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今日の午前中書いた理論から行くと試練を与えることがすなわち神=上位の存在の「愛」ということになってしまいます。つまり上位の存在は厳しいだけの霊的成長を促がすだけの存在になってしまいます。上位の存在がより「愛」を発動させた時にはより厳しい試練が訪れることになってしまいます。これは「1」の視点です。だから西暦1000年代はそれでも良かったのかも知れないのだけれど。これからはそうではないはずです。なにしろ西暦2000年代に入ったのだから。霊的成長を促がす厳しい存在の対極はどのような存在かな。生きていることの幸せを享受することをよしとする慈愛に満ちた存在、ということになります。これが慈悲の心なのでしょうか。慈悲の心とは、すなわち「生きているだけでも良いじゃない。それだけでもあなたは十分に価値ある存在なのだよ」ということをお互いに認め合う、ということです。そうですね。やっぱり私も「北風と太陽」のお話を思い出してしまいました。日曜日に読んだ本(『神秘学の本』学習研究社)によるとフロイトと決別した後ユングは少し精神的におかしくなって家の中にたくさんの幽霊が行き来するのを見るようになります。そして、その幽霊達は「我々はエルサレムから戻らねばならない。そこに我々の探していたものはなかった。」とユングに言ったとあります。これこそが西暦1000年代から西暦2000年代への課題を言い表していると私は思います。実はわたしもこのユングが見たのと同じ存在と出会ったことがあります。詳しくそのことをここに書くことは控えるとして、でも、シュタイナーの著名な研究家もここに書いたのとまったく同じことを言っていました。なのである意味これは多くの人たちが受け取っているとても大切なスピリチュアル・メッセージに他ならないのです。≪しかしながら、この「存在すること」を大切にする視点にも残念ながらさまざまなレベルが存在するのも事実です。ユングいわくの「個性化」がまったくなされていない人つまり自分自身の意識と無意識の統合がまったくなされていない人は自分という存在を絶対視してしまいます。そして、自分に都合の悪いことはすべて周囲のせいであると責任を周囲に存在する他者に押し付けてしまいます。そのようなことが出現した責任は自分自身にあります。100%といわないまでも少なくとも半分は自分自身にあることの責任は自身で取ってゆくべきでしょう。それがなしえないうちは同じことが何度でもくり返されることになります。≫わかりました。ほんとうにそうですね。
2006.05.30
きのうはおえかきの子供たちに『ギリシア神話』の「パンドラ」を読みました。物語は人間の黄金時代から始まります。ひとりでいたエピメテウスのもとに神様から一人の女性が届けられます。これがパンドラです。パンドラとエピメテウスのもとにこんどは重い箱が届けられます。箱を運んできたサテュロスたちはこの箱は、けっしてあけないようにと神さまたちは言ったと伝言します。ご承知のようにこの箱から不幸が飛び出して世界中に広がってしまうわけです。そして、だけれどその後、希望が出現します。おもしろいなぁと思ったのはパンドラが開けてはいけないといわれた箱を開ける時の描写です。夫であるエピメテウスが一日中家を留守にしていた。なのでパンドラはあの箱の中には何が入っているのかしらと考えるよりほか何もすることが無かった。そして、パンドラは人一倍しりたがりやの少女だった、と描かれています。もともとこのパンドラをエピメテウスのもとに使わした神々の使者はヘルメスなわけです。おもしろいですね。人間の発達の歴史がこの小さなお話の中にすべて織り込まれています。そしてそれは個人の成長の歴史とも重なり合うわけです。わたしは自分自身をパンドラに見ることも可能です。箱を、冥王星スクエアーとしてもおもしろいかも。箱なので、四角いわけで。重たい四角い箱。ふむふむ、やっぱり冥王星スクエアーはパンドラの箱にぴったりかも。箱の蓋を開けずに生きることも可能なのかも知れません。ただしこれも意識レベルではなくて無意識レベルでのお話になると思いますが。そして、また蓋を開けたときに飛び出してくるものは不幸というとらえ方はもう古すぎるとわたしは思います。ひとつの出来事を不幸としてとらえるためにはその人に固定化した一方的な視座が必要です。スピリチュアルなものの見方はそれとは逆相の視座を自分自身の中に作ってゆくことに他ならないと思います。つまり360度の中の180度の視点です。それは現世の実社会において実人生を生きるという固定化された視座のほかに境界線のむこうの彼岸の世界からの視線を導入することだと思います。そのことによって容易に光は闇に、闇は光に変容します。そういった意味において不幸といわれている試練はすなわち神や天使からの愛あるプレゼント、という解釈が成立するわけです。魂レベルにおいては不幸や試練によって大きな気づきに至れる可能性が内在されているからです。2000年代はこの視点の多様性に特徴が置かれるべきだとわたしは思います。2というのはそのような数字です。
2006.05.30
生れ落ちた瞬間の星の配置がどうしてこれほど人に大きな影響を与えているのでしょう?それは共時性の原理に基づく存在どうしが持っているかかわり方の影響力のため、という解釈もなされているけど。7歳くらいの幼い子どもたちの出生チャートに純粋な形で星の影響が出でいるのを見る時わたしはやっぱりこの世の神秘を感じます。だからといって西洋占星術やタロットやスピリチュアルリーディングを絶対視してしまうのもどうかとわたしは思う。星の影響は受けすぎても受けなさ過ぎても良くないのではないかな。自分自身の天空のドームを開いたり閉じたり自由自在にできるのがベストでしょう。これが21.世界のカードの花輪のクロスの意味なのだと思う。それができてはじめて西洋占星術やタロットやスピリチュアルリーディングはちゃんと使える道具になると思う。それができないうちは使い方を間違うと思う。これは自分自身に言っている言葉です。
2006.05.29
今日一番ショックだったことはわたしが2006年の5月28日をライブに生きながらダイレクトに実感していること。それは1900年代と2000年代の違い。それを日々体感的に痛感しているわけです。でも、今日トートのタロットのクローリーが同じことをもうだいぶ前にいっていたことを知ってショックだった。クローリーが生きたのは1875~1947。私が生まれる10年前に死んでいる。今日出合った本によるとキリスト教以前の異教時代を<イシスの劫>キリスト教が支配した2000年間を<オシリスの劫>そしてその後の到来を<ホルスの劫>と名づけていたらしい。そして「この新時代においてキリスト教に変わって人類を律する新たなる<法>それが<テレマ>である。<テレマ>とはギリシア語で「意志」を意味する言葉である。その言葉に象徴される時代人類はキリストに象徴される外なる救世主(メシア)を待望する無力な奴隷であることをやめる。そして自らの内なる神聖を認識し自らの<意志>により自分自身が<神>として覚醒するのである。」『神秘学の本』学習研究社P.92よりこの考え方はスピリチュアルな世界では現在かなり一般的になっていると思う。うまく言葉で言い表せないのだけど今私が生きながら感じていることはもうすでに100年ぐらい前に先の先を読んでいた人がキャッチしていたことなんだ。ということがわかってなぜかとてもショックだった。
2006.05.28
特に女性で霊能力にあこがれを持つ人は多いです。ネイタルのチャートで海王星のアスペクトが霊能力者的でご本人も霊能力に対するあこがれを持っておられるとしても子育ての最中の主婦の方とかは霊能力が封印されているケースをしょっちゅう見かけます。というのも子育ての最中は現実的なグラウンディングの方向性にエネルギーが集中しているため逆の現世的なものから開放させる力のあるスピリチュアルなものは一時期封印されているみたいです。今年の夏から秋にかけての天体配置を見ると蠍座に木星が滞在していることもあるし他にも水瓶座の海王星に獅子座の火星がオポジションを作ったり獅子座の土星がオポジジョンを作ったり蠍座の木星がスクエアーを作ったり、となかなか蠍座的こととか海王星的ことがとてもハードな状態が予想されます。それはある人にとってはわくわくするようなものであるかも知れないし、使いこなせない人にとってはわけがわからず振り回されることにもなりかねない危険性を含んだものとなる可能性は高いのではないでしょうか。私はといえば最近はもはやあまり霊能力的なものにはほとんど関心がありません。8.蠍座の次には9.射手座が来ます。射手座は原理の追求のような火のサインなので蠍座が持っている水の霊能力的要素を完全に否定した上で成立するサインだと思います。私の中では霊能力よりも原理の追求の方がはるかに勝って優勢です。どちらかというと霊能力を蹴飛ばして火のサインの原理に関心が向いているようにも思います。
2006.05.27
やっと21.世界のカードの境地が片鱗だけだけどわかるようになれたような気がしました。ちらっとだけだけど瞬間見えたような感じ。気のせい、なくらいちらっとかも知れないけど。いくら頭でわかってもそれだけではそれは何にもならない、と思っていました。思っていました、ではなくて今も、思っているのかも。頭でちらっと理解しているレベル。けど、とっても気になる。自分で描いた絵も未来の予感に満ちた絵でした。未来から吹いてくる風を感じるような。すると人はそこに向かおうとするあこがれを感じる、というような。まるっきり描きかけの絵だったけどあんがいこの絵好き、という女の人が多かったです。去年の個展の時は体感的にどうにか実感できるのは19.太陽までで20.審判と21.世界は私自身は未体験の領域的要素が強いということが認識された段階でした。つまりわからないということがわかった、というところまで。なので描けませんでした。どうして21.世界は両性具有と言われているのか。頭でわかって想像している段階とそれを体現している段階とではあまりにも次元がかけ離れていると思います。それで近づいてみたいというあこがれを持ちました。21.世界の言わんとしていることのひとつをわたしは『ぼくを探しに』の続編の『ビッグオーとの出会い』の中に見出したりしていました。くりかえし、くりかえし。生きているから複雑に絡み合いながらくりかえし、くりかえし。カード一枚の中にいろいろのことは何層にも重なっているし。9.隠者や14.節制や19.太陽の段階で男性性と女性性は何度も統合されています。最近とてもユングに関心があってそこらへんが理解の手助けになっているところもあります。『ユングとタロット』は辞書のように分厚い本なので読むのは大変だろうと手にした時に思ったのですが読み始めてみるととてもわかりやすくてすらすらとおもしろく読める本であることがわかりました。おそらくグルジェフのいう「結晶化」とユングのいう「個性化」と21.世界は共通性が高いのだと思います。『ユングとタロット』に書かれていることに対しては私はそのような解釈はしない、と思うこともあります。それではまるで正反対なのではないのかと思うような解釈。だけどそれに対しては少し前に見た夢の中に答えがありました。高次の世界と低次の世界は表裏一体というような不思議な透き通った夢でした。この夢は言葉に置き換えるのがとても難しいです。カバラの生命の樹の図式が夢になったようなだけどとてもリアルな夢でした。それにしてもなんでわたしは気がつくとこんなことをしているかな。こんなことというのは今、ここに書いたこと。9.隠者のような真理の探究者のかたわれ。いつもいつも。がしゃがしゃがしゃとシェイクされることがあってもいつの間にかここに戻っていることが多いです。浮きと重りの関係の定位置。ユングが言ったというようにわたしたちは実は原型が夢みている存在、でもあるからなのでしょうか。私の場合9ハウス射手座の土星。だけど究極、こういうことがただ単に好きなんだと思う。このところお子さんの出生図を読む機会が少しずつ増えていて生れ落ちた瞬間の出生図の不思議を思うことがたてつづけに2回続きました。ますます人間て不思議な存在だなぁ、と思っているところです。
2006.05.27
泰平の眠りを覚ます蒸気船。記憶に間違いが無ければ幕末の黒船来航を歌ったものにこんな言葉がありました。黒船は冥王星的です。それで、たとえばあなたならどちらを良しとしますか?「泰平の眠り」が幸せですか?それとも「黒船来航」が幸せですか?この問題で行き止まっているわけはネイタルの太陽火星のコンジャンクションにトランシットの冥王星がスクエアー。それが7ハウスの影響を受けてかつまり他者との関わりにおいて自分自身が能動の意志を発動する時に冥王星をするかさもなければ冥王星的存在が他者として私に出現するか。そこが問われているからです。プライドの高い人のプライドをくじく、ということはとりもなおさず私自身の中にあるプライドの高さと直面してゆくことに他なりません。自分も他者も痛いのです。これをしてゆくのか、なぁ?それが実は今の私の直面している課題なのです。言い換えれば十牛図第十図のおじいさんのように泰平の眠りの幸福を打ち破ることをわたしはして行くのか、どうか、が問われている、と言えるのかも知れません。ハードアスペクトは実際ハード、です。全然関係なく「慈悲ある人」に魅力を感じていたりも実はしたりもしていて良くわかりません。
2006.05.25
リーディングが一番難しい人を上げるとするとそれは小説家です。わたしのお客さんには何人か小説家の方がいらっしゃるのですがその方は特に西洋占星術でリーディングするのが難しいです。何故ならチャートに現われている衝動を小説という虚の世界にエネルギー放出してしまっているため占星術がいわば当たらなくなっているのです。でも逆にその方々は現実世界において自由にご自身の人生物語を創造するチャンスを手に入れられているように思います。おおかたの人は自由に人生物語を創造できるとなるとかえって戸惑う場合が多いようです。大海原に向かって「どこでも自由に漕ぎ出す自由があなたにはあるよ」となるとかえってどこにも漕げ出せなくなってしまうような感じでしょうか。その点、小説家の方はお話を創造することに関してはプロなのでそこの部分は得意なのかも知れません。ただしその場合も自身が創造したお話を現実化するためには「意識」のレベルで創造しているだけではだめで「無意識」レベルにまで強く、もしくは深く落とし込まなくてはならないことは小説家であれそうではない人たちであれ共通していることと思われます。小説家の次に難しい人はプライドの突出している人です。プライドの高い人は変化できません。変化を受けつけないのです。なぜならそれがくじけてしまうと生きてゆけないから。だからリーディングの内容を突っぱねて拒絶します。このように書くとまた、それは自分のことを書いていると思い込んだ人達から過激な反応が返ってきたりするのだけれどわたしはあなたのことを言っているとは限りません。☆泰平の眠りを覚ます蒸気船。記憶に間違いが無ければ幕末の黒船来航を歌ったものにこんな言葉がありました。黒船は冥王星的です。それで、たとえばあなたならどちらを良しとしますか?「泰平の眠り」が幸せですか?それとも「黒船来航」が幸せですか?この問題で行き止まっているわけはネイタルの太陽火星のコンジャンクションにトランシットの冥王星がスクエアー。それが7ハウスの影響を受けてかつまり他者との関わりにおいて自分自身が能動の意志を発動する時に冥王星をするかさもなければ冥王星的存在が他者として私に出現するか。そこが問われているからです。プライドの高い人のプライドをくじく、ということはとりもなおさず私自身の中にあるプライドの高さと直面してゆくことに他なりません。自分も他者も痛いのです。これをしてゆくのか、なぁ?それが実は今の私の直面している課題なのです。言い換えれば十牛図第十図のおじいさんのように泰平の眠りの幸福を打ち破ることをわたしはして行くのか、どうか、が問われている、と言えるのかも知れません。ハードアスペクトは実際ハード、です。全然関係なく「慈悲ある人」に魅力を感じていたりも実はしたりもしていて良くわかりません。
2006.05.23
わたしに9ハウス射手座の土星をインプットした身近なお年よりは、今は無き祖父でした。祖父は在野の考古学の探求者でした。本業のかたわらでこつこつと古代のものを収集していました。実際に畑の中からとか土器を掘り当ててくるのです。なのでわたしは生れ落ちた時から縄文土器のカケラやたくさんのやじりに囲まれて育ちました。祖父は名も無き研究者のひとりだったわけですが夜になると独り集中して机に向かう祖父の姿はわたしの中にインプットされていてそれは独りなのだけどとても楽しそうで夢中になって何かを学んでいる姿という印象をわたしの中に植え込んだわけです。小学生の時町のはるか遠くの小学校の考古学のクラブの子供たちが先生と家に祖父が収集した土器や矢じりを見学に来たことがありました。子ども心にそのことをとても誇らしく思ったことを覚えています。祖母はその小学生達におやつの時間だからと言ってふかし芋をふるまっていました。いくらわたしが小学生の頃とは言えそれはかなりクラッシックなもてなし方だったのでもう少しチョコレートとかにすれば良いのになどということを小学生のわたしは思ったりしていました。本物の縄文土器に囲まれてそれに実際に触ったりしながら成長できたことはとても良かったと思います。縄文土器のカケラは実際に触ってみると信じられないくらい優しくて温かくて繊細なのです。見た目の火のような元気な感じからはなかなか想像もつかないことなのではないかと思います。わたしは祖父のように無名の名も無き花で良いので最後まで活き活きとライブに生きて行きたいです。そんなことをなぜか今夜は思いました。
2006.05.22
ボイドタイムはとびますね。楽しいです。「わたし」が個人的とか社会的制約から開放されて中空に存在しているかんじかな。それで思い出したのですがタロットではメビウスの輪のように11.力の女神で反転の一ひねりが加えられるわけです。これがスピリチュアルとそうでない世界を二分していると考えることも可能です。ひねりがあるから別世界。ひねりが無ければ同じ世界なわけです。
2006.05.22
この世というのは体現の世界だから体現できて初めて書き換えられる。このことを書き留めて置くようにというメッセージが来た。早く、早く。淡雪のようにすぐに消えてなくならないうちに。今日という日はそれにしてもたくさんのメッセージが降り注ぐ日でした。
2006.05.20
あまりにも有名なシンデレラ・ストーリー。おおもとのグリムでは王子様とお姫様はめでたく結ばれてお終い!です。でも、あなただったらその後のストーリーをご自分の人生に照らし合わせてどのように思い描きますか?もし、そのそのまま王子様とお姫様は何の憂いも無く幸せに暮らしました。というストーリー以外考えられない人が居るとしたらあなたはパートナー的課題において何のいわゆる「カルマ」も持ち合わせない霊的にとても進化した人の一人ということになるのでしょう。このシンデレラその後に思い描かれるストーリーそのものがパートナー的課題においてあなたが抱えている問題を浮き彫りにしている、といっても過言ではないのでしょう。幸せなストーリーを描いてください。わたしもあなたもそしてみんなも。
2006.05.20
眠りと覚醒のちょうど中間の状態でとんでもないビジョンが見えてくることが良くあります。たぶんそれは私だけではなくて他の人にも良くあることなのだろうと思います。これが何であるのかわたしはわかりません。インスピレーションと呼ばれるものなのだろうと思うしこのインスピレーションは絵を描く時はとても大切なものだったのでこれを受信するアンテナの先はいつもぴかぴかにしておく習性が身についたようにも思うしそうではなくて、もともと生まれつきのものであるようにも思います。この見えたものはわたしの単なる妄想なのかも知れない。けどそれをこうして文章にしてもしくは絵画にして世の中に出して行か「ねばならない」という衝動は西洋占星術的にはネイタルで持っている9ハウス射手座の「土星」のなせるわざ、とも思えます。それでけさがた眠りとも目覚めとも言えない中間の状態で見えてきたものは十字架にかけられたキリストでした。そして、自分自身がそのキリストを体験しました。私の手のひらと足のこうに太い釘を打たれて十字架にはりつけになりました。それとともに伝わってきたメッセージはキリストの磔によって肉体性と精神性が分離した、というようなものでした。それで最近私の身の回りの女性たちはたくさんの人たちが「ヨガをやりたい」と言っていてわたしも少し前までそういう思いをとても強く持っていてこの流れは何かなぁ?と思ってチャートとにらめっこしてみたりしていたのだけど良くわからずに居たのですが、それは西暦2000年代に入ったからなのだという答えが降りてきて「ああ、そうなのか」と納得でした。身体性への受け止め方が大きく反転する時を迎えたということみたいです。体を持って地球に生きること。つまりは、グラウンディング。こうして文章に書くと言葉と言葉の間からきらきらとあふれてもれだして納まらずに消えていってしまうことの方がはるかに膨大でいつもそのことがとても残念に思えます。ちなみにサビアンシンボル的にはわたしはASCと冥王星に十字架のシンボルがあります。はりつけは、わたしの太陽のサビアンシンボルのイメージでもあるということもできるのでこのようなビジョンが出できたのかも知れないと思います。
2006.05.20
きのう見たMSNビデオの中に「宇宙の果て」というのがありました。MSNビデオはこちらです。この中の「宇宙の果て 地平線のかなたに」の中にだいぶ前から感じていたこと。風船の中で一生を過ごす深海魚、のおはなしと同じ解釈が出てきて感動でした。わたしは風船深海魚と同じ解釈と出会ったのはこれが初めてなのではないかな、と思いました。プラトンの「洞窟の譬え」というのも同じことを言っているのかも知れないのだけどわたしはプラトンは読んでないのでわかりません。このビデオではわたしが感じていたことがビジュアル化されているので感動!でした。そうそう、これこれ!という感じ。風船人間。そう、人間は誰もが風船の中で一生を過ごします。風船のおそとに出られる人はわずかだと思います。風船の内側にプラネタリウムみたいに出生の天体配置が写し出されているのかも。そういえばシュタイナーもそういっていました。もっとも、シュタイナーは風船の内側、とは言っていなくて頭蓋骨の内側に、と言っていました。
2006.05.19
朝パソコンのスイッチを入れてミクシィを開いたら最近いろいろなCMが部分部分に入っていたりしますがちょうどMSNの無料の放映のCMがアップされていたところだったのでしばらく見てしまいました。それはこちらです。『ダビンチ・コード』のCFも兼ねているのだと思いますがとてもおもしろくて、良くできています。内容は1)レオナルド・ダ・ビンチやモナ・リザの肉声の再現2)レオナルド・ダ・ビンチについて荒俣宏が語るもの。3)ユダの福音書の発見について。4)マグダラのマリアの存在。5)聖杯伝説とテンプル騎士団。などなど。西暦2000年になってからは今までの一神教的価値観が崩壊する可能性は十分に考えられるこだと思うので。それは何故かというと前にもここに書いたことがありますが西暦1000年代は四桁の最初の数字が1だったのが西暦2000年代は2になるからです。1というのは無双の絶対的存在。逆に、2というのは「タオ」のマークみたいに2-1=1です。四桁の数字の千の位(くらい)はアツィルト界。神の領域にもっとも近い場所、と言っても良いのだと思います。そこが1から2へ。全体性○まるの半分と半分の関係性になるわけだからユダの福音書なるものが西暦2000年になって出現するのは当然といえば当然なことだと思います。そしてその内容は今までの全く逆の解釈になるはずです。ダビンチ・コードが今までの聖書解釈を覆して反聖書解釈を取り上げてブームになっているというのもとてもよくわかる気がします。さっき見たパソコンのビデオのなかでとても印象深かったのはユダの福音書のなかでの次の言葉です。「イエスはユダにだけ真実を教えました。そのひとつが人間の中に閉じ込められた神のひらめきの開放です。イエス自身からも開放させる必要がありました。」これはH6のことだ、とわたしは思いました。つまり、ひとりひとりがキリストになるべし、とキリストは言っていただろう。原始キリスト教のキリストだったらそう言ったであろうことは容易に推測されることです。教会は長い間ひとりひとりがキリストになる道を閉ざしてきました。そのわけはオショウ・ラジニーシが言うように「そうなった」人は管理されないからです。「そうなった」というのはつまり「人間の中に閉じ込められた神のひらめきを開放した」ということ。「無禅の禅」ということばも上記の意味とは完全に重ならないまでも同じような意味合いを持つかもしれません。こちらの意味としては一度身につけそれを棄てる。棄てるなら身につけなくて良いかというとそうではない。それを捨てたあとが本物、みたいな意味。現代の絵描きに置きかえたらもっと良くわかる。絹谷先生が芸大に移ってから芸大では絹谷先生そっくりの絵を描く人たちが続出しました。でも、当の本人の絹谷先生はムサ美で教わっていた時私に「とことんまねをしろ」と言ったんだよね。「絹谷先生の画風を」という意味でじゃあなくて。油彩の授業の時、絹谷先生は私の絵を見てといってもまだ、ほとんど何も描かれていないキャンバスを見て「誰を意識しているの?」って。その一言でわたしは「この人はただものではない」と思いました。だってほとんど何も描かれていない原因が誰か一人の絵描きを意識して取り込もうと悪戦苦闘して筆が進んでいないのだ、という原因まで瞬時にして見抜いちゃったわけだから。それで「有元利夫です。」と答えた私に絹谷先生は「そうしたら、とことんまねするんだよ。」と言ったのです。たしかその時絹谷先生は「その後で」という話はしなかったと思う。けどずっと絵を描き続けてゆけば当然わかることなんだけどその後に訪れること。それは究極の独自性、そこに至らなくては絵描きではないと言うこと。つまりそれはある意味H12からH6へ。これはユングの言う「個性化」にも共通していることだと思う。ユングの言う「個性化」がなされないと究極の独自性への到達は不可能なのではないかと思うから。
2006.05.18
誰もがどこからかこの世に生まれでていつかこの世から去ってゆくというのは事実なわけです。でもあんがいいつもこの事を意識化しているわけではありません。当たり前なことですが。そして別にいつも意識化していなくて良いのだと思います。グラウンディング。つまりこの地球にしっかりとアクセスして生きてゆくというのも大切だし逆に目の前の現実のみに拘束されずに心や精神や魂の自由を大切にする生き方も重要だと思います。それでわたしはUの字の生き方をしたいです。35歳から45歳までの火星期ぐらいにもっともグラウンディングして過ごすのが良いのではないかと思います。この時期もそれぞれ好きずきかも知れませんが。土星期つまり72歳くらいまでしっかり根を張った地球生活をしたい人も居ることでしょう。赤ちゃんや小さな子どもはまだグラウンディングしていなくて発している粒子はとても細やかです。最初の成長期は地上化すること↓がテーマです。そしてもっとも着地力を強めた十年間を過ごしたらその後は今度は少しずつ離れてゆく↑のが良いのではないかと思います。少しずつ少しずつ離れてゆくと見え方が少しずつ少しずつ自由になってとても楽しいです。
2006.05.17
何年か前のことが記憶にはっきりと浮んできました。合唱団に入っていた時のこと。どうして今頃?静かにそのことに焦点を合わせてみると今の私の課題にリンクしていることが見えてきました。同じことがくり返されていることに気がつきます。わたしという個性の発色が周囲との不調和を起こした時のこと。色とりどりの毛糸が絡まったままになっている。それが再び状況設定だけ変えて現実化している。わたしは再びこの課題を静かに見つめてみようと思いました。そこから何を学びどうすれば良いのか。わたしというひとつの個性が織りなしているタペストリーみたいな布。そこにあの時はどうしてもどうして良いのかわからなかった糸のからみがあるのです。
2006.05.17
ゆうべあたりから自分自身の出生チャートのASCをまじまじと何度も見ています。ASC、つまりこの世の中に自分自身を存在し続けるエネルギー。この世におぎゃ~と生まれ出た瞬間や毎朝の目覚めを意味したりもします。アスペクトは9ハウス射手座の土星がスクエアー。ずっと土星の「ねばならぬ」が重くのしかかっていました。土星は若い時はお年寄りに投影されたりします。つまりこの「ねばならぬ」を演じていたお年寄りが身近に存在した、ということです。さすがにもうこの歳になると土星は自分で使うようになりつつありますが。7ハウスの乙女座の水星と6ハウスの乙女座の冥王星はオポジション。私がこの世に存在するということとこの水星と冥王星は常に向かい合った状態なのでとても重いです。8ハウス蠍座の海王星と金星はトライン。30代の中ごろ生きてゆく意欲が喪失されていた時に「絵を描く意欲が生きる意欲になっている」という神様の声みたいのを目覚める瞬間に耳にしたことがあったのですがそれはこのアスペクトのことを言っているのだなぁ、と思いました。絵を描くことで生かされてきた、というとなんとおおげさな、と思われたりしてきたのですがそれはわたしにとっては本当のことだったのです。重い、重い。それで、ゆうべはASCを変えるには出生地変更をしてしまえば良いのだ、ということに気がついてどこに行けばどうなるのか、をしばらく調べていました。南に行けば良いみたい。南って、でも何処へ?地図を見て南下してゆくとなぜか佐賀に行きます。どうして佐賀に行くのかゆうべはわからなかったけどけさそこには果たせぬ夢が残っていたことに気がつきました。それでなのですね。
2006.05.13
最近、このチョコレートメーカーは頑張っている、と思います。「頑張る」は近頃はなかなか使ってはいけない言葉になっていますが、でも、そう思います。少し前にムーのめぐちゃんにジャジャでもらったここのメーカーの「黄な粉チョコ」は食べた瞬間とっても気に入って、(だって中にご丁寧にお餅まで入っているのだもの)コンビニで売っていたのを箱で買ってしばらく食べ続けていました。(それにしても職場で食べるお菓子ってどうしてあんなにまでもおいしいのだろう、と思います。)今回見つけたこれも袋のキャラの濃さといい頑張ってるなーととっても応援したい気持ちになりました。
2006.05.11
ブルックナーの交響曲が好きでときどきとても聞きたくなります。だいぶむかしオイリュトミーをやっていた時にちょうどギュンター・ヴァンドが亡くなったこともあってオイリュトミーの先生がブルックナーのお話とかをしたことがあって一度聞いてみたいと思い続けていたので数年前に交響曲のCDを8枚買いました。どうして8枚かというと交響曲は1番から9番まであるのですが交響曲第6番だけは何故かどこのお店に行っても置いてなかったりしたからです。大きなCD屋さんに行くと他の第8番とかは(背表紙の幅にして)20センチくらいはいろんな指揮者とオーケストラのCDがあるのに第6番だけはあっても1~2枚でヴァントは一枚も無かったりだったのです。それでわたしのなかでブルックナーの交響曲第6番をギュンター・ヴァントで、というのはずっと憧れでそういうCDが輸入版だったらあることもわかっていたのでいつか聞いてみたいという憧れの曲になっていました。それでそのことばかりが記憶に残っていてブルックナーの6番はまぼろしの憧れの曲ということにわたしのなかで固定されていて手に入らないから追い求める憧れの音楽である、という認識ができあがっていてそのことばかりが強まっていたのだなぁ。どうしてかというと、さっき見たらわたしのCD置き場の中にそれはあったから。記憶に残っていないのだけどわたしはそのCDをどこかで入手して聞いたらしい。手に入らない曲という印象ばかりが強まって事実さえも記憶の中で歪んでしまったらしいのです。確かに今、聞いてみても6番はなかなかそういう曲です。ふしぎな記憶に残らない存在感の無さがあります。まるで透明人間のような曲かも知れません。
2006.05.11
きのう「トリノの聖骸布」という存在を初めて知りました。聖骸布、つまりキリストの遺体を包んだ布といわれているものです。載っていた写真はモノクロのとても小さなものだったけどすごい!と思いました。これは偽物であるとかでも、その偽物を作ったのはダ・ビンチであるというお話もあるということですが入っているエネルギーがとてもとても並ではありません。すごい!としかいいようが無い、です。それにしてもダ・ビンチの絵画に比べてしまうとベラスケスもカラバッジオもレンブラントでさえも何といえば良いのだろう。「お席が次」な、感じなのです。表現方法は全く違うとしてもダ・ビンチの「お隣」なのはジョットだけかも知れませんと、思いました。「トリノの聖骸布」に触発されて2.女教皇を描きなおしています。先日の皇室の巫女の情報からかなりわたしなりに得られるものが大きかった感じです。
2006.05.11
どうして今頃急になのかわかりませんが昔みた夢を突然思い出しました。それは私の産んだ赤ちゃんだったのですが目がおでこの方にも二個ずつたくさんついているというものでした。このように言葉で書くとちょっと不気味に思えるかもしれませんが夢の中では少しも不気味ではありませんでした。それでその時自分で夢分析をして「これは多層的な視点がこれから手に入る、ということだ」と思いとてもうれしく思ったのを覚えています。
2006.05.10
教育基本法が今、改訂されようとしているのですね。その内容に耳を傾けてみたら来たるべき山羊座冥王星時代の足音を感じざるを得ませんでした。現在の教育基本法は個人の自由にウエイトがかかり過ぎているというスタンスのもともっと公共の精神や日本という国家を尊重するという方向性を根本にすえようとしているとのことで「愛国心」という言葉を使うかどうかも問題になっているとのことでした。冥王星がはじめて山羊座入りをするのは2008年の1月27日。それを前触れし強調するかのように2007年の12月20日に木星が山羊座入りをします。天文歴で確認してみたらいったん山羊座入りした冥王星は逆行のため6月15日からはふたたび射手座に戻りますが11月28日にもう一度山羊座入りをしてその後はもう射手座には戻らないみたいです。ということは逆行で射手座に戻る5ヶ月間も木星は山羊座に滞在していることを考えると2008年からはかなり山羊座カラーが一気に濃厚になる感じなのではないかな。海王星がある場所を「夢みる場所」と考えると山羊座海王星世代の若者たちは山羊座冥王星時代の根本改革の(政治的なだけの意味ではなく)担い手になって行くわけで天体配置とはうまくできているものだなぁ、とつくづく感心したりします。ほぼセクスタイルの関係性で海王星が冥王星よりも先行しているということはこういうことなのか、と思います。先に受け皿を用意していたのか。やっぱりH6とH12の関係性だったんですね。それでもって、この山羊座海王星世代の若者の多くは海王星と天王星のコンジャンクション世代でもあるわけなので、今調べてみたら1990年から1996年生まれの場合はオーブ6度以内で天王星と海王星がコンジャンクションでした。そこにこれから次々とトランシットの冥王星が乗ってゆくわけでどのような世の中に変化してゆくのか楽しみです。山羊座なわけだから「今・ここ」という現場性がどんどん改革されてゆくわけです。こういう大きな流れについて考える時わたしは地球環境やエコロジーについて思い出します。そういうことを先進的な一部の人たちが言い始めたほんとうに最初の最初の時大方の人たちは「そうは言っても、どうせ経済や企業が優先されるに決まっているよ、世の中ってそういうもんだよ」と覚めた目で見ていたのだよね~。それが今ではみごとに逆転しました。緻密なゴミの分別とかをする時これは乙女座冥王星世代が支えている作業だなぁ、とつくづく思ったりもします。
2006.05.09
今日山手線に乗っていたら「週間ポスト」という雑誌のつり革広告の一文に目が止まりました。見出しのタイトルは57年間仕えた驚きと神秘の世界最後の宮中女官が知られざる「皇室奥の院」全告白。わたしは雑誌はめったに買わないのですが久しぶりに買って読んでみました。4ページくらいの短い記事だったのですが興味深く読みました。そのなかで強調されているのは身体の上と下を極端に分離した価値観でした。つまり上はきれいで下は穢れている、という価値観。それに基づいて徹底した日常を送るみたいです。そうすることによってより上下の意識が日々強調され分離されてゆくのでしょうね。上と下はまったく別もの。となって行くはずです。その縦にびよ~んと強調された意識の中で「神」の通り道となるのでしょう。「現代社会で生きる人には想像もできないかもしれません。さぞ窮屈、退屈と思われるかもしれませんが、穏やかですばらしい日々でございました。」とその最後の巫女はコメントしていました。
2006.05.08
ここのところなかなかスペシャルな天体配置が楽しめていますね。現在水のグランドトラインが牡牛座の太陽でカイトをつくっているわけですが先日5月3日はそのカイトの太陽は不動宮のグランドクロスの一角もになっていました。今日、5月7日は夜の7時くらいから水と土のグランドセクスタイルに一個山羊座だけが欠けている状態が成立してます。これは明日まで続きます。水のサインの心の交流が物質的なものとかを呼び寄せたりする状態。山羊座13度くらいを何かの天体が埋めている人はどんな現われ方をしているのでしょうね。グランドセクスタイルの成立。体験してみたいです。私の場合は今日で吉祥寺ジャジャが最終日。それでオーナーに頼み込んで譲り受けたお店を守っていたターラーつまり大地母神の像をリュックに入れてよいしょよいしょと目白のアトリエえんどうまめまで運びました。重かったけどとってもうれしかった。と、こんな感じに現象化しています。ターラーはさっそくもともと決めていた部屋の一角に設置しました。あと明日の朝伏見稲荷のおふだをいつものところに張る予定にしています。それでもつてラフマニノフの交響曲第2番を聞いています。聞きながらおいしいものを食べています。水のグランドトラインが牡牛座の太陽でカイトをつくる状態は5月15日まで続きます。6月10日くらいには現在のこのトランシットの太陽があるところにトランシットの金星が来て再びカイトをつくります。
2006.05.07
やっぱりこういうスピリチュアルな生き方をして行こうとすることは自分自身に対するあくなき向上心を持ち続けられるかどうかが問われているところがありますね。貪欲なくらいそこのところは強くても良いのかも知れません。と、言うことはつまり、自分自身の「変容」にお金を払えるかどうかということですね。お金というのは単なるエネルギーの変換装置なわけですから。そうしたい人その価値があると思う人はそうすれば良いわけでそこには本人の選択の自由があることになります。
2006.05.06
けさがたの夢の中に、格式と伝統のある幼稚園が出てきました。私が住んでいるここ目白は占星術的には「山羊座」地区になります。そのせいか現実世界にもそのような幼稚園はたくさんあります。私はその幼稚園の表門から中にはいります。そしてしばらくして何年か経ったあとで裏から出て行きます。ふりかえってみるとそこは神社が営んでいる幼稚園だったらしいのですがもうすでに日が落ちて子供たちも帰った後で寒々としていました。わたしは神社の石段を降りて自転車で家に帰ります。その頃は小雨が降っていました。わたしの帰る家は北にあります。太い幹線道路を自転車で北にむかいます。大きな十字路があってそれはきれいに東西南北に分かれているのですが東西に伸びるほうの道を渡ると十字路の北西がわの角につまり南東に向いた形でおでん屋さんがあって老夫婦が住んでいました。わたしはいくつかのおでんを買います。おでんといってもはるか遠い昔の食べたことのないような不思議でおいしそうな食べ物でした。今から思うとその夫婦は道祖神だったと思います。そのころには晴れておひさまが顔をのぞかせていました。
2006.05.05
普通の一般的なこどものお絵描きの中にも占星術を導入してゆきたいと思っています。まだ、それはまだできていません。それができると良いと思うわけは西洋占星術を使うとおかあさんとのセッションの時に中立客観的なポジションからのお話が可能になるからです。「単独行動が目立って協調性が無い」とお母さんが悩んでいる子どもの出生チャートをみたら双子座が強かったとか、あまりにも一目瞭然で、そのことを上手にお母さんに伝えられるとその子が持っている個性をより良く伸ばしていける方向性をお母さんと一緒に見つけてゆくことが可能になります。占星術を使わない場合はわたしという限定された体験しかしていない指導者の経験をもとにしたお話しかできないのです。指導者の経験や主観から開放された全体性の中からの客観的アドバイスが占星術を導入すると可能になります。それができるとこどもたちひとりひとりが持っている内在している可能性を十二分に発揮させてゆくことができやすくなるわけです。できてないわけはただ単に今までしてこなかったからなのかも知れません。しばらくこのことについては忘れていました。やろうとしたこともあったのだけど。古い今までの型を少しずつ変えながら変化しているのでここまで来るまでに3年くらいかかっています。「占い」というとうかがわしいものとして用心深い対応をする人もいます。だまされまいと身構えている人もいるので。占星術が持っているすばらしさは一部の人たちにしか伝わらないのかな?ぐるりと360度いろいろな人がいることへの理解は西洋占星術はとても優れたツールのようにも思うのですが。私自身の中に存在している不安が解消されて勇気を持って乗り越えられたらきっと、これは現実化するのでしょうね。自身の統合化なのでしょう。それまであきらめずになんどもくり返してみようと思います。意識し始めたのは山羊座的要素への対応なのかも知れません。
2006.05.04
体の左の肩を緩ませてゆくのはとても気持ちの良いことです。肩を動かす時は左の腕も動かすわけなので日常生活ではとらないような腕のポーズをとって息をゆっくりと吐いています。武蔵美の突き当たりの図書館のある大きな建物の一階には巨大な石膏像があったのですがそこに腕が羽根になっている頭部の損失されたギリシアの女性像もありました。「ニケ」って言うんだったかな。この運動をしていたらそれを思い出しました。これだけでなくたくさんのことが思い出されています。深い暗い闇の中からあぶくが浮かび上がるみたいに子どもの頃に言われ続けたことが思い上がってきています。腕の付け根の肋骨の辺りまで緩みます。緩ませることで羽が手に入ると考えると素敵です。過去の拘束から解き放たれて自由な羽根が手に入る。整体のS先生が生きていた頃はほんとうにそのような体験を何度もしました。左側の萎縮を緩ませることは「感受性の浄化」。わたしはこういう瞬間に生きてて良かった、と感じます。
2006.05.04
左半身が今変化しています。ジャジャのKちゃんのリーディングによると「左肩に昔の西洋の鎧兜をつけてるよ。」ということで、「何か恐れてるね。」カウンセリング整体のおっちゃんには「こりゃあ、あれだ。育てられた人からの影響だ。そうとう、古いもんだなぁ。」ということでまたまた生い立ちの中の古いものが表面に出始めました。生い立ちの中で「この世界は悪意に満ちた恐いところ」という刷り込みがなされてきたのはずい分と意識化してわかっていたのですけれど今まで出ていなかったくらいもっと古いものが出てきているわけはそういう時が来たからなのだろうな。そういう時、というのは自分自身の中でむかい合って「ありがとう」と「さようなら」をする時。神話の中の「蛇殺し」をする時なんだろうな。
2006.05.03
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