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また、ものすごいヴィジョンが降ってきた。地面が見えて上へ、上へ。そこは宇宙です。宇宙に球体の地球が存在している。だけど宇宙に行くと実は、上も下も無い。そうか。「上」というのは地球に存在するものにとってしか存在しないのか。つまり球体の地球にとって「上」というのはとりもなおさず地球から離れる、ということ。ある意味、反地球、ということ。螺旋はだから地球上の意識。上下左右の三次元の「空間」の無い世界では成長ではなくて、変化=シフト。
2006.06.29
近ごろは季節が一ヶ月程ずれて早まっている、と前に知り合いの人が言っていました。なるほどここ数年の傾向を見ているとそういう感じがします。いまは6月の終わりですが東京はここ数日まるで、夏の気配。今日は用事があって近くの郵便局までお散歩がてらに歩いて行きましたが、帰り道若い男の子がアイスコーヒーを飲みながら歩いているのを見てわたしも真似をしたくなりドトールでアイスコーヒーを買って歩きながら飲んでみました。目白の駅前はわたしの好きな場所のひとつでなかなか気の良いところです。まぶしい太陽と大きな夏の風を感じながらしばらくの間陸橋の上から山手線を見下ろしながらたたずんでみました。*毎年、今くらいの季節になるとわたしは社会的活動を切り離して制作の日々になることが多い、です。毎年くり返してきたので習慣になっているところもありますがお誕生月の2ヶ月前の気配ということもあるように思います。少し前まで今日のような夏の気配は7月の終わりくらいつまり夏休みの始まる頃の陽射しと風だったのです。お誕生日の2ヶ月前からは11ハウスや水瓶座と12ハウスや魚座のような世界の中に私の場合、入ってゆきます。西洋占星術のハウスシステムで「ソーラー」や「ソーラーサイン」が示していることと同じことのように思います。次なるサイクルの始まりに備えて現世的世界から開放されてゆく時のようにも思えています。*住宅地の中を歩きながらたぶんヤマモモの実を2個、ひろいました。たぶんヤマモモと言うのだと思います。正確には知らないです。さくらんぼくらいの大きさの赤いつぶつぶの実で、熟すとぽたぽたと落下しています。塀の上に落ちていたきれいそうなのをいただいておいしそうなので家に帰ってから良く洗って、食べました。その季節にその土地で取れたものの味がしました。おいしかった、です。
2006.06.29
嵐が来たときにへたって消えていってしまうような小さな野の花が実はわたしは、とても好きだったりも、するよ。オオイヌノフグリという早春に地面の上にへばりついてほんとうにちいさな青い花を咲かせるどこにでも良く見かける植物がある。名も無き、花が好き。嵐の中でも生き延びる「竹」には努力してなろうとしているのだと、思う。太陽は努力して獲得する意識。逆に言うと努力無くしては獲得できない意識。嵐とは今わたしの太陽に訪れているトランシットの冥王星スクエアー、のこと。*「アストラル体」という言葉をシュタイナーとグルジェフでは違うように使っていることがわかった。グルジェフ曰くの不死性に対する憧れはわたしの中には無い。と、思う。消えて無くなる存在で良い。消えて無くなる存在が、良いと、思う。*消えるということで言うと「わたし」がこの世に存在しなくなっても「あなた」はそのまま生きてゆくのだろう。「あなた」はそのまま生きてゆくのだろう、ときのうは思った。でも、けさ起きてみた時、「わたし」にとっての「あなた」は「わたし」の存在の消失とともに消えて無くなる、ということに気がついた。「わたし」にとっての「あなた」はそういう意味で、かけがえのない唯一のもの。「ほかの人」にとっての「あなた」もそれはそれで唯一のもの。「わたし」と「あなた」のあいだにしか存在しない「あなた」は「わたし」という存在が消えたり変化したりすると「わたし」とともに消えて無くなったりちがう「あなた」になる、わけだ。人間という言葉は人と人との間と書くわけだがそこの部分にこそ「人間」は存在するのだ、ということにふたたび気がついた。ここに書いた「わたし」と「あなた」は入れ替えて読むことが可能だ。*「結晶化」ってこういうことを言っていたのだろうか?「こういうこと」というのはグルジェフ曰くの存在の不死性。確かにわたしも1900年代は絵を描くことでそれに近いことを追求していたと、思う。絵を描くということはとりもなおさず究極はそのようなことを意味しているとわたしは思っていた。普遍性の追求になるわけだから。でも、2000年に入ると同時にわたしのネイタルの水星にはトランシットの冥王星がスクエアー。頭の中が「宇宙」になったよ。*このような青くて重たいわたしは冥王星乙女座2度、なのかも。「掲げられた大きな白い十字架」*思想的思考を好むのは土星射手座10度。「金髪の黄金の女神」*人前に臆面も無く自分自身をさらけ出すのは太陽天秤座1度。「突きとおす針により完璧にされた蝶」*良くも悪くもこれが、わたし、だ。
2006.06.28
夜中に目が覚めてそのまましばらく眠れずにぼぅっと、していた。かと言って、特別に眠れないほど、悩みがあるとかつらいとか言うことなのでは、無い。さまざまな思いが暗闇の中に浮かんでは消える。そういえば今は、12.吊られた男、だった。そのまんまな現象だ。「何かに似ているよね、この感じ」と思い記憶の中をサーチして出てきたビジョンは、遊園地。遊園地の中の何という名前で呼ばれているかな?「アトラクション・ハウス」とか呼ばれてるのかな。そういうようないくつもの部屋が続いていてそれぞれのワールドが展開されているようなそういう場所があるとして、その中をお客さんと一緒に歩いて移動しているわたしはガイドさんみたいな感じ。「こちらが12.吊られた男の部屋でございま~す。」一緒にこうもりのように逆さに吊られながら(だって、その部屋に入った人は全員が吊り下がってしまうから)次の部屋は13.死神だなぁ、なんて思ったりしている。21.世界のあとで小屋のお外に出たらきっと今までと違うすばらしい景色が見えるに違いない。楽しみだなぁ。このお仕事のおもしろいところはひとりで見ているのとはまったく違った世界が見えるところだ。同じ12.吊られた男でもわたしひとりの時と違った世界を見ることができる。お客さんによってそれは、全然違った世界となる。あたりまえといえばあたりまえなのだけど不思議でとてもおもしろい。
2006.06.27
今考えていたことのひとつの答えをぱっと開いた本の一ページからもらう、ということは良くあることだ。ゆうべは眠る前に気になった本を開いたら「変化=成長」という言葉と出会った。そこには他に男性性と女性性のことが書かれていた。肉体という物質の体はおおかた男性もしくは女性のどちらかに決められて生れ落ちている人が多いのだろうがその中に流れ込んでいる目には見えない本質は両方の性が内在している、と言われている。地上化つまりグラウンディングの方向性を目指してゆくこと、とスピリチュアルな霊的進化の方向を目指してゆくことは方向性は正反対であるけれどいろいろな折り合いのつけ方はおそらく可能であるのだろうと思う。器としての物質的な肉体の性を変換することはそうそう簡単なことではないけれど中身の男性性と女性性はもっと柔軟に切りかえが可能な部分である。火と風は男性性を表し水と土は女性性を表す。器の性にこだわらず能動と受動をお互いに切りかえながら存在することも、これからはますます可能なこととなるはずだ。ということは世の中の常識的な男性と女性の役割にはまらずに新しいものを自分達で創り出そうとして行くなら占星術のチャートを読むときも今までのような単純な男性=太陽女性=月、と言う読みは通用しなくなる。女性が太陽で男性が月のことだって大いにありうる。身体的性差の影響をどのように受け止めるか、ということなのだろう。体がそうなのだからそれは心や精神にも過大な影響を及ぼしている、と考える人たちも居れば人間の中身、つまり精神や心はもっと自由な存在で身体的なものの制約からは開放される可能性を持っている、と考える人たちも居る。この文章を書きながらたくさんの人たちの顔が次々に目に浮んだ。わたしが今出会っているつまりネットワークのつながりのある人たちの顔だ。不思議と何人かの人たちとわたしはこの問題についてともに考えている。ともに考えている、ということはこのことは私自身の問題でもあるからだ。この文章を読んだひとりはわたしのことを書いている、と思う可能性は、大きいと思う。何度も書くけれどそうではない。最近わたしはこのような個人に特定されない共鳴の世界で生きているのだけれどそれはなかなか他の人には理解されないところであったりもするらしい。
2006.06.27
先日レオナルド・ダ・ヴィンチの占星術チャートを出してみて獅子座冥王星だったのでてっきり彼はおよそ300年位前の人なのかと思っていた。冥王星は一サイクル260年と言われている。現在獅子座冥王星の人はおよそ50歳から60歳。なので、そのように思っていた。が、違った。もうひと周り昔の人だったんだ、ということがわかってとっても驚きだった。554年前に生まれた人だった。550年ってどのくらい前なのかが良くわからない。けれど漠然となかなか昔だよ、と思う。今日『奇蹟を求めて』の続きを読んでそうか、グルジェフはそのように考えていたのか、と思った。不死ということについてそのような認識をしていたのか。シュタイナーとはまったく違うよ。シュタイナーはどちらかというともっと海王星的かも。グルジェフは天王星的かな。両者とも冥王星にアクセスしているという共通点はあるわけだけど。それでということはグルジェフ曰くでレオナルド・ダ・ヴィンチは550年という時間をゆうに生き抜くだけの不死性を身につけた存在、ということになる。そしたら絵画の世界ではジョットもだ。
2006.06.26
たなばたの日からわたしのプログレスの月は蟹座に。それに先行するようにトランシットでは水星が蟹座入りをしていてなおかつけさの未明には蟹座で新月が起きた。その影響もあって自分自身の中でネットワークというものがクローズアップされている。ビジョンの中で人と人が網目のように繋がっている。繋がっている網目はお互いに強力な影響力を与え合っている。ひとりが上がるとその周囲もつられて上がる。ひとりが下がるとその周囲も下がる。強力な発光体もいる。それはきっと次元が違うのだろう。この関係性は固定的ではない。常に、変動している。
2006.06.26
今宵、自分自身の足の指を何故かまじまじと、見た。きっとムーミンの作者は「にょろにょろ」のヒントを足の指から得たのではないか、と思った。宇宙人が人間の足の指を見たら不思議だなぁ、と思うだろうな、と思った。どうして5本なの。4でも6でも無く5なわけ?そう、そして手の指も、です。足も手もそして体(頭、両手、両足)も。全部、5!そのことに気がついた瞬間神の意志に触れたように思えた。神なのか創造主なのかは知らないけれど人間に「5」という数霊をインプットしたんだよ。すごいことだね。「遊びをせむとや生まれけむ。」確か室町時代の梁塵秘抄の一文でした。「まいまい(舞舞)かたつむり遊びをせんとや生まれけん」。*天上天下唯我独尊、にこういう角度から再度アクセスした感じがしたりも、する。*全てのことに感謝します。ネガティブなものポジティブなものその両方に心の底から感謝します。生きてて良かった、かも。*5の数霊が意味するもの。恋愛自己表現子ども創造性個性的な人生孤立思い込み主観性自己劇化衝動自己中心臓創造主。
2006.06.24
今みたいな生活をすることは長い間私の憧れだったのかも知れない。私の感性として寂しがりやなところがあるので(蠍座の金星)一人暮らしは若い頃はしたくてもできなかった。今、長期ネイタルの獅子座の天王星の上に土星が乗っていて私自身の独立性が今後30年用に書き換えられた感がある。昔できなかったことができるようになった、みたい。「こういう生活って何なのよ」と自問自答してみたのだけれど一言で言うと外見(そとみ)よりも中身(なかみ)を大切にした生き方、なのでは無いかと思ったりもする。そこのところをとても大切に生きて行きたい。わたしは、これは私の推測に過ぎないのかもしれないのだけれどそこのところを誰よりもとても大切にして生きていると思う人と出会えた。人のことは人はどこまでわかるのかわからないので、これは単なる私の思い込みなのかも知れないのだけれど。でも、少なくともどの角度から見ても私が知っている限りそのように思える人と出会えたということは実はあんまし生きて居たくないわたしが生きてて良かった、と思える数少ないうちの一つだったりする。
2006.06.24
人間って、多面体だと思う。やっぱりそうだ、と思う。最近涙をこぼすことが多い。とわたしが一文書くとそれを読んだある人はつらいことが多いのね、と思うだろうし別の人はそうそう、歳をとってくると何となく涙腺がゆるくなるのよね、と思ったりもするだろう。意地の悪い人がいたとしたら内心、ざまあみろ、とも思うかも知れない。わたしは自分では涙することが多い理由をプログレスの水星に見ている。プログレスの水星は蠍座29度「酋長に自分の子供たちの命ごいをするインディアンの女性」この度数は通称、涙の度数と呼ばれている。自分で書いたこのブログの文章を読み直してみてもおおっ、涙の度数だよ、とつくづく思ったりもしている。良く使う映画館のたとえでいくと私という映写機のフィルムの中の映画がそういう映画なのでわたしはどこに行っても何を見てもその色合いが帯びたものをみずから放出しているとも言えるわけだし同時に受動的には自身で見ている、ということになるのだと思う。映画を写し出す、相手というスクリーンはだけど白い平面ではなく多彩な色彩の、多面体だ。トランシットの木星が蠍座に滞在していることでこのことはより過剰性を帯びているのかも知れない。自分の中身も、蠍座自分の周りも、蠍座。*シャカシャカシャカ、とシェイクされてプカプカプカ、と波立つ。浮きと重りの比重関係。そしておのれの本性に基づいたところに結局は納まる。やっぱり、きっとそうなのだろう。*なにげなくアトリエのホワイトボードを見て驚く。そこには先日小学校の男の子が書いたクレヨン画が貼ったままになっている。写真はそれである。泣く女。うわぁっ!とこのリンクに、自分でも驚く。これは一冊の美術の絵本を使ったお絵描きだった。子供たちが、ピカソのおうちに遊びに行くという設定の、絵本。絵本の中で子供たちにピカソの絵って上手だと思う?と尋ねる。子どもたちは「ううん、上手じゃあない」と答える。じゃあ、上手な絵ってどんな絵?と尋ねると、写真のようにそっくりな絵、と答える。カーテンのむこうにピカソの「泣く女」という題名の絵が隠されている、という設定。そこでみんなでどんな絵か想像して描きましょう。こんな授業をした時の、絵。みんな自分で想像して描いたあとピカソの「泣く女」をみてすげー~とその奇抜さに驚いていた。自分で描いてみた後なだけによけいにすげーと驚いていた。
2006.06.24
5の数字が6になるということはそこで、ある意味失うものもあると思う。火が土に変わることだと思う。こういうことを言う人は世間一般の価値観からするととっても少数派なのは自分でもわかっているのだけれど。あなたが限りない高みにアクセスしていることをわたしはとてもかけがえのないもののように思うよ。上と下はある意味反転の価値観なところがあると思う。もちろんそこのところは好きに生きて良いのだと思うけど。これは女として、ではなくてひとりの制作者としての独り言です。
2006.06.23
ありとあらゆるレスポンスの義務を振り切ってここに再び、なおかつ赤裸々な私自身の独り言を書くならあなたが苦しんだように私もおそらく同じくらいは苦しんだのです。このような生き方を志した時にそれは私自身引き受けなくてはならなかったものなのかも知れないし。良く、わかりません。でも、わたしはあなたとなんら変わるところの無い非力なただの人間なのです、よ。*共に生きると言うことは相手が背負っている重荷=人生の負荷を代わりにともに背負うということに他ならないのだとつくづく思う。そしてまたあなたはこれ程にまで私のかつて知らなかった重荷を背負って生きていたのかとも思う。*そうか。わたしが変わると共に世界は変わることができるのだ、ということに再び気が付くことができました。私=世界なのですね。このことはとりもなおさずわたしが変わるとあなたもそれと同時に変わるのだ、ということなのですね。あなたが変わるとわたしも同時に変わることができるのです。と、いうことはつまり、何らかのご縁があってこの世に生きている時に出会った「あなた」は「わたし」と同じネットワークで繋がっている存在どうし、ということなのですね。*ということは自分自身の存在の色彩のグラデーションを変えてゆくことなのだと思う。音楽でいうと音階を変えてゆくことなのだと思う。わたしが変わるとあなたも変わる。そして、世界も変わるの、でした。*そして私がここに書いた文章を読んで「変わる、変わるってどうしてそんなに変わらなくてはならないのか?」と思う人が、もし居たとしたらきっとその人はこの世に生きること存在することを謳歌すれば良いのだと思う。その人にとって生きるということは楽しむことなのだと思います。それはそれでとっても素晴しいことだと私は思います。
2006.06.22
絵描きの生涯とネイタルチャートを刷り合わせて見てみたい、という思いを長い間抱えたまままだなかなか実行できていない。きのうレオナルド・ダ・ヴィンチの出生図を講座で取り上げてもらおうと思ったら松村先生からグレゴリオ暦とユリウス暦の切り替わりの指摘を受けた。ある本に、ダ・ヴィンチはこの日に生まれた。と書いてあったのでその日時を使おうと思ったわけだがその日時がどちらのの暦に基づいた日時であるのかの確認が必要になるらしい。それでもって、それぞれの国によりユリウス暦をグレゴリオ暦に切り替えた時は違うらしい。ということは遡っての手続きが相当複雑になるということだ。日本の場合でも太陰暦と太陽暦の切り替わりがあった。お誕生日占いの本とかにわたしの生まれた9月23日は葛飾北斎の生まれた日、となっていてそのことをわたし本人はなかなか気に入っていたのだがこれもどこまで正確かその信憑性は定かではないということに気がつく。その人の誕生日とされている日時の出典がどこにあるのかその出典に書かれている日時は何の暦にもとずいたところの日時なのかまで調べることは不可能に近いように思う。そしておまけに古くなればなるだけ天文歴自体が正確に把握できているかどうかが不明になるとのことだった。そうなると、真実ははるか雲のかなたに隠れてしまう感がある。ここの部分は、誰か信頼できる専門家の手にゆだねたいものだ、と思う。単純にレオナルド・ダ・ヴィンチの出生図を変換無しでSGで出したものは松村先生は「これでは、ダ・ヴィンチのエネルギー感が感じられ無い。」というようなことを、言っていた。わたしは正直、そのチャートを見てもちんぷんかんぷんで自分自身の中で変換、つまりリーディングができなかった。きのう、道を歩きながら考えたのだがリーディングできない理由はダ・ヴィンチの生きていた「時」をわたしが把握できないことも大きいのではないか、と思った。たとえば、ダ・ヴィンチの研究家たちは彼が生きていた500年前のイタリアの事情に詳しくて、今とはまったく違う、当時のことがわかっているのだと思う。その研究家達が西洋占星術にも関心を持っていてリーディングするならある程度まで可能なのだろう。その時代背景への深い理解がないと古い時代の人の出生図を読むことはとても難しいことになるように思った。「読み」自体が変換される必要性があるのだ、と思う。葛飾北斎のような江戸時代の人を今現在わたしが使っている「読み」で読むことは不可能なのかも知れない。「読み」は時代とともに変換されてきた。より優れた「読み」ほどその時代に合わせて変換されたものであるわけなのだから。
2006.06.22
けさがた見た夢が現実に体験したこととぴったりとリンクした。つまり今朝、とてもリアルな正夢(まさゆめ)を見た。キーワードは物置小屋とおしっこ。まさかこんなことが現実化するとはなかなか思いもよらないことだ。夢に出てきた鮭の頭は現実にはリンクしなかった。もっとも、大きな植木バサミは半身に切り落とされた鮭の頭にそのシャープな「X」の形態が似ているといえば似ているかも知れないが。
2006.06.21
今日はタロットの絵を描くおえかきのあと『奇蹟を求めて』を読んだ。ここに最初にことわり書きのように書くならわたしはこの本を生まれて初めて、読む。今日は「4.知識・存在・理解」を読んだ。先日このブログにも書いたこととまったくリンクしてあることが書いてあっておもしろくて、夢中になって読んだ。先日わたしが感じていたことに対する時間と空間を越えたグルジェフからのメッセージをもらったような気がした。
2006.06.20
けさ、起きた時にとても気になったのは一組の夫婦のことだった。それは、白洲次郎と正子。数日前に電車のつり革広告で白洲次郎を見た。確か「マッカーサーにものを申した唯一の日本人」というようになっていたように思う。写真はあいかわらずすばらしくダンディだった。こんな映画俳優のようなロマンスグレイの美男の日本人男性をわたしは他には知らないような気がする。白洲正子のことはそれよりももう少し前にTVで見た番組に取り上げられていた。かつて、美術の方では白洲正子のことは知っていた。裕福そうでそれでいて究極の美に理解がありその独自の美意識にすべてが浸透した日常を送っていた老年の美術評論家、としてしか白洲正子を知らなかった。その番組で白洲正子が、初めての女性能楽師であることを知ってとても驚きだった。白洲正子は能で女が男を舞うことは簡単なのだ。と言っていた。逆に、能で女は女を舞うことはできないと答えを出して能の世界から身を引くことにしたらしい。そのあと引退後の白洲正子がほれ込んでいたという能楽師の舞のフィルムも流れたがなるほどすばらしかった。にじみ出る女、としか言い様の無いもの。この世のものとは思えないような気品と潤いと何よりも昇華されつくした女がそこには居るように私には思えた。*ここのところ三日続いてすごい夢を見ている。きのうのサメの前は鳥だった。走って逃げる飛べない鳥をハンターが猟銃で撃ち殺していてなんと残酷な、と思った。けさは両国での事件、ということでひとりのものすごくパワフルなお相撲さんが他のお相撲さんを次々に惨殺してその首が商店街の両脇の店に次々にぶら下げられてゆく、というものだった。まあ相撲取りの世界を象徴的に置きかえたらこのような表現もありか、とは思う。戦国武士のように敵の首を取って出世街道をまい進するような。占星術を知らなかったらこういう夢を連日見続けることに恐怖を感じただろう、と思った。これはネイタルの火星に対するトランシット冥王星のスクエアーの衝動だと思う。現実の日常の中で使われることの無いこのエネルギーが夢の中にはけ口を求めてわたしにこれらの夢を見せているに違いない。*そういえばきのうおえかきの子どもが「にじいろのしっぽのとかげ」の話しをわたしにしていた。えっ、そんなトカゲ居るの?と聞いたら日常的に出会っている、というようなことを言っていた。別の子も「あたりまえだよ。そういうとかげ。」と、言っていた。
2006.06.20
けさ、目覚める時に見ていた夢。海を泳いでいて後ろから来たサメに片足食べられた。ので、もう全身食べられちゃう!というところで目が覚めた。何じゃ、これ?海=無意識。サメ=海の生物=無意識の使い。ゆうべ眠る前に18.月についての本を読んでいた。その影響かな、とも思った。で、さっき自分のチャートを見ていて気がついたのはもうすぐたなばたの日にわたしのP月ちゃんは蟹座に。ああ、これだ!と思った。わたしにとって蟹座はサメなのかなぁ。そう、蟹座は胃袋も表すし。何でも食べて飲み込んで均一化しちゃうわけだから。今日はお天気は良いけれど少し立ち止まっていろいろと考えている日だ。*ゆうべの続きの本を読んだ。『ユングとタロット』の18,月。なるほど地球の写真はとりもなおさず月からの視線に他ならないのですね。月はまるでそのシンボルでもあるお母さんのように愛ある視線を恒に地球に注いでいるように見えやしませんか。
2006.06.19
そうだ!また急に思い出した。前にも書いたことあったけど2000年代になって急にクローズアップされたことのひとつに「後ろ戸の神」がある。これは光に対する闇で光を表す神の背後には闇を表す神が必ず対になっているよ、というような概念を表すらしい。輝かしい金色の仏像の設置された空間その背後の壁面。その背後の壁面のさらに向こうの虚の空間に後ろ戸の神は存在するらしい。そういえば冥王星も一体でないことが判明したのだった。同じくらいの大きさの一対の天体が恒にお互いを見詰め合ったまま回転しているらしい。本当かいな!これではあまりにも2の数字の原理そのままではないか、と思う。
2006.06.19
吉と凶を決めるには視点の固定化が必要です。つまり、その事象を見るための一方的な視点、が無くてはなりません。ひとつの事象も裏を返すと吉凶は反転します。たとえばシンプルに凶とされていることもよくよく広い視点や長期の視点で見つめなおしてみると試練ほど気づきに転じていることに気がついたりします。試練を気づきに転じるにはその人の中に柔軟さが必要です。それはとりもなおさずその体験をした人の受け止め方の柔軟さ、です。現実の実社会で「良し」とされていることとスピリチュアルな世界で「成長」とされていることは時として180度逆転の位相であったりもします。*けさ、目覚めとともに降ってきた言葉ばこのようなものだった。ひらめきのように空から降りてきたものを受信する感じ。受信をするにはわたしはパラボラアンテナにならなくてはならない。すこしまえに透視リーディングのKちゃんに「あなたは器ですね。」と言われた。「今の課題は、いかに広くです。いかに深くは、その後に来ます。」ということで広い器とはつまり大きなパラボラアンテナの形なんだろう。前にも書いたけど私のプログレスの太陽は現在蠍座の19度。「聴いてはしゃべっているオウム」の度数だ。これは受信能力を表す度数で受信している本人はその内容を完璧に理解しているわけではない。なんとまあ、無責任な、と思われるかもしれないが社会性に押し込められていない部分の人間存在とは元来そのようなものなのかも知れない、とも思う。生かされている私たちは実はこんなにも不可思議な存在なのだ、とも思うし逆にただ存在しているだけなのだ、とも思う。現代という時代と社会はあまりにも多くを個人の責任としている、と思う。受信をするためにはその器を大きくする必要性がある。なぜならばわたしの既知の部分にしかメッセージは還元されない。とりこぼすことのなんと多いことか。このことは、この私の言葉を受け止めた人との間にも同じことが生ずる。私が受信したメッセージを伝えた時に核心部分が相手に正確に伝わって共感してもらえることの方がまれである。そのように受け止めたのか、と逆に驚かされることのほうが多い。どうして、このような受け止め方をしたのだろうと疑問に思うこともしょっちゅうある。それは私の表現のつたなさに原因しているのかも知れないがただそれだけではなくてそこに受け手の個性や特質があらわれていたりあとは、その受け手の中にどれだけ共通の既知なるものが内在していたかの量の違いにもよるのだろう。同一発信者の同一の内容に対しても十人の人が居たらそれこそ十人十色の受け取り方をする。その受け取り方に「その人」が現われているように思う。だけどこのことに受信者側はあんがい気がついていないことが多いように思える。
2006.06.19
今日おえかきに来ている人がとてもおもしろい表現をした。「もう、ババを掴んでいるのはたくさんだと思います。」その人も私と同じ冥王星スクエアーを強力に受けている人だ。私はタロットのおえかきの人たちと強力にリンクした日常を送っている。タロットのおえかきの人たちはポツリポツリと増えていてなので、わたしはパイ生地のようにその人たちが描いているタロットの内容とリンクした何層もの世界を生きている。今日の人は6.恋人たちを描いた。なので、というかのようにゆうべから私はその課題にリンクし始めていた。パートナーと決めた人からのレスポンス。私の場合、ネイタルの太陽は7ハウスの天秤座1度。パートナーを表すそこは現在もはや冥王星スクエアーの射程圏内に入っている。今日のおえかきの人のいった言葉ババ=ジョーカー=0.愚者。現在0.愚者を描いている人と描こうとしている人がいるせいか私自身0.愚者に再度リンクし始めている。冥王星は0.愚者的でもある。きのうから『ユングとタロット』の0.愚者をわたしは読んでいる。それによるとかつてヨーロッパの宮廷に雇われていた0.愚者は現在でいうところの精神もしくは肢体不自由者であったらしい。そのような障害を持った人たちとわたしはおえかきを通じて何度か関わりを持ったことがある。彼らはグルジエフ曰くのところの「高次水素」をただ存在していることだけで発する人たちである。古の時代にはそこの部分は十分に社会的にも評価されていたのだな、と思う。存在することの価値観が現代とはまったく違っていたのだ。『ユングとタロット』の著者であるサリー・ニコルズという女性は同書の中で(P.68)「しかし、いわゆるより文明化された共同体では、これらの一般的標準から逸脱した者たちは、もはや認容されなくなった。そのため、こうした人々は施設の中に閉じ込められることになった。」と書いている。近頃はたびたび「運命愛」について考える。どうしてこのようなネイタルチャートに生れ落ちたのか?ほんとうに「わたし」はそれを望んで生まれてきたのか?亡くなられた整体のS先生の整体を受け続けていると私はこのような生まれ持ったものからも開放されて何も起きない静寂と幸福に満ちた日々を過ごすことができた。その天国のような日々の中でふと、わたしはそのことについて疑問を感じた。「これは、生きているということになるのだろうか?」と。すると、その疑問に呼応するかのように数少ないシュタイナーの日本人牧師から「生まれ持った宿命のままに生きられたらそれは、幸せなことなのですからね。」という言葉を聞いた。驚きだった。ネイタルのチャートにインプットされているものそれがどのようなものであったとしてもそのままに生きられるということは幸福なのか!わたしが閉ざしていた占星術への道を再び開くことになる方向付けはこのあたりからなされたことになる。私たちは誰もがともに生きている存在なのだとつくづく思う。ひとりの気づきはそこに留まらず周囲の人たちそしてすべての人たちへの気づきと即座に変化してゆく。そのことはとりもなおさずこの世を生きている誰もが何らかの負荷=重荷を背負いながら生きているということなのではないか。そのことによって生きることで書き換え続けている何かがあるのではないか。それはただ単に存在しているということなのかも知れないし世のため人のためを思っていることなのかもしれない。そのいずれにしろたいした変わりは無いのではないか、とわたしは思う。
2006.06.17
日本全国に「神島」という名前の島が多数存在している、という話をむかし鎌田トウジの本で読んでいてそのことを今朝思い出した。「神島」という島の共通点は人の住む集落から程近い海の中に点在する島でこちらからあちらも日常的に目にできるしあちらからこちらも見ることができるもの、であるらしい。私はこのおはなしが好きで時々、思い出す。それで神島に渡った私を想定してみる。するといつもの日常から切り離されてまったく別の視点で自分自身の生というものが見えてくるはずだ。その視点は少し彼岸的な視点であるはずだ。現世的ではないあちら側に近い視点。生身の私が生身であることからちょっと離れて彼岸的立ち位置から日常生活を眺めている視点。客観的永久中立の視点。これは「神」と呼ばれている存在の視点により一歩近づいている視点であることがわかる。この視点はある意味生身であるけれど現世からは切り離された存在者の視点で巫女さんとか9.隠者とか出家者とか0.愚者とかの視点でもあると言うことができるだろう。この視点をどのように使うか、ということは今を生きる私たちには一人一人が問われていることなのだと思う。まったく「神島」の視点はシャットアウトして生きている人も多数居る。逆に、限りなく「神島」で生きている人も居る。そしてまた行ったり来たりしている人も居る。それではわたしは、というと限りなく「神島」的視点に自身を同化させた生き方が好きなんだと思う。逆に言うと対岸での生身の生活者として「神島」の存在無く生きることはできないのだと思う。そしてまた、このふたつは統合も可能だと思う。対岸での実生活の中で毎朝夕「神島」とのアクセスを導入するような生き方。神島に渡ると今まで見えてこなかったことが見えてくる。じっと対岸でのありさまを見ているとみんな、あんがい実は好きに生きているんだな、とおもう。蜘蛛の糸のお釈迦様に譬えるのなら糸は目の前にひょっとしたら無数にさがっている。けれどもそれを見ようとしない。別の言い方をすると救われようとはしない。その理由はさまざまなんだろう。変化を恐れる人も居るだろうしだけどあんがい実は今を楽しんでいるのではないか。どろどろの苦しみ悲しみ悩み、というネガティブといわれているもの。そこには存在のリアリティーという何物にも変えがたい味わいが隠されていて逆に言うとそれは生きている実感に通じているのではないか。「救われたい」つまり、ほとほと現状に苦痛を感じるのでこの状況からは脱したいと真に願うのであれば目の前に垂れ下がっている蜘蛛の糸が見えないはずが無い。それを見ようとしないのは何故なのかをじっと静かに観察していると実はそれが好きなのだ、ということがわかる。そして、自分は動かずに一緒にそのティストを味わってくれる同類を求めているに過ぎない、ということが見えてくる。「自己憐憫」「かわいそうな私」には独特の味わいがある。それと自分自身を同化させているそこにこそその人という存在が居たりもする。その人=あなた=ひとりのわたしでなければそうはしていないだろう。ここに書いた、これは私自身を「神島」に移行させた時の「なにさま」の視点である。生身の私が舟で元の対岸に戻り実生活者になった時は私はみんなの中に溶け込んだひとりとなる。
2006.06.17
それで、というのは先日の日記の続きで世のため人のための権化を桃太郎さん、とします。すると、彼は鬼が島に鬼退治に行きます。そして良かった良かった、という勧善懲悪のお話なわけなんだけどこれはあくまで村人からみた勧善懲悪、良かった良かったの御話です。つまり土星どまりのお話。鬼とは冥王星なんじゃあないかな、と、思います。なので桃太郎さんのお話は古代のダイナミックだった生き方が封印された時のお話なんじゃあなかろうか、と思いました。なのでわたしは世のため人のためはもう止めようと思います。土星どまりの価値観はとても狭すぎるからです。
2006.06.16
なんだ、そうだったのか。あなたがあなたとしてこの世に存在していることを主張できるようにわたしも私としてこの世に存在し続けることを主張し続けて良かったわけなのです。なにも私ひとりがこの世に存在し続けることに対して後ろめたさを感じる必要性は全く無かったのだ。私は私としてこの世にこのようにして存在し続けている。それはそれで天上天下唯我独尊なのです。私は私としてこの世に存在し続けるもの以外何者でもありえないわけです。
2006.06.15
ある人から、霊能整体師のK先生を紹介された。行くかどうかで迷っていたら「行くように」というスピリチュアルメッセージが、来た。それで行くことにしたのだけど指定された日時は二ヶ月近く先だったように思う。先日、その指定された日時になりK先生のところへ赴いた。「重り」となっていた過去の因縁を浄化していただいて真っ先に自分の口から出た言葉は「ありがとうございます。これで、後ろ髪引かれること無く世界のために働くことができます。」だった。ここのあたりは自分自身の6ハウス乙女座の冥王星を思う。K先生曰く「地球の未来には全てが調和した一点がもはや存在しているから。」ということだった。そういえば亡くなったS先生の整体に行くたびに帰り道つねづね「わたしは世のため人のため何ができるだろう。」と考えていた。少し前に動物占いが流行った時わたしはたしか「たぬき」で「たぬき」は「世のため人のためを考える」となっていたように思う。私が調べたところによると動物占いとは四柱推命の日柱の十二運だ。私の場合は「墓」。四柱推命で日柱は中年運を表す。つまりは、私の場合中年期は、エネルギッシュだけどスピリチュアル、ということになるかと思う。それで私は、家庭という小さな個人性の世界に納まることができずに家出して世のため人のために生きようとしているのかも知れない、と今日思った。*西洋占星術的には今年の11月に蠍座の木星は射手座へ。なので今という時は「蛇殺し」のテーマが浮上しても良い時だ。これは、私自身のテーマでもあり全ての人に共通のテーマでもある。地の龍でもある蛇はしつこい。蠍座的囲い込みをする。そこから自立できずに歳をとってそのまま生涯を終える人たちが実は大半なのではなかろうか。あまりにも自身の存在の台座であるのでここの部分を意識化できる人はほんとうにわずかでもある。特に男の人はそこの部分に限りない憧れを感じていたりして結局はなかなか切り離せないのではないか、とわたしは思ったりもする。*K先生のヒーリングルームには巨大な水晶の塊がふたつ置いてあった。それについてK先生のパートナーの方とお話しをしていたら、そのパートナーの方いわく「Kが言うには地球の中心にはダイアモンドの結晶体があるそうです。」ということだった。わたしは地球の中心のことまではまだ実感できていないのだけれどだけど、たとえば日本のお城の中心にはダイヤモンドの結晶体が埋め込まれていると思う。古い城郭を訪れるたびにそれは実感される。先日は甲府城の跡地でもやはりそれを体感した。
2006.06.14
あの、おじいさんの目は完璧霊能者の目でした。もしくは、自我を喪失した人の、目。あの、美術館の前にいた、おじいさんはわたしたちとあの、タクシーの運転手を結びつけたキーパーソンですね。今日という一日そして昨日という一日。今までに無いような濃厚な内容をともなった存在していることのその重みや根底的な何かに触れるありきたりではないスペシャルな一日。現世に存在するということはじつはとりもなおさずその特別な一日が毎日続くことであったのかも知れないわけなのです。これは、やはり私ひとりでは体験し得ない。関わり合った、全ての人たちに感謝する、瞬間。*Fホテルって、あの、Fホテルですかぁ。あの、Fホテルなのですね。*夢ともうつつとも言いがたい眠りの境界線の中ひとりのサラリーマンの後姿がカーテンの中に溶けてゆきました。逆にカーテンの中に溶けていったので現実でないことを認識できたのかも知れません。*夢のように透き通った池の水の中をおたまじゃくしが泳いでいた。両脇にそびえる巨木は何千年を生き抜いてきたのだろう。しめなわが張り巡らされていた。そここそが聖地。水。*少し前から呼ばれていた透き通った、水晶の場所。*存在の、不思議を思います。人と人の出会いの不思議も思います。この世はとても不思議な出会いの場所なのかも知れません。*偶然であったタクシーの運転手。その出会いまでこそが用意周到に準備されたかのようなとても濃くて驚きに満ちた。*一期一会。*それにしても、牡牛座の金星のせいなのか食べた岩魚の予想外のおいしさとその食べた瞬間の深い沈黙。そんなところに私自身の存在のリアリティー感じている実はただのそんな私なのです。
2006.06.12
今日という日をもしくは、今夜という時間を執着している対象一体化したい相手、もしくは気心の知れた気を使うことなく心の交流ができる人と過ごしたいと思われてそして、実際そのようにして過ごされている人は多いのではないかしら。トランシットの天体配置として今日は水のグランドラインができていてそれが牡牛座の金星でカイトを形成しています。トランシットの月も水のグランドトラインの一角を形成している蠍座に滞在していますのでこのまったり感によりいっそうの濃厚なティストを加えています。今日、夕食を食べながらまた、天啓のようなインスピレーションのメッセージが降りてきました。この日記の文章は自分で考えて書いていたのではないのか、と思われる方のために明記するなら私のP太陽ちゃんは現在蠍座の19度。「聴いてはしゃべっているオウム」の度数です。なので、チャネリング的に受信したメッセージを十分に自分自身理解しているとは限らないのです。これは、ずいぶんと無責任なお話と思われる方もいるかもしれませんが私自身「わたし」というものが良くわからなくなっていて実は、それはおおかたの世間一般のとらえ方としての「わたし」のほうが間違っていたり過小評価をしているのではないかと考えている今日この頃なのです。人間という存在は現代の私たちが認識している以上に限りない可能性の広がりを持ったものなのではなかろうか?それはおそらく未来においては再評価されるはずであるしむしろ、過去の人間の方がそのことについては熟知していた可能性のほうが大きいと思います。人間が内在している限りない可能性の大きさ。それで、お話を戻して今日、夕食を食べながら降りてきたメッセージは次のようなものです。*西洋占星術においてハードアスペクトをスクエアーとする考え方はもはやクラッシックである。これからはもっと150度を重視すべきである。90度スクエアーにしろ150度インコンジャンクトにしろその天体の前のアスペクトであるか後のアスペクトであるかには大きな違いがある。前のアスペクトにはある程度余裕を持った対処が可能であるが後のアスペクトに対しては前代未聞的に未知なることに対するチャレンジの要素が強い。*降りてきたメッセージの内容はこのようなものでした。この内容に対してはもっともだと思うところがある反面のちのちの検討も必要かも知れない、と私は思います。結局わたしは9ハウスや射手座に対する憧れを強く持ちながらも8ハウス蠍座を引きずっている人なのかも知れないな、と思います。とりもなおさず8と9のあいだの8.5なのは他ならない私なのかも知れません。それを日本語に置きかえたら「神秘哲学的」ということになるのであろうと思われます。そして私がアクセスしている上位の存在は2003年を境に「ヘルメス」とか「トート」と呼ばれている存在に繋がる霊統の存在にチェンジしたということを、ここに書いておきたいと思います。
2006.06.09
けさは今日のお天気の雨のように上のほうからたくさんのひらめきが落ちてきてそれは楽しかったし幸せだったのだけど道を歩きながらだったので用事が済んで家に帰った時にはおおかた忘れてしまっていました。気づきが天からぱらぱらと降り注ぐ感じ。わたしはそれをここに書きとめているのでここに書いていることはわたしがそのようにして受け止めた言葉です。その受け止めた言葉や気づきをこのような公開日記というブログにせっせと書き込んでいるわけは何と言ってもネイタルで7ハウスに5天体集中のなせる業なのだと思います。けさのことは思い出したら順次アップしてゆこうと思います。*思い出した降りそそいだ言葉。その1。それは、恋愛と結婚について。相手にときめきを感じている、相手を凄い人とおもっている、相手に憧れを感じている、とその恋は結婚に結びつきにくい。というのもそのときめきや凄い人であることや憧れを壊したくないというエネルギーが無意識の深い部分に働くためその相手の現実を見ないように相手との距離を縮めないようにする心理が働くため。その相手は「現実的に相手の全体性を受け入れてゆく」ということが課題の対象なのではなくてときめきを感じ凄い人と思い憧れを感じることによって自分自身の「何か」を伸ばしてゆくための存在。憧れの対象と一体化しようとする衝動が自分自身を変化させる。その「何か」というのは自分自身の太陽意識であることが多い。
2006.06.09
意識と無意識ということを考えた時、自分自身の無意識にまったく意識の光を当てられない人は自分自身の身の回りに起きてゆくことを誰か自分以外の責任に無意識のうちに転化して自分自身は関係ない、と考えています。その転化する自分自身以外の何か、とは「運命」といわれるものや「神」といわれるものや自分自身が出会う「他者」であったりします。ここに一度180度対極からの視点を導入してみましょう。つまり実は、自分の人生は自分自身で創造している、という視点です。そして、この180度対極の視点の中にもまた両極の視点を導入してみましょう。自分の人生は自分自身で創造しているというスタンスの元で現実の実生活レベルと虚の精神的なものとその両方について考えてみます。すると、人生の創造は自分自身でなしているというスタンスにおいてまず憧れや夢のような目に見えないけれども心理的に存在している「動機」からスタートしてそれらが自分自身の人生の方向性を決定し日常的に出会う膨大な森羅万象の中からそれにリンクするものごとに敏感に反応してゆくようになるという流れが見えてくるはずです。自分自身の人生は「トータルな意味における」「トータルな意味における」というのはつまり無意識レベルの「わたし」も含めた自分自身が創造しているということに気がついてみるのも良いものです。わたしにはトランシットの土星獅子座の意味をこの部分に見出します。つまり今という時間は自分自身の人生ストーリーを自身で生み出さ「ねばならぬ」という天体エネルギーが働いている時、と言えるのかも知れません。思い描いた人生ストーリーを現実という舞台の中で実現してゆけないとしたらそれを現実化させずに居るものは何なのか。それを自分自身の中に探して見つけ出し、見つけ出したものとむかい合ってみることが大切なのだと思います。そのようにして初めて動き始めるものがあるように思います。簡単な言葉でそれを「気づき」と読んでいるのだと思います。
2006.06.07
今日一日を生きているあいだだけでもよおく考えて思い出すとたくさんの人と出会って会話を交わしさまざまなことが起きます。それは実はすこし注意深く気をつけてみるととてつもなく膨大な量の体験であることがわかります。タロットの絵を描き始めると今描いていることにリンクしたものごとがどんどん身の回りで起きるようになります。深くリンクすればするだけ発見はたくさんになります。それはリンクしたことをこの身の回りでおきている森羅万象の中からピックアップする感性が自分自身の中に養われることに他ならないとも言えます。なぜならわたしたちの身の回りには普通認識している以上にたくさんのことが起きているからです。数日の間私自身の中から音楽が流れ出さずに日記の更新ができなかったように思います。少し書いてみて夜更けにアップしたもののまた、翌朝取り消す、というようなことをしていました。けさも、どこかおそるおそる書いているところがあります。ひらめきが舞い降りてわたしの中から音楽があふれ出すように言葉が出てくる時は、幸せです。わたしはタロットのおえかきに来ている人に展開されている流れにもリンクして生きているのでこの言葉が無い時間、10.運命の輪から11.力の女神の流れを体験していたようにも思います。ここの部分は袋の裏と表が反転するような変化でもあります。パラレルワールドの次元においてはそこのあたりは層になっていて繰り返し繰り返し。そのあたりから繰り返し繰り返し変化して行って現実も動いてゆきます。そして今日から新たに1.魔術師の流れがみたび始まります。音楽を感じるような素敵なレストランを2軒、知っています。ひとつは中華ひとつはイタリアン・レストラン。そのお店の中には音楽が流れています。お店の人と人がかもし出す、音楽です。こういうお店にはかならず指揮者が居ます。指揮者は、カウンターのところに立っているおじさんだったり、厨房の中のコックさんだったりします。厨房のコックさんの奥さんがたぶんあの人。そして、そのふたりでこの音楽をつくりだしている。人は楽器だとつくづく思います。そこのレストランでは食べ終わったお皿の下げ方まですばらしい。さりげなくすばやくタイミングよくさっと、さげます。私は知らなかったのだけどそこは知る人ぞ知る有名な店だったらしいです。そう、もちろんとってもおいしいお店です。
2006.06.06
もしも私が西洋占星術からも自分自身を完全に自由にすることができたなら私のその時は自分自身の中に存在する=神とわたしが完全に一体化できた時、というふうに今は考えている、ということをここに書いておこうと思います。わたしのなかの神、というのは先日のここにも書いたたとえばクローリー曰くの「この新時代においてキリスト教に変わって人類を律する新たなる<法>それが<テレマ>である。<テレマ>とはギリシア語で「意志」を意味する言葉である。その言葉に象徴される時代人類はキリストに象徴される外なる救世主(メシア)を待望する無力な奴隷であることをやめる。そして自らの内なる神聖を認識し自らの<意志>により自分自身が<神>として覚醒するのである。」とは、いっても誤解の無いように書いておくとしたら西洋占星術はけしてわたしに不自由をしいている道具ということではありません。
2006.06.01
学校の校庭にあったような陸上のトラックがあってみんながマラソンをしている。何週も走っている。わたしひとりだけみんなと逆の方向に走っている。つまり、反対まわり。そういう夢を去年か一昨年にみました。印象に残っている夢でした。今日知人のブログの中におもしろい言葉を発見!無断拝借だけどここに書くと「芸術家は人々のゆく逆方向に暴走する!」ふふふっ(笑)。そういえばわたしのASCの真上に天王星が乗り始めた頃にそれは見た夢でしたぁ。
2006.06.01
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