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1月22日の「邪馬台国はどこにあったか?(その4)」で、2万戸と書くべき所を2万人と誤って書いていたので訂正したが、そのおかげで、面白いことに気が付いた。前にも書いたけど、魏志倭人伝の編者は相当に頭の切れる人だ。何かと言うと言葉の使い分けで、表意文字である漢字の国の人なので1字1字に意味があるのは当然なのだが、ここまでなのかと言う感じである。南と東を間違えた等と失礼な話をできる相手じゃない。前に、「水行」と「渡」を使い分けている。「到」と「至」を使い分けている。「行」を書くか書かないかでちゃんと意味が有ると言うことを書いたが、上に書いたように2万戸と2万人を間違えた、その確認に際してもう一つ見つけた。対馬、松蘆国、伊都国、奴国、投馬国及び邪馬台国では「戸」を使っているのに、壱岐、不彌国では「家」を使っている。明らかに使い分けている。現代人の我々には区別はつかないが、何かあるのかなぁ?壱岐と不彌国に共通なことと言えば、交通の要所であること?戸と家の違いは様式か規模の違いかな?もしかすると小さな家は1軒に扉が一つしかないので「戸」だけど、大きな家は1軒の家に複数の扉があるので、「戸」とは数えられない?そんな違い?確かに奴国や邪馬台国には偉い人の大きな屋敷は合ったかもしれないけど、他は掘立小屋だし?(これは現代の人には分からない話ですが、江戸のような大きな町でも、 時代劇に出てくるような瓦葺の2階建ての家はほとんどなく、 逆に言えば時代劇に登場する舞台(例えば池田屋)だからこそ立派な家なので、 庶民の家ほぼ長屋で板葺きの屋根に石の重しだったそうです。)これは東京都内の某博物館の江戸時代の家ですが、江戸時代でも板葺き屋根(石の重しも無い)。庶民はこれよりも1ランク下の長屋あるいは2ランク下の裏長屋でした。ただ、上にも書いたようにお金持ちの家は瓦葺の土蔵が有った(家ですね)。鬼平犯科帳の世界は江戸の中心の今で言えば銀座なので瓦葺の家々なんだと思う。これから考えると弥生時代の家々は「戸」かなと思う。つまり不彌国や壱岐の人達は特殊な人達だったのかも?例えば不彌国には役所と役人の家が多かったとか?<後日追記>後の世、律令制度が整ってからの「戸」の考え方は現代の戸籍制度の「戸主」に近いもので、50戸を1つの里とするように、租税や兵役を課す上での単位だったようです。ただ大宝律令は中国の唐のまねをしたもので、中国でさえ唐になるまでは色々な考えがあり、要は国の統一と密接な関係が有り、豪族の連合政権的な時代には意味が特定し辛く、例えばみんなが農家なら土地面積と密接なので意味をなすが、狩猟生活や漁業をする人達には意味がなかったと思われます。上で言えば壱岐は一大國(縦書きなら一+大は天なので天国ですから、カラカミ遺跡から出土した、当時の技術力からはあり得ない製鉄用の炉痕から考えると、「倭人よりも高度な技術や考え方を持った人達」が住んでいたので、同じように考えられる「不彌国」同様に、国の首領から特別扱いされて、いわゆる租税や労役を免れる人達の家の単位を「家」と呼び、普通の人達が住む「戸」とは区別していたんだと思います。また話は変わるけど、同じ「邪馬台国はどこにあったか?(その4)の中で奴国の金印は王の墓に埋めたと書いたのは、ちゃんと根拠があります。福岡博物館の金印のページを見ると書いてありますが、発見者は実は口上書を書いた甚兵衛さんではなく、恐らくその奉公人の秀治と喜平です。で、その口上書には2人で持つほどの大きな石の下に有ったと書いてあり、周囲3方は石で覆われていたそうです。つまり石棺の中に有ったのですね。なので、「王の墓」に埋めたと書いたわけです。ここで誰しもが不思議に思うのは「じゃぁ志賀島に奴国王の墓が有ったの?」と言う話です。僕は多分別、別の場所に有って、甚兵衛の機転によってごまかしただけで、福岡藩の役人も事情を察して、そのまま(志賀島の田の中で見つけたこと)にしておいた方が、金印は藩のものになるし、甚兵衛はお咎めなしになるし、幕府には怒られないし、一番良い始末だと考えたのでしょう。賢い。つまり秀治と喜平は多分、墓荒らしをしてしまったのだと思います。それまではせいぜい銅や鉄の剣や鏡だったので自分達で処分していたけども、さすがに金はご法度なので、誰の口からばれて捕まるか分からないので甚兵衛に相談した。甚兵衛は自分の奉公人なので、どうあがいても自分も巻き込まれてしまうので、日頃から懇意にしていたお役人に泣きついた。でお役人が筋書きを描いて、「志賀島の田んぼで見つけた」ことにしたのだと思います。じゃぁ実際はどこに有ったのか?僕は奴国は筑後平野に有って、その範囲は今の(当時は海辺だったけど)福岡市内まであり、例えば那珂川はの「な」は「奴国」からきていると思うし、奴国の王は実は海賊(後の倭寇)の王もやっていたので、当時は海に近かった大野城市や筑紫野市あたりにあったのだと思います。そうそう、宮崎先生も書いておられますが、僕は生活圏と墓は別に作ると思う派です。現に大正天皇と昭和天皇のお墓は多摩丘陵にあります。皇居の傍ではない。でも、宮崎=邪馬台国の所では宮崎市内に有ったと書いちゃったなぁ。だとしたら、奴国王の墓は久留米あたりかなぁ?
January 27, 2019
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昨日の最後に古墳の話を書いたので補足します。昨日も書いたように古墳が畿内発祥と言うのは相当に疑問で、宮崎には相当に古い古墳があります。そんなことは聞いたことがないぞ?と言うのはもっともで、これは田舎の文化の悲しいところで仕方ないのです。恐らく畿内の古墳が研究されていて、保存状態が良いのは、1つは宮内庁のおかげ、1つは大学が多いおかげだと思います。田舎は文化よりも生活が大事なのです。いくら大事な古墳でも、道路を通すのが大事です。住宅も建てなければいけません。調査をするにはお金が必要です。知識のある人の協力が必要です。田舎にはそんなものは無いし、できないのです。頑張ってはいるのですが。例えば畿内の纏向の古墳が古いのは確かですが、他の地域には無いのでしょうか?本当は有るような気がします。僕がかって名古屋に住んでいた時に「断夫山古墳」を見て、こんなに大きな古墳が有って、何でちゃんと研究されていないんだろう?と思いました。名古屋の人の名誉の為に言っておきますが、「分かりません」と言う調査はしてあります。恐らくは尾張地方の首長の墓で、日本武尊との関連も言われています。熱田神宮は草薙の剣を祀っていますから大和朝廷との関連もあるでしょう。でも、ちゃんとした調査はできてないのです。すぐ隣には熱田神宮が有り、その中にも古墳があります。近所は古墳だらけです。でも百舌鳥古墳群のように「熱田古墳群」とは言いません。きっと熱が違うんだと思います。だって、職場の人達に聞いても、そもそも「断夫山古墳ってなに?京都にあるの?」状態でした。だから、みんなに知ってもらうのが大事なんじゃないかと思い、「邪馬台国その後」として近所の古墳をのせてみます。宮崎市内中心を「大淀川(なんか聞いた名前だなぁ)」が流れており、その下流に「宮崎神宮」があります。この宮崎神宮の中にも舩塚古墳があるのですが、もうここから川沿いは古墳だらけです。そのうち「生目古墳群」は特に有名で(でも他地域の人は全く知らない)、その他にも大きくて有名なのは西都市の西都原古墳群があります。まずは生目古墳群市の教育委員会のガイドブックなんですが、指定地域だけでもこんなにあるし、大きいのです。100m級が3基。しかも古い。Wikiにも3世紀後半って書いてある。畿内と同じじゃん。次に西都原。81号墳は3世紀中頃。卑弥呼の墓じゃないけれど同時期の墓じゃん。このように畿内が古くて多いわけではなく、他にも古くて大きい古墳はたくさんある。ただ、忖度が働いて言えないだけなんだと思う。<後日追記>宮崎にだって古くて大きいお墓はたくさんあると思って、では九州の他の地域は?と思い、調べてみたら続々と出てくる出てくる。特にびっくりしたのは、熊本の宇土にある「向野田古墳」!誰にも知られずに誰にも気付かれずに、壊される寸前になってやっと調査して、実は大変だったという古墳。墳丘長86mの前方後円墳で、既に方墳部分は破壊、円墳部分も削られてしまって残念ですが、破壊前は、本当は97mだったらしい。副葬品が、銅鏡・玉類・車輪石・刀剣類・工具類など多数有り、これらから4世紀後半とされ、何と女性の遺体が「単独で」見つかったらしい。単独ですよ。つまり女王様だったってこと。邪馬台国だけでなく、九州は女王国が多かったんだ?これが畿内で見つかったものだったら「台与の墓」だとか言われて、年代も3世紀にされていたかも?でも九州の田舎で発見されたのでただの「市指定の古墳」で、話題にもならず皆知らない。つまり発見された場所が畿内だと尊重されて、「こんなに古くから有ったんだ」と言われるけど、他地域だと土饅頭扱いなんですね。なんか悔しい。女王の前方後円墳なんてすごいのに。ただ、僕自身もどちらも「古くて大きくて多い」のは分かるのだが、「どちらが先」論は結論が出てない。何故なら昨日も書いたように邪馬台国が東征する前に、いくつかのグループが大和についているから。奴国~出雲~畿内グループや韓国~岡山~畿内グループなど色々といたらしい。瓊瓊杵尊が5世紀まで宮崎にいたなら、両方とも同時期に別々の場所で作っていた事になる。つまり引き分けですね。後日書こうと思っているけど、畿内の古墳に阿蘇のピンク石が使われているのは有名ですが、この向野田遺跡のある宇土が阿蘇のピンク石の産地です。だから、この女王の子孫が畿内に進出し、宗教や祭礼の仕方も持って行ったんだと思うな。ただ、僕は彼女は台与かもしれないと思ったのだけど、学者先生の意見では邪馬台国とは関係ないそうなので、邪馬台国に敗れた狗奴国の女王で、その子孫は追われるように瀬戸内海に逃げていき、どんどん東へ逃げて、大阪のナガスネヒコの妹をお妃にもらう饒速日になるのだと思う。そして神武天皇に1回は勝つんだよな。で、上に「卑弥呼の墓じゃないけど」と書いたのは別に候補が有るから。ただそれは。時すでに遅く壊されてしまった。上の生目古墳群の川向に「笠置山古墳」と言うのが有ったらしい。地元の研究家の日高先生と言う方が研究し、大きさも作られた時期もそれらしかったそうなんだけど、壊されてしまった。まぁ、無くなったものは仕方ないけど、もったいないことをしたなぁ。宮崎市。
January 26, 2019
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昨日で邪馬台国はどこにあったか?と言う結論を出したが、推理には抜けがあってはならない。そこでいくつかの補強をしてみる。恐らく邪馬台国が宮崎に有ったと言う推理で一番の弱点は、その遠さであろう。水行10日陸行1月はあまりにも遠い。何故中国に近い奴国じゃダメなのか?いや実は奴国で良いし、現実にそれ以前は奴国が日本の支配者だったのである。金印を思い出して欲しい。一昨日にも書いたように倭国大乱以前は奴国が支配者だったのである。中国に一番近く、文化的にも所持する武器も、恐らく一番強かったと思う。でも、世の中は武力だけではダメなのである。世界で一番力があるのはどこか?アメリカ?イギリス?ドイツ?それともロシア?意外にも中国?実は案外と、イスラエルやバチカンなのである。有名な事件に「カノッサの屈辱」と言うのが有る。ローマ皇帝(国を権力で治める)ハインリヒ4世とローマ教皇(国を宗教で治める)グレゴリウス7世がケンカをしたのだが、お互いに相手を「教皇位のはく奪」宣言と「破門」宣言で破滅させようとしたが、なんと皇帝は敗れ、カノッサ城で「土下座」して謝るのです。現代人には多くの誤解がありますが、一番の誤解は「王や皇帝」の認識です。日本でも天皇でさえも、相当に後になるまでは「荘園」を有した貴族や寺には強くは出られず、大化の改新(蘇我入鹿を殺したのは乙巳の変で、大化の改新はその後の政治改革)までは、天皇は貴族連合の長と言う立場でした。土地でさえも律令体制が整うまでは、墾田永代私有財法以前は荘園として私有であり、(この法律自体が私有地を認める為の法律ですが、逆に言えばそれ以外を天領にしたので 少なくとも天領が増えた?)つまり天皇の権力の基盤が弱かった(土地さえも自分の物でなかった)のです。カノッサの屈辱も、皇帝の権力は下の貴族たちの合議に支えられていたからで、教皇の破門により味方がいなくなったせいなのです。つまり魏志倭人伝に「卑弥呼はよく鬼道を行いみんなを惑わす」とあるのは、邪馬台国は武力ではなく、別の力で勢力を伸ばしていたと考えています。現に多くの学者や研究家が宮崎では剣や鉾が出土しないから邪馬台国ではありえないと主張していますが、ここを勘違いしていると思います。まず、邪馬台国は「母系」だったのではないかと思います。なので、女性が強く、頭がよかったのです。話は冗談のようになりますが、大分出身の「指原」はその子孫なので頭が良いのかも?後の大和朝廷でも「神功皇后」や推古天皇のように激しくて強い女性が多く出ます。次に、後の大和朝廷では当たり前のようになりますが、有力氏族は、自らが王になるのではなく、天皇の嫁として自分の娘を送り込み、藤原氏のように自分の孫や子を天皇にするようになります。そう、上の2つの理由で奴国のように自分の刀で天下を取れないのです。むしろ宮崎平野の7万人の食料を賄える田畑を背景にした経済力や、諸国の王をたぶらかす政治力の方が強かったのです。ただ、それだけでは無いと思います。上に書いたような「自分の娘を送り込む」戦法は、もしかしたら奴国にも送りこんでいるかも?実は初期大和朝廷の天皇の后は異常に宮崎出身者が多いのだそうです。古事記や日本書紀によると、12代の景行天皇、15代の応神天皇、16代の仁徳天皇の后は日向出身だそうです。もしそうならば、邪馬台国の娘たちが奴国にも送り込まれていてもおかしくはないと思います。ほら有名な神話が有ります。お姉さんが天照大御神でお暴れん坊の弟が素戔嗚尊。邪馬台国の女王と奴国の王は兄弟だったのかも?そういえば神話の中でも素戔嗚尊は根の国に行こうとするんだよなぁ。根の国って出雲の国の手前に有るんじゃなかったっけ?半分は冗談ですが、神話は真実かも?さて一昨日の推理の中では「陸行」について軽く書いていましたが、地図を作ってみました。さすがに山道を行くので大変ですが、地図のように水俣で上陸し、(水俣コース)あるいは八代で上陸し球磨川沿いに進んだ後に、(球磨川コース)えびの高原を通り、都城経由で宮崎に行くのなら、時間はかかりますが行けそうかな?地図にも書きましたが、神話の高千穂を今の高千穂峡と考えると信じられなくなりますが、宮崎には霧島高原にも「高千穂」があるんですよね。こちらが神々の故郷ならば、もしかしたら高天原って?と言う感じにはなりますね。また、宮崎にはものすごく古墳が多いのです。有名な西都原古墳は5世紀ごろの物が多いのですが、宮崎市周辺のはもっと古いようです。生目古墳群の物は「控えめに調査した」宮崎市教育委員会の報告でさえも、3世紀後半の物が有ったようですし、西都原の最古の古墳もそのくらいです。ただ、いわゆる高塚古墳はもっと古いものが有り、宮崎では有名な個人研究家の「日高先生」の主張する「笠置山古墳」は卑弥呼の時代らしいです。しかも近所では製鉄の後も残っているそうで、ものすごく期待したのですが、残念なことに宮崎市が対応しなかったので壊されたそうです。そう、畿内の古墳が古くて多いのではなく、宮崎の古墳も古くて多いのですが、天皇家との関連が証明できず、壊されていない物が畿内ほど残っていないのです。アマチュア研究家の間では2世紀後半のものもあるようなのだが、学者先生が相手にしてくれないらしく、日高先生のような方が増えてくれるしかないかな?
January 25, 2019
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最後に魏志倭人伝が本当に正確だったかを確認してみよう。まずは魏志倭人伝に書かれた方角と距離を地図にまとめてみよう。そう、帯方郡から邪馬台国までは1万2千里なのだが、帯方郡から狗邪韓国まで7千里、そこから対海国まで千里、そこから一大国まで千里、一大国から末蘆国まで千里、末蘆国から伊都国まで五百里、つまり残りはあと千五百里しかない。畿内説の方々はよくこれで畿内までたどり着けると思ったものだ。自分が間違っているとは言いたくないので「魏志倭人伝は信頼できない」と言うのだろう。でも、九州説なら大丈夫何とかなる。ただ、地図を見ても明らかなように、一大国(壱岐)から伊都国まではどう見ても狭い。とても千五百里は無い。地図で見た概算上は狗邪韓国~対海国、対海国~一大国くらいである。つまりここは千里位であるのでこれを採用すると、邪馬台国までの残りは二千里くらいになるが、地図を見ても分かるように伊都国から邪馬台国は概ね二千里強である。次に倭国は海中での島でつながったり切れたりしているが、その周囲は五千里余りと書いてある。畿内を含めた倭国だと到底五千里には収まらないが、九州=倭国だと考えると概ね六千里くらいかなと思う。魏志倭人伝に書いてあるように島が連なったものと考えると直線ではなくなるので、その表現が「正確には距離が出せないけど」と言う言い訳の為の表現ならば、六千里は五千里に大差ない。なので、結構正確ですね。古代人、おそるべしと思います。
January 24, 2019
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昨日は熱が入って書いたせいか奴国だけで終わったので、今日は邪馬台国への行程に戻る。伊都国を出発したらまずは不彌國へ行く。東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家奴国と違い、ちゃんと「行」と書いてある。伊都国から東へ100里行くと不彌國がある。実はここは「大宰府」である。これは宮崎先生にヒントをもらったのだが、伊都国から大宰府に行くのが最大のポイントである。これを理解できなかった学者先生や研究者が、畿内説の人も九州説の人も、不彌國から投馬国へ行く、南至投馬國 水行二十日も、不彌國から邪馬台国へ行く、南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月も、どうしても南へ行くことができず、「東と南を間違えた」なんて言うのである。そうそう、ここで寄り道だけど、よく言われるここからの記述は伊都国からの放射状の経路と言うのは正解です。何故なら、この本は現代日本人の我々が読む為に書かれたのではなく、伊都国に赴任して来る、あるいは使者としてくる中国人や、中国の偉い人たちが倭国とはどういうものかと言うのを知る為に書かれたものなので、中心になるのは中国の使者が常駐する伊都国であり、そこからどちらにあるか、どのくらい遠く行くのにどのくらい時間がかかるかが大事なので、もう理屈は無く、読んだ後任のお役人の役にたてば良いので、伊都国からの方角と時間だけで良いのである。さて元に戻って「不彌國」が大宰府と言うのは、南北九州を結ぶ交通の要所で、伊都国や奴国等の九州北部から船で南九州に行く要所だったからです。昨日の航空写真を見ると分かるように伊都国の南側は背振山地等険しい山々で、歩いて行くのも難しい所です。しかし、博多から大宰府を経由して筑後平野を結ぶ経路は、現代でも鹿児島本線が通り、比較的高低差の無い経路で、南九州へ行くのにはここを通るしかありません。しかも大宰府には博多湾からは「三笠川」が150mそばまで、有明海からは筑後川から久留米あたりで分流した「宝満川」が1.5kmそばまで来ています。つまり大宰府の所さえクリアできれば博多湾と有明海を結べるのです。しかも太宰府あたりに関所を置いて通行税を取れば一石二鳥。その証拠をグーグルマップを使って実物を確認できます。まずは「御笠川」大宰府の都府楼そばなので欄干が宝珠です。太宰府まで150mくらい。次は「宝満川」。太宰府まで1.5kmの場所の写真です。この2つをつなぐだけです。(邪馬台国に行くのとは別の話になりますが)それで博多湾と有明海を結べます。昔はもっと狭かったかもしれませんが、逆に交通の必要から整備していたかもしれません。エンジン付きの船なんてあり得ませんから紐で引っ張る舟だったでしょう。でも、多量の荷物を安全に運ぶなら舟が一番です。南九州の人にとってはこれほど大事な所はありません。当時は中国が先進国で、貿易先としては一番大事な所ですが、ここを通らないと、ぐるーっと波の荒い海を延々と航海しなければいけないのです。それ故に大宰府は発展し、相当に後の世まで九州の中心だったのでしょう。そう言えば九州の人なら「水郷柳川の川下り」を御存知と思いますが、あれってこんな昔からあったんだ。しかも観光用ではなく実用の船便として。(後から調べて分かりましたが)宝満川はもしかしたら当時は筑後川の支流じゃなかったかも?上の地図の「旧海岸線」は弥生時代の海岸線で見て分かる通り久留米くらいまで海です。吉野ヶ里は海辺だった?このデータは九州農政局のデータですが、古代は相当に海が食い込んでいたんですね。だったらますます宝満川からの川下りはありだと思います。<後日追記>ダメ押しと言うか「不彌國」=大宰府にはさらに思いいたることがある。現在残っている地名で、宇美町と言うのが大宰府のすぐに北にある。地元では神功皇后が朝鮮征伐のおりに応神天皇をここで御産みになったので「うみ」と呼ぶとそう言われているのだが、実はその前にもここはうみと呼ばれていたのではないだろうか?「不彌」の読みは「ふみ」である。「うみ」に限りなく近い。発音の仕方次第である。大宰府は中国や朝鮮から流れてきた人たちが、熊本や佐賀の渡来人の町へ行く途上にある。後に学問の都になったのは、その渡来人達のうち学者先生が奴国に臨まれてここにいた?そう言うことではないだろうか?なので神功皇后もここに住む「産婦人科の先生」を頼りに応神天皇を応神天皇を産んだのでは?お腹に石を括り付けていたと言う伝説は、難産であったことを言っているのではないだろうか?そうであれば産婦人科の先生がいるここで産むのが最適である。そうおもってしまった。そう言う意味からも「不彌國」=大宰府だと思う。さて、ここが不彌國ならば、ここから先は「水行」で行けるのです。宝満川を下り、有明海の岸沿いに南へ行けば、20日で鹿児島、つまり投馬国は「薩摩」の国だったのです。投馬は「ツマ」と読むそうです。また、水行10日で熊本南部に上陸した後は「陸行」して山を越えるので1月かかりますが、宮崎に着きます。そう、古事記や日本書紀に書かれた神々の故郷が邪馬台国だったのです。中国の公文書と日本の公文書の記述が一致するなら、正しいと思います。古事記や日本書紀に書かれた神話は裏付けがとれないので「神話」で書いていますが、正しく古代の日本を書いてあったのです。ここまでを地図にしてみます。しかもこの推理の良い所は、他のどの推理でも説明できなかった邪馬台国の南も説明できます。魏志倭人伝には邪馬台国の南のことも書いてあります。女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至ここも奴国と同じで東には行くとは書いていません。つまり邪馬台国の東の海岸から船に乗って海を千里渡るとそこも倭種つまり日本人がいる。その南に「侏儒国」つまり小人の国がある。これは実は種子島で、昭和32~34年に広田遺跡を発掘したところ低身長の人骨を発見し、平均身長が男154cm、女143cmしかなく、現代人より低慎重な当時の北部九州の弥生人の平均身長男163cm女152cmより小さかった。恐らく直接見たことは無くても情報として持っていたのだと思う。またその後の黒歯の国と言うのは昔の台湾ではビンロウ(檳榔)を噛む風習があり、これにより歯が黒くなることが有ったそうなので、船で1年かかると言うことからも台湾のことだと思われる。ここまで見ると魏志倭人伝や古事記と日本書紀は、現代人が考えるよりも正確で、信頼のおける文書だと言うことがわかるし、むしろ現代の我々の解釈の仕方が悪くて、そのせいでちゃんと読めないのだと言うのが分かる。明日は総まとめとして、魏志倭人伝の正確さを再確認する。
January 23, 2019
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昨日は帯方郡から伊都国までを書いてみた。ここまでは諸説はあるが、概ね学者の先生方もアマチュアの研究者も、そして僕らのような低レベルアマチュアも同じ理解をしている。問題はこの先で、元は同じ2000文字程度の魏志倭人伝なのに全く違う結論が出ている。と言うかすごいのは、同じ九州説でも北九州から長崎や宮崎、沖縄と言う先生もおられる。東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸いよいよ奴国である。恐らくはここが分かれ道でここの解釈から後が変わってくるのだと思うから詳しく書く。ここには動詞が無い。ずーっと書いているように魏志倭人伝は公文書で中国の使者が読む、あるいは中国の偉い人が読んで倭国を理解し、対応を考える資料である。現代の我々が読むことを想定して書いているわけではない。中国語の文章として読むべきである。なので、一つ一つの文字が意味を持っている。他の所は方向と、「水行」や「陸行」や「渡」等の動詞が有るのに、ここだけない。つまり邪馬台国へ行く途中で奴国には寄らないので「行」と書いてないのである。但し、方向は示しており、東南の方向約百里の所に奴国があることは分かるのである。これはどう言うことか?ここで邪馬台国と奴国の関係を考えてみよう。人によっては奴国を邪馬台国の敵と言う人もいる。僕はそうは考えない。敵ではないが同盟国で協力関係にある。何故か。共通の敵である狗奴国が居るからである。後から邪馬台国の位置を言うと分かるのだが、狗奴国は奴国と邪馬台国の間にある。つまり挟み込んで動けなくしている。奴国にしてみればいずれ書こうと思ってはいるが、将来東征するので後ろの憂いを無くし、安心して出雲へ勢力を伸ばしたいし、邪馬台国は中国や他の国との貿易を邪魔する狗奴国を牽制したいのである。実は古代史の中で伊都国についで位置が分かりやすいのは狗奴国で、長官の狗古智卑狗はクコチヒコと読みやすいが、実は日本名は「キクチ彦」である。そう、熊本の北部の菊池市を治めていた菊池氏の祖先である。伊都国同様に古い地名がそのまま残っており、音が古い文書の記載事項に似ていて判りやすい。魏志倭人伝では邪馬台国に着いた後、その北側にある30の国々の紹介の後に次の文がある。其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里30の国の紹介の最後は奴国なので、その南と言うのは奴国の南なのだが、奴国の南に狗奴国が有り、狗古智卑狗と言う男の王様が治めていて女王国に属してない。そう書いている。なので上に書いたように奴国の南に菊池彦がいて、敵対しているのである。なお、人によってはこの北部の30国の紹介の後に、次有奴國 此女王境界所盡と書いてあるので、奴国は2回出てくるので2つあるとか、南の端のはずだとか言うが、「南」と言う字は書いてない。後世の人が勝手に「南」と考えただけである。この30国の紹介文は邪馬台国からくるーっと回って一周して最後が奴国であり、そもそも上で書いたように奴国は邪馬台国へ行く途上で寄らないので、伊都国→不彌國→邪馬台国→北の30国(最後は奴国)となり、奴国が女王国連合の北の境界なのである。矛盾はしない。どうして奴国が南の端だと言う解釈が出てきたのだろう。文の中に「南」と言う言葉は出てこないのに。女王国の北側の国30国を紹介した最後が奴国と言うだけで、北側の国の最後なので、同じ読み間違いなら、むしろ北の端と解釈しそうなものだけど。<後日追記>上記の「奴国が南の端」と言う解釈は、漢文を読む時の区切りの誤りだと思う。この部分を実際の漢文で見てみよう。自女王国以北(女王国より北には)遠くて距離や戸数は分からないので略すけどで始まる、女王国の北に有る国々の紹介がある。多くの人は黄色の枠に此れ女王境界所盡と書いてあるので、奴国が女王国以北の国の最後で、それら(女王国+以北の国々)の南に狗奴国が有ると読むが、赤い枠の部分を一連の文と解釈すると、狗奴国も(女王国には属してはいないが)女王国の北の国々の一つで、其南有狗奴国と言うのは奴国の紹介の続きであることから、奴国の南に狗奴国が有ると読めるのである。つまり奴国が今の福岡あたりだとすると、狗奴国は熊本や大分の辺りで、赤い枠の最後の部分に有る其官有狗古智卑狗は、俗説である菊池彦の事と解釈してもなんらおかしくはない。漢文をちゃんと意味で区切って解釈すれば良いのである。狗奴国を女王国の南に在ると解釈する人と奴国が2つ出てくると言う人は区切りを誤っているだけ。この本は「魏志倭人伝」であって「魏志邪馬台国伝」ではない。女王国に属していない狗奴国も紹介しており、狗奴国は奴国の次に紹介しているが、他の国々と違って女王国には属していないので、他の国、特に奴国との位置関係を明らかにする為に其南有狗奴国と書いているのである。さて話は戻って奴国に至る分に動詞「行」が無いのは、中国の使者には奴国には行かないようにと、暗に言っているのである。これは過去を考えないと分からない。魏志倭人伝の中では(書いてある部分はもっと後ろだが)倭国大乱と卑弥呼即位の理由が書いてある。其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者その国とは倭であるが、倭国の王は男の王様だった。倭国は乱れ、国同士が争って何年か経ち、1人の女性を共立つまり皆で話し合って女王にした。彼女は鬼道のまじないを行いみんなを操った。もうおばあさんだったが未婚で、弟がいて彼が国を治めるのを手伝っていた。彼女は女王となって以来、誰も見ていない。つまり邪馬台国女王の卑弥呼が倭国の女王になる前に倭国大乱が有ったのである。その原因を魏志倭人伝の編者は知っているので、中国の使者が奴国に行くと「政治的に利用されて大変」だから行くなよと言うのである。<後日追記>ここは僕の考えすぎで誤りである。2019年11月16日の「邪馬台国はどこにあったか?(その15.4)」で書いたが、伊都国は大事な国で位置的にも中国の使者が常駐すると言う意味でも、そして一大率(邪馬台国の卑弥呼につぐ中心的な存在)がいる国なのに、有千餘戸とかかれており戸数が少ない。なので「邪馬台国はどこにあったか?(その15.4)」では、伊都国は奴国の中の「国の中の国であり現在のローマの中のバチカン市国みたいなもの」で、それ故に、伊都国についた瞬間に既に奴国に到着しているから、奴国に至る分に動詞「行」が無いのだと思う。ここは後漢書に出てくる 帥升の時代の奴国の位置を(中国本国の人が気にするから)紹介しているだけであり、通る必要は無いので動詞がないのだ。そう考えれば、邪馬台国畿内説の人が主張するように(奴国を経由しないので)方角の誤りは発生せず、また「放射説」など考えなくても、書いてある通りに行けば伊都国から不彌國(今の宇美=大宰府付近)経由で素直に邪馬台国(多分宮崎)にたどり着くのである。では倭国大乱の原因とは何か。かっては奴国が倭の支配者だったのである。それは何を見れば分かるか?志賀島で発見された「金印」である。奴国の王は中国(後漢)の皇帝から倭国の王の印として金印をもらっていたのである。それは後漢書東夷伝に書いてある。建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭の奴国が使いをよこし金印をもらったと。後にそれは志賀島で農民が発見し、事実だったと分かるのだが、それ故に奴国の王が死んでも返していなかったことも分かる。通常、皇帝から金印をもらったら、役目を終えた時(死んだ時など)返すのが当たり前。現代でも総理大臣はその任期中にしか総理大臣の印鑑は使えない。公印は人でなく役職につくからである。しかるにそれが日本に残っていたと言うことは、奴国の歴代の王が使っていたということ。そう、奴国の王は「俺のバックには中国の皇帝がいるんだぜ!」と言って、他の国々をまとめていたのである。ところが強い王が死に、ぼんくらな2世が(自身の力を過信し)秘密のうちに父王の墓に金印を埋めてしまったので、中国の後ろ盾がなければと国々は反乱を起こしたのである。これが倭国大乱で、それ故に卑弥呼は即位後中国の後ろ盾の必要性を痛感し、景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰(以下略)つまり、さっそく難升米と言う使いを派遣して、帯方郡の太守は彼を皇帝の所まで送り、彼は皇帝に贈り物を届け、また印鑑をもらうのである。この印は恐らく卑弥呼とともに墓に埋められており、「卑弥呼の墓の証拠」になると思う。だって卑弥呼の死後、また国々は乱れているので金印は引き継がれなかったのだと思う。つまり、そんなことがあったばかりなので、奴国に行ったりしたら話を蒸し返すことになり、皇帝や太守にとってもいい迷惑になるのでそっとしておけと言う意味で、奴国のことはよくしっていないといけないけど、行くんじゃないよと言うことである。<後日追記>この推論は間違っていたようです。邪馬台国はどこにあったか(その15.4)を参照願います。現に卑弥呼は魏志倭人伝にも書かれているが、其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之狗奴国と戦争をして、正治八年(247年)帯方郡太守が王頎に代わった時に、狗奴国が言うことを聞かずに戦争になっていると訴え出て難升米を派遣している。この時には中国サイドは結局旗と激励文をくれただけだったらしい。参考に、これまでのことが分かるように、末蘆国、伊都国、奴国、狗奴国の位置関係が分かる航空写真を下に示す。(後日訂正:上の地図の中で2万人よ書いてあるのは2万戸の間違いです。すみません。)ここに書いてあるように古代は博多湾と唐津湾はつながっており、海岸線は山寄りで、博多の付近はまだ2万人2万戸の人口を養えるほど平野部が無く、奴国の2万人の食料を賄えるのは筑後平野だったと考えざるを得ず、熊本の菊池郡つまり狗奴国がすぐ南にあることからも言えると思う。但し、一つ僕も迷っていることがある。それは古代においては「狗」のような字は相手を貶める場合につける文字なので、もしかしたら、「憎き」奴国=狗奴国の可能性もあると言うことである。なんせ隣り合う国なのでまとまって一つの国の可能性もある。邪馬台国にとり、同盟を結んだけど憎さは残っている為に、邪馬台国の役人が正式な名称で奴国と言い、感情的になった時に狗奴国と言ったのかも?でも公文書であるからちゃん確認していると思うので、2つは別の国であろう。そうそう、それには一つ理由がある。奴国と狗奴国の間と言うか境目に「八女」と言うところがあり、ここには素戔嗚神社がある。八女?え?ヤマタノオロチのいけにえって8人の女の子じゃなかったっけ?もし奴国が後日東征して出雲の国になったのなら、また奴国の王が素戔嗚だったなら、やっぱり奴国と狗奴国は別の国で、名前は共通の理由からついたので両方に「奴」が入り、両者を区別する為に邪馬台国の立場から「狗」と言う字を加えたのかもしれない。そして、ヤマタノオロチの原点は八女での奴国と狗奴国の戦いにあるのかもしれない。<後日追記>「八女=ここで有った奴国と狗奴国の戦いが後の素戔嗚尊のオロチ伝説になった?」と言う仮説について勉強していたら、新たな事実が分かった。古事記や日本書紀では出雲の出来事とされているヤマタノオロチ伝説だが、出雲風土記には記されていないらしい。出雲風土記には素戔嗚尊と櫛名田姫については書かれているので、ヤマタノオロチ伝説に触れていないのは変なのだが、上に書いたように、実際の戦いがここであって、伝説が素戔嗚尊の出雲東征とともに伝わったのならおかしくはないと思う。地名を連れて行くのなら、色々な宗教儀式や教えも持って行くだろうから。ただ、ヤマタノオロチ伝説は実際の戦いではなく、出雲の暴れ川の治水技術による征服を神話化したもので、奥出雲の「たたら製鉄」の事実が「草薙剣」になったと言う説もあります。これに関しては、当時はまだ鉄器の技術は無く、6世紀頃に伝わったらしいので、「草薙剣」の仮説は眉唾ですが、治水技術に関しては可能性は有ると思います。ただ、治水に関しては筑後川や八女川も同じなので、ここ八女での出来事なのか出雲での出来事なのか、あるいはその両方なのか分からない。ちょっと長くなったので、今日は奴国の話でおしまい。
January 22, 2019
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まずは魏志倭人伝を見てみる。倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者今使譯所通三十國よくわからない。でも、倭人の住んでいる所(倭国)は帯方郡(今の韓国ソウルのあたり)の東南で海の中にあって昔は100余国有ったのがまとまって、国交があって行ける所は30か国くらいある。と言うのは読める。從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里帯方郡には中国の出先機関が有り、そこからの行き方が書いてある。まずは帯方郡から韓国の海岸沿いに舟で7000里あまり行くと狗邪韓国に着くらしい。始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴狗邪韓国は今の釜山の近くだそうで、ここで「初めて海を渡る」となる。ここに関して宮崎さんは画期的かつ当たり前の理論を述べている。昔の人は簡単にスルーしているけど、ここで大きな船に乗り換えるんだよね。こういう所が、昨日書いた「相当に正確な所」である。恐らく初めて大海に出るお役人様に、「乍南乍東」つまり海岸線に沿って行くから南に行ったり東に行ったりするよ。「始度一海」初めて一海を渡り、つまり今まで乗ってきた沿岸用の船を降りて、大海用の大きな船に乗り換えるんだよ。と言っているのである。そして、「対海国」に至り「大官日卑狗 副日卑奴母離」地元の長官と副長官に会うのである。なお、中国の役人同様に倭国の長官も人事異動が有るので、固有名詞は変わるから、ここに書かれているのは役職名だと思われる。で、その後に対馬(対海国はほぼ全ての研究者が対馬と考えている)の説明が有り、恐らくこれを読みながら、不安に思いながらここまで来た中国の役人は、おぉー!書いてある通りじゃん!と安心し、残りの旅に自信を持つのである。ところで、ここまで読んで気が付くのは、「到」と「至」、「水行」と「渡」等、言葉を使い分けていることである。バカな学者は理解できず、書き間違えたなどと言っているが公文書とはそう言うものではない。現代のお役人様でも公文書の中では厳しく使い分けている。例えば僕の仕事である電気工事においては、「かんり」を「菅理」と「監理」に使い分ける。僕ら工事業者が工程や品質をかんりするのは「管理」であり、僕らがやっていることを監督さんがかんりするのは「監理」である。立場と仕事の内容が違うのである。監督さんは偉いので作業は直接タッチしないのである。あるいは会社名で「○○電気」と「●●電機」は同じ「でんき」でも使い分ける。「電気」は工事会社、「電機」は製造会社につけるのが原則である。仕事の性質上、工事も製品製造も両方やる会社が有って混乱する場合もあるが、公文書に載せる場合は使い分けている。魏志倭人伝でも、同じ船に乗って行くのでも「水行」は沿岸に沿って行くのだし、「渡」のは岸を離れて大海に乗り出す場合である。又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴対馬を出ると次は壱岐である。何故か一大国となっている。意味は有るのだと思うが、偉い先生方や研究者の説明は有るが、僕には理解不能。でも心配はない。物理的に他はありえないから。又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之いよいよ倭国の末廬国に着く。多くの学者や研究者が九州の松浦だと言うがぼくもそう思う。但し、最も壱岐に近い所の名護屋あたりで唐津では無いと思う。宮崎先生の仰る通り、唐津まで船で行くのならもっと先まで行く。当時の唐津湾は博多湾に続いており、糸島は本当に島で、(縄文期は海面が今よりも10mほど高く、弥生期になっても6mほど高かった。 その為に今の糸島半島は島で、唐津湾と博多湾は糸島水道で結ばれる海だった。)伊都国はその対岸の港町だったのだと思うから、唐津に途中停車する意味がないのである。でも、昔の船ならば壱岐に近い名護屋にまずは泊まるだろうと思う。ここで大海をクリアーした疲れを取り、翌日伊都国へ向かう。なので唐津ではなく名護屋なのである。<後日注記>これは末蘆国の中心が名護屋に有ったと言うことを言っているのではないのであしからず。末蘆国の中心は唐津付近だったと思うけど中国の使者にとっては興味が無かったと思うだけ。魏志倭人伝にもちょっと未開の国的なイメージで書いてあるので、わざわざ唐津付近には泊まらなかっただろうなぁと思っただけです。ただ、船乗りは今よりも厳しい操船なので即休みたいだろうから名護屋に泊まったかな?そう言う意味です。なお、宮崎先生もそう仰っていますが、この後に「東南陸行 五百里 到伊都國」とあり、そのせいで昔から魏志倭人伝における方角の記載のあいまいさを言う人が多いのですが、確かに末蘆国の首都から伊都国の首都は東の方角ですが、記載の元になった中国の使者が末蘆国の首都に寄らなかったとすると、「末蘆国の名護屋から見た伊都国は東南」なので何の矛盾もありません。名護屋は昔から潮待ち港で、大陸に行く船はここから出発した。 そう言えば、名護屋は秀吉が城を築き、朝鮮出兵の基地とした場所で、 付近にある神集島は神功皇后が三韓征伐の折に先勝祈願を行った所で、 元寇の際には元の軍隊はまずここを攻めて基地とし、ここから博多を攻めたらしい。 つまり古代から大陸と日本の往来の要所だったからである。 <後日追記>色々と調べていたら、倭国から大陸へ行く使者は上に書いた通り、唐津は通らずに神集島経由で渡航していたらしい。確かな根拠が有った。万葉集である。 万葉集巻一五の天平八年(736年)の遣新羅使の歌では、筑前の筑紫舘(ちくしのたち)から筑前志麻郡韓亭・引浦亭、肥前の松浦郡狛島(現在の神集島(かしわじま))を通り、壱岐・対馬を経由して新羅に渡ったとある。唐津は通っていない。 話は変わるが、伊都国には邪馬台国の地方長官みたいな役職の一大率と言うのが居たらしい。そんな偉い人ならば人口が4000人の伊都国よりも2万人の奴国に置いた方が良いと思うのだが、一大率の役割は諸国を見張るだけではなく、伊都国は江戸時代の長崎の出島みたいな感覚で、中国からの使者が勝手にどこかへ行かないように見張るのも一大率の役割だったのだと思う。東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐いよいよ伊都国に到着する。どちらが重要な役職なのか不明だが、長官と副長官の役職名が対馬や壱岐と違う。長官が日爾支で、副長官が日泄謨觚柄渠觚次に出てくる奴国の長官と副長官が対馬や壱岐と同じなので、伊都国が特別なのだと思う。何故なら「郡使往來常所駐」つまり帯方郡のお役人が常に行き来して駐する所があるから。ここまでを地図にしてみた。伊都国よりも先はまた明日
January 21, 2019
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宮崎さんの本を読んで刺激を受けた僕は「邪馬台国の比定地」を推理してみることにした。え?宮崎さんの本では「島原」じゃないの?と思うだろうけど、そこは宮崎さんには申し訳ないが、別の土地だと思う。推理にあたっては以下のことを基本とした。1.古代の人を信じる。 僕は畿内説は明らかな誤りだと思っている。何故なら非論理的だから。 畿内説の根本をなすポイントは 「魏志倭人伝は方位を東と南を間違えている。魏志倭人伝通りに行くと海の中だから」 「中国(魏)の皇帝にもらった鏡100枚が出てきた」 「畿内の古墳が最も古く、箸墓古墳は最近の研究で時代が上がり卑弥呼の時代に合う」 と言うのだが、要は古代の人の技術力や知識をばかにしているのである。 まず古代の人が方位を間違えることはあり得ない。 現代人とは違い、農耕文化の始まりの弥生時代では太陽の方向が一番大事で、 僕はマチュピチュでも見たが作物の植え付けと収穫の為には方位を知ることが必要である。 エジプトのピラミッドは正確に方位をそろえて建てられており、 古代人が太陽の出る方角と沈む方角及び南中角を知らないはずは無いのである。 次に鏡は日本で出土する三角神獣鏡は材料はともかく製品は日本製が多く、 特に卑弥呼の鏡と主張するタイプは中国では1枚も出土しておらず、中国製は他の地域が多い。 最後の古墳は畿内が古く、畿内から他の地域に広まったと言うのは誤りで、 例えば宮崎の生目古墳群の物は2世紀後半から3世紀と畿内の物よりも古い。 つまり元々九州で発生した古墳文化が神武東征とともに大和へ進出したと言うことである。 さらに畿内の古墳には阿蘇のピンク石を使っている物が有る。 横穴式の古墳なので時代は卑弥呼より新しいが、 その辺の石でも良いものをわざわざ九州から持って行っているのは宗教的な意味があるから。 つまり九州出身の人間が宗教的な意味合いから古墳を大和に持って行ったのである。 また、卑弥呼の時代の古墳が畿内に有っても、卑弥呼の古墳とは言えず、 「卑弥呼の時代の有力者がその辺に居た」と言うだけである。 このことは古事記や日本書紀にも書かれており、 神武東征以前に大和に攻め登った神々が何人かおり、彼らは大和朝廷以前に住み着いている。 神武天皇と戦った有名なナガスネヒコの娘は彼らと結婚しており、後に降伏している。 つまり畿内説には、特に「東と南を間違えた理論」には無理がある。 じゃぁ、邪馬台国は海の中?それは明日以降に推理した結論を書く。2.魏志倭人伝も日本書紀も「公文書」である。 多くの学者や研究者が、魏志倭人伝を小説のように扱い、誤りであると言う前提で話すが、 僕はそんなことはなく、かなり正確に書かれた、裏付けをとって書かれた公文書だと思う。 魏志倭人伝は史書で、「偉い人たちが読んで理解したり判断する為の資料」なので、 当時としては最新の技術・知識・情報を元に書かれており、 丁度いま厚生労働省の統計が杜撰だと国会で騒がれているように、誤りが発覚すると、 携わった者は処刑される位の文書だったのだと思う。 特に魏志倭人伝の中には「伊都国には帯方郡や韓国からの使者が常駐する」場所があり、 今で言えば大使館みたいなものだから、そこに至る経路は重要で、 中国のお役人が魏志倭人伝を読んで、それに従って行くのだから重要性はかなり高いと思う。 例えば国の長官や副長官の名前を書いているのは、行った時に挨拶する為の心の準備のため、 大きさや戸数や生活の状況が書かれているのは、面白おかしく書いているのではなく、 丁度現代の我々が地方支店や営業所に転勤を命ぜられる際に行き先の研究をするように、 倭国に出向を命ぜられた中国の役人の事前研究に必須のものだからである。 それをいい加減に前任の役人が言って本になったら、後任の役人はたまったものではない。 違っていたらすぐに上司に密告して前任は処刑である。<後日追記> 公文書とあいまいな記述をしたが、主に元になったのは復命書だと思う。 他にも書類は有るかとは思うが、地理や時間が分かるものと言えば復命書である。 今のお役人の世界では復命書はペラペラの一枚紙かもしれないが、 本来の復命書は、いつ誰とどこで何を何を元にどのように打ち合わせをしたか克明に記す。 何故なら打ち合わせの内容は重要事項なので当然だが、時間や場所も重要だから。 今の復命書でも、距離は例えば900km以上は飛行機それ以下は新幹線とか、 1日の日当は2000円で宿泊費は1日8000円とかお金の支払いの元になるからである。 それを使えば(ウソを書いてなければ)国間の距離や必要な日数及び移動方法は出る。 魏志倭人伝の著者が出先の役人から提出された復命書を元に書いたならば正確なのは当然。 但し、実際に行っておらず、現地の人の言ったことをまた聞きした場合は曖昧かも?3.すべては時間の流れが有り、時間を考慮しないと正しくは推理できない。 なので、ここで言う邪馬台国の比定地は「魏志倭人伝の書かれた時期」に限定する。 例えば日本書紀に書かれたように神武東征があんなに素早くなされたものならば、 邪馬台国は九州にも大和にも有った可能性があり、単に時期が違うだけで、 極端な話だが、魏志倭人伝の書かれた時期には九州に有った邪馬台国が、 その10年後には大和に有った可能性もあり、 そのせいで「両方から両方の正しさを示す証拠が見つかる」可能性もあるのである。 この場合、下手をすると邪馬台国岡山説さえも成立する可能性がある。4.僕は学者ではないので、責任は持たないし、他から批判が有っても答えない。 僕らはしょせん低レベルアマチュアなので、歴史の細かい部分や、 特に古い漢字や言葉の意味は分からない。 なので好き勝手に自分の推理を書いても「バカな奴」と言われる程度で責任は無い。 他の人に強制するつもりはないし、される可能性もたぶん無い。 世の中に邪馬台国論者は多数いて、僕と同じ推理に至る人もいれば正反対もいるだろう。 なので、この推理はあくまでも僕の推理で自己満足と考える。5.魏志倭人伝だけではなく日本初の歴史書である日本書紀や古事記も参考にする。 日本書紀の編者が恐らくは魏志倭人伝の存在を知っていて、 邪馬台国と大和朝廷を関連付けしようとしたように、 神功皇后の三韓征伐が好太王碑文と合うように、 日本の古代も中国や韓国との関係は深く、逆もまたしかりなので、 恐らくは日本書紀や古事記の神話部分には何らかの真実と関係あるものもあり、 それが魏志倭人伝や後漢書と関係あるかもしれないので、日本書紀や古事記も参考にする。こんな感じで明日以降、具体的な話を進めよう。
January 20, 2019
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昨年末に仕事で大阪に行って、その帰りにこっそりと百舌鳥古墳群を見てきたのだが、そのせいもあって、古代日本の研究をしているうちに面白い本を見つけた。宮崎康平さんの「まぼろしの邪馬台国」である。宮崎さんは長崎県の島原の人で、僕の両親の出身地が諫早なので御近所さんである。彼はものすごい博識で、家業の建設業社長をやった後に島原鉄道の常務をやった人なんだけど、交友関係が広く、火野葦平等の作家や小関裕而や菊田一夫と友人で、「島原の子守歌」と言う歌まで作っているが、土建屋だったせいか傍若無人な所があり、最初の奥さんはそのせいか子供を置いて出て行ったそうである。彼はその後失明し、この本は後妻として入った和子夫人の口述筆記になるもので、皇室に関わるものとして戦前はタブーであったこの分野の本として、大ベストセラーになり、この本出版以降、邪馬台国は一大ブームになったそうである。本の内容は他の研究者とは一線を画した非常に面白い邪馬台国論で、特に目が見えない彼の強みである音の解析に基づく独特の魏志倭人伝の解釈は素晴らしく、今までの畿内説、北九州説とは違う島原説を唱えている。僕は彼のことを尊敬し、彼の奥さんのことを素晴らしい人だと思っている。(吉永小百合さん主演で「まぼろしの邪馬台国」と言うタイトルで映画化されている)特に彼は、他の学者達のように「○○にはこう書かれている」、「○○博士はそう言っている」と言う伝聞証拠に頼らず、土木屋であった利点を生かし、実証的に解き明かしていくのが、電気技術者の僕にも共感する所があり、納得できる。彼は古墳の製造方法の理論まで考えており、円墳の作り方は特になるほどと思った。世の中の考古学者は偉そうに言うが、彼らはしょせん分類や形式に詳しいだけで、学者の特色ではあるが、自身の得意な分野は滅法詳しいくせに他のことは何も知らないが故にとんでもない理屈をこねることが多いが、宮崎さんは理路整然と述べている。円墳を形作るのに「棒と紐を使う」方法はなるほどと思わせられ、土木工事経験者ならではと感心させられた。同様なのが古い地形に考えが及んでいる所。これも土木屋らしい。僕は北九州市の出身だが、昔の海はずっと内陸まで入り込んでおり、若松や糸島が「島」だったとは知らなかった。これを知らないと伊都国の重要性は分からないし、奴国と邪馬台国の関係も分からない。で、僕も宮崎さんの本の影響を受けて「にわか考古学者?」になったのでした。続きは明日から。
January 19, 2019
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本当に久しぶりにarduinoで遊んでみた。と言うのも愛天堂で学習シールドGK-SLD1が698円+税で売っていたのを買ったからである。愛天堂もずーっと長くいたお姉さんが居なくなっておりびっくりしたけど、相変わらず通っている。前に居たお姉さんは愛天堂が秋葉原の端っこに有って末広町に移る前に有った頃からの縁だけど、当時、パソコンの液晶パネルの修理の為に冷陰極管を探していた時に、他の店よりも種類が多く安かったのでよく通っていた時に、まだ日本語を話せずに身振り手振りで探してもらって以来の縁である。でも、本当はそれよりも前にも会ったことがあるのかもしれない。と言うのは、新潟で生活していた時に駅の階段で大きなバッグを担いで悪戦苦闘していた中国のお姉さんを手伝ったことがあるのだけど、よく似ていたので同一人物ではと思った経緯があるからである。面倒くさいので本人には聞かなかったけど、今にして思えば聞いておくんだった。結婚して中国に帰ったのかなぁ?で、学習シールドGK-SLD1なんだけど、インターネットを探しても記事が無い。愛天堂のホームページに回路図が有るので、それを頼りに色々と実験してみたけれど、結構大変で、Lチカができた程度。特に他の部品、例えばLM35のようなセンサーを使ってみたいけど、パソコンに温度表示をするのはできるけど7セグに表示する方法が分からない。愛天堂のホームページにも参考スケッチは無い。困って探していたら、うり二つの学習シールドがamazonに有った。https://www.amazon.co.jp/GAOHOU-A1010-Arduino-UNO-学習向け多機能拡張ボード-シールドキット/dp/B00IZ4BUCUである。えー!1050円もする。愛天堂の1.5倍!まぁ、この辺が愛天堂を捨てられない原因なんだけど、これをきっかけに別の会社(中国)の同じようなシールドやスケッチを見つけた。それによるとちゃんとライブラリーもあるし、オリジナルには説明書もついていた。ファイルのアップロードは著作権に触れるかもしれないので名称だけ記す。Using an Arduino Multi-function Shieldと言う名称で、cohesivecomputing.co.ukが2015年に出しているようである。(もしかするとこれもコピー製品かもしれないけど)この製品の写真が下。この製品ではセンサー部用のジャンパーJ1がスイッチの上あたりについているが、愛天堂の製品はセンサー取付部の右上あたりにある。コピー製品とは言え微妙に違うのが面白い。で、その説明書に載っていたスケッチに手を加えて遊んでみたらちゃんと動く。もしかすると必要な人がいるかもしれないので、以下に載せます。ライブラリーを探すのが大変だった。「Multi-function-shield-library-bundle」と「MultiFuncShield-Library」をインクルードした。どちらが重要あるいは片方だけでも良いのかもしれないけど、面倒くさいので両方いれた。ファイルそのものをアップして怒られないか不明なので上げてない。(7セグのテスト1)7セグに色々と表示してカウンターがカウントする。#include <TimerOne.h>#include <Wire.h>#include <MultiFuncShield.h>void setup() {// put your setup code here, to run once:Timer1.initialize();MFS.initialize(&Timer1); // initialize multi-function shield libraryMFS.write("Hi");delay(2000);MFS.write(-273);delay(2000);MFS.write(3.141, 3); // display to 2 decimal places.delay(2000);}int counter=0;byte ended = false;void loop() {// put your main code here, to run repeatedly:if (counter < 200){MFS.write((int)counter);counter++;}else if (!ended){ended = true;delay(2000);MFS.write("End");MFS.blinkDisplay(DIGIT_ALL, ON);}delay(50);}(7セグのテスト2)7セグに色々と表示してカウンターがカウントする。#include <TimerOne.h>#include <Wire.h>#include <MultiFuncShield.h>void setup() {// put your setup code here, to run once:Timer1.initialize();MFS.initialize(&Timer1); // initialize multi-function shield libraryMFS.write("Hi");delay(2000);MFS.write(-273);delay(2000);MFS.write(3.141, 3); // display to 2 decimal places.delay(2000);MFS.write("good"); // display to 2 decimal places.delay(2000);MFS.write(1.414, 3); // display to 2 decimal places.delay(2000);}int counter=0;byte ended = false;void loop() {// put your main code here, to run repeatedly: if (counter < 1001) { MFS.write((int)counter); counter++; } else if (!ended) { ended = true; delay(2000); MFS.write("End"); MFS.blinkDisplay(DIGIT_ALL, ON); delay(3000); } delay(20);MFS.blinkDisplay(DIGIT_ALL, OFF);}(LEDのチェック)いわゆるLチカです。#include <TimerOne.h>#include <Wire.h>#include <MultiFuncShield.h>void setup() {// put your setup code here, to run once:Timer1.initialize();MFS.initialize(&Timer1); // initialize multi-function shield libraryMFS.writeLeds(LED_ALL, ON);delay(2000);MFS.blinkLeds(LED_1 | LED_2, ON);delay(2000);MFS.blinkLeds(LED_1 | LED_2, OFF);MFS.blinkLeds(LED_3 | LED_4, ON);delay(2000);MFS.blinkLeds(LED_ALL, ON);delay(2000);MFS.blinkLeds(LED_ALL, OFF);MFS.writeLeds(LED_ALL, OFF);}void loop() {// put your main code here, to run repeatedly:}(LM35で測った温度を7セグに表示)注)J1(ジャンパー)を外すことまたLM35はLM35の印字面が上記写真では上向き#include <TimerOne.h>#include <Wire.h>#include <MultiFuncShield.h>// NOTE: make sure jumper J1 is removed from shield, and that LM35 is inserted correctly.// rumove J1void setup() {// put your setup code here, to run once:Timer1.initialize();MFS.initialize(&Timer1); // initialize multi-function shield library// Initialize using a low pass filter.// Choose either: SMOOTHING_NONE, SMOOTHING_MODERATE or SMOOTHING_STRONGMFS.initLM35(SMOOTHING_MODERATE);}void loop() {// put your main code here, to run repeatedly:int tempCentigrade = MFS.getLM35Data(); // get centigrade in 1/10 of degree.MFS.write((float)tempCentigrade / 10, 1); // display temp to 1 decimal place.delay(100);}(ポテンショメーター測定)つまみを回せば0~999まで変化する。#include <TimerOne.h>#include <Wire.h>#include <MultiFuncShield.h>void setup() {// put your setup code here, to run once:Timer1.initialize();MFS.initialize(&Timer1); // initialize multi-function shield library}void loop() {// put your main code here, to run repeatedly:MFS.write(analogRead(POT_PIN));delay(100);}これ以外にも色々と載っていましたが、長くなるのでここまで。誰かの参考になればうれしいです。
January 12, 2019
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お正月にFINEPIX S8200でオリオン座星雲を撮影できたので思ったのだけど、実は僕らローレベルアマチュアが楽しめるレベルの星の撮影は、高倍率のコンデジが有れば結構撮影できるのではないかと思う。いや、もちろんレベルの差はあって、同じ物は無理だけど、単に経験するだけと言うレベルなら可能だと思うのである。望遠鏡のメリットである倍率は、実用的には概ねレンズ口径のmm表示の2倍程度なので、60mmの口径の物で120倍、つまりコンデジの100倍よりも少し良いだけである。(市販のいい加減な天体望遠鏡ではバローレンズで無駄に倍率を上げて300倍などと言うが、 実は無駄に倍率を上げてもボケるだけで良く見えるようにはならず、 暗くなり、また倍率を上げたせいで動きやすくなって見つけにくくなるだけである。)100倍もあれば月のクレーターはもちろん木星の衛星も見え、星雲や星団も有名なのは見られる。木星の縞や土星の輪はさすがに厳しいが条件の良い場所なら撮影条件を整えれば可能。で、経験を積むと同時に「これは面白い」と感じたら、中途半端な物にしないで150mm以上の反射望遠鏡を買えば良いのである。と言うか、星の観測は、僕の今までの経験からすると、望遠鏡の性能よりも以前に空気や周辺の明るさの影響、つまり観測場所の方が大事だと思う。そう思って有名どころの星雲や星団と思っていたら格好の材料を見つけたので撮影した。ヒヤデス星団である。コンデジでしかも横浜のベランダで有名なヒヤデス星団が撮影できるなんて。当然、望遠鏡と一眼レフを組み合わせた物にはかなわないんだけど、「これがヒヤデス星団か」レベルには十分だと思う。撮影条件はISO12800、シャッター速度1/1.3、f4.9で倍率は40倍(FINEPIX SL1000)である。これで気軽に(ここが大事)バシャバシャとたくさん撮っているうちに、木星を詳しく見たいとか火星の運河?を撮影したくなったら望遠鏡にステップアップ!それが良いと思うな。ちなみに過去にこのブログに載せた「コンデジによる写真」を集めてみた。まずはお月さま。実は半月などの方がクレーターは(白黒の境目あたりで)見やすいのだけど、ウサギさんの正体を見るには満月が良い。次は木星の衛星。本当は60個以上あるらしいけど、有名なガリレオ衛星4つはこの通りコンデジでOK!但しの木星の縞は難しい。これはセンサーサイズが小さくレンズも小さいので仕方ない。やっぱりステップアップが必要。オリオン座星雲なら色も分かる。これがコンデジで撮れるとは思わなかったので、びっくりした。次はすばる。ベランダでも見えるんですね。こんな感じなので意外に立派なんだと思うんだけど。例えば小栗旬とか宮崎あおい(FINEPIXとは違うけど)がCMでやったら、コンデジのファンが増えると思うけどなぁ・
January 4, 2019
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2018年は会社を辞めて、新たに別の会社に入ったせいもあって、相当に大変な一年であった。さらにその上に母親が亡くなり、10年前に父親が亡くなっているので、両親の故郷の長崎とは縁が切れそうになり、かと言って生まれた北九州市には、もう誰も残っていないので、なんか「根無し草」になったようで、精神的に弱ってしまった1年だった。体力的には、大腸ポリープを切除すると言う大変な出来事は有ったが、まぁ、健康的な一年だったので良かったけれど、友人たちは一人、また一人と、そろそろ彼の世に旅立つ者も出てきているので、2019年は少し身体を鍛えようかなとは思っている。で、喪中なので初詣をすることができず、このブログでも「おめでとう」とは言えないが、「初日の出」は宗教には関係が無いので、拝みに行った。インターネットでは色々な説があるが、元々、生まれた時は神社、死んだ時はお寺なので、神社に参るのは良いと言う意見もあるし、死んだ後の行き先も神道では黄泉の国、仏教では天国(地獄の人もいるが)と違うし、おめでとうと言わずに、今年もよろしくと言うのは良いのかなと思ってはいる。今年はお天気が良く(日本海側は悪いみたいなので、そちらの人はごめんなさい!)、風も穏やかで平和な一年になりそうな予感がした。我が家の近所では千葉の山から初日の出は昇る。夜明け前。小さくて見づらいが左上には米軍機が見える。右手の方に横須賀基地があるので、そこの飛行機か?いや、自衛隊機かも?やがて初日の出が昇る。二礼二拝一礼して、後ろを振り返ると富士山が見える。工場や電線が邪魔だけど、雪が積もり、少し薄いヴェールをまとった富士山である。上にも書いたように喪中と神社は50%位しか関係ないと言うことで、近所の富岡八幡宮に行った。ここは源頼朝が、鎌倉の鬼門の抑えとして設けた神社で、結構由緒あるものらしい。その入り口付近に案内板が有った。いや、神社の案内ではなく近所の地図的なものだけど。赤い線がウオーキングロードで、この近所から八景島まで伸びている。概ねこの赤い線より右が昔の海岸線で、富岡八幡宮も昔は海に接していたらしい。そのせいか、特殊神事として祇園舟を流す神事があるらしい。その海の名残が団地の中に舟だまりとして大きな池になって残っている。この団地は公団や公社が高度成長期に入る前に計画し造成したらしく、入居者は団塊の世代がやたらと多く、今は世代の交代の時期に差し掛かっている。おかげで近所のスーパーはつぶれたり、逆に新たに作られたり、住民の年齢層をにらんで大きく動いている。恐らくここの団地だけで地方の小さな都市くらいは人がいるのではないだろうか?さて富岡八幡宮であるが、小高い丘の上にある。入り口はこんな感じ。登ると立派な社殿がある。大きな神社らしく、今は早朝なので人がいないが、みんなが起きる時間になると下の登り口まで並び、お参りは横五列に並ぶほど混雑する。初日の出を拝んでいてふと気がついた。お正月なので工場が休みのせいなのか空気がきれいな気がする。もしかすると、夜になれば星がきれいかも?予感は的中し、初日の出を拝んだ港は星があふれていた。そこで実験をしてみた。いつの日にか長野県かどこかの空気の奇麗な所へ天の川の写真を撮りに行こうかと思っているが、天体望遠鏡を担いで行くのは大変だし、カメラも重いし。だったらコンデジではダメかなと言うことである。実験なので、2000円未満で買って修理したFINEPIX S8200を使ってみよう。でもさすがに小さな星は無理なので、オリオン座のM42星雲を撮ってみることにした。低レベルアマチュアの僕でも探せる星雲である。最初はお試しなので、ISO12800、絞りf6.5、焦点距離172mm(つまり40倍)、S速度4秒。少し動いている。(シャッター速度4秒は長すぎたか?)シャッター速度を1秒まで短縮してみた。(当然2秒や3秒もやった。)なんか大きさが変わったように見えるかもしれないけど、上や横の星との間隔は変わっていないことから分かるように倍率は同じ。ただ「明るさの広がり」が狭くなっただけ。4秒の方は左下の2つの星も明るい傘の下に隠れているが、1秒では重なっていない。コンデジでも星雲の写真が撮れるんですね。もしかしたら最近のスマホなら取れるのかも?少し自信がついたので、長野県に行く前に、近いうちに近所の穴場(城ヶ島)に行ってみよう。
January 1, 2019
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