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僕の父は母が浮気をしたときに湯船に母の顔を突っ込んで虐めていました。それが僕には正しいことだと思えて猫とかをお風呂につけて真似していました。河とかでやっていると評判になっていわゆる村八分にされました。そのころ父の書斎にレコードがあって留守に聴いたりしていました。で、あるレコードを聴いていると凄く気持ちがよくなりました。と同時に頭の中に文字が走るんです。これを友達に言ったら小馬鹿にされました。父が母をお風呂に連れて行く時は恐怖でした。そういうことがあって僕は音楽がないとイライラするようになりました。僕が書いた詩は音楽を聴いているときに出てきた言葉をつなぎ合わせるわけです。その根底にあるのは「不安」です。あと雨の日の女性の脚を見ると頭に文字が走ります。字幕みたいな感じです。雨の日だけです。 自転車の鍵忘れたよさん誰やねんっ20号さん 恐れ入ります。親は子供と共に育つもの、人間は一生育つものと考えております。知識や経験には完了がありません。何かが達成された人間がいると思っているのは大きな勘違いだと思います。子を得ること、育てることとは共に生きることであり、自分の為であります。神が与え給うた人間の存在理由を達成する為に子供を慈しみより良い人間になってもらおうとするのであります。「自閉症は親の責任」を見た時に一瞬引きました。しかし文章の全体像からmsk222さんの真意を見ようとしとる間に、ヒステリックな意見が飛び出して、議論をお任せしました。忘れたよさんありがとう。詩、音楽、小説と優れて多彩な能力をもっていて、カタルシスも十分できるはずなのに、なぜ心を閉ざす時代があったのかと不思議に思うこともありました。自分の本質をさらけ出すことができる人は強い人です。普通の人なら発狂しかねないほどのつらい経験を幾つも乗り越えて、強くなった。いずれ、才能にこの強さが加わり、大きく花開く予感がしてなりません。誰やねんっ20号さんの、体あたり子育てはとてもいいですね。親子揃って、逞しくかしこく成長してゆく様子が、僕のような偏屈者にもあるべき理想像として感じられます。ミートホープのコロッケのようなブログが多いなかで、誰やねんさんのブログはヤンキー風な文体の衣で本物の松坂牛の挽肉を包んだような知的センスのブログ、たいしたもんです。今日・明日は千客万来につき、手抜き日記でゴメン
2007.06.30
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幼い頃に 吉雄777さん 心を閉じていた経験があります。全てにおいて完璧でないといけないと幼心に思った結果でした。家や外の大人や学校でこれが「いいこ」の形だと大人はこの「いいこ」を作る為に頑張っているのだから、私も答えようと思って大人から渡されるメッセージの矛盾感情の抑えつけを「いいこ」として受け入れ気がついたら心が閉じてしまっていた。幼かったので、大人からのメッセージの取り違いや取り扱いのしやすい子供と自分で考える(取り扱いにくいが)自立した子を目指す方向性の違いがあることに、気がつかなかった。鵜呑みにしすぎたんだろうね。親も少し心配して精神病の判定テストを研究していた人に逢わせたりしました。病的ではないと、ただ感情を表に出さないようにしているだけだと判断されたようでした。今思うと自分で判断しないで、大人の言うとおりにしていればなにもかも大丈夫だと思っていたのかも。世の中を渡りあるく、自分の判断や感情を外部に依存していたのだと思う。そういう、心を閉めた状態のことを「自閉的傾向」と書かれているのかなと思いました。親が心をないがしろにした、「子供にはこれが必要という親心」が「心をシカトしなさい」というメッセージに変わってしまう。どれが正解ってのはないしモーツアルトを聞かせたのに良くなってないなんて不満があるかはわからないけど子育ても自分の心と向き合って、責任をもっていきたい。いつも思うのですが、吉雄777さんは頭のいい人なんだろうなー、と。そして、それゆえの悩みも経験してきたんだろうということも…。先日エントリーした「みんなで仲よし、って…」を書いているときに、ちらっと浮かんだのが吉雄777さんのイメージでした。大人の期待を一心に背負ってしまう。それに応えないことも、意志を曲げて応えることも、子どもにとっての負荷なんだよね。>「子供にはこれが必要という親心」が>「心をシカトしなさい」というメッセージに>変わってしまう。悲しいかな、この部分がわかっていない親としてのプロが多い。専門書や育児書を読み漁って、早くに子どもの才能を開花させようとして、その重圧で押し潰したり、心を閉ざす方向に導いてしまう。厳密な意味での、病理学的な自閉症については専門家にまかせるしかないけれど、本来は普通に社会に適応できたはずの子どもを「自閉的傾向」あるいは「疑似自閉症」に追い込んでしまう育児というものを、僕は感じているんだね。そして、これは自分の教育に自信をもっている人に多いから、いっそう不幸なんだと思う。吉雄777さんが、自分の体験を書いてくれたのはとても嬉しかった。その体験が、経験としてご自分の子育てにきっと生かされるものと思います。
2007.06.29
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久々に反発をいただきました。懐かしいような、ホロ苦いような…。そもそも僕のブログは、今思っていることをざっくばらんに本音で書いているわけです。その道の専門家が検証を重ねて発表しているものと同様に読まれたら、ボロは隠せません。できたら、ああ、そういう考え方もあるのかなるほど…とか、あるいは、偏屈な奴もいるものだと、それは読者が自由に判断していただければいいわけです。ということで、良い機会ですから僕の視点について語ってみたいと思います。僕が、人やものを見たり考えたりする場合、既成の見方から数歩外れた位置から眺めるように心がけています。もちろん、生きてきた間のコケや鱗が身に付いていますから、つい既成観念に陥ってしまうことはあります。いや、その方が多いのかも知れません。だからこそ、意識して視点をずらすことを心がけています。" " たとえば、図のような円錐を見たときに、真横からみた場合、上から、下から、斜めからと角度が変わるごとに違う形に見えます。それと同じように、人は物事を普段見ている角度からのみ判断したり、語ったりしがちです。何か事件があったとき、被害者と加害者が報じられている場合、場合によっては加害者のほうが同情すべきところが多かったり、実際には理不尽なイジメに荷担していたりすることもあります。ほとんどの物事は、一面からだけでは判断できないものです。僕は、なるべく大勢が立ちそうな場所から離れてものを眺めるように意識しています。そうして発信する判断が、すべて正しいかといえば答えはNOでしょう。その見方も、またある一面でしかないのです。様々な角度から見る、ときには中を割ってさえ正解はないかも知れない。それでも、自分の視点で見て、判断し、発信してゆく。それが多様な意見が交錯するブログの面白さだとおもっています。僕がリンクさせて貰っている方々も、それぞれ独自の視点から発信している。決まりきった常識に縛られない視点をもっているから面白く読ませて戴いています。だからといって、すべて肯定、あるいは否定するのではありません。自分とは異なる考え方を聴けるから面白い、参考になるのです。僕の考え方、感じ方もその程度のものとして感じていただければと…。 *「自閉症は親が犯人」というエントリーのタイトル、ご指摘のように配慮が足りなかったですね。変更させていただきます。内容については、独断と偏見かも知れませんが、最近僕が強く感じていることですから、ひとつの考え方として参考にして貰えればと思います。最近の「家族殺し」など痛ましい事件の風潮も、かつて「連続射殺事件」の永山則夫のように、無知とか貧苦が原因となって起こった時代より、良い家庭を作ろうという努力が、見込み違いの方向に作用して起こっているように僕には感じることがあります。もちろん、これもひとつの感じ方で、皆さんにはそれぞれベツの感じ方があっていいわけです。危険なのは、「学校が…」とか「教育が…」とか、マスコミ報道だけでステレオタイプに固定化してしまうことだと思っています。 *mskさん生半可な知識で物を言うのは危険です。いけないことです。詳しいことは、メールででもなんででも語りますが、このエントリーは削除された方が良いと思います。何千の自閉症の親御さんが、今までにこの言葉で傷ついているのです。>脳障害による先天的な自閉症は別として、いわゆる自閉傾向的な状態ってなんですか?だったら、なぜタイトルに「自閉症は親が犯人」と書き切るのですか?自閉的な状態とは何を差して言っているのですか?引きこもりのひどい状態ですか?ここで、わたしが心配しているのは、「脳障害による先天的な自閉症」の親御さんが、このタイトルを見てどう思うかです。多くの障害者をお持ちの親御さんは、自分を責めたり、どうにも関わりの持てない子どもに敵意を向けたり、そういう自分がイヤになったり、すごく傷つきながら、自閉症という障碍がある子どもを持っているという事実と向き合っていくのです。その重さを知っていますか?ものごとは、ひとつの原因ではなく、いろいろな状況が関わり合って成り立っているのです。また、親に責任があっても、親を責めることがそれ自体解決にならないことも多いものです。単純に一元的にモノを語ることは、危険だと思います。身にしみます。検証もなしに、ほとんど書き殴りのような無責任な文章ですから、僕の書いたことで傷ついた親御さんがいるとしたら、謹んでお詫びしなければなりません。「単純に一元的にモノを語ることは、危険…」についても心しなければならないことでしょう。そのうえで言うと、書いたことは受け売りが多いとはいえ、僕が強く感じてきたことでもあります。これから、子どもを産む親御さんがいたら、肯定であっても否定であっても参考にして欲しいと思います。これを読んでいたら傷ついてしまうかも知れないけれど、僕が直接かかわっているなかにも、教育熱心な家庭のあまり、社会適格性の部分が毀れてしまったと感じられる青年が幾人かいます。個々につきあっているぶんには、とても素直で良い子たちです。しかし、社会の中で泳ぐ力がない、たくましさがないというやつです。ご両親の人格もあり、社会的にも我が家よりよっぽど優れ恵まれ育った(と見える)家庭ばかりです。それなのに現在の親は腫れ物に触るように子どもに接し、わが子の将来を心配しています。すでに十分傷ついている傷口にさらに塩を擦り込むようなこととを承知で、あえていえば、やはりどこかが間違っていたのです。責任は、他人でも、子どもでもなく、親にあります。と僕は思います。家族から相談を受けて、かかわっている子もいます。当然ながら原因は、一面だけでなく多岐にわたりますが、わからないことばかりです。マニュアルでパソコンをいじるように、何年もかかってできた人の心が調整できるものではないと思っています。人間はきちんと思い通りに育たなくて、あたりまえなのだから…。そのことを、どこかに正解があるのではないかと、青い鳥を探すように、家族が必要以上に意識し、引きずりすぎるからとことんまで傷ついてしまうのではないでしょうか。「幼児期天才、少年期秀才、大人になってただの人」と親が達観できていれば、ここまで深刻にならずにすんだのに、と思えるケースとも出会います。僕の書いたことなんてただのため口、こんなことで傷ついても馬鹿らしい、嗤い捨てるおおらかさをもっていただける親御さんたちであっていただければと思いますが、ムリでしょうか。
2007.06.29
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社会が複雑になってきたということでしょうか、最近は精神的な病気を抱える人が増えています。僕の周辺をちょっと見回しても、たちまち片手の指だけでは足りないほど思い浮かびます。えっ、お前に言われたくないって、そうもしかしたら僕だってそう思われているかも知れません。「やるべき事が山積しているのに、よくノーテンキにブログなど書いていられるものだ」って、目に浮かびます。こういう今更取り返しのつかない人間はさておいて、深刻だと思うのは子どもや若者に精神的な障害を自覚する人が増えていることです。僕の親しい友人に、神経科医院に勤めている看護師さんが2人、そして専門のお医者さんまでいます。いえ、僕が患者だということではなく、偶然僕の知人にお世話になっている人がいて(一般論として)話しを聞くことがあります。その話しとして、よく目につくのは、ひきこもりや自閉症。脳障害による先天的な自閉症は別として、いわゆる自閉傾向的な状態はほとんどのケースは「大人が作った病気」だということが、最近わかってきたそうです。自閉傾向の子どもは一般的にいわゆるIQが高いんだそうです。IQが高いということは、平たくいえばいろいろなことがすぐわかる、それゆえに趣味や指向がはっきりしている、好き嫌いがきちっとしてるということ。こういう傾向は新生児どころか胎児のころからあるのだそうです。胎児にも趣味があるのです。だから、母体を通して変な振動がしたり、親が喧嘩したりして、胎児にとっていやな感じが伝わると、ギュツと体を閉じたりするんだそうです。ちょっと切ない感じですね。いずれにしても、胎児のときのストレスがすでに自閉症の芽をはぐくんでいる、ということなんです。よく「胎教にはモーツアルトがいい」なんていう育児雑誌の記事を鵜呑みにした母親が、一日中モーツアルトのCDをかけていたりします。運よく、モーツァルトのあのリズム、あのメロディーが赤ちゃんの趣味に合えばいいのだけれど、当然親子でも趣味が違う場合があるし、第一それは母親のほんとうの趣味でなかったりしますから、はじめっから母体のほうがギクシャクしているわけです。で、胎児はもちろん、赤ちゃんだってCDを替えるわけにはゆかないし、ボリュームを下げるわけにもゆかないから、むずかるよりほかない。と、母親はそのむずかりの意味がわからないので、さらにボリュームを上げたりするわけです。モーツァルトが足りないから、むずかるのに違いないなんて思ったりして。趣味が合わないからむずかる、でもその信号が通じない場合どうするかというと、耳を閉じるしかない。閉じるといっても手でふさぐことはできないから――これが恐ろしいのですが、耳の中の聴覚神経を閉じてゆくのだそうです。あるいは鼓膜の振動を止めてゆくのだそうです。この辺のディテールはまだそう詳しくはわかっていないらしいけれど、ともかく感覚機能を閉じてゆくのだそうです。確かにそれしか手はありません。そしてそういうクセがついてくると、外から来るあらゆるものに対して、閉じるクセがつく。極端な話、たとえば栄養が来ても拒絶してしまう。さらに外に対して閉じるだけではなく、自分からすすんでは出さなくなる。だから、喋らなくなる、飲み込まなくなる。これらが相乗して、生命体そのものの質になって、結果、脳障害がなくとも後天的に自閉傾向を持った子になってしまうことがあるのだそうです。ですから、そういう子に関しては、とりあえず親から離せば快方に向かうという調査結果も出ているそうで、これはまちがいなく親が作る病気だといえます。教育熱心なお母さんほど、知らず知らずにそういう危険を犯しやすい、えっ、放任主義でしたか。それはご主人のことではないですか。 モーツァルト聴こえますか
2007.06.28
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「阿弥陀堂だより」や「黄泉がえり」という映画で、達者な演技をみせてくれた女優の北林谷栄さんがこのようなことを言っていました。「日本人もひと昔前は、もっといろんな人がいたと思います。うちで酒ばっかり呑んでるお母さんがいたり、頭おかしくなってるおじさんがいたり、子どももいろんなのがいて、あのころのほうがよっぽど面白かった。ところが今は、社会における平均的なパターンという中で、みんなが汲々としているように見えます。「平均地獄」という感じです。」たしかに、「ゴールデンウイークには家族揃ってどこかに出かける」とか「高校か大学ぐらい出ておかなければ…」とか、まったく変な物の言い方がまかり通ります。で、それをだれが言ったのかと聞いたところで、答えは返ってはきません。そのうえよせばいいのに、国民平均貯蓄高だとか、平均年収だとか、大企業の平均ボーナス額をこれ見よがせぶりに国が発表したりする。その結果、「わが家は落ちこぼれている」とか、普通じゃない人なんていうのが発生します。30歳すぎて結婚しない女の人を、女は20代で結婚するものだという平均に照らしあわせて、ちょっと変わった人と言います。昼間家でブラブラしている男を、男が昼間働きもせずに家にいるなんて、ダメな男とか言います。学校に行かない子もその類の言い方で括られたりします。そして(一部例外をのぞいて)みんな、そう言われないように頑張ったりします。「人それぞれの事情がある」ということを、これほど無視する社会を不思議に思わない人が多いことも、また不思議です。また、人それぞれの事情を社会の事情にすぐ置き換える人がこれほど多い社会もまた不思議、そんな気がしています。北林谷栄さんは1911年生まれだから、えっ、96歳になるんだ。ちゃんと頭を使っているから脳みそがやわらかいんだな、きっと…。
2007.06.27
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年配の夫婦で、互いを「おじいさん」「ばあさん」と呼び合っている人がいます。先頃、同級会があったときに驚いたことにそのなかにもいたのです。孫が出来た頃からそう呼び合うようになったとのことですが、こちらまでジジババ仲間に引き込まれたような複雑な気分がしました。それで思いだしたのですが、最近は変わってきたようですが、病院や福祉介護の現場において、高齢者に接する人の多くは相手を「おじいちゃん」「おばあちゃん」としか呼びません。「さあ、おじいちゃん、おむつ替えましょう」とか「おばあちゃん、お薬の時間ですよ」といった具合です。一般病院から高齢者介護施設の看護師に転身した友人は、以前からこの慣習に反発を感じていて、今、訪問先の家々で、○○さんときちっと名前で呼ぶようにしているのだそうです。「森重さん、こんにちは」という調子で。すると、おじいさん、つまり森重氏もハッとして、シャンとする。昔なつかしい普通の関係が甦ったということです。もう名前も呼ばれないということは、人によってはひとりの人として認められないと思うのではないでしょうか。おじいさん、おばあさんという代名詞でしか人格を認められなくなったら、僕はさびしいなぁ。その看護師さんが言ってましたが「福祉って一所懸命リハビリをして元の身体に戻ろうとしている人より、人生を投げたような人に厚く予算が行くようにできているのよ。なるべく寝たきりになったほうが金銭面ではトクするのが今の福祉政策なの」。私が訪ねる方々の多くは「寝たきり老人」じゃなくて「寝かされ老人」なの。このところ意識して心にちょっとひっかかっているるテーマで日記を書いています。最近では、福祉施設でも「おじいちゃん、おばあちゃん」でなく、ちゃんと「○○さん」と名前で呼ぶところが多くなってきていると聞きます。
2007.06.26
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仕事の打ち合わせの時間のことで、ある女性とこんな会話がありました。「朝9時に待ち合わせるということでどうですか?」「私、低血圧だから調子悪いんです。10時過ぎにしていただけません」「どういうときに血圧が低いって感じるんですか。歩いてるうちに『あ、血圧が低いなあ』って思うとか、クラッとくるとか?」「とくにそういうことはないんです」「じやあ、なんで低血圧だってわかるんですか」「お医者さんが血圧を測って、低いっておっしやるから」「どうして測ったんですか」「会社の集団健診でした」「……。つまり、あなたは人に低血圧と言われれば低血圧なんだ」「はあ」「馬鹿と言われれば馬鹿なんだ」「……。」こういう人に限って、だから私って寝起きが悪かったんだなどと納得します。血圧なんて測り方によっても違ってくるし、僕なんか若い女医さんの前に行くと緊張して上がっちゃうだろうな。少し高いからといって、標準に合わせようとして、言われるままに血圧降下剤を飲んじゃうなんて、どうかしています。朝規則正しく起きて、毎日30分ほど散歩でもしてご覧なさい。自然にちょうどいい血圧になってきますよ。それでも上がらなかったら、規則正しく晩酌をすること。僕なんかそれで健康を保っているようなもんです。そういえば、長寿世界一になった田鍋友時さんは酒を飲まなかったから長寿になれたっていってますが、そんな寂しい思いをしてまで長生きしたいんですかねぇ。「主治医がいる人生」というのも不思議です。旅行に行くときはどうするんでしょうか。ずっと連れて歩くのでしょうか。それとも薬を何十日分も出してもらったり、旅先の病院を紹介してもらったりするのでしょうか。死んだとき、「ご臨終です。何時何分、ご愁傷様です」って言って貰いたいのでしょうか。どうして、これほど自分の人生を他人に預けてしまうのか、よくわかりません。自分の身体は自分でメンテナンスする。ある程度定期的にチェックしてもらう。そのくらいの人のほうが長生きをするような気がしますけれどねー。
2007.06.25
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その昔、息子が彼女から貰ったというドラえもん人形を譲り受けて持っています。ドラえもんは、いわゆる物質文明に毒された子どもたちの夢の代表のようなものです。遠くに行きたいと思えば「どこでもドア」を開き、欲しいものは「ポケット」から好きなように取りだすことができます。空を飛びたいと思えば「タケコプター」を出して、どこにでも移動できます。最近の人々を「勝ち組・負け組」に色分けしたがる風潮も、あるいは「ドラえもん」のアンチョコさが影響しているのではないかと感じられないでもありません。ドラえもんを観て育った子どもたちが、欲しいものが何でも安易に手に入るという錯覚で、結果だけを求めるようになる。いわゆる一頃のホリエモン指向。もちろんなり得ようがないわけですが、結果までのプロセスの大切さを意識するクセが抜けていないから、結果としていつまでも夢を夢見てドラえもんのポケットが天から降ってくるのではないかといつまでも夢想する。それで30、40歳になった頃愕然とするわけですね。ドラえもんのポケットは、永遠に遠くに置くべき焦点だと思っています。例えば、宇宙へ「行く」ことより「行きたいなぁ」というところに意義を感じるべきなのです。「○○ができる」ことより「○○をしたいなぁ」と思っているいるところに生きてゆくパワーが生まれます。たとえば恋愛だって、結果をやすやすと得られたら、こんなつまらないものはないでしょう。何とか好意を寄せている人に気に入られたい、振り向かせたいと思っているから、日々自分を磨くわけです。結果を得られなくても、磨いた自分はのこる。そういう意味では、藤原のりかさんと結婚した陣内智則くんの人生はハタでみるほど幸せではないでしょう(嫉みも少々…)。僕にとってもドラポケは、現在は山荘でしょうか。動けば動くほど、目標が遠くの方に移動して行きます。それでも、目標があればまっすぐに歩けるものなんです。今日はなんだかまりあのじいじさん風になってしまったな。秀さんが「みんな仲良し教育の欠陥」というエントリーで、先に僕が書いた「みんなで仲よし、って…」の言わんとした意味を論理的に書いてくれています。しかし、いつもながらこの人の数学的頭の構造はスゴイなぁ。ぜひ、お読みください。
2007.06.24
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写真をみて、今頃なんでこんな風景を、と不審に思われた人もあるかと思います。隣町に紅葉湖という紅葉の名所があります。紅葉の季節になると、写真(昨年秋のもの)のようにその地域一帯が赤や黄の原色で埋め尽くされます。昨年こぼれた紅葉の種が萌えだし、土手などには小さな若木が無数に生えています。その若木も下草と一緒に刈られてしまいますが、その前に抜いてきて山荘周辺に移植しています。昨年から始めた作業ですが、敷地内は完了して今度は附近の山の中に植えています。とりあえずの目標は1000本ですが、すでに200本ほど植栽しました。後、800本もここ1、2年で植る予定です。といっても、採種しなければなりませんので、下草があまり丁寧に刈られないことを願いながらの作業です。楓科は根付きもよく成長もはやいので、5年~10年もすれば山荘附近の秋はみごとな紅葉で埋まるはずです。ひとりでそんな遠大な計画が可能か、と思うでしょうねぇ。大丈夫、ちゃんとアシスタントがいて手伝ってくれているのです。敷地内にははちくの竹林もあり、梅雨時期なので文字通り雨後の竹の子がいたるところにニョキニョキ顔を出しています。これも1日油断をすると、とんでもなく成長してしまいますから、竹林の植生をみながら適当に間引いています。採った竹の子は水煮にして冷凍保存していますが、毎日毎日竹の子とりをするものですから、妻がうんざりした様子で皮むきをしています。冷凍庫は2つありますが、竹の子でいっぱいにするわけにはいきません。連絡をくれれば欲しい人には差し上げます。ということで、附近の景色を磨いてゆこうと毎日全身に汗しているのです。ところで、朝起きるときに腰が痛いこと。身体を遣い過ぎなのか…。
2007.06.24
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先の日記にうばゆりさんからメールでコメントを戴きました。考えさせられることのあるとてもいい内容なので、勝手に紹介してしまいます。うばゆりさんは、僕より5歳ほど年上ですが、とても元気で若々しい女性カメラマン。考え方や生き方にとても共感し合うことの多い人です。自然界の動物たちともとても仲良しで、山荘付近の動物たちも彼女の前ではリラックスしてポーズ(?)をとっています。僕はご主人と親しく長いつきあいですが、ときどきその留守を見計らって逢いに行きます。ええ、もちろんお茶をごちそうになってくるだけですが…。 *やっと梅雨らしくなりました。大切な水の確保のため植物のため、やっぱり降る時は降らなきゃね。今日のブログを読ませてもらい、直接には関係ないことだけど野生の動物の姿に恐れをなす事が起こりました。毎日餌を食べにくる野良猫が、子猫を連れてきたのです。自分は食べなくて子猫にたべさせるのです。このような光景は、今まで見てきたのですが、この歳になるとさらに涙腺がゆるむのでした。さてそこまではいいのですが、隙間に入った子猫を出そうと手を出した所、かまれたのです。痛かった。本当に唾液が一杯付いて、大きな目と表情のない顔でにらまれた時、はじめて怖さを感じました。すると指がズッキンズッキンと痛み出し、腫れてきてリンパ腺に添って赤くはれ上がり、腋の下まで痛くなり、熱が出てきました。爪や歯にはばい菌があり、生命の危険もあると本で読んだのを思い出し、時間外の中央病院に行ってきました。案の定、「死にますよ」と言われました。かまれた時は、やばいと思いすぐ水で洗い処置はしたのですが。その後が一番ショックでした。親猫は家に来るのですが子猫は来ないのです。私の姿を見ると逃げていくのです。三つ子の魂百までも、こんな感じです。かわいそうな事をしてしまった。人間不信にしてしまったのではないかと。人間が動物のためと思ってすることは必ずしも、そうではない。今回の場合は私がもうちょっと様子をみて、他の助ける方法があったのだ。あの小さい子猫が、自分を守るために必死になる行動を読めなかった自分がいやだ。地球上の野生の動物は、蜂の一刺しじゃあないけど人間なんで一刺しで、あの世行きぐらいの、守り刀をもって私達を見ているのだ。たわいもない事を書きましたが、懲りずに気をつけて猫に餌をやっております。又鳥に会いに着ます。奥さんによろしくね。 橋○ み○○
2007.06.23
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沖縄美ら海水族館で生まれたマンタの赤ちゃんが死んだというニュースが報じられている。最近は水族館でシャチなどの巨大な動物を飼うようになってきた。今に、クジラを飼う水族館もできるかも知れない。僕はテレビなどでも、野生動物の生態を追った番組が好きでよく観るのだが、動物園や水族館に出かけて動物を観る気にはなれない。あれはどれほどの意味があるのだろう。動物の生態を調べて保護に役立てるなどという説明を聞くとなんだか、ミートホープ社の社長の弁明を聞くようで嘘っぽさを感じてしまう。本気になれば自動車ほどのスピードで走れる動物が、狭く限定した場所で生きるための獲物を狩る心配もなく、ドロンとした眼で人間の好奇の目に晒されている姿に真実があるのだろうか。それに比べれば、食肉用の牛とか豚などが放し飼いにされている牧場などは、かなりいい動物園だと思う。はじめから図式がはっきりしている。そこにはウソがない。でも、園児をつれて散歩に立ち寄った保育園の先生は、園児の前でなぜか「まあ、かわいい牛の赤ちやんがいますね。お母さん牛とのんびり幸せそうね」なんて言ってしまう。本当のことを教えていない。「ねえ、ここにいるうし、この後どうすんの」なんて質問が出ないことを析るばかりだ。人間は、動物を食べる一方で、ペットにしてかわいがる。そういう動物と人間の関係というのはずうっと昔からあったわけだ。これは正しいとかまちがってるという話じゃなくて、必要にせまられてとりあえずやってきた事実。いろいろな種類、品数揃えてるほうがいいのは肉屋さんで、鹿や猪、うさぎの肉だって売ってるところもあるし、その一方で動物園にも鹿やうさぎがいる。正しい、まちがっているなんて話ではない。人間の都合で見せ物にしているだけで、本音は金儲けなんだから見せ物ですと言えばいい。その昔、身体障害者(今風では社会的弱者)を見せ物小屋のスターにしていた時代もあった。さすが、時代の流れでそれはあまりだと、動物にとって代わった。動物が身代わりになったとも言える。ところが、なぜか子どもに向かうと、これが「正しい」「きれいごと」の話一本になるから、いやらしい。「動物たちに相談もなく、興味本位で集めてしまいました。けっこう金もかかりました。だから、見た人はお金をください。」そういうべきではないだろうか。今日は、極論につき共感不要です。
2007.06.22
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秀0430さん>みんな仲良しという教育は、共同体主義を助長するものとして宮台真司氏が批判していたものでした。僕も、教育現場にいた経験から、この種の教育が大きな弊害をもたらすものだというのを実感として感じていました。「みんな仲良し」という、否定しにくい命題が学校の前提になってしまっている。育つ過程では、否定すべきものも含めて学んでいかなければならないはずなのに…。>仲良しならいいじゃないかと素朴に考える人もいますが、共同体主義というのは、主体的な判断力を鈍らせ、自分の主張を他者に説得するというコミュニケーション能力を育てる邪魔になります。みんながそうしているから自分もそうするというような、日本的な「空気」に流されるという性格を育てるようになります。その日本的な空気が、社会のあらゆるめんに浸透している。それが、祭などの共同作業では良い作用をもたらすことがある一方、自民党などの政治支配体制としても有効に作用されてきています。保守的なものによりかかっていれば安心、長いものにまかれているのに気づかないという空気でしょうか。>砂場で遊ぶというのは、主体的な人間にとっては、自分がそうしたいからしているのであって、他人がどういう希望をもっているかとは一応無関係です。つまり、主体的な判断と自己主張という問題がそこにはあります。>みんな仲良しという原則で、教員の決めた遊びを誰もがやるというような、主体性のない従順な子供たちにするような教育は、自分の考えをもつ主体性を破壊し、他者の賛同を得るようなコミュニケーションに努力するという動機を奪います。(善意に考えれば)国も、文部省も、その方針を忠実に守ろうとしてきた学校も、一所懸命全体から逸れた芽を摘みながら「みんな仲良く」的価値観で教育をしてきた。しかし、現実には「みんな仲良く」していたはずなのに、(塾など)抜け駆けしてきた子が勝ち組になり、官僚になったり政治家になってきた。一握りの成功者を産むための「みんな仲良く」を押しつけ、羊の群れをつくりだす一方、結果的に格差社会をつくってきた。村上ファンドの彼は、同級生たちに言わせると、子供の頃はとても自分勝手で、学校で決められたルールは守らない、掃除や共同作業はしない、株の勉強には熱心、自分のためだけに時間を使うという少年だったようです。それが官僚になり、村上ファンドで一応の成功者になった。これも異端ではあるけれど、健全な異端の芽を摘み、人の迷惑も顧みないという異端はちやほやされる。それが今の社会になってしまっているのではないでしょうか。>このような教育を受けた子どもたちは、周りの空気に流されていくようになったり、周りとは無関係な変人として生きていくようになるのではないかと思います。共同体主義の困ったところは、違う共同体に対しては、それに対する配慮がまったくなくなることもあります。宮台氏は、「他人はみな風景」という言い方で表現していました。同じ共同体に所属していない他者は、感情のある他人として認識されないということです。>みんな仲良し教育は、共同体主義を助長し、社会の中の個人として、他者を尊重する市民感覚を育てる邪魔をすると思います。やはり批判しなければならないのではないかと思います。「仲良きことは良いこと」という共同幻想をひとまず置いて、個性の違いを尊重し合う、立場の違いを尊重し合う自立した人々が仲良く暮らす社会、こうなるべきでしょうね。
2007.06.21
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鬱陶しいニュースばかりつづき、せめてブログくらいはほのぼのした話題、ちょっと考えさせる話題、といった人畜無害を心がけたいものと思っているが、このところのニュースには呆れかえっている。都内の温泉施設が地下からくみ上げた温泉水に混じった天然ガスが施設に充満し、大爆発したという事件。ガスの正体はメタンガスとのことだが、爆発しないようにするためには大気中に換気放出する必要があるという。東京には同様施設が約150もあるという。これらの施設が温泉をくみ上げるときに一緒にでる天然ガスを、燃焼しないとしたら大気中に放出しているわけだが、それは環境になんの影響も与えないのだろうか。尾籠な例えだが、電車のなかでひとりくらいスカシっ屁をしても気づかないかも知れないが、150人が、慢性的に終日垂れ流したらいくらなんでもそんな車両には乗る気になれない。東京って、そんな状態ではないだろうか。いっそ温泉より、豊富な天然ガスを採掘して都内のガス供給をまかなったらどうだろう。温泉はひなびた田舎にこそ似合うもの、都民は自前の天然ガスで家庭風呂かシャワーで、という身の丈にあった生活こそ自然では。食品加工卸会社ミートホープ社の偽装ミンチ事件、開いた口が塞がらないとはこのことだ。牛と偽って豚だけならまだしも、腐敗寸前のヘタレ肉や内臓、血を混ぜて挽肉にしていたという(工場関係者)。造った本人たちでさえ自社の製品は食べないという商品が、加ト吉という食品大手、生協という安全神話のあるブランドを通じて販売されていた事実は、加工食品全体の信頼性に疑義を抱かぜるを得ない事態だ。そもそも、加工された肉が、何にも手を加えていない肉の何分の1というような値段になること自体が不自然なことなのに、それが当たり前になっている流通の仕組みを考えると、この悪質偽装会社はミートホープ社だけにとどまるのだろうかと、不信感は高まるばかりだ。それにしても、記者会見で自らの犯罪行為を社員に転嫁しようと弁明するあの社長の態度をみると、まだ何かあるな。社会保険庁の「消えた年金問題」。空前絶後の事務処理の不備だけでも国家的重過失だと思うが、それを民営化しようという法案を通そうとしている。国家の名前で徴収してきた厚生年金を、民間管理に移すということは詐欺行為ではないか。こところのドタバタ紛れの法案強行採決は、あまりにも国民を舐めきっているとしか思えない。この問題は、ついでに書けるほど軽い内容ではないから、ここでこれ以上は書かないが、参議院選挙でよほど熱いお灸を据えなかったら、反省できないんじゃないかな。
2007.06.21
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友だちに、小さいときから勝手気ままな一人遊びが大好きで、今もまったくそのまんまの生き方を続けているイラストレーターがいます。その人から、子どものころは一人で遊ぶのがとても大変だったという話を聞いたことがあります。なにしろ一人でいるのが楽しいので、たとえば砂場などで一人で遊んでいると、必ず先生がやってきて言うんだそうです。「友だちとみんなで遊びましょうね」って。仕方がないから、しばらくはみんなと遊ぶのですが、やっぱり一人のほうがおもしろい。で、また砂場に戻って遊んでいると、また困った顔をして先生が来る。それを何度か繰り返しているうちに、しまいには、先生がほかの子ども二、三人を砂場まで送り込んできたそうです。「いっしょに遊んであげてね」と。なんとなくわかるような気がします。ありそうな話です。その子の欲するものを見ないで形を見ている。一人という形を見ている。一人ぼっちという図式を見ている。一人ぼっちはよくない、“みんなで仲よしというのがいい”という形式で見る。で、実のところこの先生は、何も見ていない、何も考えてない、何も感じていない、つまり教育者としてやるべきことをサボっている。人にはいろいろな個性があって、その人にあった生き方をした方が、その人のもっているいい物を引き出せるんじゃないかなぁ。
2007.06.20
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友人は、この地の国際交流協会の役員をしているが、嘆くこと。留学生を支援するために「外国人学生の下宿求む」という募集を行ったときのこと。ある家から「ぜひおせわしたい」と申し出があったので1人を行かせた。ところが、その家の主婦から抗議の電話がかかったという。「外国人と言ったのに、どうして英語のできない人をよこすのよ!」あるとき、日本へ来たばかりの留学生か不思議そうにきいたという。「日本のテレビコマーシャルは外国人というとどうして西洋人ばかり出てくるの?」最近は韓流ブームで、だいぶ様変わりもしてきたが彼らからは韓国人と日本人とでは見分けがつかないかも知れない。それにしても、日本人にとっては、二種類の外国人があるような気がする。「第一種外国人」は、背が高くて、目が青くて、英語を(あるいはドイツ語、フランス語を)話す外国人。日本の会社が作って日本人に売る商品でも、この種の外国人が使ったり食べたり乗ったりしていると高級そうに見える。「第二種外国人」は、背が高くなくて、おおむね皮膚も髪も目も黒くて、英語やドイツ語、フランス語を話さない、ブラジル、そしてアジアや中東から来た外国人。日本人は、第一種外国人を善良無邪気なほほえみで見あげ、第二様外国人を見下してバランスをとっているらしい、という感想を言った留学生もいたとのこと。
2007.06.19
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とりとめない話しだが、専門家であることをいい表わすのに「くろうと」ということばがある。この反語は、「しろうと」であり、素人と書いたりする。このことばのかわりに、ときおり、英語のプロフェッショナー、アマチュアが同義語として使われたりする。(ほんとうは、かなり内容が異なるような気がするのだが)。この「くろうと」、「しろうと」ということばのうち、どちらが多く使われているかというと、断然あとの方だろう。自分のことを紹介するのに、「私は○○のくろうとです」とはあまりいわず、反対に「私は○○についてはしろうとですから」ということの方が多いと思う。つまり、しろうとということばは、門外漢とという意味をはらんだ謙譲語として用いられるのだが、日本人は「謙譲語が好き」だから、やたらとこれを使う。そして、「いやいや、くろうとの方が何をおっしゃいますか」などという相手が応じてくれて、はじめて正体を明かすということになる。くろうとということばより、しろうとということばの方が、ずっと多く使われるのは、もうひとつ理由がある。くろうとであることをいい表わすことばの方が、しろうとを表わすことばよりずっと多いからである。「専門家」「権威者」「達人」「研究者」そしてプロ。これに対してしろうとを表わすことばは実に少ない。ところで、くろうとというのは、この道ひとすじといった職人的かおりのすることばだが、だからといって、必ずしも職業性を意味しないと思う。趣味の世界であっても、コツコツと磨きあげた蓄積が、道一筋三十年なんていえばもう立派なくろうとであろう。これに対して、プロということばのひびきには、水準はともかく職業的なものがある。ところで、昨今のお笑い芸人達はくろうとであろうか。それで飯を食っているからプロではあろうが、プロフェッショナルには見えない。前置きが長くなったが、参議院選挙になると有名人が顔を出してくる。さくらパパとか、丸山弁護士とかはどう見ても政治のプロとは思えないのだが、それでも政治の世界では通用してしまう。それどころか、政治家でくろうとというとどこかうさんくさい感じがしてしまうのはなぜだろう。
2007.06.18
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山荘のなかにある林に小鳥が賑やかだ。ちょうど木苺が一面になっていて、それを食べに訪れている。木苺は生のまま食べてもおいしいが、ジャムにすることもできる。それにしても、最近の子供たちはあまり木の実を食べなくなったがなぜだろう。訪れる子供たちにすすめてみるのだが、あまり喜んで食べない。僕には、お菓子よりおいしいと感じるのだが…。竹林からは竹の子やウドがニョキニョキと顔を出して、食材にはことかかない。今日は、朽ち木をかたづけていたら、カブトムシの幼虫が幾つもでてきた。大きな白い虫だから、慣れない人には気持ち悪いかも知れない。虫好きな子供がきたらプレゼントしようと一応ケースに入れてあるのだが…。友人に聞いた話。彼の住んでいる近くの子どもたちのことだが、連れ立ってハイキングに行った。そこでカブトムシを見つけた子どもたちは、大喜びで家にもち帰ってきた。ところが、子どもの一人が「このカブトムシを、カイボウしよう」といった。「かわいそうだ」とか「もったいない」とかいう者もいたが結局は、みんなでカブトムシの腹をわって見た。すると、さっき解剖しようといった子どもが、すっとんきょうな声をあげていった。「なあんだ、電池は入ってないのか」実話だが、これはもう怪談である。最近、これに似たような子どもについての話を、しばしば聞く。そのたびに思うのは、生命との距離感の喪失と価値観の逆転である。ひたいに汗して得たものより、カネを出して買ったもののほうが尊い、バーチャルな虚業で得る収入がカッコイイとする考え方。これは実は、自然の営みから遠ざかるほど。“都市的”であり、スマートとする感覚からきているのではないだろうか。考えてみれば、受験戦争をもたらしている学歴中心主義もそうだ。子どもにりッパな学歴を望む親の価値観、生活観、人間観というのは何だろうか。それはつまるところ、ひたいに汗して働かなくても生きていける人間を尊いとするところに結びついているのではなかろうか。そうした意味からすると、農村と農業を破壊し、急速に都市化していった成長政策の、最大の犠牲者は、子どもたちであったかもしれない。工業であれ、商業であれ労働は尊い。しかし工業は子どもの目から見えないし、先端技術産業などは、大人の目からもみえない。技術を秘匿するために、しだいに人々を疎外していく。商業は楽しいが、物を創造する産業ではない。これにくらべて農業は、子どもたちの最も関心のある“食べ物”を、見ている前でつくり出してきた。しかもそこでは、子どもが容易に参加できる労働が、いくつも用意されていた。子どもはそこで、自然の営みと人間との緊張関係と一体関係とを学んで育った。だから、子どもたちのためを思ったら、大型冷蔵庫を買って、遠くから運ばれて来る食料しか食べない生活を考え直さなければいけないのだ。庭のグミやスカンポを食べておいしいと感じる子供を育てて欲しいのだ。
2007.06.17
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center>「父の日のプレゼントを…」と言って、愛知に住む娘が帰ってきた。丸首のシャツ、麻の涼しげなやつだ。それは、僕の好みのものだからありがたいのではあるが…。ついでに、彼氏なぞ連れてきた。前に一度挨拶に来たときに、「どういい人でしょう」って聞くから、「一度会っただけではわからん」と言ってあげたのだが…。聞けば、来年の今頃までに結婚したいというから、「それまで持つのか」と言ったら、「6年つきあいましたが、一度も飽きたことがないからたぶん大丈夫です。」だと。そうだろうな、美人は3日もすれば飽きるけれど、ということは娘はブスってことか…。なんだか、父の日に僕がプレゼントをあげた気分。それにしても、入梅かと思ったのに今日は日本晴れ。空気がどこまでも透き通ってアルプスがキラキラしていた。
2007.06.16
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子供の使っていた部屋が僕の書斎になっています。書架には子供の小学生の頃使っていた本やノートもあります。ときどきパラパラとめくってみます。面白い詩を発見! * おいしゃさんおいしゃさんへいくとかんごふさんがいうんだ 「はい ぬぎましょ」ぼくをつかまえておいしゃさんもいうんだ 「ちゅうしゃをしとこうかな」おしりに ぷちゅ 「いたい」といったら 『いたくない』おいしゃさんはいうんだいっぺん いっぺんぼく ゆうてやりたいかんごふさんに 「はい ぬぎましょ」かんごふさん はだかんぼおっぱいだして はだかおいしゃさんもつかまえて 「ちゅうしゃをしとこうかな」おしりに ぶちゅ 「いたい」といったら 「いたくない」ぼくはいうてやるんだどんなもんじゃ Dr.悠々さんを思いだして…
2007.06.15
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一番にがてなのは おふくろのなみだですなんにもいわずに こっちを見ているなみだですそのなみだに あかりが ゆれたりしているとそうしてあかりがだんだんふくらんでくると…………これが一番にがてです サトウハチローの詩でした。おふくろの涙もにがてだったけれど 妻の涙も ○○さんの涙も にがてだなーいま一番にがてな涙は 娘のなみだ、かな そのくせ くだらんドラマを見ても なみだがでてしまうのです いよいよ梅雨ですね
2007.06.14
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学校の帰りらしい小学生が、道ばたで本を拡げてケラケラ笑っています。「何読んでいるの?」と聞くと、次のような詩でした。思わずそのページをデジカメで写させて貰いましたが、これは本当はルール違反なんですね。ところで、皆さんは笑えるかな? へんてこ動物園 織田道代マントをまとって ヒヒヒと笑う マントヒヒめずらしいスミレと なかよしの チンパンジーいつのまにか どこかに行ってしまう サルおじいさんに 変な質問をする ハゲタカ赤ちゃんでも 貫禄たっぷりの ワシ銀色のペンで 詩を書く ペンギン3×3の 九九、が得意な クジャク何でもよく食べ 胃薬いらずの カメ見かけより 体重のある ヘビー青とか銀とか赤とか緑とか げに美しい トカゲいつも 寝不足気味の クマバターをつけられないかと心配している パンダ堕落しそうなところをふみとどまっている ラクダ林に入ると 木にまぎれて七まう キリン生まれつき 歯医者の資格をもつ シカカバンに入って すましている カバ大きいくせに 寒がりで恐がりの ソウ豹変しても ひょうひょうとしている ヒョウマザーグースを 愛誦している マングース雷雨、がこわくて おんおん泣いてしまう ライオン
2007.06.13
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写真を載せるためコメントの返事をこちらに書きます。takanebiranjiさん>おっ、ネマガリだあー。食べたい。>つゆくさも食べられるってことですか?>「うるい」って何ですか?>>私の故郷でも、「山野草を食べる会」が毎年行われています。「山菜図鑑」には、若芽、若葉をゆでて、和え物、酢の物、おひたしに。また、炒めものや、天ぷらもよい。とあります。清少納言は枕草子の中で、(66段)……さしも草、八重むぐら、つき草、うつろひやすなるこそうたてあれ……と書いていますが、このうち「つき草」とあるのが、ツユクサのことです。ウルイはオオバギボウシのことです。ヤマカンピョウとも言われて、花を見るとすぐにわかると思います。誰やねんっ20号(会社っす)さん>図鑑かカタログみたい♪>ウド、タラの芽、セリ、ミツバ、コゴミ、イタドリ>でも山で見かけても見過ごすなー。。>ギョウジャニンニクは食卓でしかみたことがありまへん。>イタドリは成長するとスカンポですね。ちょい酸っぱい♪>実は4月初めにコゴミを買って食べました。ちょっと恥ずかしー。>>山が低ければ新潟県中越地方と似た風景ですなー。>苗の育ち具合が。。これですね。今は、日本中似たような風景なんでしょうか。どこにでもある、雑草とみられているなかに食べられるものが沢山あります。中越地方、酒がおいしいところですね。ねえちゃんもきれいだし…。
2007.06.13
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『信毎』主筆の中馬清福さんが書いてきた「考」が本になった。一冊購入しようと思う。その中馬さんが、先の日曜日の朝刊に安倍総理について書いているので、全文を紹介しよう。新聞記事であろうと全文を勝手にネットに引き写すのは著作権法に抵触するが、中馬さんと会ったおりに「どうぞどんどん紹介してください」とご本人から言われているので、お言葉に甘えることにする。 * 失敗学で有名な畑村洋太郎さんの言葉に「マジメにやるから事故になる」というのがある。 えっ、本当ですか。 「ということは、本当のマジメではなくなっているんだな。形の上のマジメ、人が決めたことのマジメ、細かいことだけのマジメ―に注意を集中して、一番大事なところが見えなくなっている」 「社会が本当に求めていることを見落とす。それでものすごくマジメだから、大きく間違ってしまう」 (「公研」06年3月号) ■憲法と年金 こう言い換えてもいい。 世間でいう「まじめな」人ほど落とし穴にはまりやすい。しかもまじめであればあるほど間違いは大きくなる、と。 安倍音三さんはどうだろう。 まじめ人である。世間でそう言っているし、話の聞き方、しゃべり方などを見て、私も似た感じを持つ。悪い人ではない。 彼の政治手法にも、まじめさと律義さがあふれている。寄ってくる近親者には、内閣や党の重要ポストを惜しげもなく与え、当人の言動に非難が集中しても、死ぬまでかぱい続ける。 強行採決を連発している今国会での法案処理の荒っぽさも、すべては安倍さんのまじめさと使命感から来るのだろう。審議時間はわずか五時間。それで何か悪い、とにかく国のためなのだ…。 問題は、安倍さんのそれが、畑村さんのいう「本当の」まじめと同じなのかである。 違う、と私は思う。 大変にまじめな故に、一番大事なところ、社会が真に求めているところを見落としてしまい、間違いを大きくしていないか。畑村さんが指摘している「悪しき」まじめさの典型である。 多数決がすべて、の立場に立つなら、民主政治ほど気楽なものはない。この場合、何より危険なのは、施政者がまじめなことに加えて、世間の思いとは違う先入観と使命感を振リかざすときだ。困ったことに、まじめな人ほどこのズレに気が付かない。 安倍さんには、憲法や戦後教育が日本を駄目にした、との先入観がある。祖父・岸信介の遺志を継いで自分がそれを正すのだ、という使命感がある。そして今、生来のまじめさで、性急にそれを遂行しようとしている。 改憲の是非を参院選挙の目玉に据えようとしたのも、それが今、社会が求める一番大事なこと、と確信したからだろう。 だが、年金をめぐる深刻な事態を見てもらいたい。何か大事か、安倍さんは読み違えた。少なくとも年金については、憲法ほど「まじめに」考えてこなかったことがはっきりした。 税金もそうだ。日本企業が国際競争に勝つためには法人税を引き下げるしかない、と安倍さんはまじめに信じている。 ここでも大局を見失っていないか。企業にそれだけの恩恵を与えるなら、例えば、独占禁止法の抜け穴を封じて違反に厳罰で臨めといった消費者の声には、まじめに耳を傾けていないのである。 ■米欧の対決 六月五日の某中央紙。二面トップ記事の見出しは「安倍離れ、支持層も」。目を下段に移すと、大笑いした外相・麻生太郎さんが写っている。自著の広告だ。その見出しかふるっている。「美しい国から花も実もある日本へ」 挑戦状である。でも、ここで言いたいのはそのことではない。 安倍さんは、外交でも、まじめで律儀ゆえに、窮地に立つ心配が強まってきた。つまりは、米国とどう向き合うのか。 こんどの主要国サミットは、地球温暖化をめぐって米欧が対決する場でもあった。問題によっては友好国同士が丁々発止とやる傾向はさらに強まった。 それでも安倍さんは、律義に米国一辺倒で行くつもりらしい。だが、米国の対中国、対北朝鮮外交を見ていると、この国はなかなかしたたかでもあるのだ。 ここで麻生さんの著書「自由と繁栄の弧」の話になる。それは、ユーラシア大陸の外周にある新興の民主主義国家をつなぎ合わせて自由と繁栄の弧を形成する、という壮大な構想である。 この構想は「日米同盟の強化」が最重要軸の安倍施政方針演説にはなかった。なぜ麻生さんは今の時期に? 次回、この「弧」について、別の角度から考える。
2007.06.12
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立ち寄った喫茶店こんなものもあって…。
2007.06.11
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プロの調理師が2人も参加して、摘んだばかりの山菜を目の前で料理をつくってくれるという「山野草を食べる会」が行われました。いやはや、食べられるものは幾らでもあるものですね。山荘付近から、山のように集めてきた食材を天ぷらはじめ様々な料理に仕上げてくれました。タラの芽、山ウド、あけびの芽、こごみ、みず、ニセアカシアの花、は竹、桑の葉、山みつば、うるい、フキ、葉わさび、デザートには野いちご…etc、その気になればあるもんですね。それにイノシシ鍋や魚料理なども加わり、料理長の動きも絶好調。ビールもすすみ、皆さん口数も多くなるほどにつぎつぎに目新しい料理と対面することになり、楽しい一日となりました。ところで、皆さんはどのくらい植物の名前を知っているのでしょうか。左上から、桑の木、ウド、ツユクサ、ネマガリタケ、タラの芽、セリ、オバキボシ、ミツバ、マタタビ、コゴミ、イタドリ、行者ニンニク参加した皆さん、料理人の皆さん、ありがとうございました。
2007.06.10
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梅雨前の快晴!
2007.06.09
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長男は子供の頃は気が短く、気に入らないことがあるとすぐに切れた。気に入らないことがあると次男や家具に八つ当たりした。18歳のときに自分で探してイギリス・ケンブリッジの学校に行って苦学をしたのだが、帰ってからずいぶん性格が変わったように感じる。まず、人の話に耳を傾けることができるようになった。思うに、イギリス生活で、様々な国の人たちとつきあった様々な経験が彼を大人にしてくれたようだ。育った環境も価値観も違う人たちとコミュニケーションを交わすには、相手の意見をじっくり聞き、自分の意見もしっかりきちんと伝える。考えが違っても相手を人として尊重する。これを心がけたということで、外国にも大勢の友人をつくる結果になった。当時イギリスはまだIRAの活動が活発で、学校への通学途中でもテロによる爆発が近くであり怖い思いもしたようだが、そのたびに向こうで知り合った友人達が心配して声をかけてくれたという。郊外に住むイタリア人の女友達は私の家から通ったらどうかと誘ってくれたというが、断ったようだ。さて、僕ならどうしただろう。最初は不安な気持ちで外国に出かけた息子だったが、「友達だよ。良い友達ができればどこの国に住んでも怖いことはないよ」と、帰国後語っていたが、イギリスで彼の学んだことのもっとも大きな収穫がそれだったのだろう。互いを全てわかり合えなくても、友達になればその人やその家族のいる国も好きになれる。ごく単純なことではあるが国同士のレベルになるとそうできないのは残念だ。イギリスはかつてIRAを力で押さえ込もうとしていたときにはテロが絶えなかった。話し合いの機運が生まれて、ようやく和平の道が開けてきた。ブレア首相はイラク開戦にあたりその教訓が生かされなかったために、現在では支持率の低迷にあえぐ。息子は、いまある外食チェーン店の店舗企画などの責任者として働いている。結婚して8年にもなるのに子供がまだいない。嫁さんとのコミュニケーションはうまくとれているのだろうか、いったい。伊那近辺の方田中康夫が来ます好きな人も、嫌いな人も久しぶりに田中康夫と会いませんか日時 明日9日のPM2:30(彼のことだから遅れるかも…)場所 アピタ前
2007.06.08
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「島崎山林塾」で知られる(って、一部の人だけかな)島崎洋路さんが「信毎賞」を受けることになった、という記事が出ていた。「信濃毎日新聞」は長野県民の7割もが読んでいるといわれ、ゆえに県紙といわれている。編集トップが田中前知事への突出して不可解な批判をつづけたこともあって、田中康夫を支持してきた県民にとっては、複雑な想いを抱かされてきた新聞でもあるが、それ以外の内容についてはリベラルな肌合いが強く、僕は総体的には好きな新聞だ。僕は、当地の支社に配属された代々の支社長や記者とも親しくしているが、現場で働く人たちの傾向は僕らとも肌合いがあう人が多い。島崎洋路さん、と気軽に書いたが信州大学教授時代からずっと日本の山林のあり方に示唆をあたえてきた権威でもあるとともに実践者だ。実は、僕がいまこだわっている山荘の敷地を10年ほど前に切り開いてくれたのが島崎先生と「島崎山林塾」だ。スタート時の経営者の強い希望で、少し余分に伐りすぎたが、伐った分だけ植林をすることという条件で伐ったとのことだ。昨年に、たぶん伐った数以上の紅葉を植えたので、10年も経てば秋は賑やかになることだろう。島崎先生は、現在市内の山中に「島崎山林研修所」をもって、信大農学部の学生や山林に興味をもつ若者たちを育てている。ときどき市内某所の居酒屋で出会うがとても80歳近い年齢には感じられない、穏和で溌剌としている。「山は人間くさい部分があるんですよ。人間は木から恵みを受け、そのために人間は山に手をいれ木を大事にしなければならない」という持論そのままに、今でも山から離れることがない。
2007.06.07
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先日、テレビ東京の番組「テレビチャンピオン」の映像収録が伊那市西春近の山荘森樹で行われました。正式には、TV CHAMPION2『ながしそうめん装置王選手権』という番組で、長野県からは岡谷の方が選手として出場しています。競技のため、番組前に詳細は書けませんが、東京理科大学も協力しているなど奇抜な装置の対決になります。しかし、伸びきったそうめんを食べておいしいかどうか…。山荘森樹での収録は、一般的な流しそうめんの光景として、自然の中で家族が楽しんでいる様子を撮影していったものです。映像にはカメラマンの中山秀幸さんのご家族や、美人母娘が出てくる予定です。番組は、7月19日(19:57~20:54)に放映され、追って長野放送でも放映されます。
2007.06.06
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2007.06.05
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伊那の地に住む俳人の春日愚良子さんが以前に『井月の風景』という本を上梓した。井月と書いて「せいげつ」と読む。江戸時代末期、長岡藩の武士であった井月は、17歳で故郷に妻や家族を捨て江戸にでたとされているが、その詳しいいきさつは謎である。一節には芭蕉に憧れて、同じように全国を放浪し、30歳頃には長野に漂泊している。 稲妻や網にこたへし魚の影そこでは、などの俳句を残している。その後はこの伊那地方に辿り着き、俳諧師柳家井月(通称は乞食井月)と呼ばれ、俳句好きの家々をまわり、世話になりながら露命を繋いでいた。それまで放浪の旅人であった井月が、この伊那の地から離れることなくその後の30年あまりを過ごしているが、当時伊那の地には俳句愛好者が多く、この乞食俳人を好んで受け入れたことが、住み着いた理由であろうといわれている。その作品は馴染みやすい人事・人間諷詠の作品が多く、 何処やらに鶴の声聞く霞かなを最期に、六五歳で田のあぜ道でのたれ死にしているのが発見されている。今でも伊那の旧家などからは井月の短冊や書き物などがでてくるが、それは井月が泊まった家に、一宿一飯のお礼として書き残したからだ。「露命を繋ぐ」極貧の生活で、お堂に住んだともいわれているが、ほとんどは今日はあの家、明日はあの家というふうに泊まり歩き、俳句を書き残している。酒仙といわれるほどの酒好きで、家々で酒を馳走になると俳句をつくり、それを短冊を書き宿賃替わりとして残したのだ。当時の信州は、ものの豊かさはなかったが教育には熱心な土地柄で、俳句などの文芸の座も盛んに開かれていた。そうした下地があって、井月も居心地が良かったのであろう。井月は達筆であった。僕の好きな作品を一部抜き書きしてみよう。 転寝した腕のしびれや春の雨 鬼灯を上手にならす笑くぼかな 塗り下駄に妹が素足や今朝の秋 親持ちし人は目出度し墓祭り(墓祭=墓参り) 朝顔の命はその日その日かな 人知れず拾い取りたる髑髏(しゃれこうべ)伊那の地は、他国の人を受け入れやすい雰囲気をもっているのかも知れない。信州大学農学部は伊那にあるが、卒業後ここに住みついてしまった人、都会を捨て移住してきた芸術家など大勢いる。彼等がこの地方の文化にさまざまな刺激を与え、それが土着の文化と融合してまた新たな地域文化も生まれている。それら文化の循環や共生に地域も助けられて、独特な文化圏が成り立ってきたのではないだろうか。近年、この地も大規模小売店やチェーン店などがひしめき、生き馬の目を抜くグローバルな競争社会になってしまった。この地も日本中どこに行っても見られる金太郎飴のような街並をつくりつつある。大きい街とマニュアル化した価値観。もう、井月が今も生きたとしても、この土地に住みついてはくれないかも知れない。山笑う日や放れ家の小酒盛乞食にも投盃や花の山寝て起きて又のむ酒や花心
2007.06.04
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テレビ出演者募集!テレビで、流しソーメンを食べている光景を映します。収録場所は、山荘森樹内の「流しそーめん庵」です。撮影時間・6月6日 午前11時から12時30分頃対象者・小さい子供さんのいるご家族・若い男女、またはカップル人数5~10名ほど番組名テレビ東京「テレビチャンピオン」都合のつく方は、メールください。もちろん、流しそーめんはタダで食べていただきます。
2007.06.03
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PCの中身を整理していたら、以前に書いた文がでてきた。今日はこれでお茶を…。 *この地方をネットする有線放送の番組に川柳が取り上げられ、インタビューされた。担当アナウンサー(女性)が、私とは十年来の知人であったため、ごく自然に二時間近くも川柳の魅力を自己陶酔のなかで語った。主な内容は「川柳とは何か」という基本的なところから、川柳と俳句との違いや、伝統、新興、現代、時事、社会吟、サラ川、などなど川柳の多様性を、作品例をあげながら語った。例えば俳句との違いで次の作品をあげ、俳句例 ほうれん草を抜く柔らかな力瘤 桑名奎水川柳例 炎日やなだらかなりしちからこぶ 大川博幸「同じ“力こぶ”を詠むにも、俳句では、現象を写生的、客観的に、突き離して捉えているのに対し、川柳では、自分を主観的に意識し、内なるところから吐いていますよね。」などと具合に例示して語った。百の理屈より、作品例をあげて語るのが理解してもらう近道だと思った。一般の人に分かってもらおうとすると、比喩の固まりのような抽象的作品より、具象に近い心象作品のほうが説明してもらいやすい。「川柳は川柳作者に向って書くべきである」という主張もある。しかし、それだけでは片手落ち(これを差別用語だという人もいるが、ナンセンス)だ。もとより、川柳はある意味で、“詠み手と読み手”が共同で創作するものである。読み手にも作品を受け止め、理解する一定の感性が求められるから、である。優れたアンテナをもつ読者は、川柳という文芸のみにならずどんな文芸に対しても良い読者である。そういう意味では、僕の日記を読んでくれている方々には僕の数倍も優れた感性をもっていると常々感じられるコメントなどと出会うことがある。この若いアナウンサーも、例示した作品に刮目し、「自分の中にあった今までの川柳観が崩れた。こんなに深いものとは思わなかった」と、後の雑談で、目を輝かせて語ってくれた。事実、他の分野で優れた活動をする人たちに共通するのは、おしなべて私のお薦めする川柳にはかなりの理解をしてくれる。ある川柳人から「娘が、川柳のなにも知らずに、若さにまかせて出した本ですが…」と、一冊の句集を進呈された。『初恋忌』と銘うたれたそれには、二〇歳前後の想いが五七五で綴られており、固い蕾のように作品がキラキラと輝いていた。 彼に逢う一日のための六日間 月あかり私のいない蒼い部屋 ひとり聴いてるブラームスこの作者は、この作品集だけを残し、残念ながら川柳を書き続けることはなかったが、若い感性には、川柳のこざかしい積み重ねなど重荷でしかなかったのかもしれない。若さばかり書いたが、広島市に住むKさんという川柳作家は、もう九〇歳近いお年である。その作品は、二〇歳、三〇歳にまったく負けていない>いまだ恒星のように輝いている。 菜の花が一面に咲きみな眠る 星空がきれい別れてからきれい 幸せとはっきり言える そう言おうこの人も、また川柳の古い甲胄を纏わず、新鮮な感情、生のままの言葉を大切にしている。だからしなやかな脳細胞を維持できているのだと思う。つらつら書いてきて、川柳は経験年数や、肉体的な若さだけではないのだということを再確認できる。
2007.06.02
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「こちらは○○テレビの○○です。HPを拝見して電話しています。当局の○○という番組に山荘を使わせて戴けないでしょうか?」という電話が飛び込んできた。その後、何度かのやりとりの後、明後日に下見に来て6日に撮影ということになった。実は山荘付近は現在河川改修の大工事中。6月いっぱい入り口への道を二ヶ所塞がれて、かろうじて普段は住民しか通らない迂回路を通って探しあてなければならない。おまけに敷地内には重機を置かせてあげている。なぜかというと、一日も早く工事を終えて、開通して貰いたいからだ。テレビでは、何でも流しそーめんを主体にゲームが繰り広げられるらしい。昨年設置した竹はもう変色してしまっているので、急いで取り替えることになった。ということで、またまた仕事が増えて今日も大忙し。テレビで紹介されるのは嬉しいけれど、ミスコンに出るために慌ててエステに通うような状態で大丈夫なのかい、って。ところでテレビ局関係の方、もしこのブログを見ていたとしても、心変わりなどなさらぬよう、よろしうに。 番組の内容、放映日時は、内容がはっきりしてからお知らせします。ただし、亭主がモロダシの場合は知らせないかも…(笑)。
2007.06.01
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