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東北人の私にはスイカと言えば尾花沢。尾花沢こそ日本一のスイカの名産地、と誇らしく思っていた。ところが、全国では後発の産地なのだそうだ。山形新聞の記事に出ていた。山形県のスイカ生産量は全国3位。1位の熊本県が5月、2位の千葉県が6月の出荷ピークに対し、8月が最盛期の山形は夏スイカでは全国最大の産地。県内の産地は尾花沢市、大石田町、村山市北部に集中し、尾花沢スイカのブランドが確立。ところで、村山市の菊地東北学院大教授が、気候学の観点から尾花沢盆地がスイカ栽培の適地であることを裏付ける論文をまとめた。地形条件や標高に差のない山形盆地よりも、5~8月の日照時間が長く、夏の気温が低いことなどから自然条件に恵まれている。日本のスイカ生産量は1960年代中ごろの130万トンをピークに減少し近年は60万トン台。山形県内では庄内地方で栽培が始まり60年代以降内陸に広がる。尾花沢盆地での生産は60年代末から80年代にかけて急成長し、その後も20年以上にわたり約800ヘクタールの作付面積を維持。尾花沢盆地は自然条件に恵まれているため、全国のスイカ生産が衰退していくのに逆行して産地を伸ばすことができた、と菊地教授。なお、山形盆地との気温差の理由は解明できておらず、今後の研究課題だそうだ。尾花沢が後発だったとは、意外だ。生産者の努力で築いた地位なのだろうから、やはり東北の誇りだと思う。
2010.05.31
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と称して、午後2時から我が家のリビングは、skyAを観ながらのイーグルス応援タイムとなりました。本当は昨夜のうちに順番待ちシートを並べて、今日のKスタに行こうと思っていたのですが、気温が低いなどと難色を示す家族(大人)がいて、まあタマにはテレビ応援で「楽に」盛り上がるかということになりました。ビール(大人)とラムネ(こども)の用意もしていたのですが、午前中のアスレチックで疲れ切って、応援バットを叩くのが精一杯。そのうち、上の子は寝てしまい、ユニホームまで着ていた下の子は一輪車、と家族のバラバラ感が露呈しましたが、とにかく試合は快勝。良かった良かった。ビールは今から飲みます。もちろん発泡酒ですが。
2010.05.30
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伊達政宗は実に筆まめで、自筆の手紙は現存するだけで千通以上。秀吉で約80通、家康は25通である。当時の武将は右筆に代筆させるのが一般的で、自筆は家族や重臣などに宛てたものだが、秀吉は仮名書きが多く、心情をストレートに表現するものが多い。家康は漢字仮名混じりで、要点のみを記して無駄がない。それぞれ人柄を十分表している。これに対して政宗は、身内のみならず広い相手に自筆の手紙を書いた。表現も、大胆で繊細緻密。相手によって変幻自在。具体的で面白い。■読んだ本:佐藤憲一『伊達政宗の手紙』洋泉社(MC新書042)、2010年大志を抱いて南奥を平定し、戦国の晩期にあって秀吉や家康の覇権をかいくぐろうとする。自筆の手紙にかいま見える青年武将の本音や気遣いなど、実に面白い。後年は仙台城下の経営に心を砕いたが、3万人ともいわれる家臣を賄うには62万石も十分ではない。荒地開墾のため、荒れ地を家臣に与え耕作させる地方知行制に転換する。そして、荒れ地の知行は通常の2倍にする。このような細かいことも自ら指示しなければ気が済まないのが政宗の性格だったようだ。(茂庭石見綱元あて手紙)新田開発と河川整備を進め、石巻港から江戸に米を供給したのも、江戸の人口増加に着目した政宗の炯眼である。はじめは家臣等の余剰米が中心だが、次第に藩が農民から独占的に買い集める買米制に移行し、量も増加。江戸時代中期には江戸廻米高が年20万石にのぼり、仙台米が江戸の相場を支配するまでになる。自ら政策立案に知恵を絞り陣頭指揮に奮闘する政宗の苦労である。
2010.05.30
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新聞(河北新報29日朝刊)に出ていたが、塩竈市の方が東北の巨石を番付にしてブログで紹介しておられる。早速訪ねてみたが、大変すばらしい内容だ。現地を踏査し、解説しておられる。新聞で写真が紹介されているが、遠野の続石は実に不思議なドルメンだ。弁慶が持ち上げたとも云われる巨大な笠石。この方の巨石探訪の原点であるそうだ。そして、ブログには合計191個もの東北の巨石を掲載している。巨石を目の当たりにした昔の人は、畏れをいだき、パワーを感じ取ったのだろうか。そして、ピラミッド山など。すばらしいブログであります。
2010.05.29
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大リーグで通算3季68試合に出場、だという。早くて来週の阪神戦から登場とのことだが、アンディもリンデンも不調の今、理屈抜きで打てる助っ人ならありがたい。ブラウン監督だから、すぐ出場させるような気がする。チームの得点力倍増になればいいのですが。
2010.05.29
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と言いたいと思います。仕事の関係で帰り道にラジオで聴いたのは、ちょうど永井が打たれるところ。四球で満塁にしていたらしい。打たれて片山を出したが、後手の対応じゃないのか、とつぶやきながら。9回表の同点は見事でしたが、もう1点取りたかったし、延長各回もチャンスを活かせませんでした。勝ちたかった試合です。それでも、小山、川岸がよく守った、よくぞ負けなかったと考えたいと思います。週末は広島を迎えてのホーム。弾みを付けよう。
2010.05.28
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秋田県では26日に定例県議会が開会した。報道では、6月定例会と称している。どうでも良いことだろうけれども、まだ5月なのに、なぜそう呼ぶのか。秋田県議会定例会の回数に関する条例では、定例会の回数は毎年四回とし、秋田県議会定例会会期規則では、定例会は毎年2月、6月、9月及び12月に開き、特別の事情があるときは、その会期を前月に繰り上げ又は翌月に繰り下げることができる、と規定されている。このため、(特別の事情で)5月に開催しても、あくまで6月定例会と称するものと思われる。もっとも、このような場合(所定の月を繰り上げた場合)に、5月開催でも6月定例会と呼ぶのか、あるいは5月定例会と呼称するのかは、あくまでその県の慣例によるのだろう。例えば宮城県では、現在の規定では年末の議会は11月と定められているが、議会の議事録を見ると、12月定例会と表示する年がある。それにしても、秋田の場合は随分と定例県議会の開催が早い。
2010.05.27
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おみやげに北上京だんごのずんだ大福をもらい、早速子どもたちと食べた。袋を眺めていて気がついたのだが、法務省の人権啓発のキャラクターの人権まもる君に雰囲気が似ている。法務省のサイトによると、正しくは「人権イメージキャラクター 人KENまもる君・人KENあゆみちゃん」なのだそうだ。そして、やなせたかしさんの作と説明がある。ということは...改めて北上京だんごのサイトを見ると、キャラクターのわきに、やなせたかしの印。そして、サイト内には「ずんだ」と「もちこ」の名前も紹介され、さらに、やなせたかしさんの作詞作曲「ずんだのワルツ」のCDまであるそうだ。おみやげの袋にも、よくみると、やなせさんの印がはっきり記されている。やなせさんのお墨付きのうまさ。郷土の味。■関連する過去の記事 北上京だんご 山形に進出(08年8月28日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日)(お昼の店が北上京だんご本店の近くでしたので)
2010.05.26
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なぜか下の子が欲しがったので、日曜に書店で千円で買った。今朝も早起きして読んでいる。選手の写真やプロフィールを見ながら、また、発見した事柄を姉と話し合うのが楽しいようだ。交流戦の時期だから、昨夜も中日の選手が映るたびに開いていた。よく見ると、何やら小さい付箋を付けている。年俸の少ない選手を探し出しているのだ。何ともヒマな作業だが、それが面白いのだろう。思えば、私の地図好きと似ているのかも知れない。町、鉄道、川など、どこでも同じようにも見えるけれども、何か違いがあるし、その個性を感じ取り、比較や由来を考えていくのが良い。最初は、地名の可笑しさや、都市の並び方などのような表面的なことでも、やがて歴史や文化などにつながっていく興味もある。欲しがったくらいだから、やっぱり楽しいのだろう。熱心になるのは良いことだ。そのうち、選手名、年齢、出身、そして年俸も? 詳しくなるのかも知れない。ところで私も借りて読んだのだが、バースデー一覧で、ちょうど昨日24日はジャイアンツの木村の誕生日だった。今年の飛躍が期待されたが、故障なのだろうか二軍にも登板していないようだ。無理はできないが、また雄姿を示してほしい。がんばれ木村。
2010.05.25
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五所川原と能代の両市の名前を合成したものだと思っていた。仙石線、仙山線、米坂線、水郡線などと同様に。しかし、五能線は南は能代市を結んでいるが、北は五所川原市を更に越えて弘前市付近につながっている。あまり気にしてはいなかったが、たしかに不自然ではある。これには、鉄道整備の歴史が関係しているそうだ。1908年(明治41年)に、奥羽本線能代駅(現在の東能代駅)と能代町駅(現在の能代駅)間が開業し、翌年に能代線と命名されたのが端緒。これが日本海を北上する形で伸びる。青森県側では、1918年(大正7年)に陸奥鉄道が奥羽本線川部駅から五所川原駅までの間で営業を開始し、1927年に国有化されて五所川原線と称し、さらに西に延伸する。能代線は陸奥岩崎まで、五所川原線は深浦まで、それぞれ延伸した後、1936年(昭和11年)に両線が連結。この際に、五能線と命名された。従って、両都市の名前を冠したのではなく、五所川原線と能代線という既存の鉄道路線名を合成したものである。■参考 浅井建爾『超雑学 読んだら話したくなる 日本の地名』日本実業出版社、2010年
2010.05.24
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今度は市役所同士で直線距離を調べてみる。青森県の五所川原市の市庁舎とつがる市役所(旧木造町)はかなり近いと、以前から地図を見て感じていたので、さっそく、インターネットのサイトで地図から距離を調べてみる(これは便利なものです)。五所川原市役所とつがる市役所の間は、5063mである。まさに散歩圏内だ。仙台市役所を起点に置くと、 名取市役所 10925m 利府町役場 11587 多賀城市役所 12143などとなっている。半径10キロ以内に市町村庁舎はない。宮城県内では、どうか(以下は市役所等の表記を省略する)。 大和町-大衡村 2397 加美町-色麻町 2579 塩竈市-多賀城市 2757 大河原町-柴田町 3160 塩竈市-七ヶ浜町 3365 塩竈市-利府町 4420 石巻市-東松島市 8328市街地が一体化して距離も近いのに、合併がなかなか進まない大河原と柴田が最短ペアと思ったが、意外だった。それでは、各県ごとに最短ペアと思われる役所間距離を拾い出す。下記は、3km未満を目安にリストアップしたもの(役所、役場の表記を省略)。■青森県 黒石市-田舎館村 3971 藤崎町-田舎館村 4869 五所川原市-つがる市 5063■岩手県 一関市-平泉町 5895 奥州市-金ヶ崎町 6037■宮城県 大和町-大衡村 2397 加美町-色麻町 2579 塩竈市-多賀城市 2757■秋田県 五城目町-八郎潟町 3313 井川町-八郎潟町 3991 五城目町-井川町 4240 大仙市-美郷町 6943■山形県 尾花沢市-大石田町 2979■福島県 国見町-桑折町 4203 須賀川市-鏡石町 4555 白河市-西郷村 5224こんな具合だ。岩手県と福島県は、さすがに県土の雄大さを示している。距離の短い地域は、信達地域、両磐地域など、いずれも平成の合併構想がありながらスムーズに行かなかった地域だ。秋田県も、合併が進んだため、県北部の限られた地域だけに近接がみられる。山形県は、もともと適度にばらけているのだが、尾花沢と大石田は、やはり合併が破談になった場所だ。(関連する過去の記事 尾花沢線の歴史(10年5月9日))市同士では、やはり五所川原とつがる市が際立っているが、宮城県の従来の集積市街地である塩竈と多賀城には及ばない。以上から、東北の最短ペアは、宮城県黒川郡大和町と同郡大衡村である。大衡村には、トヨタの完全子会社セントラル自動車が、本社を移転し工場をまもなく稼働する。両町村には工業団地が広がっている。数年後には、距離以上に一体感が生まれるのではないか。
2010.05.23
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ご存じの通り仙台市と山形市は境を接しているが、県庁所在都市同士が隣接しているのは全国的にも珍しい。(関連する過去の記事 意外とお隣さん同士かも(06年7月9日))地図を開いて定規を当てるのも楽しいのだが、便利な時代になり簡単にインターネットで調べられる。地点間の直線距離を調べてみた。■ 宮城県庁(仙台市)から各都道府県庁までの距離 山形 44,567m 福島 67,771m 東京 305,707mである。それでは、全国を見渡して、都道府県庁間の距離が短そうなものを拾ってみる。 山形-福島 55347m 東京-埼玉 19062 東京-神奈川 27279 東京-千葉 40140 愛知-岐阜 28850 滋賀-京都 10455 大阪-奈良 28669 大阪-兵庫 30815 岡山-香川 37172 福岡-佐賀 41225などとなっている。埼玉県庁(さいたま市浦和区)と都庁の直線距離は20キロにも満たない。そして、滋賀県庁(大津市)と京都府庁(京都市上京区)は、僅かに10キロほど。宮城県庁から名取市役所までの距離(10970m)よりも近い。実際には比叡山などの山地に隔てられているとは言え、数字で見るとビックリする。ところで、宮城県庁と山形県庁の距離は上記の通り45キロで、所在都市の仙台市と山形市が隣接しているとは言え、幅の広い山岳地域を挟んでいるから、結構な距離になる。この両県庁を結ぶ「直線」はどこを走っているだろうか。仙台市青葉区本町3丁目の宮城県庁を出た「直線」は、ほぼ真西に向かい、宮城第一高校校舎の南をかすめて、三居沢発電所を通り、仙台宮城ICのやや北、折立中学校の敷地南端を通る。さらに、愛子バイパスと錦ヶ丘団地の中間を抜けて、グレート仙台CCを越えて太白区に入り、秋保小学校の北側を通過。西仙台変電所を結ぶなど川崎町を通って笹谷峠の北側で山形県に入る。そして、実は真西ではなく少しだけ南に触れている。つまり山形県庁が宮城県庁よりやや南に位置しているからだ。相手が山形県庁より北にある山形市役所と設定すると、直線ビームもより正確に近く東西に走ることになる。(関連する過去の記事 同緯度くらべ(06年6月29日))さて、それでは山形県庁から見た場合はどうか。■ 山形県庁(山形市)から各地までの距離 宮城県庁 44,560m 新庄市役所 58,644m 酒田市役所 87,938m 米沢市役所 43,443mであり、米沢市役所までの直線距離は宮城県庁や仙台市役所とほぼ同じだ。もっとも平面上の地図の問題であって、現実に山あり谷ありの地形に囲まれて暮らす人間にとって、直線距離の社会的な意味はさほど高くないのだけれど。でも敢えて感じる。例えば山形県庁を中心に見ると、日本海までの直線距離は、庄内でも新潟県北部でも約80kmだが、太平洋なら(仙台空港付近で)50kmである。仙山交通軸の機能強化ができないか。
2010.05.23
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午後は完全休暇にして、ファンクラブでもらっている二軍チケットを活用しようと、利府のイースタン戦を観てきました。ヤクルト先発由規を目当てに応援の人も多いよう。こちらは何と、朝井と藤井の黄金バッテリー。4回表に3点を献上しましたが、朝井は結構良かったと思います。あのカーブを久々に見たし。打線は見逃しが多いように感じました。調子を上げて早く上に上がって欲しい人が、多いのですが。画像は、(上)一軍間近?の朝井 (中)2安打の活躍のセカンド銀次 (下)地元出身の由規 です。
2010.05.22
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これが河北新報の解説の見出しだ。全国のイーグルスファンの皆さん。爽やかな目覚めの朝だと思います。昨晩の劇的なサヨナラ勝ち。満員のホームスタジアムは最高潮だったはずで、TV応援の我が家も盛り上がりました。鉄平は見事だったが、反撃の口火のノリ、粘った憲史、続いた高須、走った聖沢。我が子ども達も、自分だけではなくて次につなげようとする選手達の働きを褒めておりました。これぞチームの力、ですな。野村監督は入院されているというが、ノムさんなら何とコメントしただろうか。「これぞ楽天逆転野球。楽天の救援スタッフの病気が巨人に乗り移ったね。いい気味だ...」なんてところか。片山の2年ぶりの勝利も嬉しい。そして、いつの間にかノリの打率は3割台など、中軸も当たり出した。たたみ掛ける攻撃が出たのが良い。さあ、今季はもらいましょうG戦4戦全勝を。
2010.05.22
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9回裏はラジオ聞きながら風呂を洗っていた。憲史がファウルで粘る。急いで洗い終えて、TVの前に戻ると、Sky-Aを見ながら子ども達が憲史の応援歌を熱唱中。そして、見事な同点打。最後は鉄平がサヨナラ打。永井が4点取られて、多くの人が、決まったと思ったのではないだろうか。なぜに巨人に勝てないのか。いやいやしかし、モリーヨ、片山が気持ちよくゼロ封。これが風を呼んだか、前半の残塁の裏返しか、ノリの2ランに次いでの9回裏のあの勢い。おそらく球場も異様なほどの興奮だったろう。良かった。2年ぶりの勝利。
2010.05.21
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赤坂憲雄氏の論説だ。男鹿半島のナマハゲには、こんな起源伝承がある。漢の武帝が5匹の鬼を従えて男鹿に来た。ある年に一日だけ鬼を自由に放したところ、家畜や娘たちをさらって喰らった。困った村人は、毎年1人づつ人身御供を差し出す代わりに、五社堂まで千段の石段を一夜に築くよう鬼たちに求めた。5匹の鬼は寒風山から石を運び石段を築いたが、999段まで築いたところで村人が一番鶏の鳴き真似をしたため、鬼達は驚き、怒り、傍らの千年杉を引き抜いて逆さに突き立てたが、結局約束を果たさなかった責めを負わされ海に流される。村人は鬼の祟りを畏れて、毎年若者に鬼の扮装をさせて里を訪れ、饗応を受けて山に還る行事を始めた。ほかにも、難破して男鹿に漂着したロシア人や女真族などの起源譚があるが、ナマハゲは、海辺の集落を舞台にすることが多いにも関わらず、お山から来たと名乗りを上げるのが常で、山中奥深くの異界から出現するのである。ナマハゲの出自をめぐっては、海と山と、2つの他界観が交錯する。ところでナマハゲは、簑笠をつけて現れる鬼の一種と思われるのだが、もとは鬼ではないという解釈もしばしば語られる。男鹿のナマハゲには以前は角がなかったというのだ。実際に、男鹿で最古とされる北浦・真山のナマハゲ面(1662年頃)には、角も牙もない。ナマハゲ系の儀式は、アマハゲ、ナモミハギ、シカタハギ、ヒカタタクリなどの名称で東北や北陸の海沿い地方に、かつては広く分布したという。これらは小正月の来訪神の系譜の中で、恐ろしい邪悪な祟りをもたらす鬼の来訪を主題とした儀式とされてきた。しかし、男鹿のナマハゲは角がない、かつては鬼ではなかった、ということにこだわりたい。仏教以前からの信仰であり、習俗なのだ、と。仮面・仮装の神は海上はるかな他界から訪れるというが、宮古島や八重山の来訪神と共通している。柳田国男は『雪国の春』で、八重山と男鹿の来訪神の祭が同一根源であると説いた。ナマハゲのまとう鬼の衣装を剥ぐことだ。善悪二元論以前の、原初的な来訪神信仰として、ナマハゲ儀礼を再構成できないか。例えば、ナマハゲ祭祀の担い手が若者であったことは何を意味するか。しかも女や子どもには強固に閉ざされた秘密結社的な性格もあった。岡正雄の種族文化連合仮説が連想される。柳田的な、稲の祭を中心とした固有信仰とは言えない。ナマハゲは鬼ではない。修験道の、また仏教の鬼に覆い尽くされる以前の祭詞を再構成すべきだ。私たちが、どこからこの地にやって来たか。また、我々は一帯誰なのか。■出典 赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』講談社学術文庫、2009年■関連する過去の記事 なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) なまはげ事件を考える(08年8月13日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2010.05.20
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対横浜戦、今日は昨日の鬱憤を晴らそうと意気揚々Kスタに乗り込んだのですが、試合当初から雨が強まりました。本格的に降り出して、いままで応援していた中で、おそらく最も悪いコンディションだったと思います。5回頃には、ネストに移動して応援したのですが、結局、その後は皆でタクシー移動し、仙台駅東口で飲んでおりました。先ほど帰宅しましたが、結局試合は、5回までの2-3のママでした。白星シリーズ必至の横浜相手に2連敗はキツ過ぎますが、こちらも雨にすっかり濡れて大変でした。最初は山崎のソロで、良い感じ。今日は良いラズナーだな、と思っていたのですが。結果は仕方がないです。次に向けて、切り替えましょう。
2010.05.19
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泉区の住宅街で高校教員が亡くなった事件。昨日は、北仙台で男性が殺害されたようだ。泉区の事件は、進展の報道がない。北仙台の件は、先輩後輩の間柄の泉区の男性が血だらけで帰宅したことから、この人が逮捕される予定という報道だ。身近で、こんな事件が続く。
2010.05.19
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でしたね。前半は投手戦のKスタ付近を通りながら、暮れなずむ仙台パイパスを南下し、県南方面での仕事。車に戻ってラジオを点けると5対ゼロ。山崎がホームランを打ったそうだ。これは良かった。戸村もスイスイ、と思いきや心境の変化かランナーをためてしまう。すぐピッチャーを替えなければいかんぜよブラウンさん、と運転しながら叫んだのだが、正に後の祭り。リリーフも、辛島と井上。何で、片山や小山を出さないの。疑問の渦の中で仙台に戻る4号線上のラジオは、バッテリーミスの連発を報じていた。まさかが現実となり、よもやの逆転。学習塾帰りを迎えに行って、子どもと一緒にやはり車中で聞いた9回裏の好機も、一貫の終わり。思えば、終盤もチャンスをすべてつぶした。前半と後半で、まるで違うチームのよう。こんな試合もそうそうは無いでしょう。明日は永井か。編集長もKスタに乗り込みます。横浜に余計な元気を与えないよう、イーグルスは4位奪取するよう、頑張りましょう。
2010.05.18
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1 鎌倉幕府と安藤氏平安時代後期までは、蝦夷をエミシと読み、主に東北地方の住民を呼称した。12世紀以後は、蝦夷をエゾと読むようになり、対象地域も東北から北海道へと変化し、アイヌ集団を示すようになる。その要因は、奥羽全域を支配するに至った奥州藤原氏が、院政期の国家によってエゾの統括者に位置づけられたことにある。ところが、1189年(文治5年)藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府は、藤原氏の地位を踏襲した上に、新たにエゾ(アイヌ)に対する支配権(東夷成敗権)を得る。そして、二代執権北条義時の代官を任じられたのが、津軽の豪族安藤氏である。鎌倉幕府は奥羽支配のため関東の有力御家人を派遣すると同時に、津軽・糠部地域に多くの北条氏所領を設けた。その中心が安藤氏である。安藤氏はエゾと密接な関係を持つ系図を作成した豪族で、以前から海上交通で活躍していたが、鎌倉幕府の東夷成敗権を媒介に、夷島(えぞがしま、北海道)や津軽のエゾ居住地域全域の統括を担い、鎌倉末期には蝦夷管領と称された。2 蒙古襲来とアイヌ蜂起北九州の蒙古襲来に前後して、元がサハリンのアイヌを攻略していた。「元史」によると、1264年、モンゴル支配下のギリヤークの居住地域をアイヌが侵していたことから、ギリヤークの要請に応えてフビライがサハリンに派兵してアイヌを征討した。この時期は、北海道のアイヌが日本社会の求める鷲羽、鷹、テン皮、アザラシ皮、オットセイの捕獲を目指してサハリンに進出していた時期で、ギリヤークとの抗争が続いていた。1308年にはアイヌが元軍に屈し、以後元に朝貢するようになる。ところで、フビライのアイヌ攻略直後の1268年には、エゾの蜂起により安藤五郎が首を取られる事件がある。フビライのアイヌ攻略が、アイヌとの交易権を掌握した津軽安藤氏にも影響を与えていたものと考えられる。3 日の本将軍室町時代の応永年間(1394-1428)には、北海夷狄の動乱が起きるが、この鎮圧に活躍したのが、津軽十三港を根拠にした下国安藤盛季の子康季と、盛季の弟で秋田湊を根拠とした安藤鹿季である。このため、安藤氏の宗家である津軽十三湊の下国安藤康季は、室町幕府から、日の本将軍の地位に任ぜられる。永享8年(1436年)に、康季が後花園天皇の命を受け若狭国小浜の羽賀寺を再建するが、「羽賀寺縁起」には、「奥州十三湊日之本将軍阿倍康季」と記されている。日の本(ひのもと)は、もとは日高見と同様に東の意味で、古代には陸奥の国のうち現在の岩手県辺りを指していたが、次第に北上し、中世には国家の境界と認識されていた外ケ浜あたりを指すようになる。15世紀には更に北上して、外ケ浜と夷島を含んだ地域、特に夷島を意識した地域概念になる。また、将軍は本来天皇から任命された追討将軍の称号であるから、「日の本将軍」とは、通称であったとしても、古代の鎮守府将軍にも比すべき「蝦夷征討将軍」を意味し、夷島の軍事支配権を持つことを意味した。中世後期の語り物である「さんせう(山椒)太夫」では、安寿と厨子王の父が「奥州日の本の将軍、岩城の判官正氏」と記される。越後の直江津を中心に、夷島から丹後に至る日本海を舞台に各地をさすらう物語であるが、実際に日本海を行き交った人々によって語られたもので、下国津軽安藤氏のイメージが物語中の日の本将軍に投影されたと考えられている。4 夷島に逃れる安藤氏得宗領を管理し、夷島(えぞがしま、北海道)とアイヌの支配権を与えられた津軽安藤氏は、津軽と糠部郡を支配し、北方世界に君臨したが、糠部の南部氏の成長により影響を受ける。南部氏は、南北朝の争乱を南朝方についてくぐり抜け、14世紀半ば以降は三戸南部氏が八戸南部氏に代わり宗家の地域を得る。南部氏の支配した糠部郡は一般の郡と異なる特別行政区で、広さも一国に匹敵する。藤原氏の時代には九戸四門を設置し、中世には駿馬を産し、北部にはアイヌも居住する地域である。地域の中央を拠点とした八戸南部氏は、南部一族の宗家三戸南部氏の配下にありつつも、上北、陸奥湾にまで支配を及ぼし独立した立場を維持していた。15世紀半ばまでには、津軽安藤氏の支配した宇曽利郷(下北)一帯を支配し、さらに日本海川の津軽地域に侵入し、永享4年(1432年)には下国安藤氏の拠点である十三湊を攻撃に至る。このため、下国安藤氏は、エソカ島(「満済准后日記」)に逃れる。幕府は、北奥・夷島の支配と海運掌握のため、南部氏に対して下国安藤氏との和睦のための使者を派遣した。南部氏も最終的に調停策を受け入れ、下国安藤氏は十三湊に復帰するが、嘉吉2年(1442年)再び南部氏に攻められて十三湊を放棄、小泊に逃れた後、翌年夷島に渡る。参考:一戸富士雄・榎森進『これならわかる東北の歴史Q&A』大月書店、2008年■関連する過去の記事 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日)(今回の記事は、前回の記事の部分を含めて拡張しています。)
2010.05.18
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平成の合併で生まれた様々な自治体名を論評する書物を読んでみた。竹内正浩『日本の珍地名』文藝春秋(文春新書697)、2009年テーマ毎に分類されていて、わが東北の関係では、----------(1)地名相似形 山形市・山県市(岐阜県) 宮古市・宮古島市(岩手県)(2)所在地不明地名 美里町(宮城県ほか)・美郷町(秋田県ほか) 大仙市 北秋田市 奥州市 洋野町(3)リミックス地名 由利本荘市 中泊町(青森県) 八峰町(秋田県)(4)まぼろし地名(実現に至らない) はながさ市(山形県) 白神市(秋田県) 平泉市(岩手県)(5)ブランド地名争奪 松島町・東松島市(宮城県) 八幡平市 おいらせ町(青森県) 相馬市・南相馬市(6)小手先変更地名 登米市 南部町(まち→ちょう) 由利本荘市 にかほ市(7)難読・誤読地名 大仙市 登米市----------といった具合だ。他地域民から見て一般にその土地を察することのできる名称であるべき、という独自の地名観に基づくように思える部分も多く、おそらく観光業に携わった著者としての地名への愛着や見識ではあるのだろうが、私は、地域自身が将来に抱く主体的な思いをより重視して良いと思う。それはともかく、面白い本ではある。例えば、所在地不明地名番付とされた「奥州市」だが、広域市名の双璧として、同じページに紹介されたのは、鹿児島県の南九州市だ。これは、私も指摘されて初めて気がついた。北九州市と南九州市、なのだ。壮大な地名だが、実際に北九州市と交流協定を結んで交流事業をはじめているというから、面白い。奥州市については、著者は「岩手県の一地域が、大きく出たものである」と冷ややかだが、客観的にはそうかも知れない。しかし、以前記したように、名が歴史を作ることもある。その思いを大事にしたい。■関連する過去の記事 誕生!奥州市(06年2月20日) 「北上市」という命名を50年後の今賞賛する(05年11月18日)たしかに奥州とはビッグであるが、ビッグな地名をいうなら、その名もズバリ東北町(青森県)ではないだろうか。05年3月に、東北町と上北町が合併して、東北町の名を引き継いだ。上北郡の甲地村が昭和30年代の町制施行で東北を名乗ったものだ。今や、南九州市、四国中央市もある。そして東京には西東京市もある。もともと「東北」が方位なのだから、これにまた方位を付するのは混乱するが、思考上では面白い。ならば、北東北市、南東北市。究極は、東北南西市とか。山形あたりか。そう言えば、岩沼市にあるのは南東北病院だが、最初は、方位が3個もついて奇異に感じた。郡山にある病院の系列だそうだから、納得。
2010.05.17
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現在の花巻市街地図を見ても見当がつかないが、花巻の町はかつて、花巻と里川口(花巻川口町)の相拮抗する二核構造だった。南部氏が秀吉に与えられた当地は、伊達氏と境を接することから重視され、北秀愛が和賀・稗貫8千石を与えられ、花巻郡代に着任。鳥谷ヶ崎城を花巻城と改めた。秀愛は、盛岡に通ずる街道筋として四日町(よっかまち)に開町の重点をおいた。二代目郡代の北松斎は、南方との物資交送のため里川口(川口町)の活用と、四日町に続く一日市(ひといち)の町づくりを考えた。ここに四日町、一日市、里川口のいわゆる花巻三町を中心とした花巻発展の基礎が形成された。藩政時代には、川口町の中に八日町(現在の上町、大町)、鍛治町などつくられた。特に上町は商業町として急速に開けるところとなった。(ここは愛隣館さんのサイトを参考)明治に入り、里川口村の人たちは町おこしの妙策として遊郭の誘致を行い、仙台、八戸に次ぐ規模の遊郭が敗戦直前まで続いた。これは、隣村の花巻村への強烈な対立意識によるようだ。両村とも、大体同規模だが、藩政時代は政治的中枢機能は花巻側にあった。明治11年の郡区町村編成で新しい稗貫郡役所が里川口村に設けられたが、明治天皇巡幸の行在所は花巻村に置かれるなど、有力者に士族の多い花巻村の人々は優越意識を持っていた。花巻衆と川口衆の長年の反目は政治面にも表れたが、経済発展を強力に進めた里川口村がしだいに花巻村をしのぐようになる。明治22年の町村制で、花巻村は花巻町に。里川口村は里川口町(のち花巻川口町)となる。川口の町制後の商業発展は目覚ましく、昭和4年両町が合併し花巻町を称するが、銀行の本支店が置かれるなど、経済力では完全に川口が花巻を引き離していた。宮澤賢治が明治29年に生まれたのは、里川口町であり、急速な商業発展めざましいこの時代だった。現在の豊沢町である。(参考:上田哲ほか『新装版 図説宮沢賢治』河出書房新社、2009年)改めて、いまの地図を見て、往時の二町体制を想像してみる。してみると、市役所はちょうど両町境に置いたのだろうか。現在の東北の各都市のなかで、藩政期や明治期から、こんなにも近接しながら互いに反目し、結果として町勢拡大につながったという歴史を持つものは、ほかにもあるだろうか。
2010.05.16
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新聞のスポーツ記録の記事を見て気がついたが、高校総体陸上競技の登米栗原地区の予選は、一関市の陸上競技場で開催された。もちろん、県境はベルリンの壁ではないし、それで良いとは思うが、毎年そうなっているかどうか、気になった。そして、調べてみたら、高体連陸上競技部のサイトによると今年度の高校総体陸上競技の各地区予選の会場は次の通りだった。石巻地区 女川町民陸上競技場大崎地区 加美町陶芸の里スポーツ公園登米栗原地区 一関運動公園陸上競技場本吉地区 一関運動公園陸上競技場仙南地区 仙台市陸上競技場仙塩地区 宮城スタジアム宮城県高校総体陸上競技大会 宮城スタジアム(5月21日から)以上の通りである。地区大会はGW中に開催されているのだが、登米栗原と本吉が、いずれも一関で、しかも日程も同じで、5月3日及び4日である。地区としては別個なのだろうから、選手が一緒になって競技したのではなく、種目別に会場スケジュールは別個に編成されているのだとは思うが、どうなのだろう。いずれにしても、両地区は、地区内に適当な会場がない事情があるのだろう。そして、平成21年度も、20年度も、この2地区は一関を会場に予選を開催している。(21年度は開催日が同一。20年度は別)。
2010.05.15
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というのが河北新報の朝の見出しだ。昨夜は会合のあと、9時頃からラジオで聞いた。片山が投げていたが、辛島と川岸で同点にまで追いつかれる。9回にはスパッと川岸を替えて、井上を投入。この辺までは覚えていた。家について、風呂でもラジオを聴いたが、10時過ぎに寝てしまって、記憶も曖昧。延長10回表のフィリップスの勝越し打は耳に残っている。その裏の守りに山村登場も聴いた。その後は完全に寝てしまって、たぶん夜中だと思うが気づいてスイッチを切った。逃げ切れたのかどうか、気になって今度は断続的に目が覚めてしまう。河北新報の一面の「きのうの結果」欄が夢に浮かんでくる。そして、さきほど現実の記事を読んだ、という訳だ。主砲復活、でも継投に難、という感じ。
2010.05.14
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「みやぎの島めぐり」という名のパンフレットがある(宮城県離島振興協議会発行)。先日、女川のマリンパルを訪れた際に、フェリー乗り場でもらってきた。宮城県内の9つの有人離島を紹介している。この場合、金華山はカウントしないようだ。私が訪れたことがあるのは、大島、田代島、桂島。この3つだけだ。パンフレットの写真や紹介に惹かれることもあるが、ぜひ他の島にも行ってみたい。実は若い頃、例えば学生の時分には、非日常空間として離島に行ってみたい、と思ったこともある。陸続きの世界を当然と思っている人間が、ちょっと歩けば四囲は海という小宇宙で、何を感じるだろうか、などという発想。あくまでstrangerであり、意識の本籍は本土に住む自分にある。しかし今は違うように思う。自然の中で息づく歴史があって今を迎えている地域に、訪れさせていただく。コバルトの海に浮かぶ悠久の自然美。古人の遺跡と伝統の芸能。近代日本の原風景。そして、多彩な食材。島そのものを、無理ではあるだろうが意識を島に置かせて頂いて、鑑賞したい。橋を架け、トンネルを掘って、日本列島は1つになったとばかり縦横無尽に移動して、地理空間も時間をも支配の下に置いた気になっている現代の人間どもだが、それがどうした。道路がつながった便利さが、何だというのか。島を見よ。島に習え。一時の観光や開発の騒ぎも、定住者の盛衰も、まさに一炊の夢とばかりに、そんなことを気にすることなく、毎日を浪に洗われ、しかし動ぜず。何万年の自然の造形美と、何百年の人の息づかいを、ただそのまま湛えてきた島々。そこに、行きたい。
2010.05.13
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昨夜の放送は、じっくりと観ました。1人のサラリーマンとしての賢治の思いを、その等身大の視点から伝えようとする内容だったと思います。■関連する過去の記事 サラリーマン宮澤賢治を描いた佐藤竜一先生がTV登場!(10年5月7日) 我が心の宮澤賢治(09年3月2日)NHKのサイトによると、再放送は、以下の通りだそうです。5月19日(水)BS2 8:15-5月21日(金)総合 2:25(木曜の深夜)6月2日(水)総合 16:05-
2010.05.13
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宮城県の博物館2009 という小冊子がある。宮城県博物館等連絡協議会(事務局は東北歴史博物館内)の会員施設を紹介するもので、77の「博物館」が記載されている。今なら、2010版があるのかも知れぬ。理屈を言えば、博物館とは、博物館法に定義があり(2条1項)、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関のことだ(長い!)。同法の博物館であるためには、所在県の教育委員会の登録が必要。また、これに類する事業を行う施設を、都道府県教委が博物館相当施設として指定することもある。文部科学省の社会教育調査によると(平成20年10月現在)、博物館及び博物館相当施設の数は、○ 青森 6○ 岩手 21○ 宮城 14○ 秋田 11○ 山形 16○ 福島 18○ 全国 1,248となっている。また、博物館類似施設の数も集計されていて、○ 青森 80○ 岩手 89○ 宮城 111○ 秋田 82○ 山形 66○ 福島 104である。(博物館、同相当施設、博物館類似施設についての説明)なぜ統計を見たかというと、小冊子の77施設の位置づけを知りたかったのだが、博物館(相当施設を含む)は、数の上では入っているようだが、博物館類似施設の全部は含まれない。希望するところが加入しているのだろう。ところで、その77施設。当然ながら、訪れたことのない施設も数多い。仙台市内で25施設あるが、半分は行ったことがない。仙台万華鏡美術館、福島美術館、とか。移動★みやぎ世界鉄道模型ミュージアム、というのもある。北山三丁目で、通常非公開とある。仙台市外でも、多彩な顔ぶれだ。行ったことがないものでは、アル・スィラージュ(白石市)、まるもりふるさと館、墨雪墨絵美術館(加美町)、Satoru Sato Art Museum(登米市中田町)、松島玉手箱館おくのほそ道資料館、など。なお、読んでいて気づいたが、白鳥省吾記念館は、「しろとりせいご」とかなが振ってある。しらとりしょうご、ではなかった。また、原阿佐緒記念館は、「はらあさを」だ。「お」ではないのだ。■関連する過去の記事 東北の博物館の数をみる(06年7月7日)
2010.05.12
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塩竈市の仙石線の高架複線化事業は昭和56年に完成。道路渋滞の緩和のほか、仙石線の最大の難所とされ(本塩釜駅周辺の海水浸入など)、長年の課題であった。また、仙石線の複線化によるスピードアップは、特に石巻方面の沿線住民の悲願でもあったことも背景にあった。宮城県議会の議事録を見ると、昭和54年に地元県議(佐藤)が、仙石線高架複線化事業と国鉄塩釜線の廃止に関して質問を行っている。曰く、以下の通り(要約)。----------国鉄仙石線は仙台市と塩釜市で鉄道と道路の交差個所が非常に多く、交通渋滞を惹起。交通事故撲滅のため、都市計画による都市高速鉄道事業として、日本国有鉄道仙石線の高架複線化事業を、昭和四十八年から西塩釜駅より東塩釜駅北側まで約2700mの工事に着手。まことに喜ばしいが、塩釜における高架複線化事業が完成いたしましても、国鉄塩釜線と国道45号の平面交差が依然残り、通称稲荷下踏切は全国的に交通渋滞で有名。更に県道塩釜花渕菖蒲田線も含め、市内には線路延長約4km間に、踏切が15か所もあり交通渋滞。仙石線高架複線化事業の都市計画決定の際に問題となった稲荷下踏切については、昭和47年当時の仙台鉄道管理局長、東北地方建設局長、宮城県知事の三者会談で、仙石線高架複線化事業が施行されても踏切問題は解消されないが、将来早い機会に全面撤去する旨の統一見解が確認されたと聞くが、現状と経過はどうなっているか。----------住民の総意を代弁したものと思われる。また、県議会では、本塩釜駅移転に伴う「南口」設置が何度も要望されている。さて、仙石線と塩釜線について、塩釜市内の略歴をまとめると以下の通り。■仙石線 大正14年 宮城電気鉄道が開業(仙台-西塩釜。2年後に松島公園まで) 昭和19年 国有化し仙石線と改称。市内3駅名の「釜」を「竈」に 昭和38年 市内3駅名を「釜」に戻す 昭和44年 西塩釜まで複線化 昭和47年 越の浦踏切でダンプカーと衝突。電車が脱線し海に突入 昭和56年 高架複線化完成。本塩釜駅、東塩釜駅が移転■塩釜線 明治20年 日本鉄道が郡山から塩竈まで開業(塩竈駅は現在の東北本線塩釜駅ではない) 明治39年 国有化 明治42年 岩切-塩竈間を塩竈線と呼称(利府経由の東北本線に対して支線となる) 昭和8年 多賀城前駅(後の陸前山王駅)開業。貨物支線(塩竈-塩竈港1.9km)開業 昭和19年 陸前山王-品井沼間に東北本線貨物迂回線(東北海岸線、海線)が開業 昭和31年 塩竈港駅を塩釜埠頭駅に改称。東北海岸線に塩釜駅開業。塩竈線は塩釜線に改称し、旅客営業廃止。塩竈駅を塩釜港駅に改称 昭和40年 貨物支線(塩釜港-塩釜魚市場間2.1km)開業。鮮魚貨物列車運行 昭和53年 貨物支線(塩釜港-塩釜魚市場間2.1km)廃止 昭和61年 塩釜港駅を塩釜埠頭駅へ統合(廃止) 昭和62年 国鉄分割民営化により日本貨物鉄道が承継(6.8km) 平成2年 塩釜港埠頭駅が(旧)塩釜港駅に移転 (1.9kmの距離) 平成6年 陸前山王-塩釜埠頭間休止 平成9年 陸前山王-塩釜埠頭間廃止(塩釜線全廃)手元に昭和56年発行の仙台の地図があり、裏面に広域図がある。塩釜の部分をクローズアップすると、仙石線は高架化前のルートで、塩釜港線も健在だ。よく見ると、確かにこの地図の仙石線本塩釜駅は現在の位置ではないし(現在の壱番館か)、その北は、トンネルとなっており、現在の仙石線ルートではない。現在のルートは、かつての塩釜線(魚市場線)の跡を利用したように見える。 ■関連する過去の記事 仙石線多賀城地区連続立体交差事業(10年5月5日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 宮城県内の東北本線ルートの話(05年11月27日)
2010.05.11
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NHKニュースによると、初めて韓国の高校生が教育旅行(修学旅行)で福島県を訪れ、佐藤知事を表敬した。来県したのは、慶福女子高等学校2年生約90名。10日福島空港に到着、県内では、大内宿、アクアマリンふくしまを訪れて、東京に回り、14日に成田から帰国する。昨年佐藤知事が、同学校を訪問したことが契機になったそうだ。知事のトップセールスの成果か、とにかく良いことだと思う。多感で吸収力も旺盛な高校生が東北の文化を肌で触れてもらえるというのだから、喜ばしい。文化理解というと大げさだが、まずは彼の地に身を置くことが大事だ。短期間であっても、そこを訪れたという事実だけでも大きい。福島では初というが、東北の他の県ではどうだろう。例えば宮城県なら仙台空港に定期便もある。台湾も中国も可能だ。教育事情が異なるから修学旅行ではなくても、スポーツ団体の交流や、合宿誘致なども良いかも知れない。是非取り組んでいただきたいと思う。
2010.05.10
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国道13号は尾花沢だが、奥羽本線の駅は大石田だ。小さい頃は地図で見て、何か政治的な鉄道敷設の際のやりとりか、ぐらいに感じていた。しかし、大石田と尾花沢の場合は、両者の距離が大変近いことが特徴だ。大石田駅から尾花沢の中心地までは、2.5km程度。距離だけで見れば、地方都市(尾花沢市)が鉄道駅を持つときに、ちょっと中心市街地からはずれたルートになった、という程度のものだ。しかし、明治の町制施行は大石田も尾花沢も同年だし、最上川の舟運で栄えた町として、尾花沢より我が町こそ拠点、むしろ奥羽本線駅があることに誇りを持っているのではないか、と勝手に推測する。尾花沢市は、たしかに東西には大石田と仙台藩を結び、交通の要衝たる宿場町として歴史はあるが、今や人口も2万人を割っている。地理関係だけなら早々に合併が終わっても良さそうだが、結局流れてしまった。新市名の候補である「最上川市」と「はながさ(花笠)市」はそれぞれ大石田と尾花沢を象徴する名称だが、合併協議会が後者を選んだことを契機に、大石田町側の反対運動が強まり、住民投票を経て協議会解散に至った。もともと、尾花沢との合併に抵抗があるのだろう。さて、前置きが長くなったが、この短い距離の大石田と尾花沢を結ぶ鉄道路線が昭和45年9月まで存続していた。徳良湖完成による灌漑で増産される米を運び出すために計画され、1926年8月に開業。しかし、除雪作業員経費などから赤字が累積。昭和18年には、三山電鉄を主体に誕生した山形交通に、高畠鉄道などとともに吸収される。戦後も市民の足として1日16往復してきたが、道路整備に伴い利用者が減った。大石田駅の尾花沢線ホーム跡には「尾花沢口」駅舎が新設された。現在、地図で見ても、大石田駅の西側(役場、最上川方面)は「駅前」、東側は「尾花沢口」と呼ばれているようだ。往時の尾花沢線は、現在の地図や航空写真でもほぼ明確に軌跡をたどれるようだ。大石田駅西よりのホームから一旦南に出て、大きく西に転回。北村山高校の付近で県道(大石田街道)の北に抜け、尾花沢に至る。かつての尾花沢駅跡は、ダイエーになった、と下掲書(99年)は記している。地図では、旧尾花沢駅のやや手前のルート上に「交通公園」がある。今なら、通学生は自転車で大石田駅へ、通勤者は車で尾花沢バイパスを移動、なのだろう。■参考 宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くVI』JTBキャンブックス、1999年
2010.05.09
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明治末期から昭和42年(1967年)11月に廃止されるまで、津軽半島には総延長254.6kmにも及ぶ大森林鉄道網が息づいていた。ヒバの美林資源の開発を目的に、青森貯木場から北上し、蟹田と今泉の間を結んで半島中央部を横断して今度は南下。喜良市貯木場(旧金木町)までの幹線部分は67.2kmで、明治42年(1909年)に完成。次々に支線が伸ばされた。我が国で最初に敷設された森林鉄道であり、沿線住民の生活路線の役割も担った。かつて起点であった青森貯木場跡(現在の森林管理局付近だろう)は住宅地に変貌したが、近隣の青森市森林博物館に当時の貨車が保存されている。また、これだけ長大な路線であったため、随所に遺構が残り、また農道や水路として活用されているという。■参考 宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くVI』JTBキャンブックス、1999年
2010.05.08
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ニュースです。これは必見! 5月12日NHK総合TV夜10時の番組「歴史秘話ヒストリア」に、宮澤賢治や岩手に関する著作で知られる作家の佐藤竜一さんが出演されるということです。■歴史秘話ヒストリア 第39回放送予定 雨にも負けぬサラリーマン ~宮沢賢治 最期の2年半~ 平成22年5月12日(水)22:00~22:43 NHK総合佐藤さんの著作である『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』(集英社新書)の内容に沿い、賢治が晩年取り組んだ東北砕石工場の仕事に光をあてる内容です。私(おだずまジャーナル編集長)は、悩める生身の人間としての賢治という切り口に、大変興味深く読みました。同じ東北人として、時代もレベルも違いますが、何かつながっている、と感じながら。(下記の記事をご参照下さい。)岩手大学で賢治について講義も担当されている佐藤先生の著作をベースにした番組で、しかも、佐藤さん本人が出演されるというので、大変注目される番組です。■関連する過去の記事 我が心の宮澤賢治(09年3月2日)
2010.05.07
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もう昨日(6日)のことだが、会津若松市の最高気温が33度3分と全国一の暑さ。フェーン現象のためというが、5月では過去最高の気温だという。今晩は霧が仙台の夜を覆っている。6日の仙台は、午後から暑くなった感じがするが、アメダスを見ると、夜中の今でも新潟で26度だ。沖縄以上の暑さ。仙台の日中最高が20.3度だというから、それどころではない暑さが夜になっても居座っている。我が家でも、子ども達は例によってフトンを見事に kick away しているが、新潟の皆さんは、もう暑くて窓を開けているのではないか。農家の方は作物管理、空港や高速道路の関係では濃霧に惑わされ、つい先月は晩雪だと騒いだのに、いったいどういう気象なのであろう。仙台の5月の最高気温は、33.2度。1961年5月27日だそうだ。
2010.05.07
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初めて訪れました。建物が2つに分かれていて、1つは物産関係。もう1つは展示館。中村雅俊の歌がエンドレスで流れておりました。
2010.05.06
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漢字だらけの厳めしい名称だが、要するに多賀城駅付近の鉄道高架化により、踏切をなくす事業だ。多賀城の場合は高架化だが、宮城県で先例となった仙石線仙台地区事業は、地下化だった。いずれにしても、都市部の鉄道と道路の平面交差をなくす事業だ。約1.8kmの鉄道高架事業自体は、宮城県とJRの共同プロジェクト(県仙台土木事務所の説明)だ。昨年11月下旬には既に、「上り線」は高架上を電車が走っている。これだけでも、4か所の踏切で遮断時間がピーク時で3割から7割短縮されるのだという(説明)。平成23年度に完成だ。また、これに合わせて多賀城市が駅周辺土地区画事業を実施している。多賀城市サイトの「多賀城駅周辺整備計画」をみるとよくわかる。仙石線の踏切周辺の雑踏も、味がある。大都市圏の都心近郊の私鉄沿線の雰囲気で、それはそれで良いとも思うのだが、安全なまちづくりのために消えてもらうのもやむを得ないのだろう。
2010.05.05
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最終回は、鉄道廃線跡について。親水護岸が整備された区間の最上流。天神橋の上流には、画像のとおり、水門橋のような構造物。橋ということは上に道路か鉄路が水路か何かがあることになる。JR塩釜駅近くヨークベニマルから野田の玉川沿いに多賀城市役所や仙石線多賀城駅に南下する市道があるが、市道に直交して、盛り上げられた土塁がこの「橋」に続き、さらに先に伸びている。市道脇から入って「橋」まで歩いてみた。そう、これは鉄道の廃線跡だ。東北本線から分かれて仙石線(西塩釜駅)に合流し、塩釜港につながっていた。廃止は平成9年と言うから、比較的最近だ。野田の玉川に比べれば、ほんの最近のことだが、懐かしい歴史だ。玉川の流れのように、さらさらと陽気が降り注いでいた。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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第3回。整備された区間の上流部である天神橋からせせらぎ橋までの部分です。おもわくの橋の上流には、上から、天神、野田、せせらぎ、清水の4橋が架けられている。この辺りは、公園や向泉院などもあり、東北本線と仙石線に挟まれた市街地とは思えないほど、静かなところだ。かつては本当に鄙びた小川だったろう。玉川は、悠久の歴史をどう見てきたのか。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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第2回は、おもわくの橋からその1つ上の清水橋の風景です。おもわくの橋は、たもとに中華料理屋があって大きい広告看板があるのが、何ともおかしかったが、さりげない住宅地に存在していることが、かえって奥ゆかしさを醸し出すように思える。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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先日、うららかな初夏の朝、多賀城の歌枕めぐりをいたしました。末の松山、沖の石に続いては、野田の玉川です。■関連する記事 末の松山・沖の石(10年4月30日)宮城県民として恥ずかしながら、歌枕の地、いずれも私は初めて訪れました。近くは何度も車で走っていましたが。野田の玉川について、下流側から順次4回に分けて、画像で漫歩を振り返ります。第1回はおもわくの橋から下流の部分。川の片側は人が歩けるように整備されていて、おもわくの橋まで、間に2つの橋があるが、ちょうど「あみだ」のように、橋ごとに歩ける岸が入れ替わる。おもわくの橋の説明には、四代綱村が楓を植えたというが、紅葉山橋の名はそれにちなむそうだ。何とも歴史のある場所だ。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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今朝はちょっと曇っています。連休もあと2日。今日は基本的には家の中の片づけです。さて、昨日の仙台亘理自転車道サイクリングに気を良くしている当ジャーナル編集長が、これまで自転車や自転車道について記した記事をまとめてみました。いや~GWは自転車道に限る。信号も渋滞もなく海までスイスイ... と今日になっても自慢しています。■関連する過去の記事(サイクリング、自転車道関係で主なもの) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日)(仙台亘理自転車道) 名取市サイクルスポーツセンター(08年5月4日) 自転車通行環境整備モデル地区(08年1月22日) 自転車道を考える(07年10月22日)(自転車専用道路、大規模自転車道の一覧) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 月山トレッキング(07年10月20日) 自転車を降りない(07年7月1日) 鳥海山麓の2日目(06年7月31日)(南由利原サイクリングロード)
2010.05.04
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連休まっただ中。快晴のこの日。どこでも渋滞は必定とみて、秘策を繰り出した。七北田川添いの仙台亘理自転車道のサイクリングである。大きい車に、自転車3台をギリギリ詰め込んで、子ども達2人と出発。近くの自転車屋さんでまずは空気入れ。七北田川近くの駐車場から、自転車でイザ出発。東北新幹線をくぐってやや下流の七北田川緑地公園で、まずは休憩。宮城野大橋、福田町とどんどん下流へ。福室の自転車専用橋を越えると、見事なシダレザクラ。河の流れも広くなって、いよいよ一直線に海をめざす。下の子のペースに合わせるため、休みながらのサイクリング。帰りは、福田町郵便局からチョイと町に入り、モリヤスーパーでお客さんに教えてもらった年夜飯さんで、昼ご飯。私の下の子は、ラーメンで、上の子は天津飯。自転車道は、基本的に専用道で、交差も立体。信号も渋滞も関係なし。スイスイと楽しいレジャーだ。連休は、これに限る。良い一日だった。子ども達も、いつも車で移動するばかりではなく、自分の力で進むこと。そして、周りを眺めながら、何か発見をしてくれれば、良いと思う。次は、名取まで!?■関連する過去の記事 舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日)
2010.05.03
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1日に小野川温泉を訪れたが、米沢市内でも車を停めて、上杉公園を散策した。素晴らしい桜だった。
2010.05.03
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1点差の勝利が続くが、今日も終わってみれば1点差だった。序盤は伊原からチャンスを作って逆転し、2点リード。きっちり犠打で加点したが、できれば一気呵成にたたみ掛けたかった。不調の伊原も替えられてからは、凡退が続く。守っては田中が、何とか7回まで追加失点を防ぐ。勝利を確信していた、とは言え内心で薄氷を踏んだのは、8回からだ。イニングの頭から登板の辛島。赤田にソロを浴びてなお、2連打。小山が痛恨の四球。1死満塁で、有銘が代打下山を三振。2死で登板の川岸が代打バイナムを邪飛に抑えて、同点機を見事に火消し。9回は、1死2塁で塩崎の一二塁を破るライナーヒット、と思ったら内村が左後方に見事にダイブしてキャッチ。2走の帰塁を刺すには至らなかったが、素晴らしいプレーだった。これが抜けていたら、勝てなかったかも知れない。最後は大引を見事に三振でゲームセット。晴れ後時々曇りの天気は、試合の流れをそのまま反映したようだったが、最後は、白風船舞うKスタを、夕陽が明るく照らしてくれた。絶好調嶋が猛打賞。かたや、主軸のノーヒットが続くが、しかし、今日は序盤に四球や犠打などつなぐ打線を演じてくれたのが良かった。明日から敵地で、打線満開を期待したい。
2010.05.02
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1日(土)は米沢市小野川温泉を訪れた。朝8時過ぎに出発、福島飯坂ICで降りて国道13号を、初めての万世大路、栗子峠越え。ラジオでは全国の渋滞を伝えていたが、東北道上りとR13下りはさほどではなかった。晴れた天気の下、米沢市内を貫通し、1時間半ほどで小野川温泉に到着。もちろん初めてで、妻の要望による日帰りの家族小旅行。こぢんまりとした温泉町で車だとすぐ一回りできるが、旅館や足湯などが20くらいもあって、のんびり湯めぐりリフレッシュするには絶好の地だ。まちの入口の佐藤とうふ屋さんで豆乳アイスを食べた後、町の奥の河鹿荘さんの足湯で暖まる。大樽川を渡った先の露天岩風呂にも浸かる。200円で伸び伸び入れた。町を戻って河川公園で、昼食。このとき、小野川温泉名物(のようだ)のラーメン出前をお願いする。番号がわからないので、近くに見える旅館の看板にある電話番号を頼りに、旅館の人に教えてもらう。そしたら番号は旅館とほとんど同じで引き算すると3だけ違う番号だ、と子どもが驚いていた。とうふ屋さんの隣の龍華食堂さん。川沿いの草の上で子ども達が遊んでいると、出前が到着。おいしい米沢ラーメンだ。街中のインフォメーションセンターで、また足湯。さらに、もう一度風呂に浸かりたい妻は、子ども達と河鹿荘さんの館内で入浴。500円(子ども250円)で、滝の見える露天風呂、だったそうだ。帰りには米沢市内で上杉神社に立ち寄る。桜が満開。出店も賑わっていた。4時頃に出発し、TBCラジオで楽天の勝利を聞いたのはトンネルを過ぎて福島市内に入った頃。こどもたちは、出店で買ったリンゴ飴と格闘しながらの帰り道。5時半頃には仙台に戻っていた。
2010.05.02
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今日も晴れました。5月です。もう冬に逆戻りはないでしょう。朝の河畔の風景です。5月の桜というと、まるで弘前のようですが、仙台です。
2010.05.01
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