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「時間」を紐解く(80)精神哲学-時間観(七)ベルクソンの時間の有りよう ベルクソンは時間存在を内的世界、即ち人間の持続意識、それも外的世界の空間に投射しない純粋持続こそが時間の実体だとします。それでは外在世界にあって物理学が計っているのはナニモノなのかと云えば、それは運動の標識であって、「今」の同時性を数えているだけであって、時間そのものを捉えてはいない。それはアリストテレスの曰くが如く、運動の前と後ろの「今」の数だけを運用しているに過ぎないと説きます。それでは外在世界には、過去から現在に未来と流れる、或いは未来から来て現在にそして過去へと流れる持続する変化は無くて、現実化している「今」も過去から現在そして未来へ推移・流動して変化していくものでもなく、乃至は、未来の方から現在に現実化して過去へと流動するものでもない。現実化している「今」とは幅を持たない一瞬の瞬間であり、外在世界は一瞬が消失しては次の一瞬が生成されて継起しているのであり、時間は過去は消失してもはや無く、まして幅を持った現在も無く、未だ来ぬ未来は存在しないと主張します。即ち、一瞬の世界こそが実在するのであって、そもそも外在世界には消失・生成して変化する継起は在っても「動く今」は存在しないと言います。これは例えば公転周期が200年以上の長周期彗星の軌道が黄道面とは無関係で、公転の向きも規則性ないことから、過去を引きずることもなく、未来をも予測が出来ない、即ち、時間は等質的ではなく、物理学が計っているのは時間ではなくて「変化及び動き」である運動の数であり、時間は計数上の運用物に過ぎないとまで主張しています。
2013年06月30日
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「時間」を紐解く(79)精神哲学-時間観(六)ベルクソンの時間心象説 時間仮象説をとる哲学者にはベルグソンも入ります。彼は人間が時間を時間軸のような仕方で空間化して表象する根強い習慣を示して、対して実在の本来の時間は意識の諸状態の相互浸透であるとします。此れは、意識の外の外在的現実が瞬間の継起であり相互浸透のない幾何学的空間であると結論づけていると云えます。しかし、外在世界が「瞬間」の「継起」だとしても、相互浸透のない世界では動きと変化が捉えきれません。また、時間を幻想とは言わないまでも仮象として、意識など人間の内面の心の質の変化に帰した考え方は、アウグスティヌスやラッセルと同じく、未来とはまだ起きていない事柄に対する人間の期待であり、過去とはすでに起きてしまった事柄の想起であって、期待も想起もわれわれの精神の働きであるから、時間はわれわれの心の中の質の持続する変化、即ち「純粋持続」だというのです。時間を外在する物理的現実に帰せないとすぐに意識や内面に問題をあずけてしまうのは、人間を社会や文化から切り離された個人として考察する近代哲学に由来する悪い習慣であるともいえましょう。これ等は総じて、未来や過去は存在しないという判断から出発しているが、たしかに、この先入見によれば、未来と過去は予期し想起はできても実在することはできないから、存在しないということになります。但し、瞬間の継起である「現在」が有り様が問題として残されています。
2013年06月29日
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「旧約聖書」創世記外記・ヤコブとエサウの生涯 ヤコブの生涯は生涯を通じて放浪する寄留者の生涯であった。彼はベエルシバに家族と共に住んでいたが、兄エサウの長子権を騙し取ったこと、いかな母ラケルの入れ知恵とはいえヤコブのエサウへの祝福を奪ったことで流浪の生涯が始まる。ベエルシバを逃れたヤコブはベテルで神と出会い、約束を受けてハランに行く。ハランでの20年間は苦労の連続であったが、神はヤコブを守り、彼に家族と財産を与えます。帰郷したヤコブはペヌエル(神の顔)で神と出会い、エサウとの和解をすることがようよう出来た。その後はシケムにしばらく住むが、そこは本来の地ではないことを神に知らされ、ベテルに導かれる。ヤコブはベテルに行く前に、全ての過去を清算するために偶像の一切を捨て、ただ神に出会う為に人生という旅を続けます。シケムの出来事は寄留者であることを止め、定住者になろうとする時、私たちは主の教えから離れることを告げています。ヤコブは自慢のその才と性格、即ち人の踵を掴む者でもあり、生涯を通じて放浪し、最後は寄留地エジプトにて亡くなります。一方の双子、おそらくは二卵性双生児よ想える兄エサウはセイルに定住し、子供たちにも恵まれて、平和と安楽の中に生涯を過ごします。しかし、そのエサウの人生には神との交わりや渇望はそれ程でもありませんでした。他方、ヤコブは、一応、ここではエサウでなくて神と格闘してまで神の祝福を求めています。新約聖書ではヤコブを信仰の人、エサウを不信仰の人として描いていますが事実そうだったとの確信は持てません。新約聖書はエサウには冷たく、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのようには不品行で俗悪な者にならないようにしなさいと教えます。人がいいエサウはその後も、祝福を受け継ごうと一心には願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったと非難してます。しかし、実は神はエサウをも捨てずに祝福されていました。エサウの系図が示すものは、神は正系のヤコブだけでなく、傍系のエサウも祝福されたという証でしょう。我々の常識では、狩人故に労働もきつく腹をすかした人の良いエサウを一杯の食で長子権を奪い、イサクの祝福を変装さえしてまでも奪う行為をしたヤコブを何故に主なる神が選び人とされたのかは疑問ですが、神のみぞ知る世界の理法なのでしょう。
2013年06月28日
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「旧約聖書」創世記 第37章後半・奴隷ヨセフ 37:12さて兄弟たちがシケムに行って、父の羊の群れを飼っていたとき、37:13イスラエルはヨセフに言った、「あなたの兄弟たちはシケムで羊を飼っているではないか。さあ、あなたを彼らの所へつかわそう」。ヨセフは父に言った、「はい、行きます」。37:14父は彼に言った、「どうか、行って、あなたの兄弟たちは無事であるか、また群れは無事であるか見てきて、わたしに知らせてください」。父が彼をヘブロンの谷からつかわしたので、彼はシケムに行った。37:15ひとりの人が彼に会い、彼が野をさまよっていたので、その人は彼に尋ねて言った、「あなたは何を捜しているのですか」。37:16彼は言った、「兄弟たちを捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞわたしに知らせてください」。37:17その人は言った、「彼らはここを去りました。彼らが『ドタンへ行こう』と言うのをわたしは聞きました」。そこでヨセフは兄弟たちのあとを追って行って、ドタンで彼らに会った。37:18ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、37:19互に言った、「あの夢見る者がやって来る。37:20さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。37:21ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。37:22ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。37:23さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、37:24彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。37:25こうして彼らはすわってパンを食べた。時に彼らが目をあげて見ると、イシマエルびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。37:26そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。37:27さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。37:28時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。37:29さてルベンは穴に帰って見たが、ヨセフが穴の中にいなかったので、彼は衣服を裂き、37:30兄弟たちのもとに帰って言った、「あの子はいない。ああ、わたしはどこへ行くことができよう」。37:31彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、37:32その長そでの着物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」。37:33父はこれを見さだめて言った、「わが子の着物だ。悪い獣が彼を食ったのだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ」。37:34そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。37:35子らと娘らとは皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められるのを拒んで言った、「いや、わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう」。こうして父は彼のために泣いた。37:36さて、かのミデアンびとらはエジプトでパロの役人、侍衛長ポテパルにヨセフを売った。 父の使いで、ヨセフが兄たちが羊を飼う地まで来た時、兄たちはヨセフ(Joseph)を殺してしまおうと謀った。ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、互に言う「あの夢見る者がやって来る。さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」と。それは単にヨセフを殺すだけでなくて神の意思を試みる行為でもあり、最年長のルベンは反対します。ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして決意します。われわれ兄弟は彼の命を取ってはならない。更に続けてルベンは「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない。」と言います。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すための心底であったのです。また、もう一人の兄ユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならないと言います。ユダの本真も彼の命を取ってはならないと思ったのでしょう、そして兄弟たちはこれを聞き入れます。しかし他の兄達は雄山羊の血を着物に浸し、ヨセフは獣に食われて死んだと父に報告します。父イサクを騙して兄エソウの長子権を騙し取ったヤコブが今、子たちに最愛の子が死んだと騙されたのです。ヤコブの偏愛が齎した兄たちのヨセフに対する憎しみを呼びこんで、ヨセフはエジプトの奴隷に売られますが、やがてその事が神から出たものであり、その行為が実はイスラエル一族を救うための出来事であったことがやがて明らかになります。ちなみに、イシュマエル人もミディアン人もアブラハムの子孫です。
2013年06月26日
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「旧約聖書」創世記 第37章前半・夢見る者ヨセフ 37:1ヤコブは父の寄留の地、すなわちカナンの地に住んだ。37:2ヤコブの子孫は次のとおりである。ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。37:3ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。37:4兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。37:5ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らは、ますます彼を憎んだ。37:6ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。37:7わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。37:8すると兄弟たちは彼に向かって、「あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか」と言って、彼の夢とその言葉のゆえにますます彼を憎んだ。37:9ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。37:10彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。37:11兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。 ヤコブは兄エサウとともに父を埋葬した後も、カナン地方に住んでいました。神の祝福より財産も多く蓄え、また、子宝にも恵まれて人生順風満帆の筈が、思わぬところに問題をかかえていました。かってヤコブは、父イサクが兄エサウを、母リベカが弟ヤコブを愛するという家庭の状況によって、ヤコブはエサウに命を狙われ出奔しなければならなくなった状況が、今また、繰り返されようとしています。ヤコブのヨセフ(Joseph)に対する偏愛、それも美麗で唯一愛したラケルがやっと生んでくれたのがヨセフ、しかもラケルは、ヨセフの弟ベニヤミンを生んだときに、難産のために死んでいます。だから尚更のこと、眉目秀麗で母に生き写しのヨセフが可愛く、彼には長袖の着物、それは労働服ではない、特別の着物を着せています。更には他の兄弟と区別してヤコブはヨセフには羊飼いの仕事をさせず手元に置いていたのです。これでは他の兄弟たちが彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかったとしても致し方無いでしょう。しかも、ヨセフは父の愛情にのぼせ、増長してました。ある日のこと、ヨセフは兄たちに、自分がみた夢の話をしました。畑で私達が束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。兄達の反応は当然、そんな夢を見、しかも得意げに語るとは生意気な、くわえてヤコブの例を出すまでもなくコブがヨセフを後継ぎにしないとは言い切れません。その後にはヨセフは、「 わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」聞いたヤコブもさすがに眉を顰めます。しかし此れはポーズだったかもしれません。叱りながらもこのことを心に留め置いたと記録されているからです。やがて兄達はヨセフに対する反感をつのらせヨセフを排除することを決意します。しかし神の恵みがヨセフにあることが予想出来ない道へ一族を導きます。
2013年06月25日
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「旧約聖書」創世記 第36章・エサウもエドムと改名 36:1エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。36:2エサウはカナンの娘たちのうちから妻をめとった。すなわちヘテびとエロンの娘アダと、ヒビびとヂベオンの子アナの娘アホリバマとである。36:3また、イシマエルの娘ネバヨテの妹バスマテをめとった。36:4アダはエリパズをエサウに産み、バスマテはリウエルを産み、36:5アホリバマはエウシ、ヤラム、コラを産んだ。これらはエサウの子であって、カナンの地で彼に生れた者である。36:6エサウは妻と子と娘と家のすべての人、家畜とすべての獣、またカナンの地で獲たすべての財産を携え、兄弟ヤコブを離れてほかの地へ行った。36:7彼らの財産が多くて、一緒にいることができなかったからである。すなわち彼らが寄留した地は彼らの家畜のゆえに、彼らをささえることができなかったのである。36:8こうしてエサウはセイルの山地に住んだ。エサウはすなわちエドムである。36:9セイルの山地におったエドムびとの先祖エサウの系図は次のとおりである。36:10エサウの子らの名は次のとおりである。すなわちエサウの妻アダの子はエリパズ。エサウの妻バスマテの子はリウエル。36:11エリパズの子らはテマン、オマル、ゼポ、ガタム、ケナズである。36:12テムナはエサウの子エリパズのそばめで、アマレクをエリパズに産んだ。これらはエサウの妻アダの子らである。36:13リウエルの子らは次のとおりである。すなわちナハテ、ゼラ、シャンマ、ミザであって、これらはエサウの妻バスマテの子らである。36:14ヂベオンの子アナの娘で、エサウの妻アホリバマの子らは次のとおりである。すなわち彼女はエウシ、ヤラム、コラをエサウに産んだ。36:15エサウの子らの中で、族長たる者は次のとおりである。すなわちエサウの長子エリパズの子らはテマンの族長、オマルの族長、ゼポの族長、ケナズの族長、36:16コラの族長、ガタムの族長、アマレクの族長である。これらはエリパズから出た族長で、エドムの地におった。これらはアダの子らである。36:17エサウの子リウエルの子らは次のとおりである。すなわちナハテの族長、ゼラの族長、シャンマの族長、ミザの族長。これらはリウエルから出た族長で、エドムの地におった。これらはエサウの妻バスマテの子らである。36:18エサウの妻アホリバマの子らは次のとおりである。すなわちエウシの族長、ヤラムの族長、コラの族長。これらはアナの娘で、エサウの妻アホリバマから出た族長である。36:19これらはエサウすなわちエドムの子らで、族長たる者である。36:20この地の住民ホリびとセイルの子らは次のとおりである。すなわちロタン、ショバル、ヂベオン、アナ、36:21デション、エゼル、デシャン。これらはセイルの子ホリびとから出た族長で、エドムの地におった。36:22ロタンの子らはホリ、ヘマムであり、ロタンの妹はテムナであった。36:23ショバルの子らは次のとおりである。すなわちアルワン、マナハテ、エバル、シポ、オナム。36:24ヂベオンの子らは次のとおりである。すなわちアヤとアナ。このアナは父ヂベオンのろばを飼っていた時、荒野で温泉を発見した者である。36:25アナの子らは次のとおりである。すなわちデションとアホリバマ。アホリバマはアナの娘である。36:26デションの子らは次のとおりである。すなわちヘムダン、エシバン、イテラン、ケラン。36:27エゼルの子らは次のとおりである。すなわちビルハン、ザワン、アカン。36:28デシャンの子らは次のとおりである。すなわちウズとアラン。36:29ホリびとから出た族長は次のとおりである。すなわちロタンの族長、ショバルの族長、ヂベオンの族長、アナの族長、36:30デションの族長、エゼルの族長、デシャンの族長。これらはホリびとから出た族長であって、その氏族に従ってセイルの地におった者である。36:31イスラエルの人々を治める王がまだなかった時、エドムの地を治めた王たちは次のとおりである。36:32ベオルの子ベラはエドムを治め、その都の名はデナバであった。36:33ベラが死んで、ボズラのゼラの子ヨバブがこれに代って王となった。36:34ヨバブが死んで、テマンびとの地のホシャムがこれに代って王となった。36:35ホシャムが死んで、ベダデの子ハダデがこれに代って王となった。彼はモアブの野でミデアンを撃った者である。その都の名はアビテであった。36:36ハダデが死んで、マスレカのサムラがこれに代って王となった。36:37サムラが死んでユフラテ川のほとりにあるレホボテのサウルがこれに代って王となった。36:38サウルが死んでアクボルの子バアル・ハナンがこれに代って王となった。36:39アクボルの子バアル・ハナンが死んで、ハダルがこれに代って王となった。その都の名はパウであった。その妻の名はメヘタベルといって、メザハブの娘マテレデの娘であった。36:40エサウから出た族長の名は、その氏族と住所と名に従って言えば次のとおりである。すなわちテムナの族長、アルワの族長、エテテの族長、36:41アホリバマの族長、エラの族長、ピノンの族長、36:42ケナズの族長、テマンの族長、ミブザルの族長、36:43マグデエルの族長、イラムの族長。これらはエドムの族長たちであって、その領地内の住所に従っていったものである。エドムびとの先祖はエサウである。 エサウはヤコブが帰郷した故に、お互いの多くの家畜を飼うには土地が狭くなったので、死海の南セイルの地に移り住みます。すなわち彼らが寄留した地は彼らの家畜のゆえに、彼らを支えることが出来なくなったのです。長男の権利を失ったエサウは致し方なセイルの山地に赴きます。其処でエサウはすなわちエドムは、その先住民ホリ人を征服して住みます。現在のヨルダンの地で、首都セラが後にペトラと呼ばれることになります。やがてエサウの子孫はそこに王国を造り、エドム人と呼ばれるようになり、同じアブラハム・イサクの末として、イスラエルの隣国のひとつを形成していきます。しかし後に、イスラエルがバビロンに滅ぼされた時(前589年)、エドム人はユダヤに侵攻し、憎しみを買うことになります。やがて彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになり、その中から新約聖書に登場する領主ヘロデが出ます。エサウの人生には神との交わりや渇望はなかったが、子供たちにも恵まれて、平和と安楽の中に生涯を過ごしたようです。しかし、神はエサウをも捨てずに祝福される。エサウの系図が示すものは、神は正系のヤコブだけでなく、傍系のエサウも祝福されたという事実があります。新約聖書はヤコブを信仰の人、エサウを不信仰の人として描いていますが、別段に兄弟仲は和解以降は悪くなかったもようです。また、アブラハムの長男イシマエルの娘ネバヨテの妹バスマテを娶って、アブラハムの血筋を保っています。
2013年06月24日
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「旧約聖書」創世記 第35章後半・最愛の妻ラケルと父イサクの死 35:11神はまた彼に言われた、「わたしは全能の神である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。35:12わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう」。35:13神は彼と語っておられたその場所から彼を離れてのぼられた。35:14そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に、一本の石の柱を立て、その上に灌祭をささげ、また油を注いだ。35:15そしてヤコブは神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。35:16こうして彼らはベテルを立ったが、エフラタに行き着くまでに、なお隔たりのある所でラケルは産気づき、その産は重かった。35:17その難産に当って、産婆は彼女に言った、「心配することはありません。今度も男の子です」。35:18彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた。35:19ラケルは死んでエフラタ、すなわちベツレヘムの道に葬られた。35:20ヤコブはその墓に柱を立てた。これはラケルの墓の柱であって、今日に至っている。35:21イスラエルはまた、いで立ってミグダル・エダルの向こうに天幕を張った。35:22イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。さてヤコブの子らは十二人であった。35:23すなわちレアの子らはヤコブの長子ルベンとシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。35:24ラケルの子らはヨセフとベニヤミン。35:25ラケルのつかえめビルハの子らはダンとナフタリ。35:26レアのつかえめジルパの子らはガドとアセル。これらはヤコブの子らであって、パダンアラムで彼に生れた者である。35:27ヤコブはキリアテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのもとへ行った。ここはアブラハムとイサクとが寄留した所である。35:28イサクの年は百八十歳であった。35:29イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。 おそらくはヤコブ一族とその一行が父イサクのもとへ向かって、ベテルを出発したときに、後にはベツレヘムとも呼ばれるエフラタへの途上で、ヤコブの実質4人の妻のうち最愛の妻ラケルが産気づきます。だが、喜びも束の間、悲嘆に変わります。ラケルはその難産のゆえに、命を落とすことになったのです。それでも気丈のラケルは最後の息を引き取る時に、その子をベン・オニ、意味は「わたしの苦しみの子」と名付けます。しかしヤコブは不吉な或いは神に不謹慎だと想ったのかベニヤミン、その意味は「右手の子」を意味しますが、旧約では右手は力・権威・名誉を象徴し、新共同訳聖書では「幸いの子」と訳す名を与えます。その最愛の妻だったラケルをヤコブはエフラタに行き着く途上のベツレヘムの道にラケルを葬り、そこに記念碑を建てました。ラケルが産気づいたのは、一同がベテルを出発し、エフラタまで行くにはまだかなりの道のりがある地点、ラケルが葬られたのはエフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道のかたわらと記録されています。現在ではラケルの墓と伝えられているのはエルサレムの南にあるベツレヘムとしていますが、ベツレヘムへ向かう道の傍らであってベツレヘムではなく、産気づいたのもエフラタ(ベツレヘム)までかなり距離がある地点であることから、実際にはもっとベテル寄りのところに葬られたかと思われます。その根拠は、後世に十二部族でカナンの地を嗣業として分割をしたとき、エルサレムの南8kmにあるベツレヘムはユダ族の地になり、エルサレムの北19kmにあるベテルなら、ラケルが命とひきかえに産んだベニヤミンの子孫、ベニヤミン族の地に成っているからです。此処で唐突にルベンが、ヤコブの側室ビルハと姦通したことが記録されています。ルベンはヤコブの長男ですが、父の寝台に上りそれを汚したために長子の権利を失うことを記録に残しヤコブノの最期にも其の事を語っています。結局はヤコブ(イスラエル)の12氏族の祖となるのは、母親ごとに紹介すると、ラバンの長女レアの息子はルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン。ラケルの息子はヨセフとベニヤミン。ラケルの召し使いビルハの息子はダンとナフタリ。 レアの召し使いジルパの息子のガドとアシェルとなります。ところで、ヤコブがイサクと再会したのち、逆に言うと、イサクが跡取り息子のヤコブと何十年ぶりに再会し孫たちと対面した後程無く、イサクは180歳で息を引き取りまが、実はイサクこそが主なる神とそれを一心に信じるアブラハムを信じ、また理解していたのではないでしょうか。生贄として捧げられるときにも何らの躊躇も無く縛られ身をアブラハムに委ねているのですから。加えて、おそらくイサクより先に、そこには妻リベカも葬られている場所にイサクは葬られます。その埋葬には、和解した双子の兄弟エサウとヤコブがともにあたります。
2013年06月23日
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「旧約聖書」創世記 第35章前半・ヤコブからイスラエルに名変 35:1ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。35:2ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。35:3われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」。35:4そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。35:5そして彼らは、いで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起ったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった。35:6こうしてヤコブは共にいたすべての人々と一緒にカナンの地にあるルズ、すなわちベテルにきた。35:7彼はそこに祭壇を築き、その所をエル・ベテルと名づけた。彼が兄の顔を避けてのがれる時、神がそこで彼に現れたからである。35:8時にリベカのうばデボラが死んで、ベテルのしもの、かしの木の下に葬られた。これによってその木の名はアロン・バクテと呼ばれた。35:9さてヤコブがパダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現れて彼を祝福された。35:10神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。35:11神はまた彼に言われた、「わたしは全能の神である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。35:12わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう」。35:13神は彼と語っておられたその場所から彼を離れてのぼられた。35:14そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に、一本の石の柱を立て、その上に灌祭をささげ、また油を注いだ。35:15そしてヤコブは神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。35:16こうして彼らはベテルを立ったが、エフラタに行き着くまでに、なお隔たりのある所でラケルは産気づき、その産は重かった。35:17その難産に当って、産婆は彼女に言った、「心配することはありません。今度も男の子です」。35:18彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた。35:19ラケルは死んでエフラタ、すなわちベツレヘムの道に葬られた。35:20ヤコブはその墓に柱を立てた。これはラケルの墓の柱であって、今日に至っている。35:21イスラエルはまた、いで立ってミグダル・エダルの向こうに天幕を張った。35:22イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。さてヤコブの子らは十二人であった。35:23すなわちレアの子らはヤコブの長子ルベンとシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。35:24ラケルの子らはヨセフとベニヤミン。35:25ラケルのつかえめビルハの子らはダンとナフタリ。35:26レアのつかえめジルパの子らはガドとアセル。これらはヤコブの子らであって、パダンアラムで彼に生れた者である。35:27ヤコブはキリアテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのもとへ行った。ここはアブラハムとイサクとが寄留した所である。35:28イサクの年は百八十歳であった。35:29イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。 ヤコブには家長としての威厳が無くなったのか、息子たちに対しても政治的にまずいことになったという言葉しか出ず、神の前に罪であるという言葉は見かけません。また、一族のうちに異邦の神々を信仰する者も存在していました。此の頃のヤコブは一族にあってもかなり発言力が低下していて、何があっても強く出る事が出来なくなっていました。言うことができなくなっていたように見えます。だが、窮するヤコブに神がヤハウェに解決を示します。ベテルに移り、そこに住めと指示したのです。ベテルは、ヤコブがエサウから逃れるとき、天からの階段を天使が上り下りする幻をみた地、彼の信仰の原点です。ヤコブはただちに、家族も奴隷もすべての人を集め、「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」と号令しました。一族はこれに従い、異邦の神々と、それにまつわる装飾品を差し出しました。それらの中には、ラケルがラバンは遠出を狙ったのか偶然か、ラバン一家の守り神の像テラピムも含まれていたに違いないでしょう。ヤコブはこれ等を埋めると、ベテルに向かって出発。其の時には、ヤコブはシケムの町に対する暴挙のために他の町から攻撃されることを懸念していましたが、「神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」と記録されています。そのヤコブがパダンアラムから帰ってきた時に、神はヤコブに「あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」と告げました。聖書で名を変えられるのは実体が変えられることを意味するのですが、「足を引っ張る者」つまり己第一を意味するヤコブという名から、「神は支配したまう」自己より神を第一とするイスラエルという名に変えられたのです。
2013年06月22日
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「旧約聖書」創世記 第34章・殺戮のシケムの町 34:1レアがヤコブに産んだ娘デナはその地の女たちに会おうと出かけて行ったが、34:2その地のつかさ、ヒビびとハモルの子シケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた。34:3彼は深くヤコブの娘デナを慕い、この娘を愛して、ねんごろに娘に語った。34:4シケムは父ハモルに言った、「この娘をわたしの妻にめとってください」。34:5さてヤコブはシケムが、娘デナを汚したことを聞いたけれども、その子らが家畜を連れて野にいたので、彼らの帰るまで黙っていた。34:6シケムの父ハモルはヤコブと話し合おうと、ヤコブの所に出てきた。34:7ヤコブの子らは野から帰り、この事を聞いて、悲しみ、かつ非常に怒った。シケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルに愚かなことをしたためで、こんなことは、してはならぬ事だからである。34:8ハモルは彼らと語って言った、「わたしの子シケムはあなたがたの娘を心に慕っています。どうか彼女を彼の妻にください。34:9あなたがたはわたしたちと婚姻し、あなたがたの娘をわたしたちに与え、わたしたちの娘をあなたがたにめとってください。34:10こうしてあなたがたとわたしたちとは一緒に住みましょう。地はあなたがたの前にあります。ここに住んで取引し、ここで財産を獲なさい」。34:11シケムはまたデナの父と兄弟たちとに言った、「あなたがたの前に恵みを得させてください。あなたがたがわたしに言われるものは、なんでもさしあげましょう。34:12たくさんの結納金と贈り物とをお求めになっても、あなたがたの言われるとおりさしあげます。ただこの娘はわたしの妻にください」。34:13しかし、ヤコブの子らはシケムが彼らの妹デナを汚したので、シケムとその父ハモルに偽って答え、34:14彼らに言った、「われわれは割礼を受けない者に妹をやる事はできません。それはわれわれの恥とするところですから。34:15ただ、こうなさればわれわれはあなたがたに同意します。もしあなたがたのうち男子がみな割礼を受けて、われわれのようになるなら、34:16われわれの娘をあなたがたに与え、あなたがたの娘をわれわれにめとりましょう。そしてわれわれはあなたがたと一緒に住んで一つの民となりましょう。34:17けれども、もしあなたがたがわれわれに聞かず、割礼を受けないなら、われわれは娘を連れて行きます」。34:18彼らの言葉がハモルとハモルの子シケムとの心にかなったので、34:19若者は、ためらわずにこの事をした。彼がヤコブの娘を愛したからである。また彼は父の家のうちで一番重んじられた者であった。34:20そこでハモルとその子シケムとは町の門に行き、町の人々に語って言った、34:21「この人々はわれわれと親しいから、この地に住まわせて、ここで取引をさせよう。地は広く、彼らをいれるにじゅうぶんである。そしてわれわれは彼らの娘を妻にめとり、われわれの娘を彼らに与えよう。34:22彼らが割礼を受けているように、もしわれわれのうちの男子が皆、割礼を受けるなら、ただこの事だけで、この人々はわれわれに同意し、われわれと一緒に住んで一つの民となるのだ。34:23そうすれば彼らの家畜と財産とすべての獣とは、われわれのものとなるではないか。ただわれわれが彼らに同意すれば、彼らはわれわれと一緒に住むであろう」。34:24そこで町の門に出入りする者はみなハモルとその子シケムとに聞き従って、町の門に出入りするすべての男子は割礼を受けた。34:25三日目になって彼らが痛みを覚えている時、ヤコブのふたりの子、すなわちデナの兄弟シメオンとレビとは、おのおのつるぎを取って、不意に町を襲い、男子をことごとく殺し、34:26またつるぎの刃にかけてハモルとその子シケムとを殺し、シケムの家からデナを連れ出した。34:27そしてヤコブの子らは殺された人々をはぎ、町をかすめた。彼らが妹を汚したからである。34:28すなわち羊、牛、ろば及び町にあるものと、野にあるもの、34:29並びにすべての貨財を奪い、その子女と妻たちを皆とりこにし、家の中にある物をことごとくかすめた。34:30そこでヤコブはシメオンとレビとに言った、「あなたがたはわたしをこの地の住民、カナンびととペリジびとに忌みきらわせ、わたしに迷惑をかけた。わたしは、人数が少ないから、彼らが集まってわたしを攻め撃つならば、わたしも家族も滅ぼされるであろう」。34:31彼らは言った、「わたしたちの妹を遊女のように彼が扱ってよいのですか」。 さて、カナンの地に戻ったヤコブは、ヨルダン川沿いのシケムの町の傍の土地を買い、そこに祭壇を建てて宿営した。ところが、あろうことか、そのシケムの町で娘のデナが地の男ハモルの子シケムに陵辱されるという出来事が起こった。異邦人との結婚を禁じていたイスラエルの一族にとって、これは許すことの出来ない辱めであった。シケムの男たちは、デナを嫁に欲しいと申し出るが、ヤコブの息子、特にデナの兄弟シメオンとレビを中心として策略を使って、彼らへの報復を図る。「われわれは割礼を受けない者に妹をやる事はできません。もしあなたがたのうち男子がみな割礼を受けて、我々のようになるなら、我々の娘をあなたがたに与え、あなたがたの娘をわれわれに娶りましょう。そしてわれわれはあなたがたと一緒に住んで一つの民となりましょう。」。子供でさえ痛みに苦しむ割礼を大人の男が受ければ、その痛みは言葉に出し難いほどに。増して止血が充分に出来なければ出血は相当なもので、二日三日は満足には動けません。此の割礼はユダヤにとっては神との契約の証しとされ、出エジプト記の割礼の無いモーセでさえ神に命を狙われ、妻の機転で難を逃れたほどです。それ故、容易くシケムの男たちが割礼を受けて苦しんでいる処をヤコブの子たちは襲い、男たちを皆殺しにします。しかし、この出来事の為、ヤコブ一族はシケムに住み続ける事が出来なくなり、町を出ることになります。この事件に関しては、ヤコブは何の主導権も発揮できず、息子たちが全てを決定しました。寄留者であるヤコブが定住し始めた時、彼は力を無くしてしまったようです。後に彼は息子たちの行為、特に預言と祝福のかたちを以ってシメオンとレビを非難しています。創世記49:5-7「シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。」力を無くし、打ち沈むヤコブに、主は悔改めて本来の地であるベテルの戻れと言われます。しかし、現代の私たちから見たら犯罪にしか見えないシケムの行動ですが、このあとシケムは父ハモルに、ディナとの結婚の意志を伝えます。ディナに心を奪われ、愛し、言い寄ったと記録されているのです。そしてハモルも、息子をとがめることはせず、ヤコブのところに縁談に行きます。どうも彼らにとっては、結婚についてのごく普通の手続きだったようです。それにハモルにしても、有力者ヤコブと姻戚関係になるのは好都合であり、罪悪感はそれ程には感じなかったのでしょうが、イスラエルの子の報復は強烈でした。旧約の「怒りの神」としての畏怖する対象としての面が伺えます。アガペーとしての神はイエスの生誕を待たなければなりません。
2013年06月21日
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「時間」を紐解く(79)精神哲学-時間観(六)ベルクソンの時間心象説 時間仮象説をとる哲学者にはベルグソンも入ります。彼は人間が時間を時間軸のような仕方で空間化して表象する根強い習慣を示して、対して実在の本来の時間は意識の諸状態の相互浸透であるとします。此れは、意識の外の外在的現実が瞬間の継起であり相互浸透のない幾何学的空間であると結論づけていると云えます。しかし、外在世界が「瞬間」の「継起」だとしても、相互浸透のない世界では動きと変化が捉えきれません。また、時間を幻想とは言わないまでも仮象として、意識など人間の内面の心の質の変化に帰した考え方は、アウグスティヌスやラッセルと同じく、未来とはまだ起きていない事柄に対する人間の期待であり、過去とはすでに起きてしまった事柄の想起であって、期待も想起もわれわれの精神の働きであるから、時間はわれわれの心の中の質の変化即ち「純粋持続」だというのです。時間を外在する物理的現実に帰せないとすぐに意識や内面に問題をあずけてしまうのは、人間を社会や文化から切り離された個人として考察する近代哲学に由来する悪い習慣であるともいえましょう。これ等は総じて、未来や過去は存在しないという判断から出発しているが、たしかに、この先入見によれば、未来と過去は予期し想起はできても実在することはできないから、存在しないということになります。
2013年06月20日
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「旧約聖書」創世記 第33章・双子の兄弟の和解 33:1さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、33:2つかえめとその子供たちをまっ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、33:3みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。33:4するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。33:5エサウは目をあげて女と子供たちを見て言った、「あなたと一緒にいるこれらの者はだれですか」。ヤコブは言った、「神がしもべに授けられた子供たちです」。33:6そこでつかえめたちはその子供たちと共に近寄ってお辞儀した。33:7レアもまたその子供たちと共に近寄ってお辞儀し、それからヨセフとラケルが近寄ってお辞儀した。33:8するとエサウは言った、「わたしが出会ったあのすべての群れはどうしたのですか」。ヤコブは言った、「わが主の前に恵みを得るためです」。33:9エサウは言った、「弟よ、わたしはじゅうぶんもっている。あなたの物はあなたのものにしなさい」。33:10ヤコブは言った、「いいえ、もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。33:11どうかわたしが持ってきた贈り物を受けてください。神がわたしを恵まれたので、わたしはじゅうぶんもっていますから」。こうして彼が強いて願うので、彼エサウは受け取った。33:12そしてエサウは言った、「さあ、立って行こう。わたしが先に行く」。33:13ヤコブは彼に言った、「ごぞんじのように、子供たちは、かよわく、また乳を飲ませている羊や牛をわたしが世話をしています。もし一日でも歩かせ過ぎたら群れはみな死んでしまいます。33:14わが主よ、どうか、しもべの先においでください。わたしはわたしの前にいる家畜と子供たちの歩みに合わせて、ゆっくり歩いて行き、セイルでわが主と一緒になりましょう」。33:15エサウは言った、「それならわたしが連れている者どものうち幾人かをあなたのもとに残しましょう」。ヤコブは言った、「いいえ、それには及びません。わが主の前に恵みを得させてください」。33:16その日エサウはセイルへの帰途についた。33:17ヤコブは立ってスコテに行き、自分のために家を建て、また家畜のために小屋を造った。これによってその所の名はスコテと呼ばれている。33:18こうしてヤコブはパダンアラムからきて、無事カナンの地のシケムの町に着き、町の前に宿営した。33:19彼は天幕を張った野の一部をシケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取り、33:20そこに祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。 もともとがエサウはさっぱりした性格です。20年も怒りを引きずることなく、父の家の跡取りである弟をできる限りの陣容で出迎えに来たのです。但し、私的には格闘の相手が兄エサウだとしたら、尚更に恨みを捨てきっていたかもしれません。エサウ(Esau)は走りよって迎えると、ヤコブ(Jacob)を抱きしめ口づけし、二人は20年ぶりの再会に涙で顔を濡らします。ヤコブと会う前には多数の家畜の贈り物はエサウの怒りをなだめるためのもの、しかし今では、神の祝福を兄エサウと分け合うものと考えが変わっています。エサウも、そういうことであればとようやく受け取ることにしました。そして一緒に父イサクのところまで行こうと言ったのですが、ヤコブの方には幼い子供たちや多くの家畜をかかえているので、エサウの側の屈強な連中と一緒に行くのは無理と断ります。それなら自分は先に行くが、何人かを手伝いに残そうとエサウが言うと、ヤコブはこれも辞退。この間、ヤコブはエサウに対して常に低姿勢で、自分をエサウのしもべと呼んだり、エサウを主と呼んだりしています。理屈から言えば、ヤコブが長男の権利を奪っているので、一家の長であることをエサウも受け入れてます。それであれば、ヤコブが上位立ってもでいい筈です。でも今は身の保全のために、エサウに遜る必要がないことはヤコブ自身が一番理解していました。それ故、この腰の低さは卑屈な心からでなく、神への感謝と心の底からの謙遜の現われだったのでしょう。
2013年06月19日
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「旧約聖書」創世記 第32章後半・神の使いとの一騎打ち 32:22彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。32:23すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。32:24ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。32:25ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。32:26その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。32:27その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。32:28その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。32:29ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。32:30そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。32:31こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえにびっこを引いていた。32:32そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。 しかしその夜、ヤコブは家族と群れをヤボクで渡らせた後、一人残ります。夜の闇の中で、彼がエサウに行った数々の悪事の記憶が甦り、今まで自分の智恵と力に頼り生きてきたヤコブは兄エサウに殺されるかもしれないという恐怖に怯えて眠れません。その時、神の使い或い人が彼を襲った。創世記32:24「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。」此のひとりの人を、家族を巻き込んでまでの戦いにしたくなかった兄エサウと読み込んだとしても、そんなに奇妙なものでもない筈です。既にヤコブは、かっての自分の智恵と力に頼るヤコブではなくなっています。ヤコブがここで経験したものは祈りのなせる格闘であったのです。ヤコブの祈りに神が答えられ、エサウを通して自分の智恵と力に頼るヤコブの腿のつがいを外して、ヤコブを無力な者にされるのも肯けます。その時、主はヤコブに名を変えるように言われた。ヤコブはかかとをつかみ押しのける者からイスラエルすなわち神に勝たれる者に名を変えられます。兄を押しのけ、叔父を押しのけてヤコブは富を築きましたが、心の中には不安と恐れが離れませんでした。彼は神あるいは神の意を受けた兄と格闘することによって弱くされ、自分ではなく神に頼るものとされたのです。ヤコブは今はもうエサウを恐れません。ヤコブは胸を張って先頭に進み、エサウとの再会に臨みます。
2013年06月18日
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「旧約聖書」創世記 第32章前半・兄エサウを恐れる 32:1さて、ヤコブが旅路に進んだとき、神の使たちが彼に会った。32:2ヤコブは彼らを見て、「これは神の陣営です」と言って、その所の名をマハナイムと名づけた。32:3ヤコブはセイルの地、エドムの野に住む兄エサウのもとに、さきだって使者をつかわした。32:4すなわちそれに命じて言った、「あなたがたはわたしの主人エサウにこう言いなさい、『あなたのしもべヤコブはこう言いました。わたしはラバンのもとに寄留して今までとどまりました。32:5わたしは牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでわが主に申し上げて、あなたの前に恵みを得ようと人をつかわしたのです』」。32:6使者はヤコブのもとに帰って言った、「わたしたちはあなたの兄エサウのもとへ行きました。彼もまたあなたを迎えようと四百人を率いてきます」。32:7そこでヤコブは大いに恐れ、苦しみ、共にいる民および羊、牛、らくだを二つの組に分けて、32:8言った、「たとい、エサウがきて、一つの組を撃っても、残りの組はのがれるであろう」。32:9ヤコブはまた言った、「父アブラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。わたしはおまえを恵もう』と言われた主よ、32:10あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました。32:11どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。32:12あなたは、かつて、『わたしは必ずおまえを恵み、おまえの子孫を海の砂の数えがたいほど多くしよう』と言われました」。32:13彼はその夜そこに宿り、持ち物のうちから兄エサウへの贈り物を選んだ。32:14すなわち雌やぎ二百、雄やぎ二十、雌羊二百、雄羊二十、32:15乳らくだ三十とその子、雌牛四十、雄牛十、雌ろば二十、雄ろば十。32:16彼はこれらをそれぞれの群れに分けて、しもべたちの手にわたし、しもべたちに言った、「あなたがたはわたしの先に進みなさい、そして群れと群れとの間には隔たりをおきなさい」。32:17また先頭の者に命じて言った、「もし、兄エサウがあなたに会って『だれのしもべで、どこへ行くのか。あなたの前にあるこれらのものはだれの物か』と尋ねたら、32:18『あなたのしもべヤコブの物で、わが主エサウにおくる贈り物です。彼もわたしたちのうしろにおります』と言いなさい」。32:19彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った、「あなたがたがエサウに会うときは、同じように彼に告げて、32:20『あなたのしもべヤコブもわれわれのうしろにおります』と言いなさい」。ヤコブは、「わたしがさきに送る贈り物をもってまず彼をなだめ、それから、彼の顔を見よう。そうすれば、彼はわたしを迎えてくれるであろう」と思ったからである。32:21こうして贈り物は彼に先立って渡り、彼はその夜、宿営にやどった。 そもそもの件(くだり)は、ヤコブが長男エサウへの相次ぐ騙しが齎したものです。即ち、父イサクの家を出たのは、エサウに命を狙われたからなのですが、その原因はそもそもがヤコブの方にあり、エサウの怒りは当然でしょう。エサウの殺意を知った母リベカが偏愛するヤコブを逃がし、エサウの怒りがおさまったら呼び戻すからと約束したのです。神の指示で20年ぶりの帰郷を決意したヤコブですが、まだ母から迎えは来ていません。ヤコブは神を信頼しながらも、エサウへの恐れを振り切る事が出来ません。信仰と恐れのあいだで悶々とするヤコブを、此処は突然に天使軍団の護衛、神の陣営だと励まします。ところが、それでも兄エサウの復讐が怖い。これほど具体的に「全能の創造者が味方だ」という経験をしたヤコブでさえ、今そこにある危機の前では、神への信頼を維持するのは容易ではなかったのです。兎にも角に先方の情勢を探ろうと、使者をエサウのもとに送ることにします。このときヤコブが使者に命じた口上は、「あなたのしもべヤコブ、使いの者を御主人様のもとに送って、御機嫌をお伺いいたします。」卑屈なまでのヤコブの遜り様です。その使者が持ち帰った報告は、エサウが400人を引き連れて出向いてくるというものだったのです。祖父アブラハムの代には手勢300人余で、メソポタミアの王たちの連合軍を叩き潰し、父イサクの代で地元の王も神経を使うほどの豪族になっていた一族。その一族を掌握するエサウが、精鋭400人を引き連れて向かってくる、脅えるヤコブは、奴隷も家畜も二組に別けて、一方を先行させ、エサウが攻め込んできたなら、先行組が襲われている間にもう一組と逃げようという算段。窮地でおのれの限界を知った時、ヤコブは神に訴えます。恥も外聞もなく、死に物狂いの命懸けの末に神に助けを求めるヤコブ。それでも足りずか、神への信仰が十全でないのか、家畜の中からエサウへの贈り物を大量に選んで隊にわけ、隊ごとに距離を取って進ませます。物量だのみの、貢ぎ物に頼った多段攻勢を仕掛けます。エドム人は古代パレスチナに居住したセム系民族。現在ではエジプト人に含有。エドムはアカバ湾から死海にかけての地名であった。エドム人はイスラエルの兄弟民族であり、ヤコブの兄エサウの子孫とされて、一度の食事の欲望がで家督の権を失わしめた。モアブの南に拠点を張り、後世の聖王ダビデの時にイスラエルに朝貢しその属国になったと記されている。但し、エドムの子孫から権威ある者が出るという預言があることにも注目すべきでしょう。(イザヤ63章)
2013年06月17日
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「時間」を紐解く(78)私見-時間観(十九)ゼノンの真意 われわれがよく知っているはずの時間とは何か。問われて、宇宙や空間と比して、一層説明に困惑を覚えます。その一つに、時間は世界の方には存在しないで、人間の心象に過ぎないという考え方があります。パルメニデスの弟子ゼノンが言うには、運動には時間が必要であるが、瞬間は点であって延長を持たないから、ある瞬間における矢は動いていない。このことはどんな瞬間についても言えるので、飛ぶ矢は動いていないと言う。しかし、此の説の矛盾は、時間のリミット(限界)を抽象的な幾何学的点、幅を持たない大きさである刻点になぞらえるところに、もともと、無理があるのです。勿論、幅を持たない瞬間(ゼロ)を考えることは出来得ますが、現実の時間のなかに取り込むことは出来ません。しかし、ゼノンの真意は其処にはありません。正確には、飛ぶ矢のパラッドクス「多数性」を認めて運動を分析すれば、運動が不可能になる矛盾を抱えることを教えています。ゼノンは敬愛するパルメニデスの運動の在り様に「多数性」は認められない、分割など出来ない「一」こそが世界の真の姿であるとの「真の世界像」その実体を訴えているのです。
2013年06月16日
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「旧約聖書」創世記 第31章後半-2・主はわが盾 31:38わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。31:39また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。31:40わたしのことを言えば、昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。31:41わたしはこの二十年あなたの家族のひとりでありました。わたしはあなたのふたりの娘のために十四年、またあなたの群れのために六年、あなたに仕えましたが、あなたは十度もわたしの報酬を変えられました。31:42もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクのかしこむ者がわたしと共におられなかったなら、あなたはきっとわたしを、から手で去らせたでしょう。神はわたしの悩みと、わたしの労苦とを顧みられて昨夜あなたを戒められたのです」。31:43ラバンは答えてヤコブに言った、「娘たちはわたしの娘、子どもたちはわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものはみなわたしのものです。これらのわたしの娘たちのため、また彼らが産んだ子どもたちのため、きょうわたしは何をすることができましょうか。31:44さあ、それではわたしとあなたと契約を結んで、これをわたしとあなたとの間の証拠としましょう」。31:45そこでヤコブは石を取り、それを立てて柱とした。31:46ヤコブはまた一族の者に言った、「石を集めてください」。彼らは石を取って、一つの石塚を造った。こうして彼らはその石塚のかたわらで食事をした。31:47ラバンはこれをエガル・サハドタと名づけ、ヤコブはこれをガルエドと名づけた。31:48そしてラバンは言った、「この石塚はきょうわたしとあなたとの間の証拠となります」。それでその名はガルエドと呼ばれた。31:49またミズパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである、「われわれが互に別れたのちも、どうか主がわたしとあなたとの間を見守られるように。31:50もしあなたがわたしの娘を虐待したり、わたしの娘のほかに妻をめとることがあれば、たといそこにだれひとりいなくても、神はわたしとあなたとの間の証人でいらせられる」。31:51更にラバンはヤコブに言った、「あなたとわたしとの間にわたしが建てたこの石塚をごらんなさい、この柱をごらんなさい。31:52この石塚を越えてわたしがあなたに害を加えず、またこの石塚とこの柱を越えてあなたがわたしに害を加えないように、どうかこの石塚があかしとなり、この柱があかしとなるように。31:53どうかアブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神がわれわれの間をさばかれるように」。ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った。31:54そしてヤコブは山で犠牲をささげ、一族を招いて、食事をした。彼らは食事をして山に宿った。31:55あくる朝ラバンは早く起き、孫と娘たちに口づけして彼らを祝福し、去って家に帰った。 家族も蓄えも相応にできたヤコブが故郷に直ぐには戻れなかったのは「兄エサウの怒りがとけたら、迎えをやる」という母リベカ知らせが未だ無かったからでしょう。ただ往路の天使の乗降を観たあのベテルで「確かに神が自分とともにいる」という確信を与えられたヤコブに、「わたしは、あのときの神だ」と名乗る神が「わたしはすべて承知している。わたしがあなたの父祖に約束した地へ帰れ」というのです。ラバンにとってのラケルとレアは、ヤコブを引き止めておくための手枷足枷のつもり。二人をヤコブに売って財産を手に入れたも同然であれば、父のもとにいても自分や子どもたちが相続する分は期待できそうにない、ということで妻たちも帰郷することに異議なし。ヤコブがラバンのもとに来てから20年が過ぎたときのことでした。ヤコブは言います「この20年というもの、私があなたの群れの世話をしていて、家畜が子を産み損ねたことはない。あなたの群れの雄羊を食べたこともないし、野獣に殺されたものも盗まれたものも、私が償った。見張りのために、この厳しい土地で昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることすらできなかった。この20年間のうち、14年はあなたの2人の娘のため、6年はあなたの家畜の群れのために働いたというのに、あなたはわたしの報酬を十回も変えた。もし、神ヤハウェがわたしの味方でなければ、あなたはきっとわたしを手ぶらで追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたをさとされたのです」と。相手のラバンはもう、「裸一貫で来たヤコブがいま故郷に持ち帰ろうとするのはすべて私の物だったものだ、しかし娘や孫たちのために手出しは控えよう」と強がるのが精一杯。ヤコブに一抹の恐れを抱くラバンは石塚をつくり、双方とも敵意を持ってこの石塚を越えることのないようにと誓いあいます。そして和解の証明として食事をともにすると、内心はどうかわかりませんが、ラバンは翌朝はやくに娘と孫たちに口づけして祝福し、平和のうちに去ります。ラバンもこれだけ分が悪くなれば、もし神の介入がなければ戦う展開は必至だったでしょう。しかし神は、信じる者ヤコブの盾になって守ります。後に聖王であり詩人のダビデは、先王サウルに不当に命を狙われたあとで、「主はわたしの岩、砦、逃れ場、 わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え不法から救ってくださる方」の歌いだしで始まる長編の詩でヤハウェをたたえます。
2013年06月15日
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「旧約聖書」創世記 第31章後半-1・テラピムに纏わる危機 31:22三日目になって、ヤコブの逃げ去ったことが、ラバンに聞えたので、31:23彼は一族を率いて、七日の間そのあとを追い、ギレアデの山地で追いついた。31:24しかし、神は夜の夢にアラムびとラバンに現れて言われた、「あなたは心してヤコブに、よしあしを言ってはなりません」。31:25ラバンはついにヤコブに追いついたが、山に天幕を張っていたので、ラバンも一族と共にギレアデの山に天幕を張った。31:26ラバンはヤコブに言った、「あなたはなんという事をしたのですか。あなたはわたしを欺いてわたしの娘たちをいくさのとりこのように引いて行きました。31:27なぜあなたはわたしに告げずに、ひそかに逃げ去ってわたしを欺いたのですか。わたしは手鼓や琴で喜び歌ってあなたを送りだそうとしていたのに。31:28なぜわたしの孫や娘にわたしが口づけするのを許さなかったのですか。あなたは愚かな事をしました。31:29わたしはあなたがたに害を加える力をもっているが、あなたがたの父の神が昨夜わたしに告げて、『おまえは心して、ヤコブによしあしを言うな』と言われました。31:30今あなたが逃げ出したのは父の家が非常に恋しくなったからでしょうが、なぜあなたはわたしの神を盗んだのですか」。31:31ヤコブはラバンに答えた、「たぶんあなたが娘たちをわたしから奪いとるだろうと思ってわたしは恐れたからです。31:32だれの所にでもあなたの神が見つかったら、その者を生かしてはおきません。何かあなたの物がわたしのところにあるか、われわれの一族の前で、調べてみて、それをお取りください」。ラケルが神を盗んだことをヤコブは知らなかったからである。31:33そこでラバンはヤコブの天幕にはいり、またレアの天幕にはいり、更にふたりのはしための天幕にはいってみたが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕にはいった。31:34しかし、ラケルはすでにテラピムを取って、らくだのくらの下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンは、くまなく天幕の中を捜したが、見つからなかった。31:35その時ラケルは父に言った、「わたしは女の常のことがあって、あなたの前に立ち上がることができません。わが主よ、どうかお怒りにならぬよう」。彼は捜したがテラピムは見つからなかった。31:36そこでヤコブは怒ってラバンを責めた。そしてヤコブはラバンに言った、「わたしにどんなあやまちがあり、どんな罪があって、あなたはわたしのあとを激しく追ったのですか。31:37あなたはわたしの物をことごとく探られたが、何かあなたの家の物が見つかりましたか。それを、ここに、わたしの一族と、あなたの一族の前に置いて、われわれふたりの間をさばかせましょう。 この時ラバンは遠出していたため、ラケルは、一家の守り神の像テラピムを盗み出します。これは当時、一家の長男が受け継ぐもので、家長の権威の象徴だったようです。ラバンの留守を狙ったのか偶然か、どちらにしろラケルは、一家の大切な守り神を盗み出します。少ない筈が主の恵みか、何故か多くなった「真っ黒でないヤギと真っ白でない羊」の群れと家族ともにヤコブは逃亡します。しかし遠出から戻ったラバンは、家畜だけでなく、ヤコブを繋ぎ止めておく目的だった大事な二人の娘と家族、更には大事な神像が無くなっていることに気づいたラバンは、ラバンは一族を率いて追跡を開始、7日目にヤコブに追いつきました。ヤコブがテントをはって宿営していたので、ラバン側もテントをひろげて陣を張り、それから両者は会見に臨みました。まずはラバンから、言い分を主張「私を欺き、娘たちを捕虜のように駆り立てて行くとは何事か。何故こっそり逃げ出して、私を騙したのか。ひとこと言ってくれれば、盛大に送り出したものを。孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは」神がヤハウェがヤコブに与える祝福のおこぼれで財産を増やして、散々契約更改してきた言い分です、信用出来ないのが人情でしょう。だが手勢を率いてきたラバンと争うことになれば、ヤコブに勝ち目はない。さてどうしたものかと思案するところに、なんとラバン「力づくに出ることも出来るんだが、昨日の夕べ、お前の父の神が夢に現れて、ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさいとお告げを受けたから差し控えてはいるが、それにしたって守り神の像を盗んだのはどういうことだ」と詰問します。天佑を確信するヤコブは、強気で抗弁をはじめます。「黙って逃げたのは、あなたのことだから、私の妻子を奪い取るのではないかと心配したからだ。神像などは知りません。探すなら探したいだけ存分に」これは寧ろ、自分と主なる神のなかに、盗んでまで偶像を持ち込むような者があれば、裁かないわけにはいかない。それで「神像が誰かのところで見つかれば、その者を生かしておかない」とまで言い切ちます。当の盗人が、最愛の妻ラケルだとも知らずに。当時の女性は別棟に居住するのが普通だったので、ラバンは、まずヤコブのテント、続いてレアや、召し使いビルハとジルパのテントを捜索し、ラケルの天幕にやっきます。危うしラケル、ところが機転の利くこの女性、神像をらくだの鞍の下に入れてその上に座り、月の障りよとラバンに詫びています。家宅捜索の不発を見てヤコブは、この20年分の怒りが爆発したのか、それとも今回もラバンが自分をまた騙すのかと思ったのか「見つけたのなら、この場にいる全員の前でどっちが正しいかみんなに決めてもらおうじゃないか。」と逆切れ状態、薄氷を踏むとはこのことでしょう。
2013年06月14日
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「時間」を紐解く(77)認識論-時間観(一)バシュラール G・バシュラール(Gaston Bachelard:1884-1962)というベルクソンと同じフランス人である哲学者は、科学を主題とした認識論、および詩的イメージを論じた詩学において独創的な主張を展開した思想家と見なされている。バシュラールは科学を主題とした認識論、および詩的イメージを論じた詩学において独創的な主張を展開した思想家と見なされている。しかし、これまであまり注目されることはなかったが、バシュラールは1930年代に時間を主題としたいくつかの論考を残している。バシュラールは時間をめぐる議論において、時間の本質を「持続」に求めるベルクソンに異を唱え、時間の本質を「継起」する「瞬間」に求めるガストン・ルプネルに賛同します。ただし、その論拠として一つは「瞬間」の概念、切断されたもの、否定されたもののなかにこそ創造性が見出せるという主張であることに注意が必要です。この主張は切断されたもの、否定されたもの同士の関係と、それによって生まれる創造性への着眼にあって、「瞬間」においてのみ創造性が可能になることを指摘しています。科学に対する批判的態度を背景に持つベルクソンの時間論に対し、多少の無理をしてでもバシュラールが反対しなければならなかった理由は、時間の問題を論じる以前から、哲学の一部門である存在論ないし形而上学と並ぶ哲学の主要な一部門とされ、知識論(英:theory of knowledge)とも呼ばれる認識論を展開していた彼にとって、科学こそが真正な認識方法であるということを、譲ることのできない前提としていたからです。時間をめぐる議論が認識論と連動していることからも解るとおり、認識論的切断、実験への理論負荷性、認識論的障害といったバシュラールの認識論の主要な概念は時間をめぐる議論と論点を多くを共有しており、しかもそれらの概念は、実は時間をめぐる議論が活発になる1930年代を境として、後世に於いて一層重んじられるようになっていきます。しかしながら、現代においては、多くの場面で、認識論的問題が主題として取り上げられていますが、哲学においては、常に存在論的前提が認識論を可能とし、同時に認識論が存在論を肯定あるいは否定し、更には新たに存在論を構成するという緊密な関係にあることを念頭に検討することが必用でしょう。くわえて存在論における問題が全て個別科学に還元されている訳ではなく、哲学的存在論は哲学的認識論と共にその存在意義を失うことにはならないことには考慮すべきでしょう。現実を理解することにおいて哲学が依然として重要で魅力ある学問であること、時代が混迷するとき哲学が常に要求されるのも、不死鳥のように蘇るのも当然の理である筈です。
2013年06月13日
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「時間」を紐解く(76)私見-時間観(十八) 我々人間の心象では時間が、世界内構造物である万物を支配しているようにも思えます。時間の流れの中で生涯を生きて、そして死んでゆく。我々は、自身が死すべき存在であるが故に、時間を絶対的なものとして捉えます。しかし、人間以外のものである青き水の惑星である美しい地球も、我々が表象する時間としての動き・変化とともに破滅にむかって朽ち果てていくことは止めようもない。人間的な精神性を持たないと思われている無生物である恒星も銀河も成長して最期には死を迎える。これは何故だろう。物理学者は、エントロピーが増大するためであると答えるかもしれない。それならば、何故、宇宙の中に、規則正しい形をした銀河が存在しているのであろうか。宇宙の中において、時間は無生物にも生物にも誕生と成長と死というプロセスを与えているようにも思える。それ故に、我々人間は、創造者からの賜物として、時間を絶対的なものとして表象するように運命づけられているのか、それとも外在世界にも時間は等質的に存在するのか、外在世界に時間は動き・変化として時間の基体としては存在するものの、独立実体としては無いと考えます。
2013年06月12日
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「旧約聖書」創世記 第31章前半・ラケルとレアの激励31:1さてヤコブはラバンの子らが、「ヤコブはわれわれの父の物をことごとく奪い、父の物によってあのすべての富を獲たのだ」と言っているのを聞いた。31:2またヤコブがラバンの顔を見るのに、それは自分に対して以前のようではなかった。31:3主はヤコブに言われた、「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう」。31:4そこでヤコブは人をやって、ラケルとレアとを、野にいる自分の群れのところに招き、31:5彼女らに言った、「わたしがあなたがたの父の顔を見るのに、わたしに対して以前のようではない。しかし、わたしの父の神はわたしと共におられる。31:6あなたがたが知っているように、わたしは力のかぎり、あなたがたの父に仕えてきた。31:7しかし、あなたがたの父はわたしを欺いて、十度もわたしの報酬を変えた。けれども神は彼がわたしに害を加えることをお許しにならなかった。31:8もし彼が、『ぶちのものはあなたの報酬だ』と言えば、群れは皆ぶちのものを産んだ。もし彼が、『しまのあるものはあなたの報酬だ』と言えば、群れは皆しまのあるものを産んだ。31:9こうして神はあなたがたの父の家畜をとってわたしに与えられた。31:10また群れが発情した時、わたしが夢に目をあげて見ると、群れの上に乗っている雄やぎは皆しまのあるもの、ぶちのもの、霜ふりのものであった。31:11その時、神の使が夢の中でわたしに言った、『ヤコブよ』。わたしは答えた、『ここにおります』。31:12神の使は言った、『目を上げて見てごらん。群れの上に乗っている雄やぎは皆しまのあるもの、ぶちのもの、霜ふりのものです。わたしはラバンがあなたにしたことをみな見ています。31:13わたしはベテルの神です。かつてあなたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てましたが、いま立ってこの地を出て、あなたの生れた国へ帰りなさい』」。31:14ラケルとレアは答えて言った、「わたしたちの父の家に、なおわたしたちの受くべき分、また嗣業がありましょうか。31:15わたしたちは父に他人のように思われているではありませんか。彼はわたしたちを売ったばかりでなく、わたしたちのその金をさえ使い果たしたのです。31:16神がわたしたちの父から取りあげられた富は、みなわたしたちとわたしたちの子どものものです。だから何事でも神があなたにお告げになった事をしてください」。31:17そこでヤコブは立って、子らと妻たちをらくだに乗せ、31:18またすべての家畜、すなわち彼がパダンアラムで獲た家畜と、すべての財産を携えて、カナンの地におる父イサクのもとへ赴いた。31:19その時ラバンは羊の毛を切るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラピムを盗み出した。31:20またヤコブはアラムびとラバンを欺き、自分の逃げ去るのを彼に告げなかった。31:21こうして彼はすべての持ち物を携えて逃げ、立って川を渡り、ギレアデの山地へ向かった。 時にヤコブは夢をみた。(創世記28章12節)一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。ヤコブはこのべテルで、天使たちが天と地を繋ぐはしごを上り下りする、不思議な夢を見ました。眠りから覚めたヤコブは、この場所こそ神の家であることを確信したのです。そして、枕にしていた石を取って柱のように立て、聖なる誓いを捧げました。そして、此方は中国は唐の玄宗の開元年間のこと、呂翁という道士が邯鄲で、身の不平をかこった廬生に両端に孔があいた陶器の枕を貸します。唐の沈既済の小説「枕中記」に出てくる「邯鄲夢の枕」ですが、夢幻で一生を過ごし、人生を悟る話ですが、枕はときに不思議な現象を起こします。また、ダンテの「神曲」の最終場面、「光の梯子(カケハシ)」の描写でも「土星天から光の梯子がどこまでも、もはや目では望めぬ高みへと昇り、それを渡って今、光の天使たちが降りてくる。次から次へと」これはまさしく、臨死体験者が証言するところと一致していますが、ダンテもヤコブもその背後には臨死体験があったのかもしれません。更にもっと勘ぐれば、宇宙人渡来説も浮上してきますが、如何なものでしょう。
2013年06月11日
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「旧約聖書」創世記 第30章後半・ヤコブの秘儀30:25ラケルがヨセフを産んだ時、ヤコブはラバンに言った、「わたしを去らせて、わたしの故郷、わたしの国へ行かせてください。 30:26あなたに仕えて得たわたしの妻子を、わたしに与えて行かせてください。わたしがあなたのために働いた骨折りは、あなたがごぞんじです」。 30:27ラバンは彼に言った、「もし、あなたの心にかなうなら、とどまってください。わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました」。 30:28また言った、「あなたの報酬を申し出てください。わたしはそれを払います」。 30:29ヤコブは彼に言った、「わたしがどのようにあなたに仕えたか、またどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがごぞんじです。 30:30わたしが来る前には、あなたの持っておられたものはわずかでしたが、ふえて多くなりました。主はわたしの行く所どこでも、あなたを恵まれました。しかし、いつになったらわたしも自分の家を成すようになるでしょうか」。 30:31彼は言った、「何をあなたにあげようか」。ヤコブは言った、「なにもわたしにくださるに及びません。もしあなたが、わたしのためにこの一つの事をしてくださるなら、わたしは今一度あなたの群れを飼い、守りましょう。 30:32わたしはきょう、あなたの群れをみな回ってみて、その中からすべてぶちとまだらの羊、およびすべて黒い小羊と、やぎの中のまだらのものと、ぶちのものとを移しますが、これをわたしの報酬としましょう。 30:33あとで、あなたがきて、あなたの前でわたしの報酬をしらべる時、わたしの正しい事が証明されるでしょう。もしも、やぎの中にぶちのないもの、まだらでないものがあったり、小羊の中に黒くないものがあれば、それはみなわたしが盗んだものとなるでしょう」。 30:34ラバンは言った、「よろしい。あなたの言われるとおりにしましょう」。 30:35そこでラバンはその日、雄やぎのしまのあるもの、まだらのもの、すべて雌やぎのぶちのもの、まだらのもの、すべて白みをおびているもの、またすべて小羊の中の黒いものを移して子らの手にわたし、 30:36ヤコブとの間に三日路の隔たりを設けた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼った。30:37ヤコブは、はこやなぎと、あめんどうと、すずかけの木のなまの枝を取り、皮をはいでそれに白い筋をつくり、枝の白い所を表わし、 30:38皮をはいだ枝を、群れがきて水を飲む鉢、すなわち水ぶねの中に、群れに向かわせて置いた。群れは水を飲みにきた時に、はらんだ。 30:39すなわち群れは枝の前で、はらんで、しまのあるもの、ぶちのもの、まだらのものを産んだ。 30:40ヤコブはその小羊を別においた。彼はまた群れの顔をラバンの群れのしまのあるものと、すべて黒いものとに向かわせた。そして自分の群れを別にまとめておいて、ラバンの群れには、入れなかった。 30:41また群れの強いものが発情した時には、ヤコブは水ぶねの中に、その群れの目の前に、かの枝を置いて、枝の間で、はらませた。 30:42けれども群れの弱いものの時には、それを置かなかった。こうして弱いものはラバンのものとなり、強いものはヤコブのものとなったので、 30:43この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。 ラケルと結婚するために7年と思いきや、レアがラバンと謀ってのズルで、更に加えて7年を創造者から祝福をのもとで働いたヤコブですが。やっとその期間もすぎたころに、ヤコブは創造者から祝福をに、自分をカナンに帰らせてくれるようにと言い出します。言われたラバンは困惑します。なにしろ、ほんの僅かだった家畜がヤコブが来てからは増える一方。更には占ってみると、ヤコブの主なる神の御蔭で自分も創造者からの祝福をいただいているという事情です。そこで、狡猾なラバンは、報酬を払うからもっと居てくれと頼みます。但し、ヤコブとしても、家族を得たが無一文というのでは、故郷に帰りにくい。そこで二人は契約を結びます。その決め事はヤコブの報酬を、羊のうち、大多数の真っ白いものはラバンのもとに残し、真っ白ではない「少数のもの」をヤコブのものにする。山羊のうち、大多数の真っ黒いものはラバンのもとに残し、真っ黒ではない「少数のもの」をヤコブのものにすると、ヤコブにすれば不利な条件です。約定したヤコブは、其の後もさらにしばらくの間、ラバンの群れの世話をすることになります。ヤコブがラバンの群れの世話をはじめると、ラバンは、ヤコブの報酬となる、真っ黒ではないヤギと真っ白ではない羊を自分の群れから隔離しました。少しでもヤコブの群れが増加しないようにしようと諮ったのです。対してヤコブは、かなり奇妙なことしています。家畜が発情期になると、ポプラとアーモンドとプラタナスの若枝の皮をはいで縞にしたものを家畜にみせながら交尾させたのです。また、丈夫な個体が交尾するときにはこうしましたが、弱い個体のときには枝を見せませんでした。此処は解する事の難しい記述です。結果はヤコブは、六年後にラバンの元を去るまでのあいだに、増々豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それに駱駝や驢馬を持つようになりました。此のことは、ヤコブが類稀な秘儀を知っていたのか、それとも、神の導きによるのかは記載されていません。
2013年06月10日
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「旧約聖書」創世記29章31節~30章24節・レアとラケル(名付け合戦)2 30:14さてルベンは麦刈りの日に野に出て、野で恋なすびを見つけ、それを母レアのもとに持ってきた。ラケルはレアに言った、「あなたの子の恋なすびをどうぞわたしにください」。 30:15レアはラケルに言った、「あなたがわたしの夫を取ったのは小さな事でしょうか。その上、あなたはまたわたしの子の恋なすびをも取ろうとするのですか」。ラケルは言った、「それではあなたの子の恋なすびに換えて、今夜彼をあなたと共に寝させましょう」。 30:16夕方になって、ヤコブが野から帰ってきたので、レアは彼を出迎えて言った、「わたしの子の恋なすびをもって、わたしがあなたを雇ったのですから、あなたはわたしの所に、はいらなければなりません」。ヤコブはその夜レアと共に寝た。 30:17神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって五番目の子をヤコブに産んだ。 30:18そこでレアは、「わたしがつかえめを夫に与えたから、神がわたしにその価を賜わったのです」と言って、名をイッサカルと名づけた。 30:19レアはまた、みごもって六番目の子をヤコブに産んだ。 30:20そこでレアは、「神はわたしに良い賜物をたまわった。わたしは六人の子を夫に産んだから、今こそ彼はわたしと一緒に住むでしょう」と言って、その名をゼブルンと名づけた。 30:21その後、彼女はひとりの娘を産んで、名をデナと名づけた。 30:22次に神はラケルを心にとめられ、彼女の願いを聞き、その胎を開かれたので、 30:23彼女は、みごもって男の子を産み、「神はわたしの恥をすすいでくださった」と言って、 30:24名をヨセフと名づけ、「主がわたしに、なおひとりの子を加えられるように」と言った。 ある日、ルベンが「恋なすび」というものを見つけてきまそ。恋なすびは毒性が強く、現代でもアラブ人はこの実や花を避ける程で、そのこと故に一層、魔術的な力を持つと思われていたようで、子宝に恵まれる効果があるとも信じられていたようです。近代ではナポレオンの遺体の毛髪から「水銀」が検出され、毒殺説が浮上しましたが、此れも「医薬効果」を持つとして使用されていました。医学も鵜呑みにしていると痛い目にあいます。ところで、ルベンはそれを母レアのところに持っていったのですが、そうと知ったラケルがレアに、「恋なすび」を頂戴と言ってきたのです。「死に物狂いの争い」と云っても、実はそれ程に仲が悪くなかったのですが、その相手に「ヤコブの子を産みたいから貴女も協力して」と堂々と言ってのけるあたり、ラケルもかなり焦っており挑発的です。その言葉を聞いたレアは逆ギレして、ラケルにあなたが夫を奪ったと責めます。事実はレアがラバンと謀ってのズルなんですが。するとラケルは何を言い出すかと思いきや「恋なすびをくれれば、今夜はヤコブをあなたの処に行くようにしましょう」と取り引きしたのです。ヤコブが帰宅するやレアが出てきて、「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから」。何んとヤコブ、威厳も立場もなし。知らないうちに二人の妻の間で自分が売買されているのですから。しかし、そこには激怒したとかの記述も無く素直にレアの寝所に入ります。ところが、「恋なすび」の効果より先にレアに祝福が齎されます。すなわち、レアは二人の男児を儲けます。召使ジルパを夫に与えた報酬だということで、サカル(報酬)からイッカサル。六人も男児を生めば、夫が尊敬してくれるでしょうということで、ザバル(尊敬)からゼブルン。更にレアは、ディナという女児をも産みます。ほかにも女児がいたかもしれませんが、あとでまた登場するディナの名だけが特記。ラケル自身も待ちに待った男児を「恋なすび」の効果は兎も角も、漸く男児をもうけました。恋なすびの効果があったのか。只、聖書は「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので」とだけ記録しています。ラケルは「神がわたしの恥を漱いでくださった」と喜び、創造者がわたしに男の子を加える(授ける)ようにと願っていたのでヨセフ、意味は「加える」と命名しました。姉に勝つことだけを求めていたときには、神ヤハウェはラケルに子を与えませんでした。全能者の前に謙遜な姿勢で祈ったときに、はじめてラケルの願いは聞かれたのです。
2013年06月09日
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「旧約聖書」創世記29章31節~30章24節・レアとラケル(名付け合戦)1 「ヤコブはレアよりもラケルを愛した」と記録されている通り、レアとラケルの姉妹を妻としたヤコブですが、惚れたわけでもない、しかもラバンとグルになって自分を騙したのかも知れないレアに対するのと、結婚するためだけに14年も費やすほど愛したラケルに対しては、いかに態度が違っても、是非は別として致し方ないと云えます。しかたないことでしょう。ところが、そんなヤコブの態度に、主なる神ヤハウェは、レアに子宝を授け、一方のラケルの胎を閉ざします。神の恵みでレアは四人の男児をもうけます。夫々の子宝に名付けた名前は、上から順に、ヤハウェがわたしの苦しみをかえりみてくださったので授かったということで、ラア(見る)から長男をルベンと命名。ヤハウェが、わたしがうとんじられていることを耳にされたから授かったということで、シャマ(聞く)からシメオン。3人も男の子を産んだので夫はわたしに結び付いてくれるだろう、という思いで、ラべ(結ぶ)から、後にイスラエルのなかでも特殊な地位を担う氏族の祖先となるレビ。今までヤハウェに願い求めるばかりだったけど、今度は主を褒め称えようという思いで、ヤダ(賛美)から、聖王ダビデの出自となる強力氏族の先祖ユダ。形式上にすれ、第一夫人でありながら夫に愛されていないという苦悩が伺えるような命名です。一方のおキャラさんのラケルは、自分の胎が開かないのに姉に四人も子が生まれたのを見て逆切れ状態を起こすことになりますが、ヤコブだって「俺はヤハウェじゃない。貴女の胎に子どもを宿らせないのは神です。私が神に代ることが出来得ようか。」としか言えません。そこでラケルは、自分とうり二つと言っていい、あのサラのときのように、自分の召使いビルハによって、ヤコブの子を得ることにしました。そのビルハは二人を生み、その名はわたしの訴えをヤハウェは正しく裁いて子宝を授けたということで、ディン(裁く)からダン。姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝ったということで、ニフタル(争い)からナフタリ。ラケルはたぶん、姉に対する容姿の優越感に自信あるのに加えて、夫が本当に愛しているのは自分だという自負から、姉に対して優越を感じていたのでしょう。ところが、男児を産むということだけは、勝てなかった。今、代理母によってではあるけれど、対抗するレアは自分の召使いジルパをヤコブの側女とします。ヤコブの立場はどうなっているのだろうという感じですが、ジルパも二人を生み、その名は幸運という意味からガド。幸せという意味からアシェル。ところが姉妹の争いはさらに続くことになります。
2013年06月08日
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「旧約聖書」創世記第29章・レアよりもラケルの真実 1ヶ月の旅の後、ヤコブはハランに到着し、そこで従妹のラケル(子羊の意)に初出会い、おキャラな彼女は何んと未だ氏素性を知らないヤコブのラケルへの口づけを拒否しません。更には、リベカ同様に彼女は走って行って父に知らせます。叔父のラバンはラバンで、妹の子ヤコブがきたという知らせを聞くとすぐ、走って行ってヤコブを迎え、これもヤコブを抱いて口づけし、家に連れてきます。そこでヤコブはすべての事をラバンに話すと、ラバンは彼に言った、「あなたはほんとうにわたしの骨肉です」と。其の後ヤコブは一か月の間彼と共にいます。叔父ラバンには二人の娘がいましたが、ヤコブはその姉妹の妹、美しいラケルに惹かれ、彼女のために7年間働くことを申し出ます。其の為に「わたしは、あなたの妹娘ラケルのために七年あなたに仕えましょう」と誓います。7年後に誓い通りヤコブはラケルを求めたが、騙まし討ちのように与えられたのはレアでした。かってはヤコブが自分をエサウを騙して長子権を得たが、今度は叔父ラバンに応報の騙されかたをします。9:17でレア(うんざりする、あきあきするの意)は目が弱かったがとあるのは、砂漠やその周辺では、風で飛んでくる砂の微粒子で眼球を傷つけるケースが少なくないそうです。視力が極度に低下、あるいは失明し、白濁したような瞳になることがあります。レアもそんな状態だったのかもしれません。或いは、「目が弱かった」とあるのは本当に目が悪かったのではなく、当時の言葉で、不美人と言う意味をもつそうです。想像だにしなかった裏切り。先にはイサクをだまし、エサウから全てを奪ったヤコブが、今度は騙されてしまったのです。飛んでいって抗議したヤコブですが、ラバンは平然と、姉より妹を先に嫁に出すことは我々の慣習上出来ないと答え、妹も嫁にやるからもう7年働けと言い出す始末。それ故、ヤコブはラケルのためにもう7年間の労働奉仕が必要になります。察するに、ラバンはヤコブがラケルを求めることを予想していたのかもしれません。以降もあの手この手でヤコブを拘束し続けようとしていあます。恐らくはこの一ヶ月のヤコブの神の祝福を受けた労働の成果が、ラバンにヤコブを利用しようという気にさせたのでしょう。また、古代世界に在っては、多くの子及び子孫を得る為には、一夫多妻は認められたようです。しかし、レアの例を見るまでもなく妻たちは苦しんだのです。レアの子に対する命名は愛されない妻の悲哀に満ちています。しかし、レアの産んだ子の中から、モーセやダビデが生れる。神の業は人間の駆け引きや欲望を超えて実現されていきます。
2013年06月07日
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「時間」を紐解く(75)物理学-時間観(三) 時間の正体を追求してゆくと最後には哲学的論議に至らざるを得ない。現状物理学から見た時間学には限界があることも事実です。たとえば、物理学はなぜ我々が「現在としての今、私は在る」という感覚を持つのか説明を成し得ていません。時間は物理学の対象ではあるが、「現在としての今」という概念は物理学には登場しない。敢えていうならば、観測者の行動視点であ時刻をt=0 としようという程度の意味しかない。これは、此処を「観測者がいる場所を原点Oとしよう」というのと全く同様です。物理学は「今」という観念を人間の精神内にのみあるものとして位置づけるしかないのである。それでは、過去と未来の違いについてはどうか。物理学の法則はすべて「時間反転対称」即ち、現実として時間の流れが突然逆向きになる事は考え難いが、力学における物理法則は、時間の流れの向きに影響されず常に一定であるという事。もし仮に世界の全ての時間が逆向きに流れ出したとしても、あなたは時間が正常に流れているときと全く変わらないのです。つまりは、時間の向きを逆にしても全く同じ法則が成り立つ事を、時間反転対称性を持つと言います。言い換えれば、時間反転対称性を持つ物理法則に従った運動によっては、時間の流れが正常であるか逆であるかは判断できない。但し、空間反転対称性は破れていることが確認され、時間反転対称性の破れを示唆する現象も確認されているようである。しかし、どう考えても、時間は過去→現在→未来と進んでいるのであって未来→現在→過去とは進んではいない。これは人間の精神世界内にのみに起因している問題ではなく。地面を掘ると人間が存在しなかった過去に生きていた生物の化石が出て来るのに反し、人間の未来都市の「遺跡」が出てくることは決してあり得ない。この非対称性の存在は、我々の常識では当然のことと思われるが、物理学では根本的にそれを説明することは決して簡単ではない。物理学は、最近になって、漸く自らの発見による時間の本質についての重要情報を提示して、哲学と対等の議論に参加出来る段階に入った状態です。
2013年06月05日
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「時間」を紐解く(74)物理学-時間観(二) 時間とはどの様に定義できるモノで何なのか。その存在は宇宙存在或いは人間の観念に過ぎないのか、その存在は何れに属するものか。それはどこにあるのか。アインシュタインの相対性理論によると、時間は空間と同質で、空間は宇宙存在の内にある。同様に、時間は宇宙に中に在するのであろうか。宇宙は、百乃至二百億年の昔、ビッグバンという爆発で始まったという説が有力である。時間が宇宙の内にあるとすれば、時間はこの時に始まった。そうすると、二百億年以前には空間も時間は存在しなかったことになる。宇宙がまだなかった時には、空間も時間も無い筈である。それ故、空間や時間がなかった「時」という表現のしかたも時制(テンス)的には不完全なのではないか。空間も時間も宇宙には、その内部に時間と空間を一挙に内包して存在していると考えるのは物理学的には当然として、宇宙の外には時間も空間もないのが解明されていないのである。この宇宙の端には初期爆発のビッグバンの熱い点があり、現在の我々はビッグバンより百数十億年未来の方向に隔たった場所にいる。素粒子物理学によると、宇宙が出来始めたころには、宇宙はもっと高次元で、10次元以上あったという。そのうちの3次元が空間となり、1次元が時間となり、そのこりは、現在では小さく折り畳まれて、素粒子の性質を対応するような次元となったという。時間は多くの次元の1つに過ぎないというのである。そうすると、時間は、宇宙の内部でのみ存在するものであり、かつ、素粒子からできている物質との関わり合いを以って始めて存在できるものなのであろうかとの疑問が擡げる。この事実は、時間の基本的な性質が、素粒子の性質によって規定されていることを示している。結論的には物理学は運動に「零」を導入する訳にもいかず、時間の実在を認めないわけにはいかない。時間は、宇宙の中で唯一無二の絶対神のようなものではなく、物質との関わり合いながら、宇宙を構成しているいくつかのモノのうちのひとつに過ぎないとするのが、物理学から見た時間の結論でなのでしょう。
2013年06月05日
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「時間」を紐解く(73)物理学-時間観(一) 一般に時間は、過去から未来へと続くものとして1次元座標で表されます。この座標を表す物理量も時間と呼ばれ、時間を他の基本物理量と組み合わせて、速度、運動量、エネルギー、場といった別の物理量を算出しています。20世紀にいたるまで、ニュートンやガリレオといった偉大な物理学者も、時間というものは場所及び人間を問わず、何処でも同一のものだと考えていました。ところが、特殊相対性理論を持ち出したアインシュタインにより、時間の進み方は慣性系(観測者の置かれた場所)によって異なっているとします。また、時間はそれまで、連続的で流れているものである考えられていたのを、ドイツの物理学者で量子論の創始者の一人である「量子論の父」とも呼ばれているマックス・プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck)は測定することのできる最小の時間単位があることを示します。現代の物理学の体系において、時間は物理量のひとつとして扱われていますが、彼は光に最小単位があるという仮説を導入し、それによって光量子の概念が認められ、「時間の最小単位」という概念も登場します。これがプランク時間と呼ばれるものです。こうした物理学の発展をふまえて、アインシュタインの一般相対性理論は時空を実体的に捉えるものと通常は理解され、もしそうならば実体説(substantivism)に立つことになる。但し、時空の反実体説のも根強く争論となっています。彼は一般相対性理論の時空がリーマン空間であることを客観的な事実と考えていましたが、これを単なる規約と考える哲学者が多いのも事実です。また、時間と空間が本質的には異ならないことが相対性理論で示されたことから、光速を超えて移動することで逆向き因果や過去へのタイムトラベルもできるのではないかという可能性が一部に於いては示唆されています。
2013年06月03日
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「時間」を紐解く(72)精神哲学-時間観(五)ベルクソン ベルグソンによると、時間を時間軸のような仕方で空間化して表象する根強い習慣に反して、本来の時間は人間の内在意識の諸状態の相互浸透であるという。つまりは、意識の質的状態の相互浸透であり、此れを「純粋意識」と名付けています。空間化して諸状態を考えるときには、単に、持続を意識化して空間に投影してるだけであって、もはや、「時間」とは言えないと断言しています。此処には、形而上哲学の巨砲アリストテレスの時間論を基底にしているふしが見られます。即ち、外在世界には「空間」と「変化・動き」としての「運動」があるだけで「時間」は存在しない、「幅を持たない瞬間」を「現在」とするなら、それこそが「現在」と呼べるであろうと述べています。しかし、これは言い換えれば、意識の外の外在世界は物理的現実の相互浸透のない幾何学的空間であるということです。しかい、実際には、幾何学的に構成された空間とは違い、現実の空間を構成する点は他の点と相互に浸透し合っているのでではないかとの反対説も存在しますが、線上であれ三次元であれ点は幅どころか形も大きさも無い数学上の原点或いは標識であって、「ゼロ」は起点とは成り得ても、集合させて運動や空間を表現することは成し得ません。
2013年06月03日
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「神の愛」(アガペー)6暁のナース2 96歳の母親を持つ男性が、その後、近くの何時も母親が世話になる病院に病床が漸く空いたとのことで、入院先の変更が決まり、其の後の5日間の「暁のナース」と呼称される方の様子を観ると、相変わらず老人男性に声をかけて、おしぼりで手を拭き、顔を拭き世話をされておられます。また、当然の様に、同室どころか他の病床の患者にも「頑張るのよ」とお声をかけていらっしゃるのを見て驚きますが、其れだけでは済まず、自分が老人を悪臭と汚れのため近ずかなっかった自分に嗚咽が出るほどに情けなく思いました。ところで、御礼を言うため、せめて移送の時までに御話しをしたいと思っていたのですが、母親の移動時間が朝早くの9時だったこともあり、機会がありませんでした。ところが、母親の移送当日、早朝8時に病院に行くと、我が母の手を握っている「暁のナース」におまみえしたのです。男性は御礼と共に自分の人生を転換してくれた女性に感謝します。しかし、何時もの見舞い時間とは違い、訝しく想っていましたが、担当のナースが言いました。「あの方、早朝7時から、あなたのお母さんの手を握って励ましのお声を掛けられていたのですよ。」その一言には、喉がつかえて、答える言葉も思いつかなかったそうです。
2013年06月02日
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「神の愛」(アガペー)5暁のナース1 自分の親しいナースの伝聞ですが、家庭の事情によって、致し方なく老母をひとりで介護に追いやられた男性が、在る時96歳の母親が、遂には直腸脱調でコバエが患部に卵を産み付ける状態になり、高熱を出して正月の晩と云うことも有り遠方の救急病院に運び込まれました。其のときの救急担当医の診断によると合併症を引き起こしているということで、五時間から六時間の診断がかかるだろうがというので、待ち続けていると、二時間位して担当医がきて「今がやまなので覚悟だけはしておいて下さい」と申されます。すると隣で聞いていた女性が、その男性の手を握り、事情を尋ねもせずに夜中過ぎまで震える男性の手を握りしめていたそうです。運よく生還した母親を明くる朝に尋ねると、六人部屋の病室に昨日の女性がおられます。見ると老人男性に声をかけて、おしぼりで手を拭き、顔を拭き世話をされておられました。一声かけようとした時、御絞りを洗いに行かれ、戻ってきたときには、同室の二人のお顔にも声をかけて拭いておられ、励ましながら世話をしておられます。訝しくもあり見ていますと、どの看護師も「ご苦労様」と挨拶をしているので、男性はこの病院のOBなのかなと思いましたが、そうでもなさそうです。看護師のひとりをつかまえて、やっと事情が呑めました。「あの方は、面接時間外に来られていますが、老人の痴呆疾患に罹っている方は、時間観念を失っているので、あの方を暁のナースと呼ぶので、私たちもそう呼んでいます。」
2013年06月01日
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