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さて、前回述べた、上部組織と下部組織との間にある境界が、リズムのなかで、破られる場合を再度考察してみる。 その際、何が起こるのか? 大半は、上部組織から、下腹部に向かって、上部の活動が侵入し、エーテル的な突破が起こる。上部のみで活動するエーテルが、下腹部に侵入し、精妙な力の突破が起こる。 そして、精妙な(エーテルの)力の突破が下腹部に生じることで、下腹部に存在すべきではなく、全体に広がるべき環境が、下腹部に限定的に作り出されてしまう。このような突破の帰結として、下腹部に一種の中毒や重篤な下痢を生じることもある。 上部組織の活動が、下腹部に現われてくると、下腹部の活動は無秩序となる。更に、下腹部に作り出された新しい環境は、多くの場合、動物様植物の性質[tierpflanzliche Art]を持つ下等生物にとっては、絶好の生育環境となる。 従って、次のような結論に至る。 「上部からの突破を通じて、腸チフス[abdominaler Typhus]を誘発する環境が生まれる。」 腸チフス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B8%E3%83%81%E3%83%95%E3%82%B9 上部からの突破の付随現象として、下腹部に限局した特別な環境がつくられ、チフス菌にとっても、生育に好都合な環境がつくり出される。 チフス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%95%E3%82%B9 以上のようなことから、主となる病因と、副次的な症状とを明確に区別でき、次のような結論に至る。 「以上のような疾病の根源的な原因と、腸内の多数の下等生物群[Darmfauna]、もしくは細菌群[Darmflora]が、小腸などのなかに出現することで、炎症などを呈する副次的な症状とを区別しなければならない。」 小腸のなかの、細菌などを含む物質的に出現する下等生物の起源について議論する必要はない。生育環境が生じなければ、植物化も動物化も不可能で、これら植物-動物、もしくは動物-植物の生物活動として現われる寄生生物等全般は、上部活動の、下部活動への侵入に対する反応なのである。 寄生生物等の繁殖などは、結果として起こる現象なのである。従って、副次的な要因ではなく、主因に向かうことで、治療方法を探究することが重要になる。治療法については後でもう少し述べていきたい。治療法に言及するには、真の病因に遡って探求する必要がある。 今日の一般、いわゆる公的に通用している医学から、真の治療法(根治法)を発見するのはほとんど不可能である。なぜなら、現代の医学は、物質的(マテリアル)な過程(プロセス)から、霊的な過程(プロセス)に移行する観察を排除しているからである。 しかし、あらゆる物質の根底には霊が存在する。 これまで述べてきた事実に注目すれば、腸チフスなどの病像も容易に理解できる。ただ、この病気は、カタル性の肺の症状や、更には意識障害とも結びつくことが非常に多い、という事実も考慮に入れる必要がある。 カタル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AB カタル性炎症 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AB%E6%80%A7%E7%82%8E%E7%97%87 肺のカタル性の症状とは、上部組織で起こるべき経過が奪われ、下部組織で起きてしまうことに起因する。上から下への(エーテルの)突破が起こると、上部で起こるべき過程が、下部で起きてしまうため、もはや上部では起こらなくなる。 同様に、上部で、意識を形成している器官も、もはや正常に働かなくなる。この主因に注目すれば、腸チフスの全体像が自ずと、魂の前に現われてくる。 通常は、いわば外見上ほとんど互いに無関係な症状が、上述した関係から、結びつき、描出できるようになる。勿論、場合によっては、エーテルの突破が、潜在意識のなかで強力に作用し、人体組織のなかに出現する前に、いわば予見的に、客観化しようとする欲求が、実際に現われることもある。 すると、上部から奪われた経過を、青い斑点などで壁に描きたい、というような欲求を感じるはずである。自分には、芸術家になる使命があると感じながら、絵画の技法を、ほとんど学んでいないような人物が出くわせば、次のようなことが体験できる。 このような人物が、同時に、絶えず出現しようとする下腹部の疾患を抑えられるほど十分に強靭で頑健(必ずしも、肉体的に頑健である必要はないが)なら、下腹部の疾患を発症する代わりに、客観化するために、壁に、青等の斑点で絵画などを描こうとする。 (壁に落書きするのは、上から下へのエーテルの突破が生じている可能性がある。) 表現主義の絵画のなかに、このような独特な活動の産物が発見できる。表現主義の絵画のなかに現われる多く、例えば、赤や黄色の色彩などの表現から、その画家の下腹部に関する容態などを探究するとよい。 また、青紫色などの表現から、その画家の上部や肺の活動に関する容態などを探してみるとよい。また、詩句のなかの表現から、肺の活動とともに頭部に向かい、リズミカル(規則的)に働きかける(エーテルの)容態などが観察できる。 表現主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9 以上のような表現と、人体の症状との関係を洞察していくと、人間の外への行為全般と、内の人体組織化全体との間に、不思議な一致が発見できる。つまり、絵画等の表現の仕方から、人体機能に関する、ある種の直観(霊)的な洞察力(イントゥイション)を感得できる。
2012年07月31日
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片野優+須貝典子著の「こんなにちがうヨーロッパ各国気質」は非常に面白い本だ! 今度は、日本人の気質に近いといわれているヨーロッパ人とその気質を、この本から抜き書きしていきたい。 例えば、「日本人に似ている、ヨーロッパ人は?」という質問を日本でするなら、ドイツ人が上位にくるだろう。それは、日本人の時間に正確で、勤勉で真面目、几帳面なところが、ドイツ人と共通するものと思われているからだ! しかし、どうやら、それは、日本人の片思いであるようだ! 日本でも、沖縄までいくと、時間にルーズになるし、また、勤勉でもなく、真面目でもなく、几帳面でもない日本人は沢山いるし、昔ほど勤勉でなくなった、とよくいわれる。 この本は、どうして、日本人は、ドイツ人に似ているというようなイメージをもつのか、をドイツ人の気質を説明することで解き明かしてくれる。 そもそもドイツ人は、ドイツ人という意識に乏しいという。日本のように、秀吉、家康といった大名に、曲りなりにも統一された感には乏しいようである。 以前イギリスとの比較で、日本人の横並び意識は、名古屋(尾張)発祥ではないか、と書いたが、日本の場合、200年続いた江戸時代の鎖国のお陰で、すっかり、日本人という意識が定着したようにも思われるが、それでも江戸期は、藩単位のもので、やはり明治維新の対外的な文明開化の影響が大きいように思われる。 日本人という意識は、欧米の文明を真似た洗脳によるものが大きいように思われる。だから、いまだに欧米コンプレックスをもっている。それは、CMに、欧米人モデルが多いことでわかる。 例えば、ドイツ人をみると、このドイツ人という言い方も、日本人的な観点が大だが、日本の戦国時代の地方分権を、そのまま続けていると考えた方がわかりやすい。勿論、戦争は度外視し、戦国時代の文化をそのまま保存している状態と考えるべきであろう。 だから、ドイツ人に、ドイツ人のことを聞いても、ピンとこないようである。イギリス人も、統一感のあるイギリス人というよりも、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドと地方分権の意識が強いようである。むしろ自分は上流か、中流か、下流に属するのか、の方が強いのかもしれない。 例えば、かつてサッカーの西ドイツ代表の粘り強さを、日本では、「ゲルマン魂」と呼んでいたが、当の西ドイツ代表の選手に、「ゲルマン魂」の粘り強さを質問すると、彼らは決まって、「そのようなものはない」、とTVなどで答えていたのには、意外だった。 つまり、他との比較から、「粘り強さ」などが現れるわけで、例えば、「なぜ、日本人は礼儀正しいのか?」と聞かれても、日本人が答えられないのと同じだろう。 例えば、日本の戦国時代に、地方にでも行って、我々は日本人だからといっても、南蛮人か何かと勘違いされるような感じかもしれない。 実際、ドイツで流行っている日本文化の多くが、日本の戦国、江戸時代のものであることからも伺える。以前、甲冑などをつけて武田信玄の真似をするドイツ人をTVでみたときには、驚いた。非常にマニアック的である。 さて、この本によると、日本人がドイツ人に似ているといわれるのは、明治維新以来、ドイツ(プロシア)をお手本にしていたことが大きい! この本は、同じ生真面目さでも、ドイツ人と日本人の違いを細かく指摘している。 例えば、ドイツ人は、勤務時間に厳格で、窓口の対応でも、沢山列をなして順番を待っていようが、勤務時間を超えると、窓口を閉め、列を残して、さっさと帰宅してしまうそうだ。また、規則に反する行為をした場合は、厳しく指摘されるそうである。 また、ドイツ人は、制限速度を守って運転するそうだ。日本人の場合、スピード違反は日常茶飯事である。どうも、ドイツ人は、法律を厳守することに重きをおくようだ! つまり、ドイツ人は根っから生真面目で、日本人は表面的で、生真面目を装う違いがある。 だから、ドイツ人は一人でも生真面目だろうし、日本人は周囲が生真面目でなくなると、途端に生真面目でなくなる。だから、日本人が酒を飲むと途端に無礼講となるのは、根っから生真面目でない証拠といえ、この豹変振りが多くの外国人から指摘される。 だから、日本人は、生真面目であることを洗脳されているようにみえる。 日本人には、どこか強がって生真面目を演じているようなところがある。 それは、日本の歴史と関係が深く、つまり、江戸時代の幕府を否定した明治維新の装い、と考えられる。文明開化で、日本全体に生真面目が押し付けられたような感がする。 つまり、戦国期の否定から、江戸期ができ、そして、江戸期の否定から、明治期ができるときに、戦国期が再び蘇り、戦国期の文化とドイツ(プロシア)の文化との共通性から、生真面目が移植されたような感じを受ける。 例えば、日本人の生真面目を装ったものが、建前や体裁、世間体となったのだろう。 結局のところ、ドイツの生真面目と、明治維新以来の、日本の行き過ぎた生真面目は、狡猾で要領のよい英米を中心とする連合国に巧みに見透かされ、第2次世界大戦で、国家体制的な破局を迎える。 それでも、若干は現存している。例えば、特攻隊は、どこか、現代のサービス残業に通じるところがある。どれだけ残業したかが、愛社精神の自慢にさえつながることすらある。このことは、「死んで靖国で会おう」と言う様な自殺の心中のようなものと何処か共通する感もある。 同じ生真面目さでも、ドイツ人は、サービス残業などはしないし、休日出勤などもしない、休日は休むものだと思うそうで、安息日に労働をすると、「休め!」と注意すらされるそうである。 またドイツ人は充分な休暇をとるし、日本人のように少々の風邪でも出勤することはなく、病欠をとる。だから、ドイツ人からみれば、日本人は仕事中毒か、仕事の奴隷とみられるだろう。日本人が、病欠に有給休暇を使うことが理解できないそうだ。 このように同じ生真面目、勤勉でも、ドイツ人と日本人は全く違うようだ! ドイツ人は、かつて日本が経済バブルを謳歌したとき、日本式経営に興味を抱いたそうだが、もはやバブルもはじけ、長期の不況に陥っている日本経済が、一向に回復しないことに、ドイツ人のもつ勤勉さから考えれば、理解できないので、疑問をもつようである。 ドイツ人の勤勉さは、結果重視の面があるから、結果の伴わない勤勉さは、無駄なばかりか、悪徳とさえ思われるのだろう。だから、日本人からみれば、細かく理屈っぽい。 福島原発事故を対岸の火事とせずにいち早く脱原発に舵を切るドイツ人の生真面目さに比べれば、事故がいまでも継続中なのに、再稼動問題で、無駄な議論を続ける日本人の生真面目さは、仮想の生真面目で、優柔不断なだけのように思えてくる。 「決められる」政治と無意味な標語を乱発する日本の政治は生真面目ではなく、優柔不断なだけなのだ! 公約を守るために決めるのであって、公約にないことや、公約違反の政策をするのは、パラノイヤか、中毒で、病気に近いものだろう。「決められる」病だろう。 それでも、日本人が、物真似でなく、ドイツ人の論理的な生真面目さや厳格さを取り入れれば、仮想の生真面目さが生きてくるように思われる。 明治以降、「和魂洋才」といわれてきたが、昨今の日本社会全体をみると、実態はどうも、ドイツの勤勉さの中途半端な物真似のように思えてならない。
2012年07月27日
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前回述べた、目にはみえない横隔膜の働きを考察する。 人間のいわば律動活動を担う呼吸リズムのなかの、外的で、物質的に現われる規則的(リズミカル)な震動が、エーテルの活動や、アストラルの活動にまで継続され、上部組織の肺のなかへと集約される地の力と、周囲の宇宙から、地球の中心へと作用し、人体では下から上へと作用する下部組織の心臓のなかに現れる天の力とを、互いに引き離す。 いま考察したリズムが正しく行われない場合を想定すると、物質ではなく、比喩として示した、リズム同士の衝突により成立する横隔膜が乱れる。 この非物質性のリズムからなる横隔膜が乱れると、植物では、強度の地の働きに類似した作用が、人体内に出現する可能性がある。植物は、地の塩化の働きが強くなりすぎると、鉱物化する。 地上において、植物が、鉱物(物質)化するのと同じように、人体内では、強度の地の力は、肺のなかを浸潤し、肺から、いわばエーテル植物ともいうべき鉱物化した植物に似た硬化が生じ、すなわち、肺の硬化の誘因となる。 (地の力が過大→肺の硬化) このような植物の鉱物化の傾向は、人体内でも強くなりすぎると、実際に、肺の硬化として現れることがわかる。 逆に、動物化の傾向が強くなりすぎることもある。動物化の傾向が強くなりすぎると、人体の上部に、本来あるべきでない場違いな領域が作り出される。 この場違いな領域に、本来、エーテル領域に相応しい器官が組み入れられてしまい、人体にとっては促進してはならない、小さな植物動物(細菌)の生存にとって好都合な環境が創出されてしまう。 そして、そこは、小さな植物動物[Pflanzentiere]にとって繁殖に好都合な環境となる。 このような植物動物が、どこから来るのかについては、興味を持つ必要は全くない。これらの下等生物にとって好都合な生育環境が、どのようにして作り出されるのか、という点に興味をもつべきである。 下等生物に好都合な生育環境が人体内にあってはならない。このような生育環境は本来、人体組織全体の働きとして、広がるように作用しなければならない。特定の封鎖された領域として生じてはならない。この不適切な領域が、人体組織全体に広がれば、全体の生命維持として働く。 特定の小さな封鎖領域として機能すれば、小さな植物動物を繁殖させ、上部組織を病気にし、後に検出できる、小さな植物動物の生育条件に好都合な環境となる。 以上のように律動活動や、それに対する妨害にまで遡って探求することで、人体組織全般に広がるべき生命維持の領域が、特定の下等生物の生育に適した領域を生み出してしまう、というような事実にまで迫り、人体における細菌(ウイルス)の影響の謎を解いていく必要がある。 すなわち、霊的な原因にまで遡ることなしには、この謎を解くまでには至らない。 地上の植物に生じる事象は、動物や人間にも生じている。人間や動物においては、地球外の宇宙から、ある種の力がやってきて、地球の内から来る力に対抗している(下図参照)。 地球の内部から来る力が、人間では、上部にある器官に限局しているのに対し、外から流れ込んでくる力は、下腹部に属する器官に限局している。更に、これまで考察してきた2つの活動の間に、隔壁を作り出す必要がある。 この2つの活動の分離を正常に制御する働きは、脾臓によってなされる。以前述べた脾臓の調節機能が人体組織のリズムを調節していることがわかる。ただし、このリズムは、呼吸のリズムとはまた別である。 呼吸のリズムは、小さく振動しながら、全人生を通じて継続し、上部組織で、病気が起こらないように秩序正しく機能する必要がある。というのも、実際、消化のリズムは上にも下にも広がっていくので、下部組織に起因する病気が、上部組織にも起こり得るからである。 上下の違いを正確に区別する必要がある。人間を、外見上の物質的な構造のように、分割された存在と考えるのは大きな間違いで、個々の構成器官等は、互いに浸透しあっている。とはいっても、地球から来る、人体では、上部から作用する力と、天から来る下部から上へと作用する力との間には、一種の隔壁が必要となる。 実際、下部の力に対抗して、上部の力を送り出し、両者の間には、正しく調整されたリズムが必要で、睡眠と覚醒との正しい関係から現われる調整されたリズムが、どの個人にも生じる必要がある。 朝、目覚める度毎に、このリズムは、ある特定の振動を行い、眠る度毎に、また別の振動をする。 覚醒-睡眠というリズムのなかに、更に小さなリズムの波が生じるように、例えば、端的にいって、覚醒状態時でも、上部は覚醒しているが、下部は睡眠中であるような状態から生じる別のリズム経過が組み込まれる。 人間の上部組織と下部組織の間には、絶え間ないリズミカル(規則的)な活動が見られるが、ただし、このリズムは、目覚めと眠りの交替による大きなリズムに捉えられている。
2012年07月27日
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片野優+須貝典子著の「こんなにちがうヨーロッパ各国気質」は非常に面白い本だ! 前回は、この本を手がかりとして、ギリシャ金融問題の背後にある将来の見通しなどを、私見を交えて書いてみた。 国家の目的は、少なくとも建前として、人類の理想である最大多数の最大幸福を目指すことにあるのだが、残念ながら、今では経済的意味で、1%の地獄行きの金持ちの仮想幸福の追求のために、99%の国民が国家という枠組みから搾取されている状態といえるだろう。 いずれ、当初の理想的な国家概念との現実の極端な乖離から、経済統合という名の略奪経済主義から、国家概念は破綻するに違いない。それがテロという形や、テロ取締りという名目の軍事的圧力や介入による弾圧や撹乱しか考えられない悪魔的権威主義に人類の奴隷化はもはや目にみえている段階にまできてしまっている。 人類は覚醒しているというが、あまりに表面的すぎて、実は眠っているにすぎない。悪魔に眠らされているにすぎない。 その証拠に、軍事力で問題を解決しようとするのなら、最終的に死しかなく、死に対する恐怖しかないからである。恐怖は、悪魔のお得意事項である。いずれ第3の破局を迎えるだろう。 表面的な付き合いは軍事的結果をもたらすので、捨てるべきで、潜在意識からの本質、つまり気質からの付き合いを重んじていくべきだろう。 だから、武士が刀を捨てたように、もっと人類は賢くなるべきだ! 要するに透明化、裸の付き合いが望まれていくように思える。 そこで、この本で描かれているヨーロッパ人の気質を、日本人の気質との共通性から描きだしてみたい。 前回は、ルクセンブルクという国が、日本を遥かに超える深刻な財政破綻問題を抱えていることを書いた。GDPの20倍の借金で、しかも国民一人当たり2億円というから、日本の現状を遥かに超えている。 日本の場合は、1人あたり大体600万で、しかも国民が政府に貸しているから、ルクセンブルクとは全く逆だ! もし仮に日本の財政が破綻寸前になれば政府を破綻させて、新しい国民政府をつくればいいだろう。 しかし、ルクセンブルグの借金は純粋に外国に対する借金なので、外国が認めない限り、破綻しても、国がなくならない限り、チャラにできないだろう。破綻してもチャラにならないどころか、融資という名の借金がまた増えるだけで、いきなり景気や経済成長率が上昇することはないので、借金が別の形にかわるだけだ! しかし、現実というのはなかなか理論どおりには進まないことも確かなので、ゴールドマンサックスの金儲けのために、ギリシャの財政の方が問題とされている。 そもそもギリシャ問題は、EU加盟の前から潜在的にあったものだという。ギリシャがEUに加盟する際の厳しいノルマとされたもので、ギリシャ人にすれば、政府が勝手にEUに参加して、借金を背負っただけだというのが本音というところだろう。 ギリシャが問題とされ、対外責務が深刻なのにも関わらず問題となっていないのは、ルクセンブルグが税金逃れに使われるタックスヘイブンの国だからだろう。つまり金持ちにとって旨みがあるかどうか、の違いだろう。金持ちの地獄行きに利用されている国ともいえる。 さて、ルクセンブルク人の気質と、日本人の気質を比較してみたい。 この本によると、ルクセンブルグ人は、国際感覚に優れ語学に堪能という気質をもつ点で、日本人とは全く正反対な面が伺える。 また、国民の40%が、外国人というから、日本人の閉鎖性とは真逆であることがわかる。 しかし、似ているところもあり、かつては貧しい農業国、鉄鋼の国で、オイルショックを機に、鉄鋼業から金融サービス業に転じた経済成長などは日本とよく似ている。 そして、日本人の気質とは全く正反対な国際感覚に優れている気質にも関わらず、ヨーロッパでは、目立たない存在という点で、どことなく日本人の気質にも共通する。 海外のジョークに、日本人がモノマネ、ハイテクというイメージで登場するだけ、まだマシといえるかもしれない。ルクセンブルグ人というと、ジョークにすらも登場しないそうである。 日本人はほとんどが日本語しか話せないから、内向きで、目立たないのに比べて、ルクセンブルグ人は語学が堪能なのに、目立たないというのは、将来、日本人が語学に堪能になっても、ルクセンブルグ人のように目立たない存在になることを意味しているように思えてくる。 だから、ルクセンブルグ人はカメレオンなのかもしれない、日本人があえて目立たないカメレオンのような存在になるのには、ルクセンブルグ人は良い見本となるだろう。 日本でいえば、国際的なのになぜか目立たない神戸人(兵庫人)のような感じだろうか? なんせ、対外責務がGDPの20倍もあるのに問題とされないのだから、日本人がいかにも、小さくみえてしまう。 しかし、国民の40%が外国人で、4ヶ国語が話される環境では、そもそも日本人とは環境において大きな隔たりがある。もし将来日本に外国人が大量に移住したら、日本人はルクセンブルグ人に近づくのではないかと思われる。 まとめると、ルクセンブルク人は周囲の国に順応し、器用すぎて目立たず、器用貧乏で、日本人は、周囲の国とは順応できず、不器用すぎて目立たずに、表現力に乏しいという感じに思える。 表現力の乏しさが、日本人を内向きにさせ、海外が全く気にもとめていないことに、齷齪するというのが日本人の特質に思えてくる。だから、日本人が海外に出ると、日本の海外情報とは全く逆の場面に出くわすことがよくあるのだろう。 海外情報と異なる経済問題、特に財政問題は、政府が借金をしないように運用しなければいけないものだ! また、対外的に借金を勝手につくっておいて、国民に負担を強いるのは本末転倒の話で、その意味で、ギリシャ国民と日本国民は相通じるように思える。ギリシャの政治は日本とよく似ていると昔からいわれるのは、国民と乖離した政治が行われているからだろう。財政問題については、ギリシャよりもルクセンブルグを反面教師とすべきだろう。
2012年07月25日
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自然科学-医学研究において、病理学的な症状の真の要因への探求に参入していくことが不可欠に思われる。近代においては、本質的な根源から目を逸らし、表面で生じている事象だけに目を向ける傾向が益々盛んになってきた。 そして、表面に拘泥し続けることに関連し、そもそも今日一般に通用している医学や病理学の大部分において、何らかの病気のタイプに関して読み聞きすれば、特定の細菌[Bazillus]やウイルスが、人体組織に感染し、病気を引き起こす、ということが教えられる。 さて、この下等生物の人体への感染に対しては、単純な根拠から、容易に反論できる。この下等生物の人体への感染を示すことで、真の病因を示す必要もなくなる。これらの下等生物が様々な疾病に対して特殊な形態をとって現われるのも事実なので、この特殊な形態を指摘して、特定の病気の症状との関係を明示すれば、病因を説明できる。 さて、純粋に表面的に全体を観察するだけでも、真の第一義的な病因から逸れる、という誤謬が露呈する。よく考えれば、病気の経過において、身体のどこかに多数の細菌(ウイルス)が現われたなら、どんな異物も、人体組織に病状を誘発するのと同じように、この多数の細菌(ウイルス)も病状を誘発し、様々な炎症を起こす、のは当然である。 (細菌やウイルスが問題なのではなく、それらの繁殖に適する状態を与えた人体組織に問題がある。) さて、病因を、細菌(ウイルス)の働きに帰すなら、細菌(ウイルス)にしか注意を向けなくなるので、病気の真の原因から、注意を逸らすことになる。というのも、下等生物の繁殖に適した環境を、人体に発見するときは常に、この適した環境が、本質的で第一義的な原因により、人体に既に導き出されているからである。 この第一義的な原因に一度注意を向けるべきである。そのためには、再度、霊的観察方法に遡る必要があり、既に失った方法だが、再度、注意を向ける必要がある。 地球を覆う植物界、つまり地球の植生全体を改めて観察してみるとよい。 地面から宇宙空間に向かって成長する地球の植生全体は、地面から宇宙空間に向かって成長するばかりか、宇宙の力によっても引っ張られる。 つまり、以前既に述べたが、植物の生育環境全てにおいて、植物の内部へと作用する地球からの様々な力と同様に、宇宙の引力から、植物の成長の糧となる力が、もたらされることについて、はっきりと理解しておく必要がある。 地球から植物のなかに作用する力と、地球外の宇宙から植物へと作用を及ぼす力との間には、絶え間ない相互作用が成立している。 さて、宇宙から植物に作用する力は、実際に、周囲に常在しているはずだが、一体どこにあるのか? 宇宙からの力が、完全に植物を捉えるなら、もしくは、惑星が、互いの力を抑制せずに、完全に植物を包み込むなら、植物は、茎から花や種子へと成長していく際に、動物になる傾向を持つようになる。 すなわち、宇宙の力には、動物化の傾向が存在する。植物では、宇宙から作用する動物化の傾向に対抗し、地球からの植物化の傾向が作用し、植物の存在にとどまらせ、植物内部に鉱物化の傾向をもたせる力が作用する。 つまり、植物とは本質的に、塩化の傾向、つまり植物のなかで鉱物を沈殿させ、鉱物化する硬化の傾向と、その逆の炎症を起こす傾向、つまり動物化の傾向との間で、中庸を保つ存在であることに注意すべきである。外的な自然のなかでは、常に中庸が保たれている。 しかし、外界だけでなく、人体組織のなかにも、中庸が保たれ、内化され、縮小化されて、常在している。人体は、肺を持つことで、本物の小さな地球となっている。 地上の植物においては、地球からの力は、植物のなかに入り込み、上(宇宙)に向かって作用しているが、その地上の力と同じように、肺からの作用は、人体組織では逆に、下に向かって作用する。人体内の肺の新陳代謝などの力に対抗する力全ては、宇宙(惑星)からの力と同じように、呼吸や心臓の働きを通じて、外(上)に向かって作用する(図参照)。 さて、人体組織には不可欠なことがある。人体組織から最終的に、心臓の働きのなかに集約される働きの全ては、最終的に、肺の内的な新陳代謝のなかに集約され、組織化される働きから、隔てられなければならない。 上記の2つの活動の間に、互いに作用しないように、いわばエーテル的な横隔膜[Zwerchfell]、もしくはアストラル的な横隔膜があり、この2つの活動が互いに隔てられている。 すると、次のような疑問が生じる。 「このような横隔膜、『横隔膜』という言葉を使うのは、そのイメージを暗示したいからだが、このようなものが本当に存在し、外からの呼吸による活動とはまた別の形で、上部の頭部や喉や肺の活動と、下部の胸部や腹部の活動とが混ざり合うのを防いでいるのか?」 実際、上記のような横隔膜は存在し、外的な呼吸リズムから、上部組織と下部組織を相互に調律している。
2012年07月25日
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片野優+須貝典子著の「こんなにちがうヨーロッパ各国気質」は非常に面白い本だ! 例えば、昨今話題のEUの金融危機についても、ギリシャの紹介欄で的確に触れられている。結局、悪徳投資家が、ギリシャの財政破綻を利用して一儲けしようとしているのが問題に思える。悪魔が、悪徳投資家ゴールドマンサックスに憑依していることがわかる。 そこで、ゴールドマンサックスとフリーメーソンでネット検索すれば、ゴールドマンサックスが、悪魔ルシファーのイルミナティ(メーソンの上部にあたる)の配下で、ロスチャイルドと深い関わりをもつことがわかる。 しかも、ゴールドマンサックスからフリーメーソンの系譜を辿ると、太平洋戦争とのつながりまでみえてくるから不思議である。 例えば、ルクセンブルクの対外責務の方が深刻なのに、ギリシャが標的にされるのはおかしいことを以前書いたが、フリーメーソンの動きを探れば、なんとなくわかってくる。 例えば、以下を参照すれば、いかにルクセンブルクが異常なのかわかるが、PIGSと呼ばれる、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインが問題とされ、最近は、アイルランドが加わり、PIIGSとなっているそうであるが、ルクセンブルグは問題になっていないようである。 http://www.garbagenews.net/archives/1880700.html このデータをみれば、アメリカ合衆国やイギリスだって問題なのだが、ゴールドマンサックスのような悪魔が棲むから、お目こぼしされているとしか思えない。 それは、投資家の贅沢な生活と、財政破綻に追い込まれている一般国民の生活を比較すれば明らかである。 1%の金持ちが富を占有するのなら、数の論理から、財政破綻に追い込まれて不思議ではない。1%の金持ちが、99%の税金を負担しなければ、平均的な数値を上昇させることはできないからである。統計分布図を作成すれば一目瞭然である。 さて、ルクセンブルクと、フリーメーソンの関係をネット検索すると、興味深いサイトがヒットする。「フリーメーソンに関する記念切手が1978年にルクセンブルクで発行されている。」というのである。 ルクセンブルクにおけるフリーメーソンのグランド・ロッジ175周年記念【ルクセンブルク発行 1978年】 http://mineralhunters.web.fc2.com/2009_6mineralfair.html ルクセンブルグとフリーメーソンを検索していくと、ビーストというスパコンが、ルクセンブルグにあるとか、イルミナティ(イルミナチとも読める)の本部があるとか、色々な情報がでてくる。ルクセンブルクは、スカイプ社で有名である。 イルミナティとフリーメーソンを色々と調べてると、現代のバール教、つまり悪魔崇拝に関係していることがわかるが、その目的は、人類支配と階層化にあることもわかってくる。簡単にいえば、悪魔による統治の地獄化で、地球植民地化といえる。こんなことを書くと途端にオカルトと罵られるが、オカルトで何が悪いのか意味不明で開き直るしかない。 そもそもシュタイナーとか、グルジェフとか、ユングとかの著書を読めば、オカルトにならざるを得ないだろう。オカルトとは、隠された(オカルト)潜在意識のことだからである。 つまり、潜在意識を、覚醒に導く方法のことを、オカルトというのだ! 対して、覚醒意識を眠ったようにし、意志薄弱化させるような人間の機械化、獣化を行うのが洗脳である。 オカルトと意味もなくレッテル張りをするのは洗脳である。 洗脳するためには、連中はネットワークが必要なので、どうやらそのネットワークづくりが、ヨーロッパを通してみえてくる。ネットワークは、そのまま情報の階層化を生じさせるので、情報の出所だけを管理すれば、洗脳するのに都合がよい。 ネットワークこそが、666の正体なのではないか?とも思えてくる。 さて、少し話は変わるが、最近、面白い本が出た。それは、ロスチャイルド家の概略を説明する本で、ジャパンハンドラーズで有名な副島氏の本である。副島氏はロスチャイルドの工作人という噂もあるが、この本を読み始めると、いかにもそのような感じもなくはない。 この本は、ロスチャイルドの話題を学問化しようとしている本なのだが、そもそもこのような実証が不可能な話を学問にするのは不可能である。一休さんの頓智が必要だ! しかし、情報共有のネットワークなどはみえてくるから、お勧めである。 ともかくも、情報ネットワークを駆使して、人類の階層化を洗脳し、自らを支配層に位置づけるような試み、実験が行われていることは確かだろう。 5つの洗脳情報センターをつくり、日本はアジアのセンターの一つになっているようだ! EUの機関がある国は、情報センターの元締め的な役割があるのだろう。 しかし、連中は、覚醒意識が、潜在意識の上に成り立つことを理解していないし、人間は誰しも最後には死を迎え、あの世に行くことがわかっていないから、単なる悪あがきにすぎない。 随分と主題から逸脱してしまい、全く主題とは異なることを書いてしまったが、次から、ヨーロッパ人と日本人の気質の違いをあれこれ書いていきたい。 というのも、金持ちが、国に対して経済的負担を担わない限り、地獄に行く金持ちにとっては、国は、国民から、税金を搾取する名目でしかなくなるので、いずれ国というものは消滅せざるを得なくなるからである。 経済統合体というのは、金持ちが、税金負担を免れる方法でしかないからである。口座を移し変えることで、税金を免れることが可能だからだ! 多国籍企業が、タックスヘイブンといわれる飛ばしをやったり、邦銀が法人税を払わないことでもわかる。政治家や官僚にリベートを送れば脱税できるわけだ。 しかしながら、国民のほとんどは、政治家たちの嘘から、そのことに気付きはじめている。 このことは、情報センターがある国が無政府状態になったり、指導者が頻繁に入れ替わることで、わかる。指導者は単なる看板にすぎないからで、いずれ政府がなくなるか、国がなくなるかになったとき、潜在意識からくる人間の本性、つまり気質が、新たなる人間の意識の土台となるように思えるからだ。 キリストが、金持ちは地獄に行くと明言しているのに、人類ってホントに馬鹿だと思うよ。日本の宗教法人が無税なのは、罰あたりの代表といえるだろうね。
2012年07月24日
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子どものなかの霊性を適切に観察すれば、後の人生の歯の損失問題等に関係することがわかる。 例えば、以前、述べた食餌療法に配慮して、ある食べ物は避け、ある食べ物を摂取する必要があると、自分で判断できる。自分にとって、ある食餌療法が必要であると判断できる。その食餌療法が、自分に良いと思うからである。 ある食餌療法が、自分によいとは言え、自分で試しながら、その食餌療法に辿り着くのか、医師などに指示されて行うのかでは、大きな違いが生じる。 唯物論的な思考では、本能的に自分で良い食餌療法を見つけ出し、自分のものにし、自分のイニシアティヴ(自由意志)を発揮した場合と、医師に指図してもらい、医師の指導の下で食餌療法を身につけた場合のどちらも同じような成果を得るように考えるだろう。 しかし、この両者の最終的な結果ともいえる大きな違いは、次のように示される。 「医師に指示され、従った食餌療法は、最初こそ効力を発揮するが、残念ながら、有害な要素ももち、そのような食餌療法をしない場合よりも、高齢になってから痴呆化しやすい、つまり老人性痴呆になりやすい。 他方、自主的に、食餌療法することは、老齢に至るまで、勿論、他の要因も加わってくるが、精神の活発さを容易に持続する。」 (暗示や催眠を用いて教育すると、将来、痴呆症になりやすい。新興宗教教団に入るのも晩年痴呆化しやすいといえる。) 上記のような能動(主体)性と、非能動性への抵抗は、暗示などを用いた心理学療法の際では、全く損なわれてしまう。心理学療法の場合、自身の判断を放棄し、他者の指図に依存しきってしまうだけでなく、自分の意志の導出を、他者の判断に委ねてしまう。 だから、催眠と暗示に立脚する治療法はできるだけ使わないようにすべきである。ただし、このような処置を行う場合に生じる意志の阻害が、別の根拠から有害とならず、当人のためになる場合は適用できる。 一般的に、人体組織のなかの運動や呼吸などの物質作用を生じさせる、他からの直接的な霊的作用ではなく、意識の有無に関わらず、能動的にイニシアティヴ(自由意志)をもって、本人から発せられる治癒的な働きは、人智学が指摘すべき重要事項である。 当人が発する治癒的な働きが、非常に重要なのは、現代のような唯物論的な時代にあっては、この治癒的な働きに反することが多く、しかも、支配的な見解に汚染され、今日のありとあらゆる催眠や暗示的な傾向が、教育学にも取り入れられるというような、ゾッとするような現状を体験するからである。 教育学のなかに、心理学的な傾向が利用されるのは恐るべきことである。睡眠の代わりに覚醒をもたらす人体組織の活動が、睡眠に対して、どのように作用するのか、というような疑問に答えられてはじめて、心理学的方向において、教育の効果がはっきりとわかってくる。 (心理学的教育は、覚醒意識を眠らせることにつながり、晩年の痴呆症を誘発する。簡単にいえば、起きているか、寝ているかの区別がつかなくなる。公私混同も、これと似ている。) 人間は眠りにつくと、表象(イメージ)のなかに、意志の活動には従わない運動をもたらし、その際、人間は外界に対して、いわば静止する代わりに、潜在(無)意識の体験は活発化する。オイリュトミー(シュタイナーの編み出したダンスや体操の一種)の場合は、この状態とは逆のことが起こる。 オイリュトミーは、睡眠とは逆の覚醒をもたらし、日常の覚醒意識に対して、より強い覚醒をもたらす。睡眠中の夢のなかで見るような表象(イメージ)の飛躍(肥大)をなくし、自由意志を健全に養成し、四肢に送り込む。 人体機構のなかの自由意志が、四肢のなかにまで送り込まれる。更に、例えば、オイリュトミーでの母音の運動から、下部組織と上部組織に与える作用が、どのように違うのか、逆に子音の運動が、下部組織と上部組織に、どのように異なった作用をするのか、についての研究を始めると、オイリュトミーのなかにも重要な治療的要素が探求できる。 オイリュトミー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%BC 『ルドルフ・シュタイナーの「治療オイリュトミー」(GA315)参照のこと。この講義の一年後の、医師を対象とした2度目の講義「人智学的観点からの治療」(GA313 1921年4月12日~18日)の期間中に行なわれた。』
2012年07月20日
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現代科学が少しばかり霊化され、いわゆる精神病といわれる疾患を、現代のような、心理学的な方法で治療しようとせずに、 「精神病と呼ばれる疾患では、本質的に、どの器官が不調なのか」 というような疑問を投げかける状況になってはじめて、精神病に対しての適切な処置ができるようになる。 逆に、奇妙に思えるかもしれないが、精神病よりも、いわゆる肉体の病気の方が、霊魂の状態に目を向けることで、遥かに多くの手懸かりが得られる。 精神病の場合、心理学に関する所見が、診断の助けになる以上の意味をもつことはない。人体組織の欠陥を探り出すためには、霊的な観察を通じて、霊魂上の所見を探求しなければならない。古代人は、この点について、術語上においても配慮していた。 実際、古代人たちが、「ヒポコンデリー」(心気症、憂鬱症)という魂の状態を表す術語を用いて、「下腹部の強張り」といった現代の唯物論的に聞こえる症状の意味に結びつけたのには理由がある。 古代人は、ヒポコンデリーが錯乱(意識障害)にまで至った場合でも、下腹部の症状のなかに、魂の状態を探求した。ただし勿論、いわゆる物質を、霊とみなせる状態にまで探求する必要があるのは言うまでもない。 今日の唯物論が、カトリック的な苦役の(排他的で、教条主義的な)性質をもつ思考を受け継いでいることで、実際、途方もない損害を被っている。この苦役的思考から、人間は、自然を侮蔑し、自然の侮蔑を通じて、精神的な勝利を得ようとした。 (自然を見下すことで、優越感に浸ろうとした。自然の背後の神々の働きを無視する。) 今日の世界観は、この苦役的な思考から獲得されてきた観点であり、この観点では、下腹部で生じる魂の営みなどは、物質とは全く何の関わりもなく問題外で、注意を払う必要はない、と考えるのを好む。しかし、実際、このような世界観は間違っている。 ヒポコンデリーのような疾患の内部には、霊(精神)が作用しているから、内部の霊(精神)の作用を知る必要がある。人体組織のなかで作用する霊を、外界のなかで作用する霊と結びつけると、内の霊と外の霊が共作用(共鳴)する。だから、現代人は、自然を侮蔑することをやめるべきである。 まさに、自然全体を再び霊化して眼前に思い描くことに到達しなければならない。というのも、現代は、唯物論の最盛期なのに、いわゆる精神病といわれる異常な状態にある人間に、心理学に類する術云々を用いて、ありとあらゆる催眠や暗示で働きかけようとする欲求が現われくるのは、何とも奇妙で、重大な医学的思考改革が必要に思われるからである。 一見、物質とはおよそ、かけ離れているように見える心理学的な事柄が、唯物論の時代に登場してくることで、水銀、アンチモン、金、銀等の霊的性質に関する真の探求の可能性が逆に失われてしまう。本質は、物質の持つ霊的な性質についての探求の可能性が失われてしまったことにある。 それ故に、多くの人は、精神分析において、心理学などを扱うのと同じように、霊自体を扱おうとし、霊自体を管理しようとする。だから、物質の霊的な特性についての健全な(霊的な)直観を再び広めなくてはならない。 外界の物質のなかの霊性に対する信仰を保持し続けることが、19世紀を通じて、ホメオパシー(同症療法)という伝統医療のなかに再び浮かびあがってきたのは、少なからぬ1つの功績といえる。霊性に対する信仰が、再び、伝統医療のなかで、甦ってきたことは、非常に重要な出来事といえる。 なぜなら、外的なアロパシー(逆症療法)的な医学では、残念ながら益々次第に、人間の外の自然のなかにある物質や、その外的な作用だけに関わるべきである、という信仰に向かっているからである。 だから、ホメオパシー(同症療法)的な伝統医学を学べば、いわゆる肉体上の病気の診断の際には、魂の状態に注意を向け、逆に、魂に異常な状態が強く現われるときには、肉体的な損傷部位を探す、という方向性に通じていく。 また、肉体上の病気の場合には、この病気に罹った人が、どのような気質なのか、という疑問が生じてこなければおかしい。 例えば、病気に罹っている人が、ヒポコンデリー的な性質(憂鬱質)であるなら、(物質体優位の関係をもつので)、当人の下部組織に強く働きかけるように、希釈度の低い物質的な薬剤で処方するように導かれる。 シュタイナーの4つの気質 http://www2.u-netsurf.ne.jp/~kazumixx/steiner-19.htm また、患者が、利発な精神の胆汁質か、多血質である場合、高い希釈度(薄い濃度)での処置を頼みとすることが最初から必要になることもわかる。要するに今度は、肉体上の病気に対して、魂の状態を明らかにすべきことがわかる。 (胆汁質は、自我が強く、多血質は、アストラル体が強いので、非物質的処置が必要となる。) 魂の状態は、子どもの場合でも、既にある形で現われてくるが、粘液質への傾向を示さず、後の年齢になってはじめて現われる粘液質の本質的な萌芽が、たとえ控え目でも、ある程度明確に、子どものなかに見て取れなければ、統合失調症(デメンティア・プラエコクス)は簡単には発病しない。 (粘液質は、エーテル体が強いので、エーテル体の養育期の7歳~14歳に教育がよくないと、後の人生にエーテル体の変異としての症状、例えば、統合失調症などが出る。逆に、粘液質でなければ、エーテル体はそれほど強くないので、エーテル体の変異は抑えられるから、統合失調症などがでない。) しかし、内的に能動性か、内的に受動性か、という区別は特に重要である。この区別を常に考慮すべきである。例えば、いわゆる心理学療法において、暗示などを用いて働きかければ、被験者を、別の人間(実験者)の影響下に置くことになり、被験者の能動性を阻んでしまう。 そして、この能動性の阻害、人間の内的なイニシアティヴ(自由意志)を阻むことで、既にもう、当人の人生に重要な影響をもたらしてしまう。この事については次回以降に述べる。
2012年07月19日
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さて、一見、これまでの話とは関係のないように見える話をつけ加える。その話は、食養生の問題と呼べる話である。このような食養生の問題は、医学上の意味を持つだけでなく、社会的な意味も持つので重要である。 例えば、マズダナン食餌療法[Mazdaznan-Diaet]などの特殊な食養生法に、正当な意味があるか、というような問題を、大いに議論できる。 マズダナン食餌療法[Mazdaznan-Diaet] マズダナン食餌療法は、1900年ごろA. Hanischによって創始され、ゾロアスターの教えに基づく生活様式運動。 盛んな議論から、養生法を勧められるままに行うと、実践者を非社会的な存在にしてしまうことが問題となる。実際に、社会上の問題と、医学上の問題とが衝突する。 栄養摂取に関して、特別な食餌をとるように指示されることが多いほど、外の世間の影響全般に対して、非社会的な存在になってしまう。 キリストの最後の晩餐の意味は、キリストが弟子たち全員に特別な食餌を与えたことにあるのではなく、全員に同じ食餌を与えたことにある。飲食を共にすることには、大きな社会的意味がある。 (日本では、皆で揃って食べる風習がある。この間、日体大の集団行動をTVでみたが、共同で衣食住を行い、訓練していたのが印象深く残っている。) 食餌療法によって、健全な社会性を妨げる結果にならないように、やはり幾らか慎重に扱う必要がある。また、人間というものは、放置しておくと、意識だけでなく、器官の作用に関しても、可能な限りのあらゆる食欲や食欲不振を生じさせてしまうことになる。 日常の食事、つまり栄養摂取だけの意味で、食欲や食欲不振を捉えるのは、それほど重要ではない。 主観的な食欲の意味ではなく、人体の組織構成の意味で、本質的に耐え難い食餌に耐えることを学ぶようになり、食欲不振を克服したなら、広義の意味で、つまり、器官組織の構築の意味で、食欲不振の原因となる食物(食べたくないもの)を、長い間、食べないでおくよりは、食べる方が、多くの健全さを獲得する。 破壊された物質的機能、もしくはエーテルを見れば、新しいとも思える器官修復は、食欲不振を克服することで行われる。まさしく、単なる比喩ではなく、実際、器官修復は、食欲不振の克服にある。 つまり、器官形成力は、他ならぬ食欲不振を克服することにある。 逆に、今度は、限度を超えて食することで、食欲の虜になれば、もはや器官の機能を果たさなくなり、器官を肥大させ、機能を退化させ、人体組織を害することになる。そこで、その食物を遠ざけることで回避しようとすると、その食物への抵抗力を失ってしまい、食したときに、かえって人体機構を害することになる。 逆に、食物不振の対象となっている食物に、徐々に慣らしていくなら、人体機構は強化される。 (免疫作用と同じ。) この点に関して、現代の自然科学は、ほとんど全てを覆い隠してしまった。というのも、自然科学が基本にする「生存競争や自然淘汰」といった外界の原理は、実際、全く表面的なものだからである。ルクスは、この原理を更に人体の器官に転用した。 Wilhelm Roux 1850~1924 ドイツの解剖学者、生理学者。1895~1921ハレ大学教授。主要著書:「生体組織における各部の闘い」(ライプツィヒ1881) 「生体組織進化のメカニズムについて」(ウィーン 1890) 「進化のメカニズム」(ウィーン 1905) しかし、競争や自然淘汰の原理は非常に表面的なものである。このような原理は、内的に起こっている本質を真に観察してはじめて意味をもつ。 したがって、次のような結論に至る。 「人間の系統発生上の器官一般の進化は、反感(食欲不振)を克服することによってなされる。」 器官の発展(進化)は、反感(食欲不振)の克服の結果としてもたらされ、他方、現存する器官形成は、食事に対する共感の虜になることでもたらされ、食欲は、ある均衡点を超えてはならない。食事への共感と反感は、舌の上の味覚、もしくは眼のなかの視覚だけにあるのではなく、人体組織全体に影響している。 どの器官も共感と反感をもっている。ある器官は、共感を超える特定の状態から、器官の構築の素になった食物に対して反感を持つ。つまり、器官は、自身が持つ反感のおかげで、構築され、完成に至る。 外界からの作用に、人体内が抵抗し、反感のなかに自身を放出し、組織化することで、人体機構の完成へと進む事実を考慮するなら、系統発生学的な進化を発見できる。人体組織内での生存競争に良く耐え、器官がもつ内的な反感を克服する代わりに、器官の発展(進化)能力を持てるようになる。 この事実の考察から、薬の投与量に対する拠り所が得られる。器官の形成過程(プロセス)のなかに、共感と反感の間を継続的に揺れ動く平衡状態を洞察できる。器官の発生は本質的に、共感と反感の形成と同時に共感と反感との間の相互活動に関わっている。 以上が、人体における共感と反感の関係だが、希釈の程度が低い状態、いわゆる本質的に、物質として投与する場合と、高い希釈量で用いる場合の間にも、同様の関係がある。人体のなかでは、高い希釈は、低い希釈とは逆に作用する。 人体内での希釈度は組織化の作用とも関係する。ある意味、このことから、以前、別の観点から暗示した関係(子どものときのよくない教育が、晩年の統合失調症を起こす)もまた正しいことがわかる。 つまり、人生の初期の、人体組織に対する特定の形での作用は、後の人生では逆に作用し、前半期の人体での作用が、後半期に逆転する。 このような事実が根底となり、以前述べたように、統合失調症(デメンティア・プラエコクス)や、魂の絶縁状態などが生じ、この魂の絶縁状態は、後の年齢になって、作用すべきではない人体機構に、作用するようになる。
2012年07月18日
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片野優+須貝典子著の「こんなにちがうヨーロッパ各国気質」という本は非常に面白い。日本のマスコミが使う「世界情報」の嘘がわかる。 例えば、馬鹿菅総理のときに、「日本のように、総理がコロコロ変わるのは、世界の恥である。」というような情報がマスコミから、流されたが、ベルギーでは、2010年から17ヶ月間無政府状態が続き、ギネス記録をつくった。 ベルギーには、EU本部やNATO本部があり、ヨーロッパの首都と呼ばれるそうだから、日本の総理云々は、ベルギーの無政府状態のギネス記録以下で、「日本の総理がコロコロ変わろうが、世界の恥」にすらもならないことがわかる。 日本の総理がコロコロ変わるなんて、世界は屁とも思っちゃいない。日本の自意識過剰報道というか、そのような情報を流すほうが、恥ずかしいばかりか、コロコロかわってギネス記録をつくった方がまだ、日本の認知力を高めるかもしれない。 面白いことに、そのギネス記録で、世界最古の国とされているのが日本だという。この記録から、総理など国体の糞にもならないことがわかる。天皇制さえ継承されれば、日本は最古の国という記録を続けられるのだ。 このようなことから、「総理コロコロ」というような情報を流した知性の低さがわかる。 さて、最近、増税に際して流される情報が、日本の財政赤字が酷いというものである。日本の一般会計が多額の赤字を抱えているというのであるが、ルクセンブルグの方が日本を遥かに超えていることが、この本からわかる。 ルクセンブルグの対外責務は、07年で1兆870億ドルで、人口で割ると一人あたま2億円程度の借金になり、しかも外国からの借金だから、ギリシャどころの話ではないのだが、欧州の銀行の匙加減のせいか、ギリシャばかりが問題視されているのも不思議ではある。 ちなみに日本は、一人あたり約660万円で、それも国内で賄われているので、国民が政府に貸していることになる。外国への借金という意味で、人口で割って国民の借金としているわけだから、マスコミの流す情報は、全くの嘘である。 対外責務という視点でみれば、対GDP比較で、小国を除き、アイルランドが近年ダントツのトップで、約1000%、スイス、イギリスが約400%と続き、以下オランダ、ベルギーと続く。ルクセンブルグは20倍なので、約2000%。 日本はといえば、ほとんどが国内の国債で賄われているので、問題にすらもならない。問題だというのなら、そもそも赤字国債発行額を抑えないといけないが、民主党になってから、逆に発行額が増加しているのだから、嘘つきの詐欺師だ! つまり、海外からすれば、対外責務が普通なので、日本は借金のない国なので、もっと金を貸してくれということになるわけだが、日本が金をかせば、日本は円高になるので、益々、返せなくなることを理解していない。 対外責務総額でいえば、米国がダントツの13兆ドル(1ドル百円なら、1300兆円)で、日本の特別会計を除いた一般会計1000兆円の赤字を遥かに超える。特別会計を加えると、日本は大体300兆円の借金といわれている。特別会計を財務省が公表しないのは、国民から増税できなくなるからである。 以下、イギリス9兆ドル、ドイツ5兆ドルで、いずれも日本(恐らく3兆ドルで、しかもほとんどが国内で賄われている)よりも財政状況は悪いように考えられる。 各国は自国の通貨を増刷することで、借金返済になるにはなるが、通貨レートが変わってしまうので、増刷しない紙幣の価値が高まるわけだ。 日本の借金が、国内だけで済むのは、日本国民の高い貯蓄率を基準にしている。もし、日本人が貯蓄しなくなったら、海外と同じように国債が売れなくなり、財政破綻問題が深刻化するだろう。 だから、日本の一般会計の赤字などは、海外の財政問題と比べれば屁でもない。 つまり、日本の政府は、海外で金持ち顔をするために、国内では、日本の財政は深刻なのですよ!と吹き込んでいるわけで、日本人は真にうけてしまい、せっせと貯蓄に資金を回すので、益々不景気になっていくわけで、海外で金持ち面して、贅沢するのは政府や役人と癒着した財界守銭奴ばかりなのである。 それは政府や役人が頻繁に贅沢な外遊をすることでわかるし、海外旅行をすれば、日本のODAでつくられた建築物に出くわすことでわかるはずである。 日本人はウサギ小屋に住み、政府や役人が贅沢な暮らしをして、海外に金を、ばら蒔いている構造が浮かびあがってくるから、海外の日本人への印象は、日本人は金持ちで、他人の苦しみも知らない、ムカつく奴だということになる。 一般の日本人がウサギ小屋に暮らしていることを理解すれば、嫌な奴は、日本の政府や役人たちだけであることが少しは理解され、打ち解けられるだろう。そういう意味で、東日本震災は、海外に一般の日本人のよい印象を与えたものと思われる。 つまり、贅沢をしている金持ち日本人は、日本人の一部で恥部でしかないということを声高に海外に発信していくべきだろう。 要するに、日本の政府と役人が海外で金持ちにみられセレブのような待遇をされたいから、増税していることになるのである。しかし、こやつらは、死後、地獄におとされること、自ら進んで地獄に行くことを理解できないだろう。多くの人の犠牲の上に、連中の待遇が築かれていることさえ理解できないアホだからである。 いっそ、日本政府は破綻させて、このような、お気楽な連中を一掃すべきかもしれない。国民の生活の苦しさなど関係なく、自分の名誉だけで頭一杯なのだ。だから昨今天変地異が増加しているのかもしれない。
2012年07月14日
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「けっこう笑えるイギリス人」という本を題材に、好き勝手な私見を書き連ねてきたが、そのことによって、日本のマスコミの海外情報に、いかに嘘が多いかということに気づかされた! 日本では、一言で「イギリス(英国)では」という形で情報が蔓延するが、多くは、イングランドであることがあまりにも多い。それだけでは確かに嘘にはあたらないが、誤解をもたらすことは確かだろう。 例えば、国際感覚を身に着けるには、英語が必須であるといわれるが、英語というと、一般的にイギリス語のことになるが、日本のいう国際感覚は、アメリカ語、つまり米語の意味で言っている方が多い。 しかも、「ネイティヴ」という訳のわからない発音が米語の学習に奨励されているというのだから、益々、話がややこしくなる。 米語の「ネイティヴ」って何?って感じだ それは日本人が思う、現地人の発音というイメージでしかないわけだ。 例えば、逆に、日本語のネイティヴというのは、具体的にどういうことなのだろうか、綺麗な標準語を話すことか? それとも、流行の若者の言葉のことか? 地方の訛りのことか? 私の知人に帰国子女がいるが、彼は若者なのに、綺麗な日本語を話すので、どうして馬鹿丁寧な日本語を話すのかと聞いてみたら、日本語を勉強しなおしたからだと答えた。 外国人が綺麗な日本語を話したり、日本人が忘れてしまった日本語の慣用句を使うのに驚かされることもある。 日本人の方が、日本語を本格的に勉強しないから、汚い日本語が蔓延してしまっている。綺麗に聞こえるというのは、魂のなかに日本人が過去に継承してきた日本語の音階が表現されているからだろう。若者特有の流行言葉が、雑音のように聞こえるのは、日本語の過去の音階にないからだ! 芸能でも、伝統芸能の心情、つまり日本人の心を表現できていれば、一発屋にならなくてもすむ。 英語を現地人のように巧みに話すことを、「ネイティヴ」といっているようだが、それなら、行く地域地域で、現地の訛りを取り入れて話さないと真のネイティヴとはいえないだろう。つまり、相手の魂のなかの心と一体にならないといけない。 例えば、アフリカ系アメリカ人が独特のヒップホップを作り出したのは、魂の記憶にあるからだ。伝統芸能なのである。だから、アジア人にはマネできない。日本酒を赤くしてもワインにならない。 このような意味を考えずに、日本人は、さも、金科玉条のような「ネイティヴ英語」があると思っていて(正確にいえば、思わされていて)、それさえ学べば、世界のどこに行っても通用するかのような、英会話学校の商業主義、つまり誇大広告に踊らされているだけなのだ! この曖昧で漠然とした感覚を利用され、洗脳されていること自体が、いかにも日本人の英語力のなさを表しているように思える。海外で流行っている表現を真似ても中身がないから、かえって馬鹿にされるのがオチだろう。 日本人が思うネイティヴ英語を話しても、相手は意味不明になるだけだろう。それは、以前述べたように、イギリス女性が相手の出自を尋問するかのように会話をはじめることからもわかる。 俳優の三船敏郎がハリウッドで観衆の前で英語で挨拶したら、意外と流暢な発音だったので、かえって、三船敏郎のサムライのイメージを壊してしまい、観衆はガッカリしたという。 日本人は、日本人らしい英語を話せばいい! 言語は所詮伝達ツールにすぎない。表現するべき個性がなければ、仮にネイティヴだったとしても、全く意味をなさない。 このような間違ったことを、日本のマスコミは、さも、海外の情報だとして日本国内に流すことが多々ある。 さて、「けっこう笑えるイギリス人」よりも、「こんなにちがうヨーロッパ各国気質」という片野優+須貝典子著の本の方が、非常に面白い。 この本を読むと、日本のマスコミの多くの嘘が明らかになる。 英語の問題と同じように、よくマスコミは、馬鹿の1つ覚えのように「海外(世界)では」という決まり文句の情報を流すことがある。その多くは、御用学者の発言か、官僚の洗脳情報かだが、誰も間違いを指摘しようとしない。 日本で、「海外(世界)では」という場合、その多くが、アメリカのエスタブリッシュメントを想定して言っているようである。 しかも、アメリカのエスタブリッシュメントが本当に言っているかどうかの確証はなく、主に、官僚や御用学者が、想定して思っているだけで、言っていることが多い。外務省の官僚が考えているだけのことが多い。 「そのことは、あなただけの考えではないのか?」と誰かがツッコミを入れてほしいと思うようなことがよくある。 少なくとも、憲法上の国民主権の原則からいえば、日本国民を想定せずに、他国のアメリカのエスタブリッシュメントを想定するのは全くの憲法違反の発言でもある。 これでは、まるで、「将軍様は」、「天皇陛下は」というような権威を利用して、自分の考えを正当化し、反論を認めない単なる言論弾圧にすぎない。 このような発言を聞くたびに、日本人をやめたくなる。
2012年07月14日
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さて、「けっこう笑えるイギリス人」を題材に、私見を独断と偏見で書き込んできたが、そろそろ終わりにしたい。 この本の最後は、イギリス人と日本人の比較というよりも、日本女性の著者自身と日本男性の比較という意味あいの方が強くなる。表向きは、死生観の比較だが、それにしては、宗教的な意味でも、日本の歴史をあまり勉強しているようには思えなかった。 それは、なぜ、日本人が純血を尊び、日本は男系社会なのか、という著者の疑問を、イギリスの王室の女帝を題材に、否定しているところにある。 このブログにも書いたが、日本社会が純血に拘るのは、表面的な意味では、天皇制の神道にあることはいうまでもないだろう。 GHQに押し付けられたといわれている日本国憲法にも、天皇は国民統合の象徴とあるように、天皇制が純血を尊び、男系社会の継承の上で成立しているのだから、日本人が純血を尊び、日本が男系社会なのは、もはや日本文化なのであり、そのような疑問をもつこと自体、意味不明で、著者は、もはや精神的に、日本人ではないといえるだろう。 魚が、水を否定するようなものである。 百歩譲って、イギリスの王室が、事実上外国人の血の混血体だからといって、日本国も混血体のほうがいいというのは無茶苦茶な発想であろう。むしろ、日本のような独特の純血社会が世界に1つぐらいあってもよいではないか? この本の最後に書いてあるように、現在のイギリスは、もはやほとんど外資に乗っ取られ、税金逃れのために、海外に出るイギリス人の顛末が書かれている。イギリス人には帰るところがないので、絶えず奪い取るしかない。だから、財産も何も子孫に遺すものはない。あるのは物質欲ばかりというさながらブラックジョークのようである。 この本の、この部分は唯一笑えた! イソップ物語の、アリとキリギリスのキリギリスを思わせる。 奪い取ったものを、与えてやればいいのに、自分で使い切ろうとする、最後まで浅ましさが残る。後先を考えず、今だけしか考えない、このような気質に資本主義を感じざるを得ない。 イングランド人のやることなすことは略奪ばかりで、王の離婚が問題でキリスト教のパクリの国教会をつくり、宗教まで略奪してしまう。 略奪すれば、略奪されるのは、宇宙の法則である。 宗教を奪えば、死生観もなくなってしまうのは当たり前である。死後など考える余裕もなくなる。それなら、まだ無宗教を公言するほうがマシだろう。 物欲は、日本では、古来、鬼と呼ばれてきたので、イングランド人は、昔の日本人には鬼にみえただろう。冷酷な青鬼と、攻撃的な赤鬼にみえたことだろう。 だから、イングランド人が物欲が旺盛で、宗教心に乏しいのは、混血のせいに思えてくる。イングランド人が宗教心に乏しいのは、表面的にいって、実際、イギリス国教会は、07年時点で約110万人で、日本のキリスト教徒は100万人でほぼ同数なことからわかる。 もし、イングランド人が、日本人は無宗教だと批判したなら、この数字を出せばよいだろう。仏教や神道を含めれば、イングランド人よりは遥かに信仰深い。 このブログにも書いたが、人類は、混血することで、霊能力を失い、覚醒意識を高め、物欲に走ってきたわけで、だから現在のイギリスはその証拠ともいえるのだ。 勿論、混血が悪いのではなく、それも進化に違いないが、物欲を抑えることが重要となる。イングランド人は、何のために奪い取るのか、多くの人に与えるのなら、奪い取ってもよいだろうが、自分だけのために奪い取るのなら、現在の高給取りの地獄行きの資本家連中のようなのでは、死生観がなきに等しいから、自分が地獄に行くことすら理解できない。 だから、略奪が本能のイングランド人は、高級な家をもち、贅沢な暮らしに憧れるという。海賊が晩年に安住の地を求めるのに似ている。対して、日本人は、物欲は、ほどほどにという意識が働く。今暮らしている土地に感謝をするのが普通である。 横並び意識が、物欲の抑制に一役買っている。 だから、日本よりも、物欲からくる、現代のイングランドの宗教心の乏しさに問題がある。 神を超える物欲を主体とした優越意識を一度もつと手がつけられなくなる。イギリス人のギャンブル好きがそのことを表している。だから、外国人からなる混血の王室を基にする階級制度で、制限するしかないのだろう。 このことは、イギリスに渡って、優越意識をもつイングランド病に感染し帰ってくる帰国子女の西欧被れによく見られる。昔の京都も似たようなものだから、徳川家康は、京都から離れた江戸に幕府を開いたのだろう。 勿論、現代の日本の大きな問題は、弱者に対する労わりのなさや、間違った宗教教団が沢山存在し、宗教が金儲けにつながっていることなどがある。 いずれにしろ、物欲に囚われることは、自分自身が低俗化することになり、金持ちは天国にはいけないと、キリストがいったように、地獄に堕ちることになるだろう。 地獄に行く金持ちの言うことなどに惑わされることはない。どちらがキリストの教えを実践しているのかで考えればよい。 その土地には、その土地の神々がいて、その土地の生き方がある。その証拠に、イギリスから、アメリカに渡ったアメリカ人の方が、イギリス人よりも宗教心が強いのは、アメリカの土地にはまた別の神がいて、別の生き方があるからだ。 郷に入れば郷に従え! 略奪者は略奪の報いを受けるだろう。 そろそろ終わりにしたいと思うのだが、この著者のイギリス贔屓からくる日本男性の美学の否定には少々ウンザリした! 端的にいって、日本がグローバル化していないという批判である。 冗談はヨシコさんといいたい。日本の世界機関への拠出金を調べれば、必ず上位にランクされ、米国につぐ第2位が普通である。周辺国なのに、EUを見捨てたイギリスなどとは、少なくとも明らかに態度が異なる。 イギリスはギリシャが離脱し、EUが混乱した方が、自国の立場が重要視されるので、せっせとドラクマ紙幣を刷らせているという噂もある位なのだ。なんという底意地の悪さだろう。 世界機関への日本の拠出金は、日本の労働からくる税金であるから、日本男性の働きでもある。勿論、女性の働きも認めるが、少ない賃金を家庭のために小遣いを削って小言をいわずに我慢する日本男性の忍耐力を感じ取れないのだろう。 西欧風に表現できない日本男性にも責任の一端はあるだろう。IMFの某役員なんか、自分は税金も払わずに、ギリシャ国民を税金逃れと馬鹿にして問題になったばかりだ! イングランド人は借金して別荘を買い、税金逃れをして、しかも充分な休暇をとる。確かに表面上は優雅でいかにも威勢がよくみえるが、道徳的にみてどうだろうか? 自分が優雅な暮らしをするために仕事をするのと、社会のモラルを守り、貧困をなくすために仕事をするのと、どっちが素晴らしいのだろうか? 無口な日本男性の良さを理解するのは確かに困難だろう。 わかってもらえるためにやっているのではないのが日本男性の心意気で、いずれわかればいいと思ってしまう! 善行は他人に語らず。 忍耐力をある程度つけたら自然とわかるはずだ。日本男性が無口なのは善行を語るのは恥ずかしいからなのだ。キリストの教えを忠実に守っている。
2012年07月13日
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長々と「けっこう笑えるイギリス人」という本をネタに、イギリスの国民性から、資本主義の終焉を感じるという題で、私見を書き連ねてきた。かなり脱線して進めてきたので、ここらへんで的を絞っておきたい。 イギリス人をいわば鏡にして、日本人を改めて考えてみた。 改めて考えてみると、対照的に、イギリス人は、「自分は他とは違う」という優越意識をもち、日本人は、「他によくみられたい」という横並び意識をもっていることがわかる。 イギリス人のなかでも、特にイングランド人が、優越意識をもち、他とは違うことに価値観を見出し、それが個性につながっている。要するに略奪を正当化するツールのようなものに思える。優越意識は、連中のプライドを刺激し、くすぐるのである。だから、変わり者も自然に多くなる。 イングランド人は、日本人でいうなら、京都人に近い感覚をもっているようにみえる。京都人は、プライドが高く、他人の秘密を探るのが好きだから、イングランド人の詮索好きと被るところがある。 京都人も、イングランド人も皮肉をいうのが得意で、決して本音を明かさないところで共通しているようだ。要するにお高くとまっている状態を好む連中に思えばわかりやすい。 京都人は、他人の欠点やあら探しを密かにして、自分が上位にいることを確認し、それに誇りと優越意識をもつところがある。是非、京都人とイングランド人のプライド対決をさせてみたいものだ。 だから、京都人もイングランド人も会話は相手の腹の探りあいとなる。京都弁が洗練されていて、嫌味に聞こえないのは、尋問に聞こえないようにカモフラーシュしているようにも思える。だから、プライベートなことをあからさまに聞いてきても違和感を感じさせないどころか、愛嬌さえ感じるのが京都弁である。だから京都弁の褒め言葉は怖い。 この本にも、イングランド人女性の会話は、相手の階級を巧みに探る尋問から始まると書かれている。会話をするのにも、階級制度が絡み、階層が違う人とは口をきかずに情報をもらさないという秘密主義なのである。イギリスがスパイ量産国なのがわかる。 対して、日本人の横並び意識は、特に名古屋人に多い気質である。考えてみれば、信長、秀吉、家康と、日本統一の基準をつくった連中は、いまでいう愛知出身で、名古屋人というわけだ。細かくいえば、家康は三河なので、名古屋とは若干逸れるが、その分辛抱強い。名古屋人の気質が日本人に伝播されたと考えるとわかりやすいが、流石に、名古屋弁を伝播するのは朝廷が黙っていなかったのだろう。 しかし、名古屋人の横並び意識は、日本全体に大体くまなく浸透している。横並び意識というと、目立たない、出る杭は打たれる、というのが代表だが、これは、徳川幕府による、お家取り潰しを各藩が異様に恐れた弊害から生まれたものだろう。 また、特に女性が奥に隠れるというのは、女たらしの秀吉の女狩りにあるのではないか、とも思う。秀吉は、家臣の妻でさえ、気に入ると離縁させて、妾にした。だから、自然、権力者に対する用心、気配りが定着したような感じがする。 昔の日本女性の役割は、子孫繁栄の意味が大きかった。これが後の西洋文化のレディーファーストを輸入しなかった理由につながっている可能性が高い。それを逆手にとり、女性の地位を上げたのが春日野局の大奥である。 面白いことに、名古屋人の気質を調べると、日本人が海外からよくいわれる性質とほぼ一致している。横並び意識はその代表例だが、閉鎖的で、ケチで、貯蓄好きで、実益主義で借金をしない。外見をあまり気にしない割りには見栄っ張りで、ブランド好き、古風な考えからなかなか抜け出せないなど、一致点が多い。それでいて、他人にはよく思われたいなどは、名古屋人そのものといえるだろう(名古屋人を敵にまわす発言かも?) 横並び意識といえば大阪人も有名で、名古屋人と大阪人は、ケチで有名である。名古屋人と大阪人のケチの違いは、いかに高い買い物をしたかの自慢が名古屋人で、いかに安い買い物をしたかの自慢が大阪人だという。つまり、高価な買い物のための日頃のケチが名古屋人で、買う金さえも惜しむのが大阪人のケチという違いのようである。 だから、物欲のケチが名古屋人で、金銭欲のケチが大阪人ということになる。 イギリス人でいえば、イングランド人からケチと評されるスコットランド人に近いといえる。イングランド人は、借金に罪悪感がなく、平気でするようである。そもそも略奪的性格なので、借り物という意識に乏しいのだろう。だから、スコットランド人の方が健全で、イングランド人の方が異常なのかもしれない。スコットランド人をケチと罵ることで、借金の罪意識を清算しているのかもしれない。 イギリス人の多くは、闘争につぐ闘争で、略奪を正当化してきたので、今その罪深さを思い知っている。天文学的な報酬と待遇を得る資本家の金持ちがいるが、同時にその犠牲になっている多くの貧困層という二極化は深刻な社会問題になっている。 さて、この本の後半では、騎士道と武士道の違いを述べている。 だから、イギリスの騎士道と比較して、現代日本の武士道のなさを糾弾しているが、どちらも、歴史を学べば、ほとんどが虚飾であったことがわかる。 現に、勝海舟は、武士道は、平和な江戸期にできたもので、戦国期にはなかったといっているし、イギリスの騎士道は、アーサー王のことで、いわば伝説で、実際は、テンプル騎士団のことで、聖杯伝説を調べれば、スコットランドやアイルランドならともかく、イングランド人とのつながりには乏しい。 しかし、ことレディーファーストや弱者救済、自然保護などに対しては、現代イギリス人のなかに、騎士道精神の名残がみられることは確かなのだろう。しかし、同時に、略奪を正当化する海賊の精神も共存している。 この本の後半で、著者も、イギリス人を、紳士、表紳士と裏海賊、海賊と3つのタイプに分類している。 これまで述べてきたイギリス人の気質と比較して、以下に、現代の日本の課題を挙げてみると、 現代の日本人には、総じて慈悲心が欠けているようにみえる。特に、日本の支配層に顕著にみられる。子どものときの躾がよくないと考えられる。 京都人を除き、日本人の多くは、イングランド人とは、正反対の気質にあるが、アイルランド人とはわりと似たような境遇にあるので、親近感をもつ可能性がある。 日本の教育に、躾を取り入れるべきで、特に弱いものをいじめない教育を徹底すべきだろう。薩摩の郷中教育や、会津の什の掟などが有名である。 若者には反論の機会を与え、独創的な議論の工夫をおこなわせるべきであろう。
2012年07月12日
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表題は「けっこう笑えるイギリス人」なのにも関わらず、この本の後半は、私には全く笑えなかったどころか、嫌悪感がかなりこみ上げてきた。 イギリスを山車にして、日本人を罵っているように聞こえたからである。 自国の文化を批判された場合、西欧の論理では、アンチテーゼを主張するのが一般的である。つまり、異なる意見の主張が必要なのである。 だから、西欧の論理に従って、日本人の問題点も認めながら、その利点を強調する切り替えしが必要となる。日本人の多くは、西欧の論理に従うのではなく、日本独特の文化、建前と本音の使い分けで弁護しようとするから、話は平行線に終始してしまうのだろう。 相手の価値観をぶつけられたときに、違う価値観をそのままぶつけても、話は進まない。それでは自己弁護に終始してしまうので、結局、西欧の論理では、相手の価値観を半ば認めていることになる。 虎穴に入らずんば虎子を得ず 日本の外交が弱いのは、この西欧の論理を理解していないばかりか、議論を楽しむ習慣に欠けているせいにも思える。 相手の論理に従いながら、切り返すことは、議論の創造性を高めることにつながる。意外な返答から、お互いを認め合うことだってある。 切り返しもなく、言い訳だけで、黙っているのも同然なので、不可思議な存在と思われるのだろう。本音は全く逆なのに、切り替えしの仕方を知らないので、無表情にならざるを得なくなり、結局、日本の立場を理解してもらうしかないと、海外では、子どものように扱われてしまうわけだ。 相手の価値観の理解なしに、勝手に、相手が、自分たちの価値観を理解することなど有り得ない。 この本の中盤以降は、このような日本人の個性のなさ、独創性のなさを嫌というほど挙げつらえている。 著書の意を、私流にまとめると、日本人は、人が良過ぎて、あえて反論やアンチテーゼをあげる教育を受けていない、ということに要約できる。大胆さに欠けるという。東洋哲学でいう胆力や胆識に欠ける。 例えば、商売においても、多くの日本人は、品物を高額な言い値で買ってしまう。売る側がかなり吹っかけても、お構いなしである。買わない方がまだマシな位だ。 交渉の場において、議論を楽しむというユトリに乏しいようにみえる。だから、日本人が英語をいくら上手くなろうが、切り替えしができず、議論を楽しむ余裕がなければ、参加するだけ無駄だろう。だから、逆にタフな交渉者こそ、一目置かれるはずだ。 日本の教育の致命的なところは、議論を楽しむ場がほとんどないところにある。ディベートは近年増えてきたが、物まねばかりで独創性がない。日本には、禅の考案があるのに、どうして、日本文化を生かさずに、海外のを安易に真似るのだろう。つい最近流行ったサンデルなんかよりも、禅の公案の方が、日本人にあっているし、優れているのは日本人の目から一目瞭然だろう。 とにかく、この本の後半は、日本人の悪口ばかりなので、切り替えしが必要なのだが、どうしても、現代の日本がまるで統制されているかのごとく画一的なのが致命的である。現代の日本は、官僚や商業主義に洗脳されているかのようである。 それでも、あえて、この本でいうところのイギリスに対する切り替えしを見つけるとしたら、イギリスは、日本の戦国時代によく似ているところだ。勿論、実際の戦国時代ではなく、現代からみる戦国時代のような感じにみえる。 イギリス人は自国の歴史を誇るだろうが、イギリスの歴史は、戦いの歴史で、略奪の歴史である。その証拠にユニオンジャックは、イングランド、スコットランド、北アイルランドの旗のパクリからなる。ユニオンジャックという言葉自体、「略奪協会」という意味だ! イギリス人は、略奪しすぎて、自身のなかの略奪の記憶も消してしまったようである。その記憶を思いだすように、いまロンドンに、かつて略奪を受けた植民地の子孫の移民が抗議に押し寄せてきているわけなのだ! 文句をいうべきは、イギリス人の略奪した先祖にいうべきだろう。自業自得だ。 さて、イギリスといっても、ほぼ4つの国に分かれている。特に北アイルランドは、イングランドに征服された怨念から、太平洋戦争には、参加せずに、イングランドの戦艦が、日本に沈没させられたときは、大喝采だった、という話だ。 イギリスといえど、一枚岩ではなく、特にアイルランドと日本の関係は興味深い。 GHQのマッカーサーがアイルランド系移民なのは特に興味深い。アイルランドのゲール語では、「マック」は、「息子」という意味をもつそうだ。だから、マッカーサーは、マック・アーサーで、アーサーの息子という意味になる。 アーサー王の子孫ということは、マッカーサという名から、アイルランド王が、アーサー王の継承者とも受け取れる。 シュタイナーは、アイルランドにヒベルニアの神殿があったと述べているが、この息子という意味のマックは、「マーダック」からきているように思える。マーダックとは、天使長ミカエルのことで、エア神の息子とされている。 エア神は、ソフ・エア、つまり、ソフィアという言葉の語源である。ソフは、「在る、伝わる」という意味の冠詞で、だから、愛は、エア神の存在が伝わるという意味になる。 アイルランドといえば、2、3年前に、サッカーの中村俊輔選手が、セルティックというチームで活躍した。 イギリスでは、サッカー母国にも関わらず、オリンピックのサッカー代表はあまり期待されていない。それは、ワールドカップは、4カ国それぞれの出場が認められているが、オリンピックは、1カ国でしか参加できないからでもあるようだ。 つまり、スポーツにおいて、過去の略奪の代理戦争が行われているようなものである。さながら、日本のプロ野球でいう阪神巨人戦であり、サッカー代表戦でいうところの、日韓戦の韓国側の異様な熱狂ぶりや、アウェーでの中国、北朝鮮戦の熱狂ぶりなどからわかる。 イギリスの実情をみれば、日本以上に、統一されていないことがわかる。つい最近まで、アイルランドとイングランドは敵対していた位だし、イングランド人は、アイルランド人のお馬鹿さや、スコットランド人のケチをネタに冗談を放つという。 同じようなことを、日本でみつけるなら、アイルランド人を馬鹿にするイングランド人は、どこか大阪人を馬鹿にする京都人にも準えることができるし、スコットランド人のケチさと、名古屋人のケチさのどっちがケチなのか、比べてみたい気もする。
2012年07月12日
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イギリスの国民性をバイキングに求めるとなぜだか非常にわかりやすいから不思議でもある。 この本にも、サッチャー元首相はバイキングの末裔であるのが、バイキングの末裔は、老いると、指先が曲がってくるエピソードで語られている。 略奪ばかりしていると、指が曲がってくるのは、日本の、嘘ばかりつくと、口がひん曲がるという言い伝えを表しているようで面白い。 昔の日本人が、最初はポルトガル人だが、イギリス人たちを野蛮な南蛮人と呼んだのは、何より体臭の臭さにあったのではないかと思う。南蛮人たちが、日本に来た理由は、日本の貧しい家の女性を奴隷として密貿易したという話もあるくらいだ! しかしまぁ、イギリス人を一言でいうと、抜け目なさ、を感じさせる。イギリス人にも、間抜けな人は沢山いるだろうが、少なくとも善良なる紳士には思えない。 紳士の振りを抜け目なくしている、といえるかもしれない。 さて、随分と脱線しながら、この本に触れてきたが、前半の第2章は医療の違いが書かれている。 イギリスの医療は基本的に無料だが、経済的問題からコスト削減のせいで、勤労意欲に乏しい医療関係者が増加して、患者は、長い間待たされた挙句、手術がキャンセルされたりと酷い状況にあるという。著者によれば、30年前は、それでも国家の財政が良かったのか、著者の第1子の出産の対応は非常によかったという。 勿論、ある程度の金銭を出せば、それなりの医療を受けられるそうだ。つまり、無料の杜撰な医療と、有料のそれなりの医療というように、医療が二極化しているという。 つまり、貧困者と高額所得者の二極化が、医療福祉にも影響を及ぼしているわけだ! 著者は、イギリス医療の欠点しかみえていないので、日本の医療を絶賛しているが、日本の医療の問題点をみれば、どちらも同じといえるだろう。 イギリスの医療では、老人は放置されるというが、金銭がなければ、日本の医療も、老人は放置される。 とどのつまり、医療福祉に関しては、どこの国も似たような状況で、国家の経済的支援がなければ、疎かになるのは当然の成り行きといえるだろう。 純利益をあげない医療福祉が、経済的問題で真っ先にカットの対象になるのは、どの国も似たようなもので、深刻になればなるほど、政治家たちは目先のことしか考えなくなるわけだ! 医療の実情は、アメリカが非常にわかりやすい。完全に二極化している! だから、医療の比較は、国家財政の比較ともいえるが、意外なことに、ネットでイギリスの医療への財政支出を調べると、それなりに予算が割り当てられているから不思議である。問題は、医療の効率化や市場原理の導入にあるように思われる。 医療に経済を導入すれば、金儲けに走るのは当然の成り行きなので、様々な病気が生み出され、最新機械を導入したコストのかかる検査が組み入れられる。 酷い表現であえていうなら、坊主に墓代と戒名を言い値で委任するようなものである。そもそも、霊能力のない坊主に、成仏を委任する位に愚かなことはないだろう。つまり、病気に値段をつけ、セリを行うようなものなのである。だから、アメリカでは、胴元の保険屋が一人勝ちしているわけである。 つまり、個別医療という名の分極化、つまり二極化に問題があるように思える。 この二極化をなくすには、病気に罹ったら、なるべく自分で治すことを心掛けるしかない。もし、死んでも、寿命だと開き治るしかない。どんなに金銭をかけようが、人間最後には死ぬのだから。そのことに気づくのにどれだけの時間と金銭を費やすか、でしかない。 さて、この本の中盤ともいえる内容は、子育ての比較に紙面が割かれている。子育てに関しては、イギリスの子育ては、昔の日本を思い出させる。 著者は、イギリスの教育と比較して、いまの日本の教育では、自立心が育たないと断定している。多くの日本人の子の親離れ、親の子離れができていないというのだ。 自立心の育成は、何もイギリスの教育と比較する必要もなく、日本では、現代教育の問題点として、前々から指摘されてきたことである。悪しき「ゆとり教育」も確か、目的は自立心の育成にあったと思うが、あまりに自由にさせられると、子どもは先を考えずに、今だけ考え、大方、自分を甘やかしてしまうものだ。そして、社会に適応できない人間になってしまう。 要するに、躾の教育が等閑にされてから、自立心が育たなくなったことは確かである。自立心とは、大人に対する反抗からはじまるからだ! 反感からやたらめったら反抗するのは大人社会から無視されるだけで、反抗の仕方を教えてやらないといけない。簡単にいうなら、反抗の美学を表現しないといけない! その点、イギリスの教育は、確かに洗練されているようにみえる。なにしろ、イギリスには歴然とした階級差別が存在しているようなので、階級別の反抗の仕方が自然と身についているようにみえる。イギリス人の悲しいところは、階級を超えてまでの反抗がないことである。 この本にも書いてあるように、だから言論の自由だけが認められているようである。 「大人たちに、それではやりすぎだ、あまりに古すぎる。押し付けだよ!」ということを、大人の土俵(論理)にのりながら、教えるには、まずは、大人のルールを知らないといけない。 そのための教育、躾が、現代の日本からは欠けているから、自立心が育たないように思える。 すなわち、ヘーゲルの弁証法でいう正反合のアンチテーゼのやり方である。 イギリスの言論の自由や、フランス人の議論は、このヘーゲルの弁証法が根底にある。ただ反抗するのではなく、お互いを認め合うための反抗であり、そして結果的に、アウフヘーベンによる自立心を育てるためである。 昔の日本の教育の躾や礼儀には、それがあった! しかし、西欧と異なるのは、議論ではなく、行動でしめす処なのである。 話は少し変わるが、イギリスの音楽のロックンロールには、大人に対する反抗心がよく表現されていたように思える。通称ブリティシュロックは、商業主義への反発を起源としている。実際、イギリスの階級主義も、元は漠然とした中世の住み分け制度に、商業主義が台頭し、差別化されたようなものなのだそうだ。 商業主義による物質主義に対する精神主義が、イギリスの心霊主義と結びついて、どこか鬱屈した暗さを感じさせるブリティシュロックを表現している。 そのような芸術性、美術性が、日本の教育には欠けていることは確かである。 しかし、最近、集団行動や新体操をTVでみて、これからの日本の若者の反抗の美学は、このなかにあるのではないか?と思うようになった。 集団行動や、新体操によって、デモを行えたら、なんと素晴らしい反抗の美学なのではないだろうか? イギリスやアメリカと異なり、日本には、残念ながら反抗の美学がない。これは、この本の著者にいわれるまでもなく、日本の大人たちの教養のなさ、哲学のなさにあると思う。一見すると、日本人には、自分の人生を表現する芸術性に欠けているようにみえるが、アニメーションやお笑いなどをみる限り、その潜在能力の高さを確認できるが、あくまで仮想の世界であって、現実性に乏しい点で、やはり日本の大人たちの責任だろう。 可能性をもつアニメやお笑いを、日本のマスコミの下らない商業主義、物質主義は、現実性をもたせないまま、官僚のやるような自分たちの都合のよいように骨抜きにし、精神性を抜いて、奴隷にするマスコミのやり方には心底吐き気がする。この国のマスコミほど下らないものはない! それを若者は深層心理で感じるから、この国の可能性に期待感がもてないのだろう。同時に、日本の若者の未知の可能性を奪ってしまっているからだ!
2012年07月11日
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しかし、この本の前半では、日本人は綺麗好きだが、電車の席取りや通行中の譲り合いに乏しいという、現代の日本人の欠点を挙げている。 弱者をいたわることについて、特にレディーファースト等の女性に対する配慮は、イギリス人の方が徹底しているようで、この本の著者は、特に母親や老女に対して、イギリス人は非常に気をつかい、「老女タラシ」とさえ述べている 昔の日本はどうだかわからないが、江戸の作法についての本を読んだ限りでは、譲り合いの精神はあったように思える。レディーファーストに関しては、大奥を除いては、全く考慮されていなかったようだ。 では、いつから譲り合いの精神を失ったのだろうか? 幕末に、欧米文化の浸入のために、弱者が切り捨てられたことに端を発するのではないか、と思える。欧米化を競い争って生まれた論理なのではないか、とも思えるが、欧米化のなかで美徳の弱者配慮やレディファーストは輸入されなかった。 この点は、日本人の綺麗さと、イギリス人の綺麗さの美的感覚の違いにもあるように思える。 この本では、その違いを、同じ綺麗さでも、日本人は、洗う感覚、イギリス人は、磨く感覚の相違から述べている。 日本人は、例えば、食器は、必ず水に流して洗うが、イギリス人は、食器は、洗剤を含んだ水に浸すだけで、後は布で磨いて綺麗にするという。 この違いに、日本の精神と風土とイギリスの精神と風土の違いが現れている。 日本の土地では、水と新鮮な空気は、ただ同然なので、昨今はそうでもないが、水と太陽光を含む新鮮な空気は、身のまわりのものを、頻繁に洗浄可能にするが、イギリスの土地では、恐らく、水に乏しく、しかも霧で有名なロンドンの気候では、水や新鮮な空気は貴重なものとされていたのではないだろうか? 水や新鮮な空気は貴重なので、節約して使うことから、洗うというよりも、磨く感覚に重きを置くようになったように思われる。 また、なにより、日本には、「お互い水に流す」という慣用句があるように、過去の蟠りなどを綺麗サッパリとして洗い流す習慣がある。 対して、イギリス人は、流すというより磨くという精神性が強いように思われる。イギリスの歴史を遡れば、バイキングに源流があることがわかり、イギリス人同士は、血を血で洗うような抗争や、いまだに過去の怨念をひきづったりしている。 なにより、イギリスの王室が、「君臨すれど統治せず」として、昔のドイツの王様を王室に迎い入れたことから、血で血を洗う抗争ぶりが窺える。 バイキングといえば略奪の代名詞なので、イギリス人のポイ捨てに対しての無関心さや、体臭の臭さや、あまり掃除をしないことなど、略奪して済ますことに由来するように思えてならない。 欲しい物は、略奪して手に入れるから、「洗う」ことよりも、手に入れる手段を「磨く」方に重きを置いているような気がしてならない。 だから、手に入れて興味がなくなれば、ポイ捨てする。ポイ捨てを非難されようなら、身分制度を振りかざして正当化するわけだが、それでもやはりなんらかの良心の負い目を感じるので、弱者配慮を実施せざるを得ないわけで、そのためになんらかの宗教の教義を必要とするような感じに見受けられてしまう。 イギリス人のなかにも、バイキング出身でない者もいるから、その人たちの怨念を、弱者配慮しているともいえる。だから、イギリスの統治には大きな慈悲愛が必要で、そのために、女性の母性愛が象徴とされてくるのかもしれない。 バイキングの血が流れているのは、フーリガンを見れば一目瞭然である。若気の至りとはいえ、略奪に変わりはないし、この本にも書かれているが、現首相も、若いときは、万引きで荒らしたナラズ者で、上流階級だったから捕まらなかっただけで、自分に厳しかったら、刑務所に入っていたはずだったという。 このようなイギリスの背景をみれば、ジャックザリッパーが捕まらなかった理由もわかる。 略奪を、狩猟民族という建前で科学的に隠し、正当化しただけともいえる。現にアメリカは、先住民から土地を略奪し、アフリカから黒人を奴隷としてつれてきてつくった国である。 いかに正当化しようが、略奪に変わりはない。植民地政策だって、略奪の正当化である。 つまり、血で血を洗っているうちに、血で染まりきってしまったので、後は磨くしかなくなってきたのではないかと思う。 だから、イギリス人にも、日本人と同じように建前と本音があるが、本音は墓場までもっていかなければ洒落にならないから、ブラックジョークとして、ときたま、本音のような冗談を言って気を紛らわしているのだろう。 このようなイギリスを崇め奉っている日本の馬鹿馬鹿しさというか、けっこう笑えるイギリス人というよりも、日本人のどうしようもないお人好しさの方が、この本から受ける印象が遥かに深い。 というか、いまの日本をみていると、イギリスの悪いところばかりがみえてくるから不思議である。嘘つきブレアを真似た原発事故を起こした馬鹿総理とか。
2012年07月11日
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ロンドンオリンピックに絡んで、「けっこう笑えるイギリス人」という本を読んでみた。以前、イギリス人のジャーナリストの本を読んだことがあるが、それとは、好対照なのが興味深い。 好対照というのは、この本は、日本人がみたイギリス人、もしくはイギリスで、以前のものは、イギリス人がみた日本人、もしくは日本の本であるという意味である。 イギリス人のジャーナリストの本の印象は、もはや、うろ覚えでしかないが、大体、以下のようなことが記憶に残っている。 日本人は建前と本音を使い分けるというが、イギリス人にも建前と本音があり、日本人のように、仲間うちでも、本音は決して漏らさず、墓場まで持っていく。 日本で素晴らしいのは、自転車屋で、そのサービス精神に感動した。 イギリス人同士はお互い騙しあいの世界で、相手の裏をかくことが日常茶飯事なので、ジョークが尊ばれるのに比べ、日本人はあまりに素直で正直すぎる。 総じて、イギリス人からみれば、日本人はお人好しで、ナイーブというものだった。 さて、この本からみるイギリス人は、どうだろうか? その前に、日本人が大きく勘違いしていることは、一言でイギリスといっても、サッカーのナショナルチームからわかるように、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドがあり、決して、一枚岩ではないということである。 日本で、イギリスといえば、大体、イングランドのことを意味するのだろうが、その意味を、そっくりそのまま日本に置き換えるなら、北海道、東北、関東、中部、関西、中国、九州、四国、沖縄で随分と地方で気質が異なるのを、本州の気質でほぼ言い表すようなものにあたるだろう。 日本人でも、東北や沖縄の訛りがわかる者は少ないように、イギリス人同士でも同じであろう。例えば、イギリス人同士の話ではないが、イギリス人の発音、特にスコットランドの訛りは、アメリカ人が聞くと、ロシア語に聞こえるそうである。 また、私の知人のアメリカの西海岸の帰国子女は、イギリス訛りを聞くと、なぜか田舎臭く思えるようである。 つまり、人間は誰しも、生まれた土地を基準にし、優先的にみて、他の土地を排他的にみる先入観が身についているわけである。 そこで、イギリス人がみる日本やイギリスと、日本人がみる日本やイギリスの双方の共通点を抽出すれば、第3者的立場に近い見方になるのだろう。 さて、この本の前半は、日本人の礼儀正しさの賞賛から始まる。侍がアメリカを訪れたときから、日本人は、礼儀正しさに対する賞賛を受けている。戦国時代に布教にきた宣教師たちも、日本人の礼儀正しさを絶賛しているのだから、日本人の礼儀正しさは、数百年の歴史をもっているわけである。 礼儀正しさとは、いわゆる、日本人の躾のことである。 昨今は、欧米被れの日本人が増えたせいで、躾が等閑になっている。これは核家族化のせいと、表面しかみない欧米被れの馬鹿親が増えたせいだと私は思う。 躾は端的にいえば、江戸時代からの名残りで、いわゆる祖父祖母から受け継がれた家風や親族のつきあいのルールの延長で、日本人が体面を重んじるのは、家族間、親族間の結束が、江戸期の身分制度のなかで、重要だったからであろう。 開国してから、躾が有耶無耶になり、著しく悪化したことは確かだろう。 だから、いまでも、田舎ほど、躾が厳しく行われているはずである。元々、田舎(イナカ)という言葉は、「井(イ)の中(ナか)の蛙(カわず)」からきているそうで、つまり、世間知らずの我儘なアホという意味をもつ。 江戸時代では、馬鹿にされた田舎が、現代では、逆に日本文化の遺産として尊ばれるのだから、時代の価値観が180度変わったといえる。 躾がいつから始まったのかは定かではないが、鎌倉時代の武士たちが、戦場でも、正々堂々と自らを名乗って戦い、不意打ちを嫌っていたように、武士の身分を保証した朝廷の儀礼が元になっていたことが考えられる。 古来、日本では、体面を潰されれば、報復も認められてきたので、建前が重要となってきた。建前を重要にさせるのは礼儀作法なので、躾が重要となる。江戸時代でも、武士に対する無礼な振る舞いは、建前だが、切り捨て御免が認められていた。 古来からの身分制度が、建前を重んじさせ、日本の躾をつくってきたともいえる。その証拠に、四民平等以降の日本人の躾は次第に悪化していく。 つまり、日本国内が、躾に対して厳しい修練の場で、タイガーマスクでいう虎の穴だったわけで、日本国内で認められれば、外国に賞賛されて当たり前だった。 現に、現在の日本でも当たり前の行為が、海外では賞賛されている。それは、裏をかえせば、海外の礼儀作法や躾のレベルがあまりにも低いということなのである。 日本人が海外で賞賛される当たり前の行為を、この本の前半部では取り上げている。逆説的にいえば、イギリス人の精神がそれだけ堕落腐敗している、ということになるだろう。 その行為とは、多くの日本人がポイ捨てしないことや頻繁に掃除をし、風呂などに入り、総じて、綺麗好きということである。 この本の著者は、特に、小学生、中学生のうちに、学校を自らで掃除させる教育がよいと書いているが、私も同感である。 日本の教育にみられる躾の一例に思える。 子どものときは、この教育の有難さを全く実感できないが、大人になってからわかる。 イギリスやアメリカでは、専門の掃除屋さんがいて、イギリスではしかも、身分差別につながっているというから、嘘つきブレア元イギリス首相が、「教育、教育、教育」と連呼していたときに、日本の首相は、この素晴らしい日本の教育システムを教えてあげたらよかったように思う。 掃除屋さんの職を奪うのではないかという馬鹿な反論があるかもしれないが、だったら、掃除屋さんは、掃除の教育者として、生徒に教えればいい! これに似たような自己中心的な反論が出るのは、日本人のなかでも、欧米被れの連中に多い。昔の日本人は、なるべく無駄な反論をしなかったから、以心伝心が通用した。しかし同時に、以心伝心の通用しない者は、日本人とはみなされず、差別された。 贔屓目にみて昔の日本の男性が無口なのは、以心伝心で会話していたからだろう。
2012年07月10日
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続いて、割れた歯のエナメル質には養分が供給されるのか、という疑問も出てくる。 この場合、養分の供給がないことが、これまで述べたことからわかるが、また別の事実にも注目する必要がある。 人智学から探求すると、歯の形成部位やその周辺では、エーテル体が非常に活発に働き、この活動は自由で、物質的機構との結びつきは緩くなっている。 歯の周辺のエーテル体は、顎の周辺に特異的に、常に活発に動きまわるような物質的な機構を形成する。このように自由な機構は、下腹部には存在しない。 下腹部では、狭義的な意味で、エーテル体は、物質的、器官的な活動と密接に結合し、以前述べた、分娩後の女性が歯を駄目にするというような現象は、このエーテル体の働きと関係する。 エーテル体の活動が、妊娠のときのように、物質的組織から離れ、緩むと、即座に、反対の対極である歯の機構に重大な変化を引き起こす。同様に、痔疾も、物質体とエーテル体が分かれ、その機能において独自の道を歩むことに関係している。 人体の末端で起こる、エーテル体の独立は、もう一方の対極において、エーテル体を、人体の物質的機構のなかに引き入れるので、反対の作用、つまり破壊の作用と結びついてしまう。 (妊娠や、痔などで、歯の損失が生じる。) 器官的な活動が健全に高められれば、妊娠となり、病的に高められれば、病気となるが、いずれにしろ、下腹部の活動を強めると、もう一方の対極での集中的な活動として、もっぱら、歯を退化させ、破壊するような働きが起こる。この関係は非常に重要な意味をもつ。 (まるで、梃子の原理のようである。) さて、また次のような疑問が生じる。 「外的なフッ素の作用について述べてきたが、人体は非常に複雑なので、もし、その作用を充分に見極めることができない場合、フッ素作用を促進する教育が間に合わなければ、どうやって、治療すればよいのか?」 という疑問である。 手と足の共通の動作全般は、肉眼でも見えるフッ素の作用で、指や脚が柔軟に動くようになると生じてくる素質である。 フッ素の作用とは、手足等の動作の背後にあり、人体内を原子論的に想像しても捉えることができず、人体組織の表面に動作として現われ、人体内に向かって継続していく作用である。人体の表面で起こる活動が、人体内に継続していく作用が、フッ素作用なのである。 子どものときの教育が拙いのは、歯の損失だけでなく、その子が自主的に何も始められず、器用になろうとしないことからもわかる。 子どもに対する教育がよくないとき、人体に予防的に介入することが重要になってくる。トチノキの樹皮から採った水溶液(エキス)[Aeskulin auszug]を試してみるとよい。非常に薄く希釈したトチノキの樹皮を内服させると、手遅れでなければ、歯の保護や長く保つように調整的に働きかけることができる。 トチノキ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%AD (上のウイキによると、昔の日本では、主食としていた村もあったそうである。) 上記の関係は非常に興味深い。トチノキの樹皮の液のなかには、実際、歯の構築を促進する成分がある。外のマクロコスモスのなかに常在するものは、人体内では、何らかの組織化を行う性質を持つ。この関係から、トチノキの樹皮液のなかに、物質を組織化する成分(エスクリン?)が存在することがわかる。 エスクリン http://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3 http://www.chemicalbook.com/ChemicalProductProperty_JP_CB8245061.htm http://www.j-tokkyo.com/1994/A61K/JP06145035.shtml 実際、奇妙だが、トチノキの樹皮液(エスクリン)に、分光スペクトルを通すと、紫外線等が吸収される。このような吸収作用は、水溶液でないと駄目で、非常に薄く希釈して人体に取り入れれば、同様の効果が得られる。 上記のような光線に対する吸収作用(化学的作用の除去)、いわゆる鉱物化の過程を、人体に取り入れることから、結局、トチノキの樹皮液(エスクリン)の作用は、人体の歯の形成過程(プロセス)と同じであることがわかる。ただし、通常、外界で生じる化学的作用の除去は、人体内では、まだ組織化作用に浸透されている。 同様の効果は、また別の日常でみられるクロロフィル(葉緑素)を用いた処置でも実施できる。トチノキなどの植物の樹皮に見られる作用は、本質的に、クロロフィル(葉録素)のなかに、また逆の作用を形成する。 ただ、同様の効果を与えるには、クロロフィル(葉録素)を、エーテルのなかに抽出しなければならず、しかも内服ではなく、下腹部に外から擦り込む必要がある。 従って、エーテル化されたクロロフィル(葉録素)を下腹部に擦り込めば、トチノキの樹皮液(エスクリン)の内服と同様な方法で、歯の保護のために人体に働きかけることができる。これらは是非試行してみるべき処方で、統計的な成果が示されれば、重要な印象を与えるにちがいない。 歯髄全体が一端死んでしまうと、フッ素摂取に適するように、人体組織全体が変わらなくてはならない。すると、一般的な歯の治療の問題だけではすまなくなる。 さて、以上のことから、まだ歯の治療が可能な限り、歯が、人体組織の成長力と密接に関係していることがわかる。というのも、エスクリンとクロロフィルについて述べた処方が、鉱物化に向かう精妙な成長過程(プロセス)と本質的に関わる作用へと導くからである。 人間は、高次の精神へと向かう進化を、歯の形成過程(プロセス)全般により贖わざるを得ない。系統発生上からも同様である。動物の歯の形成過程(プロセス)に対し、人間の歯の形成過程(プロセス)は、退化の過程(プロセス)なのである。 しかも、人間は、この退化の過程(プロセス)という特長を、頭部の過程(プロセス)と分かち合っている。 以上、歯の形成過程(プロセス)全体の判断のために重要となり得る見方を紹介した。更にまた基礎を与える別の事項をつけ加えれば、更に幾つかの事実が判明するだろう。
2012年07月10日
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さて、前回述べた精妙な過程を考慮することで、破壊過程を防止する措置を生み出すことができる。 例えば、ヴァルドルフ学校の教育に採り入れている、多くの子どもの健全な発達を促すカルキュラムでは、子どもたちの歯が早期に損なわれるのを阻止することも計算に入れている。 シュタイナー学校ってなに? http://steiner.rakusai.org/gakko/index.html というのも、歯の末端の条件、つまり破壊過程に関しては、幼児期の正しい教育に左右されることが非常に多いからである。しかし、残念ながら、目下の現状(1920年)では、歯の形成に適した本質的な予防措置としては少々遅く、もう少し早い年齢から始めるべきである。 とは言え、歯はいっぺんに生えるのではなく、徐々に生えるので、歯の内的な経過(プロセス)は、徐々に長く作用するので、6歳か7歳になってから、子どもを預かっても、まだ若干の措置は可能だが、それでは十分とはいえない。 とはいえ、歯の破壊過程に対する予防措置は、ある形で実行できる。つまり、最初の歯(乳歯)が生えるときに、歯の形成過程(プロセス)全体の性質を、注意深く調べる必要がある。 さて、歯の形成過程(プロセス)が、既に準備されたものなら、いわば歯冠が内部から押し出されるだけで、体内では完成されているから、予防措置は困難ではないのか?という反論も当然生じる。 そのような反論は正しい。けれども、歯の形成過程(プロセス)は、単に歯の形成だけを含んでいるのではない。4歳、5歳、6歳になった子どもが、腕や手、もしくは足や脚を動かすのに不器用で、四肢を巧みに動かすことが困難な場合、歯の形成過程(プロセス)が順序正しく組み入れられていない傾向にあることは、歯の形成過程にとって重要である。 歯の形成過程(プロセス)において前面に現われてくるのと同じ現象が、腕や手、脚や足の動作に示される。従って、子どもが上手に両脚を器用に動かしながら走るように、例えば、スキップしながら走らせるなど、一方の足を常にもう一方の足に付けて走るような、巧みな走法を指導することは、歯の形成過程(プロセス)を高度に調整する働きがある。 例えば、ヴァルドルフ学校の手芸の授業をみれば、男の子も、女の子と同じように棒針編みや鉤針編みを行っているのがわかる。年長の男の子でも、夢中になって棒針編みをしている。 これは何も奇をてらったのではなく、指を器用に動かし、柔軟にすることで、魂を指のなかにまで送り込むために行なっているものである。魂を指のなかに送り込むと、特に歯の形成過程(プロセス)を促進することにもなる。 子どもを、いつも座らせ、怠惰にしておくのか、駆けずりまわるように導くのか、あるいはまた、子どもを不器用にさせるのか、器用になるように導くのかで、歯の形成過程は異なってくる。子どものときの怠惰は、後になって、勿論程度の差はあるにせよ、早期に歯の損失となって出現する。 早期の歯の損失には、個人差はあるが、出現することは確かである。従って、次のような結論に至る。 「以上のような訓練を早期に始めるほど、予防措置の側面から歯の破壊過程(プロセス)を遅らせることができる。」 歯の形成過程(プロセス)に関係する精妙な過程全てに介入することは非常に困難なので、一見かけ離れた他の部位も考慮する必要性に目を向けなければならない。 さて、恐らく、次のような疑問が生じる。 「フッ素は何を通じて人体内に摂取されるのか? 外から、エナメル質を通じてなのか? 歯髄を通じてなのか? それとも歯根の血管その他を通じてなのか?」 という疑問である。 歯 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF さて、フッ素は、人間の形成過程(プロセス)に関係し、どのような道筋を通って摂取されるのか、ということについてはそれほど重要ではなく、思い煩う必要もない。通常の栄養摂取過程(プロセス)を通じて導かれる過程(プロセス)を考慮するだけでよく、この栄養摂取過程(プロセス)において、フッ素結合を含む物質が摂取される。 だから、フッ素という物質を、歯の周辺の蓄積部位に運んでいく、通常の栄養摂取過程(プロセス)を追求すればよい。フッ素は、考えているよりも遥かに広範に分布している。フッ素の多くは、勿論、比較的多くという意味だが、様々な植物のなかに存在し、人間はほんのわずかしか用いない。 化学的に検出できなくても、特に植物のなかに、フッ素の形成過程(プロセス)が存在するのは、もう少し詳しく述べていくが、非常に注目すべき事実である。 フッ素は水中にさえも、例えば、飲料水のなかにさえ存在するので、フッ素を摂取するのに困ることは全くない。ただ、人体組織が、フッ素の摂取に関係する非常に複雑な経過(プロセス)を克服するように組織化されることは重要である。 従って、唯物論的な表現を用いるなら、以下のようになる。 「フッ素は本質的に、血管を通じて、歯の周辺の蓄積部位に輸送される。」
2012年07月06日
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唯物論を土台にしている現代科学では、実験によって物証しないと認められないことになっている。 だから、無神論になり、確率や統計学が、実験データを統合することで、神の代名詞となる。 要するに科学教(宗教)なのである。 しばしば訪問させていただいているKazumoto Iguchi's blogに挑発的な文が記載されていたので、それにならって、私も挑発的な文を書いてみたい。 ヒッグス粒子発見の話題に絡んで、素粒子理論の実証に莫大な金銭が必要なことを述べたが、だから、経済が成り立たない限りは、素粒子理論がいかに進んでも、カルト呼ばわりされるしかないわけである。 私などは、どうせカルトと呼ばれるのなら、この際、カルトを極めてやろうという反骨心に溢れている。所詮、紙と鉛筆でできるのだから、世間に全くといってよいほど経済的に迷惑をかけていないはずだ! 素粒子理論の多く、特に現象論でないフォーマルと呼ばれる基礎理論は、特にカルトにならざるを得ないわけだが、そのため、超弦理論などは、物理というよりも数学といわれるが、それならば、同様にマスコミが神聖化しているホーキングの理論なども、カルトといっていいだろう。宇宙論は、いまだに宇宙力学とは認められていないことからもわかる。 ブラックホールからくるX線が観測されたからといっても、あくまで間接的な証明にしかならない。ましてや蒸発やらワームホールなどやら、単なる数学上の遊戯にすぎず、唯物論からいえば、カルトこの上ない代物なのである。 結局、科学云々の話は、物質現象として観測されなければ、カルトなのか、という問題に帰する。 物性論は、直に、唯物論を土台にしている分だけ、マシなだけだ! といっても、少々物性論を齧れば、素粒子論のパクリともいえるほど、数学体系がよく似ていることに誰でも気がつく。カルト臭がするわけで、逆に、物性論からはじめて素粒子論を齧れば、物性論のパクリというだけにすぎない。 例えば、超伝導のBCS理論と、ヒッグス機構の対称性の自発的破れは、同じである。 同じ数学が使えるのは、人間の認識からくる知的体系が同じだからなのか、宇宙が階層構造だからなのか、の恐らくどちらかだろう。 私はあえて、人間の知的体系が同じなのは、宇宙の階層構造に由来しているといいたい。 つまり、人間の知的体系、つまり認識は、宇宙の階層構造に由来しているといいたい。それを古代人は、神と呼んできた。プラトン風にいえばイデアになる。 物性理論を代表とする物性意識の下に、素粒子理論を代表とする素粒子(場)意識があり、更にその下に、宇宙論を代表とする宇宙意識があるものと思われる。 だから、宇宙意識を、物性意識に変換して、実証すればいいわけで、その変換則が、生命のなかに隠されていると私は踏んでいる。 つまり、宇宙意識を、物性意識に変換する活動のなかに、生命が生きる証があるのではないか? だから、理論物理は、古代ギリシア哲学に回帰する必要がある、と思うわけなのだ! 古代人が、なんのために数学を生み出したのだろう? 恐らく、それは、宇宙意識の働きを記述するためだろう。だから、数学は、宇宙の出来事を記述する言語であり、人間が、数学で宇宙の現象を記述できる、ということは、宇宙意識が、脳にも伝播している証拠なのである。 だから、人間の脳には宇宙の現象が逐次届いているはずだが、それをいちいち意識化するかどうかは、個人的問題に帰される。 シュタイナーも述べているが、宇宙と脳が非常に良く似ているのは、特にニューロンの発火と銀河の輝きなどの最近の研究からも明らかになってきている。 宇宙意識が脳を目的とするのなら、素粒子(場)意識は心臓を目的とし、物性意識は手や足の四肢を目的としているのかもしれない。 そう、だから宇宙意識は、人間の各層の意識に到達することで、変換され、再び、逆にフィードバックしていく。 だとすると、人間全体で、宇宙の出来事を受け取ることが、古代ギリシア哲学が成立した真の理由で、そのために生命が躍動していることが実感できてくる。宇宙意識の呼吸が、古代ギリシア哲学により感じられてくる。
2012年07月06日
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さて、前回、取りあげた事実に基づき、この事実を扱える範囲内で、全体的に正しい光を投げかけ、実り多いものにする関連事項をいずれにしろ要約しなければならない。その取っ掛かりだけになるとしても、やらなければならない。 前回述べた事実に続き、今回は、歯の進化と退化に関していくつか述べたい。これは、健常人と病人双方に多少とも光を投げかけるのに適する主題に思われる。前回、議論したような事実を、唯物論的な意味で解釈されると錯誤に陥る。 というのも、前回のような場合、真に重要なことは、外的に生じる、歯の損失のなかに洞察できる本質は、ある内的な経過(プロセス)であって、外的な知覚からは、本質的に隠され、外的に発生する歯の損失などは、内的な経過の結果であって、その外的な徴候に他ならないからである。 歯の形成過程(全体)を根本的に理解するには、一見、歯の形成過程(プロセス)から遠く隔たっているようにみえる人体の別の経過(過程)も視野に入れていく必要がある。 よく知られている人体の現象を、歯の形成過程(プロセス)に結びつけて正しく考察することではじめて、正しい評価をくだすことができる。 例えば、若い女性が健康な歯を持っていても、妊娠して、最初の分娩を経た後、歯が駄目になる現象などである。この現象から、歯痛や歯の損失と、人体の構成全体との関連とが、徹底的に解明できる。 更に、歯に起こる現象と、痔疾[H?morrhoiden]への傾向との興味深い関係についても、考慮すべきである。 痔疾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%94 以上の関係から、人間のなかの鉱物化がどのように起こるか?が理解できる。 というのも、歯の形成は鉱物化の端的な例で、また他方で、人体全体の組織化と、鉱物化との密接な関わりや、依存関係、更には、鉱物化の対極にあるリン化(非物質化)との関わりのなかでの現われかたが理解できるからである。 歯の形成過程(プロセス)の評価に際しては、実際、次のような否定できない事実に非常に影響を受ける。 「歯の形成過程(プロセス)は、外側の、歯肉(象牙質)の外にある、歯の被さった領域(エナメル質)にまでいたる過程(プロセス)の終結において、人体が鉱物として実際に外界に委ねられる。 歯の被膜、いわゆるエナメル(ほうろう)質では、歯の形成過程がほぼ完全な形で終結し、閉じ、もはや、栄養摂取過程(プロセス)は生じずに、非器官的な性質をもち、外界の影響を受ける。」 歯 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF さて、既に前回暗示したが、歯の形成における垂直線上の上昇過程(プロセス)よりは、生涯にわたって絶えず生じる解体の過程(プロセス)のほうが重要である。 しかも、歯の外側の発達領域、つまり人体機構の末端部においては、内的な組織化がほとんど構築されないことが認められるとしても、この内的な組織化が、解体、つまり破壊過程(プロセス)に関連し、次のような疑問が、実際、遥かに重要性をもつことをやはり忘れてはならない。 「この歯の解体の傾向をどうすれば遅らせることができるか?」 というのも、この解体が、単に外的な攻撃により引き起こされると考えるなら、完全な錯誤だからである。このような錯誤に十分に注意を払う必要がある。 更に、前回、歯の形成の、フッ素の機能に関係して述べた事実が、本質的に、当然として、幼児期に関係することは重要である。幼児期においては、歯の形成過程(プロセス)が予め準備されたなかで、内から外へと進む。 というのも、第二の歯(永久歯)が生えてくる前に、歯(乳歯)の形成過程(プロセス)が、人体組織の奥深い内側の全人体組織において準備されるからである。 歯のフッ素形成過程(プロセス)は、歯の表面の物質のなかで、フッ素がある安定した平衡状態になり、フッ素が物質と結びつき、ある意味、静止状態になることで、頂点に達する。 しかし、歯が退化、いわば破壊過程(プロセス)に向かうことで、この静止状態が揺さぶられる。 ここに、歯から発して、フッ素を通じて引き起こされた形成過程(プロセス)に関わる精妙な過程(プロセス)が存在し、この精妙な過程は、人体組織全体を満たしながら、人間の全生涯のために維持され続ける過程(プロセス)である。
2012年07月05日
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つい最近、光速を超える粒子の発見がガセだったが、この時期に科学的話題が上るのは、なんとも微妙な時期にも思える。 ヒッグス粒子は、20年前から、「みつかるのはもはや時間の問題」といわれていたからである。 つまり、もはや時間の問題が、20年もかかっているのは、素粒子実験の予算が足りないことを意味している。少し勘ぐると、予算をもっと下さいとアピールし続けてきたことを意味する。 「時間の問題」といわれたのは、素粒子理論物理学の標準模型において、ある程度の確証、見通しがついたからである。 素粒子の標準模型でいう弱い力を媒介するウィークボゾンが、確か約90GeV(ギガエレクトンボルト)のエネルギーレベルにおいて、実験で高い確率で解析できたからである。 ウィークボゾンというのは、電磁波を媒介する光子が、相転移を起こして、質量をもつように至った粒子と考えられている。 この質量を与える相転移を、ヒッグス機構として理論的に解決し、それに付随して出てくる粒子が、ヒッグス粒子と予見されたのである。 ウィークボソンがみつかったのだから、ヒッグスだってもはや時間の問題だろうというわけだ。ウィークボゾンをみつけたのは、今回ヒッグス粒子で話題のCERNの加速器で行った実験からだったと思う。 時間の問題が、早20年も経っているのだから、その間の素粒子実験物理学者は世代交代が進まずに死に絶えたようにも思える。その点、理論物理屋は、紙と鉛筆だけで、予算はほとんど不要なので、数学者と同じで死に絶えることはない。 しかし、20年の歳月が過ぎて、いまだにヒッグス粒子に拘っているようでは、隔世的な化石というか、遺跡的な感じがなきにしもあらず。 それも、20年前から、若手研究者のなかでは、重力と電磁力の統一理論が盛んで、超弦理論などが流行っていたからである。 20年前から、重力の曲率の表記(計量)の時間軸に、4を使うのは、「爺表記(じじいノーテーション)と若手研究者のなかでは小馬鹿にしていた風もあった(若手は、0を使った)。 20年が長いか短いかは、各個人の時間的な価値観に委ねられるが、日常生活の時間的な価値観の多くが、経済からくることを思えば、素粒子の発見が、経済学に関係することを考える研究者がいてもよさそうに思えるが、そのような経済学者はほとんど皆無だろう。 科学実験の発見が、経済に及ぼす影響、またはその逆の影響などを、実験物理学者は考えるべきときにきているようにも思える。金融工学なんかよりも、哲学的であることは確かだろう。 だから、時間の問題ではなく、経済の問題というべきである。
2012年07月05日
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さて、人生においては、前回に述べたケースとはまた別の逆のパターンも存在する。 逆のパターンというのは、本来、青少年期にだけ、展開すべきはずの器官作用が、(後にまで)残っている場合である。主として子どもの頃と青少年期に発達すべき器官の発達の要求は、人生全体を通じて生じるが、減弱された形で生じなければならない、でないと有害な結果をもたらすからである。 例えば、多種多様な原因から、精神分析のようなものが、今日の人間の思想全体に入り込み、思考を混乱させ、誤謬に富んだ精神医学のような分野が成立している。 大きな錯誤は、即座に反駁されるので、本質的には、それほど有害ではないが、むしろ、有害なのは、わずかな真実が混じる錯誤で、そのような小さな錯誤は、極限にまで押し進められ、誤用される可能性が高い。 では、精神分析を用いた世界観の到来に際して、一体何が起こっているのか? 今日の様々に不自然な生活様式などにより、子どもの頃に、外の環境に全く適合させずに、子どもに印象(イメージ)を与える多くの経験(能力)が消化(開発)されない、ということが起こっている。 (現代の代表ともいえる過保護な教育環境のことだろう。既成物などを与えて、自分でマネて、つくりだす能力を奪ってしまう。人間がペット化してしまう。) 適切な方法で、人体組織に編入されない経験(能力)が、魂のなかに残ったままになってしまう。というのも、魂のなかの作用は、軽微でも、少なくとも、人体に対する作用として持続していくからである。 現代の子どもたちにあっては、魂のなかにとどまり続ける、異常な経験(能力)が数多く存在し、これらの経験(能力)の、器官発達への即座の転化が不可能となっている。 すると、これらの経験(能力)は、魂のなかの経験(能力)として作用し続け、器官発達に関与する代わりに、魂を分離し続ける。 もし、これらの経験(能力)が、器官発達に関与すれば、分離した魂のままにはならないが、後の人生、つまり高齢になったときに作用し、もはや青少年期に主として発達する器官を用いるようなことがなくなる。 上記のように、人生全体のなかでの不都合が生じることもある。魂の分離のために、適さない器官に影響を及ぼさざるを得なくなる。これは実際、精神分析的な方法を正しく適用すれば、確認できる現象である。 質問応答的に診断すれば、魂のなかに、消化されず、消化するためには、もう老いてしまった器官のなかで破壊的な作用をするような経験(能力)を見つけることができる。 しかし、この方法では、決して治療には到達できずに、診断ができるだけである。精神分析を診断に限定して用いる立場を堅持するなら、正当ともいえるが、その精神分析が、正しく実行され、集められた証拠などにより、不正を裏づけるようなことが起こらなければ、の話だが、精神分析家たちは、質問応答的な診断に際し、患者から、できるだけ可能な応答を、力ずくで引き出そうとして、例えば、スパイのような監視も可能な状態にして、引き出そうとすることもある。 実際、スパイのような監視さえも用いて、患者を誘導尋問するようなことが、よく起こるので、酷い不正が隠れているのが当然とも言えるほどである。 しかし、この点を度外視すれば、実際、精神分析に携わる人の道徳が重要で、結局、診断の上では、精神分析にも多少の真実が含まれているが、精神分析家の立場では、治療の上での効果を及ぼすことは不可能となる。これもまた現代的な現象と関わりがある。 唯物論の悲劇は、唯物論が物質[Materie]の認識から逸れていること、物質の認識を妨げることにある。つまり唯物論は、本来の霊的な認識というより、物質のなかにある霊の認識にとっても有害なのである。 霊的な作用は物質と結びついているので、物質のなかに霊的な作用を探究できるが、その霊的な直観が阻まれることで、阻まれてはならない、人生に対する健全な直観の多くが同時に阻まれてしまう。 もし、仮に私(シュタイナー)が唯物論者だとしても、これまでの考察において議論してきたような特性を全て物質に帰することはできない。 物質に備わっている様々な特性を、物質に帰することは馬鹿げたことにみえる。つまり、物質の認識からも逸れ、もはや、燐や塩の現象については語ることができない。唯物論では、燐や塩などは全て、ナンセンスにみられているからである。 まさに、物質のなかの霊の認識からも逸れる(外れる)ことで、更に、形成作用を正確に研究する可能性からも隔たり、特に、人体の本質、すなわち、人体は、(覚醒)意識に向かう経過と、それとは反対に向かう(潜在意識の)器官的経過(プロセス)の二重の課題(陰陽の方向性)をもつ、という事実の洞察からも離れていく。 真の物質認識、いわゆる霊的な見解は特に、これから述べていく、歯に関する診断分野において失われてしまった。いまでは、歯は、唯物論的に、多少とも、単なる物質的な咀嚼器官[Kauwerkzeuge]と見られている。しかし、歯は、本質的には、単なる咀嚼器官ではない。 歯が二重の性質をもつ事実は、歯を単に化学的に調べるだけでも、骨組織と関係して現れることから、明白になる。しかしながら、進化(発達)史的には、歯は、本質的には皮膚組織から生じている。 だから、歯は皮膚と骨の二重の性質をあわせ持つが、ただ二重の性質は深く潜伏している。例えば、動物の歯列と、人間の歯列を比較してみるとよい。 そうすれば、この講義(人智学的医術)の冒頭で述べた、歯の二重の性質が、動物の歯列において強く現われ、サルの頭蓋骨により示した、下への負荷となっていることがわかる。 (動物の歯は、皮膚器官の延長という感じにみえる。例えば、サメの歯は、失うと、皮膚のように、生えてくる。) 対照的に、人間の歯列では、歯列のなかに、垂直線上の上昇作用が見られる。この上昇作用から、人間の歯が、単なる咀嚼器官ではなく、本質的には、吸収器官であり、第一に、皮膚のように、外へ向かって、機械(物質)的に作用するが、第二に、骨のように、内に向かって、精妙に霊化された吸収作用をもつことがわかる。 そこで、次のような疑問が生じる。 「では、一体、歯は何を吸収するのか?」 歯は、基本的に、フッ素[Fluor]をできる限り吸収している。 歯は、フッ素を吸収し、フッ素吸収器官[Fluorsaugapparate]である。 つまり、人間は、微量のフッ素を、人体内に必要とし、フッ素がないと、衝撃的な事実だが、人間は、賢くなりすぎてしまう。人間は、自分を破壊しかねないほど、賢くなってしまう。 (「賢く」とは、「狡猾な」、「狡賢い」という意味に近い。) だから、人間が、人間であるためには、とりもなおさず必要な適度な愚かさを必要とし、フッ素の作用により、賢さが和らげられる。あまりに利口になりすぎないための絶えざる対抗手段として、微量のフッ素を必要とする。 従って、歯が早期に悪くなることは、同時にフッ素作用も損なわれ、つまり、歯が、フッ素の吸収作用を過度に用いていた事実を暗示し、フッ素を吸収しすぎると、愚かになりすぎるために、このような事実については、限られた時間のなかで、もう少し述べていくが、愚かさに対抗して、賢さを支援するために、歯を悪くする機会が早期に与えられたことを示している。 (欧米では、歯並びが賢さの象徴ともなっているが、この事実に由来しているのだろう。逆にいえば、早期に歯が悪くなるのは、あまり賢くない証拠でもある。だから、フッ素を与えすぎると、歯が悪くなる。) つまり、この歯のフッ素吸収作用から、あまりに愚かにならないように、歯を自ら壊す。 このような人体の微妙な関係性について改めて考察してみると、あまりに愚かになってしまわないように、歯を損なう機能のなかに、一方では人間に利益をもたらすものと、同時に他方では、人間に害をもたらすものとの間で、均衡をとる密接な関係が洞察できる。 人間は、あまりに賢くなりすぎないために、フッ素の作用を必要とするが、フッ素の作用を強くしすぎて、自らに害を及ぼす可能性が生じる場合は、器官活動を通じて歯を破壊する。 以上は、是非、熟考して欲しい事柄である。なぜなら、以上は、人体組織において、極めて意味深い事実に関係するからである。
2012年07月04日
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これまで提示してきたような宇宙と人体の関係を正確に洞察する方法を獲得するのには、一種の原(根本)現象[Urphaenomen]を想定すれば、非常に役立つ。 (「原現象」は、プラトンが説いたイデアのようなものと思われる。例えば、物質における元素の周期律表のようなものと考えられる。) 原現象の想定という方法は、秘儀(密議)を起源とする医学などの学問の教育が盛んだった時代では、大きな役割を果たしていた。当時は、現象を、理論的に表現するのではなく、いわば原(根本)現象を通じて表現していた。 現象 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1 例えば、「あなたのなかに、蜂蜜か、ワインをもたらせば、宇宙から、あなたにもたらされる力を、内から強める」というように表現された。 「さすれば、あなたは、自我の本質的な力[Ich-Kraefte]を強める」とも表現され、同じ意味になる。 このような原現象は、いわば、非常に見通しをよくする。 「あなたの体に油を塗れば、あなたのなかの、本来もつ地の力[Erdenkraefte]の有害な作用を弱めることができる」 地の力とはつまり、人体組織において自我の作用に対抗する力である。 また例えば、「内からの甘さによる強化と、外からの油による弱化の間に適切な均衡をみつけると、老熟する。」 ということを、古代人や古代の医師たちは言った。 それはまた、「あなたが人体に油を塗ることで、油の作用により地の有害な作用を弱めるのに充分な力をもつとき、ワインや蜂蜜により、あなたの自我の力を強めるなら、老熟の力を強める。」ということを意味する。 以上は、当時、原現象として表現された宇宙と人体の関係だった。(理論的な)教義を通じてではなく、事実を通じて洞察法を示した。 古代の洞察法へと、戻っていくべきである。というのも、原現象に回帰できると、外界の多様な物質のなかでも、病気などに対する直観力が働くからである。具体的な例証を挙げる前に、生命を無視するような、いわゆる抽象的な自然法則に回帰するよりは、容易に治療法を見つけることができる。 さて、容易に表現できる原現象もある。そのように単純な原現象を紹介する。 「あなたが、両足を水に入れれば、下腹部に、血液の調整を促進する力を呼び起こす。」 また次のような原現象も指針として表現できる。 「あなたが頭を洗えば、下腹部に、排泄を調整する力を呼び起こす。」 以上は実際、教唆に富む、法則性、真実をもつ原現象である。人間は、以上のような原現象のなかに、いる。人間を充分に考察しなければ、以上のような原現象も無論、何の意味も持たない。原現象のなかで、人間を霊的に考察することに非常に大きな意味がある。 さて、原現象は、人体における様々な空間的相互作用を示している。しかしまた、時間的相互作用も存在する。 この時間的相互作用は、例えば、子どもの頃か、青少年期のはじめに間違った扱いを受けた結果、本来発達すべき器官(霊的な器官も含む)が、一生を通じて発達せずに、年配になってから発達すべき器官が、既に発達しているような早熟の人間を観察する場合にしばしば現われてくる。 実際、幼少期に、人体組織を将来にわたって形成していく、ある力を既に発達させている。しかし、青少年期に、形成される器官全てが、青少年期のうちに正しく発達しているわけではない。青少年期に形成するのは、年配になってからようやく活動を始めるように、とっておくためでもある。 つまり、子どもの頃、既に、ある器官が形成されるが、必ずしも、子どものときに使用すべきものではなく、年齢を経てからは、この器官を作り出すことができないので、この器官が備蓄されている。 例えば、歯が生え変わるまでは、模倣を通じて教育されるべきで、歯が生え変わってからは、権威という存在が大きな役割を果たすように教育され、育成されるべきだが、このようなことを考慮しなければ、年齢を経てからの使用のためにとっておかれる器官が、早い時期に用いられてしまう可能性がある。 今日の唯物論的な思考では、当然、次のような非難があがるだろう。 「模倣か、権威かが、そんなに大きな意味を持つはずがない。」 しかし、この違いは非常に意味がある。というのも、この影響が、人体のなかに持続していくからである。子どもの霊魂は、模倣のなかになければならない、ということを考慮する必要がある。例えば、次のようなことは非常に大きな意味を持つ。 教育する人と同じ食物に対する共感を模倣するように子どもを育てることで、食物に対する共感を子どもに植え付ける場合を考える。 すると、この食物に対する食欲を根づかせることに、この模倣原理を結びつけることになり、人体のなかに模倣衝動の継続が見られる。後の権威(に基づく)教育の場合も同様である。 要するに、本来は年齢を経るまでとっておかれるべき器官、この器官は、精妙な霊的な生体機構なのだが、子どものときに用いられてしまうと、恐ろしい早発性痴呆症[Dementia praecox]が起こる。 統合失調症 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A4%B1%E8%AA%BF%E7%97%87 早発性痴呆症の根本原因は、上記にある。従って、次のような結論に達する。 「適切な教育はそれだけで良薬となる。」 現在は、ヴァルドルフ学校の教育のなかで努力しているが、広範な幼児の教育にまで広げることがまだできず、6歳か7歳になってからようやく可能という段階であるが、「霊学の観点からの子供の教育」という小冊子で提示したような意味で、人智学から得られる認識が、教育に貢献するようになれば、早発性痴呆症も消滅するだろう。 霊学の観点からの子供の教育 http://www.megaegg.ne.jp/~moon/steiner16.html なぜなら、教育を、上述の観点から行えば、年齢を経てから用いるべき(霊的な)器官を早く用いてしまうことが阻止されるからである。上述のことは正しい教育に関連して述べられていくべきである。 (6歳、7歳までは模倣による教育、6歳、7歳以降は、権威による教育が重要だという。日本では、学ぶは、習う、まねるに由来するが、暗記ではなく、模倣の重要性に気づいていたように思える。権威の教育は、学校の先生の権威づけにも一役買ってきたが、本来は、道徳教育を尊ぶべきである。 シュタイナーの幼児教育には、現代の唯物論的見解から批判が多いが、それならば、早発性痴呆症に罹った人の幼児教育がどのようなものだったのか?等を検証してみればよいだろう。)
2012年07月03日
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