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お正月にNHKBSで面白い番組をやっていた。「邪馬台国サミット2021」!まぁ新型コロナの影響でロケは難しく予算は減っているだろうから、この手の結論は出ずにみんなが興味があるし、出演者のギャラガ安く製作費が安い番組は、他のNHKスペシャルと比べて作りやすいからNHK向き何だろうなと思う。でも、僕ら邪馬台国大好きアマチュアには良い番組。ワクワクしながら見た。で、結局たいした情報は無かったのだが、確信を得るには役に立った。近畿説は無いな。九州説も今一歩だな。じゃぁどこか?現時点では確実な場所は無いな。番組の結論もそうだった。近畿説は無いなと思ったのは出演した先生が悪いのかもしれない。近畿説の弱点である「邪馬台国は纏向遺跡を造れるほどの大国で、日本には他に大国が無かった」と言う理論を主張するのだけど、主張するだけで何の証明もできないからである。主張する根拠が「纏向は大きな都の有った遺構で、そこには大きな国が有った」と言うだけでは、別に邪馬台国である必要は無く、出雲でも尾張でもかまわず、何故邪馬台国なのかの説明は無い。しかも、そんな大きくて強い国ならば「争った国々が女王を共立する」必要は無く、その大きな国が他の国を征服すればすむ話なので、それを否定する根拠が必要。纏向遺跡=ヤマト王権の基礎となった国は考古学的な研究から1つの大きな国と言うよりも、いくつかの国が集まってできたもので、それ故に魏志倭人伝にあるような他国からの侵入を防ぐ環濠が無い。こういった点を突かれても何の根拠も示せない。なので呼ばれた先生が研究が足りないのかも?まぁ、それはそれとして番組自体は面白かったので、以下に先生方の主張や議論した内容を書いてみる。なお矢印以下は僕の意見。1.先生方は概ね奴国までの経路に関しては一致しているが、 伊都国、奴国、不彌國からの水行以下の記述により諸説に分かれる。 最も極端なのはその経路通りなら九州南方の海上になってしまうと言うものだが賛成者無し。 →そりゃそうだろう。これは番組を盛り上げる為の冗談で、大昔の大先生方が展開した 1里が300~400mだと言う理論に基づく誤った考え方から来たもので、 魏志倭人伝の帯方郡から狗邪韓國までの7000里が現代の地図から約560kmと分かり、 それから計算すると1里が80m前後で計算されているのが分かるので、 よほどバカな先生でなければ賛成するはずはないから。 古くから東大の白鳥庫吉先生は、陸行1月は1日の間違いだとして北部九州説をとり、 京大の内藤湖南先生は南に水行が東に水行の誤りであるとして近畿説をとった。2.(國學院大學の柳田康雄教授)そもそも「邪馬台国」は「やまたいこく」ではなく「やまと こく」と読み、纏向が邪馬台国=卑弥呼の居た都であると主張。 →これは僕も迷っている。 後漢書に有る「倭面土國」が「やまとこく」と読める可能性を否定できないからである。 倭面土国が省略されて「倭国」になった?亜米利加(アメリカ)国を「米国」と略する国 だからなぁ。日本は。3.(早稲田大学の渡邊義浩教授)が三国志研究の第一人者として紹介された。4.(まきむく学研究センター寺沢薫所長)九州から関東までの国々の集合体が倭国で、 その宗主国であり、纏向がその中心だったと主張。5.(国際日本文化研究センター倉本一宏教授)邪馬台国は三国志に書かれてはいるが日本で 一番強い政治権力であったとは限らない。もし纏向遺跡が大和王権の元になった国で邪馬台 国ならば、何らかの伝承が残っているはずだが、古事記や日本書紀には卑弥呼について何も 書かれていない。邪馬台国がヤマト王権の元になったのなら、国の始まりとなる卑弥呼につ いて何らかの記述が有るはずだが何も書かれていないのは卑弥呼と邪馬台国が他の地域のも ので、忘れられたか、滅ぼされて消えてしまったからではないかと思うと主張。 →これは重要な指摘だな。いくら日本書紀が藤原不比等により捏造された藤原氏に都合の良 い書物だとしても、少しも残っていないのは変だと思う。あるいは例えば蘇我氏は葛城氏 の子孫で葛城氏が邪馬台国の末裔だとかなら徹底的に消すかもしれないけど。蘇我氏が卑 弥呼の子孫ならば自分達の正当性が消えるからなぁ。6.(小郡市埋蔵文化財調査センター片岡宏二所長)纏向遺跡は立派だが、魏志倭人伝に書かれ た邪馬台国と関係が有るかと言うと何の根拠もない。国々が卑弥呼を「共立した」と魏志倭 人伝には書いてあるが、もし強力な国と王が居たのなら、その王が国々をまとめればすむは ずである。纏向遺跡は立派過ぎるし大きいので魏志倭人伝の記載(共立)と合わない。7.(関西外語大学佐古和枝教授)纏向遺跡は大きな遺跡である。だからこそ卑弥呼の都だとは いかない。やはり魏志倭人伝との整合性が必要だ。8.(片岡教授)纏向に一つの大きな政権が有ったことは間違いないけれど、それが魏志倭人伝 に書かれた邪馬台国なのかと言うのは別の話だと思う。 卑弥呼を共立したのは北部九州の国々の共同体だと思う。吉野ヶ里遺跡の状況は魏志倭人伝 の記述とよく一致している。但し時代が違うので邪馬台国とは違う。 平塚川添遺跡、三船遺跡、女山(ぞやま)遺跡=山門遺跡群を一望できる女山にある遺跡、 北部九州にはたくさんの遺跡があるが、これらが作った共同体ではないだろうか? →近畿説もそうだけど、九州説も「~かもしれない」ばかりで、根拠は何?と聞かれると何 もないなぁ。風土記とか何かに書いてないのかな?9.(大阪大学大学院福永伸哉教授)それらの遺跡は規模が小さすぎると思う。魏志倭人伝に書 かれた邪馬台国の戸数は7万戸であるから、約30万人の都市だったはずである。 →1戸が5~7人と言うのは律令制で税を取る為に定めたもので延喜式にかかれており、卑弥呼 の時代の話ではなく後世の換算人員数である。そもそも奈良時代の日本の人口(451万人) 平安時代(550万人)から考えても弥生時代後期である卑弥呼の時代に30万人の都市が有 ったはずはなく、陳寿も伝聞記録なのでせいぜい3万人くらいだろう。10.(片岡教授)その7万人とは誇張された数字では?昔の中国の本に書かれた人数は誇張され る場合が多い。11.(渡邊教授)中国の当時の本は戦いの時の人数はだいたい10倍で書かれているようです。12.(佐古教授)弥生時代後期の遺跡から出土した鉄器は福岡1746,熊本1891,大阪151、奈 良63なんですが、魏志倭人伝には倭人は鉄の矢じりを使うと書いてある。13.(福永教授)畿内では大きな銅鐸を作る勢力が結集して邪馬台国を作ったが、銅鐸の大型化 は2世紀で、この銅鐸の大型化は政治権力の象徴である。奈良の唐子・鍵遺跡は42haと日本 でも大きい遺跡でここで銅鐸の鋳型が見つかった。恐らくここで作った銅鐸を全国に配ったの であり、畿内勢力が中心となり卑弥呼を共立した。 →先生は人口問題を出したのが失敗だったと気づいたのか銅鐸理論を持ち出したが、魏志倭人 伝にも何の記載も無い銅鐸が、何故それが邪馬台国とつながるかは言わない。大きいからそ うだと言うだけではどこの国でも良い話である。)14.(倉本教授)卑弥呼が死んだらまた国々が乱れて男の王をたててもまとまらなかった。纏向 の遺跡が王都だったら、その王がいれば国はまとまるのでは?そうならなかったのが近畿で はない証拠では?15.(片岡教授)邪馬台国がどこに有ったかと言う事よりも、その当時の日本の国の形がどうで あったかと言うことを議論すると答えが出るのかもしれませんね。 近畿説=中央集権国家だったか、九州説=集落の連合体だったかで決まるのでは?16.(渡邊教授)魏志倭人伝の邪馬台国への行程をたどると九州南部の海の中にたどり着くのは 陳寿の思惑=中国の魏による情報操作なのだと思います。呉へのけん制で、呉の東方に大き な国が有ると言う情報を載せれば、呉は魏に対する戦力を東にも配せねばならず、戦略的に 有利になるから。 大宰府には中国では既に失われた翰苑と言う今の百科事典にあたる本の遣唐使が写した写 本があるが、倭人条では倭は会稽の東に有ると書かれている。これに対して魏志倭人伝の 記述は会稽の「東治の」東となっており、かなり南になっている。 金印を授けた魏は邪馬台国を魏の味方として重視し、呉への牽制に使おうとしたのだろう。 なお、魏志倭人伝に書かれた倭の風俗は実際に調べたものではなく礼記を参照しているの で、刺青の風習等野蛮人の扱いだし、一夫多妻だとして蔑んでいる(当時の中国の思想で は野蛮な辺境の国ほど一夫多妻になると考えられていた)ので注意が必要である。 →面白い理論だけど、魏志倭人伝は魏の時代に書かれた物ではなく魏の後の西晋の時代に 書かれたものなので、既に滅んでいる呉に対する牽制理論はちょっと無理があると思う。 先生が言いたかったのは陳寿が参考にした書物の時代はそうだったと言うことかもしれ ないが、陳寿にも西晋の王族にも必要の無い話なので、わざわざ古い知識を書くはずは なく理論に無理が有ると思う。17.(佐古教授)魏志倭人伝には「邪馬台国に女王がいる」と言う記述と、「国々が卑弥呼を女 王として共立した」と言う記述はあるが、この2つは別々の記述で「卑弥呼が邪馬台国の女 王である」とは書いていない。邪馬台国の女王とは卑弥呼でなく台与のことではないか? 卑弥呼の時代には九州にいたが、台与の時代には奈良にいたのではないか?18.(渡辺教授)魏志倭人伝が何故書かれたのかと言うことを考えなければならない。倭人の為 に書かれたのではなく中国の皇帝が倭に詔を与えた経緯を書いたもので、どんな国に詔を与 えたのか、それはどこに伝えられたのかを書いている。19.(佐古教授)魏志倭人伝は魏と交易の有った国について書かれており、倭には邪馬台国以外 に(魏と交易の無い)大きな国が他にも有ってもおかしくはないのではないか? 魏志倭人伝には「女王国の東、海を渡ること千余里また国有り皆倭種なり」と書いてある。 これが纏向の国では? →確かに可能性は有ると思うし、下記の旧唐書の話を知ると信憑性が有る。20.(倉本教授)旧唐書には倭国と日本国は別の国と書かれている。広輿図(14世紀の中国とそ の周囲の島々を書いた地図)には日本と倭奴国は別の島として書かれている。 当時の日本は中央集権国家ではなく、いくつかの国が有ったと考えてもおかしくは無い。 →この広輿図を見た時に邪馬台国は宮崎に有ったと考える僕はうれしくなった。 テレビの地図を見ると「日本」が「大琉球国=沖縄」と「倭奴国=北九州」の間に有る。 旧唐書では「倭国」と「日本国」は別の国として書かれており、倭国と違い日本国は用明 天皇の時代に初めて中国と交易をしたと言うことになっている。 また「日本国が元は小国で倭国の地を併せた」と書いてあり、日本国が邪馬台国で宮崎に 有ったのならば、神武東征は神話だとしてもそれに近い事が過去に有ったと言えるから。 せっかくなので、広輿図をネット上からお借りして載せよう。 でも広輿図と言うのは一般名でいくつかあり、テレビで紹介していたのは下図みたい。 うーん。テレビを見た時はうれしくなったけど、本物を見ると迷いが生じてしまった。 黄色の枠の中だけ見ると倭奴国と大琉球国の間に「日本」があるので、「日本=宮崎」か なと思えるのでうれしいのだけど、赤い枠内に平渡(平戸)、肥前、肥後、豊前、豊後、 太宰府が有るよ。宗家景は宗像のこと?、さらに海(関門海峡?)を渡ると長門(山口) があり、修前、修後と有るけれどこれってどこだろう?もしかして周防国?音感がにてい るなぁ。確か古代には周州と書かれていたからそうかもしれない。赤関は赤穂かな?その 先の讃ってどこだろう?さらに海(伊勢湾?)を渡ると遠江がある。これって静岡では? すると尾波ってすこし訛っているけど尾張のこと?多少変な所は有るけれど結構正確に日 本が書かれているじゃん。 ???もしかすると当時の中国では大宰府が日本の中心だと考えられていた?なので白村 江の戦いで中国は「日本に勝利して支配下に置いた」と勘違いして大宰府に筑紫都督府を 置いて郭務悰と日本占領軍2000名は満足して帰って行った?それで天智天皇は助か り、慌てて水城を築いたりして隠れ、その後に新羅が暴れて、さらに唐が弱ったせ いで日本は独立を保てたのかもしれない。筑紫君は白村江の戦いの後捕虜になって 日本へ戻ってくるまで相当に長く中国に囚われていたらしいからなあ。 でもそうすると倭奴国は北九州ではなく、肥後や豊後の南側として認識されていたのか? すると倭奴国が宮崎で「日本国」は鹿児島の可能性が出て来たなぁ。 倭奴国は太宰府か大和王権に追われて北九州から南九州まで落ち延びていたのか? 迷いが生じてしまった。 もっと研究してみよう。徐福相と言う地名が気になるし。徐福は日本にいたのか?21.(國學院柳田康雄教授)纏向は突然出現した都市で、その前の形跡が無い。もしかすると伊 都国が遷都してできた都かもしれない。邪馬台国は別として魏志倭人伝には伊都国以外は書 かれていない。平原遺跡の副葬品は立派な物が多く特に内行花紋鏡は太陽を表現したもので ある。王墓は東西に太陽光を受けるように作られており、纏向の建物と同じ思想である。伊 都国が纏向に遷都したのならつじつまが合う。22.(寺沢薫所長)吉備や伊都国等の勢力が結集して、彼らが主導して大和で談合して卑弥呼の 都を築いた。前方後円墳がここから広まった。ホケノ古墳が原型で吉備の影響を受けている のだと思う。理由は吉備の楯築墳丘墓の両方向に広がった出っ張りの片方を除くと前方後円 墳になる。これが原型であり、ホケノ古墳から鏡と刀が出土している。平原古墳からも鏡と 刀が出土して共通しているからである。一つの決まった政治体系の中で一つの決まった祀り 方=前方後円墳祭祀の新しい国家体制が始まった証拠だと思う。 後漢が倒れて伊都国の権力が弱まった。この時に「倭国大乱」があり、伊都国と吉備連合が 談合して、そのどちらでもない場所=纏向に(戦争に関わらない)女の卑弥呼を共立した。 そして伊都国や吉備の伝統を受け継ぐ前方後円墳を造り、新たな王国を作った。これが邪馬 台国?23.(寺沢所長)古い2世紀の倭国(伊都国)と新しい倭国は別の物かもしれない。24.(福永教授)あくまでも畿内が中心でまとまってそれに吉備と北部九州が加わったと思う。 →この先生はどうしても畿内説にこだわって冷静な判断ができない人で、とにかく自己主張 をするのだが根拠を示さない。学者らしくない人だと思う。学校の先生なので、相手はい つも聞くだけの人=学生だから議論になれていないのだろう。教科書を覚えて話すだけの 人なのでその教科書に書かれていることの正しさを盲信する記憶力優先タイプの人なんだ と思う。 今、議論の元になっているのが「纏向は突然できた都市で新たな王国ができた」と言う話 なのに畿内勢力が元になったと言うのなら、纏向に新しい都を作る必然性が無く、元にな る畿内勢力の根拠地近くにできるはずであるから、その畿内勢力の(纏向の近くの)場所 を示して、その勢力が纏向を作ったのなら倭国大乱など関係なく卑弥呼を共立する必要も なく邪馬台国にまったと言えば良い話だけど、根拠がその反対側(実際は倭国大乱があり その際に共立されたのが卑弥呼)になるのでちゃんといえないんだろうな?25.(寺沢所長)何で卑弥呼を共立したのかを考えないといけないと思う。大きな国だったとは 思えない。大きな国だったのなら共立などせずに、力により征服すればすむ話だと思う。26.魏志倭人伝には魏の皇帝が239年に卑弥呼に銅鏡100枚を送ったと書いている。日本では 約6000枚もの銅鏡が見つかっているが、中国では卑弥呼の時代の少し前に「内行花紋鏡」 や「神獣鏡」が作られており、伊都国の平原遺跡では「内行花紋鏡」、畿内の黒塚古墳では 「画文帯神獣鏡」が出土している。三角縁神獣鏡は「景初3年」と記載された物が見つかっ てはいるが、近畿を中心に500枚も見つかっている。枚数が多いのは卑弥呼がもらった100 枚の銅鏡を複製して配ったからではないだろうか? →近畿の黒塚古墳では死者の枕元には「画文帯神獣鏡」が飾られており、三角縁神獣鏡は無 造作に30枚も棺の周囲にばらまかれている。複製とは言え魏の皇帝にもらった大事な鏡を そんなに無下に扱うはずはなく、もし使うならば複製ではなく本物を死者の枕元に置くは ずであるが、実際は「画文帯神獣鏡」が置かれていた。なので三角縁神獣鏡は国産で(中 国では1枚も見つかっていない)邪馬台国には関係が無い物だろう。むしろ邪馬台国に対 抗して他国が作って配ったものだと思う。27.(国立歴史民俗博物館上野祥史准教授)及び(江南省文物考古学研究所潘偉武研究員)並び に(九州国立博物館川村佳男氏)鏡が出土しているのは日本だけで中国や韓国では少ない。 大分で出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は魏の曹操の墓から出土した鏡と多くの共通点がある。 大きさはほぼ同じで金銀トルコ石を使い象嵌技術で龍が描かれている。当時の中国でもなか なか作れない豪華な鏡で、特別な地位の人(皇帝とか)の為に作られた鏡である。例えば女 王かも? →僕も最初はそう思っていたのだけど、魏志倭人伝を読んでいて卑弥呼ってそんなに偉くな かったのでは?と最近思い始めている。魏志倭人伝に卑弥呼が主人公的に記されているの は倭国の女王だからではなく、卑弥呼は単なる女王国の女王で倭国の実権は伊都国の一大 率が握っており、国々は魏志倭人伝に有るように伊都国に従っていたのではないだろうか ?そして覇権を伊都国に奪われた女王国の卑弥呼がかっての伝手を求めて魏に使者を送っ たが、魏にはまだ女王国も伊都国もまだ同列の支配下で「仲良くしなさい」と言う詔を送 り、援軍は送らなかったのでがっかりした卑弥呼は死に、伊都国や女王国と対立関係にあ った狗奴国は伊都国と手を結び台与を新女王にしたのではないだろうか?なぜならば卑弥 呼が本当にピンチだったのなら、魏に助けを求める前に同盟国の伊都国に助けを求めるは ずなのに、伊都国は何の助けもした気配が無いからである。28.(佐賀女子短期大学高島忠平名誉教授=吉野ヶ里遺跡の発掘調査・保存整備を指揮してきた Mr吉野ヶ里)吉野ヶ里は邪馬台国ではないかもしれないが、吉野ヶ里遺跡が出土して公園と して保存整備されたことにより九州説は盛り上がり、一般の人も知るようになった。各地の 遺跡も同じように保存されるようになり、そこに意義がある。 (兵庫県立考古博物館石野博信名誉館長=纏向遺跡を発掘してきた人で土器の分析が専門) 土器は作られた土地や時代で異なっている。纏向遺跡からは吉備、大阪、奈良の土器が出土 するが出雲とのつながりが分かって来た。吉備、出雲連合が河内大和に作った国が邪馬台国 だとは思うが各地の有力な勢力が手を携えて作り出した国の形で、別に邪馬台国がどこに有 っても良いと思う。分からないから面白い。ただ、20年位前から大阪の土器の研究が進んで いない。そこは何とかして欲しい。29.(渡辺教授)天皇陵を調べさせてもらえないので進展しない。結局石野大先生の仰る通り、どこに有ったか分からない。新しい発見を待つしかないかと言う話でまとまった。ただ、この番組で分かったのは、近畿説の元になっている色々な話は、全て「纏向をはじめとして大きな国が有った。日本には当時邪馬台国しか大きな国が無かった。なので纏向を作れたのは邪馬台国に違いない。」と言うだけで、纏向を作れるほど大きな国が有ったのなら、近畿説は根拠が無くなりつぶれるなと言うこと。近畿説を唱える先生方もそれが分かっているから、根拠は示さずに邪馬台国は大きかったと大声で主張するしかない。そんな程度なんだなと思った。纏向は三輪山の麓近くで、三輪山に祀られているのは出雲の神様なんだから、纏向を作ったのは出雲の王権だと分かってると思うのだけど、現在の出雲大社が島根に有るから言えないんだろうな。古代の天皇や上皇はみんな失権すると隠岐に流されるじゃん。どうして大国主命が大きな館を島根の出雲に造り、自分の子(事代主)や部下達の身の安全を保障する代わりに「出雲に流される」ことを承諾したと考えないんだろう?出雲は元は島根に有ったのかもしれないけど、この時代には三輪山付近にいて、政権争いに負けて故郷の島根の出雲に帰ったんだと思うのだけど。三輪山の出雲が纏向を造ったんだよ。箸墓の主は事代主(大物主神)の奥様の倭迹迹日百襲姫命。だから彼女の墓は昼間は大和の「人」が、夜は出雲の「神」が造ったと言う伝説が残ってるんだ。ただ、九州説もちゃんと根拠を示せてないと思うな。そもそも魏志倭人伝の直接根拠は誰も唱えず状況証拠ばっかりで説明しないから「どこでもいい」で終わっちゃうんだと思うな。
January 28, 2021
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何故「古事記」と「日本書紀」があるのかを研究していて見つけた田中英道先生の本は、本気で信じ込んで書いているのか、受けを狙ったのか分からない本が多い。非常に博識な先生なので、分かっていてわざと受けを狙ったのではないかと思っている。2021年1月12日の「何故「古事記」と「日本書紀」があるのか(その6.1)」で紹介した、発見ユダヤ人埴輪の謎を解く!は「ユダヤ人」と言うワードを除く秦氏のことを書いた部分は、それなりに面白かったので、2冊目を読んでみた。「邪馬台国は存在しなかった」と言う本である。うーん、何というかちょっと無理が有るなぁと思った。面白さが無い。タイトルの奇抜さからもっと激しく面白いのかなと思ったのだけど、いまいち。この本の先生は思い込みが激しく理性が無い。前の本では本当は理性が有って、本を売込む為に滅茶滅茶言っているのかなと思ったのだけど、この本の先生は理論が支離滅裂になっている。まず、根本的に何故「邪馬台国は無かった」と主張するのかが分からない。魏志倭人伝に疑わしい記述が多く、邪馬台国論争が多数の論客により多岐にわたるのは個々の論客のバリエーションに過ぎないとそう主張して、だから邪馬台国は無かったと言う論法なのだが、そもそも魏志倭人伝が信用できないのか、読んで解釈する論客が信用できないのか不明である。それを言ったら魏志倭人伝同様に「日本書紀」も「古事記」も信用できないし、だから日本と言う国が無かったかと言うと、現に僕は日本人で日本に住んでいる。つまり、その国の事を伝えた本に信頼性が有るかどうかと、その国が有ったかどうかは別の話。なので、一番大事な証明の仕方が滅茶滅茶である。ただ本を読んでいて思ったのだが、この本を先生が書いたのは別の事情があるのかもしれない。先生が邪馬台国の有無の証明よりも日本の学者先生方の悪口に力点を置いているからである。日本の学者は国際的にレベルが低いとか、中国文献至上主義だとか、マルクス主義史観に基づいていると延々と書いている。かなり熱く。もしかして先生は邪馬台国論争の中で学者先生達にいじめられ、恨みを持っているのではと思う。学者先生方はいくつかに分かれ、戦前の皇国史観に重きを置く先生方と戦後の逆に皇国史観に反発した考えを持つ先生方は恐い。特に後者の先生方は、戦争に際して憲兵に捕まったり殴られたりして恨みを持っている。神話や明らかに考古学的に間違っている古代史を批判するくらいで捕まるのは確かに不条理だ。僕が当事者だったら、そう思うだろう。だけどそれを何の関係も無い、ただ古代史に関して考え方が違う他人にぶつけるのは変だと思う。自分達が憲兵にされたことを、今度は自分達が他人に対してやっているだけである。田中先生はその被害者で、そのせいでこんな支離滅裂な本になったのだろうと思う。ただ、参考になった部分もある。陳寿の色々なエピソードである。陳寿は蜀の出身で、魏の後を受けた西晋の時代に三国志の著作郎になったのだが、陳寿が蜀を離れたのは、彼が高潔で間違ったことを書かなかったせいだとか、三国志を書くにあたって、その性格上「魏にとって不都合な事を書きかねない」ことで著作郎にふさわしくないのではと言う議論がなされたと言う話である。田中先生はこの(魏にとって不都合な事を書きそうな奴は著作郎にしたくないと言う人達がいた)ことをもって当時の本は信用できないと言うのだけど、僕は逆にそれでも陳寿が採用されたと言う事は高官の中にも高潔な人が多くいて、それ故に三国志は立派な本なんだと思う。先生の思うように三国志のプロジェクトリーダーが悪い人ならば陳寿はクビでしょう?もう一つ参考になったのは、宮崎の「神門神社」と「比木神社」の存在である。この二つの神社は宮崎県のホームページ「みやざきの神話と伝承101」によれば、百済滅亡前の2人の皇子が戦乱を避けて日本にやって来たのだが、最初は広島の厳島あたりに逃げたのだが、安全を求めてさらに逃げて宮崎に来たのだそうだ。(岡山や滋賀には敵がいたからなぁ。厳島では安全とは思わないよな。)僕は古事記や日本書紀の「神武東征」の話はもちろん神話で事実ではないが、何らかの史実を反映していると考える人だし、古事記の中で天孫が韓国岳から見た「韓の国」は宮崎県の「えびの(夷野)」だと思っていて、そこには百済の人達が移り住んでいたと思っているので、2人の皇子がそこに住む人達を頼りに逃げて来たのだなと思うと、田中先生の教えてくれた2神社の存在がうれしかったからである。ただ、田中先生。卑弥呼の時代には「神社」と言う概念が無かったので「卑弥呼神社」が無いのは当然だし、有ったとしても別の名前で残っていると思いますよ。だって、「出雲大社と大国主命」は有るし、「大国魂神社」も有るけれど、「大穴牟遅(オオナムチ)神社」は無いでしょう?(大国魂神も大穴牟遅も大国主命の別名。神様にふさわしい名前が神社につけられた? 卑弥呼は卑の字で分かるように田中先生の主張通り「蔑称」。 なのでこの名前を神様の名前として扱うわけがない。)オオナムチと言わずに大国主命と言うのが、神話の作者の心遣いだと思います。
January 26, 2021
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何故「古事記」と「日本書紀」があるのかを研究していて変な本を見つけ脇道にそれてしまった。でも面白かったのでOK。但し、完全に妄想で、根拠のかけらも無いし、古事記や日本書紀には関係ないので例によって(その7)とはせずに(その6.1)枝番。誰も信じられないと思う。でも面白い。何故なら「物証」が有るので妄想が具体的だから。その本のタイトルは「発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く」田中英道氏の本である。いやもうタイトルからして笑いそうだが、田中氏はまじめである。と言うか、「ユダヤ人」と言うキーワード以外はまともである。この人は歴史が専門ではなく、美術史等が本職なのだが博識であることは間違いない。理論もしっかりしているし、よく調べて書いておられる。本当に「ユダヤ人」と言う部分を除いて。かって秦氏と言う渡来人達が居て、その一族は神功皇后や応神天皇の時代に日本へきて、子孫の秦河勝は推古天皇の時代に活躍した。これだけなら教科書の通りである。日本書紀にもはっきりと書かれており、秦河勝の建てた「広隆寺」は現存し、所蔵の弥勒菩薩半跏思惟像は美しい国宝である。でも彼はなんとしても秦氏がユダヤ人の子孫だと主張したかったんだよね。その本がこれ。著作権の問題は有るけれど、何の加工もしていないし、本の宣伝にもなるからいいかな?見て分かるように本当にそうだと思ってしまう埴輪である。日本人にしては異常に鼻が大きく高い。これを見て思うのは「猿田彦の神」である。鼻が大きく毛深い。彼もユダヤ人だったのか?実は僕のブログ「邪馬台国はどこにあったか(その18)まとめ」2020年12月19日と合う。そう、瓊瓊杵尊が宮崎に高天原から降臨して来る途中に出会った猿田彦の神が、「えびの=渡来人の国」の人ならば、まさにぴったしカンカンなのである。僕は「えびの」が百済から来た渡来人の国だったと思っているので、上に書いた日本書紀に書かれた秦氏の由来=百済から来た民ならばつじつまが合うのである。Wikiを見ると、秦氏は『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)などが祖とされるそうである。秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦と云われているらしいが、その昔はえびのだった?そして彼らは大和朝廷の成立に協力し、そのことが形を変えて神話の中に残っている?まぁ、妄想です。何の根拠もない。でも、田中英道氏の言う通りならば筋が通る。田中英道氏は学者先生なので御存知でも言えないだろう話(噂)が有る。八咫鏡である。明治時代の文部大臣「森有礼」は伊勢神宮の八咫鏡(やたのかがみ)の裏面に、ヘブライ文字で「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」と書いてあるのを見たと主張したらしい。これは聖書・出エジプト記3章14節にある言葉で、「我は有りて在る者」(I AM THAT I AM)を意味する神の聖なる御名であると聞いたことがある。妄想である。何の根拠もない。<後日追記>埴輪が日本人離れしていると思ったのだけど、案外そうではないのかも?韓国の時代劇を見ていてそう思った。ちょっと韓国のいつの時代か分からないのだけれども、そっくりな写真を見つけた。(「宮廷女官チャングムの誓い」の時代なので、日本で言えば室町時代だそうです。)帽子、ひげ、もみあげ部分の飾り、埴輪にそっくりでは?韓国からの渡来人のお医者様を地元の人達が感謝の意味から、或いは古墳の守り神として、埴輪にして祀ったのなら十分にあり得ると思う。当時の日本の天皇家や首領たちは百済などから沢山僧侶や技術者を招いているから。池や土手を作る土木技術や病気を治す医療技術はとても大事なので招かれた渡来人は多い。そうじゃないかな?ユダヤ人よりは100倍くらい現実性が有ると思う。<追記>この帽子は韓国では「カッ」とか「笠子帽」と呼ばれる帽子で、李氏朝鮮時代には位の高い人だけがかぶるものとされて服装で身分を示すものだったらしい。なので一般的には19世紀位の韓国の帽子とされているが、上記で書いたように、この写真は「宮廷女官チャングムの誓い」の中の画像なので、朝鮮王朝第10代国王燕山君(ヨンサングン)の時代(1476年~1506年)である。つまり19世紀の帽子と言うのは正確には誤りである。もっと調べると起源は三国時代(高句麗、百済、新羅4~7世紀)にまでさかのぼるらしい。官職者が正式に利用するようになったのは、高麗末期・恭愍王(コンミンワン:)16年(1367年)のことなのだそうだ。後年黒笠(フクリプ:흑립)と呼ばれるものだ。<後日追記>韓国からの渡来人が千葉に居たと言うのはあながち妄想とは言い切れない。どういうことかと言うと、関東にはいわゆる坂東平氏が多いからである。坂東平氏は桓武平氏の流れで、何故か平家(平氏ではなく平家)とは仲が悪く、源平の戦いでは北条氏や三浦氏を始め多くの坂東平氏が源頼朝方について戦った。教科書等にそう書いてあるせいで、鎌倉幕府は源頼朝が開いたと言う人が多いが、源頼朝を支えて平家を滅ぼしたのは坂東平氏の北条氏や三浦氏である。源氏の血は実朝までの3代で途絶え、その後を継いだ北条氏は平氏である。なので極端な言い方をすれば源平の戦いは実は平氏同士の一族の中の争いと言える位である。もちろん坂東武者の中には源や藤原の子孫もいたのだけど、要は氏同士の戦いではなく、ひとことで言えば、農場経営者として力を蓄えた関東武士団が、相変わらず経済的に搾取してこようとする京都朝廷に対し、独立戦争を仕掛けたのである。その際に大義名分として平家一門の横暴とそれに対する朝廷の一部勢力と源頼朝を利用した、それが真相である。なので用が済んだら源頼朝以下実朝まで皆殺しにしただけである。それ故に幕府を鎌倉に置いた。源平氏の戦いならば都は依然として京都に置いただろう。平将門の場合もそうである。関東の勢力が彼を頭にして朝廷に反旗を翻し、独立しようとしたのが平将門の乱である。それ故に関東の人達は平将門を大事にして後世に伝えるのである。藤原純友はそれほど地元の人達には慕われていない。坂東武者達は鎌倉幕府の創立に至ってようやくその夢を実現したのである。それが渡来人が関東に居たのではないかと言うことと何で関係が有るかと言うと、坂東武者特に坂東平氏がどうして発生したかという所に関係がある。関東に桓武平氏が下ったのは要は経済的な事情である。桓武天皇にはものすごい人数の奥さん・妾・お手付きの女性がいて、それぞれの子も多く、(Wikiによれば皇后1、妃1、夫人4、女御6、宮人12、女嬬数十人とそれらの子が居た。)その為上位の者はともかく下位の者は養いきれず「平」の姓を貰って関東や伊勢に下った。坂東平氏はそのうちの多治比真宗(たじひのまむね)の子の葛原親王(かずらわらしんのう)の子孫である。実は桓武天皇のお母さんは百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠であり、当初は立太子など予定はされておらず、天武天皇系の孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の後で色々と血なまぐさい争いが有った際に、天智系である光仁天皇が即位し、さらに異母兄弟間の争いを経て、(藤原氏の一部の援護を受けて:同じ藤原氏の一派は敵)何故か皇太子になったらしい。桓武天皇は母方が百済王家(武寧王の子孫)だったことから百済系の人々を重用した。つまり子孫の桓武平氏が関東に下って行った際には百済人も付いて行ったと言う事である。であれば、千葉の古墳に百済人の埴輪が有っても何の不思議も無いのである。神奈川県の平塚の地名の由来は、桓武天皇の孫で桓武平氏の祖の葛原親王の子の高見王の娘「政子」がここで亡くなり、その墓を造ったのだが、その塚がいつしか平になったから平塚と呼ぶようになったらしいし、三浦半島には桓武天皇の孫娘が土地を治めに下って来たとか、その墓が有ると伝わる。娘さんが一人で未開の土地に来るわけは無いし、百済系の娘さんなら渡来人も来るだろう。また桓武平氏が関東に下って行ったのは、既にそこに渡来人の集団が多くいて、その集団を頼って行ったのかも?元王族の坊ちゃんやお嬢ちゃんが全くの未開地に行くはずは無い。関東への赴任を命ずる朝廷の方もちゃんと気を使うはずである。つまり渡来系の集団が居て、そこに行けば優遇してもらえると分かっているから命ずる?その位の気は遣うはずである。だから千葉には百済人の墓が有り、百済人の埴輪が有ったのだと思う。上の写真の装束は室町時代の物らしいが、それ以前から似たような服装だったのかも?まぁ冗談はこれくらいにして田中氏の論拠となった埴輪は千葉県山武郡横芝光町中台にある。13基ある古墳の中でも殿塚と姫塚は大きく、関東では有数の大きな古墳である。殿塚からは馬や犬や牛等の動物埴輪と人物埴輪が出ている。内部は朱で塗られ、太刀や鏡、玉類も出土しているそうである。すごい。姫塚は早稲田大学の発掘調査時に全国でも珍しい「葬列埴輪」が見つかっている。多くは6世紀後半から7世紀頃の造営とされており、最古の駄之塚古墳は推古天皇の時代らしい。え?田中先生の言う通り、秦氏が活躍した頃じゃん。応神天皇の時代に九州に住み着いた秦氏がこの頃には関東に達していたのか?そう言えばヤマトタケルの命が弟橘姫の歌を詠んだ中にある「相模」は「秦野市」付近だ。秦氏の野?相模の古代の発展の裏にはユダヤ人であるかどうかは別として秦氏が居たのか?と言うことは5世紀頃には相模にいて6世紀に千葉に居た?つじつまが合いすぎ。で、問題の埴輪はここのはにわミュージアムに有るのだそうだ。ネットで探してみた。どう見ても日本人じゃないよ。さらに探すと、日本の古代の人が結っていた髪型の「みづら」とは少し違うなぁ。むしろ巻き毛みたい?ちょっと違うのも有った。この埴輪の帽子にはつばが無い。これって兜だなぁ。みづらではなく兜の一部かも?後世の戦国時代の兜にも同じ構造があるが、首を傷つけられてはおしまいなので兜には首の覆いがある。それかも?<追記>上記で「カツ」や「笠子帽」について調べていたら、これも帽子で武臣の帽子かも?庚寅の乱(1170年)頃の武臣の帽子に似ている。最後のはユダヤ人ではなくむしろバイキングかも?バイキングはイギリスに渡って現在のイギリス王室の祖先(ウイリアム1世)になっているし、グリーンランドにも渡っているし。現代人の感覚ではこの時代に日本へ来るのは信じられないかもしれないが、「秋田のなまはげ」や「能登の御陣乗太鼓の鬼」はバイキングに似ているからなぁ。でもバイキングが来るのは今から800年前なので埴輪のモデルにはならないか?バイキングは無理かもしれないが、ユダヤ人のディアスポラ(民族離散)の歴史は古い。なんせ、モーゼの時代からだし、AD70年頃のローマ軍により壊されたエルサレムの宮殿(西の壁が有名な嘆きの壁)後に多くのユダヤ人は世界各地に散って行ったらしい。その中には中国に達した人達もいたらしい。開封市のユダヤ人街が有名である。写真を見ると混血の果てに既に中国人と同じような顔をしているが、日本から近い地域である。この辺に住んでいたユダヤ人がいたのなら、別グループは日本へ来ていてもおかしくは無い。しかも上記のユダヤ人は中国の皇帝から中国名を与えられ、今のユダヤ人とは違い、戒律は控えめにして中国に溶け込んでいたらしい。田中先生は秦氏=ユダヤ人の根拠としてかって中国の西ウイグルやカザフスタン辺りに、「夕月国」があり、秦氏はそこから来たのであり、そこには景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)が多くいたと考え、新撰姓氏録には秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際には「ハタ」のあて字として「波多」を使い、その波多はヘブライ語のユダ族を意味する(ヤ)フダに漢語の波多をあてたからだと主張します。でも僕はもっと直接的な解釈ができると思います。秦氏の祖先の「弓月王」は新撰姓氏録では「融通王」と書かれており、このことから弓月王はあて字で月の「き」は無音だったのだと思います。なので融通なのです。で、この「ゆづ」は英語のユダヤ人の蔑称の「ジュー」と同源なのではないでしょうか?「ゆづ=ユダ」だったのだと思います。そもそも夕月国と言う表現自体がそうなのかも?<後日追記>田中先生の話が面白いので妄想してみたが、妄想がすぎて誤解を受けるといけないので一応まじめな話も載せるが、上に書いた秦氏=ユダヤ人と言うのは、秦氏=秦の子孫と考える僕の主張からはあり得ない。千葉の埴輪が秦氏に関係があると言う事はあり得るが、その秦氏は隋書巻81「倭国伝」に書かれた竹斯(筑紫)の東の秦王国から千葉に来た子孫で、秦の滅亡に際して後に前漢により玄菟郡が築かれる地域に潜伏し、斯蘆(しら:後の新羅)を経由し九州の豊前に住み着き秦王国を築いた人達の子孫である。(千葉の埴輪の帽子はユダヤの帽子ではなく高句麗そして後の朝鮮の「カツ」である。)これは2021年8月13日の「邪馬台国はどこにあったか(その21)」に書いた。田中先生には申し訳ありませんが、ユダヤ人がイスラエルの地から当方へ向かうのは、(仮に失われた十支族の伝説が真実だとして)ユダヤの北王国がアッシリアに滅ぼされた、アッシリア捕囚(紀元前722年)以降であるが、秦の嬴公が周王から秦邑を賜ったのが紀元前770年だからである。つまり周の発生が早い。従って秦氏=ユダヤ人はあくまでも妄想であり現実には誤り)もうただひたすら妄想だったんですが、何か物証=埴輪があると面白いなぁ。どう見ても日本人じゃない。埴輪になっているのは、モデルがシャーマンで呪術を操り、病気を治す技術を持っていたので、在住の日本人たちに尊敬されて大事にされていたからではないでしょうか?秦(はた)の語源通り織物の技術も持っていたし、秦河勝のように土木建築も得意だったし、古来日本人は自分達を助けてくれる渡来人には寛容だったので、地元では歓迎されていたのかも?
January 12, 2021
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1月7日に令和3年最初の「わの会」イベントが開催されたので参加しました。今回は歴史と言うよりは地元を知るイベントと言う意味合いが強かったのですが、65歳を過ぎて外を自分から歩くことが無い僕にとって、歩くきっかけとなる会は良いものです。3時間休まずに歩くと、今日は「冬の台風」みたいな激しい風が吹いたのに暖かいくらいでした。健康に良いのかもしれない。最近糖尿病の恐れが有るので、積極的に参加しようと思います。今回のコースは、京浜急行六浦駅→諏訪之橋→象塚跡→三艘会館と文殊菩薩→庚申塚→厄神様→傍示堂→雷神社→築島→浦郷陣屋跡→良心寺→首切観音と言うルートで一部金沢区を出ます。まずは六浦駅に集合しました。今回は今日(7日)新型コロナの緊急事態宣言が出る予定だと言うことで、全員マスクをするのは当然のこととして、密にならないように無線のガイド機を使いガイドさんの周囲に集まらないようにしました。ガイドさんは気をつけてくれてはいますが、ガイドと言う職務の性格上話続けるので、マスクをしていても呼気が漏れるのは仕方ありません。でもマイク越しならば感染は防げるし、みんながソーシャルディスタンスを保てるのです。今回のルートはこんな感じです。結構歩きます。金沢区の南の果ての六浦から横須賀市の追浜まで約3時間のルートです。追浜駅の自転車駐輪場は侍従川の支流(六浦川)の暗渠の上にあります。都会の川なので奇麗とは言えませんが、ゴミも少なく透明です。何よりも鳥たちが居ます。金沢区にはあちこち野鳥の住める水場や森(僕はこの中に古墳が有ると思っている)が有るので恐らく夜はそこに住む鳥たちが昼間はこの辺で遊んでいるのだろう。ちょっと写真を撮ってみた。この付近は昔から「川」と言う地名なんだけど(珍しい)アオサギまでいる。新潟に住んでいた頃、よく田んぼにアオサギがいたけれど横浜にもいるとは知らなかった。さすがにカワセミはいないけどカワウらしき鳥までいた。京浜急行の音は恐くないのかな?学習して危険な音じゃないと思っているのかも?侍従川は照手姫の伝説に出てくる照手姫の乳母(なので侍従)にちなんで侍従川と呼ばれたらしい。常陸の国小栗城主満重が藤沢で殺された時に、その婚約者の照手姫もこの川に投げ込まれ、照手姫は助かったらしいのだが、死んでしまったと思った乳母が川に身を投げたらしいのである。ここは支流なので、身を投げたのは後述の三艘橋の方だと思うのだが、「川」の由来である。昔の御姫様は大変だったのですね。ここを少し下流に下ると諏訪之橋が有る。すぐ上に有る諏訪神社にちなんでつけられた名前で、鎌倉から六浦へ向かう六浦道(鎌倉道)と浦賀へ向かう浦賀道の分岐点だったらしい。諏訪神社は「川」地区の鎮守で、ガイドさんから面白い説明が有った。よく「沢田」など「沢」がつく名字があるが、この沢と諏訪には関連があると言うのである。確かにこの「川」地区に「諏訪」神社が有るのをみるとうなづける。もちろん川には沢がつきものなので、関連があるのは当然だが、逆に「諏訪」が「沢」からきているのかもしれない。Wikiによると、「すわ」は国譲りで負けて逃げのびたタケミナカタが祀られている長野の諏訪大社にちなみ、もとは長野では谷や湿地のことをすわと言っていたらしい。沢もそうである。古い言葉なのだろう。で、その諏訪神社なのだが、いかにも地域の鎮守らしい。諏訪之橋を後にしてさらに下ると、象ヶ谷橋がある。昔船で運ばれてきた象が船上で死んでしまい、港から近いこの地に埋められた跡を象塚と呼び、そのたもとのこの橋を象ヶ谷橋と呼んだらしい。ここをさらに下ると侍従川の本流から六浦川が分かれる所に三艘橋がある。奥が侍従川本流で、支流(手前の橋の下の六浦川)はここから分岐して京急六浦駅の方へ流れる。三艘橋はこの辺に鎌倉の東の玄関口としての湊が有り(つまりこの辺は六浦=海辺だった)、ここに唐船が三艘寄港したから名づけられたらしい。この橋の近くに三艘町内会館(中に文殊菩薩が祀られている)が有り、その脇には庚申塚が有る。この文殊菩薩は元は越前朝倉能登守義景の子の景隆の持仏で付近に有った文殊堂に祀られていた。その文殊堂が京浜急行の開通に伴って壊された時にここに移されたらしい。ここから国道16号線に向かう途中に厄神様がある。由来に書いてあるが、1550年頃安房の里見軍がここに攻めてきた際に小田原北条氏に敗れ、逃げようとした武将がこの辺で力尽きて亡くなったのを地元の人が手厚く埋葬したところ、それ以来この村は疫病から免れるようになったので厄神様として信仰されるようになったそうだ。是非、新型コロナでもみんなを守って欲しいな。ここを過ぎて国道16号線に出ると、傍示堂がある。昔、武蔵国と相模国の境には天神山脈が連なり、浦賀道はそこを横切るように通っていたのだが、その道筋に祀られていた地蔵尊等をここに集めたものらしい。古い言葉で「榜示」とは境を示す言葉で、この傍示堂とはそれからきたらしい。傍示堂を南に下ると、旧浦賀道脇に雷神社が有る。国道16号線は旧浦賀道に沿って走っている。祭神は火雷命で、10世紀頃に天神崎に有った社を朝倉能登守が雷(いかづち)神社と改め、16世紀にここに移したのだそうだ。なお、地元では「かみなり」神社と呼んでいるそうだ。写真には写っていないが、すぐ隣に忠霊碑と浜空神社(元は富岡に有った)もここに有る。この雷神社とは関係は無いのだが、追浜には別に雷にまつわる伝説もある。追浜駅の近くの築島のビャクシンがそうである。永禄2年(1559年)この木に落雷し、木は黒焦げになったのだけれども居合わせた女性12人は無傷で助かったのはこの木のお陰と、雷神社が一時ここにあったのだそうだ。時系列的に近く、朝倉能登守が雷神社を移したのと関係がありそうな気もするが傍に石碑が有る。上の枠内に「雷神社故址」と書いてある。本当はここが雷神社の址なんでは?ここから西に進み京浜急行を渡る踏切付近に、昔は「浦郷陣屋」が有ったらしいのだが、例によって京浜急行は古い遺跡を軒並み壊して開通したので今は無い。踏切を渡った所を南下すると良心寺が有る。何か面白いお寺である。形も面白いが、由来がすごい。朝倉能登守景澄が元は曹洞宗のお寺だったのを夫人の菩提を弔う為に浄土宗に改めたのだそうだ。そんなことができるんだ。すごい。写真左手の山を登ると夫人のお墓(宝篋印塔)が有る。横須賀市の史跡に指定されている。朝倉能登守景澄は小田原北条氏の家臣で、豊臣秀吉の小田原攻めでは箱根山中城を守った。ここ浦郷村追浜をはじめ伊豆や上総にも領地を持っていたらしい。墓には天正11年(本能寺の変の翌年)と書いてあるが、建てられたのは江戸時代初期らしい。この後、付近の首切観音にも行ったが、ここは罪人の首を切った場所で実際に頭蓋骨も出て、供養塔の意味合いが強いので怖いから写真は載せない。こんな感じで金沢区南部から横須賀の追浜まであちこちの史跡を見てきた。皆さん足腰が強くて立派だなと思った。僕も負けずに鍛えなくては。
January 8, 2021
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