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「時間」を紐解く(71)私見-時間観(十七)ゼノンのアキレスと亀の3 アリストテレス云うところの幅を一切持たない「瞬間」言い換えれば「極限瞬間」は、哲学的に意味を持ち得ても、自然科学者に使いこなせる瞬間とは、無減少の瞬間であって、時間上の折り返し点である「極限瞬間」である瞬点、いわば0×∞は意味を持ち得ません。運動とはそもそもが量ではなく質の変化である限りは、空間を占めることはあり得ない。二つの運動体を測ると云うことは、アキレスが亀の同時的な位置及び運動に区別をたてて、無限に空間を分割可能なものとすればいいが、ある「極限瞬間」と「極限瞬間」との間隙をもった運動状態を再構成しようとすると、ゼノンの罠に陥ってしまいます。静止で以って運動を創ることも空間を造ることも出来ないということを数学は思い知らされます。要するに連続しないものの並ぶ空間と同様に、変化を伴わない運動とは、通過された空間であり、単に静止を現わしているに過ぎません。
2013年05月31日
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「神の愛」(アガペー)4-愛の種別 ギリシア語には「愛」を表現する言葉が基本的には四つあり、エロース (性愛) 、フィリア (隣人愛) 、アガペー (真の愛) 、ストルゲー (家族愛) である。エロースは古代ギリシアにおける神聖な神エロースで、ギリシア神話に登場する恋心と性愛を司る神である。ギリシア語でパスシオン則ち受苦として起こる「愛」を意味する普通名詞が神格化されたものである。日本語では長母音を省略してエロスとも呼ぶ。また「性愛」や「肉体の愛」を典型的に意味した。エロースは文化人類学的にも良く知られるように、女性の生殖は神秘であり男性にとっては頗る驚異でもあり、神聖なものであった為、神と見做されたのであり、それ故、生殖の前提となる肉体の交渉での愛を交わすときには必ず含意する必要があった。それは情欲的な愛、自己中心的な愛を意味し、聖書では用いられるはずもない愛でした。フィリア(phiria)とは、ギリシア語で「友愛、相互協力」を意味し、我々と同様の命あるすべての者のため、世界の「共存共栄」のため、特に際立っては、親子、兄弟、友人間の人間的ではあるが麗しい愛を表すのに用いられます。それ故、ヘブライの伝統を引く原始キリスト教の信徒たちは、「フィリア」が「アガペー」がより適切であり、その「フィリア」は、友情や友愛以上の意味を持ち、この言葉がキリスト教の「愛」を示す言葉として選択していますが、それも不思議ではなかったとは想えます。更には「ストルゲー」があります。ギリシャ人はこの語を、血縁に基づいた強い家族愛、つまり自然の情愛という意味で使いました。「血は水よりも濃い」ということわざが生まれた原因はこの愛にあります。乳をふくませる母親が自分の子供を慈しむときのように無限にして無償である愛は「神の無限の愛」すなわちアガペーに繋がります。
2013年05月30日
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「神の愛」(アガペー)3真実の愛 アガペー(agape)は、キリスト教における神学概念ではあるが、、神の人間に対する「愛」無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、神は何かの利益を得る訳ではない。ので、「無償の愛」とされる。また、神が人間をアガペーの愛において愛するように、人間同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされています。「アガペー」は家族愛のような意味を持ち得ます。古代ギリシアでは真の愛。神の人間に対する無条件的絶対愛を表す言葉でもある。神は無限の愛アガペーにおいて始めから人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、無償の愛とされ、神は、善なる者にも、悪なる者にも、両者なに変わることなく、社会的地位や身分などによっても区別せず、無償の愛を与えてくれるそれがギリシア語の「神の愛」(アガペー)です。真実の愛とは、人間の愛情や愛とは違い、宇宙のすべての本源、絶対創造であり絶対精神の現出である「愛」である。真実の愛に姿や形はなく、世界意識であり、世界存在と一体である私達と共に在り、その意識そのものと共有するところに、真実の我であり、それに帰することが人間の生きる意味であり直覚知によって実感する事が出来得る。真実の愛は潜在意識の深くに内在していると想えるが、眠っている状態となっているために、この真実の愛が知りにくい状態にある。それを瞑想状態で悟ることで、真実の愛を実感するのが禅かもしれない。声なき声に耳を傾け世界と大統一することが世界存在が心に現れ真実の愛へと導く。但し、此れは覚りを得た人間だけに許されるものであり、我々は絶対精神存在を一方的に愛し帰属するのを待つしかない。しかしながら、絶対精神が絶対存在から出ている以上、それに対する人間の愛は、自己への幸福を呼び覚ます筈である。まして此処(其処)には人間の感情である恐怖などは一切存在しないのだから。
2013年05月29日
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「神の愛」(アガペー)2「大晦日10時過ぎの予約席」2改訂 其の後も、毎年大晦日前には、吹雪が吹きすさぶ夜も、母親は子たちの手を引いて来て片隅の畳席に四人が座り、「掛け蕎麦を一つ下さい」やはり恥ずかしげに「申し訳ありませんが、小鉢を三枚お願いします。」と言い、奥さんが旦那に言う「あんた、四人前持っていこうよ」の再三の言葉にも主人は顔を左右に振り、「駄目だ、言われた注文通りにしろ」と答えます。其の母子の大晦日の晩の蕎麦屋通いが四度目になったとき、その日の蕎麦屋の頑固一徹の主人が、奥さんが一杯のかけ蕎麦をを持って行こうとした時に、後ろを向いてクシャミしています。しかし、ハンカチが濡れていました。嫁入りして以来涙ひとつ見せなかった主人です。主人が今まで何故「駄目だ、言われた注文通りにしろ」と答えてきたのかが、解る様な気がしました。ところが、その次の年、その次その次の年と八年もの間、母子四人は大晦日10時に顔を見せません。それでも主人は片隅の畳席を予約席の札を置き続けてきました。いつかは常連客は「幻の予約席」と呼称しています。十二年経った時の、やはり吹雪が吹きすさぶ大晦日10時過ぎの夜、其の「幻の予約席」に青年が座りました。常連客は訝しげにそれを見て、やや非難がましい顔つきで見ています。「掛け蕎麦を一つ下さい」との注文に、調理を離れるはずが無い主人が「一杯のかけ蕎麦」を青年に持ってきました。青年は畳に頭を擦り付けるようにして、その節は有難う御座いましたといいます。主人は母親のことを感じるものがあるようで、青年に一言も訊ねません。「八年前から、母は床に就いたままとなり、前年に亡くなりました。いつも大晦日の晩には、[連れていけなくて御免ね]が口癖でした。今晩は嫁いだ妹と、今は働いている末娘が参りますので蕎麦を二杯追加願います」と青年は静かな声で言いました。娘二人が来て席に着いたときに、奥さんが蕎麦を三杯持ってきて言います。此れは主人の気持ちです。毎年来てくださることを主人が心待ちにしていることを伝える様にと申しております。
2013年05月28日
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「神の愛」(アガペー)1「大晦日10時過ぎの予約席」1改訂 幸せのテーブル「大晦日10時過ぎの予約席」の1989年に日本中で話題になった作品「一杯のかけ蕎麦」は、読む人を涙まみれにしたといわれます。私自身は恥ずかしながら読んでいないので、筋書きを私なりに推測しました。冬の雪降る世相が忙しい凍てつく風が吹きすさぶ或る晩、夫がいたかっての日々は暮しには困らない日々を送っていたかも知れない家族が、恐らくは、その夫が贔屓にしていて大晦日には予約をいれ、子供達を連れて食べに来たのかもしれない老舗の蕎麦屋だったのでしょう、今は主人を亡くし、幼い三人の子供達を抱え日々の生活さえ送るに送れない母親が、大晦日に一杯のかけ蕎麦を大晦日に子供達三人と分け合って食べる話です。馴染の席に座り注文します「掛け蕎麦を一つ下さい」、訝しげに女店員が聞き直します、「掛け蕎麦を一杯でいいんですね」、母親は何処か恥ずかしげに頷きます。「すみませんが、一杯でお願いします」更には「申し訳ありませんが、小鉢を三枚お願いします。」調理カウンターに居た主人の奥さんが旦那に言います。「あんた、四人前持っていこうよ」主人は顔を左右に振り、「駄目だ、言われた注文通りにしろ」と。注文通り来た掛け蕎麦を母親は、長男に本鉢を、後はそれぞれに入れるふりををして自分には子供の嫌いな薬味を、後を娘二人に分け与えます。女の子二人のうち末の娘が母親に向かって言います「おかあちゃん、おいしいね」この一言は、私らの現在考えさせられることしきりです。子供達は蕎麦を食べるのに加えて、それ以上に慈しみである「母の愛」を食べて満腹を覚えたのです。
2013年05月27日
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「時間」を紐解く(70)私見-時間観(十六)ゼノンのアキレスと亀の2 稀代の天才であるエレア派のゼノンのアキレスと亀の詭弁は、どこに巧妙な手順があるのか。それは定義の前提に「アキレスと亀」という、いかにも俊敏な人間と鈍足の亀を引き合いに出して数字の絡繰りで人を煙に巻いているところでしょう。その問題の一は、空間を占める大きさの違うアキレスを亀と同様に扱い、亀の一歩とアキレスの一歩を亀と同等に扱うことです。それは巧妙に線上を動く「アキレスと亀」を点として扱うことに起因します。線上を動く点として見れば、巧妙に追いつかないように計数されるように成しえます。また、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないとするのは、一線上を動く点を考えれば、無限に間隙こそ狭くなり、遂には線上の限界点(リミット)に達するであろうが、点である限りは他の点に重なりようがありません。仮に重なったとすれば、もはや、線とは言えず単なる点となるでしょう。ところが、空間を占めるアキレスの一歩々の運動を止めることは出来ません。二本のラインを移動する空間を占めるサイズの違う運動、まして、その一歩が分割できないことを前提に、亀の法則とは違うことに目をとめれば、更には空間と運動を混同しなければ、事は簡単です。アキレスが亀を追い越すことは間もなくでしょう。
2013年05月26日
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「時間」を紐解く(69)私見-時間観(十五)ゼノンのアキレスと亀の1 アリストテレスが「時間」は、始めと終わりの運動の数と説いています。数学者が好んで使う時間定数、その事情を考慮すれば、時間が運動を計数即ち動き・変化として取り扱う時に非常に便利であり役立つからです。そのことがゼノンのアキレスと亀の「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである。この議論は、アリストテレス「自然学」がとりあげた一節である。「ゼノンのパラドックスは、アキレスと亀の競争という時間に関する問題を、アキレスと亀の位置という空間に対する問題に置き換えているが、このことがパラドックスを引き起こしている。時間は本来分割不可能なのに、それを空間に置き換え空間の分割問題にしたところに問題がある。」と。ところが、現代の私たちは空間を無限に分割することができない事を知っていると勘違いしている。空間を分割していくと量子論の世界に入って行く。そして分割不可能な単位である素粒子に行き着く。つまり空間は無限に分割可能なのではなくて、それ以上は分割できない最小の単位があるのであると。ところが「空間」の始まりの存在、ビッグバンの基である「コア(核)」なるものの爆発直後に素粒子は存在していたのだろうか、そもそも素粒子は空間ではなく個物と捉えられます。空間が無限に分割する事を仮定しており正しくないとする説には賛成しかねる部分もあります。ベルグソンの誤謬は原子を線上の点、ユークリッド云うところの「位置をもち、部分を持たない大きさ」の定義を、線上のみならず空間の原子までを点に擬えたことにあります。「空間」とは文字通り「虚空」言い換えると、何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所であって、俗に云うところの「カラッポの状態」を言うと考えます。
2013年05月25日
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「時間」を紐解く(68)私見-時間観(十四)ゼノンの飛ぶ矢の矛盾の4 時間については古来からいくつかの考えがある。なかでも極端なのは、時間は存在しないし人間の仮象であるという考え方である。パルメニデスの弟子ゼノンが言うには、運動には時間が必要であるが、瞬間は点であって幅を持たない、瞬点としての存在だから、ある瞬間における矢は動いていない。このことはどんな瞬間についても言えるので、飛ぶ矢は動いていないと言うべきだが、これは矛盾している。そこには運動を空間に擬えてまたは時間を空間に見立てて、不可能だというのである。また、「運動には時間が必要」と言っているが、時間にこそ基体としての「動き・変化」である運動が必要とされるのだから、「動き・変化」のないところには「時間」こそが無く、「動き・変化」である運動は実在します。更には、瞬間を抽象的な幾何学的幅を持たなく大きさも無い点になぞらえるところに無理があるのではないとする説、若しくはそれに反して、われわれの経験する瞬間はとても短いだけで、人間が知覚する空間上の点は、とにもかくにもにしても体積を持つように、やはり此処は一定の幅を持つ時間間隔のことであるから、実際には、矢は少しは動いているとするとの説。いずれの説を取るにしても「飛ぶ矢」が静止することはあり得ません。それ故、「動き・変化」である運動は時間の実在・非実在に拘わらず「空間」の一点に占有させて静止させることは出来ません。加えて、アリストテレス云うところの幅を一切持たない「瞬間」言い換えれば「極限瞬間」は、哲学的に意味を持ち得ても、自然科学者に使いこなせる瞬間とは、無減少の瞬間であって、時間上の折り返し点である「極限瞬間」である瞬点、いわば0×∞は意味を持ち得ません。
2013年05月24日
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2013年05月23日
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「時間」を紐解く(67)私見-時間観(十三)ゼノンの飛ぶ矢の矛盾の3 ゼノンは、「飛ぶ矢」の第四定義では、4;飛んでいるあいだの時間は、そのあいだの瞬間から成り立っている。と述べていますが、これはアリストテレスが指摘するが如く、過去と未来を分かつ限界、幅を持たない「今」が、時間の限界である「瞬間」であって、本来的な「今(瞬間)」とは時間それ自体の部分ではない。時間は今の集合体ではなく、「今」は無数にあり続けるか、「今」が単一体で在り続けるのどちらかです。それは時間線上の未来と過去を分かつ幅を持たない時点であり、それ自体の「今」が消え去って、次々と現出するには矛盾が伴います。或る「今」が存在するとは、現に消滅しないで居ることをいうのですから。時間の限界としての瞬間である「今は」どんなに接近しても更にそのあいだには、「今」である限界としての瞬間が存在し、点と点とが繋がることは有り得ません。複数の相異なる「今」があるとした場合は、次々に消え去っては現出することも有り得ないし、複数の相異なる「今」が同時に存在するのも考え難い。同時に一遍に存在するならば、同時性・一挙性に於けるただ一つの「今」、絶対存在者の時間を俯瞰する瞬間の「今」神の永遠を考えなければならないでしょう。また、同一不変の「今」を単一とすると、其の中ではすべての出来事が一遍に存在することになり、絶対存在者である神の「瞬間」が現れ、出来事どうしの時間的順序関係は消え去ってしまいます。これでは「今」という瞬間が、複数あるにしても単一であるにしても、絶対存在者である神を考慮する以外に選択肢が無くなってしまいます。この様な事態に陥るのは、新たな出来事の方が、未来から迎え来て、過去へと逃れ去る軌跡は唯一無二であるとして、通過していく位置の方が複数あることを区別していないことから生じています。つまりは時間は瞬間から成り立ってはいないことになります。第五の定義;ゆえに、矢は飛んでいるあいだじゅう静止している。というのは、矢が或る位置から別の位置へ移動する作用とは、意識的な観察者にしかみえない、いわば心的統合の成せるわざであって、時間が人間の表象に過ぎないことの証にもなります。
2013年05月23日
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「時間」を紐解く(66)私見-時間観(十二)ゼノンの飛ぶ矢の矛盾の2 ゼノンが提供したパラドックスのうちは「飛ぶ矢」の第二定義では、2;矢は、飛んでいるあいだのどの瞬間においても、ある一つの場所を占める。此処では空間を占有する矢を定義して、無限に切り詰めた限界としての「瞬間」である「時間」を空間に求めています。空間が時間の奴隷ならそれもあり得ましょうが、等質的環境で変化する空間の「運動の軌跡」にたいして、時間を導入して、静止するものの占有を求めるのも無駄でしょう。第三の定義では、3;ゆえに、矢は、飛んでいるあいだのどの瞬間に於いても、静止している。此処でも「空間」に「どの瞬間に於いても」と時間を導入しています。矢の軌跡に(運動の過去の軌跡)を人間が表象する無限に分割できる空間、但し、時間は分割不可能であるが空間は分割可能であるとして、それをあてがって、軌跡に、まるで金太郎飴みたいに過去時を存在させています。運動が分割可能と断定されるときに考えられているのは、通過した空間のことであって、あたかも空間と運動そのものを同一視した結果「飛ぶ矢」は無限にスライスさせられた金太郎飴になっています。「飛ぶ矢」の空間のどの地点を考えようと、そこには空間上の点としての位置しか得られないことに気付いていません。
2013年05月22日
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「時間」を紐解く(65)私見-時間観(十一)ゼノンの飛ぶ矢の矛盾の1 パルメニデスが開いたといわれるエレア派という学派に属し、パルメニデスの学説を有名なパラドックスを用いて補強しようとしたのがパルメニデスの養子で前五世紀古代ギリシアの哲学の天才と言われるゼノンです。アリストテレスはゼノンをその独特の論法ゆえに「弁証法の祖」と位置づけています。ゼノンといえばパラドックス即ち、証明されるはずのない矛盾命題が、妥当な推論によって、あるいは少なくとも一見妥当な推論で有名です。そのゼノンが提供したパラドックスのうちは「飛ぶ矢」にあっては「運動」を否定して、「不動」を真とします。其の中の「飛ぶ矢」のパラドックスは「時間」の解釈が重要な鍵となります。先ずその定義されているところのものは、1;どんなものも、ある瞬間に、ある一つの場所を占める場合、静止している。此の第一定義では「どんなものも」と言って、空間を「飛ぶ矢」、即ち空間の中を弧を描いて飛ぶ運動体を、人間が持続と観想する直線的時間線に置き換えていることの矛盾です。空間を飛ぶ運動体は時間の中を動いている訳ではありません。成程、時間は無限に切り詰めていけば限界としての「瞬間」を観想することが出来得るでしょうが、運動そのものは無限に切り刻んでも静止した運動などには成り得ずあり得ません。此の第一定義の矛盾は、ゼノンが空間を飛ぶ矢に、人間の表象する直線的な時間線を持ち込んだことにあります。限界としての「瞬間」言い換えれば「点」を幾ら集めても線にはなりませんが、運動は幾ら刻んでも「点」にはなりません。「点」なる運動体はもはや運動体とは云えず静態の個物でしょう。
2013年05月21日
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「時間」を紐解く(64)私見-時間観(十)シッダッタの覚り シッダッタの覚りにも似た、西田幾太郎云うところのものに、世界の理法を実質的に自己の感性に取り込み知覚する、即ち「直覚知」がある。此の世界の統一力に自己を投影し自らを「大統一力」と成すところ論旨です。此の「直覚知」なるものが、現出在と同時的にある世界を認識します。実際には知覚されていなくとも「一の全体」として「世界」を認識します。そこでは所謂、主観的な過去や未来の時間を離れて、客観的な「自然世界」が観想されます。「直覚知」なるものは、かっての世界が体験したこと、今まさに現前している体験、此れから世界がするだろう体験は区別を失って時間を離れたものが観えてきます。シッダッタはその「大統一力」を「直覚知」をもって、たとえブラックホールや相対性理論及び量子論の名前は知らなくても世界の「理法」としては認識していただろうし、世界に等質的な時間などは「変化」はあるにしても「我」に固執するところから出たものであり、同じく等質的とされる「空間」も宇宙の膨張収縮で絶えず変化する。それ故に「世界」に常住するものは無く、時間が不在のところには輪廻なんぞは無いと観想していたのでしょう。唯一つ「大統一力」が釈迦には「空」・縁起・仏と読み得たのでしょう。時間とは人間の主観が表象するものであり、世界の方には変化としての運動が時間の基体となって、人間は先と後との運動の数を捉えて時間定数を与えてその量を測ります。さすれば時間は変化の量だともいえます。
2013年05月20日
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「時間」を紐解く(63)私見-時間観(九)空間と時間4 そもそもが、「時間」は外在するというより、私たち人間に内在して体験するものとしてあり、過去・現在・未来といった三区分も、自己の記憶と知覚と予期の区別から派生したものではないだろうか。時間は等質性をもって外在するものでなく、我々の観念に表象されるものではなかろうか。記憶と知覚と予期はそれぞれに、違った質を伴った心の変化としての体験である。たとえば、今見ている視覚や物の表面を移動している触覚、例えば痛みには知覚としての生々しい体験があるし、ありありとした現実性がある。記憶としての体験には思い出として知覚とは違ったそれらの質が伴うであろうし、予期する体験には思考としての痛みへの恐れなどの質が伴う。夫々の質の違いを持った体験を自己が表象して空間に投射して過去や現在及び未来が時間化されている。それ故、空間に於ける動きや変化としての「運動」は外在しているものの、世界には現在化している全ての現実在しか存在が許されないであろう。
2013年05月19日
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「至極の女性」Aishwarya_RaiとCleopatra7世のバトル4 紀元前のローマ帝国(Imperium Romanum)は道路や水道及び建築は非常に優れたものであったが、如何せん、歴史が浅く文化度はエジプトには遠く及ばないものがありました。好色漢で 漁色家のカサエルに脅えてさえいたローマの女性達が、クレオパトラの洗練された衣装や化粧と身のこなしを見て、嫉妬に狂い、此のままではローマの男性が皆々エジプト女性を妻にするだろうと考えたとしても無理からぬことだったでしょう。事実、多くのローマ男性が彼女の虜になりました。それ故か、ローマ史ではクレオパトラは悪女にされています。此の点ではAishwarya_Raiは同性である多くの世界の女性にも美貌を賛美されているのでアシュに勝ち点が与えられます。
2013年05月18日
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「至極の女性」Aishwarya_RaiとCleopatra7世のバトル3 紀元前69年にエジプトの王家に生まれたクレオパトラ。父亡き後、18歳の若さで10歳の弟と結婚し共同統治するが、クレオパトラと高官たちの間に内紛が巻き起こる。そこへローマ軍のトップ、カサエルが遠征。巻かれたカサエルへの贈り物の絨毯の中に裸体で潜み、そのカサエルの前に現れます。このセレブな女性に、女好きなカサエルはひと目惚れする。数ヶ国語を操り、科学や物理、音楽にも通じ、快活な性格で社交性を発揮したクレオパトラは、当時のローマ女性にはない魅力に溢れていたのだ。カサエルを利用してエジプト女王に返り咲いたクレオパトラは、彼との間に男児を授かり、ローマでは独裁執政官カサエルのもと、まるでローマ皇帝の妻のように扱われた。そんな幸せも束の間のこと、カサエルが暗殺される。後継者アントニウスはカサエル死後、エジプトへ逃げ帰ったクレオパトラに出頭を命じるが、もともと彼女の虜だったアントニウスはたちまち籠絡。ローマに妻を残しエジプトでクレオパトラと結婚する。その後、ローマ軍はアントニウスを追放しエジプトに宣戦布告した。この戦いでアントニウスはエジプト軍を率いて出陣したが敗れて自殺する。捕虜としてローマ軍に連行されたクレオパトラは、偉大な2人の将軍を弄んだことへの罪を問われることを恐れ、カサエルの忘れ形見の息子を殺し、自らの乳房をコブラに噛ませ、39年の生涯に自らピリオドを打ち、エジプト王朝は終焉を迎える。また、アントニウスとの間には3人の子供がいた。一方のAishwarya_Raiも子供をもうけ、産後ダイエットしない姿勢を批判されますが、母親になった彼女にも円熟味が溢れ若年の美しさにはない魅力があります。クレオパトラの最大の魅力といわれる美声にも。彼女は負けてはいません。
2013年05月17日
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「至極の女性」Aishwarya_RaiとCleopatra7世のバトル2 Aishwarya_Raiの受胎するまでの美容法の詳細は解りかねますが、実際にクレオパトラが行っていたといわれる美容法はある程度は知られています。入浴を好んだというクレオパトラは、リラックスできるバラの香油を垂らした入浴や、角質除去や代謝を高めるなど美肌効果があるとされるミルク風呂などを好み、入浴後は保湿や引き締め効果がありシワの予防が望めるバラの香油を好んで使用したといわれます。バラの香油にはホルモンバランスを整えたり、更年期のうつ的な気分を明るくさせる効果もあり相当な効果ではあったのでしょう。亦、蜂蜜やアロエなどの自然の成分を、肌や髪、そして、爪に塗ったり、料理に使用していたといいます。真珠を酢に溶かして飲んだという説もあり、真珠も酢も、現代でも美容界での注目の美容成分となっています。加えて、クレオパトラはメイクの技術に秀でており、古代エジプト女性が研究して作り上げたアイシャドウを使用したとされる。アイシャドウが古代エジプトが発祥の地ともいわれる所以です。更には、クレオパトラを象徴する髪型だが、当時カツラの技術が進んでおり、クレオパトラもカツラだったのではないかといわれています。驚きのことはまだあり、クレオパトラもカミソリや、砂糖・蜂蜜でつくられた脱毛剤で無駄毛を処理していたとかないとか。それに乗馬の名手だったクレオパトラは、今も人気のある乗馬運動もスタイルアップやヘルスケアにひと役買っていたのだろう。対するAishwarya_Raiは若き時はメイクする事さえ控えるほどの美貌と今ではワールドモデルとしては控えめな身長170センチメートルですが、印度人特有の腰の豊かさや括れではクレオパトラに負けてはいない筈です。
2013年05月16日
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「至極の女性」Aishwarya_RaiとCleopatra7世のバトル1 若かりし時は、ハリウッド女優をして「化粧しているよりスッピンの方が一層美しい」と嘆息させたアイシュワルヤー・ラーイは、恐らくは史上に於いても「世界三大美女」である言わずと知れた古代エジプトの「クレオパトラ」と中国は唐代の「楊貴妃」とイリアスに登場するギリシャ神話上の世界一の美女とされたスパルタ出身の「ヘレネ」にも、ボリウッドのヴィーナスAishwarya_Raiはこれ等三人にも優りこそすれ劣るところはないでしょう。先ずは、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の死後、幼少の頃からの友人で、アレクサンドロスが父フィリッポス2世と仲違いした時にも一緒に追放されるくらい近しい存在であった、プトレマイオスが創始したプトレマイオス王朝の最後のファラオである女王「クレオパトラ」は紀元前というはるか昔。ローマの侵略から自国を守るため、「美貌」を武器に戦った女性である。その女王クレオパトラは、ローマ軍率いる2人の男を虜にし、エジプトに「最後の繁栄」をもたらした。人物的には聡明で崇高、それでいて魅惑的な風貌で世の男性たちを魅了したクレオパトラの美に対する意識は非常に高く、2000年以上経った現在も注目を集める美容法やヘア&メイクなどをいち早く取り入れていた「元祖ビューティスト」です。30代にして10代の美肌を保っていたともいわれ、クレオパトラが用いた美容法は此の現代にあっても、エステや美容整形外科、そして化粧品開発に採り入れられるなど、現代美容に大きな影響を与えています。美肌効果が高いことで知られるミネラルをたっぷり含んだ死海での入浴を欠かさず、化粧品の製造まで目論んでいたという説もある程で、クレオパトラは美に対する鋭い先見力も持っていたのには驚かされます。
2013年05月15日
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「至極の女性」ボリウッドのヴィーナスAishwarya_Rai2 ジュリア・ロバーツからは、「世界で最も美しい女性」と絶賛されていたボリウッド女優Aishwarya Rai Bachchanのカムバック映画に関連しての噂を耳にしますが、どれもこれも、真実であるようではありません。アシュのカムバックを待ちわびているフアンとしては気が気ではありません。しかし、映画「ロボット」はそんな映画理的整合性を求めたら冒頭から破綻するこの映画、でもこんな風に展開したら面白いんじゃないかと思うアイデアをとにかくビジュアル化、ヒロインにはミスワールドにもなったアイシュワルヤー・ラーイを起用した。主演のラジニカーントは今だパワフルで年齢を感じさせない力強さと動きを見せるし、アイシュワルヤー・ラーイは、太めになってもそこはそこ、滲み出る抜群の絶世の美女、彼女がダンスするシーンは圧巻であり豪奢そのものです。アイシュワリヤーが母親となったことを称えるべきなのか、モデルのような姿でないことを残念に思うべきなのかは悩ましいところですが、ともかく肉体・魂を震わすHINDIダンスを、とくとお試しあれ。人類のリズムの原点此処に有りと云った感じです。ウエストサイドストーリーなんて比べるのも馬鹿らしくなるかも。
2013年05月14日
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「時間」を紐解く(62)私見-時間観(八)空間と時間3 「時間」を「空間」には似ているが、もっと単純なものと考える人は、好んで時間的な変化の諸状態を併置して、一つの線を描きたがるが、空間は三つの次元(或いは時間の要素を加えれば四次元)ですが、その環境を盾にとって、時間線の操作のなかに、固有の意味での等質的な一の全体性における空間の観念を介入させていることには気付きません。しかし、線を線という形で統覚するためには、線に内在するのではなく外部に身を置き、それを取り囲む三次元の空間を考えなければならない。もし、現時の現在の観察者が、未だ空間の観念を持たないとすれば、観察者は自己の継起を時間線上の持続としては統覚することは不可能です。「時間」に僅かでも等質性を帰属させるやいなや、空間が秘かに介入していることになり、やはり「時間」は空間なしには実在が難しいことが判明します。
2013年05月13日
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「時間」を紐解く(61)私見-時間観(七)空間と時間2 世界存在として質を持たない持続する時間が在るとして、それを厳密な形で定義するために、永久の過去から永遠の未来への直線的な時間線を想像します。その時間線を現時の現在の観察者が移動します。もしも此の観察者が自分自身を意識しているとすれば、現在が移動している故、自分が変化している感じている筈です。つまり観察者は自己の継起を持続として統覚しているでしょう。だからといって、その観察者に時間を一つの線という形をとるであろうか。観察者が通過する時間線のいわば上方へのぼり、併置された其々の時点の観察者を同時的に統覚することが出来得れば、疑問の余地なく時間線を見ることに成ります。其のときには観察者は、まさにそのことによって空間の観念を時間に形成しています。そして自己の蒙る諸変化が繰り広げられるのを見ることになるでしょうが、それは空間の中にであって、等質的な時間というものではありません。一般に人間は「時間」を「空間」には似ているが、もっと単純なものと考える傾向がありますが、その誤りを気に留めません。
2013年05月12日
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「時間」を紐解く(60)私見-時間観(六)空間と時間1 ベルクソンは「空間」を「時間」に優先する等質的な実在と看做しています。即ち、空間が等質ならば「一の全体」であり、同じく「時間」が等質であることには「等質」なものといえば「空間と時間」のどちらかが区別出来得ず矛盾性があるとします。しかし、外在する「空間」が真実実在として等質なものなのでしょうか。ベルクソンは原子の存在は勿論捉えていたにかかわらず、世界内に外在して形あるものを「形態化」しているものであり、空間の位置を占拠するものとみています。しかしながら、固体と呼ばれるものは人間を含めて、あらかた空間から成り立っていることは、エックス線が人間を貫通することからも解ります。太陽などにしてもニュートリノが直線的に通過する謂わばゼリーです。ブラックホールにしても光を捉えて離さないとはいえ、増々収縮の度合いを加速して、空間を凝縮し、ガンマ線等を放出して最後は蒸発する運命にあります。それらは皆、空間を抱えているからの運命でしょう。原子核及び素粒子はたまた光子にしても破壊される可能性があるものは、内部に空間性を持つことが予見されます。それでは此の世に空間の無い真実の「凝固体」は有るのか、それとも有ったのかといえば、宇宙の変化を遡ればみえてきます。ビッグバンを起こす究極の固体「コア(核)」の存在です。僅か「角砂糖」の存在ですが、此れこそが究極の「空間」を持たない存在でしょう。ビッグバンによって初めて宇宙は空間化して成長していきます。その空間とは等質的で虚無的な「空ろ」な存在ではなく、「運きと変化」を齎す「力場」で充満しています。それを人間の観念は「時間」という観念を以って運動の前後の変化の数として捉え、空間も時間も「等質」なものと一般には捉えらて、両者を共に「実在」と看做します。しかし、「時間」はまだしも「空間」は存在そのものであり、時間はその派生的な観念に過ぎないことには注意すべきでしょう。
2013年05月11日
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「時間」を紐解く(59)精神哲学-時間観(四)ベルクソン ベルクソンは、私たちが時間について何ものかを語る時、殆んどの場合、意識状態が空間の中に併置並列させられている等質的な環境のことを考えていることに注意を喚起します。しかも、このように解された時間とは我々の心的諸状態の、真の持続とは全く異なった標ではないかとの疑問をも呈しています。即ち、区別や算定が行われる意識状態が別々に継起するのが空間であるとするならば、外在的に存在する時間は空間であって、外在的な時間は非実在とします。存在としての時間は外在的にあるのではなく、人間の空間の観念と時間の観念から生み出されたものであり、その外在化した「時間」の等質性、言い換えれば、二つ以上のものの質が同じである等質性の存在があることを否定しています。結局、時間には空間のような実体性は無く、人間の観念それも純粋持続にこそ有りえると述べています。
2013年05月10日
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「時間」を紐解く(58)精神哲学-時間観(三)ベルクソン ベルクソンは「空間と時間」が外在化して有ると云うことを重要視していません。というよりは観念としての「空間と時間」のうちで空間が問題であって、その等質的な空間が、実在するにしても、人間の観念を離れて実体を持つにしても、外在化した「時間」の等質性を否定すると云うよりは、時間の「瞬間」が保存されて他の瞬間に付け加わることはおよそあり得ないこととします。相互に付け加わる事が出来る瞬間とは、「空間を占める諸点」であるとします。ベルクソンの特徴は、時間の本質を意識に直接与えられたものにあるとした点である。ベルクソンは、時間の本質とは、物理学に代表されるような点的なものや、われわれが日常意識している時計で計られる時刻ではなく、意識に与えられた状態そのものであるという。その際ベルクソンは、われわれの感情や感覚の「質」的な状態と、数量化できる「量」的なものとの区別をする。われわれの感情や感覚は、「大きい、小さい」といった量的な形容詞で言い表すことができるようなものではなく、どの感覚もどの感情もそれぞれが異質なものであって、比較を絶したものであるという。われわれが、感情や感覚の大小について云々することができるのは、われわれがそれらの感覚や感情をひきおこした数量化可能なものを、その結果である感情や感覚に混入させているからだというのである。物理学に代表される自然科学は、「内的状態の外的原因を測定する」ものであり、このような自然科学に引きずられて、感覚や感情をも外的原因から測定できうると思ってしまっていると述べています。つまりわれわれは、感情や感覚といった本来「質」的なものについて語る際に、「結果のなかに原因をもちこむ誤謬」をおかしているとベルクソンはいうのである。「質」的なものとは、数量化可能で言語化できるようなものではなく、感覚の僅かな差異などの、意味合いの微妙な違いなのだ。それでは、そのような「質」的なものと時間との関係は、どのようにあるのだろうか。
2013年05月09日
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「時間」を紐解く(57 )私見-時間観(五) 一般的に時間を実在する立場から見れば、時間の流れ及び動きとは、二通りの仕方で表象されている。一つは事在ることが未来から「不動の現在」へと迎え入れられ現在として成り立って、過去へと事在ることが過ぎ去っていく人間の時間観念の表象であり、もう一方では、過去から未来へ「現在」が向かって、即ち方向性を持った時間としての現在が「動く現在」として人間の時間観念の表象である。いずれをとっても、時間を人間の主観の想念として現実化かして、時間そのものは否定しません。しかし、観える神や仏、宇宙の果てや誕生、生命の目的や死の意味についてはと問えば恐らくは不可解な答えが返ってくるでしょう。此の宇宙の全ての運動、即ち変化としての速さが変わったとしても、その定数を変更することはありません。人間の持続に関しての或る抵抗があるにしてもです。変化前の百年を生きた人間に比して変化後の百年を生きた人間も時間意識には変わりはないはずです。時間はそれ程左様に意識に密着しています。我々は蜂鳥の脈拍の速さや羽ばたきに驚かされますが、逆に見れば、蜂鳥からは人間の動きはスローモーションとして見得ている筈です。丁度、我々人間がガラパゴスのゾウガメをのろまな亀と思っている様に。
2013年05月08日
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「時間」を紐解く(56)精神哲学-時間観(二)ベルクソン ベルクソン(Henri-Louis Bergson)のいう「時間」とは、自然世界に外在化して、過去・現在・未来と流れている在るものではなく、亦、過去・現在・未来が区別され、現在が過去を踏まえて、未来へと繋ぐというのは、現在には不似合いで、「現在」は人間の主観的意識のなかにあって、過去を踏まえ現在へと「質的」に変化しながら持続している。ベルクソンにとっては、持続とは記憶であり、現在は過去を自分のなかに保存し、その表象を蓄積する。過去の現在化は飛躍によって行われる。その際、言語は記憶のなかに溶け込んでおり、イメージとなっている。人間が経験する時間というものは言語によってつくり出されるものとみなされている。なぜ時間は言語の効果なのか。言語が過去・現在・未来と、あたかも時間のように進んで行く時制を持つからである。その言語の時制の進展を、具体的な時間の経験として無意識下に受け取ってしまう。それ故、通時的な時間によって保証される自己の同一性が維持されている。ベルクソンの時間の過去は現在と切り離されはしない。過去と現在が切り離されていれば、如何にして新しい現在が生み出されうるのか。過去は現在と断絶するどころか、過去は現在が過ぎて行くところすべてに見い出され、存在する。過去は消えることなく、それ自体保存されるので、現在と共存している過去は全体としての、統合的な過去であり、すべての過去である。そのような過去を背負い込んでいる主体は、現在知覚している状態のある一点「今」で同一性を保っている。この同一性が人間が行動するうえでの必要性で、持続の質的な流れに身を置いて過去の潜在的な記憶を現在化しようとするときに、現在は絶えず更新されて行く。
2013年05月07日
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「時間」を紐解く(55)精神哲学-時間観(一)ベルクソン フランスにH・ベルクソン(1859~1941)はフランス哲学史のなかで、デカルト以来といってよい存在であり、ノーベル賞まで取っているが、その彼が主著「時間と自由」のなかで時間概念の検討を行なっている。ベルクソンが時間について行う主たる目的は、人間の内面の持続として深さをもつものの時間と空間に表象して拡げられた時間とが混同されているのを相互に違いを鮮明に分割することにある。「空間や量」と「時間や質」を対比させて、「時間や質」を「空間や量」として扱う錯誤を訴えます。亦ベルクソンは人間の観想としてのの時間が二種類あると考え、一つは等間隔に刻まれたと表象する「時間」、要は客観的に量を測定できる外延的な、デカルト的な延長としての時間である。もう一つは外延的に対して内包的なもの、例えば、喜びが膨らむ・期待が高まる・悲しみに萎む・痛みが強まる等々、本来ならその量を測定することが出来得ない、本来ならその量を測定することなどあり得ないものを量として測定可能なものとして、感覚そのものを取り違えてしまっている。ベルクソンの考えでは時間には、人間の持つ観念には「空間化された時間」と「純粋で主観的な本来の時間」とがあるということである。すなわち、前者が「過去」であり、後者は「将来(未来)」である。過去とはすでに過ぎ去り、決定され固定された時間であり、分割可能であるのに対して、現在から未来への時間は「流れ」として未決定の状態にある。ここで彼が考える主観的な時間とは、後者の時間であり、純粋な時間の質的な流れ、すなわち「純粋持続」なのである。つまりは、科学的認識は「流れる時間」を「時計」によって量的に記述する。だが、そこで計量される時間は、実は人間が表象するところの時計の針の指し示す「空間」の位置の差を量的に記述するにとどまる。それ故、時計の指し示すものは直接に流れる時間ではない。これは「時計に時間はない」ということでもある。流れた時間の跡付けである「時計の時間」は、真の時間ではなく「空間」にすぎない。このように空間とは区別されるものが「時間」であり、ベルクソンはそれを「純粋持続」「純粋意識」称しています。
2013年05月06日
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「時間」を紐解く(54)私見-時間観(四) 此処では、ゼノンのパラドックスの「飛ぶ矢」の矛盾を追及します。ゼノンは運動の中に時間を持ち込んで、時間に空間に於ける瞬間、すなわち空間における「場」を与えています。しかし、瞬間とは将に幅も動きすらない、無減少の限界点である持続の幅を一切持たない、いわばゼロである原点、グラフ上で考える0の点です。無限に薄い厚みのないペーパーに一線を描いて二つに折ってみれば、そこには厚みも幅も無い点が現出します。この点を幾ら集めてみたところで線には成り得ません。詰まりは瞬間を幾ら集めようが時間が発生しないし、瞬間とは時間そのものを満たすものではなく我々の頭上のみ、言い換えると人間の主観の時間経過の表象の中だけに現れるモノに過ぎません。ゼノンは「時間」を空間の運動である変化と動きに置き換えています。それ故に瞬間点では静止させることが出来得たのであり、そもそも空間を運動するものを留めておくなどは出来ない相談でしょう。時間の実在とは人間が運動である変化と動きを主観をもって数えている表象に過ぎません。人間の寿命にしても、百四歳生きたとしても、それは人が数える齢であり、現実界では単に変化と動きの総量として現在化しているのみでしょう。
2013年05月05日
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「時間」を紐解く(53)私見-時間観(三) 仮に「一の全体性」こそが「実在」だと認識するならば、時間も空間も等質的なものとして「宇宙全体」に適用できるものでなければなりません。そこに現れるのが宇宙の特異点としてのブラックホールの存在です。ブラックホールの表面である事象の地平面では、外向きに発した光ですらその場所に留まっているように見えます。ブラックホールのコアではさらに重力が強くなって、光を外向きに発射したつもりでも引き戻され、ブラックホールの中心に落ち込みます。光よりも速く運動する物体はないとすれば、光だけではなく、どんな物体もいったんブラックホールに入ってしまうと、一定の場所にとどまっていることすら不可能で必ず中心に向かって落下していく筈ですがガンマ線等の放射が観測されています。こうしてブラックホールの中心の非常に狭い領域に、落ち込んだ全ての物体が閉じ込められて消滅するようにもみえます。このブラックホールの中心が「特異点」です。その特異点では時間や空間そのものも存在しない。或いは、ブラックホールの内と外では、時間と空間の性質が全く違い、圏外である外側から見ると、ブラックホールに近づくには無限の時間がかかるのでブラックホールの外にいる人にとっては、ブラックホールの中と外に時間の繋がりは在りません。実際にブラックホールの中に落ち込んだモノとっては、中心に向かう運動以外許されません。空間が時間のように振舞うようになります。それでもブラックホール自体は宇宙内空間に位置を占めてガンマ線等のエネルギー発生する存在ではありますが時間は存在性を失っています。その意味でも空間には「一の全体性」が適用出来得ますが、「無い」時間などが適用されるものが有るとすれば、時間は「絶対存在」ではなく「仮想の存在」、云わば運動と変化を時間として捉える人間の表象に過ぎないとも取れます。現実在には空間と運動(変化と動き)しか存在せず、等質的に流れる時間は存在しないことになります。
2013年05月04日
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「時間」を紐解く(53)私見-時間観(二) 其々の観察者の視点の位置により仮象的な時間が現出する故、其の「現在」と称するものには、決して区別されるものとしては現実界には実在しない。言わずもがな過去も未来にも当然にこのことが当て嵌まり、現実界にあって区別されることは有り得ない。今もし、私の先験的な直観である直覚、言い換えれば心魂が主観を離れて現実界を統覚すれば、「時間」は等質的なものでなく、空間こそが時間に先立つものであり、その変化を運動として見たときに人間には主観的には時間として表象して持続を統覚する。亦過去と未来とは「現在」と称する前提条件に依存している。竜樹の「中論」説くところの「縁起」である。現在の意義が確定してこそ過去と未来も人間の主観の仮象として現れる。しかし此れを過去と認識し、未来と展望した時は最早「現在」では在り得ない。
2013年05月03日
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「時間」を紐解く(53)私見-時間観(一) 私の先験的な直観である直覚、言い換えれば心魂が、過去は現在を過ぎ去り、最早現在に住するものではないと囁く。未来はというと未だ現在には至らず、因果の結果さえ現在化されおらず、虚無的な期待・予期・予測・憶測にとどまる。ただ現在のみが主体である私に時間の存在を囁くが、現在を幅を持ったものとしてしか認識できない人間には、既に過去と未来が侵食している。それ故、我々には、真に現実化している「今瞬間の現在」は捉えられない。過去と未来・現在の区分は現実化している存在には存在せず、突き詰めれば、人間の主観の時間経過を表象している関係が区別させている。各々の観察者の視点の位置により仮象的な時間が現出する。それ故、其の観察の立脚地により、同一の時も或いは過去であり、未来にあり、更には、観察者の現在の幅の大小によって「現在」にも差が出来てしまう。
2013年05月02日
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「時間」を紐解く(52)時制と時間 当前のこととは云え、言葉は時制の鋳型であり、思考に於いても、話の中にあっても時制がなければ現在・過去・未来捉えることなど不可能となってしまいます。いろいろな時制を知っておくことで表現したいことに幅が生まれ、さらに思考と会話に豊さが生まれます。時制〈テンス〉とは表現力にも一役買っているのです。時制とは基本的に話し手からみて現在・過去・未来のいつの出来事なのかといった時間的位置関係を表現する役目をします。時制というのは、思考及び話の内容が「いつ」のことなのかを表現する役目をしているのです。時制の表現としては現在・過去・未来があり、それぞれに進行形と完了形いう形を持たせることができます。言葉の働き・効能なくしては過去や現在及び未来を時制表現をすることも時相を思い浮かべることも不可能だと言うことです。人間に於ける思考としての「時制」は、「時間」の実在・非実在にかかわらず時間と切り離し難く結びついています。
2013年05月01日
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