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岬麻呂氏からの旅便りが届きました。 今回は、東北の紅葉を訪ねる旅。 銀山温泉、川原毛地獄などを訪ねての10月24日~27日、3泊4日のご夫婦旅であったようです。<参考>過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラ。 岬麻呂旅便り関連のフォト蔵写真集はコチラ。(旅・岬巡り報告226及び同写真説明)(銀山温泉の切手) 上の「報告226」から旅程の概略を抜き書きして、Eメールで送信されて参りました旅の写真を添えて、ご紹介させていただきます。 各写真の説明は、上記の「写真説明」をご参照願います。10月24日:関西空港⇒仙台空港⇒二本松IC経由・岳温泉・鏡池⇒安達太良山ロープウェイ⇒土湯トンネル経由・磐梯吾妻レークライン⇒中津川渓谷⇒秋元湖⇒五色沼(柳沼など)⇒アクティブリゾーツ裏磐梯(泊)(岳温泉・鏡池 紅葉と満開の桜)(安達太良山中腹の紅葉)(中津川渓谷)(秋元湖)(五色沼<柳沼>)同25日:五色沼(毘沙門沼・柳沼)⇒桧原湖⇒西吾妻スカイバレー⇒白布峠⇒米沢城址⇒七ヶ宿・滑津大滝⇒遠刈田温泉経由⇒蔵王ハイライン⇒蔵王お釜⇒銀山温泉・瀧見館(泊)(毘沙門沼)(同上)(蔵王お釜)(銀山温泉・夕景)(同上・夜景)10月26日:銀山温泉⇒山刀伐峠⇒赤倉温泉⇒鳴子峡⇒鬼首温泉郷⇒秋の宮温泉郷⇒川原毛地獄・三途川渓谷⇒泥湯温泉⇒小安峡⇒皆瀬川⇒小安峡温泉(泊)(鳴子峡)(川原毛地獄)(三途川渓谷)(小安峡)同27日:小安峡温泉⇒栗駒山北側R342⇒滑寺村荘園交流館⇒厳美渓⇒中尊寺⇒鹽竈神社⇒仙台空港⇒関西空港 関西の紅葉は今しばらく待たねばなりませんが、ひと足早く、東北の見事な紅葉風景を楽しませていただきました。
2018.10.30
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偐万葉・ビッグジョン篇(その37) 久々の偐万葉です。シリーズ第296弾。 今回のビッグジョン篇(その37)で、偐万葉シリーズ掲載のヤカモチの戯れ歌は全5598首、ブロ友氏の追和などの歌が593首。 よって全6191首になっています。 うちビッグジョン篇のそれは、ヤカモチ歌693首、ビッグジョン歌39首であります。 それはさて置き、ビッグジョン氏とのブログでのお付き合いは、2010年5月30日に当方が同氏ブログを訪問、コメントを記入したのがその始まりでありますから、もう8年5ヶ月の長きにわたります。因みに、偐万葉では同氏は交野歩麻呂(かたののほまろ)とお呼びして居ります。<参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラ。 ビッグジョン7777氏のブログはコチラ。 偐家持が歩麻呂に贈りて詠める歌24首宮古島 今日か渡りぬ 池田なる 古き石橋 見らくしよしも (偐歩麻呂)(本歌)明日香川 明日も渡らむ 石橋(いははし)の 遠き心は 思ほえむかも(万葉集巻11-2701)(2018年2月26日池田橋)雪月花 すがしき額の 文字見てや 心開けて われもと思(もふ君(額郎女)(本歌)ひさかたの 月夜(つくよ)を清み 梅の花 心開けて わが思(も)へる君 (笠郎女 万葉集巻8-1661)(2018年3月7日雪月花)三輪山にしかも登るか裸足にて 若きをみなの一人し行ける (下山家持)(本歌)三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや (額田王 万葉集巻1-18)わが里も 稲荷の社(もり)の 道の辺に この激安の 自販機はあり (安売り家持)(2018年4月3日激安自販機)反射板 図根のことは 酒解(さかとけ)の 神も解けずや 検索の君 (検家持) (2018年4月9日図根三角) (同 反射板)なになにと 大山蓮華(おほやまれんげ)の 記事見るや 君見に行くか 庭の朴の木 (朴家持)ほほがしは いまだ含(ふふ)むか 君が家(や)に 花咲く五月(ごがつ) 共にし待たむ (朴家持)(2018年4月22日朴の木の花の蕾)わが背子が 咲くを待つとふ ほほがしは 今年は三輪(みわ)の 山とも咲くもか(本歌)わが背子が ささげて持てる ほほがしは あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)(僧恵行 万葉集巻19-4204)(注)ほほがしは=ホオノキ(朴の木)風さやに 青葉に遊び 白雲の 空行くごとに 越後路われも汗たらり 眼にもしむなり 日焼けたる 塩吹昆布 越後路われは (汗家持)下書きの行方不明と二度書きを すればブログに既に記事あり (若山歩水)牧水の詩碑にし逢へばみなかみの 紀行など読む旅のつづきに (若山歩水)(本歌)秩父町 出はづれ来れば 機をりの うたごゑつづく 古りし家竝に (若山牧水)(2018年6月6日若山牧水詩碑)牧水に 心酔するの よかれども 酒はほどほどに 飲むべかりける(本歌)白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり (若山牧水)君がごと 交野(かたの)が原の すべりひゆ 引きて食はむと 思はずわれも(本歌)上野(かみつけの) 可保夜(かほや)が沼の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾をば絶えそね (万葉集巻14-3416)(注)いはゐつら=伊波為都良。スベリヒユ、ジュンサイ、ミズハコベなどの説がある。(2018年8月12日スベリヒユ)野辺見れば 釣鐘人参 田村草 わが待つ秋に なりにけるかも(本歌)野辺見れば 撫子の花 咲きにけり わが待つ秋は 近づくらしも(万葉集巻10-1972) (2018年9月12日アキノタムラソウ、ツリガネニンジン)わが岡の おかみになけど いささかの えにしのあれば 行きても見むか枚方の おかみの坐(いま)す その岡に 見らくしよしと きみや行きけむ (河内夫人)(本歌)わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪の砕けし そこに散りけむ (藤原夫人 万葉集巻2-104)(2018年10月2日万年寺山からの眺望)つぎねふや山背(やましろ)の道(みち銀輪に 乗らぬ背子らは徒歩(かち)より行くか (銀輪家持)(本歌)つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 他夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾(あきづひれ) 負ひ並(な)め持ちて 馬買へわが背 (万葉集巻13-3314)(2018年10月4日JR山城多賀駅)われはもや かまきり見たり 思ひ入れ 君が深きの かまきり見たり (藤原鎌切)(本歌)われはもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり (藤原鎌足 万葉集巻2-95)藤袴 詠みし憶良も 見たるかな あさぎまだらの 広げたる翅 (斑(まだら)家持)倒木の あまた塞げる 山道を 返すと言はで なほ登りけれ (大納得健闘)(本歌)滝のおとは たえてひさしく なりぬれど 名こそながれて なほきこえけれ (大納言公任 拾遺集1032 小倉百人一首55)(2018年10月25日登山道を塞ぐ倒木)蓮と言ふも 蓮にあらざり 芋と言ふも 芋に非ざる 蓮芋の怪 (斑入り家持)(2018年10月26日蓮芋の葉)花の名は 天の河原の 彦星も 舌噛むらむか ホヤ・ムルティフロラ (多面体家持)さほどには 遠くもなけど 我が銀輪 まだふみも見ず 山田池の園 (小偐部内侍)(本歌)大江山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立 (小式部内侍 金葉集586 小倉百人一首60)(2018年10月28日山田池公園BBQサイト)<追記> ビッグジョン氏のブログの当該ページを覗くと追和の歌が詠まれていましたのでここに追記して置きます。 これにより、上記の「ブロ友氏の追和などの歌」は594首、「全6191首」は「全6192首」となり、「ビッグジョン歌」は40首となります。 歩麻呂が追和せる歌1首山田池 向かいの主の 言うことにゃ まだふみもみず 古希を過ぎても (氷室百人一首)<注>掲載の写真はビッグジョン7777氏のブログからの転載です。
2018.10.29
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第205回智麻呂絵画展 本日、智麻呂邸を訪問、新作絵画6点を仕入れて(これはヤカモチ用語で絵を撮影した、という意味)参りましたので、先の3点と合わせ全9点を以って、智麻呂絵画展開催といたします。 どうぞ、ご来場、ごゆるりとご覧下さいませ。<参考>過去の智麻呂絵画展は下記からご覧下さい。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ フォト蔵の智麻呂絵画集写真はコチラ 先ずは、彼岸花の絵から。(犬上川畔の彼岸花) この絵は、当ブログの2018年9月23日の記事に掲載の写真を絵にされたものです。スマホ画面で当該記事の彼岸花の写真をお見せした処、この写真を絵に描きたいと仰ったので、印刷してお届けしたら、このような素敵な絵になっていたという次第。 智麻呂画伯としては珍しい風景画ですが、欅の幹の黒と葉の緑と彼岸花の赤とのコントラストによって、いい雰囲気を醸しています。<参考>ヒガンバナ 2018.9.23.(モデルとなった写真) 次は、智麻呂ご夫妻のお嬢様から敬老の日に贈られた花束です。 ご夫妻になぞらえた老人夫婦の人形が添えられてありましたが、智麻呂氏は、「ワシはこんなに老けてはいない」と余りお気に召さなかったようで、絵に仕上げるについて、その人形を取ってしまわれたとのこと。お嬢様曰く「お爺ちゃんにそっくりなのに・・。」 ヤカモチはノーコメントであります(笑)。(敬老の日の花束) 智麻呂氏のその意気やよし。 いつまでも若々しい心で、絵画に取り組んでいただきましょう(笑)。 次は、フォックスフェイス。(フォックスフェイス) これは、智麻呂氏が利用されているデイサービス施設での催し・「お買い物デー」の折に、石切神社参道のお花屋さんで智麻呂氏ご自身が買い求められたものだそうな。この独特のフォルムが絵心を刺激したもののようです。 次は、イチジクとブドウ。(イチジクとブドウ) これは、ご近所にお住まいのご夫妻の友人、サワちゃんとケンちゃん姉弟からの贈り物です。 実際に頂戴したブドウはグリーンのマスカットか何かの品種のブドウでしたが、絵に描く前に食べてしまったので、たまたま買っていた巨峰があったので、これを皿に盛って身代わりモデルになっていただいたとか。 代用モデルなのだから、色をグリーンに仕上げればいいものを、と思うのは凡人。智麻呂氏は見たまま在るがままに描く、これがその流儀なのだから、仕方ないのであります(笑)。 次は、トウガンです。(凡鬼さんの冬瓜) これは、先日・10月14日の読書会の折に、凡鬼さんがお持ち下さったものです。凡鬼さんは家庭菜園で色んな野菜を栽培されていて、収穫された時には、そのいくつかをお持ち下さるのですが、このトウガンもそのようなものの一つなのであります。 どーんと存在感があって、何やら愛嬌のある野菜であります。 次は、名前を存じ上げないので、「赤い実」として置きます。 これも、小万知さんが先の読書会の時にお持ち下さったものです。(赤い実) いずれこの記事をご覧いただいた小万知さんから、名前はかくかくしかじかとコメントが寄せられることでしょうから、それを待って名前は追って書き加えさせていただきます(笑)。<追記>上の赤い実は、花茄子(ハナナス)でありました。 次は、ひろみの郎女さんが、絵の題材にと、同じく先の読書会に鉢植えをお持ち下さったもの(ホヤ・ムルティフロラ) ホヤ・ムルティフロラ(Hoya multiflora)という舌を噛みそうな名前の花です。マレーシア原産の植物らしいです。 ちょっと詳しい事情は存じ上げないのですが、ひろみの郎女さんのブログ記事(下記参考を参照)でのご紹介によると、この鉢植えは小万知さんからの戴き物のようです。珍しい花なので、智麻呂氏にその絵を描いていただこうと、一時的に智麻呂邸にお預けになったよう。<参考>「ホヤの仲間、彦星」が咲きました! 2018.10.13. 絵が完成したので、鉢植えをお引き取りに来られた際に持って来られたのが、次のシュウメイギクであります。(シュウメイギク) 以上であります。 本日も、ご来場、ご覧下さり、ありがとうございました。
2018.10.26
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先般の嵯峨野・桂川自転車道銀輪散歩では、その合間にこんなところへも立ち寄りました。 妙心寺・東林院の「梵燈のあかりに親しむ会」という催し。何処やらのホテルからのメールでこの催しのことが紹介されていたのを目にして、立ち寄ってみたもの。日本一暗いライトアップ、とかナントカと紹介されていたように記憶します。<参考>東林院・Wikipedia 【動画あり】秋の夜長を優しく彩るあかり・産経新聞2018.10.24.(東林院・梵燈のあかりに親しむ会) 東林院は「沙羅双樹の寺」として知られていて、小生も、境内の夏椿のネット画像によって、その名を知った寺である。日頃は非公開の寺であるが、毎年6月の「沙羅の花を愛でる会」と10月の「梵燈のあかりに親しむ会」の時には、一般の者も入ることができるという次第。(松風一味禅 <しょうふういちみのぜん>) 庭にロウソクのあかりで描かれた言葉は「松風一味禅」 「一つ松幾代か経ぬる吹く風の声(おと)の清きは年深みかも(市原王 万葉集巻6-1042)」という歌を思い出したりもしましたが、これも一味の禅でありますかな。(松風一味禅)(松風一味禅) 撮影の角度が悪くて「松風一味禅」が一つの画面に収まらず、且つ読み辛くなっていますが、これも珍味とお赦しあれ。松風も 一味の禅と 梵燈の 語らく聞くも 禅にやあらむ (煩家持)来し方をゆらぐあかりに見つつもや そひてたぐひて黙してありき(黙家持) 言葉は禅語からの引用のようですが、昨年は、 秋清風月佳(あききよくふうげつよし)、で それ以前では、 秋月照山峰(しゅうげつさんぽうをてらす)、 秋風一味涼(しゅうふういちみのりょう)、などもあったようです。(○△□) 分かりにくいでしょうから、正面から撮影。(同上) □は、とらわれた心を表す。四角の枠に囲まれ、その枠から外に踏み出せずにいる人間の心の状態を表している。△は、座禅をしている姿、坐相を表す。仏と一体となった姿を象徴している。そして、○は、円相。悟り、真理、仏性、宇宙全体、とらわれない心を象徴している。 とらわれた心が座禅によってとらわれない心となり、絶対真理、悟りへと至るというようなことを示しているのでもあるか。 うつせみは 数なき身なり 山川の さやけき見つつ 道を尋ねな (大伴家持 万葉集巻20-4468)(○)(妙心寺地図) さて、妙心寺は以前銀輪散歩で立ち寄ったことがある。 一昨年の1月に仁和寺、金閣寺と回った際に妙心寺を通り抜けている。この折の銀輪散歩は記事にしないままであったが、妙心寺総門脇の柿の写真を何かの記事の写真に使用したので記憶に残っているのでありました。 で、調べてみると、それはこの写真でした。(妙心寺総門脇の柿) この時は、北側の総門から入り、大法院、仏殿、法堂などの前を通っているようですが、記憶が曖昧。まさに通り抜けただけのようです。 ついでなので、その折の写真も参考までに掲載して置くこととします。(妙心寺・総門)<参考>妙心寺・Wikipedia 今回は、南側の入口から入っているので、この門は通っていない。(同上・大法院)(同上・大法院由緒) 大法院も東林院とは反対側に位置するので、今回はコース外。 一昨年の時も、偶々前を通りかかったら、佐久間象山塔所という文字か真田家菩提所という文字かに引かれて写真を撮ったのだろうが、記憶が曖昧である。(象山佐久間先生墓道の碑)(同上・法堂と仏殿) 東林院は、北側の総門から入ると、この仏殿の前で左折する。南側から入ると右折ということになる。今回は、暗い中をこの前を通って東林院へと向かいました。(同上・大方丈) これは、法堂の隣にあった建物。ついでに撮っただけか(笑)。 しかし、これが本堂みたいなもののよう。 以上、嵯峨野・桂川銀輪散歩の余録でありました。
2018.10.24
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(承前) 淀城跡公園、稲葉神社に隣接してあるのが与杼神社。(与杼神社) 「与杼」と書いて「よど」とよませるのだろう。要するに「淀神社」ということである。<参考>与杼神社・Wikipedia 千観・Wikipedia 天台宗の僧、千観が応和年間(961年~964年)に肥前国の与止日女神社より淀大明神を勧請して建立したとのこと。 祭神は、豊玉姫命、高皇産霊神、速秋津姫命。(淀屋の高灯籠) 境内には、宝暦9年(1759年)に、大坂の豪商・淀屋ゆかりの者が寄進したという高灯籠がある。 淀屋の初代当主・淀屋常安(岡本与三郎)は、淀周辺の岡本荘の出身とも言われているそうな。(同上・説明碑) 与杼神社を出て、淀商店街を抜けると、京阪・淀駅である。 駅の向こう、東側は京都競馬場である。(京阪電車・淀駅) 競馬場とは反対側の京阪の線路沿いの道を行く。 駅前から200m位は、歩行者専用道になっていて、車が通らない極楽道。それも束の間、一般道(府道124号)に出てしまう。これを北東へと進む。 一般道に出て少し行った辺りで「史蹟戊辰役東軍西軍激戦之址」という標石が目にとまる。戦死者の慰霊碑が建てられている。(史蹟・戊辰役激戦之址碑) 道は、京阪電車の高架下を潜り、東側に出て宇治川右岸の堤防上の道となり、いつの間にか、京阪電車の線路より高い位置を走っている。 そして、こんな風景に出会う。(ボタ山?) 炭鉱ではないのだからボタ山とは言わないのだろうが、古いアスファルトの廃棄物の山である。何らかの用途に再利用するために集積されているのだろうか。 宇治川大橋北詰で道は国道旧1号と交差しているのだが、信号は無く、次々と切れ目なく高速で左右から車が走って来る。とても横断できる感じがしない。止む無く、国道旧1号に沿って少し北へ回り、隧道で反対側にまわり、再び宇治川沿いの道に戻る。 以前、伏見港公園から自転車で宇治川沿いを走り八幡、枚方経由で自宅まで帰ったことがあるのだが、このような迂回をしたという記憶がない。別のルートを行ったのか、記憶というのはいい加減なものである。 そして、その伏見港公園に到着である。(伏見港公園) 橋の上で休憩していると、舟がやって来た。(十石舟)<参考>十石舟と三十石船・NPO法人伏見観光協会 大倉酒造の裏手の宇治川派流の乗船場から三栖閘門前の船着き場まで往復する観光船である。(同上)<参考>伏見散策余録(龍馬とお龍、宇治川派流、三栖閘門)2012.9.24. 右手奥が三栖閘門。舟は閘門へと入って行く。その向こうは宇治川である。閘門の奥、左岸に船着き場がある。 公園を通り抜けて、京阪・中書島駅西側の踏切を渡り北上、大手筋通りで左折、西へ。新高瀬川を渡る手前、右手に松本酒造の建物。いい雰囲気なのでパチリ1枚撮影。(松本酒造)<参考>松本酒造・Wikipedia 新高瀬川を渡ると三栖公園。 ここで、右折。国道を北へ。 京セラ本社前を過ぎて二つ目の辻を左折、西に行くと城南宮の東入口。 城南宮も何度となく来ているので通過するだけ。自転車乗り入れ禁止なので手押しで歩いて通行。(城南宮)<参考>城南宮・Wikipedia 城南宮については、上の<参考>や下掲の説明碑写真をクリックして、大きい画面サイズでお読みいただくことし、委細は省略であります。(同上・説明碑)(鳥羽伏見の戦い跡碑)(同上) ここで、トイレ休憩の後、西出口から出て、国道1号(京阪国道)を渡って、西側の鳥羽離宮跡公園へ。(鳥羽離宮跡公園 奥が庭園の築山の遺構「秋の山」)<参考>鳥羽離宮・Wikipedia(鳥羽離宮南殿跡碑) ここも掠めて通り過ぎ、小枝橋で鴨川、西高瀬川を渡る。 小枝橋と言えば、鳥羽伏見の戦いの口火が切られたのがこの橋の上であったということだが、現在の小枝橋はそれではなく、この少し下流、城南宮の西出口から延びている参道の先に架かっていた橋がその小枝橋とのこと。今は橋は存在せず、こちらの小枝橋に迂回して川を渡らねばならない。 さて、川を渡って塔ノ森公園のヘリを北に回り込み、桂川沿いの自転車道に入るつもりであったが、入口がよく分からぬまま、来る時とは反対に消防学校の東側の道を北上する。消防学校などの建物を挟んで、その向こうに自転車道が見えているのだが、入れない。 吉祥院交差点で左折して祥久橋東詰から漸くに桂川沿いの道に入る。(京都八幡木津自転車道 桂川左岸祥久橋付近 奥が嵐山)(同上・天神川と桂川の合流点)(同上・桂大橋付近 自転車道から少し外れて川の水際に出てみた。) 阪急京都線の鉄橋が見えて来た。 嵐山が近くなりました。 西大橋、上野橋、松尾橋を過ぎ、嵐山東公園。(キバナコスモス) そして、「いってらっしゃい」と出がけに見送ってくれたキバナコスモスが「お帰りなさい」と迎えてくれる。 中ノ島公園に帰着。茶団子を売っているお嬢さんが居たので、それを買って、公園のベンチで食す。 渡月橋は相変わらずの人出。橋を渡って、ホテルで荷物を受け取り、トレンクルを宅配便で自宅に送り、銀輪散歩終了であります。(完)
2018.10.23
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(承前) 渡月橋を南に渡って中ノ島公園に入り、中ノ島橋という洒落た橋を渡ると京都八幡木津自転車道の入口がある。(中ノ島橋)<参考>京都府道801号京都八幡木津自転車道線 京都八幡木津自転車道は、嵐山を起点とし、桂川沿い(一部鴨川沿い)を下り、八幡市の桂・宇治・木津三川合流地点に架かる御幸橋経由で木津川に入り、木津川市木津の泉大橋畔を終点とする全長45kmの歩行者自転車専用道である。 この道は何度か走っているが、今回は淀まで走って、伏見経由で、城南宮などに立ち寄って、再び桂川沿いに戻り渡月橋まで帰り、JR山陰線・嵯峨嵐山駅で切り上げとする、というコース計画である。 キバナコスモスの咲き群れる、桂川右岸の道を下る。(キバナコスモスを愛でつつ) 松尾橋で河川敷の自転車道から地上に上がり、松尾大社にご挨拶して行くこととする。(松尾大社・一の鳥居)(同上・二の鳥居)(同上・神門)(同上・説明碑) 松尾大社は大宝元年(701年)秦氏の神社として創建されたのが起源。 祭神は大山咋と市杵島姫。(同上・本、拝殿) 再び、自転車道に戻り、上野橋を潜る。この辺りから西大橋にかけての道は、両サイドに畑が広がり、さながら農道を走っている気分である。 西大橋で右岸から左岸の道に移る。 先ず阪急京都線の鉄橋下を通過。 桂離宮を対岸に見て、桂大橋を潜ると桂川緑地である。 緑地はJR線の鉄橋の下辺りで終わっているが、その少し手前で、支流の天神川に架かる小さな橋を渡って、道は天神川の左岸沿いとなる。 JR線、東海道新幹線の鉄橋下を通過。(天神川沿いの道。右手の並木の向こう側が桂川が流れている。) 天神川と桂川の合流点を過ぎると、道は再び桂川沿いとなる。久世橋、桂川橋の下を潜り、久我橋で府道202号と地上で交差する。(久我橋) ここで、左折して府道202号沿いに、西高瀬川、鴨川を渡り、鴨川左岸沿いの道に入る。 ススキの穂が銀色に輝いて美しい。人皆は萩を秋と云ふよしわれは尾花が末を秋とは言はむ(万葉集巻10-2110)(注)末(うれ)=穂先(鴨川沿い・川原のススキ)(同上) 鴨川はこの先の羽束師橋の手前で桂川と合流する。 従って、道は鴨川沿いから、再び桂川沿いとなる。 羽束師橋の次の橋が宮前橋。 三川合流点の御幸橋の一つ手前の橋である。(宮前橋) ここで、自転車道とお別れして、納所交差点に向かい、これを右折して、淀城跡公園に向かう。 先般(7月23日)の友人・偐山頭火氏との銀輪散歩の際には、此処に立ち寄って、というのが小生の目論みであったのだが、素通りして横大路運動公園まで車を走らせ、そこに駐車して銀輪行を開始した結果、立ち寄らず仕舞いとなってしまっていたので、その宿題を果たそうと思った次第。<参考>深草北陵銀輪散歩 2018.7.23. 淀城・Wikipedia 淀古城・Wikipedia(淀城跡公園)(同上・明治天皇御駐ヒツ之址碑)(同上・天守台跡)(同上・淀城の由来) この淀城は、元和5年(1619年)の伏見城廃城に伴い、築城されたもので、秀吉築城の淀君ゆかりの淀城(古淀城)の跡地はここより約500m北の地にあったという。 この公園に来るまで、漠然と秀吉が淀君のために建てた淀城の跡かと思っていたので、その思い違いが正されたという次第。(古淀城の位置) 今回は、古淀城のあった付近には立ち寄らずでありましたので、また何れかの機会に、ということにします。(唐人雁木跡)(同上・説明碑)(同上)(稲葉氏時代の淀城下古図・稲葉神社の祭神と淀藩) 淀城跡公園に隣接してと言うか、公園内と言うか、この淀城の城主であった稲葉正成を祀る稲葉神社がある。(稲葉神社 稲葉正成と春日局をまつる) 隣に与杼神社があるのだが、これは明日の記事とします。(つづく)
2018.10.22
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(承前) 常寂光寺も二尊院も多くの観光客。外国人観光客が目立つ。 銀輪散歩には不向き。さて、何処へ行こうか。 大覚寺で詠まれたという、滝の音はたえて久しくなりぬれど・・の藤原公任の歌碑を見たからでもあるまいが、大覚寺へと向かう。 大覚寺と言えば、第52代嵯峨天皇。 彼は、桓武天皇と皇后・藤原乙牟婁との間の子。桓武没後、同母兄の安殿親王が即位して平城天皇となるが、病気のため3年余で退位し上皇となり、弟の神野親王が皇位につく。これが嵯峨天皇。 しかし、平城上皇は、愛人の薬子とその兄の藤原仲成にそそのかされて、復位を図る。これが失敗。平城上皇は剃髪して出家、仲成・薬子兄妹は自殺(薬子の変)。 兄との権力争いによって傷ついた心を癒すためでもあったか嵯峨天皇は、嵯峨野に離宮を建てて暫し滞在。その場所が現在の大覚寺である。鎌倉時代になって第91代後宇多天皇が譲位後、此処大覚寺で院政を行ったことから嵯峨御所とも呼ばれた。<参考>大覚寺・Wikipedia 薬子の変・Wikipedia(大覚寺御所阯の碑) しかし、大覚寺は門前をパス。広沢池へと向かう。(広沢池) この辺りまで来ると観光客の姿も余り見られない。(広沢池説明碑) 広沢池は、第59代宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正が平安中期(永祚元年・989年)に遍照寺を建立した際に造られた池だと伝えられる。 池の西岸に遍照寺旧境内という標札が立っていて、小さな出島になっている。月見堂などは此処に建っていたのかもしれない。(遍照寺旧境内)(同上・説明碑) 自転車トレンクルを停めて、暫しここで休憩。 対岸の茅葺建物がいい風情をかもしている。(遍照寺旧境内から対岸を望む) 池の南西畔、府道29号沿いに兒神社というのがあった。(兒神社)(同上・由来) 遍照寺開山の寛朝僧正が亡くなった時、僧正の侍児がその死を悲嘆悲泣し、この池に身を投げた。この神社は、後追い自殺したその児を哀れに思った村人たちが彼の霊を慰めるために建てたものだという。 広沢池の西岸に沿った道を北へと走る。コスモスが咲き群れて風に揺れている。ゆるやかな上り坂を行くと後宇多天皇陵がある。(後宇多天皇陵)<参考>後宇多天皇・Wikipedia 後宇多天皇は、持明院統と大覚寺統の両統迭立時期の大覚寺統の代表的天皇。 両統迭立というのは、第88代後嵯峨天皇の長男第89代後深草天皇と次男第90代亀山天皇が互いに自分の子を天皇位につけようとして譲らず、鎌倉幕府が調停に入り、後深草の系統(持明院統)と亀山の系統(大覚寺統)が交互に皇位につくという約束で和解して始まった皇位継承の約束事のこと。 大覚寺統の後宇多天皇が退位した後の天皇は持明院統の天皇ということで、後深草の息子が天皇となる。第92代伏見天皇である。そして、伏見天皇の次は、大覚寺統の天皇ということで、後宇多天皇の息子が皇位につくべき順番となる。ところが、伏見天皇はこの約束を守らず、自分の息子を天皇位につけてしまった(第93代後伏見天皇)。 そんなことで、後宇多が上皇(法皇)として院政を敷くのは、自分の息子の後二条天皇即位まで待たなければならなかった。院政が敷けるのは自分の系統が天皇であらねばならない決まりになっていたからである。 後宇多の退位は1287年10月21日、後二条即位が1301年12月1日であるから、14年も待たされたことになる。 後二条の後は持明院統の花園天皇となり、その後に天皇になったのが、これも後宇多の息子の後醍醐天皇。南北朝の幕開けへと続く。(同上) 先の台風で倒木が御陵の遥拝所への通路を塞いでいて「立入禁止」のロープ張られていた。しかし、倒木の隙間を潜って入れないこともない。入ってみた。遥拝所前はご覧のように吹き飛ばされて来た枝や葉が散乱していて、いかにも取り込み中の雰囲気である。早々に退散である。 後宇多天皇陵の前の道を西へ行くと嵯峨天皇陵がある。(嵯峨天皇陵参道入口)<参考>嵯峨天皇・Wikipedia 石段に一人ウオーキングの男性が座って居られた。石段を上って15分位で御陵に行くことができると仰っていたが、左膝痛が再発しかかっている感じもあったので、パスして坂を下ることとする。 本日はここまでとしますが、二尊院境内で撮ったこんな写真がのこっていました。(小倉餡発祥之地碑)(同上・裏面) 小倉餡という名前からして、この地がその発祥地であるのだろうと思っていましたが、こうして示されると、なるほど、という次第。詳しいことは写真をクリックして大きいサイズの画面でお読み下さい。勿論、興味のある方は、であります。(つづく)
2018.10.21
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二尊院の境内でアサギマダラという蝶に遭遇したことは前頁の記事に書きましたので、今日はその二尊院などを記事にします。 わが銀輪散歩はメジャーな観光地は避けるのを原則としているのに、何を血迷ったか、嵯峨野・嵐山に来てしまったのでありました。 予想通り、渡月橋から嵐電・嵐山駅前を通り北へと延びている道路は観光客でごった返している。 まあ、来てしまったものは仕方がない。渡月橋から上流へ、時雨殿の前を通り、亀山公園を抜けて、常寂光寺、二尊院へと向かうこととする。こちらに来たからには藤原定家殿に敬意を表さなくてはと思った次第。この両寺は定家の山荘・時雨亭跡の候補地なのである。 常寂光寺には、藤原定家・藤原家隆の像を納めるお堂・歌仙祠(謌僊祠)、定家山荘跡の碑、時雨亭跡碑があり、二尊院にも時雨亭跡なるものがある。これらは2008年1月に訪ねて以来になるから、実に10年9ヶ月ぶりの訪問である。<参考>藤原為家墓 2008.1.9. 亀山公園に入ると百人一首の歌碑が出迎えてくれました。何基あるのか知らないが、目についたものを撮影。(小倉百人一首45番 謙徳公歌碑)あはれとも いふべき人は おもほえで身のいたづらに なりぬべきかな (謙徳公 拾遺集950)<(私が今この世を去っても)「お気の毒に」と言う筈の人があるとは思われないので、私はむなしく(恋い焦がれながら)死んでしまいそうだ。>(注)謙徳公=藤原伊尹。(同上47番 恵慶法師歌碑)八重葎 しげれる宿の さびしきに人こそ見えね 秋はきにけり (恵慶法師 拾遺集140)<雑草が生い茂った宿は寂しい有様で、人は誰も訪ねては来ないけれど、秋だけはやって来たことだ。>(同上53番 右大将道綱母歌碑)なげきつつ ひとりぬる夜の 明くる間はいかに久しき ものとかは知る (右大将道綱母 拾遺集912)<(来ないあなたのことを思い)なげきつづけて、ひとり寂しく寝る夜の、明け白むまでの間がどんなに長く感じるものであるかご存じですか。>(注)道綱母=藤原兼家の妻。兼家との間の子が道綱。 「かげろふの日記」の作者(同上55番 大納言公任歌碑)滝のおとは たえてひさしく なりぬれど名こそながれて なほきこえけれ (大納言公任 拾遺集449 千載集1032)<(その昔、嵯峨上皇がめでられたという)滝の水は絶えて、長い間その音も聞かれないで今に至っているが、その名だけは世間に流れて、やはり聞き伝えられているのだなあ。>(拾遺集では「大覚寺に人人あまたまかりたりけるに、ふるき滝をよみ侍りける」とあり、千載集には「さがの大覚寺にまかりてこれかれ歌よみ侍りけるによみ侍りける」とある。)(注)大納言公任=藤原公任。 公園の北出口から出て、トロッコ電車嵐山駅の横を通り、何とかという神社の前の池を過ぎると、常寂光寺である。(常寂光寺・仁王門)<参考>常寂光寺・Wikipedia 先ずは定家山荘跡の碑。 定家の山荘、時雨亭が何処にあったかは諸説あって定まらない。 名は定家なるも、山荘の所在は不定か(笑)。 二尊院や厭離庵などもその候補地である。(定家山荘跡の碑 小倉百人一首26番貞信公歌碑)小倉山 峰の紅葉 こころあらば今ひとたびの みゆきまたなむ (貞信公 拾遺集1128)<小倉山の峰のもみじ葉よ、もしやさしい心があるなら、今一度のみゆき(醍醐天皇の行幸)があるまで、(散らずに)待っていてほしい。>(注)貞信公=太政大臣藤原忠平 小倉百人一首の成立については諸説あるが、鎌倉武士・宇都宮頼綱蓮生入道の依頼で、定家が自撰自書したものを蓮生に届け、蓮生がこれを自身の山荘の障子に貼った。それらの歌が元になって、後人(定家の息子の為家が有力)が編集して、今日の百人一首の形になった、というあたりが妥当なところか。因みに、為家の妻は蓮生の娘である。 (歌仙祠と時雨亭跡碑)(常寂光寺・本堂) この寺も紅葉が綺麗なのであるが、ご覧のように未だその時期ではありません。(同上・多宝塔)(同上) 常寂光寺を出て二尊院へと向かう。落柿舎はパス。 二尊院総門を入って拝観受付を済ませて先ず目に入ったのはこれ。(西行法師庵の跡碑) 西行さんはここでも庵を結ばれたのでありましたか。 そう言えば、来る途中、二尊院総門への坂の手前に「西行井戸」という石碑があったのを目にしたように思う。 掲示されている歌は、山家集所収の「秋の末に、法輪に籠りてよめる」として並んでいる4首のうちの1首である。わがものと 秋の梢を おもふかな 小倉の里に 家居せしより 参考までに他の3首も掲載して置きましょう。大井河 井堰によどむ 水の色に 秋深くなる ほどぞ知らるる (山家集484)小倉山 麓に秋の 色はあれや 梢の錦 風に裁たれて (同485)山里は 秋の末にぞ 思ひ知る かなしかりけり こがらしの風 (同487) 総門から黒門へと通ずる参道は「紅葉の馬場」と呼ばれている通り、楓並木を潜り抜けて行く。もう少し秋が深まれば見事な紅葉となることでしょうが、そういう肝心の時期に外れてやって来るのがヤカモチ流というもの。 紅葉の馬場の突き当りの、ゆるやかな石段を上る左手に高浜虚子の句碑がありました。(高浜虚子句碑)散紅葉 ここも掃きゐる 二尊院 (虚子)(二尊院・本堂)<参考>二尊院・Wikipedia 上の本堂の写真の左端に写っているフジバカマが、前頁記事のアサギマダラが群れていたフジバカマである。 写真には写っていないが、更に、左側にもフジバカマが植えられていて、前頁の最後の写真の翅を広げたアサギマダラを撮ったフジバカマはそちらの方でありました。(同上・二尊像 二尊院のパンフレットより) 本堂前の庭のこちら側にはこんな歌碑もありました。 佐々木信綱、吉井勇、会津八一の歌碑である。(佐々木信綱、吉井勇、会津八一歌碑 「渓仙賛歌」) はてさて、渓仙とは誰? 調べると、冨田渓仙と言う画家でありました。彼の墓がこの二尊院にあるのでした。<参考>冨田渓仙・Wikipedia 歌の内容から推測するに、彼らは三人で渓仙の墓参りにやって来て、これらの歌を詠んだよう。よろずはの 春秋かけて た〇ごむる 筆のあととわに あらんとおもへど (信綱)渓仙の 墓をもとめて 言葉なく われらのぼりゆく 落葉のみち (勇)ここにして きみがゑがける みやうわうの ほのほのすみの いまだかわかず (秋艸道人) 信綱の歌の3句目の「た〇ごむる」が分からない。〇にした部分は「ま」か「よ」かに見えるが「たまごむる」も「たよごむる」も意味不明である。<追記:2018.10.22.>〇上記の信綱の歌の第3句は、「たまごむる(魂込むる)」ではないか、という結論に達しましたが、さて如何に。〇会津八一が冨田渓仙を偲んだ歌にこのようなのもありました。きうきよだうの すみのすりかけ さしおける とくおうのふで さながらにしてぶつだんに とぼしたつれば すがすがし あすかぼとけの たちていますも 墓と言えば、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎の墓も此処にあるのだが、失念してやり過ごしてしまいました。 アサギマダラ症候群という奴ですかな(笑)。<参考>伊藤仁斎・Wikipedia 江戸時代の豪商・角倉了以の墓は目にとまりました。角倉了以像まであるのだから目にとまって当然というもの。 二尊院は角倉家の菩提寺でもあり、総門は慶長18年(1613年)に角倉了以が伏見城の「薬医門」を二尊院に移築したものだと言うから両者の縁は深いのですな。(同上・角倉了以像) 亀山公園にも同じ像がありましたが、見る角度によるのか印象がかなり違う。(亀山公園の角倉了以像)<参考>角倉了以・Wikipedia(角倉了以墓) 角倉了以像から石段を上って行くと、法然廟がある。(二尊院・法然廟)※寺でいただいた地図では湛空上人廟とある。 湛空は法然の高弟。 両者の廟ということなのか。 法然廟から左に谷を回り込むと時雨亭跡がある。(二尊院・時雨亭跡) かなりの高みにあるので、此処からの眺望もなかなかなものである。(時雨亭跡から京都市街を望む) 京都駅も見える。パノラマ撮影で撮るとこんな感じ。(同上) 定家さんへの表敬も疲れるというものであるが、偐家持は時に偐定家でもあれば、労を惜しむ訳には参らぬという次第。 本日はここまでとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・京都府、滋賀県篇
2018.10.20
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一昨日(15日)に蝶の標本展を見た所為でもあるまいが、嵯峨野・嵐山方面へ銀輪散歩にやって来て、立ち寄った二尊院の境内でアサギマダラの群れに出くわしました。 この蝶のことは渡りをする蝶であるということなどは友人の蝶麻呂氏から教わって承知していたし、その写真なども見ていたので、直ぐにアサギマダラだと分かりましたが、実物を見るのは多分初めてだろうと思う。 美しい蝶である。(アサギマダラ)(同上)(同上)(同上) 境内に植えられているフジバカマの花に群がっているのでした。(同上)(同上) なかなか翅をいっぱいに広げた瞬間の姿を撮ることができなかったのですが、じっくりカメラを構えて待っていて漸くにせしめたのが下の1枚であります。(同上)<参考>アサギマダラ・Wikipedia
2018.10.17
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先日、友人の蝶麻呂氏から、「蝶(Butterfly)の展示と生態写真」と銘打っての展示をやるので、都合がつくようなら見に来い、という案内状が届いた。 場所は、ぎゃらり~ZEN、 大阪市中央区淡路町4-5-1 電話:06-6231-7531 会期は、10月15日~20日 11:00~18:00と記されていた。 これは、行かねばなるまいと、本日出掛けて参りました。 まあ、たまたま、知り合いの水〇弁護士の事務所を訪ねる用件があったのでそのついでに、ということでもあったのですが・・。 蝶仲間の新〇氏との共同開催とのことで、両氏が収集された蝶の標本などが展示されていました。 蝶については素人のヤカモチ。殆ど名の知らぬ蝶でありましたが、その美しい翅の模様などを見るだけでも、なかなかに楽しく、興味深いものがありました。(蝶の標本・その1) これらについて解説を加えるような如何なる知識も持ち合わせないのであってみれば、撮影した写真を以下に並べるだけであります。(同上・その2)(同上・その3)(同上・その4)(同上・その5)(同上・その6)(同上・その7)(同上・その8) ぎゃらり~ZENは2階。1階はモータープールの受付。 周辺は全て駐輪禁止。そうなんです。今日も自宅からMTBで銀輪散歩であったのでした。モータープールのオジサンに自転車を預って貰えないか、と言ってみたが、断られた(笑)。まあ、当然ですな。 で、道向かいの御霊神社の境内に駐輪させていただくこととした。尤も、此処も「駐輪場」なる表示がなかったので、不法駐輪ということになるのだろうが、公道上ではないので、強制撤去されることはあるまいと考えた次第。ほんの短い時間なので、神様におすがりした訳である。(御霊神社) この神社は、以前立ち寄ったことがあるように記憶するが、今日は、夕刻から燈火会が催されるのか境内に沢山の円筒が並べられていました。<参考>囲碁例会・銀輪散歩・ドイツXmasマーケット 2011.12.7.
2018.10.15
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本日は、若草読書会の例会。9月30日開催予定が台風で今日に延期となったもの。 出席者は、智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼さん、小万知さん、槇麻呂さん、ひろみの郎女さん、偐山頭火さん、そして偐家持の8名。常連の景郎女さん、祥麻呂さん、りち女さん、香代女さん、和郎女さんや謙麻呂さんらがご欠席で、少し寂しい例会となりました。 例会に先立って、この読書会のメンバーであった和麻呂さんが8月にご逝去されて、初めての読書会ということで、彼を偲ぶ会を持つこととしました。 彼の遺影を飾り、黙祷の後、彼の作曲・演奏の筝曲のCDを聴きながら、彼についてのそれぞれの思い出を語らいました。 小生は、彼の逝去についての当ブログ記事を見て、小生とは小学校・中学校の同級生であった川〇君(千葉県在住)が、和麻呂さんと高校の同級生であったことや、和麻呂さんと大学受験の際に同じホテルに泊まったことなどの思い出話をメールで寄せてくれたことなども紹介しました。<参考>和麻呂逝く 2018.8.23. 読書会例会の方は、課題図書が林屋辰三郎著「南北朝」(朝日新書)。発表者は槇麻呂さん。 わが河内は楠木正成・正行所縁の土地。南北朝、太平記の時代には縁の深い土地でもあるのだが、この時代の歴史については、小生には、断片的な知識しかなかったので、鎌倉幕府滅亡から建武の中興、室町幕府、南北朝合一、応仁の乱へと続く歴史を通しで概観できたのは、いい勉強でありました。 今後の銀輪散歩のネタにもなりそうな寺や墓所や城跡なども知ることができました(笑)。 さて、今日、明日(14~15日)と当地は枚岡神社の秋郷祭である。智麻呂邸・若草ホールへと向かう途中の近鉄瓢箪山駅前では太鼓台を見掛けました。この祭については、以前の日記でも紹介しているので、詳しいことは省略して、その写真だけ掲載して置きます。<参考>枚岡神社秋郷祭2009 2009.10.16.(太鼓台) 上は、瓢箪山駅へと向かう道で、太鼓台の巡行に出くわしたもの。 下は、瓢箪山駅前に何台かが集まって休んでいるところ。 毎年決まった巡行コースがそれぞれの太鼓台に割り当てられていて、時間調整をしながら、枚岡神社参道が東高野街道に接する地点にある「一の鳥居」前に集結し、所定の順番で鳥居を潜って、枚岡神社境内へと進んで行くのである。(同上 瓢箪山駅踏切北側道路上) 参道も東高野街道も道幅は狭く、太鼓台がすれ違ったり、追い越したりはできない。従って、所定の宮入りの順番通りに、一の鳥居前に並ばなくてはならない。そのためには、その順番で、東高野街道へと入って行く必要がある。そんなことで、この駅前などで、時間調整をするのであろう。 駅前の写真で言うと、手前の黒房の太鼓台の順番が先になるので、これが右奥に見えているアーケードを抜けて、東高野街道へ先ず入り、その後ろを左奥にある白房の太鼓台2台が続くことになる。その後ろを、未だ到着していない、別の黒房の太鼓台が手前側(南側)から踏切を渡って此処にやって来て、続くという段取りになっているのである。
2018.10.14
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先日(3日)の囲碁例会の折に、福麻呂氏より展覧会の招待券を頂戴した。 元勤務会社を含むグループ企業のOB、OGによる絵画、書、写真などの作品展のそれである。福麻呂氏は例によって、ゴリラの絵の新作を出展されるとのことでありました。 本日12日から22日まで、梅田スカイビル、空中庭園展望台、39階ロビーを会場として開催される。 ということで、またまた、MTBで銀輪散歩を兼ねて梅田スカイビルまで出掛けて参りました。 会場では、昔、一緒の部署で仕事をしたこともある、〇木君と女子社員の〇藤さん達と出会って、少し言葉を交わすなどの愉快なこともありました。 さて、福麻呂氏の新作はこれでした。(油絵「立ポーズ」) ゴリラのこういう直立のポーズは余り見かけない気がするが、何かをつまんで食べているところなんだろうか。 いつものことながら、色々なゴリラの姿を見せて貰えて興味深いことであります。(会場の一部) 出展作品数は全128点。絵画58点、書21点、写真49点。 何れもなかなかの力作。 ひと通り見て、40階の喫茶コーナーで珈琲休憩。(空中庭園展望台からの眺め 北西方向) 少し東方向にカメラを振ると。(同上 北北東方向)(空中庭園展望台からの下りエスカレーター) 参考までに梅田スカイビル付近の見取り図を掲載して置きます。(梅田スカイビル付近見取図) 久々の空中庭園でしたが、屋外回廊部分はメンテナンス工事中ということで、今回はこれには入れませんでした。<参考>絵画関連過去記事(その他絵画)はコチラ
2018.10.12
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(承前) 一昨日(9日)の堺市少林寺銀輪散歩の続きです。 少林寺を後にし、付近を銀輪散歩。与謝野晶子が最初に恋をした男性、河野鉄南が住職をしていた寺、その鉄南の紹介で彼女が与謝野鉄幹と出会った寺でもある、その寺はこの付近にあるのではないか、と思い付いての散策でしたが、その寺の名が思い出せないので、探しようもない(笑)。 大安寺や南宗寺などを覗いて写真も撮りましたが、今日の記事では取り上げないこととします。帰宅して、寺の名前を調べたら、覚応寺でありました。後日、機会があれば訪ねることとし、その折には南宗寺の写真なども使いましょうかね。覚応寺は南宗寺から北へ2kmほど行った処にある寺にて、全く見当はずれの地域でそれを探していたことになる(笑)。尤も、名前も思い出せないのであるから、それほど真剣に探していたというのでは勿論ない。 既に、時刻は正午を過ぎていたので、昼食をとるべしで、堺東駅前方向へと走る。これは、帰途方向でもあり、もう一つの目的地、方違神社のある方向でもある。 南海堺東駅の北側、県道12号の高架下を潜った先にあるレストランが目に入ったので、そこで昼食とする。店の建物は道路から少し奥まった場所にあり、前が広い駐車場になっていて、駐輪にも都合のいい立地。ヤカモチが昼食場所に選ぶ店の決め手は食べ物がどうと言う前に、適切な駐輪場所があるかどうかにかかっているのである。 店の名はと見ると「floresta キッチンコドモ」とある。 「コドモ?」、子ども向けの店?と思ったが、駐輪して、ロックして、店に入ろうとして「コドモ」に気付いたのであってみれば、子ども向けでも何でもいい、という次第で、店の中に。普通のレストランでした。気のせいか子ども連れの客が多いようにも感じたが。 ブロ友のひろみの郎女さんなら、ここで食レポとなるのだろうが、ヤカモチ・ブログでは、この部分はカットとなるのがお決まりなのであります。 昼食後、少し後戻りして、南海電車の線路を越えて反対側にある方違神社へ行こうとするが、踏切ではなく地下通路となっていて、階段である。階段を下りようとすると、下からご老人が自転車を押しながら上って来られる。 見ると階段の中ほどで悪戦苦闘、手が震えて何やら足許も覚束ない感じ。MTBを上に停めて、手助けに入る。「手伝いましょう。」ご老人に代って彼の自転車を上まで運ぶ。「助かりました。」とご老人は人の好さそうな笑顔。情けは人のためならず、というのは「他人に情けをかけると、回り回って自分にもいいことが巡って来る」というような意味のようだが、相手の笑顔によって既にこちらが幸せを貰っているのだから、回り回ってを待つまでもないのである。 この地下通路、線路に直角ではなく斜めに通じている。線路を渡る側は「直角に渡るもの」という潜在意識が働くので、反対側の地表に出た時は、一瞬、方向感覚が狂うのである。方違神社への道としては、これほど適切な道もあるまい、と言うものである(笑)。(方違神社)(同上・説明碑) 上の説明にある通り、この付近は摂津、河内、和泉の三国の境に位置し、それが三国丘や堺の名前に繋がっているという訳である。 この神社を訪ねる気になったのは、今年7月14日に阪大OB・OG九条の会に参加した折に、同期の永〇君と席が隣り合わせとなり、雑談する中で、三国山の万葉歌の話になり、三国丘のことを詠った歌だと彼が言ったからである。小生は、この歌は福井県の三国の山だと思っていた。三国山は所在不詳としながら、福井の三国港東北の山か、とする注釈や解説しか目にしていなかったからだ。<参考>三人会と九条の会 2018.7.15. 三国山というのは北海道から九州まで全国に18あるという。ここ三国丘はこれに含まれていないから、このようなのも含めればもっと多いのだろう。 三つの国が接する地点を言う普通名詞であるならば、固有名詞とは無関係に候補地はもっと多くあって何の不思議もなく、この歌が誰によって、何処で詠まれたものなのか、その詠まれた背景や事情が如何なるものなのか、が不明であるのだから、北海道などは除くとしても、全国、何処の三国山であってもいいことになるというものである。「ここでは福井県の三国の山か」などと言っている注釈書も、その根拠は示されていない。 この神社には、その万葉歌碑もあるとのことだから、大阪・堺の三国丘説もあるのだろう。同期の永〇君は三国丘高校の出身。三国丘高校は、この神社の南側にある反正天皇陵の更に南側にある。彼にしてみれば、母校の名前でもある三国丘こそが万葉の三国山という大阪・堺説は譲れないということであるのかもしれない。(同上・手水舎) 手水舎にある井戸の枠石にも大きく「三国山」と刻まれている。 歌碑は何処に、と探したが見当たらない。 探索と撮影を諦めて、帰宅して調べると、歌は、冒頭の写真に写っている社名標石に刻まれていることが判明した。 自転車・MTBを駐輪させている側の面に刻まれているので、生憎と歌碑文言の面は写真には写っていないという次第。三国山 木末(こぬれ)に住まふ むささびの 鳥待つごとく 我待ち痩せむ (万葉集巻7-1367)(三国山の梢に住んでいるムササビが鳥を待つように私はあなたを待ち焦がれて痩せることでしょう。)(同上・拝殿) 神功皇后御馬繋之松というのもありました。(神功皇后御馬繋之松) 神功皇后に因む伝承遺蹟は北九州から瀬戸内にかけて色んなものがあるようですが、これもその一つでしょうか。 方違神社の境内から南隣の反正天皇陵を撮影。レンズに微小の埃が付着していたか、中央に何やら亡霊が現れてしまいました。皆さんのPCまたはスマホの画面が汚れている訳ではありませんのでご安心下さい。(反正天皇陵) 反正天皇は、父・仁徳天皇と母・磐之媛皇后との間の子。 同母兄の履中天皇亡き後即位した第18代天皇である。 神社の境内の柵越しにご挨拶、立ち寄らずに帰ることとする。 帰途は、再びあべの筋に出て、北上。長居公園通りで右折しこれを東に。長居公園に立ち寄って、ぐるり一周。(長居公園) あびこ筋に戻り、今度はあびこ筋を北上。勝山通りに出た処で右折、これを東に。後は適当にジグザグしながら中央環状道路に。 時刻が未だ早かったので中央大通りまで出て、馴染みの喫茶店・ペリカンの家に立ち寄り、珈琲休憩。暫しブロ友でもある店主のももの郎女さんと雑談してから帰宅でありました。(完)
2018.10.11
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本日は、囲碁例会。午後から雨の予報であったが、小雨程度ということであったので、MTBで出掛けることとしました。 今日は友人の利麻呂氏も出席ということなので、梅田スカイビルのタワーイースト1階のバス待合室で11時50分前後の待ち合わせとし、昼食を一緒にすることとなった。 スカイビル到着が11時を少し過ぎた頃で、早過ぎる到着となったので、同じくタワーイースト1階の喫茶店で少し時間を潰すことにした。 この喫茶店の名前を覚えていなくて、ブログでも単に1階の喫茶店などとしていたが、今回それを意識して、店の名前はと確認する。 POUND HOUSEであった。 11時36分利麻呂氏から電話着信。 もうバス待合室に到着したとのこと。彼も早くに着いたよう。 昼食は地下のレストラン「四季彩」で。 昼食後、囲碁会場の部屋に入るも、他のメンバーは誰も来ていない。利麻呂氏と練習碁を1局打つことにする。彼は未だ初心者なので、メンバー扱いにはなっていない。手すきのメンバーが彼と指導碁を打つ以外は見学というのが、お決まりのパターン。もう少し上達すれば勝負になるのだろうが、未だそのレベルではないという訳である。 福麻呂氏が来られた。利麻呂氏との碁が終わったので、福麻呂氏と対局することに。2局打つが2局とも小生の中押し勝ち。2局目を打っている時に竹〇氏が来られ、利麻呂氏と指導碁に。 そこへ村〇氏もご来場。丁度、小生の2局目が終わった時であったので、小生の3局目は村〇氏がお相手となる。これは小生の6目半の負け。終盤の右上で受け間違いがあって、10目余の損をしたのが響きました。 これで、今年の成績は14勝21敗。借金7である。 帰途は、途中で少し雨がパラつき、上衣だけ雨具を着用しましたが、大した降りにはならず、殆ど濡れませんでした。 帰宅して気が付きましたが、今日は何処にも立ち寄らず、1枚も写真を撮っていないのでありました。 ということで、昨日の堺市への銀輪散歩のことを記事にします。 この銀輪散歩の目的地は少林寺。 先月23日に滋賀県甲良町の勝楽寺へ銀輪散歩致しましたが、言わばその続編である。勝楽寺は、狂言「釣狐」で知られた「釣狐」伝説発祥の地とされて居り、裏山の正楽寺山には、これに所縁の狐塚もあったのだが、こちらの少林寺にも釣狐伝説があるということなので、やって来たという次第。<参考>釣狐-You Tube 釣狐・Wikipedia 甲良・多賀銀輪散歩(その3) 2018.9.26. 遠里小野橋で大和川を渡り、あべの筋を更に南へ下ると、南海堺東駅の前に出る。前方右手には堺市役所庁舎。前回来た時は前庭部分が工事中でゴタゴタしていたが、工事も完了したようで、スッキリしている。(南海堺東駅 左側道路があべの筋。奥が阿倍野・天王寺方向)(堺市役所) 前回来た時は前庭部分が工事中でゴタゴタしていた市役所ビルであったが、工事も完了して、スッキリしたものになっている。 目指す少林寺へは、あべの筋を更に南へ、一条通り交差点を右折しなければならないのだが、何を勘違いしたか市役所の前で右折。何本か手前の道を曲がってしまったのに、それに気づかずにいたのだから、始末が悪い。何ブロックか北側で、少林寺を探していたのでした。 見つからない。そこで、ハッと気が付く。市役所の前で曲がって来たことに。そんな間違いの所為で、こんなものも見つけました。(曾呂利新左衛門屋敷跡) そして、ようやく少林寺発見。 こじんまりしたお寺である。(少林寺)(同上・説明碑) 上の説明碑に記載されているように、少林寺の鎮守が白蔵主稲荷明神。白蔵主が少林寺鎮守の稲荷明神に参籠し、その修行に用いた竹杖を逆さに地に突き立て「この竹杖から芽が出て、竹藪となったら、それは白蔵主の霊と稲荷明神が一体となり、少林寺とその信徒の福徳を守護、成就せしめる証しである」と言い遺して世を去り、それが芽を出し竹藪となったというような伝説が、こちらの釣狐伝説の内容。 その竹薮の名残だという竹と稲荷明神を祀る石造物が門を入った左側にある。(白蔵主大神)(同上)(少林寺の石庭) 門前にはこんな言葉が。(門前の言葉) 狂人走れバ 不狂人も走る まあ、銀輪でヤカモチも走り回っていますが、何か関係がありますかな。(つづく)<参考>囲碁関連過去記事はコチラ 銀輪万葉・大阪府篇はコチラ
2018.10.10
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今日は、堺市まで銀輪散歩して参りましたが、その記事は追々に書くとして、大和川を渡る際に、河原に居た鵜を撮影しましたので、取り敢えず、これを記事にします。 天王寺駅経由あべの筋を南下、というコースで堺市へと走りました。遠里小野橋で大和川を渡ることとなる。(遠里小野橋北詰) 橋を渡ると大阪市から堺市となる。おりおの駅行きの路線バスと抜きつ、抜かれつしながらの並走。(信号待ちは平等であるが、バスはバス停での停車というハンディがある分、不利となるので)途中からはこれを振り切ってのMTBの独走となりました。まあ、バスはどこかで脇道へと進んだのかも知れませんので、「レース」に勝ったとは言えない可能性もあります。 それはさて置き、遠里小野橋を渡りながら、河原を覗き見ると、黒い鳥が目に入りました。鵜である。橋の欄干にカメラを置いてズーム撮影。(鵜)(同上) 鵜は万葉集にも登場する。 鵜そのものを詠っていると言うより、鵜飼のことを詠っている歌ではある。万葉の頃から鵜飼という漁法があったことが、この歌から知れるのである。婦負川(めひがは)の 早き瀬ごとに かがりさし 八十伴の男は 鵜川立ちけり (大伴家持 万葉集巻17-4023)年のはに 鮎し走らば 辟田川(さきたがは) 鵜八頭(やつ)潜(かづ)けて 川瀬たづねむ (大伴家持 同巻19-4158) 万葉集に詠まれた鳥は、他にどんな鳥がいるかと言えば、ウグイス、オシドリ、カラス、カモ、カモメ、カイツブリ、カッコウ、カリ(ガン)、キジ、サギ、タカ、ツバメ、ツル、チドリ、ニワトリ、ヒバリ、ホトトギス、モズ、ワシなど。その他では、水鳥、白鳥(ハクチョウ、シラサギ、ツルなど)、都鳥(ユリカモメ)、呼子鳥(カッコウの他にヒヨドリ説もある。)、鵺鳥(トラツグミ)、あぢ(トモエガモ)なども。<参考>鳥関連の過去記事はコチラ 万葉関連の過去記事はコチラ カワウとウミウの見分け方
2018.10.09
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本日は、1枚の写真をネタに、ブログ記事を書いてみることとします。 先日の墓参の折に撮った、写真がもう1枚ありました。 少しピントが甘い写真であるが、カマキリの写真がそれである。 わが家の墓は道沿いにあるので、墓石の立ち並ぶ共同墓地の奥へと入って行く必要がないのであるが、時々は何と言って用もないのに、墓石と墓石の間の狭い通路を通って奥へと立ち入ることがある。 前頁のチカラシバの写真を撮ったのは、その通路でのことでありました。その近くのお墓の敷石の上にカマキリが居た。体長12cmメートル程度のやや大きいカマキリ。小生と目が合った。カメラを構えて近付くと、彼も身構えて、自身を大きく見せようとでもしたのか、前肢を踏ん張るようにして上体を反らすような仕草をした。 蟷螂の斧ではないが、鎌を振り上げてこちらを威嚇でもするかと思って期待したが、じっと固まったまま。ということは、こちらを天敵・捕食者と見て、動かないという選択をしたのか、或は、こちらを餌と見て、捕食の機会をうかがっていたのか、それは彼に聞いてみないと分からぬことであるが、暫しにらみ合いが続く。(カマキリ) 違ったアングルから撮影しようと小生が立ち上がった瞬間、彼は身を翻して背後の草叢へと逃げ込みました。 小生が立ち上がったので、その大きさの圧倒的な差を認識して、これは叶わぬと「敵前逃亡」を図ったものか、小生の動作を「休戦」のシグナルと理解して、退却を選択したものか、これも彼に確認してみないことには、どちらとも言えない。お蔭で違うアングルの写真は撮り損ねたという次第。 カマキリも色々種類があるようだが、これはチョウセンカマキリかと思う。勿論、「挑戦蟷螂」ではなく「朝鮮蟷螂」である。普通に我々がカマキリと言っているのは、このカマキリである。 日本に居るカマキリは、他には、オオカマキリ、コカマキリ、ヒナカマキリ、ハラビロカマキリ、ウスバカマキリである。これらはカマキリ目のカマキリ科に分類される。もう一つのグループは、ハナカマキリ科に分類されるもので、ヒメカマキリ、サツマヒメカマキリ。 生物分類学上、カマキリ目に最も近い虫はゴキブリ目の虫だという。 従って、ゴキブリ亭主にカマキリ女房は「似た者夫婦」ということになる。 カマキリの学名はMantodea。 漢字では、鎌切、蟷螂。 カマキリという名については、鎌で切るからという説と鎌を持つキリギリスの意だとする説があるそうな。 地方によっては、拝み虫、斧虫、疣虫などとも呼ばれるとのこと。 拝み虫は、前肢の鎌をもたげた姿が拝んでいる姿に見えることからだが、英語でこの虫はPraying mantisというから同じ発想である。斧虫は鎌を斧と見立てたものというのは容易に察しがつくが、疣虫の方は、疣を取る薬としてカマキリを粉末にしたものを使用したからだとか。 積雪地では、カマキリは雪に埋もれない高さに卵を産み付けるので、来たるべき冬の積雪の高さを予知する能力がある、ということが言われるが、これは、雪に埋もれている卵も見られることから、伝説に過ぎないようである。英名のmantisはギリシャ語のmantis(予言者)を語源としているが、雪の積もる高さを予言する能力はないという訳である。 カマキリというと交尾の際にメスがオスを捕食してしまうという話が有名であるが、それは、カマキリは動くものは何でも餌とみなすようにプログラムされているからのよう。然らば、オスがメスを捕食しても不思議はないのに、逆のケースは観察されないらしい。カマキリの交尾は相互に出すフェロモンによって相手を認識してこれを行っているようだが、オスはフェロモンによってメスを認識すると、「動くものは餌」というプログラムが制御されるのに対して、メスはそうでないので、オスと餌との区別が出来ないらしい。 男は色恋に寝食を忘れるが女性はそうでもない、むしろ食欲を優先するということか、などと人間に当てはめて考えるのは意味のないことでありますが、「花より団子」という言葉がどちらかと言うと女性をからかう場合に使用されることを考え合わせると生物の雌雄一般に何か共通するものがあるのかも・・と考えるのも勿論、無意味であります(笑)。 カマキリを詠んだ短歌があるかと調べると、この2首が見つかりました。<蟷螂の短歌>わが取れる 紗の燈籠に 草いろの 袖をひろげて 来る蟷螂 (与謝野晶子)月の前に 鎌ふり立つる 蟷螂は 青萱の葉の 光る葉にゐる (北原白秋) で、万葉集にカマキリが登場するかと言えば、勿論、登場しない。 万葉では、秋に鳴く虫は、鈴虫、松虫、コオロギ、キリギリス、みんなひっくるめて「こほろぎ」であるから、昆虫図鑑の虫の分類のような訳には行かない。カマキリなんぞは鳴きもしないから、お呼びではなかったのだろう。 ということで、偐万葉がそれを補うべく偐家持が1首。台風が 日本海行く 秋の日の 墓参にあひし 蟷螂ぞこれ (藤原鎌切)(本歌)秋風の 寒く吹くなへ わが宿の 浅茅がもとに こほろぎ鳴くも(万葉集巻10-2158) 万葉時代に、鎌切が居なかった訳ではない。万葉集の歌に登場しないだけである。藤原鎌足というのが居たが、これは勿論、カマキリではない。 カマキリの話だけに「キリ」もないこととなりますので、「キリ」のいいところで切り上げるのが得策。 カマキリについては十分に書き足りました。 これを「カマタリ」と言いますな。 では、オアトがよろしいようで・・。<参考>カマキリの神話 https://www.jataff.jp/konchu/mushi/mushi06.htmカマキリ・Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/カマキリ
2018.10.07
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本日は午後から墓参に。 墓参は午前中の予定であったが、来客があって午後になったもの。 今月の門前の言葉はこれ。(2018年10月5日門前の言葉)私たちに 偉大な事はできません偉大な愛で ちいさな事をするだけです ―マザー・テレサ― 墓地の奥に生えていたチカラシバ。 今日の墓参で撮った花の写真はこれだけ。(チカラシバ)(同上) チカラシバは万葉植物・芝草である。 万葉の芝草については、コウライシバやノシバとする説もあるようだが、万葉人は植物をそんなに厳密に区別したとも思えないので、シバの品種にまで立ち入ってあれこれ言っても仕方がないような気もする。 チカラシバという名は、この草は大きな株を形成し、強い力で引き抜こうとしても容易には抜けないことから付いたものだという。別名はミチシバ。立ちかはり 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生ひにけり (田辺福麻呂 万葉集巻6-1048)畳薦 へだて編む数 通はさば 道のしば草 生ひざらましを (万葉集巻11-2777) シバだけでは愛想がないので、先々日の囲碁例会の折に撮ったヤブランの花の写真も添えて置きます。このヤブランも万葉植物であるから、丁度良いというものである。(ヤブラン) ヤブランは、万葉では山菅(やますげ)である。 尤も、万葉の山菅はジャノヒゲやリュウノヒゲだという説もあるが、これらすべてを含んで山菅と万葉人は呼んでいた、というのが実際のところではないかと思う。あしひきの 山菅の根の ねもころに われはそ恋ふる 君が姿に (万葉集巻12-3051)かなし妹を いづち行かめと 山菅の 背向(そがひ)に寝しく 今し悔しも (万葉集巻14-3577)
2018.10.05
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昨日、囲碁例会から帰宅したら、岬麻呂氏からの旅便りが届いて居りましたので、今日はそのご紹介です。<参考>過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラ。 岬麻呂旅便り関連のフォト蔵写真集はコチラ。 今回も北海道への旅。 9月26日~29日、新富良野プリンスホテルに3連泊で大雪山系の紅葉を楽しんで来られたようです。例によって、詳しくは同氏からの下掲の「旅・岬巡り報告225」と「同写真説明」をご参照下さい。(旅・岬巡り報告225及び同写真説明)※フォト蔵はネットワーク障害による緊急メンテナンス中とかで、フォト蔵に登録した岬麻呂関連写真にリンクできません。従って、拡大サイズの写真で読むことはできませんが、ご了承願います。追って、メンテナンス完了後にリンクすることとさせていただきます。<10月5日リンク完了> では、同氏から送信されて参りました写真を紹介申し上げます。北海道の紅葉ほかをお楽しみ下さいませ。(大雪山系主峰の旭岳 2291m)(姿見の池周辺の紅葉も台風の影響で例年に比して美しさに欠けるとか)(黒岳)(黒岳中腹のリフト駅周辺は美しく紅葉)(大雪森のガーデン)(上野ファーム)(風のガーデン)(ファーム富田)(十勝岳安政火口)(鳥沼公園) 岬麻呂氏曰く「公園の入口付近で手を振る人がいて・・近づくと富良野クラフトさんご夫妻であった。」 furano-craftさんはわがブロ友の一人。小生は未だ面識はないのであるが、何度も富良野へ旅される岬麻呂氏は、わがブログで同氏のことをお知りになり、一度訪ねてみると仰って、お訪ねになり、お知り合いになってしまわれたという次第。 今回は、この鳥沼公園で偶然にも、furano-craftさんご夫妻に出会われたそうな。こういうエピソードをお聞きするのも愉快なことである。
2018.10.04
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本日は囲碁例会の日。 天気予報では午前、午後共に降水確率0パーセント。MTBによる銀輪散歩日和、自転車で出掛けない手はないというものである。 いつもは多く、中央大通りかその裏道を走るのであるが、今日は気分を変えて、近鉄奈良線の南側に沿った道を走ることとする。鶴橋や難波などが目的地の場合に走るコースである。今里駅の先で右折して千日前通りに出て、これを西へと行く。今里交差点を過ぎ、平野川を渡って(剣橋)一つ目の辻に「松下幸之助起業の地碑⇒」と記された看板があることに気が付いたので、その路地に入ってみた。(松下幸之助起業の地碑) 伝正院という寺の門前にその碑はありました。(同上)(同上・副碑) この碑のことは存じ上げなかったが、阪神電車の野田駅の近くにも似たような碑があった筈なので、ついでにそれも訪ねてみることに。 それは阪神・野田駅から西へ行った小さな公園にある。 ということで、千日前通りをひたすら西へ、新なにわ筋で右折し北へと向かう。(土佐堀川に架かる湊橋の上から) 土佐堀川を渡った(湊橋)ところで、少し休憩。対岸に「ぽんぽん船船着場」が見える。この付近は比較的地理感があるのだが、ぽんぽん船のことは知らない。手前の黄色い屋根の船は落語家と一緒に船で浪花観光をするという趣向の船のようだが、この船のことも知らない。 阪神野田駅前で国道2号にぶつかるが、道を左にとり、阪神電車と並行する細い道を西に行くと大開公園という小さな公園があり、その入口に碑がありました。(松下幸之助創業の地碑) こちらの碑は「創業の地」の碑でした。(同上・裏面)(同上・副碑) こちらの碑も先程の「起業の地碑」と同じく平成16年(2004年)11月の建立。両碑は同時期に建立されたのですな。(「松下幸之助創業の地」周辺図) 周辺には「創業の家」跡や「本店・工場」跡があるようだが、パスして、囲碁会場の梅田スカイビルへと向かう。 台風21号の所為でか今日も梅田スカイビルの里山は立ち入り禁止になっている。里山の入口にあるカフェテラスは営業をしているので、此処で昼食とする。 昼食後、会場に入ると美術サークルの方達が数人談笑されていました。第一水曜日は、午前中彼らがこの部屋を使い、午後は囲碁サークルが使うことになっている。美術サークルの方が去って暫くして、福麻呂氏と村〇氏が来られ、続いて竹〇氏、平〇氏が来られ、本日の出席者は小生を含めて5名。青〇氏や荒〇氏など他の方は最近顔を出されないので、これでフルメンバーのようなものである。 小生は、先ず村〇氏と対局。これは中押し勝ち。漸く連敗(6連敗)を脱出する。次に平〇氏と対戦、これも中押し勝ち。3局目は竹〇氏と対戦。中盤まで圧倒的に優位であったが、終盤に入って黒の大石が切断されて取り込まれて万事休す。逆転負け。2勝1敗でした。 これで、今年の成績は12勝20敗。借金8個。年内完済はいよいよ難しくなりました。
2018.10.03
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