全22件 (22件中 1-22件目)
1
第115回智麻呂絵画展 本日は第115回智麻呂絵画展であります。 今回を以って、智麻呂絵画展に出展の智麻呂絵画の総点数が遂に1000点を突破致しました。 2008年7月4日に第1回展を開催し8点の絵を掲載したのが、その最初でありましたが、以来4年7カ月余、コツコツとひたすら作品を描き続けられた智麻呂氏の弛まぬ歩みが、今日茲に1000点突破という大きな節目を迎えることを可能に致しました。画材をご提供下さったり、この絵画展で励ましの温かいコメントを下さったり、といった周囲の皆さまに支えられての1000点であろうと存じます。皆さまに心より感謝申し上げる次第でございます。 次は2000点を目指して、智麻呂氏は勿論、ヤカモチ館長も頑張って参りますので、引き続き智麻呂絵画展をご愛顧賜りますよう宜しくお願い申し上げます。 では、どちら様も、ご入場の上、ごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(クッキー) もう、バレンタイン・デイは遠くに去ってしまいましたが、これは、そのバレンタインにお友達のSちゃんがプレゼントして下さった手作りのクッキー他です。(バレンタイン・チョコ) これもバレンタイン関係。こちらはご近所の若奥様からのプレゼントのチョコです。(紅梅) これは、智麻呂氏のお友達の寺◎氏がお届け下さった梅の一枝です。寺◎氏は智麻呂絵画のよき理解者。折々に野の花その他の素敵な画材をご提供下さいます。 この絵が1000点目の絵となります。この絵が未だ描かれていなかった時に、智麻呂氏との会話の中でヤカモチがお持ちした下の「枝垂れ梅」の絵を1000点目の絵にするということになっていたのですが、本日、この絵を撮影し、画材提供者が寺◎氏であることを知りましたので、ヤカモチの一存で1000点目の栄誉は寺◎氏にお譲りすることと致しました(笑)。霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに 春日(かすが)の里に 梅の花見つ (大伴三林 万葉集巻8-1434)酒坏(さかづき)に 梅の花浮(うか)べ 思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし (大伴坂上郎女 万葉集巻8-1656)雪見れば いまだ冬なり しかすがに 春がすみ立ち 梅は散りつつ (万葉集巻10-1862)(枝垂れ梅) これは、ヤカモチが、通りがかりの店に売っていた梅を買って、お届けしたものであります。水仙ばかり描いて居られて、そろそろ梅が描きたくなって居られた智麻呂氏にはタイムリーな画材となって大いに喜んで戴いたのでもありましたが、恒の郎女様のお話では、寒い戸外から暖かい部屋に運び込まれた所為か、智麻呂氏が写生して居られる間にも、この梅は、蕾が次々に花開き、忽ちに満開に近くなったということで、智麻呂氏も描きながら、その変化を「お~、お~っ」と愉しんで居られたとのことであります(笑)。雪の上に 照れる月夜(つくよ)に 梅の花 折りて贈らむ 愛(は)しき兒もがも (大伴家持 万葉集巻18-4134)袖(そで)垂れて いざわが苑に うぐひすの 木伝(こづた)ひ散らす 梅の花見に (藤原永手 万葉集巻19-4277)(梅林) これは、偐山頭火氏が銀輪散歩で撮影した梅林の写真を大きく印刷してお届け下さったものを絵にされたものです。偐山頭火氏も智麻呂絵画を支えて下さっている重要なお一人でありますな。 この写真の撮影場所は藤井寺市の道明寺天満宮であります。同氏の下記ブログにその写真が掲載されていますので、興味ある方はご参照下さい。 <参考>河内温泉大学2013年2月6日の記事 梅の花 咲けるが中に 含(ふふ)めるは 恋やこもれる 雪を待つとか (茨田王(うまらだのおほきみ) 万葉集巻19-4283)梅の花 さき散る春の 永き日を 見れども飽かぬ 磯にもあるか (甘南備伊香(かんなびのいかご) 万葉集巻20-4502) 万葉集の梅の歌にかまけて、恒郎女さんからお預かりしていた彼女の歌を掲載するのを忘れていました。遅ればせながら、追記して置きます。(3月1日夜)同志社の 襄のたたへし 寒梅も 今年は譲って 八重の桜に (恒郎女)(ショートケーキ) では、ここでコーヒーブレイク。ヤカモチ持参のショートケーキでも召し上がられませ(笑)。(紅芋タルト) 最後は、お孫さんのナナちゃんからのお土産です。 絵からもお察しのことと存じますが、沖縄旅行のお土産です。
2013.02.28
コメント(7)
偐万葉・ふぁみキャンパー篇(その4) 本日は、偐万葉シリーズ第167弾、ふぁみキャンパー篇(その4)をお届けします。 <参考>過去の偐万葉・ふぁみキャンパー篇はコチラからどうぞ。 ふぁみり~キャンパー氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が越後湯麻呂に贈りて詠める歌18首もどすすべ 知らにと今日も からまりて 風が身にしむ 光の君は (光犬氏) (「からまっちゃった。」) (弥彦神社にて)枝にあれば めでらるもみぢ 石枕 道にしあれば 落ち葉と呼ばる (秋葉皇子) (本歌) 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (有間皇子 万葉集巻2-142)伊夜彦 おのれ村長(むらをさ) 菊祭 催す日には 駐車銭取る (仕方仲麻呂) 本歌)伊夜彦 おのれ神さび 青雲の たなびく日すら こさめそぼ降る (万葉集巻16-3883) (本日は有料です。)カニかくに 渋民村は コシヒカリ 黒作りの山 黒作りの川 (蟹川啄木) (本歌)かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川 (石川啄木 「一握の砂」)海ゆかば 魚(うを)売る市場 魚買はば 浜焼きせむや 寺泊 辺(へ)にこそ喰はめ お代りはせじ (大越家持) (本歌)海ゆかば 水漬(つ)く屍 山ゆかば 草むすかばね 大君の 辺(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ・・・ (大伴家持 万葉集巻18-4094の一部) (大型鮮魚店<寺泊・魚の市場通り>)烏賊はスミ 鰤はヒミにて 酒はノミ 鯖はヨミても イミな問ひそね (ヒミコ)本山に 行かばやとてか 越後なるに 取り越しなせる 報恩の講 (小谷派) (浄土真宗大谷派寺院) (屋台)三条の 講の鯛焼き しのぶれど アンコも皮も 今はこひしき (偐ふぁみ麻呂) (本歌)浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人のこひしき (源 等 後撰集578 小倉百人一首39)ほつ枝吹く 風の降らせる もみぢ葉の しぐれがもとの 昼餉もぞよしひさかたの 光の君に あらたしき カメラ向けつつ 試し撮りする君 (越野亀羅) (光君) (遠山は雪にあるらし)風寒く 冬になるらし 越後はや 遠山白く なりゆく見ればなゐふりし ことのしるしを のこしつつ やとせへたるか 蒼丘の杜 (蒼丘の杜公園)夕々(よひよひ)の 名にしぞあれば われはまた あさきゆめみに ゑひもするなれ (偐いろは丸)丼も 恋し味なり 行き行きて 越のタレかつ たれとや喰はむ (家持丼) (新潟タレかつ丼) (蓬平温泉)楠の み寺に行けと 死ぬべきを たすけまいらす 蓬平(よもぎひら)の湯 (患部永湯)それぞれの いのりこめつつ 人はみな 火をともすらむ おほの蝋燭 (金山持) (三条八幡宮) (富士山)江戸の華 火事と喧嘩と ひとは言へ ひと事ならぬ 藪蕎麦の火事 (神田家持)天の河 よこたふ先は 佐渡なるも 寄せ来(く)はとどろ 海の音(と)ばかり (関連句) 荒海(あらうみ)や 佐渡によこたふ 天河(あまのがは) (芭蕉) (出雲崎)<注>掲載の写真は全てふぁみり~キャンパー氏のブログからの転載です。
2013.02.26
コメント(4)
言葉遊び・人名篇(2) またまた、懲りずにコリンズの言葉遊びです。 本日は人名篇の(2)であります。 画家と作家を取り上げました。画家については、「前回未登場の画家は?」と探してみましたら、結構居るものでした。(画家の部)タヒチではゴーギャンでも日立ではギャーゴンです。傲岸でも不遜ではなかったのでゴーギャン、ゴーギャンの美少年絵は道楽で描いただけだったドラクロワ何故か絵がデレ~ッとダレてしまうのでダリサルが通るとダリも通るので、博多ではサルバドール・ダリと呼ばれた。燃えるキリンにつくダニを見つけたダリ、焼き肉のタレ・やけくそのダリ素人くさいトリックが味だとも言われるロートレックへのへのモジリアーニ腹へらすベラスケス絵は薄っすら点々と描くものと言うスーラ。では、そうスーラか。何でもかんでも根掘り葉掘り聞きたがるアンディ・ウォーホル遠近感覚がなくなって理想の絵をみつけたのでアンリー・ルソーどのみちアングルが悪い絵しか描けないドミニク・アングルぶたまん食いながら森を素通りしてしまったので、モーリス・ド・ブラマンク何で肉にマヨネーズかけたらカルパッチョやねんと怒るカルパッチョ網走に行かんでもよかったのでワシリー・カンディンスキー接吻しながらクルリと回るのが愚にもつかぬと男を下げたグスタフ・クリムト博多の人「クリムトもクリーム塗ると?」オーストリアの人「クリムトは栗剥くと?」ちょっくら石を割って来~るべえと言いながら出掛けないクールベ黒部に行ってクールベ。あれくれ、これくれ、パウル・クレー江崎グリコの社長はエル・グレコではありません。質問者「聖ヒエロニムスはどれ?」 コレッジョ「これっじょ。」頑迷固陋でもないのにコローコローがこけたらコロッケ? いや、蹴躓いてもコロッケだな。アルフレッド・シスレーの前では「ありふれた絵ですかね~」と言ってはならないのであ~る。失礼なのだ。「絵具、上にある棚に置いてしまった~なぁ。」 (背の低いウィリアム・ターナー)「あっしが、下に棚を付け替えてあげやしょう。」 (大工のヴァン・ダイク)「それじゃ、板に切り込み入れて置きます。」 (見習いのジョルジョ・デ・キリコ)「氷室に住む坊主は居るまい」 (ヒエロニムス・ボス)怒鳴るボナール、 ボナールの好きなスパゲッティ・カルボナーラ 作家は初登場ですが、取り敢えず頭に浮かんだままに、出来たものから順不同の掲載です。名は浮かぶも洒落にならないのはどんどん飛ばしましたが、それらについては追々に・・えっ?もう止めて置け?う~ん、どうしましょうか(笑)。 (作家の部)何でも断定したがるダンテぼけてもせっかっちなボッカチオ人間五十年下天のうちをくらぶれば夢幻のゲーテなりちびた下駄を履いても様になるからゲーテしゃがんどれ、と言われてジッとしている、アンドレ・ジッド嵩張るザックはバルザック、田原坂に行ったバルザックやりこめられてもうペッシャンコですモーパッサンあれも出来ん、これも出来ん、と言っていては何もディケンズすったもんだで赤か黒かを決めたのがスタンダールあれかこれか決めるのは面倒やと言い続けたキェルケゴール「動物農場」は書いたが「OLの情事」は書かなかったジョージ・オーウェル絶海の孤島で途方に暮れたかに見える、ダニエル・デフォーセルバンテスが破いたセロハンです。どこやぶきお~ってか?(注)どこやぶきお~って=ドン・キホーテはかなり苦しい。こういうのを 業界では「やぶれかぶれ」と言う。トマトケチャップをかけ過ぎたカレル・チャペック毛糸アンデルセン、童話読んでるせん、子供聞いてやせん腹は減るもんでっせとヘルマン・ヘッセどーもスマン、スマン、とトーマス・マン濃霧気に揉むモーム、 モームかぶれ朦昧の輩?目丸くしたレマルク、 西部戦線生ぬるくしたレマルク佐渡の丸木はマルキ・ド・サド?猿捕るとザル取るサルトルは間違っとる一心不乱に右岸走るフランソワーズ・サガン嗚呼無情、出店つぶされる(レ・ミゼラブル)とビクついとる、ヴィクトル・ユゴー(注)出店つぶされる=レ・ミゼラブルも苦し紛れ。こういうのはフランスの 業界用語では「デ・マカセブル」と言う。<参考>言葉遊びシリーズの他の記事はコチラからどうぞ。(枚岡梅林の梅)梅の花 折りも折らずも 見つれども 今夜(こよひ)の花に なほ如(し)かずけり (他田広津娘子(をさだひろつのをとめ) 万葉集巻8-1652)
2013.02.25
コメント(4)
本日も日下周辺の銀輪散歩でありました。 一昨日(20日)に立ち寄ったパンドラの丘から北西に500mほど坂を下った処に在るのが旧河澄家である。河澄家は、南北朝時代の日下連河澄与市大戸清正にまで溯る旧家にて、江戸時代には代々日下村の庄屋を務めたという家柄だそうな。1998年に河澄家から寄贈を受けた東大阪市が市指定文化財として整備保存を続けていたが、2011年5月より一般に公開されることとなったもの。 与謝野晶子らと共に活躍した明星派の歌人、石上露子の母親の杉山ナミは、この河澄家19代当主、河澄雄次郎の娘であったのでした。このことを知ったのも、先日の田◎氏から頂戴したパンフレットの記載からでありましたので、この処の記事は同氏のお陰とも言うべきものであります(笑)。 石上露子(本名、杉山タカ)については以前富田林市寺内町を銀輪散歩した際に記事にしていますので、その関連で言うと今回の銀輪散歩は露子の母方の祖父母の家への訪問ということになります。 <参考>富田林寺内町 2008年7月9日《中央公論新社》松本和男評伝石上露子〈中古〉 「ゆふちどり」ゆきずりのわが小板橋しらしらとひと枝のうばらいづこより流れか寄りし。君まつと踏みし夕にいひしらず沁みて匂ひき。今はとて思ひ痛みて君が名も夢も捨てむとなげきつつ夕わたれば、あゝうばら、あともとどめず、小板橋ひとりゆらめく。(「明星」1907年12月号収載)(旧河澄家入口)(旧河澄家主屋)(土間からクチノマ<左>、ダイドコ<右>を望む。)(土間)(配置見取り図)(棲鶴楼) 主屋西側に付随して建てられた数寄屋風書院造りの建物で、棲鶴楼と呼ばれている。現在の建物は天保6年(1835年)の改築であるが、前身の建物は慶安年間(1648年~1651年)に大坂西町奉行の曽我丹波守古佑(ひさすけ)が隠居するために作らせたと伝えられている。 寛政10年(1798年)日下村に隠棲していた上田秋成(雨月物語の作者)は河澄家15代当主と親交があり、河内、摂津の文人、歌人、俳人が多く此処棲鶴楼に集い、文芸サロンの如き様相を呈していたそうな。(同上)(棲鶴楼から裏庭、蔵を望む)(庭)(日下のかや) 庭園にあるカヤの巨木は樹齢500年、「日下のかや」と名付けられて、東大阪市の天然記念物に指定されている。(庭のカヤの巨木)<参考>旧河澄家 開館時間:午前9時30分~午後4時30分 休 館 日 :月曜日(祝日の場合はその翌日) 祝日の翌日・年末年始 見学無料 電話・FAX 072-981-1640(西隣の祠)(古事記歌碑)日下江(くさかえ)の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなはちす) 身の盛り人 羨(とも)しきろかも (日下の入り江に咲いている蓮の花のように、今が一生の盛り の若い人が羨ましいことです。) この歌碑は、旧河澄家から西へ坂道を少し下った処にある。 古事記の雄略記に出て来る引田部赤猪子の歌である。 以前にもこの歌に関連する話は掲載したので、詳細は下記の参考記事をご参照戴くこととし、説明は省略させて戴きます。 <参考>銀輪万葉・藤井寺界隈(続) 2009.11.23.(日下公園近くの梅) 更に下って行き、少し南に入ると、日下公園の下に紅梅が咲き匂っていました。日下公園は以前に「鯨が泳ぎよる」公園としてご紹介済みです(笑)。 <参考>「♪潮吹く魚が泳ぎよる~」 2009.5.1. 更に下り、東高野街道に出る一つ手前の道に日下貝塚の碑がある。大森貝塚ほどではないが、日下貝塚も結構有名な貝塚なのである。この碑の裏の路地を行った処にあるが、今日は立ち寄らずです。 何やら後頭部の偏頭痛が酷くなって来ました。もう限界。記事はここまでとします(笑)。(日下貝塚の碑)
2013.02.22
コメント(6)
自宅にほど近い枚岡梅林の梅もチラホラ咲き始めました。ということで、今日は天平2年正月13日(730年2月8日)、太宰帥大伴旅人邸で開かれた観梅の宴での歌全32首をご紹介して置きます。 正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば かくしこそ 梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ(大弐紀卿巻5-815)(注)大弐は大宰府の次官。紀卿は紀朝臣男人。梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず わが家(へ)の園に ありこせぬかも(少弐 小野大夫 巻5-816)(注)少弐は大弐に次ぐ官。従五位下相当官。小野大夫は小野朝臣老。梅の花 咲きたる園の 青柳(あをやぎ)は 蘰(かづら)にすべく なりにけらずや(太宰少弐 粟田大夫 巻5-817)(注)粟田大夫は粟田朝臣人。春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)くらさむ(筑前守山上大夫 巻5-818)(注)山上大夫は山上憶良、筑前国守。世の中は 恋繁しゑや かくしあらば 梅の花にも ならましものを(豊後守大伴大夫 巻5-819)(注)大伴大夫は、大伴大伴三依説、大伴首麻呂説、大伴首説などあり不詳。梅の花 今盛りなり 思ふどち かざしにしてな 今盛りなり(筑後守 葛井大夫 巻5-820)(注)葛井大夫は、葛井連大成、筑後国守。葛井広成の兄。青柳(あをやなぎ) 梅との花を 折りかざし 飲みての後(のち)は 散りぬともよし(笠沙弥 巻5-821)(注)笠沙弥は沙弥満誓。わが園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも(主人 巻5-822)(注)主人は大伴旅人、太宰帥(大宰府長官)。梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ(大監 伴氏百代 巻5-823)(注)大監は大宰府の三等官、正六位下相当官、監察・書類の決済などを 担当。伴氏百代は大伴百代。梅の花 散らまく惜しみ わが園の 竹の林に うぐひす鳴くも(小監阿氏奥嶋 巻5-824)(注)小監は大監に次ぐ三等官、従六位上相当官、職掌は大監と同じ。阿氏 奥嶋は阿倍朝臣息島か。梅の花 咲きたる園の 青柳(あをやぎ)を 蘰(かづら)にしつつ 遊び暮らさな(小監土師宿禰百村 巻5-825)(注)土氏百村は土師宿禰百村。うち靡く 春の柳と わがやどの 梅の花とを いかにか分かむ(大典史氏大原 巻5-826)(注)大典は大宰府の四等官の上位、正七位相当官、史氏は史部氏か。史氏大原は不詳。春されば 木末隠(こぬれがく)りて うぐひすそ 鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しづえ)に(小典山氏若麻呂 巻5-827)(注)小典は大典に次ぐ四等官の下位。山氏若麻呂は山口若麻呂。人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いやめづらしき 梅の花かも(大判事丹氏麻呂 巻5-828)(注)大判事は大宰府の司法官、従六位下相当官。丹は丹比氏か。丹氏麻呂は不詳。梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや(薬師張氏福子 巻5-829)(注)薬師は大宰府所属の医師。正八位上相当官。万代(よろづよ)に 年は来経(きふ)とも 梅の花 絶ゆることなく 咲きわたるべし(筑前介 佐氏子首 巻5-830)(注)佐氏子首は佐伯直子首、筑前国府次官。春なれば うべも咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜寝(よい)も寝なくに(壱岐守板氏安麻呂 巻5-831)(注)板氏安麻呂は板茂連安麻呂か。壱岐国守。梅の花 折りてかざせる 諸人(もろひと)は 今日の間(あひだ)は 楽しくあるべし(神司荒氏稲布 巻5-832)(注)神司は大宰府所属の主神。荒氏は荒木田氏か。荒氏稲布は不詳。年のはに 春の来(きた)らば かくしこそ 梅をかざして 楽しく飲まめ(大令史野氏宿奈麻呂 巻5-833)(注)大令史は大判事の書記。野氏宿奈麻呂は小野臣叔奈麻呂か。梅の花 今盛りなり 百鳥(ももとり)の 声の恋(こほ)しき 春来(きた)るらし(少令史田氏肥人 巻5-834)(注)少令史は大令史の下位、大初位下相当官。春さらば 逢はむ思(も)ひし 梅の花 今日の遊びに 相見つるかも(薬師高氏義連 巻5-835)(注)高氏義連は不詳。高氏は高田、高橋、高丘、高向などの各氏または高麗から帰化 した高氏などが考えられる。梅の花 手折(たを)りかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり(陰陽師礒氏法麻呂 巻5-836)(注)陰陽師は天文・気象・暦・時刻・卜占などを司る官。大宰府の陰陽師は正八位上相 当官。礒氏法麻呂は不詳。礒氏は磯部氏か。春の野に 鳴くやうぐひす なつけむと わが家(へ)の園に 梅が花咲く(算師志氏大道 巻5-837)(注)算師は物の数の計算を司る官。大宰府の算師は正八位上相当官。志氏大道は志 紀連大道。梅の花 散り乱(まが)ひたる 岡(をか)びには うぐひす鳴くも 春かたまけて(大隅目榎氏鉢智麻呂 巻5-838)(注)守、介、掾に次ぐ国府の官。榎氏鉢智麻呂は不詳。春の野に 霧立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る(筑前目田氏真上 巻5-839)(注)田氏真上は田辺史真上。春柳 蘰に折りし 梅の花 誰か浮かべし 酒坏(さかづき)の上(へ)に(壱岐目村氏彼方 巻5-840)(注)村氏彼方は不詳。村氏は村上、村山、村国、村君などが考えられる。うぐひすの 音聞くなへに 梅の花 我家(わぎへ)の園に 咲きて散る見ゆ(対馬目高氏老 巻5-841)(注)高氏老は不詳。わがやどの 梅の下枝に 遊びつつ うぐひす鳴くも 散らまく惜しみ(薩摩目高氏海人 巻5-842)(注)高氏海人は不詳。梅の花 折りかざしつつ 諸人(もろひと)の 遊ぶを見れば 都しぞ思(も)ふ(土師氏御道 巻5-843)(注)土師氏御道は土師宿禰志婢麻呂。妹が家(へ)に 雪かも降ると 見るまでに ここだもまがふ 梅の花かも(小野氏国堅 巻5-844)(注)小野氏国堅は小野朝臣国堅。うぐひすの 待ちかてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子がため(筑前掾門氏石足 巻5-845)(注)門氏石足は門部連石足。霞立つ 長き春日(はるひ)を かざせれど いやなつかしき 梅の花かも(小野氏淡理 巻5-846)(注)小野氏淡理は不詳。小野朝臣田守説あり。(枚岡梅林の梅)
2013.02.21
コメント(4)
本日は、銀輪散歩の途中パンドラの丘に立ち寄って参りました。 パンドラとはギリシャ神話に登場する「パンドラの箱」のあの「パンドラ」のことである。 プロメテウスが天界から火を盗み人間に与えたことを怒ったゼウスは人間に災いをもたらすため「女性」を作るよう神々に命じる。泥から作られた女性パンドーラには様々な能力が与えられる(男を苦悩させる魅力もその一つ)。最後に絶対に開けてはならないという箱を持たせて、人間世界へと彼女は送り出され、プロメテウスの弟のエピメテウスと結婚し子供をもうける。或る日、好奇心から、彼女は箱を開けてしまう。すると、箱からは病苦、嫉妬、貪欲、猜疑、憎悪、悲嘆、飢餓、犯罪などあらゆる災いが飛び出すが、最後に残ったのがエルピス(希望)であった。 「パンドラの匣」は、太宰治の小説であるが、これは、太宰治のファンであった木村庄助という青年の病床日記が底本で、彼の遺言により日記の寄贈を受けた太宰がこれを小説に仕立てたのである。 この木村庄助が療養していたのが、生駒山西麓の東大阪市日下町の日下新池畔にあった「孔舎衙健康道場」という結核療養施設で、昭和12年~17年秋頃まで、運営されていたとのこと。木村庄助はこの道場で健康を回復し退院するのであるが、後に病気が再発、病苦から22歳2カ月の若さで服毒自殺している。(日下新池)(同上) 小説では、下記のように書かれていて、東大阪市日下町を思わせる記述はなく、何処か他の架空の土地になっている。「きょうはお約束どおり、僕のいまいるこの健康道場の様子をお知らせしましょう。E市からバスに乗って約一時間、小梅橋というところで降りて、そこから他のバスに乗りかえるのだが、でも、その小梅橋からはもう道場までいくらも無いんだ。乗りかえのバスを待っているより、歩いたほうが早い。ほんの十丁くらいのものなのだ。道場へ来る人は、たいていそこからもう歩いてしまう。つまり、小梅橋から、山々を右手に見ながらアスファルトの県道を南へ約十丁ほど行くと、山裾に石の小さい門があって、そこから松並木が山腹までつづき、その松並木の尽きるあたりに、二棟の建物の屋根が見える。それがいま、僕の世話になっている「健康道場」と称するまことに風変りな結核療養所なのだ。」 【送料無料】パンドラの匣 〔 太宰治 ] 価格:1050円(税込、送料込) この場所が「パンドラの匣」の「健康道場」のあった場所だということを発見されたのは京都在住の医師で太宰治研究家でもある、浅田高明氏とのこと。<参考>大正時代の日下遊園地-日常旅行日記-木村庄助・Wikipedia 「河内文化のおもちゃ箱」掲載文 -「太宰治『パンドラの匣』の舞台は孔舎衙健康道場だった」- この発見を機に、現在は、この日下新池畔の丘を「パンドラの丘」と名付けて、地元の方々によって毎年2月に植樹会が行われている。(パンドラの丘)(同上)(パンドラの丘植樹参加者募集ポスター) 小生がこの「パンドラの丘」という名を知ったのは、先月28日の健人会の新年会(2013年1月29日の日記参照)で神戸市ご在住の田◎氏から頂戴した「まんぽけい(No.145)2013年1月号 文学・歴史ウォーク(90)」というパンフレットからでありました。地元にいながら「パンドラの丘」のことを神戸の方から教えて戴くとは、まだまだ精進が足りませんですな。 この日下新池の畔にはヒトモトススキの碑が建っています。(ヒトモトススキの碑<但し、写真は2012年5月撮影のもの。>) ヒトモトススキは海岸べりに生えるススキ科の植物で、この付近まで海であったことを示す証拠として、東大阪市の天然記念物に指定されているが、近頃は余り見掛けない。 パンドラの丘を歩いていると「弁天堂160m」という小さな標識。矢印の示す方向に行ってみることに。細い九十九折の山道を登って行く。(弁天堂) 由緒などは知らぬが、小さなお堂が山中にひっそりとありました。日下新池には何度も来ているが、この弁天堂は多分初対面だと思う。(同上)(同上)
2013.02.20
コメント(6)
言葉遊び・古典篇 古典で如何に言葉遊びをするのか、それが問題でありますが、今回はとっつきやすい処で、古典作品に姉妹本がもしあるとすれば・・という観点から遊んでみることと致します。 あったら面白いかも、という観点を入れて何となく語呂も似ているというのを姉妹本の条件にしてみました。読んでみたい姉妹本はありますでしょうか?(姉妹本の部)1.竹取物語の姉妹本 竹取物語のヒロインは「かぐや姫」。 この姫様はそこいらを嗅ぎ回る癖があった訳でもなく、家具屋の姫様であった訳でもない。古代の言葉で「かぐはしい姫様」と言うことで、輝くばかりに美しい姫様、という意味であったのですな。「匂ひ」もそうであるが、視覚的なものと嗅覚的なものが未分化であったのが、時代の経過と共に分化し、主として嗅覚的なものを指すように変化したということであるのでしょうか。 (注)イザナミが最後に産んだ火の神の名はカグツチであるが、このカグ とかぐや姫のカグとは同じ言葉でしょう。また「輝く」はカグとヤクが くっついた言葉であるのでしょう。ヤクは「若やぐ」「華やぐ」などの 「ヤグ」と同じである。 さて、この竹取物語の姉妹本とそのヒロインの姫様をご紹介することと致しましょう。虫取物語・虫籠や姫、鮭取物語・ひぐま姫、陣取物語・囲碁や姫、点取物語・塾や姫、 塵取物語・掃くや姫、金盗物語・空巣や姫、鳥取物語・砂丘や姫、面取物語・家具屋姫、尻取物語・つぐや姫、裏取物語・デカや姫、刈取物語・鎌や姫、 星取物語・相撲や姫、渡鳥物語・鴨や姫、 国盗物語・司馬や姫、名取物語・家元や姫、借金取物語・高利や姫、手取物語・税引き後や姫2.伊勢物語の姉妹本 伊勢物語は1番が伊勢物語で、以下2番から10番まで続編の物語があるということは余り知られていない。伊勢物語の主人公は在原業平とされるが、2番以下の物語にもそれぞれ主人公がいます。 (1)伊勢物語<在原業平(ありはらのなりひら)> (2)贋物語<贋金偽札(にせがねのにせふだ)> (3)店物語 <売物安平(うりもののやすひら)> (4)寄席物語<笑腹痛平(わらひはらのいたひら)> (5)御所物語<大君坐平(おほきみのますひら)> (6)無税物語<取立無平(とりたてのなきひら)> (7)七癖物語<女癖悪平(おんなぐせのわるひら)>(8)痩せ物語<太腹胆平(ふとっぱらのきもひら)> (9)旧姓物語<前姓之平(まへのなはこれひら)>(10)東征物語<熊野行平(くまのゆくひら)>3.源氏物語の姉妹本 源氏物語はさすがに姉妹本も沢山あります。主人公は全て「何とかの源氏」であるが、「光源氏」との関係が未だ解明されてはいない。 ゲン爺物語<禿げる源氏>、返事物語<ハイの源氏>、 変事物語<慌てる源氏>、変人物語<付き合いに困る源氏>、 原人物語<北京じゃわ源氏>、賢人物語<さとる源氏>、 先人物語<死んでる源氏>、天神物語<祟る源氏>、 園児物語<はしゃぐ源氏>、臙脂物語<茶色でもない源氏>、 犬氏物語<棒に当る源氏>、検事物語<起訴する源氏>、 判事物語<裁く源氏>、万事物語<窮する源氏>、 戦時物語<欲しがらぬ源氏>、宣旨物語<のたまう源氏>、 千字物語<数える源氏>、点字物語<さわる源氏>、 展示物語<見せる源氏>、年次物語<アニュアル源氏>、 言辞物語<弄する源氏>、現時物語<リアル源氏>、 ペン字物語<書ける源氏>、レンジ物語<温める源氏>、 チェンジ物語<変る源氏>、ベンチ物語<すわる源氏>、 電磁物語<デジタル源氏>、幹事物語<世話する源氏>、 三時物語<おやつ食べる源氏>、汝物語<オレオレ源氏>、 暫時物語<ちょっと間の源氏>、難事物語<困る源氏>、 何時物語<分らぬ源氏>、何字物語<定まらぬ源氏>、 難字物語<読めぬ源氏>4.平家物語の姉妹本 平家物語は「平家にあらずんば人に非ず」という隆盛を誇った平家の栄枯盛衰を通じて諸行無常を説いているが、姉妹本の物語にも、似た文句が登場する。 大家物語<大家にあらずんば家賃取るべからず>、 在家物語<坊主にあらざるも経を読むべし>、 平屋物語<二階あらざれば二回読むことも非ず>、 平気物語<平常心あらざれば事はならじ>、 併記物語<ついでの事にあれば付記にとどむべし>、 景気物語<よくならざれば賃上げもあらじ>、 計器物語<狂いあれば使い物にならじ>、 契機物語<逃がすにあらざれば何とかなるべし>、 刑期物語<勤め果たさざれば出所もならじ>、 お池物語<巡るにあらざれば名月を見ることあたはじ>、 小池物語<小にあらざれば大と言ふべし>、 提携物語<技術あらざるも業務または資本にて可なり>5.今昔物語の姉妹本 蒟蒻物語、倹約物語、癇癪物語、短冊物語、寸借物語、 点訳物語、暗躍物語、三尺物語、粘着物語、先着物語、 半額物語、反逆物語、衰弱物語、三百物語、困惑物語6.源平盛衰記の姉妹本 懸命憔悴記、厳正中立記、検便小水記、短兵急過記、 偏平足歩記、月餅食過記、減免申請記、減俸処分記、 減給始末書記、緩急自在記、減刑嘆願記、源泉徴収記、 源泉掛流記、頑迷固陋記、顔面神経痛記、減塩制圧記、 扁桃腺炎記、弁当持参記7.大和物語の姉妹本 甘党物語、今里物語、絵馬堂物語、お里物語、竈物語、 傷跡物語、靴跡物語、毛絲物語、小窓物語、トマト物語、 寝言物語、曾孫物語8.蜻蛉日記の姉妹本 カゲ口日記、掛けろ日記、賭けろ日記、駆けろ日記、 考えろ日記、歓迎しろ日記、監禁牢日記、勘三郎日記、 缶蹴ったろう日記9.土佐日記の姉妹本 父さん日記、倒産日記、杜撰日記、うそ日記、当座日記、 補佐日記、猛者日記、土砂日記、鳥羽日記、賭場日記、 土間日記、徒過日記、咎日記、外様日記、戸棚日記、 頓挫日記10.十六夜日記の姉妹本 今様日記、板長日記、気障なんだよ日記、気立て良い日記、 家建てよう日記、イカサマよ日記、椅子だけよ日記、 糸ようじ日記、嫌な奴よ日記、烏賊用日記、医者用日記、 医者酔ふ日記、胃潰瘍日記、医者通ひ日記、膝痒い日記、 痛痒い日記、ミサ用日記、姉様用日記、妹さ迷ふ日記、 イカ玉よ日記、鄙良い日記、船酔ひ日記、二日酔い日記11、堤中納言物語の姉妹本 包み隠さず綴ったもん物語、トヨタ中型ワゴン物語、 四六時中無言物語、遂に臨終遺言物語、 ついつい洩らすっちゅう他言物語、 ついつい言い過ぎるっちゅう過言物語、 武士にはないっちゅう二言物語、堤睡眠中寝言物語、 堤中学ママゴン物語、海中ジュゴン物語、栽培中大根物語、 五里霧中泣言物語、針小棒大空言物語、空中分解物語<参考>言葉遊びの他の記事はコチラからどうぞ。(源氏物語回廊・六条院 2008年10月石山寺にて撮影)
2013.02.18
コメント(6)
偐万葉・英坊篇(その18) 本日は、偐万葉シリーズ第166弾、英坊篇(その18)をお届けします。今月5日に(その17)を掲載したばかりですが、長い「替え詩」と言うか戯れ歌が入りましたので、字数が一気に増え、早くも掲載基準に達したという次第。 <参考> 過去の偐万葉・英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が作れる歌8首併せ俳句3句及び替え詩1編 並びに英麻呂が作れる歌7首併せ俳句4句石走る 垂水のあれる 石なれば 走り行きても 見たくこれあり (石皇子(せきのみこ)) (本歌) 石走る 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる 春になりにけるかも (志貴皇子 万葉集巻8-1418) 高岡偐治篇「雨ニモ負ケズ」 雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な銅の体を持ち 欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日何回かゲートの鎖を持ち あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく出入りを監視し そして忘れず ビルの裏の陰にいて 東に病気の子供あっても 行って看病してやらず 西に疲れた母があっても 行ってその稲束を負ってやらず 南に死にそうな人があっても 行ってこわがらなくてもいいと言ってもやらず 北に喧嘩や訴訟があっても つまらないから止めろとも言わず 日照りの時でも汗も流さず 寒さの夏もおろおろ歩いたりせず みんなに日影の坊主と呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず ただ、ゲートの番をしている そんな坊主で わたしはあっていいのだろうか。 英麻呂が贈り来れる歌2首道道を イズムイズムを 考えて 前見ず歩き イズミに嵌り折角の 言葉遊びを 読みつつも 上の一句で 括る苦しさ 偐家持が返せる歌1首むずむずと 泉の如や イズム湧き イズムの泉に われもはまりき 英麻呂が贈り来れる歌1首枯れしらず 湧き出ることば かみしめば なるほどもあり こじつけもあり (失礼麻呂) 偐家持が返せる歌1首あれやかれ これやかれぬか ことの葉に だれもかれもや かけて遊ばめ 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 万葉の 雄略の歌碑に 再掲礼 (英麻呂) はつ瀬のおっかぁ かひたたきつつ (偐家持) (注)「再掲礼」=「再掲示に礼」と「最敬礼」とを掛けている。 「はつ瀬のおっかぁ」=「初瀬の丘」と「初瀬のおっ母」を掛けてい る。 「かひたたきつつ」=「歌碑叩きつつ」と「買ひ叩きつつ」を掛けて いる。 英麻呂が贈り来れる歌1首併せ俳句1句 柿くへば 餓鬼も欲しがる 渋茶かなどうせなら 犀の肉をも 食べたいと 白菜を煮る 妻はのたまふ 偐家持が返せる歌1首サイならば ヤサイにせよや さいさいに 野生のサイは 食へぬと言ふに (サイ保護監視員)越(こし)に来(こ)し 紙の鶴群(たづむら) 見よとかも 鶴(たづ)たづさへて 背子も舞ふらし (偐鶴持) 英麻呂が贈り来れる歌1首囲碁勝負 負けてなるかと 闘志だし 念が通じて 恵比寿顔 (英麻呂) 偐家持が返せる歌1首マクベスも 負ければ悔し しかあれど 精進なくて いごまた負けぬ (負けベス) (注)「マクベス」は「負け」の枕詞。 「いご」は「以後」と「囲碁」の掛け詞。 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 鳥どりに 行けばお酒を 勧められ (英麻呂) 呑めよ呑めぬの やりとり難儀 (偐家持) 英麻呂が贈り来れる歌2首鳥どりの 歓楽街の 華もいい その倍もいい 里山の花 (黙想の麻呂) (注)鳥どり=大阪市北区、北新地にある居酒屋の名日本には チョコなど無くて いいんだよ 我はもらえぬ ええ~んええ~ん (anti-Valentine) 偐家持が返せる歌2首里山も 新地の花も 散るものぞ 散らぬ常(とこ)の葉 立花(たちばな)まつわれ (偐家松) (注)立花まつ=「橘・松」と「断ち花・待つ」とを掛けている。ちょこまだか いふはをこなり チョコなんぞ しょこだも欲しき ものにあるべきや (ショコラ郎子(いらつこ)) (注)ちょこまだか=「チョコ未だか」と「ちょこまかと」を掛けている。 をこ=愚か しょこだも=「ショコラも」と「ここだも」(大層に、とても、大変 に、の意)を掛けている。 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 なすトマト じゃがいもキウリ カレーの具 (英麻呂) これ華麗なる 一族ならむ (偐家持)(注)掲載の写真は英坊3氏のブログからの転載です。
2013.02.17
コメント(4)
言葉遊び・イズム篇(5) 本日は雨。雨のすさびは言葉遊び。皆さまは既にうんざりの「イズム篇」であります。イズム世迷い言・用語解説であります。スタティズム(statism):エタティズム(etatism)とも呼ばれるが、経済的目的や社会的目的の達成のために国家権力を使うべきとする主張である処から国家主義と訳される。キャピタリズムともソシアリズムとも結びつくことができるように、この考え方自体は特定の価値観を内包するものではない。手段、方法についての考え方に過ぎない。従って、この考え方に同調する者が必ずしも価値観を共有しているとは限らないので、常にスッタモンダが付きもの。それでスタティズムと呼ばれる。これに対して、国家権力を利用して「得た物」の大きさで、この主張の有効性が測られることとなるという側面からの命名がエタティズムである。フェデラリズム(Federalism):連邦制をとる国家にあっては、州政府よりも連邦政府を支持する、優先するという考え方であり、非連邦制国家にあっては、地方政府に州政府並の権力を与えるべきという分権主義の考え方となるという、分り難い主義である。こういう両面性のある考え方を理解するのは「ふえで(不得手)だなしぃ~」と会津の人達が言い出したことから、フエデダナシズムと長らく呼ばれていたが、他地域に伝播するに伴い、いつしかフェデラリズムに変化したものである。我が国の道州制論者もフェデラリストと言うべきであろう。まあ、腕の悪い料理人はとかく容器や食材に文句を付けたがるものなので、誤魔化されてはいけないのではある。ナショナリズム(nationalism):名前・場所を同じくする集団の団結・自治・縄張りを主張するという形で始まったのが、この思想の原点であったが、社会経済活動の発展と共に段々にその単位となる集団の規模が大きくなり、現在では国家や民族が単位であると考えられている。そんな処から、その視点の置き方や前後の文脈によって、国家主義、民族主義、国粋主義、国民主義など様々な訳が使われるが、元々は「名が一緒、場所が一緒の者達で縄張りを主張する主義」であったのである。従って、この縄張りが侵されると、たちまちこの縄張り主義の本能が目を醒ますこととなるのは、尖閣諸島のケースでも明らかな通りである。これが対外膨張主義と結び付くと中国のように他国の縄張りにまで自国の縄張りを主張するという、縄張り拡大主義に走ることになるのである。スープラナショナリズム(supranationalism):超国家主義とも訳されるが、国際連合などの国際機関が国家の上位にあって権限を行使すべきであるとし、美味いスープならどの国の人も美味いと言うのと同じように、これが普遍的な真理であるとする主張。しかし、スープの喩えが悪いとしてシチュー派や味噌汁派は勿論、スプ派、ズッペ派、ソパ派、タン(湯)派、果ては、ブイヤベース派、ヌードルスープ派などからも異論が出されて、なかなかスーッとは行かないのが、この主義の難点である。ウルトラナショナリズム(ultranationalism)も超国家主義と訳されるが、これは国家にウルトラマン並みの権限を与えるべきというウルトラマン世代の主張で、内容はは全く逆の全体主義・ファシズムに近いものである。まあ、ウルトラマンも一種のファッションであるから、両者が近似するのも自然なことではある。インペリアリズム(imperialism):帝国主義と訳される。レーニンの著書「帝国主義論」に由来する命名とされるが、レーニンのフルネームがウラジミール・イリイッチ・レーニンで「ウラに意味ある・いちびり(注)の・例の御仁」という意味であるように、ウラの意味は、「隠蔽(インペイ)された現実(リアル)」という意味である。レーニンは、現実を隠蔽して狡猾な手段で近づき、チャンスとあれば、露骨に武力を行使することも憚らずに、貪欲に他国を植民地にしてしまうというのが、独占資本主義国家の真の姿であり、最終段階の姿であり、これが帝国主義国家なのである、と言っている。 (注)いちびり=関西弁でオッチョコチョイ、ふざけ屋を意味する言葉。 レーニンは、このことから一説では大阪は河内の出身 ではないかとも言われている。アナーキズム(anarchism):これは「莫」としたことしか言わないというので却って一目置かれることとなったという人物、バクーニンの言葉「穴あき(アナアキ)政府は要らん」という言葉から名付けられた主張である。政府は不要とする思想であり、無政府主義と訳される。しかし、政府以上にこの思想の方が穴だらけだったので、すぐに行き詰まってしまうこととなった。同調したクロパトキン氏はそれで「クロウしたばってん」とキンキン声で言うのが晩年の口癖だったので、バク氏も今は「穴があったら入りたい」と言うて居るそうな。レイシアリズム(racialism):これは、思想ではなく、人種によって差別することを言い、人種差別、民族差別などと訳される。他人種、他民族への偏見からこれを冷視(レイシ)することから、レイシあるイズム、レイシアリズム(レイシャリズム)と呼ばれる。差別される側からはブレイシャリズム(bureicialism)、無礼者主義とも呼ばれている。ミリタリズム(militarism):軍隊の組織形態や規律によって国家が運営されることが国家の理想像とする考え方で軍国主義と訳される。国民の一人一人にまで、軍の規律を浸透させようとする主義で、服装ひとつにもミリ単位で統制を加えることから、ミリ単位主義、ミリタリズム、というのが語源である。これに対してミリ単位の統制は行き過ぎだから、センチ単位に緩和すべきということを主張する修正主義のことをセンチメンタリズム(centimentalism)と言い、その人達をセンチメンタリストと呼んでいるが、勿論感傷的になり勝ちなセンチメンタリスト(sentimentalist)とは何の関係も無い。ヘレニズム(Hellenism):ギリシア神話に登場するヘレーンはギリシア人の祖先とされ、ギリシア人は自らをヘレネスと称している。このことから、ヨーロッパ文明の源流となる古代ギリシア的要素をヘレニズムと言う場合もあるが、一般的には古代オリエントとギリシアの文化が融合したギリシア風の文化のことを言うとされる。ところで、これが我が国に入ってケレニズム(Kellenism)となり、「けれんみ(外連味)」という言葉が生まれた。けれん味とは元々義太夫の世界で他流の節で語ることをいい、「正統でない」、「邪道である」、といった意味を持っていたが、それもその筈、他流も他流、ヘレニズム風、ギリシア風に「語る」ことであったのである。やがて誤魔化したり、ハッタリをきかせたりすることを意味する言葉へと変化したのである。近年ギリシアが財政危機に陥っているのは、ハッタリを張り過ぎたことによるとも言われているが、「けれん味」の本国だけに致し方のないことであるとする学者もいる。ベジタリアン(vegetarian):これは菜食主義者と訳されるように「思想」と言うより食べ物の「嗜好」である。まあ、宗教的・思想的な観点から菜食主義者となる者もあるから一概に「嗜好」とも言いい切れない面もある。これから派生して地べたに座り込む人達を揶揄してジベタリアンなどと呼ぶことも一時流行ったが、学問の世界でジベタリアンと言えば「字の下手な人達」のことを言う。これは何であれ下手な人、へたれ、根性なし、をヘタリアン(Hetarian)と呼ぶことから派生した名称である。これから派生した言葉で同様のものにクチベタリアン(Kuchibetarian)があり、これは、口下手な人のことである。こういうヘタリアン(Hetarian)でも、何かの具合で急に上手くなったり、偶々うまく行ったりすることがある。このような場合、その人のことをシテヤッタリアン(Shyteyatarian)と言うのである。 <参考>言葉遊びシリーズの他の記事はコチラからどうぞ。(智麻呂画:「凡鬼農園野菜」<再掲>)
2013.02.15
コメント(4)
昨日13日は囲碁例会の日。この日もその後に会食の予定が入っていたのでMTBは置いて電車で出掛けました。 囲碁の方は青◎氏、福◎氏、平◎氏、荒◎氏、村◎氏と小生の6名の出席。青◎氏と2局して2勝、その後平◎氏、荒◎氏に負けて2勝2敗。可もなし不可もなしのフカ(鱶)でありました。しかし、今年に入ってからの成績は3勝7敗と大きく負け越していますので、「蒼ざめた馬」ならぬ蒼ザメたサメ(鮫)でしょうか。(梅田スカイビルの里山、花野の菜の花) 梅田スカイビルの里山には菜の花が今を盛りと咲いて春気分。梅田なるに梅ではなく菜の花でありましたが、そもそも「梅田」は「埋め田」であって、梅は当て字なれば、菜の花でもいいのでありますな。 何でもこの里山をつぶして何か他のものにする計画があるとかいう話を聞きましたが、小生としてはこの里山が無くなってしまうのはとても残念なことであります。 さて、囲碁例会の後の会食というのは友人のオガクニマン氏を中心とする人達の情報交換会兼新年会のことであり、先般オ氏より、「下界に降りて来ないか」とのお誘いを受けての参加であります。美辞ともbusyとも無縁の世捨て人ヤカモチには似合わぬ会合かとご辞退申し上げようとしたら「そんな大層なものではない。適当に集って適当にダベって食って呑むだけのもの」だからどうぞとのこと。まあメンバーをお聞きすると懐かしいお方の名もありなので覗かせて戴くこととしました。このグループとしては今年初めての例会とのことで言わばこのグループの新年会とも言うべき今回の集りでありました。 北区桜橋にあるビルの一室に集合して暫し「情報交換会」という座談タイム。好き勝手なお喋りの後、北新地の「鳥どり」という店に移動しての懇親パーティ。2カ月に1回のペースでこのような例会を持って居られるとのこと。ということは偶数月に開催されているということでありますから奇数月に開催される大相撲とは何の関係も無いということになりますかな(笑)。(新年会の会場となった北新地の店「鳥どり」) 出席者は上述のオ氏の他、沖◎氏、東◎氏、山◎氏、石◎氏、久◎氏、ここまでは、小生と同じ会社で仕事をした仲間であるので、久々の懐かしい顔合わせでありました。秋◎氏、森◎氏、石◎JR氏は初対面。小生を加えて丁度10名でありました。かなりフレキシブルな集りのようで、案内はオ氏の方から発信されているようですが、出欠は取らずで蓋を開けてみないと誰が来るのか分からないという。多い時は20名位にはなるというから、今回は出席が少ない例会であったということになります。 秋◎氏はオ氏の大学時代の同級生、森◎氏もオ氏のご友人とのことでありましたが、オ氏の「悪徳不動産屋や」という紹介の言葉の方が頭に残って、関係性については記憶から飛んでしまっています。石◎JR氏は石◎氏のご子息にて、建築設計事務所をやっておられる好青年。いずれも立派な実業家、偐万葉世界とは無縁の方々であります(笑)。玉くしげ 開けても見ねば わからねど 明けてをしまぬ どちぞつどへる (偐家持) (注) 玉くしげ=玉櫛笥で、櫛を入れる箱のこと。万葉では、ふた(蓋、 ニ)や、見る、などに係る枕詞として使われる。ここで は「開け」の枕詞として使いました。 をし=「惜し」で「オ氏」と掛けている。ヤカモチ的には「惜し まぬ」ではなく「懲りぬ」であるが、新年会でもあり、 オ氏に敬意を表して置きました。 どち=友、仲間のこと。 まあ、何にせよ懐かしき友人諸兄がお元気に頑張って居られるご様子を拝見することができたのは、とても愉快なことでありました。 小生の新年会もこの遅過ぎた、バレンタイン・イヴの新年会を以って、「打ち止め」と相成ります。
2013.02.14
コメント(6)
第114回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。智麻呂絵画ファンの皆さま長らくお待たせ致しました。どうぞ、ごゆるりとご入場ご鑑賞下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(サネカズラ) これは小万知さんのお家の庭のサネカズラです。読書会の折に智麻呂さんの画材にとお持ち下さったものかと思います。 サネカズラはサナカズラ、ビナンカズラとも呼ばれるが、万葉にも登場する植物でもあれば、ヤカモチ館長も話題に欠くことありませんので、先ずこの絵を冒頭に持って参りました。こういうのを我田引水ならぬ「我館サネカズラずら」というのでしょか。 では、サネカズラの万葉歌をご紹介申し上げます。玉くしげ みもろの山の さなかづら さ寝ずは遂(つひ)に ありかつましじ (藤原鎌足 万葉集巻2-94)(訳)玉櫛笥(たまくしげ)を開けて見る、その「み」ならぬ「みもろ山」のサナカズラでは ないが、さ寝ずには(あなたと共寝をしないでは)いられません。 この歌は鏡王女の下記の歌に返した歌である。鎌足が鏡王女の家に求婚にやって来て、それを断る彼女に鎌足が「共寝せずには帰れない」と迫っている処と言われているが、こういうやり取りが何度もあると、鎌足はストーカー規制法で勧告を受けることとなりますな(笑)。しかし、歌には何やら「軽み」が感じられなくもないから、宴会での冗談半分のやり取り歌と考えてもいいのではなかろうか。玉くしげ 覆ふをやすみ 明けていなば 君が名はあれど わが名し惜しも (鏡王女 万葉集巻2-93) (訳)玉くしげの蓋を覆うのがたやすいのでと、簡単に開けるように、明け てからお帰りになっては、あなたの名はどうあれ、私の名に傷がつ くのが惜しゅうございます。(どうぞ早くお帰り下さい。)(干し柿) この干し柿、なかなか味がありますね。ヤカモチはこの干し柿味わってはいませんから、柿の味のことでは勿論なく、絵の味わいのことであります。 この干し柿は、記憶違いでなければ、和郎女さんがご自宅で干して居られたのをお持ち下さったものかと。この絵は珍しく下書き段階で撮った写真もありますので、下に掲載して置きます。(上の「干し柿」の下絵)(干し柿B) 干し柿Bは、ヤカモチが読書会のデザートに持参したもの。こういう場合の絵は自画持参と言うのでしょうか。自画ではなく柿画ですから、持参柿画と言うのが正しいようですな。 柿くへば ガキもほしがる 放浪爺 (筆蕪蕉) 干し柿では、法隆寺の鐘も鳴らず、餓鬼が欲しがるだけということのようでありますな。(白菜A) これは凡鬼さんが栽培された白菜。 凡鬼さんの野菜は、いつもいつも、とても立派です。 白菜に似て非なるもの、吐くサイ。履くサイ。掃くサイ。剥ぐサイ。 もひとつ綺麗な言葉が浮かんで来ませんな。このサイはアジアサイとかアフリカサイとか言う、あの「サイ」のことで「ウチのサイ」とか言うあの「妻」では勿論ありませぬ。こういうのを「再確認」と言いますが、ビジネスの世界ではこれがかなり重要な場合がありますな。 上の「サイ」の駄洒落、もひとつだったので、コメント追加です。 白菜吐くサイ、白菜煮るサイ(妻)。 「白菜煮る妻」は「白(シロ)サイ似る妻」とも書けますが、これは「サイ」に失礼ですな。「どっちのサイに失礼?」「そんなこと恐ろしくて言えません。」 こういうシーンでは「再確認」は「命取り」になります。(白菜B)(焼き芋) 上は先日(1月30日)、智麻呂邸を訪問した際に、先客の偐山頭火さんが持って来て居られたお饅頭と焼き芋のうちの焼き芋ですが、よく見ると何やらPR文言まで書いてある。ということは、焼き芋そのものではなく、包み紙の絵から絵にされた可能性がありますな。こういうのは焼き芋だけに「焼き直し」と言うのですかね? 下は、その折にヤカモチが持参した三笠饅頭であります。値ガサは張らずにカサが張るから、ミカサです。(三笠饅頭) 次は水仙の絵3点です。 水仙は智麻呂さんのお好きな花ですから、3枚も描かれたのかと思いきや、恒郎女さんのお話によると、他に画材がないので、「仕方なく水仙ばかりを描いている。」とのことで、昨日(12日)お訪ねした時には、もう1枚描き始めの水仙がありました。(水仙A)(水仙B)(水仙C)水仙を 描き過ぎたらば ナルシスト なると見ゆらむ 梅ぞ描きたし (偐智麻呂) どうやら、そろそろ梅を描きたくなって居られたようで、偶々立ち寄った店で枝垂れ梅の苗木で既に花を咲かせ始めているのが売られていましたので、ヤカモチこれを買い求め、お土産にお持ちしました。次回智麻呂展では梅が咲くことになるでしょう。 さて、本日の作品10点を加えて、これまでに当ブログ絵画展に掲載された智麻呂絵画総点数は997点となりました。次回展で1000点を超えることになります。何の絵が1000点目になるか、皆さま予想して下さいませ。 では、これにて、お開きであります。 本日もご来場有難うございました。
2013.02.13
コメント(13)
言葉遊び・イズム篇(4) 「まだやるの?」と苦笑されているお顔が浮かびますが、懲りぬヤカモチは今日もイズミストの「偐is持」であります。アブソリュート・モナーキズム(absolute monarchism):雄略天皇の時代、天皇が吉野の奥で狩をしていた時、虻が天皇の手を刺した。するとトンボがその虻を食って飛び去った。天皇はトンボまでもがワシに忠誠を尽くして居ると大層に満足した、という話が日本書紀(雄略天皇4年8月条)に出ているが、この故事に因み、世界各国の君主は雄略の如き偉大な支配者になりたいと考えるようになり、「アブ刺そうナンテトンデモナーキこと」という雄略の言葉が流行した。しかし、雄略は言葉を省略し過ぎるとして雄略天皇と呼ばれた程の天皇であるから、彼の言葉が聞き取り難いものであったこともあってか「アブソリュートモナーキー」と間違って伝えられたのであった。そして、この言葉は意味不明ながら、君主・支配者は絶対的な権力を持つべきとする西欧の思想を象徴する言葉となり、現在も絶対王制、絶対君主制のことを西欧ではこのように呼んでいるのである。モナーキズム(monarchism):時代が進むと、上のabsolute monarchismという呼称は長ったらしくてダサいと考える君主、特に若年層の君主に増えて来た。彼らは絶対的な権力までは必要としない、君主の地位さえ保証してくれれば実態はどんなものでもよいと考えるようになったのである。君主制も単なるファッションになってしまったのである。また、本来の雄略天皇や虻のことなど知らぬ世代でもあるので、アブソリュートという言葉を捨てることに躊躇いはなかったのである。その結果、その実態にかかわらず、見かけが王制、君主制であれば全てモナーキーと称されることとなった。この観点から、象徴天皇制をとる我が国もモナーキズムの国に分類する学者がいる位である。ツァーリズム(czarism):帝政ロシアの絶対君主制のこととされる。アブソリュート・モナーキズムという言葉がモナーキズムに短縮された経緯は上で述べたが、これが西欧からロシアへと伝わる過程で更に省略が進み、単なる「叫び声」の「ツァー」に縮んでしまったのである。偶然にもロシア皇帝の称号も「ツァー」という同じ音であったことから、絶対王制のことをツァーリズムと呼称することがロシアでは定着することとなった。雄略天皇の省略癖が、虻もトンボも消え失せ、単なる「叫び声」の擬音にまで変容するという、名称の格下げを招いたことになる。ロシア革命はこの名称の「格下げ」に起因し、もし、アブソリュート・モナーキズムという由緒正しい名称が使用されていたならば、ロシアは日露戦争にも負けず、革命も起ることはなかったと説く学者もある位である。リパブリカニズム(republicanism):これはピーマンやパプリカなどを好む多数の一般人民によって政治は行われるべきという主張である。元はリパプリカニズムであったが訛ってリパブリカニズムとなったもの。 昨日や明日はどうでもいい、今日が大事なのだと主張されることが多く、「今日は主義」または「共和主義」などとも訳される。最近では、ピーマンやパプリカに限らず、人参、大根、その他の野菜や肉類や魚を好む人たちも政治運営に関わるべきであると主張され出しているので、リパブリカニズムではこれらの人たちを包摂したものではない処から「共和主義・共和制」の訳の方が優れているとされる。更に芋や果物や穀類を好む人まで加えるとデモクラシーと殆ど変らなくなる。プルトクラシー(plutocracy):商談など交渉事は押したり(push)引いたり(pull)することが大事であるが、総じて人は押す方は得意であるが、引く方は不得手である。引くことに長けている人は商談をまとめることも上手で、事業の成功者はプルに長けた人であることが多い。それで、成功者はいつしかプリストと呼ばれるようになり、プリストには富豪も多くいたことから、やがてプリストは富豪のことを指すようになる。これら富豪に政治は任せて置けばよいとするのがプルトクラシーである。金権政治・金権主義・富豪政治と訳されるのはその実態面を捉えてのものである。ポリアーキー(polyarchy):ナポリ、チボリ、日暮里、道頓堀など、ポリ、ボリ、ホリの付く地名の町の代表者・頭目が集団で政治を行って行くのがいいという主義、またはその考え方で形成された国家体制のことをポリアーキーという。ボリアーキー(bolyarchy)とかホリアーキー(holyarchy)と呼ぶ学者もあるが、ポリアーキーと呼ぶのが一般的である。各地区から集まった頭目の数が結構多いことになるので、多頭制などと訳されることがある。古代ローマ帝国で二頭政治とか三頭政治と呼ばれたものも多頭制に含むかどうかは見解が分かれているが、多い少ないの判断は人それぞれであるから、複数であれば全て多頭制と言うべきであろう。オートクラシー(autocracy):これは独裁制、独裁主義などと訳されるが、独裁者に任せて置けばオートマチックに政治はなり行くという考え方。有能な王(独裁者)と暮したい、という一般民衆の声がある、というのがこの名の由来であり、この思想の根拠でもあるが、有能でない王も、「この声がある。」と言い兼ねないのがこの制度・思想の弱点であり、そもそも何を以て有能・誠実と言うかが難しく、また有能で誠実な人も王になると有能でも誠実でもなくなってしまうという人間の愚かしさに対する考察に欠けるとする批判もある。アリストクラシー(aristocracy):独裁制のオートクラシーが「王と暮したい」を語源としたように、貴族制は「アリスと暮したい」を語源とする。このアリスとは「如何なる女性か」などと考えるのは下司の勘ぐりである。有栖川宮家から分離独立して臣下に降った藤原有栖麻呂という貴族がいたが、彼が藤原摂関政治の生みの親とされる。この藤原摂関政治こそ理想の政治形態と考え、貴族によって政治は行われるべきとする主張が貴族主義である。有栖麻呂の名に因んで貴族のことをアリストと呼んだことが、貴族制、貴族主義をアリストクラシーと呼ぶ由縁である。ロガリズム(logarithm):これは数学の対数である。ヤカモチはこのロガリズムの辺りから微積分にかけて数学が苦手科目となったので、これに解説を加えることには、いささか面映ゆいものを禁じえないのであるが、対数とは計算の便宜上考案された数であって、アンチ・ロガリズム(anti-logarithm)が真数と訳されるように、対数それ自体は実態のないものである。この点では多くの政治思想と共通する。また、常用対数、自然対数、二進対数、余対数、ネイピアの対数、ビュルギの対数などと色んな性格のものがあるという点でも同様である。しかし、そもそもロガリズムという名は「イ」がいいか、「ロ」がいいか、「ハ」がいいかという議論の中で、「ロ」がリズム感があって良かろうという、いい加減な理由で決められたことからも分るように、これによって求められる値は常に近似値なのである。思想というものもそういったものであるということを我々は忘れてはならないだろう。<参考>言葉の遊びシリーズの他の記事はコチラからどうぞ。(再掲:雄略天皇歌の万葉歌碑)
2013.02.12
コメント(4)
言葉遊び・イズム篇(3) 大方の皆さんは、もういい加減で止めたらと思って居られることでしょうが、イズムと言うのはいくらでもあるものですな。まさにイズミの如し、であります。そんなことで、このデタラメ 思想用語解説、キリも無い無間地獄に陥ったようで、またまたイズム篇であります(笑)。 この種の馬鹿話はノーサンキュー というお方は、誠に申し訳ございませぬが、どうぞまた出直してお出で下さいませ(笑)。ファンダメンタリズム(fundamentalism):人は何かに依拠しないとフアン(不安)になる。この不安心理から原理・原則を厳密に守っていないとダメ(駄目)だというメンタリティ(精神構造)の人たちが出て来るのも自然なこと。このような人たちの主張が「フアンだダメだメンタリティ主義」縮めて「ファンダメンタリズム」である。原理主義と訳されるが、この人たちの足をフン(踏ん)だり、メンツ(面子)を損なうことは厳に慎まねばならない。メン(麺)が足りていればいいと考えるラーメン好きの人はこの点を誤解する傾向があるので要注意である。オポチュニズム(opportunism):あちらへこちらへとオッポ(尾っぽ)をチャラチュラ振って優勢な方につこうとする思想のことで、日和見主義と訳されるが、天気予報だって当るかどうか分らないように、優勢な方についたからと言って有利になるとは限らないのが、この思想の難点とされる。ラディカリズム(radicalism):大根(radish)をスパッと切るように、とにかく前へ前へと事を進めようという主義で、急進主義と訳される。しかし、radishは二十日大根のことなので、二十日間もすれば萎え、新鮮さがなくなって、カリカリになってしまうのが、この思想の欠点でもある。そのカリカリになってしまっている状態を捉えたのが、その呼称の由来だと言われている。それでも漬け物にして落ち着かせると食えないこともない思想である。賞味期限は短いのではあるが。トロツキズム(Trotskyism):クロマグロの減少が懸念されているが、トロが何よりも好きという連中がマグロをツケ狙うことを揶揄してトロツキズムと呼ばれるようになった。その象徴的人物がマグロさばきの名人トロツキーであったので、彼の名に由来する命名だという説もある。その名人技をねたんだヘターリンに粛清されて、ヘターリン派からは彼の技術は邪道で極左冒険主義と宣告されている。何故「極左」かと言うと、トロツキーは左利きであったかららしい。コンサバティズム(conservatism):昔ながらの伝統や習慣を重んじ、変化や改革は最小限にとどめようとする、言わば現状維持をよしとする人たちの主張であるが、彼らの好物がコンニャクとサバであったことから蒟蒻鯖主義と呼ばれた。蒟蒻という字が難しいということで、現在は、保守主義という訳が使われている。鯖は干した方が美味いことから「干し主義」とも呼ばれたのが訛ったものである。ネオコンサバティズム(Neoconservatism):これはマグロのトロからサバに鞍替えした人たちのことで、元々はトロツキストであった。トロからコンニャク・サバに転向したのはマグロもサバも好きなネコのようだとしてネコ・コンサバティストと呼ばれたのであるが、ネコもいつしか年老いて毛(k)が脱けてネオとなって、アメリカなどではネオコンと呼ばれるようになった。我が国ではネオコンは猫コンプレックスのことであるので、新保守主義という訳が使われる。リフォーミズム(reformism, innovatism, progressism):これは住宅リフォーム会社が主張し出したものであるが、最近は個人住宅用のエレベーターであるイノベーターを取り付けるべきというイノバティズムや風呂をグレードアップすべきであるとするプログレシズムをも取り込んだ広い概念となり、革新主義、改革主義などとも呼ばれるようになっている。なお、リフォーム工事をリフレッシュ工事などと呼んだりするが、これは住宅会社にとって利幅がプラスに振れて儲かるリフォーム工事をリフレッシュ工事と呼んでいるに過ぎず、同じものである。インプルーヴィズム(improvism):上のリフォーミズムと同じ思想系列に属するものであるが、外装(アウテリア)ではなく、内装(インテリア)の改善に重点を置く考え方は、時にリフォーミズムとは区別してインプルーヴィズムと呼ばれることがある。内装改良にとどまり外装にまで及ばないので、上の革新主義や改革主義ほどには徹底せず目立たないことから改良主義という訳が使われている。リボリューショニズム(Revolutionism):これは上の改革主義や改良主義による住宅リフォームでは、住宅が抱える根本問題は解決しないとして新築に建て替えることを主張するグループの思想である。その理由は、その方が「リ益」の「ボリューム」が大きいことによる。住宅会社によると、この場合の「リ益」は住宅会社の「利益」だけを意味せず、建築主である住宅所有者の「利益」も大きいと言うのであるが、その実証はまだなされてはいない。革命主義とも訳されるがそんなに大層なものではないのである。ポピュリズム(populism):これはマッチポンプのように大衆・民衆の意向の赴くままにこれに同調することが大事とする思想で、自身に何の思想もないことを前提とする処から、これを思想と呼ぶべきかどうかで学界の意見は二分されている。ポップにユリ動かされるからポピュリと呼ぶのであるが、大衆主義、人民主義とも訳される。ポピュリズムの危険性・脆弱性は大衆に迎合する結果、ポップ・ステップ・ジャンプと思わぬ方向に行ってしまうことがあるということである。デモクラシー(Democracy):「デモねえ、国民の意思とクラシ(暮らし)が第一でしょう。」という一主婦の言葉から生まれた国家の政治制度のことで、民主主義という訳が使われる。まあ、主婦は大抵の男にとってデーモンみたいなものでもあるから、この命名は適切なものと言うべきであろう。しかし、これはあくまで擬制であって、この制度によって国民の暮らしが守られるということが保障されている訳ではない。それデモ、デモクラシーがいいという幻想を持っている人が多いので、これに異議を述べることはヒトデナシーと批判されることになる。プリズム(prism):これは三角柱のガラス体のことで元来、思想や主義に関してはニュートラルなものである。しかし、思想の光をこれに当てるとその波長の長さに応じて偏光し、フリスル、フルナル、フキコム、フッキル、ムリスル、、スリキレル、ストスル、セキキル、ムシスル、オダテル、ソノキニサセル、ツイテク、サソイコム、タタズム、ハタンスルなど色々に分解する。よって、プリズムは思想のIPS細胞とも呼ばれるのである。特に分光して一番目に生じる「フリスル」はあらゆる思想に付きものであるから要注意である。<参考>言葉遊びシリーズの他の記事はコチラから。(住宅改築工事)
2013.02.11
コメント(4)
言葉遊び・イズム篇(2) 本日も言葉遊びです。イズム篇(2)でありますが、これではすっかりイズミストでありますな。ヒロイズム(heroism):不注意でぶつかり他人の物を落としても拾えば済むとして一切謝らない主義。英雄は軽々しく謝ってはならないという考え方によるものであるが、英雄気取りの者がこれをやることが多いのは戴けない。これに似た言葉に英語表記では同じになるヘロイズム(heroism)があるが、これはヘロイン(heroin)中毒患者の治療方法のことであって全く関係がない。アニミズム(animism):これは読んで字の如し、兄崇拝のことですな。自然界の万物に精霊が宿るという考え方から、兄にも精霊が宿る筈としこれを特に崇拝するものである。これが姉になればアネミズム(anemism)、弟だとオトミズム(otomism)、妹だとイモミズム(imomism)、親だとオヤミズム(oyamism)、愛犬だとイヌミズム(inumism)ということになる。このように無数に拡散変形して行くこととなり、トーテミズム(totemism)と区別がつかなくなる。それで、これらを総じて「精霊崇拝」という訳を使っている。ヒューマニズム(humanism):これは人文主義などと訳されるが、「巨人の星」の主人公の名前・星飛雄馬に由来し、彼のように人間には無限の可能性と良きものがあるとして、人間中心に物事を考えて行こうとする主義。これに対しては犬や猫など動物界各方面から異議が出されている。それで、これに似たものとしていささか修正を加えたヒューマニタリアニズム(humanitarianism・人道主義)というのが登場したが、関西方面の動物界からは「似たりよったりやん」と揶揄されている。ナチズム(Nazism):ドイツのナチスの思想を指すと一般的には考えられているが、元はnachismで、熊野の那智大社の思想に基づく、極めて穏健なものであった。熊野で修業していたヒトラーがこれにファシズムと偏狭な民族主義を加えて、帰国後に作り上げたのがNazismである。彼の偏狭な民族主義は熊野修業の折に成績不良で破門されたことから来る有色人種への劣等感と憎悪に起因すると言われている。マネタリズム(monetarism):以前、この「言葉の遊び」欄でマネタリズムとは画家マネの絵が下手だとする一派の主張だと説明したことがあるが、彼らはその後関心が金儲けの方に移り、やがてマクロ経済学の分野で中央銀行の果たす役割を重視する一派を形成することになる。今では彼らの間でもマネとはマネー(money)を意味し、画家マネの絵が下手かどうかはどうでもいいことになっている。アベノミクスはこの一派の主張を真似たもので、その主張の欠点とされる長期的側面に於ける副作用を第三の矢で解決しようというものである。まあ、ヤカモチはそんなことはどうでもよろしい。阿倍野に行ってミックスジュースを飲むだけでござる。ロマニズム(Romanism):これは文字通りローマに住みたいという人たちの主張。住めないならせめてもローマの絵でも買うかということとなり、このような人たち向けの絵を描く画家がルネサンス期北方ヨーロッパに輩出したので、主に絵画の世界で言われることが多い。男のロマン、などという言い方があるが、それが大抵叶わぬもので、絵に画いた餅に終わるのは、そもそもこのロマニズムが絵画世界の言い草であるからによる。なお、これを絵画手法の方から主にローマ在住の画家たちによって主張されたのがマニエリズム(Mannerism)である。彼らの絵は主に応接間に飾られたので「間に絵」と呼ばれ、マニエリズムと称されるようになった。クラッシズム(classicism):これは上のロマニズムと同じようなものであるがローマでの暮らしに重点を置いたもので、暮らしズム、と呼ばれる由縁である。暮らしに重点を置いた結果、絵画にとどまらず音楽や文学その他芸術一般、建築様式や生活スタイル全般に広く主張されるようになる。これに伴い、ローマでなくても古い物、昔のものが理想という考え方に変移して行くこととなる。その結果、現在では「古典主義」という訳が使われるのが一般的である。リアリズム(Realism):19世紀に入ると上の古典主義への反動としてもっと現実を見つめよう、でないとリア王のように悲劇に見舞われるぞ、という主張がなされるようになる。これがリアリズムである。これも当初は絵画の世界で主張されたもので、彼らの絵は写実的であったことから「写実主義」と呼ばれることとなった。その結果、現在ではリア王と写実主義とは何の関係もないという説が蔓延してしまっている。ファンタシズム(fantasism):上のリアリズムへの反動として生まれたのがファンタシズムである。現実と幻想との境目は我々が通常考えている程に明確なものではないとして、幻想の復活を宣言したものである。幻想主義と訳される。これはフランスの作曲家ベルリオーズが1830年に作曲した幻想交響曲に由来する命名であるとされるが、20世紀第二次大戦中にコカコーラ社のドイツ法人が開発した炭酸飲料の「ファンタ」に由来するという説もある。何れもフアン(不安)を解消するのは現実ではなく幻想であると主張している。モダニズム(modernism):これは古典主義やロマン主義への反発から生まれたリアリズムを引き継ぎ、幻想に逃避することなく、時代の最先端を目指そうという主張で、色んな矛盾や伝統のしがらみは意に介さない問題にしない、ということでモンダイニシナイ主義、モダニズムと命名された。現代主義とか近代主義とも呼ばれる。まあ、そんなことは無駄だから止めて置け、と主張する一派も生みだすことになる。この一派の主張はムダニズム(mudanism)と称されるが、この主張を紹介するのも無駄なことなので止めて置く。ヤマシミズ(yamasimizu): 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (高市皇子 万葉集巻2-158)この万葉歌は十市皇女が亡くなった時に、高市皇子が詠んだ歌である。山吹の花の黄色と山清水の泉で「黄泉」、つまりヨミの国のことを意味し、そこへは行きたいけれど道が分らないので逢いに行けない、と悲しんでいる歌である。これは死者には逢えない、死者の国とこの世とを行き来するというホトトギスがうらヤマしいとする考え方であるが、主義という程のものではなく、只の感傷である。(比賣神社、十市皇女を祀る。)<参考>言葉遊びシリーズの他の記事はコチラです。
2013.02.10
コメント(2)
銀輪散歩でもこの処は、さしたるネタはないので、今日も言葉遊びです。ちょっとハマり過ぎですかね。今回は主義主張を思い付くままに迷解説することと致しました。言葉遊び・イズム篇マキャベリズム(Machiavellism):隙間なくキャベツを積めるだけ詰め込むためには手段を選ばないのが農場主の務めであると主張する主義。マキャベリアンと言う場合は、これと異なりキャベツを食うためには手段を選ばない人たちのことを言い、意味が違う。ベジタリアンとジベタリアンが意味を異にするのと同じである。マルキシズム(Marxism):沈む訳ない丸木でも沈むと言わないと気が済まない主義。マルクス主義と訳される場合は、未だ丸くなっていない木を丸くする過程に視点を置いたものである。ニヒリズム(nihilism):何でも二匹は嫌でどちらか一匹は殺さないと気が済まない主義、虚無主義と訳される場合は、一匹どころか二匹とも殺してしまって元も子も無くしてしまうケースも含んでいる。ナルシズム(narcism、narcissism):なるべくなら自分を目立つようにしてくれと言い続ける主義。自己愛とも訳されるが、これは自己だけでなくタコも好きな場合を言い、タコ(他己・蛸)が嫌いな場合は「うぬぼれ屋」とも訳される。リリシズム(lyricism):理科でも料理でも「リ」で始まるのが抒情的であると主張する主義、抒情主義と訳される場合は、「り」で始まっても「理論」だけは抒情的とは見ない一派をも含んだ広い概念となる。テロリズム(terrorism):セロテープでも何でも爆弾に使えればよしとする主義。政治的な意味合いを持った暴力行為などは青磁の壺も材料にする一派を含むこととなる。キャピタリズム(capitalism):キャビアなど美食を追及することを始めとしてあらゆる欲望の解放こそが商業発展には必要とする主義。資本主義と訳される場合は、シホンケーキなどを好む甘党の価値観にも共鳴する幅の広い概念となるが、丸木船生活者はこの広過ぎる概念を怪物と呼んだりもした。ソシアリズム(socialism):そっとして置く方がいい場合でも他人の世話は焼くものだとする主義。ソーシャリズムとも表記されるが、これは「そっとして置く」と「そお~っとして置く」とのニュアンスの違いに過ぎない。社会主義と訳される場合は、これらの考え方をする者のうち、小学校時代「理科」が苦手で「社会科」が得意であった連中こそが、この一派の正統であるとするセクト主義的な考え方を意味することとなる。リベラリズム(liberalism):自由は利便によって担保されるという主義。自由主義と訳される場合は、公明でも民主でも社民でも維新でも何でもいいから「みんな」に担保されてでも自由でいたいとする考え方になる。サンジカリズム(syndicalism):1日3時間以上は組合の仕事をするべきという主義。労働組合主義、労働組合至上主義と訳されるが、組合費が集まらなくなって今は労働組合疲弊主義などとも呼ばれる。ファシズム(Fascism):ファッションでも何でも統一すべきという主義。全体主義と訳される。ヒトラーの「我が闘争」を読めば分るように独断と偏見に満ちたものであるが、それに馴染み易いのがファッションであることもまた事実である。キュビズム(cubism):立体的こそ至上とする余り平面ではこけて突き指し勝ちであるがそれを痛いと言ってはいけないという主義。当初は絵画の世界で主張されたが、現在は怪我の治療で主張されることが多い。立体派などと訳される場合もあるが、これは「痛い」を強調して立体的表現をすると「いった~い」となることによる。フェティシズム(fetishism):不得手なことにこそ人生の鍵があるとして不得手探しに執着する余りつまらぬ物に愛着を持ってしまう人たちの主張。呪物崇拝などと訳されるが、宗教的な意味合いはなく、性的色彩を帯びた依存症の一種であるから増えてはいけないのである。ツーリズム(tourism):旅行はツーデイ(2日)に限るとして、スリーデイマーチに反対する人たちの主張。通常エコとかグリーンとかアグリとか上に何かがつき、それ自体では存在しえない処から、単なるツーリズムは「物見遊山」と訳される。サディズム(sadism):甘党からは砂糖を呑べえからは酒を取り上げ、彼らを苛めることが社会正義であるとする主張。加虐性欲と訳されるが可逆性があるのかどうかは定かではない。フランスの侯爵マルキ・ド・サドに由来するが、新潟の佐渡とも音楽家の佐渡裕氏とも勿論何の関係もない。マゾヒズム(masochism):砂糖や酒がなくては食べ物も何もみなまずくなるという主張。被虐性欲と訳されるが比較的軽いものは別として精神疾患の一種である。オーストリアの作家ザッヘル・マゾッホに由来するが、体重が「ざっ」と減ると「まっ、ほっそ~」と言われる状態になることで、この疾患が発見されることがよくあることに由来するという説もある。オプティミズム(optimism):所構わず大っぴらにお茶を呑めば自ずから「なるようになる」と物事を呑気に考えること。第84代首相小渕恵三氏に由来するものでは勿論ないので、その誤解がないようにと、かつては役所の公式文書ではオプティミズムは使わず楽観主義という訳語を使用するように統一したが、楽観的な役人がこれを守る筈もなかったのは言うまでもない。ペシミズム(pessimism):箸のこけたのもペンの折れたのもみな悪いことの兆しだと悲観的に捉えること。語源はラテン語の最悪(pessimum)に由来するというのが定説であるが、ペンがあるのを見て「ペンがある」又は「ペンもある」と考えず「ペンしかない」と考えた人がいたことによるという異説もある。カニバリズム(cannibalism):カーニバルでは蟹はバリバリ食ってはいけないが、ニンニクを混ぜたものなら食っても良いという主張。人肉を食べることを意味する「食人」と訳されるが、これはニンニクをジンニクと誤解したことによる。人を食った話をして笑わせることと話は違うのであるから、このような誤解は5回以上してはならない。バーバリズム(barbarism):元々はバーバリー(Burberry)ブランドなら何でもよいという野暮な主張を意味したが、イタリア語の赤鬚を意味するバルバロッサ(Barbarossa)と結びついて「野蛮」を意味するようになった。しかし「野蛮な婆さん」という意味は少しもないので、誤解のないように。イワシミズ(iwasimizu):これは自身固有の主張を持たないので、主義とは言えないが、他人の主張はどんなものでも言わせて置くに限るという主張で、自身はたださらさらと水のごとく自在に流れて行くことをよしとしているのである。それでもちゃんとイワシを見ているところがしたたかとされる。 イズムはまだまだあるが、本日の講義はここまで(笑)。 イズムで遊ぶ頭の体操を「イズム体操」とも言うのでありますな。 そして、これにハマった人をイズミスト、その主義をイズミズムというのである。 (イズミとイズムは関係ない。)
2013.02.09
コメント(6)
言葉遊び(動物篇・魚篇・虫篇・その他篇・地名篇)動物篇鼠寝ざめが悪くてもネズミ、ネズミの刺青、張り切る針ネズミ牛不審なウシ、孔子読む仔牛、公私混同のウシ、格子の中の仔牛、風の谷のナウシカ・風邪を引いた牝牛か虎トラのトラブル、たそがれたトラが駅でスプレーしてる・トワイライトエクスプレス兎ふざけ過ぎてもウサギ竜立つなタツ、酒断つタツ 泡立つとタツも立った、タツの竜田揚げ、うだつ上がらぬタツ、タツの解脱、坐ってもタツ、タツノオトシゴを煮ているとタツの落し物に似て来るヘビ身から出たヘビ、恵比寿顔・ヘビの素顔・へびす顔、へばったヘビ馬生れたウマ、踏まれたウマ、白馬でないのに吐く馬、ヒツジヒツジュン間違えてヒツジシュン、ヒツジの出自、七時のヒツジ猿ザルを持ったサル、橇とはそりが合わないサル、樽は知るも足るを知らざるサル鳥トリの踊り、おとりのトリ、取り違えたトリ、太り過ぎたトリ、取り敢えずトリ、コトリとも音立てぬトリ、雌鶏が媚を売ったらコケットリー、ニトリの裏のサントリー、焼き鳥はいいが焼け太りはいかん、チリも積もれば山鳥になる(チリトリ)、しゃっくりしたトリ借金トリ、トリの尻餅トリ餅、最後に来たトリ尻取り、トリがこけトリます、となりのトトロと隣のトトリは似トリます。犬アイヌの飼いイヌ河馬カバがガバっと口を開けた、カバはかばうものではないアヒル或る日のアヒル、呆れるアヒル、ハイヒール履いたアヒル、水浴びるアヒル、詫びるアヒル亀紙芝居亀芝居、亀のおつむに紙おむつ、亀とライオンでカメレオン、カメラの前ではカメらもポーズ、カネを失くしたカメ、ガメついカメ、モグラ八重歯のモグラ八重葎イタチ失敗したのに褒められてイタチ痒しです、ついたちイタチが衝立に手をついたで魚篇鯖さらば青春さらばサバ サバがいないからサバンナ、サハラ砂漠でサバ食った、サバが威張るとサバイバル鰤うたグリ深いブリ、勘ぐる寒ブリ、はぶりのいいブリ、身ぶり・手ぶり・寒ブリ、素振り・空振り・寒ブリ、ゴキブリしごくブリ、ブリュッセルからブリ失せる、ブリの銀行貸し渋り、ブリを蒸したらブラームス、ブリの中のブリがドンブリで鈍臭いブリがドングリ鮒不仲のフナ、不慣れなフナ、へなへなすなフナ、ヒマなフナ、ヘマをしたフナ、ハナ垂れのフナ、丈夫なフナ、フナは選ぶなヒラメは選べ鰆サハラ砂漠のサワラ、さらわれたサワラ鱶フカの部下、ブカブカのフカ、吹っ掛けられたフカ、府下のフカ、深く反省するフカ、不快なフカ、フカの不覚(注) (注) サバの錯覚アジ味覚、カンパチ恥かくヒラメの比較、 タイの体格アマゴと互角、イワナの医学はイワシの死角、 イトウ当確アンコウ降格、フグの風格ドジョウと同格、 カレイの価格キス企画、スズキは規格でハモ破格、 マグロ満額タコ多角、チョウザメ聴覚銀ダラ伎楽、 鮭の計画サンマ参画イカ威嚇、シャチの飛車角クジラの苦学鮃比良の風吹くとヒラメが風邪引くセイウチ瀬戸内のセイウチ鰐輪になるワニ、庭にワニ、膠にワニ、ワニにもにわか雨、にわかにワニかね虫篇コガネ虫メガネしててもコガネムシ、子が無えコガネムシ蝶丁々発止とチョウチョの抜歯百足ムカムカするでこのムカデ、こちらがカエデならむこうはムカデ、ユカで寐てるでムカデ、ユカタのムカデがイカダで行くデ、となりのトトロ・向かいのムカデ・裏のボウフラ蜘蛛曇りガラスにクモがいて、行くも帰るもクモなれば、苦も無くクモ行く雲の如蟻山に城あり家に白アリ、ありありと見えるアリ、むりむりと言うアリ、バリバリ頑張るアリ、何でもカリカリ噛むアリばかり、アリの婆さんアリババ、遅刻したアリ蟻地獄、有り難い有り難い・アリ合体、アリューシャン列島でアリ仰山ゲット、アリのアリバイはアルバイトその他篇想定内のソーセージ、ハム噛むサム、はにかむハム三日坊主のサッカーボール、花鳥風月・課長低血圧・蛾蝶分別まどろむ馬丁風情とマダムバタフライ手にするボール・テニスボール、どっちもドッジボール馬鹿・盗人(ぬすっと)・坊主縮めてバスケットボール、まっさらサラダボウル真っ赤なウソつく真っ白ウサギペガサス魔が差す、ペガサス日が射す、ペガサス探さす、嫌気がさすペガサス、ペガサス怪我さす、蚊が刺すペガサス、家探しするペガサス、顔がさすペガサス、ペガサスヒマだす、ヘソ出すペガサス、ペガサスのがさず、ガサガサするペガサス地名篇ヒタヒタと来た日田、ウツラウツラの宇都宮先輩・後輩・上海、球根・蓮根・香港「寅さんの旅綴り方教室」いつもは出雲、たまに多摩、時々土岐で、滅多に神田、たいがい胎内、稀に円山、正月庄内、暮には呉で、盆は盆梅長浜に、朝は浅間で、昼日田に、夕べ夕張、夜与論、起きたら沖縄、寝て寝屋川、走って網走、歩いて有田、座れば諏訪で、こけたら苔寺、笑って日暮里、泣いたら鳴門、怒って鬼怒川、勇んで伊勢へ、ひるみ平塚、怯えて帯広、嬉し嬉野、来た喜多方、上り登別、下れば下田、渡る十和田も、叶わぬ金沢、会津で会うも、別れは別府、追って追分、また来て北野、復路福島、往路の大阪、困って熊野は、見えぬ三重、此処は加茂かも、駄目もと熊本、道は遠野で、さっぱり札幌、知って知床、知らぬは知覧、迷えば道も稚内、友も来るまい苫小牧、やつれ八代、困って小牧、足も潮来で大分伊丹、帰る滋賀ない、葛飾帰ろ。鹿嶋の貸間、柏の菓子屋、寄こせ寄こさぬ横須賀、よくもまあ横浜千葉の工場は町場の工場、立場考えた千葉の人、千葉の芝犬オヤジのオジヤは小千谷のオジヤ、甲斐の粥とはちとちがゆ、飯田の飯も青森大盛、盛岡過ぎて、食いも倶知安、食い秋田願って新潟、叶わぬ神奈川、たまげた山形、言わで岩手の宮城の土産ショウナイ、ショウナイ、止むなし庄内そうかい、そうかい、なるほど鳥海山納豆納得合点月山・尾羽打ち唐津哀れお歯黒羽黒山「一人芝居動物園」 ※絵を付けると絵本になりますかな(笑) トンボトボトボひとりボッチ、チョウはチョビチョビひとり酒。セミはシメシメひとり占め。アリはアリャアリャひとりで合点。クワガタガタガタひとりじゃ怖い。サメはサメザメひとり泣き、フカはプカプカひとりでタバコ、フナはフニャフニャひとりで寝言。ワニはワナワナひとりで震え、カワウソコソコソひとりで隠れ、キノコノコノコひとりで来たよ。タケノコノコッタノコッタひとりで相撲。アザラシはワザワザひとりアラサガシ。カバはガバガバひとりで儲け、サイはサイサイちょんぼでひとり負け。タヌキウキウキひとりで浮かれ、キツネ常々ひとりは嫌で、オオカミガミガミひとりで怒り、ウシはウジウジひとりで拗ねて、シカはシカジカひとりで弁解。テンはてんでにひとりで逃げて、ウマもウマウマひとりで逃げて、ラッコもスタコラひとりで逃げて、ウサギもお先とひとりで逃げた。イタチタチマチひとり立ち。サギは先々ひとりが心配。ツルはツルツルひとりでうどん。キリンキリキリひとりで舞って、ゾウはひとりどうぞと遠慮がち、チータがチータカタッタとひとりで行けば、トラはトロトロひとりで昼寝、ライオンオラオラひとり我がもの顔で、ヒョウは飄々離れてひとり、ハイエナハイハイひとりでくすね、ゴリラゴリゴリひとりで押して、ムーはムムムムとひとりは苦手、スカンククスクスひとりでおなら。イヌはケンケンひとりでケンパ、ネコはニコニコひとりで四個。(梅)
2013.02.08
コメント(4)
偐万葉・雑詠篇(その4) 本日は偐万葉・雑詠篇であります。雑詠篇というのは「雑に」「詠んだ」ということではなく、個人篇とするには作歌数が少ないことから複数人分を纏めて編集したものであります。なお、掲載写真は各氏のブログからの転載です。◎nanasugu氏 偐家持がnanasuguの郎女に贈りて詠める歌2首赤飯に にゃっとうもよし にゃでしこの 快挙祝へる 足痛き妹 (にゃでしこのジャムパン) 我妹子(わぎもこ)の 春の幸(さ)きけと 立つ虹の さやにぞありて 年の明くらし (旧家持) (注)nanasuguさんは長らくブログを休止されています。過去の 偐万葉・nanasugu篇はコチラからどうぞ。◎るるら氏 るるらの郎女が贈り来れる歌1首併せ偐家持が返せる歌1首 るるらの郎女が贈り来れる歌1首花たちの ように季節を 遊びつつ ふと気付いたら 初夏の始まり 偐家持が返せる歌1首草枕 旅なる妹は 蝶ならむ 花放浪の 初夏(はつなつ)の日々 (注)るるらさんも同様に長らくブログを休止されています。過去の 偐万葉・るるら篇はコチラです。◎pado7934氏 偐家持が越のパド麻呂に贈りて詠める歌3首併せ俳句1句牡蠣食(く)へど 鐘は聞こえぬ 越の寺 (抹茶岡磁器)えっ牡蠣鍋 いや蒸し鍋と 人言へど 食(く)へぬヤカモチ 菜(な)のみしあらむ (柿の本駄目麻呂)マディソンの 橋渡らねば 鍵刺しし 奴(やっこ)連れ行く 黄葉(もみぢ)の山道(やまぢ) (橋渡兼媛(はしわたりかねひめ))光降る 弥陀の本願 身に浴びつ 行かばやわれも 南無阿弥陀仏 (他力家持) (注)pado7934氏のブログはコチラです。◎タンちゃん氏 偐家持がタン麻呂に贈りて詠める歌3首立山(たちやま)の 君や来たりし 水無月の 月立つ今日は 嬉しかりける (注)月立つ=つきたち→ついたち、で1日のこと。立山に掛けた。歌詠むも 詠まぬもよかり 来(こ)し人は みな我が友と 思ひてあれば (偐不詳詠人)よき人に よしとよき人 よき野菜 持ちてよき日に よき人よく来(き)つ (偐武天皇) (本歌)よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ(天武天皇 万葉集巻1-27) (注)タンちゃん氏は昨年6月に当ブログにご訪問下さった方です。 同氏のブログはコチラからどうぞ。◎スギゴン氏 スギゴンの郎女が贈り来れる歌2首並びに偐家持が返せる歌2首 スギゴンの郎女が贈り来たれる歌新春の 光あふるる 大空に 花びらのごと 粉雪は舞う 偐家持が返せる歌あらたしき 年の始めぞ 空清み 散り来る雪も 花と舞ふらし スギゴンの郎女が贈り来たれる歌みちのくの 青き海辺や 緑葉(みどりば)に 思いはせれば 涙こぼるる 偐家持が返せる歌青葉なる 杜の都は 我妹子の 若き日の街 いざ立ためやも (注)スギゴン氏関連歌が掲載されている過去の偐万葉・雑詠篇は 下記の通りです。(その1) (その3)◎カンジ氏 偐家持がカンジ氏に贈りて詠める歌1首見渡せば いまはた寒し 西空の 茜も冬ぞ 俣野の日暮 (注)カンジ氏関連の歌が掲載されている過去の偐万葉・雑詠篇 (その2)はコチラです。同氏のブログはコチラです。◎naive06氏 偐家持がナイーヴ06氏に贈りて作れる俳句1句玉兎まだ 熱夜に身をば 削り居り (筆蕪蕉) (注)naive06氏から2010年9月2日に当ブログへのコメントを戴 き、その答礼訪問で同氏のブログへのコメントに添えさせて戴 いたのが上記の句です。同氏のブログはコチラです。◎ゆめこ5948氏 偐家持が夢郎女に贈りて詠める歌1首妹が家(や)の をさぎのごとや 白雲の 立ちて梅雨明け 近付くらしも (偐ぴょん麻呂) 注)をさぎ=うさぎ ◎SPジュリエッタ氏 偐家持がジュリの郎女に贈りて詠める歌1首世が世なら 神にもあるを 白き熊 人のさばりて 飢えるこの頃◎月のひかり氏 偐家持が月郎女に贈りて詠める歌1首敷島の 大和茶粥の なつかしき 昔河内も 朝はこれなり◎柴田428氏 偐家持が柴麻呂に贈りて詠める歌1首降る雨や バレンタインも いや遠に なりて昭和の 春しのびけり
2013.02.07
コメント(0)
本日は囲碁例会。囲碁の後、友人との会食の予定が入っていたので、いつもの自転車ではなく電車で梅田へ。人の行動と言うものは基本的に保守的と言うか、慣性の法則に従うと言うか電車であっても自転車の場合と同じく昼食はいつもの喫茶アポロでありました。 昼食を済ませて部屋に行くと既に青◎氏が来られていて、早速に同氏と1局。終盤までは勝っていたが殆ど寄せに入った段階で不用意に打った手が間違いで左下隅の石が死んでしまい1目及ばずで負け。 今日はそういう不注意な手が多くあったようで続く平◎氏、竹◎氏との対局も負けて3連敗、散々でありました。 本日の出席者は上記の3氏の他福◎氏、村◎氏、荻◎氏、荒◎氏に小生を加えて8名でありました。 荻◎氏と午後4時45分頃に囲碁会場を後にして谷町4丁目の会食の店へと向かう。この会食は昨年12月12日の日記(参考:「またまた忘年会と囲碁例会です」)で記載した、早口で電話を掛けて来た畑◎氏ら3人組との新年会である。先月中に開催するつもりが今日になったもので遅い新年会という訳である。小生が勤めていた会社の2~3年後輩になる3氏、畑◎、高◎、荻◎の各氏との久々の会食である。荻◎氏は先月から囲碁サークルに参加されているので今日もこのように一緒に出掛けて来たのであるが畑◎氏、高◎氏とは何年かぶりの再会にて懐かしい再会でありました。この3氏は会社の同期ということでよく一緒に会食しているらしいが、いかなる風が吹いたものか小生にも声を掛けて戴き、このような会食となったという次第。 思い出話や近況のことや、共通の知人の話や小生のブログの話などあれこれと語らっているうちに忽ちに時間は過ぎ8時半頃の散会となりました。高◎氏は以前から小生の当ブログをよくご覧戴いていたようでその記事内容もよく記憶されているなど大変有難いことでありました(笑)。思いもかけぬ「読者」との顔合わせです。 高◎氏は小生の父もお気に入りの人物であったようで父存命中は父とも親しくお付き合いさせて戴いていたのでもありました。 畑◎氏は小生の高校の後輩にもなることから親しくさせて戴いていました。今は会社をはなれてのそれぞれの道であるがいずれも小生にとってのかつての仕事仲間。懐かしい仲間にてもあれば、これもまた一種の同窓会でありますな。よき人と よしとよく見て よき酒を よしとよく呑め よき人よく呑む (偐酒持) (本歌)よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ (天武天皇 万葉集巻1-27) まあ、小生は下戸、「よき人」は「よき酒」を呑み、下戸であるもう一人の「よき人」はもっぱら「よき茶」を呑んで居りましたが、よき時間であったのはどちらの「よき人」にとってもそうで愉快な時間でありました。(ショベルカー) 呑んでしゃべってショベルカー。本日の4人組の写真がありませんので、これで代用です。
2013.02.06
コメント(2)
偐万葉・英坊篇(その17) 本日は、偐万葉・英坊篇であります。偐万葉シリーズも回を重ね、今回が第164弾となります。 <参考>過去の偐万葉・英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌13首 並びに英麻呂が作れる歌3首併せ合作2首いくさ跡 立てば遠みか 藤河に 伊吹颪の ただ吹き行ける関ヶ原 堰き止めかぬる 石橋(いははし)に 降れるや雨も 涙ならまし (本歌)明日香川 明日も渡らむ 石橋(いははし)の 遠き心は 思ほえむかも (万葉集巻11-2701) 英麻呂が贈り来れる歌1首原に眠る 武者は知るまい 勝敗で 天下分け目の 場所となるかを 偐家持が追和せる歌1首藤河の 水も絶えねば もののふの いつく心や 関ヶ原風 英麻呂が贈り来れる歌1首長月の 松尾の山の 小早川 傍観の堰 切れて寝がえり 偐家持が返せる歌3首桃よしの 松尾の山の 寝返りも 笹はやはりと ほぞ噛むらむか (石田ミス成)陣形は 良けど置く人 得ざるなり これも不徳の 致すゆゑなり (石田治部少徳)これやこの 勝ちし負けしも 世は遠み 知るや知らぬや 関ヶ原風 (関丸) (本歌)これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関 (蝉丸)越の野に 雪は降りつつ しかすがに 花は咲きたり 月はも照れる (本歌)雪の上に 照れる月夜(つくよ)に 梅の花 折りて贈らむ 愛(は)しき児もがも (大伴家持 万葉集巻19-4134)チューリップ 春咲く花と 見つれども いや時じくに 砺波に咲ける (砺波四季麻呂) (本歌) 橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し (大伴家持 万葉集巻18-4112) 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の木 (聖武天皇 万葉集巻6-1009) (注)葛城王とその弟の佐為王が天平8年(736年)11月9日母の 県犬養三千代の姓「橘宿禰」の継承願を上表する。17日これ を許され、橘宿禰の姓を賜り、橘諸兄、橘佐為となる。この時、 皇后宮に於ける酒宴の席で聖武天皇が作った橘を賀(ほ)ぐ歌がこ れ。万葉集の左注によれば、皇后の歌も1首あったらしいが、 欠落して分らないという。これに対して橘諸兄(葛城王)の息子 橘奈良麻呂が詔に応えて詠んだという歌が「奥山の真木の葉 しのぎふる雪のふりは益すとも地(つち)に落ちめやも(万葉集巻6- 1010)」である。 (砺波四季彩館のチューリップ)(英坊3氏のスケッチ)俄(には)か絵も 見事や咲ける 鬱金香(うこんかう) 背子が庭(には)には 春来たるらし (英坊3氏の作品) 英麻呂が贈り来れる歌1首やぐら組み 穴をほりては 雪を積む 夏の運びの 成就ねがいて 偐家持が返せる歌1首掻き集め 加賀の湯涌の 雪の室 つくるぞ夏の 備へなりける (十二分入隆(じゅにぶんいれたか)) (本歌)風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける (従二位家隆(じゅにいいえたか) 小倉百人一首98) 英麻呂が作りたる上句に偐家持が下句を付けてなせる歌1首 懐かしや お顔あわせて 祝盃を (英麻呂) 互ひのおらが 春に重ねつ (小林一酒)描く観音 見ての観音 見る観音 見えぬ観音 見るが観音 (本歌)なる堪忍 するは堪忍 せぬ堪忍 ならぬ堪忍 するが堪忍 (高岡市内、マンション外壁に観音様の絵) 英麻呂が贈り来れる句並びに偐家持が付けたる脇句 魂(玉)げたや 珠玉見つけて 石石(イシシ)の笑い (英麻呂) 石(咳)とならねば よしとしせむか (偐家持)シャッターの 絵もこれナニと シャッターを 切ればブログの ネタとなるらし(消防分団所のシャッター絵)見るからは ミレー見ればと 甲府言ひ 富山はミロを 見ろと言ふらし (偐美努(みぬ)王) (注)美努王(脚注)掲載の写真は全て英坊3氏のブログからの転載です。
2013.02.05
コメント(2)
本日もまたまた馬鹿馬鹿しい言葉遊びであります。 最近、やたらこの遊びに嵌っているヤカモチに呆れ果てたか、我妹子の曰く「脳内がダンシング・オールナイトね。」 それも言うなら「脱線グ・オールナンセンスだろう。」とヤカモチ。 まあ、波長の合うお方だけお付き合い下されば、とて毎度馬鹿馬鹿しい言葉遊びでお時間を頂戴仕りまする。1.人名篇 これは、「肉じゃがみっつ食べたらミック・ジャガー」、「一度ならず二度までもハムサンド(中村獅童)」が思い浮かんだのを契機に「人名篇」というカテゴリーで作ってみることを思い付いたものです。 先ず手始めは画家から始めてみましょうか。(画家の部)しゃがむシャガール、ピカソも吐きそう、ピカソを活かそ、ピカソに曳かそ、ピカソに描かそ、増えるメールに音を上げたフェルメール、「誰だ?」「ダリです。」、小屋がボヤになってゴヤです(これでどや?)。「一人ぼっちのチャリはつまらん」とボッチチェリ、晩に咳するヴァン・ゴッホ、もっとユトリを持って描けばいいのにユトリロ、風流に欠ける訳でもないのにブリューゲル、光の詩人と勿体ぶらんかったのでレンブラント、ルンペンもモデルにしたのでルーベンス、印象と違っても気にしなかったのでセザンヌ、マッチ擦って野獣を追っ払ったのでマチス、踊り子への関心も度が過ぎたかドガ、破片を拾い集めてつなぎ合わせた鏡では良く見えんかったミレー、三日半で絵がアンジョウ出来たのでミケランジェロ、「俺のミケを抱くんじゃねえぞ」が口癖だったのでミケランジェロ、ミケランジェロとアンジェラ・アキは関係ありません(念のため)、見ろ見ろとうるさいミロ、ウロウロしててもミロ、メロメロのミロ、ミロは居るがチャロは犬、ミロが茶を呑んだらチャロ、ピンチヒッターダ・ヴィンチ、ダ・ヴィンチのウンチ、ダーウィンは進化論・ダ・ヴィンチの酒量は数ガロン、少しは照れもあるルノアール、寝巻のマネ、マネの豆まき、マネの真似はバレバレ、マネの絵がヘタだという奴らの主張がマネタリズム、スネどころかモモまで齧ったのでモネ、人に阿(おもね)ることを嫌ったモネ、根も葉もない噂に悩まされたモネ、下ネタも下仁多葱も嫌ったモネ、ああでもねぇ~、こうでもねぇ~、レモネードでもねぇ~モネ、文句あっかムンク、ムンクのタンク、スカンクとムンクは全然違う、早く着換えろラファエロ、マリアに「抱えろ」と叫んだラファエロ、あれは待っているのではない、舞っているのであるマイヨール、疑われた喜多川歌麿、似た顔描いてしもうた歌麿、自堕落で極楽な写楽、道州制に異論を唱えたのが東洲斎写楽、写楽は九才にしてシャラくさい、チャラチャラしてても写楽、風呂敷広げた広重、アホ臭い北斎、百歳までは生きなかった北斎(音楽家の部)調べるとシューベルト、シューマイ食べる時はシューベルトがいい、半ドンのハイドン、熊にまたがりはいしどうどうハイドン、ヘンデル変である、おいどんはハイドンでごわす、ベートーベンとグレートデン、手弁当のベートーベン、もつれるとモーツアルト、儲かるとモーツアルト、もたれてもモーツアルト、毛布あると?(博多のモーツアルト)、威張ったバッハ、葉っぱ持ったバッハ、バッタ食ったバッハ、ブラームスのアブラムシ、ブラウス脱いだらブラームス、リスとリスト、リストラされたリスト、利子とるリスト、リストに名が無いリスト、リストがバンド組んでリストバンド、ヒットエンドランしてこけたリストはリヒテンシュタイン、ぶたまん・アンまん・シューマン、煙充満・喫煙室のシューマン、濃い茶が好きなチャイコフスキー、こぶ茶も好きチャイコフスキー、むさくるしいだけのムソルグスキー、ショパンの塩パン?いえ、食パンです。ショパンの襦袢、序盤からショパン、順番にショパン、一般的なショパン、散々ざんすサンサーンス、算数してますサンサーンス、どつぼにはまってどつぼ臭くなったドボルザーク、電気よりガスがいいと言い張ったガーシュイン、邪魔な工作した山田耕作、「竹は割れんだろう」と滝廉太郎、マヨネーズとしようか黛敏郎、「サボったんだけど」と言(ゆ)うたか佐渡裕、さあ、どう言うたか分からぬ佐渡裕、「朝もヒマなしだったかしら」と朝比奈隆、固いなあ駄菓子(晩年の朝比奈隆) 、片田舎の朝比奈隆 (おまけ)有島武雄著「或る女」・「惜みなく愛は奪う」・「カインの末裔」蟻島武雄著 「蟻女」・「惜みなく蟻は奪う」・「甘味の末路」2.国名地域名篇(国名の部)カメルーンのカメ、カナダの金盥、チリの塵、地理に疎いチリ人、日本のジャムパン、日本のリボン、日本の古本、日本を見本に、韓国の勧告、中国の忠告、台湾のタクアン、トルコの汁粉、ドイツのタイツ、タイのネクタイ、ロシアの大根おろしや、ミャンマーのメンマ、チュニジアのチヂミ、フランスのブランコ、コンゴのコンロ、イタリアの板ガラス、ブラジルの豚汁(ぶたじる)、ブータンのピータン、ブータンの瓢箪、ブータンの牛タン、メキシコのタバスコ、ジャマイカのスルメイカ、インドのふんどし、ギリシャの芸者、ギリシャの歯医者、ギリシャの銀シャリ、エチオピアのエビおじや、エチオピアのピスタチオ、アフガンの空きカン、チベットのヘルメット、セルビアのビヤ樽、エリトリアの海老ドリア、アメリカのアルミ缶、ハンガリーのハンガー、イスラエルの椅子、スペインのスパイス、スイスの大豆、ベルギーのベルとキー、ペルーのベレー帽、イラクのイクラ、どうしてもうつむくスタンド・ウズベキスタン、波乱万丈イラン増長、痰がからんでタンガニーカ、まだ助かるかもマダガスカル、沈んでも直ぐにウクライナ、暑がり寒がりブルガリア(地域名の部)ケンタッキーの洗濯機、シカゴの虫カゴ、オタワのタワシ、フィラデルフィアの火が出るフィラメント、ニューハンプシャーのシャンプー、ハワイのクワイ、カッパドキアの合羽、北京のパッキン、ハノイの熊の胆(現在は、「ホーチミンの手打ち麺」ですかな。)、モントリオールの持ち帰りタオル、モントリオールのマントにタオル、モントリオールのマンホール、シドニーの佃煮、他人のそら似だシドニー、メルボルンのメバルのフン、メタボのルンペン・メルボルンロンドンの天丼、ロンドンの行燈、パリの針、ワシントンの和三盆、ベルリンの壁は無くなってもベルリンのカビは無くならない、バクダッドの親族・金属バット、爆弾どっとあるバクダッド、テレビが溢れてテルアビブ、リスがリボンしてリスボン、カラチの空手道場、カラチのトウガラシ、馬鹿力のカラチ、ニューデリーのぬるいゼリー、背広買う金せびるセビリア、ローマの老婆、ローマの龍馬、カラチの辛子、カラチの面倒事辛子明太子、今晩からアンカラか?いえ昨晩からです。グラナダのグラつく棚、公共の福祉・東京の土筆、大阪の大酒、大阪の大袈裟、大阪の横着横浜の横縞、よこしまな横浜、名古屋のイナゴ、名古屋の玉子屋、京都の教頭、堺市の墓石、あいつこいつ皆会津、会津の大豆、会津の財布は大き目サイズ、知らなかった枚方・知らなかったの交野・知り過ぎた尻別、幸か不幸か福岡、弘前の風呂敷、ホップ別府ジャンプ、行くなら奈良・今なら奈良・明日なら明日香、箱ね箱だけね・箱根函館ね、嘘も入れとこ・阿蘇知床、名が無うて情けなや・長野で長崎や、山梨ヒマなし島根はヒマね、いずれ頭打つのみや・伊豆で熱海宇都宮、(上から桂川・宇治川・木津川・三川合流地点)<参考>言葉遊び関連の他の記事はコチラからどうぞ。
2013.02.04
コメント(8)
一昨日(1日)、思い立って、新潟の福島潟まで銀輪散歩に出掛けて来ました。安田新潟自転車道は以前走ったことがあるので、阿賀野川までは道が分かる。その先は阿賀野川支流の新郷川沿いに走れば、自ずと福島潟に着くので、道に迷うこともなさそう。問題はお天気であったが、この日は快晴。雲一つ無い好天気。遠く飯豊の雪嶺を眺めつつの快適な銀輪逍遥となりました。雪見たし、されど大雪は困る。旅人の勝手な都合に合わせてくれたかお天気の女神様は願ったり叶ったりの「うらうらに照れる春日」をご用意下さったようであります(笑)。 新潟駅前から出発。安田新潟自転車道を泰平橋まで走る。(泰平橋) 泰平橋は阿賀野川に架かる橋、上流側(南側)にはJR白新線の鉄橋が架かっている。泰平橋はもっと近いという印象でしたが、思った以上に時間がかかりました。これは古い記憶の中では道程が短縮されてしまうということに依るのでしょう。 橋の向こうに見えている白い山並みは多分、飯豊の山々。福島潟はこの山の方向にある筈。 (同上・東詰め)(阿賀野川・JR白新線鉄橋) 列車の走る処を写真に撮りたかったが、いつ来るとも知れない列車を待つ程の鉄道ファンでもなければ、鉄橋だけで済ませることに。(阿賀野川畔) はだれの雪と枯れた葦原と阿賀野川の青い水面、そして青い空。 自転車道にお別れして、新郷川沿いの道に入る。車も時に走るが、それは希なことにて自転車道と変らぬ快適な走行である。(新郷橋)(新郷川) もやいの小船が一つあるだけで景色が趣のあるものになる。 見やれば白き遠山。遠山に 雪は置きつつ しかすがに 春日は照れる 新郷の川 (偐家持)(新郷川畔から飯豊山系を望む。) 2時間余で福島潟に到着。 意外に水鳥の姿が少ない。白鳥もヒシクイも周辺の田圃に出掛けての「お食事中」ですかな。ということで、「水の駅ビュー福島潟」の隣にあった店、「観水庵」にてヤカモチも昼食と致しました。しかし、他には食事処がないのか、時間帯の所為か、店内は食事客で一杯、随分と待たされた挙げ句、ランチに付いている食後の珈琲もなかなか出て来ない。閑人なれど「待つ」ということの苦手なヤカモチは珈琲を諦めて店を出ることに。(福島潟)(飛行機雲)(福島潟・水の駅ビュー福島潟付近から南東方向を望む。)(同上・潟来亭) 右に見える農家風の建物が「潟来亭」。無料休憩所で中には囲炉裏もあって、ゆっくりできるようになっているようだが、ここも沢山の人で賑っていたので遠慮することに。(同上) 観水亭の北東側の水田の一画に何やらガァーガァーと喧しい鳥の声。近くまで行ってみると、鴨よりも一回り大きい鳥の群れ。オオヒシクイのようである。道からはかなり離れた場所であり、田は雪と融けた水でぬかるんでいるため、鳥には近付けない。 コンパクトカメラのズームではピントの合わない写真しか撮れませんでしたが、まあ、無いよりはマシと1枚だけ掲載して置くこととします。(オオヒシクイ)(福島潟・鳥類観測ステーション付近)(同上)(同上)(同上)恋ひ来れば 福島潟ゆ 真白にぞ 飯豊の山は 見れど飽かぬかも (偐家持)(同上) 福島潟を周遊する。結構広い。 工事中の橋のたもとで休憩して景色を楽しんでいると、一人の男性がやって来られた。挨拶すると、野鳥の保護監視員をされている方のようで、双眼鏡を手に、見回りをされているのでありました。「今日は人が多いので、鴨やその他の水鳥も嫌がって遠くへ移動しているよう。」とのこと。この方の説明で、先程見た水田の鳥の群れがオオヒシクイであることが分かった次第。その他、途中で見掛けた黒い鳥がオオバンという鳥であることやこの鳥は水かきがないので、首を振って勢いを付けるようにして泳ぐこと、オオバンは額に白い模様があり、バンはこれより少し小型で額の模様の色が黄色であることなども知りました。人工の網や釣り糸・釣針などで傷ついた鳥は保護・救出するが、野生生物に襲われたり、自然状態で傷ついた鳥には手を出さないのだという。絶滅危惧種のような鳥は別として、野生の鳥への人間の関わりは最小限にとどめ、生態系の自然淘汰のサイクルを尊重するのだという。ごもっともなことです。(同上・五頭山方向) 五頭山や飯豊の山々も教えて戴きましたが、もう記憶が曖昧になっていますな。しかし、上の写真の山は五頭山系の山々で、五泉の方向になるというようなことは未だ記憶に残っています。(同上・飯豊連峰方向) 同様に、写真右奥に見えている白い三角嶺が北股岳であるというのも知りました。麓が「湯の平温泉」だと言う。ふぁみり~キャンパーさんのブログで記憶している名がここで出たので、「ああ、湯の平温泉ね。」と知ったかぶりして、男性の話に合せているヤカモチでありました(笑)。(同上) <参考> 福島潟
2013.02.03
コメント(2)
第3回近江鯨麻呂絵画展 先日(1月28日)の健人会で鯨麻呂氏に最近の自作絵画の写真をメール送信して下さるようお願いしていたのですが、このほどそれが送信されて参りました。 ということで、本日は鯨麻呂絵画展であります。なお、鯨麻呂は「くじらまろ」ではなく「いさなまろ」と訓みます。<参考>過去の近江鯨麻呂絵画展はコチラからどうぞ。 では、近江鯨麻呂絵画展どうぞお楽しみ下さいませ。 なお、下の絵のタイトルは小生が勝手に付けたもので、鯨麻呂氏のご了解は得て居りません。従って、全て「仮題」であります。鯨麻呂氏から異なるご指摘があれば、適宜修正されることがあります。(苺) 「一期一会」ならぬ「苺一絵」でありますな。 前にあるのは柚子なるか。後ろにワインの瓶ありて、いかにかこれをまとめむや、とヤカモチ館長も思案顔。 まあ、静物画は、その字の通り、ゴタゴタごたくを並べず、ただあるがまま静かに眺めやるのが正しい鑑賞の仕方でしょうかね。(林檎) 瓶に入ったリンゴ。瓶の口よりリンゴの直径の方が大きい。どうしてこれを入れたのか。未だ実が小さい間に木生りの状態で瓶に入れ、瓶をそのまま枝に吊るし、リンゴが大きくなるまで待てばいい、ということなんでしょうが、これは実際にそういうものであるのか、鯨麻呂氏の空想画であるのかは、ヤカモチは知らない。 蛇足ながら、瓶に入ったリンゴ、これを「ビンゴ」と言うそうな(笑)。(秋の香の) 万葉で「秋の香」と言えば、「松茸」のこととされるが、ここは、そういう意味ではなく、単に「秋の収穫」という程度の意味であります。 柿も栗もサツマイモも艶やかで美味しそうに描けています。 因みに、上述の「秋の香」の万葉歌はこれです。高松の この峯も狭(せ)に 笠立てて 盈(み)ち盛りたる 秋の香のよさ (万葉集巻10-2233)(午後の静謐) 何やら昼下がり、と言うか、午後のひと時の、平和な静寂、静謐を感じさせる絵でありますので、上のようなタイトルにしてみました。 整然と行儀よく上品に並んでいるのが「静謐」を感じさせるのでありますかね。総じて鯨麻呂氏の絵には、このような雰囲気のものが多いような気が致しますな。(鴨) これは鴨の置き物。琵琶湖畔に住まう身でありながら、湖面の生きた鴨を描かずに、置き物のそれを描くとは、鯨麻呂氏もいささか「ズボラ麻呂」になられたようですが、ご本人曰く「寒いので」。ごもっとも、今年は例年になく寒い日が多いですな。比良山系の山々からの風は比良の風、中でも比叡山から吹き下ろす風は比叡颪(日枝おろし)と言い、その名の通り冷えるのでありますな。芭蕉の句を添えて置きましょう。千鳥立(たつ)更行(ふけゆく)初夜の日枝(ひえ)おろし (芭蕉) (注) 「初夜」=夜を三分した最初の時間帯を「初夜」と言う。 戌の刻(午後8時前後)のこと。海くれて鴨のこゑほのかに白し (芭蕉) (注) 575ではなく557の破調になっているが、 「海くれてほのかに白し鴨のこゑ」 と普通の575調とした場合との感じの差を鑑賞してみ て下さい。(柿) 柿の実が枝付きのままに、いい風情に描かれています。赤い小さな実の木はクロガネモチでしょうか。葉が一枚も付いていないから茨でしょうか。 「描かれているのが何か分からぬ時は問い合わせをしてくれ」と鯨麻呂氏は仰っていますが、敢えてそれをせずに、記事にしていますので、ご覧になられる方も、ヤカモチの言説にとらわれず、ご自身の感じで何とお決め下さいませ。(果物) フルーツジュースになる前の果物たちでありますな。 そよりと朝の風も吹いている・・中原中也なら、こんなフレーズで後を続けるのでしょうが、ヤカモチなれば、朝床に 聞けばわが妻 ミキサーの 音かしましく 起きよと言ふらし (偐家持)であります(笑)。(パンとトマトと玉葱と) パンかジャガイモか迷いましたが、語呂的にはパンがいいし、紙袋はパンに似合い、ジャガイモなら布袋が似合うという、ヤカモチ流勝手解釈で、パンにしてしまいましたが、じゃがしかし、ジャガイモかも、と思ったりもしています。 これも、ご来場者のご判断に委ねることと致しましょう。「作者の鯨麻呂の意向はどうなっているのだ?」とお気にされるお方もござりましょうが、作品は作者の手から離れた瞬間に「見る者」の物になるのでありますれば、作者のことはもうどうでもいいのでありますな(笑)。 「じゃがしかし、芋かなあ~?」 無視された、とカボチャとシイタケとトウモロコシが拗ねていますが、無視した訳ではなく、タイトルとしては、品目三つが限度で、それ以上になると「野菜たち」となってしまうので、省略したに過ぎませぬ。ちゃんと見て居りますよ。(ナシとブドウ) これは紛うかたなき、ナシとブドウ。 ナシではなく「青リンゴ」なんぞと言わないで貰いたいですが、そう言われればそのようにも見えぬこともナシ、であります。(ドーナツ) これは「どーなった」がご覧になっても「ドーナッツ」でありましょう。 では、どうぞお召し上がり下さいませ。ご来場の皆さまへの鯨麻呂氏からの心ばかりのおもてなし。おやつのドーナツです。お飲み物は何に致しましょうか?但しソフトドリンクに限らせて戴きます(笑)。 ご来場、どうも有難うございました。また、いつの日にか、鯨麻呂氏のお気の向き次第でありますが、第4回展でお会い致しましょう。
2013.02.01
コメント(4)
全22件 (22件中 1-22件目)
1