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今日は尊敬する内田樹先生のブログから、ご紹介させていただきます。 正直に言って、私もサラリーマン時代は先生のご批判にあるような態度をとっていたと思います。会社で生きていくためには会社の掟に逆らわないで生きていくのが無難です。そして何か起こったときは「私は、ちっとも知りませんでした。」という誤魔化しポーズをとることも多々ありました(汗) 自分の仕事に忠誠を誓ったのも、自分の仕事をきちんと守っていかないと、とんでもないはめに追い込まれることも多かったからです。いるんですよ、世の中には、やらなければならない大切なことが出来ないと、机の中に隠しちゃう人が。そんな人が部下になったら、後で大変なことになります。 「ヤバイ」ということに気がついたら、身を守るためには、すぐ上司に報告をしていました。だってずぐ、何かあったら、「ワシは知らなかった」という人ばかりが多かったですから。すなわち責任を取らされるのが怖くって、さっさと報告していたわけです。それだけ上司を信用していなかったことになります。 人の仕事の穴は見なかったことにしていました。「ちくった」といわれてひどい目にあうからです。 不二家の事件にしても、私と同じような思いで、会社にしがみつく(⇒生活費を稼ぐためには会社にしがみつくしかないと思っている)必要があって、世間では許されないと、悪いとは思っていても、目をつぶっているしかないと思っていた人も多かったと思います。 だって日本の会社や社会では内部の掟のほうが法律に優先することを、肌身に感じて知っている人が生き残れているわけですから。 でも、その場合は、問題が表ざたになったときは、潔く、ともに責任を取らなければいけないと思います。責任を取れなかったら、その仕事から逃げ出すしかないと思います。でもそのためには生活費を稼ぐ手段を持っていないと、途端に生活が苦しくなります。だから私のように、問題に目をつぶって会社の掟に生きている人も多いと思います。 だから会社にしがみつく時は、覚悟を決めて、バレた時には潔く責任があると認めることが必要だと思います。ただし無責任な人間を逃がさないようにしっかり責任は一緒に取ってもらおうと思っていました。ここが私のセコさです(汗) 以下がみなさんにもご紹介したい内田先生のブログです。言い訳上手に生きていくと、人生が味気なくつまらなくなっていきます。本当は企業にとどまって改善するのが筋なんでしょうが、私は逃げ出してしまいました。恥ずかしいですが、正直ホットしています。そのことで、少し心がうずきます。『「言い訳上手になりました」NHKが01年放送の「女性国際戦犯法廷」のドキュメンタリー番組で政治的圧力を受けて番組内容を改変した事件について、東京高裁がNHKに賠償命令を下した。隣の記事は関西テレビの「あるある大事典」の捏造問題の中間報告。テレビメディアの中立性やフェアネスに対する社会的信用はずいぶん低下したようである。まあ、身から出た錆である。でも、「テレビの言うことならほんとうだろうと思っていたのに・・・裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを新聞が掲載しているのを見ると、「嘘つきやがれ」と思う。テレビが虚偽を報道したのを知って「裏切られた気持ちです」というようなことをしゃあしゃあと言ってのけるという「市井の無垢(で無知)な視聴者」のポーズそのものが「テレビ化された定型」に他ならないからである。「テレビ底なしの不信」というような新聞の見出しはまことに「テレビ的」である。そのことに気づいているのであろうか。今さら「不信」というようなことを言い出すところを見ると、新聞人はそれまでテレビで報道している情報がすべて真正だと信じていたであろうか。まさかね。「この程度のこと」が日常茶飯に行われていたことを同じメディアにいる人間が知らないはずはない。知らないはずがないにもかかわらず、知らぬふりをして毎日毎夕テレビ欄に「あらすじ」や「今日のみどころ」など、TV局が送ってくるプレスリリースをノーチェックで掲載して、テレビの「垂れ流し」を下支えしていたのは新聞自身ではないのか。「私は何も知りませんでした。へえ~、そんなことがあったんですか」という「とってつけたような無垢(で無知)な面つき」はテレビが日本社会にもたらした最悪の贈りものの一つである。テレビの構造的腐敗についてどうして新聞は正面から批判をしないのか、ということを私は以前に毎日新聞の外部紙面研究会の場で問いただしたことがある。反応はきわめて鈍いものであった。一人の編集委員だか論説委員だかが、うんざりしたような口調で、「そうおっしゃいますけどね。新聞がテレビ番組を『俗悪だ』と批判すると、結局その番組の視聴率が上がっちゃうんですよ」と皮肉な笑いで答えた。私はある種のテレビ番組が俗悪であるとかないとかいうようなレベルのことを言ったわけではなく、どうして「メディアはメディアの批判をしないのか」という原理的なことについて問うたのであるが、原理的な問いを表層的な答え(プラスせせら笑い)で応じたのを見て、「新聞にはテレビ批判はできないな」と思った。これはひとりテレビへの不信ではなく、メディア全体に対する不信が「日常化」しつつあることの予兆である。マスメディアは「驚いたふり」をするのを止めた方がいいと私は思う。その修辞的な「驚いたふり」は、要するに「私はこの不祥事にぜんぜんコミットしていませんからね。だって、何も知らなかったんだから」という言い訳のために戦略的に採用されているのである。だが、メディアの先端にいる人間にとって「こんなことが起きているとは知りませんでした」というのは口にすること自体が恥ずべき言葉ではないのか。けれども「こんなことが起きていることを私は前から知っていました」と言ってしまうと、「じゃあ、どうしてそれを報道しなかったのか」という告発を引き寄せることになってしまう。無知を装うことによって責任を回避する。「知りませんでした」「聞いていない」「情報が現場からから上がってこない」「訴状をまだ読んでいない」「調査委の答申を待って」・・・この間に見聞きしたすべての不祥事で、すべての組織の管理者たちは、「自分は組織を管理できておらず、組織内で何が起きているかを知らなかった」とみずからの無能を告白することで責任を逃れようとしている。私たちの社会はこの種の遁辞に対してかなり寛容である。だから、人々は争って「自分は無知で、無能で、だから無罪です」という言い訳にすがりつく。私がメディアに期待するのは次のような言葉である。「テレビがこんなふうに構造的に腐敗していることを私は熟知していたが、それをあえて咎めなかった。なぜなら、テレビのようなメディアはどれほど腐っていても、ないよりましだからだ。『正しい報道・中立的な報道以外のものはなされてはならない』というルールが適用されたら、メディアは死ぬ。だから、視聴者は90%のジャンクの中に10%の貴重な情報が含まれている程度の含有率に耐えてテレビを見るべきなのだ。『裏切られた』などというせこいことを言うな。黙ってテレビの嘘を凝視して、その行間からしみ出るわずかな真実を読み出せ。」頼むから、誰かそう言ってくれないか。』
2007.01.31
今週のSPA!の記事で『企業家からクリエーターまで[夢のあきらめ時]を考える』という題が目を引きました。 私は人間には無限の可能性があると思っていますが、同時に限界もあると思っています。自分の特性も考えず、努力もせず、夢を見るだけで、夢がかなうわけもないでしょう。私は自分で「努力している」というのは嫌いです。自分のことについて「努力している」という人も、あまり信用していません。本当に努力している人は、自分ではまだ努力が足りないと思っていることが多いし、自分で努力しているという時は、言い訳に使っていることが多いからです。 幸運の女神様は「もっとも真剣に準備した人のところに舞い降りる」というのが本当のところだと思います。夢を語るのは簡単ですが、夢を実現するには、そのための準備をきちんとして行動を積み上げていく必要があると思います。 人間は間違った方向に努力してしまうこともあります。現代の日本人に多いのは人の夢に欲望して、人の夢と自分の夢をごっちゃにしてしまう人です。人は人の欲望に欲望するものだからでしょう。しかし実際にその夢をかなえた時に、満足が続かない。あれ、これは自分が求めていたものと違う。こんな寄り道をたくさんしすぎていれば、本当に自分が幸福にする夢にたどりつけないかもしれません。 間違いなく人間の可能性は無限だと思いますが、人間に与えられた時間は有限ですから、優先順位をきちんとつけて夢の実現を目指して行動していくことが必要だと思います。 社会的成功を手に入れる(お金を手に入れる、欲しい物を手に入れる、地位を手に入れる)ということは、競争に打ち勝って手に入れるものですから、一時的には達成感があっても、さらにもっともっとという方向に動いていって可能性が高いです^^; いつまで行っても、もうこれでいいということを自分で決めない限り、際限がなくて、最後には力尽きて苦しくなってしまうことが多いのではないかと、想像しています。そこまで行き着いたことがなくて、さっさと方向転換というか、満足してしまうからです^^;。 精一杯夢の実現に向かって行動しないで、棚ボタ式で夢の実現を期待しても、世の中そんなに甘い話は少ないでしょう。たまにあるから問題なのかも^^; 問題は社会的成功系の夢に向かって精一杯努力しながら夢を叶えられない人が、いつの時点で自分に引導を渡すかですよね。もっと自分の生かすためには、別の道があるのではないか。 その点、人間的成功系の夢は際限がないからとても素敵だと思います。自分の出来る範囲で、少しずつでも着実に叶えて行く事が可能だからです^^;
2007.01.30
図書館で『死んだら風に生まれかわる』という題につられて手に取ると新井満さんの本でした。 殆んど見ないテレビで、これまた殆んど見ない朝番組。しかもチャンネルを変えるときにオリコンの1位に「千の風になって」がランクされたということが報道されていました。 「千の風になっては」は「死んだあと自分は千の風になって大空を自由自在に吹き渡る・・・」ということが書かれていた、たまたま知った英語の詩を新井氏が日本語に訳して作曲したものだということを本で知りました。本にもレコードにも、映画にもなっていたんですね。なぜ今まで気がつかなかったんでしょうか。 とても素敵な死生観だと思います。不老不死を願って巨大な地価帝国を造営した、秦の始皇帝やピラミッドを築いたファラオたちよりも、とても大らかで自由だと感じました。 新井さんの本はサムエル・ウルマンの『青春とは』をオリジナルから訳した写真詩集で存じ上げているだけでした。マッカーサー元帥の執務室につめに飾られており、その岡田訳が日本の戦後を築いた多くの財界人たちに影響を与えたサムエル・ウルマンの詩が改変版であったことを、始めて知りました。改変されているとはいえ、どちらも素晴らしいしです。ただオリジナルを知りたいという方は、新井満氏の講談社から出ている写真詩「青春とは」を読まれると良いと思います。写真もとても印象的でした。 大学時代の友人と25年ぶりに電話で話をしました。みんな仕事で疲弊して、精神的にくたびれているようです。病気になった先輩のことも聞きました。県庁でも、ずいぶん自殺する人がいるようです。生まれかわって風になるためには、いまを精一杯生きることが必要なのだと感じています。なんの根拠もないですが、今生きることを逃げ出して、死に逃避したのでは思いが残ってしまい、別のものに生まれかわるのが難しそうに感じるのです。 仕事で苦しかったら、いやな人間関係がいやだったら、その仕事とか人から離れる、逃げ出すことは大切な戦略だと思います。人間はあんがい壊れやすいものですから。でも逃げ出しても、しぶとく生き残り、生きていくたくましさは育てて生きたいと思います。逃げ出したのも生き残るためであり、自分で自分の生を閉じるためではないはずだからです。
2007.01.29
年度当初の取引は、絶対利益を上げて売りたい。これが私のゲンかつぎです。客観的に見れば、去年のように最初の取引で利益を出しても、年度間で負けてしまうこともありますから、意味がないといえば、意味がありません^^; しかし、理性的に考えて意味がなくても、精神的に見れば、それによって心の安定を確保しているわけですから、そういう意味ではメリットもあり、むやみに否定して排除すべきものではないのではないかと、考えています。しかしいったんゲンを担ぎ始めると、それに囚われてなかなかやめられなくなると、弊害が大きくなる場合もありえます。 戦いに臨む者は、自分にコントロールできないゲンを担いでしまうと、戦いの前に、ゲンを担げない状態になると、それだけで負けを意識してしまうこともあるでしょう。ゲンを担ぐなら、自分でコントロールできるゲンを担ぐのが良いと思います^^; 人間はいろいろなことに囚われて、縛られてしまうことが多いです。ゲンを担ぐのをやめられないのは、やめると不運が訪れる、いやなことが起こると想像してしまうからです。その思いが強すぎると、本当に不運を自分で呼び込むように動いてしまい、実際に不運に見舞われることすらありえます。 ゲン担ぎとは関係ないことで起こったことでも、本人がそう思いこんでしまうこともあるでしょう。なにごともほどほどにするのが、良いのではないかと感じます^^;。
2007.01.28
部屋の窓から、銀杏並木が見えていて、紅葉の季節には、とてもきれいでした。どんどん深く色づいていく時は、それを楽しみにけっこう眺めていました。机に座ると目の前に窓があり、銀杏並木がよく見えているのですから、当然目には入ってきているはずです。 ところが、紅葉が盛りを過ぎたあたりから、私は銀杏並木に興味がなくなって、目には入ってきているのでしょうが、脳の中では認識をしなくなっていたようです。つい先週、奥さんが部屋に入ってきた時「いつの間にか銀杏の葉っぱが全部落ちてしまったわね」といって、はっとして銀杏並木を眺めると、すべての銀杏の木に一枚も葉っぱがついていませんでした。 人間は意識をしていないと、目の前にあるものさえも見えなくなってしまうのです。投資家にとって、とても怖いことだと思いました。いろいろな兆候=情報は現れている。しかし、興味を持っていないと、その兆候=情報に気がつかない。または与えられた兆候=情報を、どのように解釈するのかという方法を知らなければ、せっかくの情報が役に立たない。 短期の投資で利益を上げようとすると、真剣に情報を捉えていき、流れに逆らわないようにしないと、足をすくわれてしまうことになります。小さな波は常に起こっていますから、この小さな波を上手く利用して稼ごうとするのが短期投資だと思います。 しかし小さな波が集まってより時間的に長いスパンで見ると、より大きな波を作っています。小さな波に気をとられていると、この大きな波を見逃してしまうことになりかねません。 小さな波より、大きな波を捕まえる方が、利益は大きくなることが多いです。いまの仕事はできるだけ大きな波の動きを見失わないことだと考えています^^;。
2007.01.27
またもやアパグループの京都のホテルの耐震構造が偽造されていたことが明らかになりました。最初に事件が明らかになったときからアパの物件に対しては、イーホームズの社長から偽造されていると告発されていました。 まともな経営者なら、その時点で営業を休止して、顧客の安全を図るべきだと考えるのですが、日本の経営者の多くは、そのようには考えないのが常識になってしまったのでしょうか。 サラリーマン経営者でも保身を図る人は多いのでしょうが、オーナー経営者がこのような問題を隠蔽するようでは、この企業の別の事業にも疑惑の目を向けないと危ないのかもしれません。 投資でも新興企業がけっこう会計トリックを使ったりして、決算を誤魔化しています。青山監査法人の問題が起こってから、仕事はたっぷりあるから、もうやばい新興企業なんか相手にしたくない。こんな大手の監査法人もでてきているような感じがします。オーナー経営者ってけっこう自分の利益を最優先する人が多いような感じがしているのですが、どうなんでしょうか。 サラリーマン経営者もせこい人が多いけどオーナー経営者にもせこいひとが多いように感じます。でもこんな経営者の経営する事業に投資するとひどい目にあってしまうような感じがします。経営者がせこいかどうかは社員を見ると判断がつきやすいと感じています。これはヤマ勘です。 大手ゼネコンの談合問題にしても、いすゞの車検違法取得問題にしても、大企業でも平気で法律違反を犯します。しかし大企業の方が体力があるので、何か問題を起こしても生き残れる可能性が高いと思います。ただ株価には影響があるので、分散投資は身を守るためには必要な技術だと感じています。まだほとんど分散が出来ていません(汗)
2007.01.26
今月の末でサラリーマン卒業後、まる一年が過ぎようとしています。この1年を振り返ってみれば、自分的には波乱万丈でドキドキ、ワクワク、ハラハラの日々でした。 それでもサラリーマン時代の「ヒエー、ウソでしょ、ウソといって」ということの連続よりは、思い返せば、精神的負担の少ない、ゆるやかな1年であったと感じます。「会社を辞めてよかったか」と聞かれれば、「良かった」と答えられると思います。でも会社を辞めなくても、たぶんOKだったと思います。会社に勤めたまま、サラリーマンを続けていても良かったのではないかと思っています。どちらでもOK^^; 私たちが悔やむのは過去の選択についてのことが多いです。実際にはこちらを選んだけれど、自分の思った通りにはいっていない。もしかしたら選ばなかった道のほうが良かったのではないか。こう考えて、悔やんでしまうわけですよね。まあ、上手くいっていないから、過去の選択について後悔するのかもしれません。でも選ばなかった方の人生だって、上手くいっているかどうかはわかりません。むしろもっと酷いことになっていたかもしれないわけです。 それでも、選ばなかった人生について、憧れて悔やむ人が多いです。でも、それって選んだ人生についてつばを吐きかけているようなものです。自分に失礼ですよね。おろかなことだと思います。 それでは今の人生がそこそこ、とか大いに上手くいっているときはどうでしょうか。選ばなかった人生の方がもっと上手くいっていたかも知れないのに、「や~、こっちを選んでよかったな~」なんて、自分自身の人生について良い悪いと比較して、勝負をつけようなんて、これまたおろかなことだと思います。 もしも、選択しなかった人生を歩む、別の自分に合うことがあったなら、お互いに肩を叩きあい、「お互いにいい人生だよね」と言えるような間柄になりたいと思います。そっちの人生も素晴らしいけれど、こっちの人生も素敵だよ。「取り替えるなんて、やだね」ってお互いに言えるように、今の人生を快適に、居心地よく生きていきたいと思います。どの道を選ぼうと最良の選択だったと思える自分を育てていきたいと思います。難しいからやりがいが大変大きいです^^; それには株価という記号に一喜一憂するような生き方ではダメですね。大いに改善をしなければいけないと思います^^;。
2007.01.25
情けないことですが、持ち株が上がって資産が増えただけで気分がいいです。ということは、お察しの通り、持ち株が下がって資産が減っただけで気分が悪くなります(汗) こんなことで気分がコロコロ変わってしまうようでは、快適で、愉快な、人生を送ることの妨げになってしまうような気がしますが、ここは得意のご都合主義で、世の中常に自分の思う通りに動くわけではない。こんなことに振り回されて、おたおたしないようになるためにも、滝に当たって修行をするように、株価の変動にあたって、心の修行をしていると思えばよいのだ、ハ、ハ、ハ・・・・^^; このように思っていこうと思います^^; しかし例年、一番最初に売る株は、何が何でもプラスで売ろう、と思っています。そうすると売った株だけがピュピューと勢いよく、売った後に上がっていってしまいます^^; 今年も予想通りそんなことが起こりました。分かっていても悔しい^^;でも、おかげさまで、年明け後、またもやストンと落ち込んでいた株資産の合計がプラスに転じてきました^^; こんなことでは、修行が足りないな~と思いつつお風呂掃除をするときも、実にはかどってしまいます。 昨日から奥さんがお友達と一緒に沖縄旅行に行っています。「ちゃんと自分でおかずをつくって食べてね~」と言われたので、やっと自分で作れるようになったカレーを作ることにしました。そういうと「まさかずっとカレーを食べるつもりじゃないでしょうね!」ギク(私はカレーが大好きで1週間カレーを食べ続けても暮らせると思います^^;)「ジャガイモは小さいの一個だけ。なに牛のカレーを作りたい。フフン」と鼻で笑われてしまいました(汗)「牛肉カレーは圧力鍋で煮ないと、柔らかくおいしくできないよ」エ、ソウナンデスカ。「ということで豚肉カレーをつくって、美味しくいただいています^^; 昨日は税務署に出かけて、確定申告に使う書類をもらってきました。失業保険でもらったお金は一切申告しなくて良いのだそうです。知らなかったな~^^;
2007.01.24
昨日テレビで、たけしのTVタックル「今、教育が壊れている・・・」を炬燵でマルクなって見ていました。 うちには子供ができなかったので、教育がここまで壊れているとは、想像もしていませんでした。子供になるべく良い教育を与えようというのが、私達の子供の時代には、ほとんどの親に共通していた考え方だと思います。現在の親たちも、そうなんだろうと勝手に想像していましたが、和田秀樹さんの主張によれば40%くらいの親は、子供の教育なんかどうでもよいと考えているようでした。 内田先生と精神科の先生達との対談をまとめたいろいろな本を読んでいても(例えば、「14歳の子を持つ親たちへ」とか「健全な肉体に狂気はやどる」などなど)、精神的に病んでいる子供については、むしろ親の方に問題があるということを学んでいました。そこらじゅうに事例は散見されるから、違和感はありませんでした。 昨日のテレビでも東大入学者の親の年収がますます高くなっていることが指摘されていました。私達の時代は慶応が一番資産家の姉弟が多く、東大は確か2番目だったような記憶があります。 自分達が教育をまともに受けてこなかった親たちには、教育の必要性が分からない。まあ、文化資産を教授できなかった私にして見ても、いまさら文化資産を子供のころからふんだんに生活の中に取り入れて生きてきた人たちと同じように、生活に取り入れることはかないません。 今の日本のように平和で、安全で、好きなことが言える状況は歴史の中でも珍しい奇跡的な状況であるということを、歴史を学ばなければ知ることもできないでしょう。この状態が当たり前だと思ったら、粗末に扱うのもあたりまえかもしれません。日本は教育ばかりでなく、いろいろなところが壊れてしまったように感じます。 お金があるだけでは子供も育たないし、幸せに暮らせるわけでもありませんが、生活費だけは、投資でしっかり稼ぎつづけたいと思います。またもやニッケル暴騰。うれしいです^^;
2007.01.23
不二家の製造現場の杜撰さや経営陣の無能、社員の無責任、確かにひどい状態です。あるある大辞典の納豆、やらせ事件も、夕張市の管理職全員早期退職も無責任極まりないと思います。 でも、と私は思います。不二家の社員の立場に立ってみれば、たった一人で「こんな社内の状況はおかしい」と言えただろうかと思うと、会社を辞める覚悟がなかったら、けしていえなかったのではないだろうかと思います。 私だって仕事の不具合を見つけた時、それを報告して袋叩きにあいました。そのときは経済的バックボーンがなかったので、辞める事は出来ませんでしたが、ウツになりました。 正直、黙っていても自分に責任が及んでこないと考えるなら、私もだんまりを続けたと思います。ただここで問題を指摘しておかないと、全部責任を押し付けられると思ったからこそ、おかしいと言ったのです。倫理観の点から言えば、50歩100歩。目くそは鼻くその違いだと感じます。 船が沈みそうになったときは、各々の才覚で生き延びるしかありません。投資で生活を稼げるようにしておくのも、資格を取って別の仕事にいつでも転進できる実力をつけておくのも良いことだと思います。どうやって生き延びていくか。その力をどうやってつけていくか。考えるだけではなくて実際に、少しずつでも行動に移して準備を進めておくことが大切だと思います。 サラリーマンの方は、他人事のように不二家の社員を批判するよりも、自分の会社は大丈夫なのか。自分の仕事は大丈夫なのか。他山の石として、もし大きな穴が開いているならば、自分はどうするかを考えるチャンスにするべきだと思います。不二家の社員を批判するの、自分の利益にならないでしょうが、わが身を振り返れば、きっと将来役に立つことにが多いと思います。 ただし、だから不二家をかばうわけにも、不二家の社員をかばうわけにもいかないですよね。たぶん不二家の製品はしばらく買わないと思います。 投資家としてはこんな企業に投資しないようしたいものですが、会社の内情は社員ですらよく分からないでしょうから、どんなに良い企業だと思っても、あまり集中投資をせずに分散投資をするのが身を守る術なのかもしれません。集中投資をみなおそうっと^^;
2007.01.22
今年に入ってからニッケルが暴騰し始めました。銅は暴落したのに。需給の読みと投機の影響があるんだと思います。 住友金属鉱山に投資して、ずっとニッケルの価格の推移に注目していたわけなので、当然2006年1年でニッケルが倍以上に暴騰していることは知っていました。 そして奥さんがニッケルの食器(フォークやナイフなど)を買いたいとずっと考えていたことも知っていました。なさけないことにニッケルの価格が上がると当然ニッケルの食器の価格が上がるということに意識が回りませんでした(TT) 今年に入ってカッパ橋の問屋街に念願の食器を買いに出かけました。デパートの20%以上安い価格で購入できますから、本格的な調理道具や食器をこれから買う方やプロの使う調理道具を買いたいと思っている方にはお薦めです^^; 最初に入った鍋などの卸問屋さんで聞いた話では、ニッケルの圧力鍋やボールなどは去年も値上げされ、今年もすでに値上げされているものもあるとの事。まずい!! そして洋食器(お皿とかもここで買っているお店です。いま使っているデザートナイフなどもここで買いました)店に出かけ、テーブルナイフなどを見せてもらいました。普通の個人客はデザートナイフなどで間に合わせているので、私達の欲しいブランドのテーブルナイフの現物は置いてありませんでした。 カタログを見せてもらったら、けっこうくたびれているので、この製品の前回の値上げはいつですかと聞いたら、1年位前だとのこと。そこから倍以上はニッケルの価格が上がっているので、いま買っておくのがお買い得とテーブルナイフ、フォーク、スプーンなどをセットで買いました。 うちの奥さんは食器を買うにも徹底的に考えて、一生使える気に入ったものを買うようにしています。長いものだと5年以上考えます。漆器のお重などは10年以上悩んでいます^^; どれを買うか考えるのも楽しみの一つです。食器は銀婚式の記念として買いました。記念としては旅行などのように記憶として残るものではなくて、物として残っているもののほうが好みです。若いころは磁器を買いました。壊れる可能性があるものは、そのものが失われた時の喪失感が価値に上乗せされているのでより価値が高まっているようです。(これは内田先生の受け売り^^; ある日、するっと手から落っこちて、ぱりん、と割れた瞬間の、「あ! 割れちゃった!」という時の喪失感をいま先取りしているわけですよ。つまりバカラのグラスはそれが割れた時の喪失感が上乗せされて、この価格設定がなされているわけですよね。造花とか、ぜったい割れないグラスに、ぼくたちがあまり愛情を感じられないというのは、失われた時の喪失感を先取りできないからですね。) 若いころは、本当にお金がありませんでした。それでも記念になるものは欲しくって、少ないお金の中から記念になる品物を買いました。なぜ壊れ物を買ったのか良くわかりませんでしたが、内田先生のお話を聞いて、そうなんだと、納得がいきました。あんまり高いものは変えないけれど、そのときの生活レベルから言えばけっこう値のはるものを買いました。しかもその上に将来壊れるかもしれないという喪失感の価値を上乗せして。 私はなぜ多くの人が信用取引を利用するのか理解が出来ませんでした。戦略的に信用取引を勉強した上で、節度をもって投資戦略として利用している人はいいんです。信用取引を使ってきちんと利益を上げている人も、たくさんいますから。でも何で自分の今もっている財産をすべて失うかもしれないくらいの高いリスクをとって、信用取引をするのは、合理的ではないと考えていました。損得勘定で考えれば、そんな無謀な取引をするのは間尺にあわないと思っていました。それなのに、合理的過ぎるほど合理的に考える人が、信用取引をして財産をうしなうこともあるので不思議でしょうがありませんでした。でも、やっと分かりました。合理的な人でも信用取引を過剰に使ってしまうのは、将来の得られるかもしれない利益に目がくらんで合理的判断が出来なくなったわけではなくて、将来今ある財産を失ってしまうという「先取りされた喪失感」を将来の得られるかもしれない利益にプラスしているからこそ、私からは無謀に思えても、ちっとも無謀ではないと判断しているのだろう。それならば失う可能性が高ければ高いほど、レバレッジをはる恐怖に抵抗しうる力がわいてくるんだろうな~と、自分なりに理解できました。(ぜんぜん、ちがうかもしれないけど^^;) ここからはポジショントークです。住友金属鉱山の2006年度下期の業績予想のニッケルの価格等感応度はニッケルが10セント/1b上がると8億円です。今現在の価格は16.9$/1bですが、住友金属鉱山の業績予想の基礎は8$/1bです。ニッケルだけで640億円の増収四半期だと4分の一ですかね。 銅は10セント/1b下がると35億円の減収となります。第3四半期は与件表の推定2.722$/1bから、たぶん平均で30セントくらい高かったと思います。第4四半期になった途端に急落してマイナス20セントくらい下げています。銅相場+株式相場で二重の不確定要因があるから、まったく余談を許しませんが、なんか住友金属鉱山の株価はますます割安だと感じています(爆笑) 今日はやたらと話が飛んで収拾がつかなくなりました。
2007.01.20
毎日寒い日が続いているので、なかなか朝布団から出られなくなってしまいました。寒いのでトイレに行きたくなって目が覚めるのはさめるのです。でも布団に戻っているとつい、二度寝をしてしまいます。 ルーティーンをきちんとするなんていっておきながら、全然出来ていない。まずいということで、今日は少し早く起きました。早く起きると、余裕を持って御飯を食べることができるので、話も弾みます。 サラリーマン定年退職後、奥さんとコミュニケーションが上手くいかなくて苦労する人も多いです。サラリーマン時代家庭を顧みず、奥さんとの会話もほとんどしないで、ほっぽらかしていたんですから、コミュニケーション回路がさび付いていても仕方ない。回復に努めよう。そんな殊勝な気持ちで、コミュニケーション関係の参考書もいくつか読んで見ました。いろいろ学べたこともありましたが、大体の本が、コミュニケーションは成立するのが正しいのだという前提で書いてありました。 そしてコミュニケーションが成り立たないのは、基本的には自分のコミュニケーション能力が劣っているからだ。コミュニケーションの技術を高めれば、コミュニケーションは成立するようになる。要するにコミュニケーションが成り立たない、分かり合えないのは「あんたの能力不足だから、あらためましょうね」なんて書いてありました。 どちらかというと奥さんと、私では、私の方が「人間はコミュニケーションできれば分かり合えるものだ」なんていう幻想的楽観論を抱いてきたわけです。でもよくよく考えると、同じ日本語を話しているわけですが、その言葉の包含する意味が違っていることも多いし、子供のときからの家庭環境も当然のように違って、常識も違っていることに気がつきました。 コミュニケーションをすればするほど、その違いに気づかされることが多くなりました。価値観も随分違うんですよ^^; 私たちが所属するニューファミリー世代というのは、愛情と信頼で結ばれた共通の価値観をもつ「高めあう夫婦」なんていうのが理想的な夫婦なんていわれていました。よく考えると不可能ですよね。価値観も違うし、趣味も違うし、いくら話しても通じないことは通じないし。 じゃあ、そんな夫婦は一緒にいても意味がないということになるかというと、そんなことはありません。一緒に御飯を食べながら「あなたのいうことにはあきれるわ」とか「付き合いきれない」とか「直してね」。「あなたって人は本当に分からない。最低・・・」なんていわれつつ、時々『ム・・・』として頭にくることも多いですが、それでも楽しく生きていくことが出来るということが、だんだん分かってきました。そして、それでいいんだな~、ということも腑に落ちてきました^^; とりあえず、一緒に生きていけて、理解し合えないなりにも会話(日本語は通じて)できて、美味しく御飯を食べられて、一緒に朝寝できて・・・、もうそれで充分幸せなんじゃないかな~と思えたら、本当に幸せな気分になれました。 だからコミュニケーションする努力を放棄してもいいというんじゃないんです。一生懸命コミュニケーションする、分かり合おうとする努力はするんです。でも分かり合えるはずだ、共通の価値観を持ちえるはずだ、という最終目標を持つことは、相手を変えるか自分を変えるかしないと達成しない願望です。自分を変えるのは、たぶんお互いいやで、苦痛なことだとおもうので、無理をしない。そして適当なところでお互いに妥協して、仲良く気持ちよく、いっしょに生きて行きましょう、というのがいいんじゃないかな~という感じでしょうか。あと私は早メシ食いで、奥さんがまだ御飯を半分も食べていないのに食事を終えてしまうことがほとんどでした。「それってまずいよ、一緒に食事をするという儀式においては、同じ時間を共有して、いっしょに食事を終わることも大切なんだよ」ということを知って、なるべくゆっくり御飯を食べるようにしてみました。そうすると奥さんも機嫌がいいし、私も楽しいことが分かりました。ぜひお試しください^^;
2007.01.19
寒いと、身体も心も縮んでしまい、風邪を引いてしまったり孤独に陥ってしまったりすることが多いような気がします。世間でも殺伐とした事件が相次いでおり、むしゃくしゃしたから子供を歩道橋から投げ落とすというような信じられない事件が現実に起こっています。 君子危うきに近寄らず。必要もないところへ出かけて、事故にあったら、もともこうもありません。いくら自分が注意していても、危険が向こう側から飛び込んでくることもありえます。いくら相手が悪いからといっても、被害を受けるのはこちらですから、無駄なことをしないのは大切なことだと思います。 しかし恐れてばかりいてリスクを避けてばかりいても、人は動けなくなってしまいます。失敗しないように、失敗しないようにと動いていても失敗してしまうことは起こります。そのときリスクを避けてばかりいた人は、動けなくなって、被害を大きくしてしまいます。ある程度リスクを想定し、リスクをコントロールしていくことが大切だと思います。 寒い日に心が寂しくなってきてしまったら、部屋を温かくして、炬燵でホッコリ丸くなっているのが、一番快適かな~なんて思います。 最近内田樹先生の本などを一生懸命読んでいます。少しでも教養をつけたいと思っているからです。必要なときに必要な師匠に出会える。これってツイているとしかいいようがないと思います。自分に必要なものを探してあがいていると、ご縁は向こうからやってきます。 最初に内田先生のご本に出会ったのは、図書館でした。図書館の返却されたばかりの、返却ワゴンに並んでいる本の中に内田先生の本がありました。「疲れすぎて眠れぬ夜のために」という題に魅せられて手にとったことがご縁の始まりでした。 内田先生のホームページにある田口ランディさんと内田先生の対談に内田先生の師匠の一人であるユダヤ人哲学者レヴィナスのことが出ています。レヴィナスの苦悩に比べたら、私の悩みなんて、どうってことのないちょっとしたことだと思えてしまいました。 いま自分で苦しんでいる人は見ない方が良いと思いますが、心が少し落ちついている人は読まれることをお薦めします。http://www.tatsuru.com/guests/randy.html 少しだけ引用させていただきます。 内田先生『 レヴィナスは巨大な人ですから。僕の解釈は分かりやすい解釈なんですが、決定的な契機はホロコーストなんです。レヴィナスという人は応召して39年にすぐに捕虜になってつかまってしまうのです。彼はユダヤ人なのですがフランス兵として捕虜になった。ウイーン条約で戦時捕虜の人権は保護されていますから、39年から45年の間に、ユダヤ人としては例外的に安全な捕虜生活を送るわけです。 ご自身はつらい捕虜生活だという実感はあるのでしょうが、作業をして書物を読んで、その間に『実存から実存者へ』という哲学書の草稿を書いたりしているわけです。 戦争が終わって戻ってきてはじめて、自分のリトアニアの親族が全部死んだことを知る。 おそらく、そのときに、ものすごい罪責感を感じたと思うんです。なんで生き残ってしまったのか。自分はすごく苦しい目にあっていると思っていたのだけれども、実は自分の味わった苦しみは同胞600万人が味わった苦しみに比べたら何程のものでもない。 けっきょくその自責の念がおそらくは強すぎるせいで、「被害者」の立ち位置から、ナチスの非人道的なホロコーストを告発するということをためらってしまう、というところがレヴィナスの独自なところだと思います。 自分だけ生き残ってしまった。そのときの最大の困惑は、なんで自分が生き残ったのかわからないということです。 理由があれば納得もできる。けれども「たまたま」生き残ってしまった。 この先、どうやって生き延びたことを意味づけるのか。生き残った人間が自分が生き延びたことの理由を「あとづけ」しなければならなくなったとしたら、その人間には仕事は1つしかない。 死んだ人たちが生きていたらしていたであろうことまでも含めて、自分がひとりでそのことをやらなければ、生き残った意味はないだろう、そういうふうにレヴィナスは考えたのだと思います。 戦前のレヴィナスは、こう言ってよければ、自分のために生きている。戦後のレヴィナスは600万人の死者のために生きている。 そうじゃないと自分が生き残った意味が自分自身で納得されられないのです。 レヴィナスの言っている「他者」は基本的には「死者」のことです。 フランス語でpour l'autre と言うのは、これは「他者のために」「他者に代わって」という意味です。 他者のために、いない人の代わりに何かをしなければいけない。いくらやっても取り返しがつかないのだけれどもやらないではいられない。 目の前に困っている人がいて、被抑圧者とか被迫害者のためにならば、正義が執行されて、苦しんでいる人が救われたらそれで仕事はひとつ終わります。 でも、レヴィナスが抱えているのはそういう「終わる仕事」じゃないんです。 すでに死んでしまった人たちの身替わりに何かをするということなんですから、その仕事に「終わり」は来ない。永遠に終わらない。 だけどその「終わらない仕事」を引き受けない限り、自分が生き残った意味がわからない。生き残った意味を構築できない。 レヴィナスはすごく偉い人で、徳が高くて、困っている人のために努力を惜しまない人だというふうに言われますけれど、そんなすっきりしたもんじゃない。ぼくはもっと切実だと思います。 レヴィナスは自分が生きていくことの意味が1回わからなくなっている。 なんとか自分が生きることの意味を再構築しないといけない。レヴィナスだって必死なんです。その必死さがわからないとレヴィナスはなかなかわからない。 ハイデッカーやフッサールの哲学をさらに展開した、というふうに解釈すると、ただ「むずかしい」ことを言っているようにしか読めないと思うんです。むしろ、「ずいぶんときれいごとを言っているなあ」と思ってしまう人もいると思います。 日本のレヴィナス学者の多くはたぶんそう思っていると思いますが、そうじゃない。 自分が何で生きているのかわからない。それを構築するためでないと、あんなにふうに切迫したものは書けないです。話がくどいですもの。同じことを何度も何度も言う。そういう文体なのだとか、そのかたちである種の響きを出している、テクストパフォーマンスの効果を狙っているというけれど、違います。そんなのんきな話じゃないんです。何度も何度も、繰り返し自分に向かって言い聞かせないと、居ても立ってもいられないぐらい切羽詰まっているんですよ。 』
2007.01.18
最近勘が鈍ってきたな~ということを、実感しています。 お買い物にイトーヨーカドーに出かけてレジに並ぶ時、あまり人のいないレジをめざして並びました。もちろん先客の買い物籠の様子を見て、買い物の少ないこともチェックして、上手く並んだつもりでした。 ところがそのレジ担当のおばさんは実修生だったかな、のワッペンをつけて、実にのそのそと手際悪くレジを打っていたのです。しまった、だから並んでいる人が少なかったのかと納得して、別のレジに並び替えるかどうかを、とっさに考えました。 隣のレジのおねえさんは、なかなかテキパキと作業をしています。隣の方が早そうだと思ってレジを変えました。でもなんと私の前の人が、紙袋を何枚か頂戴とか、クレジットカードで支払うとか、手間のかかることはゴタゴタいっていたために、結果論としてはレジを換えないほうが早く支払が終わってしまいました。前のレジで私の後ろにいた人の方が早く清算が終わったのです。 これと同じようなことが、いくつか起こったので、必要のないことは、なるべく控えようと決めました。特に株の注文^^;。売ると上がるし、買うと下がるというのは、昔からの得意技だったんですが、これがもっとひどくなりそうなので^^; 道を奥さんと一緒に歩いていても、奥さんによく注意されます。注意が散漫だって・・・。奥さんは車道の横の道を歩くのがあまり好きではありません。いくら自分が注意していても、突っ込んでくる車があるかもしれないというのです。いくら相手が悪いからといっても、怪我をしたらこちらの損です。死んじゃったらいくら相手が罰せられても、こちらとしては取り返しがつきません。 だからなるべく危険なことに会いそうな場所には近づかない。そして歩道を歩いていても無謀に突っ込んでくる自転車もあるので、気配に気をつける。 なかなか五感が衰えてしまって、奥さんのように自転車が後ろから来るのに気がつかない場合が多いです。使わない機能は衰える。怖いことだと思います。そして必要もないことはしないというのも、株式投資にも役に立つ教訓だと思います。 怪しそうな企業には投資しない、これを守れれば大きな損害は避けることができるように感じます。特に勘が鈍っているときは売買を抑えたほうがよさそうです^^;
2007.01.16
株式投資で一番危険なことは何だと思われますか。 大抵の方は大きな損をすること。大損して、市場から強制退場させられること。このように思われているかもしれません。またはギャンブルにハマってしまうように、株の射幸性に魅せられて、損をすることすらも快感に変わって、身を滅ぼすまで抜けられないこと。アルコール中毒などによって家庭を崩壊する危機と同じ危険を呼び込むことだと思っておられる方もいるかもしれません。 確かにそんなリスクもあると思います。でもアル中よりカブ中の方が少ないし、ニコチン中毒のように吸っている自分より吸わない人に被害が大きいような害毒ではないので、社会や自分におよぼす影響はアル中やニコチン中よりこのような損をするリスクは限定されると思います。 私が一番危険だな~と注意しているのは、金銭感覚を狂わせることです。これは損をした時より大きく儲けた時に起こります。金銭感覚を狂わせられる、価値観を狂わせられるのは、とても怖いことだと思います。 私がラッキーだったのは「ケチケチ3年、ケチ8年」を標語にして節約生活をつづけ、お金をシャープに丁寧に使うことを身体に沁み込ませてきた事と、株で稼いだお金はレイバー(生活の為にしかたなく働く労苦、苦役)から逃げ出すために使うという目的を持っていたために、金銭感覚を狂わせられなかったこと(これって、つまり金銭感覚を狂わせるほどの大儲けが出来なかったことかな~ TT)だと考えています。 お金では価値観を狂わせられませんでしたが、食べ物、特にお茶とかのりとかだしでは良いものを使えば使うほど口が肥えてきて、元に戻せなくなりました。たぶん生活水準も同じだろうと想像しています。 株式投資で稼ぐためには、世間で言われているほど楽ではないことを充分経験してきていますし、脳みそに汗をかいて努力しているわけですから、棚から牡丹餅で稼いだあぶく銭とは、まったく思っていません。 でも、2005年のように株式市場が好調だと、自分の予想していた以上に大きくお金が手に入ることもありえます。もちろん株式相場ばかりでなく、宝くじで大金を当てた人も、事業で大当たりを取った人も、今までとは桁違いのお金を手に入れたとき、金前感覚、価値観を狂わせられたために、その後の人生を空しいものにしてしまった人も多いのではないかと思います。 いくら稼いでも価値観を狂わせられないように、しっかりした価値観を身につけておきたいと願っています。
2007.01.15
私、納豆が好きなんですけど、数日前からスーパーの店頭からほとんどの種類の納豆が消えてしまいました。なんとあるある大辞典で納豆によるダイエット法が紹介されたからということのようです。 勘弁して欲しいな~。こんな人気はすぐにはげてしまうような気がします。人間は影響されやすい動物ですから。新興市場の株も人気が剥落してから、なかなか回復しない状況が続いています。何でこの株がこんなに下がらなければならないのか、理解ができないことも、よく起こります。 聖書に出てくるカインとアベルの物語だって、とっても理不尽な話ですよね。 アダムとエバの二人の息子、カインとアベルです。彼らは成長し、カインは「土を耕す者」、アベルは「羊を飼う者」となりました。この二人が神様にささげ物をするとき、カインは「地の作物」をささげ、アベルは「彼の羊の初子の中から、それも最良のもの」をささげました。神様はアベルのささげ物に目を留められ、カインには目を留められませんでした。』 人間はこの物語をいろいろな理屈で説明していますが、どうも納得のいかない説明ばかりのような気がします。事前にカイン達には何の説明もされていなかったわけですから。 『カインは自分の力で土を耕して育てた地の作物をささげました。彼は自分が努力して得たものは良いものだ、と考えました。そこには人間の力と知恵によって神様に到達できるという高慢な考えがあります。』というような説明をしていただいたこともありますが、私には納得できませんでした。本当にカインは高慢だったのでしょうか。なぜ神様は理由を説明されなかったんでしょうか。わかりません。 要するに私にはこの物語は、とっても理不尽な差別が神様によって行なわれて、カインはその理不尽さに耐えることができなかった、というお話のように思えます。 この理不尽さにどうやって耐えて、生き延びていくのかが人間に課せられた課題なのかもしれません。世の中では理不尽なことが、しばしば起こります。当たり前のように。なぜかはわかりません。神様だって理不尽なんだから、人間が理不尽なことをするのは当たり前のことかもしれません。 カインのうけた理不尽さに比べたら、株価が思惑に反して下がるくらい、それほど理不尽なことではないと思います。会社で起こる理不尽さも、似たようなものかもしれません。 最近は奥さんの理不尽さに必死に耐える石川です。何が食べたいと聞かれたので「カレー、餃子、ハンバーグ」という大好き3点セットを答えたら「いつも答えが同じだと怒られました」 そこで何でも美味しいから、何でもいいと答えたら、答えになっていないと、また怒られました。「中華料理」と答えたら、具体的でないと怒られ、「ホイコーロー」と答えたら油を使いたくないことわかっているでしょと、また怒られました。どうしたらいいんだ~!!
2007.01.14
うつで苦しんでいる時、感覚的に苦しかったのが「もはや取り返しがつかない、過去はもう変えることが不可能だ」という思いだったように記憶しています。 斉藤一人さんの本で「過去は変えることができる」それは「過去に対する評価を変えることだ」と教えていただいたことがありました。 そのときは、すんなりとは納得できませんでした。でも株式投資を実践しているうちに、「あ、過去の評価が変わるというのは、当たり前のことなんだ」と体感することが出来ました。 デイトレードでは、なかなか体感できないかもしれませんが、中長期投資をやっていると「過去の評価は変わる」ということを日常的に体験することになります。過去はいつも毎日のように変わってしまいます。 たとえ話をしますね^^。1600円で買った住友金属鉱山が1400円に下がった時、私は損切りしてしまいました。これだと1600円で買ったことは間違えだったということに成ります。そして1400円で売った株が1300円に更に下がれば、1400円で売った行為、損切りは正しかったことになります。これは住友金属鉱山の株価が1300円のときの過去の評価です。 でも住友鉱山の株価が、そこから反転し将来=未来で1500円になったとすると、1600円で買ったのは間違いだった。1400円で売ったのも間違いだったというように、過去の評価は変わります。さらに住友金属鉱山の株価が1800円になったとしましょう。すると1600円で買ったのは正しかったという評価になり、1400円で売ったのは大失敗というように過去の評価は未来の現実によって、たえず変化していってしまいます。 人生は生きている限り、株式投資のように、途中でもうやめたということができないものです。デイトレードではなくて長期投資のようなものです。もちろん最近頻繁にニュースに出てくる、家族間の殺人のように取り返しのつかないこともありますが、日常的なほとんどの出来事は、将来=未来の出来事によって、常に評価が変わっていくものがほとんどなのではないかと感じます。「人間万事塞翁が馬」ということわざは、このことを教えてくれているのだと思います。 最近は哲学に逃げ込んでおります。心の安定を取り戻すために^^;。内田樹先生からも「過去は取り返しのつくもの。なぜなら新しい経験をしただけで、過去の意味なんて一気に全部変わる。過去は可変的であり、未来は未知である。」「過去についても、未来についても、確定的なことは何も言えないというのが時間の中を生きる人間の健全な姿でしょう」ということを教えていただきました。 人生は長いので、ひとつひとつの出来事の評価が変わるためには時間がかかることが多いです。ところが株式投資では、毎日のように株価が変わっていくので「過去は可変的であり、未来は未知である」というのが日々いやというほど体感させられます。こんなことからも「下手な人生論より実践する株式投資」のほうが、人生には役に立つように感じるこの頃です^^;
2007.01.13
新しいことばを知ると、ついつい使いたくなってしまいます^^; ということで「陰謀史観」ということを今日は使いたいと思います。株式投資においては自分が割安だ(=だからこれから上がるだろう)と思う株に投資します。PERだとかPBRだとか、持っている現金資産とか大都市にある、いつでも売れる土地とか、鉱山の権益^^;とか。目に見えないものだと特許とかビジネスモデルとか。 持っている資産を現金に換算し、算術的に合計し、そこから借金などの負債を引き算して残った資産価値の合計と時価総額と比べて、資産価値のほうが時価総額の5倍だから、割安だと、私は考えて投資することが多いです。 それなのにちっとも株価が上がらない。おかしい。これはどこかのまぬけ機関投資家が、とか投機筋など強大な資金力を持った「悪徳陰謀集団」が己の利益の為に画策して、私の持ち株の株価が上がらないようにしているに違いない。たとえばアジア金融危機=ヘッジファンド陰謀説みたいなのが『陰謀史観』というもののようです^^;。 株価があまりにも上がらないとついつい誰かを悪者にして自分を被害者に仕立て上げて、愚痴をこぼしたくなってしまいますが、これは知性の怠慢です。そして資金力によって株価などは動かせる、強大な陰謀主体=邪神がいると信じる点において盲目的にオウム真理教のようなあぶない宗教を信仰してしまうような愚かな行為です。 株価なんて、常に合理的に動くものではなく、需給によっていかようにも動くものである。でも自分の信じた割安感は、中長期的には株価に反映されて、自分に儲けをもたらすと、信じて耐えていこうと思います^^; しかし持ち株君たちはなかなか上がってくれませんね~。くやしいな~。
2007.01.12
潜在意識の働きを学ぶと、ことばには現実を変える力があることがわかります。自分で望みを紙に書いたり、毎日口に出して言っていると、それが現実になることがよく起こります。 成功法則の本には、そのことが書いてあるものがけっこうあります。これは「ことば」には現実変成力があるということです。だから私たちは「ことば」に畏敬の念を抱き、もっと敬意と慎みをもって使わなければならないと感じます。 奥さんと口げんかをした時など、あとで反省しながら感じるのは、口で「相手を攻撃するために使ったことば」。思わず言ってしまった「ことば」のあとから「思い」がそこにあったことを事後的に知ることも起こります。 サラリーマン生活でも自分の怒りに興奮して、より過激に怒っていく人を見て笑っていたこともありますが、自分のまったく同じだということがわかり冷や汗がでてきます。 自分が口にしてしまったことばによって、自分の考えを知ることもあります。更に怖いのは相手を攻撃するつもりで口にしたことばが、いままで自分の中になかった感情を形成してしまうこともあることです。 私はブログとか掲示板などで知り合った人々のご縁で、たくさんの幸運とメリットをいただいてきました。ネット上のコミュニケーションで多大な恩恵をいただいた人間です。 ただネット上でとか、メールで不用意に使ったことばで、いろいろな誤解を招いてしまうこともありました。言葉、語彙のなかに盛り込まれた意味には、人それぞれの濃淡があることに、もう少し注意を払わないといけないと感じ始めています。 相手の使っている言葉にも多様な解釈レベルがあるということを、理解して、そのレベルの差、濃淡を適切に読み分けてコミュニケーションをする能力を高めていきたいと思います。語義と語義の間にある微妙なニュアンスを聞き取る能力を高めたいと欲望しています。 そしてことばを武器としてはなるべく使わないようにしたいと思っています。よくヤフーの株式掲示板を見ることがありますが、自分の持ち株を身体化して、自分と株が一体化してしまい、その株価に対する否定的なコメント、情報を、あたかも自分の身体に加えられた攻撃と認識して、他人を攻め立てる言葉。 「俺の意見に反対するやつは俺が嫌いなんだな・・・」というサラリーマン時代に会議の時に感じた息苦しさがよみがえってきてしまいます。 ネット上では匿名性があるために、ことばが粗雑に吐き出されてしまう場合もありえます。ネット上でも、なるべく豊穣なやさしさのあることばを使っていきたいと思います。
2007.01.11
養老孟司先生の「バカの壁」を今頃読みました^^; へそ曲がりなのと「バカ」という言葉が好きではないので、ついつい読みそびれていたのです。なんで「バカ」という言葉が嫌いかというと、奥さんからいつも「バカ」だといわれているからです^^; ただし救いようのない大バカではなくて、言われたことしかできない(時々いわれたこともできない)小バカくらいなイメージで責められているような感じです(TT) いままで私が興味を持って取り組んできた一番のテーマは「食うに困らない」運用という、人間にとって一番切実なテーマです。「食うに困らない」というのは本当に基礎ベースの問題だと思います。食うに困らなくなるレベルは人それぞれですから、どのレベルで妥協するかの問題もありますが、私のレベルは「おなかが空いた」というときに、とにかく何らかの食べ物が得られるレベルです。ニーズのレベルといえばいいのでしょうか。その上にはウォンツのレベルがあります。「おなかが空いた。でもラーメンなんていらない。どうしてもステーキが食べたい。しかも飛騨牛の霜降りの・・・」というのがウォンツのレベルなのかな~と考えています。 私はニーズのレベルでとりあえず満足しています。そのほうが楽だから^^;その次に大切にしているテーマは「幸せに生きる」というテーマです。養老先生の「バカの壁」には大好きなヴィクトール・フランクルの「人生の意味」についてのお話が出てきました。『人生の意味について考えていくことが、個人にとっても共同体にとっても、非常に必要なことなのではないか。』と書いてありました。その通りだと思います。そう思って生きています。 あと『人間の身体は、動かさないと退化するシステムなのです。筋肉であれ、胃袋であれ、何であれ、使わなかったら休むというふうになって、どんどん退化していく。当然脳も同じこと。』書かれていました。また『首から下の運動は、本来動物にとって基礎になる部分です。なにせ「動物」というくらいですから、足で移動して動くのは基本なのです。』とも書かれていました。やっぱり自分の能力を衰えさせないようにするために、毎日歩いているのは大正解だということも書いてあって、やれやれというところです。 そして、一番学ばせていただいたのが寝ている時間の大切さ。この頃睡眠時間が長くなってきたので、その言い訳が出来たからではないですよ^^;寝ている時間は無駄な時間ではなくて、人生の一部だということです。『無意識の状態だって、身体はちゃんと動いています。心臓も動いているし、遺伝子が細胞を複製してどんどん増えて、いろんなことをやっているわけです。 それもあなたの人生だ、ということなのです。それは単に寝て休んでいるだけなのだと思っているわけです。人生から外して考えています。実はこれが、残りの起きている時間をおかしくしてしまう原因なのです。 完全に意識の連続の世界しか考慮に入れていないから、寝る前の自分と、目が覚めた後の自分が連続している同一の人間だ、と何も疑わずに安易に思ってしまう。』 「ああ、そうか、寝る前の自分と、寝て起きた後の自分は、別の人間なんだ。毎日死んで、新しく生き返っているんだ。」こんなふうに思うと、考えが毎日変わってもいいんだと、気が楽になりました^^;別の自分なんだから。自分に都合よく考えすぎでしょうか^^;
2007.01.09
昨日の成人式で、またまた大暴れする新成人が出て、初めて現行犯逮捕されたというニュースがテレビで流れていました。 私も肉体年齢では、すでに30年以上成人をやっているわけですが、法律的には大人なんでしょうけれど、「大人」というものがどのような肉体的、精神的または人間的に・・・。 え~と、総合的にといったらよいのでしょうか、、う~ん、そうか「大人」というものがどういう人を指すのか、定義がよくわかりません(汗) 奥さんとのコミュニケーションですら苦労しているわけですが、奥さんと私の同じ言葉に対する意味合い、定義も、少しずれていたり、大変ずれていたりして、意思の疎通が上手くいかないことも、ままあります。 コミュニケーションには意思の疎通をはかるという場合もありますが、夫婦とか家族のコミュニケーションなどのビジネス以外のコミュニケーションでは、コミュニケーションを続けることに、つまりメッセージをやりとりすることそれ自体に意味があるということがだんだん分かってきました。そんな時、内田樹先生の著作にふれることができたのは、やはり天の導きがあったのだと思います。最近内田先生の著作に溺れております^^;「コミュニケーションでは意思の疎通が簡単に成就しないように、いろいろな仕掛けがしてある」「常に誤解の余地があるように構造化されている」「恋人に向かって『キミのことをもっと理解したい』というのは愛の始まりを告げる言葉。『あなたって人が、よーくわかったわ』というのはたいてい別れのときのことばです」「『もうわかったよ』とか『だから、その話は、もう聞いたってば』というのは、友好的なメッセージではなく、どちらかというと「わかったから、黙れ」というコミュニケーションの打ち切りを意図する信号」 奥さんとの、夫婦喧嘩の場面を思い出すと、実に腑に落ちる解説だと感じました。成人式などで政治家や役人が「聞いている相手に、何の注意も興味も示さないで(=相手の存在を否定するメーセージを発信している=あなたがいなくても私は同じメッセージを発信する=あなたは必要ない)話す挨拶には痛めつけられる感性をもっている新成人もいるのだと思います。 ただそのときに礼をわきまえない政治家などに腹を立てて暴れるのは、こんどは自分を相手と同じレベルに貶めるだけで、けして「大人」として取るべき態度ではないように思うんですが、どうでしょうか。 岡目八目で、人のことはよくわかるような気がするのですが(=錯覚かしら)自分のことになると、皆目見当外れの、子供の態度ですごしてしまうことが多いような確信があります(汗) 少しずつ「大人」になれたらいいな~と思います。でも、どんな人が「大人」なのかが、いまだに良くわかっていないのが情けないですね(大汗)
2007.01.08
自己紹介をするとき、ほとんどの人は自分の名前、そして所属する会社名、役職名を述べることで、自己紹介をしたと思っています。あ、そうそう、自分の卒業した高校や大学を付け加える人もいるでしょう。特に有名校、自慢できる学校を卒業した人は^^; でも、これって経歴紹介ですよね。サラリーマンを卒業した、私にとってはいま所属している会社がないので、すごく困ります。「ちゃんとした名刺を持っていない人は信用されませんよ」なんていわれてしまったこともあります。企業に電話して電話した相手がいないと「どちらの石川さまですか」と所属を聞かれてしまいます。定年退職した人が役職にこだわりたくなる気持ちも分かるような気がします。 でも自己紹介って、経歴紹介することなのでしょうか。経歴紹介で、本当に自分のことを紹介したことになるのでしょうか。そんなことを考えているときに、ある本で、私たちが非文明圏と呼ぶ地域で生きている、自然とともに生きている先住民族の人々が「自分がどんな人間か」を象徴する名前を持っている、ということを知りました。 「水を探す人」「心を癒す人」「風と話ができる人」「雨を呼ぶ人」「勇気のあるひと」このように、その人の持っているきわだった個性や才能、能力、あるいはその部族内で果す役割が呼び名、名前になるということです。 これって素敵だな~と思って、自分を特徴づける名前を考えてみました。正直に言うと「ひたすらお金を貯めることに励んだ人、汲々とした人」という名前が最初に浮かんできてしまいました。『なんか、やだな~。自分の目指していたものと違う・・・』と思いました。できることなら「丁寧に大切に(=シャープに)お金を使った人」という風に自己紹介がしたいと思いました。そして、そう呼ばれるためにはどうしたら良いかも色々と考えてみました。 節約生活は大好きですから、ケチケチ3年ケチ8年という標語で生活していたことは、本にも書きました^^;。でも少しずつ節約の内容が変わってきました。いまの石川家の生活身上を標語にするならどんな標語になるだろうと考えて出来たのが次の標語です。 「本当に必要なものだけ所有して大切に使う生活」です。我が家はけっこう地球環境にやさしいエコ・ライフを心がけていると思います。ここ5年間エアコンのない生活をしていました。テレビは一台だけ。ビデオはありますがDVDはありません。都会では車が必要ないので、転勤時に後輩にあげてしまい、いまは車を所有していません。でも不便はそれほど感じません。 自分の生活費を人様に頼るわけにはいきません。人様に迷惑をかけることになるからです。だからお金はある程度は必要だと思います。でもいままでのように貯めこむだけではなくシャープに使いたい、消費もしたいと思うようになりました。 しかし都会に生活していると、人の欲望が伝染してきてしまいます。ツキが伝染するという話は自分でも本に書いているように体験しています。しかし怒りも欲望も伝染してうつってしまうのです。 これってけっこう怖いことのような気がします。よほど心を引き締めていないとすぐ伝染してきてしまいます。「便利な生活、快適は生活というのは、地球の自然環境を破壊してしまう、自滅行為だ」というお話も良く聞きます。 定年後の生活は持たない生活、シンプルライフが良いと最初考えたのは、収入が少なくなったから、お金をなるべく節約するという発想でスタートしました。しかし地球の環境にやさしい生活でもあるということも忘れてはいけない美点だということに気がつきました。 幸せに生きるためには、小さな幸せを積み重ねることが大切です。そのためには幸せを感じるレベルを低くすることだと思います。あらゆるものを自分で所有したいという欲望は「もっともっと」という欲望を増殖して、幸せを感じるレベルを高くしてしまいます。比較によって(勝ち負けの、大きい小さいの・・・)得られる幸福はとどまるところをしりません。高収入、大きな家、高級外車、高級ブランド品、グルメ、出世、名誉、地位など、いわゆる社会的成功といわれ、競争によって得られる幸せ(=幸せのようなものとも呼びます)は増え続け、勝ち続けなければ維持できない幸せのようなものなのかもしれません。「社会的成功で得られる幸せは麻薬のようなものだと・・・」といっている人もおります。 自分にも、人にも、地球にもやさしい人と分かち合える幸せを目指したいと思います。その第一歩が「丁寧に大切に(=シャープに)お金を使った人」になることのような気がしています^^;
2007.01.05
2007年のお正月に決めたこと。まず一番の基礎におこうと思ったことはルーティーンを大切にしようということです。一日の生活においても、投資活動においても、夫婦関係においてもルーティーンを大切にしていこうと、心に決めました。 ルーティーンは社会でいえばファンダメンタルズのことです。基礎部分です。建物でも基礎部分が出来ていなければ、砂上の楼閣というように、上にどんな堅固なものを建てようと、土台から崩れてしまいます。 庭の小さな家庭菜園でしか野菜を育てたことしかありませんが、土を耕して、肥やさないと、おいしい野菜は育ちません。もともとの庭の土が作物を育てるのに適していなかったので、真土や堆肥、牛糞などを買ってきて、毎年春になると、近くの公園で前の年の秋に落ちて積もって腐った落ち葉をバケツで集めてきてのせて耕す。毎年そんな努力を繰り返して、3年くらいすると、やっとまともな畑の土が出来てきたという感じを受けました。しかし近くの農家のおばあさんが作っている畑の土をいじらせてもらったら、とても柔らかくて比べ物にならない感じを受けました。だからこそ、美味しい野菜を作ることができるのだと感じました。 何事をするにつけてもファンダメンタルズをきちんと築かないとダメなのだと思います。仕事だって、その仕事をこなせる基礎技術を持っていなければ、いくら大きな仕事をしようとしても無理です。現在の日本では、仕事についても一番大切なコミュニケーションをするという根本技術さえ、身につけることが出来ないで会社に入ってくる人々もいます。家でコミュニケーションすることを学んでこなかったからだと感じます。これは自己反省をこめた言葉です。だから夫婦関係においてもルーティーンを大切にしようという目標を掲げたわけです。 20年以上夫婦の会話をおろそかにしてきた咎めの為に、一緒に住む時間が多くなってから、夫婦の間がごたごたしてしまったことを、前にブログに書きました。コミュニケーションが出来ていないと、夫婦という最小のコミュニティーでも共同生活ができなくなります。家族関係が人を傷つけてしまうのは、一緒に暮らしていればコミュニケーションが通じて「後で何とかなる」という甘えがあるからでしょう。でも通じません。通じないものです。だって、コミュニケーションは、言葉だけではなくて、あらゆる生活を通して行なわれているからです。そしてコミュニケーションを成り立たせるためには、まずは相手が何を言っているかを受け取れる、感じ取れる能力が非常に大切になるのではないでしょうか。 夫婦で一緒におきる。分担して家の掃除をする。朝ごはんも、昼ごはんも、夕ごはんも一緒に食べる。同じ時間にお風呂に入る。ただしお風呂場が狭いので、続けてという意味です^^;。テレビは趣味が違うので、大体奥さんの希望が通ります。冬は寒いので同じコタツで私は本を読んでいます。そして同じ時間に寝る。 挨拶は起きたときにきちんと「おはよう」と言い、寝る前には「おやすみなさい」という。いろいろ話をするときも、ちゃんと相手の顔を見て話を聞く。ちゃんと聞いていますよという合図を送る。 あ、いま気がついたけど、これって「しつけ」みたいなものなんでしょうね。私達夫婦は子宝にめぐまれなかったので、しつけの経験はありません。自分たちにしつけが出来ていなかったんだから、子供がいたらどんな子に育っていたかと思うと、汗が出てきました。 一緒にすごすということによって、少しずつ相手の気持ちも受け取れるようになり、まともな共同生活が、出来るようになってきました。 いまこのブログを書いているときに、奥さんが部屋に入ってきて「今日のおトイレの掃除は良くできていた。まだ完全じゃないけれど、入った途端にスッキリしていて気持ちが良かった」そんなことを話に来ました。 私は皮膚感度が訓練されていないので、奥さんのように感じることが出来ません。コミュニケーションでも、言葉になっていないメッセージを受け取ることは大切です。同じ日本語を話しているつもりでも、それぞれの個人がその言葉について込めている思いは違うのではないかと感じます。そして思いをすべてを完全に言葉にすることは不可能です。それを感じ取る能力を高める必要があるのだと思います。 私達はコミュニケーションの場において、自分が分からない言葉や、シグナルをノイズとして切り捨てて受け取らないことが多いのだと感じます。また自分に気に入らない情報は無意識に無視する。自分が許容可能なメッセージだけ受信する。これではコミュニケーションが成り立たないのだと思います。投資の本を読んで、都合の良い情報ばかりを探して「思ったとおりだ、さあ、投資しよう」と投資して、失敗し、最初に読んだ本を読み返したら、自分が失敗した原因の危険性についても、ちゃんと書いてあったということが良くありました。自分の都合の良いメッセージだけを見ているということは、読書のようなことでも良く起こります。相手の言いたいことをきちんと受け取ってあげることができるようになって、始めてこちらの思いも相手に伝わるようになるのだと思います。 そのためにもルーティーンを大切にして、自分のファンダメンタルズを堅固なものにしたいと思います。
2007.01.04
元旦は単身赴任で東京に来ている奥さんの弟を招いてテレビでスポーツ観戦三昧の一日となりました。 まずは群馬県前橋市で行われた全日本実業団駅伝を観戦しました。結果は去年2位だった中国電力が2回目の日本一に輝きました。中国電力は1区・新井が11位と出遅れますが、2区・油谷が驚異の7人抜きで4位に浮上しました。圧巻は、5区の佐藤敦之でした。これは見ていてとても楽しめました。佐藤は7位から一気にごぼう抜きし1位に躍り出ました。そして、7区のアンカー尾方剛が1位を守ります。尾方はそのままトップでゴールを果たし、中国電力は3年ぶり2回目の日本一を飾りました。中国電力おめでとう。 サッカー日本一を決める第86回天皇杯全日本選手権最終日は国立競技場でJリーグ1部(J1)勢同士による決勝を行い、浦和が1―0でG大阪に勝って2年連続6度目の優勝を果たしました。 弟はG大阪のファン。観戦にも力が入っていました。試合は試合開始からG大阪が攻勢をかけました。しかし浦和は耐え続け、無失点に抑えました。延長戦かと思われた、後半42分に岡野の右センタリングから永井が右足で決めました。弟が大きなため息を・・・。G大阪は再三のチャンスを生かせませんでした。 いくら攻めていても、決定打をかいては勝てないし、ちょっとした気の緩みで土壇場で点を取られての敗北。ファンにとってはとてもストレスの溜まる負け方でした。 今年の株式投資ではG大阪ではなくて中国電力のように、まずはマイナスにならないようにスタートし、こまめな利益を積み上げて、チャンスが来たら一気にダッシュして利益を大きくし、そのリードを守ったままゴールに余裕でゴールインしたいものだと思います^^; 今年も良い年にしたいですね。
2007.01.02
いよいよ2007年がスタートしました。 今年もよろしく、お願いいたします。 朝起きて歯を磨く時、歯ブラシが新しくなっているのに気がつきました。奥さんにそのことを聞いたら、毎年元旦に新しい歯ブラシに変えていたということです。 「いままで全然気がつかなかったの・・・」と言われてしまいました。あわてて「やっぱり新しい歯ブラシは気持ちがいいね・・・」と話題を切り替えてしまいました^^; スローライフ、小さなことにも幸せを感じて、幸せを積み上げて、ワクワク楽しく面白く、充実したご機嫌な年をつくって生きたいと思います。
2007.01.01
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