のなわがらみの仕上がり美から、ご紹介します。 側面(前部に対して右側、現場では南面) 正面(前部・八坂神社に向いた東面)胴枠の柱、筋違い、上貫を緊縛したなわがらみの様子に加えて、上貫・筋違いと囃子台の土台部分の横木を結わえる2つの異なるなわがらみの技法がよくわかります。 胴組の内側から 右の画像は、真木を四方向から支える禿柱の下端です。部材の組み立て方を想像してみてください。長刀鉾のところで少し触れています。 右の画像で、胴組上部の筋違いの中心に沿わせる形で真木が立てられているのがよくわかります。左の画像は胴組構造全体のほぼ半ばを眺めた中に真木が組み込まれている状態を撮ってみたものです。この画像に、上掲の様々な「なわがらみ」技法の仕上がり美が集約しているとみることもできます。 四条通の南西側から眺めた月鉾の全景です。 月鉾の鉾頭には、その鉾名の通り、月が新月型(三日月)で取り付けてあります。この三日月は銅製金鍍金で径40cm、上下24cm、下部幅広の部分10cmという大きさでここに柄がついています。刻まれた銘から、元亀4年(1573)の大錺屋勘右衛門作とわかるそうです。三日月の2m下に長さ1m余の「吹きちり」が結わえられています。かなり下に小さな屋根と天王様、そして天王台に相当する籠製の船があります。この船には船を漕ぐ櫂が備えてあり、それを結わえてあるからでしょうか、船に長さ40cmばかり、青海波を白く抜いた浅葱色の麻布が垂らされていますが、それが絞られた形になり、逆に船らしさが出ています。さらに、この櫂は真鍮製の櫂で、天王様の手と結んであり、この櫂を仲介にして舟形と連結されているそうです。天王様として月読尊が祀られています。鉾名はこの月読尊を祀ることに由来するとか。『日本書紀』によれば、月読尊(月夜見尊/月弓尊)は夜の国の支配者となる神です。 左の画像は榊の後側、右の画像は榊の正面側です。榊の正面の中心には白幣がさし込まれ、榊に小しでがたくさん取り付けられています。背後の榊の下部には、白地に藍色の窠紋が一つ描かれた角幡(30cm×40cm)が吊されています。真木を支持する4本柱が集まっている部分のなわがらみは、長刀鉾と函谷鉾の場合と比べてみても、荒縄で周囲をびっしりと隙間なく巻き付けているところは同じです。ところが、その下部の処理が異なります。長刀鉾と函谷鉾鉾はかなり粗い網状の仕上がり部分がみられます。鶏鉾は異なる結い方になっています。また、4本柱を鉄製金具で間隔をとる代わりに、木製枠が使われています。胴組の下部では、石持と下貫とのかみ合わせの位置関係を微調整しながら組み合わせる最終段階に入っています。他の鉾建て見物では見ることができなかったプロセスの一コマを、この月鉾で間近に観察できました。 石持の下には木馬が置かれていてその上に角材が置かれ、テコ棒を使い微妙な上げ具合の調整が行われています。 下貫の刳りの部分と石持の刳りの部分の交差箇所がピッタリとかみ合うように、調整作業が続きます。下貫に対する石持の高さを調整するために、指示を受けて部材を追加したり、石持を左右に微調整するなどの作業です。そして両者がピタリと結合します。 胴組を構成する部材もまた、祇園祭の歴史の中でその老朽化に伴い、継続的に新しい部材との取り替えが行われてきたのでしょう。部材にその新調年月日が墨書されています。懸装品の復元や新調が行われると新聞報道で知ることができます。その年の巡行で注目される材料にもなります。鉾のまさに屋台骨である部材が営々と新旧交代を繰り返していることがニュースネタになることはなかったと思います。まさに祇園祭を支える縁の下の力持ちなのです。私自身、月鉾のこの部材に墨書された平成年号に気づくまで、胴組部材の更新のことは、考えたことがありませんでした。祇園祭の伝統の継承には、様々な側面があることを再認識しました。15時過ぎに、室町通入ルに位置する菊水鉾に行き、鉾立の様子を眺めることに・・・・・。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会補遺月鉾 ホームページ月鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭 -月鉾の名宝`- :「京都文化博物館」 過去の総合展示の案内ページですが、説明と掲載画像が参考になります。ツクヨミ :ウィキペディア月読尊/月夜見尊 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.08.30
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函谷鉾からほんのわずかの距離に3つの鉾があります。一つは函谷鉾頬から見て、四条通の南西方向の向かい側に位置する「月鉾」、函谷鉾から少し西になる南北の室町通を北に入ると「菊水鉾」、交差点を渡って室町通を少し下がれば、池坊短期大学の学舎の前に位置する「鶏鉾」です。そこで、「鶏鉾」の様子を眺めに行きました。14:38頃です。鉾の引き起こしが終わり、小休止のひとときなのか、胴組の周囲は閑散としていました。そこで鶏鉾の胴組のなわがらみの仕上がりの美を撮って、月鉾に向かうことにしました。 鶏鉾は室町通で北向きを正面にして鉾建てされます。砲身のような角度を持ったテコが北方向に延びています。 なわがらみの技法は同じようですが、鶏鉾の側面の仕上がりはこれまた、長刀鉾や函谷鉾鉾とも微妙に異なっています。筋違いの間で縦方向に結わえた縄を束ねる数が、長刀鉾の7つに対し、函谷鉾と同じ5つなのですが、中貫と筋違いを結わえるやり方が三者三様で微妙に違います。それぞれの伝統・流儀が継承されているのでしょう。この姿は宵山をそぞろ歩きし、山鉾巡行を眺める段階では、見ることができません。懸装品で華やかに装飾された鉾の美に対して、ちょっとマニアックですが、それを支える隠された美ということになります。 胴組の四隅の柱と貫、筋違いを結わえつけるなわがらみの仕上がりが場所により様々な違いを生み出しているところもおもしろいです。真木を鉾頭から見下ろしていくと鉾頭にはシンボル飾りが付けられ、黒塗の木製小屋根、かなり離れた位置に天王人形が結わえられています。天王人形からかなり離れた位置に、竹籠製の船形が浅葱麻布で周囲を包まれていて、下部を少し絞った形で30cmほど垂れています。その船形の中心部を真木が貫いています。この画像は真木を背後から撮っています。手許の本によれば、前方では、舟形の両舷に竹筒がかけられ、これに二羽の雄鶏の像が挿して立ててあると言います。この船が天王台に相当するようです。榊にはたくさんの小しでが付けられています。真木とそれを支持する4本の柱が続きます。全体の形式は各鉾でほぼ共通です。 竹で三角形を2つ作り、その間に径25cmほどの金鍍金した銅円板を挟み、さらに中央を縦に挟んで竹真木の上端に挿し込んでとめられるのです。その竹は紅白のだんだら模様に塗られています。三角形の各角は紺色に染められた苧(お)束で結わえられ房のように仕上げられています。手許の本によれば「円板は太陽、紺の苧は黒雲」を表すという説明と、円板は鶏卵を意味し、「神代のはじめ天地渾沌たること鶏子の如し」という『日本書紀』の開闢伝説によるという説明がされているようです。 真木に結わえ付けられた天王様は老人の姿をした木彫像で、住吉明神だそうです。透明の袋で覆われています。雨除けでしょうか。石持の大きな部材が作業待ちになっています。傍に、こんな飾り金具が置かれています。 横に倒した胴組に真木を取り付けた後、胴組を引き起こすために、引っ張る道具として使われたウインチなのでしょう。室町通に杭の固定穴が鉾建て用に穿たれているのです。そばに鉄蓋が置かれています。普段は、蓋された穴の存在すらほとんどの人は意識もしていないでしょう。私もその一人でした。今年、初めて意識したささやかな発見です。時刻は、14:46頃でした。この鶏鉾、2016年に入手した「宵山・巡行ガイド2016」には、「中国・尭の時代、天下がよく治まって太平が続き、訴訟用の太鼓に用がなくなり鶏が巣を作ったという居士を題材にした鉾」と説明されています。つまり、中国古代の「諫鼓(かんこ)」の伝説を命名起源にする説明です。手許の本には、この命名起源説を最初に記しながら、「又天の岩戸における永世の長鳴鳥にちなむとも称せられている」という説も紹介しています。鉾頭の形象の持つ意味合い、天王様が住吉明神ということを合わせると、この鉾にも色々な思いが複合されているようです。この辺りで、鶏鉾の状況見物を終えて、四条通の月鉾に立ち寄ってみることにしました。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会補遺鶏鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭 -鶏鉾の名宝- :「京都文化博物館」 過去の総合展示の案内ページですが、説明と掲載画像が参考になります。諌鼓を打て :「CRYSTALBEAR's HOME PAGE」諌鼓鶏 :「富士宮囃子と秋祭り」諫鼓鳥 泉町 :「とちぎの人形山車」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -8 菊水鉾の鉾建て 点描:引き起こし へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -9 鉾の裏方の美:隠れる「なわがらみ」技法 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.08.29
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長刀鉾の鉾建て2日目を前回ご紹介しました。その見物を始める(12:00)前に、長刀鉾の組み立て現場を通り過ぎ、ちょっと函谷鉾の様子を見に行きました。四条通を西進し、烏丸通を横切れば函谷鉾が見えます。冒頭の画像は、10:48頃に眺めた景色です。 鉾は既に引き起こされていました。クレーン車に吊された作業台が高く引き上げられて、真木に取り付けた榊に対して、飾り付けの作業が行われているように見えました。函谷鉾の場合は、榊の中央に金幣が挿され、榊の枝に小型のしでが多数取り付けられています。函谷鉾は「扇形の鉄板に穴を多数あけた支持の枠と、榊の根本をまとめる榊受台をとりつけ、この穴に榊の枝を多数活けるように挿す」(資料1)というやり方です。そのため榊が花束のように上方へ拡がる形になっているのです。 真木を見上げて、ズームアップで撮ってみました。鉾頭には、白麻三角形2枚を合わせて竹骨に張り、それが竹真木の先端に冠せて取り付けられ、上端に白銅銀鍍金の三日月が両先端を上に向けて取り付けてあるそうです。これは、「函谷関から見上げる暁の山稜を象徴している」といいます。(資料1)左の画像と合わせて見ていただくと、一番上のしゃぐまの少し上に、四角の枠が上に開いて漏斗状の形で固定したものが見えます。黒塗割竹の80cmほどのものが16本、真木の周囲に使われています。「中程に底板があって真鍮金鍍金雌雄の鶏が居り、周囲を褐色石垣模様の麻幕で包み、函谷関の城塞をかたどる」のです。函谷関の城塞に見立てたこの関が、天王台に相当するそうです。天王人形は1mほど上の位置に真木に結わえられています。さらに上には、黒塗小屋根が真木に取り付けてあります。鉾頭と小屋根の間には、「吹きちり」が2枚付けられています。天王台に相当する関の下には角幡がつけられています。(資料1)胴組の方に目を移します。 北側面 北東隅の上部 北側面 中貫東端側「なわがらみ」技法が駆使された仕上がりの美が鉾建てを見物する楽しみの一つです。長刀鉾の北側面の仕上がり美の画像と見比べてみてください。技法は同じなのでしょうが、仕上げ方がかなりことなります。それぞれの鉾のやり方が繁栄されていくのです。 胴組の後部(西面) 道路脇にこんな道具が置かれていました。木槌のような道具には天保十年六月と刻まれています。江戸時代、1839年です。それ以来、連綿とこの道具が使われてきたのです。さりげなく置かれている道具にも歴史の厚み、継承と人々の愛着が見られます。四条通の西から、函谷鉾の基本構造の全体像を眺めたところ。この後、鉾が巡行の折に見る姿に仕上げられていきます。 囃子台の取り付け作業が始まったところです。時刻は10:54頃です。 四条通の南側歩道の違う位置、角度から真木を撮ってみました。函谷鉾のしゃぐまは7個取り付けられていて、上から5つ目と6つ目の間に榊が位置します。5つ目のしゃぐまは大きな榊の陰になっています。褐色の石垣模様の麻幕の図柄がよく見えるとともに、その下に吊された角幡の図柄もちゃんと見えました。勿論ズームアップで撮ったからなのですが・・・・。紺地に白二引窠紋入の30cm角幡です。このまとめをしていて、記録写真から小さな発見(?)がありました。側面から眺めた榊の北方向に、鉾頭と同じ形のものが細い棒の先に取り付けられているのが見えたのです。函谷鉾の会所の屋根に、これが設置されているというのを初めて知った次第です。長年見物し親しんできている祇園祭ですが、毎年何か新しい発見、新しい気づきを得ています。だから、この祭見物に飽きないのかもしれません。ここで一旦、長刀鉾の鉾建て作業のプロセスを見物することにします。函谷鉾のところに14:30頃戻って来たときには、既にこの状態まで進行していました。胴組の下部では、石持を堅固になわがらみで緊縛する作業がかなり進んでいます。胴組の上に作業用の張り出しが設置され、上部構造としての囃子台には既に手摺、柱と屋根が組み立てられ、着々と外装部分の組み込み作業が進んでいきます。後部側に回って見ました。北西側から撮った写真です。囃子台の四周の手摺の上に、角材を渡して仮固定して作業用の張り出しが設けられています。長刀鉾は3回にわたって記録を整理し、ご紹介したところで終わりました。長刀鉾のその先の鉾建てプロセスは、この辺りから函谷鉾の鉾建て状況の進展に重ねてみることで、イメージしてもらえることでしょう。鉾の屋根には、普通の家屋や寺社の屋根とは異なり、動く屋形としてその動揺に耐え、かつ毎年の組立・分解の繰り返しで使うのに便利なように様々な工夫が施されているようです。「小部分ごとにブロックセットとなったものを栓や掛金で一時的に固定する方式をとり、独特なくふうが凝らされている。棟は真木のため前後に分断されており、網かくしの内部は穴になっていて、屋根方はここから出入りする。屋根の重量は真木部分で宙釣りにされていて、四本柱で水平に支えられているから、鉾が揺れると屋根は下部に関係なく独特にゆれる」(資料1)ということになるのです。その揺れ方は、鉾の巡行をご覧になると感じられることでしょう。屋根の内部の中央に白く見えるのは穴なのです。真木と禿柱が延びているのもなんとか見えます。函谷鉾の後部の屋根に着目してみましょう。屋根の裏側をズームアップします。屋形の梁の中央に、切妻造りの屋根を支える金色に彩色された大瓶束が輝いています。大屋根の軒裏の後部には、金地に明烏(あけからす)が描かれています。 真木の後部鉾の骨格の全体構造が見える段階です。鉾の装飾部材がどんどん組み込まれていきます。14:30頃に前部の軒裏を一度眺めたときは、後部と動揺にこの状態でした。近くにある他の鉾の様子を見に行くために、ここもしばらく中抜けしました。15:58頃に再度訪れて撮ったもの。この時点で、張り出しの作業台は撤去されています。大屋根の棟の両端の獅子口、屋根の合掌部の懸魚などもすべて取り付けられ、囃子台の中心部を貫いて立つ真木と四方から真木を支持する禿柱が屋形の内側に見えます。鉾の舞台裏がまだ観察できる段階です。屋根の中央には真木・禿柱を覆う真紅の網隠が既に装着されています。さて、ここからは、博物館・美術館的な鑑賞を楽しめる時間です。山鉾巡行中には多分ゆっくりと見ることのない部分の美を堪能できるのです。ご覧ください。 屋根の後部 後部の鱗板には波に亀と牡丹の透かし彫り彫刻が施され、彩色されています。それでは、前部(東面)を眺めてみます。 15:59頃に眺めると外装の組み込み装着が終わっていました。 軒裏には金地に極彩色で雌雄の鶏が描かれています。大瓶束の左右の鱗板には彩色木彫像が見えます。手許の本によると、嘉永2年(1849)柴田杢之助同与市による作品だそうです。 軒裏前部の右側に、今井景年の署名と落款印が見えます。 林和靖と白梅 童子と鶴・白梅林和靖とは、北宋の詩人で林逋(りんぽ:967-1028)のことで、和靖は死後に追贈された諡号(しごう)だそうです。中国の西湖中の孤山に隠棲し、20年間市街に足を入れることなく、一生独身で、鶴を飼い、梅を愛でて過ごした人で、梅を詠んだ詩を好んで詠じたと言います。江戸時代から広く愛好された詩人だそうです。(資料2)函谷鉾は、孟嘗君が函谷関で家来に鶏の鳴き声を真似させることで、開門させて通り抜けたという故事を題材にしています。そこで江戸時代に良く知られたという林和靖のことを同じ中国関連で題材にしたということでしょうか・・・・。 一文字梁は黒漆塗りに雲鶴の繊細な鍍金金具で、今尾景年下絵によるものと言います。はや時刻は、16:00頃です。この辺りで、函谷鉾を離れました。つづく参照資料1)『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会2) 林和靖 :「コトバンク」補遺函谷鉾 ホームページ函谷鉾 山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)今井景年 :ウィキペディア今井景年 ;「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.08.28
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鉾を立てる支点となる回転軸を杭に固定する茶色の縄に水をかけて湿りを加えています。回転を円滑にするためなのでしょう。 鉾を建てる作業の準備が万端整いました。真木を支持する四隅の禿柱が集合する位置から少し上側にロープの中央部が固定されています。 ロープの一端は、テコの先端の横木を介して、東側に張られ、その先端がウィンチのワイヤーの先の金具に結合されています。徐々に機械で巻き上げて引っ張る形です。かつては東側のロープを、綱引きのように大勢の曳き手が鉾建て作業として人力で引っ張ったそうです。いよいよ鉾を立てる引き起こし作業の開始! 真木の立てられた胴組が少しずつ、立っていきます。もう一つのロープが引き起こしにおける力のバランスを取るために西側で引っ張られています。 そして、遂に真木が直立します。 これで、初日の胴組に真木がセットされ鉾の構造体の中核ができました。しかし、胴組の構造は底辺が2mそこそこのもの。そこに真木が20数mの高さに延びています。ひょろ長い不安定な状態です。ただちに、「石持(いしもち)」と呼ばれる部材を取り付ける作業が行われます。小口が30cm×60cm、長さ6.5mほどの大きさの赤松の大木です。両端には鉄たがが嵌められています。この巨大な部材のひびわれをさけるためのようです。台車に載せて鉾枠の下に曳き入れられます。前部、後部の下貫の底面がこの石持と組み合うように刳(く)りが設けてあります。石持を木馬(きうま)に乗せて、一旦鉾枠の中に引き入れ石持の刳り部分に下貫がかみ合うように高さを調整していくのです。それが合うと、前後の2本の下貫が石持の上で上部構造の全体の重さを支える形になります。固定するために、石持と前後の貫、四本柱、側面の下貫が、なわがらみの技法で緊縛されるます。ここで、この仕上がりの美がさらに加わります。 この時点で12:30頃です。 真木の上部を眺めておきましょう。 鉾頭には、長刀が取り付けられています。しかし長刀の刃は鉾の正面ではなくて、右側面(この場所では南)に向いています。右の画像は、榊の中心に大きな白幣が一つだけ取り付けてあります。この榊の部分の取扱い方が鉾それぞれによって違うのです。これもまたおもしろいところです。 木製の小屋根、そして天王様です。デジカメのズームアップ機能で撮りました。天王様の設置のしかたも鉾それぞれにやり方に違いがあるようです。長刀鉾の場合、画像を観察すると、天王様の人形が台座にボルトで固定されているようです。小屋根と台座を支える角材が真木にくくりつけられて固定され、天王様が真木の傍に立っているようになります。地上から肉眼では見られませんし、巡行中に真木の上まで眺める人もたぶん少ないでしょう。手許の本によれば、この天王人形は和泉小次郎親衛像で像高23cmの木彫彩色です。昭和29年(1954)六代目伊東久重作、守口源次郎奉納とのこと。四条通の東から西を眺めたところ景色。天王様は天王台よりもかなり高い所で宙に浮いている形になります。天王台は竹真木と木真木の継ぎ目あたりに取り付けられているそうです。この天王台に天王様を直接のせると鉾の近くから見上げたとき、下からは見えなくなるからだとか。ここで一旦、長刀鉾から離れました。14:16頃に長刀鉾の場所に戻ると、既に砲身のように斜め上に突き出ていたテコは撤去されていました。そして胴組の上部には既に、囃子台が組み立てられて、囃子台四周の手摺が壺金物で固定されています。これで胴組上部の寸法と比較すると3倍近い面積になり、大勢の囃子方などが乗り込む空間がなんとか確保されるのです。 石持の両端から1mほどの下面に浅い刳(く)りがあります。ここは車軸を取り付ける場所です。既に車軸が準備されています。 車軸の取り付けと固定の作業が着々と進められていきます。囃子台の方では、手摺の外側に鉾の上部構造を組み立てていく準備として、仮の作業場が張り出しとして作られています。上部構造としての囃子台の四隅の柱を立てて屋根部分を組み立てるという作業が引き続くのです。また、手摺の下側には、水引や胴掛を支える同じ寸法の寸法の枠が取り付けられるそうです。長刀鉾保存会の会所の2階と鉾の囃子台の内部を繋ぐ通路部分も組み立てられていきます。この通路部分を使い、分解された部材を順次持ち込み、胴組の上の構造部分が手際よく組み立てられていくのです。この時点で16:05頃でした。まだしばらく作業が続くことでしょうが、多分第3日目に作業が引き続き行われて、曳き初めへの準備が整うということになります。長刀鉾の鉾建て見物は、一応これでご紹介を終えます。尚、同日長刀鉾の鉾建て見物の前後や中抜けで、相前後して並行で進行している他の鉾の様子も見物に行きました。その様子から、長刀鉾のその後の作業工程も類推いただけると思います。 当日、ちょっとデパートに立ち寄ると、1階のエントランス近くに鉾のミニチュアが飾られていました。左の画像では、放下鉾(左)と長刀鉾(右)、そして右の画像では岩戸山(左)と長刀鉾(右)が写っています。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.08.26
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7月11日、10:44頃に長刀鉾の鉾建て場所に到着。既に、胴組にテコという鉾建ての為だけの部材が取り付けられ、胴組は西の方向に倒されていました。四条通の北側歩道を行き過ぎて、北西側から胴組を眺めたところです。初日の「なわがらみ」技法での固定・補強作業のとき、上面の筋違いとしてご紹介していたものが、ここでは西面として見えています。この筋違いの四つの先端は枠からかなり飛び出しています。この部分が、後ほど禿柱(かむろはしら)を固定する台になるのです。少し東に戻って、胴組を北東側から眺めますと、胴組の四隅の柱の底面が見える状態です。胴組は東面(八坂神社に面する側)が前部で、西面が後部になります。一番手前に、四条通に穿たれた四角の穴にさし込まれた杭が少し見えます。杭には茶色い縄で古い車軸を利用した回転軸が固定されています。後部の胴組の柱下端が白いロープで固定されています。一方、後部の下貫の下面と、前部の下貫の上面に少し斜めになる形に、テコの角材が渡されて、ロープでしっかりと結わえつけられ固定されています。このテコは、冒頭の画像に見えるとおり、先端には横木が渡され、中ほどにはX形に部材で補強されています。既に太いロープがテコの先端にかけてあります。後部の中貫は筋違いと合わせて「なわがらみ」技法でびっしりと結わえられて固定されている様子がよくわかります。鉾建てのプロセスが観察しやすいように、四条通の南側歩道に移動しました。2階に赤い提灯の吊り下げてあるのが、長刀鉾保存会の会所です。胴組の上部が今は西面となり、下部が東面、前部が上面、後部が下面という状態になっています。これが南側の杭が四条通に設定されている四角の穴に差し込まれ、回転軸を茶色のロープで結わえているところです。この杭は鉾建て作業の支点となる重要な機能を担っているのでした。倒された胴組のなわがらみ技法の造り出した美が見えます。外側と内側の両方が見えます。会所1階からいよいよ真木が運び出されてきます。11:03頃です。 四条通の横幅に近い長さがあるのが、お解りいただけるでしょう。真木は20m以上の長さがあるそうです。 真木全体が通りに出ると、今度は、担ぎ手は反対向きになり真木の先端部から西方向に進み、真木の下端を胴組の中央部にさし込むことができるように移動します。 真木の底面は下貫に渡された厚板の切り込みにはめ込まれて、ほぞで固定されます。 胴組に真木が固定されると、第2段階にはいります。各箇所での作業が同時並行で進行します。少し距離を置いて見物していますので、全体像が見やすいのですが、各箇所の細部は見づらくなります。しかたがありませんが・・・・。 真木が真っ直ぐ垂直状態を保つように、4本の禿柱が支持・補強として取り付けられます。これもまた、部材同士をさし込み式で組み合わせて、荒縄で結わえて固定するという作業です。胴組上面の筋違いの張り出しがここで活きてくるのです。 しゃぐまの中ほどに、大きな榊が結わえられて、大きい白幣を一つ取り付けるという作業が行われています。 左の画像は、4本の禿柱の先端集合部右の画像は、真木を支持する禿柱の間でこれらのつながりを補強する作業が進みます。 一方、真木の上部側では、 しゃぐまの少し上側には、天王台が取り付けられます。「天王台は三十糎角の台に、前に巴、両側に窠紋を白く抜いた赤地垂幕を巻く」というものです。一方、これと鉾頭との中間には、小屋根と天王様が取り付けられるのです。天王台よりかなり上部に天王様がおられることになります。この部分は見づらい場所からの観察になりました。 鉾頭、つまり真木の先端部には長刀が取り付けられるのです。 真木の上部は、白布、紅布が丁寧に巻かれていきます。 真木を支持する禿柱全体の外側を上部は荒縄を隙間なく巻いていき固定され、下部は粗い格子状のなわがらみで結わえられて、完成です。 いよいよ鉾を建てる作業に入る準備ができました。第3段階です。つづく参照資料『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.08.26
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長刀鉾の鉾建て初日を眺めた後、四条大橋に戻り、この笹竹がなぜ設けられていたのか、理解できました。この日(7月10)は、神輿洗式の行事が行われる日でもあったのです。四条大橋の東詰に大勢の人々が集まっていて、その会話から合点がいったと言う次第です。そこで帰宅するつもりだったのを急遽取りやめ、この様子を眺めて見ることにしました。後で調べて知ったことを交えて、整理してご紹介します。この日の行事は午前中から既に始まっていたのでした。笹竹と注連縄のこの場所は、朝の行事から使われていたのです。午前10時に、宮本組の主催として、「神用水清祓式」がまず、行われていたのです。この四条大橋の上から、神輿洗に使用する神事用の水が鴨川から汲み上げられます。そして鴨川の堤で汲み上げた水に対してお祓いの儀式が行われていたようです。そして、八坂神社を16:30に出発する「お迎え提灯」の行列が巡行していたのです。この巡行の行列を後ほど眺めることになります。この行列巡行と併行して、「神輿洗式」の行事が進行しているようです。八坂神社の境内では、午後6時に「奉告祭」が終了すると、神輿3基のうち、2基が舞台に据えられます。そのうち1基(中御座)がその後の「神輿洗式」の儀式を代表して行うということのようです。そして、ここからが記録写真でのご紹介となります。最初、多くの人々に混じって、四条大橋の橋上で待機していたのですが、係員の人に橋の傍からは立ち退くことになりますという説明を受けました。そこで勝手がわからないままに、南座の反対側、つまり北側の歩道脇に移動しました。ここで見物することに。八坂神社から、「宮本組」と記された提灯の先導に続いて人々の行列がまず目前にやってきました。19:19頃です。それに続き、八坂神社から「若」と文字の入った半被を着た一群の人々が火の付いた松明とともにやってきます。八坂神社から四条大橋までの四条通を松明の火とともにまず清めるという印象を持ちました。それから5分ほどすると、四条大橋の方から行列が進んできます。太鼓と「おむかえ」と記された提灯を捧げる人たちが先導です。これは、上記の「お迎え提灯」の行列が、戻ってきたのです。この行列の人々が、後ほど八坂神社石段下で、神輿洗の神輿を迎える側になるのです。 函谷鉾のお囃子行列 子供武者と御迎燈 舞踊奉納の子供達 鷺の舞奉納の子供達 神輿を迎える子供達なのでしょう。 最初に、八坂神社から四条大橋に向かってきた人々と松明が、つづきます。 馬上の稚児「お迎え提灯」の行列が八坂神社の方向へ通り過ぎて行くと、しばらく待機状態となります。四条大橋より東側の四条通は通行止めとなっていますので、静かなものです。宮本組の半被を着て、松明を肩に担った人々がふたたび先導して進んできます。20:07頃です。その後に、外装のない神輿本体が1基続きます。この神輿が「中御座」です。 神輿の後に、神官はじめ関係者が続きます。この列の前後を松明が照らすのです。そして神輿と一群の関係者が四条大橋に入ります。四条大橋近くには居られなくなるということが納得できる次第です。かつて、街灯や建物の照明灯などがなかった時代、月明かりの他は暗闇が支配していますから、松明で照らし道を示すことは実用的な機能を持っていたのでしょう。四条大橋の上で、神輿を清める儀式が引き続いて行われるのです。それに使われる水が、午前中の行事で準備されていたことになります。見物する位置からは、橋の上でどのような手順の儀式が行われているかは全く見えません。 橋上での儀式を終えた神輿が、八坂神社に戻っていきます。目の前を通り過ぎるのを眺めた後は、八坂神社の石段下の方に、先回りするように裏道を使い速やかに移動しました。石段下には、「お迎え提灯」行列の人々が神輿を出迎えるために一列に並んでいます。そこに神輿が戻って来ます。石段下で、数回神輿回しをしてから、神輿は東大路通を少し南に進み、南楼門から神社境内に向かいます。お迎えの人々が神輿の後に続きます。 そこで、石段下から正面の楼門を通り、神社境内を横切って舞殿の傍に先回りしますと、既に大勢の見物客が待機していました。 南楼門から戻ってきた神輿は、舞殿を時計回りに数回巡ります。神輿担ぎの長い2本の棒が取り外されると、 神輿本体が舞殿の中央部に担ぎ上げて納められます。舞殿では、ただちに中御座に外装の飾り付け作業が行われていきます。 鷺の舞の少年たちが南楼門の石段に一旦整列すると、 舞殿傍の境内で、鷺の舞を奉納します。 一方、南楼門に近い位置にある能舞台では、小町踊、万灯踊の舞踊奉納が行われていきます。 飾り付けの進行する中御座の両側には、飾り付けの済んでいる神輿が鎮座していました。後は、御旅所への神輿渡御の本番まで、この舞殿に神輿が鎮座します。 21:38頃、能舞台で舞踊奉納が続いていましたが、遅くなるのでこの辺りで帰宅することにしました。祇園祭の山鉾巡行を恒例のように見てきていますが、神輿洗式を見物したのは、これが初めてでした。今回拝見できなかった行事を眺めるという課題が残りました。つづく参照資料祇園祭 主な行事 :「八坂神社」補遺八坂神社 ホームページ神輿洗式 :「祇園祭」(KBS京都)神輿洗 :「京都通百科事典」祇園祭 神輿洗いと祈り by 五所光一郎 :「祇園祭」神輿洗・10日(祇園祭) :「きょうの沙都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧 へ
2017.08.25
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インターネットで調べると、7月10日が長刀鉾の鉾建てと出ていました。見られる範囲で観察してみようと、半ば思いつきで出かけました。この画像は四条大橋の中央で撮ったもの。南北の両欄干に笹竹が設えられ、注連縄が張られています。何のため? と思いつつ、まずは四条通を大丸の西側になる長刀鉾町まで向かいます。この意味はいずれ・・・・ご説明します。ビルの1階に「長刀鉾保存会」の銘板を掲げた奥行きの深い会所フロアーが見えます。この前を幾度も通り過ごしながら、ここが開放されている状態は初めて見ました。祇園祭巡行の山鉾、つまり山と鉾は、入手資料によると、前祭の場合には「山鉾建て」が10~14日、「曳き初め、舁き初め」が12~13日という行事日程になっています。山や鉾がそれぞれの町内で組み立てられると、巡行姿の飾り付けができた形で、鉾は「曳き初め」、山は「舁き初め」が行われるのです。組み上がった山鉾が支障なく動くかの初試しです。この「曳き初め、舁き初め」には、関係者以外の一般人も参加させて貰えます。すべてがそうかは知りませんが、かなり以前に、船鉾の曳き初めを見物にでかけた折り、曳くのに参加できました。それが今のところ1度だけですが曳き初めの楽しい記憶です。長刀鉾の胴組(基本構造体部分)の胴枠作りは既に半ば仕上がりつつありました。14:13頃に撮った写真です。数十人の見物人がいました。四条通の片側の一部を通行止めにして、炎天下での作業です。傍をひっきりなしに、片側を自動車が通過して行きます。胴組の組み立て作業には、6~10人くらいの人々が携わっているようでした。鉾の一番重要な基礎構造体となる胴組です。胴組の木材はすべて組み立て・分解できる部材が使われています。組み上げた胴枠を、釘を使わずに、荒縄だけを使う「なわがらみ」とよばれる技法で固定し補強していくのです。人力だけでの作業です。 筋違い部分がなわがらみの技法で縛られていく作業途中の状態 部材が集合してくる胴組の四隅上部の荒縄の組み方をご覧ください。柱は内側へやや傾斜しています。胴枠の上部、水平方向の筋違いとなる部材が中央で上下に組み合わされています。金具で補強が為されているようです。 胴枠の四隅の柱に穿たれた矩形部に、貫(ぬき:横木)が通されて、ほぞがはめ込まれています。貫の固定用ストッパーなのでしょう。四本の柱は4mほどの高さ、そして四周に各3本の貫が使用されています。 会所の一隅には荒縄や繊維の縄が沢山置かれています。 胴枠の上部を眺めると、四隅の柱の間で、上面の梁と水平方向の筋違いを保持する貫を荒縄で縛った仕上げの状態が見えます。「なわがらみ」技法の一つの仕上がりの美がここにあります。縄を貫に巻き付け引っ張る人、木槌でトントンと縄を叩き締める作業をする人、二人の協働作業ですき間なく均等に縄が絡められていきます。 この画像の、右側の柱の足元をご覧ください。四条通の路面に四角に穿たれた穴が設けられているのです。鉾を組み立てる位置決めになる窪みなのでしょう。そして、この穴に差し込まれた杭と横軸の木材が、重要な役割を担っていくのです。四条通にこんな四角の穴が設定されているのを初めて知りました。普段はどうなっているのか、一度見てこようと思っています。 北面の縦方向の筋違いの交点がなわがらみで仕上げられた姿がこれです。こちらが胴組の東面の仕上げの姿なのでしょう。ここに、もう一つの「なわがらみ」技法の仕上げの美が見られます。 胴組の中央で、こんな作業が行われていました。これが何を意味するのかは、不詳。お忙しいときに質問もできませんし・・・・・・。ご存じの方、ご教示ください。北東角の柱の上部の仕上がり状態だと思います。 角度を変えて、撮ってみました。胴組の作業と並行して、会所の中では別の作業が進行していたのです。鉾建ての初日の作業である胴組の組み立て作業の後半を眺めている間に、胴組の中心部に建てられる「真木」の飾り付けの準備作業が行われていたのです。会所の中ほど、東壁沿いに「天道大日如来」と記された提灯を提げた小祠が見えます。 真木の先端側に藁と縄で作られた飾り結び「しゃぐま」が見えます。真木に設置される「天王台」の下に、長刀鉾では塔の九輪に相当する7個の「しゃぐま」がとりつけられるそうです。これで本日の作業は一旦終了のようです。この時、時刻は18:15頃でした。鉾建ての後半は、7月11日につづきます。閉店時刻までわずかでしたが、「永楽屋」の喫茶室に行き、毎夏楽しみにしているかき氷「宇治金時氷」を食べてひと休み。30分弱で店を出て、四条大橋に戻ります。18:55頃でした。橋に架かると、お囃子が聞こえてきました。その方向を見ると、 四条大橋西詰の老舗中華料理店「東華菜館」の南隣りにある料亭「ちもと」の2階からでした。窓際に「菊水鉾」の提灯が提げてあります。菊水鉾の囃子方の人々がお囃子を演奏されているのでした。巡行日までの準備の一環なのでしょう。みそそぎ川の上に張り出された夏の風物詩である川床で、食事や談笑を楽しむ人々には、この時季にしか味わえないお囃子が、京らしいバックグラウンドミュージックになっています。つづく参照資料「祇園祭 山鉾行事」 今年入手したリーフレット『祇園祭再見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会補遺長刀鉾の由来 地域交流 :「外市株式会社」祇園祭 :「祇園祭山鉾連合会」 長刀鉾 菊水鉾 永楽屋 ホームページ 永楽屋喫茶室 京料理 ちもと ホームページ北京料理 東華采館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -2 神輿洗式 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1 へ探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2 へ探訪&鑑賞 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 へ祇園祭(Y2017)への誘い 過去の関連ブログ記事掲載一覧
2017.08.23
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今年(2017)の4月中旬から5月中旬の期間に、京都国立博物館の開館120周年記念として「海北友松」の特別展覧会が開催されました。展覧会の会期が終わる少し前に鑑賞にでかけました。冒頭の画像は、博物館の入口から真っ直ぐに延びる平成知新館へのアプローチを進んだとき、建物の手前でぎょろりと睨みつけるようにして迎えてくれる海北友松の龍です。平成知新館のロビーを入ると、正面の壁面一杯のスケールでもう一頭の龍が迎えてくれました。この掲示までは撮影可でした。60歳を過ぎてから、活躍の舞台を得て頭角を現した海北友松の最も有名な雲龍図がこれらの龍を描き切った雲龍図だろうと思います。実物を間近に見るとやはりその迫力は凄いものです。展覧会は海北友松の生涯を十章にわけて辿るという構成になっていました。第1章は東福寺の喝食(かつしき:有髪の小童)となっていた友松が還俗して狩野派に入門し学ぶことから絵師の道を目指したという紹介です。「柏に猿図」が出ていました。第4章「友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画-」で展示されていたのがこの雲龍図です。当日購入した図録の表紙はたしか2種類あると聞きましたが、私はやはり龍図の表紙を選択しました。友松の雲龍図は惹かれる龍図の一つですから。大方丈の仏壇の正面の間が「室中」で、その左が「檀那之間」、右が「札之間」と称されていて、「札之間」に八幅の障壁画として描かれているのがこの雲龍図です。天文21年(1552)に建仁寺の方丈が兵火で灰燼に帰します。慶長4年(1599)に東福寺の安国寺恵瓊の尽力で、安芸国・安国寺の建物が移築されて方丈が再び復活するのですが、その時に海北友松が内部装飾を任されたのです。何と、67歳の時だったといいます。俄然海北友松の名を高めていく晴れの舞台が現出したのです。第8章「画龍の名手・友松-海を渡った名声-」で様々な龍図が展示されていました。しかし、そのスケールと気魄、迫力ではやはり建仁寺の雲龍図にまず惹かれました。こちらは図録の裏表紙です。この絵が「京都国立博物館だより」(2017年4・5・6月号)にも使われています。これは京都・妙心寺所蔵の「花卉図屏風」(六曲一双)の右隻、三・四扇の部分の図です。友松の最晩年の作品群の一つだとか。海北友松(1533-1615)、長谷川等伯(1539-1610)、狩野永徳(1543-1590)、本阿弥光悦(1558-1637)、俵屋宗達(?-?)、織田信長(1534-1582)、千利休(1522-1591)、豊臣秀吉(1537-1598)、徳川家康(1543-1616)と、錚錚たる人物群が同時代を共有し、生きていた時期があるのですね。あらためてダイナミックな時代だったのだと感じています。 博物館を出た後、落ち穂拾い的に、見落としていた物や気になる訪の場所を散策してみました。京都国立博物館の敷地の東側は東大路通です。これを横切ると、東の山麓へと向かう「北側に「豊国廟道」という巨大な石標が立つ緩やかな幅広い坂道があります。 この坂道の入口、南側に立つのが「新日吉神宮」石標です。南の築地塀は智積院の塀ですが、その塀寄りに「東山聖天参道香雪院」への道標が立っています。これがまず見落としていた石標です。「新日吉神宮」はスポット探訪として2回でご紹介しています。こちらからご覧ください。 (スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 & -2)また、「香雪院」を異なる方向から歩いていて偶然発見したお寺としてご紹介しています。こちらからご覧ください。 (スポット探訪 京都・東山 香雪院(東山聖天尊・弁財天))そして、この坂道を幾度か往復する機会があったとき、気になっていたのがこの山門です。遠目に見ていたときはいつも開門されていました。今回門前に近づいて見ると、「総本山智積院北門」の門標が掛かっています。北門から中を眺めると石畳道の先に、もう一つ開いた門が見えます。智積院境内に自動車が出入りする通常の通路のある方向に通り抜けていくことができそうです。ということで、夕刻近くなってきた静かなひととき、通行禁止の掲示も見あたらなかったので、この智積院境内で未訪の区域を辿る通路を歩いて、境内を拝見することにしました。後で調べてみて理解できたことを踏まえてのご紹介です。北門を入り、左手(東側)に見えた大きな建物は「庫裡」です。大棟の上には、堂々とした大きな煙出しの櫓が組み込まれています。その櫓の屋根にも鬼瓦が見えます。 煙出しの屋根の鬼瓦 庫裡の正面(西面) 庫裡の切妻屋根の鬼瓦。右の画像は庫裡の南西側の庭部分に立つ石灯籠です。 中門を通り抜けると、東側に「大玄関」があります。北側の塀の向こうには庫裡。南側の塀の先に「本堂」の屋根が見えます。大玄関正面の眺め。この大玄関は北には庫裡、南には本堂、東には大書院へと繋がっているようです。大玄関の前のスペースがけっこうゆったりとしています。 左の画像は、通り抜けてきた中門を南側から見た景色。右の画像は、位置関係を後で考えると、智積院の「正門」を境内から眺めたところです。緩やかな奥行きの長い石段道になっています。正門は東山七条の交差点に面し、七条通の突き当たりになります。いつも、外側の景色は見慣れているのですが、境内から見るのは初めて。 大玄関前庭の一隅に立つ石灯籠 南に向かう通路の西側に「大日如来」の石仏を安置する小祠が祀られています。お地蔵様と同様に、石仏によだれかけが掛けてあります。「大日如来」と刻されていなければ、お地蔵様、地蔵堂と思って通り過ぎるところです。 小さな御堂ですが、シンプルながらしっかりとした造作が見られます。 本堂側の白壁の塀を右に通路を振り返った景色。南から北を眺めた静けさの漂う通路。こういう静かな雰囲気がいいですねえ。白壁の塀は、東に折れてその先に唐門へと続いていきます。その塀沿いの南北の通路の南側に、この井戸が見えました。そこから南に少し歩み、東に曲がって眺めると、南向きの銅像が立っています。 近づいてみると、「延命子安地蔵大菩薩」です。この東西の通路は、拝観受付所の方に向かう道だったと思います。そして、見慣れた門の場所に出て来ました。自動車でアプローチできる広い坂道を東に入ってくると、まず見えるのがこの門です。 智積院の境内図や歴史説明板の見慣れた掲示のあるところに、出ました。これで、境内の未訪地を通覧してきたことになります。この機会に智積院境内での探訪落ち穂拾いができました。智積院は学生時代から幾度か訪れています。近年にブログ記事として探訪記にまとめたものを既に再録しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (「探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -4 智積院」)最後に、通常の智積院への主な入口になっている通路の傍に置かれたちょっと変わった狛犬をふたたびご紹介して終わりにします。 ご一読ありがとうございます。参照資料「京都国立博物館だより」(2017年4・5・6月号『海北友松』開館120周年記念特別展覧会 図録 毎日新聞社他『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂『日本古建築細部語彙 社寺篇』 綜芸舎編集部編 綜芸舎補遺海北友松 :ウィキペディア開館120周年記念特別展覧会 海北友松(かいほうゆうしょう) :「京都国立博物館」桃山時代最後の巨匠 海北友松に迫る :「そうだ京都、行こう」総本山智積院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.06.28
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