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さて、生体内での、蛋白質の機能は一体どのように現われてくるのか? という疑問を考えてみることが必要である。現代の化学では、次のような傾向が、当然の前提としてある。 「蛋白質の働きは、内的構造をつくる物質に負っている。」 そして、その必然的な帰結として、想像可能なほどにも同じでなく、実際には全く異なるものが同一視されてしまう。 同一性を全くもたず、ある種の差異さえも認められるのに、植物の蛋白質と動物の蛋白質を、本質的に、かなり類似したものとして、少なくともある程度まで、化学的同一性を想定するのは、結局、蛋白質の構造に対する原子論的な思考の帰結にすぎない。 植物と動物の蛋白質を同一視することは、全くの見当違いで、人間の生体組織を正確に観察すれば、事実は次のようになる。 「植物の蛋白質は、動物の蛋白質、特に人間の蛋白質を中和させている。植物と動物、もしくは人間の蛋白質は互いに対極的な関係にあり、一方は、他方の作用を密かに消し去る。」 奇妙にも、動物の蛋白質の作用は、植物の蛋白質の作用により妨害され、部分的、もしくは完全に相殺されることを、事実として認めざるを得ない。 従って、次のような疑問に達する。 「では、動物、もしくは人間の生体内で生じる蛋白質と、植物の生体内で生じる蛋白質の違いとは、一体何なのか?」 これまで、生体内の「気象(相)」(固体、液体、気体、温度等の相転移)に喩えられる状態に対して、4つの器官組織、つまり膀胱、腎臓組織、肝臓組織、肺組織に、心臓組織を加えた、5つの器官が、ある重要な役割を果たしていることについて述べてきた。 (肺「生命力」⇔固体、肝「化学力」⇔液体、腎「光生成力」⇔気体、膀胱「エネルギー」⇔熱) 上記の4つの器官は、外界の気象(相)に対する関係として、人間のなかで本質的な役割を果たしている。さて、更に内密な意味で、以上の4つの器官とは、一体何なのか? この4つの器官が意味する事実は、それらが、人間の蛋白質構造の創造者に他ならない。 蛋白質を調べるなら、この4つの器官を探求すべきである。人類が探求すべきものは、蛋白質の分子や原子の力ではない。蛋白質とは何か、という疑問をもつなら、蛋白質の分子構造を調べるのではなく、これら4つの器官から生じる結果として、蛋白質の構造を把握しなければならない。 蛋白質とは、まさに、この4つの器官の共同作用の成果なのである。 蛋白質の構造には、人間による外的な作用の内面化が現れている。今日(1920年)の化学の物質構造の探究、いわゆる分子や原子のなかへの探求を、器官のなかへと移行しなければならない。従って、人間の蛋白質の構造は、地上の領域だけでは考察が及ばない。 これら4つの器官の影響下に、蛋白質がなければ、その構造の存続は不可能で、変化せざるを得なくなる。 しかし、植物の蛋白質の場合は、事情は異なる。植物の蛋白質は、人間や動物のような4つの器官の影響下になく、少なくとも、外界では影響を受けない。 植物の蛋白質は、別の影響下にある。つまり、酸素、窒素、水素、炭素や、外界の自然の気象全体のなかに常在する元素や、更には、酸素、窒素、水素、炭素の4つを媒介する硫黄による働きの影響下にある。 植物の蛋白質の場合、大気のなかに散在する4つの元素が、動物、もしくは人間の肺、肝臓他が行うことを代わりに行う。人間の生体内のいわゆる自然においては、肺、肝、他の4つの器官に個別的に含まれている働きが、外界の自然においては、形成力という形で、酸素、窒素、水素等の4つの元素のなかに存在している。 従って、次のような考察が重要となる。 「酸素、水素という名称を持ち出す際、単なる今日の化学の知見に由来する知識、いわゆる元素のなかの力だけでなく、これらの元素の、他に対する形成力、もしくは作用を同時に考えなければならない。」 しかも、これらの元素は、地上の様々な存在のために働き、貢献することで、常に互いに関連し合っている。個別的な事象を観察していくとき、例えば、外界の酸素の働きを、生体内の器官に一致させるなら、酸素の働きは、腎臓-尿器官に一致する。 外界の炭素が、形成力を展開する際の働きを、生体内にみつけるなら、肺に一致するが、肺といっても、呼吸機能としての肺ではなく、形成機能としての肺に一致する。また窒素は、肝臓に、水素は、心臓に一致する(下図参照)。 逆に、実際、外界の水素は、外界の心臓でもあり、窒素は外界の肝臓といえる。
2012年04月27日
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スウェデンボルグの本を読んでいると、色々なことに気づかされる。巷では、アセンションが起こると噂されているが、最近の世の中をみていると、なんだか、そのような気分になってくる。 マヤの遺跡によれば、今年末に、物質的世界の崩壊が訪れると、巷では噂持ちきりのようだが、スウェデンボルグの本に書かれている、霊界での三回目の最後の審判の影響が、どうやら物質界に訪れる日時なのではないかとも思ってしまう。 物質界の崩壊は、経済的崩壊から起こるだろう。 既にEUは経済的に破綻しているし、1%の金持ちが、残りの人たちの犠牲の上で、天文学的資産を積み上げている米国の貧困をみれば、このまま続ければ、物質的に崩壊して当然だろう。 快楽をカネで買うことはできても、幸福はカネでは買えない。 快楽を求めれば求めるほど、幸福は遠のいていく。 なぜなら、幸福とは、感性に他ならないからである。幸福とは、感じる能力にある。 快楽を求めるほど、幸福を感じる能力は衰える。それが当たり前になってしまうからである。 どんなに贅沢な暮らしをしても、幸福を感じられないのは、幸福不感症といえる。 逆に、どんなに貧しくても、幸福でいられるのは、幸福なのである。 では幸福を感じる能力とは何なのか? それは感謝すること。宇宙全体を感じることにあると思う。 ボルグは、幸福とは、全体が幸福であり、かつそのなかの一部も幸福である調和にあるというようなことを述べている。 万人の幸福は、1人の幸福であり、かつ、1人の幸福は、万人の幸福であるのが、幸福である。 それはつまり、1人の感性は、万人の感性であり、万人の感性は、1人の感性と言い換えられる。 さて、なんだか次元上昇というアセンションが近づいている気分がする。 そのアセンションの前に必然なのは、あらゆる宗教の滅亡にあると思う。 人間がつくるものは間違いを含むことから、人間がつくる宗教はニセモノだからである。 ボルグは、第3の最後の審判により、あらゆる宗教が崩壊したようなことを述べている。 そう、宗教は宇宙そのものであって、わざわざ人間がつくる必要はない。 宇宙そのものが、神の言葉であり、それをそのまま受ければよいだけである。 しかし、人間は、自分で理解できるものしか、受け入れることができない。 だから、勝手に、自分だけが受け入れられる宗教をつくってしまう愚に陥る。 本来、特別な修行など必要ない。与えられた人生を生きることがそのまま修行である。 生きている上で、自分が行った事が、結果として返ってくる。 そう、人生は、神との対話ともいえる。未来は、人類に対する神の答えである。 とりとめのない文を羅列してしまったが、ここでやはり、ボルグの本から、地獄についての解説を引用したい。それというのも、地獄から、人類の進むべき方向がみつけられるからである。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 地獄は悪行に対する刑罰の場ではない まず、多くの人がもつ疑問は次のものである。 「生命と調和の源であり、世界の創造主ともいえる神が、なぜ地獄のような存在を許しているのか?」 しかし、その答えは単純である。 一言で言えば、「闇がなければ、人間は、光の存在に気づけないからだ。」 つまり、闇があるからこそ、光の存在がわかるのであって、闇と光は一組なのだ。 生命と調和も同じで、生命と調和の場である天国も、反対の地獄がなければ存在しない。 だから、私は、「地獄がなければ天国もない。」とよく答える。 私がいままで説いてきたことで、最も議論を呼んだのは次のことだった。 「地獄の霊は、人間だったときの悪行に対する刑罰として地獄に落とされ、そこで刑罰を受けているわけではない。地獄の霊は、地獄が自分にあっているがゆえに自分で、自由に地獄を選んで地獄に行くのだ。」 従来の宗教的な霊界観は、地獄は刑罰の場という見方で理解してきた。私の見方とは完全に異なっている。だからこそ、議論を呼んできた。 悪霊も自分の自由で地獄を選んで行くと、私が説くのは、まぎれもない事実である。 では、なぜそうなっているのか? 私もはじめは理解できなかったが、いまでは、神が、善霊にも悪霊にも、また人間にも、自由を許すように世界をつくっているからである。 善霊や人間に自由を許すのはともかくも、悪霊までに許すのは理解に苦しむだろうが、これも、神の深慮なのだ。 悪霊も、神によってはじめて生命を受けている。ただ悪霊は、神の生命や善や美や真理を、自分で勝手に、悪や醜や虚偽といったものにねじまげてしまっているにすぎない。そして、自由なきところには生命はない。だから、悪霊といえども、神から生命を受けている以上は、この自由が許されている。 天国と地獄の違いを更に詳しくいえば以下である。 天国は生命と調和の国なので、霊たちは1霊の幸福は、万霊の幸福。万霊の幸福は、1霊の幸福という形の幸福を享受している。つまり、天国は連帯の世界だ。 対照的に、地獄は、1霊1霊の利己的欲望の世界なので、調和はありえず、連帯とは逆の分裂の世界になっている。 以上を比べて、善なる心を持った素直な人なら、天国が幸福に思うに違いない。しかし、地獄の霊は、例えば、他の霊や、人間を支配して、自己の利己的欲望(支配欲)を果たしたほうが幸福に感じるものなのだ。 だからこそ、悪霊は、自ら進んで、地獄を選んで行くわけだが、地獄を選択する自由が許されている。もし、仮に、悪霊を無理に天国に連れていっても、全く無意味で、かえって逆効果にしかならない。悪霊は、自分も苦痛で、天国の秩序を乱すことにしかならない。 善霊は蝶に、悪霊は蜘蛛に喩えて、私はよく説明してきた。 善霊は神の支配を素直に受け入れながら、のびやかな世界を軽やかに飛び回る蝶に喩えられる。しかし、悪霊は自己の欲望を中心とした巣を張り巡らしている蜘蛛に喩えられる。 悪霊は自由を許されているがゆえに霊界では善霊を苦しめ、人間界では人間に不幸を与えるという暴威をふるう。しかし、一方で、悪霊の暴威も全く無制限なものではない。悪霊の暴威は、最終的には神や善霊の力よりはずっと弱い。 もし、この力関係が逆なら、霊界や人間界は悪霊に滅ぼされてしまうが、幸いなことにそうなってない。 悪霊の力が神に及ばない例を挙げる。例えば、悪霊が善霊に対して悪事を働くためには、善霊の団体に潜り込む必要があるが、悪霊は、光の強い善霊の団体に長くとどまることは、苦痛ばかりが生じるので、自分から逃げださざるを得なくなる。 しかし、一方で、悪霊が様々な悪事をなすことが、善霊には、教材として役立っている反面もある。 天国は有用の世界であって、生命と調和の観点から、天国に役立つことを、霊たちはそれぞれの任務として遂行しなければならない。天国に有用な役割を働かせられない者は天国に受け入れられない。そして、そういう役割を果たすようになるためには、根本的に、生命と調和の原理がどんなもので、その観点からいって、何が善で、何が悪かを判断し、その判断によって行動できる者になる必要がある。 そのためには修行が必要なのだ。そんな修行のために、悪霊も、実物の教材、反面教師として役に立っている。悪霊の悪があって、善霊も、善と悪がよく理解できるからである。 天国にいけば、有閑な生活が送れると期待している人が世間には多いが、こんな人は、徒手空拳で、額に汗せずとも、神は人間を天国に招いてくれるのだろうといったような身勝手な思い込みをしている人である。 私がまだ霊界のことに詳しくない頃、ある霊に、「赤ん坊は無垢なのだから、死後すぐに最上の天国に招き入れられるのか?」と尋ねてみたことがある。 この質問に対し、その霊は以下のように答えた。 「赤ん坊は無垢とはいえ、悪に接する機会や悪を自分で発揮する機会がなかったということにすぎないから、それだけでは最上の天国に入る資格はない。」 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ つまり、天国や幸福は与えられるものではなく、自分で掴み、感じるものなのである。 そして、この世を生きること。この世には沢山の悪が転がっている。この沢山の悪を善に転化していく能力を磨くことこそ、この世を生きることそのものの修行となる。 白を黒と自分勝手に捻じ曲げてしまう生き方を身に着けること、醜い性格を隠すために、外見を着飾ること、自分の欲望のために、他者を犠牲にすることをなんとも思わないこと、これらを身に着けてしまえば、もはや、天国に入る資格を失うことは明白だろう。 地獄へと自ら進んでいくことだろう。
2012年04月26日
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人間の構成要素の上位の自我とアストラル体間と、下位の構成要素のエーテル体と物質体間の覚醒時での不安定な関係は、外の空気中の酸素と窒素の不安定な関係を忠実に反映している。 両者の相応の様子は、実に不思議で驚くべきものである。外界の空気(大気)の組成は、同時に、アストラル体とエーテル体との結びつき、もしくは、これらに結びつく自我と物質体との結びつきに対して、ある比例関係を与えるように設定されている。 (気象学/大気の組成 http://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%AD%A6/%E5%A4%A7%E6%B0%97%E3%81%AE%E7%B5%84%E6%88%90 大体、窒素が8割で、酸素が2割なので、8対2の比率で、アストラル体とエーテル体や、自我と物質体が結合しているということなのだろうか? ちなみに、黄金比は、大体5対8である。) 当然、更に、上記のことが、空気(大気)の組成と、どう関係しているのか、を考えさせる。例えば、人間に、正しい空気(大気)の組成が供給できるか、もしくは、供給なしですますことができるか、いかに注意すべきか、ということを考えさせる。 もう少し生理学的な事実が理解できれば、上記の対応関係が知覚できる。今日よく知られている生体内の物質を全て調べていくと、生体内の経過(プロセス)と、なんらかの関わりがある物質は全て、別の物質と結合していることがわかる。 大抵の物質は、生体内で、結合と分離を繰り返している。ただ、特に酸素と窒素は、比較的自由な状態にある。つまり、外界で空気を構成する物質は、生体内でも、特別な役割を果たしている。生体にとって、酸素と窒素は、相互作用により、物質の中枢を占める。 酸素と窒素は、比較的自由な状態で作用しながら、生体の諸機能に関わっている。しかも酸素と窒素の働きの比率が、生体内にそれらが占める領域で、結合する他の物質により修正されることはない。 上記のことから、生体内に追求できる外界の酸素や窒素等の本質だけに意味を求めるのではなく、それらが「どのように作用しているのか?」という疑問も解決すべきことがわかる。 つまり、それらの働きが生体内では、独立したものなのか、或いは他の物質と結びついたものなのか、などである。 というのも、奇妙にも、人間の生体内では、物質は互いに独特の類縁性、親和性を獲得するからである。つまり、人間が、ある物質を摂取すると、生体内に既にある別の物質との類縁性、親和性が生じる。この事実を更に探求していくと、特定の霊的な直観(神通力;イントゥイション)へと導かれる。 人智学から、この霊的な直観(神通力;イントゥイション)が示唆される。植物、動物、人間の生体組織の基礎になっているのは、蛋白質であることは既に知られている。 現代(1920年)化学での意味では、蛋白質の主要な構成要素は、自然における四つの重要な物質、炭素、酸素、窒素、水素であり、更に、これら四つの物質の働きを、余すところなく「ホメオパシー(中和)」する[durch homoeopathisierend]硫黄[Sulfur,Schwefel]が加わる。 (タンパク質構造http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E8%B3%AA%E6%A7%8B%E9%80%A0 上のウイキペディアのタンパク質の主要原子と比べて、燐の表記が抜けているが、燐と塩の関係から、明らかだろう。)
2012年04月26日
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人類は堕落の一途を辿るばかりである。 そこで、またスウェデンボルグの書「霊界からの遺言」の翻訳本から警告として引用してみたい。 天国や地獄や神などいないと思う者が大半だろう。 その理由は到って簡単だからだ。そういう者には「自己愛」だけが存在しているからである。 神の全体の愛にとって代わり得るのは個人的な自己愛だからだ。 このように明白な論理はないだろう。 自己愛とは、全体を犠牲にしてのみ成り立つ論理だからである。 スウェデンボルグの書を読んでいると、このことが痛感される。 人類は来た道を引き返すときかもしれない。 そこで、上に述べた例のスウェデンボルグの書から引用したい。 ボルグは、この書のなかで、「幸福と快楽の違い」や「本当の美と単なる綺麗さ」の違いを考えてみることを、読者に提案している。 以下は引用を要約したものである。()内は私見による注釈である。 +++++++++++++++++++++++++++++++++ 例えば、ある種の肉体感覚を喜ばせることも、金銭などを不当な手段で蓄財することも確かに肉体感覚的には快楽であろう。 しかし、これだけでは我々は幸福とは感じない。単なる快楽と幸福とは別のものだからである。 (快楽は、更なる快楽を要求するが、幸福は、そのような見返りを要求しない点で大きく異なる。つまり、快楽は、幸福に似せた偽装の偽幸福といえる。その影には、支配欲が垣間見られる。) 霊的レベルまでの話はここでは置くとしても、肉体感覚とその上のレベルの心において、それがハーモニー(調和)を感じさせる場合でないと、われわれは幸福とは感じない。 快楽は、肉体よりも上のレベルへの流れが妨げられて肉体感覚のレベルだけに止まっているので、幸福ではない。快楽は、心に何かやましさを感じさせるものである。 美も単に肉体感覚を喜ばすだけのものでは本当の美ではない。ただの綺麗に過ぎない。もう少し上のレベルに達すれば、本当の美として感じられる。 +++++++++++++++++++++++++++++++++ さて、では、幸福とは何なのか? という疑問が当然生じる。 ボルグは、この書のなかで、端的に答えているが、その前に、ボルグは、人間を、霊、心、肉体感覚、肉体という4つからなる存在と述べている。この4つは、シュタイナーの説く人智学では、自我、アストラル体、エーテル体、物質体という用語に置き換えられる。 用語の意味はともかく、ボルグもシュタイナーも、人間は4つのものからなるという点で共通している。さながら「四銃士」のようでもある。 余談はここまでにして、ボルグの幸福とは、以下のように述べている。 +++++++++++++++++++++++++++++++++ 幸福とは、霊⇒心⇒肉体感覚⇒肉体という上からの下への流れや、その逆の肉体⇒肉体感覚⇒心⇒霊という下から上の流れが、いかなる原因によっても妨げられずに、常にスムーズに流れている状態であり、そのようなハーモニー(調和)が常に達成されている状態である。 +++++++++++++++++++++++++++++++++ また、ボルグは別の書で、幸福を実現している天国のなかでも、上位の天国を紹介している。 +++++++++++++++++++++++++++++++++ 「ひとり(霊)の幸福は万人(霊)の幸福、万人(霊)の幸福はひとり(霊)の幸福」 +++++++++++++++++++++++++++++++++ さながら、「四銃士」の名文句の「4つは1つ、1つは4つ」と同じものを連想させる。 この幸福の意味から、人間が、なぜ家族や社会をつくり、営む必要があるのかが、理解できるだろう。 例えば、男と女は、陰陽で表されるように、全く正反対の性質をもつ。そのような相反する存在たちが、家族をつくり、社会をつくり、営むには、1つとなり、性格の違う者たちとも、1つとなって、しかも、その構成員の誰もが不満をもつことなく、それぞれが全体の1つと調和していなければいけないわけである。 この文を書いていて、サッカー日本元代表のゴン中山選手の言葉が思い浮かんだ! 「チームプレーを優先すべきなのか、ストライカーとしてあくまで個人プレーを生かすべきなのか」 この答えは、その状況において異なるだろう。 そう、常に全体を見渡せる洞察力がないといけない。個人プレーがチーム全体を引っ張る場面では、自分の持ち味を生かすべきだろうし、チーム全体が、進んでいるときは、サポートに徹するべきだろう。 言葉で言うのは容易いが、行動というのは非常に難しい。 だから、言葉だけでは意味がなく、善を知っていたからといって、善行の勇気や意志がなければ偽善で、悪になる。 しかし、少なくとも、人間は、幸福を目指していることに変わりはない。 幸福とは、全員の幸福が、全体の幸福であり、全体の幸福が、全員の幸福である。 例えば、国王の幸福が、国民の幸福であり、国民の幸福が、国王の幸福であるのが、真の幸福なのである。いかなる犠牲もあってはならない。 さて、ボルグは、もともと宇宙は1つだったと述べている。1つという意味は、ヤハウエという「天の理」だったと述べている。 実は、いまでも、ヤハウエという1つの存在なのだが、外見上は分離、分派しているように見えている。 その理由は、人類が堕落腐敗したからだと説く。 特に大きな出来事は、「天の理」という1つの善の意志存在が、善の意志(行為)と認識(理解)にわかれてしまったことであるという。 1つの樹が、生命の樹と知恵の樹にわかれてしまったのである。 神から人間が生まれ、分かれてしまった。勿論、霊的な意味である。 シュタイナーの人智学の講義を理解している人なら、生命の樹と知恵の樹の喩えは理解できるだろう。 生命の樹とは、現代風にいうなら、人間の内面、つまり精神を理解する叡智(言語)で、知恵の樹とは、人間の外見、つまり外界を理解する知識(言語)である。 ボルグの本にも、同じような意味が書かれている。 ヤハウエは、アダムに、「知恵の樹を食べ過ぎると、天国から落ちるよ」ということを戒めただけなのだ! 現代でも、福島事故でわかるように、知恵の樹を食べると、屁理屈をみつけるだけで、誰も責任をとろうとしない魂に腐敗することを象徴的に言い伝えている。言い逃れても、その分、地獄に落ちるだけなのに、地獄に進むことを自ら望んでいるのは滑稽でもある。 終いには、危険を安全と無責任にも言い換えている。知恵の樹を食べ過ぎると、善を悪に言い換えてしまうので、善悪の判断を、自分たちの都合で考え出すようになるという意味なのである。つまり、自分から、光を闇に置き換えてしまい、悪魔に通じてしまっているので、もはや地獄に行くしかない。 しかし、肉体で腐敗した魂を隠せるとき、つまり生きているときは、知識で覆って、相手を騙せるかもしれない。 例えば、学者が、ただ外国で遊んでいるのに、留学というガラクタの衣装で着飾り、帰ってきて自慢するのも、詐欺行為の1つだが、中身が全く変わらないどころか、かえって腐敗していることに気づかず、どうでもいいことを自慢される相手の気持ちすらに盲目なほど、人の心が読めなくなっているのと同じである。 外見を着飾れば着飾るほど、中身が乏しくなることに気づいていない。ガラクタをいくら集めても、ガラクタにすぎない。善を行えない知識なら、ないほうがまだマシだろう。 現代のマスコミを見ればわかる。金銭のために、嘘を平気で流している。金銭は、確かに、この世に生きるときには必要だが、死ねば必要なくなり、嘘の報いだけが残り、良心を痛めつけるだろうから、自ら進んで地獄に堕ちるわけなのだ。そのうち、良心もなくなり、地獄では、同じような嘘つきばかりが集まって嘘を競い合う生活を続ける。 「全体の幸福が、自分の幸福でもある」という視点から大きく逸れてしまった! それとは逆の、「自分が快楽でいられるのなら、全体を犠牲にしてもかまうもんか!」という腐敗した魂の持ち主ばかり、つまり自己愛の塊が増殖しているわけである。 宗教の教祖の腐敗堕落した精神が、この代表である。 自分は神に通じる者と間違った信仰に陥っている。 冷静に考えれば、公平な神が、自分一人だけを優先するはずはないだろう。もし優先するのなら、大きな犠牲を自分に強いるに違いないだろう。少なくとも、人類の下に土台として置くだろう。人類全体を支えられない者が、神の存在などになれるわけがなかろう。 何もかもが間違っている。現代人の観点は、大きく逸脱している。現代人の観点を否定することからしかはじまらなくなってしまっている。 だから、「神とは何か?」と聞かれれば、「自分にはわかるはずがないよ!」と答えるしか正直な答えは見出せないはずである。現代人には、みえるわけがない。少なくとも目を閉じてみるしかない。全ての感覚を閉じてみないと、神という存在はつかめないはずだ! しかし、現代人から、全ての感覚をとってしまうと、皆無となり、まるで虚無の死んだかのようになってしまうだろう。生命の樹を見る目を失ってしまったからである。 死が新たなる再生であるとは少なくとも感じることはできないだろう。 余談が続いてしまったが、ボルグが語る人類の腐敗を続けて次から述べていきたい。
2012年04月24日
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治療を仕事とする人には、治療の基調となる感情が、思いもよらない形で現れてくることもあるが、通常は、外の事実と人体内の事実との関係の観察から生じてくる。何と言っても、外と内との関係の観察を通じて、薬の本質に対する重要な霊的な洞察力が生じるからである。 身近な例に触れる際に注目すべきことは、生体組織内の、ある状況において、有効な役割を果たす様々な治癒力が、外の自然のなかに、あらかじめ準備されることである。例えば、ロンセーニョ水[Ronsegno-Wasser]やレヴィコ水[Levico-Wasser]のような水が、比較的に良い精霊により、どのように調合されているのか、ということに注意すべきである。 〔Ronsegno-Wasser, Levico-Wasser Levico-Wasser「レヴィコ水」は、北イタリアのトレント郊外のヴェトリオーロにある、鉄、銅、砒素を含んだ鉱泉の水のこと。これについては、シュタイナー「『治療教育講義』高橋巌訳/角川書店/P122」にも出ている。Ronsegno-Wasser「ロンセーニョ水」もおそらくそうした鉱泉の水だと思われる。〕 以上の事柄については、次回以降、更に詳しく特徴を述べていくが、このような水のなかでは、銅の力と鉄の力が実に驚くべき形で互いに補完し合い、この補完の原則[Abkompensieren]を、広範な基盤に据えるために、このような水のなかには砒素も存在することを考慮に入れると、次のような結論に至る。 「実際、外界は、人間が何らかの状態に陥ることを想定して、準備に余念がない。」 外界の準備が、人によっては不都合に作用することもあるが、そのような否定的な場合でさえ、普遍的な原理の持つ普遍的な有益さが示される。このような事柄を語る場合、今日では特に次のことに留意する必要がある。 というのも、外界の準備の観察に際し、実際、今日になってはじめて徴候が出現するような病態に遭遇する可能性も出てくるからである。ただ、先入観をもたずに観察すれば、地球の一部に特殊な状況が進行すると、特殊な疾病が引き起こされることが、あらゆる面から認識できる。 更に忘れないでおきたいことは、現在、非常に興味深い現象、つまり今日発生している一般的な流感のようなものでさえ、極めて独特の特性を持つことである。すなわち、本来眠っている病気を呼び覚ましてしまうことさえある。 通常は生体の抵抗(免疫)力により隠されたままになっている病気を誘起し、状況によっては、死ぬまで眠ったままでいることさえある病気が、流感に罹ることにより、ある種の形で露呈してしまう。 以上全てを疑問の束(たば)としてまとめて、次回以降の講義の基礎としたい。実り多い出発点にするには、また別の奇妙な一致を示唆したい。勿論、人智学者にだけ、非常に深い意味をもって現われてくる一致である。 周囲の大気中には、そもそも、物理的にも、化学的にも正確に定義できないような、目にみえない、ゆるいつながり、ゆるい結びつきで、酸素と窒素が互いに結合している。さて、地上の人間は、この酸素と窒素から発する活動を基本として、地球に完全に織り込まれている。 そのため、この大気中での、酸素が、窒素に対して本質的にどう関係しているのか、または原理的にどう関係しているのかが重要であることが推測できる。 さて、空気(大気)の組成の変化が、酸素と窒素の正常な関係になんらかの変化をもたらすが、人智学から、この変化と、睡眠障害との関係が示されることは重要である。更に、その背後に隠されている関係全般の厳密な探求にもつながる。 人智学から、人間は、物質体、エーテル体、アストラル体、自我という4つの構成要素から成り立っていることがわかっている。更に、眠りにつくと同時に、自我とアストラル体が、肉体とエーテル体から抜け出る意味を、ダイナミック(動力学的)に理解できれば、寝起きと同時に、また入り込んでいくことが理解できる。 従って、次のような結論に達する。 「睡眠状態では、アストラル体は自我に、エーテル体は物質体に比較的緊密に結びつき、覚醒状態では、アストラル体や自我と、エーテル体や物質体の関係が、睡眠中のアストラル体や自我、エーテル体や物質体の関係よりも、比較的ゆるく結びつく」ことに注目しなければならない。 つまり、覚醒状態では、(両者の)関係が不安定なのである。
2012年04月24日
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以前、精神統一の話に続けて、沖正弘著の「実践瞑想ヨガ」から引用したい。 以下引用。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 涅槃寂静の境地について 仏教でいう涅槃寂静の、寂静の状態というのは、最高の緊張度とその反対のくつろぎ度との拮抗が中和統一すなわち調和されている状態のことです。 しかもこの調和運動は瞬時も停止せずに、たえまなく変動しながら、平静を保っているのです。この状態を静を含んだ動、動を含んだ静とか、静動一如と形容し、この最高の安定状態を涅槃といいます。 涅槃の生活者は最高の緊張状態でしかも最高にくつろいで、無心放下の生き方をしているのです。すなわち、プラスとマイナス両方の全力を出し切っている生き方が本当の生き方で、すなわち、神の現れている生き方であると教えています。 生命は自存の働きです。 すなわち、自分を使って自分に必要なものをつくり、自分を壊して不必要物を滅しているのです。この生滅の自動的繰り返しによって万象が存在しているのであって、私達がこのように生きているのは、この働きの現われに他なりません。 だから、ヨガでは、生命作用以外の創造神が特別に存在したりすると信じたり、そういう特別の存在が、救ったり罰したりすると思ったり、そういう特別のものだけが拝む対象だなどと思ったりしているのを迷信だとしているのです。 沖ヨガでは宗教と神を拝むことではなくて、神を自分とその生活の中に現わすことであると教えています。神すなわち真実を現わすとは一体どういうことでしょうか。 このことを知るには、まず神(真実)の働きとは一体何であるかを知らなくてはなりません。神の働きすなわち自然の働きは相反した2つの協力和合、生かし合いです。例えば、縮む力と伸びる力、生じる働きと滅する働き、動くものと動かないもの、食べることと出すことなどであり、この相反した2つで1つの生きものになるのです。 調和生活すなわち神を自己に現わす生活とは好きとか嫌いとか損とか得とかいって一方だけを特別に肯定したり否定したりしない、全肯定、全活用、和合の生法です。 自然の状態とは 意識を集中しているときには脳の電位が高まるので、その電位を中和するだけの腹力が必要です。電流は刺激のあるところに移動します。例えば、咳で、首肩の電位を腹力で中和するのが目的です。咳をすると腹筋が動き、そこに力が入り、結果としてそこの電圧が高まり、電位差がなくなると治るのです。 脳は意識することによって緊張しているのですから、それ以上の緊張を与えないように、手、肩、首、胸の力を抜いていなくてはなりません。頭の電位に拮抗するだけの下半身力が必要であって、頭の力(上部)と足の力(下部)の中和点が丹田すなわち腰腹力です。 足の力が弱いと頭部の力が過剰となって、「頭熱足寒」の異常状態になってしまいます。また、脳の主な食物は酸素と血糖なので、深い呼吸による酸素の補助が必要です。腹部は、腹圧刺激によって血行を高めると栄養が充分になります。 また血管を拡張すると内から外に体温が流れ、収縮させると外から内に流れるので、呼吸法によって筋肉の緊張弛緩をリズム的にして、このバランスをとればこの目的を達することができます。体のバランスをとる工夫と、心のバランスをとる工夫と、生活のバランスをとる工夫の3つを合わせたものが、禅定行、信仰行、三昧行を1つにした瞑想行法です
2012年04月20日
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大人とは何か? という質問があったら、「与える生活ができる人」と答えるでしょう。 人生の前半は、与えてもらって生きる生活です。 生命を親から与えられ、経済的に保護され、社会的に保護され、与えられて生きる生活です。また、宇宙や地球が与えられなければ、人類は一時たりとも生きられません。 人類にはまだ自らで相応しい宇宙や自然をつくりだすことはできません。未熟なのです。 だから神の子です。神様に与えてもらってはじめて生きられますが、限りがあり、死が伴います。 同じように、子供は、まだ社会には参画できるほどの、つまり誰かに与える能力が未熟なのでしかたありません。 しかし、大人になったら、自分のことは最低限度、自分でできなければ、いけません。お金で解決できたとしても、それはまだ未熟な証拠なのですし、金銭で誰かを犠牲にしているだけにすぎません。 経済的にいっても、与えて貰った以上のお金を返せる能力があってはじめて、公平な立場に立てるわけです。 贅沢な暮らしを与えてもらったなら、それに費やされた他の人の苦労が思い描けなければ、本当の大人の考えには至りません。 苦しみを知ってはじめて喜びを知るように、他の誰かが与えることで、いまの自分があるからです。 なぜ、このような文章を書いたかといえば、以下に紹介するブログから、感化をうけたからです。 http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201204130000/ なんだか、いまの日本は精神的には、いまだ未熟な子供ばかりなので、少子化というのは、生まれる子供が少ないという意味ではなく、日本人全体の精神が、子供のままで、与えて貰うことばかり考える不自由な束縛された人間が多いことに気づいたからです。 子供が生まれないのは、本当の大人が少なくなって、子供ばかりだからでしょう。つまり、精神的な大人、与える生活ができる人が少なくなっているのです。与える人が少なくなれば、与えられないと生きられない子供が少なくなるのも当然です。 いまの総理大臣をみればまるで駄々っ子そのものですよね。税金を与えてもらえないと、予算が立てられないのです。自分で作り出せないのは素人でプロではありませんし、しかも、みんなが反対していることに、固執している。これは多くの人々の気持ちが理解できない子供の精神の証拠ですよね。 与えられないと何もできないのは、能力がないという証拠です。意志がないのです。単なる機械です。機械人間が、この国のトップである情けなさに呆れてしまいます。できることすらやろうとしない怠惰な精神の持ち主です。 玩具屋の前で、玩具を買ってくれと泣き喚く駄々っ子が、国会という本来は大人の話し合いの場であるはずの場所に映っています。大臣に相応しくないという人が多いのに、聞こえない振りです。総理大臣の耳は単なる飾り物なのでしょう。 代表者が、支持者の気持ちが理解できないのは、子供だからです。与えてもらった人生しか生きていないのです。与える人生ではないのです。 総理大臣といえば、本来ならば、多くの人々に信頼や喜びを与えないといけない人です。少なくとも、嘘や裏切り、憎しみを与えるようであってはいけません。 本来なら、立候補を辞退すべきだったでしょう。恥知らずなんです。 では以下に引用したいと思います。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 子どもの人生は子どものものです。ですから、子育てや教育における大人の役割は、子どもが自分の人生を生き生きと生きることが出来る状態に育ててあげることです。 ただし、毎回同じようなことを言いますが、「子どもの人生が子どものものだ」と言っても、だからと言って「子どもが自分勝手に生きていい」という意味ではありません。 そうではなく、簡単に言うと「後悔しない生き方をする」ということです。 「自分の人生を自分のものとして生きる」ということは、「後悔しない生き方をする」ということです。 「こんな私に誰がした」と愚痴ばかり言う毎日を過ごしていても、やがて死は訪れます。その死を前にして自分の人生を振り返った時、「私の人生は愚痴ばかりだった」と気付いても手遅れだということです。 人は愚痴を言うために生れてくるのではありません。自分の人生を生きるために生れてくるのです。 そして、子どもたちが「自分の人生」を生きることが出来るように支えてあげるのが、子育てや教育における大人の役割だということです。 その場合における「学ぶ」ということの意味は「自由になる」ということです。そして、「自由になる」ということの意味は「束縛から逃れること」ではなく、「束縛されない能力を得ること」です。 そのために知識や知恵を学び、技術を身につけ、工夫する能力を育てるのです。 あなたがたった一人で無人島に流れついたとします。その時、助けてくれる人がいない、電気がない、水道がない、食べ物がない、虫がいるなどといって文句ばかり言っているとしたら、あなたはその無人島に束縛されている不自由な人です。 でも、自分の頭で考え工夫し、自分の心と感覚で感じ気づき発見し、自分の責任と意志で行動することで生き延びようとすることが出来るなら、あなたは自由な人です。 この無人島を「人生」と考えることも出来ます。 だからこそ、子どもたちは自由になるために学ぶ必要があるのです。 でもそれは、子どもを自由勝手にさせることではありません。自由に生きる能力を得るためには不自由と向き合う必要があるのです。 自由勝手に育てられてきた子は、不自由から逃れようとするばかりで、乗り越えようとはしなくなってしまうでしょう。でも、逃げてばかりではやがて袋小路に追い込まれてしまいます。 昔の子どもたちの遊びには、その「不自由」がありました。 コマ回しでも、剣玉でも、竹馬でも、お手玉でも、練習しなければ出来ませんでした。そして、その努力に応じて上手下手もありました。そして、上手な子は尊敬されました。だからみんな頑張ったのです。 そして、頑張ることで不自由を乗り越える感覚を育てていたのです。そしてその過程で仲間との強いつながりを育てることも出来ました。 でも、今の子どもたちは楽を求め、その不自由から逃げようとするばかりで、乗り越えようとはしません。そして、すぐお金で問題を解決しようとします。 もっと新しいソフト、もっと強いカード、もっと機能が高いおもちゃを買ってもらおうとするのです。そして、そのお金は親に依存しています。 造形の現場でも、今の子どもたちはちょっと思い通りにいかないとすぐに投げ出します。逃げることで自由を得ようとするのです。でも、逃げてばかりいたら自由に生きるための能力は育ちません。そもそも、逃避そのものが一つの束縛なのですから、逃げてばかりいたらますます自由を失い、苦しくなるばかりです。 そのような状態に対して、古い大人たちは、「我慢」を押しつけようとしています。でも、その「我慢」を押しつけられて来た子どもが大人になって、我慢できない子たちを育てているのが今の日本の状態なのです。 ですから、子どもたちに「我慢」を押しつけることはますます状態を悪化させるだけなのです。 「じゃあ、どうしたらいいのか」ということですが、このような問題を解決するためには、子どもの「からだ育て」が一番効果的だと思います。「自由なからだ」を育ててあげるのです。 「我慢」を学ばせるのではなく「自由」を学ばせるのです。(自由にさせるのではありません。「自由」を学ばせるのです。) 「自由なからだ」は「心」とつながったからだでもあります。「意識」や「意志」や「感覚」や「知性」ともつながったからだでもあります。 そして人は「自由なからだ」を得ることで、「心の自由」を得ることが出来るのです。「心」と「からだ」は一体だからです。 色々なことに束縛されて自由を失ってしまっている大人においても同じことが言えます。++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 精神統一の重要さ、つまり文武両道の教育を教えてくれる話です。
2012年04月19日
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以前アプローチした牡蠣の殻の形成過程に対して、いわば別の面の、宇宙の化学力や生命力からのアプローチにより、牡蠣の殻の形成過程のアプローチが包括的に理解できるわけだが、次回から、このような包括的な理解を導くように述べていきたい。 このようなアプローチから、人体内の、外の空気(大気)の活動に相応するものとして、また水の活動に相応するものとして、更に固体の土の活動に相応するものを、それぞれ腎臓の活動、肝臓の活動、肺の活動のなかに捉える包括的な理解に到達できる。 空気(大気)の活動は、広義の意味で腎臓に結びつき、特に尿の排泄機能の関係全般に相当している。尿の排泄機能のなかの最重要部、つまり腎機能の考慮が必要な際に、腎に関係する全過程は、状況によっては、呼吸困難や呼吸への欲求を生じさせ、例えば、植物の炭をかなり服用すると、その一種の後遺症として残る。 従って、次のような結論に達する。 「本質的に、呼吸組織の障害や呼吸困難の根本的な要因を、腎臓のなかに探究しなければならない。」 また、人体の水や液体全般に関わる症状の根本的な要因を、肝臓のなかに探究しなければならない。呼吸困難や呼吸調整、呼吸への要求が腎臓と関係するように、渇きは肝臓と関係する。 渇きを原点とする特別な諸症状の相互関係を、肝機能のなかに研究するのも興味深い。更に、肺の内的な実質、いわば肺の内にある新陳代謝と密接に関わるのが、飢えを原点とする現象全般である。 飢え、渇き、呼吸への欲求は、実際、自然のなかの測定可能な空気や水や土と関係する(下図参照)。 (現代科学でいうなら、光生成の層や化学力の層や生命力の層は、磁気圏やプラズマ圏に相当する。) 外の宇宙にある空気(気体)や水(液体)や土(固体)の他方の対極は、人体のなかの器官と関係する。そして、人体内で、新しい固有の光の生成能力が弱まるために、外の光による活気づけを必要とし、外の光による活力を獲得するのが一番良いことがわかる。 以上のことから、光による治療法の正当性を認めるようになる。日光浴は実は必ずしも光を浴びる日光浴ではなく、外の光による人体内の光の生成に注目することが大切である。つまり日光浴の本質とは、通常地上に居住することで曝されるよりも、外の宇宙の化学力の層に曝されることにある。 外から化学作用とともに流れ込んでくる光が、地上の日光浴において、効力を発揮している実体である。この化学力の層の背後、以前提示した図(上図参照)から理解できるが、化学力の層の背後にあるのが生命力の層で、人体内では、いわば、固有の光が高められるか、もしくは化学的作用が高められた結果として生じるものである。 (生命力は、自身で固有の光を作り出す能力から生まれる。この光生成能力、仏教でいう霊光は、端的にいえば、愛を育成する自己犠牲的な能力である。他者の借り物ではなく、他者の借り物では、怠惰になり、かえって能力を失うので、自分自身で作り出す固有の能力が本質である。ヨガはその開発の方法を説く学問みたいなもの。 映画「スターウォーズ」でいうなら、ライトセイバー「光の剣」のことで、人間はいわば愛の炉ともいえる。人間は自身で光をいわば発電「発愛」することで、生命力を獲得している。 実は、天国とは太陽のことで、太陽とは、かつて人間として転生し、いわば愛の炉を完成させた天使たちが、愛の炉から光を送っている群であるという。だから、太陽の光は、愛の源である。仏典では、仏陀の軍隊とよく喩えられる。天国の反対の地獄は、光を奪う存在なので、闇、つまりブラックホールのことである。 魔物は、寄生の存在なので、愛に飢え、他者の愛を奪うことしかできないので、生命力を奪おうとする収奪者で、ヨハネの黙示録でいう666の存在である。 キリストが、太陽から、地球に降りたことで、太陽には黒点が生じた。キリストが地球に来た分、太陽の愛が弱まった。太陽に黒点が生じたことを、ゾロアスターは、神が死んだと表現し、キリストが、地上で人間として暮らし、人間として死んで、その復活を遂げることを預言した。 キリストが多くの地球の人類から、光の天使を生み出し、再び太陽に帰還し、天国の一員となって、太陽をより輝かせるために、地球においては魂の救済活動を行っているわけである。再び天国に帰ることを忘れ、地獄を彷徨いながら繰り返しの転生ばかり続けるうちに獣に落ちぶれていく人間が多いのは、非常に残念だろう。全ては、つながっている。) 従って、測定可能な量であることはいうまでもないが、人体内の強すぎる過多な作用が、宇宙から入り込んでくる光により抑制されるなら、人体内の光を伴った化学活動や生命活動が極めて有益に作用する。 (以前、紹介したリッターの治療法、現代の光線力学的療法は、人体内に、光の生成能力を喚起したものといえる。) ただ最後につけ加えたいことは、今日の自然科学が生命の起源に対する見解を持つことに成功していないことがわかっても、不思議に思う必要はない、ということである。なぜなら、今日の自然科学が探究する領域内には、水銀(水星)の作用による、生命力の反対の死だけしかないからである。 生命の源は、外に探究すべきなのに、今日の自然科学は、外の宇宙に向かおうともしない。自然科学は、地球外の宇宙へと向かうことについて何も知ろうとしない。地球外に向かう他ないときに、地球外に向かった人も何人かはいたが、それでも、自然科学は、地球上の物質に変換してしまう。 (宇宙人探索の意味で、宇宙を探索しているが、地球上と同じように、宇宙人が肉体をもつものと錯覚している。) このように生命力の働きを、物質に移し変えることは、別の天体からの生命の萌芽が、この地球にもたらされる、という結構な仮説として見事に結実した。生命の萌芽は、物質として見事に別の天体から、あらゆる障害を通してもたらされ、この地球に発生する。 生命の萌芽が地球にやってくるための乗り物は隕石である、というような想像もある。このような想像のように、現代では、唯物論での説明による状況すら実現されてしまった。肉眼で見える観察全てを、微視の、もしくは超微視に還元すれば説明がついたと思うように、生命も、どこか別の物質的(3次元的)な領域に還元できれば説明がついたと思いこむ。
2012年04月19日
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さて、以前の講義で、既にある過程(プロセス)を指摘したが、それは、人体内の作用を、自然のなかの作用から探索するときに重要な過程(プロセス)のことである。その際に指摘した過程(プロセス)は、牡蠣が殻を形成する際の過程(プロセス)で、端的に言えば、牡蠣の殻の形成過程(プロセス)だった。 炭素とカリウムの共存の結果生じる炭化カリウムから、更に展開させれば、カルシウムとの共存(炭化カルシウム)に至る。ただし、炭素とカルシウムとの共作用過程(プロセス)だけが生じるなら、牡蠣の殻のなかの強い燐作用の共作用により、炭化カルシウムが幾分緩和される(イオン化される)が、牡蠣の殻は、更に幾つか別の海の環境に負う作用と共作用している。 さて、牡蠣の殻の形成過程(プロセス)の観察から、実際、人間と外の自然との関係のなかに参入できる。水(液体)の形成から更に地下へと向かうと(下図参照)、土の形成、いわゆる固体化や硬化と呼ばれる過程に到達する。 上記のような表現が、今日タブー視されていないのに、また、古代人たちの土や水や空気に対する愚かな表現ともみなさないのなら、物怖じせずに、土、水、空気、火に関して表現すべきで、その表現から、少なくとも、次のような事実が暗示できる。 「地球上の硬い土(固体)形成も、外の遙か宇宙に対極をもっている。この対極が生命形成であり、実際、生命を与える根源[der Ursprung des Vitalisieren]なのである。事実、この根源が生命のなかにある。この生命力は化学力より、更に遠くからやってきて、外界では、地球内の土(固体)形成内で、完全に殺され、消滅させられる(上図)。」 (地球の大気については、以下を参照 地球の大気 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%B0%97 重力により、生命力は殺される。) さて、次のようなことに関心を惹くかもしれないので、付け加える。 もし、水星が地球に対置されず、地球外の水星から、この地球に向かって水銀過程(プロセス)が行使されなければ、この地球は、途絶えることのない生命形成の影響の下で、癌腫が絶え間なく形成され、膨張してしまう。 上記のような事柄を少なくとも考えてみるだけでも重要である。実体化しながら形成される元素とも呼べる土(固体)形成において、一般に生じている前段階が、牡蠣の殻の形成のなかで起きているのを見ることができる。 牡蠣の殻が土(固体)形成に進むのを妨げているのは、牡蠣の殻が、海、つまり水(液体)となおも関係し、土(固体)形成を、その前の段階に押し止め、土(固体)形成の前段階に自らを固定することによる。ミミズには、牡蠣のような芸当はできない。ミミズは殻を持たないからである。 しかし、ミミズからも作用が発生している。「ミミズがいなければ、地中には形成力が無い」という発言は正しい。ミミズは、本質的に、土(固体)形成過程(プロセス)の進行に関与する。ミミズ全体がいわば、牡蠣の殻形成を超え、牡蠣の殻と同様に、地球全体に関わる形成を共に進行している。 ミミズによる土(固体)形成は、牡蠣の殻の形成という事態に至らずに、耕土などのなかにある類似の誘導物全般の発生に至る。 さて、人体のなかの化学力と親和性を持つ過程、つまり肝臓と結びつく過程(プロセス)よりも、内にある過程(プロセス)を探すなら、更にまた別の器官に到達する。この別の器官とは、肺に他ならない。 しかも肺は、人体組織のなかでは、二重の形で観察すべきものである。第一に、肺は、呼吸という現象を担う器官である。ところが、奇妙に思えるかもしれないが、肺は、いわばその表面でのみ、呼吸という現象を担う器官なのである。 肺は同時に、人体のなかでは、内的に深く、土(固体)形成を調整する器官なのである。 人体を、外から内へと入っていくと、栄養摂取-消化過程からはじまり、腎臓-肝臓形成過程を経て、肺形成過程まで到達できる。機能上では、肺は呼吸の基礎となっているが、そのことは度外視して、肺を内的に形成する過程まで追求し、肺の内部で生じている過程(プロセス)を調べれば、牡蠣の殻形成に現われる過程の対極であることがわかる。 人体は、肺形成過程のなかに、宇宙の化学力の領域(層)の上(外)にある生命力の領域(層)を取り入れている(上図)。 炭酸カルシウムの影響下に発生する病像を観察すれば、肺という器官の独立した生命現象に強く関連するのがわかる。この過程(プロセス)を、呼吸過程(プロセス)の影響下から切り離すことは困難である。 しかし、肺は2つの面に向かって、人体に奉仕するので、肺は外に向かう機能的な任務と、内に向かう機能的な任務をもつことを考慮に入れる必要がある。 肺の退行も、牡蠣の殻の形成過程、もしくは同類の巻き貝類の殻の形成過程などの形成過程に現われる同様の現象のなかに探究していく必要がある。
2012年04月17日
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忠武飛龍さまのブログを訪問していて、「文武両道」が目にとまったので、少し考察してみたい。 「文武両道」を目指すとよく言われるが、本質的に、文武両道とは、手段であって、目的ではないと思う。 では、目的とは何か? それは慈悲、慈愛であり、人類愛であろう。要するに精神の育成である。 精神の育成は、精神統一にある。短い時間なら、精神統一に至ることはあるが、常日頃から、精神統一に至ることは困難である。 常日頃からの精神統一や精神の育成、慈悲、慈愛、人類愛の目的なしに、文武両道を唱えても、全く意味がない。 それではかえって諸刃の剣である。 現代では、手段を目的に倒錯している輩が多い。 忠武飛龍さまのブログから引用させていただくが、中世の教養人は、現代のように少なくとも、倒錯していないことがわかる。 以下引用。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++中江藤樹:「文と武は元来一徳であって、分かつことができない。したがって、武なき文、文なき武は共に真実の文ではなく、武でもない」貝原益軒:「武芸の直接の目的は、戦場の使、日常の使にあるが、究極の目的は、武徳の涵養(かんよう)にある。すなわち武芸により、心身を統治することである」+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 中世では、恐らく、平時の精神統一を、「文」とし、戦時の精神統一を、「武」としたのだろう。いずれにしろ、精神統一にかわりはない。 平時には、体が鈍るから、肉体鍛錬を怠らずに、戦時には、心が鈍るから、精神鍛錬を怠らずにするわけである。 「武」については、その漢字から明らかにように、「戈(カ・ほこ)」を「止」めると書くように、「攻撃を止める」という意味がある。 暴力を止めるのが、武であり、刀を収めるのが武士で、山岡鉄舟などは、ついに覚って、無刀流となったように、現代の武とは全く反対のものといわざるを得ない。甲子園に出ようが、世界舞台に出ようが、スポーツ選手でも、ダメな者はダメである。 スポーツをして世の中を平和にするのなら、武ともいえるが、単なる競技では全く武ではない! 要するに闘争心を押さえ、尊敬心に変えるのが、武の働きといえる! そのような意味で、単なる勝負の道具では、武ではなく、相手や周囲の見るものを感動させ、尊敬させるような芸術家でなくてはおかしい! だから、現代でいうなら、武とは、どちらかといえば、スポーツ選手よりもコメディアンや芸人に近いものだろう。 江戸時代の川柳かなんかに、「茶屋の娘は刃物はいらぬ、目で殺す。」というようなものがあったそうだが、武とは、本質的には、そのような働きなのである。女の涙は武器ともいえるし、赤ちゃんの笑顔は愛嬌の芸術である。戦国時代の武田信玄の戦法は、芸術的で、戦う相手に戦意を消失させたそうである。少なくとも、芸術になっていないと、武とはいい難い。 かつてのオリンピックは、哲学の場だった。オリンピックの舞台では哲学が行われていた。 いまでは、哲学というと、ディベートか、弁論かと間違われるが、古代ギリシア人の哲学は、全身全霊で神である愛を表現したものが、哲学だったのである。段々と形骸化して、口先しか使わなくなり、弁論やディベートになり、いまでは頭しか使わないクイズみたいな問答になってしまった。 武は退廃して腐敗堕落の体になってしまったのだ! かつての哲学は、いまでいうヨガのような精神統一(愛)の全身の表現だった。インドでは、まだその名残りがみられる。 精神統一というと、現代人は、各個人の精神統一だけを想定するが、各個人も精神統一するのは当然だが、その精神統一によって、周囲や全体の統一感を損なうのでは意味がない。だから、日本人が、空気を読むという以心伝心を大切にするのはよいことだが、空気を読んで、更に一段と、全体への統一感の上に、個人の統一感をもって、周囲に芸術的に創作を加えないといけない。 笑いは、周囲の統一感をあえて崩すものだが、崩した上に緊張感を与えないといけない。 また、「文」も、単なる知識に埋没してしまった! 古代でいう「文」とは、叡智そのものだった。いまでいう自然の法則みたいなものである。例えば、現代では、重力を数式で記述するが、古代では、いまでいう詩で記述したのである。 現代からみれば、古代人は皆詩人にみえるだろう。 古代人の日常、つまり日記は、詩で書かれ、論文も詩だったのである。詩とはいっても、現代の数式や知識水準を遙かに超えた内容をもち、宇宙や人類を、現代よりも遙かに理解し、神の存在も記せたわけである。 だから、詩の形で、神話が残っているわけで、吟遊詩人が尊敬され、中世では、日本でも、和歌などが尊ばれたわけである。詩のような神話は、預言からきている。現代人には、聖書も詩のようにみえるだろう。 しかし、神を記せたというのは、少し言い過ぎの感もある。実際は、古代人の身体のなかに、神霊が宿って、自然則や宇宙を表現したというべきだろう。 つまり、本来の「文」とは、神の存在そのものなのである。神の存在、つまり「愛」を理解しているかどうかである。宇宙を統一しているのは、神の愛だからである。 現代に置き換えれば、「良心」のことだろう。常に良心を発露しているかどうかである。良心だけが、人類を統一できる。 だから、文武両道とは、良心を発露し、芸術を創造する精神統一を日常万事において行うことになる。 確かに切磋琢磨は必要だが、闇雲に切磋琢磨しても、道に迷うばかりであろう。 チーターや馬のように走れても、それだけでは動物である。スズメバチのように紙をつくれても、それだけでは昆虫である。 文武両道は、獣ではなく、人間が神の方向へと進む道しるべでなければおかしい。 「精神統一」といっても、曲解するのが関の山なので、例えば、沖正弘著の「実践瞑想ヨガ」から引用したい。 以下引用。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 安定性を高める 瞑想行法は、統一、禅定、信仰、三昧の四行法が1つになっていて、心と体の両方を同時に安定させる目的の行法です。この心身の働きの安定を得ることが健康法のコツです。例えば、眠っているときには脳波が安定していて、このときに異常が回復されるので、よく眠ることが、病気治療と健康保持の鍵です。 動物でも冬眠中は最も安定しているので、覚醒時の致死的ショックでも死にませんが、脳が異常過敏のときには、ちょっとした刺激でもオーバーなショックとなってしまうので、死ぬことがあります。しかし、間脳や自律神経やホルモンの働きは、意識でコントロールすることができないので、行法の訓練によって、回復力を条件反射として自己化する以外にないのです。 禅定行法を修めるには、次の調身法、調息法、無心法の三行を合わせて行います。 (1)調身について 眼を閉じて腰を伸ばし、胸を上げ、脇の下には卵1個入っている心地になり、顎を引いて首肩の力を抜き、腹をまっすぐにし、肛門を締め、下腹部だけに力が集約されている状態になります。このとき、胸は張られていますが、みぞおちとともに力が抜けており、下腹の上、腹の上向きで上体の重さを担っているような心地になります。 (2)調息について 最初は丹田呼吸法をやりますが、これを続けていると、この完全呼吸が自動的になり、全身の筋肉が呼吸作用の協力に統一されて、静かでしかも和やかな胎息(全身)呼吸法になります。 (3)統一放下法について 無心になる行法です。最初の段階としては意識を何か一物に集中(統一)します。この統一が無意識化すると対象物に対する意識が消失して、いわゆるあって無きがごとき無心の状態になります。意識的に放すのではなくて自然に放れていくのです。 座禅行法は、生命の二大対立組織であるところの脳組織と腹部組織の働きを最高度に高めておいて、中和する行法です。 脳は酸性臓器の代表で、核が優勢(部分が優勢)で、これには心臓、横隔膜、胃、性器が属しています。腹部にはアルカリ性臓器が多く、質が優勢(全体が優勢)で相互に助け合い、これは肝臓を中心として腎、腸などが加わっています。 ありがたいなと、心から喜べているときには下腹に力がこもり、胸がひろがり、呼吸は深く正しく、心身ともにゆったりと落ち着いていると同時に、気力が満ちているのを感じ、仕事や勉強をせずにはいられないようなファイトが自然に湧いてきます。 この生命力の満ちた状態で生活しているのを、二十四時間禅する生活というのです。 この生き方が、自然の能力を最上に発揮できる生き方ですから、生命の現れている生活すなわち本当の生活といいます。生命の姿は、最高に調和のとれた心身の働きのときに現れるのです。生命すなわち神です。 神は観念的なものでも、理屈の上のものでもありません。ヨガでは神とは生命の働きであると教えています。瞑想行法は、見性行法とも見神行法ともいいますが、その真意を理解されたことと思います。
2012年04月16日
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前回述べた人体の消化機能と排泄機能、更には植物の炭摂取と光生成との対極の関係は、次のような図を描けば、包括的に理解できる。 いま、地球を考える(上図参照)。地球は空気(大気)に囲まれ、大気の上方には、また別の層がある。大気層(大気圏)の上方にあるのは、一種の熱の覆いとみなせる層で、地上から離れていく方向に進めば、大気の層から、別の熱の層に到達するが、この熱層(熱圏)は、地上の熱からみれば、人々を非常に驚かせる。 (現代科学でいう地上80km-800kmの熱圏のことだろうが、熱圏の分類は、シュタイナーよりも、広い範囲で使っている。) 地上の熱は、この熱層(熱圏)の下の大気層(大気圏)と似た役割を果たすからである。 この熱層(熱圏)の外側には、この熱層の内側の大気層(大気圏)と対極の層があり、その層では、本質的に大気層(大気圏)とは真逆のことが生じている(上図参照)。 いわば、空気(大気)が消滅[entluftet wird]することで、光が発生し、この層(電離圏)から、地上へと送られる(上図参照)。 この地上へと送られてくる光が、太陽からやってくると考えるのは全くナンセンスである。このような考えは、物理学者と天文学者の非常に厄介な幻想にすぎない。地上の光は上述の層(電離圏)からやってくる。光は、この層で発生(生成)し、この層で生み出され、地球上で植物が成長するように、この層で成長する(上図参照)。 (現代科学でいう電離圏のことだろうが、シュタイナーの場合、空気が消滅する層なので、狭義の意味で外気圏も含んでいるようである。) 従って、次のような結論に至る。 「人間が、自らのなかで新しい固有の光を作り出せる根拠は、上述の地球の熱層(熱圏)の上の光生成層で生じる通常の光の生成を、人体内の自らの光の生成過程を通じて、再現することにあり、同時に、人間は自らのなかに、地球外の起源をもつ。」 この地球外の起源から生成される光が、地上の全ての植物に作用し、人間にも作用するが、ただ、この光は、外から植物に作用するが、人間には、自らのなかで、光を生成する段階にまで高められている(上図参照)。 さて、大気層(大気圏)よりも、内側へと、地球に接近すれば、その領域は、一体どんな状態なのか、と疑問をもつなら、別面において、人間の生体内に入り込むことになる。 大気層(大気圏)から、地上に接近すれば、空気は液体や水の状態へと至る。従って、大気(気体)層の下に、液層を想定できる。この液層も、その反対の対極を、地球の外側にもつが、この層は、大気層の遙か上にある。 その層でもまた、液層とは対極的に、真逆に生じ、液層とは反対に対置される。大気層の遙か上の場所(熱層の上の光生成層の上)では、1つ下の光生成層で、光が成長するように、何かが成長する。 この場所で成長するのは、化学力であり、地球へと化学作用を及ぼす(上図参照)。 従って、化学作用を促進する地球の働きを、物質のなかに探究するのは全くナンセンスである。化学作用は、この層から地球に向かってやってくるからである。 地球外の上層にあるような化学力も、光生成と同じように、人体内に、自らのなかで作り出すような能力(機能)を人体内にもつ。人間は自らのなかに、いわば1つの化学装置[Chemikator]をもっている。人間は自らのなかに、化学的活動の起源である天の領域を持っている。 天の化学力の領域は、人間のなかでは非常に限局している。つまり、肝臓に限局している。 人体組織のなかで肝臓が展開する独特の働き、つまり、肝臓が、血液の性質を吸収するような作用をもつこと、また胆汁分泌を通じ、血液を調整的に作用することなどの、肝臓の血液の調合全体への関与を研究するとよい。 人体内で、肝臓が展開する活動全体を眺め、肝臓のなかをくまなく最後まで研究するなら、真の化学作用を認識できる。地上では、外(唯物)的な化学の真の姿を見つけることは不可能だからである。実際、外(唯物)的な化学は、地球の外の天の化学層の鏡像と見なす必要がある。 つまり、人間の肝臓の驚異的な全作用を研究することで、この地上を超えた領域も研究できる。 植物の炭を、アルカリ性の、例えばカリウムと関係づけ、炭化カリウムとするなら、植物の炭の内的特性を、人体内に展開でき、結果として生じる作用を、人体内に引き起こすこともできる。アルカリ性の物質全般は、生体内の奥深くの肝機能にまで作用できるのに対し、植物の炭に関する全般の作用は、腎臓の経路を目指す。 すなわち、アルカリ性の物質全般と肝臓との間に、明白な相互作用が認められる。アルカリ性の物質を研究するなら、炭素が動物化に関連するのと同様、アルカリ性の物質が、人体内の植物化と、外界の植物に関連することに気づく。
2012年04月16日
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以下はつづき+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 5.シチリア侵攻作戦とマフィア 海軍が、マフィアの「利用価値」を知ってからというもの、彼らの持つ情報はことごとく有利に働いた。連合軍がアフリカ戦線を掌握して後、今度はイタリア本土に目を向けた。ナチスドイツが駐屯していたイタリアに不案内だったアメリカ軍は、マフィアの情報筋から、「イタリア海軍総司令部の場所」や、「地雷原の場所」、さらに「枢軸国の作戦行動」までも聞き出したのである。それによると、イタリア海軍総司令部はシチリア島にあった。 それで、連合軍はまっすぐにそこを突くことができたのである。「1943年7月10日」マフィアの情報を熟知していたアメリカの秘密工作員が先導する中、連合軍は効果的に勝利をもぎ取った。この時、シチリアのマフィアまでが協力的であり、侵攻する連合軍が攻撃されないよう便宜を図った。アメリカ在住経験を持ったマフィアは、さらに協力的であった。 彼らが協力的だったのは、支配者であったベニート・ムッソリーニがマフィアにとっても敵であったからである。その政権は、シチリアマフィアを徹底的に掃討し、その大物達を刑務所に捕らえていた。イタリアに侵攻した連合軍は、ムッソリーニ政権が捕らえていたマフィアの大物幹部達を、ことごとく解放し放免した。 一部報道では、「兵士達はそれを政治犯だと勘違いした」と報じられている。しかし、「アメリカ海軍がマフィアと裏取り引きしていた」という事実を噛み合わせると、これは「意図的な操作」であるとしか思えない。さらに、アメリカ軍はマフィアの大物を市長にするなど「とんでもない愚行」を犯したそうである。大物ドン・カルロは失墜した地位を取り戻し、後に政界に食い込んだ。 この戦争で、アメリカ軍に協力していたルチアーノは、終戦後、刑期を終えずに釈放されている。ルチアーノを刑務所に送り込んだデューイは当時、ニューヨーク州知事だった。彼は皮肉にも、苦労して捕らえたルチアーノを、自らの承認で釈放せざるを得なかった。ルチアーノは大送迎団に見送られ、イタリアに送還されている。 軍の中で、この暗黒街計画を遂行したのはハフェンデンだった。彼の「ルチアーノ釈放」を促す文書が残っている。しかし、軍上層部からは「これは無かったことにしろ」という圧力を受けたようである。こうして一般向けには、「軍の謀略」は内密にされた。 しかし一連の証拠が、トーマス・E・デューイの死後に、彼の所持する書類から発見されている。そこには、アメリカ軍とマフィアの結託が明記されているのである。現在、これに関する詳細は国家機密とされている。「資料:ヒストリーチャンネル」 占領政策とは その後のイタリアは、投げやりで奔放な国になった。そうなるしかなかった。「奔放なイタリア人気質」は知られているが、政治体制に見られる腐敗は、外部からのこうした操作が絡んでいるのである。 マフィアなどが政治を牛耳ると、目先の利益しか考えない政権が誕生する。「理想」より「利権構造」である。政治家は、自分の懐ばかり気にするようになる。疑えば、これも「占領地政策」の一つかもしれない。 つまり、占領国の政界に「腐敗菌」を送り込み、これを腐らせることで「理想主義の台頭」を防ぐというもくろみである。イタリア民衆は占領軍によって、ファシストなどを憎むようになった。しかし同時に、理想を叫ぶ主義主張に興味を失い、「新たな理想主義」にも目を向けず、日々の享楽を追い求める民とされてしまったように思える。その後のイタリアは、根深い政界の不正に悩む日々が続くのだ。
2012年04月13日
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イタリアと、日本の政情は非常によく似ているといわれている。古代ヘブライ語の例のサイトから、背後にロスチャイルドとアメリカに鍵があったことがわかるので、再度引用したい。 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/general/general.html+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ アメリカと謀略 悪の枢軸 「悪の枢軸」という言葉が、使われて久しい。 しかし、反論する者はこう言う。 「アメリカこそ悪の枢軸だ」 それでは、もう少し深く考えてみよう。 この場合の「悪」という言葉は、焦点ががぼやけた漠然としたものとなっている。実際は、「悪」には二種類ある。目に見える悪・・・つまり「真正の悪」と、目に見えない「偽善の悪」である。 これを同時に「悪」と呼んでいるために、正反対の主張が飛び交っているのだ。もちろん、社会の中では「物事のピントをはずして話す」という「話術」も必用とされる。何もかもはっきりさせてしまえば、「外交辞令」が成り立たなくなる。しかし、「判る人には判る」という話法ばかり使っていると、理解の弱い者に誤解が生じ、子供達には悪影響を与えてしまう。 それで、物事をはっきりと分析して教えてやる必用がある。特に子供の場合、心の基礎を組み立てる材料に、形の崩れるものはふさわしくない。 アメリカの裏表 コインに裏表があるように、人、政治、国にもそれがある。しかし、普通のコインは裏も表も同じように光り、つるつるしている。ところが実際、偽善者のコインは裏が真っ黒で棘が出ており、とてもさわれないおぞましいものだ。 アメリカの表の顔は、人道援助を行う親切な国であり、陽気でフランクで、懐は広く深いことが知られている。しかし、政界が忘れてならないのは、その裏の部分である。では、アメリカの「闇の顔」を考えてみよう。 1.移民と殺戮の国 「メイフラワー号」が象徴するものは、「新大陸」と呼ばれる未開の地にやって来た開拓者である。しかし、実際はそこは「未開の地」などではなかった。 既に先住民インディアン達によって「開拓済み」の土地であった。彼らは社会を形成し、生活を営んでいた。彼らが原始的な人々に見えたとしてもそれはひが目である。インディアンは、「自然に手を加えず利用する」という生き方を選択しただけなのだ。その意味でそこには、「文明があった」し、また「他人の土地」であった。 「他人の土地」を「未開の土地」と呼ぶためには、先住者を殺戮するしかない。そして彼らは、時間を掛けてそれを行った。国土を奪い取ったのである。 この場合、その行為が「侵略ではない」と主張する論理には無理がある。 インディアンに無礼があって、知らずに移り住んだ移民達を一方的に虐殺した場合なら自衛も必用だろう。・・・しかし、インディアンは初期の移民達に、親切に接したという。 攻撃が始まったのは、白人達に非礼があったからだ。インディアンの土地や村を略奪したり、無抵抗の老人、女子供を殺したり、頭の皮をはいでコレクションにしたりした。 また、インディアンが食料として大切にしていたバッファローを、大量に撃ち殺して絶滅寸前まで追い込んだ。アメリカの土地に増え広がっていたバッファローは、白人の増加と反比例して消え去っていった。一説では、「インディアンの食料を枯渇させる政策」だったとも言われている。これで怒らない人はいないだろう。 歴史には、インディアンが頭の皮をはぐ野蛮人だと描かれているが、先に頭の皮をはいだのは、白人だった。彼らにとって、インディアンの長くて黒い髪の毛が珍しかったからである。インディアンは、そうした非道に対して復習していたに過ぎない。 インディアンは武力でヨーロッパを攻めた事も無かった。白人達が一方的に、「ここは空き地だ」「新天地だ」・・・と言って、「他人の土地」に上がり込んで来たのである。最初、客として歓迎していたインディアンも、白人達の横暴にたまりかねて武器を取るようになった。この歴史を消すことはできない。 一部、良識を持った白人達が金を支払って権利を買い取ったという事実もある。しかし、ここで論じているのは、アメリカの「大勢部分」なので、これには言及しない。ミクロの出来事を挙げて、マクロを論じることはできない。 インディアンについて、「彼らの祖先はイスラエルの土地から来た」と記されている古代の書物がある。ジョセフ・スミスが発見して翻訳したという「モルモン経」である。 彼らが、「イスラエルの末裔」であるとすれば、なおさらアメリカの罪は重くなる。それは、どんなに落ちぶれていても、彼らが「神の注目する民」であるという意味になるからだ。彼らに触れた民族には、7倍の返報がやってくる。 2.黒人奴隷を受け入れた国 「人が人を奴隷にする」という横暴は、聖書の中でどう見られているだろうか?初期の人類史では確かに「奴隷」という風習が根付いていたし、戦勝国が敗戦国の民を奴隷とするのは常だった。 しかし、古代の「普通の奴隷」は、「雇い人」に近い待遇を受けていた。実際、資力に乏しい人は、自分を身売りして金持ちに雇ってもらった。これで、衣食住の心配はしなくて済んだ。これなら現代のサラリーマンに近い。そして、イスラエル人の風習では、奴隷には「年期明け」があった。(それをヨベルの年と呼んだ。) レビ記 25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。 レビ記 25:11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。 多くの場合、彼ら奴隷は主人から少しの財産を贈与されて送り出された。一方、黒人奴隷の場合は悲惨だった。そこに「強制」があったからだ。実状は、全世界に知れ渡っている。 キリスト教を自分の宗教とする民が、黒人奴隷の悪習を受け入れたのは不思議である。他国の人の家庭を破壊し、人生を自由にし、動物のように扱うことなどできるはずがない。南北戦争が無ければ、アメリカは今でもそれを続けていたかもしれない? これが、もう一つのアメリカの汚点である。 3.禁酒法時代の軋轢 アメリカほど、悪の勢力をのさばらせた国はない。ギャングの隆盛を助けたのは、ひとりの女性が打ち出した「禁酒法」という悪法だった。人々が「まさか」と思いながら議題に乗せた法律が、時代背景の助けを借りてするすると通ってしまった。 「不況」や「戦争の気配」が渦巻く混乱の中で、「世紀の悪法」が可決された。 その結果、提案者の女性が望んでいたような、穏やかな町が実現しただろうか?否、それは表面だけである。人々の酒を求める気持ちはむしろ強くなった。酒の値段は跳ね上がり、貧乏人は、眼を潰すような「粗悪な酒」しか口に入らなくなったが、それでもやめなかった。隠れて営業する酒場が林立した。 この頃アメリカは、法の裏で肥え太るギャング達に、「格好の資金源」を与えてしまったのである。金を握ったギャングの影響は、アンタッチャブルの努力も空しく、警察機構から経済界、政界の奥深くまで浸透した。今もそのままである。 もちろん表向きは、かなりの浄化が為された・・・と記されている。しかし、それは見える部分だけだ。裏では依然、闇世界からの支配を受けている。今のギャング達は、「偽善」を演じる知恵を身に付け、さらに手強くなった。偽善は、アメリカという国の行動にも現れるようになった。 4.アメリカ海軍の取引 第二次世界大戦当時、必死で世界の情報を求めていたアメリカは、ついに「禁じ手」に手を出した。「裏情報」を集めるために、「ギャングとの取引」を始めたのである。特にアメリカ海軍は、自国の中に潜入するスパイをあぶり出そうとして、マフィアのチャーリー・ルチアーノと手を組んだ。 アメリカ軍は、マフィアのジョー・ソックス・ランザと密約を交わし、戦争遂行に参考となる情報を収集し始める。ランザはさらに力を持った大ボス、チャーリールチアーノを推薦した、こうしてニューヨークを中心にして「背徳の結託」が始まった。 ルチアーノは、抗争を禁じ、ユダヤ系マフィアと手を握った。彼を逮捕したのは、正義の検察官トーマス・E・デューイであった。彼はルチアーノの犯罪を洗い出し、懲役50年の判決にこぎ着けた。しかしルチアーノは、「快適な刑務所」の中から、指令を出し続けた。 ニューヨークのフルトン・フィッシュ・マーケットでは、今も賄賂がまかり通っており、ここを取り仕切っているのはジェノバ系マフィアだという。 マフィアは、港湾や魚市場など下町に顔が利く。労働者や市場関係者の日常に深く浸透していたマフィアは、情報を集めたり指令を流したりするのに好都合の存在だった。それでアメリカ軍は、港に潜入したスパイを彼らの情報網に引っかけようとしたのである。そのもくろみは成功した。アメリカ国内に潜んだドイツスパイは、それ以後秘密工作を行えなくなった。大勢のスパイが水際で阻止された。 成功に気をよくしたアメリカ軍部は、約束通りマフィアの大物に取引としての減刑を与えた。そして彼らの活動に、好意的な態度を取るようになった。マフィアはますます力を得て、一般が眉をひそめるほど横暴になっていった。この頃から自浄作用も働くようになったが、勢力を増大したマフィアを押さえ切れていない。
2012年04月13日
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以下はつづき+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 自国民を騙す国の定石 アメリカには、FBI、CIA、NSAなどの諜報組織がある。しかしこれらの「行い」は伏せられた部分が多く、一部の権力者しか掌握できない。さらに、表面にさえ出てこない組織も、あると考えられる。隠蔽を常とする謀略国家は、裏で相当きわどいことをしているに違いない。 「都合の悪いものは見せない」・・・これは、よく知られたアメリカ政府のポリシーである。それなら、全ての行動を公にするはずがない。おそらく、表の数倍の規模で秘密組織が暗躍しているだろう。アメリカという国は、自国民を騙す体質の国なのである。どの政府にもその傾向はあるが、現在のアメリカは、「裏表の差」・・・という意味では世界一だろう。 「日本軍活用」はアメリカの悲願 占領したはずの国が、自分の国の便利なように使えない。これはアメリカにとって、口惜しい状況である。軍事費は、戦争毎に膨大なものとなる。そして何よりも、戦死者が出ることは国にとって痛手である。 もしその軍の活動を、肩代わりさせられる相手がいれば、アメリカには好都合である。そして、使うなら「東洋人」だと考えるだろう。人種が違えば、罪の意識が薄らぐからである。 第二次大戦においても、東洋人種や黒人種の兵士達は、最前線に送られることが多かった。白人種にとって、それはどうしても頭の片隅に生じる考えなのである。 地理的位置関係を考えても、東洋のもめ事には日本軍を使いたいはずだ。電話一本でその軍を動かせるなら、アメリカの軍事費は相当削減できる。それで、日本の憲法を変更させることによって、外国へも軍を派遣させ、アメリカの子分として活用したいのだ。 「国際貢献」は良識が要 リベリアのように、外国からの治安維持の軍を要請する国もある。そのために、海外に軍を出せるようにして国際貢献しようという考えは、一理あるかに見える。しかしそれは、主人としてのアメリカに良識があればこそである。 いきなり、筋の通らない(あるいは読みの浅い)戦いを始め、周囲を巻き込み、後始末を放置して去るというアメリカの行いは、今まで何度か繰り返されている。このため、国際社会からは「要注意」と見られている。 国連という枠組みをはずれて起こした戦争の場合、紛争地域の民衆が望むような形で収まるとは限らない。アメリカは、アメリカ流の解決策を押し付けることが多いのだ。解放したはずのイラクで憎まれているのも、「手順」が間違っているからである。アメリカと共に、憎まれる軍になり、憎まれる国になれば国益には反する。しかもその相手は、国際テロ組織かもしれない。テロを国内に引き付ける行為のどこが、「国益だ」と主張できるだろうか? ここまで読んでいれば、弱者は最初から巻き込まれないように用心するはずである。ベトナム戦争では、アメリカ以外の外国の軍(韓国軍など)も少数参加したそうだが、多数の被害を抱えて敗退した。被害はアメリカだけではなかったのである。もしそこに、日本軍が参加していたらどうなっただろう? アメリカの方法 それでもアメリカは、深く考えずに行動してしまう国である。「平和憲法を尊守する」という立場を堅持したのは、日本の賢い選択であった。しかし今アメリカは、「小泉内閣」という奥の手を使って、当の平和憲法そのものを覆そうとしている。 マスコミによる先導 小泉内閣は、今までの内閣とは全く違う動きを見せている。「暴走癖」を持った首相が誕生した。彼には「人気」があるため、何でも思い通りに変えてしまえる。しかしそれは彼ひとりの力ではない。裏からアメリカ政府が支えているのだ。従って、経済政策などは付け足しであり、主眼は「自衛隊海外派兵」である。 (この文は、小泉政権時代に書かれたようである。日米欧三極委員会を中心に練られた戦略だろう。悪名高い白人委員会である。日本は名誉白人で利用されているにすぎない。) マスコミの好意的な報道によって、その内閣の人気は急上昇した。マスコミを使った操作は、アメリカの影の政府が使う常套手段である。アメリカの過去の人気バンド、「モンキーズ」を知っているだろうか?彼らの人気は、マスコミによって「作られたもの」であった。大金さえ支払えば、そうした操作はいくらでも可能である。 アメリカの影の政府は、過去にそうした大衆操作を何度も行っている。役者さえ揃えば、大衆操作など造作もない。 小泉内閣の不自然な人気は、明らかに裏からポンプアップされているからだ。送り主はブッシュ政権である。例えば首脳会談一つにしても、映画の一コマのようにかっこよく味付けされている。 ブッシュ大統領が、兵士達に謁見する際に、戦闘服を着用し、戦闘機で乗り付けて自分の行動をショーアップしていたのは有名だ。大衆はその場面によって思考力を奪われてしまう。この政権は、随所にそうした心理操作をちりばめている。その手法は、日本の小泉政権にも伝授されているに違いない。 臭いがする 日本の様々な筋の人々は、現在の日本の社会世相が、「戦争突入前夜の頃と似ている」という。いくら個人が頑張ってみても、一つの濁流に呑まれたように、望まない方向に流されてしまう。この背後には、アメリカの影の政府が糸を引いているのは間違いない。それは、その「臭い」がごまかせないからである。 聖書の終末の日が来れば、謀略の国アメリカには、古い罪の精算が一挙に降りかかるだろう。恐ろしい未来がかいま見えている。しかしそれを心配する前に、この日本がどうなっているかが問題である。 キリスト臨在の流れ 日本という国は、神のイスラエルであり、歴史の中に隠されてきたと言われている。しかしそれが本当なら、終わりの日には「大患難」が待っているかもしれない。それがユダヤ民族の宿命だからである。信仰から逸れていた場合、彼らに保護の手は無い。そして日本はまさに、その「背教のただ中」にある。 ただ、救いとしては、日本の民がキリスト処刑には関係していないという点だ。その世代よりずっと前に、日本の基礎が築かれている。(西暦70年に、中東で起きたような悲劇は避けられるかもしれない) また、背教が原因となる絶滅があるとしても、その少し前に神の使者としてのキリストがやって来るはずである。(目に見えない臨在)その時期は、今かもしれない。しかしそうであるなら、「警告」と「導き」と「癒し」が伴っていなければならない。そして一部の人々に、熱狂的なキリスト信仰が広がるはずである。 その後、小泉内閣(?)あるいは石原内閣(?)の暴走により、民族全体が「絶滅の地走り」(滅亡への行進)を始める。これが一連のイスラエルに起きる最後の流れである。しかし、わずか50年と少し前に日本に起きた民族の地走りが、また繰り返されるのだろうか?反省の熱も、これほど早く冷めてしまうのだろうか?「地走り」とは、大量発生したネズミの大群が急に突進を始め、海に落ちて全滅する行動を指す。 小泉内閣は、憲法の封印を切ったが、石原内閣がその跡を継ぐとすれば 「再軍備」と「アメリカ敵視の政策」を進めるかもしれない。 それは、アメリカから見れば、「コントロールできない猛獣」に相当し、 倒すべき「大日本帝国の再来」と考えるだろう。 こうなると、「アメリカが日本を倒す」というあり得ないかのような図式が 現実のものとなる。そのきっかけは、憲法に触れた小泉政権にある。 キリストは、ひっそりとやってきて「教えた後」一度倒される。体制を覆すことはない。一部の人々の目を開くのだ。それが一世紀当時の雛形だった。再臨を約束したイエスは、 「私は盗人のように来る」 (目にはみえないが、やってきている、という意味で、人智学でいう、地球のエーテルとなっている。高度な霊能者にはみえているはずである。) と、ユダヤ人達に約束して去っている。再臨は、遠い子孫達への約束となった。しかし同時に、イエスは「絶滅の予告」も残している。現在の世界情勢から見て、その絶滅をもたらす可能性を秘めた国はアメリカしかない。もし日本が、神のイスラエル民族であるとすれば・・・ そして、過去に多くの謀略を覆い隠す国アメリカもまた、「そのままでは済まない」という状況を知っておくべきだろう。聖書の神ヤーエの正義感は、アメリカの過去を放置するほど生やさしいものではない。その裁きは侮れない。 ユダヤ人絶滅の図式 1.それは必ず、当時の世界強国が相手だった。 2.こちらの側には、国内に背教があった。 3.王は、神の預言者の警告を無視し続けた。 4.盟約や同盟は全く意味がなかった。 ここで、日本の過去と照らし合わせてみる。 日本の場合、「出ていって」打たれている。相当な軍備を持って、増長したときの日本が危ない。その条件は現在そろいつつある。戦前戦後の状況を振り返れば、「不動」つまり、動かないことこそが、日本にとって一番の守りだったのだ。 現代の日本は、中東イスラエルと共に「黙示録の女」に相当しているようである。すると、自分が腰掛けている国・・・つまりアメリカから滅ぼされる可能性が大きい。しかしむしろ、中東イスラエルの方が、先になるかもしれない。彼らの方が、はるかにアメリカに依存しているからだ。 順序としては、先に「日本の素性」が世界に明らかになるはずである。では筋書きを羅列してみよう。 1.日本が、中東のもめ事に軍事介入して憎まれるようになる。 2.国内にテロを持ち帰り、日本での自爆テロが日常化する。 3.泥沼状態となったために、徴兵と再軍備が行われる。 4.イスラム過激派は、日本への大規模攻撃を計画する。 5.日本で大発見があり、この国は「神のイスラエル」であったと知られる。 何らかの合併。 6.中東全域の顔は、青くなる。世界もアメリカも驚く。 7.中東イスラエルの過激派は、アメリカを突き上げて「日本の消滅」を計る。(?) 8.アメリカは先に、「偽物だった」と言ってイスラエルの方を殲滅する。 9.アメリカは、「脅威」となった日本を標的に定める。 10.その頃、「宇宙からの来訪者」が姿を見せる。 11.地球の連合軍がそれに向かい、惨敗する。 12.神の補助による、退避が始まる。 13.突然の隕石により、アメリカ消滅。 14.日本列島も津波で消滅。 15.イスラエルあるいは「新天地」で、新たな民族構成。 16.神の支配が始まる。・・・これらはまだ、荒削りで整理できていない。これから少しずつ明らかになって行くだろう。特に、「日本の再軍備」などあって欲しくない。無益な血が流れてしまう。争いを好む人々は、自分達だけの国を作って戦えばいいのだ。周囲を巻き込む権利は、彼らに無い。 しかし時代の流れが、きな臭くなっている。人々の目も見えていない。「見えない世界」での激しい攻防戦も起きているようだ・・・目覚めた人々が増えて、ヤーエ崇拝が復活しないとどうにもならない。 ヤーエは盲目である多数を捨て、一部の人々だけを「譲りの地」に帰還させるというのだろうか?
2012年04月11日
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さて、続いて、古代ヘブライ語の例のサイトをみていると、日本への預言めいた文があるのに遭遇したので、引用して紹介したい。 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/general/general.html+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 6.アメリカ占領と日本 ファシストといえば、同様の全体主義が日本にも存在していた。「天皇崇拝」である。それは、アメリカからは、民族を統一するための「危険思想」に見えただろう。 苦労して日本をうち負かしたアメリカは、この国が二度と立ち上がれないように釘を刺した。それが「平和憲法」だ。しかし彼らは、別の手も打っていた。「イタリアと同様の手法」である。 (イタリアについては、また引用したいと思う。アメリカのマフィアの出自がコルシカ島にあるのを、米軍が利用して、イタリアを経済的植民地に置いた話である。サムジアンカーナがモデルとされる映画ゴッドファーザーにも、マフィアがムッソリーニ政権を嫌悪し、打倒しようとしていたことが、多少だが描かれていた。イタリアと日本の政局が非常によく似ているのは、アメリカの介入の証拠ともいえる。) 「東京裁判」では、かなりの偏見が支配していた。「日本の戦争責任」、「戦争犯罪」が追求された。しかし、戦犯を弁護する弁護士からの、「『原爆投下』はどうか?『戦争犯罪』ではないのか?」という指摘は無視された。また、日本が大陸に進出した際の「植民地主義」を徹底討論されることもなかった。なぜならそれは「諸刃の剣」であり、欧米列強にも身に覚えがあったからである。 結局、「南京大虐殺」など個々の事件が問題視され、「戦争責任」によって、東條以下当時の首脳達が処刑された。しかしこの裁判においては、様々な裏工作が渦巻いていた。それは日本にとって、どう評価すべきものだろうか? 天皇除外工作 占領軍総司令官であるマッカーサーの意向は、当初の本国多数意見とは逆であり、「天皇を罰しない」というものだった。これは、天皇と直接会見して「その真摯な気概に打たれた」彼の一存だったようである。直感で、「彼に責任は無い」と思わしめる「何か」が、マッカーサーの心に働いたかに見える。その見えない力は、アメリカの公式方針に影響した。しかしそれからが大変だった。 「天皇の責任」を回避させるために、「我々は決して天皇には逆えない」と主張する東條以下幕僚達の陳述を覆さねばならない。そうでなければ、全ての責任が自動的に天皇に帰属するからだ。 マッカーサーの意向を伝えられていたキーナン主席検事は、休廷期間を利用して説得工作に奔走した。そして最後に、「天皇は不承不承、首を縦に振った」という「御前会議の内幕」を東條の口から引き出したのである。 このように、戦犯法廷での裁判に際して、アメリカは数多くの裏操作を行っている。天皇を救うための画策があったかと思えば、逆に大物の罪を立証するために、小物の罪を数多く見逃してもいる。しかしその中には、大陸での非人道的な罪も数多いはずである。そして、見逃された勢力の中には、現在の政界を牛耳る「日本版マフィア」が含まれているのも公然の事実である。 (有名な巣鴨収容所から釈放された連中である。) 政界を腐らせるために イタリアのように、政界にギャング組織を絡ませるのは、実に頭の良い占領政策である「褒めているのではない」。それは、表には決して出て来ないが、裏で政治を引きずり回している。目先の利権や、金に絡んだ欲望が充満するままになり、「理想主義」に目を向ける指導者も出なくなるだろう。これはいわば、占領国の政府を精神錯乱に導く定石なのかもしれない。 こうした国では、清さを求める政治家は命が短い。特にアメリカにもの申す輩には、すぐに「始末」の手が忍び寄る。日本にとって望ましい人は、早い時期に政界から失脚する。そして、アメリカの闇の政府に好かれた人物だけが、「伏魔殿」で生き延びるのである。 右翼の地位 占領軍は一貫して、右翼に類する勢力を見逃してきた。それは日本に、「共産主義に対抗する勢力」を残すためだった。それで、「右翼」を名乗れば、暴力を常とするやくざ組織も生き残ることができた。 (このようなことがバレつつあるので、いまは火消しに躍起になっている。) 占領軍の政策は、警察組織にも徹底され、「右翼には手を出すな」という暗黙の意志が行き渡った。きれいな手であろうと、汚い手であろうと、日本内部の共産主義駆逐勢力は保護され大目に見られた。 当初はこの政策はうまくいった。国粋主義者達はアメリカの意図に沿い、共産主義者弾圧のためによく働いた。それは警察との連係プレーである。現在でも、警察は右翼には甘い。いや、むしろ頭が上がらない。交通違反も、名刺一枚で見逃してもらえる。警視総監でさえ、右翼の大物には土下座する。 日本警察の首に、今でもGHQの鎖がつながれているからだ。警察のあらゆる政策、あらゆる方針は全て、アメリカから与えられる。もちろん暗黙のうちに。 7.自衛隊とアメリカ そのアメリカが、長年悩んできたことがある。それは、「日本軍の存在を利用できない」という状況である。アメリカ国内の鳩派が、「平和憲法」を日本に押し付けてしまったために、日本の軍は使えなくなった。 同盟国であるアメリカが、朝鮮戦争で苦労しているのに、日本は腰も上げない。むしろ、軍需景気で儲けている始末である。さらに、ベトナムの泥沼にも入ってこなかった。何度も、「再軍備」の打診をしたが、吉田茂の意向を汲む政治家達は承諾しなかった。吉田は、日本の本当の益が、「不動」にある事を知っていたからである。 「しまった!失敗だ」 アメリカは、自分達が行ったミスに気付いた。経済で叩いても、日本はしぶとく起きあがってくる。アメリカが利用すればするほど、逆に力を付ける。便利な「下請け工場」となっていたはずが、アメリカを差し置いて、世界有数の技術を身に付け、立派な債権国となった。 「教えてやったのは我々だぞ」 と、怒ってみても仕方がない。確かに日本の技術は、ほとんど欧米列強の借り物だが、民族の持つ勤勉さが貢献して、黒字は大きくなるばかりである。利用するなら、「日本の軍」しかない。アメリカは本気になった。 しかし、彼らが地下で、どれほどの謀略を巡らせても、「平和憲法」が自衛隊を縛っている限り、これを活用できない。 また、その憲法の効力により、日本周辺では「安定」が定着し始めている。なぜなら、中国もソ連も、北朝鮮も、日本を 「自ら攻めることのない国」 と知っているからである。 戦後50年もの間、日本はその憲法を守った。それは一種の「信頼」となって、周辺諸国だけでなく世界中に認められている。 現在のアジアはむしろ、経済で日本を利用して自国を活性化したいと考えている。だから、アジアには戦争が起こらない。 しかし、アメリカはこれでは困るのである。日本の国民は、アメリカ軍に守ってもらいながら、「身勝手な憲法」によって動こうとしない。しかしそれは、アメリカ自身が日本を打ちのめして押し付けたものではないか。では、今更アメリカから「憲法改定」を迫れるだろうか? アメリカは、国際社会の見ている中で、日本に政治介入することはできないのだ。彼らは結果的に、自分で自分の手を縛ってしまったのである。 表向き、 「憲法を変えろ」 という言葉は、口が裂けても出せるものではない。しかし日本はそれに、自ら触れようともしない。ソ連が倒れた後、アジアはますます平和に向かっている。では、このジレンマを突き崩すために、アメリカという国は今何を謀っているのだろうか? (ナカソネのアホや安倍の坊ちゃんなどは、統一教会を利用して、洗脳されている。)
2012年04月11日
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以下はつづき。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ルカ 11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 ルカ 11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。 ルカ 11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 ルカ 11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。 ルカ 11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 ルカ 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 ルカ 11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 ルカ 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 ルカ 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」・・・ 自分の周囲を純粋に保ち、熱心に祈れば聞かれないはずがないとイエスは教えている。別の聖句の中では、「富のしがらみを捨てて追随者になれ」とイエスが諭している場面がある。しかし、富んだ人は体一つで生きることができない。私達の周囲を見渡してみても、「富の不純物」がいかに多いかが理解できる。 土産物にもらった神々の置物。怪しげなお札のたぐい。・・・工業製品の中にも異教の神々のシンボルを拝した製品がたくさんある。車のエンブレムでさえ、何らかの神のシンボルであったりする。特に外車に多い。 いろいろな意味で、富が純粋さを失わせるため、富んだ人の富んだ生活は罠となるのだ。それ故イエスは、「財産を売り払って私についてきなさい」と述べているのだろう。 純粋さを追求するべき 悪霊を祓うというテーマからは、かなり離れてしまったが、遠回りのようでもこうしたプロセスは必要になる。身の回りを清めないで祈りを捧げても、それは悪霊が横取りしてしまうからだ。また、適当な神に祈ってもそれは同様である。何しろ周囲は、地上の神々で埋め尽くされており、この神の国日本もまた例外ではないからだ。 国全体が清さを保っていれば、個人の祈りもかなり楽になる。しかし現在のように、仏教その他の崇拝ががっちり食い込んでいる状況では、公の祈りはまず聞かれていないといっていいだろう。しかし、国全体を清めて、内部から悪霊を追い払うなら、誰の祈りももっと聞かれるようになるはずだ。日本は、諸外国もうらやむその権利を持っているのである。 では、外国の人々はどんなに謙虚でも望みはないかというとそうではない。ルカの聖句にこう書かれていた。聖霊という記述に注目。 ルカ 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」・・・ イエスの追随者の中で、ルカはヘブライ人ではなく外国人だった。それで、彼の視点はマタイの場合と少し違っている。さて、「聖霊」という言葉がここにあるのは実に適切なことだ。というのは、神の選民でない人々「外国人」の場合は、直接の応答は無くても、「聖霊」によって神との接触が可能だとイエスは教えているからだ。聖霊は作用を及ぼす力のようなもの。 しかし、その場合でも清さを保つことは必要であり、古代イスラエルと同様の条件を個人レベルで当てはめなければならない。 日本の場合、個人も国としても、清さを取り戻す必要がある。現状で、「神の国だ」などと叫んでも、肝心の神はこちらを向いてくれないだろう。しかし「時の予感」によれば、日本が純粋さに目覚める日はそう遠くないはずだ。その日が来るまで、人々は自分の小部屋で、ヤーを求めて祈り、悪霊追放を願い続けよう。
2012年04月11日
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今日本は、洗脳ブームである。マスゴミから嘘情報が日々流されている。偶像崇拝大国ともいえる。 そこで、また古代ヘブライ語のサイトから引用したい。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 悪霊を除ける―あくれいをよける 具体的方法 どうすれば、悪霊という存在を除けることができるだろうか?彼らの力は強力で、しつこく、底意地悪く、悪知恵に長け、非常に巧妙に立ち回る。自分の姿を決して見せないという戦法なので、一般の人はその存在さえ気付かない。しかし、これは聖書の中でキリストが暴露した手強い実在の勢力である。 いくら目に見えなくても、実害は受ける。こちらから触れなくても、相手から仕掛けてくる。触らぬ神に祟り無し・・・ではないから困るのだ。 敏感な人には、なんとなく悪寒が走るという状況が経験されているかもしれない。その感覚があっても無くても、彼らの営みは止まらない。日常を監視し、常にある方向に向けようと感情を支配し状況を操作する。 「こんな事するつもりは無かったのに、そうなってしまった」とか、 「なぜか思いと逆に事が運ぶ」 などといった経験は、誰もがしていることだろう。しかし、私自身は宗教家でも除霊専門家でもないので、考察による分析と推測になってしまうのは仕方が無い。ではまず、それを追い払うにはどうすればいいのかを考えてみよう。 答えは聖書にある 塩を撒いたり、お札を貼るなどという対策はすぐに思いつく。それは、世間一般誰もが知っている事柄だろう。しかし、苦し紛れに怪しい教団や変な神様のお札をもらってきたのでは、悪霊で悪霊を追い出そうとする行為になる可能性がある。最初より悪い状況は作り出したくない。ではどうすべきなのだろう。 キリストは、こうした人々のために教えを残しているのだ。それは、「神に祈れ」というものだ。しかし、どんな神でもよいのではなく、天地創造の神「ヤー」に祈るように教えている。祭壇はいらない。キリストは、祭壇を必要としなかった。祈りの相手を正しく選択しただけである。 一世紀当時、精霊を授けられたイエスの弟子達には、悪霊を追い払う力があった。しかしその彼らでさえ、祈りによらなければ出て行かないしつこい悪霊に困ったことがある。イエスは「この種のものは祈りによらねば出ない」と教えた。 マルコ 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」・・・ 祈りの力はそれほど重要なものだ。相手を間違えなければ。 現在のところ、神への経路となっていたキリストの弟子達は存在しない。流れの違う人々も祈りをささげている。世界中では祈りは充満している。それでも悪霊は平気で活動し、多くの人々が影響を受ける。それで、祈りの力に気付くことができないのだ。 危険な交信 私の経験でも、本物の神と「直接対話」ができる人間など聞いたことがない。しかし、「怪しげな」神と対話する存在はいくらでもいる。なぜなら、地上はサタンの世となっており、支配者はサタンの勢力で埋め尽くされているからだ。 そして、その理由ははっきりしている。人類の父祖、つまりアダムとイブが「サタンの世話を受け、支配下に入る。」という意思表示をしてしまっているからだ。従って、全ての人類は、彼ら「地上の神々」から世話を受けている状態・・・ということになる。文明も彼らから与えられ、現在の社会が出現している。 しかし、例外がある。「神の選民」だ。彼らの祭司を通してなら、神への祈りを間違いなく送ることが可能である。そしてその代表が古代の預言者モーセだ。彼は、「顔と顔を合わせて」神と語ることのできる希有な存在だった。 現在、それほどの親しさは無いにしても、神の選民にのみ真の神と意志疎通ができるように権利が与えられている。「日ユ同祖論」では、「日本」こそ、その選民の代表だとされている。 もしそうであれば、公に祈ることのできる存在は、日本の大祭司である「天皇」だということになる。そして悪霊を払うことのできるのも、地方の祭司・・・つまり「神社の神主」なのだ。しかし、もったいないのだが、日本はこの有利な立場を活用できていない。それはなぜだろうか? 不純物を嫌う神 古代イスラエルの王ダビデの時代には、神はイスラエルに親しく接していた。それは、ダビデが純粋な崇拝を捧げていたからである。王の政策として、国内の異教の神々は廃され、掃き清められていた。完璧ではなかったかもしれないが。 しかし、その子ソロモンの時代に、変化が生じた。彼の妻達が持ち込んだ異教の神々があふれるようになった。数多くの妻がいたため、彼の宮殿は汚れに満ちていた。その結果、ソロモンの治世の末期には、国としての、おそらく民間としても、祈りが空回りするようになっていった。 このように、いくら神の選民であっても、祈りが聞かれるためには条件がある。それは以下のようなものだ。 1 「崇拝の純粋」を保つこと。つまり、異教の神々やその崇拝が少しも入り込んでいないこと。これは、王の周辺だけでなく、民間の隅々まで要求される。 2 「行動の純粋さ」も必要。「哀れみ」を忘れず、「正直に振る舞う」など、神の要求通りに生きていなければならない。;出エジプト記20:22~24:2 3 打算や欺瞞が入り込んだ、汚れた心で祈ることはできない。神への悪臭になる。 4 人に迷惑をかけたまま精算もせず、平気で神の前に出て祈っても無駄になる。今の日本がこの状態だ。純粋さにも不足がある。 5 手続きがある。これはおそらく、崇拝の最も不可解な部分で、禊「みそぎ」や服装の取り決めなど、祭事に携わる祭司に不可欠なものである。しかし、イエスの出現時に、簡略化された祈りも受け入れられ、個人の祈りの形式が確立された。 では、イエスの教えからどのように祈るべきかを見てみよう。 マタイ 6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 マタイ 6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 マタイ 6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 マタイ 6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 マタイ 6:9 だから、こう祈りなさい。 『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 マタイ 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 マタイ 6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 マタイ 6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 マタイ 6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕 マタイ 6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 マタイ 6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。・・・ 最近、「アーメン」という呪文は、不要であることが明らかになった。 聖書:『アメン』の策略 ルカ 11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 ルカ 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 ルカ 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 ルカ 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」・・・ 以上は、祈りの具体的な方法を教えている。しかし、以下にあるように、即応した答えが来ず、手応えがなかったとしても、投げやりな気分であきらめるのではなく、熱心さが必要になる。
2012年04月11日
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さて、非常に驚くことだろうが、次に述べることは事実である。人間が進化の過程で、動物性を外に放出したことは、実際、自らの生体のなかの固有の[originaer]光の発生能力と関係している。実際に、人間の下部組織とは逆に、上部組織は、光の生産を行っている。 (仏教でいう、霊光のこと。) 人間は、固有の光の生産能力を身につけるために、上部組織のなかに、完全に動物化するのを防ぐための必要な器官を備えている。この霊的器官が、人間を、動物から区別する根本的な差異の1つである。 (仏教でいうチャクラ「蓮華」のことだろう。) 動物も、人間と同じく、他の高次の霊的過程(プロセス)を備えてはいるが、生体内で十分な光を作り出す能力はもたない。 この点において、近代の自然科学の真に痛ましいテーマともいえる問題に辿り着くが、この問題を隠しておくわけにはいかない。人間と、外の世界との関係を洞察するなら、この問題を避けて通るわけにはいかない。 人間の生体組織のなかの物質全般、特に薬剤の物質作用の把握の大きな障害となっているのが、いわゆる、力、もしくはエネルギー保存の法則、更には、質量保存の法則である。これらの保存則は、普遍的な自然法則と定められたが、これらの法則は、人間の進化過程(プロセス)とは完全に矛盾する。 栄養摂取-消化過程(プロセス)全体は、唯物主義的な思考により捉えられるようなものではない。栄養摂取-消化過程(プロセス)全体は、唯物主義的な見解からは、物質が、あたかも、人間の外にあるかのように考えられている。 炭素を例として挙げるなら、炭素は外にあり、摂取すると、勿論、適度に調理されてからだが、外の自然のなかの僅かな割合ではあっても、外界から摂取した炭素を、自らのなかにもち、携えていくように考えられている。 以上のような唯物的思考にとっては、外の周囲にある炭素と、人間の生体組織内に担っている炭素との間には、本質的に差異がない。 ところが、この唯物的思考は間違っている。なぜなら、実際、人間の生体組織は、外にある炭素を、まず、下部組織によって完全に破壊し、空間から消滅させ、その反対の作用として全くオリジナル(独自)に、再び炭素を作り出す能力をもっているからである。 (生体内で、物質を破壊し、自分風に再構築する能力が、ホメオパシーの原理である。このことから、学習も単なる丸暗記ではダメで、経験から、自分風の知識につくりかえる必要がある。) 次に述べることが事実である。 「人間の生体組織のなかには、外にある物質を作り出すための、いわゆる竈(かまど)があり、同時に、物質を破壊することも可能である。」 以上の事実が、今日の自然科学には承認され得ないのはいうまでもない。今日の自然科学は、そもそも物質の作用を、アハスヴェール(永遠の彷徨い人)のように、極めてミクロ(微細)な領域において、彷徨っている(不確定な)作用としてしか想定できないからである。 (ハイゼンベルグの不確定性原理のことを指しているのだろう。素粒子レベルのミクロの領域では、空間の位置と運動量を同時に同定できない。) 『アハスヴェール[Ahasver] 刑場に行くキリストを自分の家の前で休ませなかったため、キリスト再来まで地上を流浪する運命を与えられたユダヤ人の靴屋、いわゆる「永遠のユダヤ人」。』 現代の自然科学は、物質の生命、つまり物質の発生(生成)と死(消滅)について何もわかっていない。人間の生体のなかでの物質の死と再生[Wiederbelebung 蘇生、復活]について何も知らない。例えば、炭素の再生と関連し、その対極の光生成は、人間に通常備わっている。 人間内部の、この光生成過程(プロセス)が、外の光の作用に対抗している。人間の上部組織に関しては、外の光と内の光が互いに対抗的に作用し、互いに共同して働くように調整されている。人間の生体機構の本質は、この外の光と内の光が共同作用すべき領域において、両方の光が互いに正しく順序を保ち、順次作用して、互いに混同しないように調整することにある。 目であれ、皮膚であれ、外の光に対峙する領域の全てにおいて、生体内の固有な光と外から入ってくる光との間に、いわば隔壁が設けられている。外から入ってくる光は、本質的に、内の光の発生を促進するにすぎない。つまり、光を外から生体内へ流入させることで、内の光の発生(生成)を促進できる。 さて、重要なのは、この光生成の過程(プロセス)全体を、見通すことである。生体内の炭素-実質の解体への関与に目を向けるなら、腎臓-尿器官全般から、上部組織に向かう腎臓に関連する器官全般に到達する。 従って、生体内の腎臓過程(プロセス)にアプローチするには、外の自然のなかの炭素に関わる過程(プロセス)に注目すればよい。この炭素に関する過程と同じように、植物から生じる炭から、治癒方法が得られる。 次のような劣悪な病気に対する治療法がはじめに得られる。 「植物の炭は、人間の動物化、いわゆる吐き気に通じる変調に対抗して働きかける可能性をもつ。」 植物の炭に対して生じる病像全般は、本質的に、吐き気と関係し、人間の内部に向かって継続された動物化なのである。生体内の動物化である吐き気に対抗する反対の対極に位置する過程は、腎臓機能全般である。 従って、植物の炭を多量に摂取することで、人工的に生じる病像に対して、例えば、ある方法で、腎臓機能を促進し、植物の炭を薄める(中和する)ことで、植物の炭に対する希釈(中和)能力全体を高めれば、植物の炭の多量摂取による作用に似た病気に対抗する働きかけができる。 つまり、上記のような病気に対する薬の研究の際の本質的な問題は、植物の炭といった薬の希釈に対する腎臓機能全体との関係に到達する。 その際、腎臓機能(プロセス)は、消化機能(プロセス)に対する対極としての効力を発揮するように働く。 植物の炭による病像の結果として出現する消化機能(プロセス)の障害に対して、消化とは反対の、対極にある機能が効力を発揮するように、例えば、腸など消化器官の疾患に対する対極の腎臓などの器官が効力を発揮するように働く。 すなわち、植物の炭により生じる疾患の反対に位置するのは、腎臓等の排泄機能の根底にある光生成なのである。
2012年04月10日
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厄は一度だけではない。悔い改めなければ、再度降りかかる。 このことが非常に重要なことを、以下の例の古代ヘブライ語のサイトから気がつかされたので、再度、転載したい。http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/new/2012-04.htm+++++++++++++++++++++++++++++++++ 不気味な予感 転寝(うたたね)をしていて目が覚めたら、「不気味な予感」が頭に残されていた。 『もう一度ある』(?) 意味はこうだ。 『国家の危機は、一度で終わらない。』【元寇】げんこう1274年(文永一一)と81年(弘安四)の二度にわたる元軍の来襲。高麗を支配下におさめたフビライは日本に入貢を求めて拒否され、遠征軍を送って壱岐・対馬を侵略し博多に迫ったが、二度とも西国御家人の奮戦と、折しも襲った暴風雨によって艦船の大半を失い敗退した。文永弘安の役。蒙古襲来。 「元の軍」は、「二度」攻めてきた。 「日本」という国は、なぜか危機までが「二本立て」なのである。 もう一つ、経験がある。【太平洋戦争】たいへいようせんそう タイヘイヤウセンサウ第二次大戦のうち、太平洋地域が戦場となった日本と米・英・オランダ・中国など連合国との戦争。日中戦争の行き詰まり打開のため、1941年(昭和16)12月8日、日本は米・英に宣戦、一時は南方諸地域を制圧したが、ミッドウェー海戦を転機に42年後半から守勢一方となり、45年8月、アメリカの広島・長崎への原爆投下やソ連の参戦などにより15日ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。戦争当時は大東亜戦争と呼ばれていた。 原爆は、二度落ちた。 広島:1945年8月6日史上最初の原子爆弾の投下を受けた。(昭和20) 長崎:1945年8月9日原子爆弾の投下によって廃墟となった。 すると、 「大津波」のような天変地異や「原発事故」はもう一度ある・・・ そう考えるのが自然だ。※「東日本大震災」は、「放射能の災厄」を伴っていたから、「阪神大震災」とは切り離して考える。(「二発の原爆」…「二度の放射能」がヒント) 日本政府が原発の再起動にこだわり、危機意識を欠如させているのも不気味だ。 霊感のある人なら、「神に祈るべき危機にある」と判断するだろう。(鬼の気配) 「次」があるとすれば、どこなのか? 1. 東京周辺 2. 琵琶湖周辺 3. 関西圏 4. 四国 5. 出雲地方 6. 九州 考えてゆくと、どこも危ない。 しかし、「東北」と組である、「出雲地方」が危ぶまれる。 この二者は、王権を備えているとされる「出雲族の本拠地」だからである。 島根周辺か? 次は。 しかし、「原発だらけ」の日本という国は、なんと恐ろしい状況にあることか。 関係者も「だらけ」ている。 今は全国民がひれ伏して、神に祈らなければならないほど きな臭い。-------------------------------------------------- 神と偶像 聖書の神は、「偶像の国」を守らない。 出エジプト記 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 出エジプト記 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 出エジプト記 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 「偶像を作って拝むな」 この命令を守らない限り、神の保護はない。 国家内部に、魔物が暗躍するようになる。 過去、この国は「廃仏毀釈」という政策を推し進めた。 「神道」(つまり、ユダヤ教)の理想を追求したのだ。【廃仏毀釈・排仏棄釈】はいぶつきしゃく〔仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する意〕明治初年、祭政一致をスローガンとする政府の神道国教化政策・神仏分離政策によってひきおこされた仏教排斥運動。各地で仏堂・仏像・経文などが破棄された。・br> これが達成されていれば、日本は守られただろう。 しかし、日本全土にあふれる偶像は、容易なことでは消え去らなかった。 大仏も鎮座したまま、不完全な日本は戦争へと突入した。 結果、「神風」は吹かなかった。 それどころか、二発の原爆が投下され、人類史上唯一の被爆国としてズタズタにされてしまったのだ。 別の要素も絡んでいたのだが、まず第一に「清さ」がなければ始まらない。 神道の白衣は、「まったく色の混じらない清さ」を表現している。 ここに、僧衣である黒が混じった灰色の国に、守りが機能しないのは当然だ。 国家の危機を避けたい日本は、どうやって清めを実現すべきだろう。 像の一時保管 「『像を集める』と言ってるぞ」 「なんだって?」 「先日、無人島に『資料館』が建てられたよな?」 「ああ」 「そこに、偶像を集めて保管するそうだ」 「へえー、どうして?」 「何か、重要な意味があるらしい」 「返してくれるのか?」 「政府が、保管証を発行するんだと」 「ふーん」 こうして、日本の国土から一度、「偶像」を排除してみよう。 (重要文化財であっても、移動・保管する) その結果、「日本が守られる」なら安いものだ。 神の力を借りて、国家の危機を無事に乗り切る手はそれしかない。 (私見) 最大の危機は、まだ終わっていない。
2012年04月09日
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播州武侯さまのブログを訪問していて、謀略論にもなっていないトンデモ説に出くわした! 謀略論モドキのトンデモ説は、前半は、いかにも正しいと思われる情報を羅列しながら、後半は、全くのデマや矛盾した結論へと誘導する論調で展開する。 つまり単なる情報操作なのである。 このようなトンデモ説は、まず、英語で書かれ、それが日本語に訳されていることからして怪しい! つまり、日本人の英語コンプレックスを巧みに利用しているわけである。 また例えば、「どんな場合も、技術的な管理上の理由で、1000兆円の資金を立ち上げるために2、3週かかるだろうと日本政府の高官は言います。」という記述だが、「日本政府の高官」では具体的でなく全く意味不明である。少なくとも、何故に「高官」なのか? その高官の所属する組織名位は欲しいものだ! これでは、単なる振り込め詐欺か! と常識ある読者なら気づくだろう。 この高官が、今世間をお騒がせの勝栄二郎だというのだが、勝にそんな大金が融通されるのなら、わざわざ増税などする必要がないだろう。全く馬鹿にしている。 また締めくくりには、「本物の天皇家であると主張する小野寺氏」とあるが、天皇家の歴史にも無知を露呈している。三種の神器が、物質のものと錯覚しているから呆れてしまう。 天皇家に保管されているのもモデルであって本物ではないはずだ! 神があからさまに残すことなど有り得ない。あまりに陳腐すぎる。 そもそも、天皇家とは古来から神を祀ることを意味しているわけで、現在においても、神を祀る生業をしていなければ天皇ではないだろう。 その小野寺某という輩は、日頃どのような生活をしているのか? 国事行為しているのだろうか? あまりにアホすぎて話にもなりません。このようなモドキ話に騙されてはいけません。 そもそも人間側が決めたから決まるもんではなく、自然とそうなっていくわけなのだ! 人間が正統云々を主張することさえ如何わしい。人間には正統云々をいえる立場にはない。神や宇宙や自然が決めることだろう。不当なら滅亡し、正統なら存続するわけである。 人間一人一人は個別的な時間を与えられているが、神は永遠という全体的な時間、つまり時代を運営しているわけで、神の御眼鏡に適えば、個別の時間が生かされ、適わなければ消滅してしまうわけである。 天変地異をなんだと思っているのだろうか? 第一に科学的でなければいけません。低次元な科学でも実証できなければ真実ではないのです。
2012年04月06日
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実際、重要なことは、神秘主義に陥らずに、自然を、真の活動[Aktion]のままに観察し、物質の特性に関しても、実際のリズミカル(規則的)な進行として捉えていけるような自然の観察にある。このような自然観察は、様々な作用の由来を認識するためのライトモティーフともいえるものである。 作用を減じていく際に、ゼロ点に達し、ゼロ点の向こうには反対の作用がある。しかし、反対の作用に達することが全てではなく、今度は、反対の作用のゼロ点に到達できる。 この点を超えていくと、更に高度の作用、確かに、当初の作用の方向性だが、全く別の性質を持った高度の作用に到達できる。従って、作用を減じていくことで明らかになる様々な作用を、曲線で記述すれば、実際に素晴らしいものになる。 ただ、この曲線は独特の方法で記述する必要があることに気づく。 最初の低レベルに作用している低い中和作用が消滅し、今度は、高レベルの中和作用が始まるような第2のゼロ点に達すると、空間的に直角に転回するような曲線(次元が加わる)を記述する必要がある。 (馬の鞍のような曲面を考えればよい。カオス工学では有名なサドルポイントと呼ばれる。 サドルポイント http://en.wikipedia.org/wiki/Saddle_point) 以上の事実は、この講義のなかでも更に述べていくが、人間と外の自然との親和性と密接に関わっている。 さて、植物から生じる炭の観察の際に明らかになる事実に目を向けるなら、次のような結論に至る。 「植物の炭を多量に服用すれば、特定の病像を引き起こすが、ホメオパシー療法の医師の見解に従い、植物の炭を、生体内で、希釈(中和)することで、炭の毒性が克服される。」 そもそも、植物の炭は、人智学者にとっては、いかなる存在なのか? 人智学者に、外の自然への探求へと向かわせ、鉱物化した外界や地中の炭[Kohle]全般の状態への調査へと、第一に導く。 調査からわかることは、炭とは、本質的に、酸素を用いた地球の生命過程(プロセス)全体に関与することで、地球の全過程(プロセス)においては、地中の炭の含有量が地球の周囲の酸素の含有量を調整することである。 この事実から即座にわかることは、地球を、全体としてとらえることが必要で、地球を1つの生命体としてとらえると、地球が1つの呼吸過程(プロセス)の影響下にあり、地中の炭の含有量が地球の呼吸過程(プロセス)に関与しているという事実である。 以前、提案されたような化学は、人間、もしくは動物の呼吸過程(プロセス)との関わりから、炭(現代でいう炭素)の存在を観察する際にはじめて成立する。 なぜなら、人智学による観察では、土(土壌)の炭化と、地球の周囲の酸素過程(プロセス)、すなわち空気との間で生じる過程(プロセス)の根本は、実際、動物化の傾向から明らかになるものだからである。 この動物化の傾向は、実際、最終的に、ショックを与えるような形でしか特徴を記述できない。というのも、次のような結論に達するからである。 「土(土壌)の炭化過程(プロセス)と、地球の周囲の酸素を巡って、外界で起こる過程(プロセス)のなかには、動物性とは反対の、地球から絶えず遠ざかり、立ち去り、離れていこうとする、エーテル的な本物の存在たちがいる。」 動物は、上記の地球の脱動物化に対抗する過程(プロセス)として、地球が集めた動物化過程(プロセス)の前面に出現する存在として把握しなければ理解できない。従って、植物から生じる炭を、人間の生体内に摂取すれば、同時に、動物性を摂取することにもなる。 植物の炭を摂取することで、発生する症状全般、例えば、ゲップから腸内ガスに至るまでの、いわゆる腐敗性の下痢他、また痔疾の形成や、焼けるような痛みに至るまでの全体像を見れば、人間が、進化の過程で、自ら放出してきた動物性の過程(プロセス)を、再び摂取することに起因する。 以上から、次のような結論にいたる。 「人間に、植物の炭を多量に与えると、同時に、押し入ってくる動物化過程(プロセス)から身を守るように、人間は促される。」 人間が環境に依存することを、人間自らのなかで通用させることで、人間は身を守ることができる。つまり、人間は、進化しながら、動物性を自らの外に出すことによって、身を守ることができる。 (キリストが、「天は自ら助ける者を助ける。」と言った様に、環境に依存せずに、独力で行うことで、人間は環境から独立できる。 つまり、なるべく周囲の援助を乞わずに、独力で生活する能力を身につければ、人間は、神に近づいていく。逆に依存心が多く、周囲に迷惑ばかりかけていると、獣の腐敗した精神になる。 本当の出家とは、縁故に頼らない生き方である。多くの人を支え、独力で生きることであって、家族の縁を切って、寺で修行することではない。だから、家族を支え、社会を支え、助ける範囲を公平に広げていくのが真の出家である。 前世を鑑みて、最も助けるに相応しい人たちを、家族として与えたのは神様なのであるから、家族を否定してしまえば元も子もない。現代思想には、本末転倒なものばかりあるが、それが悪魔の働きともいえる。 縁故に頼らず、縁故を死なさず、縁故を生かすのが出家である。子に生まれては親を助け、親を助けて、社会を助け、そして更には国家を助けて、公平に広げていくことを本当の出家というが、現代は全くアベコベで、親に頼り、社会に頼り、国家に頼りと、情けない獣ばかりである。 官僚は悪逆非道を尽くしているので、死後、地獄で焼かれるだろう。死後、頼るものはなくなり、独力で生きなければならないからだ! 坊主が修行などする必要などない。すでに生きていること、つまり日常生活のなかに修行がある。現代人は大きな勘違いをしている。家族や国家を支えられなくて、なんの修行があるのか? お釈迦さまが、家族から離れて修行しろなどと言ったのだろうか? 日常生活なくして宗教などない。単なる道楽坊主ばかりである。神様が与えた生をそのまま生きればよい。修行などというのは、人間の単なる思い込みにすぎない。 国家を救えずして何が修行だ! 修行ゴッコなどして、自分たちばかりの都合を優先する教団や宗教法人など今すぐ解散しないと、本当に天罰が当たりますよ!)
2012年04月06日
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いまTVでオウム真理教についての番組をみていて、気がついたことがある。 それは、現政権が極めてオウム真理教に似ていることで、野田が麻原によく似ていることである。 いまの野田をみていると、精神鑑定が必要なのではないか? と思うような言動をみせることがある。当時の麻原との比較で、野田の声紋鑑定を行うべきである。 麻原と野田の発言が、極めてよく似ているように思えるからである。 まるで増税真理教のようである。 オウムも明らかになっていないが、なんらかの影の力が働いていたようにも思える。 いまの増税真理教は、いうまでもなく背後で財務官僚の力が働いていることがわかる。 問題は、背後の存在がみえないので、権威づけされ、無能者なのに、むしろ無能者だからこそ、周囲が洗脳されてしまうことにある。 周囲の判断力が、鈍らされるということ、特に状況判断や現実への理解力に欠けることが問題となる。 大体、指導者は、対抗勢力の言い分にも耳を傾けるだけの余裕がなくてはいけない。 その余裕こそが、冷静な判断力の源であり、理性だからである。 盲信や偶像崇拝は極力避けなければならない。指導者というのは柔軟な思考力をもち、誰とでも仲良く妥協できる人格者でなければならない。 盲信や偶像崇拝に走るというのはもはやそれだけで行き詰まりを意味している。 菅は指導者になってはいけない人物だったが、菅政権のときに未曾有の天変地異が起きてしまった! このまま野田のような危険人物が権威によって政治を行えば、無能井伊による安政の大獄のような悲劇が繰り返されてしまうかもしれない。 今年は本当にターニングポイントに思える。 無能者は、自分を大きくみせるために、恐怖を利用して、人間を支配する。その背後は悪霊である悪魔である。 サリン事件を起こしたオウムと、いまの民主党は非常によく似ているのは非常に恐ろしいことである。 権威により人間を拘束することはできない。人間には良心があり、精神、心があるからだ! 政治家が自分の意見を表明できずに党に縛られるのは民主主義ではないという基本が増税真理教の教祖野田にはわかっていないのである。無能そのものではないか? 恐らく、野田の答弁は、誰かにいわされたものなのだろう。自分で考え、自分で表明した意見ではない。 無能者の特徴は、小泉でわかるように、権威主義で、まるで自分が神になったかのように振舞うのである。重要なのは、マスコミ戦略が巧みな点にある。 無能だからこそ、表面を取り繕い、権威づけする。 有能ならば、かつての西郷さんのように、一見凡庸にみえるものだ! 海舟も言っているが、賢いのか、馬鹿なのか、一見するとわからないのが、有能な証拠である。 つまり、一般人にはわからない存在だからこそ、有能なのである。 野田は賢そうに振舞っているが、明らかに無能だ! 増税に生命を賭けるというアホな指導者はどこの国にもいない。 もし、米国大統領が、アホ野田と同じことを言い始めたら、総スカンで誰も相手にしないだろう。「気でも触れたか」と狂人扱いするだろう。ネガキャンするまでもない。外国人から献金されているくせに! 少なくとも、増税により、何を成すかが先にくるべきだろう。 増税は単なる手段に過ぎない。手段を目的にし、命をかけるのは馬鹿そのものである。 将来のビジョンを示すのが指導者の役割であり、単なる手段に血眼になるのは官僚以下の奴隷である。そう、野田は官僚の奴隷なのだ! だから、野田の精神鑑定を行うべきだと思う。日本を守るための最後の忠告としたい! 結局、オウム真理教のような民主党がやってきたことは単なる仲間割れで、何もやっていないどころか、益々国家を窮地に陥れているだけである。 東電を国有化していれば、東電に国家や国民が強請られることはなかった! 何度もいうが、民主党は何もしていない。現状を益々悪化させてきただけである。 そして、開き直って言い訳ばかりをし、仲間を悪人にしたてて、自分だけいい子ぶっているだけなのである。 日本の神様が怒り狂い、天変地異を起こすのも当然だろう。 菅は責任を丸投げしてきたが、野田は無責任を通り越して、自分勝手ばかりしている。 もういい加減、素人は政権を返上してもらいたいものだ! 日本の将来が増税なんて、あまりにもお先真っ暗で、発想が貧困だ!! 漢字が読めない麻生だって、エコ需要で、景気を刺激したぞ! 野田は景気を悪化させただけだ!
2012年04月04日
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これまでの議論が、出発点とは全く別の事実へと到達してきたように、今回もまた、特定の具体的な物質を出発点として、全体の問題へと拡張していく。現実の課題に対応するには、問題の特質性や、解決に費やす時間に乏しいため、いわば全体の円を描きながらアプローチすることが必要となる。 現段階では、公理にはじまり、次第に複雑な問題へと上昇していく現代の科学的な方法をとることはできない。 今回の課題として、植物より生じる炭[Carbo vegetabilis]を出発点とすることで、先進的な観察法を示したい。以前、チコリや野イチゴなどの植物を探求したように、植物から生じる炭、それは奇妙で、実際、何処にでもあるが、この世界で最も奇妙なものの1つである植物の炭に関して探究していく。 実際に、自然を観察するだけでも、今日の科学から導かれる知見以外にも、ただちに目を向ける必要がある。 以前の講演で、コリスコ博士が、「未来の科学は、現在とは全く別のものでなければならない」と指摘された際に、「生理学」という言葉が繰り返し使われ、好まれていたのは非常に興味深い。 オイゲン・コリスコ[Eugen Kolisko] 1893-1939 1920年からシュトゥットガルト自由ヴァルドルフ学校の教師および校医。後に英国でも活動。 この指摘は、化学と生理学との間に橋を架ける必要性を表明するからである。私(シュタイナー)が理解する限りでは、この指摘に対応できるだけの充分な条件が、まだ整っていなかったため、講義のなかで話すことができない未完成な事柄についても考えざるを得なかった。 例えば、炭素は、人間の外にある(人間以外の)自然のなかにも発見できる。 そもそも大いなる自然のなかには人間以外に一体何があるのか? 本当は何もない。 というのも、人間の外にある経過全ては、人間の進化とともに、人間から外に出され、人間から遠ざけられた経過だからである。 人間は、ある進化段階に進む必要があったが、その段階に進めたのは、人間に相対する外界の過程(プロセス)が進行することで、ある別の過程(プロセス)を、人間の内部に取り入れる可能性が与えられたことによる。 従って、ある外の経過(プロセス)と、ある内の経過(プロセス)の間には、実際、常に対立と親和が存在している。 さて、厳密な表現ではないが、「化学の生理学化」として、コリスコ博士の講演で指摘された化学と生理学との間に橋を架けることの意味が、人間の外と内の間にある対立と親和から理解できる。 また、シャイデッガー博士による好ましい提言や、興味深い議論から、ホメオパシーの際に行なわれることは、本質的には、人智学で把握すべきことが指摘されたが、その指摘と、上記の意味が、不思議と共鳴し合っていたことがわかる。 エドウィン・シャイデッガー[Edwin Scheidegger] バーゼルのメーリアン・イーゼリン施療院の主任医師で設立者。 この共鳴は、世間では、次のような奇妙な言葉に揉み消される。私(シュタイナー)は、次のような奇妙な言葉と長年にわたって格闘してきた。 「ホメオパシーの医師でも、神秘主義に陥ることを恐れている。すなわち、神秘主義という評判を立てられることを恐れている。」 さて、上記の言葉と格闘してきた因縁は、特定の見解から、真実へと回帰するなかにあった。ホメオパシー的な治療過程(プロセス)のなかに切に求められる本質は、誤解しないで欲しいが、結局、実際の事物の性質を厳密に描写するなら、ある程度、俗物的な表現にならざるを得なくなる。 本質は、物質そのもののなかにあるのではなく、物質の調合の際の、例えば、珪酸、もしくは植物からの炭素の調合法のなかにある。 つまり、調合時に、行われるなかにある。ホメオパシーの薬の調合が求められるとき、本質的に何が起こっているのかについて、随分と取り組んできたが、この場合、是非、ラッシャー博士も認めるような、例えばリッター自身が認めなくても、リッターの調合(治療)も、ホメオパシーの薬に含めたい。 ハンス・ラッシャー[Hanns Rascher] 1880-1952 ミュンヘンの医師。 (リッターの調合は、以前紹介した光線力学的療法のことだろう。) 問題は、ホメオパシーの薬の調合の際に、本質的に何が生じているのか、ということにある。結局、求める薬は、調合法のなかにある。生体のなかで生じる過程(プロセス)全体を調合する。 例えば、珪酸を希釈していくなら、本質的に全体として何が生じるのか? 珪酸を希釈していけば、ゼロ点を目指すことになる。自然では、全てが根本的にリズミカル(規則的)な過程(プロセス)に基づいている。問題とする物質の本質の、最初に出現している作用が前面に出ている間は、ゼロ点を目指す。 さて例えば、持っている財産をどんどん使い果たし、ゼロになり、更にゼロ点を超えていくと、今度は、財産が無いだけでなく、財産という名目を超えて、借金(負債)に移行することになるが、外界の物質の性質に向かい合うときにも、この喩えと同じことがあてはまる。 物質の表に出ている作用を打ち消(中和)していくことで、もはや計測可能な状態ではないゼロ点に到達する。ゼロ点を超えて先に進むと、作用全体が消え去るだけでなく、その作用と、反対の作用が現われ、この反対の作用が周囲の媒質に混入するような事態になる。 従って、ホメオパシー的に、周囲の媒質のなかに反対の作用を混入させるために用いられる薬剤の微少な作用のなかに、当の薬剤の作用とは、反対の作用を見る必要がある。周囲の媒質は、薬剤により別の構成力を獲得する。 (ワクチン療法を考えるとよい。微少の抗原を与えることで、免疫が獲得される。) 僅かな財産から借金(負債)を拵え、社会生活では負債者になるように、物質も、反対の状態に移行し、自らの内にもっていた作用とは反対の作用を周囲に付与する。すなわち、物質量を減らしていくことで、物質のもつ特性が、いわばゼロ点に近づき、超えることで、反対の特性を獲得する。 表に出ていた特性を、生体内の周囲に放射し、物質の調合法を、適切な形で、生体内で促進するという特性を獲得する。ホメオパシーは、表面に現れた作用とは反対の作用を直接引き起こすことを促進するが、この促進は、当の物質を希釈し、ゼロ点を与えた後、もしくは光の影響下で、例えば蛍光や燐光を発するような状態(素粒子の生成消滅レベル)にし、反対の作用を引き起こすことで可能になる。 以上のように、周囲に放射される作用と反対の作用が引き起こされる。この事実を考慮する必要がある。
2012年04月04日
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日本列島が怒り狂っている。今回は、以下の古代ヘブライ語のサイトを、そのまま引用したい。http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/new/2012-04.htm+++++++++++++++++++++++++++++++++ 政治の不敬 天皇の口は、何を語るのだろうか? 「神の意志を伝える」のだ。 これについて、二つが頭に浮かぶ。 1.昭和天皇:「大陸には出るな」『中国大陸への軍事進出はすべきでない』 2.平成天皇:「無理はいけませんよ」『教育界での「君が代斉唱」に「強制無用」』 我々が、「日本の神の意図」に沿って動くには、「天皇の口から出るこうした言葉」を敬重し、従う必要がある。 大祭司である天皇・・・ その口は「神の意図を伝える」・・・ だからこそ、天皇は民から尊敬されてきた。 しかし、彼を取り巻く為政者はどうだったのか? 従わなかった重鎮達 昭和天皇は、軍部の勝手な動き「2.26事件」に激怒した。 温厚だった昭和天皇が激怒するのは、よほどの話だ。 この時期、神が激怒していたのは、間違いない。 「昭和天皇の激怒」=「神の激怒」 「その意図」を知った軍や重鎮達は、さっさと引き返すべきであった。 「道を誤っている」というのが結論だからだ。 思い返せば、あの「2.26」がきっかけで内閣の発言力は萎縮し、軍が政治を牛耳るようになった。 社会の雰囲気は急変し、あの無茶な戦争「負ける戦争」に国家は雪崩落ちていったのだ。 この時期「神国の顔」は「獣」になっていた。 大臣達は、口ではこう言う。 「私には信仰がある」 「天皇を崇敬する」 それなら、「声を聞き入れる」べきだろう。 なぜ無視したのか? なぜ従わなかったのか? 従う「振り」をしながら国民を騙し、暴走し、天罰を受けたではないか。 大勢の国民が巻き込まれた。 今も同じ。 指導者達が「君が代」を強制する。 しかし、自分達は天皇の声「2」に従わない。 彼らの顔は、『獣』になっている。 「国が赤字です!」 それなら、どうすべきかを天皇に聞けばよい。 大祭司の口を封じて、「神国の舵取り」がまともにできるはずもない。 祝福も来ない。 「象徴ですから、黙っていてください」 何だ? この態度は? 「口封じ」が、そのまま「背教」を意味する。 何という不敬。 何という不信仰。 彼らは、正月を祝う資格さえない。 『永遠に赤字で苦しめばよい』 神は、そう告げているはずである。
2012年04月03日
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馬鹿現政権は、古代からの警告を無視して、逆方向に突っ走っている。戦中の大本営と同じような迷走振りで、救いようのない強欲ぶりである。 自分たちが何をしているのか、わかっていない。 そこで、また例のごとく、古代ヘブライ語のサイトから引用して、現代日本への警告としたい! http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/new/2012-03.htm++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 備・構図 「ビコーズ」 「隠れて」物事を行えば、有利になる。 だから、「ずるい連中」は「闇の中」で行動する。 日本の先人達は知っていた。 「こうなったら、決起しましょうぞ!」 「しっ!」 「??」 サムライは刀を抜くと、天上めがけて投げつけた。 『ドスン!』 鈍い音がして、うめき声が聞こえた。 刀から、血が滴り落ちる。 「スッパか!!」 【素っ破・透っ波】すっぱ 1)戦国時代、武家に仕えた間者。スパイ。忍びの者。乱破(ラツパ)。 「敵地へ罷り越し候へと、晴信公『すっぱ』共に直に仰せ付けられ:甲陽軍鑑{品二二}」 2)ぬすびと。こそどろ。すり。詐欺師。ぺてん師。 「おのれは最前の『すっぱ』ではないか、おのれこそ『すっぱ』なれ:狂言・真奪{虎寛本}」 3)うそ。また、うそつき。 「おぼこな顔してといふ『すっぱ』は少し:洒落本・秘事真告」 【素っ破抜き】すっぱぬき 1)他人の秘密や隠しごとを突然あばくこと。 2)刀などをだしぬけに抜くこと。 「御酒のうへで『すっぱ』して怪我人もありましたから:滑稽本・続膝栗毛」 秘密裏に事を運べば、成功の確率が高くなる 相手が油断するからだ。 そこで、「いかにうまく隠れるか」が、「勝利の鍵」だった。 今も同じだ。 「ステルス戦闘機」は、無敵である。 レーダーに映らないから、この相手に気付くこともできない。 「まるで勝負にならない」・・・ 政治も同じ。 本当に危険なのは、世の中を密かに操る『見えない連中』である・・・ 北朝鮮のように、注目を浴びたら力は出せない。 世界の方向性を決めているのは、「床下」や「天井裏」の連中だ。 我々の先人は、「透っ波」だけに身構えていたわけではない。 見えない「霊の生命体」が、人間社会を操縦しているのも知っていた。 それは、「おに」と呼ばれた。 聖書では、「悪霊」・「世の神」という名称に変わる。 「世の神」=「隠爾(おに)」=「鬼」=「悪霊」 文明初期に、神々は地上を闊歩した。 見える姿で人類を導く「教師」であり「御上」だった。 しかし、今は違っている。 大洪水が転機(アトランティスの破局) 天地がひっくり返った。 ノアの大洪水が起きて、地上の神々も巻き込まれ、その地位は失墜する。 その後を「都合よく立ち回る」ために、神々は「徹底的に隠れる」という姿勢に転じた。 「人間どもは、我々の存在を忘れるさ」 「そのうちに」・・・ その通りになった。 進化論が流布され、人間は見えない存在に目を向けなくなった。 「風」はともし火を吹き消すが、「油断」は、自ら「光を絶やす」に等しい。 隠爾が暗闇を得て、有利に立ち回るようになる。 油断した人間社会は、いいように掻き回されてしまうだろう。 常に「油『神からの備え』」を補充し、「光」を絶やしてはならない。 「油」を備えろ (「救世主」を古代では「香油を塗られた人」と呼んだが、常に油を供給し、光を絶やさない人といえる。) 隠爾が恐れるのは、「人からの注目」であり、それを可能とする「光」である。 だから先人は「節分」という行事を設け、「隠れる者」に光を当て、「油断」を戒めた。 これは今も、有効な手段となる。 (伝教大使最澄の「一灯照隅、万灯照国」も同じ手段なのだろう。「万灯照国」は最澄の言葉ではないという説もあるが、誰が発したものであろうと、受け入れるかどうかが問題なのであり、良いものは良い。) 世界情勢を導いている「隠爾」は、「配下の人間」を使い、「影からの応援」も行う。だから、隠爾に使われ、その手法を見習っている連中は手ごわい。 近年は、「石油」と呼ばれる「偽の油」が出回った。 光を装う「進化論」も闇を広げた。 それで、世界は盲目になっている。 「本物の油」を使った「宗教のともし火」だけが頼りだ。 ここで「油断」すれば、世界は思い通りに操られてしまうだろう。 日本の先人が持っていた「節分の精神」をはじめ、「隠爾へのすっぱ抜き」を可能とする「『油』の備え」を絶やさないようにしなければならない。 「日本神道」の感性が、世界を『操縦』から脱却させる。 もっと「光」を。 もっと「油」を。
2012年04月02日
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今日、いまだ本当の胎生学は獲得されていない。なぜならば、胎生学上の初期の発達において、宇宙が強力に作用し、男性の精子と同様に、女性の生体にも受胎を生じさせる事実が全く考慮されていないからである。 胎生学上の発達の初期段階では、宇宙との関係から人間を観察しなければならない。男性の精子から生体に植え付けられる発達は、時間の経過とともに現われてくる。精子によって、宇宙が女性の生体のなかに生じさせている形成力が変形される。 宇宙がつくりあげようとしている全体の形態が、男性の精子により、個々の器官へと特殊(個別)化する。女性の生体機構の役割は、全体の組織化にあり、男性の生体機構、つまり男性の精子の役割は、個々の器官への特殊化や差異化、つまり個々の器官の分離や、統一的な全体形態を変形させることにある。 人間の生体機構は、女性の生体に与えられた力により球体の形成を目指し、男性の精子に与えられた力によって、球体を、心臓や腎臓や胃などに特殊(個別)化していくことを目指す。すなわち、女性の力と男性の力のなかに、地球と宇宙の両極性が直接現われてくる。 このような事実から、太古の叡智の意味が明らかになり、大きな敬意を抱かざるを得なくなる。太古の叡智が、『ウラヌスがガイアを身籠らせる、もしくはクロノスがレアを身籠らせる』云々と伝承するとき、現代の唯物主義的な解釈とは全く別の意味(真相)が現れてくる。 この古代の意味深い叡智(イントゥイション;霊験)に大きな敬意を示す際、単なる曖昧模糊とした神秘的な感情であってはならない。このような事実を理解しはじめた人々が、『神話は、現代の自然科学以上に生理学を含んでいる』という箴言に同意するのは、当然の成り行きだが、最初は、酷く衝撃的に感じる。 人智学により明らかになる事実から、神話の意味を理解できるようになるが、神話のなかには途方もなく多くの真実が含まれている。 神話の理解が進めば進むほど、次第に次のような告白が生じる。 「このような宇宙的な関連について、もはや何も知ることもできない今日の思考法では、人間の生体機構を真に解明していくのに、全く適していない」という告白が生じるようになる。 この機を逃さず、繰り返し述べていきたいことは、例えば、古代の研究により得られた事実は、人智学のなかには1つとしてない、ということである。人智学から明らかになる事実は、古代の研究とは全く別の方法、つまり、事実そのものから、実際に獲得された事実なのである。 (シュタイナー曰く、「事実が自ら、自身を語る。」) ただ、太古の叡智との一致が指摘できることもある。だからといって、いま講義している内容が、太古の叡智から直接明らかになったものではない。従って、これまで特徴を述べてきた経過(プロセス)を探求していけば、直観が現われてきて、直観が、太古の叡智に導いてくれる。 (直観が霊験を導く。) 例えば、私(シュタイナー)は、パラケルススの研究を引き継ぎ、その目的への到達を使命とすることはなく、私(シュタイナー)の発見が、他から、どのように見えるか、例えば、パラケルススの研究を紐解いて調べてみたいという衝動に駆られることはある。 (独自の探求法、直観を獲得すべきである。) 従って、これまで提示してきた事実を、このような意味で理解して欲しい。とはいえ、人間の生体機構の奥深くまで探求すると、人智学的な観点から、太古の叡智に対して、大きな畏敬の念を抱くようになることも、1つの事実として認めなくてはならない。無論、太古の叡智に対しては、別の知的分野で扱うべき問題である。 以上については、次回から更に述べる。その前に、二重(両極)性、つまり女性(陰)と男性(陽)の出現について述べた事実を消化して欲しい。この二重(両極)性は、次回からも見ていくように、更に深い関連を示唆する事実なのである。
2012年04月02日
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