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頭の中が絵のことでいっぱいなので、また絵のお話です。2004年の2月にサビアンシンボル展をするまではわたしはずっと抽象画を描いていました。抽象画としての、自分自身のスタイルにどうにか到達し始めたのが1990年頃。抽象画の描き方は「地図のない旅」と自分で名前をつけた描き方。それは、グリムの「赤ずきん」で赤ずきんちゃんが森でお花を摘むのと同じ描き方です。偶然性をフルに利用し感性だけで描いて行きます。アップした写真はきのうブログにも書いた製作途中の、コートカードのスウォードの、ナイトとページです。描いてゆくプロセスで偶然ページの鎧のようなベストがとてもきれいな金色になりました。とても気に入っているのでこの部分は描き変えたくない。だけど、カードの持つ内容と合致させようとするならページが金色の鎧を身につけているのはふさわしくありません。困ったな。造形的な普通の絵であればこの金色は最後まで残して生かして行きたいところです。「地図のない旅」は制約の全く無い絵画だったのでそれが可能です。でも、タロットのように内容をともなった絵画の場合はそうはいきません。こんなところにつまづいています。それであゆみがとっても遅いです。絵画の中に内容と意味を織り込むことや具体的なことを描きこむことがどうしても不得手でというのも長い間そうすることをしてこなかったのでこれからの課題です。このことは私の生き方にもリンクしています。おもしろいです。しかし、個展間際の文章というのはどんな文章もある意味みんな言い訳のようにも思えてきたりもします。
2006.11.30
作品を完成させるということは不動のものとして確立させるということ。未完成の作品は流動的に変化し続ける。つまり、生きている。今描いているタロットの絵に関してわたしが、けして「手が入らない」と思うのは「手が入らない」つまり描き加えたり変更することが不可能と思っているのは前回の大アルカナ展の19.太陽の、この絵だけ。あとは全部まだまだ生きている作品。*だけどやはりこの絵の印刷は写真撮影→印刷のプロセスの中で大幅に色彩が変化してしまいました。元のオリジナルの絵はここまで黄土色ではありません。もっと、黄色なのです。残念です。*ある意味この作品に向けて残りの全作品を統合してゆくということでもあります。
2006.11.30
クラッシックの声楽をやっていた人がポップスの歌を、声色を変えずに歌っているようなところが、ある。だいぶ昔だけど錦織健が、サザンの歌を声楽の歌い方で歌ったのをテレビで見たことがある。高気圧は、ビーナスたちの、交差点~ん。驚いた司会者が、フォローのために「錦織さん、サザンの歌は聞いたことがありますか?」と尋ねると「いいえ、実はありません。」という答え。「じゃあ、どうやって覚えたのですが?」と司会者。なぜなら、暗譜だったので。「はい、楽譜を見て、覚えました。」と錦織健の答え。タロットカードの絵は、古典版のおおもとはおそらく木版画なのだろう。それは16世紀のイタリアあたりのもの。そうでないとしたら、ライダーウエイト版とか。もしくは、モーガングリアー版とか。これらはいずれにしても、イラスト。あまたある世界のタロットカードの中にはそうではなくて、本格的な絵描きが描いた油絵とかのタロットもあるけれどそれはそれで良いものかというとけしてそうとも言い切れずにやたら重たい印象が強すぎたりもする。わたしは今まで油絵を描き続けてきたのでどうしても、それを背負ってタロットの絵を描いている。イラストや版画を見下しているわけではない。そうではないのだがイラストや版画はわたしはどうしても描けないのだ。なぜ、タロットの絵を描いているか?理由や目的は、ひとつではない。自分自身の表現に到達すること。日本的タロットの制作をすること。スピリチュアルな内容を探求すること。いわさきちひろ谷内六郎庶民の中にまで浸透した絵描き。絵を携えて山から街へ。遅々として進まないのではなくて遅々としては、進んでいる。あまりにも、遅々としているだけだ。今年のコートカードの絵は去年までのものと大幅に表現スタイルが変化した。これはやはり完成していない未完成なだけではなくてこちら側におそらく完成があるのだ。こちら側に完成があるのは確かなのだけどまだ、どうしても到達はできていない。勇気を持ってここに留まる。完成をけしていそが無い。
2006.11.29
絵を描く時というのは、意識が内向し瞑想的状態になりますので、普段は思い起こさないようないろいろなことも記憶の中から出てきたりします。それでけさ、今描いている絵の線描きの中に何色をつけるかということを考えていましたら子供の頃に良くやった「ぬりえ」を思い出しました。「ぬりえ」と「着せ替え人形」のノートは町の駄菓子屋さんや、文房具屋さんで売っていました。私が子どもの頃の昭和30年代は、女の子たちは良く、その「ぬり絵」と「着せ替え人形」で遊びました。この「ぬり絵」と「着せ替え人形」はとても乙女座冥王星世代にふさわしい遊びだったように思います。乙女座冥王星世代の前の、獅子座冥王星世代が子どもだった頃にはまだ「ぬり絵」と「着せ替え人形」のノートはあまり世の中に普及していなかったように思います。獅子座冥王星の、最後の頃の世代が、子どもだった頃はまだ戦後まもなくの気配が、世の中に濃厚に残っていて文房具などが、豊かに流通していた時代で、はありませんでした。でも、このことは獅子座冥王星世代にとってはとてもプラスに働きました。与えられた素材ではなくて、何もないところで遊ぶという真の創造性を開発する体験が、幼少期になされたからです。創造性と想像性はとても密接に関り合っています。物が無いということは、一見とても悪いことのように思われますが、実はそうではなくて、物が無いところでは豊かな想像性が生れそのことによって創造的な資質が育てられるということがあるわけです。わたしは、子どもたちと、お絵描きを通して、長い間関わってきましたので、このことについては、いつもとても深く考えさせられるところです。
2006.11.29
某(有名な)整体師のお話を前にこのブログに書いたことがありましたがそうしたらそれを読んだある人がそれが誰であるかをずばり!言い当てていました。すごいですね。というよりわたしの書き方だと読んだ人は、誰でもわかっちゃうのでしょうか?まあ、わかっても別に良いのですが。その整体師の先生のブレスワークをした時浮んできたビジョンのひとつが夕暮れ時、お母さんか誰かの背中に負ぶわれていた、わたしでその時に、わたしは心の中で「わかって!わかって!」と何度も叫んでしました。幼少期の共感体験の不足。これは、「思いやり」の不在を引き起こしていました。「思いやりの不在」は鋳型となって母から子へと引き継がれてゆきますね。このことを意識化できたことはブレスワークに参加しての私の大きな宝物のひとつとなりました。ちょうどプログレスの月が蟹座入りをする頃のお話。テーマが蟹座的「共感」に移った時のお話です。それまでは、自分自身の中に共感と思いやりが欠乏していたこと意識化することはできなかったです。欠乏していること自体全然気がつかなかったり自分では十分にあると思っていても実は、まだらまだらに濃淡が部分部分で極端になっていたり。気がつけるということはすばらしいことですね。
2006.11.29
絹 シルクの服を着ていると労働がしにくいです。そのように、今日も思いました。絹 シルクの服を着ているといつもそのように思います。同じような長袖の下着なのですが綿のものを着ているときと絹のものを着ているときとでは労働力に違いが出ます。とくに、家事とか体を使うお仕事は絹ではパワーがでません。これは私だけなのでしょうか?わかりませんが。でも、おおもとを確認すると絹というのは、蚕 かいこが作った繭 まゆを煮て糸をつむぎだすわけで蚕 かいこは煮られて死にます。繭 まゆというのは変容のシステムで蚕 かいこは変容の途中でそのままあちらの世界に行った訳です。たぶん成虫になったらそのあと成虫として交尾をして子孫を残す予定だったのだろう、とか思ったりもします。ということは陰陽分裂する以前の幼虫から蛹 さなぎへの変容の途中で蚕 かいこは死んでいるのでこれはとてもスピリチュアルな繊維であると言う事が出来るのかも知れません。昔から絹 シルクは高価なので 貴人が着て木綿は安価なので 庶民が着ていたわけですがただそれだけでなく何か体が発しているオーラとかパルスと絹 シルクと木綿の関係がありそうな気がしました。絹 シルクは やはり体をあまり活動的にしないでじっとさせていて中身の精神や心理や霊性を活性化するのにとても向いていると思うし木綿は 逆に中身を沈静化させたり眠らせたりした状態で身体を活性化して汗をかくような労働をして行く時にどんどんエネルギーがそちらの方向に向かうように思います。同調する波動が絹 シルクだと細かい木綿だと それより荒いということはやはりあると思います。身につけるものだけにそれはやっぱりハッキリとした違いと効果があるように思いました。
2006.11.27
明日のお昼過ぎ午後一時ごろ木星が射手座に入ります。一年間の蠍座滞在が終わります。その間際予想もしなかったとても深い断層を今、垣間見ているような。深い断層の下には普段は埋もれて見えない地層が奥深くまで見えていて。これは日本の心理的地層なのではないか、と。いずれにしても蠍座の強さは少しずつ弱まって行くはずです。絵を描くことを少し中断。深い瞑想に入ってみましょう。*やはり現在のトランシット天体の天体配置を利用して腐れ縁を絶ちたい人は腐れ縁を絶つことにしてみるとか。逆に、手放したくないご縁はトランシット天体の波に翻弄されること無くしっかり握り続けているとか。そんなふうにするのが良いのではないかと思います。
2006.11.23
肯定のエネルギーを向けられた時はわたしの生きてゆく力になります。肯定のエネルギーは相手の人の存在を認めるエネルギーです。相手の人に寄り添い共感するエネルギーです。否定のエネルギーは時としてこの全く逆になることがあります。しかしながら注ぎ込むプラスのエネルギーもいつもたくさんが良いかというと必ずしもそうではないです。たとえば植物を育てるときにお水や肥料をたくさんやれば良いかというとけしてそうではなくてお水や肥料はやりすぎてもいけないしやり足りなくても良くないです。せめてせめて相手の中の良さを見つけてゆく方向を心がけて行きたいです。欠点や短所はすぐに目につきます。良いところを見つけてゆくことは相手の人もわたし自身も生かしてゆく方向なのだと思います。こんなとてもあたりまえのわかりきったことなのですが実際に行動として行ってゆくのはあんがいに難しかったりします。
2006.11.22
お絵描き教室に来ているお子さんのお母さんたちに、いろいろなお話をするようにしています。先日は、目に見えないものを意識してみましょうということで、それはたとえば生命力感情思考意志力などなど。そのお話をした後で目に見えないものを感じるための粘土のワークをしました。400グラムの粘土の球をひとりひとりが心をこめて作ります。少し瞑想状態になったり時にはおしゃべりに花が咲かせたりしながら。そのあとでお隣の人に粘土の球を回します。驚きの感想があがります。体の中に浸透している目に見えないわたしはひとりずつがこんなにも違うのだということが触覚を通じて実感されます。*目に見えない世界を旅するときに透き通った地図を手にすることも大切だと思います。そうでないとあまりの無秩序さや 膨大さや エネルギーなどに翻弄されてしまう可能性もあると思います。わたしたち人類の中にはそのことについていろいろ考えたり 感じたり 研究したり 実践したりした足跡がたくさん残されているのでその中でこれかなと思うものを探し出してみるのも良いのではないかと思ったりもします。
2006.11.22
惜しみなく愛は奪うという心境というより意識レベルにはじめて到達できてからわたし自身に起きたスピリチュアルな変化があります。それは日常のささいなすべての出来事からとても新鮮な印象を受け取ることが出来るようになった、こと。まるで映画を見ているみたい。とか子どもの時みていた世界の再現のような。とてもうれしい!これはスピリチュアルの醍醐味。神秘的変容のひとつといっても良いのかも知れないです。
2006.11.21
科学の実験で結晶を作った記憶がはるか昔にあります。小学校の頃でしょうか。水の中にお砂糖だったかお塩だったかそれとも別の薬品だったか。とにかく白い粉を溶かして暖めてゆく。そうすると飽和状態の密度が上昇してゆく。つまり、とても濃い溶液ができます。そこに紐をたらしてどうにかすると(この細かいプロセスは忘れました)紐の先に、白い結晶が水温の下降とともに少しずつできて行く、というようなものだったと思います。この結晶化においては結晶が出来始めたら静かに固定するこれがポイントだったように思います。身体に置きかえたら妊娠もこれに似ているプロセスです。特に妊娠初期は静かにしている必要性がどうしてもあります。
2006.11.21
私が今一番したいことは『惜しみなく愛は奪う』を読むことです。展覧会までとにかくいそがしいです。時間がありません。だけどわたしはこの本を読みたい。なぜならそのことに究極の自己肯定が隠されているように今日思えたからです。存在自体がある意味罪深い人間存在、もしくは自己の存在のなぜなら根源的には動物であるにしろ植物であるにしろ他の命を食べて生きている私たちのつまりいやがおうでも環境に自分自身の存在を割り込ませながら存在せざるを得ないわたしたちの究極の肯定がそこにあるのかも知れません。そうでない場合は自分自身を逆の非存在の方向性へむかわせてしまいます。そうなると方向性的にどんどん自分自身を消して行って最後にはその人は透明人間になってしまうことでしょう。それはそれで私としてはなかなか好みの存在形態ではあるのですが。惜しみなく愛を奪えたらそれこそ究極の自己肯定です。わたしは存在して生きていて良いのです。*このあとなぜかジョンレノンとオノヨーコがビジョンの中に出現。オノヨーコ。「みんなの」ジョンレノンを「わたしの」ジョンレノンにした人。こういう意味ではオノヨーコは究極の自己肯定に到達していた人なのかも知れませんね。私の記憶違いでなかったらそのプロセスを経てこそあの「イマジン」はできたのでした。*そして、愛ということでいうなら惜しみなく愛は奪い惜しみなく愛は与えたいものです。全方位的無償の愛。これが太陽の愛だとわたしはおもいます。
2006.11.19
展覧会の葉書がさきほど印刷屋さんから宅急便で届きました。今年の葉書はとっても良くできています。たいてい写真→印刷のプロセスで不満足なものになることがどうしても多いのですが今年の葉書はとても良いです。これからみんなに送ります。
2006.11.18
クリスマスが近づいてくると雰囲気的に宗教音楽を聴きたくなるのはきっとわたしだけでは無いのだと思います。モーツアルトの『大ミサ曲 ハ短調』CDジャケットの写真にひかれてかなり昔に買いました。その頃はどういう曲か知らなかったのですか家に帰って、聴いてみてどきどきしたのを覚えています。合唱をやっていた時いちどは歌ってみたい憧れの曲のひとつでした。その夢はまだ現実化していません。今日はコートカードの騎士を朝から描いています。
2006.11.18
水星逆行は、明日あたりが1番ディープに度数を進み、あさっての土曜日から、反転して順行になります。通信機器のトラブルは、よく言われているところですが私の場合、長文を入力したこのブログの文章が先ほど、ありえない感じで全部、一気に消えました。ある意味オープンににしない方が良かった文章かもしれないのでそれでよかったのかもしれないと思い今こうして書き換えています。私にとっての水星逆行はおけの底が一つ抜けてタロット18.月のように下からザリガニがあがってきました。ザリガニというのは、今回の私の場合は過去の対人関係でした。今、そのことと向かい合いそのことを自分自身の中で書き換えています。
2006.11.16
いそがしすぎて絵がかけずに居たのでなかなか元のところまで調子を取り戻すことができません。こういう時は描くことを辛く感じる時です。ただ描いてこの状態を乗り越えるしかありません。今日はおもにペィジを描きました。明日も早起きして続きを描こうと思います。*だけどこの時に反転するのかも知れないな、と思いました。ちょっと苦しい時なのですがこの時に解放の方向へと渦巻きを反転させるようにも思いました。
2006.11.15
ひさしぶりに音楽が聴きたくなってバッハを聴きました。絵を描きながら音楽をかけました。バッハ・コレギウム・ジャパンには前に歌を歌っていた頃ボイトレの先生が所属していたので親近感があります。
2006.11.15
生活の守りに入ったとたんに喪失するものもあって難しいところです。0.愚者のようなそしてまた17.星のような、何も持たないことがもっている良さもあります。日常の生活の豊かさの中でもそれを忘れないで居られるとしたら良いのだと思います。
2006.11.15
小学校4年生の男の子たちのお絵描きのクラスでこの本の「トロイア戦争」のところを読んでいます。子どもたちはお話を聞きながら絵を描きます。龍とか出てきてとてもおもしろい絵になります。わたしはトロイア戦争のことはあまり知らなかったのですがなかなかに壮絶な戦いのお話です。これはつまり例の「黄金の林檎を投げ入れられた女神達が....」が発端のお話です。
2006.11.13
錬金術では物質にいろいろとアプローチすることでアプローチしている自分自身も変容してゆくというシステムをとってゆくらしいですが絵を描くということも同じような変容をともなう行為でもあるわけです。個展に向けての絵にぐるりと取り囲まれて暮らしています。今を生きている私の最先端の変容の部分それは植物にたとえると一番変化をともなう芽の先みたいなそこが自分自身からアウトプットされ絵画の上に転写されその絵画を見ることによって自分自身を写し出す鏡を見るように再び自分自身の中にインプットされて行く、というプロセスが何度も何度もくり返されて行きます。
2006.11.13
セラピーキャンドルを作る日をつくってみました。クリスマス間近は冬至も近いので内面に静かに向かうのにとてもふさわしい時です。シュタイナー教育で使われているナチュラルな蜜蝋に色とりどりの色彩が付けられた専用の蜜蝋粘土でデコレーションキャンドルをつくります。蝋燭の焔はあなたを静かに内面の旅に導いてくれることでしょう。魂の結び付きのご縁のある方がたどうぞ、お集まりください。*みなさん、こんにちは。 クリスマスを前に セラピーキャンドルづくりの ご案内です。 球形のキャンドルの回りに 蜜蝋でできた色とりどりの デコレーションをつけて オリジナルなキャンドルを 作ります。 使い方を工夫すると アロマキャンドルにも できます。 球形に近いので 何かお気に入りの 天体をイメージして 作ることもできます。 12月15日 金曜日 1時から4時まで 自由が丘 アプェゼ 参加費は 材料込費みで 3600円です。 参加希望の方は メールにてお申し込みください。 ご連絡をお待ちいたしております。
2006.11.11
蠍座に集合天体が集結しているお話は何度もここに書きましたがからっと晴れている日はともかく今日のようなしとしと雨の降る週末の夜はやはり感情的に少しディープですね。あと二週間。あと二週間たてば太陽も木星も射手座入りをするのでだいぶ変化が訪れるはず。蠍座のディープさの苦手な人は、それまでのもう少しの辛抱です。逆に蠍座のディープさの好きな人は深まる濃さを味わわれると良いと思います。やっぱりお酒にたとえたら赤ワインのフルボディーな感じがとてもします。
2006.11.11
放映時間が近づいたら緊張して少しどきどきしてきました。お仕事の予約が入っていましたがその方から「少し遅れます」のメールが来て放映を見ることができました。アートセラピーの部分は編集されて少しになっていましたがそれはもともとそうなります、と言われていました。それにしても自由が丘にはいろいろなおもしろそうなお店がたくさんあるのだなぁ、すてきな街なのだなぁと思いました。
2006.11.11
11月21日に蠍座29度で新月が起きます。酋長に自分の子供たちの命ごいをするインディアンの女性朝の7時19分。蠍座29度は通称「涙の度数」と呼ばれていて腐れ縁に絡まれてなかなか自立独立が出来ないで葛藤することを表している度数です。この日は私は自由が丘で、そこでなかまたちがある雑誌の取材を受けることが決まりました。このあとの満月は12月5日朝の9時26分。射手座13度の太陽と明るみに出る未亡人の過去双子座13度の月。ピアノを目の前にした偉大な音楽家通称「ビルティオーゾ」の度数。私の場合はそれはちょうど個展の初日に当たります。
2006.11.11
タロットを自分でリーディングできるようになりたいのですがというご要望が最近多いのでタロットのお絵描きのあと自分でリーディング出来るようになるための練習会もプラスすることができるようにしました。その場合は1回 プラス1時間で プラス千円 にしました。
2006.11.10
水星の逆行中は通信機器の乱れやうっかりミスが増えるといわれています。確かに水星逆行中の首都圏の鉄道の信号機トラブルは増発する傾向があるようできのうも朝9時ごろの山手線のダイヤは大幅に乱れていました。前にも書きましたが水星逆行中はそのようなトラブルが起こりやすいというネガティブなことだけではなくて意識が過去に遡りやすい時期です。つまり、かつて体験したことがリアルに記憶の中から浮上してきたりする時です。ですのでその時差を利用して過去の体験をしたわたしに現在のわたしが対面して対話をするととてもよい時期だと思います。過去の私と現在の私とのあいだには経験の時間差があるはずなので過去においてそのことを体験した時に感受したものの見方の角度を少し変えてあげるだけで現在の自分自身も癒されてゆくことが可能です。そのことによって自分の未来も変化してゆく可能性が出てきます。このヒーリングのポイントはその時の体験をただ思い出すだけでなく、現在の視点から少し角度を変えて見直して体験自体のとらえ方を変えることで書き換えることにあります。この時に螺旋の上方への意識は必要でよりネガティブな方向に書き換えてしまう可能性もありなのでその点は注意が必要です。そこのところは意識的に気をつけてあとはゆっくりリラックスするだけです。いろいろな過去の記憶が浮上してきたらそれを出来るだけ客観的に見つめてみましょう。そしてそれを対極の180度や全方位360度の意識で見直して書き換えてみると良いと思います。
2006.11.10
あいかわらず集合天体は蠍座を日々ディープな度数に向けて進んでいます。今日わたしは蠍座の心理として「単色に染まりたい」というのがあることを発見しました。それが「あなた色」なのかどうかはいずれにしてもこれと決めた色彩一色に自分自身を同化させようとする心理の働きがあることがわかりました。なので他の色は極力排除しようとする方向性が働くのでどうしても細く深くということになるかと思います。蠍座は何か特定の対象と同化して一体化しようとするサイン。特定の対象は人とは限らずに研究対象団体組織会社などの場合もあります。
2006.11.09
明治生まれのわたしの祖父は数年前に、90才近くで亡くなって、今はもう居ませんが、祖父がいつも座っていた机の後には、本箱が今でもあります。とても古い本箱で手前にすり硝子の扉がついている最近ではもうあまり見かけないスタイルのものです。昨日たまたまその本箱の扉を用事があって開いて、なかを見ました。びっしりと詰まった本の中に、『コスモス』という2冊の本を見つけました。1900年代の終りころに出版された本でした。宇宙について、いろいろな角度からいろいろのことが書いてある本でしたが、本の後のところには、何枚かの宇宙に関する記事の新聞の切り抜きも閉じてあって、とても興味深く見ました。生きているときには、全然気がつきませんでしたが、今改めて、祖父が宇宙に対しても並々ならぬ関心を抱き続けていたことを知って、少し不思議な感じがします。その祖父の資質は、知らず知らずのうちに私の中に流れているようにも思います。そういえば祖父の本箱から、私はたくさんの知識を吸収してきました。父の本や雑誌や新聞のスクラップが入っていた出窓の下の戸袋の中からも私はたくさんの知識を吸収してきました。そういう祖父や父の本などの知識の集積には普段の祖父や父からはうかがい知ることのできない意外で豊かな世界を感受して来たようにも思います。中でも、祖父の本箱の中から見つけて、いつも見ていた雑誌に載っていた原始時代や古代の世界の想像画と父が仕事で使っていた建築雑誌に載っていた当時最新の建築の写真が私に与えた影響は、とても大きなものがあったと思います。祖父の雑誌からわたしは幼稚園くらいの時にもうすでにアトランティス大陸の水没を知りました。父の建築雑誌には新しい建築の紹介だけでなく古い民家の作り変えの住宅の紹介もありました。いまではそれはけしてめずらしいものでは無いと思いますが、昭和30年代にはあまり考えている人は少なかったとても斬新なアイデアだったのです。私はそれらの雑誌の映像から、自分自身の想像力を限りなくふくらませて行ったのでした。
2006.11.09
わたしが仕事のできる人を意識していることの背景には来るべき未来として徐々に接近している山羊座冥王星の時代の影響もあるのかも知れません。冥王星の度数は射手座もほんとうに終盤に差し掛かりつつあって気配としての山羊座冥王星の訪れはさまざまなところに見つけることができると思います。ローカルなものに回帰するということで言ったらたとえばきもの検定に応募した人が予想を上回る四割り増しだったこととかにも現われているようにもわたしには思えます。*それにしても仕事のできる人の仕事をみているとプロだなぁ、とほれぼれします。第一レスポンスが迅速です。わたしがすごいプロだなぁ、と感心した職業の人たちがたまたまマスコミとか印刷とか3ハウスとか双子座的な職業に携わっている人たちだったからなのでしょうがたとえばFAXを送ると間もなく電話がかかってくる、みたいにある意味「気」が仕事のエリアの中にきちんと浸透して充満しているような気持ちよさがありました。やっている仕事にも「任せていただけますか」という言葉が相手から出てきてこちらも安心して「はい、お願いします。」と言える自信のようなものに対する信頼感が相手の人と私のあいだに成立してすばらしい!と思いました。そしてできてきたものも文句無しで依頼主のわたしは「完璧オーケーです。」と言ったのですがそれに対して相手の人が「いや実はその後で気がついたのですがここの部分はもっとこうしたほうが良いと思うのですがいかがですか?」とよりレベルを上げてくれたのでプロと言うのはこういうものかとつくづく感心した次第です。気配りの細やかさ妥協の無さ充満しているエネルギーレスポンスの速さ経験と知識勘が働くこと良い仕事をしているということはなんとすばらしいことか、と思います。その仕事を誇りに思いその仕事を愛している。仕事を通して人間存在がおたがいにとてもよい音楽を響かせあうようなそんな体験ができて最近はわたしはとてもうれしいです。
2006.11.08
最近、仕事のできる人と出会うことが多くてとても嬉しいです。仕事ができる人は迷いが無くて実に活き活きと楽しそうに仕事をしています。つまり、その仕事を愛していることが一緒に関わっていると伝わってきます。くしくも、今年の個展の葉書の絵は、タロットの14.節制ですが14.節制に象徴されているように自分のできること = 月自分のしたいこと = 太陽せねばならぬこと = 土星 が全て同軸を取れていることはとてもすばらしいことだとつくづく思います。この個展の絵はまだまだ描き変えの余地が残っているとは思うのですが現時点ではせいいっぱい。こういうことはどうしても時間がかかったりします。この仕事ができる人たちが持っている気持ちよさとはH24の気持ちよさなのだと思います。
2006.11.07
私の今までの半生を振り返ってみて、私を激しく絵を描くことにかり立てていたものは何であったのかということをよく考えますが、やはり業のようなものを背負っていたと思えます。業のようなものとは私なんかが生きていて良いのだろうかというような感覚です。このような感覚がいつも生きていることの根底を流れていてこのことはなかなか話してもわかってくれる人は少ないかと思います。この薪のような業を背負っていたからこそ絵を描き続けたのだと思います。もしそうでなかったらもっと生きることを楽しむ方向を取ったと思います。ある意味、絵を描くことしかできなかったし絵を描かないで生きることはできなかったのです。でもちょうど冥王星が蠍座の頃スピリチュアルなものと深くかかわり出し自分自身が背負っていた業のようなものから解除されました。自分自身が背負っていた業のようなものの正体は主には生い立ちの不幸と性格の偏りであったと思います。その部分が癒され修正されました。いつもいつも苦しい状態から解放されました。生きていくことは楽しくて明るく輝いたものになりました。生きていことは楽しくて明るく輝いたものになった私は絵を描くのだろうかもう、絵は描かないのだろうかわかりませんでした。先日、瀬戸内寂聴が書いているおもしろい文章を見つけました。美容院で目にした雑誌に載っていた文章でしたが瀬戸内寂聴は「自分が死んでしまったら私の小説はもう誰にも読まれないと思っている」と書いていました。「今読まれている小説は、みんな心中した人自殺した人たちの文章ですからねえ」なるほど、と思いました。再び、三島由紀夫を思ったりします。結晶化して残すとはなんと大変なことなのでしょうか。そういえば、油絵の具というのは西欧で生まれ育った、永久不変を目指した画材です。一時期、私は、この画材を使うことがとても嫌になったことがあります。そうは言っても長い間使いなれて馴染んでしまった画材なので今では、観念してあきらめて使っています。業を背負わないで絵を描き続けることができるのかわからないけれどやっぱり今でも描いています。最近は実はあまり何も考えずにただ描いています。
2006.11.07
蠍座に集合天体が固まっているうえに同じく蠍座に滞在中の水星が逆行しています。蠍座は何か特定の対象と深くかかわる水の固定サインです。水星の逆行は前にも書きましたが思考が過去に向かう性質も持っています。その影響を受けて私が今いちばん関心を持っている絵を描くことについて意識が深く、過去に向かい始めました。ここに書いたことは、そんな自問自答のとても長い文章です。*絵描きとは、なんぞやということとは長い間向かい合ってきました。絵を描いていくときにどのような方向性を取って行くのか、ということはどうしても考えざるを得ないことなので、絵描きとは何ぞやということは絵を描いていることと、いつも密接に関わっています。とりあえず、美大に行けばわかるかなと思って行ってみたけど美大に行ったから絵描きへの道が近づいたかというとそのようなことはなくて逆に、遠のいてしまったところもありました。何故なら、美大に入学するには言われたことがちゃんとできるおりこうさんにならなくてはならないからです。それくらい、美大に入学するためには訓練が必要です。それは通常の受験勉強で、たくさん勉強が必要なのと変わりません。でも、絵描きになるということは、正反対の、言う事を聞かない資質が必要です。つまり、おりこうさんではない資質です。ある意味逆行する資質です。みんなとは一緒にならない資質。なぜなら、これらの資質がないと究極の独自性にたどり着くことができないからです。(現代芸術の最高目的はこの究極の独自性にたどり着くこととされているのです。)なので、美大を出ても、絵描きになれない人絵描きにならない人は沢山います。そんなわけで、美大に行ったけれども、絵描きになれなかった私は、次に公募展に入選してみようと思いました。公募展に入選すると、肩書のようなものを手にすることができます。それを手にすると絵描きになれるのかなと思い、チャレンジしてみました。しかしながら、公募展の世界は、留まれば留まるだけ大人社会の持ついやらしさが見えてくる世界で、ある意味、純粋さを追及していたまだ若かった当時の私には、理解のできない世界に思えたのです。きれいなピラミッド型の人間の配置に、嫌気がさしていた頃にもっと外の世界でのびのびと、自由な活動している人たちがいることに、気が付きました。それは団体展に所属せずに、個人で活動している絵描きたちの仲間です。公募展と関わる活動をしていても、自分が絵描きになったと思えなかった私は公募展とのかかわりをすっぱりと止めて個展で活動していくことに決めました。銀座の画廊で個展をするというと普通の人たちはすごいわねと思ったりするみたいですが別に何もすごくはありません。会場費は値段が高いということは言えると思いますがそれでも探せば安いところもあったりもします。そうは言ってもやはり画廊の中にはランクのようなものがあり絵描きたちがが一目置くような画廊では一回の1週間の個展を開くのに通常30万円ぐらいはかかると思います。どうして絵描きたちが銀座にこだわるかというと銀座には画廊が集中しているため他の絵描きたちの目にさらすためには銀座で個展をする必要性があるからです。本気でやる気になっている絵描きたちは1週間に一度は銀座の画廊をめぐり絵描き仲間が描いた絵とかを見てまわります。その他の絵描きたちの目に自分の作品をさらす必要性があるのです。美術館の学芸員もそのように画廊巡りをしています。コレクターと言われる人たちも同じように画廊巡りをしています。個展活動を始めたときにまだ私は自分自身の絵が売れるという体験をしてはいなかったのですが私が個展活動していた頃はバブルと言われていた最盛期の頃だったので絵もよく売れました。絵が売れるようになったら自分は絵描きだと思えるようになるかと思っていたのですがやってみたら絵が売れるから絵描きであるとは限らないということがわかりました。絵を売ることで生活を成り立たせている人たちは今の日本では、とても少ないと思います。こんないろいろな体験の中から私は自分の中に「絵描きというのは絵を描く人」という、とてもシンプルな答えを出しました。プロであるアマチュアであるという区別は絵画の世界においては無いと思います。もしあるとしたらただ単にそれは技術に関してであり技術に関して、プロであるか、アマチュアであるかということは絵画の本質には、実はあまり関わりのないことなのです。
2006.11.07
けさ、起きる時に思い出したのですが以前、厄年の時厄年は、何歳だったか忘れてしまいましたが確か、33歳34歳35歳あたりだったように思いますがわたしは第二の身体との結び付きが変化したことを体感したのでした。つまりゆるくなりました。それまでは、もっと身体にきっちりくっついていてそこには、緊張感がありました。厄年といわれているあたりで身体と第二の身体の結び付きが少しだぼだぼになってわたしは楽になったことを思い出しました。今から思うとそれで、その年齢あたりを厄年というのではないか、とも思います。変化する時は弱い時なので注意しましょう、みたいな。
2006.11.07
ディズニーのアニメをかつてこどもたちといっしょに何本か見ました。人魚姫美女と野獣アラジンなどなど。宮崎駿のアニメも見ました。となりのととろ魔女の宅急便風の谷のナウシカ天空の城ラピュタもののけひめ千と千尋の神隠しなどなど。第二の身体とこれらのお話はとても密接な関わりがそれぞれにあることに気がついてとてもおもしろいなぁ、と思います。こんな書き方だと何が何だかちょっと説得力が無いと思いますが第二の身体のことはとても言葉に置きかえにくいです。アストラルボディー人間の中身。ディズニーアニメの根底に導入してある神話的普遍性はやっぱりすごい拡大力があるのだな、と思います。世界共通の言葉にならない言語だと思います。こどもたちはそれが大好きでそれを食べて大きくなります。タロットのお絵描きやオーラの練習会の後に大人の人たちにも絵本やお話を読む時間をつくりはじめたのもここに書いたのとおなじ理由からです。
2006.11.06
第二の身体についてのテーマがずっと続いていて朝起きた時もこのことについてのメッセージがたくさん来ました。第一の身体の拘束がきつかったり単純で変化が無いほど第二の身体はためこまれていたりするのかも知れません。先日着物を着ている人がこのようなことを言っていました。洋服の時よりも体が不自由な分中身のほうがはみ出す感じ。第二の身体が爆発的にあふれ出す瞬間を何度か目にしてきたと思います。私の目の前でその人の第二の身体が爆発する感じです。確かこのことを錬金術用語では石炭に火がつくというような表現であらわしていたように思いました。絵を描くときもここが開くように思います。お能に出てくるお話はたしかに現代人の私たちからするととても濃い感情体験でおもしろいしすごいと思います。個展の絵を描き終えたらお能のお話を読んでみたいです。
2006.11.05
自画自賛的に傑作を描くことができました。やはり場所の持っているエネルギーを受けて描いていると思います。能楽堂ならではの絵だと思います。能楽堂の舞台の正面の松が描かれているところの建物の裏手には誰も居ないところに古い井戸があって木の蓋をずらすとずうっと深い水底がかすかに真っ暗い筒状のむこうに見えました。これこそ現在の集合天体蠍座の象徴です。この絵も蠍座的濃厚なおどろおどろしさを持っていると思います。と、いうのも今日出されたお絵描きのテーマがそのようなものだったということもあると思います。今日一日は一期一会のかけがえのない時間だったように思います。朝昼夕方夜、がちゃんと存在している時間と空間でそれはやっぱり一日というものはこれほどまでにかけがえのないものなのかとあらためて感じさせられるようなすばらしい色彩と光にあふれた輝ける時間でした。いろいろなめずらしい素朴な生き物達にもたくさん会えてそのことも何というのだろう地球存在のかわいい仲間たちに出会えたようにわたしには思われました。ちなみに画面はいつもの二倍以上の大きさでそのこともとても気持ちよかったです。
2006.11.03
夜の新幹線はちょっとした飛行機気分です。窓の外の夜景の街の灯火が点在していて夜の飛行機が離陸したり着陸したりする時に大地に接近している時の風景に似ています。新幹線の中の電光ニュースはとても目に付きやすくついつい真剣に読んでしまいます。そこでのコマーシャルによるとJRの新幹線は飛行機をライバル視していることがわかりました。飛行機よりもエコです。ということをさかんに強調していました。JRも元気に頑張っているのだなぁ、と思いました。それにしてもやはりこの新幹線での移動はなかなかにワープだと思います。自分が今そこに居るということが信じられない不思議な気分になったりします。
2006.11.03
しっとりと、蠍座の秋は日に日に深まっていますね。ふっと、どうしてこんなに情感豊かになっているのだろうと気がつくとああそうだ、これが蠍座集合天体の影響だ、と思い出すことができるのですがそうでなくてぼうっと自動的な仕事とかをしているとたぽたぽと、心情面は揺らいでいます。そして、はっと気がつきます。やっぱり日に日に、この感じは濃くなってゆきますね。11月20日まで日に日に濃くなってゆくのでしょう。色に置き換えるとやっぱりフルボディーのワインの色にむかっているようにも思えます。ポタポタの心の色はやさしい明るめの緑色のようにも思えます。先日描いてお絵描き日記の方にもアップした蟹座9度のこの絵もこんな感じぽたぽたの心の色です。
2006.11.02

けさいっぴきの雀が地面の上をものすごいスピードでダァーッと走っていて驚きました。雀は走るのか?おかしいな。チュンチュンと両足をそろえてジャンプして歩くのではなかったかな。確かにその雀はすごい勢いで左右の足を前後に動かしていました。ちっちゃな足がちょこまか動くのがとってもかわいかったけど。3メートルくらい走ってそれから飛んでゆきました。
2006.11.02
自分自身のなかの高次の自我と自分自身を統合できた人が太陽神というメッセージが今、来ました。つまり天岩戸から出てきたあまてらす です。
2006.11.01
怒涛のような日々が続いています。そうしたらほんとうに夢の中に動物が出てきました。オコジョのような猫のような意味不明の動物が私といっしょにねんねしていました。私が気がついてあれっ、と思ったらあわてて部屋の入り口の方に逃げようとするという夢でした。動物はちょっと眉間にしわがよっている感じの生き物でした。そのことも意味不明です。その動物の存在感が体感的に残っています。つるんと丸くて小さな短くてわらかい毛の生えた頭と人間ではない動物のオーラと温もり感。夢に出てくる動物はパワーアニマルなのでしょうか。
2006.11.01
ときどき外国に生まれて外国で生きている人のリーディングを間接的に頼まれることがあってそのたびごとにとっても難しい、と私は思います。なぜならわたしにはその国と日本の違いが良くわかっていないしそれがわからないと具体的な読みが出来ないからです。当然人間としてのとか水瓶座的普遍性においてはどこの国の人にも共通のものがあるのだと思いますが具体的な仕事や恋愛となるとその人が心理的背景として持っている仕事観や結婚家庭観が国によってさまざまなのでそのさまざまさがどの国はどうでこの国はこうと把握できない限り読みを具体的につめてゆくことができないわけです。
2006.11.01
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