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ダイソーに行くとブルートゥースピーカーを1000円(税込み1100円)で売っていた。ブルートゥースは使わないので最初は見過ごしていたが、ふと考えると「FMラジオに改造できるのではないか?」と気づいたので買ってきた。こんなの。昔のラジカセ風で可愛い。しかもブルートゥース5.0なのでステレオのはず---と思ったらモノだった。本来はステレオ可能のはずなんだけれども配線がそうなっていない。現にパソコンのブルートゥースにつなぐとパソコンではステレオ表示される。分解してみるとすぐに理由が分かる。基板表面はこんな感じ。えーなんで?左右のアンプIC2個の入力(+INで4番ピン)が並列につながっている。入力マイナス側は両方ともコンデンサー経由でGNDにつながっている。なので上の写真は改造途中なので基板の配線パターンを削って切り離している。アンプICはTC8002で該当部分を載せるとこんな感じ。回路図部分は見づらいので、画像を右クリックして出るメニューから、「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで大きく表示できます。つまり標準的な回路なので、入力さえ切り離してやれば別々に動作できる。FMラジオに改造するのに使うFMラジオユニットは愛天堂のM5807MAである。このDSPのFMラジオユニットは安くて感度が良く、しかも周波数表示できる優れもの。色々な物に仕込めるので、子供の夏休みの宿題にはもってこいである。但し、半田付けが必要なので半田付けはお父さんの仕事。そしてスイッチや電源への配線をピンソケットとピンヘッダーにしておけば、スイッチ等への接続は子供でもできるので、おもちゃなどにFMラジオを組み込める。ちなみにその際の回路接続はこんな感じ。ごく簡単なものだけれども、子供と一緒にやればお父さん株が爆上りだと思う。基板の裏面はこうなっている。各スピーカーやUSB-C端子及びSDカードスロットやリチウム電池への配線が有る。この基板はリチウム電池への充電回路がのっており、動作はリチウム電池が電源である。例えばアンプICの6番ピン(VDD)がつながっているのでC9やC14の右側で測ると、満充電状態ならば4.02V(規格上は3.7V)も有る。僕はここからFMラジオユニットの電源(3~3.3V)に、低ドロップ三端子レギュレーター経由でつないだ。安く作りたかったので、この3.3V用にしたけれど、普通は3.0V用を使った方がいいです。昔の三端子レギュレーターは入力電圧は出力電圧よりも3V以上高くないとダメだった。今の低ドロップタイプは1V未満でも十分OKなので使いやすい。3.7Vから3.0Vを作れるなんて奇跡である。そんな感じで何とか完成した。正面から見るとこんな感じ。写真の中の、84.7MHzはFM横浜の間違いですね。周波数表示部がちょっと斜めかなぁ。僕はぶきっちょだから仕方ない。愛天堂のM5807MAは76.0~108.0MHzで使える。その辺の中華FMラジオは87.0~108.0MHzなので、この方が良い。特に横浜の住民はFM横浜が聞けないと寂しい。我家はマンションなのでスピーカーを鳴らすと奥さんに怒られるのでイヤホン端子をつけた。でもヘッドホンを使う方が音が良い。上から見るとこんな感じ。ボタンが何か分からないのでマジックで書いた。上手く書けない。うーん、「f+」と書いたのに「チ」に見えるなぁ。孫に笑われる。本体用ボタンはOFFでもC9やC14の頭から電源をとっているので、ラジオ用の電源ボタンだけでON/OFFできる。裏側はこんな感じ。これが苦闘した。なんせスイッチや液晶そしてイヤホンの配線が多くてかさばって、フタが閉まらない。ねじどめしても真ん中が膨らんでいるような気がする。で、なんとかできたんだけれども、本体スピーカーが鳴ったり鳴らなかったりする。実はラジオをつける前のブルートゥースの時でもそうだったような気がする。僕はブルートゥースは使わずラジオだけで、イヤホンはラジオ直結なのでそれでも良いが、このスピーカー大丈夫なのかなぁ?もう一台買ったので、今度SoCのピン配列を調べてステレオ化してみようと思っている。
May 26, 2026
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邪馬台国の位置が定まらないのは何故かと言うことを考えると気づくのは、議論をする学者やアマチュアの研究者がほぼ原文を読んではいないことだと思う。たいていの場合、原文は読まずに誰か他の人が訳して書いたものを読んでいる。その為に、元となる訳された文が誤っていると、メチャメチャな理論が正しい物としてまかり通り、あげくの果ては、その理論を正当化する為に信じられないような理論を新たに追加し、結局それが堂々巡りをして、最後にはメチャメチャな理論になってしまうのである。例えば「箸墓が魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓の100歩と言う大きさに近いので、 箸墓は卑弥呼の墓である。」などと言うのが良い例である。もう何度も書いているように、「逆は必ずしも真ならず」と言う高校の教科書にも書かれているような基本的な論理さえ、歴史学者は理解していない。魏志倭人伝には卑弥呼の墓は100歩であったとは書かれている。しかし、その逆命題である、100歩の大きさの墓だから卑弥呼の墓であると言うのは成立しないのである。100歩の墓が狗奴国王の墓でも何の不都合も無い。単に100歩の大きさの墓だと言う事だけであり、それ以上でもそれ以下でもない。何でこの程度の簡単な、基礎的な論理が理解できていないのかといつも思う。しかもそれ以前に、100歩を150mだと考えるのさえも間違いなのかもしれない。古代中国の1歩は左右の足の進み両方をカウントして1歩とするので現代の2歩である。そして1歩は5尺なので歴史学者の先生は1歩=30cmと言う理論に基づいて、1歩=150cm=1.5mと考えている。なので100歩=150mと考えるのだが、そもそも1尺=30cmと言うのが間違っている。魏志倭人伝を含む三国志の中では、諸葛亮孔明の身長が8尺だったと書かれている。陳寿『三国志』蜀書・諸葛亮伝の冒頭に、諸葛亮の人物紹介として次の一文がある。「亮身長八尺」1尺=30cmなら8尺は2.4mにもなるので孔明はバケモノである。本当にそうなのだろうか?実は発掘調査により、1尺の長さが分かる定規のような物がいくつか見つかっている。いくつかをあげてみると、以下の通りである。・商代骨尺(河南安陽出土) 長さ約15.8〜16.9cm。最古の測長具の一つで、骨製の定規として使用された。・東周銅尺(洛陽金村古墓出土) 長さ約23cm。戦国期の「商鞅量尺」と一致し、度量衡統一の証拠となる。・西漢銅尺(複数出土) 長さ約23.2cm前後。鳥獣文様や幾何文様が刻まれた装飾的な銅尺があり、儀礼的要素も持つ。・東漢骨尺・牙尺 出土例40余。円形の刻印を「尺星」として目盛りに利用。長さは23〜24cm程度。・唐代銅尺・牙尺 約50例が現存。刻花銅尺や「拨镂牙尺」と呼ばれる精緻な象牙製定規があり、 外交贈答品としても用いられた。・明代嘉靖牙尺 長さ約32cm。精密な線刻が施され、官定の標準尺として使用された。・清代「康熙御制」牙尺 長さ約32.1cm。紫金山天文台の銅景表尺と一致し、建築や天文観測に用いられた。後世になるほど30cmに近くなるけれども、古い時代は23cm程度である。学者先生の主張する1尺=30cmと言うのは後世の物だろうと思う。魏志倭人伝を含む三国志の時代には23cm程度だったのだろうと考えられる。つまり孔明は8尺=23cmX8=184cmだったのである。長身ではあるが、ごく常識的な数値である。これに従えば100歩は120~130mとなり、箸墓は大きすぎることになる。(箸墓を卑弥呼の墓とする先生達は1歩=5尺=30cmX5=1.5mとしているので、 これに従えば1歩=23cmX5=1.15mなので115mとなるのだが、 秦の始皇帝が1歩=6尺とするように命じた例もあるので、 1歩=23cmX6=1.38mになることから若干広く見て120~130mとしている。)まぁどちらにしても、可能性は(小さくてもゼロではないので)あるが、証拠にはならない。本題に戻って、漢文を原文では読まずに誰かの訳したものを読んでいるだけと言うのは、次の説明=後漢書倭伝の「極南界」の解釈を読めばすぐに分かる。原文は「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也」なのだが、学者先生の解釈では、 建武中元二年(西暦57年)倭の奴国が貢を奉り朝賀してきた。 使者は自らを大夫と称した。 (自分の國である)奴国は倭国の最南端にある。何でこう読むのかが分からない。「倭國之極南界也」と言う部分の主語は何なのか?述語は何なのか?学者先生の解釈では主語は「奴国」で、述語は「~に有る」と言う事らしいが、原文の中には全く書かれていないので、訳した人が想像しただけである。同じように想像して訳すことが許されるのならば、「使人自稱大夫」の続きなので、「使人稱倭國之極南界也」と理解するのが普通だと思う。つまり使者は「私は倭国の南界(南の果て)まで極めた(征服した)のなり」と読める。こう読むのが普通ではないだろうか?学者先生は奴国を福岡県内におさめたくて、倭国の南の端だと主張したのではないだろうか?奴国が大きくなって九州全体まで広がっていた可能性はないのだろうか?魏志倭人伝には奴国の規模は2万戸と書かれている。同じ魏志倭人伝では、対馬=1000戸、壱岐=3000家、末蘆国=4000戸、伊都国=1000戸、不彌國=1000家と書かれているので、その2倍である。上に書かれた国は大陸に近く、開けていたと思われるので、大陸から遠い南九州はもっと人口密度は低いはずだと思われる。すると九州の南の果てまで征服してやっと2万戸と言うのは妥当な数字だと思う。原文「倭國之極南界也」の中の「之」を「の」と読むのは訓読みであって、中国人は「の」とは読まない。漢文を訳す場合は日本風に理解して「の」と解釈する場合もあるが、普通は「これ」と読んで前の名詞「倭国」を強調する場合が多い。その場合続く「極」は動詞である。つまり「極南界」と言う名詞ではありえない。そもそも「大夫」が「奴国って倭国の南の果てに有るんだよね」と言っても、それは金印をもらえる理由にはならないのではないかと思う。金印は簡単にはもらえない貴重な権威の有る物である。それは後世の倭の五王の倭王武の上表文を見ると分かる。倭王武は金印ではありませんが単に「安東大将軍」等の称号をもらう為に、「東では蝦夷の55か国を平らげ,西では熊襲の66か国をおさえ, さらに海をわたって朝鮮半島の95か国をしたがえました。」と主張している。そのくらい言わないと中国の皇帝には認めてもらえない。ましてや金印をもらうのだから、「俺んちって九州のど田舎に有るんだよね」と主張して金印をもらえるなどと考えるのは、学者先生の感覚はずれていると思う。この後漢書の一文は、「大夫」が中国の皇帝に自分を「倭の王だと認めてもらう」為に主張しているのだから、後世の倭王武の上表文の例から考えて「倭国の南の果てまで極めた」と読むのだと思う。つまり自分は倭国で一番偉くて倭国の中は自分が南の果てまで全部征服した。だから倭国の王だと認めろ」と言っているのである。例えば高市総理が私って北海道の北のはずれに住んでいるんだけど、北海道って日本の北の果てなんだよね」と言って、トランプが高市総理を認めてくれると思うだろうか?馬鹿にされるだけだと思う。自民党が選挙で圧勝したからこそ認めてもらえたんだと思う。ただ、自分がこう思うと言うだけでは説得力が無いので、AIを使って漢文を現代訳させてみることにした。そうすれば一般的な解釈が得られると思うし。信頼性が担保されると思うから。なお、その時に後漢書の原文のままでは、あまりに誤っていると思われる訳した文が世の中に広まって通説になっており、AIと言うのは情報の海の中から根拠を探して来ると言う性質が有るので、正しい答えを得られないと思うので、一部を変えて訳してもらった。「使者」を「男」に、「大夫」を「探検家」に、「倭国」を「米国」に変えてみたのである。つまり「使人自稱大夫倭國之極南界也」を「男自稱探検家米國之極南界也」として現代の言葉に訳させてみたのである。結果が面白かった。最初の答は「男は自分のことをアメリカの最南端まで行った探検家だ”と名乗った」だった。ほれ見ろと思った。学者先生の現代語訳から既に離れている。でも僕はさらに追及した。「極」は極めると言う動詞ではありませんか?また元の文には「行った」と読める漢字がありません。と追及したのである。するとAIは「確かにそうですね。」と言い、見直した答を出して来た。「男は自分を「アメリカの南端を極めた探検家だ」と称した。」もううれしくなっちゃった。AIも僕と同じように訳すじゃんと思った。つまり歴史学者の先生は間違っているのだと思う。後漢書原文の「使人自稱大夫倭國之極南界也」は、「(奴国の)使者は自分を倭国の南端を極めた大夫(偉い人)だと称した。」と読むのが正しい漢文の読み方なのである。歴史学者や研究家達が、自分では漢文の原文を読まないで、(意図的に誤って読まれた)他の誰かの訳した文を元に考えるので、邪馬台国の位置はいまだに定まらないのだと思う
May 24, 2026
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連休明けの5月7日は横浜市金沢区わの会のイベントで横須賀市の田浦に行った。ここはかっては海軍、今は自衛隊の基地が有り、近代化遺産の宝庫である。近代化遺産とは江戸時代末期から第二次世界大戦が終わるまでに、欧米の先進的な技術や材料などを用いて造られた産業、交通、土木の構造物などを言う。ルートはこんな感じ。集合は京急田浦駅付近には適当な広場が無いので、近くの南郷公園でスタート。ここから16号線を横切って長浦港方面に向かう。最初に言ったのは旧海軍工廠造兵部跡地である。現在は東芝ライテックになっている。ここは見ても面白くもなんともないのだが、実はすぐ裏に行くと面白い所がある。ここにはかって機銃を作る工場が有り、その工場で作られた機銃を地下の試験場で試射していたらしい。こう言うのはガイドさんしか知らないので感謝である。ちなみにここで作られていたのは「海軍」なので、航空機用の機銃である。ガイドさんの説明によると口径7.7mmだそうなんだけれども、九七式七粍七固定機銃だな。調べてみると96式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機に使われていたらしい。えー!ゼロ戦の機銃じゃん!ちなみにゼロ戦52型戦闘機の操縦席の写真をネットからお借りして載せる。操縦席の中央に射爆照準器(ガラス板みたいなの=これで狙いを定める)が有り、その両側に九七式七粍七固定機銃の後尾が突き出している。つまらないなんて言ってごめんなさい。よく調べて見に来ていたら感動できたかも?せっかくなので呉の大和ミュージアムに展示されているゼロ戦を載せる。62型なので少し違うけれども、雰囲気は同じ。7.7mm機銃はプロペラの後ろから発射するが、プロペラの回転に同期しているので、弾はプロペラには当たらない。ゼロ戦は翼についた20mm機関砲で有名だが、弾が大きくて60発しか積めない。7.7mm機銃の方は700発積めたので、多分こちらの方が心強いと思う。だって60発だとあっという間に弾切れだから。ここの先に進むと長浦港に出る。偶然だけれども海洋観測船が停泊していた。これは「オタク」の僕じゃないと分からない部分でガイドさんは御存知ないと思うけれども、左側は今年3月に退役した「わかさ」である。右は「にちなん」。船首が面白い形をしている。わかさは「ふたみ形海洋観測船」の2番目の船で昭和の時代の船なので退役もやむをえない。海洋観測船はその名前からすると気象庁の船のように感じるが、その役目は海洋地形や潮流の観測と分析で、戦略的に重要なことなので自衛隊の船。特にソ連の原子力潜水艦を捕捉する為には不可欠なんだけれども、直接的にそれを主張できないので、名目上は商船や漁船などの安全な航行が目的である。見ると分かるように船首は変な形状をしている。ここは巨大な滑車が有り、海洋地形や潮流の観測用の音響ケーブルがその滑車を通して海に繰り出される。そのせいでこんな形をしている。上の写真ではその様子が分かりにくいので、ネットから拡大写真をお借りする。海の中では電波が使えないのでレーダーは使えず、音の反射を利用するソナーを使う。昔の潜水艦はディーゼルエンジンを使っていたので、その音を頼りにして、(今では蓄電池に充電して動くのでエンジン音は低いが、 それでもスクリュー音はするので、性能の良いソナーだと潜水艦の名前まで分かるらしい。)例えば10秒前にX=0,Y=0の位置にいた潜水艦が、今X=1、Y=1ならば、10秒後にはX=2,Y=2にいる可能性が高いので、その辺に爆雷を打ち込む。爆雷は沈むのに時間がかかるので若干の時間的余裕を見て、予想する水域に投下する。爆雷は直接命中しなくても、爆発する際の圧力で潜水艦をつぶすので、複数の爆雷を投下すれば効果が高い。音の検出はマイクだと範囲が狭く感度が低いので、音を圧力として検出する音響ケーブルは効果がある。なので音響ケーブルを広範囲に張り巡らせて潜水艦を探すのである。うーん見られて良かった。ちなみに「わかさ」はもう一つ有名なことがある。日本で最初の「女性艦長」が誕生した船だと言うことである。今回調べていて、そう言えば昔そう言うニュースが有ったなぁと思い出した。長浦港の奥にはかってガントリークレーンが有った。平成25年に本体は撤去されてしまったので基礎だけしか残っていないが、せっかくなのでネットから写真をお借りして載せる。このガントリークレーンは大正13年に旧横須賀海軍工廠砲台工場の物で、かっては戦艦の首砲などの組み立てをする工場の中への運び込みに使われていたそうである。本当は「日本遺産」だったんだけれども、平成25年に撤去されちゃったんだよなぁ。まぁ仕方ないか。でも「日本遺産」ってなんなの?長浦港の右手には旧鍛錬工場の事務所跡がある。レンガ造りって聞いたんだけれども、そうは見えない。レンガの上からモルタルを塗っているのかなぁ?先に進むと船越神社がある。でも時間の関係で中には入らなかった。左に曲がると景徳寺が有る。今日のメインで、三浦三十三観音のうちの二十一尊である十一面観音像が有る。この辺を船越と呼ぶのは、この御本尊が朱色の小舟に乗って入江に流れ着いたのをお祀りしたことが由来である。どこから来たのだろう?東京湾及び房総には漂着仏の伝承が多い。有名な所では、品川寺の観音様、浅草寺の観音様、穴守稲荷の漂着仏、川崎大師など本当に多い。何故なんだろうなと思う。いつか研究しよう。景徳寺の裏に旧田浦トンネルが有る。説明が無いと見逃してしまいそうなこのトンネルは、現在は廃道となっているが、地元の人達の手になる素掘りのトンネルで明治26年に開通したそうだ。写真の左には(写っていないが)現在は上下2本のトンネルが有り、こちらは大正12年と昭和23年に作られたものだそうだ。この辺は谷戸が多いのでトンネルは重要な交通施設なのである。さらに進むと自衛隊の第2術科学校が有る。旧水雷学校の跡地である。中には水雷学校の碑がある。草刈りくらいは自衛隊の訓練の一環としてやった方が良いのじゃないかと思う。少したるんでないか?自衛隊!たくさん歩いたのでJR田浦駅でトイレ休憩した。JR田浦駅はホームが短くて、11両編成の横須賀線では先頭車両がトンネルにかかってしまい、ドアが開かない。(写真は既に動き始めているのでドアが閉まっているが、先頭車両は止まっていても開かない。)また横須賀側の七釜トンネル手前には港への引込線が一部残っている。今は使われていない。後から行くのだけれども、かっては海軍の倉庫などの施設まで引込線が延びていた。その配置などが民間施設の案内板に書かれていたので参考に載せる。ここに書かれたF号倉庫や引込線の交差部や比与宇トンネルにこれから向かう。まずはF号倉庫。ツタに絡まれた古い倉庫。その右手に進んで行くと面白い場所が有る。引込線の交差部である。路面電車のT字路や十字路などではカーブを描きながら曲がる構造になっていることが多く、こんな風に完全に直角に交差している場所は滅多にない。路面電車の場合には系統乗り継ぎをする関係で、交差点付近の駅では2つの系統が並行するからである。ここを先に行くとかって地下工場が有った跡があるのだが、中には入れない。でも入口と言うか出口の跡が比与宇トンネルの中にある。今はブロックで塞がれているが、かっては地下工場と言うか火薬の倉庫が有ったらしい。ちょっと前までは見学できたらしいのだが、今回の行程には含まれていないので、ネットから写真をお借りして載せる。金沢区から横須賀市にかけては、かって海軍がいたせいであちこちにこのような壕が残っている。ここから最後の京急安針塚駅に行く途中で良いものを見つけた。潜水艦と潜水艦教育訓練分遣隊である。横須賀は海上自衛隊の第2潜水隊群の拠点であり、「たいげい型」や「そうりゅう型」潜水艦が10隻くらいいる。写真の潜水艦は艦橋が上にいくほど細くなっている。ソナーがあたっても跳ね返りにくく、探知されにくく、「そうりゅう型」の特徴。2026年最新艦の「ちょうげい」が配備されたらしいのだけれども、写真のは違うな。でもせっかくだから「ちょうげい」の写真をネットから写真をお借りして載せる。カッコいいなぁ。そんな感じで、最後は京急安針塚駅そばの長浦第2公園で解散した。
May 12, 2026
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3月5日はわの会のイベントで江ノ島に行くはずだったんだけれども、腰が痛いし、足が動かなかったのでお休みしたんだけれども、すごく残念だったので、2か月もたったのに一人で行くことにした。まぁ、回復記念ですね。わの会の記録書を見ながらルートを確認するとこんな感じ。弁天橋部分が長くて、1枚の地図にすると小さくなるので、縮尺の違う2枚の地図に分割した。けっこう歩いたんだなと思う。直線距離にするとそれほどでもないけれども、高低差がきつい。まぁでもエスカー(江ノ島のエスカレーター)があるから大丈夫かな?わの会では小田急片瀬江ノ島駅が集合地点になっていた。ちょっと趣味が悪い。何でイルカ?しゃちほこは元々は火除けのお守り、頭が龍、身体が魚の形をしている。それに江ノ島は龍宮とは何の関係もない。奥津宮の先には龍宮があるが、あれは「りゅうぐう」ではなく「わだつみのみや」である。また江ノ島の龍は天から舞い降りた天女(弁財天)に恋した五つの頭を持つ(元)悪龍で、弁財天と結婚する為に改心するお話が元になっており、龍宮とは無関係。さらに言えば、北条時政が出会った龍は龍宮とは関係ない。太平記を読むと、北条時政は、幕府草創の始めに江の島へ参籠して子孫繁栄を祈ったのだけれども、満願の夜、 赤い袴に裏が青い衣を着た天女(弁財天)が忽然と時政の前に現れて、「お前の前世は箱根法師である。 六十六部の法華経を書写して、 六十六箇国の霊地に奉納した功徳で、この世に生まれ変わった。 子孫は永く日本の主となって繁栄するであろう。 ただし、正しい行いをしなければ七代以上は続かない。 私の言うことに不審があるなら、国々の霊所を見てみよ」と言われた。天女(弁財天)は二十丈(約60m)の龍となって海中へと姿を消すが、その折、大きな鱗を3つ落としていった。時政は「所願成就した」と喜び、その3つの鱗を北条の旗の紋とした。そう書かれている。つまり龍宮とは何の関係もない。まぁでも観光地なので、おめでたいから良いか。そして僕はわの会とは違い、江ノ電江ノ島駅からスタートした。何故なら小田急線は金沢区は通っておらず、金沢区に住む僕は鎌倉駅が便利だから。わの会は集合するのにある程度広い広場が必要なので、片瀬江ノ島が便利なのだろう。江ノ電江ノ島駅には集合するスペースが全くない。雀さんがかわいいお洋服を着ている。どこかの優しいお姉さんが着せてくれたのかなぁ。江ノ電江ノ島駅から江ノ島入口までの通りは洲鼻通り。すばな通り石碑と湘南地名石碑が有る。「湘南」という地名は、かつての相模国(現在の神奈川県)の「相模の国の南部」を意味する「相南(そうなん)」に、中国の湖南省の美しい景勝地「湘江」になぞらえて「湘」の字があてられたことが主な由来。通りの途中には江ノ島弁財天道標がある。わの会で藤沢に行った際にもたくさん有ったけれども、これから行く江ノ島で管鍼術を起した杉山検校が寄進した道標である。その道標の多くが頂部が尖った角柱形で、正面の弁財天を表す「梵字」の下に「ゑのしま道」、左側面に「二世安楽」、右側面に「一切衆生」と彫られている。これは江の島弁財天への道をたどる全ての人の現世・来世での安穏・極楽への思いを込めている。134号線は車が多く、観光客が危険な横断することが多かったので地下道が造られている。また地下道には江ノ島に関わる浮世絵が描かれており、観光客の気分を盛り上げる。うーん、昔は潮が引くと歩いて渡れたのか。江ノ島へ渡る橋は弁天橋と呼ばれており、たもとに石の龍灯籠が建てられている。僕が初めて来た45年前の昔はこんなの無かったなぁ。江ノ島の縁起が書いてある。弁天橋を渡るとさすがに観光地。両側にはお店が並び、入口に青銅の鳥居が有る。これは昔からあるなぁ。扁額には「江島大明神」と書かれており、筆跡は弁財天の使いの蛇をかたどっている。鳥居をくぐると左に郵便局が有る。その前に面白いポストが有る。僕らにとっては、赤い郵便ポストの方が思い出が有って良いのだけれども、これはこれで一つの歴史。この郵便差出箱は明治20年頃の物。昔の文豪たちも、ここから家族に「江ノ島に来たよ」なんて手紙を送ったのかも?右手を見ると岩本楼が有る。中に入れないのが残念だが、岩本楼はこの後行く奥津宮の別当寺の岩本院の跡。鎌倉時代より時の将軍・勅使・大名などの宿坊として栄え、ローマ風呂や弁天洞窟風呂が有るらしい。そしていよいよ江ノ島の三女神の宮に入る。大きな門、瑞心門が有る。うわぁ、片瀬江ノ島駅は龍宮じゃなくて、この門をまねしたのか。立派!江ノ島の案内板が有った。うーん観光地だから仕方ないけれど、江ノ島って弁天様がメインなの?三女神がメインなの?みんながそう疑問に思うようで、案内板も大人の対応をしている。三女神は本来は九州の宗像の女神さまなのだけれども、「宗像の」を巧妙に隠している。だって弁財天は仏教の神様だから、日本古来の宗像三女神とは合わないもの。宗像三女神は天照大御神と素戔嗚尊の「誓約」の際に誕生した素戔嗚尊の娘である。仏教の伝来よりもはるかに昔から日本におられる神様。まぁ仕方ないよね。観光地だから。鳥居下からわき道に入ると杉山検校の福石が有る。杉山検校は本名を杉山和一と言い、ここでつまづいて転んだ時に、偶然触れた松葉からヒントを得て、管鍼術を考案したらしい。そして最初は辺津宮。すぐ隣に奉安殿が有る。奉安殿には勝運祈願の神の八臂弁才天(はっぴべんざいてん)と、音楽芸能の神の妙音弁財天が祀られている。八臂弁才天(はっぴべんざいてん)は8本の腕を持つ弁才天の姿で、インドの仏教経典「金光明最勝王経」に説かれる戦闘神・武神なので仏教の神様なので、そもそも日本古来の宗像三女神のそばに有るのは変なのですが、まぁ観光地なので仕方ありません。後ろを振り返ると銭洗いの池が有る。池の中はお金でいっぱい!。弁天様と龍神は夫婦で、江ノ島の伝説の元になった神様。そして江ノ島では財宝福徳の神としてあがめられています。そしてその先には宗像三女神のお父さんの素戔嗚尊が祀られる八坂神社が有ります。お父さんの神社もちゃんと有るじゃん!(説明板には忖度して、お父さんじゃなくて「縁の深い神様」と書いている。大人の事情)この八坂神社の御本尊の須佐之男命の木造は腰越の小動(こゆるぎ)神社に祀られていた物が、大波で海に流された物を江ノ島の漁師が拾い上げて江ノ島で祀るようになったらしい。過去に「宗教戦争が有った」のだなと思う。蘇我氏と物部氏の争いの時にも、仏像は物部氏によって捨てられたからなぁ。仏教と神道の争いはその後も続き、鎌倉時代や江戸時代にもたびたび争っているが、特に明治初期には「廃仏毀釈」と言う悲劇が起きて仏像は散々な目にあった。逆のことが奈良時代から江戸時代にかけて起こっている。神宮寺や別当寺がそうである。神社が寺に飲み込まれた。上の方に江ノ島入口付近の岩本楼が奥津宮の別当寺である岩本院の跡だったと書いたが、神仏混合とか神仏習合と呼ばれて、日本の国家宗教となった仏教が古来の神道を飲み込んだ。その際に神社の祭祀を行う為のお寺が神社内に置かれて神宮寺と呼ばれ、その中でも強い権限を持ったのが別当寺である。「廃仏毀釈」はその長い恨みが明治維新の際に爆発したもので、仏像や寺が焼かれた。川崎大師や品川寺のように東京湾沿岸に漂着仏と言うのが多いのは、恨みをかった寺の仏像が海に投げ捨てられて漂流した物だと思う。ここ八坂神社の須佐之男命の仏像は逆に神社の木造の神が仏教徒に捨てられたのかもしれない。すこし奥に行くと歴史の先生は、歴史には詳しくても経済には疎いので信じてくれないが、鎌倉時代が成立する際には頼朝達は宋との貿易を必死に考えていたような気がする。それ以前には平清盛が宋との貿易で利益を上げており、平家の財力の源になっていた。源氏もそれを見て、同じように宋との貿易を試みた。源実朝はNHK大河ドラマの鎌倉殿の13人を見ていると、中国の技術者を呼んで、中国と貿易可能な大きな船を作ろうとして、北条家の妨害に有って(三浦が妨害したと言う説もある)、船作りは失敗している。本当は鎌倉は砂浜なので、大きな船が停泊できる港が作れなかったのだと思う。比較的大きな船は、金澤の六浦や大船(柏尾川を利用)の港に停まっている。金沢文庫の金龍禅院の遺跡からは宋銭が出土しており、僕は金沢八景の弁天島のあの形状は、船が停泊して水揚げできる桟橋だったのだと思っている。江ノ島は低いとは言え、山なので頂上まで上るのはとても大変である。でも観光地なのでなんとエスカレーターが有る。500円とちょっと高い利用料がかかるが、年寄りは文句は言えない。絶対に必要だから。さすがに500円も取るので、多少は気を使っており、内部は凝っている。両側はプロジェクター。時間ごとにクラゲになったりイルカになったり面白い。次は中津宮につく。何故か「羽衣マーク」が有ったりする。さすがに観光地だなぁと思う。中津宮からエスカーに続く道には浮世絵がたくさん並ぶ。全部は載せられないので、一部だけ載せる。岩屋は江ノ島の西側に有るので、本当は富士山は背後になるような気がするが、なんせデフォルメがな浮世絵なので、工夫してねじまげて富士山を構図に入れている。歌川広重って商売上手!エスカーを降りると頂上の広場に出る。もうお客さんでいっぱい!奥の方に有名な江ノ島のタワー=江の島シーキャンドルが有る。避雷針まで含めた高さは59.8m(標高119.6m)もある。シーキャンドルとはうまい命名で、確かに下が細く上が太くなっており、上の方はガラス張りの展望フロアになっている。でも高いので登らない。ここから奥津宮に向かう。途中に一遍上人の島井戸や山ふたつ、群猿奉賽像庚申塔が有る。島なのに、さすがに霊験あらたかな一遍上人である。島人の為に井戸を掘りあてたんだ。山ふたつは江ノ島の「くびれ部」写真では分かり辛いが、ほとんど絶壁。その谷底に木食上人の行場窟と呼ばれる洞窟が有り、上人が修行した場所で石造阿弥陀如来像がある。群猿奉賽像庚申塔いつも思うのだけれども何故庚申塔に「お猿さんの山王神」なのか分からない。山王神は元は日本古来の神で大山祇の神のはずであり、仏教それも庚申伝説とは関係ないはずだし?何で?そうこうしているうちに奥津宮につく。入口の鳥居は源頼朝の寄進したものらしい。奥津宮。本当は中に入れたら八方睨みの亀の天井画が見られるはずなんだけれども、個人では無理。そばには亀石も有る。亀石は奈良の石舞台古墳の近くにも有るけれど、完全に日本の神様の石。まぁでもこの亀石は奈良の物とは由来が違うらしい。僕は三女神が傍に有るので、本当は江戸時代よりも以前からここに有って、三女神と縁が深いのじゃないかと思っている。奥津宮の奥には龍宮が有る。「りゅうぐう」ではない。「わだつみのみや」である。江ノ島の由来となった伝説を載せる。下の方が江ノ島の由来となった伝説で、上の方は北条時政の伝説である。北条氏の紋、ミツウロコはこの北条時政の伝説に基づいている。わの会はここまでで終わったらしいのだけれども、僕はせっかく来たのでさらに先に進む。龍宮の鳥居の反対側の坂を上ると江の島龍野ヶ丘自然公園が有る。公園にはカップルがたくさん訪れる。上の写真の龍恋の鐘があるからである。周囲にはカップルが結び付けた「鍵」がたくさん有る。カギを結び付けたカップルは分れないらしい。龍宮の先に進むと「も組鳥居」が有る。弁天様は水の神なので、火除けに御利益が有ったらしい。この先には「江ノ島岩屋」が有り、僕も九州から関東に来て48年になるけれども初めて行く。岩屋の入口は海に面していて、昔は岩を伝って海辺をたどらないと行けなかったので、潮の引いた時間限定で、しかも足場が悪くて行けなかったのである。でも今は橋が作られていて行ける。でも岩屋への登り降りはとても急な階段で、わの会が行かなかったのは正解だと思う。僕も帰りは頭がくらくらした。僕が初めて東京に来た時は、浮世絵のような状況だったのだと思う。料金を払って中に入る。入口付近には色々な説明が書いてあり、その中の「どのようにして江ノ島ができたか」を載せる。上の方が岩屋の生成過程で、下の方が江ノ島のできた状況の説明。えー!江ノ島ってできてたった7~8万年なの?若いじゃん!岩屋の案内図を載せる。昔は左の「岩屋橋」が無かったので、海岸沿いの岩棚を入口まで歩いた。すると中央から右の下の入口には潮が満ちると足元まで海水が来ると言う感じだった。なので潮の引いている時間帯しか入れず、岩棚は滑るので非常に危険だった。しかも奥津宮からは、ものすごく急な道(階段)を下るので大変だった。帰りは階段はものすごく急だったし。岩屋は第一岩屋と第二岩屋が有る。まずは第一岩屋。中に入ると洞窟なので当然真っ暗なのだが、今は入口から半分くらいは照明完備。しかも奥の方も照明は無いが、途中でロウソクを貸してくれる。結構明るくてある程度フラッシュ無しでも写真が撮れる。フラッシュは禁止。洞窟は元々お祈りをする場所なので、両側には仏様が有る。江ノ島は弁天様を祀る島なので、当然下の写真のように宇賀福神も並んでいる。宇賀福神は宇賀神ともよばれて、本来は身体は蛇で頭が人間の神様。古事記や日本書紀に出てくる食物の神様の「宇迦之御魂神」と同一神なのだから、仏教の神様ではなく、日本古来の神様なのだが観光地なので仕方ない。でもここの宇賀福神ってもろに蛇で、人間の要素が全くない。穴は途中で2手に分かれて左側は富士の氷穴につながると言う伝説の穴が有る。もちろん、相当に距離が有るので本当につながっているとは信じがたいが、ただ江ノ島のできた原理、つまり元は海の底で葉山層ができ、そこが隆起して島になったと言うのを考えると、隆起した原因である地殻の変動が富士山の活動に関係しているのならば、めくれた葉山層のすき間が、この穴の成立原因である可能性が有り、その場合、めくれたすき間は富士山につながっていてもおかしくはない。例えば横須賀の走水の湧き水が富士山の伏流水であると言う話と同じだからである。つまり葉山層の範囲がどこまであって地殻変動が富士山の活動にリンクしているかが大事である。地学的には可能性は有る話だと思う。ちなみに手前の日蓮上人の寝姿と言うのは観光地だから。いったん分かれ道まで戻って右側の奥に進むと、ここは江ノ島神社の発祥の地だそうだ。うーん。社殿の様式が比較的新しい。少なくとも鎌倉時代以降の形式だな。そして狛犬が金沢区の手子神社と同じで、子供の狛犬を抱えている。普通の神社の狛犬は天邪鬼を踏んづけているのが普通なので、関東の特色だな。(手子神社の狛犬はここの真似だな。手子神社には宇賀神も有るし。)第一岩屋はここまでで、一度入口付近まで戻って第二岩屋に向かう。洞窟なので特に変わったものは無いのだが、第二岩屋の最奥部には遊び心が有る。真っ暗なのだけれども、少しだけ照明が有って、実は暗いのには訳が有る。奥で手を叩くと龍が出現する。子供さん達は大喜びするんじゃないかな。観光地だなぁ。帰りは大変だったけれども、なんとか階段を登って江ノ島頂上部までたどり着き、冷たいコーラを飲みながら弁天橋まで降りて行った。一人だけなのは寂しかったけれども、わの会のみんなと同じルートを行けて良かったな。
May 8, 2026
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邪馬台国畿内説のキモになるのは、魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定である。従って、これがちゃんと説明できなければ、近畿に有る纏向遺跡は「魏志倭人伝には載っていない邪馬台国」と言うことになる。魏志倭人伝によれば、冒頭には「倭国にはもと百余国が有った」と書かれており、そのうち三十余国は中国(魏)と交流が有ったと言うことになっているが、残りの七十余国は中国(魏)とは交流が無いので、たとえ邪馬台国よりも大きな国であったとしても、その様子は分からず、もし魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定が否定されれば、纏向遺跡はその「様子が分からない国」の一つであった可能性が高い。例えば国譲り前、神武東征以前の出雲かもしれないのである。古代から中国では「風水」と言う概念が有る。これは約5000年前から始まったとされているが、後漢の時代には方位に関する研究は既に一定の域に達していたらしい。それは文献にもたくさん書かれており、例を挙げると(ちょっと怪しいかもしれないが)後漢よりも少し前のことになるが、紀元前4世紀頃に書かれたとされる「鬼谷子」を見ると、「鄭の人は玉を取りに行く時には道に迷わないように指南器を持って行く」と書かれている。またその頃には「指南杓(司南之杓(しなんのしゃく)とも書く)」が作られており、この盤面には方位を示す八つの文字が記されていた。指南杓はその名前の示すように四角い板の上にスプーン状の磁石を置いた物で、これは前漢の滅びた後の新王朝の王莽がAD23年に殺される時に、天文官がこれを用いたとされている。つまり倭人は方位を知る術は持っていなかったかもしれないが、少なくとも風水の知識を持つ中国の人達は何らかの道具を持っていたのだと思われる。指南杓はこんな形をしていたらしい。絵の中に書き忘れたので追記すると、「スプーンは大熊座を象徴する」と言うのは、古来大熊座=北斗七星は「ひしゃく星」と呼ばれたからである。念の為追記。要はこれが既に1世紀には有ったのだから、航海や測量に用いられていたかは根拠資料が無いので確かとは言えないが、少なくとも占いの分野では使われていたのだから、賢い人間、特に兵法を勉強していた人間は使っていたと思われる。その他にも例えば指南魚は既に3世紀には実用化されており、航海に用いられたと言う記録は残念ながら残ってはいないが、占い等には活用されていたらしいので、風水を信じていた古代中国人が「南と東」を間違えることはあり得ないと思う。風水を論じるには、方位を知る道具がなければ、そもそも風水は語れないからである。指南魚はこんな形をしていたらしい。上の方の指南車は少し資料に乏しく、実在がハッキリとしないが、指南魚の方は様々な書物に記されており、こちらは3世紀つまり魏志倭人伝の時代には確実に存在したようである。そこで、邪馬台国畿内説の方に、「古代中国では風水が重要だったのではないですか? 風水を考える際にはどのようにして方位を知ったのですか? それを考えれば南と東を間違えるのはとんでもない話ではありませんか?」と聞いてみたい。一般的に文献史学者は、自分達の得意な文献を暗記することにはたけているが、他の分野については全く知識が無い人が多い。ひどい話であるが、歴史を語る上では、両輪の輪ともいえる考古学についてさえ知らない。例えば纏向が邪馬台国の都だと考古学的に証明はされていません。纏向遺跡の有る桜井市の教育委員会でさえも、「可能性が有る」程度にしか言っていない。これは高校の教科書で習う写像や集合と言う部門ではっきりと誤りだと証明されている。論理的にはA→Bが正しくてもB→Aは正しいとは限らないからである。高校の教科書には「逆は必ずしも真とは限らない」と書かれている。魏志倭人伝には邪馬台国や卑弥呼が居た時代は確かに3世紀半ばだと書かれている。しかし、その逆命題である3世紀半ばの都市遺構だから邪馬台国の都だとは言えない。極端な例で申し訳ないが例を示すと、「お姉さんは女である」は正しくても、その逆命題である「女だからお姉さんである」と言うのは成立しない。この程度の初歩的な理論が何故文献史学者には分からないのかなと思うと残念である。魏志倭人伝には邪馬台国が有った時代の倭国には約100余りの国が有ったと書かれている。そして纏向はその百余国のうちのどの国の都でも構わないのだから、纏向が邪馬台国の都である確率は1/100つまり1%の可能性しかない。1%ではとてもではないが、証拠とは言えないと思います。よく学者先生が主張する、大きな古墳が有るとか鏡や土器が出土する等に至っては、まずその古墳や土器や鏡が邪馬台国の物であると言うことを証明しないと証拠にはならない。それらは狗奴国の古墳や土器及び鏡かもしれないからで、狗奴国の古墳や土器や鏡がいくらたくさん有っても、邪馬台国である証明とはならないからである。つまり邪馬台国近畿説の学者先生が「陳寿が東を南だと勘違いした」と主張するのは、陳寿が間違えているのではなく、単に彼らが勉強不足なのだと思う。と言うか、文献史学的にもおかしいことはたくさんある。例えば、魏志倭人伝以降に書かれた史書を読むと分かる。もし魏志倭人伝が間違っていたならば、後世の史書を書く際に修正したはずではないか?と言う疑問である。良い例が後漢書である。後漢書は「魏よりも前に存在した後漢について書いた本なのに、 後漢魏志倭人伝を含む三国志よりも後に成立している。」そのせいで、魏志倭人伝を参考にしていると思われる部分が多い。でも明確に魏志倭人伝をふまえて、それを検証し、間違えていると考えた場合にはそれを修正し、また加筆している。例えば以下の部分である。 建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見これは有名な記事で、建武中元二年(AD57年)に奴国の使者が光武帝の元を訪れて、九州の福岡で発見された「漢委奴国王」の金印を授けられた際のことを書いたものである。ここで安帝永初元年(AD107年)に倭國王の帥升が生口(奴隷)百六十人を献上したと分かる。この記事は魏志倭人伝には載っていない。つまり編纂者である南朝宋の范曄は、魏志倭人伝では不足していると考えて、より深く倭国のことを掘り下げて加筆しているのである。もう少し直接的に修正していることが分かる部分も有る。 自女王國東度海千餘里至拘奴國と言う部分である。魏志倭人伝の中には女王国の南に狗奴国が有ると読める部分が有る。(この部分に関しては僕はちょっと違う解釈をしているが、 女王国の南に狗奴国が有ると言うのが通説である。)後漢書ではこれを修正している。狗奴国は東に有り、しかも海を越えて千里の場所にあると書いている。これを見て、「東を南だと勘違いした」と学者先生は勘違いしたのかもしれない。でも、狗奴国は修正しているけれども、女王国に関しては全く修正していない。つまり女王国はやはり南に有るのである。道は横にそれるけれども、狗奴国が女王国の「海を越えた東側の千里行った場所」と言うのは、もし女王国が九州に有ったのならば、海を越えた東側の千里行った所とは出雲では?つまり神武東征以前に、邪馬台国と出雲(狗奴国)は戦って出雲が勝ち、出雲は越とも手を結んで国を広げて、近畿の纏向遺跡付近を手に入れて都を築いた。その後、一度は負けたけれども、勢力を回復した邪馬台国が、崇神天皇(多くの学者先生にも神武天皇と同一人物と言われている)の時代に東征して攻め上り、近畿の纏向遺跡付近を征服した時に、和解して合同で大和王権をつくったのでは?それが「国譲り」なのでは?日本書紀には崇神天皇は出雲の事代主命の娘をお嫁さんにもらい、事代主命を可愛がったと書いているし、また大国主命は殺されたのではなく、生まれ故郷の島根の出雲に大きな館を作ってもらい、そこで引退後の余生を過ごしたと考えれば、出雲大社が島根に有る意味が分かるから。(大国主命は自分が引退して崇神天皇に位を譲るのを条件に息子の事代主命や家臣を守った。)古事記や日本書紀には「出雲を滅ぼした」とは書いておらず、国を譲ってもらったと書いてあるから。話は戻って、もっと重要なのは次の部分である。 倭在韓東南大海中 依山為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王世出傳統 其大倭王居邪馬臺國 (案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里( )の中は唐の高宗のとき、章懐太子李賢が学者を集めて施した注釈である。これについては色々な解釈が有るが、以下の解釈が通説である。概ね、訛は言葉が誤って変化したことを表す文字なので、より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、(「惟」は中古音では「ユイ」で魏志倭人伝に書かれた「邪馬壹」と「邪摩惟」は似ている。)それが変化して今名(唐代)のヤバダイ(邪馬臺)になったのだと注釈を書いているのだと。でもこれは異論が多く定まっていない。それは「臺」は元の時代以降は近古音であり「タイ」なので「惟」と同じ音であるが、唐の時代には上古音であるから「ダイ」であって両者の間には関連が無いからである。なので、僕は全く別の解釈をして、魏志倭人伝に書かれた「邪馬壹國」は陳寿が倭人に聞いて書いたもので、当時の倭人は自身の文字は持たず漢字を使っており、これを倭人の固有の言葉を書き表す際に、現代の訓読みと同様に意味は漢字で表して、その音は倭人の音とした、いわば漢音や呉音と同じような「倭音」を開発しており、「邪馬壹國」は「ヤマトゥ國」と読んでいたと考えた。邪馬台国はどこにあったのか?(その85)「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのか?その2その証拠に現代でも「豆」の入った漢字は、「電燈の燈(とう)」や「登攀の登(とう)」や「頭(とう)」などのように「とぅ」と読む。また後漢書を編纂した范曄も同様に倭人に聞いて書いたのであるが、目の前の倭人の発音が、どう聞いても「やまとぅ」あるいは「やまたい」なので、魏志倭人伝を修正して「邪馬臺國」と書いたのである。(陳寿は倭人の発音が「やまとぅ」なのは分かっていたが、 その倭人が「邪馬壹國」と書いたので、それを尊重してあえて「邪馬壹國」と書いた。 つまり陳寿は「倭音」と言う自分達とは違う漢字の読みを尊重したのである。)もし現代の文献史学の先生が言うように「書写の際に間違えた」のであれば、李賢が注釈を加える際に修正するはずではないだろうか?でも修正はせずに、「訛った」と書いているのであるから、「書写の際に間違えた」のではなく、元々「邪馬壹國」だったのである。そう考えると魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定はあり得ないのだと思う。<後日追記>ここまで考えると、どうしても「ヤマト王権」とは何かと言うことを考えてしまう。現在の所は何も証拠が無いので、答えは出せず、想像するしかないけれども、邪馬台国(やまと國)=ヤマト王権では無いような気がする。多くの学者はそう考えているせいで、纏向遺跡を邪馬台国の都と考えてしまうが、調べてみると、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国や女王国は纏向遺跡にまったく結び付かない。むしろ残っている伝説や地名から考えると出雲の方が纏向遺跡に結び付きやすい。ただ、出雲大社のせいで島根の方を出雲と、どうしても考えてしまうので、纏向遺跡を出雲と考える人はいないが、古事記にはちゃんと島根の出雲から纏向へ至る経緯を書いている。古事記によれば大国主命は兄神達に2回も殺されそうになり、母親から「木の國(紀ノ國)へ逃げなさい」と言われて逃げ出す。しかし兄神達はそこまでも追いかけて来て殺そうとしたので、さらに奥(恐らくは吉野)の須佐之男命の国まで逃げる。そこで大国主命は須佐之男命の試練に耐えてこれをクリアーして、須佐之男命の娘のスセリヒメをお嫁さんにもらい、新しい国を作る。古事記にはそこまでしか書いていないが、吉野の奥と言えば纏向だと思う。纏向遺跡は昔は「太田遺跡」と呼ばれていたが、これは出雲の太田田根子が居たからである。このことは日本書紀に書かれている。崇神天皇の時代である。また、三輪山は出雲の事代主命を祀る山であり、付近には「出雲村」が地名として残っている。その前に有る箸墓は事代主命の奥様であるやまとももそ姫のお墓である。国譲りに際して、大国主命は(生まれ故郷の)島根の出雲に大きな社を作ってもらい、そこに隠居して、息子の事代主命は崇神天皇の王権に参加して、家臣たちもそれに従ったのだと思われる。日本書紀には「崇神天皇は事代主命の娘を嫁にもらった」とか、「崇神天皇は事代主命を可愛がった」と書いているからである。なので、大和王権は邪馬台国が大和王権になったのではなく、邪馬台国と狗奴国(出雲)が一度は戦争して狗奴国が勝ち、狗奴国は丹波や越とも連携して西日本統一を果たして纏向に都を作ったのだと思う。しかし、一度は負けた邪馬台国も復活して、崇神天皇の時代に東征して大国主命に国譲りを迫り、両者は大国主命の引退を条件に結び付き、邪馬台国と狗奴国(出雲)が合同して「ヤマト王権」になったのではなかろうか?これが「東征」と「国譲り」真実だと思う。そう考えると、高円宮家の次女・典子さまが、出雲大社の宮司・千家尊祐氏の長男である千家国麿さんの元に嫁いだのは、とても意味が深いと思うし、めでたい事だなぁと思うのである。<さらに後日追記>後漢書が狗奴国の位置を修正しているのは、時間の経過によるのかもしれない。それは日本の古事記や日本書紀の神話から想像できる。僕は卑弥呼=天照大御神、狗奴国王(卑弥弓呼)=須佐之男命と考えているのだが、卑弥呼の死後、男王が立つと書いているのは、説明もなく男王と書いているので狗奴国王であり、それを受けて、「国中が服さず」「お互いに殺しあって千余人が死んだ」と書いているので、須佐之男命は認められなかったのだろうと思う。古事記等では財産を没収されて、ひげや手足の爪を剥がれて、高天原から追放されている。(朝鮮半島に逃げたらしい)なので、狗奴国は須佐之男命が居た頃は熊本から大分付近に有ったが、須佐之男命が追放された時に、出雲にその拠点を移したのだと思う。つまり卑弥呼は最初は福岡県あたりに居たのだと思う。ところが倭国大乱により、身の危険を感じて鹿児島の隼人の先祖達を頼って南九州に逃げた。魏志倭人伝が書かれたのはこの頃だと思う。なので、卑弥呼は邪馬台国に住んでいると書いた後に、以降は女王国と言う言葉を使い始めて、以降全て女王国と書いているのだと思う。卑弥呼が南九州に疎開しているので、「帯方郡より1万2千里」で「水行10日陸行1月」の位置にいるのである。しかしその後、須佐之男命は追放されて、壱与の時代には元通り福岡県付近に戻ったのだろう。但し、卑弥呼は独身だったので壱与は卑弥呼の娘ではない。宗女(親戚の娘)である。彼女は名前から想像するに「豊の國」を根拠地としていたのに違いない。(僕は「邪馬壹國」は倭人が自分の国の説明時に書いた字で、 「壹」は中国では数字の「壱」のことであり「タイ」とは読まないので、 呉音や漢音があるように、倭人としての読み方「倭音」が存在し、 後世の訓読みと同様に「とぅ」と読んだのだと考えている。 つまり「邪馬壹國」は「やまと國」である。 豆を部首に含む漢字は日本では頭や登や燈のように「とぅ」と読む場合が多いが、 この時代には既にその読み方が倭人の間に有ったのだと思っている。 従って壱与(魏志倭人伝では「壹與」と書かれている)は「豊」であり、 彼女の名前が後の天皇や皇族の名前に「豊」がつく人が多いことにつながっていると考えた。)なので、後漢書では狗奴国は島根県の出雲の位置に修正されているのだとおもう。
May 5, 2026
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