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岡田安紀子陶のきのこ作品より 当夜提出された52作品を参加者がそれぞれ7作品(うち特選1)選び、特選2点、その他を1点としてセレクト数の多さが作品の優劣では決してないが、時間的制限を考慮して特選選出の理由をそれぞれ述べることで進められた。 当夜の即興作品のテーマは紅型(びんがた)。OCATに置かれてあった美術展予告のチラシから菊池さんが提案。参加者: 菊池享、山中成利、澤山輝彦、寺西建二、扇マダラ、佐田俊美、土井英津子。 作品のみ: 大江友亮、高畑あき女5点句ちょこなんと春になれない椅子がある 建二17音詩ならではのこの把握は素晴らしい。当夜の僕の特選句。ちょこなんとに作家独自の心情が刻まれている。サクラまだ咲きません私は同じ時間に乗って 輝彦24音詩での今回最高の出来とみた。僕の準特選句。この表出のあたらしさがきのこポエムの希望となろう。3点句あわもりの口うつし南の風邪に紅型ゆれて 輝彦24音詩はこの作家と成利さんの独壇場の感あり。口うつしにアルコール度数の高い泡盛では咽ぶぜとの声もあったが、南風、紅型、泡盛と沖縄らしい烈しさを詠み込み成功している。紅い襟うちなんちゅうの恨(はん)映し 成利当夜、僕も怨(おん)という語を用いて紅型に挑んだが、まとまらず見事1本とられた。紅型を生んだ沖縄の苦難の歴史を滲ませて言いおおせて何かある作品となっている。善良な貝なら蝶になれるだろう 建二七十ニ候の「A化してBとなる」の発想を転用しての表現。貝と蝶の取り合わせが味噌。紅型が目の前で通せん坊春宵時満ちて 俊美目の前に立ちふさがる紅型(をまとった女人)と春宵が満ちていく趣きには得もいえぬエロスがある。お見事!。すたすたすたよたよたよた犬あるく三月 享三月が妙に的を得ている。後日譚だが、当夜の犬シリーズの作者は戌歳らしい。2点句人科ヒト勝ち負けそれがどうした徐々に春 享大阪市長の教育改革案が背景にあるのかな?。ヒト種のバトルリングにも春兆すとの意か。ひたすらに花待つ吾れへ明星を抱き月出ず マダラ当夜もっとも擬古的になりさがったマダラ作品。繊月・木星・金星が1直線に並んだ夕べをかく表現。目下俳句脳の解体中とか。無季野菜電子レシピのつくる春 享無季野菜は有機に想を得た作者の造語。しかし、季節感のない現代をうまくとらえており春の新メニューに臨場感あり。彪生さんにささげたいとの作者の言。 紅型の深き沈黙かがよえる落日の海 マダラ恨の句には負けるが、同趣の思いをきのこポエムに乗せて抒情的に。貝殻に詩があり春に渚あり 建二あり、ありの繰り返しに難ありとの声もあったが、これは対句形式で違和感なし。ただ手馴れた俳句らしい表現に難あり。おぼろ月記憶に小手かざす西行がおりまして 享24マスの原稿用紙を自作して健闘中の享さん。これも17音詩ではありえなかった詩境。闇夜ではなく紅型の黄地にこうもり乱れ飛ぶ 英津子国宝紅型の文様映像を見ての率直な表現。中国文化の影響の濃い鳳凰と幸福のしるしコウモリ。 空海に近づく気配亀鳴けり 建二亀鳴く、けら鳴く、みみず鳴くは俳句独特の架空の季語。空海と向き合うひとときをこう対象化した。1点句春日差し仮寝の枕はカラマーゾフ 成利昼寝や仮眠の枕は積ん読法で馴染んできたドストエフスキーにかぎる。しかし、にカラマーゾフの枕で春眠となると目覚めのほどが思い知らされるというもの。暁を覚えずとは行きますまい。カーテン越しに見るような視線がささる3.11 英津子3.11は戦後の日本が体験した人災の最たるものとなってきたが、傍観者の複雑な心境や負い目を的確に表現。作者の自戒か?。棒に当たる犬の哲学徐々に春 享犬シリーズの17音詩版。俳句の量産はこのようにして可能であると作者自身が自嘲的に示した作品と受け止めた。プーチンの貌は冷たし温いピロシキ指先の春 輝彦やや肥えたせいか、冷血の様相を帯び始めたプーチンとロシアの家庭料理のピロシキを対比させた氏独特の視点。豚まんならさしずめ温家宝やとう小平でしょうかな?。言葉にする言葉にできない繰り事のような春 英津子繰り言ならぬ繰り事は作者の造語か?、誤記か?。苦吟の春となったようだ。加藤郁乎の歩く銀杏銀の夜ともある苦吟難吟の夜とも読めそうな<切株やあるくぎんなんぎんのよる>の句を即座に思い出した。蝶の翅ゆらりとのぞく歓喜仏 建二ゆらりとが味噌。歓喜仏はガネ―シャの聖天さんONLYか双体道祖神でもよいのかが話題となって合評はそちらのほうへ関心が移った。この作品の場合、微笑仏か道祖神のほうが似合いそう。如月や素足に赤いハイヒール 建二足フェチの僕としては平静でいられない句境だが、町中での実景とか・・・。反転すすべてが反転したかのような春の日 英津子春の勤め帰りの光景を見ていてふとそんな感じに襲われたという。毎日無事帰っているのか心配になるような作品ですね。琢木はココアで革命論者よ花ミモザ 享ミモザの花がとってつけたようでどうしょうもなく浮いてしまうが、酒ならぬココアで革命論議を交わしたらしい。字余りか字足らずにするかいかがいたしましょう。三寒四温三寒四温タケに誘われ家を出る 友亮ここでの反復は蛇足。句意は冴えかえる日も暖かい日も頓着なしにきのこ採りとのことなので「三寒四温の寒の果て」とすればすっきりするのでは?。啄木のローマ字日記おぼろ月 享表現の多様性を模索した生活者であり詩人の啄木の日常とおぼろ月の対比か?。白モクレンの蕾のにこ毛あの頃のあやうさの 輝彦さてさて意味深長な作品。あやうさので止めたところが心憎い。もう春かボンボン時計の息づかい 建二柱時計の時報に春を感じている図だ。息づかいの擬人的な把握が日常からすこし背伸びした心境を表現しているとみるべきか?。太陽風(ふう)磁気嵐私は押されて梅を見に 輝彦水の惑星の異変を羅列しながら、そんな風に押されてドンキホ―テのように風車に突進するのかと思いきや・・・。この作家、ハイな状態が昂じてあちらの世界まで行きそうな乗りで終始しました。
2012年03月31日
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岡田安紀子の陶のきのこ作品 俳句形式に7音加わるだけで定型詩にまつわる因習的な制約が難なく溶解され、私が長年に亘り、取り組んできたスーパー俳句計画のニューフロンティアが一挙に開けてきた。これから錯誤も多発することだろうが、試行を重ねそれぞれの固有の表現としての普遍性を加味していきたい。以下は、今回の「夜の顔俳句会」での印象。1. 韻文化の度合いによって判断してきた俳句的、非俳句的という特殊スタンダードが無化され、極く自然に散文化の導入が容易になり、僕の意図する「非・劇的序曲(Nonclimactic overture)」、すなわち短歌形式とも異なるポジションでのメリハリを極力排したボサノヴァ的な詩表現が可能になったと感じている。2. 文章語(韻文的)から日常語(散文化)への流れは、音楽の世界ではbeat数の増加でうん10年も前からごく普通に実現されてきたことだが、それがきのこポエムでいとも簡単になしうることがわかった。今回の作品の質的なばらつきもいずれ推敲の過程で新しい詩的言語の発見へとつながることがはっきりと見てとれた。3. 同時に、「奴隷の韻律」と呼ばれてきた五七調の呪縛からの脱却が、私たちには如何に困難なことかもそれぞれに痛感しばじめたようで、列島人のきわめて特殊なアイデンティティー再考のよい機会が期せずして訪れた感あり。4. このきのこポエムによって、自身のアイデンティティーの破壊と再創造を無理なく遂行できることの発見はとりわけ重要だ。これまで四季派が依拠してきた俳句の伝統性との隔絶が根底の部分でひとまず見事に成功したことはこの詩形のもっともすばらしいところだ。5. 今回提出された作品52点のうち、34点がきのこポエムであったことも驚きであった。これは当夜の作家たちが、あらゆる経験知を無化してしまうかぎりなく中途半端なこの詩形に新しい詩表現の可能性を見出しはじめている証左かもしれない。 脱俳句会当夜の追記 こうしてあらためて当夜のきのこポエムと俳句作品を並べてみると俳句は季語とフレーム依存が顕著で器の見事さに精力を傾注しているのにくらべ、支離滅裂、言葉のあしらいも未熟ながら個人の心情吐露の点ではきのこポエムのほうがはるかに雄弁であることが見えてくる。これこそが、僕が短詩表現に求めてきたことで、第四、第五芸術でよしとした虚子の花鳥風詠の手習いの伝統が如何に俳句詩の詩表現の部分すら形骸化した表現に陥っているかが歴然としてくる。昨今のマスコミをにぎわしている俳句のことを僕はかっての子規の月並俳句批判にならって魂なきむくろのみの横行という意味でゾンビ俳句と言っているが、まず自身の血の通った言葉での心の動きの表現があってついでその表現を盛る器におさめるというベクトルがここでは逆になっているのだ。夜の顔俳句会の脱俳句的性格は俳句表現を核としつつ、自己表現としての短詩模索のよき実験台となっていることをあらためて感じたことである。ここに集ったそれぞれが、自身の身心から因習に染まった膿を出し切ることで見えてくる世界を対象化しえたとき、はじめてこの24音詩は独り歩きを始める。
2012年03月31日
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船坂ビエンナーレで出会った岡田安紀子さんの陶芸のきのこ展が大阪みなみで開かれているというので行ってきた。彼女のきのこ体験は北欧生活で得たものだが、彼女がそこで暮らした時間に繰り返し立ち戻り造形化するもので、それがなぜかきのこに注がれるところが面白い。おそらく北欧の人と自然の接点に常にきのこが見え隠れしていたとの思いがあったからなのであろう。一昨年の古民家を利用したイルミネーションの陶きのこたちの作品とは異なり、もっと自身の心象風景をなぞるかのような作品で満たされており、好感のもてる作品が並んでいた。僕の生活時間の隙間に突然訪ねたので当然ご本人は在廊していなかったが、その分、春日影の中でささやきあう作品たちとじっくりと会話することができた。
2012年03月30日
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真ん中で腕組みしているのが堺さん。 廃材にさまざまな加工を施し今日に備える 母親を伴いお彼岸の墓参に行くのに少し時間があったので、神戸市灘区の原田の森美術館で開催中の神戸市内の子供たちの手づくり作品展「夢の箱」にかれこれ7年に亘り、企画から資材提供までを手がけてこられた堺さんを激励がてらのぞいてきた。 彼の専門は野鳥だが、日本酒のソムリエ有資格者にはじまり、近年きのこやロシア語にも造詣が深くとてもユニークな人物だが、本業は木材の仕事で、定期的に受注する葉書サイズのシルクスクリーン枠の抜きしろの廃材にさまざまにスリットを入れた板と、さまざまな切りこみを入れた四角の木製ブロック約15000枚を持参してレゴのような組み立てアートやパズルを来場者親子でてがけてもらう参加型のイベントだ。 僕の訪れたのは朝早かったので、子供たちの数もまだ少なかったが、昨日の土曜日は子供たちの数が例年以上に多く、出来た作品は持ち帰り自由なので、準備した板材がすでに3000枚弱となっており、イベント終了まで持つかなと心配しておられた。 なかなか面白いアイデアだが、準備する枚数が多いだけに廃材に加工するのも仲々大変だと思ったことである。
2012年03月26日
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当尾で出会った地衣をまとった風化仏 奈良のまほろばの旅のひとつの課題。優婆塞や私度僧といった僧侶令による資格公認を得ずして僧侶となった人たちや貴良賤の律令的身分制度の中で米づくり以外の道で生計を立てた雑戸身分の人たちが無位無冠のままにどのようにして自身の心の平安を得て行ったかをつぶさに調べていて、そのルーツには修験の働きが無視できないものとして浮かびあがってきた。いわゆる穢れにつながる周縁の人たち。出版業界に「雲か山か」という出版物のあたりはずれを形容する言葉があるが、山に伏せて修行する彼らはよく行って神仏の代理人、しかしその多くは結局のところ異人でしかなく、山ではなく雲でしかないヤマ師、ペテン師的存在なのだ。僕が自身のことを意図的におなら(最近リニューアルした遷都くんのことではなく屁のこと)のような存在というのと似通っている。 本年のきのこ地蔵の旅は、野性のきのこたちの語りとともに、そうした無名のひとたちの精神活動の痕跡を辿ることも視野に入っている。この浅春の当尾の旅と壷阪から高取山の旅はそのイントロだった。彼らのアイコンとしての聖徳太子は、そうした人たちの心のよりどころとなっていったところが僕を惹きつけてやまないだけのこと。 原始山岳信仰は葛城山の役小角とともに、良弁の春日奥山からはじまり笠置山へ至る原始修験のトポスを辿る旅は僕の中ではもうムックきのこの月1回の旅では収まりきれないほどのボリュームとなりつつある。「いのち短し、旅せよおっさん」ってところか?!。良弁の故郷の近江、そして愛知川流域の依知秦氏の本拠地の栗東から信楽。若草山ほとりの良弁の山房のあった三月堂から春日奥山の地獄谷。独立峰の笠置山頂の笠置寺と石窟、そして虚空蔵菩薩の磨崖仏など。 きのこは思うところあって、列島弧のみならず地球規模とりわけ古代アジア領域での探訪の手がかりをさぐりはじめている。
2012年03月25日
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礼拝の日なりテントウ虫生れぬ 山内遊糸 飛翔寸前出くわした天道虫とマンション廊下溝で出会った。 赤・黒、2種のテントウ虫 大学生の頃、俳句をはじめてまもなく、その当時僕の所属していた結社の中で比較的若く、堅実な作品を意欲的に生みだしていた遊糸さんが、はんどんの会の小寺さんの創刊した関西系俳句の月刊総合誌『俳句公論』に乞われて作品を掲載していた。 その中の一句が冒頭のものだ。現行銅貨のベースをつくっているという三宝伸銅の社員であったと記憶する。それ以外の情報は一切知らなかったのだが、この作品に接してクリスチャンであることをはじめて知った。 以来、テントウ虫がぼつぼつ顔をのぞかせる春になるとこの作品をなぜか思い出す。僕のテリトリーにも先週くらいからテントウ虫君が訪ねて来るようになった。虫たちの春のことぶれはまず蛾の仲間たちに始まったが、もっか手許に蛾の図鑑がないため種名をそえることができず申し訳ない。 春告げる 蛾2種
2012年03月24日
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料理の智恵袋からはじまるグルメ亭 季節の前菜 3月20日の祝日、恒例の北村グルメ亭が開催された。定員8名の贅沢なグルメの夕べだ。この日、昼過ぎに北村さんを迎えて、下準備の間、彼の料理に打ち込んだそもそものはじめの話しを興味深く聞くことが出来た。きっかけは意外なことに茶道に取り組んだことからという。茶の道に邁進する内に茶懐石や行きつけの料理屋さんで魚料理のさばくのを数年見ながら過ごし、板前の勘どころをつかんだというから驚きだ。 彼の得意は魚料理だが、すでに数年にわたりギャラリーで堪能しているが、今回は合鴨の鴨すき、鴨ロースなど鴨づくしだ。しかし、山菜、イカ、トビコ(トビウオの卵)などが前菜につくとても旬でおいしい料理の数々でいつもながら、お酒がすすむ。 次回は6月、今からたのしみである。
2012年03月24日
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左 C-Ragの福島さんとMango(g)、Batta(b)さんのかけあい場面 右 よく通る声で今夜はよく乗っていたイ・チスンさんの演奏風景 壷阪の帰路、天王寺で写真家M君の友人たちのライヴがあるというので有志で立ち寄った。共通の友人がちらほら見受けられM君との付き合いも長いんだなと改めて思ったことである。もっとも聞きたかったグループ「ぐぶつ」は終電の関係で立ち会うことが出来ず残念だったが、B.B.M+1(芳養屋)、園田のカフェでの宮里さんのライヴの時以来2度目のイ・チスンさん(vo,g)、タカシ(b)、スダッチ(dr)から成るイ・チスンバンド。そしてC-Ragの福島さん(vo.g)。レゲェのリズムに乗せて歌う彼のリリックはそこはかとなくさすらいつづけるその生きざまを反映してなんとも素晴らしく、Batta(b)さんと、mango(g)さんの演奏も最高、この日のライヴではもっとも楽しめました。かくて壷阪の永い長い一日は終電に飛び乗って鬱々、いやうつらうつらしながら忘れがたいものとして僕のぼろぼろハ―トに刻みつけられたことです。
2012年03月23日
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マンネンタケ テラツツキの痕跡 高取城では霊芝(マンネンタケ)、琢木鳥(テラツツキ)の痕跡、ヒメカバイロタケ、ツガサルノコシカケ、リョウメンシダ、トウダイグサ、オドリコソウ、まだ花をつけるに至っていない青木の群落などが、顔をのぞかせ、無言の語り部となって私たちの前に次々と出現。 ツガサルノコシカケ リョウメンシダ ひたすら感動して、声を失い小雨のふりしきる本格的な城址を行き来したひとときはそれぞれの心に何かを刻み込んだようだ。 高取への往還路 おとなう人とて無いこの山頂に、壮絶な人力を尽くして城を築き、無常の思いを石に刻みつけた人たちの妄執とも言うべき夢の跡。その情念の底に立ち尽くし、人はどう生きても悔いの残らぬ人生なんて望むべくもないことを私は深く心に刻んだことである。 光永寺の人面石 香高山の石仏群 ウグイスの声を堪能しながら土筆たちのちらほら見える農道を下り、高取は土佐町の町家をのぞき雛めぐりをして立ち寄った光永寺の人面石(左)、そして京の清水寺とゆかりの深い小嶋寺まで歩き、20年ほど前に友人と連れだって手の荒れの治療に来た皮膚科の高名な医院がたしかこのあたりにというSさんの言葉にいざなわれ土佐町をくまなく歩き、ついにみつけた石川医院も健在であった。 子嶋寺 石川医院
2012年03月22日
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この地は、高取町から壷阪寺に詣り、比曾の世尊寺を経て吉野金峯山寺へ行く街道として早くから開けた道で、壷阪寺は元興寺の弁基がこの山塊で修行中に感得し、水晶の壷をこの山坂の上に安置し、仏像を刻んで祈り大宝3(703)年に寺を建立したと伝えられている。この寺院と眼病治療との因縁は『壷阪霊験記』成立のはるか以前の平安期にすでに始まっていたという。 春雨けむる壷阪寺域に入ろうとすると「ここは目の不自由な人の寺でっけど、その目の小さいのはどうもなりまへんで」とM君から言われて、妙に納得。さらばとて、壷阪寺は素通りと相成り申した。 そこから香高山山頂の奥の院に通じる道を登れば、種字キリ―ク(阿弥陀如来)と弘法大師と侍童を浮き彫りにした1.5mほどの三角頭の石柱に出会う。その石柱をいくつか辿ると露岩という露岩にところせましと刻まれた像高50cmほどのおびただしい数の羅漢像が現われる。そこから山頂までの小道には羅漢にまじり大黒天、十一面観音、五社明神、二十五菩薩、奥の院のご本尊・弘法大師、さらに阿弥陀仏、釈迦像が見受けられる。 これらの石の造形はほとんどが慶長年間(1596~1615)の造立だと伝えられてる。慶長年間と言えば、関ヶ原の戦い(1600年)のあった時期に相当し、1615年大阪夏の陣で豊臣家が滅んだので、戦国の世の最後の時代の転換期に当たるので、豊臣の高取城主の城山に去来した人たちの祈りが込められているとみて差支えないだろう。 香高山頂から八幡神社を経て高取山頂の高取城跡(584m)へと歩を進めると、突如として異次元にタイムスリップしたような感覚に襲われる。それが高取城跡だ。五百羅漢群から約1.5kmの登りだ。 この高取城は、この地の豪族の越智氏が、護良親王の吉野挙兵に際し山城を築いたのがはじまりと言われ、のちに郡山城主豊臣秀長の控え城として本格的に城となり、この見事な城壁は当時からのものである。徳川時代からは植村氏が居住し、城郭は明治のはじめに取り壊された。 春雨の煙る城の高みで昼を摂り、一升坂をやや下ったところにある明日香より運び来たったという猿石としばし対面の後、高取町へとひたすら下る。
2012年03月21日
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霧深い高取城で僕たちの到来を盛りを過ぎて迎えてくれたクヌギタケ(Mycena群) ムック壷阪の旅は、久々に池田裕計くんが合流、濃霧と小雨に明け暮れた一日、しみじみと楽しい集いになった。彼とはJ-FAS日本キノコ協会の前身のグループきのこ星雲時代からのもうかれこれ30年に亘る肝胆照らし合う友人だ。下山ののち、壷阪駅前のうどんやさんで残った7名と語りあった話の内容は、夜勤のため列車に飛び乗ったO青年、のっぴきならない理由で不参加となったAさん、Nさんたちに是非聞かせたかったものなので、特別にページを割いて残しておく。 裕計くんは、野性の哺乳動物の生態研究を志し、日本キノコ協会では往時新聞を賑わせた「きのこを食い荒らす野性動物」の記事をきっかけに<きのこと動物部会>を立ち上げ彼らの現場からの生まの声を伝える役目を自ら任じて今日まで来た。 その主張は学会での大向こうを納得させるため、一時、生きものたちの実際の生態を客観性のバロロメーターたる数値に置き換える定量分析に傾いたこともあったが、本来的には数字に常にもれていくいのちたちの現場からの声を代表する者である立場は崩さずに今日まで来た。もちろん数量に還元して把握する生物学が基本であることは変わらなくとも、かけがえのないいのちの前ではその数字さえも絶対ではないという認識で一致しているからこその友人なのだ。 彼はもとより僕も分子生物・量子生物学の研究と実際の生物個々の生態は全く別のものと考え、そこから導き出される分類学的な人為操作からは現場での生きものたちのいのちのふるまいは到底理解できないと考えてきたのである。そのために創始したのが日本キノコ協会であり、彼や僕のライフワークだったのである。 <チチタケが氷河期に土中に潜ってチチショウロになった><猪はくじら目だ>というような生物の営む諸生活を細胞レベルでの基本的諸過程に還元して得られる情報は、興味のつきないものではあっても、またいのちを便宜上系統化する分類学的な書きかえを不断に促すスリリングなものではあっても、その発生の時より光年的な時間を経過してきた現在、僕たちの身のまわりの自然で遭遇する生きものたちの今を生きるいのちのいとなみとは全く異質のものと考えなければならないとしてきた。 部分と全体はそれぞれ自律的なメカニズムで動いており、部分を集めても全体には至らないというのが僕の考える「きのこの生物学」だ。自然保護やエコの美名のもとに価値の不明で曖昧な生き物がどんどん絶滅していく現実をくい止めるのは、人間のご都合主義に乗っかったその時々の時流に乗った学問の経済学ではない。それこそ親身でそうした生きものと対等に接してきた人たちの身体を張った愛情だけがそれを可能にすると僕は考えてきた。ヘテロソフィアの考え方における女性原理の復権ということの中には、こうした盲目とはちょつと違った親身な愛情が含まれている。 近年流行りの生物多様性とて、森の生命と深い関わりを持つはずのきのこをつくる菌類やしこ草はふくまれてはおらず、どんなに美辞麗句で飾ろうとそんな経済的な価値のみでいのちの重さが決定される人間のご都合主義から離れられないかぎり恥や嘘の上塗りでしかない。 生きものの現場を離れてラボでの操作だけでいのちを扱うことの危険性が今もっとも端的に現われているのが、わが国の原子力発電の現実だ。ここではそれに関わってきた人たちすべてが、それぞれ統括する立場の不在のままに限られた領域で閉鎖的に推進してきた結果、深遠にして広大な福島という大地を不毛地帯にしてしまったのだ。第二の福島、第三の福島がこの列島にはまだ目白押しの状態のまま、無責任な安全論が無責任のままにまかり通っている。 ここには何かが決定的に欠如しているのだ。それが昨夕まったく異次元のきのこ探訪の中で参加者から「鳥の飛来が例年になく遅い」とか「壷阪山の青木は鹿の害が及ばず健在だ」とか、「マンジュシャゲ科の毒草ばかりを食して死んだ仔鹿の自殺説」などビールや梅酒、生姜湯などを交わしながら淡々と語りあったことである。 生きものはピンやきりに関係なく全体で地球を支えていることに思いを致すためのきのこ探訪会は、これからも淡々と続けられていくが、ここから何かを掴み取った人は是非少しずつ臆さずに表現していっていただきたいものだ。きのこの名前を覚えることなど朝飯前のこととして、一日も早く無用の用たるいきものたちのいのちの声をアートで表現していっていただきたい。
2012年03月19日
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アレッサンドロ・フランチェスコ・トマソ・アントニオ・マンゾーニ ギャラリーきのこの第90回不思議なお茶の会はイタリア語講師の菅野類さんの「イタリアの国民的作家 アレッサンドロ・マンゾーニ」をその小説『婚約者』を中心に語る会。この会までに読もうと思っていたが、岩波文庫版で3巻12~1300ページに及ぶ大作で、断念。しかし、当夜は完読した会員の方もちらほら居て菅野さんが私のような不謹慎なものにもその内容を簡潔に解説、そして近年成った同名オペラのダイジェストもDVDで鑑賞し、その後リーザさんのロシア料理と細谷さん持参のイタリアワインを楽しみながら、イタリアのA to Zの会話で盛り上がりました。 マンゾーニは1785年3月7日ミラノ生まれ。保守的で田舎地主のピエトロ・マンゾーニを父とし、進歩的知識人のチェーザレ・べッカレーアの孫娘26才年下を母とした。しかし、父と母は全くそりが合わず諍いつづきで10年で離婚。マンゾーニはそんな母と愛人ジョヴァンニ・べェッレとの間の子と言われている。 家庭的な愛情生活に恵まれず育った彼は寄宿舎生活を続け、父ピエトロを嫌い、母親の招きに応じ自由主義と啓蒙思想の渦中のパリへ移住したことが転機となって、甚大な影響を受ける。パリへ移住して2年目の1807年父ピエトロが死去し莫大な遺産が残されるが、彼は父の葬儀にも行ってはいない。 1808年、カルヴァン主義者の当時17歳の銀行家の娘エンリケッタ・プロンデルと結婚、ともに穏やかな生活を求め、彼はそれまで無自覚だった信仰に目覚め、エンリケッタとともになぜか旧教のカソリック信者となった。啓蒙主義的理念やフランス革命の思想に疑問を抱くようになっていたこともその決断を後押ししていたかもしれない。 1815年、書きためていた詩を集成して『聖なる賛歌』を上梓。カトリックの儀式を通じた他者との連帯感がテーマだと言う。 1820年、悲劇『カルマニョ―ラ伯』、これは本来的な悲劇からはほど遠い作品だとされるが、アリストテレス以来の古典的悲劇の形式を壊したい欲求に貫かれていると菅野さんは語った。1822年歴史的題材への関心から『アデルキ』を上梓、虐げられるイタリア人民を描いた。マンゾーニの文学は彼自身、目的ではなく手段だと言っており、メッセージ重視で普遍的真理を探究するものとし詩から悲劇への移行、それに続く歴史小説もよりよい手段の探究の結果だとされた。 当夜のメインテーマ『婚約者』は文学史上最高の歴史小説と言われるらしいが、1821年頃構想し、1842年に決定版が出た。上品な文体と道徳的な内容でダンテの『神曲』とともにイタリア人は一家に1冊必ずあると言われているらしい。 この小説のプロットの詳細は読んでいただくとして、作品の特徴は菅野さんによれば、全てを描き切る野心的な構成と喜劇性、悲劇性を盛り込み群集心理と内面のドラマの精緻な描写、強い道徳的メッセージに満ちているという。 この作品以後、彼は真理探究のためにフィクションにたよるという矛盾に悩むようになり、文芸活動からは遠のき、教育担当大臣として言語教育に関与するようになる。現在では批判も多いが、14世紀にダンテが試みたと同様、トスカーナ語とりわけフィレンツェのそれを基準とするイタリア語の標準化に貢献したと言われる。 面白いことではあるが、彼も当時の多くの知識人と同じく、1800年頃はナポレオン崇拝者で、ナポレオンの没年には彼に詩をささげている。 1870年5月22日ミラノで死去。 菅野さんの研究テーマは「18世紀知識人の感情と幸福との関係」でこの母親の愛人の兄弟か父親か聞きもらしたがアレッサンドロ・べェッレが研究対象という。 僕の関心は青春の日々の心の葛藤が、深い内省と信仰体験を経て、超保守的で信仰生活に心の平安を求めるようになったマンゾーニの生涯もさりながら、菅野さん自身が、マンゾーニの描いた時代背景の中で生きた同時代の知識人たちの心の動きをつぶさに調べ上げ、「幸福」というテーマにアプローチしようと思うにいたったそもそもの動機が聞きたかったのだが、当夜のマンゾーニとその時代の多岐にわたる解説からは、このテーマに触れるような言説は伺えなかった。 僕の次の世代に属する仲間の一人である彼が、僕ら世代にとっては多分に気恥ずかしい「幸福」という言葉をストレートに用いることにもとても興味があり、幸い、彼はムックきのこの旅にも参加してくれているので、その言わんとするところは何となく彼の人となりから立ち昇ってきているように思えるので、これから長い時間をかけてぼちぼち聞き出していきたいものだ。
2012年03月17日
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ロシアの森の精「レ―シ―」とキューピー協会のキューピー歳時記の夏のアイコン。 これまでさんざん自称きのこアーティストたちの作品に接してきたが、いまだに、きのこアーティストたちの生み出すアイコンはこの段階にまでも達していない。ヨーロッパ古層のケルトやドルイドの信仰から生まれた多神教の神のアイコンのおどけた表情と、片やキリスト的一神教の世界から生まれた幼子の熟睡(うまひ)の愛に満ちた形象。いずれも背景にキリスト教支配以前の多神教的な世界、あるいは父性オンリーのキリスト教も遂に受け入れざるを得なかった聖母マリアにつながる大地母神的な原地球人の憧憬に似た雰囲気をただよわせており、きのこのアイコンとしては秀逸である。この彼方の世界を提示しうる見識をもったきのこアーティストたちの登場を心待ちにしている。 この30年余り、僕は「きのこをメジャーに」することのみを考えて生きてきた。この持続力にはわれながら驚いている。生来的に飽き症の僕は通勤路でさえ3日、同じパターンが続くと嫌気がさし、時刻、方法、道筋を変えて四苦八苦するくらいだから推して知るべしである。 「きのこをメジャーに」。この大命題は、ただし一神教的な方法をとることなくメジャーにするという条件つきなのだ。僕は人並み以上に信心深く、キリスト教的な信仰生活は適度に禁欲的で素敵だと考えているが、この素敵さこそが僕にとっては、いや人類にとっての最大の落し穴であると思いはじめたのは大学を出てしばらく経って天皇制度を検討しはじめた頃からである。近代日本の天皇制度(正しくは国家神道と言うべきだ)は、それ以前の神道とはまったく異なり西欧のキリスト教的ヒエラルキーを接ぎ木したものだと思い至るようになってからのことである。富国強兵にはじまる近代日本はそのお蔭で短期間で列強に追いつき追い越すことができた。 しかし、わが国の近代の超克を考える中で、そのキリスト教的な(ユダヤ、イスラムも同根である)一神教のヒエラルキーに諸悪の根源があると思ってしまったのだ。それは、21世紀になって、ますます真実味を帯びてきた。善悪の2項対立によって世界を分けることは、グローバルな世界における政治経済の大原則であり、それはコンピューターのゼロ・ワン発想にまで貫徹されている。僕は宗教的な環境で育ったので、大学時代に傾倒したマルクスの思想も、そのもっとも根源的な初期思想に深く関心を抱いてきた。そのマルクスもダーウィンの進化論も、その根底にはキリスト教的一神教の論理が貫かれており、この大前提が崩されぬかぎり人類に平和はないと考えるようにまでなった。これが僕をアジアの異種としての日本、そしてロシアの自然へと向かわせたのである。しかし、アジアの小乗仏教に僕の関心はなぜか及ばず、大乗仏教、そして近代詩文学、それからまわりまわってわが国の古代史、そしてロシアの自然・民俗世界へと向かわせたのである。そしてこれらの徘徊の挙句に生物世界の大型菌類・きのこに出会ったのだ。 2,3日前に差別のことに触れた時に述べたが、「きのこをメジャーに」する際の最大のネックは、きのこの両義性である。この存在、たたずまいの曖昧さが邪悪へと安易に結びつけられてしまうのだ。ユダヤの指導層の炯眼は、この両義的存在を邪悪におとしめることによって父性原理の聖性を純化し、ソリッドな物語を繰り返しくりかえし編集しなおし磨き上げてきたのだ。ユダヤにはじまるキリスト教最大の欠陥は女性を男性の付録にしてしまったことだが、これについては2000年近くの歳月を費やして議論を尽くし、その体系化に組み入れ世界普遍宗教の座としてはゆるぎない地位を獲得しえている。 僕がきのこと出会ってもっとも感動した核心の部分であるこの両義性、両性具有といったきのこの本質的な部分を何とか生かしながらメジャーにできないものかとこれまでほうほうの手を尽くして考えあぐねてきたものだがまだまだ道は遠い。神の目からもおちこぼれたヘテロな生き物の総連合による一神教的ヒエラルキーの転覆はかってのマルクス・エンゲルスの「プロレタリアート独裁」と変らず、下剋上、主客転倒のシーソーゲームに過ぎないので戴けない。キリスト教の転覆とまではいかずとも、どうにかしてこの純正であるがゆえの妥協をゆるさぬ殺戮の血なまぐさい流れを変えてしまいたい欲求に駆られる。 しかしながら下剋上のドンデンがえしではなくとも、これには、やはり地球の最底辺に生きる生きものたちの声を集約する中から掴み取っていかねばならないということまでは分かっている。 その生きものの中でも今とりわけ注目している一転突破全面展開の発想が女性原理の復権だ。メドゥーサをここでとりあげてきたのもその一端である。それやこれやが僕のいうヘテロソフィアの思想の核心なのだ。ここに至ってそこはかとなく最近つぶやいてきた差別根絶の思想と繋がって来るのを感じていただく読者がいればこの上なく幸いである。 ということで今日までのところ、女好きの僕にとって、もっともふさわしい結論に達したと言うべきか!?。ウーマン・リブの復権ではなく、ネオ・フェミニズムに落着した感がある。
2012年03月15日
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四天王寺聖霊会(2年前の4月22日のこと) 耽読 目下とても感動しながら耽読している本が谷川健一の『四天王寺の鷹』だ。『青銅の神の足跡』(1979)、『鍛冶屋の母』(1979)、『白鳥伝説』(1985)、の悼尾を飾る著作で、今日まで伝えられてきた地名から導きだされてくる民俗の機微を編集していく手腕が素晴らしい。一行一行に感動しながら、1冊の本をいきつもどりつしている。この読書の世界から離れたくないのだ。ここには秦氏、物部氏の彼自身の手になる目一杯の消息が綴られており、僕のこれからやろうとすることを全て形にして、「さて君はこの先どこまでいけるかな?お手並み拝見」と引導を渡された感じがする。しかし、一生を棒に振る覚悟ではじめて、全くの手がかりのない人物群像をここまで形にした能力に同じ人間として素直に驚いている。僕のこれからの余生の原典となる書物だ。耽溺 この前の日曜日ギャラリーきのこでアンドレイ・タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」の研究会があった。処女作「僕の村は戦場だった」で一躍時代の寵児となったタルコフスキーの第2作目とのこと。イコン作家を通して自身の芸術論を究めた作品で延々3時間の映画だ。 その映像の中に一度も絵を描くルブリョフが出てこないのも珍しい。ひたすらルブリョフの生きた時代のロシアの情況のみが幾つかの挿話の形で展開される。しかし、アートに生きようと決意した者なら、ここで語られ、ここで展開される事件のすべてが、心に突き刺さるもので、芸術表現の非力さに打ちひしがれながら生きたこのイコン画家に自身を重ね合わせることだろう。タルコフスキーの作品の中でもずば抜けて素晴らしいものだと僕はあらためて思ったことだ。
2012年03月14日
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僕は、人類の乗り越えなければならないもっとも大きな課題はゆえなき差別だと考えてきました。思想史、宗教史の中で穢れが無数の差別を生じさせ、制度によって固定化してきたことは事実です。21世紀に入って根絶するどころかエスカレートの一途をたどっている戦争のもっとも熾烈なものは、一神教同志の差別に基づいています。この差別の原因となっているけがれ感こそが文化として植え付けられてきたものです。 一方、きのこはなぜおそれられ、また反対に蔑視されてきたのだろうか?。僕のきのこ文化の中心的課題はまさにこの問題にすべて含まれます。 文化人類学では、安定した秩序を撹乱するような新しい要素、バランスのとれたシステムの中に入ってきた異分子を危険な要素として、それをケガレとみなして排除していく事例をさまざまに取り上げてきました。沖浦和光さんは「どっちつかずで分類できないもの」「中心から外れた周辺にあるもの」もこうしたケガレとして組み込まれてきたと言っています。 たとえば古代、王化の及ばぬ辺境の人たちを「化外の民」として賤視してきましたが、この差別もケガレから解明できると。かっての蝦夷、現在のアイヌたちのことは戦前までは土人と呼んで何のはばかりも感じなかったのが僕たちなのです。「土人法」なんて法律まであったのですから驚きです。 僕が亡父から継承してきた毎年4月29日昭和の日に神戸市護国神社で斉行されます大戦殉難北方異民族慰霊祭は、悲惨な戦争を二度と繰り返さぬための集いであると同時に、そうした僕たちの心に巣くう「異」に対するささやかな差異・偏見をみつめるひとときだと思っています。 また神社の禁忌では「五体不具」もケガレの中に入れていますが、障害者差別の問題もケガレに端を発しているとみています。皮膚の色の違い、生まれ育った文化体系の異なる外国人にたいする差別も同様です。 この差別はやがてインド、中国では制度として固定化され法律に組み込まれていきました。わが国でももちろん律令の中で貴・良・賤として制度化されていきます。 きのこのことを僕は仏教思想の中での女性蔑視の言葉「三界に家なし」を援用して菌類の造胞子器官でしかないきのこのことをきのこ屋さん自体が誤ってとらえているとして動物でも植物でも、ましてや菌類そのものでもないきのこは「三界に家なき生物です」と言ってきましたが、この永遠の異邦性こそがきのこを他生物から区別し、それがまれにしか出会わないことからやがてそれぞれの意識の中で差別となっていきました。 きのこの先生をはじめた最初の頃、「食べられる?食べられない!!」には躍起になる親子が、毒と聞くとよく確かめもせずにまるでけがらわしいものにでも触ったかのようにポイ棄てにしていました。それが面白くて僕は「きのこを食べるなんて信じられない。マツタケでも古いのは毒でっせ」と言うと、てきめん両手一杯に抱えてやってきた妙齢のご婦人やその子供たちは取り返しのつかないことをしたといった様子で棄てていました。あげくの果てに「先生、こんなにきのこを触ってしまいましたが、身体に悪いことはないでしょうか」と聞く始末。いくら冗談好きといっても「いや、悪いですよ。いずれ死ぬでしょう」とは僕にもとても言えませんでした(人間はいずれ死ぬのですからまんざら嘘でもないのです)が、その取り乱しようが面白くてよく連発したものです。 それほど、きのこは馴染みのうすいいきものだったのですね。それもつい2~30年前のことです。きのこが可愛いなんて女の子たちが言い始めたのはつい最近になってのことです。この時、僕は差別というのはこうした些細なことから生じることを見続けてきました。
2012年03月13日
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義太夫の瑠璃浄土なら住んでみたいぜお臼さん パンフレット右下が合邦、お辻(玉手午前)の修羅場 3月10日の土曜日、尼崎のアルカイックホールで人形浄瑠璃の特別公演があると聞き、駈けつけてきた。本年の課題である聖徳太子に関係するまほろばの旅の四天王寺を舞台にした「摂州合邦ケ辻」とその前座の「団子売」。 かって思春期の頃、親に連れられて行った時は退屈で、以来、浄瑠璃は眠たいものと思い込んできたが、この夕べは目からうろこの落ちるほどの素晴らしさで、感激してしまった。病みつきになりそうだ。 「団子売」は屋台の団子屋を営む、その名もずばり杵造とお臼さんが、臼と杵を夫婦に見立て、「高砂の松」の歌に合わせて踊りながら二人してシコシコと団子(子)づくりに励むという子孫繁栄、五穀豊穣を祈念する縁起物。冒頭の24音詩はこれにかけたもの。 浄瑠璃とは、西方阿弥陀浄土の反対側にあると想定された東方薬師如来の統べる瑠璃光浄土のこと。そこで奏でられている音楽と言うことから名づけられた。 かって経典を耽読していた頃、阿弥陀経の刺激のない退屈きわまりない極楽浄土の描写に、飽き症の僕はたのまれてもそんなところには住みたくないと思っていたが、こんな情炎渦巻く息詰まるような興奮に満たされた義太夫節の流れる瑠璃光浄土なら住んでみたいものだと思ったことである。 この舞台となった四天王寺の合邦ケ辻とは、摂津の諸国の街道が交差する辻という意味で、海に向かって立つ大鳥居とすぐ内側にそびえる西大門を下ったあたりだという。この鳥居のもとで太陽が真西の海に沈む彼岸の中日を期して日想観をすると難病もたちまち治癒され、禍いを福に転じることができるとされ、身寄りのないハンセン病や盲目の人たちが寺社の縁の下や軒場に住みついて欣求浄土の祈りをささげたという。その様子は法然上人行状絵巻にも描かれており、上方芸能のさまざまなストーリーがここから生まれた。 梁塵秘抄には「極楽浄土の東門は難波の海にぞ対へたる 転法輪所の西門に念仏する人参れとて」とあり、『弱法師』にも「頃は如月時正の日(彼岸の中日) まことに時ものどかなる 日を得て善き貴賎の場(にわ)に 施行をなして勧めけり げに有難きおん利益 法界無縁の大悲ぞと 踵を接して群集する」。 施行とは善根を積むために僧や貧しい人たちに物をほどこすこと。往時も今も四天王寺はこうした弱者に対して限りなく優しい場であったことが偲ばれる。 ムックきのこクラブの旅で、斑鳩の法隆寺から高安山のやや北で生駒山を越える十三峠を河内側に降りると玉祖神社(たまおや)がある。JR森の宮駅すぐのかささぎの宮は聖徳太子ゆかりの原四天王寺のあったところ。その玉造あたりから延びてきた街道が生駒山につきあたる山口にあたるところにこの神社は位置している。古代神事に欠くことのできなかった玉造りの神を祭っている。 日の東西線は、聖徳太子、四天王寺、住吉大社などの聖地を思いがけない糸で結んできた。これらの見えざる糸に込められた多くの人たちの悲願を読みとき現代に生きる僕たちのアート表現に活かしていくことこそが、求められている。 僕たちの目指すきのこアートは、穢れの観念から派生する無数の差別が自分たちの美徳とされてきた心の動きの中に胚胎していることを凝視め、それを克服していくことにある。この穢れに起因する差別にはどんなパターンがあり、きのことどう関係してくるのかはまた機会をあらためて述べたい。
2012年03月11日
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法隆寺 2012年度のムックきのこクラブの旅は、はからずも聖徳太子の史蹟を辿ることからはじまった。古代最大の殖産氏族の秦氏と同じくシャーマン氏族の物部氏はこの謎多き人物の周辺に多数囲繞してきており、大和王権成立前夜から平安末まで、わが国のあらゆる基幹産業と基幹文化を支えてきた。 僕にとっては聖徳太子はわが国ではじめて弱者への愛をしめした貴人で、もの言えぬ弱者たちの生きる希望が聖徳太子像を形づくってきたと考えている。弱者たちが希望を語り、その実現に向けてさまざまに活動を展開していくことこそがきのこの文化創造の目的であり、きたるべききのこシアターの時代の内実をなすものなのだ。 僕にとって、古代史は時の王権の太陽の道の争奪にはじまったとみて、まず春日山から生駒の石切近辺の日下(くさか)を通り、当時海であった大阪平野(河内潟)をこえて上町台地の突端(当時の岬・難波碕)の現大阪城あたりにあった石山本願寺を結ぶ東西線に着目した。そして古代人がこの太陽の道(レイ・ライン)に通暁し、神社配置はすべてその線上に置かれていたことを知り、またその東西線を宇宙軸としてきた我が国独自の世界観に驚きもした。 日本書紀の成立した頃には、時の王権は、このレイ・ラインを我がものとし、伊勢神宮を造立する。太陽神支配体制の完成である。 この伊勢神宮は室生寺、長谷寺、三輪山、箸墓、大鳥神社、そして淡路島の舟木までのびる北緯34度32分の東西線上の東の端に位置し、時の王権はその意義と効果を充分に知悉していた。 法隆寺は、龍田神社を経て生駒の南端に近い高安山を通り墨の江の住吉大社に至る東西線上にならんでおり、この線上の河内側には物部の本拠地がひしめいていた。物部の先祖に当たる浦島太郎が竜宮城へ行ったという伝承を伝えたのはこの住吉大社の江あたりに定住していた物部の流れを汲む人たちであろう。 聖徳太子、秦氏にゆかりの深い四天王寺はのちにそのレイ・ラインを浄土信仰に結び付け日想観のトポロジーを形成する。 四天王寺を舞台にした浄瑠璃の『摂州合邦が辻』、能楽の『弱法師』、説教節の『しんとく丸』はすべて江戸期にまで伝えられてきた日想観が下敷きになっている。ここは貴族仏教の寺とは全く異なり弱者すべてに開かれた別所でもあったのだ。 四天王寺、法隆寺、広隆寺をつなぐものが秦氏だと言うこと。聖徳太子の命日2月22日を2月繰り上げて開かれる聖霊会では、四天王寺の伎楽が披露される。その伎楽をついこの間まで千数百年に亘って伝えてきた楽士たちは物部守屋の奴婢で秦氏にゆかりの深い人たちである。 2012年のきのこ探訪はきのこの彼方にひろがるキノコチックとしか言いようのない世界を思いがけぬ手法で結びつけ、公式のアカデミー史学の光の届かぬ声なき民たちの世界を歩き、弱者を中心としたもうひとつの日のもとの物語を紡いでいきたいと思っている。 聖徳太子の周辺には常に物部守屋、蘇我氏、秦河勝らが見え隠れするといったが、この怨敵同志であるはずの諸氏が合祀に近い状態で祈りつたえられてきた。その奇妙な現象を実際に自分の足で歩いてみてそれぞれが感じとり考えていただきたい。 その大きな手がかりのひとつは、蘇我氏が物部氏に拮抗して導入した仏教が百済仏教であり、聖徳太子、秦河勝らの導入した仏教は新羅仏教であったことであろう。この微妙な色合いの違いの見極めこそが<きのこ目>の利かしどころであろう。 わが国古代における新羅、百済の文化的な差異、影響関係こそが我が国の政治経済のリモートコントローラ―となって今日まで尾を引いていると僕は考えている。 広隆寺、中宮寺のそれぞれ高名な弥勒像、そして近畿各地にちりばめられた野仏や美術工芸品からそれらの痕跡をかぎわけることもこの旅のひとつの課題ではある。
2012年03月09日
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当尾、北大門集落にあるほとけ谷の如来仏 ホトケ谷の磨崖仏は座高267cmで当地最古、天慶9(946)年造立。 岩船寺本尊と同時期の作風に似通うとされている。 今年のきのこ探訪は、きのこアートの本質は何かを体感していただくためにプランニングしている。僕にとって聖徳太子が居たとかいなかったとか言うことはたいした問題ではない。しかし、聖徳太子というキャラクターを必要とした人たちの存在のほうが重要だ。古代最大の氏族、物部氏や秦氏はそれこそわが国の六国史にも頻繁に登場し、わが国の文化の骨格を形成してきたにもかかわらず、まったく歴史の表面に現われてくることはなく影法師を踏む思いが濃厚だ。 しかし、僕はそんなアングラの菌類にも似た膨大な人の流れが、その時々にきのこさながらに事件や造形物をつくりあげてきたことに注目し、このきのこを系統的に辿ることで、これらのいにしえ人がどんな思いで生きたかが明確に感じとれるようになってきた。きのこ目を養うとは実はこういうことだったのである。 その時々の人たちの思いの形、それが無名の人たちの芸能にも、美術工芸品にもありありと表現されていること、これこそが人間の生きる証しであると考え、そんなアートの流れを伝えることを目的にしたアート展をさまざまに展開してきた。僕がくりかえし述べてきたヘテロソフィア(異なものの叡智に学ぶ)アートは民芸の精神にかぎりなく近いが、きのこという特殊な生命体と人類の関係を通して捉えなおすことによって普遍化を目指すものだ。 きのこはおそらく人類史のはじめより人間の意識に強く作用してきて、黎明期の宗教における神々との橋渡しをしてきたこと。そしてそのイメージ世界がやがてアートとなっていったと僕は考えている。 ある時代には聖化されていたものが、やがてその役目を終え他のものにとって替わられ、結果として零落、賤視されてきたことは歴史が証明している。きのこはその典型であり、僕がきのこに出会った頃はタブー視されている生きものの代表だった。そして山川草木の神々もやがて一神教の神の成立とともに零落していきタブー視されるようになった。 近代ヨーロッパ文明は古代ギリシャの理性とキリスト教を柱として発展し、ルネッサンスを境に古代地中海世界やヨーロッパ古層の神々は復活したが、その多くはおどろおどろしい怪物として表現された。 ルーベンスやカラバッジォの描いたメドゥーサは、地中海地方の方々の遺跡に刻まれた悲しげでどこか愛くるしい女神メドゥ―サとは似ても似つかぬ禍々しさを湛えていることはご存知の方も多かろうと思う。 きのこ地蔵の旅はそうした権力や権威で荘厳された神のイメージの陰で、零落していった神々の痕跡を再発見する旅でもある。すべては人のなせる業(わざ)なのだが、現在にまで伝えられてきたさまざまなアイコンからそのアートを生みだした人の切実な思いを汲みとり、私はどうあるべきかを考えることをおすすめしたい。それらがつもりつもってきのこシアター構想の骨格ができあがっていく。その発酵作用を酒づくりの杜氏さながらにみつめ、うま酒をかもしたいとかたく決意するものである。
2012年03月08日
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黄昏どきの甚五郎山 以前から気になっていた羽束三山の甚五郎山だが、本日仕事のあと図書館のブック・フェアに行くつもりが、リフトの故障で仕事が長引いたため、閉館時間となってしまった。同僚と別れてぶらりと戸外へ出るとまだ薄暮の中に山容が浮かび、眺めていると居ても立ってもいられなくなりひとっ走りして駈け登ってきた。出会ったきのこはツチグリ君だけだったが、一昨年の酷暑の頃汗だくになって登ったおりの記憶がよみがえってきて感無量だった。 この山名は、三田市の三輪神社の北方に位置する大道ケ坂から香下村にかけての山間部を縄張りとして、自給生活をしてきた浪士の甚五郎さんの名にちなむと言われている。標高432m、約20坪余りの広さの頂きは木の間隠れに町の灯がちらほらうかがえ、「ようやく来たぜ」といった思いで満たされました。ここはかって山城あとだったと言い伝えられており、干ばつの時には雨乞いの千束柴が焚かれたと言います。主峰の羽束山は標高524mで別名、鹿舌山と呼ばれ、羽束神社は古代より鹿舌神を祭神としてきました。ふもとにある集落の香下(こうげ)は、この祭神の名に由来するものだと思われ、古くは<かした>と読ませていたのではないかと思います。この神は秦氏に関係が深く、また羽束という山名は、羽束師物部(はつかしもののべ)に関連するので、この地には物部、秦氏にゆかりのある人たちが定住したことが匂って来ます。多田源氏の本拠地である川西、猪名川、能勢の地はこの氏族の痕跡の多く残る地。目がはなせません。 千苅湖(川西側)からみた羽束山。左の小峰が甚五郎山だ。 湖に向く鳥居は波豆八幡神社のもの。
2012年03月07日
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三体磨崖仏(通称 笑い仏)、座高76cmの阿弥陀と観音、勢至菩薩 永仁7(1299)年 人は何かにすがらねば生きていけない卑小な存在である。何もなければイワシの頭でも信じなければいられないほど切実な思いというものがあったし、今もあるし、これからも在りつづけるだろう。たとえば当尾では、こんな石仏に託したさまざまな人たちの想念が方々から立ち昇ってくる。 名もなき人たちの手になる仏像は儀軌にのっとっているとはいえ、その時々の確執に突き動かされ翻弄されているので表現もまちまちだ。切羽詰まった思いというものがこうした自然物に向かわせるのだ。いささかの選民意識もあっただろうが、そんなものは伽藍の外ではほとんど意味をなさず、完成とともにたちどころに雲散霧消してしまうほどのものでしかない。 岩船寺の阿弥陀と四天王像(パンフより) 表情が愛くるしい三体地蔵 この日、平安のセレブリティのために造られた岩船寺の像高3mのけやきの一木造りの阿弥陀坐像も同時に接する機会を得たが、よくこんな巨木が当時残っていたなという点では感心はしても、巨岩に無造作に彫りつけられた庶民に対し開かれた形象である三体地蔵(鎌倉末)に、僕などは荘厳さの点でもいささかもひけをとらなく、むしろ儀軌に厳密でない分親しみがもてると思ったものである。 地衣に覆われ目鼻も分かぬ地蔵像 昨夜のブログで紹介した眠り仏といい、この定式化された近世の地蔵像であっても風化し、さざれ石にもどりつつある像にこそ、個々人の祈りがようやく個人を離れ普遍的な形を持ち始めるように思える。これが僕の目指すきのこ地蔵に端を発したアートの姿であり、きのこシアター構想の目指す境地である。 カラスの壷の辻の阿弥陀とその左面に彫られた地蔵 康永2(1343)年 アートは誰のためのものであるかによって、まったく異なる表現をとる。しかし、僕たち底辺の人間にとっては表現への切実さが露わな破調の美こそ胸を打つのではないだろうか?。 浄瑠璃寺奥の院の不動磨崖仏オリジナルの剥落した断片が右 この日、春雨の降る中、奥の院の磨崖仏の痕跡を求めたついでに小滝の上流から、境界尾根を攀じ、おびただしい鹿の糞とフットプリントをたよりに小一時間、縦横に走るけもの道を辿りきのこを求めて藪こぎを楽しんだが、か細いそま道に出たのでそれを下った。僕の勘では岩船寺方面に降りたつもりだったが、そこは浄瑠璃寺のずっと下方の西小(にしお)集落だった。振り出しにもどったわけだ。随分と方向感覚も鈍ってきたなと思い知らされたことである。 折からの春雨にめざめたばかりのキクラゲ 晴れのち雨のとても変化に富んだきのこ地蔵をめぐる一日は、かくして終わった。当尾はすでに春のきざしで充ちており、学生時代に訪れた頃と寸分変らぬ静けさを湛えていて忘れがたいものとなった。日程がゆるせば梅雨の季節に再び訪れたい。
2012年03月06日
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花馬酔木匂ふ当尾 岩船寺のミツマタの花蕾 咲き初めの黄花と紅花の蕾 とりわけ感動を覚えた笑い仏のそばで発掘された地蔵(通称・眠り仏)と 岩船寺で出会った松岡正剛の風貌を具えた石仏 ハチノスタケ ヒメキクラゲ 僕の認識では当地は平安期に隆盛を迎えたと考えていたが、このおびただしい石仏群にはいささか驚きを隠せなかった。しかし、浄瑠璃寺の立て札に当地は興福寺の別所と記されてあったのを見てようやく納得した。 中世末に形成された別所には零落した秦氏や物部氏の末裔の影が見え隠れする。これら全国にちらばる別所から鎌倉仏教の革新的な動きが生じたのだ。これらの無名のアーティストたちの手に成る石仏群は、やはり、この別所を遍歴し、あるいは滞在した明日をも知れぬ漂泊の民の切実な思いが刻されているとみてよかろう。 かって40年ほども昔、堀辰雄の『信濃路大和路』をたずさえて訪ねたときには想像もつかなかった世界がそこにひろがっていた。 当時の僕は、多くの見仏ファンと同じく、岩船寺、浄瑠璃寺にあっても 伽藍仏教の精華にのみ目を奪われていたものだった。
2012年03月05日
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地天を語れば月天も語らねばならないだろう。インドの神々に詳しい斎藤昭俊氏によれば、以下のとおりである。 リグ・ヴェーダでは空の王はソーマだが、後期ヴェーダ時代には、ソーマ(Soma)が月の神と同一視された。月の神はチャンドラ(Candra)である。チャンドラは八方の守護神(ディクパーラDikpala)のひとつとされ、危難のときに拝まれた。銅色の男の姿で表わされ、旗は赤、まだらの羚羊の牽く車に乗っている。 インド仏教では、チャンドラ、アーディトヤ(太陽)、インドラ、ヴァ―ユ、シヴァ、クペーラは仏陀の従者となっている。 わが国ではチャンドラは月天とされ、十二天のひとつで、金剛界胎藏界両部曼荼羅の外院に位置している。3または5羽の鵝に乗るか、鵝の車に乗る。赤髪で右手は腰に当て左手に月輪をもつか、あるいは白蓮花を持っている。 ソーマが月の神となった背景には、きのこが太陽光にではなく月の光に反応して子実体をもたげることと無関係ではあるまい。 ソーマ、アムリタはそれぞれ神々との交信を可能にする至上の飲み物、甘露に比定されてきた。アーリヤ族の南下によってもたらされたシャーマニズムの流れはソーマの争奪として様々なメタファーの形でアートの中に残されている。ただこれらのイコンを解読し核心に迫る文献資料はすべて隠喩や暗号の形でしか残っておらず推測の域を出ない。が、世界宗教の聖典にはこのことに関して実に多くの章句を残している。 今日では、ソーマがほぼベニテングタケであったことは守るべき権威をもたない人たちの間ではほぼ定説となりつつあるが、僕にとってベニテングタケはきのこ世界のキティーちゃん的キャラであることを定着させることのほうが面白いと考えている。 お絵かきをおぼえはじめた幼稚園児が花というとワンパターンなチューリップを描くように、きのこといえば傘に水玉模様をのせたベニテングタケを描くことはすでに定番となっているのはこのきのこのもつ強烈なオ―ラにもとづくものだろう。しかし、これだけでは何か物足りない。もう一歩ひねることで面白いキャラができあがるように思える。
2012年03月03日
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さて、いよいよ起きるとするか。 文学への熱き思いからはじまった僕の旅は、意識しはじめてからもうかれこれ40年以上になる。「はじめに言葉ありき」良きにつけ悪しきにつけ、言葉に関わりつづけてやって来た。とっくの昔に死んでいても何の不思議でもない僕が、こうして生きながらえてきて、いよいよ僕の季節がふたたび巡ってきたことを強く感じている。 そこでまずランボーの『地獄の季節』の錯乱1、狂気の処女を読みなおした。孤独な魂が同じく孤独な他者というものに関わることの困難さを再確認するためである。学生時代に読んだ小林秀雄訳の岩波文庫。この詩集はクレオール状況の世界で他者と関わる際の良き羅針盤となるので手離せないのだ。 幼少より身近な自然としての山恋いにはじまり、クレオール音楽としてのジャズと出会い、英語にはじまりロシア語というアジアの列島人にとって全く異質な言語と出会い、大学の頃からは山・自然と有機的につながるために渓流釣りに凝り、自己のアイデンティティをわが国の近代文学に求め、国語の洗練を目指して俳句になじみ、マルクス主義とのかかわりの中で天皇制に行きあたり古代史を辿り、山岳写真を手がけ、巡りめぐってきのこと出会ってしまった。これはやはり、当然の帰結であったと思い返している。 生涯を通して虚構のパワー(空なるもの)に関わってきた僕にとって、虚空の大地から束の間姿を見せるきのこと出会ったとき、こんなフラジャイルな生きものが現実に存在することにめまいを感じたものだ。 僕たち人間は、あらゆる目に見えないものに形を与えその総和の上に文明を築いてきた。僕は、このきのこたちからそうした目に見えない世界を世人に先駆けて捉え、形にする際の想像力のありよう、モデルづくりを教えられてきた。 21世紀は、本来なら戦争根絶の世紀となる筈であった。ところが、全く逆の方向へ転がり始めて今や止めることが不可能なくらい加速がつき始めている。それと両輪の形で音を立てて転がりつづけているのが原子力利用である。これらの忌まわしい流れを変えるためには、何が必要か。パワーゲーム、マネーゲームに明けくれてきた人類、数万年の歴史の教訓から何ひとつ学ぶことなしに自滅の道を今また繰りかえそうとしているのは、余りに哀れでないだろうか。 人は身ひとつで生まれてくるが、どんどん智恵と物という垢にまみれて、身軽に死ぬことは不可能に近い。それは僕とておなじだ。人は生まれるのは簡単だが、死ぬのはとても難しい。それは世俗のしがらみだらけだからだ。だから、せめて思いの丈の幾千分の一でも吐き出して行っちゃいたい。と言っても貧乏神といつも一緒の僕には吐き出せるものは言葉だけ。僕がきのこから学んだことを、伝えるだけではなく、それぞれが自身の器量・力量に応じて参加できる「場づくり」を果たしたいのだ。虚実こもごもの劇場づくり。これを僕のランボー的転回とでも言っておこう。 そのために設定した10年だが、きのこしか見えないきのこ愛好家の現況を見るとうそ寒いものを感じるので、あっと言う間に過ぎてしまいそうだ。しかし、僕の年齢的なものから言えばこれでも大のおまけと言うべき時間なのだ。今回のプロジェクトは僕一人では到底不可能な規模のものなので、あせることはないが、全神経をヴァーチャルなものと実在するかにみえるものとの関係においてとらえる<きのこ目>の総仕上げを果たす中で、同調者を巻き込みながら進めていきたい。目下、そんな僕の同伴者たるや約1名だから、推して知るべし。ロシア革命前夜のインテリゲンちゃんたちの合言葉「ヴ・ナロード(人々の中へ)」にたとえれば「すべての力をきのこの彼方に」という心境である。
2012年03月02日
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