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1980年代頃まだスピリチュアルなどという言葉が使われるi以前、宗教とは違う心の世界を指す言葉として「精神世界」とか「ニューエイジ」などが使われていた頃、よく「心が喜ぶことをしよう」ということが言われていた。当時としては新鮮な言葉で、多くの人が無意識に社会の常識や習慣に従っていた自分の人生を見直し生き方を変えるきっかけを作ったことと思う。その頃から大きな書店には「精神世界」の本のコーナーが出来始め、セミナーめぐりをする人が増え、内外の講師のワークショップや講演会は満員となった。その結果頭でっかちになって言葉や理論は達者でも足が浮き上がって日常生活がおろそかになった人たち(というより女性たち)が多くなったのではないだろうか。しかしその後ようやく身体やこの3次元の世界も大事だということに気付き始め、いわゆるボディーとソウルとスピリットの統合ということが言われるようになった。従って今はおそらく精神だけを重視するような考え方はなくなって来ていると思う。言うまでもなく心と身体は連動しており、互いに影響を与え合っている。「病は気から」という言葉も「身体は全てを知っている」という言葉も真実だ。どちらかが緊張すれば一方も緊張し、リラックスも同様。感情から言えば恐怖や不安は緊張を呼び、笑いや楽しさはリラックスを生む。だから今では「心の喜ぶこと」だけを言う人は少なくなり、「身体が喜ぶこと」も大切だと思っている人が増えているはずだ。両方が揃わなければバランスが崩れるのに、これまでは心のほうにばかりフォーカスしすぎて来たように思う。人によって満足することはそれぞれだろうから、いつも己を振り返って心も身体も満足して喜んでいる状態にしておけば人生は限りなく楽しくなり、人にはやさしく、健康でもいられると思う。エゴではない「本当の自分」がしたいことを人の目や評価や世間の常識など気にせずにする時、それは自分だけでなくまわりにも喜びをふりまくことになる。そして身体の持つ五感に正直に「心地よいこと」をすることでリラックスし、心も喜ぶことになる。「美味しい」と思えるものは必ずしも贅沢なものとは限らない。「美しい」と感じられることも人によって違うから自分の耳や目がそう感じるものを楽しめばいい。躊躇なく人をほめることで相手の耳を喜ばせ、その笑顔が互いを豊かにする。好きな香りも人それぞれだろうし、身体に触れたり触れられたりも自分の心地よさを基準にすればいい。温泉やマッサージも至福の時を与えてくれるし、ハグや握手、そして愛するもの同志の性的なふれあい、これも至上の幸せにちがいない。世間的に落ち度のない、常識にかなった、道徳的で正しい生き方をしているマジメな人ほど緊張感ががあり、一緒にいてもリラックスできず話題も乏しくて面白くない。思い当たる人はいいかげんに肩の力を抜いて自分の心や身体の要求に正直に応じてあげよう。人は黙っていても知らないうちに緊張しているものだから、意識してリラックスする場を心と身体に与えてあげよう。あなたからリラックスのオーラが放たれていれば、それに触れた人もリラックスし、ひいてはそれが社会貢献にもなるのだから。
2009年02月27日
長年マチュピチュへ行きたいと思い、それが南米のペルーにあることは知っていても肝心なペルーについてはほとんど知識がなかったことを今度の旅行でいやというほど思い知らされた。 行きと帰りにリマを案内してくれたOさんという25年前からペルーに住んでいる日本人男性のガイドさんの説明でずい分沢山のことを教えられたが、先ず驚いたのがほとんどの農産物の原産地がペルーだということだった。 恥ずかしながらトウモロコシとじゃがいも、トマトくらいしか知らなかった私は大いに恥じ入ったが、じゃがいもだけでも数百種類あるという。南国の果物もバナナ、マンゴー、パパイヤ、メロン、スイカ、パイナップルと豊富だ。鉱山資源も豊かで金・銀・錫・鉛・亜鉛などを産出する。 太平洋に沿って細長い国ペルーの緯度は南緯3度~18度というほぼ熱帯とも言っていい国。 しかし寒流が流れているのでそれほど暑くなく水産資源も豊富で、特にカタクチイワシの餌料や肥料としての輸出高は世界一だそうだ。この寒流の水温が上がると、かの有名なエルニーニョ現象となって各地に異常気象を引き起こす。 海抜は0~4300メートル近くまであるので気候はさまざま。世界の気候32種のうち28種類がこの国にあるという。 風景もヨーロッパ風の街からエジプトの砂漠、モンゴルの草原、ハワイのジャングルや峡谷、アルプスの雪山、インドやネパールの町並みと変化に富み、世界遺産が無数にある国でもある。 言語はもとからあるケチュア語に加えて公式言語はスペイン語。日本からの移民はブラジルよりも古いのだそうだ。 16世紀にスペイン人がやって来るまでは5千キロにも及ぶインカ帝国が栄え、全国にインカ道という道路網が張り巡らされて各地に「タンボ」と呼ばれる宿場が置かれ、30キロ毎に飛脚が配置されて情報は迅速に届けられたそうだ。 これは一人で最初から最後まで走った江戸時代の飛脚よりも合理的なシステムのように思える。 インカ帝国のルールは三つだけ。「盗むな、嘘つくな、怠けるな」でモーセの十戒よりも少ない。 「殺すな」がないということは、いかに平和な社会だったかがわかる。(とは言え、生けにえの習慣だけはいただけないが) 大航海時代、ヨーロッパでは香辛料であるコショウが貴重品で、金と同じくらいの価値があったとのこと。(そう言えば昔英語の教科書に南米近くのSpice Islandsのことが載っていたっけ)そのコショウを捜しに来たスペイン人のフランシスコ・ピサロが見つけたものはインカ帝国の黄金だったというわけ。それを片端から略奪し溶かして金の延べ棒にして持ち帰り、自国の国王に献上したという。 こうして滅ばされたインカ帝国だが、一部のゲリラがマチュピチュに立てこもり最後の決戦を挑んだあげくに全滅したのだ。と、ここまではガイドさんも知らないはず。淺川さんの本からの知識だ。 近年では旅行社による観光ツアーに参加したのは3年前のイタリアに次いで2回目。 イタリアはどうしてもポンペイに行きたかったからで、前世と関係のあることが確認出来たが、ガイドの説明について歩くだけではゆっくりと味わえないので、もう一度昨年個人的に行くつもりがナポリのゴミ騒動のために素通り。まだ果たせないでいる。 今回のツアー参加者は60代が中心の25名。さすがに旅なれた人が多く、夫婦は3組のみで一人参加の男女が多かった。(でも独身者は私と孫のような女子大生2人のみ) 観光ツアーは広く浅くの幕の内弁当のようなもの。高いお金出して遠くまで来たのだから全部食べきゃ損と言う人が多いが、上手に自分の食べたいものだけ食べてさほど興味がないものは手をつけないという利用の仕方もある。 そうでないと全ての味がごっちゃになって何を食べたかわからなくなってしまうのではないだろうか。景色見て、写真撮って、買い物してだけの旅行ではつまらない。 今後の海外旅行はまた、的を絞っての個人旅行に戻りそう。とりあえずは6月のフィンドホーン、12月から1月にかけてのメキシコ、アメリカ西海岸への旅が決まっている。
2009年02月23日
ナスカ平原は東京23区がすっぽり入る広さで、その中に何百と言う地上絵が全て一筆描きで点在しているという。しかし4人乗り(うち一人はパイロット)のセスナで45分ほどのフライトで見られるのはそのうちの十数点のみ。上空から眺めると無数の直線や雨の降った跡などがあって、肝心な絵を判別するのはなかなか難しい。パイロットがヘッドホーンを通して「右、屋根(実は翼)の下ハチドリ」とか「左、クモ、」とか言いながら右からも左からも見えるように旋回してくれるが、「どれ?どれ?」などと目をこらしているうちに通り過ぎてしまう。全員が交替で見終わってから、バスで少し移動して、今度はミラドールという10メートルの高さの鉄塔に登って肉眼で二つの地上絵を眺める。人の手の形と大きな木を描いたものだが、先日も報道されたように一部は最近の雨で消えかかっている。この地上絵は年間降雨量1ミリという極端に雨の少ないこの地で、太古の人々が雨乞いのために、神からも見えるようにと巨大な絵を描いたのだと言われている。その願いが何世紀も経た現在かなえられたのだとしたら、今は貴重な観光資源となっている絵にとっては皮肉な結果となってしまったわけだ。さて、その後はまた7時間のバスの旅でリマ空港へ向かいアトランタ行きの飛行機に乗る。リマでもアトランタでも税関でいやというほど時間がかかり、ようやく成田行きの飛行機に乗り換えて更に18時間の旅。ナスカからまる一日半は移動していることになる。でも私はこの飛行機の中の時間はまったく苦にならないのだ。家にいれば常にすることがあってなかなか遊んでいられないが、飛行機の中では映画を観るか本を読むか、ひたすらニンテンドーDSを動かすか、食べるか寝るかトイレへ行くかしていればいいのだからこんなラクなことはない。成田でみんなと別れ西日暮里の娘の家へ直行。荷物を置き、ちょこっと化粧直しだけしてすぐ駅前のスペイン料理店「アルハンブラ」へ娘のフラメンコのライブを見に行く。何人もの知り合いが来てくださっていてありがたいことだ。10時に終わり、オランダから来ているレイコさんと一緒に娘の家へ帰る。そこで10日間留守にしていたパソコンを開けると、なぜかノートンが機能していなくて1200通ものメールが! 大事なのを見落とさないようにゴミ掃除をし、緊急なものにだけ返事を書いていたら2時過ぎてしまった。娘は打ち上げも終わってとっくに帰って来てさっさと寝てしまっている。そして朝7時までぐっすり。これで時差ぼけ解消だ。みんなで9時に家を出て娘は会社へ、レイコさんは実家のある新潟へ、そして私は軽井沢へ。車は近くのホテルに置いて来てあるので、駅からはホテルのシャトルで帰れるのでありがたい。ところが、車で家に着いたら前夜珍しく降った大雪で車が駐車場に入れられない。大旅行から帰ったというのにいきなり雪かきから始めることになった。30分ほど働いてようやく車を入れる頃には身体中ポカポカとして、冷え切った家に入ってもまったく寒くない。それにしてもなんと元気な私! 我ながら呆れてしまう。長く留守にした家に戻れば待っているのは郵便物の山、ファックス、留守電、宅配便の不在票。そこへ、明日新潟へ帰るみっこちゃんがやって来てヘアダイやカットをしてくれる。この日も寝たのは2時過ぎ。相変わらず時差ぼけはゼロだ。帰宅して3日目の今日は夕方温泉へ行きマッサージをしてもらった。明日は朝から夕方までトランスフォーメーションゲーム、そして夜はいつもの「北軽で遊び隊」の食事会だ。忙しいけど楽しい毎日。これが私の元気のもとかな?
2009年02月22日
再びバスでアグエス・カリエンテスへ戻り昼食を済ませてから駅前のバザールをぶらついていると、さっきパラパラだった雨が本格的に降り出して土砂降りになった。私たちはやはりツイている。帰りのビスタドームの中では、いつかTVで見たように一般の人や乗客がモデルとなってアルパカ製品のファッションショーが行なわれた。終点からはバスに乗ってクスコへ行きそこに宿泊。翌日は更に高地にあるチチカカ湖へ向かうので、先日入院までした女性はここに留まることとなりご主人だけがバスに乗り込む。そこからは行けども行けども木が一本も生えていない山と草原が続く。同行の中にモンゴルへ行ったことのある人がいて、そっくりの景色だとのこと。時々小さな家が何軒かかたまっている集落があるが、車も馬も見えない。移動には何を使い、買い物などどこまで行くのだろうなどと考えてしまう。やがて最高地点という4375メートルの標識のある峠に差しかかりバスから降りると、赤道に近い国の真夏だというのに冬用のコートが必要なほど風が冷たい。頭痛の始まった人が多いが、私はやたらに眠くなる。これは長いバスの旅にはかえって好都合で、あまり退屈しないうちにチチカカ湖畔の町プーノに着いてしまった。町の風景はネパールによく似ている。クスコから同行した陽気なキューバ人のドクターが盛んに「Are you OK?」とみんなを気遣ってくれる。チチカカ湖は琵琶湖の12倍という広さで60%がペルー、40%がボリビアと聞いていたので、アメリカのミシガン湖のように水平線の見える海のような湖を想像していたが、地形のせいかそうは見えず広さを実感出来なかった。折しも日曜日とあって湖畔には移動遊園地が出来ていて家族連れで賑わっている。私たちはモーター付きの船に乗って、湖にいくつも浮かぶトトラという葦で出来たウロス島(浮島)の一つを訪問することになった。キューバ人のドクターはここに住む人たちと親しいらしくハグをしたり子どもたちを抱き上げたりしてますますテンションが高くなっている。どのようにしてこの島が出来ているかというと、分厚い土の上に生えたトトラを刈り取って、それをまた分厚く敷き詰め、そのうえにやはりトトラで出来た小屋を作って住んでいるのだ。簡素な小屋なのに冬でも寒くないと言う。炊事は外にかまどがあるけれど、床はトトラを敷いただけ。暖房はどうしているのだろう。下は湖だから井戸は掘れないのに飲み水は?雨を溜めるのだろうか。でも雨期でない時は?などとガイドさんに質問してもハッキリした答えは返って来なかった。やがて住民の人たちがみんなで「私たちはトトラさえあれば生きて行ける、トトラがあれば幸せ」という意味の歌を歌うと、先ほどのドクターが熱く語り始めた。「They have only Totora, no money, no furnitures, no big buildings, but they are happy! They are living! We have everything, but we are dying」と言いながら目にいっぱい涙を浮かべている。すると6歳くらいの少年が片手を伸ばしながら、座って見ている私たちのほうへ近づいて来た。やはりチップか、と思っていたらそうではなく皆と握手するためだったのだ。大人たちも後に続いてニコニコしながら全員と握手をしてまわる。行く先々で物売りの少年たちを見て来たためとっさにチップと思ってしまったた私は大いに恥じ入り、思わずドクターとハグしてしまった。その夜はプーノのホテルで富士山よりも高い所で寝るという初めての体験をした。翌朝バスに乗り込むと、前日あれほどテンションの高かったドクターがいやにおとなしく座っているので、思わず彼の口癖「Are you OK?」と声をかけてしまい大笑い。あまりよく眠れなかったのだそうだ。プーノに近いフリアカ空港から空路リマへ戻り、そこから更にバスで6時間乗って最後の宿泊地ナスカへ向かう。これもやはりウトウトのし通しだったのであまり長くは感じなかった。
2009年02月22日
昨年の暮木内氏にお会いした時「ようやくマチュピチュへ行くことになりました。行ったら何を見て来たらいいですか?」とお尋ねしたら「王の玉座に座って何が見えるか見ていらっしゃい」と言われた。 マチュピチュ遺跡に足を踏み入れたのはペルーへ入国してから4日目のこと。日系3世の現地ガイドさんの案内で先ずは遺跡を一望出来る高台の草原へ上る。 そこには高地にだけ生息するリャマやビクーニャが何頭も放し飼いにされていてとても人懐こい。 うしろにはマチュピチュ(老いた峰)がそびえているが、なんとなくおっぱいの形に似ているのがおかしい。 写真によく写っている尖った山はワイナピチュ(若い峰)で登ることも出来るが、滑落して戻って来れない人もたまにいるため必ず名前を記帳してからでないと登れない。 双眼鏡で眺めるといる、いる、けっこうな人数が登っている。人数制限もあり、一日のうち入山出来る時間帯もいくつか決まっている。 さて、いよいよ遺跡の入り口である「太陽の門」をくぐって中へ足を踏み入れる。ガイドさんの説明を聞きながらいろいろな神殿の跡や住居跡、トイレ、石切り場などを約3時間かけてまわる。 今はペルーは真夏なので陽射しが強烈。2300メートルの高地なので時折涼しい風が吹くけれどじっとりと汗ばんで来る。(ここではタートルネックの長袖Tシャツがおすすめ。私は首にスカーフを巻いたが追いつかず、うっかりシャツをたくし上げた手首共々真っ赤に日焼けしてしまった) それでも前日もその前の日も雨だったそうなのでラッキーだった。ガイドさんに「王の玉座」を尋ねたら、「王(本当は皇帝)は乗り物に乗って来るからそこが座る場所で、ここには特にない」という返事。少々がっかりする。 遺跡の中でいちばん高い場所が「インティファタナ」という儀式の場所。かなりの急坂なので、私一人パスして添乗員の女性と二人先まわりをしてみんなが降りて来るのを待つ。 行く前に読んだ「謎多き惑星地球」(淺川嘉富著・徳間書店)によれば、そこは太陽を信仰したインカの人々が太陽が軌道をはずれないようそこへ繋ぎ止める儀式をした場所だそうだが、ガイドの説明では単なる日時計ということだった。 この本は淺川氏が木内さんの検証につきあって一緒に各地を訪れた記録で、木内さんはその中でマチュピチュをこのように説明している。 「今から1万5千年以上前巨大な彗星が地球に接近して来ることを知った先史時代の人々が当時の高度なテクノロジーを使ってここに避難都市を築いた。しかし接近した彗星からは地球の引力によって大量の氷塊と土砂が降り注ぎ、その後起きた大津波などの大カタストロフィーによって台地だったここは砂岩層だけが削り取られて今のような形となった。だから彼らが積み上げた巨大な岩の、いわゆるカミソリの刃も入らないほどの石組みと、その後にインカの人々がそれを利用して造った石組みでは明らかに技術の差がある」 臨死体験中の木内さんはその大カタストロフィーのシーンをまざまざと見ているのだ。とても信じ難いことのように思えるが、ヘミシンクでいう時間を超えたフォーカス15のレベルでなら十分に可能なことと理解出来る人は今は急速に増えているのではないだろうか。 もちろんガイドの説明にはその石組みの違いなどは出て来ないし、世間で言われている「このような高地にどうやって巨石を運んだかは未だに謎」でオシマイだ。 3時間ほどのツアーで見学が終わり、バスで降りた場所に戻ってレストランで昼食。その後またバスでふもとの町へ戻って1泊した。よく聞いていたバスの行く先々に先回りしては最後にチップをねだっていたと言う有名なマチュピチュボーイは今は現れない。 翌日は再びバスで登り、私以外の全員が予定に組まれていたインカ道へのトレッキングに出かけて行った。私は最初からそれには行くつもりはなく「もっと遺跡をじっくり味わいたいので」と断って集合場所と時間だけ聞いてみんなと別れた。 昨日の3時間だけでは「マチュピチュに行って来ました、実際にこの目で見て来ました」体験だけで終わってしまう。大方の人はそれで満足らしいが私は全く満足出来ない。 一人になったお陰でゆっくり歩き、気に入った所で腰を下ろして景色を眺め、時には瞑想し、と昨日は行かなかった所を自分のペースでまわることが出来た。 地図を片手に「王の玉座」を探すがなかなかみつからない。 多分このあたりと歩きまわっていたら一人の外国人女性に英語で説明している現地ガイドがいたので説明が終わるのを待って「Excuse me」と声をかけ、ここはロイヤルゾーンかと聞いたらそうだという。 そこで皇帝が座っていた所はどこ?と尋ねると近くの、そこだけ屋根のある場所を教えてくれた。そこは何度も通ったのに大勢の人が休憩していたので見逃していたのだ。お礼を言ってチップを渡したら親切にも皇帝専用のトイレまで教えてくれた。 ほかのトイレが外部にあり、ただ壁面に小さな穴が開いているだけなのに反して、そこはちゃんとした個室になっていて、石で出来た椅子まであった。しかしそれだけに目に付きにくいため実際に使用している観光客もいるようでそれらしき臭いが漂っていたので早々に退散した。 さて、「玉座」にはさっきまでいた人々はいなくなって誰もいない。木内さんに言われたようにそこへ腰を下ろすと眼前に広がるのは切り立った三つの山。岩肌が削りとられたようにむき出しになっている。下はウルバンバ川が流れる深い峡谷だ。 この景色を見て来なさいと言われたのだと、深い感慨が湧き上がる。まさに大カタストロフィーの爪あとだ。 まわりを見回すと世界一雨量の多いハワイのカウアイ島のワイメアキャニオンにそっくりの風景だ。あそこも500万年の間に雨に削られて出来た累々と連なる峡谷だから。 すっかり満足した私は出口に向かって歩き始め、途中休憩のため座った石の上で突如強い感情が湧き上がって来た。とめどもない感謝の思いだ。 まわりに人がいないのを幸い、いつのまにか声に出してつぶやいていた。 「ありがとうございます。この場所に来られた全ての状況に。私の健康に。待っていてくれる子どもたちや友人たちに心から感謝します。ありがとうございます。ありがとうございます」 いつの間にか涙がほほを伝い、私は言葉では表現できないほどの幸福感に包まれていた。 もう2度とここには来れないかも知れない。でも十分満ち足りた思いだ。ほんとうに来てよかった。 出口を出た瞬間雨がパラパラと降って来た。空を仰ぐと太陽のまわりに虹が出ている。なんという幸運だろう。テントの下のカフェで休んでいると、トレッキングからグループのみんなが帰って来るのが見えた。
2009年02月22日
マチュピチュのことはずい分前から知ってはいたが、何しろ地球の裏側、時間もお金もかかる所なので行こうとまでは思っていなかったのが「行きたい」と思うようになったのが丁度10年前。 その頃知り合った木内鶴彦さん(スイフト・タットル・キウチ彗星の発見者である彗星探索家)から、「臨死体験で見たことの検証をしにマチュピチュへ行きたいので一緒に行く人を集めてくれませんか?」と言われたのがきっかけだ。 マチュピチュの入り口にあるホテルに泊まって夜は星を見るということで関西の個人旅行社にお願いして手配したが、まだインターネットも始めていなかったので私を入れて4人しか集まらずお流れになってしまった。 木内さんはその1,2年後に行かれたようだが、私は時期的に参加出来ず、それ以来ずっと焦がれていた所だ。 ツアーの募集があるといつも注意して見ていたが時期が無理だったり、あまりにも盛り沢山だったり値段が高すぎたりでなかなか見つからず、昨年秋に見た旅行社の雑誌に載っていたのがこの2月出発のもの。10日間で388,000円。内容の割にはリーズナブルだ。(と、言ってもサーチャージがまだかなり高く、諸税を入れてプラス88,000円) ホテルは三ツ星クラスで医者も同行、しかも珍しくマチュピチュへ2日にわたって行けるというものなので即申し込んだ。 成田からアトランタ経由でペルーの首都リマまでが丁度24時間かかった。リマに2泊して市内観光の後国内線で標高3400メートルの古都クスコへ。 空港に着いた途端坂道を登った後のように息がはずむが、深呼吸を4,5回して水を飲んだら落ち着いた。 そこでサクサイワマンの遺跡を見学してから更に3800メートルの所にある泉を見に坂道を行くことになったが、私は体力を温存しておこうと勝手に途中で行くのをやめて、みんなが戻って来るまであたりの景色を眺めながら30分ほど休んで待つことにした。 結果的にはこれがよくて、戻って来た人たちの多くは頭痛や軽い吐き気が始まっており、中には同行の医師(現地の女性)も手に負えない重症の高山病にかかった人もいた。酸素吸入しても追いつかないので、結局その方はその後行ったクスコの街中にある病院へ1晩入院することになった。 そのままクスコに泊まるツアーがあるが、これはかなり身体にはよくないとのことで私たちは少し高度の下がったウルバンバに宿泊。(これもこのツアーを選んだ理由の一つ) 翌朝病院から医者に送ってもらった彼女も加わって、いよいよマチュピチュのふもとまで行く電車の駅のあるオリャンタイタンボ(オリャンタイは人名、タンボは宿場の意味)までバスで行く。 電車は3種類あり、いちばん高いのがマチュピチュ遺跡発見者の名をつけた「ハイラム・ビンガム」、中級クラスが「ビスタドーム」そしていちばん安いのが「バックパッカー」。普通の観光客はたいていビスタドームだ。 約1時間半後シャーリー・マクレーンの「アウトオンナリム」に出て来るアグエス・カリエンテス駅に到着。 いったんホテルにチェックインして荷物を置いてからバス(これが全部ベンツ製)でいろは坂のような「ハイラム・ビンガム・ロード」を遺跡の入り口まで登って行く。 そしていよいよ10年間夢にまで見たマチュピチュだ。 ゲートをくぐり、細い急坂を少し上ると目の下に、あのよく目にする遺跡の景色が広がった。思わずみんなから「ワーッ!」という歓声があがる。 言葉も出ずに立ちつくしたまま、私は胸がいっぱいになって思わず涙がこみ上げて来た。
2009年02月21日
6日は半年前からチケットを買っておいた「ジンガロ」を観に娘と一緒に木場公園まで出かけた。すり鉢状に造られた特設会場は超満員。前から2列目のギャロップシートという真っ先に売り切れてしまう席が空いていたのは、半年前でもこの日だけだったのだ。すでに20頭ほどの馬たちが真ん中の砂地の上でおとなしく待機している。それが弦楽器だけのバンドの生演奏が静かに流れ始めると自然に一列になってぐるぐると歩き始め、出口から外へ出て行く。そしていきなり裸馬に乗った男たちが次々に疾走しながら登場し始め、見事な技を見せてくれる。中には13歳くらいの少年もいれば女性もいる。走る馬の上に立ったり逆立ちしたり、ダンスをしたり縄跳びしたり、フランスの馬術団だけれど音楽も衣装も生活様式もルーマニア風。人馬一体となって繰り広げられるパフォーマンスは、その彼らの身体能力やしなやかさ、そしてユーモアや美のセンスに圧倒され、私たちはただただ口あんぐり状態。あっという間に休憩なしの2時間ほどが経ってしまった。感想は「すごい!!」のひとこと。興奮冷めやらぬ一夜が明けて翌朝は5時起き。沖縄は九高島でのイアン&ロージーのワークショップへ出発する。お二人は長野を皮切りに東京、札幌でのWSをすませ、富士宮市の「木の花ファミリー」での滞在を終えて最後のWSが沖縄。うちの息子夫婦が主催なので、これまた通訳をつとめる娘と二人で参加することに。沖縄在住の方を中心に各地から30人近い参加者が集まり、先ずはアチューンメントからスタート。そして歌ありダンスあり、シェアリングありの2日間はほんとうに楽しかった。2日目の朝はいしき浜へ出かけて早朝瞑想。折しも真っ赤な朝日が水平線から昇って来た。次第にオレンジ色に変わりながら少しずつ輝きを増して行く。途中雲に隠れ、再び顔を出した時はもうすっかり光り輝く黄金色の太陽になっていた。いくら島であってもこれほど完璧な日の出を見られることはめったにないそうで一同大感激だった。その日の午後全員で輪になって一人一人と手を取り目を見詰め合いながら歌って踊った”Through the Eyes of Love"の時はほとんどの人の目が涙でいっぱいになっていた。もちろん私も。Through the eyes of love you are perfect 〃 you are free 〃 you are innocentI am you and you are me(愛という目でみればあなたはカンペキ 〃 あなたは 自由 〃 あなたは清らか私はあなた、そしてあなたは私)ロージーは常に優しいほほ笑みを絶やさず、イアンの目はいつも暖かな慈愛に満ちていて、私たちはそばにいるだけで安心し満たされてしまう。お二人が互いを尊敬し愛し、いたわり合っているのが黙って見ているだけで伝わって来る。そして二人が一緒にいると何とも可愛らしく、そこから無言の愛があふれ出て来るのだ。昨夜はお二人のほか、オランダから来て参加した私たちとは家族のような存在のレイコさんも一緒に那覇のホテルに泊まり、最後の別れを惜しんだ。イアンたちは今日の夜の便で帰国の途につき、レイコさんは韓国の友人の元へ、私と娘は東京へそれぞれ戻って来た。そして私は明日からマチュピチュへの10日間の旅行に出かける。全然疲れも感じずこんな日記を書いてもいるんだから、我ながら元気だなあ、と思う。感謝。
2009年02月09日
今日は久しぶりに佐久まで映画を観に行って来た。ミュージカル「マンマミーア!」を観たのは今から7年前にロンドンのプリンスエドワード劇場の舞台が最初で、観客は最初から最後まで椅子にかけようとせず立ちっぱなしで舞台と一緒になって踊ったり歌ったりの大騒ぎだった。アバの曲だけをつなぎ合せてストーリーを作った脚本家も、演出家も、彼女たちを起用したプロデューサーも全員が50歳の女性というのも珍しい。40代の母親と20歳の娘が主人公ということでどの年代にも楽しめる作品に出来上がっていた。そして2回目が日本で劇団四季が上演した時。初日から4日目、出来たばかりの汐留の劇場「海」でだった。舞台装置も演出もロンドンのそのままで文句なしに楽しく、最後は全員スタンディングオベーションだったのを覚えている。それが映画になったのだからどうしても見なくちゃ、と出かけたわけ。クローズアップで見るメリル・ストリープはアラフォーの役としてはちょっとムリがあるけど、歌もダンスも堂々たるもの。なんでもこなしてしまう凄い女優さんだ。主なシチュエーションは舞台のと同じだが大分アレンジされている。狭い舞台とは違い、カメラがあちこち移動して美しいギリシャの島の風景をふんだんに見せてくれる。海の色が溜息がでるほど真っ青でほんとにきれい!けっこうエッチなセリフや場面も多いので大人向けかな?と言ってもNHKしか見ないような文科省推薦オバサマだと眉をしかめて席を立ってしまうかも。(じゃ、さっそく行かなきゃと言ってるのは誰?)でも40代~50代の女性が観たら俄然元気が出ると思うから、ちょっと落ち込んでいる人は自信を取り戻すためにもぜひ行ってらっしゃ~い!
2009年02月05日
http://wintersoldier.web.fc2.com/wintersoldier.html
2009年02月03日
昨年3月にアメリカのワシントンDCで開かれた「ウインターソルジャー」(平和を願うイラクからの帰還兵)の集会の様子や個別にインタービューした「冬の兵士」というDVDがある。全てが実録だ。市販されているかどうかは知らないがたまたま知人からいただいたものを観て衝撃を受けた。大勢の聴衆を前に若い元海兵隊員たちがかわるがわるイラクでの体験を生々しく語るのだが、誰もが最初は国のため、そしてイラクの平和を守る正義のためと信じて意気揚々と派兵されて行ったのだが、現地で待っていたのは「下着を替えるより早く」コロコロ変わって行く戦闘のための基準。最初はアルカイダらしき者を見かけた撃つように決められていたものが、だんだん普通の市民でも女子どもでも走っている者、携帯電話や双眼鏡をを持っている者、大きな荷物を持っている者、スピードを出している車など何でも撃っていいことになり、ファルージャでは住民のほとんどが射殺されたという。しまいに撃つ者がいなくなってネコや犬まで撃ったと告白する青年もいた。その結果、彼らは命令とはいうものの、自分のしたことに未だに苦しめられ、良心の呵責に日夜さいなまれ、うつ病になったり自殺未遂を起こしたり、突如湧き上がる怒りの衝動を抑えきれず離婚したり職を失ったり、ホームレスになった人もいる。自分たちはアメリカ合衆国の誇り高き兵士だったはずなのに、軍隊と言う監獄の中で、自分は手を汚さない上官の命令に従って人間としての尊厳も誇りも全部失ってしまった、と悲痛な声を上げる。それを聴く聴衆たちの中には涙を拭う姿も多く観ている私も胸が震える思いだった。いったい何のための戦争・・・というより明らかな侵略だ。いちばんトップで命令を下した人は多額の退職金を受け取って表舞台から去って行った。これからの余生はのんびりと別荘でゴルフでも楽しむのだろうか。そしてその人と肩を叩き合って歓談した私たちの国のトップだった人も間もなく退職金と共に何事もなかったかのように去って行く。これからはお二人ともお暇でしょうから、二人仲良くイラク中を歩いて「必ずある」と言った大量破壊兵器を探す旅に行かれてはいかがですか?そしてその後観たNHKTVの大河ドラマ「天地人」の中で図らずも二人の武将が言った言葉が印象的だった。織田信長「義とはいくさをするための口実だ」上杉謙信「義とは人が人としてあるための美しさだ」
2009年02月01日
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