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八幡平の焼山山麓の玉川温泉は、98度の熱湯が一か所の湯元から毎分9千リットルも湧き出る国内有数の温泉場だ。ブナの原生林に覆われた山懐に、巨大な一軒宿「玉川温泉」のある渓谷だけが、荒々しい地肌を地獄のように見せている。玉川温泉の湯はpH1.2で、国内最強の強酸性泉。クギが一日でボロボロになるほど。これが、ガンなど難病の進行を抑えたり治癒するとして、注目を浴びている。湯治がどう身体に作用し病を治癒させるのか、はっきりとは解明されていないが、玉川の場合は、温泉水の成分に加えて微量のラジウムが放出されており、これが効能の源。玉川温泉を象徴する北投石は、温泉の沈殿物が岩面に付着し10年間で1mm程度づつ成長していった石で、地球上には玉川、台湾、チリの3か所にしかないとされる。北投石からもラジウムが出ているが、ラジウムが出す放射線が免疫力を高めること(放射線ホルミシス効果)が解ってきている。放射線は短時間に多量を浴びると有害であるが、微量(ホルミシス域)を当てると逆にホルモンのように効果があるという。老化の原因となる活性酸素を除去する酵素を活性化させるというのだ。経験的に昔から行われているのが岩盤浴だ。全国の岩盤浴ブームの源は玉川であり、地熱地帯の岩(北投石)の上に横になって毛布にくるまることで血行が良くなるとともに、ラジウムを浴びて細胞が活性化する。ただし、放射線であるため、一日2回まで、1回30から40分程度が望ましいとされている。■参考 松田忠徳『知るほどハマル!温泉の科学』技術評論社、2009年■関連する過去の記事 秋田の秘湯と野口悦男さん(2009年07月03日) 湯治2日目の画像(2007年05月04日)(玉川温泉を訪れる)
2010.09.30
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非常に雑駁なテーマで申し訳ない。思い出したことがあるので、記している。小学校の頃、先生に教えられた。岩手県の郡と市は、だいたいペアになっている。白地図を塗りながら、覚えたものだ。たぶん、その先生のオリジナルな教え方の側面が強いのだが、次のような関係だったと思う。盛岡市-岩手郡花巻市-稗貫郡北上市-和賀郡水沢市-胆沢郡江刺市(=旧江刺郡)一関市-西磐井郡二戸市-二戸郡久慈市-九戸郡宮古市-下閉伊郡遠野市・釜石市-上閉伊郡遠野市-大船渡市・陸前高田市-気仙郡気仙郡だけが市が2つあるが、陸前高田が例外的だというイメージで教わった気がする。いま考えれば、遠野と釜石も上閉伊郡から由来するはずだが、そこは強調されなかったように思う。また、紫波郡、東磐井郡はペアになる市がない(当時)が、それよりも、市と郡が対になっているという「法則性」を強く記憶している。さて、その後宮城県に移り住んで、やや驚いたことがあった。郡名に「東西南北」や「上下」を冠する地が全くないのだ。ついでに言えば、純情なる岩手県民が信じていた市と郡のペア法則も、通用しない。県北部は郡だらけだし(登米郡、栗原郡、遠田郡、などなど)、仙台周辺は市だらけ。ということは、古来の郡がそのまま残っていたということか。つまり、岩手県のような貧しい地域では、設置された郡が山間地を含むために広大すぎて、歴史の中で東西や上下に分割されたが、宮城県の場合はいずれの郡も豊かで郡域も広大に過ぎることはなかった、ということか。何と素晴らしい宮城よ。他県をみれば、例えば青森県。上北に下北。津軽郡は、東西南北に、中津軽郡の、何と5つに分かれている。山形も、田川、置賜、村山が分かれていた。福島は、会津が南北、また、西白河郡と東白川郡がある。秋田県も南北の秋田郡がある。とすると、宮城以外の東北は、やっぱり田舎なのだろうか。でも、東京や埼玉、神奈川にもあるにはある。ただ、西日本は確かに少ないようだ。たいした話ではなかったが、いずれ機会があれば再論したい。
2010.09.29
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仙石線は、東塩釜を過ぎてから松島町内まで、極めて近接している区間がある。利府町分の陸前浜田駅付近はまさにピタリと両線が併走し、駅の北側の松島町との境目付近では、唯一仙石線が東北本線の内陸側(北側)にせり出している部分がある。ちょうどその仙石線が内陸にせり出した区間。狭い町道が2つの鉄道路線の下をくぐり抜ける。ずいぶん以前に車で通ったことがあるが、狭くて薄暗くて、それでいてレンガ造りで産業遺産のような風も漂って、駅のすぐそばとは言え人気(ひとけ)もほとんど無いこともあって、なんだか不思議なエリアだと感じたものだ。先日、久しぶりに通ってみた。実は以前通った際は、道を知らずに偶然遭遇したのだが、今回は、敢えて目指して向かった。松島海岸IC付近から県道を分け入って、採石場を横目に浜田に向かう。ところが、雰囲気が以前と違う。最初にくぐった仙石線のトンネル(こ道橋)が、新しくなっている気がする。道路改良が進められているのだ。浜田駅前赤沼線という事業らしい(宮城県サイトの説明)。葉山ニュータウンと浜田駅、国道45号を直結するための事業らしい。写真のとおり、浜田駅前から、従来の狭いトンネル(こ道橋)ではなくてストレートに両線路をくぐって葉山・松島海岸IC方面に向かうように、道路を引く(鉄道側からすれば新こ道橋建設)ようだ。最初に通過した仙石線こ道橋(写真では4枚目)は、橋梁自体も新しいが、道路が直線に付け替わったようだ。昔の狭っこいトンネルはどこか、気づかなかった。東北本線こ道橋(写真2枚目と3枚目)は、まだ昔のままだ。引き返して写真を撮ろうとした際に、対向車があって、トンネル内からバックで戻った。最初で最後の経験だろう。最後の画像は、陸前浜田駅の南の踏切(仙石線)から県道仙台松島線(利府街道)に至る町道にかかる東北本線こ道橋。こちらは、改良の計画はないようだ。道路改良でスムーズになるのは、良いことに違いない。ただ、ちょっと寂しさを感じる。
2010.09.28
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先日、扇谷に登ったことを記しましたが、その際に、双観山からも湾内を望みました。そのときの画像です。■関連する過去の記事 扇谷山から幽観の松島を望む(2010年9月19日)国道45から海側の細い道路に入って、ほとんど平面的な感じで、すぐに車で入れるのですが、私たち親子は、山の崖下の駐車スペースに車を置いて、歩いて登りました。
2010.09.27
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東北新幹線から乗り換えなしで他の新幹線路線に乗り入れる直通便が、これまでどれだけ存在したのか知らないのだが、私自身の実感としては、前回書いた新潟直行便に次いでパンフレットを手にしたので、嬉しくなってしまった。■関連する過去の記事 仙台新潟「直行」新幹線を考える(2009年10月10日)信州観光キャンペーン特別企画、と銘打って、乗り換えなし!!直行新幹線 あさま号 仙台-長野 大自然満喫 紅葉の北アルプス というのである。10月22日出発で、長野駅からのバスは立山黒部、飛騨高山など、いくつかコース設定があるが、東北からの往復は共通行程として新幹線直行便だ。往路 10月22日(金)「団体臨時直行新幹線あさま号」 くりこま高原728→古川→仙台753→白石蔵王→福島→郡山→新白河→大宮1002→長野1112復路 10月24日(日)同上 長野1450→大宮1602→新白河→郡山→福島→白石蔵王→仙台1754→古川→くりこま高原1819ということだ。仙台長野間は、3時間ちょっとの感覚。仙台から見ると、新潟や長野はどうしても直行という感じがしないし、首都圏経由にしても日本海側経由にしても時間がかかるイメージがある。しかし、3時間なら、あっ!随分早いじゃないか、という気がする。何事も東京中心、交通も東京ハブのわが日本。大宮経由というのは悔しいが(仕方ない)、それでも東京や大宮での乗り換えなしで、東北と長野を直結することの意義は、小さくない、と思う。走れ直行便。負けるな東北(誰に?)。
2010.09.26
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昨日(25日)利府球場に足を伸ばしてみました。今季ホームは最後でしょうし、子どものファンクラブチケットも随分残っていたので。試合は井坂が完封ペースかと思われましたが、終盤に崩れ、リリーフ陣も打ち込まれて、何と11-3でした。画像は、見にくいのですが、横川、丈武、先発の井坂です。宮出が活躍していました。
2010.09.26
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鼠ヶ関(念珠関)は、白河、勿来とならぶ奥羽の三関として知られる。関所跡や弁天島など観光地としても素晴らしく、豊かな海の幸を提供してくれる民宿も多いようだ(鶴岡市観光連盟のサイト)。ところで、鼠ヶ関集落のユニークな点として、市街地の中に山形と新潟の県境が引かれており、新潟県村上市伊呉野地区と市街地同士が接している。伊呉野地区を合わせて鼠ヶ関と称することもある。石井裕『県境マニア! 日本全国びっくり珍スポットの旅』(ランダムハウス講談社、2009年)によると、JR鼠ヶ関駅を降りて歩くとほどなく県境に達する。そして、県境碑が、かつてタバコ屋さんだった民家の目の前にある。道路には、フットプリントが記されて、そこに足を置けば、羽越本線を背に日本海を向く格好で、体の左右が両県に分かれるというスポットだという。県境をさかいに新潟側の車は新潟ナンバー、山形側は庄内ナンバーときれいに分かれている。小中学校の学区も県境で分かれているそうだ。一連の住宅街で隣の家は違う市町村や都道府県というのは、大都市地域ならありそうな話だ。しかし、街道沿いの集落で、その集落の中にわざわざ県境があるのは、たしかに珍しい話だ。東北だと、私の少ない知識では、十和田湖の南岸のホテルなどが立ち並ぶ一帯に、秋田と青森の県境が入っているのを連想する。
2010.09.25
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日露戦争では、ロシアは旅順に極東主力の太平洋艦隊を置いていたが、日本軍は苦難の末に二〇三高地を奪取し、明治37年(1904)12月、旅順港に停泊する太平洋艦隊を陸からの砲撃で撃破した。加えて、欧州から遠航してきたバルチック艦隊との日本海会戦は明治38年5月27日に行われ、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊の完勝に終わった。ところで、極東のロシア艦隊は旅順の主力艦隊のほか、ウラジオストクにも置かれ、日本側では浦塩(ウラジオ)艦隊と通称していた。日露開戦以来、浦塩艦隊は専ら日本近海の通商破壊を任務とし、日本沿岸を我が物顔で動き回り、津軽海峡を通過し東京湾口にも出没するなど、多いに恐れられた。最初の犠牲は、明治37年2月11日青森県の艫作崎沖で砲撃された商船「奈古浦丸」である。また、同年6月15日には「常陸丸」が撃沈され、将兵720名が自決、乗組員30名の殉職する悲劇となった。浦塩艦隊を警備したのは上村彦之丞中将の第二艦隊である。しかし、日露開戦から半年経った8月になっても敵艦隊を捕捉できない。国内で上村への非難は高まり、無能呼ばわりや、露国のスパイとまで誹謗された。上村は非難に耐えながらも、旅順のロシア主力艦隊が黄海で東郷率いる連合艦隊と砲撃戦を行っているとき、浦塩艦隊が必ず旅順艦隊を援護誘導するために日本海に現れると確信していた。果たして8月14日早朝、蔚山(ウルサン)沖に艦隊は単縦陣で現れた。砲撃戦は上村艦隊の勝利に終わり、上村は航行不能となった敵船の乗組員627名を救助し、日本の武士道の体現と称賛までされた。これに先立つ8月10日には、東郷率いる連合艦隊が旅順港を出てウラジオストクに向かうロシア艦隊に激しい砲撃を浴びせて、旅順港に追い返している(黄海海戦)この黄海海戦と蔚山沖海戦によって、日本は制海権を確保したのである。そして、陸側から遼陽、旅順を占領し、奉天攻略に成功する(明治38年3月10日奉天会戦終結)。その後、冒頭に記した日本海海戦が5月27日に行われたのである。■太平洋戦争研究会編『日露戦争と明治の群像』世界文化社、2009年 などを参考さて、青森県の艫作(舮作)崎(へなしざき)について、だ。函館市のサイト「函館市史」デジタル版には、日本商船奈(名)古浦丸撃沈事件の名が見える。この船は、酒田港から米を積んで小樽港に向かったものだが、函館のみならず日本全体がロシアの脅威に怯えたという。西津軽郡深浦町の日本海に突き出た半島部分の中央に、艫作崎がある。五能線に舮作駅もある。黄金崎や不老不死温泉が近くだ。深浦町観光協会のサイトには、舮作崎灯台が紹介され、高さが約20mある日本海北部最大の灯台で昭和16年9月15日竣工と説明されている。この岬に立って、100年以上も前の、或いはたった100年前の、明治の海を思い浮かべながら、近代国家に脱皮しようとしていた我が国の気風、また当時の人心などに思いを馳せるのも、意義深いことだろう。奇岩と深い森の海岸線には、何かが埋もれて残っているような気がする。
2010.09.24
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気になっている福島の山。以前も記しました。福島のマッターホルンたちです。■関連する過去の記事 会津のマッターホルン 蒲生岳(2010年8月29日) 阿武隈のマッターホルン(2009年11月27日)今朝の仙台は雨。イースタンのファンイベントも中止でしょうか。それでは読書の一日としようかなどと思案中です。そこで、新しい山の本『新・分県登山ガイド6 改訂版 福島県の山』(山と渓谷社、2010年)により、福島に行った気になって山のプロフィールを記してみます。それにしても福島は広いですね。まずは、常葉の鎌倉岳。阿武隈には、古殿町竹貫(たかぬき)と田村市常葉(ときわ)に2つの鎌倉岳があります。常葉の方は、おっとりした阿武隈山地の中で、天を衝く姿が異色の存在で、岩峰がそそり立つ阿武隈の異端児、と紹介されています。鎌倉岳とは、頼朝の奥州攻めの際に功労のあった千葉常胤が家来の鎌倉武士とともに移動することになった時、僧侶や修験者の宗派拡張のためこの山に分け入ったことにちなんでつけられた名だそうです。さえぎるもののない山頂からは、西に吾妻、安達太良、那須連峰などが眺められる。歩行時間1時間55分、歩行距離5.5kmです。山頂は967.1mですが、累積標高差はプラス446mとマイナス515mとのこと(少年自然の家発、山根小学校着)。家族の登山にも向いているようです。さて、マッターホルンと言えば、やはり蒲生岳。只見のマッターホルンの異名を誇る鋭鋒と紹介されていますが、近年は会津のマッターホルンとも呼ばれ、それだけ知名度が上がったのだろうと記されています。本家の5分の1ほどの標高ながら、眼下に蛇行する只見線などの情景が素晴らしい。828mで、累積標高差(会津蒲生駅から発着の周回コース)456mです。露岩帯の急坂や鎖場などもあります。十分準備をした上で、子ども達と登ってみたいと思います。
2010.09.23
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葛西氏は、秩父平氏の別族で武蔵国豊島郡豊島の地に居住し、豊島氏と称していたが、豊島清光の三男清重が下総の葛西の地を領有し、葛西三郎と称し、葛西氏の祖となる。文治5年(1189)の奥州征伐に大功があり、磐井、胆沢、牡鹿外数カ所を拝領し、奥州惣奉行に任ぜられ、陸奥国在住の御家人奉行権を与えられたが、幕府の宿老として鎌倉に在住していたらしく、葛西氏が奥州に移住するのは四代清経(仙台葛西氏系図)の代(建治年間、1275年頃)と推定される。(中尊寺経蔵文書)葛西氏の奥州における居城は、初代清重以来、石巻の日和山とされるが確証はない(奥州葛西記、仙台領古城書上、奥州観蹟聞老志)。六代清貞は南朝方の大忠臣として葛西城(石巻日和山か)を中心に活躍し、16世紀には戦国大名化し、北上川流域の葛西七郡(胆沢、江刺、気仙、磐井、牡鹿、桃生、本吉)を支配し、やがて遠田、栗原方面に進出し大崎氏と対立してゆく。大崎氏は、斯波氏とも称す。斯波氏は足利氏の一族で家氏が鎌倉時代に陸中斯波郡に所領を持ち、斯波氏を称す。また、下総国大崎地方にも領地を持っていたので大崎氏とも称した。斯波家兼が奥州探題に任命されたのは文和2年(1354)頃と考えられるが、この頃は観応の擾乱がおさまり、奥州南朝勢力は一掃されつつあったが、奥州には、分裂する幕政担当者と結びついた奥州探題(管領)と称する吉良満家、畠山国詮、石塔義憲等がおり互いに対立抗争をしていた。家兼は志田郡師山(古川市)を拠点に他の三探題を次第に圧倒し一探題制を樹立し、以後、代々左京太夫に任ぜられ、仙北の大崎五郡(大崎、小野、新田、中新田、名生)に勢力を確立する。明応8年(1499)葛西氏の一族、薄衣入道が伊達氏に送った薄衣状(奥州編年史料抄)に奥州探題について「国中の事は探題御下知の上は」と述べたり、大崎氏を「上様」とか「公方」と呼んでいる。また、留守家旧記(余目文書)にも「上様」と呼び、大崎氏を頂点とする身分序列の世界を見事にえがいている。しかし、大崎氏は15世紀以降、家中統制に苦しみ次第に衰退してゆく。天文5年(1536)大崎氏に内訌があり、伊達稙宗は大崎義隆の請を受けて三千余騎をひきい大崎の乱を平定したが、それも一時的で、再び天正14年(1586)大崎家中が伊達派と反伊達派に分かれて争う大乱となり、伊達の大軍が出兵したが、伊達氏の勢力の北上を喜ばない最上義光の調停により和議が成立し、これより大崎氏は伊達氏の勢力下に入る。秀吉は天正18年(1590)小田原の北条氏を征服すると、8月9日会津黒川城に入り奥州仕置を開始し、小田原不参陣のかどで、大崎義隆、葛西晴信の所領を没収し、秀吉側近の木村吉清、清久親子に与え、検地、刀狩を強行した。木村弥一右衛門清久は、明智光秀の旧臣で亀山城を預かっていたが、光秀の乱の後、城明け渡しが神妙であったので秀吉に召し抱えられた新参者で、300騎の部将に過ぎなかったという(伊達治家記録)。木村親子は、大統治に慣れていない上方の新参者で、鎌倉以来の名門を支配するには荷が重すぎた。10月16日、大崎、葛西領の旧臣達の反乱は膽沢郡から始まって、たちまち全域に拡大し、佐沼城に木村親子を包囲した。この乱を、政宗、蒲生氏郷が鎮圧することとなったが、政宗は氏郷を出しぬき翌年7月3日討伐を完了した。しかし、政宗は一揆を教唆扇動したと秀吉に報告され、伊達、信夫、田村、安達、刈田、長井の本領を没収され、かわりに大崎、葛西の旧領12郡を新給され、米沢から岩手沢(岩出山)に移り、県南7郡と宇多郡をあわせ20郡の新領土58万石の経営に着手する。■宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会『宮城県史料集』宝文堂出版、1981年 から
2010.09.22
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留守氏の初代伊沢家景の出自、伊沢氏の名称や由来ははっきりしないものがあるが、藤原道兼の末流で、文筆を持って九條大納言光頼につかえる侍であったらしい(水沢市史)。奥州攻めにも参加し、文治5年(1189)大河兼任の乱後、陸奥留守職に任ぜられ、多賀の国府に来任した。以後、吾妻鏡には留守家景と記され、代々、留守氏を称するようになる。 伊沢なる地は陸奥伊(ママ)沢郡をはじめ、岩代、下野、信濃等に散見するが、いずれも伊沢氏の本貫地とは認められない。伊沢氏は本貫地をもたない「京都の輩」で陸奥国に来住してはじめて本領を得、伊沢氏なる号はさした重要な意味を持っていなかったのではないかと考えられる(水沢市史)。留守氏は、はじめ居城を国府に近い利府町加瀬に構え、後、岩切城(高森館、鴻の館)の東麓付近に移したらしい。岩切城は南北朝時代に築かれたと考えられる。留守氏の惣領家に伝わった世継文書が現存しないのは残念であるが、留守氏の庶流余目氏に伝わった留守文書が中世の留守氏の姿の一端を示してくれる。留守文書によれば、留守職の機能は13世紀中半までで、以後、次第に封建領主化を指向しはじめる。鎌倉時代における領地は、「高持名(たかもちみょう)」と呼ばれ、七北田川流域から利府町にわたる範囲内で、岩切、余部(目)、南宮、村岡(利府)、椿等の村々を含んでいる。このほか、留守氏は塩竈神社の神官を支配し、社領も留守一族の支配するところとなった。留守氏は南北朝時代には、南朝方の北畠顕家に従って叛徒討伐に西上したが、ほどなく足利方に転じた。足利方が二派に分かれて戦った観応の擾乱において、留守氏は尊氏方の奥州探題畠山高国、国氏に味方し、岩切城、留守城(多賀城市新田)にこもり、直義方のもう一人の探題、吉良貞家に対抗したが敗北した。大打撃を受け所領も削減され苦境におちいった留守氏は、永和3年(1377)伊達政宗と一揆契約し、伊達氏のさん下に入りその地位と安全を確保した。更に、寛正年間(1460年代)、伊達持宗の三男(ママ。通説では五男か。)郡宗の入嗣により、留守本流は滅亡するが、留守氏は伊達氏を背景に勢力を強め、周辺の在地土豪層を勢力下にいれ、一円領主化をおしすすめる。留守氏の内部にくすぶる反伊達勢力も政景(伊達晴宗三男)の入嗣により(永禄年間、1560年代)一掃され、伊達氏の統括のもとに入る。■宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会『宮城県史料集』宝文堂出版、1981年 から■参考 奥州市サイトから 余目旧記 中世留守氏 伊沢家景 留守政景
2010.09.21
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逆転サヨナラで勢いづくイーグルス。デーゲームを娘と2人で応援に行きました。永井が乱調ながらも、何とか追いついて、離されて、そして8回に見事聖沢の2ランで7-7の同点。応援も最高潮でした。片山、小山がしのいだのですが、ラストイニングの12回に山村が打たれました。その裏にサヨナラ劇が待っているかとも思いましたが、歓喜のときは再び訪れず。12回表にブロックした嶋の負傷が心配。勝ちたかったのですが勝ち切れません。それでも、良い試合を見せてもらいました。なんと、5時間ですよ。試合終了がもう午後6時。帰宅は6時45分でした。
2010.09.20
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松島湾のビューポイントとして著名な四大観の一つ、「幽観」扇谷山に今朝登ってきた。まずは、現地にある町の解説。----------標高60mの扇谷は、江戸時代より松島湾が最も良く眺望できる地として、七ヶ浜町「多聞山」、鳴瀬町「大高森」、松島町「富山」とならび松島四大観の一つ「幽観」として紹介されています。山上からは、脚下の渓谷が海浜で東南に扇を広げた形に開け、松島湾と外洋に浮かぶ島々が見えます。山腹はモミジ、ケヤキなどの混合林で、春は若葉、秋は紅葉が大変美しいところです。この山谷の静寂を愛した瑞巌寺第99世雲古希膺(うんごきよう)が寛永14年(1637年)に坐禅堂を構えて以来、明治期に至るまで寺院があり、幽玄の地として文献に記載されています。(平成13年9月 松島町教育委員会)----------石段を登ると、山上に小さなお堂がある。金翅堂(こんじどう)だ。瑞巌寺が設置した案内がある。----------松島という地名発祥の伝承に、達磨大師が来て聖徳太子の成長を待った、とあり、「待島」が「松島」になったと伝える。幕末に著された『奥州名所図会』に拠れば、元禄8年(1695)瑞巌寺第101世鵬雲東搏禅師が堂を造営し、中央に聖徳太子、左に緋衣の達磨像を、右に鵬雲像を安置したと記す。(以下略)----------静かな場所だ。誰も居ない。私が子を連れて石段を下りてきたとき、乗り付けたタクシーから若い男女が降りた。国道に一旦出てからすぐ左折してパノラマラインを経由し、松島海岸IC方向へ向かう。この県道は、対向車線の松島海岸行きは県外の車でビッシリだった。
2010.09.19
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青葉区本町2丁目、錦町公園南側に、六叉路とでも言うべき道路が放射状に集結した地点がある。実は私はここで迷ったことがある。付近は専門学校、予備校、家具屋さんなどが建ち並ぶが、往来の激しい幹線道から立ち入った場所にあり、ゆるやかな傾斜もみられる。都心地でありながら静寂さえ感じるようなスポットだ。大仏前(おぼとけまえ)だ。昔は錦町公園(旧レジャーセンター)側にも町並みがあった。天和3年(1683年)、町奉行の下の同心衆が配置されたので、大仏前の一角を同心町といった。その名残で、この六叉路から北三番丁に抜ける道は、同心町通、大仏前の西には同心町仲丁の名があった。仲丁は、永山質屋のある道をさすようだ。大仏前の名は、藩主綱宗の信心で、現在の錦町公園にあった等覚院に延寿堂が立てられ大仏が安置された。その門前が同心町とは別に大仏前と呼ばれ、次第に町の名も大仏前に一本化された。現在は近くの満願寺に鎮座している。大仏堂が昭和まであったのだが、戦災で失われて、その後にレジャーセンターが建てられたのである。(参考:河北新報出版センター『忘れかけの街・仙台~昭和40年頃、そして今~』2005年)
2010.09.18
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下の娘は10歳。何かと奔放でおもしろい子どもなのだが、最近、へんな方言もどきの言葉使いをするときがある。~~してケロッシャ。何か頼みにくい時に使うようだ。例えば、自分で持ってくるのが面倒なので、「コップに水でも持ってきてケロッシャ」など。~してケロ、は立派な東北弁だが、~シャ、というのはたぶん仙台近辺の言葉で、比較的丁寧な言葉遣いだろう。例えば、「あのっしゃ、この商品はナンボ(何円)なのっしゃ」など。子どもながらに、下手に出て頼んでいるという感覚があるのだろう。それが面白い。ところで、この「シャ」だが、たしかに昔は時折聞いていたことばだ。しかし社会人になってからほとんど聞かなかった。ところが、だ。由緒ある仙台商人を先祖に持つ仙台人が日常使っていて、私も深層の記憶を思い出したという感じで、この仙台人の方にとってはまさしく自然な言葉なのだろう。我が子は、どこから「シャ」を覚えたのか、不明だ。
2010.09.17
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城下町に多い屈折道路。穀町の南端もその典型で、南材木町から北上して来ると、カギ型に屈折して再び北に向かい穀町通りとなる。そばの三百人町に足軽を配置し、城下南端の貴重な防衛基地だった。穀町の名は、米穀売買の特権を得た穀物問屋が置かれたことに由来する。そして、西には船着き場として栄えた舟丁があった。七郷堀の水運を利用し、七郷周辺の米の取引で活気があった。穀町通りは国道4号が通るまでは幹線道路であった。北から、荒町、南鍛冶町、穀町、南材木町を通って河原町に抜けた。私は、穀町や舟丁には、若気の至りで一つの思い出がある。昭和60年代のことだ。仙台を出ることになった私は、向山のアパートに置いていた机を、新たに仙台に来た音楽仲間の後輩に譲ることにした。トラックなど持っているはずもない。早朝に歩いて運ぼう、と。半分冗談だったが、半分は自然に、それが実現してしまった。向山の狭いバス通りを、たぶん車道を歩いたと思うが、広瀬川はおそらく旧愛宕橋を渡っただろう。春まだ浅い4月の朝のことだ。腕がしびれるほど疲れたが、何とか運び込んだ。先輩には、本当にやったのか、と驚かれた。この後輩はほどなく仙台を離れ、今では本当に有名なプロの演奏家として活躍している。七郷堀の借家だった。机を運び込んだ後で、何やら将来を語り合ったのだろうか。20年以上も過ぎたから、立派にその将来を迎えてしまっている。彼も、私も、そして町にも、等しく時代が流れた。
2010.09.16
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SUUMOマガジン(リクルート)の9月15日号に、こんな特集があった。読んでみると、気仙沼市本吉町にログハウスで暮らすご夫婦が紹介されている。県内屈指のサーフポイントに近いのが決め手で選んだそうだ。帰宅後は海まで3分。また、畑で季節の野菜を収穫するなど、夢のような毎日で満足とのことだ。住まいに満足、人生に充実、とあれば大変素晴らしいこと。この冊子には、田舎暮らしの物件情報を案内するURLが紹介されている。東北エリア、とあるのだが、ほとんどが宮城県内の物件。遠刈田温泉の別荘もある。いいですね。
2010.09.15
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先日、関東の仕事の帰り道。事情があって車で往復したのだが、仙台への帰り道、午後7時頃に疲れで眠さを感じたので、PAに車を寄せた。阿武隈PAだ。トイレだけではなく、売店と食堂。しかし食堂は十数席のサイズに過ぎない。私は、白河ラーメン500円を注文。白河ラーメンというと、もう7年ほど前だろうか。家族で国道4号沿いの「一休」に立ち寄ったことがある。今回のPAは、時間の関係だろうが、売店はもう店じまい。食堂も片づけに入っていた。しかし、高速道路のサービスステーションにしては、何ともアットホームで手作り感のある雰囲気。掃除をしているオヤジさんも、最後の客の私に気を遣ってくれた。味も、良かった。爽やかな気分で、仙台に帰った。
2010.09.14
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ダニエル・カールさんが取り憑かれたのが、山形弁の奥の深さ。地域ごとに表現が違うことも、熱中した一因だったようだ。例えば、「食べて下さい」を各地の表現で。くてけらっしゃい(山形市)あがってくだい(米沢市)くってけらっしゃい(新庄市)あがらしてくねへん(鶴岡市)「どうしたのか」は次のようになる。何しったのや(山形市)何したなや(米沢市)どげしたな(新庄市)なしたな(鶴岡市)「病院に行かなければならない」病院さ行がんなね(山形市)病院さ行がなんね(米沢市)病院さ行かねんね(新庄市)病院さ行がねまねー(鶴岡市)(橋本五郎『新聞社も知りたい日本語の謎』KKベストセラーズ、2010年 から。)外国人向けに地域の山形弁を学ばせる教材『山形ことばを学ぼう』(山形地域語研究会)もあるそうだ。実に多彩で、地域の宝が残っているような気がする。さすが日本のアルカディアだ。
2010.09.13
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先ほど仕事帰りの車中。また降り出した雨音に対抗して、TBCラジオの音量を高くして聴いたら、吉永小百合さんが長野の戸隠を訪れたことをもとに、蕎麦の話やパワースポットの話。日本にはパワースポットが85箇所ほどあって、北海道なら摩周湖。東北なら、恐山、月山など。松島も紹介していたような気がする。定義や趣旨でさまざまだろうが、自然の造形や先代の造営から、時空や人事を超越した深遠な思いを受けずにいられない場所、ということだろうか。もちろん、人それぞれで良いのだが。
2010.09.12
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津軽のカーネルサンダースさん(そっくりさん)が新聞に出ていたが、ケンタッキーフライドチキンの略称の地域差について。ケンタが多くて、これに、ケンタッキー、ケンタッキーフライドチキン(略していない)、ケンチキなどが続くという。さらに、ドチキンも一部にある。最多の「ケンタ」は44%を占め、宮城、山形、秋田などもケンタ派。東北の他3県は、「ケンタッキー」だそうだ。「ケンチキ」は九州に多く、他にはなぜか栃木。橋本五郎『新聞社も知りたい日本語の謎』KKベストセラーズ、2010年 から。
2010.09.11
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仙台市民としてズバリ言えるか。私は自信がない。七ケ宿の7つの宿場、七ヶ浜の7つの浜、そして北九州市誕生の際の5市はスラスラ言えるのだが。恥ずかしいので調べて記します。■七郷(旧七郷村) 南小泉村、六丁目村、伊在村、蒲町村、荒井村、長喜城村、霞ノ目村、荒浜■六郷(旧六郷村) 二木村、沖野村、飯田村、日辺村、今泉村、種次村、井戸浜、藤塚浜それぞれ、浜の集落をカウントしていないことになるようだ。なお、旧七郷村は宮城郡、旧六郷村は名取郡に属していた。現在の南小泉中学校周辺は完全に市街地の一部だが、付近がかつて七郷村を構成していたとすると、七郷村は、現在の国道4号バイパスの内側を含み、城下から荒浜の海岸まで東西に長いエリアだったということになる。これに対して六郷村は、おおよそバイパスの東側なのだろう。ここで気になったのは広瀬川の南側の「飯田団地」。上飯田や下飯田などの六郷地区とは川を挟んでいるのに、なぜ「飯田団地」なのだろう。現在では、東郡山というのが町名のようだ。おそらく、広瀬川の流路が移動した関係だろう。20年ほど前の地図を見ると、若林区側の飯田とつながる形で河の両岸が「飯田」の大字となっている。太白区側の飯田団地が早期に造成されたためだろう。なお、地図では、飯田団地の近くには飯田保育所もある。ちなみに、現在の大字と中学校の学区は以下のとおり。旧村名の残る部分、また、六郷中、七郷中の学区となる部分を中心に拾った。■若林区 荒井(七郷中、蒲町中) 荒浜(七郷中) 飯田(七郷中) 伊在(七郷中、蒲町中) 井戸(六郷中) 今泉(六郷中) 沖野、沖野n丁目(沖野中) 卸町東n丁目(七郷中) 霞目、霞目n丁目(蒲町中) 蒲町(蒲町中、七郷中) 上飯田n丁目(沖野中、六郷中) 三本塚(六郷中) 下飯田(六郷中) 種次(六郷中) 長喜城(七郷中) 中倉n丁目(蒲町中) 日辺(六郷中) 藤塚(六郷中) 南小泉(蒲町中、七郷中) 南小泉n丁目(南小泉中) 六丁目(七郷中、蒲町中)■関連する過去の記事 仙台と競馬の歴史(2006年10月1日)(飯田団地と市営競馬)
2010.09.10
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昨日8日は、本当に涼しかった。雨の降るのも懐かしく感じた。今9日の未明だが、気温は20度を下回り、猛暑を思えば寒いくらいだ。8日の最高気温は23.6度、その前の7日は26.6度。6日までは真夏日が続いたから、火曜日から涼しくなった形だ。山形市では8月15日から23日間連続して真夏日で、しかも、それに先だっては7月17日から8月13日まで28日間連続で真夏日だった。もし、8月14日に途切れなければ連続52日間で、史上1位記録の38日間(1994年)を超えていたという。山形新聞による。記録に残る「夏」でした。
2010.09.09
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昭和40年にはまだ清水沼なる沼が、実在した。沼を中心として、清水沼、清水沼上、清水沼中、清水沼北、清水沼南と地名が並んでいた。既に家はかなり建っていたが、昔ながらの湿地帯。掘ると水が湧き、澄んでいて質も良い。隣町には水を利用して、キリンビールや稲ノ花酒造も立地していた。住宅地であり、工場地帯でもあるのがこの周辺の特徴であった。藩政時代から大正初期まで、沼は清水を湛え、その昔は涼(すず)沼とも呼ばれていた。広さ1万5千m2あったとも記録されている。豊臣時代には、伊達政宗がほとりで軍容を整えたこともあったという。明治10年、西南の役で傷ついた半田長九郎が、帰って沼を整備。鴨が何百羽も浮かび、フナやエビがたくさんとれた。ほとりには料理屋も建って、沼の産物が食膳を飾り、酔客が舟を浮かべた。戦時中は兵隊のいこいの場。台原演習場への途中だったため、鉄砲を立てて水面を眺める兵隊がみられた。しかし、住宅が立つと汚水が流れ込みエビもフナも姿を消した。戦後は、すっかり沼はさびれた。昭和40年頃は埋め立てて公園にする工事が着々と進められた。数年後には清水沼公園となった。(以上は、河北新報出版センター『忘れかけの街・仙台~昭和40年頃、そして今~』2005年 から。)国道45号の安田病院の角から、緩い坂の道を降りて北に向かうと、梅田川までの地区が現在の町名で清水沼(1~3丁目)とされている。ここを通過してどこかに向かうと言うことはない。いってみれば連続する市街地の中でも、エアポケットのような一帯だ。実際、私はほとんど足を踏み入れたことがない。仙台に住んでいても、清水沼の名は知っていても、行ったことはないという人は、たぶん少なくはないと思う。ちょっと不思議な場所だ。
2010.09.08
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朝の新聞に出ていた。球威が戻らないことから決心したという。歴史の浅いチームの抑えとして活躍してくれた。通算41勝43敗82セーブ。劇場を演出したり、いろいろあったけれども、心労も大変だったでしょう。ご苦労様でした。抑えと言えば小山。5点差の時はしっかり抑えて、同点の時はきれいにホームランを献上する。どうも、安定感はない。ほかのチームだと、終盤に安定したリリーフのパターンが確立しているところもあるが、見ていて素晴らしい。イーグルスもそうありたいし、AKBとか呼んでいるが、シーズン途中から場当たりで始めたような感が強い。場当たりと言えば、メジャー流か何か知らないが、中4日の岩隈登板も不可解だ。中途半端に降板という結果になった。首位を争うのっぴきならない事情でならともかく、今頃そんなことを言い出すのはナゼなのだろう。本当にそうするのなら、シーズン当初から、いやシーズン前から宣言すべきでないのか。もともと苦しい台所事情だ。色んな新しい策があって、もちろん良いとは思う。しかし、何の得にもならないことを、なぜ試すのか。名伯楽のはずの佐藤コーチは一体どうしたのか。オーダーも、これまた場当たりだ。ルイーズを強引に4番に据えて、案の定すべてチャンスをつぶした。代打や代走のタイミングなどもよくわからない場合があるし、また、主軸の休暇制度も不思議だ。結局のところ、これが米国式だ、ブラウン流だと特色ある采配をやっています、という感覚で、実際には場当たりの思いつき采配をしているように、どうも見えてしまう。選手の特性、調子、心理状態などを掌握して、時にそれを伸ばし、時に奮い立たせながら、勝利に向かって的確な采配を振るうようなリーダーであってほしい。いまごろ理想を語るのも、情けないことだが、最下位が確定しそうな今こそ、来季に向けて何でも良いから光明をつかみたい。毎試合毎試合、監督の思いつきに付き合わされて、覇気のない試合を見せられるならば、たまったものではない。単なる自己顕示欲の発散ならば、他でやってくれ。どの1試合も、選手にとって、またファンにとってかけがえのない大事な場なのだから。話が思い切り逸れたが、とにかく、福盛選手には感謝だ。
2010.09.07
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日本鉄道株式会社によって仙台まで鉄道が開通したのは1887年(明治20年)の年の瀬だ。はじめ、路線計画としては長町から直線コースで北上し、仙台駅は宮城野原の東北端を予定した。その頃、鉄道建設に当たっては各地で反対運動が起き、市街地も農地も拒まれた。しかし、仙台市の場合は、それと反対に、宮城野原では市街地から離れたことから町の発展に寄与しないとして、中央部の商店街から誘致運動が起こった。県知事を中心に誘致の声は高まり、工事費の補填のため寄附を募った。寄付者十傑の上位は、1 木村久兵衛 600円2 藤崎三郎助 550円3 角田林兵衛 350円4 大倉定七郎 350円5 佐々木重兵衛 300円6 小谷薬屋 300円など。(田村昭『仙台の珍談奇談』宝文堂、1984年)■関連する過去の記事 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日)
2010.09.06
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仙台駅前の丸光デパート増床改築完成記念として設置されたものだ。ミュージックサイレンは、10音階のキーがある。100万円もする上に、1都市に1台と限定された。全国に25台しかなかったが、斬新なアイディアが好きだった丸光の創始者佐々木光男社長が東北で初めて導入。昭和28年10月21日の増床改築完成を記念して設置された。曲目には、仙台に相応しい「荒城の月」が選定された。12月11日の午前9時。吹鳴式に参席した岡崎市長と佐々木社長がスイッチを入れた。演奏は、午前9時、正午、午後5時の3回行われた。その後、午後3時と午後9時が追加されて、一日5回の「荒城の月」の演奏となった。さらに、警察から青少年の健全育成・非行防止に活用して欲しいとの要請を受けて、午後9時のミュージックサイレンは、帰宅を促す「この道」に替えられた。昭和62年7月15日の故障を契機にミュージックサイレンは取り外され、解体された。修理部品がなかったのが理由だそうだ。以上は、せんだいCM特捜隊(スタジオM77)『懐かしのせんだいCM大百科』(2007年)による。CDとセットの冊子だ。CD収録の音源は昭和43年のものだそうで、後半には仙台駅を出発するであろうSLの汽笛の音が入っている。若い日の私は、もちろん市内でも聴いたが、向山に住んでいて、夜9時になると何やら機械の起動音が立ち上がるのが聞こえ、次いで「この道」の吹鳴。曲が終わると、再び起動音が終息する。そんな記憶がある。市の中心部ならば、曲は聞こえても、雑踏に紛れて起動音は聞こえないだろう。駅前のネオンを望みながら、夜9時の空を響いてくる機械音がハッキリ聞こえたものだ。その時期とは、ミュージックサイレンの歴史からすれば、ほんの最後の一コマだった。昭和28年から仙台の街に時を知らせてきたのだから。
2010.09.05
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いつまで続くこの猛暑。9月3日にもなって、仙台は今年一番の暑さを記録。35.5度だ。名取市36度と塩竈市35.7度は、いずれも観測史上最高だという。すごいの一言だ。仙台管区気象台のリリースによると、仙台では、猛暑日と最低気温25度以上の、それぞれ最も遅い記録を更新した。従来の記録は、猛暑日(1961年以降)については1985年の9月1日で36.0度。また、今年の猛暑日数は2日となった。年間猛暑日数の第一位は、1990年の3日。また、真夏日は44日となり、1931年以降で年間日数は第一位である。ところで、仙台の最高気温の記録は、2007年8月15日の37.2度である。そうだ。山形市がついに日本一の座を明け渡した、あの暑い夏だ(同年8月16日のこと)。
2010.09.04
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明治15年(1882年)の宮城県のコレラの大流行は亘理郡荒浜から発生し、仙台で920人を超す患者を出し、410人が死亡した。医学が進歩していない当時は、各地で大混乱が起きた。村落の入口では不寝番を置いて通行者を尋問し、患者が発生した地域からの者は追い返した。小鶴の街道脇では、番所小屋に人が鳶口や刺股を持って構えていたため、通れない人は田んぼの中を迂回したという記録もある。死亡者は、人里離れた山中で火葬された。水の森4丁目のスケート場脇の火葬場では、267人が火葬され、叢塚(くさむらづか)が建てられた。コレラの流行は、明治11年、18年、28年にもあった。台原や薬師堂附近に急ごしらえの隔離病棟が建てられ患者は急いで収容されたが、流行が止むと建物は焼却処分された。明治28年の流行の際には榴ヶ岡と新寺小路の中間に避病院が建てられ、以後は法定伝染病患者の収容施設となって、長年にわたり伝染病防疫に役割を果たした。昭和55年に建物は撤去された。(以上、田村昭『仙台の珍談奇談』宝文堂、1984年 から)この避病院の位置だが、現在の仙台サンプラザの場所である。孝勝寺裏の伊達家の土地に病院が建設され、最初は仙台避病院と称したが、市立伝染病院と改め、さらに市立榴岡病院と改称して、昭和55年に仙台市立病院に統合される形で廃止されるまで、伝染病患者の収容施設として続いた。(当時の地図(せんだいメディアテーク))
2010.09.03
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昨日9月1日も暑かった。東北でも各地で真夏日を記録。福島35.5度、八戸35.4度など。56地点で9月の史上最高を観測。仙台は32.4度で、年間真夏日数は42にまで達し、最多記録を更新中。ちなみに年間熱帯夜日数も仙台9日、福島18日、酒田13日など、記録更新中。残暑は今月上旬まで続くという。今後1週間の予報はすべて真夏日。もうウンザリ。
2010.09.02
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岩隈投手プロ通算100勝。おめでとうございます。史上126人目。NPB公式サイトによると、通算記録は400勝の金田正一だ。なお、現役に限ると、1位は工藤(224勝)で通算でも13位。そして、2位山本昌(208勝)で、この2人は別格だ。工藤選手は確かお父さんが青森出身ではなかったか。イーグルスでは、岩隈が8位、また、84勝の藪が13位にランクされている。イーグルス以外に東北関係では、通算第7位に284勝の山田久志がいる。セーブが43もあるのが意外。誰もがあのサブマリン投法をマネしたものだ。皆川睦男が15位の221勝、遠藤一彦が58位で134勝58セーブ、佐々木主浩252セーブ(日米通算381セーブはもちろん日本人最高記録)。■関連する過去の記事 東北出身のプロ野球選手(2007年10月1日) 頑張れ工藤 いつまでも応援するぞ(2007年6月30日)
2010.09.01
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