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台風近づく鉛色の空の下、仙台港夢メッセで開催のお茶の見本市を訪れた。何に連れて行かれるのかと疑心暗鬼の子ども達も、やがて様々の味の紅茶、ご当地の名産をアレンジした風味などに、多少は関心を持ったようだ。子ども達に一番ウケたのは、大麦からつくるイタリアのorzoで、実は私も何杯も飲んだ。豆乳のような優しい味で飲みやすい。カフェインもなく、食物繊維は十分というから、子ども達にも安心だ。これだけは買って帰った。商品には「オルヅォ」と表記されていたが、主催会社の登録商標かも知れない。普通名詞として表現するつもりで横文字で書いたが、「オルゾ」にしてもあまり日本では一般に知られていないように思う。イタリア通(?)の私も知らなかった。コーヒーが広まるよりずっと昔、古代から飲用されていたというが。
2010.10.31
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一応定職はあるのですが、たまにアルバイト雑誌を眺めて、こんな仕事をしてみたいと妄想することがあります。学生時代は、貧乏なこともあって、仕事は数十種類やりましたし。今回目に付いたのは、やはり飲食関係。学生時代の感覚でこの店で食べることができれば、の単なる延長なのが我ながら情けないのですが、やはり興味を持ってしまいます。1 半田屋 7時から22時 時給700円 食事補助2 きらら寿司 9時から翌2時(シフト制) 月給18~25万円 食事補助、海外研修制度(連絡先は「きらら寿司」とあるが、電話番号も半田屋と同一)2 びっくりドンキー(1) 24時間のうち実働8時間のシフト制 月給18万円から(2) 10時から翌2時 時給730円から(連絡先は半田屋)3 お好み焼きの千房 平日17時から23時 土日12時から23時 時給750円から900円 食事補助4 餃子の王将 実働8時間シフト制 月給18万円から 食事補助、海外研修制度有り(問い合わせ先は株式会社半田屋)結局は大衆食堂系に目がいくのでありました。
2010.10.30
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気温6度で、湿っぽい朝。冷気にサワーッと包まれます。寒いですね。冷え冷えして、もう冬という感じ。子ども達もやっと起きました。私はもう出かけます。全然関係がないのですが、画像は、市内のとある店の入り口の看板。外国料理の店ですが、「...までです」の意味でしょう。大変美味しい評判の店だそうです。
2010.10.29
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寒かったですね。今日(27日)は朝慌ててコートを着て出かけました。そして、今も寒いです。外は気温4度でした。帰宅したとたん、安心したのか、単なる体の変調か、胃が痛み出しました。さまざま調べなければならないことがあるのですが、間もなく寝ます。今晩も、こどたちに毛布をかけ直してやりました。さて、ところで。星野新監督。仙台空港にやってきて、早速市内で記者会見。東北を熱くするのが仕事、と言い切っておられました。寒い一日、この東北を熱く熱く燃え上がらせる、そんな爽快な一言。大いに期待いたします。いいぞ仙一。そういえば、TVで、国分町のホルモン「仙一」が紹介されていました。新監督にちなんだ新メニューはあるのか、などとくだらないインタビューをしていましたが、それにしてもズバリの店名で、繁昌しそうです。
2010.10.28
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昨日(26日)青森市では平年より12日早い初雪。10月の初雪は6年ぶりだそうです。ニュースでは、札幌市内の吹雪の模様を放映していました。確かに、かなり寒いです。子ども達に毛布をかけてやりました。仙台の初雪は平年が11月22日だそうで。さすがにまだ雪はないでしょうが、朝は5度まで下がるということで、かなり冷えそうです。さて、今日(27日)は星野監督の記者会見が仙台で行われる予定。寒い秋空を、熱く燃やして欲しいですね。
2010.10.27
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このニュースで、NHKの報道の仕方が気になった。耳かき店従業員と祖母の殺害事件だが、検察が死刑を求刑、弁護側はそれは「重すぎる」と主張、裁判員たちは判決に向けて「重い」判断を迫られる、とアナウンサーは語る。(カギ括弧は当ジャーナルで付した。)まず表面的な言葉の問題だが、これではまるで裁判員が死刑を決定すべしと応援していると受け取られかねない。NHKは誘導する意図などないのだろうけれど、せめて「重い判断を迫られる」は避けて欲しい。「極刑にすべきかどうか判断するという重要な立場に直面した裁判員たち」と報じたいつもりなのだろうが、そもそも、何故にそこまでして裁判員をクローズアップしなければならないのか。もちろんNHKだけではない。もともと殺人事件の解明という大衆の好奇心を誘うテーマである以上に、裁判員制度がスタートして、いつあなたも我が身ですよ、というシチュエーションが一般受けするに違いないと、報道側にとっては魅力的なのだろうか。裁判員にいちいちインタビューすることは明らかに行き過ぎだと思う。裁判員の心理的負担や制度そのものの課題などを解説したいのならば、個別の事件とは一歩も二歩も引いて、客観的に報道すべきだ。なのに、そんな報道をあまり聞かない。魅力的な報道なら同時性が大切なのだろう。それと、例によって被害者遺族による被告人に極刑を、というコメントを付け加える。これは本当に再考すべきだと思う。大衆心理をかき立て国民的意見を誘導しかねないことで、結果的に公正な裁判を歪めることになりかねない。いや、事実をそのまま報道しているじゃないか、とマスコミは言うかも知れないが、それなら加害者の事情も報道すべきが公正なはずだ。むしろ、公正を期することができないのだから、判決直前に遺族の感情をクローズアップするようなことは自制すべきでないのか。かつては新聞はもとより、テレビ報道もそんなにイエローでなかったと思うのだが、うがって言えば、裁判員制度という大衆への架け橋を手に入れて、大衆迎合的なマスコミの本性が解き放たれてしまい、理性を見失ったのだろう、とも思える。同じ状況が、臓器移植法改正後の、臓器を追いかけるパパラッチだと思う。TVマスコミにとっては、臓器を提供する側の家族の声がどうしても欲しい。悩みや決断など、主語となる像を見せたいのだ。しかし、そんなことは移植医療にとって全く本質でない。もちろん、医療側はドナーに対して敬意を払い丁寧な対応を行っているはずだが、臓器移植はレシピエントをどう救っていくかの医療であり、そのための法改正であったのだ。ドナー家族の悩み、制度や体制の不備など、それはそれで当然報道して欲しい。大事なことだ。しかし、それは「主語」を抜いてこそ客観的で価値のある報道になるはずなのだが、どうしてそうならないのだろうか。裁判員裁判、死刑制度の当否、臓器移植、さらにこれらを巡る報道のあり方などについて、少しく意見はあるのだけれども、整理する時間がない。
2010.10.26
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山崎選手の語り。利府ハウジングギャラリーでの一コマです。守屋周アナと。ブラウン流は自由に任せる。春のキャンプから、それが良い方に出るか悪い方に出るか記にしていた、との話でした。利府街道沿いなので午後の帰り道に立ち寄ったのですが、昼頃に利府街道を北上するときに、同じ方向に進む車線に並んだワゴン車に、不思議な格好をした人たちが詰め込まれている。アヤ何だこれ、と思っていたら、イベントの後に娘が、あれは山崎選手のトークの前にやった戦国武将隊だよ、確か三日月のような頭だったし、と。なるほど。戦国武将は大人気だそうで。山崎選手のショーの時は200人くらいだったでしょうか。星野監督のことを、元気の良いオジサンです、と表現していました。来シーズンもチームを引っ張って下さい。
2010.10.25
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■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)街道と海の交流文化は近世に入ると一層際だってくる。1 街道の整備重要な点は、幕府や藩による水陸交通路の開拓である。弘前藩は城下町の建設とともに、参勤交代路を海岸通りから矢立峠越えの街道(羽州街道)とした。盛岡藩は奥州街道沿いに新城下町を建設。仙台藩も仙台に新城下町を建設し、岩沼以北の幹道を城下に導き、さらに北上させて奥州街道を整備した。秋田藩は新庄藩との境の有屋峠の山道を閉ざして院内杉峠を開き、山中七ヶ宿街道を測量するなど羽州街道の整備にあたった。こうした努力は藩内道の開拓整備にも注がれ、街道に宿場(町場)を設けて一里塚を設置した。こうした整備が奥羽山脈の峠道などにも及び、今日の横断道として継承されている。このように、城下町・宿場の設置、交通路の基本的整備は、藩の主体的事業として慶長から寛永期に行われた。幕府の関東中心の五街道設置と時を同じくしている。2 交流の活発化近世に盛んになったのは、まず大名の参勤交代と役人の江戸上方往来である。仙台藩四代藩主綱基の初入国の供の下図は総計3480余人とされる。小大名でも行列は数百人に及んだ。武士知識層が他国に対する知識を深め、自藩の認識をも高めることで、藩の正史や地誌の編纂がはじまる。近世前期の文人の東下りにより、文化的交流が進む。寛文2年(1662)大坂の連歌師西山宗因が来奥し『陸奥塩竈一見記』を著し、同9年伊勢の大淀三千風が来仙し長く滞在、『松島眺望集』を編んでいる。芭蕉の来遊は三千風離仙2年後で、『奥のほそ道』出るに及んで文人のみちのく下りは急増した。明和記に来遊した文人中山高陽は、エセ文人の往来にウンザリする仙台城下の様子を記したほどだ。芸人や庶民の旅も増加した。旅日記『筆満可勢(ふでまかせ)』を残した江戸の旅芸人富本繁太夫は、文政11年(1828)廻船で石巻に上陸し、盛岡城下に数ヶ月滞在している。庶民の旅行は、参詣などを中心にすでに古代末期に始まっており、中世には出羽三山などには北陸や関東からも行者が小集団を編成して参詣路を開いてきたが、この時期になると村人が小集団で伊勢詣り、西国巡礼、出羽三山詣りなどに出るようになった。このように身分を問わず街道を往来する時代を迎え、道中案内、街道図、名所図会などが作成され、地域出版も旺盛であった。仙台は、三都に次ぎ、名古屋や金沢と並んで出版が盛んで数十軒の本屋(出版)が軒を並べ、藩校の本や、道中歌、出羽三山、塩竈松島や金華山の案内も出版していた。3 水運と人馬の交流地域を起点とする全国的水運の本格展開は近世に入ってからである。政宗の遣欧使節船派遣のような例外はあるが、和船による交流は沿岸海運とこれに結ぶ河川舟運である。各藩は港湾整備、藩船の建造、船手組織の編成に着手した。石巻、青森の開港、向酒田から現酒田への移転、沼垂から新潟へなど、東北の港湾都市は近世初期に城下町整備と並行して一斉に整備された。河口港が多いのは、年貢米などの大量輸送の必要があったからである。近世中期には北前船など廻船による商品輸送と販売が盛んとなり、青森や石巻など、港は都市化し成長した。舟運と人馬による奥羽山脈など峠越えの交流も盛んになった。最上川の大石田河岸に荷揚げされた上方下りの荷物が、関山峠や軽井沢峠(宮城県加美町-山形県尾花沢市)越えで仙台藩領に入り、一方、仙台藩の海産物が江合川、鳴瀬川を上り軽井沢峠越えで山形城下あたりまで常時輸送されていた。河川舟運は海運と結ぶ一方、内陸では陸運に結び流域を越える広範な流通圏を形成していた。▼(図)近世の東北の街道
2010.10.24
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■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)平泉没落後の中世東北は関東からの武士移住で語られることが多い。官道東山道改め奥大道(おくだいどう)が奥州の幹線で騎馬の往来が多くなっったと思われる。13世紀の奥大道には、安積、船迫、益田(名取市)、河原(仙台市岩切付近)などの宿が発達し、定期市も開かれた。武士が土着しやがて領主層に成長するが、城館を軸に村を結ぶ道の交流が本格的に深く進んだことで勢力を増した。地域の道は、さらに峠を越えて結ばれ、武家の道や信仰の道となった。福島から米沢に至る米沢(板谷)街道は伊達氏の米沢進出で開かれた。陸奥国滴石(しずくいし)城を本拠とした出羽角館の戦国大名戸沢氏も国見峠の生保内街道を越えて出羽に進出したのであろう。また、六十六里街道など出羽三山参詣道も中世から開かれた。のちに羽州街道の道筋となる上山市付近の村道や北上川下流沿いの道沿いに、多くの板碑が立ち並ぶ。▼ (図)中世東北の道
2010.10.24
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■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)1 古代の官道整備と平泉政権を支えた道東山道が多賀城から胆沢城に延長し、また多賀城から出羽雄勝城、さらに笹谷峠越えで内陸から庄内、秋田に通じる横断道も開かれた。これを舞台に東北の交流は展開するが、その主体性をもっとも体現するのが古代末期に登場した平泉政権である。平泉の都市社会はもはや蝦夷論や俘囚論の国家論のみで問われるものでなく、京や東北各地との交流を通して練り上げられた地域権力であり地域文化である。その交流の道として、白河から外が浜までの幹線整備、浜通りを北上し平泉に達する東海道(あずまかいどう)、秀衡街道、平泉から津軽十三湊への道、北上川舟運などがあった。2 奥大道藤原清衡が奥州の覇権を掌握して最初に手掛けたのは、白河関から外が浜(陸奥湾)にいたる幹線である奥大道の開発整備である。徒歩20日の行程の一町(108メートル)ごとに金色の阿弥陀像を図絵した笠率都婆(卒塔婆)を建て、中心に関山中尊寺を配したという。奥大道は、笠率都婆により荘厳を施され、壮大で超越した広域的支配を支える聖性を備えていたと言えるだろうか。また、夥しい品目を調達し京に届け、政権をアピールする生命線でもあった。ただし、陸路のみでなく、牡鹿湊(石巻港)に至る北上川の水運と、関東・東海の太平洋沿岸を経た海運のルートも忘れてはならない。3 北方世界と奥大道藤原氏の影響力は奥大道を通じて、糠部・久慈・閉伊から、鹿角・比内、そして津軽四郡(平賀、鼻和、田舎、山辺)、外が浜、西が浜、さらには夷が島、千島、サハリン、沿海州方面に広がる北方世界に及ぼされた。北方から豊かな物産がもたらされただけでなく、平泉の側からも渥美・常滑の壺、京都風の素焼土器、中国産白磁の壺などが搬送された。北方世界のうち本州部分は中世から近世にかけて陸奥国の行政区画に組み込まれ、海峡を越えた夷が島さえ陸奥国の延長として認識されることがあった。このうち、鹿角・比内の両郡、津軽四郡や外が浜、西が浜が、太平洋側の陸奥国に含まれるというのは自然でない。本来なら出羽国に組み込まれるべきところだろう。奥大道を通じた陸奥国側からの政治的影響力が強大だったということだろうか。事実、奥大道南北ルート貫通以前の古代には、これらの地域は出羽国の影響下にあった。秋田城から能代に出て、米代川を遡って比内・鹿角に達する東西の道筋が優位を占めていた。また、奥大道南北ルート貫通前は、鹿角・比内、津軽四郡、久慈・閉伊などの諸郡や糠部の一戸から九戸などは、建置されなかったのである。これらの地には、上津野、火内、幣伊、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利など、俘囚、夷人の村が散在するばかりであった。これら北方の住人は、空堀に囲まれた高台の住居群(北方性防御集落)に拠りながら、秋田城や胆沢城に朝貢に赴いて饗給(こうごう)に与ることはあっても、中央政府の直接統治に従うことなく自立した暮らしを維持していた。奥大道の貫通は、北方世界に中央政府の直接統治を及ぶし、諸郡の建置を進める一大変革を推し進めた。4 奥大道の貫通時期清衡の時代には貫通していたのは確実だが、それ以前の清原氏の時代にまで遡るのかどうかが問題である。延久2年(1070)に陸奥守源頼俊と清原真衡の連合軍が北方世界に進出して、「衣曾別島(夷が島)荒夷」、「閉伊七村山徒」を撃つという合戦が行われ、北方世界の全域が中央の直接統治下に置かれることとなった。その10年ほど後には、諸郡の建置を実現した。従って、この合戦の直後が奥大道の貫通時期とするのが妥当であろう。いずれにしても、貫通時期が前九年合戦(1051-62)より以後であることは問題がない。奥六郡の安倍氏が滅亡させられる以前は、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利などの村が健在で北方の独自性が維持されているからである。5 奥大道の意義奥大道は、北方世界と奥南を結び、また京都など日本国の中央と連結したばかりではない。さらに博多を通じて東アジアに至る海上の道にまで連結していた。12世紀の日本の三大都市は、京都、平泉、博多であった。京都は日本の富を集中した唯一の都市であったが、平泉と博多は民間交易ネットワークに立脚した新しいタイプの地方都市であった。13世紀に鎌倉が都市開発されるまでは、平泉が東日本唯一の都市であった。このような民間交易のネットワークが形成され国際化の波が奥州にまで及ぶことがなかったならば、安倍、清原、藤原の政治権力の登場は不可能であった。さらには、頼朝の幕府樹立も不可能であった。■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」
2010.10.24
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場所や時代をこえて、巨視的に歴史の大筋を把握することが必要な場合がある。とくに東北を地域単位と捉えてその交流史を理解するには、文字通り主軸となる「道」の概要を掌握しなければならないだろう。■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)(なお、理解を深めるために上掲書中の図(街道図など)も引用させていただきました。図版等の直接引用は極力避けていますが、街道の状況理解のためどうしても必要になりました。)1 古代の陸道弥生・古墳文化の北上は、畿内を軸として東日本に「山道」「海道」の概念を生んだ。山道と海道の両者を進んで更にその奥(道奥)、と2通りの東北に達する道が次第に確定し、これを基に官道の「東山道」「東海道」が律令政府の下で設定された。この官道を通して移住と文化流入が展開し、言語社会の変質を伴う新たな東北が築かれた。こうした時期に建てられ、京(奈良)、蝦夷、常陸、下野、更に海外の靺鞨国への里程を誌す多賀城碑の意義は大きい。東山道は多賀城から胆沢城へ延長し、東海道は常陸から浜通りを北上した。さらに東山道は多賀城から出羽の雄勝城へ、また笹谷峠越えで出羽国に進み内陸から庄内に出て秋田に達する横断道も開かれた。2 蝦夷の道古代国家は多数の移民(柵戸)を組織的に送り込み、これを核に郡制施行地を拡大する方式で行われた。移民を中心に編成された辺郡(近夷郡)には、先住の蝦夷も組み込まれたが、蝦夷の集団性を生かして族長を郡司とする蝦夷郡も編成された。辺郡(近夷郡)と蝦夷支配の拠点として城柵を造営するに際して、官道を整備した。官道は、城柵や官衙を結ぶ征夷の道である。733年出羽柵が秋田に遷置され雄勝郡が置かれるが、雄勝郡の維持は困難で、737年には多賀城と出羽柵の直通路を開くための大野東人の遠征がある。この目的が達成されたのは759年で、雄勝平鹿2郡と出羽柵に通じる陸路に6駅が置かれた。また、出羽国最上郡は道路険しく大河は急流であるが、遠征軍が通らねばならぬ要路であった。796年に伊治城と玉造塞間に1駅、804年に志波城と胆沢郡間に1駅が置かれるのも、征夷に伴う官道整備の一環である。また、常陸国から多賀城に至る海道諸駅の廃止など、官道の再編もあった。官道はまた北方の珍貨を求める交易のルートでもあり、鉄などの物資の流入で蝦夷集団の政治的成長をも促した。北海道を含む日本海沿岸の夷地は本来出羽国の管轄とされ、秋田城・雄勝城は辺郡(近夷郡)に組み込まれた蝦夷を含め多数の蝦夷の支配拠点であった。蝦夷支配の基本は、饗給である。秋田城は9世紀後半には、野代村、上津野(鹿角)村など郡制施行の範囲を超えた夷地も城下に組み込んでいる。雄勝城は山北三郡を城下としたほか、陸奥国志波村を管轄した時期もあったらしい。雄勝城は「十道を承くる大衝」とされ、奥羽山脈を越えた陸奥にもルートが延びていたとみられる。3 古代の海の道縄文遺跡の三内丸山の出土品には、糸魚川産と思われるヒスイがある。北陸と北奥羽の海上または陸上の往来が想定される。また、奈良平安時代に入る頃には、北海道には擦文土器文化が発達し北奥に影響を与えていたが、津軽海峡は陸地を隔てる海ではなく、むしろ両者を結ぶ川であり、活発な両地の交流があった。海や河川も古くから交流の道であったが、海運は輸送需要との関わりで考えるべきである。古代律令政府が定める公租米の輸送規定では、東北は出羽国からのみ認められていた。太平洋側は駿河国までであり、関東・東北の太平洋側の遠隔海運はまだ開かれていなかったのである。日本海側の遠隔地間交流は早くから開け、すでに古代末期に確認されている北奥の津軽十三湊が注目される。西は北陸から北の蝦夷地に至る環日本海沿岸を舞台に、ときに海外との直接間接の交流で栄えた。やがて「廻船式目」の七湊である津軽十三湊、秋田(土崎)、今町(直江津)などの湊を結ぶ海運が、西国や北陸と東北を結ぶ太い交流の道となった。4 阿倍比羅夫の道越国国守の阿倍比羅夫の北征(658年-660年)は、蝦夷に対する貢納的支配の拡大を目的に、3年間に3度行われた。対象は秋田市以北の日本海側で、齶田(秋田)、渟代(能代)、津刈、渡島(北海道)の蝦夷である。ただし、津刈、渟代の蝦夷は北征以前に服属しており、齶田、渡嶋の蝦夷との間に戦闘があったわけでもない。既に7世紀前半には各地の蝦夷は古代国家と個別に接触し始めていたと思われる。比羅夫の北征軍は660年、渡島で粛慎と武力衝突する。粛慎の古訓は靺鞨と同じアシハセで、蝦夷とは明らかに異なる集団である。北海道のオホーツク沿岸は4世紀以降独自のオホーツク文化が展開し、7世紀以降にはサハリン・千島まで文化圏が広がる。大陸北東部に由来するとされ、粛慎も大陸系集団であろう。交戦の結果、比羅夫はヒグマの皮などを献上させ、のちに、出羽国の納税の一部に組み込まれることとなる。北方世界の珍貨交易の道を開いたと言える。出羽国も律令制に基づく国郡制が行われるが、秋田市以北の広大な地域は長期にわたって郡制を施行しなかった。蝦夷集団固有の社会を生かし、安定した交易関係を維持して珍貨を獲得するには国郡制支配が馴染まなかったと見られる。5 渤海使の道渤海国は旧高句麗遺民や靺鞨人が698年に建国した多民族国家で、のち唐に冊封されて渤海郡となる。727年高斉徳らが初めて渤海国使として出羽国に来着する。10世紀初めまで34回の国使来着があるが、9世紀以降は北陸以西が来着地であるのに対して、8世紀段階では14回のうち1例をのぞき北陸以東、しかも6回までが出羽である。日本政府は773年に太宰府(筑紫道)に入るよう命じるのだが、出羽に入るルートは固定的なものがあったはずだ。出羽来着には、使節の殺害や略奪も頻発したが、それでも蝦夷地・賊地の出羽に来着を重ねた。また靺鞨部族の一つ鉄利人ら1100人が亡命集団として出羽に来着した(放還される)こともある。公的使節にも亡命者にも既知のルートがあり、そして秋田以北の日本海沿岸には多くの港津が存在し、受入れ先となっていたのである。特に、771年に渤海使325人が来着した野代湊の機能は注目されるべきである。9世紀後半まで郡制が施行されないことも、軍事的性格と関係するだろう。■「東北総合案内」さんのサイト中にも解説がある。■高倉淳さんの説明 仙台周辺の古道、仮説玉野新道
2010.10.23
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TBCのニュースでやっていた。21日午後11時半頃、青葉区本町3丁目勾当台公園東側の歩道で、帰宅途中の県職員男性が、2人組の男に棒のようなもので頭を殴られました。2人組は定期券などが入ったショルダーバッグを奪い県庁方面に逃走。男性は右手中指を骨折する重傷という。場所は県庁のド真ん前、公園と合同庁舎に挟まれた道路だろう。たしかに夜の11時代は人通りも少ない。おそらく公園側からヌーッと現れたのだろう。ところで、このニュースだが、仙台放送とKHBのサイトでも出ている。しかし、ビックリするのは、「22日午後11時35分頃...」となっていること。それは、今夜、しかも今から先の時刻なのだが。よりによって2局も一緒に間違うものだろうか。それにしても夜道の強盗犯とは怖い。警察本部の目の前でもあるのだが。
2010.10.22
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今秋の一等米比率が64.4%と、ここ10年間で最低水準と報道された。夏の猛暑が影響しているという。宮城県は69.2%で東北最低だ。そんな中で、山形県産つや姫の比率は、何と99.6%というから、すごい。高温耐性(暑さに強い)というセールスポイントが実証された形だ。ちなみに主な産地と銘柄では、青森産つがるロマン65.5%、岩手産ひとめぼれ92.0%、宮城産ひとめぼれ70.6%、秋田産あきたこまち75.7%、山形産はえぬき78.1%、福島産ひとめぼれ82.4%、福島コシヒカリ72.8%などである(河北新報ほかによる)。山形のつや姫がいかに高いかがわかる。ただ、県外産のつや姫では比率が低い地域もある。山形では生産者が水管理を怠らなかったことなども考えられるそうだ。しかし、とにかく高級ブランドとして全国に広めるためには、県外産も品質を保持させなければならない。栽培マニュアルの徹底を図る方針だそうだ。品種の耐性という事情はあるだろうが、おそらくは各農家の栽培方法が相当左右するだろう。山形の「つや姫」ブランド戦略では、県外普及をどう進めるかがポイントだった。普及戦略として県外栽培に踏み切ったが、丁寧な栽培管理の縛りをかけられない県外産の成果によっては、高級ブランド確立が頓挫する。そんな戦略の難しさが、図らずも露呈した格好だと思う。■関連する過去の記事 山形の「つや姫」 宮城が奨励品種に指定(2009年9月25日)
2010.10.21
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こんな時間に帰宅したことを記しますが、実に久しぶりです。仙台市内からタクシーで直接自宅まで帰ってきたのは。3千円台というのは意外に安いという感覚です。ほとんど寝ていたと思うのですが、運転手の女性の方が気を遣ってくれたのでしょうか。何にしても、本当に久しぶりでした。普段は、電車で帰ろうとして乗り過ごして、2時間も3時間も歩いて帰ることを考えれば、本当に合理的でした。何とも、恥ずかしいですが、これが普通なのでしょう。いずれにしても、無事帰宅できて、運転手さんの言うように、これから熟睡です。
2010.10.21
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きのう(19日)は冷え込みました。盛岡で初霜を観測し、岩手県内34観測地点すべてで今季最低気温。盛岡は、1.7度。そして、薮川で氷点下3.8度など、10地点で氷点下を記録した、とのことです。仙台は朝は10度くらいでした。それでもかなり寒く感じましたね。カゼが流行り出しそうです。アメダスで仙台は現在(午前0時)14.4度。薮川も、まだ(?)4.1度です。東北の観測地点で最低は八幡平(秋田県)の2.3度のようです。いつの間にか、10月も下旬ですね。秋も深まります。■関連する過去の記事(薮川など) 薮川が寒い理由(10年2月7日) 薮川で氷点下(08年9月29日) マイナス10度の朝を迎えられるか(06年1月9日)
2010.10.20
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佐久間庸軒は、文政2年(1819)田村郡石森町(田村市船引町石森)に生まれ、幼少の頃から非凡な才能を示した。天保7年(1836)、18際で二本松藩の最上(さいじょう)流和算家渡辺治右衛門に入門。師が死亡後は和算研鑽の旅を続け、嘉永7年(1854)に研究成果を「当用算法」に著した。これにより最上流に佐久間派を築く基となる。後に三春藩明徳堂(藩校)教授、新政府の絵図編纂御用も勤めるが、和算を教えて多くの人に広めようと故郷石森に戻り、庸軒塾を開く。門人は、農民を中心にその数2000とも言われる。県外にも及び寄宿施設も備えた。明治2年(1869)78歳で死去。石森には生家とともに庸軒の書斎が残り、和算研究の貴重な資料となっている。■参考 福島県高等学校地理歴史・公民科(社会科)研究会編『福島県の歴史散歩』山川出版社、2007年先日、遊歴和算家山口和の東北紀行を記事にした。山口は関流の大家だが、参考にした佐藤健一氏の『日本人と数 和算を教え歩いた男』(東洋書店、2000年)には、福島に記録が残る有名な和算家として佐久間纉(1819-1896)の名が、序文に出ていた。庸軒と同一人物だろう。上掲の山川出版の本は1869年死去としているが、生年が正しいならば78歳にならないのだから説明が矛盾している。78歳なら没年は1896年が正しいのでないか。そうすれば、佐藤氏の序文とも符合する。佐藤氏の著作に主な和算家の系譜(師弟図)があるが、会田安明(1747-1817)の作った最上流の図には、会田安明の下に渡辺一、その下に佐久間纉の名がある。会田安明の下に、渡辺一の兄弟弟子の位置には佐久間質の名もある。佐久間纉(庸軒)の父だろうか。幼い庸軒の才能を見込んで、二本松の渡辺一(治右衛門)に預けたという関係なのかも知れない。一関市博物館サイトの説明に、一関で和算を広めた千葉胤秀と佐久間纉(つづき)(庸軒)を、優れた教育者として並び称している。また、現在残っている算額の数も、福島と岩手の両県が第1位と第2位だという。■福島県教育委員会の説明■関連する過去の記事(和算と東北) 和算家山口和の東北遊歴(下)(10年10月16日) 和算家山口和の東北遊歴(中)(10年10月16日) 和算家山口和の東北遊歴(上)(10年10月16日)
2010.10.19
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河北新報に出ていた。イーグルスの山崎選手が17日、次期監督候補の星野仙一氏について、「厳しい人。すきを見せてはいけない」と印象を語り、若手に対して自分が伝えていきたいと語った。また、監督を替えた球団の方針について若手に代わって契約更改の際に聴いてみたい、と言った。さすがはチームリーダーです。山崎は中日で星野監督を経験していますから。ところで、ちょっと前のこんな本に山崎のことが出ています。■今野紀雄『図解雑学 確率』ナツメ社、1999年「1996年度のセ・リーグ本塁打王争いは熾烈だった。山崎(中日)39本、松井(巨人)38本で迎えた巨人-中日最終戦。なんと松井は4打席四球。ファンのブーイングが起こった。」なるほど、星野時代の中日です。山崎が本塁打王。このシーズンは打率も.322と素晴らしく、長打率はトップ。ベストナイン選出。新監督との繋ぎ役を、大いに期待したいです。
2010.10.18
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利府街道が4号バイパスと立体交差する山崎交差点の付近。やや仙台市内寄りにある小さな店舗です。富士宮やきそば。B-1の優勝と華々しく表現されています。店舗とのぼりには「やきそば」で、黄色い看板には「焼そば」とあります。気になって今月上旬に石巻で大々的に開催された「東北4大やきそばフェスティバルinいしのまき」のチラシを確認してみました。 石巻(茶色い)焼きそば 横手やきそば 黒石つゆやきそば なみえ焼そば表記もさまざま。少なくとも3通りはあるようだ。富士宮の場合は、オレンジののぼりがたぶん統一表記のように思われます。まあ、どうでも良いのですけれども。(画像は車運転中に撮ったのではありませんので。念のため。)■シリーズ仙台百景 以前の記事です。こんな企画で100枚まで続けるのが目標です。 ○フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) ○宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) ○松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) ○十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) ○陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) ○県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) ○一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) ○風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) ○冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) ○県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) ○数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) ○半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) ○仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) ○仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) ○仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) ○仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) ○仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) ○仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) ○仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) ○仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2010.10.17
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(和算家山口和の東北遊歴(上)(2010年10月16日) 和算家山口和の東北遊歴(中)(2010年10月16日) より続く)■佐藤健一『日本人と数 和算を教え歩いた男』東洋書店、2000年 から(7)再び仙台領へ二口街道は名取川北岸を歩き、茂庭村で名取川南岸の熊野堂村に出る。村には名取熊野三社のうち、熊野本宮社、熊野新宮社がある。山口は奈智社と記している。南に2里ほど歩くと塩手村の佐具叡(さくえ)神社がある。岩沼の西の北長谷村で島貫清蔵の家に着く。当日は8月2日だが、3月9日に別れて以来である。島貫宅に4日間滞在し、南長谷村の深山権現や平将門の塚の松などを見物した。帰途は浜街道ではなく、奥州街道を南下。槻木、大河原、金ヶ瀬、白石城下を後に、斎川宿、越河宿、峠を越えると伊達郡貝田村に出て、夜になったので宿泊する。(8)奥州街道から浜街道へ翌朝は大木戸村、藤田村、谷地村、桑折村と歩く。桑折の手前で七ヶ宿街道が合流してくる。桑折からは奥羽街道を離れて東よりの道を選んだ。どの道かよく解らないが、おそらく山口は長岡あたりで左に折れ、阿武隈川を越えて、文知摺(もちすり)観音堂を参詣した。福島城下北東部の阿武隈川東岸の岡部村の更に東、山口村である。山口村から西に下りて街道の通る渡利村に出る。街道を進み、秋山村で泊まる。しかし、往路での遊歴から中村に行かねばならないのだが、少し南に来すぎたことに気づく。翌日、街道をそのまま進み川俣村から小出川沿いに進めば中村街道に出ることを聞いた。川俣から小島村、月館村を通って山戸田あたりで中村街道に合流できた。広瀬川と中村街道が交差する辺りである。中村街道を東に進み、石田、笹町村(相馬市東玉野)を経由して中村に着く。中村では前田定次宅に泊まる。往路のとき3月2日から7日まで滞在したが、このとき知り合ったようだ。しばらく滞在し8月22日まで数学を押しえる。中村を出てから陸前浜街道を江戸目指して戻る。往路でも立ち寄った狐崎村で、名主酒井与才次の家で教え、数日後酒井与右衛門宅で教える。大月村で久米三郎を教え、会瀬村、飯田村、赤石村、中菅間村などを順に回って教えながら、江戸の長谷川道場に到着したのは9月23日だった。(後記)遊歴和算家の東北紀行の足跡を、私も現代の地図帳を開きながら字名に残る旧村の名残を見つけながら追いかけるのが楽しかった。佐藤氏の著書には、山口の立ち寄った村の周辺や当時の地域の様子などを詳しく補足してあるので、理解にも便宜であった。
2010.10.16
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(和算家山口和の東北遊歴(上)(2010年10月16日)より続く)■佐藤健一『日本人と数 和算を教え歩いた男』東洋書店、2000年 から(4)盛岡から八戸、下北へ山口は小山田と別れて、上田村、黒石野村、小鳥沢、川又村と続く。この先は山に囲まれた谷部を北上川が流れ奥州街道が通る。笹平村、越井戸村、狐沢村、渋民村から草下田村の清右衛門宅に泊まり4月19日から22日(この日文政に改元。1818年)まで数学を教え弟子とする。再び奥州街道に出て、芋田、川口、野口、沼宮内、御堂村、中山村、小栗村、一戸村と進む。一戸で本陣の家に泊まる。左右山に囲まれて何日も歩いたが、北上川も消え馬渕川と旅をする。末の松山として古歌にも詠まれた難所の浪打峠を下りると福岡である。道は左右に分かれ、左は奥州街道、右は脇街道。いずれも八戸に至るが、山口は距離の短い脇街道(八戸街道)を選ぶ。仁左平村、折爪嶽の北麓を西に越え、晴山宿。さらに山を越えて大森村、市野沢村、泥障作(あおづくり)村で宿泊。翌日は八戸藩の中里保太夫を訪れる。中里は八戸藩で数学の達人と知られており、盛岡の小山田を介して会うことになった。八戸滞在中に五戸村に数学に熱心な者が居ると聞き、八戸から馬渕川を渡り長苗代村、七崎村を通って五戸村の吉田源右衛門宅に行く。息子の幸吉が数学好きで、八戸藩宮川喜左衛門に学んでいた。翌日、山口は吉田幸吉を弟子にして出発の準備をしていると、山口来訪の知らせを聞いてか宮川がやって来て、百石村の伝右衛門に手紙を預かる。八戸北隣の百石村の伝右衛門に宮川の手紙を渡すと、伝右衛門は松坂村の又六への手紙を作って山口に依頼した。百石村から相坂村で奥州街道に合流し三本木村へ、更に七戸村を抜けると中野、坪、尾山頭を通って野辺地に至る。この間の坪村から半里北の山中に宮があり、宮の下の土中に坪の碑があると土地の人が言う。多賀城にあるのは本当の「壺の碑」ではなく多賀城碑ということになる。坪の碑に言ってみると、板囲いをして保護している。野辺地本町から、下北半島を陸奥湾沿いに北上する田名部街道に入り、有戸村、百目木、横浜村を経て田名部村に着く。田名部街道はさらに大畑、大間、佐井と続くのだが、山口は街道を外れて5月2日恐山を訪れる。大畑方面に降りて田名部に戻り、街道を逆行した。同じ街道だが南行は野辺地道と呼ぶ。横浜で森田屋五兵衛を探すが箱館に引っ越したと聞かされる。野辺地から奥州街道を西に向かい、馬門村、狩場沢の関所を越え、清水川村で農家源八宅に泊まり、当地では農業と漁業を兼ねて仕事としていると聞かされる。口広、清水沢、浜子村から道は山の方へ入り、沼館村、小湊村、藤沢村、山口村、中野村、土屋村、浅虫から、津軽三関の一つ内村の関所を通って原別村(青森市)小笠原伝兵衛宅に泊まる。3日間息子の源吾に数学を教える。利息計算などを教えたようだ。(5)青森から羽州へ青森からは奥州街道を古川、沖館と通ると、羽州街道が左から寄ってきて油川村でつながる。沖館からも石江を通り新城で羽州街道に行け、これが弘前方面には近道だ。羽州街道は新城から山道を戸門、白畑、大袋、鶴ヶ坂、山里、浪岡の各村を過ぎ、女鹿沢、増館、水木、榊を経て、藤崎宿手前の中島村で泊まる。この辺は川が多く水に恵まれ肥沃である。翌5月9日藤崎宿に出て、町田、高尾、賀田(よしだ)、宮地の各村を通り、岩木山神社。ところで、中島村からは岩木川の西を通り岩木山の東から北に回り日本海側の鰺ヶ沢に出るのが楽で早い。しかし、津軽信仰の人たちの岩木山南麓迂回ルート(百沢街道)を山口は選んだ。百沢から常磐野に行き岳温泉に行き、さらに三里先の山中にも温泉があると聞き出かけている。また半里西に行くと枯木平に出て、二里歩くと松代村に着いた。まもなく芦萢(あいやち)村に下り、このまま行けば滝渕村、浜横沢などを通って鰺ヶ沢だが、山口は道をそれて左の山に登り、道なき山を、松代村から二里離れた深谷村にたどり着いた。深谷村からは赤石川に沿って、日本海側の赤石村で大間越街道に出た。赤石村からは街道を南下し、牛島、柳田、島、関、金井ヶ沢を経て、千畳敷で有名な大戸瀬村に着く。追良瀬村、深浦、岩崎を越え、黒崎村三次郎宅に泊まり、この先の関所に備える。大間越の関所を越え、岩館村、目名潟村で五次右衛門宅に泊まる。風邪を引き高野野村三五郎宅で15日まで休養する。沼田、須田、落合とつながり向能代村。米代川を渡り秋田一の港町能代に出る。能代大町の惣名主相澤金十郎を訪ねると、相澤と数学の問題の解法について話し合った。翌日、外岡村、豊岡村、羽州街道に合流し、森岳(もりおか)村の又助宅に泊まる。相澤の紹介で数学を教えたようだ。一日市村を過ぎ、秋田まで行き迦町の幸八宅に泊まり改元を知るのだが、ここで五十ノ目村の小笠原小太郎に会い、羽州街道を戻って、一日市村から一里ほど東に街道を離れた五十ノ目村に案内される。五十ノ目村では、5月18日から7月1日まで長期滞在した。この間、数学を教えてあちこちの村を巡回した。6月15日の村の三王祭の見物している。7月1日、五十ノ目村を出て、一日市、蛇川、大久保、久保田と歩き、寺内村に着く。ここには羽州街道沿いにある古四王(こしおう)神社に算額が掛かっている。久保田城下では庄三郎宅に泊まる。(6)鳥海山から鶴岡、出羽三山由里街道を南下するつもりでいたが久保田から船があると知り、船で川岸の関所に行く。その後海岸の由里街道を松ヶ崎、親川村、石脇村から本庄に渡り、海岸沿いに出戸村、平沢、三森を通り金浦村で泊まる。翌日も海岸を歩き、塩越村で象潟蚶満寺(芭蕉の頃は干満珠寺)に参詣する。文化元年の地震で倒壊し同9年に再建されたから、山口は新しい寺を見ている。地震で隆起した土地を開田する本庄藩の計画に、景色が損なわれると反対したのがこの寺である。夜には塩越村から一里東に入った小滝村に行き泊まる。小滝口から鳥海山に参詣するが、村に戻るよう懇請されていたので戻って7月4日から21日朝まで滞在する。この間村で数学を教えて回った。小滝村で弟子にした人々に見送られ、21日、水田風景と化した象潟に出た。羽州浜街道を南へ行き、三崎峠から吹浦村、日向川河口の村で泊まる。酒田では日和山に登る。赤川沿いの酒田街道を歩き、鶴岡城下へ。七日町後藤屋金八宅に泊まる。翌朝、番田村、井岡、柳田、岡山を通って、今の湯田川温泉の手前藤沢村を過ぎた辺りを左折し、山道を登った。山岳宗教の霊山金峯山である。六十里越街道は東荒屋村と松根村の間の赤川を船で渡り、大網村で注連寺に泊まる。翌7月24日は寺を出て4里で湯殿山に着き参詣。奥の院まで入っている。その後月山に向かい、笹小屋に泊まる。早朝7ツ(午前3時過ぎ)に松明を頼りに登る。北に羽黒山の方に移って多数の参詣者とともに登る。羽黒山を降りて、鶴岡近くの湯沢村に行く。江戸を出るとき預かった手紙を渡すため、吉田屋甚八宅に泊まる。翌日横山村まで戻り、江戸街道(清川街道)を歩き、藤崎村から清川村に着く。清川関所と4里先の寒河江の間は多くの旅行者は船に乗るが、山口は街道を歩いた。草薙村、吉口村、蔵岡村で泊。最上川を渡り、津谷村、鮭川、岩清水、川口村から右に折れて、下山崎村、西山村、新庄に入る。新庄には数学者松永貞辰(1751-1795)が山口の訪れる20年ほど前まで住んでおり、弟子3千人を抱えていた。関流の第一人者で新庄藩の江戸詰めだった安島直円の弟子で、新庄に帰って松永塾を開いた。寛政7年に没した後は子の松永直英が引き継いでいた。山口は松永の門人達が奉納した新庄天満宮の算額を写し書いている。新庄からは羽州街道を鳥越村、舟形宿、猿羽根峠を越え、新庄藩から幕府領の名木沢宿(尾花沢市)に出る。芦沢村から道を西の山際に向かって歩き、大石田村、大久保村、谷地村、西里村、日和田村、慈恩寺から寒河江川を渡り谷沢村で泊まる。翌日、左沢を通り大沼村。無数の浮島が沼の上を移動するという大沼の浮島を見物しようとして、街道からだいぶ脇に入るが、やって来たのだ。浮島稲荷神社を参詣する。一度左沢に戻り、泊。翌日羽州街道を横切り、水晶山(東根市と天童市の境)に登った後、山元村、貫津村を通り、山寺立石寺を登る。泊の後、東を目指した。二口峠を越えるのは山伏峠越えとも呼ばれ、急な坂道であった。(和算家山口和の東北遊歴(下)(2010年10月16日)へ続く)
2010.10.16
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日本の一般人の数学水準が高いのは、江戸時代の和算が根底にある。「塵劫記」の吉田光由、「竪亥録」の今村知商、関孝和、建部賢弘などの天才が数学を発達させたが、一般庶民にも生活に必要な数学は普及した。寺子屋では最低限度の加減乗除を教えたし、地方の村でも向学心がある者は藩校で学び、また江戸の遊歴算家が歓迎された。遊歴算家としては、山口和、佐久間纉、法道寺善などで、各地に足跡を残している。庶民文化としての数学としては、文化文政期の江戸の長谷川道場に人気があった。長谷川寛は関流の宗統日下誠の弟子で、従来秘伝とされた高度な数学書を弟子の名で次々と公刊した。千葉胤秀「算法新書」、山本賀前「大全塵劫記」などである。長谷川道場屈指の数学者として頭角を現したのが山口和(?-1850)である。新潟県水原町立博物館に残る日記をもとに、山口の遊歴から東北の和算文化を拾ってみた。■佐藤健一『日本人と数 和算を教え歩いた男』東洋書店、2000年 から1 一度目の遊歴文化14年4月9日(旧暦)、山口は神田の長谷川道場を出発し筑波山参詣に向かった。上総国豊田村郡上蛇村(水海道市)の玉宝院に泊まったところ、数学好きの住職の息子に教えて欲しいと頼まれる。山口は息子に九九、八算(注)を暗唱しているか確認し、そろばんの使い方を教える。(注)八算は、今では使われないが割り算の九九である。二進が一十、三進が一十、と始まる。2/2=1、3/3=1の割り切れる場合を言うが、「にっちもさっちもいかない」の由来だ。また寺具村では満充寺住職に依頼されて数学を講義した。山口は方々で数学談義をしながら、帰途は鹿島神宮、酒々井などを経て5月神田に戻る。2 二度目の遊歴遊歴に満足した山口は、弟子となった人たちの上達も気になるし、また各地に奉納された算額にも興味があり、さらに芭蕉のたどった奥州にも関心があった。文化14年(1817)11月江戸を立ち、筑波山周辺で正月を迎え、陸前浜街道の多賀郡会瀬村(日立市)を、桜もつぼみ始めた1月29日(旧暦)に東北に向かって出発した。(1)陸前浜街道を仙台領まで勿来の関を越え、菊多郡久保田村枝村の大月村に滞在。近隣の村から多数が集まり、数学を講義する。狐塚村、四倉村、楢葉郡山田岡村、富岡、行方郡大堀村、小高村、原町を経て、中村の分かれ道は、通りやすい山際の道(陸前浜街道)を選び西進。山麓にあたり右(北)に曲がって、塚部、駒ヶ嶺、新地、仙台藩南端の坂元本郷に入る。東の太平洋岸の磯浜には、元文4年(1739)ロシア探検隊の3艘現れており、山口が通った頃には唐船番所が設けられていた。麻生原村、山下村、山寺村、吉田村、亘理村。北西の風が強いため火災を考慮して屋敷を直線に並べない工夫がされている。阿武隈川を渡り、北長谷村で島貫清蔵に数学を教え、岩沼竹駒神社、二木(武隈)の松、岩沼で奥州街道と合流し北上。長町から国分町へ。岩井屋源之丞の家に泊まる。山口が仙台に来たのは新暦4月14日で桜が咲いていただろう。今市から右へ向かい、市川村多賀城では「壺の碑」とされた多賀城碑を見て、塩竈神社、海路で松島、富山で絶景を眺め日記に絵を描いている。芭蕉の影響が強いようである。(2)千葉胤秀と出会う富山から川下村に出る。すると村に数学者が滞在しているというので面会する。仙台領内で町人農民3千人以上を弟子に教えている千葉胤秀である。千葉は一関藩家老で関流藤田貞資の門人梶山次俊に学んだという。問答の後に千葉は山口の弟子となり、2人で小野村の外れで右の石巻街道に進む(左は気仙道)。牛網村、矢本村、大曲村から石巻に入る。日和山で芭蕉の句碑を確認し、牧山では長禅寺境内に算額を認める。石巻では別行動を取り、山口は渡波から船で牡鹿半島鮎川、金華山を訪れる。蛇田、鹿又、和渕、寺崎、赤生津、横山不動尊。黄牛村で千葉の弟子宅に泊まり、4月1日流郷清水村(一関市花泉)で千葉と再会する。千葉は安永4年(1775)農家の二男に生まれ一関まで8時間かけて歩いて梶山に学んだ。その後自宅を開放して教えていたが、次第に歩く範囲が広まり遊歴算家となった。山口は千葉の家で、仙台などに掲げられていた算額の問題33題を話題にした。累円術が多い。千葉の家に3泊した山口は、千葉に長谷川道場入りを勧めた。山口の旅の最大の成果は千葉胤秀を弟子にしたことである。千葉は、後に江戸にのぼり長谷川寛に学び、「算法新書」を編集して有名になる。帰郷後は一関藩士となり数学教育に尽力した。子孫も優れた数学者で、特に孫の千葉量七は将来性があったが、明治元年戊辰戦争で25歳で亡くなった。(3)盛岡藩領へ平泉から北上川を渡り、東山郷長部村で千葉胤秀の弟子千葉新太夫宅に泊まる。平泉見物のあと、山ノ目村まで戻り、奥州街道を西に折れる。中野村、赤萩村を経て五串村で胤秀の弟子吉太夫を訪問。再び長部村千葉新太夫宅から、今度は北上川を渡らずに、山の中腹を北に向かい、赤生津村、母躰村、山内村。正法寺と黒石寺に参詣する。羽黒堂村、石山村、岩谷堂へ。賛同から外れて下り、照沢村を越え門岡村。下鬼柳村で奥州街道に出る。ここから南部藩であり、黒澤尻村、成田村と北上川西岸の山際の街道を歩く。根子村では数学者河原新作の家を訪ねる。新作の家では、その友人小岩幸吉がやって来た。小岩は仙台の遠藤右衛門に数学を習っていると言い、遠藤に出した神文を見せた。中西流の数学を学んでいた。中西流は、池田昌意の門人で、さらに荒木村英に天元術を学んだ中西正好のグループであり、奥州に広まっていた。小岩が神文をしめしたので河原新作も関流の自分の神文を披露した。河原の師は南部藩士小山田勇右衛門で、かつて江戸で関流の藤田貞資に学んだ。藤田の門人として、阿部知義、下田直貞、志賀吉倫は盛岡の三子と呼ばれる優れた数学者だが、小山田も同様に数学教育に熱心であった。南万丁目村から花巻に出て、奥州街道を八幡、石鳥谷、郡山、高田、三本柳、津志田を経て盛岡へ。4月15日、北上川にかかる珍しい舟橋を渡り仙北町。舟を何艘も鎖で繋いでその上に板を敷いた橋で、前は古川橋があったが寛政の洪水で流されたため、舟橋にした。外加賀野に住む小山田勇右衛門を訪ね滞在。江戸の数学事情などを話したと思われる。小山田から聞いて盛岡天満宮の算額を見ている。(続く)和算家山口和の東北遊歴(中)(2010年10月16日)へ
2010.10.16
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(寛政9年一揆の指導者 正覚坊召し捕らえられる(上)(2010年10月15日)から続く)4 正覚菩提塔一揆の首謀者正覚の住地だった胆沢郡徳岡村(奥州市水沢区)には、正覚坊の石碑がある。折居の高根神社境内にあり、昭和14年再建とある。もとは文政年間に建立の碑があり、昭和8年に火災で焼け折れたので再建したと記されている。高根神社には板に書いた再建の趣旨も保存されていて、正覚が高峯山清福寺住持五宝院正覚坊という山伏であったこと、仙台近郊の七北田刑場で処刑されたこと、正覚の義挙に地方18カ村の農民が感動し寺内に菩提塔を建てて冥福を祈ったことなどが記されている。元碑の根元は現存していて、宮城県の稲井石だという。文政年間だが、文政元年は寛政9年から20年目になる。地方の農民が自分たちのために命を捨てた正覚坊を、20年以上も忘れずに記憶し、恐らく年忌(文政12年が33回忌)に際して供養の石碑を建てたのだろう。高根神社は、もと修験道場の五宝院清福寺が明治に神社にされたもので、境内には五宝院代々の墓碑があり、正覚の両親の墓らしいものもあるが正覚の墓はない。5 一揆の故地について水沢市街の西方にある丘陵地が見分森である。胆沢平野を一望できる眺望の地で、藩主巡視の際は必ず登ったという。また上下胆沢の境界に近い入会の草生地で、境界が明らかでないため度々争いの場となり、一揆集会の場所となった。明治初期に関係の村々は積年をわだかまりを解いて祝宴を開いた。建立されている別宴碑がその時の記念である。正覚が捕縛された養ヶ森(用ケ森)は、前沢市街地の西方2kmにあり、もとは密林で覆われていたが、現在は開拓されている。正覚が捕縛された事実は、地方民の間には伝えられていないそうである。江刺郡方面の一揆を指導した伊手村の清三郎という者があった。正覚坊と清三郎だけが頭目張本として召し捕らえられ、処罰された。他は遠島だった。義侠心に富む彼が、責を一身に引き受けたと伝えられる。御用の朝、静かに子どもの着衣を温めながら、何の罪もない子どもに冷たい着物を着せる親が居るかと悠然と言い放ち、起きてきた子どもに着せた後、従容と縛について、引かれていく途上岩谷堂郊外の伊手坂で打ち首となった。後年その地に供養碑を建て、年々供養が行われた。■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から (同書の第2章、第4章を中心とした。なお、10月10日の2件の記事は同書の第1章を中心とした。内容が重複しているが、著者の原典の違いのためである。)■関連する過去の記事 仙台藩領寛政9年大一揆(2010年10月10日) 仙台藩領の百姓一揆(2010年10月10日)■奥州市サイトから「百姓一揆」
2010.10.15
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仙台藩最大の寛政9年仙北諸郡一揆の指導者とされる山伏正覚坊について。1 一揆の概要寛政9年の一揆は、3月7日払暁、江刺郡伊手村の農民が要求願書を携えて岩谷堂の伊達大炊家の居館に迫ろうとしたことに始まる。伊達大炊家(本姓岩城氏)は前沢の三沢信濃、水沢の伊達将監、登米町の伊達式部などと連絡をとり拡大防止に努めたが、8日には一揆が南北伊手村から横瀬村に広がり、9日には江刺郡東方6カ村1200人に増加した。しかし別段手向かいする様子はなくわめき立てて仙台に登ろうとするので、10日、岩城家は願書を受け取って解散させた。11日には、今度は江刺郡西方の12カ村が立ち上がり、12日夜に大体鎮静する。3月18日。南部領に近い江刺郡伊手村の農民が強訴のため胆沢郡水沢町に向かったが、邑主伊達和泉のとりなしでようやく解散した。ついで一揆は伊沢郡に波及、群衆を増加し前沢町まで進出、いったん邑主が取り鎮めたが、また蜂起して役人と衝突し足軽組から数名の怪我人を出した。前沢邑主三沢氏は少禄であったので、一門の大身登米伊達氏に加勢の依頼、登米は鉄砲組や弓矢組を進発させた。胆沢郡内では、上胆沢の村々は参加しなかったが下胆沢の一揆は上胆沢境の見分ノ森に登り、昼は鬨の声を上げ、夜は満山に篝火を焚いて上胆沢の農民の参加を呼びかけ、物情騒然とした。一揆は南下して岩井郡にも発生し、4月下旬には登米郡の村々からも参加した。4月25日夜には西磐井郡西永井村に一揆が発生、群衆はたちまち登米郡石越村に進入。石越の領主芦名氏は防戦できず、同村東郷の肝入の家が破壊される。栗原郡若柳、武鎗、有賀、三田鳥の所村も呼応、一揆は金成村の大肝入宅に乱入。26日夜には13カ村3500人の農民が集合し、27日には奥羽街道を築館に南下。この時、一迫、二迫、三迫の農民はほとんど全部蜂起して築館に殺到、さらに仙台に進撃する形勢を示したので、事態は緊迫した。一方、佐沼方面の農民は迫筋の一揆と呼応して千余人が、28日瀬峰町に集まり、栗原の山間地文字村などの農民1200人も29日築館に侵入。遠田郡西野村でも全農民が蜂起して専興寺で気勢を上げた。藩では有力な領主を動員して鎮撫に努めさせる。迫方面の一揆主流に対しては高清水領主石母田備後が説得して解散させた。佐沼方面の一揆には佐沼邑主亘理内膳が瀬峰に駆けつけ取り鎮める。山間地の群衆には真坂村邑主白河上野が鎮撫。西野村の一揆は大肝入のとりなしで翌日解散。その他、玉造は岩出山で伊達弾正が、志田郡は三本木で茂庭周防が説得。2 大槻安賢の謹功旧宮城町の芋沢柿崎の大槻家に残る史料に寛政9年一揆の顛末が記されている。大槻家は、先祖の定安が政宗に近侍して大坂の役で武勲を挙げ、政宗に殉死した家柄である。安賢は、寛政9年目附を勤仕中に一揆勃発し、奉行の命を受けて郡村の情況調査と一揆鎮静のため廻村を命ぜられ、前沢町で首謀者伊手村の正覚坊ら徒党の一味を逮捕する働きをした。雨中の廻村に暑中の病悩も重なり、同年閏7月に37歳で病死している。以下は、安賢の子安世が書きつづった家譜書上草藁による。3 正覚坊の逮捕5月朔日、安賢は伊沢の上衣川村北股の肝入宅に宿泊したところ、前沢町大肝入鈴木養作より使いがあり、前沢の村々の百姓が検断大肝入宅に押し入り仙台表に登る路金の無心を相談していると通報。夜中雨降りではあるが2日朝近く前沢に到着。鈴木から事情を聞くと、29日に中野村で一揆の首謀者山伏正覚坊が潜んでいたのを代官菊地千蔵らが一度召し捕らえたが、大勢の百姓が追ってきたため肝入某宅に正覚坊を入れ門を閉じた。座敷の中から正覚が、自分は今捕らえたが此の御礼をよろしく申し上げよと百姓共に言うと、百姓が一気に家中に乱入し、足軽達を打擲し半死半生にさせた上で、正覚坊を奪取して去った。これが大肝入の報告だった。現地の代官や大肝入は間者を使い、百姓の動向や首謀者の潜伏場所は察知していたが、藩の沙汰がないので臨機の処置がとれず、やむを得ずして三沢家預かりの足軽の手助けを借りて召し捕らえに向かったのであった。5月朔日暮方の集会は、徳岡村幸作が現れ、400人ほどが掘切村肝入居宅の後の野原に集会、肝入宅に押し入る相談をしていたが、水沢の伊達将監家から足軽を借りて屋敷を厳しく警備したので、百姓は押し入りを中止し、上胆沢の見分森に集会。水沢の役人に追われて掘切村の松原の中で詮議を続けていたが次第に退散して、2日曉には100人ほどに減少していた。正覚坊は先日召し捕らえたとき元気も衰えており、徳岡村の自分の家にはおらず、中野村の谷地という所に隠れており、今は幸作がひとり計策を巡らしているが、なんとか幸作を捕縛したいという。以上が、2日朝に前沢で安賢が聞いた様子である。すると、安賢の逗留を聞いて小人目付柴山喜平太たが連絡に立ち寄り、先刻徳岡村与頭七右衛門宅に百姓が乱入、それから要ケ森に集会していると注進してきた。安賢は集会の場所に赴くこととし、夜四ツ時(10時頃)に馬で足軽らと濃霧と雨の中を要ケ森に向かった。要ケ森を登り集会の場所に到着すると、安賢は小人をして、願の節は静かに申し上げよ、不敬がなければ集会はお構いなし、召し捕らえに来たのではないと申し聞かせ、所々に松明を持たせて、百姓2千人との会見を始めた。安賢の側には蔭の暗いところに正覚と幸作を見覚えている足軽が隠れていたが、一団の先頭にいるものが間違いなく正覚だと安賢に耳打ちした。安賢は足軽共を百姓の間に入雑らせて彼らを取り巻かせ、正覚に願数ヶ条について質問している間に、松明を入れて明るくさせ、安賢は正覚と問答した。問答に身が入り正覚は自然と進み出てきた。安賢は言葉巧みに正覚を油断させ、前に行き寄せて独断で俄に縄を打たせた。百姓が総立ちになろうとするのを入り込んでいた足軽達が杖で制する。組方の手に噛みつくなどして暴れた正覚も組み伏せらた。大声で役人に寄りかかるよう群衆に呼びかけるが、足軽共が固めたため群衆の反乱はできない。安賢は、群衆に向かい、事件の大悪首領の正覚を捕らえるが、今後は人に勧められても集会をしてはならない、農村潤助の方策は御卒去のため発表が遅れたのであって近日中改めて仰出されるのだから、よく合点して集会をしないように、と大雄弁で諭した。一同は村毎に申し合わせて解散した。安賢は捕らえた正覚をもっこに入れて担がせ、3日朝五ッ時(8時)前沢に引き上げた。昨夜の集会の者が正覚を奪い返す相談をしているとの風評もあったが、その様子はなく、また、調査の結果徳岡村の3人以外は全員帰村したとのこと。仙台に護送される正覚を奪取するため下衣川で待ち伏せしているとの情報もあったが、4日に安賢が廻村するとどこも平穏であった。徒党首領の居所は段々明らかになったが、藩の取調べ方針が明確ではなく、召し捕らえに踏み切ることができなかった。そこで、安賢は奇計を用い、集会の事ではない喧嘩口論の件として誘い出し、首謀者達4人を捉えて16日仙台に護送した。幸作は南部領に逃亡していた。正覚は徒党の首領で、一揆の終わり頃には自分も表面に出、万一の時は自分を奪取せよと一味に誓約させ、前沢を襲い集会を行い、もし集会不成功の際は前沢町を焼き払い代官大肝入を生け捕りにする約束をした。要ケ森の集会は三沢居館を狙ったのである。正覚は奪取の風説もあったので余党に知られないよう仙台に護送した。安賢が帰仙したのは5月23日だった。廻村に精根消耗し、3か月後に病死したが、恩賞は死後金山御繭三段下賜だけだった。(続く)■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から (同書の第2章、第4章を中心とした。なお、10月10日の2件の記事は同書の第1章を中心とした。内容が重複しているが、著者の原典の違いのためである。)■関連する過去の記事 仙台藩領寛政9年大一揆(2010年10月10日) 仙台藩領の百姓一揆(2010年10月10日)■奥州市サイトから「百姓一揆」
2010.10.15
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49歳で実業界から隠居した伊能忠敬は、日本の測量に情熱を注ぐ。蝦夷地、九州、屋久島、八丈島、とそれこそ日本中を、17年をかけ、10次にわたる測量に身を捧げた。東北との関わりを考えてみた。第3次測量までが、東北に関係している。■参考文献 渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』筑摩書房(ちくま新書206)、1999年1 第1次測量(蝦夷地) 蝦夷地を目指して奥州街道を北上し、三厩から蝦夷にわたり、ニシベツ(西別。根室付近)までの往復3200kmを180日で踏査している。 寛政12年(1800年)閏4月19日(旧暦。以下同じ。)朝に江戸深川を出発。福島、仙台、盛岡、青森を経て、津軽半島の三厩まで21日で歩いている。1日40kmのペースで急いだ。幕府との折衝に時間が掛かって出発が遅れ、蝦夷地が寒くならないうちにと、急いだのだ。幕府は、ロシア北方情勢も踏まえて蝦夷地の測量の意義は理解しており、測量機器の運搬のため船に乗せてやると言ったようだが、忠敬は、船から見たのでは入り江の奥行きが解らず測量できないと頑張り、陸路の測量に持ち込んだ。 急ぎに急いで5月10日に三厩に到着。8日間風待ちしたので、奥州街道を急いで稼いだ日数を無駄にする。吉岡に上陸し、箱館山から四方を観測。海岸沿いを歩き、67日目に西別に到着。鰊漁最盛期で人足が得られず、根室まで行けずに引き返す。 歩測に天測を併せて測量したが、間縄を張って正確な測量はできなかったので、経度(東西方向)の観測は正確でなく、伊能図の北海道は大幅に東偏している。2 第2次測量(関東・東北の太平洋岸) 蝦夷地測量で実績を認められた忠敬は、三浦半島、伊豆半島の沿岸から、房総、常陸、仙台、三陸、下北半島までの沿岸測量を幕府に命じられる。享和元年(1801)4月2日出発。三浦半島、伊豆半島を周回し、いったん江戸に戻る。 6月19日に再度出発し、房総半島沿岸を回り、鹿島灘を北上、磐城、松島、宮古、釜石など三陸沿海を測り、尻屋岬に進み、下北半島を一周して野辺地に出る。青森を経て、11月3日三厩に到着。 帰路は、奥州街道を再測量しながら12月7日江戸に到着。230日、3122kmだった。 第2次測量では、歩測をやめて、間縄を張った測量を徹底して精度を上げた。街道や海岸に梵天(ポールの先に紙切れをつけたもの)を立てて、間を縄で測るのである。縄は伸び縮みするから毎日間棹で調べたという。全国を実測する伊能測量の本格化である。 場所によっては海中でも縄を張った。伊能図の松島付近を見ると、たくさんの朱の測線が海中を走っている。8月21日に塩竈に泊まり、23日にかけて松島湾を測量した際にも、船で縄を引いた記録がある。梵天を立てた船を始点と終点に固定し、その間を測量船が尺取り虫のように縄を張ったのだろう。 なお、参考文献に掲げられた松島付近の伊能図では、宮戸が、島になっている。 はじめて蝦夷地から本州東海岸の地形を明らかにした伊能測量の評価は高まり、第3次測量以降の待遇は、多量の無賃の人馬を与えられるなど、格段に高まった。3 第3次測量(東北・新潟の日本海岸) 享和2年6月11日江戸出発。奥州街道を白河まで測る。ここから街道を分かれて会津若松に向かい、米沢、山形、久保田(秋田)を経て、能代、弘前、青森を通り、三厩まで進む。 三厩からは、算用師峠を越えて小泊に出る。日本海沿岸を測量しながら南下し、能代を経て男鹿半島を回り、本庄、酒田、新潟、柏崎、今津(直江津)と進む。その後、高田、善光寺、上田を経て追分けから中山道。軽井沢、高崎、熊谷を通って10月23日江戸帰着。 132日、1701kmであった。 山形から奥羽本線沿いに秋田領に入った忠敬は、雄勝峠を越えた。下院内村では、庄屋や村役人が藩の指示により袴着用で峠まで迎えに出たという。江戸からお触れが秋田藩庁にも達してたのだ。6月8日に伝馬町を出た先触れが30数個の宿場経由で秋田に到着し、藩庁がすぐ指示書を作って秋田から継ぎ送って下院内に18日に到達しているので、先触れは書き写しを繰り返しながら、刻付けで10日半で駆け抜けたことになる。忠敬は江戸から秋田まで連泊を除いて36泊、下院内と秋田の間は5泊だから、この41泊分を先触れは10日半で駆け抜けた。江戸の通信交通文化の素晴らしさである。刻付け(昼夜を問わない継ぎ送り)と指定されると、受信時刻を記載して次ぎに送らねばならないから、宿場の担当者は一刻を争って処理したと推測される。 忠敬が秋田城下に入ると、扱いが悪くて、天測場所の用意がなかった。すぐに名主を呼んで宿舎の中の準備をさせて天測を行った。また、能代の日食観測を支障なく準備するよう言い渡したという。 8月8日弘前城下に着く。待遇が悪くて、出迎えもない。測量御用が支障なくできるよう申し入れたが反応が悪い。公儀から沿海測量があるからよろしくと仙台、南部、津軽藩には同様に伝わっているはずなのに、津軽沿海地域では蝦夷地上り下りの御用の程度に考えている、と忠敬は憤慨している。 9日になって藩士が見舞に出てきて、藩主からの菓子一箱を贈られる。11日、油川の宿舎に訪れた松野茂右衛門に菓子の礼を述べ、弘前宿の町役人の不行き届きを話す。松野の側用人山鹿八郎左衛門(山鹿素行の子孫)が通達を出し、夜通しで村々に伝えられる。 能代には7月23日から11泊。連泊は会津若松と新庄だけだが、ここでは日食を観測したのである。経度の観測のため日食の交食現象を、江戸、大坂と測量先で同時に観測して、交食の開始と終了の時刻差から経度差を求めたのである。 8月1日は日食の当日。朝から曇りで、午後には一面雲が覆って太陽が全く見えなかった。それでも八つ(午後2時)頃から一隊が測量場に詰める。食が終わる少し前に、ようやく雲間にぼやっと形が見える。復円するころはまた見えなくなる。結局観測は失敗した。 9月21日には、越後の岩船町の町年寄伴田与惣左衛門方に泊まる。伴田家の覚書には、伊能隊測量のようすが記されており、大変興味深い。 これによると、酒田では大庄屋が出迎えなかったら忠敬に叱られ、町役人が鶴岡まで追っかけて謝った。また、忠敬は酒造業の実業家だった割には、酒を好まなかった。飲酒しては夜のデータ整理や天測ができなかったからだろう。 村相互の連絡体制により、伊能隊の支援態勢も整えられた。 酒田での食事メニュー(9月21日)では、一汁三菜であった。先触れでは一汁一菜とあったので豪華だ。夜の天測に時間が掛かり、四つ(夜10時頃)過ぎに夜食としてそうめんを出したという。精一杯のご馳走を出したようである。
2010.10.14
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公共交通機関に乗っていて、ふと目にした広告。秋田のノースアジア大学に観光学科設置、というものだ。何気なく読んでいて、突然、座席の背もたれに体を叩きつけるくらいに、のけ反ってしまった。ノースアジア大学。昔びっくりしたが、今は何ともない。観光学科設置。これも知っていた。平成20年度、とある。ちょっと前の話だ。ANAと提携とか書いているが、売り出し文句だったのだろう。そして、広告の下の方に目をやる。経済学部。なるほど、もとは秋田経済大学だ。ふむ。カッコ書きの中に、経済学科、マネジメント学科と学科構成が記されている。法学部。そして、続けてカッコの中に、法律学科、観光学科、とある。ここで、のけ反ったのだ。観光学科が法学部なのか。とても理解できない。文部科学省が認可したのだから、合理性はあるのだろうが、それにしても、何で法学部か。法学、政治学、行政学、あるいは法務実務、行政実務、はたまたリーガルマインドやコンプライアンスと観光学なるものが密接に絡んでいるという感覚が、私には持てない。いやしくも一個のファカルティを形成するからには、単に付け足したというだけでは済まないだろう。どんな思想なのだろう。そんなことを考えながら電車に乗っていた。それならアンタはどう考えていたのか、と言われそうだが、特に考えたわけではないが、経済学部か経営学部(実際にノースアジア大には存在しないが)だろう、あるいは立教のように独立した観光学部なのか、と漠然と思っていただけだ。気になるので、大学のサイトを覗いてみた。----------「日本で唯一法学部に設置されています。今日、「観光立国」が叫ばれる中、「行政」も「企業」も観光の知識を持ったリーダーを必要としています。 観光において重要なホスピタリティ精神や観光プロモーション能力はもちろんのこと、法学の論理的な考え方を身につけることは強みです。法律は、行政や企業のルールといえます。行政と企業に強いという点に観光学科の特色があります」とある。----------何か苦しいぞ。論理的思考が強みとか、法律がルールとか、それは何だってそうだろう。たしかにカリキュラムをみると、基礎的分野に民法や刑法、専門的分野に観光行政、旅行業法、国際政治などの領域が折り込まれているようではある。しかし、どうも、法律の実践知識をもちながら旅行、交通、文化交流などに秀でた人材を育成する、という、木に竹を接いだ感が否めない。失礼だが。およそ、基礎となる学部に法学部を論理必然的に選んだのではなく、或いは大学の目指す教育の方向からして法学部のあり方として観光学科を導いたのでもなく、おそらくは、今後の人材育成の重点分野として実践食の強い観光(的な分野)を取り上げるとして、さて基礎学部は、法学部とするか、的な感じでないか。ひょっとしたら独立学部で申請したが、文科省に蹴られたのかも知れない。定員60名だそうだ。今後の人材育成として大切だとは思う。ともかく、成果を挙げて欲しい。■関連する過去の記事 崖っぷちの大学事情と東北(2009年10月13日) ノースアジア大学(2006年12月13日)
2010.10.13
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七ヶ浜に入るには、仙台からだと大代橋を経由することが多いが、下馬や塩竈からだと貞山橋を渡ることが多いだろう。この橋を渡って、役場やアクアリーナなどに向かおうとする時に、誤って東宮浜の工業団地に着いてしまうことを、私は2度ほど経験している。頭に地図が入っているつもりなのに、いつの間にか「よっちゃん」の工場の看板を見てしまう、という感じだ。東宮から役場方向に登る道路を覚えてしまったりしている。そんなこともあり、東宮浜地区とは多少の縁があるのだが、しかし本当の旧来の漁村地区には入ったことがなかった。先日、下の子を伴って、初めて訪れた。さて集落に入ると、道の稠密さが工業団地と極めて対照的だ。小さな車で行ったのが幸いだった。東宮明神が鎮座する小高い岬は、たぶんあれだろうと目には見えるのだが、どこから入るのか道がわからない。集落の端の大きな道路に接する箇所に看板があり、再び挑む。漁協の脇から入る小径、本当に狭い小径なのだが、引き返せるのか不安に駆られながら、車を進めた。境内が見える。この道だった。東宮の名は、塩竈神社の末社東宮神社にちなむが、その東宮明神は、塩竈様の東方を護る神として名付けられたと伝えられる。車を転回させて引き返すと、おそらく地元の方だろう、進入しようとする車に私たちが出るまでちょっと待ってもらった。すみません。思ったより戸数も多く、町の規模も広かった。商店、床屋さん、自転車屋さん、など。オロナインのブリキ看板も懐かしい(オロナミンCの大村昆ではありません)。坂道も多くて、小高い場所を這うような道が、両脇に立ち並ぶ民家を抜けると、そのまま代ヶ崎方面に向かうのだった。東宮浜の漁村部に立ち入る前に、町の歴史資料館を訪れた。来客はわが親子のみ。大木式土器のパズルを楽しんだ。■関連する過去の記事 多聞山から偉観松島を眺める(2010年10月11日)(同じ日の行程でした)
2010.10.12
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秋晴れの下、松島四大観のビューポイントの最南である七ヶ浜町代ヶ崎の多聞山に登った。車でスムーズに入れる駐車場から、遊歩道を少し歩くと標高56メートルの多聞山(八ヶ森)。さらにほんの少し先に、毘沙門堂がある。お堂の脇からは絶景の松島湾が眺められる。町の観光パンフには、江戸末期の儒学者船山万年が選定したのが四大観で、多聞山は「美観」と紹介されている。「偉観」が通用しているように思う。パンフにも、四か所に付したコメントの方には、幽、麗、壮、と並べて「偉・雄大さ」と書いてある。ともかく、美観であり、偉観だ。庭園の石のように見える島々が、すばらしい。代ヶ崎浜には初めて訪れた(と思う)。七つの浜を周回する県道塩釜七ヶ浜多賀城線だが、吉田浜や代ヶ崎浜まで足を伸ばした記憶も、周回した記憶もない。代ヶ崎は、達磨崎、白崎、瀬崎(州崎)、扇崎の4つの岬があったことから、四ヶ崎と呼ばれたのが、後に嶼ヶ崎と書き改められ更に現在の「代ヶ崎」の表記になった。他にも説はあるが、地形の美しさ、浦々に散る島嶼の美しさから名付けられた地名に間違いない。(町の観光パンフから)実は、県道から更に海岸沿いに密集している集落部に立ち入ってみた。所々に車が通るのがやっとの狭い通りがある。漁業を主とした集落は、岩肌の陸地の間にわずかに広がる浜地に住宅が建ち並ぶから、通路も人が歩けるほどの幅は確保していても、自動車が通行するには窮屈である。近年広域を結ぶ道路は浜から上がった丘地を走ることとなり、浜に降りずに広い道路を走り去る人には、眼下の集落が気づかない。そんな漁村の風景が、私は三陸海岸や牡鹿半島に点在する集落で見てきたが、仙台にこんなに近い七ヶ浜にもあるのだ。東宮浜にも車を乗り入れてみた。こちらは坂道も多く、リアスの漁村に近い雰囲気だ。集落向けの各種小売店、オロナインのブリキ看板など、農民層出身の私でも何か懐かしくなるような空気があった。東宮明神に登る道は、狭くくねった坂道で、戻れるのか不安になりながら車を入れた。後で観光パンフに、港に車を停めて歩いて行くよう記しているのに気が付いた。普段は車で縦横無尽に陸地を走るのが、当然のように思っている。しかし、それが標準でも全てでもない。浜の世界は、洋々と外につながり、陸地では社を中心に賑やかな町が形成されてきた。こんな世界があることに、改めて気づかされ、観念を揺さぶられるとともに、何とも豊かな気持ちになる。■関連する過去の記事(松島四大観など) 双観山から見た松島(2010年9月27日) 扇谷山から幽観の松島を望む(2010年9月19日) 伊保石公園を散策する(2010年6月6日) 番ケ森山に登る(2010年3月7日) 松島湾の朝日(2007年11月13日)
2010.10.11
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1 概説勃発は寛政9年(1797)3月9日の払暁。江刺郡伊手村であった。9日には他6か村の農民二、三百人が集まり、江刺郡邑主で一門の伊達大炊(岩城氏)の岩谷堂町に押し寄せた。やがて水沢、前沢など上下伊沢郡から磐井郡に広がる。波は登米郡にも押し寄せ、寛政一揆最後の仙北諸郡大蜂起が勃発する。すなわち、西磐井郡流郷永井村で計画された一揆は、石越村に入り四方に連絡を取って一部は東進して石森村、黒沼村に屯し、登米伊達氏の城下に進出し栗原郡の一揆と合流。また、石森村からの連絡で佐沼郷7か村の農民も蜂起し瀬峰から高清水に向かった。かくして一揆は、石越若柳方面、佐沼瀬峰方面、栗原郡西部方面のものが築館、高清水に合流し、仙台城下を向かって奥州街道を南下しようとした。これに呼応して遠田、玉造の両郡下にも蜂起の形勢があり、もし栗原登米の農民が高清水を突破して大崎耕土に入るなら、遠田志田玉造の農民も合流することが明瞭の緊迫した事態となった。藩ではこの重大事態に地方邑主を動員し、できるだけ願書を受理し穏便に解散させるよう指示。4月28日29日の頃に、迫方面の一揆主流に対しては高清水邑主石母田備後が、また、瀬峰に向かった佐沼郷の一揆に対しては佐沼邑主亘理内膳が、栗原郡山間地の一揆に対しては真坂の邑主白河上野が、それぞれ一揆と交渉して嘆願書を必ず藩主に上聞すべきことを約束して群衆を解散させた。その他遠田郡西野村の一揆は大肝入がとりなし、玉造郡の一揆は岩手山の邑主御一門伊達弾正が、志田郡の一揆は三本木町で松山の邑主茂庭周防が説得した。気仙、伊沢、磐井、登米、栗原、遠田、玉造、志田の9郡を席巻し一説には宮城郡にも蜂起が伝えられる。正しく仙台藩未曾有の大事であった。2 一揆の要求と藩の対応記録が残る永井村の嘆願書は31ヶ条から成るが、(1)不当な課税や借上げに反対、(2)御買米に対する反対、(3)郡方村方役人の不正、(4)窮迫した農村に救済の要求、の4点にまとめられる。最後に、拙者共申上候通御下知不被成下候ハ拾ヶ年間御暇被下置度奉願候御事、と固い決意を述べて藩を威嚇した。藩では蜂起の落着とともに、寛政転法と称せられる民政の転換を発表した。すなわち藩としては一揆の要求を受容し、首謀者の処分は寛大にし、むしろこれを機会に藩政の改革刷新を実行しようとした。平定後1か月を経た5月2日に、奉行衆より出入司に、郡村の潤助と民間の窕(くつろぎ)のための改革を指示。地方役人の大減員、役人の廻村停止、郡村の諸償(肝入大肝入などの費用)や遣捨人足(御作事や御普請方)の厳正化、年貢先納の緩和、などが正式に村々に通知され、事務の簡素化で役人の不正も減少し農民負担も減る結果となった。ただし、一揆が最も要求した買米制度の改革と大肝入制度の廃止には、藩は一切手を触れなかった。買米制は藩財政の支柱であった。また大肝入は農民の抑えとなる重要な役割で蜂起の取り鎮めにも大きな力となった。寛政転法で地方の中間的役職はかなり整理され、実権が代官に集中したが、これがためにむしろ農民との間の緩和役である大肝入が重要となったためである。3 責任者、首謀者の処分一揆の直接の原因は、郡方役人の苛政とこれに結託する大肝入肝入への憤激であった。藩が地方役職制の改正に主眼を置いて寛政転法を実施する以上、当然ながら不正役人や役付の処分を行った。全貌を明示する史料はないが、郡奉行小松左門は免官、北条大輔、平三左衛門は役替。村方役付では、迫筋一揆の責任を負い、佐沼大肝入高橋佐戸右衛門(御買米本金を私的流用)が大肝入追放。登米郡大肝入伊藤慶治(寛政5年為登(のぼせ)米の大坂銀利潤や同6年登米佐沼上納金着服など)は城下及び登米一郡から追放。一揆首謀者側については、「張本人ハ江刺郡伊手村百姓誰(名前失念仕候)、下伊沢徳岡村百姓山伏正覚坊を始御郡々張本人有之候得共、伊手村百姓誰正覚坊ハ徒党主本人ニ付死刑に被相行、其他大体流罪被相行候事」(佐伯是保の書上)。死刑にされた2人を中心に各郡各村に連絡者組織者があったのであり、例えば永井村に発端する迫筋の蜂起は石森村の百姓嘉蔵が連絡に当たったが、主として指導したのは大肝入や肝入級の土豪的百姓ではなく、組頭級の中農層だったらしい。瀬峰に向かった南方村一揆の指導者清蔵、兵作、惣作の身許からも想定される。伊手村の百姓某や徳岡村の山伏正覚坊も恐らく同様な階層だろう。一揆が中農層に指導されたのは、耕野村や松川村の初期の一揆が、封建農村の設定をめぐり村を支配してきた土豪層と藩の支持を受けた給人との対立であって、肝入を中心に動いたのとは異なる。寛政一揆では、大肝入肝入は農民から分離し、藩と協力して鎮圧につとめた。金成村大肝入や石越村肝入は一揆の襲撃を受けている。藩の貢租が強化されると村方役付は農民からの収奪に一役買うことになるから、一般農民との間に対立が生じる。買米や貢租の重課で打撃を受けるのは組頭級の中農層であり、その強固で合理的な自衛行動が寛政一揆であった。藩としても、本百姓維持政策を継続する以上、首謀者の処分も寛大にならざるを得なかった。こうして張本人2人が極刑とされただけで、他の指導者は流罪。南方村兵作は家財欠所、網地浜へ流罪、清蔵と惣作は家財欠所の上、長渡、田代島に流罪。永井村首謀者も入牢の上7回の詮議を受け寛政10年離島へ配流。■関連する過去の記事 仙台藩領の百姓一揆(2010年10月10日) 三閉伊一揆を考える(2008年1月7日)■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から■奥州市サイト 百姓一揆
2010.10.10
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藩政時代の仙台領の百姓一揆のあらましは次の通り。(1)寛永6年 八島下野直訴 伊具郡耕野、川張、大蔵の3村は政宗が関ヶ原合戦の時、上杉方に属した白石城を攻撃した際に参加した野武士の居住した村で、村民は素年貢で永代御蔵入地たるべき保証を与えられていた。 しかし、寛永6年に3村が佐藤甚十郎の知行地に割り替えられたため、川張村の百姓八島下野が城下の大橋のたもとで政宗に直訴。割替は中止。(2)延宝3年 松川村農民訴訟 東磐井郡松川村の領主猪苗代氏の非違に対し、農民が連名で藩庁に訴訟。寛文6年頃から紛争が発生し、延宝3年に爆発。訴訟状は松川状として現在も地方の旧家に伝えられる。この後、猪苗代氏は転封されたが、訴訟がどう結着したか不明。以上2件は、郡村の支配関係の過程でおきた紛争であり、純粋な近世農村を成立させる途上の紛争。封建農民の傾斜期における一揆とは別個の意義をもつ。(3)享保9年 大平村農民騒擾 5代藩主吉村の中興政治に対抗して刈田郡大平村に起きた騒擾。吉村は停滞しがちの年貢や諸上納を厳重に取り立てた結果、多数の農民が役人を宿舎に襲い乱暴を働いた。 仙台藩で農民が集団蜂起した最初の事件である。(4)寛政9年 仙北諸郡一揆 天明飢饉で打撃を受けた農村も立ち直りはじめた頃、藩は買米政策を強化して農民の余剰米の収奪を計った。この時期に生じた仙北諸郡の蜂起は、仙台藩が体験した唯一の強力な一揆であった。(5)文政6年 菊地多兵衛直訴 阿武隈川洪水の被害と重課に困窮した伊具郡丸森町、小斎村の農民を代表して、肝入菊地多兵衛が藩主に直訴した事件。以上の3件は藩が財政を立て直そうとした過程の一揆。(6)嘉永年間 大迫村農民起訴 旱害に困窮した農民のため、志田郡大迫村の農民代表が領主茂庭氏の重課と肝入治右衛門の酷薄を仙台藩庁に越訴しようとした事件。(7)安政4年 四竈村一揆 加美郡四竈村の肝入良助が公金を着服したのに対し、山伏の良性院が指導者となり中新田町の大肝入に訴訟した。肝入に味方する農民も中新田にくり出し双方の争論となったが、良性院は早鐘をついて手段蜂起の手法をも利用した。(8)安静年間 佐沼及川東七ヶ村一揆 栗原郡佐沼郷及び登米郡川東7か村の農民が、大肝入の不正を鳴らして一揆を起こそうとしたが、大事に至らず鎮定された。(9)慶應2年 栗原郡三迫一揆 栗原郡若柳町の小昧農民百人が村内の平野神社に集合。一迫二迫の農民も蜂起し、総勢四、五千人が歎願20ヶ条を携えて仙台に押し寄せようとしたが、高清水の邑主石母田賢頼が一揆と会見し解散させる。(10)慶應4年 西磐井郡一揆 西磐井郡赤萩村に蜂起した農民は、大肝入大槻専左衛門の私曲を鳴らし、その勢は郡内に波及して鎮撫の役人を殺し、山ノ目町の大槻家を襲撃。代表者が直訴のため仙台に向かったが一ノ関で捕らえられる。殺人と破壊行動を伴った過激な一揆であった。以上の4件は、天保凶荒以降、藩政治が行き詰まり、農村も崩壊に瀕した時期のもの。さらに明治初年には、藩権力の崩壊直後の強力な蜂起が頻発した。○ 明治2年 西磐井登米両郡一揆 暴動○ 同年 登米郡佐沼13ヶ村一揆 暴動強訴○ 同年 江刺郡西方諸村一揆 暴動○ 同年 伊具郡島田枝野村一揆 蜂起強訴○ 明治3年 登米郡川西諸村一揆 蜂起○ 同年 東磐井郡小梨村一揆 暴動強訴○ 同年 栗原郡宮沢村一揆 暴動仙台藩の一揆は件数がきわめて少ない。真に一揆らしいものは、寛政9年一揆と、慶應2年の三迫一揆、同4年の西磐井郡一揆の3件だけである。■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から
2010.10.10
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昔むかし、将軍様の前で南部、津軽、佐竹、伊達の殿様方がお国自慢をはじめた。南部公は、我が城の真西に見える岩手山は南部富士として美しく国のどこからでも見える山でござる、という。じょっぱりの津軽公は、津軽富士なる岩木山の頂上に立てばエゾまで見るから、南部富士は目の下という訳ですな、とヒゲをなでた。佐竹公は、津軽富士はエゾまでしか見えませぬ。我が出羽富士鳥海山はエゾばかりかオロシヤまでも見えますぞ。津軽公も江戸に来るときご覧になられたはずじゃ、と津軽公をたしなめる。だまって自慢話を聞いていた伊達政宗公は、笑いながら、我が国には伊達富士とよぶ大きな山はござらぬが、青葉城の真西に面白い形の山がござる。海のどこからでも見えるので漁船の目印となり、山の色やかかる雲の様子で農民の仕事運びの目当てになるそうじゃ。エゾやオロシヤは見えるが領民全部に親しまれ頼りにされているこの山が、伊達藩自慢の山でござる、と静かに話した。城下ではこの山を太白山と呼び、名取の人たちは名取富士、おどが森と名付けて、政宗公のやさしさを語り伝えた。また、昔むかし、おいでにオトワという娘が居た。ある晩外で用を足していると、地鳴りがして目の前の森がむっくりとおがって(盛り上がって)、ついにはトンガリ山になっていく。オトワが大声を上げるとピタリと止まった。これを聞いた人たちは、もしオトワに見られなかったら富士山よりも高い山になったべな、と悔しがり、オトアモリと呼んだ。そこから、オドガモリ(生出森)と呼ばれるようになった。この山の頂上には、ゴロゴロした岩石で、むかし大男が腰掛けたという大きな一枚岩がある。大男は、岩に腰を下ろして、右足を高館の吉田の田に入れ、手を太平洋に伸ばして魚介を取って食っていた。ときどき村に出てきて、百姓の仕事を助けたが、秋の忙しいときには何百人分の稲束を運んだそうだ。■せんだいむかしばなし編集委員会『せんだいむかしばなし』宝文堂、1989年 (小野和子さんの執筆部分から)
2010.10.09
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岩隈さんはアメリカに行きそうだが、そのためか東北各地でクマが出没しているという。今年は8月までに1442件だが、既に青森以外の5県では昨年を上回った。喜多方では死亡例も。ドングリなど餌不足で里に降りてくるのだそうだが、クマに罪はないとしても、山に入るときには気を付けたい。ところで、大崎市のカンガルーはどうなったのだろう。最近聞かないが。
2010.10.08
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子どもと何気なくTV見ていたら、懐かしい場面をやっていた。リーグ優勝した1989年の近鉄。ブライアントの西武球場の3連発だ。あの日、僕は西武球場に行くかどうか本当に真剣に悩んだのだけれど、結局行かなかった。10月12日のダブルヘッダー。たぶんTVで見たのだろうか、敗色濃厚で近鉄のVは遠のいた、と思いながら所沢に向かった電車から引き返したように思う。アレ球場に行ったんじゃなかったのかという友人達に教えてもらったのだと思うが、何とブライアントの3連発で見事に試合をひっくり返した。3発目は、語り継がれている渡辺久信の痛恨の1球を打ち返した特大弾。すごい試合だった。前年の10.19ダブルヘッダーも伝説だが、89年も稀に見る混戦のリーグ最終盤だった。あんな強烈な助っ人。来季のルイーズには秘かに期待しているのだが。
2010.10.07
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こんなニュースがあった。鹿角市の北日本観光が同市と大館市の2つの自動車学校を今月で廃止する。社員22人は解雇。廃止されるのは、鹿角自動車学校と大館自動車学校。後者のホームページには、45年間の厚情に感謝しながら苦渋の決断を解説する告知文が出ていた。読んでいて、せつない気持ちになった。秋田魁新報によると、85年前後には両校合わせ年間2千万円から3千万円の利益があったが、少子化などで経営が悪化。2007年から年間約1千5百万円の赤字が続いていた。地域経済の観点から、自動車学校を分析したいと思っていた。少子化や高齢化を踏まえ、経営側も戦略を迫られるだろう。そもそも、市場規模としては人口3万の町に1つという感じだろうか。性格上、大都市に偏在とはいかないから(車を運転できない人のため)、過疎化が進んでも意外と「残る」企業ではないか。また、系列化の波と地元資本の拮抗具合などはどうだろう、などなど、勝手に考えていた。大館ほどの規模の都市なら3校はあるだろう。鹿角には他の学校が残っているのだろうか。そんなことを思いながら、時間があったら改めて分析したいと考えている。■関連する過去の記事 自動車教習所の大手 長井市のマツキ(東北の自動車学校)(2008年10月8日) 東北の合宿制自動車学校(2007年2月20日)
2010.10.06
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2日前から気になっている。ダルビッシュ、木村と並んで東北ビッグ3と称された。プロ2年目で先発するも打たれ、その後は報道もなし。今回カープは大幅に選手を放出するようだが、それにしてもまだ若いし、伸びる可能性はあると思うのだが。毎年この時期になると、スポーツ欄を見るのが辛い時がある。各球団の戦力外通告のニュース。それなりに活躍できた選手が30代で通告されるのなら、まだ本人もやり残した感覚がある半面として活躍できた実感があろう。しかし、思った活躍も果たせずに数年で球団に見限られた選手も少なくない。何年か前にドラフトや甲子園の話題を提供した選手が活字だけで登場するから、見ていて複雑な気持ちになる。今回ある球団では19歳の選手もいた。佐藤は、堂々カープの1位指名だ。もちろんそれに値する素質があったと思う。気になって秋田の新聞やテレビを探したが、特に報道もないようだ。本人の考えを全く知らないで勝手な思いだが、どうだろう、星野新監督とヨシコーチの下で、若いようで若くないかも知れない新しい1年間を、人生をかけるチャンスを与えられないだろうか。東北人おだずまジャーナルの、秘かな希望デス。
2010.10.05
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残念だけれども、岩隈には世界の舞台で活躍を期待したい。誕生したばかりのチームに初戦の勝利をもたらしてくれた、単にエースであること以上に新生イーグルスの中心であり、仙台・宮城の野球文化の象徴だった。羽ばたく以上は思い切りやってほしい。さて、来季の投手陣だ。勝手に考えてみる。先発の柱は、永井、田中、ラズナーに加えて、片山、青山、川井。中継ぎは、長谷部、山村、松崎、川岸。抑えはモリーヨと小山。青山はぜひ先発に戻してみたい。中継ぎで過去最高の成績が自信となって、10勝いけるはずの素質がいよいよ開花しそうな気がする。長谷部は何か自分を見失っている。中継ぎで、青山のように覚醒してほしい。それから、状態しだいで藤原、井坂が先発に食い込むようだと面白い。監督に星野の名がクローズアップ。出番のなかった藤井は岩隈渡米もあってかFA行使、さらに、使い方が悪かったのか大砲憲史もクビにしてしまって、ずいぶん陣容がかわりそうだ。どうなるのだろう、イーグルス。ところで、秋田商出身の広島の佐藤が戦力外だと。ダルビッシュや木村と同世代の東北の豪腕だ。何とか芽をだしてほしかった。残念です。
2010.10.04
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我が国の局地風を示したマップに記されていた。■関連する過去の記事 日本最大悪風の清川だし(2010年10月2日)生保内(おぼない)は、仙北市旧田沢湖町の中心部で、盛岡と秋田を結ぶ街道に位置する。県境の仙岩峠から吹きおろす東風は、当地の名物で、天正年間から生保内東風(おぼねだし)として唱われた民謡が「生保内節」として有名である。毎年9月に、生保内地区にある仙北市民会館で全国大会が開催される。生保内だしは、春に雪解けを促し、夏には病害虫を防ぎ、干天には慈雨をもたらし、秋には収穫物の乾燥を助けるなど、天与の宝風の一面もある。
2010.10.03
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山形県立川町(現庄内町)は、町を挙げての取組により、日本初の系統連系風車による発電を開始し、我が国の先駆的な成功例として風力発電の模範とされる地域である。(町のサイト)立川町は太平洋と日本海を結ぶ風の通り道で、「清川だし」と格闘してきた地域だ。清川だしは岡山県那岐山麓で吹く「広戸風」、四国山地を吹きおろす愛媛県伊予三島付近の「やまじ風」と並び、「日本三大悪風」として有名である。もともと日本は冬にはシベリア高気圧の北西季節風にさらされるが、年間平均で見るとさほど風が強いわけではない。ただ、山岳丘陵地を抱えることから、複雑な地形によって局所的に特別な風が吹く場合がある。この局地風は、日本海側で「だし」、太平洋側の内陸で「おろし」と呼ばれることが多い。(吉野正敏氏の局地風マップによると、東北関係では、「やませ」「生保内だし」「清川だし」が記されている。)旧立川町の場合、日本海の影響と山岳地帯を抱えることから海洋性気候と山岳性気候を示している。4月から10月ごろにかけて吹く東南東の強風「清川だし」は、しばしば農作物被害や大火を与え、人々からは恐ろしいもの、やっかいなものとして敬遠されてきた。清川だしは主に気圧配置が東高西低の時に発生し、新庄盆地にたまった冷気がおろしとなり、最上峡谷で収束、庄内平野に吹き出す。この風は春から秋にかけて吹き、4日に一度は風速10mを超え、春には早苗を押し流し、秋には稲穂をなぎ倒す。また、冬は逆に北西の季節風が強く「地吹雪」も発生する。全国的もまれな強風地帯。気象庁の統計データによると、狩川の平均風速(1979-2000)は3.8m/sである。近年では、2007年3.7m/sで、08年と09年が3.8だ。数字をみても実感が沸かないが、年間の平均風速は、仙台が3.4(1982-2000)、盛岡2.8(1975-2000)、山形市1.6(同)、酒田4.4(1984-2000)、大間3.1(1979-2000)、男鹿2.2(同)、などとなっている。結構格差があるものだ。しかし、人々を泣かせる強風も、エネルギーとして大きな力になる。旧立川町狩川の年間平均風速は、地上高40mで毎秒6.5mである。年による変動も通例3%程度で、風力資源としては安定していると言える。■牛山泉『トコトンやさしい 風力発電の本』日刊工業新聞社、2010年 ほかを参考にしました。
2010.10.02
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賃貸の情報誌を見ていたら、若林区の住環境の良いところに、それがあった。あんまり最近のマンションやアパート事情は知らないのだが、この物件は、4階建ての建物で区割りがメゾネットタイプ。1階が専用駐車場脇の玄関と洋間。2階はLDKで3階は洋間と和室と納戸。4階が洋間。面積は115m2というから、それこそ一戸建てに匹敵する。それにしても、4フロア連続のメゾネットとは、私が田舎者だからかも知れないが、存在を知らなかった。この記事には、ルームシェア相談、事務所相談、とある。たしかに、通常の住居として家族が使うには、不便な気がする。階段で適度に区切りをつけたルームシェアの利用は考えられる。また、1階と2階を事務所、というのも良かろう。ちなみに、家賃は11万円。
2010.10.01
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