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いつの日にか生きているうちに卑弥呼の塚を見つける為に、鏡や金印を見つけることが可能な強力な金属探知機を作ってみようと思っているが、市販品はほぼ子供のおもちゃで使えず、強力な物は地雷探知機等手に入らないものなので、自作するしかないと思って色々と研究しているが、何事もいきなりと言うのは無理なので、少しづつ研究する。金属探知機は色々な種類が有るが、その原理は概ね金属の接近により変化するインダクタンスを検知するものである。X線等の透過型の物は出力側と検知側に装置が必要なので地中の物を探すのは無理だし、レーダーのような反射型は反射によって得られる電波が微弱なので検知する装置が大きくなり、持ち運びができず値段が途方も無く高い。なのでインダクタンス変化の検出がお手軽である。それにしてもインダクタンスの変化も微弱なので検知方法は色々と有るけれど、可能なのは以下のタイプ。1.インダクタンスの変化を電波に変えて、その周波数の変化を電圧として検知する。2.インダクタンスの変化を電波に変えて、その周波数の変化を電流として検知する。3.インダクタンスの変化を周波数のままカウントして、その差を検知する。こんな感じ。簡単なのは2.で子供向けおもちゃはたいていこのタイプ。愛天堂で販売されているのを買って作ったことがあり、2022年3月22日にブログに書いた。愛天堂の金属探知機を作りました。この愛天堂の金属探知機はL1を並列共振回路、L2を直列共振回路として、L1の回路が同調する周波数でQ2の電流が最大になり、L2の回路が同調する周波数でQ1の電流が最大になり、L1とL2が同心円状に有るので両者が一致するとQ3には電流が流れないが、周波数がずれるとQ3に電流が流れてブザーが鳴る仕組みになっている。他にも色々な方法が有るけれども、この考え方は結構GOODアイデアである。他には1.の方式で、出力側から発せられた電波により金属に発生した誘導電流を、電波として検出し、それを増幅して電圧出力としてブザーなどを鳴らすタイプもある。また3.の方式として基準周波数の発生回路と同じ周波数を発生する検知回路を作り、検知回路を金属に近づけて変化した周波数と基準回路の電波を、コンパレーターで比較して電圧(又は電流)として出力したり、両者の差を「うなり」として(ラジオ受信機等で)検出する物が有る。特にこの「うなり」として検出する方式は理論的に感度が高くなりやすいので第一候補。今回はどの方式を採用するにしても金属に対するインダクタンス変化の検出が大事なので、いったいどの位なのかを実験してみた。まずは実験回路。こんな感じ。発振回路には色々なタイプが有るが、大事なのは製作が簡単で安くできること。ハートレー発振回路はコイルにタップを作るのが大変なのでコルピッツ発振回路にした。上のコルピッツ回路は通常コレクターにインダクターを入れて発振出力を上げるが、今回は電源ラインにテスターを入れるので、テスターがコレクター抵抗又はインダクターと思えば省略が可能なので入れていない。また、コイルの条件(大きいか小さいか)がどのように影響するか調べたいので、愛天堂で290円で買ったコイル(多分携帯電話の非接触充電回路用)の50µHのものと、近所の金物屋さんで買った0.55mmのエナメル線(袋から出したそのままで図ると)250µHをつないで、金属体(実際はペンチ)を近づけて比較してみることにした。その実験の様子。出力はアース-ベース間をオシロスコープで観察した。まずは50µHの波形。周波数は1.232MHzで+2.5V~-2.2Vである。これに金属(ペンチ)を近づけると、周波数は1.264MHz(+32kHz)上がり、+2V~-1.6Vである。これを直接検知できるならば利用価値があるが、周波数は何とかなると思うが、電圧は難しいかも?よく愛天堂をバカにするが、あの金属探知機は結構優秀なのかもしれない。次にコイルを250µHに変えてみる。まずは金属を近づけない状態。うーん、電圧は+2.5V~-2.2Vで変わらないが、周波数は525.725kHzと、インダクタンスが5倍なので当然低くなっている。理論上は1/√5(=0.447)なのだが、実測値を計算してみると、525.725/1264=0.416となり、コイル以外のインダクタンス分を加味するとほぼ理論通りかなぁとも思う。これに金属を近づけると、電圧は+2.2V~-2.0Vと50µHの場合と大差ないが、周波数変化分は、538.052-525.725=12.327kHzと数値的には大差ないが、元の周波数に対する変化割合は5倍近く大きい。多分、これが重要なのではないだろうか?なお、この12.327kHzと言うのは12327ヘルツつまり「うなり」として使うには高すぎて、僕のように耳の悪い人間には到底聞こえない周波数だが、コイルに金属を接触寸前にした場合の数値。周波数の差は金属をコイルから離すに従って、8kHz、5kHz、3kHz、1000Hzと下がっていく。なので、例えば耳に聞こえやすい周波数変化分の400Hzを「うなり」として使いたいならば、ちょうど良い距離とちょうど良い周波数が合うようにコイルやコンデンサーの調整が必要である。テスターに流れる電流は50µHの時が0.74mAで250µHの時が0.66mAと違うのだが、金属を近づけてもテスターで計れるほどは変化していない。電圧は変化するが、それを取り出す回路をつけると微小変化になりすぎて検出は難しい。つまり検出の為につける回路の影響が大きすぎて差が誤差の範囲になりそう。周波数の変化は分かりやすいが、これも検出回路を工夫しないと、その回路の影響の方が大きくなりすぎて検出が難しい。それを考えると「うなり」検出方式は優秀だなと思う。だって検出回路が十分に離れており、元のコイルに検出回路が影響を与えないから。また愛天堂の方式も検出回路とコイルが固定されて影響が出にくいので良い方式だと思う。以上の結果から検出方式は「うなり」検出が良さそう。そして周波数は周波数変化の絶対値はそれほど変わらないので、元の周波数が低い方が「変化割合」が大きくとれるので周波数は低い方が良いみたい。ただ今回の実験では分からなかったが周囲の電波吸収率の影響が有り低すぎるのはダメみたい。これからは実際の製作に向けてさらに実験が必要だな。そして実験中に面白いことに気がついた。我家と言うか僕の机ではラジオがほとんど聞こえない。これは壁の向こう側がEPS(電気関係のケーブルが通っているシャフト)があるので、そこからの漏れ電波が多すぎるからだとは想像できていたのだが、それが実証されてしまった。今回の実験回路は何と電池をつながなくても25mVくらいの電波(と言うか50Hz)受信している。最初何が邪魔しているのだろうと調べ始めた時の波形。実験中の写真はこんな感じ。電池はつながっていない。色々とやっていたら原因が電灯線(50Hz)からの電波だと判明した。これほどはっきりとした50Hzが25mVも出ていればラジオは無理だなと思う。上の写真はレンジを50mVにあげたせいで微小な電波は消えているが、電灯線はマンションなので150m~200mくらいはある。つまりMW放送電波以上の周波数にとっては十分なアンテナ。一般的な家庭だと電柱から引き込む過程で変圧器を経由するので電灯線以外の電波は消えるが、マンションの中の配線は、昔と違って今は金属管配線ではなくCD管つまり合成樹脂なので、電波が入り放題なのだと思う。なので、50Hz以外の電波もたくさん入っており、(僕のオシロは安物なので複数の周波数の波形の表示は難しいので他の周波数は表示できないが)沢山の電波が入っており、(他の電波に抑圧されて)ラジオを受信し辛い状態なんだと思う。南側の部屋や奥さんの部屋なら綺麗に受信できるんだけどな。力関係があるので、僕の研究室はここしか無いから仕方ないなぁ。
January 26, 2024
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1月12日はわの会31回目のイベントで浄楽寺運慶仏特別拝観と芦名周辺を見学した。運慶はNHKの大河「鎌倉殿の13人」でも出ていたが、鎌倉期の高名な仏師。それまでの仏師とは作風がガラリと変わる、日本のルネッサンスと言える作品群を造った。普段は拝観は難しいのだけれども、団体で申し込めば、今は拝観できるらしい。今回拝観する浄土宗浄楽寺の仏像はその胎内から月輪形銘札が昭和34年に見つかり、文治5年(1189年)に和田義盛が奈良興福寺の大仏師運慶と小仏師10人に造らせたことが判明、国指定重要文化財に指定されている。今回のルートは下図の通り。運慶仏の拝観以外にも、お天気が良いので前田川遊歩道が楽しみ。最初は浄楽寺前バス停に集合した。JR逗子駅前からバスで結構時間がかかる。降りると、まったく知らなかったんだけれども前島密の墓が浄楽寺に有ると分かった。下の写真の碑とポストのおかげ。前島密は教科書で習うけれど日本郵便の父。その人のお墓がここに有るなんて初めて知った。ここからすぐに浄楽寺に行くのかと思ったら、まずは十二所神社と淡島神社に行くらしい。十二所神社に行く途中にまずは丘の上から大楠小学校付近を眺めた。大楠小学校は鎌倉期前にこの付近を治めていた芦名三郎為清の館跡。その脇の山は城跡である。芦名為清は源頼朝が旗揚げをした際に三浦一族を守って衣笠城で死んだ三浦義明の弟で、三浦義澄のおじさん。三浦一族は分家が多いので系図を読むのが大変!この丘を経由したのはわけがある。ここには昔の古い窯跡が有ったのだそうだ。うーん場所はここで良いのかな?帰ってからネットで調べてみたら、「きらきら公園」のそばと書いてあるのだけれど、地図を見ても公園は見つからない。今では何も残っていないけれど、ガイドさんが説明板を見せてくれた。うーん、登窯だな。8基有る。写真からすると瓦を焼く窯だったんだな。ガイドさんの地図からすると写真と地図が合っているので、ここで良さそうだ。(多分C地区の右下部分が電柱の所だと思う。)多分公園のあとに家が建ったんだと思う。僕は名古屋に居た時に愛知万博予定地を見学した際にたくさんの登窯を見たけれど、あそこのに似ている。やっぱりこの辺の人は名古屋から渡って来たのかなぁ。(僕はこの辺つまり横須賀の地名は愛知県東海市の横須賀から、 ヤマトタケルの時代に来た尾張の人達が名前を連れて来たと考えています。)ちなみにここで焼かれた布目瓦は下の乗越海岸から海に出て、舟で相模川経由で海老名付近に有った相模国分寺に送られたのだそうです。また、次に行く十二所神社の昔の瓦もそうだったのかなぁ?次は十二所神社。十二所字神社は芦名三郎為清が大楠小学校付近に館を作った際の鎮守だったらしく、源頼朝が政子の安産祈願の為に選んだ箱根権現や伊豆山権現等の12の神社の一つらしい。三浦義明の息子の佐原十郎義連が頼朝に代わってお参りに来たと書いている。義連って三浦義澄の弟でNHK大河で有名な三浦義村のおじさんだよな。彼は後に合津葦名氏の祖になる。この頃から芦名に縁が有ったんだ。なお、この神社は「扁額」を見ると「十二天」と書いてある。十二所神社は、元は十二天神社だったんだ。つまり国常立命から7代天照大御神から5世代の12柱の神々が御祭神である。三浦半島の神社ってややこしいんだよな。そう言えば鎌倉の金沢街道にも十二所ってあるなぁ。朝比奈の切通を見に行った際にその出口の部分に有った。僕の奥さんの実家、秋田の大館付近にも十二所と言う所が有る。大館には源義経を殺した藤原泰衡の墓が有る錦神社と言う神社がある。昔の贄の柵の近く。父の藤原秀衡から源義経を助けて奥州を守るように言われた藤原泰衡が、父の遺言を守らず義経を攻めて殺し、それを理由に源頼朝から攻められて逃げ、家臣の河田次郎に裏切られて殺されて首は頼朝の元に差し出されたが、残された身体は錦神社に祀られたのである。付近には河田次郎の家の跡も有り、安達を名乗る家も多い。奥州討伐後に元々源頼朝の家来だった鎌倉の安達一族が移り住んだ子孫かもしれない。全国の十二所と言う地名はみな鎌倉時代の十二所に関係があるのかなぁ?淡島神社への途中に帯解地蔵尊が有る。ガイドさんの説明では、淡島神社は子宝に恵まれると言う俗信が有り、この地蔵尊もそれに関連があるのか安産と育児に関わるお地蔵様らしい。と言うか写真右側を見るとちょっとお地蔵様らしくは無いなぁ。付近の人達に大事にされているらしい。さて淡島神社に到着。和歌山県海草郡加太(現在の和歌山市加太)の淡島神社をいつのころかこの地に勧請したといわれ、縁結びの神社・航海安全の神社として江戸時代から三浦半島一帯で信仰されていたらしい。ネットで調べると、「あわせてください淡島様よ、お礼参りは二人づれ」と、底抜け柄杓(びしゃく)の柄に麻を結んで奉納する祭礼が行われるらしい。底抜け柄杓は「水が抜けるように安産」の願いがこめられ、全国各地の安産祈願でも見られる。祭礼では神社前の芦名海岸から神職・巫女が船に乗り込み、流し雛を行うそうだ。うーん金沢区の富岡八幡宮でも「祇園舟」行事が有り、舟でこぎ出す祭礼を行うけれど、やっぱり三浦半島は海の一族の住処だったんだな。淡島神社をあとにして芦名城址に向かう。先にも書いたけれど大楠小学校は芦名三郎為清の館跡。そして東側の裏山に詰城が有った。大楠小学校に着くと面白いものを見つけた。懐かしい。今ではもうどこの小学校にも残っていないし、子供達はもう知らないと思うけれど、二宮金次郎が居た!ごく平凡な小学校で、ガイドさんの説明が無いとここが歴史的な場所とは気付かないけれど、ここが芦名三郎為清の館跡。裏山の芦名城址に至っては何も無い。と思っていたら、今回は寄らなかったが、芦名城址康申搭があるらしい。ネットで見つけた。地元の人しか知らないと思う。ここに芦名城址が有ったんだな。芦名城址からスタート地点の浄楽寺に戻る。浄楽寺は上述のように和田義盛が大仏師運慶に作らせた阿弥陀仏他五つの仏像が有る。仏像は本殿ではなく、下の境内案内図を見ると分かるように本殿裏の収蔵庫に有る。その収蔵庫の中で副住職がわざわざ色々と御説明をして下さった。ただ、写真撮影は禁止なので、ガイドさんの資料をお借りする。毘沙門天立像と不動明王像である。(阿弥陀仏等三仏像は残念ながら写真無し)僕はこの毘沙門天像が好きで、その真ん前で説明を聞きながら堪能した。ちょっとお腹が出てデブっぽいが強そう。目が水晶製の目がはまっていてキラキラしているのが良い。境内に運慶と仏像の説明が書いてあったのでまとめてみた。まずは運慶について。ここに書いてあるように、僕が毘沙門天立像が好きなのは水晶を使った目がキラキラして生きているように感じられるから。当時のことを考えれば画期的な工夫だと思う。また五つの仏像は当初は阿弥陀仏等三つが重要文化財に指定されているだけだったのだが、昭和34年に像内から月輪形胎内札がみつかり五体が運慶作と認められて重要文化財に指定された。その辺が説明板に書かれていた。なお、上の説明板に書かれた仏像の体内から見つかった月輪形銘札は下の写真の物だったらしい。ガイドさんの説明板から借用した。おぉー!これは貴重な史料だと思う。ずいぶんと小さい字だな。よく綺麗な状態で残っていたものだと思う。仏像の中に有ったので劣化しなかったのかな?僕がどうしても分からないのは、芦名一族と和田義盛の関係である。和田義盛は三浦本宗家である義澄-義村とは違い杉本義宗の子である。ここ芦名に館を構えた芦名三郎為清は杉本義宗のおじさん。つまり和田義盛にとっては遠い親戚であって、何故義盛がここに居たのだろう?義盛の所領は現在の三浦市初声町和田付近。確かに浄楽寺は源頼朝が鎌倉の父源義朝を弔う為に鎌倉に建てた勝長寿院が台風で壊れた時に、和田義盛が北条政子と協力してここに移したことが始まりなのだそうだが、何でもっと鎌倉に近い所にせずにこんな辺鄙な場所にしたのだろう?しかも芦名の所領?芦名が滅びたのならばともかく、芦名は戦国時代まで生き延びている。あの石田三成が芦名氏の子孫だと言う話まである。(これは単なる三成の自称かも?)調べてみた。すると為清の孫の為久の代にはなんと現在の伊勢原市石田あたりに所領が移っている。しかも和田義盛の時代には、木曽義仲を討ち取った褒章として芦名氏は近江国石田を与えられ、一族はそちらに移っている。(じゃぁ石田三成がこの一族出身というのは本当かも?)(義連の子孫の合津葦名氏は福島にいて、和田義盛とは関係が無い。)つまり芦名氏が(田舎であるここ芦名を捨てて)よそへ移った後を義盛が引き継いだのだと思う。NHKの「鎌倉殿の13人」を見ても和田義盛は良い奴でちょっと不器用な感じだもんなぁ。和田義盛のことが出てきたが浄楽寺には義盛のことを書いた立札が有ったのでまとめた。そして後から行く正行院には巴御前の御遺髪の埋蔵地が有るのだが、ここ浄楽寺にも巴御前のことを書いてある立札が有ったのでまとめてみた。この巴御前の話も色々と不思議である。朝比奈の切通を一夜で切り開いたと言う伝説の有る朝比奈義秀は、彼女の息子であると言う言い伝えがあり、ここ三浦半島には彼女の伝説が伝わる。吾妻鏡にも木曽義仲の愛妾であった彼女が捕らえられて処刑される寸前に、和田義盛が妻として迎えたいと願って引き取ったと書かれている。ただ、義盛の妻は既に横山等の娘が居たので愛妾と言うことになるのだと思うのだけれど、上の説明板にも有るように、墓は横須賀市岩戸の満願寺に有る。しかも三浦市の義盛の菩提寺にも巴御前の遺品が残っている。そしてここ芦名の隣の秋谷の正行院は義盛が巴御前の菩提寺として建てて御遺髪埋蔵地がある。でも和田義盛は巴御前よりも先に死んだんじゃないのか?どうして義盛が建てた?まぁ色々と有るんだろう。ここ浄楽寺には「日本郵便の父」前島密の墓が有ると最初に書いた。その墓が下の写真。一般の人は実感がわかないと思うのだけど郵便と言うのは国の発展にとって非常に大事である。例えば現在のSNSを考えればよく分かると思う。インターネットやSNSにより世の中は劇的に変わったと思う。恐らくは明治・大正・昭和に日本が大発展したのは情報の伝達が可能になったことが大きい。情報が流れないと社会や人間は成長しないのだ。ここから正行院まで行く途中に前田川遊歩道が有る。非常に天気が良かったので川の傍の道を歩くのは気持ちよかった。途中に滝なんかもあって、ガイドさんが単調になりがちな見学通路を工夫してくれたんだろう。正行院に着く。やっぱりおかしいよな。確か和田合戦で義盛が死んだ後も巴御前は生きており、越中石黒へ移って出家したらしい。だから菩提寺を義盛が造ったと言うのは変。でもせっかく地元の人が信じているのだから、やぼなことは言うまい。で、巴御前の御遺髪埋蔵地にも行った。実はここで僕は傍のお墓に「揚羽蝶の紋」が有るのを見つけた。揚羽蝶は平家の紋。この次に行く若命家は平家の子孫らしい。若命家長屋門はこんな門。そして偶然だけれども、この家の奥様がお庭の掃除をしておられて門を開けておられた。わの会のメンバーがたまたま奥様とお話をして、奥様が中を見せて下さる幸運を得た。それで中を見学した。(写真やパンフレット等は御迷惑をかけるといけないので載せない)良かった。さすが長屋門と言うだけあって写真の門の左右のなまこ壁の内側にはお座敷が有る。そこには若命家の歴史を書いた色々な史料が張られており、それを読むと若命家は元弘元年(1331年)伊豆守基盛が津久井から秋谷に移り住んだのが始まり。(ガイドさんの説明では鎌倉末期に相模国葛原:現在の藤沢市からここに移ったと書いてあるが、 若命家の説明では三浦郡津久井からここに移ったとしている。)また、若命(わかめい)家と言う名前も元は「若名(わかめい)」家だったらしい。関東の三浦氏や北条氏が坂東平氏の子孫なのに対して若命家は伊勢平氏の流れなのだそうだ。そう、そこで僕は正行院で見つけたお墓の揚羽蝶の紋(平家の紋)を思い出した。なので奥様に若命家の紋は揚羽蝶ですかとお聞きしたら、いえ、沢瀉紋ですと仰った。なので、あのお墓は若命家とは関係ないらしい。つまりこの付近には伊勢平氏の子孫が複数おられると言うことだ。この関東の地、源頼朝が幕府を開いた地に平清盛の子孫がいたのだと言うことがうれしかった。吾妻鏡に伝わる、またNHK大河鎌倉殿の13人で出て来た「平盛綱」が思い浮かぶ。鎌倉殿の13人では八重姫に助けられて北条泰時の従者となって活躍する平盛綱である。彼は平資盛の息子である。平資盛は平清盛の長男である平重盛の次男。本来ならば伊勢平氏直系。NHK大河では川でおぼれた盛綱を八重姫(ガッキー)が助けたことになっているが、本当は平氏の子として源頼朝に殺されそうになったのを、八重姫が助けたのではなかろうか?北条氏も元はと言えば平直方の子孫。盛綱を殺す意味が無い。源頼朝は不自然な死に方をし、その子頼家は伊豆で風呂の中で死に、実朝は頼家の子に殺され、源氏は滅びている。もしかして北条氏が源氏を滅ぼしたのは、北条氏が平家の子孫だから?なので、平盛綱は大事にされた?うーん、そう考えると、ここ三浦半島の田舎秋谷に伊勢平氏の子孫が居てもおかしくはないなぁ。ロマンだと思う。最後は若命家長屋門の上にある神明社へ行った。房がでっかい。きっと古い神社なんだな。若命家がここに来た時に元の神社は建てられたらしい。今の社殿の建立は天保7年だそうだ。由緒が有るなぁ。和田義盛には色々と秘密が有りそう。やっぱり鎌倉幕府は一筋縄ではいかないなぁ。吾妻鏡は重要な場面前後は1年とかごそっと抜けているからなぁ。
January 18, 2024
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愛天堂のRDA5807(DSPラジオIC)搭載のarduino用シールドはいくつか作ったが、最初の物はスイッチが2つで選局やボリュームには足らなくて実用に耐えず、次の商品はスイッチが3つになったのでやっと選局とボリュームが使えるようになったが、どの放送局を聞いているのかの表示が難しくて、仕方ないので多色のLEDで表示して、やっと使えるようになった。愛天堂のarduinoシールドDSPラジオK-5807SLDを改造してみました。しかしやっぱり液晶等で文字表示で頑張りたいなぁと思っていたら、やっと1602(16文字X2行の液晶)を搭載したシールドが発売されたので買って作った。でも案の定、「火を入れて鳴ると思うなアマラジオ」で最初は鳴らなかった。そこで色々と実験して、チェックして問題点を探っていった。まず音がしないのはすぐに原因が分かった。これは僕が悪かった。半田不良でRDA5807モジュールが機能していなかった。なので半田のやり直しをすると聞こえるようになった。でも雑音ばかりだし、ボリュームも選局もできないし、液晶の表示も変だ。次に液晶の表示が変なのはarduinoをチェックしていて原因が分かった。arduinoは愛天堂で買った、★2023★びんぼうでいいの [U3R2023B]で590円なんだけど、(今現在は何故かAVRマイコンが付属していなくて450円で別売り)実はピンソケットが不良でD6端子が不通だったのだ。これはLチカスケッチ(プログラム)を利用してD0~D19までの出力をチェックして、分かった。D6だけ点かないんだもの。さっそく、手持ちの8ピンのピンソケットと取り換えた。半田吸取り器で半田を取り除いて、あらたに付け替える。ピンソケットの中には写真の音叉型の金具が入っており、これがピンヘッダーの足を咥えて接触する仕組みになっているのだが、これが浮いており半田付けが不良だった。取り換えると無事に表示するようになった。しかし、表示はするのだけれどもスケッチ(プログラム)が進行しない。初期画面で止まったままである。液晶がおかしいのか、AVR(マイコン)がおかしいのか、スイッチがおかしいのか?簡単な液晶表示スケッチ(プログラム)を作り、スイッチを押すと、そのスイッチに対応した表示が液晶に表示されるようにした。すると最初の表示だけで、先に進まない。つまりスイッチが機能していないのだ。さっそく回路図を見てみた。おいおい!今までの愛天堂のシールドといくつか違うぞ?まず回路図の真ん中のRDA5807モジュールとarduinoを結ぶSDAとSCLが大きく変わっている。今までのシールドは単にプルアップされているだけだったのに、今回はFETを介してつながっている。今回路が正しいならばいいのだけれども。確かに今までの回路はちょっと心配な面は有った。なにしろ、信号ラインはarduinoの出力は5Vなのに、それを3.3Vからプルアップしているのだから。でも動いていた。このFETの回路が正しいのならば、むしろ正常化されたことになるが。まぁでも考えるのが面倒くさかったのでFET回路を外して今までのように単にプルアップした。すると何故かRDA5807モジュールが動き出してラジオが聞こえるようになった。1局だけの選局用のスケッチ(プログラム)は動作する。但し、ボリューム等のスイッチは動作せずにそのままな状態。でも格段の進歩である。但し、これは偶然かもしれなくて、新しいFET回路で動くのかもしれない。その辺は確認しなかった。とりあえず動いたので満足したから。次にその状態で、愛天堂のホーム@エージに書かれた本来のスケッチ(プログラム)を動かしてみたら、液晶にスタート画面は表示されて雑音はするが、液晶画面表示が先に進まない。また回路図を見た。そしてふと気がついた。え?5個のスイッチがプルアップされていない?なんとこれが最大の問題点で原因だった。答えは単純。確かにあちこちを手で触ると、一瞬動くことが有ったのだけれども、それはスイッチの状態が不安定で、プログラムがスイッチの状態を読めなかったからなのか。なので、さっそくFET回路をやめて余っていた10kΩの抵抗に手持ちの1個を加えて、5個のスイッチをプルアップしてみた。すると動いた。なんと単純な原因。でも自分で調べて原因が分かってうれしかった。プルアップ抵抗を付けた状態(裏面)これでようやくハード的には動くようになったので、愛天堂のホームページを参考にGITHUBから本来のスケッチをダウンロードした。ダウンロードしたRDA5807-master.zipを展開して、exsampleフォルダーの中のRDA5807_05_A_LCD16X02NANOと言うスケッチを、愛天堂のホームページに従って改変してインストールした。おぉー!動く!ちゃんと76.0~108.0MHz(改変前は87.0~108.0MHz)でスキャンするし、ボリュームも使える。日本ではRDSが使えないのでこのスイッチは意味が無いけれど、スキャンした放送局はメモリーに記録されるし、電波の強さも表示される。大満足である。特に放送局がメモリーされるのはうれしい。今までの愛天堂のRDA5807を使ったラジオはスケッチ(プログラム)が無くて、自分でプログラムを組むのが大変だったんだけど、もうこれで大丈夫。この次は自分専用のプログラムを作ってみるかな?だってスキャンしなくても横浜で聞こえる放送局の周波数は分かっているし、なによりも液晶に放送局名を表示したいから。
January 17, 2024
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邪馬台国論争の中でちゃんと議論されていないこととして、帯方郡から不彌國までは北から南に連続的に不彌國まで書かれているのに、何故か「女王国の北側の国々」などと言うちょっと変わった書き方をしている事に、誰も触れないのは何故だろうか?邪馬台国畿内説の弱点である、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の方向が畿内とは全然違う点について1月6日に書いたが、今日は北部九州説の弱点である、「邪馬台国までの距離が北部九州では魏志倭人伝の記載と違う」点について研究してみる。畿内説が「魏志倭人伝は東と南を間違えた」などと言うトンデモ説を主張するのと同様に、北部九州説も距離を何とかごまかして説明しようとする。だって、北部九州説であげられている地点はみんな現在では電車で千円で行ける距離。とても魏志倭人伝に書かれた「水行10日陸行1月」とは思えない場所ばかりである。それを考える際に重要なのが冒頭で書いた、帯方郡から不彌國までは北から南に連続的に不彌國まで書かれているのに、何故か「女王国の北側の国々」などと言うちょっと変わった書き方をしていることである。学者先生が主張するように魏志倭人伝が「斯馬國~奴国」だけが女王国の北側の国で、狗奴国が女王国の南側に有るのならば、帯方郡から不彌國までの行程の中に奴国は出てくるのであるから、奴国からその南に在る女王国までにはこれこれの国々が在り、ここが女王国の範囲であり、其の南に狗奴国があり、その官は○○と書けば良いはずである。むしろ理論的だと思う。(注)こう書くと「奴国は2つ有る」などと言うトンデモ説を主張する人もいるが、 陳寿ほどの人ならば、また魏志倭人伝が史書「三国志」の一部ならば、 それを読む中国の皇帝や貴族から聞かれるのは当然なので、 何らかの説明を書くはずであるが、何も書いていない。 つまり帯方郡から不彌國までの行程に出てくる奴国と女王国の北側の奴国は同じである。 何故2回出てくるのかは後述。何故「女王国の北側の国々」などと言う書き方をしたのであろうか?それは学者先生の読み方が間違っており、狗奴国を指している「其の南に狗奴国あり」と書かれた「其の」は女王国ではなく奴国で、実は「女王国の北側の国々」は女王国に属する「斯馬國~奴国」と、女王国に属さない狗奴国の両方を指しており、その後に「郡より1万2千里」と書いているのだ。もし学者先生の主張するように「女王国の北側の国々」が「斯馬國~奴国」だけならば、女王国とその属国の話はいったんここで終わり、ここに「郡より1万2千里」と書くはずだ。でも狗奴国も「女王国の北側の国々」なので、狗奴国の話までしてから、最後に「郡より1万2千里」と書いたのだ。その方が理論的に正しいと思う。絵に描いてみると分かりやすく、一目瞭然なので書いてみた。女王国の北側の国として奴国まで書かれているのだから、もし女王国に属する国だけが「女王国の北側の国々」なのであれば、図の赤い部分の前で話は終わっており、女王国の帯方郡からの位置の説明である「帯方郡から女王国までは1万2千里」と言う説明は、緑部分のすぐに下で、女王国に属さない国である狗奴国の前に書かれるはずである。そうなっていないのは、緑はあくまでも女王国に属する国々がここまでであり、「女王国の北側の国々」の話は終わっていないからだ。現実の魏志倭人伝には帯方郡から1万2千里と書く前に狗奴国が書かれている。と言う事は、女王国に属さない狗奴国も「女王国の北側の国々」の一つであり、帯方郡からの距離1万2千里の中には狗奴国も含まれているので、狗奴国を書いた後に帯方郡から1万2千里と書くのが論理的である。陳寿はそう言うつもりで、ここの文章を魏志倭人伝に書いたのだろうと思う。今までそのように読んでいなかったのは、赤い部分の先頭の「其南有狗奴国」の「其」を、緑部分で「女王国の北側の国々」の話が終わったのだから、「其」は女王国を指していると勝手読みしていたからであり、もし狗奴国も「女王国の北側の国々」の一つであるならば、「其」はその直前に書かれた奴国を指していることになる。すると狗奴国は奴国の南で女王国の北側の国になる。狗奴国の官の「クコチヒコ」は菊池彦で良いのではないだろうか?奴國が福岡、狗奴国が熊本、ならばその南側に有るのは宮崎や鹿児島つまり南九州である。ここで「クコチヒコ」が「菊池彦」として地名に残っているのに注目したい。宮崎には「生目古墳群」と言うのが有る。邪馬台国の官に「伊支馬」と言うのが有る。伊都国の「伊(イ)」、一支国(魏志倭人伝では支を大と誤記)の「支(キ)」、馬をメ(多分実際は今の母音とは違いマとメの中間の音)と考えれば「伊支馬」は「イキメ」、宮崎は昔は「美々津(ミミツ)と呼ばれていた。投馬國の官は「彌彌(ミミ)」と言う。「津」は港のことである。各国の官の名前が地名として残っているのは偶然だろうか?ここで最初の疑問である、「女王国の北側の国々」などと言うちょっと変わった書き方をしている理由を考えてみよう。もしかして陳寿が魏志倭人伝を書いた際に使った資料がそうなっていたから?実は、このことについては何回か過去のブログに書いている。例えば昨年の12月20日のブログである。後漢書の「極南界」の解釈について日本書紀や古事記も編纂するに際して、朝廷は大和の豪族だけでなく日本各地に資料の提出を求めている。古事記序文によると、天武天皇に命ぜられた稗田阿礼がそれを誦習して太安万侶が文字にしたらしいが、三国志も同様で、魏略等の残された資料を集めて、それをまとめたものだと思われる。つまり帯方郡から不彌國までと女王国の北側の国々の書き方が違うのは、元にした資料が違い、陳寿はそれらの原典を大事にしたせいだと思われる。つまり、帯方郡から不彌國までは、現に伊都国に中国の使者が滞在しているので、その復命書(又は報告書)を元に書いたので、連続式で帯方郡から順に書かれており、行動の記録と最新の地元の情報になっている。しかるに投馬國と邪馬台国は水行10日陸行1月と、相当に遠く使者は実際には行っていないので、陳寿の手に入れた魏略等の古い資料に基づいているので、書き方が全然違うのである。女王国の北側の国々の部分の基になった史料つまり後漢書倭伝には、上のリンク(後漢書の「極南界」の解釈について)に書いたように、奴国が北側から南に向かって国々を征服して行ったので、最終的な征服地である女王国が最南端にあり、そこを基準に征服した国々が北側の国々として書かれていたのである。なので、女王国の北側の国々なのだ。その元になっているのは倭人の言葉なので、魏志倭人伝には「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶」と書かれている。つまり倭人は道里を知らず日数をもって説明したのである。もし中国の使者が実際に行って、その記録を元に書いたのならば、行程や距離は日数ではなく距離で書かれていたはずである。つまり日本人はあまりにも邪馬台国と卑弥呼が大事なので、これを邪馬台国までの行程と読むが、実は陳寿は倭國の様子の一環として邪馬台国の位置を書いており、そのせいで帯方郡から不彌國までの記述と邪馬台国の位置の記述はつながっていないのだと思う。なんせ、元にした資料が違うのだから。元にした資料が書かれた時代や背景が違うので「奴国が2回出てくる」のである。つまり帯方郡から不彌國までの行程の中に出てくる奴国は陳寿の時代の奴国で、女王国の北側の国々の中に出てくる奴国は過去恐らくは後漢時代の奴国である。そして女王国の北側の国々の記述は後漢時代の情報を魏略がまとめていたものを、陳寿が引用する際に現状に合わせて書き換えた物だと思う。それが狗奴国の話になっている。恐らく狗奴国は「倭国大乱」以前は女王国に属する女王国の北側の国々の一つだったのだ。それが倭国大乱の際に敵国化し、その事実を知る陳寿は魏志倭人伝の執筆時に書き換えた。そのせいで、女王国の北側の国々は、女王国に属する奴国までの国々と、女王国に属しない狗奴国として書かれ、最後に帯方郡から1万2千里と書かれたのだ。そう考えるとつじつまが完全に合う。ここからは証拠が無いので妄想だが、邪馬台国の女王の名前である「卑弥呼」と、狗奴国の男の王である「卑弥弓呼素」の名前が非常に似ていることから、2人は姉と弟だったのではないかと思う。卑弥呼が実は男だったと主張する学者先生の中には2人は同一人物だったなどと、トンデモ説を唱える方もおられるが、もしそうならば軍事上重要な事実なので、中国の使者は情報をつかんでいるはずだし、そう言う情報があるならば、魏志倭人伝の中にもそれらしきことが書かれるだろう。三国志は観光旅行のパンフレットではないのだから。そして姉と弟が争ったと言えば天照大御神と素戔嗚命の話が思い出される。素戔嗚命が高天原に昇ってきた際に卑弥呼は「武装」している。今までたかが兄弟げんかに何で男でもない天照大御神が武装するのかと思っていたが、これが神話ではなく史実の繁栄ならば理由が分かる。素戔嗚命は単身で来たのではなく、軍隊を引き連れて来たのだ。なので天照大御神は女神としてではなく総司令官として出陣したので武装したのだ。じゃぁ月読命は誰なのか?古事記の中でも影が薄いけれども、彼が伊都国の一大率であり、姉にも弟にも味方できずに中立を保ち、そのせいで卑弥呼は伊都国を頼りにできずに直接難升米を魏に送ったのだろう。諸国が恐れると魏志倭人伝に書かれた一大率が、女王国と狗奴国の戦いに出てこないのは変だから。そして姉=女王卑弥呼は岩戸に隠れ(亡くなり)、彼女によく似た宗女壱与が岩戸から出て来たのだろう。その結果諸国の信用を失った素戔嗚命は追放されて新羅(の前身の国)に行き、力を蓄えて日本に帰って来て出雲の国をつくったのに違いない。前半は真面目に女王国の北側の国々について書いてみたけれど、後半の「妄想」の方が面白いなぁ。
January 9, 2024
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お正月(松の内)も明日で終わり、ヒマなので気になっていることを研究した。邪馬台国畿内説で言う「東と南を間違えた」と言うことはあり得るのか研究してみた。なお、今回はあくまでも畿内説に関する研究であり、僕は北部九州説にも懐疑的なので、北部九州説には触れていない。そもそも北部九州説は、例えば博多~JR吉野ヶ里公園駅は千円以下でいけるし、南の山門郡だって、東の飯塚だって宗像だって千円以下で行ける距離である。魏志倭人伝に書かれた水行10日陸行1月とは全然感覚が合わない。水行10日陸行1月を帯方郡からの距離にしたって、そんなに近いならば伊都国や不彌国からの行程を書くはずである。中国の使者が伊都国に居るのならば、「来月にバーベキューしましょう」と卑弥呼のお誘いが有るだろうと思うから、使者も一度くらいは女王国に行くだろう。行けば行程は書けるはず。だから北部九州説もあり得ないのである。邪馬台国畿内説で言う「東と南を間違えた」と言う人の根拠はだいたい次の理由である。まぁもっとも大多数の人は偉い先生が言うからと言うのがほとんどなんだけど、以下の根拠をあげて主張する人はまだましである。1.纏向遺跡が考古学的に3世紀中頃らしいと言うことから考えてここは邪馬台国の都である。 →纏向遺跡が考古学的に3世紀中頃らしいと言うことは正しい可能性があるが、 それは「邪馬台国の都の都である証拠」とはなりえない。 それは過去にブログに書いたので以下を参照してもらうと分かる。逆は必ずしも真ならず この程度のことは中学生で習うので、誰でも知っているはずと思っていたら、 その後調べたら、どうも今時は高校でしか教えないらしい。 つまり文系と理系が分かれる高校で習うので文系の人はこんな簡単な理論も知らないのだ。 何となく政治家の思惑が見えるような気がする。 この原理は詐欺の基本で、これを知らない人は詐欺に引っかかりやすい。 つまり逆を真(正しい)と勘違いしてしまうので、それを利用してだまされるのだ。 政治家もそれを応用して印象操作を行い、民衆を誤った方向に誘導するのによく使う。 おさらいの意味で繰り返すと、 卑弥呼が活躍していたのは3世紀中頃なので、その都は3世紀中頃に有ったはずである。 これは正しい。 しかし、その逆である3世紀中頃の都の遺跡は卑弥呼の都である。 これは必ずしも正しくは無い。むしろ誤りの場合が多い。なので証拠とは言えない。 よく邪馬台国畿内説の学者先生に、 「邪馬台国以外に大きな国が有って、纏向はその国の都でも良いのでは?」と言われて、 返事に困るのはそのせいである。多くの場合学者先生は顔を真っ赤にして怒るが、 理論的には纏向が他の国の都である可能性は十分にあり得る。 と言うかむしろ他の国の都である可能性が高い。 その国とは「晉書(宣帝紀)」に書かれた「東倭」である。 『晋書』宣帝紀には、 「泰始元年春正月、東倭、譯を重ねて貢を納む。焉耆・危須の諸国、弱水より以南、 鮮卑の明王も、皆使を遣はして来献す。 天子美を宰輔に帰し、又 帝の封邑を増す。」 と記載されている。 即ち、魏の滅亡直後、泰始元年(265 年)に、東倭の女王が西晋国に遣いを送った。 この時期は、倭女王・卑弥呼の没後約18年経った時期で、 邪馬台国の壱与が女王であった時代に他国の女王が朝貢を行ったと考えられる。 邪馬台国が倭ならば、わざわざ同時代に「東倭」と区別して書くはずが無い。 つまり東倭は倭とは別の国で、倭の東側に有った国であろう。だから東倭なのである。 しかも陳寿が魏志倭人伝を書いたのが280年頃(魏は既に滅びて西晋の時代)なので、 陳寿はこの事実を知りながら、あえて魏志倭人伝には書いていない。 何故か? これは帯方郡から卑弥呼の要請により張政が倭国に派遣されたことに関係あると思う。 よくこのことを知らずに、 魏は卑弥呼が助けを求めたのに「黄色の旗しかくれなかった」と言う人がいるが、 とんでもない話で、魏は帯方郡から張政を派遣して倭の内乱調整に手を貸している。 張政は壱与に檄をもって教え諭した。(原文)其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之(意訳)正始八年(247)、帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。 張政は19年くらい日本にいて壱与を助けて政治に関与したらしい。 (これは根拠不明だが張政は帰国後帯方郡で出世したらしい。太守になったのかも?) 張政が中国に帰る時には壱与は部下をお見送りに出している。 ちなみに魏志倭人伝には以下のように書いている。(原文)壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹(意訳)壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。 壱与はよほどうれしかったか、あるいは張政を恐れたのだろう。なので厚遇している。 また、壱与を倭の女王と書いている。東倭の女王とは書いていない。 ほぼ同時期なので倭の女王と東倭の女王は別人だと意識している。 つまりそんな時代なので、倭と東倭は別の国であり、纏向は東倭の都ではと思うのである。2.三角縁神獣鏡は邪馬台国の鏡であり、畿内で良く出土するので邪馬台国は畿内である。 →これも上記と同じで、逆を真と思わせているので一般の人を勘違いさせる話である。 卑弥呼は魏から100枚の鏡を送られたと言うのは事実である。 しかしその逆である、たくさんの鏡が有るのでそれは卑弥呼の鏡であると言うのは誤り。 その鏡が東倭の鏡であっても成立する話なので根拠にはならない。 景初三年の三角縁神獣鏡が有ったとしても、 それは景初三年にその鏡が造られたと言うことの証明であって、 魏から贈られた鏡の証明にはならない。これも過去にブログを書いている。三角縁神獣鏡とは何か? 過去のブログにも書いたように、 三角縁神獣鏡を有名にした纏向遺跡付近の黒塚古墳を見ると分かるように、 亡くなった方の枕元に置かれた鏡は画文帯神獣鏡一枚であり、 三角縁神獣鏡は辺り一面にばらまかれた状態なので、かなり粗末に扱われており、 画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡のどちらを大事にしているかと考えれば、 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡とは考えにくい。3.末蘆国から見て伊都国は東南ではなく、東北なので、魏志倭人伝の方角は誤っている。 →これはそもそも末蘆国の位置を勘違いしている場合が多い。 末蘆国を「唐津」と考えるのは地元の状況を知らない人の場合が多い。 現在では合併により唐津市になっているが、末蘆国は呼子である。 呼子は神功皇后の朝鮮征伐や秀吉の朝鮮征伐の拠点になった場所で、 湾が多く大型船が停泊できる港が(港湾土木が未熟な古代にあっても)造り易い。 中国からの船が伊都国に直接来れないのは、中国の船が大きく喫水線が深いせいである。 倭国の船は準構造船なので唐津や伊都国の砂浜にも接岸し停泊可能だが、 中国の構造船は沖合に停泊して小舟に乗り換えるしかない。 その場合周囲に風を遮る物の無い伊都国周辺は危なくて使えない。 後世に元軍が全滅したのはそのせいである。 なので末蘆国は湾が多く大型船が停泊でき、接岸しやすい呼子である。 また呼子で上陸して伊都国に向かう場合、 歩き出す方向は東南で、唐津を経由して伊都国へ向かうが唐津には用事が無く通過する。 魏志倭人伝の書き方は、 「行動の結果目的地に着く場合」と「目的地に行くにはどう行動する」を明確に分けており、 末蘆国から伊都国への行程は「行動の結果目的地に着く場合」である。 つまり「東南陸行」は行動する方向であり目的地すなわち伊都国の方角を示すものではない。(参考) 「行動の結果目的地に着く場合」の書き方。 東南陸行 五百里 到伊都國 「目的地に行くにはどう行動する」場合の書き方。 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 明らかに文章構文が違う。学者先生は何故この程度のことが分からないのだろうか?4.中国の地図の中に中国や朝鮮を上に日本を下に描いた地図があり、東と南を勘違いしている。 →これはそもそも「地図は北が上だ」と現代の日本の地図の書き方に囚われているせいである。 中国や韓国では、地図は目的や慣習により必ずしも上が北ではない。 特に国同士の上位下位を意識している場合は方角よりも遠近を元に書いたり、 自国を上に相手国を下に描いたりする。 あるいは戦略上(地図の上で軍を進めるので)自国を手前に、相手国を上に書いたりするので、 現代日本の地図とは感覚が違う。 この説を唱える先生の使う地図は下の「混一彊理歴代国都之図」である。 先生は新発見をしたつもりなのかもしれないが、よく見て欲しい。 東南アジアが左にある。つまりこの地図は上が北ではなく、上は西である。 なので、下は東で左は南なので、畿内は東側になっている。 東と南を間違えているわけではない。 実は先生が見つけられた地図は、この地図を元に李氏朝鮮で描かれた地図であり、 台湾と東南アジア(マレー半島)を削除している。そのせいで左が南で下が東だと分からない。 なので先生は「魏志倭人伝は東と南を勘違いしている」と言っているのである。 この地図は朝鮮が大き過ぎる等の不正確な部分はあるが、方位は間違ってはいない。 学者先生ならばちゃんと調べて欲しいものである。 ちなみに日本の中央に赤い○があるが、ここには「日本国」と書いており位置は山城である。 つまり日本が「倭」ではなく「日本」になってから書かれた地図であり、 すでに遣隋使や遣唐使の派遣された時代以降の地図なので、方位が間違っているはずは無い。 地図の上が北ではなかったと言うのは江戸時代の下の地図でも分かる。 先生の理論だと江戸時代の日本人は「北と南を勘違いしている」ことになる。 本当はそんなことはない。 大事な部分、つまり江戸とそこから出る船の航路を上に書いただけである。以上から、邪馬台国畿内説で東と南を勘違いしていると言う理論には根拠が無いことが分かる。学者先生には困ったものだと思う。学者先生も「東と南を間違えた」などと言うトンデモ理論を考えるのではなく、ちょっと理論的に北部九州説を否定してみるのはどうだろうか?次回「女王国の北側の国とは?」を書いてみる。但し、卑弥呼が死んだ後の邪馬台国つまり魏志倭人伝には書かれていない邪馬台国が、畿内に進出したことは否定しない。それは日本書紀等に「大倭」と言う言葉が有るからである。つまり「倭」がその東に有った「東倭」を吸収して「大倭」になったのならば、感覚的に非常によく合うからである。ただ、証拠は無いので、現段階では妄想でしかない。<後日追記>今日YOUTUBEうぃ見ていたら、面白い説を見つけた。長崎県と佐賀県にある松浦郡の位置関係がおかしいので、それを元に「古代には方位に対する呼び方(あるいは考え方)が今とは違って90度回転して、そのせいで魏志倭人伝では東と南が読み違えられている」と言うものである。面白い説だと思う。確かに東京の人がこの辺の地図を見るとそう思うかもしれない。下に現地の地図を載せる。確かに南松浦郡が一番西に在り、その東に北松浦郡、その東に西松浦郡、その東に東松浦郡。方位が滅茶滅茶じゃん!そう思うかもしれない。でも東と南を間違えたのとは違うのでは?東松浦郡はちゃんと一番東だし、南松浦郡は一番南に在る。東と南を間違えたとは言えない。ただ、東西南北と言うものが滅茶滅茶なのは確かにそうだ。実はこれは歴史的な背景がある。よく見ると、東松浦郡と西松浦郡は佐賀県に有り、(佐世保付近は微妙だけれども)北松浦郡と南松浦郡は長崎県である。つまり県が違う。実は明治の廃藩置県前後に地域があっちに含まれたり、こっちに含まれたり二転三転している。そう、つまり分捕り合戦が有ったのですね。ちなみに1871年頃の地図を載せてみる。おぉー!なんと「佐賀県」でさえもない。伊万里県!つまり、大きな松浦郡と言うのがあって、その中の東松浦郡、西松浦郡、北松浦郡及び南松浦郡と言う訳ではないのです。伊万里県の中での東松浦郡と西松浦郡。長崎県の中での北松浦郡と南松浦郡であって、長崎県の南松浦郡と伊万里県の東松浦郡は他県の同名の県であって、関係がないのです。恐らくは松浦と言う名前を「自分の所が本家」と争っていて、譲らなかったのでしょう。そしてそれが尾を引いて、自分の県の中だけで東西や南北を名乗った。なので、東と西はお互いに関係が有り、北と南もお互いに関係が有るのですが、東と南は関係が無いのです。だいいち、今の若い人は「松浦」を「マツウラ」と読みますが、僕らは「マツラ」が普通だし。かってそれを研究していた時に面白い地図を見つけました。この地図で面白いと言うか大事なのは、唐津(カラツ)と呼子(地図の中では名護屋(ナコヤ))や伊万里(イマリ)の関係。今では市町村合併でまとめて「唐津」ですが、かってはこんなに独立していたんですね。魏志倭人伝に書かれた末蘆国を唐津と言う人がいますが、実際はこの地図の名護屋つまりナコヤ。カラツだと唐津湾をはさんで今の唐津の対岸です。今の伊都国のすぐ隣と言うか、もしかすると伊都国付近かもです。市町村合併は仕方ないことだけど、考古学上は混乱の元ですね。そしてもう一つ大事なのは船の航路。破線(点線)で表示していますが、名護屋(ナコヤ)が主要な港になっている。そう、僕が主張するようにここは古代からの天然の良港があり、だから魏志倭人伝に書かれたように中国の使者はここで船を降りて、伊都国まで陸行したのです。伊都国に港が造れるのならば、伊都国に直接船で行くはずです。伊都国付近は砂浜で、当時の港湾土木技術では港は造れず、砂浜なので小さな倭人の舟は接岸停泊可能ですが、安全に日本海を渡れる中国の大型船は砂浜には接岸停泊できないので、中国の使者は名護屋(ナコヤ)で船を降りて伊都国まで陸行したのです。どうして学者先生はこの程度のことが分からないのだろう?
January 6, 2024
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