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頼通はしばらくの間、すすり泣きながら師実の頭を撫でていたが、やがて乳母に師実の世話を頼み置くと、能季を促(うなが)して席を立った。 能季も無言のまま、塗籠(ぬりごめ)を出ていく頼通に従う。 頼通は師実の居間だったらしい寝殿の一間まで来ると、くるりと能季を振り返った。 その顔にはもはや涙はなく、牛車の中で能季を震え上がらせた冷酷な政治家のものに戻っていた。 頼通は疲れたように腰を下ろし、脇息(きょうそく)へもたれかかりながら能季に言った。「私はかつて息子を一人失った。もう二度と我が子を失いたくはない」 頼通の眉間に、また苦渋の皺(しわ)が現れる。 頼通には師実以前に、藤原通房という嫡子がいたのだ。 通房が生まれたのは、頼通がまだ若く道長も存命中の頃で、嫡子の誕生に二人は大いに喜んだという。 その期待に答えるように、通房は容貌美しい優秀な公達(きんだち)に成長した。 そして、次代を担う摂関家の嫡子として、世人の注目を一身に集める存在だったのだが、無情にもたった二十歳の若さで夭折(ようせつ)してしまったのである。 通房に期待の全てをかけていた頼通は、悲嘆の極みに追いやられた。 そして今、同じことが、またもや起ころうとしている。 頼通が必死になってそれを防ごうとしているのも当然であろう。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2015年11月29日
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やがて、頼通は座を降り、師実の病床に近づいていった。 褥の上に投げ出された腕を取って、そっと寝床の中へ差し入れてやる。膿(うみ)に汚れた衾(ふすま)を厭(いと)うこともなく、師実の肩口まで引き上げて着せ掛けてやった。そして、腐臭漂うぶよぶよの師実の額を、何度も何度も撫(な)でさする。 乱れた額髪を掻(か)きやってやるその手つきは、まぎれもなく優しい人の子の親のものだった。 頼通は鼻を啜(すす)りながら、涙に詰まる声で呟いた。「師実。父じゃ、わかるか。もう一度目を開けておくれ」 先ほどまで、庶民の命など毫ほどにも重んじてはおらぬ冷酷な政治家の顔を剥き出しにしていた頼通であっても、やはり内心は結局ただの一人の父親なのだろうか。 能季の疑問に答えるように、頼通は余人には聞こえぬような微かな声で囁いた。「もし怨霊が私の命で勘弁してやろうというのなら、この命などいつでもくれてやるものを」 能季の胸の中が熱くなる。 父親と言うものはこういうものなのだ。 家族の者を守るためなら、自分の命を捨てることも厭わない。 たとえ、頼通のような冷酷非情な人間であっても。 我が父も、きっと私のために命を賭(と)してくれるだろう。 能季は胸の中で、頼宗の老いた慈顔を思い浮かべていた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2015年11月25日
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乳母がまた、激しくすすり泣き始める。 能季は自分も泣きたくなるような気持ちで、俯(うつむ)きながらそれを聞いていた。 が、よく耳を澄ましていると、その声は低い男のもののようだ。 能季がはっとして顔を上げると、目の前の頼通の肩が微かに震えている。 泣いているのは、頼通だった。 頼通は嗚咽(おえつ)をこらえながら、掠(かす)れた声で乳母に問うた。「私の寄越した叡山の僧は来たか。祈祷(きとう)の首尾はどうじゃ」 乳母は鈍色(にびいろ)の袖を瞼(まぶた)に押し当てながら答えた。「はい。確かに昨夜のうちに密かにお越しになり、先ほどまでずっと祈祷を続けておられましたが、まるで験が現れぬ様子。一度山へ戻り他の僧を連れて参ると言われ、殿がお越しになる少し前にこの屋敷をお出になりました」「何の効果もないとは、日頃の口ほどにもない。私にあわせる顔がなくて、早々に逃げ出しおったか」 頼通はじっと師実の顔を眺めているようだった。 師実は時折弱々しい息を吐くのでようやく生きているのがわかるくらいで、指先一つぴくりとも動かさない。 自分の周りに人がいるのも、まるで気づいていないようだった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2015年11月23日
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出迎えに来た師実の乳母に従って、師実の病間のある寝殿へ近づいていくにつれ、辺りには異様な臭気が濃くなってきた。 寝殿の一番奥にある塗籠(ぬりごめ)が、師実の寝室だ。 乳母がそっと塗籠の戸を開けると、中から凄まじい腐臭が鼻を突いてきた。 能季は思わずその場に立ち竦(すく)んだが、頼通は無言のまま塗籠に入っていく。 そして、頼通が高麗縁(こうらいべり)の畳の座所へ腰を下ろすと、乳母はすすり泣きながら目の前の几帳の帳(とばり)を揚(あ)げた。 能季はようやく頼通に従って塗籠に入ろうとしたが、揚げられた帳の向こうに横たわる師実の顔を見たとたん、足に震えが来てそれ以上動けなくなった。 師実は解いた髪を枕の上に広げるようにして仰向(あおむ)いていたが、その髪の中央にある顔はもはや髪と区別がつかないほど青黒く腫れ上がっている。 耳や鼻からは膿のようなものが流れ出し、褥(しとね)や枕を茶色く汚していた。 無造作に投げ出された片手は、既に血の気がなく老人のように痩せ細っている。 ますます強くなった腐臭に思わず吐き気を催して、能季は頼通の背後に力なく座り込んでしまった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2015年11月15日
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「だが、最近になって、少し気になることがあってな」 頼通はふいに能季の方へ身を寄せてきて囁(ささや)いた。「ここ数年、あの小八条第で風雅を楽しむ宴が時折開かれるようになった。一人で屋敷の中にいるのはどうしようもなくわびしいから、時折昔の歌仲間などを呼んで、歌会や管弦の集いを開いても良いかと、道雅が私のところへ言ってきたのでな。そのくらいなら良かろうと許したのだが、どうも最近妙な噂を耳にした」「噂? どんな噂です」「屋敷に集まってくる者たちのことだ。もちろん皆、名の知れた歌詠みや風流な趣味を持つ上達部(かんだちめ)などばかりなのだが……風雅以外にも、妙な趣味を持つ者ばかりなのではないかと」「妙な趣味とは?」「つまり、女を甚振(いたぶ)って楽しむのが好きな連中ばかりだということだ」 能季には女を苛(いじ)めて喜ぶ人間の性向などまるで理解できない。若者らしい潔癖さもあって、能季は忌(い)まわしげに顔をしかめた。 頼通も同じく顔をしかめていたが、こちらはもっと深刻な別の理由でだった。「このまま道雅たちをほおっておけば、いずれは噂が広まり、公にも知られるようになるだろう。そうすれば、今度は道雅一人の始末ではすまなくなる。都中が大騒ぎになり、朝廷の権威が地に落ちるのは必至。このまま捨て置くわけにはいかぬ。だが、小八条第に集まっているのは、いずれも名のある者たち。その上人数も多いから、簡単に始末したり言いがかりをつけて流罪に処したりするわけにもいくまい。さて、どうやって始末をつけようかと、悩んでいたところだったのだ。ところが、手の者から数日前に、道雅の具合が悪くなり俄(にわ)かに出家を遂(と)げたという連絡があった。道雅さえ死んでしまえば、もう安心だと思っていたのだが」 頼通は能季を睨(にら)みつけながら、低い声で言った。「道雅には、生きて怨霊と対峙(たいじ)してもらわねばならなくなった。さて、どうしたものかのう」 能季は頼通の目つきの迫力に、思わず逃れる場所を探して辺りを見回した。 だが、その時牛車ががくりと揺れて止まった。外からは、供人の誰かが門番の爺と何やら言葉を交わしている声も聞こえてくる。 どうやら、師実のいる三条邸へ着いたようだ。 能季はようやく頼通から逃れられると、ほっとして密かに溜め息をついた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2015年11月01日
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