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東京国立博物館で「出雲と大和」展をやっていると言うので行ってきた。三国志展以来の東京国立博物館である。出雲と大和と言うので、もしかしたら新しい発見が有って出雲と大和の関係に結論が出たのかと、大和の纏向遺跡は出雲の子孫が作ったと言うのが持論の僕は期待して行ったが、何のことはない、新しい事実は無くて、今年が日本書紀編纂1300年だと言うので、国譲りの際に定められた幽の主「大国主命(出雲)」と顕である大和(奈良)の展示品を並べた単なる展覧会だった。つまらない期待したのに。でも、やはり現物を見るのは良いもので、そうだったのか的な発見はある。なので、行って良かった。まずは入り口入るとすぐに出雲大社で発見された「宇豆柱(うずばしら)と心御柱」がある。直径1.3mの杉の柱を3本束ねて直径約3mの大きな柱とした物で、鎌倉時代に作られた物。出雲大社の高さ48mの神殿を支える柱である。天禄元年(970)に源為憲(みなもとのためのり)が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に、当時の日本の三大建築物が、「雲太(うんた):出雲大社、和二(わに):東大寺、京三(きょうさん):宮殿」として記されているが、東大寺(大仏殿)や宮殿より大きな日本一の出雲大社がこれらの柱で支えられていたのだ。いや出雲大社に伝わる上古の建物は倍の96mもあったそうなので、本当なら新宿のビル街においても近代建築群に負けていない。かって巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)は、昔の頭の悪い考古学者からは偽物扱いされていたのだが、これが発見されて、実は本当に大きな建物だったことが証明されて出雲の重要性が再認識された経緯がある。だって天皇のおられる宮殿よりもずっと大きいのだから。それにしても昔の学者って自己中で頭が悪かったんだなぁ。彼らの誤った教えが教科書に載って、それを先生が試験に出したもんだから、罪もない中学生が夏休みに補習で汗まみれになったり、希望する高校に行けなくて、恨みに思っている昔の中学生は多いと思うよ。(僕は違いますよ。寛大だから。本当かな?)銅鐸文化圏とか試験に出て、間違えると先生に怒られたんだけど、今になってみれば教科書が誤りだった。つまりその元になった昔の学者先生は相当に悪いよね。当時の高校入試は5教科で日本史も点数に入っていたんだよな。入試にも。恨めしい。<後日追記>上の写真の中に雲が見えるんだけど、「八雲たつ」はずなのに7つしかないと話題になった。そんなことは無いと思う。右を向いた雲が5つ、左を向いた雲が1つ、そして心御柱の下に大きな雲がある。この大きな雲が右向きの雲と左向きの雲の2つの雲が重なったものなので全部で「八雲」です。僕の解釈では、右を向いた5つの雲は「御客座五神」で、左を向いた雲は「建御名方神」で、心御柱下の大きな雲は左を向いた大国主命を抑え込む右向きの事代主命が重なった雲だと思う。つまり国譲りの模様を暗示しているんですね。建御名方神は既になく、大国主命は拝殿の正面を見ないで左を向いているので、それが分かる。ちょっと出雲大社で見た宇豆柱の写真を載せよう。でかい。お姉さんが向こうを向いているのが残念。中に入ると出雲大社の模型なんかもどかんと有る。13mもあるんだって。さらに進んでくと、奈良の黒塚古墳で出土した鏡類なんかがある。画文帯神獣鏡1面と三角縁神獣鏡33面が出土したと書いてある。さらに次の文章が僕を驚かせて、喜ばせた。「三角縁神獣鏡は原則的に鏡面を内側に向け、端を接しながらびっしりと並ぶ。 木棺内でも、画文帯神獣鏡1面を北枕で安置された被葬者の頭の上に、刀剣を両側に、 やはりコの字形になるように配列していた。」やっぱり思った通りじゃん。鏡面を内側に向け1面の方なら「卑弥呼の鏡」の可能性が有り、被葬者が大事にしていたので一緒に木棺内の頭の付近に置いた可能性が有るけど、三角縁神獣鏡はたくさんあるし、鏡面を内側に向けてびっしりと並べていたんじゃん。三角縁神獣鏡の扱いは汎用品じゃん。何で、そんな物を卑弥呼の鏡と言うんだろう?景初3年の文字?単なる製造年じゃん。つまりその年に亡くなったと言うだけで、既に製造技術が有ったなら魏の鏡じゃないよ。それに大事なのは画文帯神獣鏡の扱いの方が上だと言うこと。もう確実に卑弥呼の鏡じゃ無いよ。まぁ、オリジナルの三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡で、これらはコピーだと言う可能性はあるけど、僕が当時の偉い人なら、汎用品に大事な鏡のコピーは使わせないな。中国がレクサスのコピーを売り出したらトヨタは猛烈に抗議すると思うよ。まぁ、あんまり言うと学者先生に怒られるので話題を変えると、古墳の中に祀られた鏡の用途が分かったのが良かった。ランクが高い1枚は頭の所に置いて、低い方は鏡面を内側に向けてびっしりと並べていたとは、僕の思った通りの使い方ですね。偉い先生の言うような、被葬者を外敵から守る意味ではないな。呪術における鏡の重要な面は、神獣の彫り込まれた裏面では無くて、物を映し出す表面だと言うのが常識。何故なら金属鏡以前の水鏡の時代から洋の東西を問わずそうだから。ロードオブザリングでもロスロリアンの森でガラドリエルは水鏡で占いをしているし、シンデレラでも女王は鏡をのぞき込んで「この世で一番美しいのは誰?」と聞いている。つまり裏や周りの飾りは占いそのものには関係なく、魔力は有していないのであり、映し出す鏡面にこそ魔力が宿るのである。そう考えると、ランクが高い1枚は頭の所に置いて、低い方は鏡面を内側に向けて置くのは、被葬者の祟りを抑え込むのが目的だったのだと思う。(祟りと呪いは違います。)ランクの高い1面は被葬者の魂を映し込んで閉じ込めて、周囲のランクの低い鏡は鏡面を内側に向けて、ランクの高い1面でさえも抑えきれない魔力を跳ね返す役割を持っていたんだと思う。古代の鏡ってそれほど力が有ったんですね。今の神社にも鏡は必ず祀ってあるけれど。展示物を見ながらさらに進むと、加茂岩倉遺跡の銅鐸群の出土状況の模型が在る。手前の説明文が読めるように、大きな写真ファイルになってます。150%位に拡大すると見えます。終わったら元に戻すこと。館内は撮影禁止だけど、ここは撮影OKでした。ここで今まで実物を良く見ないでものを考えていた自分をバカな奴だと恥じた。今まで僕は本でばかり銅鐸を想像していたので、本に書いてあるように神秘的で使い方や由来は秘密だと思っていた。現物を見ると違うじゃん!見たら明らかじゃん。楽器じゃん!昔の学者先生の説明では地面に置いてたとか、鳴らすものではなく飾りだとされていたが、現物を見ると吊るす形状だし、上部には音を鳴らす金属棒などを内側に吊るす穴まである。いやとても大きな物が有るのでつるしていたとは思えないと言う人もいるけど、教会やお寺の鐘はもっと大きいよ。すぐに中国の昔の楽器を思い出した。編鍾(へんしょう)である。この写真見ると、銅鐸の使い方が分かるでしょう。編鍾は紀元前11世紀から3世紀まで中国で使われた楽器で、鐘の大きさで音階が違う。大きさの違う銅鐸が同じ場所で見つかるのはこの写真みたいにして使っていたからでは?叩く場合と、揺れて鳴る場合では違うかもしれないけど、似ていると思う。加茂岩倉遺跡の銅鐸は大きな銅鐸の内側に小さな銅鐸を入れているけど、上の写真のような使い方なら、宝物庫に収納する時に重ねて収納していたんだなと分かる。良く銅鐸のモデルは建物の軒先に吊るした鐘だと言う人がいるけど、祭祀に使うならばこっちだと思う。これで銅鐸問題も解決じゃん!その次に奈良の巣山古墳から出土した祭祀用の船の展示がある。小さくてすみません。展示場では撮影禁止だったので、ネット上に有ったのを借用しました。以前に書いた「三国志展に行って来ました」で書いたように、大阪の「なみはや号」は形状が変で、船首のでっぱりは邪魔で前に進むはずが無いと書いた。学者先生のこだわり」で準構造船は丸木舟に板で舷側を作ったのであの形状なんだと思うが、そう言うことはありえず、長崎の「精霊船」が良く似ているから、実際に渡航に使った船ではなく、使者を弔う為の船ではと書いたんだけど、それを証明する「現物」が展示してあった。なみはや号の船首そっくり。これは「祭祀用の船」なんだそうである。やっぱりそうじゃんと納得してしまった。実はなみはや号の説明はもうホームページから削除されてしまったようです。やっぱり間違いだったのかな?まぁいずれにしてもいくつかの現物を見ることによって、真実が明らかになって良かった。そうそう、最後に、展示場の音声ガイドの声は橋爪功さんなんだそうです。たった500円でしっかりした説明が聞けるのでお勧めです。
January 24, 2020
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邪馬台国はどこにあったか(その15.4)で伊都国の重要性と言うか位置づけを、イタリアと言う国の中のバチカン市国のように「国の中の国」で、奴国の中の都的な存在だったのではないかと書いた。それは魏志倭人伝の中でも特に他の国は奴国や邪馬台国は~万戸もあるのに、一番重要なはずの伊都国が千戸程度と言うのは変なので、ここの千戸は「貴族や王族が住む家だったから」戸数が少なく、商業や軍事の中心は奴国の別の場所に有ったからでは?と思ったからだが、今日読んだ先生の本にも似たようなことが書いてあった。奴国は地域による分業体制をしいていたと言うのである。昔の学者先生はロマンにあふれて滅茶滅茶な理論を振りまいていたようだが、今時の先生達は、文献よりも考古学的事実に基づいて話を展開するので、理論的で理解できる。僕は昔の学者先生の本を読んでいたので、学者ってバカばっかりと思っていたけど、それは明治維新以降の皇紀2600年みたいな話や、戦後のその皇国史観への反発が原因であり、今時の学者先生は理論的であるし、事実に基づいているのでしっかりとしている。見直してしまった。先生の言うには、青銅器等の生産拠点と使用場所が違うと言うのである。誰でも鋳型等が見つかると、そこが生産拠点であり、その周辺に都が有ったと思うのだが、なんと佐賀平野や熊本からばかり鋳型が見つかり、さらに須玖カタウタ遺跡(春日市)でも見つかり、それら鋳型の製品が伊都国で見つかるらしい。つまり、流通と言う概念が既に発生していたのですね。流通経路がしっかりすれば、王様の宮殿の隣に鍛冶場は必要ない。武器庫が有れば良い。そう(機能が分散した国にまで発展してたと)考えれば政治と祭祀に特化した国が有っても良い。伊都国は邪馬台国連合の中でそう言う位置づけだったのだ。えー!じゃぁ女王国は何だったの?それは邪馬台国はどこにあったか(その17)に書いたように、国を広げていく最先端の国だったのだと思う。えー!何で女王がそんな危ない役目を負うの?祭祀を司る女王様だったからである。昔の戦いなので、トンビが弓の先にとまるだけで戦争に勝てるのである。(まぁこれは皮肉だけど)神話を見ても天照大御神はフル装備で武装しているし、神功皇后もバルキリーである。推古天皇も持統天皇も重祚するほど激しい女性天皇が昔はたくさんいた。女王は実際に剣をふるったり弓をつがえるのではなく、総司令として判断する人なのである。攻めるか守るか、右手に兵力を割くか左手に割くか、海に船を出すのはいつが良いか?みんなに号令する判断は(実際には知識と経験が必要なのだが、その意見をまとめて)、あたかも神のお告げが有ったかのようにふるまって、女王が指揮していたのである。神功皇后が仲哀天皇に逆らって神のお告げをした事実をみると良く分かる。なので、政治や経済の中心である伊都国には彼女の言うことを良く聞く弟が王としていた。一大率である。実はこの一大率について新しい発想を得たので、過去の繰り返しになるのに、導入の為に、邪馬台国はどこにあったか(その15.5)として色々なことを書いた。何に気がついたか。みんな魏志倭人伝は「書写時の誤りが多く」伝聞が多いので誤りが多く信用ができないと言うが、ならば、この一大率も誤りでは?いや、原本は正しかったのだけど、今みんなが使っている後世の写本は写す際に間違えたのでは?そう、漢文なので縦書きなのだが、「一大」と言うのは「天」の字が2つの字に分解されたもの?だって、「一」の下に「大」ってくっつけると「天」じゃん。違うかな?漢字の意味をたどると、「一大率」ってどんな意味になるんだろう?「天率」なら簡単だよ。「天」を「率いる」だもん。一大率よりもずっと説明しやすい。「天津神」を率いる人なんだもんね。人じゃないか。神かな?ただ、陳寿は「天率」とは書けなかったかもしれないなぁ。中国で怒られるから。中国ではウソをつけないけど本当のことを書く時には、漢字を2つに分けたり、組み合わせたりしてごまかすからなぁ。人によっては、中国から与えられた官職名なんて馬鹿なことを言う人もいるけど、魏志倭人伝には「於國中有如刺史」つまり一大率は魏の国の「刺史」みたいなものと書いてある。魏から与えられた官職なら「刺史」にすればいいじゃん。これを書きながらふとさらに気がついた。そう言えば魏志倭人伝に一大國ってあるなぁ。又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 これは前後の文脈と地理上明らかに壱岐の事なんだけど、何で「一大國」なんだと思ってた。明らかに壱岐なので僕だけでなく学者先生も気にしてないけど。もしかしてこれも「天國」なんだろうか?壱岐には「カラカミ遺跡」と言う遺跡がある。小さな島なので漁村しかなかったと多くの人は思うだろうが、ここでは本土の奴国よりも多くの鉄製の武器や道具が出土し、なんと炉の跡まである。しかも製錬炉らしく、製錬炉は日本では、数百年後の古墳時代まで見つかっていないほどの最新技術だったので、(同じ轍製品でも銑鉄や鋳鉄程度ならば製造に必要な温度が低く古くからの技術で作成可能だが、 強い鋼を作るには高い温度での炭素の除去が必要で、 日本の技術では古墳時代位までは無理だった。)「天國」で合っているのかもしれない。つまり日本よりも優れた人たちが住んでいたと言うこと。これについてはまだまだ証拠になる遺物と理論が足りないから何とも言えないなぁ。日本にはまだ文字は無かったけど、伊都国になら漢字を読み書きできる人はいたと思う。そんな偉い人なら、自分達の王を「天率」と書きそうな気がする。だって後の世に中国でも恐れ多くて書けなかった「天皇」って書いたんだもの。違うかな?もしそうだったらおもしろいな 。<後日追記>「一大國」は「一支國」の誤記と言う説もあり、誤記だった場合には上の話は無い。ただ、邪馬台国の臺(台)なのか壹なのかもそうだけど、誤記を前提に話をするのはちょっと抵抗がある。根拠があってそう言うのなら良いのだけど、自分の理論に都合が良いからというのがほとんどだから。特に「東と南を間違えた」と言うレベルになるとひどいと思う。そこまで信用できない試料なら使ってはいけないと思うのに卑弥呼を利用したいので使う。箸墓なんて古事記や日本書紀を読めば明らかに卑弥呼と別人だと分かるのに。卑弥呼は独身を通したのに倭迹迹日百襲姫命は(出雲の)事代主の奥さんだよ。箸墓だってそのせいで、昼は人(崇神天皇の配下の人々)が作り、夜は神(事代主の配下の人)が作ったと、明記しているじゃん。神話をバカにしているから現実的な解釈ができないだけ。その癖に自分に都合の良い倭迹迹日百襲姫命の存在だけ利用しようとするのは変だと思う。神話だと思うのならあくまでも神話として使い、現実のものなら現実的に解釈すべき。そう思うな。
January 18, 2020
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アマゾンで怪しいオシロスコープを買ったので使ってみた。値段が安くて3000円強なのに20MHzまで計れると言う(スペック通りなら)優れモノである。繰り返すが30000円ではない。3000円である。そのかわり明らかに「パチもの」である。その写真。え?これがオシロスコープ?MP3が聞けるのじゃないの?である。リンゴである。ここまでくると潔い。恐らく一番お金がかかる箱体の金型を節約するためにリンゴの古い金型を勝手に使ったのだろう。なおかつ、型名を見るとすごい。買った時の商品名が「DSO-168]。僕はちゃんとした?メーカーのDSO068と言うオシロを、1万円弱で買った。2MHzまで計れて今でも使っている。液晶が大きいので結構実用的。ネットを探すと上記の写真と全く同じ物が、「DSO-168」だったり「FNIRSI-168]だったりする。しかも入っている取扱説明書が表は英語版「FNIRSI-168」で、同じ物の説明書なのに、裏が中国語で「DSO NANO3」の説明書になっている。NANO3はスイッチサイエンス社の製品じゃなかっただろうか?ものすごい堂々としたぱくりである。笑うしかない。でも、逆に言えば「パクリなので正規品と同じように使える。品質はともかく。」実際に使ってみた。ちょうど手元に有った7石スーパーのラジオの局部発振回路の出力を見てみた。うん奇麗で良い出力である。1.26MHzで575mV。奇麗な正弦波波形。素人が使うのが前提なので、通常のオシロの入力のようにAC-DC-GNDと切り替える必要が無い。ちゃんと直流のオフセット175mVを引いてくれている。デューティ比53%まで表示されている。使えるかも?と言いたい所だが、画面が小さくて(1.8インチ)ジーサンには使いにくい。でも、お金が無くて目が良い若い人には良いかも?体験的に使うとしても、十分使えるから。昔のオシロはシンクロ機能が無くても10万円したのに。ただ、説明書が英語と中国語なのが痛い。で、今回google翻訳(WEB版)を試してみた。僕は英検15級(本当はそんなのは無いが十分低レベルだと言うこと)なので、本来無理なこと。google翻訳がここまで使えると言う意味で見て欲しい。まずは左下の英語。これを訳すと、組み合わせボタンの使用方法の説明どのモードでも、オシロスコープは「MODE」で1秒間中断され、(実際には「STOP」と表示されて止まります。)「MODE」が1秒経過してもオシロスコープは動作を続けますどのモードでも、「モード」および「オン」を押したままにすると、ベースライン補正のレベルになります。(ベースラインレベルインターフェイスは、 信号波形の信号入力がない時のオシロスコープ表示レベルを指します。)通常、オシロスコープ表示は直線ではなく、入力信号とOVのライン(黄色の矢印) 矢印の位置は、位置がオフセットされている場合、OVベースラインをOV矢印が示す方向に修正する必要があることを示し、OKキーはMODEキーです。 修正を改善するには、干渉が最小限に抑えられ、修正がより正確になるようにMINI USBラインを引き出してください。「モード」を押すと、システムは自己調整します。画面が成功すると、「成功」がポップされます。アップし、修正が完了します。どのモードでも「MODE」と「left」を同時に押したまま、VmaxとVminの表示を開閉します。どのモードでも、「モード」と「ダウン」を同時に押すと、画面に電源オフシステムが「マシンをオフにしますか?」というヒントが表示されます。 シャットダウン状態で「MODE」でマシンを開きますどのモードでも、「MODE」と「right」を押したままにし、プローブ1Xと10Xの入力を切り替えます。1X入力に切り替える場合は注意してください。10Xに設定されている場合は、ダイヤルウェーブプローブをオンにしてください。プローブもです。そうしないと、波形表示と測定データが正確ではありません。10X入力モードでは、画面の左上隅の垂直感度が接尾辞付きで表示され、接尾辞は1Xモードで表示されます。(僕の測定中の写真でも測定レンジ0.5V/divの後にプローブが1Xと書いてある。)なんとなく変な日本語だけど、使いながら読むと雰囲気が分かります。次に真ん中上の英語これを訳すと、①バッテリーの電力はバッテリーの緑色の部分を示します。②ここでn / div '単位を排除する垂直感度は、IXモードに設定できます。 1Xプローブモードでは最高圧力40Vになるため、 1Xで40Vを超える電圧信号を入力しないでください。 オシロスコープに損傷を与える可能性があります。 1Xノードのテスト中の信号は0V~40Vであり、10Xモードでは40V~800Vです。 測定信号が40Vを下回る場合はプローブを1Xにし、 40V~800Vの場合はプローブを10Xモードにします。③測定信号波形④測定された波形信号の最大値Vmaxは参照専用です。 (キー設定により表示および非表示にできます)⑤測定された波形信号の最小電圧は、参照専用のVminです。 (キー設定で表示および非表示にできます)⑥測定された波形信号のピークとピーク値は、参照専用のVppです。 注:完全な完全波形が表示される場合のみ、ピークとピークの間のデータは信頼できます。⑦「左」ボタン⑧ボタン「モード」⑨サンプリングレートの調整に使用されるタイムベース。 「/div」単位は省略されます⑩トリガー電圧ラインインジケーターの矢印⑪波形の水平ベースラインは、ここで電圧がOVであることを示しています⑫測定された波形の周波数。KzはKHzを表し、MzはMHzを表します。 データは参照専用です。 注:フル1 N 5フルサイクル波形が画面に表示される場合のみ、周波数値は信頼できます。⑬カップリングアイコンが入力され、横線がDCカップリングを表し、 三角波アイコンがACカップリングを表します。⑭パターンインジケータアイコンは、波形ズーム、波動、トリガー制御の3つのモードで 切り替えることができます⑮ボタン「上」⑯ボタン「右」⑰MINI USB充電ポート、0.5C高速充電⑱ボタン「下」⑲3.5mm特殊プローブ差込口これも使いながら読むと分かります。次に真ん中下の英語。これを訳すと、(記号は省略します。)[モード]キーをクリックすると、現在のキーボードをオンまたはダウンできます。 画面の下部に、対応する機能アイコンが表示されます。これらのアイコンは、3つのモードに分かれています。波形のスケーリング機能では、垂直感度とタイムベースを調整します。このモードでは、上下のキーで垂直感度(信号の増幅または減衰)を調整し、左右のキーでタイムベース(サンプリングレート)を調整します。波形の移動の場合、波形はキーで示される方向に沿って移動します。電圧調整機能をトリガーするには、「up」ボタンでトリガー電圧値を上げ、「down」ボタンでトリガー電圧値を下げ、「left」スイッチングカップリングモード、「right」スイッチでエッジをトリガーします。最後に右上部分の英語。これも訳すと、開始: 「MODE」キーで開始。シャットダウン:「MODE」+「down」を押してシャットダウンし、プロンプトページに移動し、「MODE M」または「down」を押してシャットダウンをキャンセルします。垂直または狭い波形:ズームモードで垂直または下に波形を増幅または縮小します。波形の水平方向の増幅または縮小:ズームモードの「左」または「右」ので波形の拡大または縮小波の動き:波形移動モードでは、対応する方向のキーを押すと、それに応じて波形が動きます波形固定(キャプチャ):トリガーモードでは、トリガー電圧ラインを調整して、波形間の波形を固定します。トリガーエッジの設定:トリガーモードで、「右」スイッチでエッジをトリガーします。inputcouplingの設定:トリガーモードで、「左」スイッチまたは「右」スイッチでAC入力又はDC入力を切り替えます。(inputcoupling回路は入力に直列にコンデンサーを入れてDC成分をカットする回路なので、DCオフセットの回路on/offとそれに伴うオフセットの有無を切り替える)ベースラインオフセットキャリブレーション:ベースラインがオフセットされている場合、「MODE」+「up」に従ってベースラインキャリブレーションインターフェイスに入り、プローブを引き出し、最初にUSB充電を正常に行い、次に「モード」を押してキャリブレーションを決定VmaxおよびVminの表示:「MODE」+「left」を押して、表示を開閉します。1Xまたは10Xモードを設定します。どのモードでも、「MODE」+「右」を押して1Xモードと10Xモードを切り替えます。1Xモードに設定すると、プローブは1Xにも割り当てられます。10Xモードに設定すると、プローブまた、10Xに設定されます。充電要件:携帯電話の一般的な5V / 1Aまたは2Aまたは4A充電器を使用コンピューターのUSBの電力が小さすぎて不満はありません(つまり低消費電力と言うこと)こんな感じです。最初に悩むのはONとOFFの話だと思うので、アンダーラインと強調文字にしています。なお、僕は最初に充電するのを忘れていたので、何をやっても動かず悩みました。参考に。オシロを壊す恐れのあるプローブの設定も、アンダーラインと強調文字にしています。僕に多少の知識が有るので、少しは修正しています。例えばinputcouplingの所です。カップリングコンデンサーの意味が分からないとものすごい変な訳になります。うーん、google翻訳は直には使えないけど、下翻訳には十分かも?その分野に詳しくない人は意味不明になる日本語もあるけれど、基礎知識があれば「バカな奴」とgoogleをバカにしながら十分使えると思います。google翻訳を張り付けてちょっと修正しただけなので、「お前の訳は変だ」とは言わないでね。単にgoogle翻訳の実力を試しただけだから。誰かの(学生さんは除く=学生さんは苦しむことが勉強なので使っちゃダメ)役にたつかな?ただ、最後に言うと値段相応に「電源回路が無い」ので充電できなくなったら終わりかも?分解して充電池を取り換えればいいのだけど、それができる人にはちゃちかな?
January 18, 2020
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邪馬台国はどこにあったか(その17)を書いていて気がついたのだけど、古事記や日本書紀の神話や崇神天皇以前の事績は、崇神天皇から応神天皇時代のことを、時間軸で広げただけなのではないだろうか。そのせいで、昔から言われる「欠史八代」みたいな話が出たり、日本書紀における神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と崇神天皇の称号である「御肇國天皇」がどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読めるなんて話が出てくるのではないだろうか?神ならぬ人間なので親は必ず居るはずだから、欠史八代に相当する人たちは必ずいたはずだけど、その人達はいわゆる天皇ではなく、大きさの違いはあるけど部族長程度だったんだと思う。下手をすると八代ではなくもっと多かったり、少なかったりするだろうし、親子ではなく兄弟かもしれない。婿養子や部下の成り上がりもいたかも?そもそも前に書いたように医療設備や薬の無い時代の寿命なんて、昔は50歳程度だし、戦争があればもっと寿命は短いし、近親婚を繰り返せば蛭子は生まれるし、たった1代で九州から大和まで攻め上れるはずは無いし。なので、名の知れぬ「欠史八代」相当人物はいて当然だと思う。だけど、神話や崇神天皇以降に書かれている事績は重要なので、意外に根拠があるのだと思う。どういうことかと言うと、古事記や日本書紀は藤原氏が天皇家の正当性及びそれによって保障される藤原家の正当性を、古事記にあっては国内の諸家や子孫たちに、(国内諸家や天皇家は推古天皇以降は皆熟知しているので記載不要)日本書紀にあっては対外的に説明する為に書かれたのだけど、(国外の人はそもそも僻地の日本の事など知らないが、韓国などは知っているのでウソは無理)古事記と日本書紀では関わる人間の事情が違っていたのだと思う。学者先生の説では古事記は天皇家の歴史を記したもので、日本書紀は日本の歴史を記したものと、きれいごとを言っているが、同じ天武天皇が始めた事業なので1つにまとめたら良かったはず。例えば古事記が推古天皇までしか記されていないのは、大化の改新の真実(蘇我氏は実は改革派で悪くはなかったことが今では見直されてきている)を(何らかの事情で)載せることができなくなったので、本来は天武天皇までを記そうとしていたのに途中で打ち切らざるを得ず、新たに日本書紀として作り直そうとしたのではないだろうか?僕は天智天皇と天武天皇の争いが引きずっていたせいだと思う。昔は天智天皇と天武天皇は同じ父母から生まれた兄弟と言うことになっていたが、現在は結構異論が多い。僕も相当に疑問に思っている。仲が悪すぎるし、天智天皇は自分の娘を4人も天武天皇に嫁がせている。(額田王を取り上げた償いと言う話はあるけれど)これはたいした根拠にはならないが2人の年齢関係に矛盾がある。多分2人は異母兄弟なんだと思う。しかも2人の母親の氏族は敵対関係にあり、天武天皇の母親の家は弱かったんだと思う。(場合によっては逆かもしれない。天武天皇及び皇極皇后は蘇我氏系で、 本当に天智天皇も皇極天皇の子供ならば蘇我入鹿を何で殺したのか意味が分からないし、 天智天皇は乙巳の変後も皇太子のままで皇極天皇の弟(つまり自分のおじさん)を天皇にし、 おじさんつまり孝徳天皇が崩御後も皇極天皇が重祚して斉明天皇になっている。 天智天皇の母方の方が弱かったのかも。この辺は謎が多くてよく分からない。)そのせいで、天武天皇は天智天皇の存命中は大人しくしており、出家までして天智天皇の子の大友皇子が弘文天皇になるのを許したのだと思う。その後、日本天皇家史上まれにみる「現天皇を滅ぼして次の天皇になる」クーデターを起こす。そんな天武天皇だから最初は(滅ぼされてしまった自分の先祖である出雲族又は蘇我氏)を古事記に書いて残したかったのだと思う。(壬申の乱で天武天皇に従ったのは旧出雲王朝の人達(美濃、伊勢、伊賀、尾張)が多い。)それを天智天皇の娘である天武天皇の皇后、持統天皇が阻止したのが日本書紀なんだと思う。そうつまり天武天皇は出雲系で、密かに(公には書けなくなってしまった)出雲の話を古事記に書いて残そうとしたのだが、九州系の天智天皇の娘の持統天皇が気付き、「そんなおとぎ話じゃ国の歴史を書いた本にはならないからちゃんとしたのを作ろう」と正論を言って天武天皇の策略を阻止したのだと思う。よく日本書紀は藤原不比等の意志が働き、藤原氏の都合の良いように改竄されたと主張する人がいるが、半分しかあたっていない。(逆に言うと、乙巳の変以外は何も役にたっていない中臣鎌足を持ち上げる為に 罪もない蘇我氏を貶めていると言う部分では藤原氏の意志が働いているので半分あってる。)藤原氏の基礎を築いた藤原の不比等は、日本書紀の編纂初期の頃の地位はたいしたことはない。何故なら藤原鎌足の子孫は壬申の乱の後に敵方としてほぼ処分されて不比等の後ろ盾は無し。ただ、持統天皇は父親の天智天皇との関係で彼を助け、草壁皇子のお付きとした関係で、彼を取り立てて自分の腹心としたのである。なので「藤原の一族の為に改竄」はかなり後の話であり、半分しかあたっていない。(大化の改新における改新之詔等は例えば第1条と第4条は後代の官制を下敷きにしており、 改変されたらしいと言われている。 つまり改変は編纂当時ではなく、藤原の一族の力が強くなった後の話ではないかと思う。 藤原不比等の時には改変されていなかったのではないか?)始めた当時には守るべき藤原氏そのものがそれほどいなかった。(逆に言えば、そのせいで日本書紀の初めの方は天皇家に都合の悪い話ものっている?雄略天皇や垂仁天皇なんて可哀そうにとても天皇とは思えない残虐な人になっている。)だから持統天皇の意志の方が強いと思う。例えば誰が名前を付けたのか分からないが「藤原京」なんてひどいと思う。天皇が自分の部下の名前を都につけるだろうか?藤原京は近世になってつけられた名である。この都を移したのは持統天皇で日本書紀では新益京と書かれている。つまり当時は藤原氏不比等よりも持統天皇の方が強かったのである。<後日追記>藤原不比等が藤原鎌足の子でありながら最初の頃の地位がたいしたことが無いと言うのは、そんなことはないだろうと誰も信じないかもしれないが、事実である。彼が11歳の時に鎌足が死に、13歳の時に壬申の乱が起きて、天智天皇の皇子=後の弘文天皇(天皇にはなっていないと言う説もある)である大友皇子が、大海人皇子(後の天武天皇に)敗れた時に中臣金をはじめとした中臣(藤原)一族は処刑され、不比等は13歳と幼かったせいで免れたが後ろ盾を失い、日本書紀によれば673年に大舎人の登用制度により下級官人からスタートしているとある。つまりコネが無くて公務員試験を受けて合格したのがきっかけなんですね。ただ、その後持統天皇に草壁皇子のお付きとして抜擢されてから運が上向き、娘の藤原宮子を草壁皇子の子の文部天皇に嫁がせてから皇室に入り込み、宮子の息子の聖武天皇にさらに自分の娘の光明子を嫁がせてから天下を取った。光明子は後に藤原四兄弟の協力により光明皇后(皇室関係以外で初の皇后)となり、ここから藤原の天下が始まったのであるから、よく藤原鎌足が藤原家のスタートのように書く本もあるけど、壬申の乱で一度最下層に落ちて、不比等により頂上に昇りつめたのであるから、実は不比等が藤原の祖と言って良いのではないかと思う。実は不比等の出世があまりに早いので、不比等は天智天皇の落胤だったと言う説もある。あまり根拠もなく想像の産物でしかないが、もしそうなら天智天皇の娘である持統天皇とは兄弟であり、持統天皇に引き立てられたのも納得がいくので、有りうるかもしれない。持統天皇は自分の子の草壁皇子を守る為に大津皇子を殺した人だし、(日本書紀を見ても明らかに草壁皇子より大津皇子が優秀だったと書かれていて、 次期天皇の有力候補だから自殺するはずが無いし、天武天皇崩御後すぐと言うのも怪しい。 日本書紀では草壁皇子のことはあまり良くは書かれていない。 え?日本書紀は公平だなって?そういう面はあるなぁ。)草壁皇子が病死した際に軽皇子が幼過ぎたので自ら持統天皇となったくらいの野心家なので、天武天皇の「念願」とされたいくつかの事績は彼女の意志だった可能性が高いと思う。日本書紀の編纂も主には藤原氏だが、持統天皇の意志反映が強く、彼女は直近の物部氏や蘇我氏の名前や事績はともかく、古い自分に都合の悪い歴史は消して、自分にとって重要な天皇家の正当性を「自己主張ではなく歴史上の事実として」残そうとした、その為には天皇家だけの作業ではなく「委員会形式」にして複数の人間が関わったことにして、「客観性があるように見せかける」ことが大事だったんだと思う。今の国会みたいである。本当は一部の人間の利益の為なのに、多くの人間が関わって正しい物を作った形式が大事?そんな今の世の中でも通用する政治的手段を既にこんな昔に確立していた女性だからすごい。<後日追記>ただ、持統天皇が直接関与したかと言うと違うかもしれない。委員会形式なので天皇は出席しないし、皇子を使って間接的に関与はできるが、皇子同士の思惑もあるから一本縄ではいかないので、上記の草壁皇子のように「何でもっとほめないの?」的な話もあるし。何より日本書記が完成したのは持統天皇の崩御後なので。で、話は元に戻るけど古事記には天皇家に都合の悪い出雲の神話が詳しく、日本書紀では隠せなくなったことは「あるふみにいわく」形式で別の説として残す形になり、他の一族の行った事績をうまくごまかして自分達の先祖が行ったように書いているのだと思う。で、冒頭の「古事記や日本書紀の神話や崇神天皇以前の事績は、崇神天皇から応神天皇時代のことを、時間軸で広げただけなのではないだろうか」となるのである。例を表にしてみた。例によって150%位に拡大して見て下さい。読み終えたら元に戻すのを忘れずに。こうしてみると日本武尊って大国主命と似ているような気がする。両者とも実在性を疑われているけれど、崇神天皇が実在の人物ならば、名前はともかく、日本武尊は仲哀天皇の父親として実際にいた人なので、例えば四道将軍をまとめる大将軍で、四道将軍の事績を彼にまとめたのなら話は通る。どこの家でも「御先祖様はすごかったんだぞ」とか「我が家は500年も前から続いている」と言って自慢はしたいし、それが天皇家なら正当性につながるからな。僕は尾張と出雲は密接な関係が有ったと思っているので、名古屋の熱田神宮の傍の断夫山古墳の主と日本武尊はかなり近い関係だと考えると、景行天皇が日本武尊を溺愛しながら遠ざけたのは息長氏と竹内氏が関わっていると思う。息長宿禰の娘の息長足姫が仲哀天皇の后でありながら竹内宿祢と密通し出雲を滅ぼしたのは、息長氏(息長足姫=神功皇后の家)と竹内氏が共謀して出雲を追い出したんだなと思えば筋が通る。景行天皇は出雲を守れずに息長氏と竹内氏に実権を渡したんだと思う。そう言う意味では邪馬台国はどこにあったか(その17)で書いた国譲りの解釈とダブる。国譲りの舞台は大和の地で、大国主命の子の建御名方神が、出雲に縁が深い美濃や尾張に近い諏訪に逃げたと言う話は筋が通るような気がする。出雲から諏訪に逃げるのはあまりに遠いし、後に壬申の乱で大海人皇子が美濃や尾張に助けを求めて逃げた後に大和に逆襲する話や、天照大御神を祀る伊勢神宮を伊勢の地に決めるまでの経緯の話も分かるなぁ。土地の決定を神様のせいにしてるけど、本当は関係するいくつかの種族の調整が大変で、なかなか決まらずに、結局は豊受の神様を外宮と言う形でくっつけて妥協して決まった?背景が分かるな。神様にかこつけた人間の(一族の)争いの結果だったんだな。大国主命の子が事代主の命と言うのは親子関係が逆で、実は景行天皇が事代主命で、その息子とされている出雲系の日本武尊が大国主命なのだと思う。子が親に意見を聞くのなら普通だけど、親が子に意見を聞くのは変だもんね。国をまとめるほどの力を持つ大国主命が子供に意見を聞くだろうか?(日本武尊の曾孫が景行天皇の后になっていると言う説もあることだし。)景行天皇(事代主命)は日本武尊(大国主命)に後は継がせずに、(出雲に近いはずの日本武尊が出雲猛を誅殺した話は変ではと思うが、 この話は古事記にはあるが日本書紀には無い。)成務天皇に後を継がせる話が「国譲り」だったんだなと思う。(神話に有る日本武尊の病は毒殺されたと言う意味?景行天皇が嘆くのも無理はない。 いくら息長氏でもそこまでやるとは思ってなかった? 僕の事代主の陰謀により大国主が殺された説は間違いで、事代主命も騙されたのかな?)上の話から成務天皇は実は竹内宿祢と同一人物で、彼は景行天皇に実権を譲られたのかもと言う話が納得できる。成務天皇は景行天皇が存命中に様々な政策を実行し、勝手に都を移そうとしている。普通は天皇が存命中に皇嗣が天皇をないがしろにして政治を行うなんてあり得ないのに。成務天皇と竹内宿祢の関係を疑う人もいる。2人は生年月日が同じで主従だったらしい。成務天皇没後の仲哀天皇の熊襲征伐の折の色々なエピソードは謎にあふれている。仲哀天皇の亡くなった際の話はどうみても暗殺だし、応神天皇の出産の話は作り話。多分応神天皇は竹内宿祢の子供だと思う。そうするとその後の4人の天皇に竹内宿祢が仕えたと言うのは逆で、院政みたいな感じだった?息長足姫は竹内宿祢と仲哀天皇を天秤にかけたのではないだろうか?まぁ、これは今回は関係の無い話なのでここまで。尾張氏が出雲氏の子孫で日本武尊と縁が深く、日本武尊が大国主命ならば、熱田神宮に草薙剣がある理由が分かるな。
January 15, 2020
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毎年1月1日には初詣に行くのだけど、3社参り以上を心掛けている。以上と言うのは自分の家族の為に行く神社以外にも日枝神社等会社の仕事に関して行くから。日枝神社は首都東京の守りであるだけでなく、建築関係で安全の神様だから。現場で一番大事なのは安全で、安全は日頃からの積み重ねは当然のことで意識が大事。意識を高める為には迷信だとは思いながらも何らかのきっかけが必要。だらだらとではなく、年初に今年も安全に行くぞと決意をする際に必要な場なのである。まぁそれはそれとして、家族のこととして行くのは近所の神社。お賽銭をあげて、神様にお願いをするのは家族の安全と幸せ。大事だと思う。神様が何かをしてくれるのを期待するのではなく、ここで自分がやることを決意するのが。だって人間を相手に決意を述べるのは恥ずかしいから。神様なら黙って聞いてくれる。近所には富岡八幡宮がある。ここは源頼朝が鎌倉に幕府を開く前年に摂津の国から招いた蛭子神を祀った由緒ある神社である。深川にも富岡八幡宮があるが、あれはしょせん江戸時代からの歴史の浅い富岡八幡宮。ここの八幡宮から分祀したと言う話さえある。ここの八幡様は応長の津波から村を守ったと言う言い伝えの有る「波除八幡」であり、海抜0m地帯の深川の人達が村を守る為に、ここから分霊したのだそうだ。この付近は鎌倉幕府に関わる遺跡や遺物が多く、鎌倉の鶴岡八幡宮は当然として、金沢八景には同じく頼朝が伊豆で挙兵した際に伊豆の三島神社を勧請した瀬戸神社もある。ここにも毎年お参りに行くが、付近には北条政子が瀬戸神社に併せて造った琵琶島もある。琵琶島は琵琶の形をした島で弁天様を祀っている。また、京浜急行で1駅行くと金沢文庫駅に稱名寺があるがこれは北条実時が建てた北条家菩提寺。これらから考えると源氏の棟梁である源頼朝は都の人かもしれないが、それを支えて、後に幕府の実権を握る北条家はこの辺を根拠とする首領で、もしかすると大和政権が成立する前からこの辺にいた豪族の子孫だったのではないだろうか?そう考えるのは、日本武尊が吾妻の地を平定する際に残したこの辺の事績から。神話としては弟橘姫命の逸話がある。横須賀市のホームページを見ると古事記や日本書紀に記された伝説で、上総の国へ渡ろうとした日本武尊が「この程度の海」とバカにしたのを海神が怒り、困っていたのを日本武尊の妾の弟橘姫命が海に身を投げ出して神の怒りを沈め、渡ることができたそうで、その際に付近の人達に「冠」を渡したのを石櫃に納めて建てたのが走水神社で、対岸の木更津には弟橘姫命の「櫛」が流れ着いたのを納めた橘神社がある。で、ここで気がつくのは走水神社の由来で地元の村人が「冠」をもらっていること。日本武尊は皇嗣だったので、そんな偉い人が農民に冠を与えるだろうか?ばかなことを言うんじゃないと思う。お顔を拝顔するだけでも恐れ多いと思う。なので、実はここには相当に有力な首長がおり、日本武尊はその首長に冠を与えたのだと思う。その子孫が金沢文庫に館を構えていた北条氏なんだと思う。源頼朝を支えた北条氏は伊豆國田方郡を治めていた北条氏が中心なんだけど、Wikiにも書いてある通り、系図が明らかでなく、いくつかの豪族の集合体だったと思う。南関東の古墳を見ると相模や東京湾沿岸にたくさん大きな古墳があり、静岡の伊豆よりもこちらの方が開けていた感じがある。日本武尊の焼き討ちの伝説も静岡の焼津であったと言うことになっているが、弟橘姫命の歌を見ると、本当は相模原での出来事だったんではと思うことがある。ちなみに有名なその歌は、「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」と言うもので、燃ゆる火は「相武の小野」なのである。焼津ではない。まぁ、このことは今日の主題ではないので置いておいて、要は鎌倉から横須賀、金沢文庫そしてこの辺富岡辺りには古墳時代から、天皇の子、皇嗣の日本武尊から冠を頂けるような大きな豪族がいたのではないだろうか?今年の初詣の際にそう思った。<後日追記>今日歴史本を読んでいて、妄想だと思っていた上記の、元々、この辺には海の民を祖先に持つ豪族が複数いて、それが統合されて後に北条氏となり、源頼朝の時代に彼を支えて源平の合戦を征し、鎌倉幕府を立てたのだが、逗子の長柄桜山古墳や下記の富岡古墳(僕の勝手な命名で世の中には認められていません)は、彼らの祖先の豪族の墓ではと言うのが真実味を帯びてきた。何故なら、金沢文庫の称名寺は北条家の菩提寺だし、富岡神社は源頼朝が摂津の国から「海神=蛭子神」を勧請したものだし、北条政子は金沢八景に弁天神を連れてきているし。鎌倉からわざわざ一山超えたこの地に菩提寺を作る必要性って何だろう?答えは一つだと思う。ここは北条家にとっての聖地、王家の谷だったのだと思う。下記の富岡神社裏山が古墳ならば、彼らの祖先の墓で、そのそばに菩提寺を設けて古代からの祖先を祀っていたのだと思う。そう思いながら神社の参道を登っていると、神社の山が古墳に見えてきた。神社と言うのはお寺とは違い、良いことをした人を称えて祀ったり、(明治神宮とか)祟りそうな人を慰める為に祀ったり(出雲大社とか)、結局お墓みたいなものなので、実は神社の裏山は古墳と言うパターンは多い。僕の田舎の北九州の神社もそうだった。それまでは誰も古墳だと思わなかった神社の裏山が、道路工事で掘ったら石棺が出た。北九州市の教育委員会は慌てて調査を始めたが、実は僕らガキンチョは既に掘っていた。なので、ガキンチョの家には須恵器(昔の土器)のかけらがいっぱいあった。教育委員会で土器を復元する際に足りなくて困ったかもしれない。もしかするとと思ったので、帰ってgoogleMapで見てみた。完全に古墳じゃん!しかも前方後円墳。後円墳部分は神社の建設で削られて無いが、奇麗な形をしている。<後日追記>上から見ただけでは信憑性が無いので、横から見た写真を載せる。実は現地で見るとすごく高さが高い。なので多くの人は古墳だとは感じにくいと思う。でも、横から見ると1段台状の部分があって、その上に古墳が乗っている。だから高く見える。まぁ、それでも確かに高さが高いのだが。近畿の古墳が建築面積が大きいのに対してこの辺の古墳は高さが高いことに価値を見出してる?そう言えば逗子でアマチュア研究家が発見して話題になった「長柄桜山古墳」は山の上に有るし、相鉄線かしわ台の「秋葉山古墳」も山の上だからなぁ。「長柄桜山古墳」なんか山の頂上に有るので、普通に地上から見ても古墳が有るのが分からない。もしかしたら山を利用したり、山の頂上付近に有るのが関東の古墳の特徴かも?参考に関西の前方後円墳の写真を見てみよう。仲津媛陵である。応神天皇陵も似ている。ほとんど相似形。富岡八幡宮の周囲の黄緑色の部分が堀だと思えば「ほぼ同じ」田舎の古墳で費用と技術的に完全ではなかったと言えば十分。問題は出土品だが、神社を作る時に埋葬部分は削られて、相当に昔の話なので何も証拠は残っていないかもしれない。昔のことなので仕方ない。2日後に現地を歩いてみたら、方墳部分も削られて、木が無いと上空から写真を撮っても上の写真のようには見えないかも。古いものを残そうと言う人たちと現在の生活が大事だと思う人たちがいるから仕方ないな。せっかくの古い遺跡がみんな無くなってしまう。宮崎の卑弥呼の墓も道路工事で跡形もなくなってしまったそうだし。でも、人によっては、この山はあくまでも山だと言い張るかもしれない。固定観念に取りつかれた人は「盛り土」でないと古墳と認めないから。でも、農耕民族は「盛る」かもしれないけど、海洋民族は「削る」かもしれない。つまり元々あった山を削って古墳として形を整えたと言うこと。だって、この付近はあちこちに山を削った摩崖仏なんかが有るんだもの。山を削って仏さまを造る人達なら、山を削って古墳を作っても不思議ではない。写真の道路に沿って昔は海が有ったと言うし、源頼朝が連れてきたのは「蛭子神」だったと言うし。蛭子神は日本の神様でインドの神様の恵比須様とは違い、古事記や日本書紀で有名な「蛭子(ひるこ)」にちなむ漁業や海洋民族の神様。だから頼朝は摂津の「蛭子神」を地元の海の民の為に連れてきたのだと思う。富岡八幡宮では6月に「祇園舟」を流す行事をする。この行事は「八幡様の行事」ではなく、それよりも古い時代からある「蛭子神の行事」では?古事記や日本書紀の中の蛭子(ひるこ)は葦舟に乗せて流されて摂津の国に流れ着き、そこの「夷三郎」さんが蛭子を育てたことから夷神とも書かれ、夷大明神として祀られていると、西宮神社の縁起に書いてある。(ただ、西宮神社自身もインドの神様と混乱してる。)西宮神社縁起を御覧願います。それが富岡八幡宮の「由緒」に書いてある頼朝が分祀したと言う元の西宮神社であり、富岡八幡宮のホームページにも「蛭子尊(ひるこのみこと)」って書いてあるじゃん。富岡八幡宮由緒を御覧願います。この祇園舟が「葦舟を流す」と言うことから明らかだと思う。八幡様は葦舟に関係無いから。境内に飾ってある「恵比須様」に「恵比須様」と書いてあるのが悲しかった。富岡八幡宮の由来は、ここの辺に古墳時代から住んでいた一族の首領の墓で、へたをすると日本武尊の時代に既に「何か」有ったんだと思いますよ。<後日追記>蛭子神=恵比須様=夷様で良いのかもしれない。6世紀中頃の仏教伝の際に、何とかスムーズに仏教を受け入れる手段として、(色々な説が有りすぎて僕らが高校入試の時に覚えた御参拝(538年)の仏教伝来も、 今では間違っている可能性を言われて、Wikiを見ると552年に公伝なんて書いているけど)日本では聖武天皇が国家護持の為として東大寺を開いた際に、宇佐八幡宮を中心とした各八幡は積極的に神仏習合に走ったらしいので、富岡八幡宮が最初蛭子尊を祀る神社だったのが36年弱後に八幡宮を習合したのはその流れだったのかもしれない。特に毘沙門天なんて完全にインドの仏教の神様だもんね。同じインドの神様ならば何で多聞天を仲間に入れなかったんだろう?でも釣竿を持って魚を抱えた恵比須様は漁業の神様として早くから日本の神様となってしまった蛭子様は七福神の中の唯一の日本の神様だそうだ。(逆に言えば他の六福神は外国の神様?)そんな経緯から西宮神社も富岡八幡宮も蛭子神=恵比須様として扱っているのだろう。むしろ蛭子(ひるこ)が後付けで、恵比須様を日本に受け入れる為に作られた話かもしれない。でも、祇園舟はどちらにしても八幡様ではなく蛭子様の行事だと思うな。
January 1, 2020
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