まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2021.12.24
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カテゴリ: ドラマレビュー!
Tverの「東京ラブストーリー」。
平成版&令和版が終了しました。

最初はワクワクしながら見始めたけど、
中盤以降は、かなり疲れた…。

でも、
令和版は、平成版を乗り越えたと思うし、
それと同時に、
「東京ラブストーリー」そのものが終わった 、って気もします。
坂元裕二も、そのことに満足してるんじゃないかしら?



恋愛市場において「勝者」になれるのは誰か?
それを競い合うのが、かつての都会の恋愛でした。
そんな恋愛観が支配していた時代の東京のストーリー。

結論からいうと、
勝ったのはカンチとさとみで、リカは負け。
三上も、勝ったようには見えない。
たんに尚子に勝たせてもらっただけでしょう。





当初は、
リカも、三上も、
たえず 相手のマウントを取り続けようとする人物

つねに相手の期待をかわして裏切りながら、
相手側の「誠実さ」だけを一方的に試しつづけ、
ささいな不誠実さやタイミングの悪さをなじり、
答えようのない禅問答をぶつけては追い詰め、
たくみに相手の言動を否定しながら翻弄しつづける。


相手のボケをツッコむことで、自分の優位性を維持しつづける、
そういうコミュニケーションのスタイルなのですね。

上昇志向の強かったバブル期には、
そんな支配的なキャラクターこそが理想とされて、
多くの人が「リカや三上のような振る舞い」を模倣しました。

とりわけ、
男性社会から女性上位時代へ向かう転換期において、
周囲を自在に翻弄しつづける奔放なリカの姿は称賛された。



おりしも…

80年代前半までは、
「ぶりっ子」だの「あざといポッキー娘」だのと、
同性からはげしく嫌われていたアイドル松田聖子が、

郷ひろみとの破局や、神田正輝との結婚を経て、
90年代になると、手のひらを返したように
その「奔放な生き方」が同性から称賛されはじめる…
そういう時代と重なっています。

80年代前半の松田聖子は"さとみ"だったけど、
90年代以降の松田聖子は"リカ"に反転したのです。

ちなみに、
小倉千加子の「松田聖子論」が書かれたのは89年。
ドラマ平成版の2年前でした。

この時代のフェミニストたちも、
おそらくリカの生き方を支持し、
さとみのような女性像を糾弾していたのだと思う。



それは、
従来の「古典的な女性像」に対する反動の時代でした。
だから、さとみは、あざとい「おでん女」だと糾弾された。
現実に有森也実を脅迫する視聴者までいたそうです…(笑)

当時は、
まだネットも普及してなくて、
メディアがそういう「世論」を一方的に流布した疑いもあります。

さとみへの批判がいまでも有効だと思ってる評論家がいるなら、
それは、おおむねバブルの生き残りでしょう。

いま見返すと、
カンチに「行かないでくれ」と言わせようとしたり、
別れ際にいつまでも同情や後ろ髪を引くリカのほうも、
相当にあざといのですが…(笑)。

でも、そのころは、
まだ「女子力」を率直に肯定する価値観がなかったし、
まして「あざとカワイイ」なんて概念もなかったから、
さとみのような古典的なキャラクターこそが、
上昇志向を強めていた当時の女性から見れば、
自分の恋の勝利を妨害する「仮想敵」でしかなかった。

上昇志向の強かったバブル期の若い男女は、
異性にだけでなく、同性のライバルに対しても、
いかにして優位に立てるのかをたくらんでいたのです。



リカと三上は、
最終的に恋愛ゲームに負けてしまいます。

しかし、平成版のときには、
その意味がまったく理解されなかったと思う。
むしろ、リカこそが勝つべきであって、
さとみのような女は断じて負けるべきだと思われていた。

令和版でも、
三上はいちおう勝たせてもらえているし、
リカも一概に負けたとは見えないように作られている。
…でも、ほんとうは負けています。





この物語には、
男女2対の組み合わせが出てくるのだけど、

男のほうがマウントを取る「三上&さとみ」の関係と、
女のほうがマウントを取る「リカ&カンチ」の関係が、
たがいに逆転した形になっています。

「三上&さとみ」が男性優位の古典的な関係だとすれば、
「リカ&カンチ」は女性上位の新時代の関係を象徴していた。

男たちが女を振り回してきたのとは逆に、
リカは、カンチを、自在に振り回したのです。
これは当時の女性にとって、さぞかし痛快に見えたはず。

同時に、
それは「マイフェアレディ」を逆転したような関係でもある。
つまり、都会の女が、田舎の青年を成長させる話なのです。
リカは、カンチを都会の男へと成長させます。

ただし、
(イライザはヒギンズ教授のもとへ帰ってきたけれど)
カンチは、リカのもとへ帰ってきません。
リカはカンチに捨てられる。

もとはといえば、
リカを育てたのは和賀部長だったかもしれませんが、
リカも、和賀のもとには帰らなかったのです。
和賀はリカに捨てられた。



そもそも、
リカがカンチを選ぶのも、三上がさとみを選ぶのも、
相手が「マウントの取れそうな異性」だと思えばこそです。


リカと三上がくっつこうとしないのは、
たがいに「マウントの取れなそうな相手」だと見抜いているからです。


カンチは優柔不断で頼りない田舎者だけど、
そうであればこそ、リカは、カンチを選ぶのです。

さとみも弱さゆえにあざとくて野暮ったいけれど、
そうであればこそ、三上は、さとみを選ぶのです。

どちらにしても、
相手に弱さや従順さを期待しています。
しかし、それはほとんど支配欲であって、
ほんとに「愛」と呼べるものかどうかは疑わしい。



たしかに、カンチとさとみは、
リカや三上のような「主体的な生き方」に憧れたでしょう。

なので、一見すると、
カンチやさとみのように従属的な人間のほうが、
リカや三上みたいな主体的な人間に依存してるのだと思ってしまう。

でも、実際は、その逆です。

リカと三上が最終的に負けるのは、
じつは彼らのほうがその支配関係に依存しているからです。

毒親と子供の関係や、
パワハラ上司と部下の関係の場合もそうだけれど、
じつは支配している側が、支配されている側に依存するのです。

毒親やパワハラ上司は、
「子供はいつでも自分の言うことを聞くはずだ」
「部下はいつでも自分の言うことに従うはずだ」
と思い込むからこそ、
ある日、突然、
彼らが自分の言うことに耳を貸さなくなったとき、
それまで自分を成り立たせていた基盤がぐらつくのを知る。

しばしば毒親やパワハラ上司は、
子供や部下への執着を「愛情」であるかのように偽装するけれど、
それこそが依存にほかなりません。

支配的人間というのは、
要するに「かまってちゃん」の別名なのです。
他人に依存してるという点では本質的に何も変わらない。

だから、最後には、
支配している側が捨てられるのです。

リカは、カンチに捨てられる。
三上は、さとみに捨てられる。
和賀は、リカに捨てられる。

本来なら、
ヒギンズ教授も、イライザに捨てられるべきですよね。
その現実を受け入れられなければ、子供を支配し続ける毒親と同じです。



恋愛が「勝ち負け」だというのは、
否定しようにも否定しがたい、悲しい現実です。

そして、
それを極限的に突き詰めていくような「都会の恋愛」は、
表向きはキラキラとして華やかに見えるけど、
じつは、とてつもなく悲しくて、虚しい。

いま見ると、このドラマは、
恋愛で勝とうとする生き方そのものを否定してるように見える。

かりにカンチとさとみが一時的な「勝者」だとしても、
その勝利でさえ、けっして永続的なものではありえません。

恋愛で勝とうとする生き方自体が、
とてつもなく悲しくて、虚しくて、不毛なのだから、
カンチとさとみの勝ちを誇るべきでもないし、
リカと三上の負けを恨むべきでもない。

異性に対してであれ、同性に対してであれ、
恋愛で勝とうとするような生き方はやめたほうがいい。

この「東京ラブストーリー」は、
もっとも上昇志向の強かったバブル時代の遺物にほかならないし、
令和版は、
この物語を葬り去るためにこそ作られたのだ 、とわたしは思います。




永田琴がこんなところで仕事してたとはっ!









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最終更新日  2023.09.20 10:14:11


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