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昨日、浴槽にある混合栓のハンドル内のゴムパッキンを交換した。我が家も20年。あちこち不具合があるのも仕方ない。しばらく前から、ハンドルを締め切っても吐水口から水が滴ることがあった。左の湯の方が、ガタついている感じ(ハンドルを回転させるとガクガクする感じ)がしていた。家人が締め切れずに水を出したままにして、浴槽が水であふれたことが2日ほど前にあったので、思い立って昨日、修理に踏み切った。素人考えで、ゴムパッキンの劣化で交換が必要になるのだろうと、まず考えて、分解だ。元栓と温水器の供給側パイプを締めて、作業。ハンドルの上の丸い部分(ポイントと呼ぶらしい)は、ねじり込んでいるのだと思って(ハンドルを押さえながら)一生懸命左に回してみたが、キャップのようにはめ込んでいるだけだった。カッターナイフを水平に差し込んだら、意外と簡単にはずれる。中には、湯水の通り口を開閉する核心部分であるスピンドルをハンドルに固定するための、ビスの頭が見える。これを慎重に緩めていくと、ハンドルが取り外される。スピンドルの軸の上半身が現れる。今度は、(もう上の画像ではわかりませんが、)ハンドルの下、水栓本体を覆っているカバーナットを、レンチで慎重に緩めて取り外す。すると、スピンドルを抜くことができる。その下部には、固定コマ(ケレップ)があり、ゴムパッキンを下から突き刺すようにネジで固定しているのだった。また、水栓カバーナットの裏(内部)にも、外部への漏出を防ぐためだろう、スペースを充填するように厚いゴムパッキンが詰められていた。このあと、ホームセンターに行ってパッキンを買い求める。合計428円。水栓ハンドル内のパッキンをえぐり出して、新しい物を詰め入れる。また、コマ(ケレップ)のパッキンも交換。分解したのと逆の手順で、スピンドルを差し込み、水栓カバーナットを締め付け、ハンドルを頭からビスでスピンドルと連結固定する。元栓と温水器給湯パイプを再開して、水と湯を出してみる。ハンドルを回すと、以前とは違い、軽くキュッキュッと音がする。そして、湯の方のハンドルのガタつきは完全に解消していた。ポイント(キャップ)をはめなおす。終わってからよく考えると、湯の方のハンドルとビスのゆるみが問題なのであって、ゴムパッキンが悪いのではなかったように思う。しかしまあ良かろう。実はこことは別に、洗い場の方は数年前に混合栓ごと交換したのだが(シャワー切り替えとシャワーホースなどもついて4千円くらいの格安のもの)、混合水栓を交換するよりはずいぶんと楽だった。夜になって、高校生の娘が浴槽に湯を入れる際に、アレなんか違うよ、と言う。そうだろう。気がついたか。
2016.04.30
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バスの車内広告で、かたい信用やわらかい肉、と銘打った肉屋さんがあった。上手い文句だなと感心する。創業50年、仙台牛の店。米ヶ袋の「肉のいとう」さんだ。広告にあるイラストマップで、あのバス通りの角のところだとわかる。たしかに昔からあった。学生の時分によく通ったし、新聞配達もしていて霊屋橋寄りのGSやこの付近に毎朝立ち寄っていた。たぶん、肉屋さんの並び(GS側)が、あの頃はパンプキンだったのではないかと思うのだが、違うかも知れない。片平の大学正門前から降りて突き当たる場所だが、その手前の左側(今は美容室さんのようだ)だったようにも思う。■関連する過去の記事(パンプキンと昔のコンビニ) コスモス(仙台)とエイトテン(石巻)があった時代-1983年の宮城のコンビニ事情(2005年11月16日) 仙台のコンビニ今むかし 「コスモス」を知りませんか?(05年10月12日)■関連する過去の記事(コンビニ事情など) 東北のコンビニ事情(2005年11月12日) セブンイレブンと青森県(2014年4月20日) 震災とコンビニ(2011年4月17日) 大型店販売不振 コンビニ躍進(2009年4月18日) 大手コンビニの店舗展開と東北(2008年8月16日)さて、あの頃の仙台の肉屋さんというと、思い出がある。自転車で行ったのか友人の車だったか覚えていないが、河原町から広瀬橋たもとのガードをくぐって、仙台バイパスの方向へ出ようとすると、若林四丁目交差点より手前の若林小学校付近に、「肉のマルハチ」さんがある。道路向かいが「しまむら」だ。つい先日、車でここを通ったときにも見たのだが、赤いテント地にはっきり「マルハチ」と書いていた。今は道もゆったり開けているが、あの頃は、道も狭かったのか拡幅工事中だったような気がする。店も今のような堅牢な建物ではなくて、小振りの店構えで看板もさほどくっきりしていないような印象がある。そして、その手書き感のある看板にはこう書いてあった。「肉のヌルハチ」。なるほどジンギスカンの繋がりで、遙かなる蒙古と満州の歴史を連想させる気の利いたシャレだと得心しかかったのだが、でも「マルハチ」にも見えるし、どっちなのだろうか。そんな迷いがあったので、記憶に残っていたのだろう。今思えば、ヌルハチとジンギスカンを結びつけた自分の発想がおかしい。私の経験史では、少なくとも30年数年は営業しておられることになるが、あの頃既に看板は古っぽかった(失礼)ので、こちらも50年の歴史を誇るのではないだろうか。広い構えの店舗からすると、外食のほか、卸しや配送なども手広く営業しておられるのだろう。自分は進歩がないが、町の肉屋さんは、時代が変わり人が移っても、しっかりと仙台を支えているのです。
2016.04.29
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鰺ヶ沢の「わさお」がニュースになった。NHKで流れたし、河北新報にも出ていた。17日に、ことしの観光駅長を委嘱されたという。ちょっと驚いたのは、年間15万人がわさおを見に訪れているという報道。15万人はすごいな。宮城県の場合だと、どの観光地に匹敵するのか。宮城県観光課のサイトから拾ってみた(平成26年のデータ。主要観光地点の入り込み数。)えぼしスキー場 174千人中山平温泉 161鳴子峡 181かっぱの湯(色麻町) 134日和山(石巻市) 147スポーツランドSUGO 193東北歴史博物館 142わくや天平の湯 167道の駅・路田里はなやま 151石ノ森萬画館(石巻市) 175南三陸さんさん商店街 188ところで、わさお君は、鰺ヶ沢町内の菊谷さんの店に住んでいると聞く。どうやって15万人を数えているのだろう。青森県のサイトで、青森県平成26年観光入込客統計をみる。観光地点別から拾うと、海の駅わんど 148千人とある。このデータがニュースの15万人の根拠ではないか。ちなみに、3年間の推移をみると、(H24)198千人 (H25)185千人 (H26)148千人と低下傾向。これが根拠だとすると、わさお君は常に「わんど」にいる訳ではないと思うが、いいのだろうか。たしかに、編集長が3年前にわんどに立ち寄ったときには、わさおの写真パネルがあった。(画像を掲げました)■関連する過去の日記 海の駅わんど、日本海拠点館(2013年5月28日)さて、青森県の統計から、編集長が訪れた青森の観光スポットの年間入り込み客数を拾ってみる。階段国道 129千人かそせいかやき村 143ウェスパ椿山 162尻屋崎 137キリストの墓公園 12義経海浜公園 18高山稲荷神社 114(チェスボロー記念公園はデータがない!)七引園地 8ビードルビーチ 5市浦地域活性化センター 9青森市森林博物館 12
2016.04.19
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断定の語である「~だ」の地域差をみると、大きく3つの地域に分かれる。(1) ~だ 東日本全域と鳥取、島根(2) ~じゃ 岐阜、近畿南部、中国、四国、九州(3) ~や 近畿これら断定辞は、すべて、「である」の変化形である。(1) である → るが脱落、さらにであ(室町時代に見られる)deaの母音eが脱落 → だ(2) であるの母音融合 dea(であ、室町時代) → dya → zya により じゃ(3) zyaの摩擦が弱まって濁音が消える → ya や(江戸中期に関西女性に広まる)(1)のだは、東日本と、島根・鳥取に分かれるが、これら2地域で上記の変化が起きたものと一般に考えられている。しかし、ズーズー弁も東北と島根県出雲地方(鳥取県西部含む)に分かれるため、断定辞の分布と関係があるかも知れない。西日本では、関西弁が周囲に広がりつつある。九州は本来じゃが優勢だったが、やの使用が増えつつある。原因や理由を表す接続助詞の「から」には、きれいに地域差がある。○ 共通語のからは、関東地方、東北南部、西日本の一部。○ 東北北部、津軽 はんで、はんて○ 近畿から北陸 さかい この「さかい」は俗説に物の境目に由来するというが(浮世風呂)、名詞が助詞の用法に変化する事例はあるので、否定できない。たとえば、東北で、助詞の「を」にあたる「とこ」がある。「鳥とこ捕まえる」。「とこ」は事(こと)の変化で、「鳥のことを捕まえる」の意味。 共通語の「から」も、「家柄」などの名詞「柄」に由来すると考えられている。○ 新潟県 すけ (← さかいの変化)○ 庄内地方 さげ、はげ (← 上がさらに変化。江戸時代に北前船が関西弁を運んだもの。) 用例:「雨降ったさげ(はげ)、行ぐなやめれ」○ 近畿南部 よって、よってに 「依りて」の変化でかつて関西全域で使われたが、さかいに押された○ 名古屋、鹿児島県 で 用例: 雨が降っとるで(名古屋) 雨が降っちょるで(鹿児島) 「ので」が変化したもの○ 静岡県は駿河がから、遠州がでだが、んてもわずかに見られる。八丈島や秋田県でも。 用例: 雨が降ってあろんて、行こわやめろ(八丈島)○ 富山県砺波地方 さからいで○ 長野県 に○ 西日本各地 からに○ 宮崎県東部 かり○ 種子島 からい○ 中国地方 けー (広島県:じゃけー)○ 西日本各地 けん(松江市)、かい(京都府)、かいに(砺波地方)、きに(高知市)■佐藤亮一『滅びゆく日本の方言』新日本出版社、2015年 からところで、上に勉強した中で、庄内地方のことばに「行ぐなやめれ」(行くのは止めろ)とある。あの食べれ降りれ用法は、やはり庄内か。すると、関西由来だろうか。しかし、以前の記事では(下記)東北日本海側と九州とあったので、逆に時代に取り残されたもの(周圏論)だろうか。はたまた、動詞の活用を統一化しようとする現代的な流れなのか。■関連する過去の記事 日本語の動詞の活用の今後を考える(2016年1月22日) 起きれ食べれ降りれ用法は東北日本海沿岸か(2013年1月26日) 食べれ!降りれ?(07年6月20日)
2016.04.13
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何となしに新聞の地方選挙の結果欄を眺めていた。日曜日(10日)の投開票の結果が並んでいる。詳しいことまではわからないから、現職が敗れたんだとか、元県議どおしの一騎打ちだったとか、あるいは都会は投票率が低いななど、想像をめぐらすしかできない。その中で、岐阜県下呂市長選挙の結果が気になった。新人が元職を破ったのだが、この55歳の元職の肩書きが元衆院議員。つまり、下呂市長と代議士を両方経験しているはずで、なおかつ、少なくとも改選時において市長ではないことがわかる。若い頃から公選のポストにあった人物だということになる。下呂市長選挙結果当選 服部氏(無新、自公推薦)12227次点 山田氏(無元)9753新聞の解説によると、序盤は8年ぶりの返り咲きを目指す山田氏がリード。自民のテコ入れで服部氏が形勢を逆転したという。山田氏は下呂町議を務めた後、岐阜県議選や衆院選に出馬して落選。2004年に誕生した下呂市の市長選挙で僅差で当選したが、08年市長選で敗退。09年の衆院選で民主党公認で比例東海ブロックで当選。最近まで民主党県連の役員でもあったので国政復帰も期待されたようだが、これを辞しての市長選出馬。実は、下呂市長選挙は注目される選挙のようで、当ジャーナルが4年前にも記事にしていた。■関連する過去の日記下呂市長選 過去最低の投票率が84%(2012年4月16日)このときは、宮城県の首長選挙に比べて高い投票率であることから、政治的な盛り上がりのあった選挙戦だったのだろうという観点で関心をもったのだった。今回の投票率は79.74%で、これでも宮城県民としてはずいぶんと高いと感じるのだが、下呂市長選挙では過去最低。
2016.04.12
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塩竈神社に桜を見に行ったら、今まで気にしていなかった看板に目がとまった。日本三大桜の説明だ。こう書いている。伊佐沢の久保桜(山形県長井市)和名 エドヒガン推定樹齢 1200年目通り幹周り 9.0メートル大正13年国指定の天然記念物。樹高13メートルで、現在は樹勢回復の処置が行われているのだそうだ。伊佐沢小学校の校庭から続く一角にあり、桜の回りには木道が設けられている。4月のさくらまつり期間中は、夜のライトアップも。(山形県ホームページから)他の二つは、根尾谷薄墨桜(岐阜県本巣市)と神代桜(山梨県北杜市)だと思ったが、ネットでさぐってみると、三大(巨)桜として、長井の久保桜ではなく三春の滝桜を数える見方もあるようだ。
2016.04.11
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塩竈神社の桜を見に散歩してきた。桜咲く新年度。新入生の皆さんは期待に胸ふくらませていることだろう。仙台第二高校の進路資料によると、今春の東北大学合格者は116(うち現役66)、東京大7(4)、京都大10(3)である。国公立医学科の数では、48(22)であり、昨春の35(12)から伸長し、一昨年の44(16)も上回っている。昨年は全国の公立高校で第5位に躍進したが、今回はさらに上がっている可能性がある。東北大学医学科だけでも23(11)となり、地域医療充実のために県教委が進めた医学部志望者の増加策も一定の成果を出してきているものと考えている。当ジャーナルの総力をあげて、東北の高校について、東北大学の合格者数を中心に拾ってみた。(2名以上合格の高校。なお、東京大学の合格者数がある場合は、東北大学合格者数に拘わらずすべて付記。なお、現役は合格者の内数。)高校名東北大学うち現役東京大学うち現役青森2723青森東32八戸252133八戸北221弘前211611五所川原33三本木44盛岡第一463896盛岡第三2522盛岡北33盛岡中央87宮古22水沢76福岡44久慈22大船渡55黒沢尻北87花巻北1615一関第一201844仙台第一80531仙台第二1166674仙台第三31251仙台二華12988宮城第一2114仙台向山55仙台南97泉32泉館山75宮城野33仙台青陵23162聖ウルスラ英智111011仙台育英32東北学院138東北学院榴ヶ岡31仙台城南22仙台白百合32宮城学院2石巻98白石85古川83古川黎明54古川学園119秋田433187秋田南2013秋田北33大館鳳鳴76大曲22本荘4421横手2423能代22湯沢43山形東4635106山形南108山形西22山形中央22米沢興譲館1312長井44酒田東42鶴岡南131021新庄北331福島403063福島東22橘106福島成蹊22磐城10611いわき秀英33安積201731安積黎明1110白河3222相馬1111会津951会津学鳳431まず、宮城県について。やはり顕著な特徴は仙台二華だろう。上の表には記していないが、京都大が4(4)となっている。仙台青陵とともに、中高一貫の卒業生が出始めたためだ。トップ校の浪人状況は相変わらずだが、個人が主体的に望む努力を高く評価して良いかどうかは評価が分かれるだろう。(この辺の論議は過去の記事をご参照下さい。私は個人の高い志は是としたいが、現役志望達成を目指さなくて良いとする学校側や卒業生集団の気風と、そもそも大学(高校も?)の序列を前提にしたような進路感を問題にしている一人です。)いずれにしても、客観的にみて、宮城県の場合は未だにこの気風が他県に比べて突出していることだけは指摘されよう。他県を見渡しても、中高一貫の成果であろう一関第一の躍進はめざましいし、会津学鳳などもその成果と言えるのかも知れない。ただし、三本木や古川黎明をどう評価するかは難しい気もするし、例えば先進県の秋田では御所野はじめ数校があるが顔を出していない。もっとも、中高一貫の理念がそれぞれにあり、学生・保護者側の期待がそれを支えて発展していく場合もあれば、創設の理念とは若干相違する場合などもあるだろう。もちろん一概に進学実績で評価してはならないとは思う。私学にはがんばってほしいが、仙台の場合は、伸び悩んでいるようにも感じられる。終わりに一言。大学合格だけを高校の評価尺度とみている訳ではない。先生や学友に出会って人生を学ぶこと、部活や多様な学校活動で、ひとりひとりが人間として多くの発見をすること、それが非常に重要だと思っている。ただし、進学校として生徒や保護者が期待するのであれば、人間教育とともに現役で進路を達成することを後押ししてくれる高校であってほしい。特に仙台・宮城では、学校側があぐらをかいてきたのではないかとの問題意識で、評論や提言を行っています。(いつも言っていることですが。)■関連する過去の記事 東北大学合格者数を比較する(2015年9月4日) 宮城県進学トップ高校の今はどうか(続)(2015年4月18日) 宮城県進学トップ高校の今はどうか(2015年4月13日) 宮城県進学トップ高校の状況は変わったか(2012年9月8日) 今春の各高校の大学合格実績 概略(2012年5月29日) 宮城県の高校の進学実績を考える(2010年11月20日) 宮城の県立高校の「現役」進路実現力を考える(09年8月25日) 宮城県の県立高校の進路実現力を考える(09年8月21日) 共学化の方針を堅持(09年2月5日) 県立高校共学化論議を考える(08年12月18日) 梅原市長の高校男女別学の主張を考える(08年11月13日) 高校の進学状況 福島県のデータ(08年8月3日) 宮城県の伝統校の進学力を考える 青森県との比較(08年8月1日) 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立高校の学区撤廃を考える(08年7月30日)(宮城県の方針) 宮城県立高校の男女共学化を考える(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2016.04.10
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ソフトバンクのホープ柳田は、元近鉄の柳田豊投手の親戚。いとこの子どもさんなのだそうだ。きょう知ってびっくりした。近鉄を支えた100勝投手。その踊るような投法を、学生の頃の私はよくマネしていた。非常によく似ているなどと評した友人達は、実際にTVで柳田のフォームを見たことなど無かっただろうが。すごい繋がりだ。元投手は、今は故郷の宮崎県で猟師をしておれらるという。
2016.04.10
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仙台は花見の季節。例年よりかなり早い開花で、北東北の満開も早まるのではないだろうか。桜で思い出すのは、3年前の連休空けの5月上旬、秋田・青森の海岸線沿いに走った弾丸単独ツアーだ。随所で桜が咲き、あるいは散りかけていたが、竜飛の風はともかくとして天候も穏やかで本当に思い出深い。桜で印象に残る風景のひとつが、これ。チェスボロー号記念公園。初日は能代、手這坂、十二湖、深浦、鰺ヶ沢などを足早に回り、日も暮れかけた津軽半島の海沿いでは、ベンセ沼を眺めて、日没の頃にここにたどり着いた。桜の名所とされているかどうかは解らないが、誰もいない夕刻の公園に静かに咲いていたのが思い出ふかい。青森の桜は、沿道沿いにかなり見たと思う。鉄道遺構を目で追いながら走っていた大畑のバイパス沿いの桜は、満開を過ぎていたが壮麗だった。芦野公園も良かった。小泊の街中でさりげなく咲いている桜もあった。■関連する過去の記事 チェスボロー号記念公園(2013年5月30日) チェスボロー号と青森・車力(2007年11月7日)いわゆる桜の名所ばかりではない。大昔や近い昔に誰かが植えた花が、毎年一度花を咲かせて、地域の歴史が今に続くことを教えてくれる。花は咲く。時はかならず巡ってくるので。
2016.04.10
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東北縄文時代人の顔つきは、列島の縄文時代人に広くみられる特徴を共通にもっている。○ 横に広く上下が低い顔○ 縁が角張って長方形の眼窩○ 盛り上がった眉間○ 深く陥凹した鼻の付け根と突出する鼻梁弥生時代以降の本州人骨(面長、眼窩の縁が丸い、平坦な顔面)とは明らかに異なる。四肢骨についても、○ 長い鎖骨○ 上腕骨や頸骨の骨幹部が扁平○ 下肢部分の比が現代本州人より大きいなど、後代の人骨とは相違する特徴がある。東北縄文人の平均身長は、男性158.1cmで、女性150.9cmと推定される(平本嘉助)。縄文時代人の地域差では、本州と九州では男性の場合ほとんど身長に差がないが、女性では、中部や中国地方(145から147)に比べて東北がやや高い(平本)。頭骨や四肢骨にみる地域差について。四肢骨長(身長と相関)と大腿骨頭の幅(体重と相関)には、緯度が高くなるほど体が大きくなる傾向がある(深瀬均)。ベルクマンの法則(同種の恒温動物では寒い地域の個体群ほど大型化する)が当てはまることを示す。これらは、(東北に限らず)出土の多数が集中する太平洋岸の貝塚人骨をもとにしている。出土例の少ない日本海沿岸地域の人骨にも注意を払うべきとの見解がある。青森県五月女萢(やち)遺跡や田小屋貝塚から最近見つかった人骨の分析が期待される。■阿子島香編『東北の古代史1 北の原始時代』吉川弘文館、2015年(うち澤田純明氏執筆のコラム部分)を参考にいたしました。
2016.04.07
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車のナンバープレートで、大阪と「なにわ」の違いを子に問われて、わからなかった。大阪ナンバーは大阪市の北の部分と大阪市以北、なにわナンバーは大阪市の南、大阪市以南の府南部が和泉じゃないか、などと適当に答えてしまった。子が言うように、「なにわ」は東北でもよく見かけるが、不思議と大阪ナンバーはあまり見ないような気もする。地域の関係はどうなっているのだろうか。正解は、「大阪」が府の北部。「なにわ」が大阪市域、「和泉」が府の南部で、さらにご当地ナンバー「堺」がある。かつては、大阪府は全体が「大」ナンバーだった。1964年に「泉」が登場し、83年に大阪市域が「なにわ」ナンバーとなった。(なお、「大」は64年に「大阪」に、「泉」は88年に「和泉」と表記が変更。)これら3つの地域標記は、陸運事務所や支所の管轄区域に対応するものである。今ではこれら行政機関は運輸支局や自動車検査登録事務所と呼ばれているのだが、その管轄区域毎に一つのナンバー(地名由来の標記)とするルールの例外として、2006年から、支局や事務所を新設することなく新しい地名を表示する「ご当地ナンバー」が登場する。自動車登録10万台以上が基準の一つという。大阪府の場合だと、○ 大阪運輸支局(寝屋川市)○ なにわ自動車検査登録事務所(大阪市)○ 和泉自動車検査登録事務所(和泉市)の管轄にそれぞれのナンバーが対応するが、和泉管内でも堺市に限ってご当地ナンバー「堺」があるということになる。さて、東北の場合はどうか。青森県は、かつて「青」だったが、1983年に陸運事務所八戸支所が発足以来、「青森」と「八戸」の2つの体制。なお、下北は八戸ではなく青森ナンバー。上北郡でも横浜町と野辺地町は青森ナンバーだ。岩手県。運輸支局は盛岡でなく矢巾町にある。「岩」が88年に「岩手」となるが、現在はご当地ナンバーが2つあって、盛岡と平泉。盛岡ナンバーは滝沢市や矢巾町も含まれ、平泉ナンバーは、奥州市、一関市などもエリア。宮城県では、「宮」のちに「宮城」一本だったが、ご当地「仙台」ナンバーが登場している。これは仙台市域のみ。秋田県は、「秋」が「秋田」となっているが、単一ナンバー県だ。山形県。79年に陸運事務所庄内支所が設けられ(現在の庄内自動車検査登録事務所。三川町)、おなじみの「山形」「庄内」の2ナンバー体制だ。福島県は「福島」に加えて、1988年に陸運事務所いわき支所ができて「いわき」が登場した。管轄はいわき市のほか、東白川郡、石川郡、双葉郡など。このほか、運輸支局本庁舎管内のご当地ナンバーとして、会津(会津若松市、喜多方市及び4郡。06年)と郡山(同市のみ。14年)がある。秋田のように全県一区のナンバーをもつ都道府県は、意外と多くて、18ある。秋田以外では、福井、富山、滋賀、京都、奈良、和歌山、鳥取、島根、徳島、香川、愛媛、高知、佐賀、熊本、大分、宮崎、沖縄。ところで、漢字1文字が原則だった頃は、宮城は「宮」ナンバーで、同じ「宮」の候補というべき宮崎は「宮崎」だった。他方で、山形と福島は「山形」「福島」だった。「山」は山口に、「福」は福岡に使われてしまっていたので、東北全体では1勝2敗だ。どうでもいいことなのだが。子どもの頃、まれな「山」ナンバーをみて、山形じゃないし、エッ!山口?と不思議な感覚を抱いたものだ。
2016.04.05
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葉山の草岡(長井市)から、鶴岡市旧朝日村の鱒渕までの約60kmで、朝日連峰の1600mを越える大朝日岳、以東岳などの両線を伝う険しい道である。戦国末期、会津と米沢周辺の領主となった上杉景勝の重臣、直江兼続は、離れた地にある自領の庄内との間を、他藩を通らずに往来できるように山岳道を整備した。修験者や猟師が歩いた道を改修したもので、軍道として重要な役割を果たした。葉山の草岡は、朝日連峰の南面の登山口(葉山ルート)である。葉山山荘まで3時間30分。さらに、大朝日岳までは11時間かかる。葉山までのぼる草岡コース付近のところどころに道幅の広さが面影を残している。■八嶋寛『南東北の山歩き』河北新報出版センター、2008年 から
2016.04.03
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■下記の記事に続くものです。 東北の旧石器時代(2016年3月6日) 東北の古代史(その2)縄文社会の成立へ(2016年3月28日)■阿子島香編『東北の古代史1 北の原始時代』吉川弘文館、2015年 を参考にいたしました。(関根達人氏の執筆部分)1 亀ヶ岡文化亀ヶ岡文化について ○ 3100年から2400年前の縄文晩期に、渡島半島から東北一円に展開した文化 ○ 名称はつがる市亀ヶ岡遺跡に由来 ○ 遮光器土偶など祭祀に関わる遺物、土器や漆器の工芸的技術で注目。 ○ すでに江戸時代から存在が知られる。 ○ (手間をかけた工芸品が壊れる前に捨てられていることから)祭祀や工芸に労力を注ぐことで、富の集積や社会の肥大化を未然に防ぎ、小さな社会を充実維持させるという、縄文文化全体に共通する文化の特質をもつ。文化の広がり ○ 亀ヶ岡式土器は文化圏外の九州北部でも出土している ○ 晩期前半の西日本には東北に出自をもつ人間が社会集団の一員をなすムラがあったと思われる ○ 晩期中葉には西日本から亀ヶ岡系土器が姿を消し、弥生文化が成立する板付1式期には、交換財とみられる装飾性に富んだ大洞A式古段階の土器が北部九州四国に確認される。 ○ 北海道では、逆に、晩期中葉の大洞C2式期に亀ヶ岡文化の影響が強まる。東北では北からの影響力は強くなく、津軽海峡を挟んで北への一方的な影響に終始する。 ○ 晩期中葉、亀ヶ岡文化の担い手は、従来の西日本の集団との関係を絶ち、進路を北に転じたとみられる。文化圏の地域性 ○ 精製土器が文化圏全域に斉一性を示すのに対して、煮沸用の粗製の鉢などは地域性があり、通婚圏に対応か。 ○ 土偶は岩手県を中心に北東北で多い ○ 岩偶(凝灰岩などの石を加工)は、岩手・秋田の北部と青森県に集中2 亀ヶ岡文化の集落縄文中期から後期にかけては、関東や中部校地では寒冷化で集落が衰退、晩期には、東北地方と西日本(九州中心)に繁栄の中心が移ったとされる。縄文晩期の人口密度は、東北地方が0.6人/km2で、列島で最高とされる。しかし、東北でも縄文晩期は後期に比べて遺跡数、竪穴住居跡の軒数ともに減少している。例えば青森県では、遺跡数は後期が最も多く、晩期、弥生、古墳時代と減少の一途。住居跡の数は、中期をピークに、後期、晩期と減少。後期は中期に比べ遺跡数が増えるのに竪穴住居数が少ないのは、集落規模の縮小と分散のためとみられ、立地場所は低地から山間地まで拡大。晩期遺跡は、河岸段丘上や山麓に立地する傾向にあり、晩期中葉以降は沖積地に立地する遺跡が増える(弥生の小海退により、低地や谷地が乾陸域化し稲作に適した)。晩期前葉から中葉にかけ、集落とは別の場所に大規模な集団墓地が営まれるケースがある。(拠点集落と小集落の結びついた社会モデルも想定されている。)竪穴住居は一般に堀込みの浅いものが多いが、直径は10m以上の大型もある。一方、掘立柱建物は正方形配列の四本柱が多く、六本柱(亀甲型)もある。掘立柱建物を平地式の住居とみる意見と、祭祀施設や倉庫と考えて住居は引き続き竪穴式中心だったとみる意見が対立し、いまだ決着していない。新発田市青田遺跡では、亀甲型の掘立柱建物で構成される晩期末葉の集落跡が発見され、柱根の年輪年代学的解析から、一時期の集落規模は8から9棟と推測されている。福島市宮畑遺跡では、四本柱の掘立柱建物が環状に配され、その外側に埋甕群や土坑墓が配置される晩期前葉から中葉の集落群が発見されている。青森市上野尻遺跡でも、合計35棟の堀立柱建物が環状にめぐる後期後葉の集落。五所川原市千苅(1)遺跡では、晩期中葉に属する大型住居跡で、堀立柱建物群が環状に広場を囲んでいた可能性がある。これまで、亀ヶ岡文化の集落は1から3程度の竪穴住居の小規模集落とイメージされたが、堀立式建物を含めて考えると、環状集落の伝統も存続していたのではないか。3 経済活動について戦後のマルクス主義歴史学のもと、縄文から弥生の変化を、狩猟採集社会の行き詰まり(縄文社会食い詰め論)とそれを解決するための農耕の導入の図式でとらえる前提で、亀ヶ岡文化は、将来において発展する内在的な力を失っていると評され、西日本が原始農業に振り向け始めた労働力を土器や石器の製作に費やしたために工芸的な発達を遂げた、と説明された。たしかに、亀ヶ岡文化は生産、技術、物流のどれをみても後期に確立したものを革新するような発展はみられない。晩期の石器や骨格器は基本的に後期と同じで、それらを用いる社会の経済的基盤に大きな変化はなかっただろう。ただし、晩期には石鏃、石錐、石匙などに対して石皿や磨石の割合が低くなることから、動物質食料の比率が高まった可能性がある。漁労については、後期後半に大きな画期が想定される。すなわち、後期中葉には内陸河川や湖沼での網漁が活発化するとともに、太平洋沿岸で骨製の刺突具(ヤス)による刺突漁業が盛行。後期末葉には、離頭銛が発達し外洋性漁労が活発化。晩期には北海道で開窩式離頭銛や組み合わせ式釣り針が盛行し、三陸沿岸では閉窩式離頭銛が発達し、両者の分布は青森で重なる。土器製塩は関東にやや遅れ、仙台湾や三陸沿岸で後期末頃から始まり、晩期中頃には陸奥湾沿岸にも波及。交易品として容器ごと広範囲に流通している。縄文後期の寒冷化により、落葉広葉樹林の東日本では植物質食料の主体が、クリから低地で増加したトチノキに変化した。トチの実はタンニンやアロインの苦みに加えて有毒性のサポニンが含まれアク抜きを要する。灰と一緒に煮るか水にさらす。東日本の縄文の水場遺構の多くは後晩期に集中しており、トチ塚と呼ばれる種皮片集積遺構を伴うものも多い。亀ヶ岡文化では、是川中居遺跡、寒河江市高瀬山遺跡で発見されている。クリやトチなど堅果類の貯蔵穴は、東日本では主として台地や丘陵上から、西日本では低湿地から多数発見される。東北では、晩期の貯蔵穴は後期以前と比較して小型が多く、居住域から離れた例が増える。寒冷化に連動して後晩期の縄文人は、多角的な植物利用を促進させ、それが弥生初頭のイネなどの穀物栽培の基盤になったとする見解も登場してきた。是川中居遺跡では、居住域周辺のクリ林を、開析谷や河畔にはトチノキ林やオニグルミ林を配置するなど、縄文人が人為的な生態系(里山)を作ったとの仮説も提示されている。亀ヶ岡文化に栽培植物があったかは議論が分かれる。籾圧痕土器が決め手とされてきたが、近年、圧痕を電子顕微鏡で精査する種子同定が可能となり、従来籾圧痕とされたものが否定されるケースが増加。青森県南部町剣吉荒町遺跡(晩期末葉)は再検討が迫られ、亀ヶ岡沢根地区は籾殻が11から13世紀とされた。今のところ、確実に亀ヶ岡文化に伴うと断言できるコメは存在しない。コメ以外では、是川中居遺跡の晩期前半層からヒエ属などの種子が出土との報告があるが、DNA分析などにより栽培種かどうか検討が必要。4 食性人骨のコラーゲンの炭素窒素同位対比分析で、縄文人の食生態の地域差が指摘されている。亀ヶ岡文化では、青森、岩手、宮城、福島の貝塚から出土した人骨では、晩期縄文人はドングリなど植物と海生魚類の双方のタンパク質を摂取していた。一方、文化圏北端の洞爺湖町高砂貝塚の晩期縄文人は主としてオットセイなど海生哺乳類からタンパク質を摂取。5 交易晩期には装身具として海産の貝類魚類(サメの歯、ベンケイガイなど)が内陸部にかなり流入。産出地の限られる天然アスファルトは遠隔地まで運ばれ、後期から晩期に著しく使用量が増えている。活発な交易が想定される。下北半島の不備無遺跡では、食料資源と石器素材の大部分を遺跡周辺から調達し、生活圏外からは原産地が限られる天然資源が持ち込まれていることが明らかになった。すなわち、半島内で10km離れた場所からは石剣や独鈷石などに使われた石材を調達し、津軽半島からは赤色顔料として今別町赤根沢産の赤鉄鋼を、外ヶ浜町蟹田産の可能性がある天然アスファルトを、海峡を隔てた北海道からは十勝産や赤井川産の黒曜石と水銀朱(土器の赤彩に用いる)を調達した。ここで、食料など日常品を遺跡周辺で調達するのに、陸奥湾を隔てた津軽半島にしか分布しない土で製作された土器がみられたのは意外である。土器の移動の常態化を示唆か。6 社会と精神性祭祀遺物では、縄文後期に北東北から北海道南部に展開した十腰内(とこしない)文化で多様性が開花し工芸的な発展を遂げている。十腰内文化は、環状列石、石棺墓、再葬土器棺墓など、施設が非常に発達した。この大規模配石記念物での共同祭祀が、亀ヶ岡文化に引き継がれた。すなわち、弘前市大森勝山遺跡では、晩期前半に大型環状列石と大型竪穴住居跡1棟が発見された。おなじく晩期前葉の北秋田市向様田遺跡群では、土坑墓や環状配石遺構などが検出されたが竪穴住居跡はほとんど検出されていないことから、小又川流域の小規模集落の人々による共同葬、祭祀が行われたと推測される。副葬品の有無の差が明確な上、副葬品を伴う子どもの墓が多いことから、世襲制による固定化された階層化社会を想定する意見がある。しかし、古墳に納めた石製模造品のように副葬のために作られたもの(明器)や、古墳に副葬される威信財(玉、鏡、剣など)もなく、過大評価ではないか。縄文文化の終焉は弥生文化の成立と合わせ論じられるが、亀ヶ岡文化の場合、弥生文化だけでなく、水田稲作を欠く続縄文文化との関係を視野に入れる必要がある。水田稲作は弥生前期に本州北端まで北上したが、北海道で本格化するのは2000年を経た19世紀とみられている。東北最古の水田跡が検出された弘前市砂沢遺跡出土を標識とする砂沢式土器(東北地方最古の弥生土器)が北海道でも発見されるように、弥生時代に入っても本州と北海道の交流は続いている。また、弥生時代より冷涼な江戸後期に松前藩がしばしば稲作を試み年によって成功している。つまり、道南の続縄文人は稲作をできたにも関わらず行わなかったのである。恵山文化(続縄文時代前期、北海道南西部)では、豊富な骨格製漁労具や人骨コラーゲン分析から、生業に占める海獣漁の比率が高いとみられる。本州との交易を視野に入れ、弥生人が水田に注いだ労力を狩猟や漁労に注いだのでないか。続縄文土器が出土する東北地方もまた、恵山と同様に、狩猟や漁労に半ば特化していたのでないか。弥生土器は、朝鮮半島から西日本を経て製作技術を受け入れて、各地の縄文土器づくりとミックスされてできた。東北では、亀ヶ岡式土器の技術や土偶祭祀が米作りを始めた後も引き継がれる一方で、高度な漆技術や天然アスファルトなど遠隔地交易は影を潜める。手間暇かけて製作したデザイン製に富む亀ヶ岡式土器や漆器を壊れる前に廃棄する行為は、合理性では説明がつかず、これらを作り上げる行為が重要だったと思われる。この「遊び」を発達させて集団内外の関係を維持した亀ヶ岡文化は、縄文文化の本質が濃縮された究極の縄文文化と言えよう。水田稲作の導入で、遊びに替わって富が関係を規定する新たな原理となっていったのでないか。
2016.04.02
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