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本日は智麻呂邸にお邪魔して参りましたが、その前に、近隣桜めぐりの銀輪散歩をして参りました。何処も桜が満開。明日は雨が降るとの予報であるので、今日がお花見には最高の日のようであります。 4月7日に若草読書会のお花見を予定していますが、あと8日、満開のこれらの花がどれだけ散り残っていてくれるものやら・・。 ということで、本日のブログ記事は若草読書会の皆さまへの、今日の「花園公園便り」も兼ねて居ります(笑)。 花園公園に行く前に、山裾を北に走り、パンドラの丘の桜なども見て参りましたので、タイトルは「桜めぐり」と致しました。何処もお花見の方々で賑って居りました。(枚岡公園進入道路沿いの桜並木) 枚岡公園は2009年4月5日に若草読書会でお花見をした場所。 <参考>若草読書会のお花見 2009.4.9. これが若草読書会での初めてのお花見でありましたが、翌年からは場所を花園中央公園の桜広場に変更していますから、最初にして最後となった枚岡公園での花見でした。公園は、この桜並木の坂を上り切った山裾の高みにあります。(額田公園の桜) 近鉄額田駅と石切駅との中間にある小さな公園。ここも桜が美しい。更に北へと走り、石切駅を越えて日下新池へ。(パンドラの丘の桜) 此処は、パンドラの丘。先月の20日の記事でご紹介して居りますので、その名の由来については、同記事をご参照下さい。 <参考>パンドラの丘 2013.2,20.(同上) パンドラの丘に立ち寄ったついでに、大龍禅寺境内の桜も見て行く。大龍禅寺の写真は下記の日記にも登場しています。 <参考>わが待つ秋の近づくらしも 2010.7.27.(大龍禅寺の桜)(同上) そして、神武天皇聖蹟盾津顕彰碑のある公園の桜です。ここは、先日、小万知さんとの銀輪散策で訪ねた場所でもありますが、その時は桜もユキヤナギも咲いていませんでしたが、今日は花満開で、随分と雰囲気が、駄洒落ではありませんが、「華やいで」いました(笑)。 <参考>草香江の入江のはちす花はちす 2013.3.5.(神武天皇盾津顕彰碑と桜) ここまで足を延ばしたついでと、智麻呂さんが週に1回お世話になっている、福寿苑にご挨拶して行く。と言っても「ヤカモチ流挨拶」にて、門前で写真に撮るというだけのことであるのですが(笑)。(福寿苑)(同上) さて、花園中央公園へと向かう。 恩智川と国道(中央大通り)が交差する付近にある、アケビの木が花を咲かせていました。 このアケビ、昨年の4月18日の銀輪散歩の時に花に気付いたのでありましたが、今年はアケビの花も桜同様に開花が早まったようであります。(アケビの花) <参考>花逍遥・アケビの花ほか 2012.4.22.(同上) そして、花園中央公園の桜広場です。 ご覧のように、満開。そして多勢のお花見の人々。(花園中央公園の桜)(同上) はてさて、4月7日の花の様は「いかにかあるらむ」でありますが、まあ、兼好法師殿も下記のように仰って居られますれば、散りたる後の様、散り残りて僅かばかり咲きたる様にこそ、あはれなる風情はあらめ、ということと致しまするかな(笑)。もっとも兼好流だと花見にわざわざ出掛けることもなく、居ながらにして思い描けば十分ということになってしまいますが。『花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情(なさけ)ふかし。咲きぬべきほどの梢(こずゑ)、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に罷(まか)りけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはることありて罷らで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。(中略)すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。よき人は、偏にすける樣にも見えず、興ずる樣もなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢより立ちより、あからめもせずまもりて、酒飮み、連歌して、はては大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、萬の物、よそながら見る事なし。』(徒然草第137段)(同上)(同上)(同上) 若草読書会の皆さま、本日天気晴朗にして花満開なるも、七日に至りて散り残れるの幾許なりやは存じ上げ申さざる事にて候。わが花見 八日は過ぎじ 桜花 散らずあり待て わが行くまでは (偐家持)
2013.03.30
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偐万葉・真澄篇(その13) 本日は、久し振りの偐万葉・真澄篇です。シリーズ第171弾になります。真澄さんのブログは、最近コメント欄を、故あって閉鎖されましたので、真澄絵画に歌をコラボするという機会も当分はなさそうです。ということで、今日までの分をまとめて置くこととしました。 <参考>過去の偐万葉・真澄篇はコチラからどうぞ。 真澄さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が真澄郎女に贈りて詠める歌15首ゴンと言うも コンと鳴くなり ごんぎつね ゴンとは呼ばじ コンと鳴くものを (狐麻呂) (本歌)来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを (大伴坂上郎女 万葉集巻4-527) (「包まれるような清々しさ」)あらたまの 年明けぬれば いざやわれ みをつくしてや みのり待たなむ (巳家持) (「あけましておめでとうございます」)搗きたての 餅にもあれや やはらかき 心自在に あらまくわれも (偐家餅) (「餅」)坐(ゐ)てあれど ながきはくるし たちてはや いなむまからむ おもひつつぞ坐(ゐ)る (居待家持) (「坐る」)雪降りて 踊るは犬の ポチなりて タマなるネコの われは眠らな (偐猫持)風花の 散りも流れ来(く) 寒き日は 駆けてぞ銀輪 走らな我は風花の 舞へるや寒き 日こそわれ 舞ひて踊るに 如(し)かずと言はむ (偐真澄)雪の日は 犬にしなるか 猫なるか それがそもそも 問題なのだ (サムレット) ―To be a dog or to be a cat,that is the question.― (「雪のちらつく寒い日は」)さはらねば 神も祟らず そこがみそ さはらは焼くも ゆめ手な焼きそ (偐塩焼王)今しばし 味噌たれつけむ さはら身の 取り出だし焼く ときはまだなり (白味噌(しろのみそ)) (本歌)石走る 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかも (志貴皇子(しきのみこ) 万葉集巻8-1418) (「来訪者あり」)悲しめる 日々にも花は 咲くなれば なべて人みな 笑みな忘れそ (笑みの郎女)微笑みは うちにしあれる よきものの 花とや咲きて こぼるるならむ (笑みの郎女) (「微笑」)行く波の いづち往(ゆ)くらむ 寄す波の いづちや来(く)なる かりそめの身のいづち来て いづち行くらむ 波の上(へ)を 遊びてもがも 明日は明日なれ (「波」)ぬばたまの か黒き羽の 鵜の群れの 舞ひにまじらな 春にしあれば (「春の舞」)<注>掲載の絵画は全て真澄さんのブログからの転載です。
2013.03.29
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第116回智麻呂絵画展 久し振りの智麻呂絵画展であります。智麻呂絵画ファンの皆さまには「お待たせ」となりましたが、その分、今回は17作品一挙公開であります。 では、ごゆるりとご入場、ご鑑賞下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(水仙1) 前回に続き、今回も水仙の花3点であります。(水仙2)(水仙3) 次は、蝋梅です。ロウバイはもう散ってしまいましたが、此処に咲き残っていました。ロウバイは智麻呂氏のお好きな花の一つ。(ロウバイ) そして、土筆。これは智麻呂氏のご友人の寺◎氏がお持ち下さった「春の便り」であります。(土筆) ツクシと来ると菜の花も欠かせないと思いきや、其処は智麻呂氏、ちゃんと菜の花も描いて下さっていました。(菜の花) そして梅。何処かで見た構図、と気付かれた方は、当ブログをよく見て下さっている方に違いないですな。(梅1)(梅2) 上の梅2は当ブログの2月21日に掲載の写真を絵にされたものであります。<参考>「梅の花咲き始めにけり枚岡の・・」2013.2.21. では、ここでコーヒーブレイク。 智麻呂氏の可愛いお友達のみずきちゃん、さきちゃん姉妹からのクッキーをお召し上がり下さいませ。 恒郎女さんのお話では、バレンタインの時にはみずきちゃんは風邪か何かで体調不良、チョコレートを智麻呂さんに届けることができなかったらしい。後日に恒郎女さんがたまたまあったチョコを姉妹に上げるということがあり、それへのお礼の意味も兼ねて、ホワイトデイにクッキーを作ってお持ち下さったとのこと。ちょっと男女が入れ替わってしまったようなバレンタインデイとホワイトデイでありましたが、微笑ましいお話であります。(みずきちゃん・さきちゃんのクッキー) そして、およろしければ、ケーキもどうぞ。 これは、鎌倉ご在住の五◎さんからのいつもの贈り物です。この絵画展にも度々登場して居りますので、ご常連さんにはお馴染のものかと存じます。 背後にある花はサンダーソニアです。何でこの花が?という小生の質問に、ケーキを並べたテーブルの上にこの花がたまたまあったから・・というお答え。ごもっとも、智麻呂さんは目に入ったものは絵にされるのであれば、こういう絵になるのでありますな。(五◎さんのフルーツケーキ) で、サンダーソニアだけを描いたのが下の絵。 この花の名は初耳ですが、植物図鑑で調べたと仰っていましたから、間違いはないでしょう。散歩の折に、花屋さんの前で智麻呂氏が目に止められ、画材にと買い求められたもののようです。 スズランとかツリガネソウとかホタルブクロとか、このような形の花が智麻呂氏のお好みに合っているようです。(サンダーソニア)<参考>サンダーソニア・Wikipedia さて、次はゴロリと雰囲気が変って、鉄人28号です。 ご存じ、阪神大震災の後の神戸・長田の町を元気づけようと長田駅前広場に設置された巨大な像です。偐山頭火さんが撮影して持って来て下さったそうです。同氏のブログ記事では2012年4月8日の記事「神戸しあわせの村&鉄人28号他」に鉄人28号像の写真の掲載がありますが、この時の写真なのか、その後に行かれた時の写真なのかは不明です。(鉄人28号)(金柑) 金柑と空蝉。これも上の土筆の寺◎氏がお持ち下さった画材です。(土佐文旦) これは、ご近所の東◎さんからの戴き物。これも何度かこの絵画展に登場しています。東◎さんのご実家から送られて来るようですが、その都度、お裾分けにお持ち下さっているのですな。(蜜柑と林檎) 「これは?」との小生の質問に、恒郎女さん、「これは買って来たものです。」 戴き物は必ず絵になるのに対し、自前で買ったものは画材として買う場合は別として、絵になることが少ない。しかし、野菜も果物も戴き物の何倍も買い求めているのは、智麻呂邸とて同じことなのでありますな(笑)。(ユスラウメ) ユスラウメは智麻呂邸の向かいの地蔵堂の脇に今を盛りと咲いています。(桜) そして、桜。これは、枝を手折るのは憚られるとて、幹に生えた「ひこ生え」を摘んで持ち帰り、花器に活けて写生されたものとのことです。 現在、京都では梅と桜が共に咲いていて、それは30年振りの光景らしいのですが、当絵画展でも梅と桜が並び咲きました。 では、これにてお開き。偐家持の歌なども添えてみたかったのですが、今回は絵の数も多く、字数制限上、無理なようです。 今日もご来場下さり、どうも有難うございました。
2013.03.26
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偐万葉・英坊篇(その19) 本日は久々に偐万葉です。偐万葉シリーズではお馴染みの英坊3氏こと英麻呂氏とのコラボであります。氏とのブログ交流は2011年6月6日からですから、比較的新しいのですが、早くも今回で19回目になります。 <参考>過去の偐万葉・英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌14首併せ俳句3句 並びに英麻呂が詠める歌8首併せ俳句3句 英麻呂が贈り来れる歌1首あああ~~ 歌におぼれた 虚(うつ)けもの 詩(うた)のこころを 知るや知らずや (剽軽麻呂) 偐家持が返せる歌1首うつけても ふざけてもよし 偐万葉 うたの心の なにと問はねば 英麻呂が贈り来れる歌1首懸命に 物語の名 書き出すも けん家持の 編に及ばず (下手麻呂爺) 偐家持が返せる歌1首きくも笑ひ 語るも笑ひの 物語 思(も)へどをかしき ものがたりぬか (藤原物足) (注)ものがたりぬか=「ものが足りぬか」と「物語りぬか」を掛けて いる。 英麻呂が作りたる歌1首はじめての はじめてだから 緊張し 仕込み樽にも 念をも仕込 偐家持が追和せる歌1首はじめての 仕込みも六月(むつき) 待たざれば 成果わからぬ そこが味噌なり 英麻呂が贈り来れる歌1首バリ島で サンダル履いた ダリを見た 違っていたら ギャふンだな (雨ヒヒ麻呂) 偐家持が返せる歌2首バリ島の 誰がダリやねン ちょいと見で みダリにダリを 見タリと言ふな (ダリ磨さんが怒った)サンダルは 履くことあれど タヒチならぬ バリには行かじ ゴーギャンわれは (傲岸義憤のゴーギャン) 英麻呂が贈り来れる歌1首蛸明石 鰤はヒミにて 鮭(酒)伏見 ヒミコの墓は 奈良の箸慕蚊 (氷見歌人) (注)上は下記の偐家持の歌に追和せる歌なり。 (元歌)烏賊はスミ 鰤はヒミにて 酒はノミ 鯖はヨミても イミな問ひそね (ヒミコ) 偐家持が重ねて追和せる歌1首蛸明石 鰤は氷見でも 酒は灘 ヒミコも少し 酔った箸墓 (ヤマトトトヒモモソヒメ)鯉すてふ 我が名は太郎 釣られけり 人しれずこそ 生きて来たるを (鯉麻呂) (本歌)恋すてふ わが名はまだき たちにけり 人しれずこそ おもひそめしか (壬生忠見 拾遺集621 小倉百人一首41) 英麻呂が贈り来れる歌1首すまし居る 光の君の 目の先は 試し撮りする 主(あるじ)の真顔 (越中亀羅) (注)上の歌は偐家持の下記の歌に追和せる歌なり。 (元歌) ひさかたの 光の君に あらたしき カメラ向けつつ 試し撮りする君 (越野亀羅) (注)光の君=「光」は、ふぁみり~キャンパー氏の愛犬の名 偐家持が重ねて追和せる歌1首あらたしき 年もきさらぎ やよひまた 花も咲くらむ 光ふる春 (如月末麻呂) (注) あらたしき=あたらしき きさらぎ=「如月」「来さらぎ」 やよひまた=「弥生また」「やがてまた」野は雪に ありつつ氷見の 綿の花 咲けば天使の 喇叭も鳴るらむ 氷見の海(み)に 砕け散るらし 春の色 白木綿花(しらゆふばな)の 今しぞ咲けば 偐家持が作りたる替え歌1編 「お地蔵さん」 粋な黒部の 西瓜のお堂に 仇な姿の 笑い顔 とんだ着物の お地蔵さん それを着たとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お地蔵さん エーサオー 白菜か (元歌)「お富さん」 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄治店(げんやだな) 英麻呂が贈り来れる発句2句に偐家持が付けたる脇句2句 競ひ合ふ 梅と水仙 いかにせむ (英麻呂) さくら待つ間と 人はな言ひそ (偐家持) 水仙や あゝ水仙や 水仙や (英麻呂) それ手弱女(たをやめ)の われさし招く (偐家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首パンドラの 丘に咲く花 梅・福寿 それの以上に 美味の蛸焼き 偐家持が返せる歌1首パンならね ドラ焼きならね たこ焼を 喰ひてののちの パンドラの丘 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 水を差し 梅と福寿は 生きを得る (英麻呂) それ見て人も 元気得るらむ (偐家持)ふたとせを 経たるこの日の 空青し 行かませひとよ 涙干(ひ)ぬともあはれとも いふべきさまよ 大根の 身もいたづらに なりぬべきかな (大根公) (本歌) あはれとも いふべき人は おもほえで 身のいたづらに なりぬべきかな (謙徳公藤原伊尹 拾遺集950 小倉百人一首45) 英麻呂が贈り来れる歌1首知識得て 自慢したいが 聴く人は 誰もいないで 昂(たか)ぶり空(むな)し 偐家持が返せる歌1首きく人は ここにしあれり 知るを得(う)を などてや背子の むなしと言ふや<注>掲載の写真は全て英坊3氏のブログからの転載です。
2013.03.25
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昨日(23日)は大学同窓会で行っている青雲塾に参加して参りました。青雲塾というのは、同窓生などが講師となって講話をするもので、今回の講師はD君。D君は大阪大学大学院法学研究科で研究者を目指して勉強中の学生さん。目下は明治期の日露関係を研究して居られるそうな。法学部在学中に、青雲会主催の懸賞論文で2年連続して最優秀賞を獲得された優秀な学生。昨年法学部を卒業されて同窓会の仲間となったこともあって、今回、講師になって戴いたもの。 演題は「知られざる適塾出身者に迫る-西洋科学技術の先駆者・武田斐三郎と幕末維新-」で、その業績に比して一般には余り知られていない武田斐三郎に焦点を当てて、幕末維新の時代を鳥瞰しようというもの。とても分かり易い説明で、いい勉強をさせて戴きました。 参加者は16名。講座後の懇親の会食も楽しいものでありました。幕末・維新の時代については皆さん関心が高くそれぞれにナニガシかのご意見をお持ちの方も多く話が大いに盛り上がりました。(青雲塾・知られざる敵塾出身者に迫る) 適塾出身者というと福沢諭吉や大村益次郎などが思い浮かぶが、武田斐三郎も適塾出身者。この人物の名を知る人は少ないと思う。小生も今回初めて知りましたが、函館の五稜郭の設計者だとか、勝海舟が彼を評して「わが国科学技術の先駆者として万能の逸材であった」と言っているとか、わが国初のストーブを考案した人物などと言えば、関心も湧くのではないでしょうか。D君は「幕末のダ・ヴィンチ」と言っていましたが(笑)。 大河ドラマの八重さんの夫、新島襄も斐三郎に入門すべく函館にやって来て入門するが、折悪く斐三郎が江戸に出張中であり、教えを乞う機会もないまま、アメリカへ密航してしまうことになるのだが、斐三郎がその時函館に居て襄が斐三郎の下で勉学していたら、その後の襄の人生はどんな展開になったのか、八重さんとのことはどうなったのか、などと考えるのも面白い。 <参考> 武田斐三郎・Wikipedia 五稜郭・同左 講義に先だって、適塾などを見学して参りましたので、以下はそのご報告です。(懐徳堂趾碑) 懐徳堂は大坂の商人たちが設立した江戸時代の学校であるが、その旧趾碑が淀屋橋の日本生命ビルの南側壁面に埋め込まれるようにしてある。 <参考> 懐徳堂・Wikipedia(同上) 適塾は元来は「適々斎塾」というらしいが、緒方洪庵が自宅兼で開設した蘭学塾である。幕末から明治にかけて活躍する人物を多数輩出したことで有名。懐徳堂と共に我が大阪大学の前身とされているから、武田斐三郎も同窓の先輩と言うべきか(笑)。 適塾建物は、1942年(昭和17年)に緒方家から大阪帝国大学に寄贈され、現在は大阪大学がこれを管理している。1980年(昭和55年)5月から一般公開されている。入場料は一般250円です。お近くにお越しの際は是非ご見学下さいませ。地下鉄淀屋橋駅下車8番出口から出て東へ徒歩5分です。 <参考> 適塾・Wikipedia 適塾-大阪大学(敵塾)(緒方洪庵像)(説明板・写真をクリックすると大きさを変更できますので拡大 してお読み下さい。)(建物間取り図<適塾パンフレットより>)(ヅーフ部屋) この部屋で、塾生たちは、一冊しかない蘭和辞書・ヅーフ辞書(長崎出島の商館長ヅーフが作成した蘭和辞書)を奪い合うようにして使い、寝る間も惜しみ予習に励んだそうな。この奥が大部屋になっているが、其処で会読などをしたのであろう。(大部屋)(書斎)(土間)(塾頭と入塾者)(適塾史蹟公園・東側) 建物の東側と西側は史蹟公園になっている。(同上・西側。上の洪庵像は此処にある。) 西側の公園の奥の通路から南へ抜けると道を挟んで向かいに緒方ビルがある。このビルの入口脇に除痘館跡の説明板がある。 洪庵は適塾の裏手になる此処に除痘館を開設し、天然痘の予防接種活動を行ったのである。(緒方ビル)(除痘館跡)(同上)(同上)<参考:除痘館-疫学史>
2013.03.24
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本日は大和三山銀輪散歩。大和三山は何年か前に友人と八木駅を起点に耳成山から順に登ったことがあるが、今回はこれを自転車で回ってみようというもの。午前11時半橿原神宮前駅に降り立つ。(畝傍山全景) 先ず、畝傍山から登る。(畝傍山)(説明板)香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまを 争ふらしき (天智天皇 万葉集巻1-13) 説明板は「畝傍を愛しと」としているが、「ををし」を「雄々し」と解する説もある。「を愛し」なら畝傍は女性、妻を廻る男の争いとなるが、「雄々し」だと畝傍は男性、夫を廻る女の争いということになる。万葉では妻も夫も「つま」と訓むから「つま争い」も両義がある。(畝傍山山頂・山口神社跡)(山頂から見る金剛山<左>と葛城山<右>) 西を見やると、金剛・葛城の山。この山裾を銀輪散歩したことも思い出される。<参考> 当麻寺から五条市まで(その1)(その2)(その3)(山頂から見る耳成山) 下山し、そろそろ昼食と思うが、それらしき店も見当たらぬまま、本薬師寺まで来てしまう。(「磐余銀輪散歩別巻・本薬師寺趾」参照)(畝傍御陵前駅) 昼食はお預け。香久山に登ることとする。その前に奈良文化財研究所(参照:「古池から奈良文化財研究所まで」)に立ち寄る。此処は入館無料。藤原京の発掘品などを展示している。隣の哭澤の杜(参照:「哭澤の杜から藤原宮趾まで」)にも立ち寄る。(香久山全景)(天香山神社) 正式名は天香山坐櫛真智命神社(あまのかぐやまにいますくしまちのみことじんじゃ)。(香久山山頂・国常立神社) 頂上に祀られているのは クニトコタチノミコト(右)とタカオカミ(左)。(香久山山頂から見る畝傍山)(登って来た道を引き返す。) 下山後は、醍醐池から耳成山へと向かう。途中で遅い昼食。耳成山公園到着は14時55分。 池の前に万葉歌碑があるが、これは下記に掲載しているので省略。古今集の歌碑の方を掲載して置く。 <参考>「醍醐池から耳成山公園まで」(古今集歌碑)みゝなしの 山のくちなし 得てし哉(かな) おもひの色の したぞめにせむ (古今集1026)(歌意)耳が無いという名の耳成山の、口がないという名のくちなしを手 に入れたいものだ。そうすれば私の恋の思いの「火」の色でもあ る「緋」の色の下染めのように、心の奥にじっとしまっておこう。(耳成山口神社への道) 山頂の直ぐ下に山口神社がある。(耳成山口神社)(同上)(説明板)(耳成山・山頂) 下山。午後3時21分。未だ早い。飛鳥川に出て今井町へ。今井町を出て神武天皇陵経由剣池と孝元天皇陵へ。(剣池 対岸に見えているのが孝元天皇陵) 剣池は日本書紀・応神11年10月の条に「剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を作る。」と出て来る古い池。みはかしを 劒(つるぎ)の池の はちす葉に たまれる水の 行方(ゆくへ)なみわがせし時に あふべしと あひたる君を な寝そと 母聞(きこ)せどもわが心 清隅(きよすみ)の池の 池の底 吾は忍びず ただに逢ふまでに (万葉集巻13-3289) 剣池の畔には紀皇女の歌碑もある。輕(かる)の池の 汭廻(うらみ)行き廻(み)る 鴨すらに 玉藻のうへに 独(ひとり)宿(ね)なくに (紀皇女 万葉集巻3-390) 紀皇女は天武天皇の娘。穂積皇子の同母妹である。(孝元天皇陵)(同上) 午後5時橿原神宮前駅到着。銀輪散歩終了です。写真を掲載し過ぎて、書いた文章の削除・再編集に苦労しました(笑)。
2013.03.23
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<承前> JR月ヶ瀬口駅前から国道163号線に出る。予定外の行動にて、地図もないので、道は分かり易い国道を走るのが無難と考えた次第。 月ヶ瀬口駅のこの辺りは「今山」と呼ぶらしい。此処から国道は北上して上り坂となっている。やがてゆっくりと西(左)にカーブし再び北(右)にカーブする辺りで「登攀道路終了」となる。押原地区で再び西(左)にカーブ、木津川の支流を渡り、蛇行して来たJR関西本線の下を潜る。暫く離れていた木津川に再び出会い、JR線と木津川の間を行くようになると大河原駅という次の駅の前に出る。(JR大河原駅) 駅前が道路工事中で誘導員の方の指示によっての交互通行。暫く待たされた後、指示された通路を行くと、木津川の中に沈下橋。四万十川で見たのと同じようなのがあった。珍しいので、河川敷に下って行き渡ってみました(笑)。(大河原駅近くの沈下橋)(同上)(同上) 沈下橋から1.5kmほど進んだ処に小さな神社があったので立ち寄ってみた。国津神社とあるから、山城の国津神を祀っているのであるか。(国津神社) 国津神社から2km弱進んだ処で、左手に川を挟んで見えて来たのは布目川発電所。JR関西本線は国津神社の手前で川を渡って対岸を走っているので、発電所の前にその鉄橋が架かっている。(関西本線と布目川発電所) 発電所の前を過ぎると道は上りとなり、笠置トンネルに入る。(笠置トンネル)(同上出口) 笠置トンネルを出ると直ぐに笠置橋。橋を渡って右に行くと笠置駅、左に行くと笠置寺である。 写真で左から下がって来ている山の稜線が笠置山のそれであるが、後醍醐天皇が行宮を置いた笠置寺はその山上にあり、うねうねと曲がる道を上って行くことになるので、自転車には厳しい道である。何年か前に訪ねたことがあるが、今回は勿論立ち寄らない。(笠置橋)(梅) 笠置橋から2.5kmほどで再びトンネル。今度のトンネルは短い。湾漂山トンネルという難しい名前。「わんびょうざん」と読む。(湾漂山トンネル・国道163号線) 天平16年(744年)正月11日に大伴家持は市原王と活道岡(いくぢのをか)に登り、一つ松の下で宴をし、歌を詠んでいるが、この「活道岡」が湾漂山のことであるという説もあるから、もしそうなら、一つ松の下を潜っていることになるのかも知れない(笑)。 <参考> 一つ松 幾代か歴(へ)ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも (市原王 万葉集巻6-1042) たまきはる 命は知らず 松が枝(え)を 結ぶこころは 長くとぞ思ふ (大伴家持 万葉集巻6-1043)(和束川・菜切橋の上から) トンネルを出ると直ぐに和束川に架かる菜切橋である。この和束川の上流の丘に安積皇子の墓がある。随分の昔の夏に今は亡き父と訪ねたことのある墓である。 この辺りまで来ると恭仁京の地域。万葉の息吹が其処彼処に感じられるのである。 和束川は登場しないが、安積皇子が亡くなった時に大伴家持が作った歌には「和豆香山」(巻3-475)、「和豆香そま山」(巻3-476)と詠われている。 安積皇子は聖武天皇の皇子で、反藤原の家持などは大いにこの皇子に期待していたものと思われるが、若くして急死してしまう。藤原系でなかったことから藤原氏にとっては目障りな存在。仲麻呂などによる毒殺かとも言われている彼の死である。 国道からお別れし、恭仁大橋へと向かう。(道標) 恭仁大橋の手前に古い道標があった。 南 加茂ステンショ十五丁、浄瑠璃寺二里 西 京都、奈良街道 木津一里半、奈良五里、京都八里余 とある。(万葉歌碑 巻6-1037) 恭仁京大極殿趾には回らないので、家持歌碑だけにご挨拶して行くこととする。道脇にある以上無視もならない(笑)。恭仁京大極殿趾の写真は下記の<参考>「加茂から京都まで」の記事に掲載されていますのでご参照下さい。今つくる 久邇(くに)の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし (大伴家持 万葉集巻6-1037) この歌は天平15年(743年)8月16日の作。家持27才。橘諸兄の下で希望に燃えていた若き家持の姿が彷彿として来る明るい歌である。(恭仁大橋から木津川を望む。) 恭仁大橋を渡る頃には、日も西に傾き、川面がそれを映して金色に輝く。それは、そろそろ銀輪散歩を切り上げよとの合図でもある。 <参考> 「加茂から京都まで」 2009.10.17. 「つぎねふ山背路を偐山頭火と走る」 2007.5.12.(JR加茂駅) 加茂駅到着。17時13分。月ヶ瀬口駅前発15時頃でしたから、2時間余の付録銀輪散歩でありました。本編4時間余、付録と合せて6時間半の銀輪散歩でありました。 これにて月ヶ瀬銀輪散歩完結であります。今回もお付き合い下さいました皆さま有難うございました。 ==完==
2013.03.22
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<承前> 竜王梅林の処で前回は終りました。其処から始めることとします。 八幡橋の手前、湖上展望台の少し先の斜面に梅が咲き匂っていたので、自転車を停めて少し踏み入ってみた。この先の坂道を上って行く前のひと休みである。おやつにと買った草餅があるので、それを丘の高みで喰うためでもある(笑)。(湖上展望台付近の梅林)(同上 オオイヌノフグリと梅) 草叢にはオオイヌノフグリやタンポポも咲いて、何やら無邪気に春を楽しんでいるようでもあるのだが、それはヤカモチも同様でありますかな(笑)。(オオイヌノフグリ)(タンポポ)(タンポポと梅) すると何やら湖上の方からアナウンスする声がして、噴水が放水されるという。何処に噴水などあるのかと探していたら、程なく水を噴き上げ出しました。これは観光用のものであるのか、それとも何か別の効用もあってのものなのか?(噴水、湖上展望台付近。背後の橋は八幡橋。) 梅林を出て再び走り出す。延々と上りが続く。かなり足に来る。息も荒くなる。疲れると少し休む。そしてまた上る。汗が落ちる。風と日影が心地良い。(高尾地区・これより京都府。) 奈良県から京都府に入る。地名も高尾。かなり高い処まで上って来たようである。川ははるか下になっている。 川沿いを下流に向かって走っているのであるから、この上りもそろそろ終わりの筈、と頑張る。(高みより名張川上流を望む。)(同上、下流を望む。) すると、突如民家の立ち並ぶ場所に出た。バス停もある。どうやら此処が峠のよう。其処からは一気の下りとなる。うねうねとカーブしながら下って行く。先程までの苦闘が嘘のよう。ブレーキが必要な急坂もある。 三升権現社の前で道は殆ど直角に右に折れる。権現社の険しい階段をご年配の男性数人が何やら声を掛け合いながら上って居られる。どうしようか一瞬迷ったが、快適な下り道が「先へ」と促す。上り坂なら休憩を兼ねて立ち寄ったことだろうが、そうせずにそのまま走り下る。 走り下りながら立ち寄ってみるべきだった、と後悔していると、何やら石碑が目に入った。「西国六番」とある。(西国六番の碑)(同上・石仏群) 坂道を上った処が墓地で下の空き地には石仏などが密集して並んでいる。小さな地蔵堂のようなものもある。 何とも分からぬまま、更に坂を下ると赤い吊り橋が見えて来た。高山橋である。間もなくダムのようである。(高山橋)(同上)(月ヶ瀬湖) 随分と下って来たようで、川の水面も近くなっている。川幅も広くなり、ダム湖らしき風情になって来たようだ。(月ヶ瀬湖。正面が高山ダム) ダムと向き合ってある広場に東屋があったので、そこで少し休憩。ダム湖の眺めなど楽しみつつ、煙草一服であります。 隣接する広場では、地元の方であろうか、ゲートボールを楽しむ人の姿もあった。 そして、ダムに到着。ダムを渡って、反対側から放水を撮影。(高山ダム)(同上) 渡った処から坂を上って行くと南山城青少年センターがあり、グラウンドでは子供たちが野球をしている。トイレ休憩も兼ねて立ち寄ると、グラウンドの一角にイトスギが黄金色に輝いて、何やらユーモラスな雰囲気で並び立っているのでありました。(南山城総合グラウンド・青少年センター前のイトスギ) この辺りは田山地区。茶畑が美しい。 高円山の裏手の田原の里を彷彿とさせる風景でもある。(田山地区・茶畑)(同上) 茶畑の道はやがてJR月ヶ瀬口駅から上って来る府道753号線にぶつかる。これを左にとり、下って行く。下り切って木津川を渡ると月ヶ瀬口駅である。(木津川)(JR月ヶ瀬口駅) 月ヶ瀬口駅前到着、14時48分。月瀬橋発が12時10分頃であったから、途中の道草も含めて2時間40分程度かかったこととなる。 まだ、早いので、予定を変更し、国道に出てJR加茂駅前まで走ることに決める。疲れもなく、国道であるから、2時間程度で加茂駅に着けるだろう。(同上、駅西側の跨線橋の上から。奥が伊賀上野方面) ということで、線路を渡りましたが、この道は行き止まり。地元の方に教えて戴き、国道へ出る急な裏道を自転車を担いで下る羽目に。ここでページを改めることとし、以下、加茂駅までの銀輪散歩は次回と致します。(つづく)
2013.03.21
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本日、と言っても16日のことであるのですが、山の辺の道銀輪散歩のアップが長引きましたので、4日遅れの便りとなります。 梅を訪ねての銀輪散歩でありましたが、奈良からバスで月ヶ瀬梅林尾山まで行き、そこでトレンクルを組み立てての出発です。尾山から月瀬橋まではハイキングコースの山道を辿りましたので、例によって自転車は押したり担いだりの「歩き」であります。梅まつりとあって。多勢の観梅のお客さんが来られていました。奈良から尾山までのバスも満員状態でありました。バスは柳生を経由して行くので、一昨年8月の柳生銀輪散歩で走った道も通り、懐かしいことでありました。 <参考>柳生銀輪散歩(上)(中)(下) 尾山着10時40分頃。途中茶屋での昼食時間も含めて月瀬橋北詰にある梅の資料館まで1時間余の徒歩散策。(尾山) ハイキングコースは幾つもあるのだが、銀輪散歩が目的ゆゑ、一番短いコースを選択する。渓谷に沿って細い道を辿る。 月ヶ瀬渓谷は木津川の支流、名張川が高山ダムで堰き止められて出来た月ヶ瀬湖と梅林の織りなす景観が美しいのであるが、梅は満開はまだ先という状態でありました。(月ヶ瀬渓谷・名張川 <注>奈良県内は五月川とも呼ばれる。)(同上) 少し早いが、小学生位の可愛い女の子姉妹がお手伝いをしている茶屋であったので、昼食とする。桟敷席からの眺めがいいので、これをゆっくり楽しもうという魂胆でもある。(こちらは昼食のうどんを食べた茶屋の桟敷からの眺め)(同上)(梅林)(マンサク) 梅に交じってマンサクも咲いているのでありました。(尾山天神社)(同上由緒書) 梅と言えば天神様であるから、この地に天神社があるのに何の不思議もないが、上の由緒書によれば、後醍醐天皇の女官であった姫若が笠置落城の折に、この地まで逃れて来て行き倒れた処、村人に助けられた。彼女が烏梅の製法を教えたので、村人はこぞって梅の木を植え梅の栽培を始めた。これが月ヶ瀬梅林の起源であり、彼女はこの天神社に祀られている、とある。(注)烏梅=中国から伝わったもので、紅染の触媒として使用されるも ので、京都へと出荷された。(頼山陽詩碑)(同上) 天保2年(1831年)月ヶ瀬を訪ねた頼山陽が「月瀬は梅花世界」と讃えたことを記念しての詩碑はダム建設によって月ヶ瀬湖に水没してしまったが、残っていた拓本によって、この地に再建されたとのこと。(下り道に入る) 真福寺へと上って行かれる方も多いようだが、小生は下りに入る。眼下に見える月瀬橋から銀輪散歩にて高山ダムへと向かうのが今回の主目的であるからだ。(月瀬橋遠望)(スミレ) スミレさんにもご挨拶。されど赤人にあらねば「一夜寝にける」とは参らぬヤカモチであります。(九十九坂を下る。)(同上)(白梅) 県道に降り立ちトレンクル始動。 月瀬橋畔の「梅の資料館」前でひと息入れてから出発。(梅の資料館前の富岡鉄斎の詩碑) 富岡鉄斎には名画「月瀬図巻」という作品があり、彼はこの地を愛し、度々訪れ、村人とも親しんだらしい。(梅の資料館前の紅白の梅) さて、月瀬橋からいよいよ銀輪散歩となります。暫くは上りが続くが、それをクリアすれば、後はひたすら下るだけの快適なコースとなる筈。(梅と渓谷)(同上) (谷崎純一郎歌碑) 竜王梅林の前には谷崎純一郎の歌碑もありました。わがや度(ど)の 梅のさかりを よそにして たづ年(ね)てそこ新(し) 月ヶ瀬農(の)里 (谷崎潤一郎)(竜王梅林) 走り出したばかりですが、どうやら文字数制限のようです。続きは明日ということに致します。(つづく)
2013.03.20
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<承前> 前回は車谷の手前で終りました。車谷は穴師山と巻向山・弓月ヶ嶽との間の谷である。巻向川が流れている。巻向川に沿って少し下る。滔々と流れて水量は結構豊である。川音高しも嵐かも疾きである。梅は今を盛りと咲いてもいる。(車谷の梅) 川沿いに坂を少し下った処に2基の歌碑がある。(万葉歌碑 巻7-1269)巻向の 山邊響(とよ)みて 行く水の 水沫(みなわ)の如し 世のひと吾(われ)は (柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1269)(万葉歌碑)痛足河(あなしがは) 河波立ちぬ 巻目(まきもく)の 由槻が嶽に 雲居立てるらし (柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1087) この歌碑の揮毫者は棟方志功氏。痛足河(穴師河)は巻向川のこと。巻向川上流右側の双峰の山が巻向山と弓月ヶ嶽。巻向川の水かさが増してたぎち流れているのは、上流で雨が降った所為。上流の弓月ヶ嶽には雲が立ち昇っているのだろう、という歌。雨の降った後に訪ねて来ればこの歌の感じがそのままなんだろうが、今日は雲ひとつなく、弓月ヶ嶽もくっきりである。(万葉歌碑 巻1-17、18 山の辺の道風景8) 上の写真の場所は定番の撮影スポット。額田王も人麻呂も家持も同じ景色を見たのであるか。 歌碑は(その2)でも掲載した「味酒 三輪の山 あをによし・・」の長歌とその反歌「三輪山をしかも隠すか雲だにも・・」である。この歌はこの地点で朗唱するのが宜しいかと(笑)。 三輪山を背にすると、景行天皇陵が見える。 菜の花と梅の花が織りなす道を行く。 相撲神社とその奥の穴師坐兵主神社はパスしてショートカットした道をとって景行天皇陵へと向かう。景行天皇陵からは天理市となるので、桜井市とはお別れである。(山の辺の道風景9)(景行天皇陵) 景行天皇陵から振り返ると三輪山が見える。 景行天皇はヤマトタケルの父、第12代天皇。景行の祖父第10代天皇の崇神天皇陵がこの先にある。(同上説明板)(山の辺の道風景10 景行天皇陵陪塚)(梅)(崇神天皇陵)(同上) 崇神天皇陵は広大である。ぐるりひと回りして、長岳寺の門前を通り、人麻呂歌碑を目指す。(長岳寺)(犬養万葉歌碑 巻2-212)衾(ふすま)道(ぢ)を 引手(ひきて)の山に 妹を置きて 山路を行けば 生(い)けりともなし (柿本人麻呂 万葉集巻2-212) この歌は、万葉集の題詞に「柿本朝臣人麻呂、妻の死(みまか)りし後、泣血哀慟(なきかなし)みて作れる歌二首并に短歌」とあるように、妻を亡くした人麻呂が嘆き悲しんで作った歌、泣血哀慟歌の反歌の一つである。 引手の山とは正面に見えている竜王山のこととされている。竜王山の何処かに亡き妻を葬ったのであろう。 歌碑は犬養孝先生揮毫であり、こちら方面に来た以上は、この歌碑にだけにはご挨拶して行かなければならないというものなのである。 振り返ると既に夕照。 梅畑の先に遠く二上山が見えて、もの悲しい気分にもなる眺めである。(二上山夕景) 犬養万葉歌碑から中山廃寺跡を通り、中山大塚古墳の西側を通り、念仏寺門前に至る。門前には門前の小僧と言うには大き過ぎる小僧さんが居られました。以前はこのようなものは無かったから、最近設置されたのでしょう。(念仏寺門前の小僧さん。後が中山大塚古墳) 念仏寺の墓地を通り抜けて、最後の目的地、手白香皇女衾田陵に向かう。手白香皇女は仁賢天皇の娘で、継体天皇の皇后となった女性。(手白香皇女衾田陵)(同上)(衾田陵夕照)(衾田陵から二上山を望む。)ふすまだの みちにひぐれて ふたかみの やまはかなしも あけにそみゆく (偐家持) (日没)(大和神社) 大和神社経由JR長柄駅前18:22到着。 約4時間の銀輪散歩終了です。 (完)
2013.03.19
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<承前> 道は程なく玄賓庵への坂道にさしかかる。 下の写真は、玄賓庵の前の梅畑から来た道を振り返ったものです。ここも石畳の凸凹道ですから、自転車で駆け上がるのは無理です。(山の辺の道風景3)(山の辺の道風景4 右は玄賓庵。)<参考>玄賓・Wikipedia 玄賓庵・Wikipedia 玄賓(734~818)は、謡曲「三輪」のモデルと言われる、奈良時代から平安時代初期にかけての僧。嵯峨天皇から大僧都に任じられようとするが、これを固辞したという逸話のある清廉高潔な人物。その彼が晩年に隠棲した庵が玄賓庵である。 玄賓さんは弓削氏。河内のお人でありますからヤカモチとは同郷ということになりますが、弓削の道鏡さんも同郷でありますな。(玄賓庵)(同上) 玄賓庵から少し上った道脇に小さな歌碑。 額田王と天武天皇の間の娘十市皇女が亡くなった時にその死を悼んで高市皇子は歌3首を詠んでいるが、そのうちの1首である。(万葉歌碑)山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (高市皇子 万葉集巻2-158) 歌碑では「立ちしげみたる」となっているが、小生は「立ちよそひたる」で記憶して居り、この方が歌の感じに似つかわしい言葉使いだと思われるので、上に掲載の歌は「立ちよそひたる」としました。 此処にも小林秀雄筆の「山辺道」の道標があり、如何にも山の辺の道の雰囲気を醸している一角なのである(下掲写真)。(山の辺の道風景5) 桧原神社にさしかかった道脇に万葉歌碑。まるで歌碑めぐりをしているようでありますが、歌碑の歌を通して万葉人の息吹が伝わっても来るのが、この道であります。(万葉歌碑 巻10-1814)古(いにしへ)の 人の植ゑけむ 松が枝に 霞たなびく 春は来(き)ぬらし (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1814)(桧原神社) 桧原神社の西側の池の畔にも歌碑があった筈と回ってみる。(万葉歌碑 巻7-1118)いにしへに ありけむ人も わが如か みわの桧原に かざし折りけむ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1118)(万葉歌碑 巻13-3222)三諸(みもろ)は 人の守(も)る山 本(もと)べは あしび花咲き 末(すゑ)べはつばき花咲く うらぐはし山ぞ 泣く児(こ)守る山 (万葉集巻13-3222)(万葉歌碑 巻1-13)香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代よりかくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみもつまを 争ふらしき (天智天皇 万葉集巻1-13)(三輪山)(古事記歌謡碑)大和は 国のまほろば たたなづく青かき 山ごもれる 大和し美(うるは)し (倭建命 古事記) この歌は(その2)に既出なので説明は省略。この歌碑は、川端康成の筆であるが、同氏が揮毫せぬままに自殺してしまわれたので、同氏の原稿の文字から該当する字を1字ずつ拾い出して歌碑の字としたと聞く。(山の辺の道風景6 桧原神社から車谷へ 中央奥が竜王山、 左が穴師山、右が巻向山の山裾)(車谷の里) この谷を下って行くと箸墓古墳である。上の写真の中央奥に見えている小山状の森がそれである。今日は立ち寄らない。(山の辺の道風景7 車谷への道)(万葉歌碑 巻2-157)神山(かむやま)の 山邊(やまべ)真蘇木綿(まそゆふ) みじか木綿(ゆふ) かくのみ故(から)に 長くと思ひき (高市皇子 万葉集巻2-157) この歌も十市皇女の死を悼んで詠まれた歌3首のうちの1首。ほぼ、字数制限なので、ここでページを改めます。半日の行程がブログ記事になると何日分にもなってしまうのは困ったことです。もう倍位の字数枠が欲しい(笑)。(つづく)
2013.03.18
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<承前> 大神神社の境内から始めます。前頁の祈祷殿の前庭に歌碑がある。(万葉歌碑 巻8-1517)うまさけを 三輪のはふりが やまてらす あきのもみぢば ちらまくをしも (長屋王 万葉集巻8-1517)(古事記歌謡碑)やまとは くにのまはろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし (倭建命 古事記) ヤマトタケルは東国の蝦夷を征服して尾張から伊勢の能煩野(三重県鈴鹿市北方から亀山市東部にかけての野)へと帰って来るが、この地で病が酷くなり亡くなってしまう。この歌は亡くなる前にヤマトタケルが大和を偲んで詠んだ歌である。(日本書紀歌謡碑)此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久 (日本書紀 崇神天皇8年12月条) 日本書紀には、崇神天皇8年の12月20日に大田田根子に三輪の神を祀らしめ、その日に天皇は宴を催したとある。この宴に高橋邑の酒人(さかびと)活日(いくひ)が神酒を天皇に献上したので、天皇がこの歌を詠んだとある。(歌の意は「この神酒は私の神酒ではない。大和の国をお造りになった大物主神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄よ、幾世までも久しく。」である。) 大神神社を出て狭井神社へと向かう。大神神社には多くの摂社、末社があるが、狭井神社もその一つ。(狭井神社。左の赤い鳥居は市杵島姫神社。)(狭井神社・拝殿) 狭井神社については下の説明板をご参照下さい。 拝殿前庭右側に三輪山登山口がある。神社に申し出て登山することが出来るが、今回はパス。(説明板) 鳥居を入った参道脇の鎮女池の前に三島由紀夫筆の清明碑がある。 昭和41年にドナルド・キーンと大神神社を訪れた三島由紀夫は三輪山に登り、感銘を受けて下山後にその感慨を「清明」と色紙に書いたらしい。その字を碑にしたのが、この碑である。(三島由紀夫の清明碑) 狭井神社から少し行った処に歌碑がありました。(古事記歌謡碑)狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす (伊須気余理比売 古事記) 神武天皇には大和に入ってから妻にした伊須気余理姫(いすけよりひめ)との間に3人の息子がいたが、日向にいた時の妻阿比良比売(あひらひめ)との間にも多芸志美美命(たぎしみみのみこと)という男子がいた。神武崩御後、このタギシミミが「自分が長兄であるから天皇位に即くのが当然」とし、義母であるイスケヨリヒメを妻に迎え、その3人の息子(つまり異母弟)を殺そうと謀る。これを知ったイスケヨリヒメが息子達に危険を知らせるために詠んだ歌がこの歌。母からの知らせで3人の息子(日本書紀では息子は2人になっている)のうちの一人、末弟の神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)(建沼河耳(たけぬなかはみみ)命)がタギシミミを殺す。この功により、カムヌナカハが天皇位に即く。綏靖天皇である。 更に進むと、月山邸の前に出る。ここに歌碑が2基ある。前庭側に万葉歌碑、丘の柿畑の側に古事記歌謡の碑。(古事記歌謡碑)葦原(あしはら)の 穢(しげ)しき小屋(をや)に 菅畳(すがたたみ) 弥清(いやさや)敷きて 我が二人寝し (神武天皇 古事記)(葦原の、穢い小屋に、菅の畳をいっそう清らかに敷いて、わたし達二人は寝たのだ。) イスケヨリ姫の家は狭井河(佐韋河)の畔にあり、神武はその家を訪ね彼女と結ばれる。後にイスケヨリ姫を宮中に迎え入れた際に、神武が詠んだ歌がこの歌である。 この直ぐそばを流れるあるかなきか定かでない小川が狭井川(佐韋川)である。古事記ではこの川の畔には山百合が多く咲いていたとあり、山百合の古名は佐韋だとあるから、百合の川という意味なのである。(万葉歌碑 巻1-17、18) こちらは万葉歌碑、額田王の有名な歌。近江に都が遷り、明日香から近江へと下る時に作った歌であるが、馴れ親しんだ大和を離れて天離かる鄙へと向かう心情が覗われもする歌である。味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠(かく)るまで道の隈(くま) い積(つも)るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや (万葉集巻1-17) 反歌三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや (万葉集巻1-18) では、私たちも、つばらつばらに三輪山を見つつ、額田王さんご一行の後について参りますかな(笑)。 (つづく)(山の辺の道風景1)(山の辺の道風景2)
2013.03.17
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この処ブログアップをそこそこに、あちこちと銀輪散歩していましたので、アップが追い付かず、日付を遡ってのアップです。 これは15日の銀輪散歩の日記です。この日は近鉄桜井駅前を出発、山の辺の道(南コース)の銀輪散歩となりました。まあ、石畳とかでこぼこの山道などもある、「歩き道」ですから、半分は銀輪を押しての「歩き」でもありましたので、銀輪散歩と言えるのかどうか(笑)。 昨年の3月に奈良から天理まで、山の辺の道・北コースを銀輪散歩しているので、今回はその続編にもなる。前回は北から南へと下って来て南コースの一部、竹之内環濠集落まで走っているので、桜井から天理まで、前回の走り残した部分を、今度は南から北へ走ろうというものである。 <参考>北・山の辺の道銀輪散歩・鷺池から竜王池まで 北・山の辺の道銀輪散歩・御霊神社から梅林まで 北・山の辺の道銀輪散歩・石上神宮から南・山の辺の道へ 南・山の辺の道銀輪散歩・永久寺跡から夜都伎神社まで 南・山の辺の道銀輪散歩・竹之内環濠集落から奈良興福寺へ(近鉄桜井駅) 桜井駅前でトレンクルを組み立て出発。このコースは以前の日記にも登場したりしているので、それは適宜にその記事を参照戴くなどしながら、進めて行くことと致します。(山の辺の道の標識) 先ず初瀬川(大和川)に出る。仏教伝来の碑の傍らにある万葉歌碑から見て行くこととします。 <参考> 「山辺の道」 2009.2.28.(仏教伝来の碑)(万葉歌碑・巻10-2222)夕さらば かはづ鳴くなる 三輪川の 清き瀬の音を 聞かくし良しも (万葉集巻10-2222)(金屋の石仏) 海柘榴市観音堂はショートカットし、金屋の石仏の処から山の辺の道に入る。 <参考>「飛鳥から大和高田へ」 2009.3.20. (金屋の石仏、左が弥勒菩薩、右が釈迦如来) 金屋の石仏から志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社に立ち寄る。ここには、崇神天皇の瑞籬宮趾の碑と万葉歌碑がある。(志貴御県坐神社)(同上・本殿)(崇神天皇磯城瑞籬宮趾碑)(万葉歌碑・巻13-3249)磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ (万葉集巻13-3249)(道標・小林秀雄筆) 小林秀雄筆の道標を見つつ、山の辺の道を行くが、この辺りはずっと自転車を押しながらの「歩き」である。まあ、自転車を杖の代りにしていると思えばいいのである(笑)。 先ず出会うのが平等寺。この寺にも人麻呂の歌碑があるので立ち寄って行く。 <参考>平等寺(桜井市)・Wikipedia(平等寺・赤門)(平等寺) 人影はなく、本堂の前に猫が一匹居るっきり。(万葉歌碑・巻7-1094)わが衣 色にそめなむ うま酒 三室の山は もみぢしにけり (柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1094) 平等寺を出て北へと小路を辿ると大神神社に着く。正面の鳥居からではなく、横入りにて、いきなり拝殿の前に出ることとなる。(巳の神杉) 根元の洞には白蛇が棲み、願い事を聞き入れてくれると言い伝えられている。 <参考>大神神社・Wikipedia(大神神社・拝殿)(同上・祈祷殿)<参考>大神神社公式ホームページ 大神神社の詳細は、上のホームページでご覧戴くこととし、ここでひとまずページを改めることとします。(つづく)
2013.03.16
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<承前> 昨日(14日)の日記の続きです。 親鸞荼毘所を後にして、ひたすら自転車で走り下る。 御陵があったので立ち寄って行く。 仁明天皇女御・贈皇太后澤子・中尾陵とある。藤原澤子のお墓。仁明天皇の寵愛深く3男1女を出産しているが、そのうちの時康親王(仁明の第三皇子)が後に天皇位に即く。光孝天皇である。仁明天皇は第一皇子の道康親王(文徳天皇・母は藤原順子)に譲位し、以後は文徳の息子の清和天皇、清和の息子の陽成天皇と継承されて行くが、陽成天皇が摂政の藤原基経によって廃位されると、異母兄の系統にあった天皇位が文徳の異母弟の時康皇子に回って来たという次第。55歳での高齢での即位である。 澤子は承和6年(839年)に急病で亡くなっていたのだが、元慶8年(884年)に息子の光孝天皇が即位すると、皇太后が追贈されたという次第。(仁明天皇女御藤原澤子陵)(同上) 東大路通りに出て右折。清水寺へと向かう。 坂上田村麻呂をテーマとした以上、彼が創建したという清水寺に立ち寄らない訳には行かない。東大路通りから「ちゃわん坂」を上る。それ程勾配が急というのではないが、だらだらと続く上り坂、徐々にきいて来る。清水寺の前に着いた頃はさすがに疲れていました。適当な場所に駐輪して、久し振りに入場、境内を散策。 入場の目的は、アテルイとモレの碑を撮影すること。 蝦夷のリーダー、アテルイと田村麻呂の関係は、記述するのが面倒なので、以下をご参照下さい。 <参考>アテルイ・Wikipedia(清水寺)(同上)(清水寺・田村堂)(清水寺・音羽の滝。舞台の上から撮影)(音羽の滝)(清水の舞台。下から。)(アテルイ・モレの碑)(同上・説明板) 小生が、アテルイの碑を写真に撮って立ち去ろうとすると、中国人観光客の女性3人組がこの碑の前に並んで記念撮影を始めた。 アテルイのことを知ってのことなんだろうか、など思いつつ、その場を後にしました。 アテルイとモレは河内国で処刑されたが、それが何処であるのかは特定されていない。5年前に茨田童子氏とN氏と共に枚方を散策した際に立ち寄った牧野公園内にアテルイ・モレのものと伝承される塚がありました。塚の石碑の両サイドにN氏と小生が立っている写真(茨田童子氏撮影)があるので、それを以下に掲載して置きます。両サイドの人物はトリミングしてカットしましたので背後にある塚も写っては居りませぬが・・(笑)。(アテルイ、モレの塚)<参考>「枚方万葉歌碑めぐり」2008.2.28. もう10年以上も前に読んだ本であるが、アテルイについては、高橋克彦「火焔・北の耀星アテルイ」(講談社)が面白いと思うので、ご紹介して置きます。(高橋克彦著「火焔」<上下>講談社)<参考>2007年6月4日朝日新聞夕刊記事(写真をクリックして拡大画面でお読み下さい。)
2013.03.15
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本日は京都山科まで電車で行き、山科から坂上田村麻呂公園経由醍醐道を通って山越え、清水寺へ、というコースで銀輪散歩して参りました。 テーマは「坂上田村麻呂」。大伴家持よりも40歳年少であり、直接の接点は見当たらない。大伴家持は延暦4年(785年)死去(68才)であるから、この時、田村麻呂は28歳。漸く従五位下に昇進、殿上人の仲間入りを果たしたばかりであった。 田村麻呂と言えば「征夷大将軍」であるが、この称号が誕生したのは延暦13年(794年)のことであり、最初の征夷大将軍は大伴弟麻呂である。 家持が春宮大夫を兼任のまま陸奥按察使鎮守将軍となって多賀城に向かうのが延暦元年(782年)の6月頃であり、翌々年(784年)に持節征東将軍になっているが、これは後の征夷大将軍と同じものであろうから、家持は田村麻呂の先輩ということになる。 ところで、田村麻呂が征夷大将軍になるのは、初代征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐をする副将軍に任命され、功績を上げたことによる。 この大伴弟麻呂は、壬申の乱で天武側で活躍した大伴負吹の曾孫に当る。負吹の長兄は大伴長徳で、家持は長徳の曾孫に当る。ということで、やっと、田村麻呂と家持は弟麻呂を通して接点を有するということになる(笑)。 それにしても、何故、田村麻呂なんだ?と思われることでしょうが、書斎を整理していたら、2007年6月4日の朝日新聞の記事のスクラップが出て来て、それに「京都・山科の西野山古墳が田村麻呂の墓と判明」とあったからであります。当時、訪ねてみようとスクラップしたまま、失念していたことを思い出したという次第。 JR山科駅下車。折りたたみ自転車・トレンクルを組み立て、出発。山科川の支流になる小川に沿って南へと走る。目指すのは「坂上田村麻呂公園」とそこにある「伝・坂上田村麻呂墓」である。 途中に蓮如上人御廟所があるので、それに立ち寄ることに。小川を挟んで山科中央公園の東側にそれはある。(蓮如廟) 浄土真宗の宗祖は親鸞であるが、今日のような巨大な教団を作り上げたのは蓮如に依ると言うべきであろう。 蓮如さんはこんな処で眠って居られましたか。森閑とした広大な敷地に廟所があるのは如何にも蓮如である。(同上) 東海道新幹線の下を潜り抜けた辺りで小川は山科川に合流する。山科川に沿って更に南へと走る。今日は冬に逆戻りの寒い日となったけれど、山科川は水の音も色も、降り注ぐ日の光もやはり春のそれである。(山科川) 程なく府道118号線に出る。渡って右に入ると坂上田村麻呂公園である。小さな公園。(坂上田村麻呂公園)(坂上田村麻呂墓)(同上)(同上)(坂上田村麻呂墓全景)(説明板) 上の説明板の「立ったまま葬られた」云々は「清水寺縁起」の記述によるものである。 この公園から直線で西北西1.5kmほどの山腹にある西野山古墳が彼の墓であるとされたけれど、その西野山古墳なるものが大正時代に発掘された後、位置が不分明となり、何処とも特定されていないということのようなので、今暫くは此処が墓ということでいいのでしょう(笑)。 ということで、その西野山古墳があったであろう辺りを走って山越えで清水寺へと向かうこととします。(西野山古墳がある辺りの竹林) 道脇に、西野山古墳の碑が建てられているらしいが、見つからなかったので諦めて府道118号線(醍醐道)へと戻る。かなりの急坂を登らなくてはならない。八幡宮があったのを奇貨として、写真を撮るという口実で自転車を降りる(笑)。(若宮八幡宮)(峠道・醍醐道・府道118号線) かなり上って来た。先程の道が眼下に見える。眺望も良くなって参りましたが、それでも息は切れる。 しかし、それも突如終り、下りになる。東大路通りに出るまで、ひたすらの下りが続く。これぞ自転車の醍醐味。それもその筈、この道は醍醐道という名でありました(笑)。(延仁寺) 少し下った処に延仁寺という寺があった。親鸞上人荼毘所とあるから、立ち寄って行くことに。蓮如さんで始まった今回の散歩。親鸞さんまでご登場とは出来過ぎです。(同上)(親鸞荼毘所) 親鸞はこの地で荼毘に付されたらしい。 墓地の坂を登りつめた高みにそれはあった。(同上)(同上)(親鸞荼毘所からの眺望) 説明は下の説明板をお読み下さい。かなり上ったので眺望が素晴らしい。(荼毘所説明板) どうやら、清水寺へは着かないよう。文字数制限ですので、また明日にさせて戴きます。(つづく)
2013.03.14
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本日は囲碁例会の日。前回欠席したので、今月はこれが初めての出席。夕刻から雨の予報なので、自転車は止めて、電車で。 いつものアポロ・カフェで昼食。日替わりランチと珈琲を注文して、何気なく横の壁に貼られてあった「お知らせ」なる掲示を見ると、何と「3月15日を以って閉店する」という告知でありました。 小生の高校の後輩の女性お二人でやって居られる喫茶店ということもあって、囲碁例会の際の昼食はこの店でと決めていたのに、閉店とは残念なことであります。何故閉店なのかとお聞きすると、ご実家のお父上がご病気になられ、そのお世話などもあって、お店どころではなくなったらしい。まあ、致し方のないことであります。お父上がお元気になられることをお祈り申し上げることと致しましょう。 ともあれ、アポロ・カフェのお二人さん(今、気付きましたがお名前などはお聞きしていないので存じ上げないのでありました。)、どうもお世話になり、有難うございました。どうぞご機嫌ようであります。 最後ということでか、店を出る時に下のよう小さな布製バッグを頂戴いたしました。(アポロ・カフェの布バッグ) アポロ・カフェについては、下記の記事をご参照下さい。 <参考>「またまた囲碁の日でありました。」2010.10.13. 「囲碁例会・同窓生でありましたか」2012.2.1.(アポロ・カフェ。2010年10月13日記事からの再掲載。) 囲碁会場に入る前に、花野(梅田の里山)を暫し散策。珍しいと言うか、面白い花を見掛けました。(キブシ) まるで、玉簾のような花。ネットで調べると、どうやらキブシという名前の樹木の花のよう。(同上)(同上) 次は、ハクサンボクの新芽。春の雰囲気です。近くに寄って、新芽の中を覗き込むと、小さな花の蕾がビッシリ。(ハクサンボク)(同上) そして、万葉集にも登場するシキミの花。奥山の 樒(しきみ)が花の 名のごとや しくしく君に 恋ひわたりなむ (大原今城(おおはらのいまき) 万葉集巻20-4476) 上の歌は、大伴池主の宅での宴で大原今城が詠んだ2首のうちの1首。池主を「しきみ」になぞらえて、客人である今城が主人である池主を褒めている、ご挨拶の歌である。 今日、シキミはと言うと、仏事、葬式などに使う木にて、宴会の挨拶には馴染まないかと思うが、本来のこの木は、広い意味での榊(サカキ)、神の木の一つであった。従って、シキミの花は神聖な「神の花」であった。 客の今城は池主の高潔さをシキミの花の美しさと良い香りに喩えたのでしょう。ついでに、もう一方の歌も記して置きます。初雪は 千重にふりしけ 恋ひしくの 多かる吾(われ)は 見つつ偲(しの)はむ (同上 万葉集巻20-4475) これに対して池主がどのような歌を返したのか、万葉集には出ていない。この後、池主は藤原仲麻呂排除、孝謙天皇廃帝を目指した橘奈良麻呂の乱に連座し捕えられ、獄死している。(シキミ)(同上) 顔を花に近付ける。清潔な芳香がかすかに漂う。神の花、仏の花に相応しい高貴な香である。(同上) さて、囲碁例会ですが、本日の参加者は福◎氏、青◎氏、荒◎氏と小生の4名。お天気の所為もあってか欠席者が多くなりました。 最初の福◎氏には勝ったものの、荒◎氏には負け、次に青◎氏と2局打ちましたがこれも連敗。よって、1勝3敗。今年に入ってからの不調が続いています(笑)。
2013.03.13
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偐万葉・ビッグジョン篇(その17) 本日も、偐万葉シリーズ(第169弾)であります。今回はビッグジョン篇(その17)であります。ビッグジョン氏(偐万葉では「歩麻呂氏」)の軽妙な返しもお楽しみ戴ければ幸甚に存じます。 <参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラからどうぞ。 ビッグジョン氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が歩麻呂に贈りて詠める歌13首併せ俳句9句 並びに歩麻呂が返せる歌2首併せ俳句9句山あそび 過ぎたる歩人 悔いよとて 山あはび食へと 妻買ふらむか (偐茶化持) (超訳)「山のあはび」 ダジャーレ・デッセ(上田凡訳) 山のあはびはそら美味い 「食感」よしと人のいふ。 噫、焼きてよし炒めてよし、 揚げ物煮物いはずもが。 山のあはびのなほ美味く 「食感」よしと人のいふ (正訳)「山のあなた」 カール・ブッセ(上田敏訳) 山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。 噫、われひとゝ尋めゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。 山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。 歩麻呂が返せる超訳詩1編 「山のあなた」 サケーニ・ヨッテ(上田呑訳) 山のあなたにゐる人は 言葉遊びが得意といふ 噫、われひとたび読むならば 涙こらへて、笑ひこけ 山のあなたを仰ぎ見て 言葉遊びやよしといふ 石根(いはね)踏み 雪踏み平(な)らし 来し我に 見よと日に照り 霧氷の光る七重八重 桜も咲けば ラーメンも 二度は言はずも 何度でも食へ (八重の麺持) ほりすぎて 切られけらしも 白妙の すずしろ干すてふ 歩麻呂枚方 (本歌) 春すぎて 夏きにけらし 白妙の ころもほすてふ 天の香具山 (持統天皇 新古今集175、小倉百人一首2) 大根を 干してひねもす 春の庭 (蕪蕉大根) 歩麻呂が返せる俳句1句 寒風に 吹かれて大根 仮眠する (歩人)みかの原 わきて流るる イズム川 イズムみたかと 嬉しがるらむ (イズム中毒者兼輔) (本歌) みかの原 わきてながるる いづみ川 いつみきとてか こひしかるらむ (中納言兼輔 新古今集996 小倉百人一首27)われヨイショ 母はコラショで 二人して 合せドッコイショで 笑みもやこぼる (偐歩麻呂)ケータイを みなする怪異 もののふの 八十宇治川も うしと眺めむ (変本人麻呂(かはりもとのひとまろ))ちかごろの 流行病(はやりやまひ)か みな人の おしてなすらし 車内のスマホ (大袈裟家持)人はみな どこでもスマホ わが持てる どこでもドアー 忘れられぬる (ドラえもん) (注)上2首は偐万葉収録に際し一部文言に修正を加えました。 灘の酒 なくなさけなし 節目には 伏見の酒を 呑めと言ふらし (大伴酒呑郎女) 歩麻呂が贈り来れる発句8句に偐家持が付けたる脇句8句 我が庭に 父の植えたる 梅の花 (歩麻呂) 咲けば恋しき 在りし日の影 (偐家持) かにかくに 氷室の里の 梅の花 (歩麻呂) 咲きても散りても ありがたかりき (偐啄木) ウグイスの 訪ねてくれし 梅の花 (歩麻呂) 風な散らしそ 月の照るまで (偐家持) 一つ咲き また一つ咲く 梅の花 (歩麻呂) 春さり来ると 告げてやあらし (偐家持) 大阪城 今年も咲いた 梅の花 (歩麻呂) 見むとや人の 群れてもあれる (偐家持) 今宵また 出ばなをくじく 梅の花 (歩麻呂) へしゃげて今は ものをこそおもへ (偐待梅門院) 春浅き 根岸の里の 梅の花 (歩麻呂) 子規も障子を 開けよと言ふや (偐家持) 潔し 冷気の中に 梅の花 (歩麻呂) 咲きて今宵の 月待つらむか (偐家持)鹿ならば やがて消(け)ぬるを 鹿子(かご)の木は 老いてまだらに 人にし似たる (老楽園) (カコノキ) (ヤマコウバシ)合格を ケント果たせり 今はもや 散りてもよしぞ ヤマコウバシの葉 (偐歩麻呂)ありま山 峰の昼餉(ひるげ)に 風ふけば いでそよ寒きに ふるへもぞする (大層弐寒気(たいさうにさむき) 藤原寒子(ふじはらのさむいこ)) (本歌) ありま山 猪名の笹原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする (大弐三位(だいにのさんみ) 藤原賢子(ふじはらのかたいこ) 後拾遺集709 小倉百人一首58) 歩麻呂が返し来れる歌2首有馬山 三つの峰を 越えくれば この愉しみぞ 忘れやはする (藤原歩子(ふじはらのあるいこ))厳しさも 寒さもガスも なにせむに まされる宝 歩にしかめやも (畑中(はたのなかの)モグラ) (本歌)銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも (山上憶良 万葉集巻5-803) (有馬三山)<注>掲載の写真は全てビッグジョン氏のブログからの転載です。
2013.03.12
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偐万葉・ひろろ篇(その13) 本日は偐万葉シリーズ第168弾、偐万葉・ひろろ篇(その13)と致します。 ひろろさんのほっこりと優しい名画と偐家持の「歌もどき」とのコラボをお楽しみ下されば幸甚に存じます。 <参考> 過去の偐万葉・ひろろ篇はコチラからどうぞ。 ひろろさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持がひろろの郎女に贈りて詠める歌19首梅酒水 黒砂糖塩 煮つつ寒天 加へ煮て 冷やせばこれぞ 梅酒のゼリー (ひろろの刀自) (注)上は577577の旋頭歌体の歌です。 (梅酒ゼリー)朝露を 負ひてむくげは 磐梯を 仰ぎ咲くらし 秋立ちぬれば釣り舟の たゆたふ午後の 静寂(せいじやく)に 蘭の花咲く 秋立つらしも (「閑日」) (サクララン)朝顔の 花にもがもな 朝なさな 手に取り持ちて 飽かず眺めむ(本歌)なでしこの その花にもが 朝な朝(さ)な 手に取り持ちて 恋ひぬ日無けむ (大伴家持 万葉集巻3-408)秋づけば 風もさやけみ 妹が手に 咲ける秋野の 花ぞ見が欲しまた来むと 思はばひとつ 見のこして 帰るが粋と 言ふにありけり (偐家持流)珈琲の 香こそ似合へり 個展終へ かたづけしたる あとのひととき (偐ひろろ)思ほえば なしたることも なせざるも 今また始む 一歩とならむ (偐ひろろ) (個展会場)うたた寝の 秋の午後なり 遠くでは 誰やらおらぶ 声はすれども (微衰家持) (「微睡」) (「遊具で遊ぶ女の子」)秋の日の 連れ来るものの みなやさし それと少女(せうじょ)も 知りてやあらむ早や明日に 年も極(は)つれば 童(わらは)の目 して迎へたき あらたまの年 (「ホイップ・トースト」) (鶴ヶ城)大空に 真白き鶴(たづ)の たつや今 雪踏み平(な)らし 若松の城かり宮に 行かざるかりは 返さなむ 伊吹の山も われや待つらむ亜麻色の 髪に光れる 春の日の 弾むがままに エマ行くらむか (「女性像」)カエサルは こけてぞをかし カエサルと いふ猿あらば さらにもをかし (偐猿丸)百種(ももくさ)の 花も盛りと 咲く春を 今かと八重も 待ちつつあらむははそ葉の 母は愛(うつく)し み神もや 護りてわれに 疾(と)くかへさませ (注) ははそ=「母蘇」、コナラのこと。ナラガシワ、クヌギ、カシワ説や ナラ、クヌギなどの総称とする説もある。積む雪の 道の片辺(かたへ)に 春立つと 見ゆる童(わらは)の 笑みにしあれり (「冬の朝に」)この雪の 下には春の あるならむ 幼(をさな)二人の 笑みは言ふらし<注> 掲載の絵画・写真は全てひろろさんのブログからの転載です。
2013.03.10
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本日は大学同窓会・青雲会の囲碁サークルの例会の日。 昨年の9月8日以来なので、実に久々の出席でした。出席者は13名。盛会でありました。小生は初戦の岩◎氏には勝ったものの、その後、藤◎氏に1敗、玉◎氏に2敗でトータル1勝3敗。振いませんでした(笑)。 お天気もよしで、会場のある北区堂島の裁判所の裏まで、いつもの通り、銀輪散歩を兼ねて、自宅からMTB(マウンテンバイク)で出掛けました。 途中、大阪城公園を通り抜けましたが、陽気に誘われてか多くの人影があり、いかにも長閑な春の休日といった雰囲気でありました。(大阪城公園・噴水広場)(大阪城) 大阪城公園を出て、天満橋で大川を渡り、大阪天満宮へ。 大阪天満宮では「盆梅まつり」の開催中であるが、それを狙ってのものではなく、境内にある神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑を写真に撮るのが目的でありました。今月5日に神武天皇聖蹟盾津顕彰碑を、翌6日には同孔舎衛坂顕彰碑を訪ねたので、この際、難波之碕顕彰碑もご紹介して置こうと考えた次第。 <参考>神武天皇聖蹟盾津顕彰碑はコチラからどうぞ。 神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑はコチラからどうぞ。(神武天皇聖蹟難波碕顕彰碑) (同・裏面) 神武天皇聖蹟顕彰碑は大阪府内には4基ある。残りの1基は泉南市男里の天神の森公園内にあるのだが、これは自宅からはかなりの距離なので、ちょっと銀輪でという訳にも行かない。何れチャンスがあれば、と思います。 さて、今回の難波之碕顕彰碑であるが、これは瀬戸内海をやって来た神武一行が、先ずこの難波之碕に至り、ここから河内の盾津へと進んだことが日本書紀に記されて居り、その難波之碕がこの付近だと言うので建てられているものである。まあ、神武東征は作り話だと言ってしまえば、身も蓋もないことになるのであるが、それは暫く横に置くことと致しましょう(笑)。 参考までに下記に日本書紀のその部分の記述を転載して置くこととします。 「戊午年(つちのえうまのとし)の春二月(きさらぎ)の丁酉(ひのとのとり)の朔(ついたち)丁未(ひのとのひつじのひ)に、皇師(みいくさ)遂に東(ひむがし)にゆく。舳艫(ともへ)相接(つ)げり。方(まさ)に難波碕(なにはのみさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ひぬ。因りて、名(なづ)けて浪速国(なみはやのくに)とす。亦浪花(なみはな)と曰(い)ふ。今、難波(なには)と謂ふは訛(よこなま)れるなり。」(日本書紀・神武天皇即位前紀 戊午年二月の条)(徳島のイメージキャラクター「トクシー」) 天満宮の境内はとても賑っていました。 それもその筈、徳島の観光PRに、ゆるキャラのトクシーちゃんと観光大使のお譲さんと阿波踊り保存会の方々が来て居られて、そのパフォーマンスが始まろうとしているのでありました。(同上)(トクシーと観光大使のお譲さん) では、本場の阿波踊りをご覧下さい。 未だ桜の花も開花しないと言うのに、早や何やら「夏」の雰囲気ですな。天神さんもビックリですかね。「何をしてくれるのだ。ゆっくり梅花も楽しめないではないか。」と言って居られたかどうかは存じませぬが、神社側が招待したのでもあれば、道真公との折り合いは付いた上でのことであるのでしょう。 まあ、ヤカモチとしてはいいものを見させて戴きました(笑)。(徳島の皆さんの「阿波踊り」)(同上)(同上)(同上)<参考>カテゴリー「近隣散歩」の他の記事はコチラからご覧戴けます。
2013.03.09
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行方不明になっていると以前の日記に書いた南方熊楠著「十二支考」でしたが、本日ひょんなことで書棚の奥から出て参りました。 <参考>2012.12.21.「十二支笑」 たまたま、ブロ友の英坊3氏が稲荷神社のことを記事にしておられて、そう言えば稲荷信仰についての論考をまとめた本があった筈と探していたら、その本の上に「十二支考」全3冊が乗っかっていました(笑)。 書斎の書棚が今や手狭で本が重なり合って収納されているので、奥の方に潜り込んでしまうと分らなくなってしまう。全集などはまとめて置いてあり、比較的よく読んだ著者の本もまとめて置いてあるほか、万葉関係その他或る程度ジャンル別に整理して収納しているので、整理は必ずしもいいとは言えないものの、そこは長年の感覚でどの本がどのあたりあるかというのは大体見当が付くのであるが、そうでない本や、何かの拍子でいつもの場所でない処に置いてしまったりすると、その上やその前に他の本が置かれることによって外からは見えなくなり、行方不明となるようであります。 今回の「十二支考」は後者のケースで、長年置いてあった場所とは異なる場所にたまたま仮置きし、そのまま放置している間に他の新参の本に埋まってしまったことによる行方不明であったようです。 さて、「十二支考」が出て来たついでに、この本で紹介されている話で、よく出来ている話だなあと思えるものの一つをご紹介して置きます。 「十二支考3」の「犬に関する民俗と伝説」の項に出ている話です。 1915年版ガスター「ルーマニア鳥獣譚」にある話からのようですが、要約すると次のような内容です。 神様が世界を造った際に、一切の生物を招集してその寿命と暮し方を定めた。 先ず、人間を呼んで「お前は世界の王である。両足で直立し上天を仰ぎ見よ。お前には貴き容貌、考慮と判断の力、言語などを与える。地上の一切の生物はお前に支配され、樹に生るもの土に生じるもの皆お前が利用してよろしい。寿命は30年とする。」と云い渡す。 人間は、いくら王の如く威勢よく面白く暮らしても、たかが30年ではつまらないと呟いた。 次にロバを呼び「お前は労苦しなければならない。常に重荷を負い運び、鞭打たれ叱られ、休息は束の間、粗食に甘んじて生きることとし、寿命は50年とする。」と宣告する。ロバは「そんな辛い目をして50年も長らえるのは情けない。どうか特別のお情けで20年だけ差し引いて戴きたい。」と懇願する。 それを聞いた強欲な人間はその20年をこちらに回してくれと申し出る。それで、人間の寿命は50年に修正された。 次に、犬が呼ばれ「お前は主人たる人間の家と財産を守り、ひたすらこれを失わぬよう努めなくてはならない。月の影を見ても必ず吠えよ。骨折賃として固い骨と粗末な肉を与えるから、それを齧って40年生きよ。」と言い渡す。これを聞いた犬は震え上がり、そんなに骨折って骨ばかり喰えとは難儀極まると「20年でご勘弁を」と言う。 また、人間が割り込んで差し引いた20年を貰い受け、寿命は70年に修正された。 最後に猿を呼び出し「お前は人に似るも人に非ず。馬鹿で小児めいたものたるべく、背中は曲がり、子供にも馬鹿にされ、 笑い物になって、60年生きなさい。」と命じる。猿はこれは根っから有難くないお話であるとて「とんでもないことでございます。半分の30年でご勘弁を」と言う。 ここでまたも人間がしゃしゃり出て「その30年、手前が貰い受けます。」と申し出た。それで、人間の寿命は100年に修正された。 かくして人間は神から当初賜った30年の間は何と言って苦労もなく面白く遊び暮らすのであるが、30歳から50歳の20年はロバから譲り受けたものだから、未来の蓄えに備え、ひたすら働き苦労する。 50歳から70歳の間は、犬からのものだから、僅かに蓄えたものも他人に盗られはせぬかと夜もろくろく眠れず戦々恐々と生きることとなる。 70歳から100歳までの30年は、猿からのものなので、背は曲がり、顔つきも変り、心鈍くなり、子供じみて、他者に嘲笑されることとなる。 まあ、パンドーラの箱と言い、この話と言い、我々の先祖の失敗というか、目論見違いの所為で、我々の苦労があると言うことですかな。 まあ、我々も子孫に、後世の世代にツケを回す愚を犯してはならないのだ、ということを、此処から学び取ることと致しますかね(笑)。 孔子さんの三十にして立つ、四十にして惑はず云々の格調の高さに比べるとルーマニア人のこの話は笑うほかありませぬが、偐万葉世界はこういう類の話こそをよしとするのでありますな(笑)。
2013.03.07
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本日は囲碁例会の日でありましたが、都合により欠席。 それで、午後2時過ぎから銀輪散歩に出掛けましたが、何処と言ってアテもなかったので、昨日、小万知さんと訪ねた神武天皇聖蹟盾津顕彰碑との関連で、もう一つの顕彰碑・孔舎衛坂顕彰碑を訪ねてみることとした。 随分昔に訪ねたことがあるっきりで記憶もぼんやりしているのであるが、大龍禅寺不動院の先の山上を目指す。(大龍禅寺不動院) 日下不動尊とある。坂の下にある大龍禅寺の奥の院ですかね。ここまでは自転車(MTB)で来れる。この先を少し登ると舗装がなくなり、細い険しい山道となる。(同上) MTBをチェーンロックで立ち木に括りつけて、徒歩で行く。(道の辺の滝) 途中に滝などもあって、少しはホッとしたりもするのであるが、険しい山道である。 (大岩滝)(左:神武天皇顕彰碑への道、右:日下直越の道) やがて分れ道。左が神武天皇顕彰碑への道。右が直越の道である。地元の人は「ただ越え」ではなく「じき越え」と言っているらしい。万葉の「直越え」の道は、この道のほか暗峠越えの道や石切の辻子谷の道など諸説あるよう。(参考)直越えの この道にして おし照るや 難波の海と 名づけけらしも (神社忌寸老麻呂 巻6-977)(五瀬命負傷地の碑) 山をほぼ登り切った処で右が五瀬命負傷地の碑への道、左が神武天皇顕彰碑への道。先ず、神武天皇の兄である五瀬命の碑の方を訪ねることにした。(同上) 碑には「厄山、五瀬命御負傷の地と言ひ伝へらる」とあるが、日本書紀には孔舎衛坂の何処とも記してはいないのだから、何でこんな山中に建てたものやら(笑)。 五瀬命は神武さんの兄であるが、この日下での戦いで流れ矢に当り、その傷がもとで亡くなってしまう。 次は神武天皇顕彰碑。(神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑) (同上、右:裏面) 碑の裏面や下の説明板で明らかですから説明の必要もないでしょう。参考までに、日本書紀の該当部分の記事を転載して置きます。(参考)「三月(やよひ)の丁卯(ひのとのう)の朔(ついたち)丙子(ひのえねのひ)に、遡流而上(かはよりさかのぼ)りて、径(ただ)に河内国(かふちのくに)の草香邑(くさかのむら)の青雲(あをくも)の白肩之津(しらかたのつ)に至ります。夏四月(うづき)の丙申(ひのえさる)の朔(ついたち)甲辰(きのえたつのひ)に、皇師(みいくさ)兵(つはもの)を勒(ととの)へて、歩(かち)より竜田に趣(おもぶ)く。而(しかう)して其の路(みち)狭(さ)く嶮(さが)しくして、人並(な)み行くこと得ず。乃(すなは)ち還(かへ)りて更に東(ひむがしのかた)胆駒山(いこまやま)を踰(こ)えて、中洲(うちつくに)に入らむと欲(おもほ)す。時に長随彦(ながすねびこ)聞きて曰はく『夫(そ)れ、天神(あまつかみ)の子等(みこたち)の来ます所以(ゆゑ)は、必ず我が国を奪はむとならむ』といひて、則(すなは)ち尽(ふつく)に属(したが)へる兵(いくさ)を起して、徼(さいぎ)りて、孔舎衛坂(くさゑのさか)にして、与(とも)に会ひ戦ふ。流矢(いたやぐし)有りて、五瀬命(いつせのみこと)の肱脛(ひぢはぎ)に中(あた)れり。皇師(みいくさ)進み戦ふこと能(あた)はず。」(日本書紀 神武天皇即位前紀 戊午年の条)(同上・説明板) 下山後はMTBで一気に外環状線道路まで走り下る。 外環状道路に出て南へ。水走交差点の少し手前で東に入り、中石切公園に立ち寄って行くこととした。(市立石切運動広場・中石切公園) 此処は、かつては陸軍刑務所であった処。その後「河内少年院」となり、それが取り壊されて、今は、公園と市民運動場になっている。 先日、太宰治の小説「パンドラの匣」の舞台となった地をご紹介したが、此処は、野間宏の小説「真空地帯」に登場する「石切刑務所」の跡地である。若い頃は野間宏もよく読んだ作家の一人であるが、参考までに「真空地帯」の書き出しの部分を下に転載して置きます。(参考)「木谷上等兵が二年の刑を終って陸軍刑務所から自分の中隊にかえってきたとき、部隊の様子は彼が部隊本部経理室の使役兵として勤務中に逮捕され憲兵につれられて師団司令部軍法会議に向ったときとは全く変ってしまっていた。(中略)朝はやく石切の刑務所から護送自動車で送られて木谷一等兵が刑務所看守と共に控室で釈放時間をまっているとき・・・」(野間宏「真空地帯」より)(同上) 上の写真の右側が市民運動場、左側が中石切公園である。公園の方では子供たちが野球をしていましたが、何故か「サッカー、野球禁止」の看板が掲示してあるのでした(笑)。サッカー・野球は運動場の方でしなさい、と言うことなんでしょうが、申し込み手続きなどがあって、子供たちが集まって野球でもしようか・・というニーズには運動場は応えられないようですな。(同上)
2013.03.06
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本日午前11時頃に恒郎女さんより電話があり、「今、小万知さんが来て下さっているので、よかったら来ませんか?」とのこと。 小万知さんは、自宅庭のミモザを手折り、ロウバイや福寿草などの花の写真をご持参で智麻呂邸をご訪問下さったよう。そして、もう一つの目的は、当ブログの2月20日の記事(「パンドラの丘」)に興味を持たれて、それを訪ねてみようと言うことであったらしい。ご本人は、当該ブログ記事を印刷し、付近の地図を片手にひとりバス&徒歩で廻るつもりでいらしたよう。しかし、その話をお聞きになった恒郎女さんが、「それなら、私の電動自転車を貸すからそれで回ることとし、偐家持さんに案内して貰えばいい。」と小生に電話をされたという次第。 そんな企みがあるとは露知らぬヤカモチ。飛んで火に入る「春の虫」でありました(笑)。 と、言うことで、本日の記事は添乗員ヤカモチ先生の日下案内記であります。既に過去の記事で掲載済みの写真は当該記事をご参照戴くこととして省略させて戴きました。 コースは次の通り。 智麻呂邸→妙徳寺→旧生駒トンネル→日下新池・パンドラの丘→ 大龍禅寺→旧河澄家→古事記歌謡歌碑→日下貝塚碑→孔舎衙小学校 →神武天皇聖蹟盾津顕彰碑→加納緑地→智麻呂邸 1.妙徳寺(寺の写真は2010.5.3.「石切・額田・瓢箪山近隣散歩(上)」に掲載して居ります。)寺の境内には白梅が咲き匂っていました。(白梅-妙徳寺境内)(同上) そして、これは小万知さんが目聡く見付けられたのでありましたが、梅の木の根方には立派な福寿草。(フクジュソウ)(同上)2.旧生駒トンネル(旧生駒トンネルの写真は、2010.3.31.「銀輪花遍路」、2012.5.29.「石切神社上之宮」に掲載されています。)3.日下新池・パンドラの丘(日下新池の写真は、2010.3.31.「銀輪花遍路」、2013.2.20.「パンドラの丘」に掲載されています。)4.大龍禅寺(大龍禅寺の写真は、2010.7.27.「わが待つ秋の近づくらしも」に掲載されています。)5.旧河澄家(旧河澄家の写真は、2013.2.22.「旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋」に掲載されています。)(旧河澄家座敷)6.古事記歌謡歌碑(歌碑の写真は、上記の「旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋」に掲載されています。)この歌碑の建立者は井上正治氏。同氏は、小万知さんが通って居られた孔舎衙小学校の校長先生であったお方とか。7.日下貝塚之碑(日下貝塚之碑の写真は、上記の「旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋」に掲載されています。)日下貝塚之碑の隣のJAの駐車場に、日下貝塚之詩碑なるものがありますが、上記の2月22日の日記では掲載していませんでしたので、茲に掲載させて戴きます。(日下貝塚之詩碑) (同上)8.孔舎衙小学校孔舎衙小学校は小万知さんが通われた小学校。思い出の学校であるが、校舎は建て替えられていて、往時を偲べるものは何とてもないようでありました。この小学校の校歌の歌詞には、上の「日下江の蓮」が出て来るのでありますな。(孔舎衙小学校校歌)(孔舎衙小学校)(同上)上の校歌は正面の建物に掲げられてあるのをズームアップ撮影したものです。9.神武天皇聖蹟盾津顕彰碑小学校が記憶に残る景色をとどめてはいない、ということで、昔のままに残る神武天皇顕彰碑へご案内する。子供の頃は、此処で遊んだりもされたとお聞きして居りましたので。小学校卒業式の日に友達みんなでこの碑の前で記念写真を撮ったとのことで、懐かしそうにされて居られました。(神武天皇聖蹟盾津顕彰碑) この碑が建てられた時には、生駒山が背後に見えていたのであろうが、今は住宅が建て込んでしまって、見えない。 神武天皇曰く「眺望権の侵害である。」 さぞ、心外なこととお察し申し上げまする。(同上裏面)(注)神武天皇聖蹟顕彰碑は、皇紀2600年(昭和15年、1940年)に、 文部省指揮の下、神武天皇に所縁の地である、全国19ヶ所に建立 された顕彰碑である。 大阪府には4基建立されているが、うち2基が此処日下の地に建て られている。(他に、奈良県7元、和歌山県4基、岡山県、広島県、 大分県、福岡県各1基)(同上全景) これにて予定見学コース終了。引き返すこととし、恩智川に出て、加納緑地から花園中央公園まで恩智川沿いを走り、智麻呂邸に帰還。智麻呂・恒郎女ご夫妻と談笑。そして、お寿司をご馳走になりましたですな(笑)。どうもご馳走さまでした。 以上、ヤカモチ添乗員日記でありました。
2013.03.05
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本日は朝の墓参の後、山裾を枚岡梅林まで散策。 枚岡梅林は、「道知辺」などの早咲きの品種はもう八分咲きでしたが、まだ蕾の固い木も多く、全体としては見頃はもう少し先のようです。(墓参) ということで、枚岡梅林の近くのお宅の枝垂れ梅の写真を掲載して置きます。毎年この時期になると見事に咲いて、目を楽しませてくれます。(枝垂れ梅) 玉すだれのような咲き匂う枝垂れ梅の花から想起するのは、芭蕉の次の句でしょうか。 紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ (芭蕉) 今回は、梅の万葉歌ではなく、ちょっと趣向を変えて、芭蕉の梅の句を並べてみることと致しましょうか。 暖簾( のうれん)のおくものぶかし北の梅 手鼻かむ音さへ梅のさかり哉 盛(さかり)なる梅にす手(で)引(ひく)風も哉(がな) (注)す手引=得るものがなく手ぶらで引き上げる。 我も神のひさうやあふぐ梅の花 (注) 神=天神(菅原道真)のこと。 ひさう=「彼蒼」(空のこと)と「秘蔵」とを掛けている。 此梅に牛も初音(はつね)と鳴(なき)つべし 梅柳さぞ若衆哉女かな (注)梅=若衆(男色の対象である前髪立ちの少年)、 柳=遊女 旅がらす古巣はむめに成(なり)にけり (注)むめ=梅 初春先(まづ)酒に梅売(うる)にほひかな 世にゝほへ梅花(ばいくわ)一枝(いつし)のみそさゞい 梅白し昨日(きの)ふや鶴を盗れし るすにきて梅さへよそのかきほかな (注)かきほ=「垣穂」垣に同じ。 さとのこよ梅おりのこせうしのむち (注)うしのむち=牛の鞭。牛を駆るための鞭。 わするなよ藪の中なるむめの花 あこくその心もしらず梅の花 (注)あこくそ=紀貫之の幼名。 (本歌)人はいさ 心も知らず 古里は 花ぞ昔の 香に匂ひける (紀貫之) 香にゝほへうにほる岡の梅の花 (注)うに=泥炭のこと。 梅の木に猶やどり木や梅の花 御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花 (注)御子良子=伊勢神宮で神に供える飲食物を整える少女。 山里は万歳おそし梅の花 (注)万歳=年初に家々を回って賀詞を歌い舞って米銭を乞 う門付芸。 蒟蒻のさしみもすこし梅の花 春もやゝけしきとゝのふ月と梅 梅が香に昔の一字あはれ也 (注) 和歌では、梅の香は昔を想起させるものとして詠まれる ことがある。(同上) こちらは、道の辺の水仙。 毎年、水仙の花を撮っているように思いますが、可憐に咲いている花姿を目にすると、ついカメラを向けてしまいます(笑)。(水仙) 水仙についても、芭蕉の句を添えて置きましょう(笑)。 水仙や白き障子のとも移り (注) とも移り=とも映り。映り合っていること。 其( その)にほひ桃より白し水仙花 (注) にほひ=嗅覚的なものではなく視覚的なもの を指して言うのが本来の用法。 この句は長男重英に桃先、次男孝知に桃後 の号を与えた時の吟にて、水仙を詠んだ詩 「桃前梅後独リ春ヲ迎フ」を踏まえ、これをもじ って桃前、桃後と二子の号とし、「桃より白し」 で、桃青(芭蕉)を越えよ、の意も込めた句と解 されている。(水仙) 本日は、墓参のち花散歩でありました。
2013.03.02
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