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仙台四郎は、いつどこで亡くなったか。これは誕生同様に諸説がある。大沢忍さんの著作には、明治35年に須賀川市内で死去、47歳とあるが、死亡の原因や様子は記録になく、それ以上生きたとの風説もあるとされている。粟野邦夫さんによると、明治36年に四郎は先代を離れて釜山港を漫遊中との新聞報道があり、一説には、明治42年に9月29日に、アジア大陸で死亡したとも。これだと享年56歳になる。義経のジンギスカン伝説にも似て、それだけ四郎をひいきにする人が多かったからか。このほか、大正の初めに34か35歳で死亡したらしいとするものもある。四郎が櫓下四郎と呼ばれたのは、近所に火の見櫓があったからで、その櫓も明治の初めに取り壊されており、四郎の誕生時期との整合性はないとの見解もあるから、墓も定かではない。■石澤友隆『流行歌「ミス・仙台」-郷土・仙台の近現代史散歩-』河北新報出版センター、2005年 から■関連する過去の記事 仙台四郎の話(2006年3月10日)
2016.06.30
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昭和53年の宮城県沖地震の際の、市民の体験記を読んでみた。その時、職場でどう苦労したか、町のようすはどうだったか、あるいは家庭や学校ではどうか、被害や救出の始終などの生の姿と、体験者として何を今後に伝えたいか、など。率直で等身大の体験集は非常に大事だ。後世に読み返して価値が増すと、まさにその後世の時点でそう思う。■仙台市総務局防災対策室『震度V-'78宮城県沖地震体験記集-』宝文堂、1982年災害は不可避だし、さほど制御できないが、だからこそと言うべきか、事実そのものと人やまちがどう関わって行くのかについて語り継いでいくことは重要だ。個別の事柄は、体験記集の中にそれこそ宝のようにたくさん詰まっていると思う。
2016.06.29
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先日、河北新報に載っていて軽い衝撃を受けた。昨年末に開業の地下鉄東西線は、日本一の標高を誇る(?)八木山動物公園駅の手前で、竜の口(河北の表現)渓谷を橋で渡る際に一度外の空気を吸うのだが、この橋は「2階建て」で、下は地下鉄電車が走り、上には道路橋が整備されているのだ。工事費55億円の内訳は車道32億円、東西線23億円で、効率化のため一体化して架橋したとのこと。上下式の併用橋とは、知らなかった。記事が解説するのは、都市計画道路計画がたどっている経過だ。都市計画道路の川内旗立線は、川内亀岡町から、3つのトンネルと、この竜の口を渡る橋を経て、太白区ひより台、旗立に至る。しかし、仙台市では事業着手時期は未定とする。市中心部へのアクセス向上で期待された道路だが、東西線開通もあり地元の熱意は冷めつつある。その上、渓谷一帯はオオタカやハヤブサが生息するため自然保護団体の反対もある。八木山地区の地元では、現在はむしろ、青葉山と八木山を結ぶ散策路としての橋の活用を市に提案しているという。川内旗立線と聞くと、若い頃に見聞きした仙台の道路の環状と放射状にめぐらされたネットワークを想起する。南小泉川内線といっしょになって、国道4号や北環状線よりも内側の都心部をまわる道路だったと受け止めている。当時できていた「宮城の萩大通り」や、数年前に伸ばされた台原から安養寺・ガス局へ至る道路が、それを構成している。青葉山や八木山の方面では、川内旗立線が、昨年できた(かつて幻の橋とされた)ひより台大橋で格段に通行が向上したが、計画では、川内亀岡から動物公園までは工学部の下をトンネルで抜けることになっている。仙台市は2010年6月に、都市計画道路網の見直しによる「新たな幹線道路網(案)」を定めている。評価の結果として、継続候補と廃止候補に仕分けをしているものだが、市のサイトでマップと合わせて、具体的にどの路線が該当するのかが、その理由とともに示されているので、わかりやすい。この資料をもとに、当ジャーナルの主観による「主な」路線が、どう評価されてどう位置づけ(継続か廃止か)られているのか、拾ってみたい。【環状系の道路】● 川内旗立線 未整備の、工学部、ひより台-旗立の両区間とも、継続候補。幹線道路としての連続性が重視された。ただし、後者の区間は、旗立保存緑地と基準を超える縦断勾配が課題とされている。● 川内南小泉線 川内-国見の区間1.7kmは、八幡と川内駅のアクセス、国見地区の幹線道路の必要などから継続とされる。他方で、国見-台原の区間は、トンネル構造のため北仙台駅にも北山トンネルにもアクセスできないという理由で廃止候補とされている。しかし、これは計画の考え方自体を否定することになるから、おかしな理由だとも思う。旧国道4号の西側部分で、確かに反対運動もあったとは思うが、結局、「環状」線としての完成は断念したようだ。● 鶴ヶ谷国見線 旧4号の北根3丁目交差点から西に東勝山や桜ヶ丘の下(北四番町大衡線タッチ)までは完成、また北根交差点から東に南光台小学校あたりまでは整備済み。未整備の区間のうち、西の桜ヶ丘、中山区間は混雑緩和のため必要として継続、しかし更に西の中山-国見の区間は、国見駅との直接のアクセスにならないなどの理由で廃止とされた。東の未整備区間である鶴ヶ谷区間(4号バイパスまで)は継続。● 鶴ヶ谷仙台港線 上記の鶴ヶ谷国見線の鶴ヶ谷区間(未整備)と接続して、4号バイパスから宮城野大橋で七北田川を越え、国道45号を立体で越えて仙台港に至る。未整備区間は、45号バイパスからの利府街道までの岩切地区で、パークタウン流通工業団地と仙台港を結ぶ産業活動を支えるため継続としている。● 六丁の目鶴ヶ谷線 六丁の目から新田を経て鶴ヶ谷に至る道路。鶴ヶ谷団地の南側は整備済み。また、新田のあたりも整備されたが、未整備部分のうち、小鶴、燕沢などの区間は廃止、自由ヶ丘は混雑緩和に寄与のため継続との位置づけ。● 上杉山通東仙台線 北仙台駅から、台原、小松島、幸町を経由して東仙台駅までを東西に結ぶ。そのほとんどが、他の路線で交通需要に対応できるなどとされて廃止候補に。● 東仙台南小泉線 東仙台駅付近から南下する路線。新田や自衛隊の中を縦断する区間は、廃止とされた。【放射系の道路】● 仙台駅旭ヶ丘線 錦町から台原に北上して旭ヶ丘駅に至る。大半を占める台原中学校付近以南の未整備区間は、廃止候補に。● 定禅寺通上田子線 錦町から東に延びて、国道45号とJR東北本線に挟まれる形で並行する形で、新田、田子大橋に至るもの。新田までの区間はすべて廃止とされた。● 向山富田線 緑が丘、西の平、西多賀を経由して富田に至る。八木山団地群を南北に縦断するものだが、構造やコストなどを理由に、すべて廃止候補としている。なお、この仙台市の資料には、優先度の高い路線・区間として、今後20年以内の着手を予定するものもリストアップされている。● 郡山折立線(環状) 未着手区間を挙げている。中でも最長の青葉山区間3.5kmは、八木山南地区から一気に仙台宮城IC南側に出る路線。● 川内南小泉線(渋滞解消) ガス局交差点から、坂下交差点を経て銀杏町まで。救急機関、産業活動などを理由に継続とされているところ。● 宮沢根白石線(環状、放射状) 国道45号から中江、小松島を経由して、南光台まで北上する区間。約4.5kmくらい。骨格的な幹線とされている。● 原町広岡線(概成済み、区画整理関連)● 向山常盤丁線(概成済み) 市民会館から大学病院前までの区間。
2016.06.26
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前回(下記)に続く記事です。■石巻殺傷事件の実名報道を考える(2016年6月16日)新聞や放送メディアが、死刑判決確定を契機に実名報道に転じたことに、どうも割り切れない感覚を持っていたが、『週刊新潮』(6月30日号)が解説している。これまでも少年事件について実名報道をしている同誌の立場から、一律横並びで思考停止に陥っている大新聞各社を批判するもので、紹介されている識者のコメントを含めて、大変興味深い。そのポイントは以下のようだ。------------毎日新聞と東京新聞を除いて、大新聞はすべて実名で報道。これまで少年法を錦の御旗にその不備を批判してきた大新聞が、他方で死刑確定を理由に自ら少年法の壁を乗り越えているというのは奇妙であり、矛盾だ。非常に冷酷な犯行であり、(新潮としても)実名報道は否定しないが、問題は、各メディアが横並びで同じ対応をすること。その理由は何で、それは妥当なのか。〔おだずま注:読売も実名報道。前回記事で当日の読売ネット版は匿名と書いたが、翌朝の紙面ではやはり実名報道で、実名とする理由が添えられていた。〕高山文彦氏(作家)〔おだずま注:高はハシゴ〕・(氏はかつて堺市シンナー少年通り魔事件で、『新潮45』で実名報道を行い、少年からプライバシー権侵害で訴えられ、勝訴している。)・少年の生い立ちや生育暦を調べた上で事件の重大性を考慮して実名を報道するのならわかる。・しかし死刑確定だから出すというベルトコンベヤ式では、事件や犯人そのものをみて判断しておらず適切でない。田島泰彦氏(上智大学教授)・メディア本来のあり方は、死刑確定かどうかは実名報道に関係ない。・その犯罪が重要で実名を知らせるべきと思えば、報じれば良いこと。・死刑判決あったとか更生可能性なくなったという理由で画然と実名にするのは、あまりに機械的。思考停止だ。高橋正人氏(犯罪被害者等支援弁護士フォーラム(VSフォーラム))・今回の実名報道は加害者の立場に偏り過ぎている。・更生可能性を考慮し、それがないから実名に踏み切った。・一方で、被害者にはそれだけの配慮したか。・2004年に犯罪被害者等基本法が成立。・この事件でも加害者の名を出す慎重さに比べて、被害者は何も論じられることなく名を出されていた。・加害者こそ実名にすべきで、被害者は匿名にして欲しい。元少年の犯行は、氏名や更生のレベルをはるかに超えている。いまさら社会復帰の可能性を論じること自体、滑稽だ。まして死刑確定したから実名との理由に至っては、死刑囚が国家の犠牲者であるとのスタンスすら言外に伝わってくる。加害-被害認識の転倒ぶりが感じられる。そもそも少年法61条には、死刑確定したらとの規定はない。つまり、新聞社は独自の法解釈で実名報道しているだけ。では、これまで同種の判断を行ってその都度実名で報じた媒体に対しては、彼らはどう論じているのか。〔おだずま注:実名報道した新潮に対する各紙の論調ということだ。〕堺市事件に対する各紙の論調(1998年2月)・ひとりよがりな法への挑戦(読売、社説)・あざとい言い分。法律の規定を勝手に曲げて更生の芽を摘む権利は誰にもない(朝日、社説)・少年法に反し容認できない(産経、主張)各紙とも法に触れる〔ママ〕こと自体が悪いと言わんばかり。一方では自ら同様のこと〔おだずま注:結局実名報道していること〕しているのだから、ご都合主義だ。石巻の件では、毎日と東京が匿名を続けている。更生に向かう姿勢があること、再審や恩赦の可能性、を理由としている。何が何でも少年法墨守の姿勢は首肯できないが、少なくとも論理の一貫性はあるだけ骨がある。徳岡孝夫氏(元毎日新聞社会部)・1958年小松川高校事件が典型だが、かつて新聞社は未成年容疑者でも、場合により、逮捕時から自らの判断で実名報道した永山事件では、多くの新聞が逮捕時から独自の判断で実名報道。浅沼委員長刺殺、中央公論社長宅襲撃では、死刑にする案件でもないのに実名を用いた社もある。しかし、80年代にはこの流れは消え失せ、少年犯罪はほぼ匿名になった。・市川一家4人殺人(1992)→ 逮捕、刑確定を通じて匿名・大阪愛知岐阜連続リンチ殺人(1994)→ 毎日、東京以外は、横並び。死刑確定時に実名。・光市母子殺害(1999)→ 同上。・今回の石巻事件も。死刑確定時に実名が一般化。田島教授は「少年法にメディアが違反すると抗議され、裁判で損害賠償の対象にもなりうるから、実名で報じない。報じるとしても死刑が確定してから、という面倒を回避する発想に向かっているのでしょう」という。名前を消したり出したりの「人権遊戯」。思考停止、ご都合主義、事なかれ主義だ。------------ところで、朝日新聞は昨日、この元少年と記者が面会したとして記事にしている。「死刑は予想して、納得もしている」。実名報道したことについては、「国家によって生命奪われる刑の対象者は明らかにすべき。被害者にとっては少年でもおじさんでも同じだ。ただ、自分の家族に困ることがあるかも。」と語ったという。
2016.06.25
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国見峠は仙台市と宮城町の境で、標高220メートル。市営バス大石原行きか仙台高校行きを利用する。仙台高校前の次のバス停の弁天前あたりから宮城町芋沢地区になる。峠の付近には仙台統制無線中継所の直径6mのパラボラアンテナ3基がある。ジュラルミンの反射光を放つ。これは、電話やテレビ極超短波の送受信用。また、巨大な仏舎利塔ももえる。道ばたの崖下の若い松林の中に、赤い鳥居の弁天堂の祠がある。江戸中期の黄檗宗臨済院の跡といわれるが、いまは廃寺となり、小さな堂宇が残るだけ。桜の咲く頃地元民が賑やかなお祭りをする。泉ヶ岳、七ツ森、船形連峰、仙台市街、名取耕土、仙台港の東北石油の大煙突に水平線などの眺望の雄大さ。国見の名のゆえんだろう。芋沢から仙台市半子町に通じるこの道は、昔の芋沢街道の馬道で、仙台高校裏手の足元の定まらぬ旧道に、数基の馬頭観世音が並んでいるのが印象的である。■以上は、仙台放送『仙台八十八景』宝文堂、1977年 を読んで記しました。
2016.06.21
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鈴木重雄(1911-1979)は唐桑町鮪立に生まれ、ハンセン病回復者の社会復帰に尽力した。回復者の社会復帰にさまざまの問題を抱えていた中で、患者であった鈴木は地元に戻り受け入れられ、高度成長期の漁業の町を、地域振興や障害者政策などで大きく変える力となった。■松岡弘之「ハンセン病回復者の社会復帰と宮城県本吉郡唐桑町」 荒武賢一朗編『東北からみえる近世・近現代-さまざまな視点から豊かな歴史像へ-』(岩田書院、2016年)所収(本文中は敬称を略しております。)鈴木重雄は東京商科大学在学中にハンセン病を発し、1936年、岡山県の国立療養所長島愛生園に入る。田中文雄の名で入所者の処遇改善のため自治会活動を支えた。隔離政策への反対運動にもかかわらず、隔離を継続し退所規定ももたない「らい予防法」が制定され、鈴木自身も自殺を図り一命を取り留めるが、その後は個人の立場からハンセン病に関する啓発や社会復帰に関心を寄せるようになる。戦後日本のハンセン病問題は、プロミンの登場などで転換を迎え、1953年の経口薬DDSの開発で外来治療の途が開かれる。昭和24年から50年にかけて3357人が療養所を後にした。また、療養所にいながら園外の高度成長期の建設労働に従事した人も多かった。しかし、住まいや仕事の確保、再発リスクや社会の視線などの複雑な問題について、社会復帰策は不十分であった。鈴木は、全国ハンセン氏病患者協議会(全患協)や藤楓協会(旧らい予防協会)、社会復帰研究会などの活動に関わっていく。藤楓協会の浜野規矩雄は、昭和15年に浜野が軍事保護院課長として愛生園を訪問した際に鈴木と面会しているが、その後、厚生省予防局長を退職して藤楓協会理事長となって、再び鈴木と浜野の関係が続いていく。退所者の増加は、それまで入園者の作業に依存した療養所の存立基盤にも影響したことから、療養所のあり方も検討された。昭和38年の東京YMCA会館でのハンセン病回復者宿泊拒否事件、昭和39年の簡易宿泊施設「交流(むすび)の家」建設建設反対問題などに際して、学生達とも交流を深めている。故郷との再会は思いがけない形で訪れた。気仙沼湾は昭和23年に県立自然公園に指定されており、市や唐桑町はこれを陸中海岸国立公園に編入させる陳情を行っていたのだが、厚生省の国立公園審議会で追加指定は見送られていた。地元の市町の陳情先のひとつが、国立公園審議会委員でもある浜野規矩雄だった。浜野を訪ねた鈴木が市長や町長の名刺を目に留めたことで、鈴木ははじめて唐桑出身であることを浜野に明かし、編入問題を知ることになった。巻き返し方法を尋ねる鈴木に、浜野は知恵を出し、鈴木は景観調査のために、自身は二度と訪れることはないと考えていた故郷を27年ぶりに訪れるのである。それ以降、鈴木は田中文雄を名乗って、気仙沼市長に陳情方法などを助言、昭和38年5月、審議会委員による御崎・巨釜・半造など景勝地の視察を実現させた。その結果、翌年6月1日、唐桑半島は陸中海岸国立公園に編入が決定する。いったんは否決された要望に再審査の途が開かれて編入が実現したことについて、市長が浜野に礼を述べたところ、浜野は陰の功労者である田中が実は唐桑町出身のハンセン病回復者鈴木重雄であると明かした。昭和39年8月4日、気仙沼市で開催された国立公園編入記念の祝賀会に、鈴木は鈴木重雄として招待され、翌5日には唐桑町で浜野とともにハンセン病に関する講演会を開催した。会場の公民館には100名以上がつめかけ、浜野や鈴木は懸命に取り組んできた社会復帰運動の結実を実感した。(同じ鮪立地区に生まれた村上正純(後出)は、かつて地区に患者がいたことを知っていたこと、過去の病気や後遺症よりもスケールの大きな鈴木の言葉に惹かれたこと、発汗障害のため手ぬぐいで汗をぬぐう鈴木のさま、などを2013年に証言している。)昭和40年に東京で開催された汎太平洋リハビリテーション国際会議で鈴木はハンセン病回復者として初めて日本代表に推され報告を行い、かつて大学ボート部員として接した東京都の東知事とも再会。ところで、国立公園とさらた観光資源を唐桑町の産業として活かしていくために、鈴木は個人の立場で宿泊施設の整備を町に持ちかける。しかし、町は過大な財政負担を理由に慎重な姿勢でいた。一方で、丘陵地で水源に恵まれない地域からは上水道整備の要望も出されており、各家庭で水瓶に水をためるのは女性や子どもの仕事だった。そこで、鈴木は、国民宿舎をあえて半島突端に設置し、施設営業に不可欠なインフラとして上水道を敷設する構想を練り上げる。浜野(昭和41年死去)の後任の藤楓協会理事長となった元厚生省環境衛生局長の聖成稔であった。聖成は鈴木の活動を後押しし、昭和43年2月、国民宿舎からくわ荘が1億8千万円を投じて建設され、同年10月竣工。また、総延長30kmで町内12地区1万人を対象とする上水道は昭和44年度から3か年継続事業として昭和45年10月に竣工。総工費は3億5千万円に達した。いずれも国の長期低利融資を獲得して実現された。昭和44年には藤楓名誉総裁の高松宮が、からくわ荘を訪問。回復者が後続を案内して会食するということは地域におけるハンセン病問題の啓発と、鈴木の力量を印象づけるできごととなった。その後も、昭和46年の船員保険保養所「南三陸荘」の定員拡充(80名で日本最大規模。船員が次の出港まで家族と宿泊する施設)、気仙沼し尿処理場、昭和47年には気仙沼港の検疫出張所設置の決定(出漁時の予防接種や帰港時の検疫など、これまで大船渡や塩竈の検疫官の出張を待つ必要があり不便だった)、など鈴木の貢献は続いた。検疫出張所の件は、昭和45年にはじめて宮城県に陳情を行ったが、県は当時仙台新港への検疫所新設を計画したためか厚生省への取り次ぎを保留していたため、直接厚生省に働きかけ、検疫課長が後にらい予防法廃止を打ち出す大谷藤郎であったことなど、鈴木の厚生省に対する交渉力が武器となったものである。また、鈴木の力に目をつけたダイキン工業に招かれ、昭和46年4月鈴木は同社の顧問に就職する。唐桑町の船主たちはダイキンの冷凍機を次々発注し、子会社のナミレイはアフターサービスのため気仙沼に出張所を開設した。この頃の鈴木は、愛生園、ダイキン大阪本社・東京支社、唐桑町に、それぞれ1週間づつ滞在する生活。地域の有力者や企業だけではなく、旧軍人軍属、船員の遺族年金などの個人からの相談を受けると、厚生省や社会保険庁に照会し、必要な書類を整えさせるなど、感謝する者は後を絶たなかった。(おだずま注:原典では「からくわ民友新聞」の記事が出典とされている。)やがて、鈴木の識見と実行力に期待を寄せる人々が、昭和48年の唐桑町長選挙への出馬を促す。船主の小野寺淳一など。要請を固持していた鈴木が翻意した契機は、陸前高田市が昭和45年に策定した新総合計画で広田湾を埋め立て大規模臨海工業地帯を造成する構想を盛り込んだことである。同市内では漁業組合から市民全体に反対運動が広がろうとしており、唐桑町でも昭和47年10月に町、議会、漁協等の4者が反対協議会を設立して町ぐるみの反対運動を開始した。12月には小型漁船250隻余りが海上デモを行うなどした。岡山に長く暮らした鈴木は、水島コンビナートの事例を見聞きしており、埋め立ての断固反対のために出馬を決意する。立候補表明は投票日2か月前の2月23日。一部を除いて知名度はまだ低く、町内をまわって住民の対話を繰り返した。対立候補は一年上で助役を退いたばかりの鈴木重美(しげよし)であった。両候補とも広田湾埋立反対、福祉充実、教育振興など公約は共通していたが、重雄は、重美の地盤の小原木中学校での立会演説会で、医師不在のままの小原木診療所への医師招聘を厚労省医務局長の理解を得て必ず実現する、広田湾埋立阻止は環境庁大気保全局長に働きかけている、などと国や県の協議過程なども盛り込んで説明。療養生活で親交を重ねた人々も全国から手弁当で応援に駆けつけた。これに対して、重美は、町勢発展基本計画を丹念に説明するとともに、重雄候補に埋立反対の熱意があるならばなぜもっと早く行動しなかったのかと責めたという。選挙公示当初は町内12地区のうち10地区でリードできる見込みだった重美陣営は追い上げを受け、人身攻撃やデマも流れる泥沼の激しい「南北戦争」とも表現された。(おだずま注:原典では「三陸新報」記事が出典とされている。)4月14日の選挙は投票率80.11%(女性は98.58)に達し、重美2957票、重雄2774票で決した。昭和49年4月、選挙を支援した船主らは鈴木のため町内に住宅を建て、鈴木は妻佳子とともに、38年余りを過ごした長島愛生園を退園した。故郷に戻った鈴木は再び選挙に出ることもなく(町長選挙は無投票が続いた)、地域住民の相談に応じていた。鈴木が最後に手がけたのが、知的障害者のための施設建設であった。町長選の際も実現を訴えたことだが、父親が漁で家を空けるなかで母親がひとり障害を抱えた子を育てていくことへの支援はほとんどなかった。また、当時、知的障害者の施設は県北に存在せず、県南の施設に預けても交通費の負担が大きかった。だが、選挙戦に敗れて施設誘致の芽はなくなり、結果として鈴木は独力で社会福祉法人を設立して施設を建設する道を選び、それを遠洋漁業の船主たちが後押しした。昭和51年1月、唐桑愛の手をつなぐ親の会ら7名によって、社会福祉法人設立準備委員会が発足し、事務所は唐桑遠洋漁業協同組合に置かれる。準備委員長には鈴木が就き、役員予定者には、小野寺淳一、三浦政勝、三浦勉、亀谷寿一、畠山禎治郎、村上正純、昆野庄一、神白叔夫、馬場充朗、畠山啓一など、漁業関係者が名を連ねた。4月10日、馬場地区7100m2に100名の知的障害者を収容する、社会福祉法人愛生会(仮称)精神薄弱者更生施設椿園(仮称)設立趣意書が発表された。事業資金2億円、自己資金5千万円の他は、日本船舶振興会、社会事業振興会からの助成を得るとした。その後、用地は馬場地区が不調で、支援者の畠山啓一が所有する浦地区(宿、宿浦とも)の山林2500坪を賃貸することで決着。資金の面では笹川良一の日本船舶振興会に働きかけるため高松宮にまで紹介を依頼し、土地造成費用がその対象にならないと判明すると、船主たちが不足分を負担するとして支えた。資金計画は、船舶振興会からの助成金2億1200万円、社会福祉事業振興会長期低利融資5140万円、自己資金2千万円、特殊寄付金6百万円と変更された。法人名称は山田無文が洗心会と命名し、施設名は高松宮の許可で高松園とした。ところが、施設建設は地域社会の厳しい反対を受けることとなった。高松園のふもとの浦地区や藤浜地区では、昭和51年夏に集会所での懇談会で洗心会側の協力要請に対して反対意見が出された。表向きは施設の汚水処理を理由としたが、これには当時の漁業をめぐる環境も関係する。唐桑町の昭和45年7月時点の全1991世帯のうち水産業には1456世帯が従事し、季節的で不安定な自然漁業から比較的安定した養殖業に転換する傾向があり、また、かきむき、わかめ養殖など、労働力確保に姻戚関係や本家分家、地縁関係などが主要な意味を持っていた。オイルショックによる燃油価格の高騰、魚ばなれ、200カイリ宣言(昭和52年)などで町を支える漁業は三重苦にさらされていた。鈴木を後押しした遠洋漁業関係者に対して養殖業者が反発したのは、唐桑の漁業構造を反映した一面もあり、選挙戦の激しい対立の再燃ともみなされたものであった。町議会でも高松園建設の賛否が問題となり、昭和51年8月に親の会から嘆願書が、また9月には浦地区の建設反対期成同盟会からは反対の陳情が提出される。議会では全議員の特別委員会に付託し、昭和52年2月には10対7で反対陳情を不採択、推進の嘆願を採択とした。その後も反対論はくすぶり、6月には反対派が県議畠山孝(元町長で昭和46年以降県議)に対して説得工作が行われた。また、再び町議会に対して浦地区建設の反対陳情が提出され、7月に教育民生常任委員会で3対2で不採択されるが、議論は収まらなかった。11月の臨時会では、選挙で争った鈴木重雄の功績になることに消極的だと目されていた町長が見解を問われて、決して消極的ではないと反論する場面もあった。反対の声が静まらない中で、着工を前提とする助成申請は見送られ、計画は遅滞した。昭和52年4月には洗心会理事会で定員を100から50名に半減を決定。これは全国での施設建設が進む中、船舶振興会の助成申請を確実にするためであり、予算は1億496万円(うち振興会助成67百万円)に減額した。洗心会の職員たちは町内各地域で上映会を開催して施設への理解を広げていた。宿浦地区の養殖業者の家に生まれた熊谷眞佐亀は、父が町長選で鈴木重雄を支持したことで加工場を別にされるなど地域で孤立した経験があり、高専卒業を控えて実際に鈴木に会ってみたところ感銘を受け、父や鈴木の反対はあったものの高松園職員となった(2013年の証言)。昭和53年に洗心会は社会福祉法人の設立を認可された。この設立認可の「ごあいさつ」では、設立趣意書の際とは力点が異なっており、知的障害者の隔離のためではなく、地域の理解を得ながら社会復帰の拠点とすることを前面に押し出している。昭和53年3月に入札が行われナミレイ仙台市店が受注、しかし反対派は実力での工事阻止を示唆し、緊迫していた。地元の「三陸新報」は、反対の理由である汚水による漁業の影響については、し尿は水洗でなく気仙沼し尿処理場に運ぶこと、生活汚水も浄化設備を設けて放流することなど、計画には修正が加えられたことを述べて、反対同盟の執拗な反対を批判し、「その執拗な反対の底には何か強い理由がなければならず、もしそれがあるならば、堂々と表明、社会の批判にかけるべきである」と断じて、知的障害者への偏見を非難した。昭和54年4月1日ついに高松園は開園したが、鈴木の姿はなかった。職員の採用手続を終えた同年1月末に、鈴木は突如自ら命を絶った。長く秘書を務めた者さえ予兆を感じなかったという。法人は三浦政勝が理事長を引き継ぎ、4月には高松宮が園の視察に訪問した。妻の佳子は理事に迎えられ、愛生園にもどることなく唐桑で亡くなったが、佳子にとっての社会復帰でもあった。地域への貢献を讃えて、平成2年には、国民宿舎を見守るように鈴木重雄の胸像が建てられている。------------以上は、松岡氏の著作をもとに記載したものである。さて、唐桑の地域はどう受け止めていたのか。公式な町史にはどう出ているのだろうか、と思い、確認してみた。■唐桑町史編纂委員会『唐桑町史』唐桑町発行、昭和43年(1968)12月「観光」の章に、昭和37年国立公園に編入されてからは一躍天下にその名が知られ、来町する観光団が激増している、と記述されている。さらに、観光に関する近年のできごとが年表的に綴られており、昭和38年5月28日に自然公園審議会委員団が来町、御崎・巨釜半造を撮影、とある。同年8月6日には県観光課長が来町し、やはり御崎・巨釜半造を撮影。39年6月1日には国立公園の編入指定。この前後には、施設の整備やテレビ局の放送などが随分と記されている。39年8月の国立公園編入祝賀会も項目だけはあるが、出席者などはなく、鈴木重雄氏の名もみえない。最後の方で、昭和42年12月22日に国民宿舎からくわ荘建設の町議会議決。昭和43年2月27日着工、同年9月30日竣工。事業費9千2百万円余、とある。当時はさながら観光開発ラッシュだったのだろう。町史の記述も具体的で、当時の地域の期待を担った「動き」を感じさせる。町史自体が昭和43年末の発行だから、記述もこの辺が最新だったのだろう。ちなみに、町長は畠山孝が「現任」である。鈴木重雄氏については、観光の章以外でも、触れられていない。
2016.06.19
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東京都知事選挙が行われることになって、誰が立候補するのかに関心が移っている。ところで、2012年10月に石原元知事が4期目の途中で国政復帰のため辞任して以来、後継の猪瀬前知事が1年ほどで辞任し、舛添現知事は今度は自らの公費支出や政治資金の問題で1年半ほどで辞任となる。辞任と選挙が相次ぐ形で、都知事選はこの6年間で4回行われる勘定になる。この事態に関連して、あまり注目されてはいないだろうが(読売新聞が15日に報じた)、河野太郎行政改革防災担当大臣が独自の主張を展開している。都道府県においては知事と副知事をセットで公選して、知事辞職の際は副知事が残任期を務めるべし、との意見だ。17日の閣議後の会見で、地方自治制度や選挙を担当する高市総務大臣は、記者の質問に答えて、憲法では自治体の長は住民の直接選挙と定められていることとの関係で、慎重に検討する必要があると発言。河野氏の意見を否定する趣旨である。では、その河野大臣の主張とはいかなるものか。14日の会見での発言だ。舛添知事が自信の政治資金流用問題で不信任決議を受けそうな見通しだが、どう対処すべきと考えるか、との共同通信の記者の質問に対して、次のようなことを言っている。(内閣府ホームページから、おだずまジャーナル要点要約)・2014年1月に猪瀬氏が辞職した際に、5千万円もらった知事が辞任して50億円かけて都知事選するのはいかがなものかと思った。当時、山口県知事も病気で辞職して同様に選挙になった。・知事や指定都市市長が辞めるケースは結構あるが、そのたびに選挙コストかかる。・しかも、短期の選挙戦になるのでノーウィッシュで知名度選挙みたいになるのは良くない。・数十日間で次の知事を選べといわれても、何が争点で、東京の抱えるどの問題に候補者はどう対応するのか、が伝わらないまま知名度のある人が次の都知事になるのはおかしいだろう。・党内でも提言したが、知事と副知事をセットで選んで、知事辞任の残任期間は副知事がやることにする。2人セットで都道府県民に選んでもらうのが良い。・2年経って同じ状況になったので、今回は間に合わないが、次回から見直していく必要があり、しっかり問題提起してきたい。河野氏の主張の根拠は、(a)相当のコストを犠牲にすることと、(b)突然の選挙でまっとうな候補者選択の機会にならないことの2点に存すると言えるだろう。(b)については、たしかに、東京都の知事選挙はおよそ他の道府県と異なり、大衆票が鍵を握るなどの特異性が際だっているように思われる。ただ、突然の辞任という事情がそれを一層浮き彫りにする事情はあるとしても(特に候補者を擁立する側の事情)、通常の任期満了選挙についても言えることでもあろう。青島氏が当選した歴史もある。また、前者の(a)コストの点については、たしかにわかりやすい根拠だ。特に、今回のように辞任する本人に責めがあるようなケースだと、当人のせいで50億円を無駄に使うというような庶民的話題になるのもうなずける。だが、そんな大衆迎合的な論拠で直接民主主義の最大の機会である選挙を邪魔者扱いするのは果たして適切かどうかは問題だろう。いまジャーナリズム的には舛添知事の個人の資質の問題とされているが、知事としてこの人を選んだのは、まさに主権者(住民)なのだ。辞職や不信任決議や解散や解職などの制度が用意されていることからも、任期の4年ごとの選挙以外のイレギュラーな選挙だって、いわば民主主義のコストとして織り込まれるべきではないかというのが、おそらくは制度論の側からの一応の反論だろう。あまりコストを強調すると、議会による不信任や住民運動による解職などのダイナミズムも封じられるかも知れない。おそらく、河野氏は、米国大統領選挙のしくみなども参考にして、都知事選の実態やコスト感覚などから大局的に考えているのだろう。ひとつの提案としてはありうるものだとは思われる。高市総務大臣の「憲法規定があるから」というのは、官僚作文に依拠しているのだろうが、たしかに憲法93条2項との関係は一応検討すべき事柄になるだろう。では、もし河野氏のように「知事選挙は必ず知事と副知事のセットで行い、知事辞任など(死亡や欠格も含めるか)の際には自動的に副知事が知事となる」という立法を行おうとする場合に、果たしていかなる問題が生じるか。まず、やはり、長や議員は住民による直接選挙で選ぶことを定める憲法93条2項が問題になる。同項の解釈に際しては、長は住民の「直接選挙によるべきこと」が憲法の要請とされるからだ。憲法93条2項に反しないとみる説もありうるように思う。すなわち、予め「知事が欠けた際には副知事が昇格する」との了解の上で副知事を知事とセットで直接公選するというのであれば、自動昇格によって知事に就任することも、93条2項の求める「直接選挙」の範囲に含まれると解釈する余地もあるのかも知れない。これに対して、93条2項に反し認められないとする論拠は、(1)予断なく(セットではなく)単純に一人の「長」を直接公選することが要請されている(2)条件付きの有権者の承諾ではなく、「就任するその時の」承諾が求められるなどが考えられる。さらには、(3)我が国においては、憲法制定当時も現在も、自治体の長とナンバー2をセットで選挙するような風土は存在していないから(cf.米国憲法は副大統領の存在と昇格制度を明定する。)、憲法が認めるとは考えられないこと(4)かりに副知事を必須の公選職と立法する場合、(単なるナンバー2という事実上の権能行使だけでなく)有権者が期待すべき、知事の職責とは別個独立あるいは知事を牽制するなど何らかの意義のある職責を負うものであるべきだろうが、そのような役割についての認識や合意がまったくなされていないことなどの論拠も援用されるかも知れない。もっとも、(3)(4)の点は憲法が禁止しているとまでは言い切れないようにも思われ、とすると立法政策の問題だろう。(4)の点について補足すると、現行地方自治法では副知事はあくまで知事を補佐する補助機関に過ぎず(条例で不設置も可能)、議会の同意を必要とするが、知事と独立あるいは知事の職務執行を牽制するような制度上の権限は何ら有していない(職務代理者となる程度)。いわば制度上は知事の権限の枠の中にあるのである。(完全ではないにせよ)枠の外にある警察本部長や教育長などを公選とする(憲法上の要請とまでは解されないが立法では可能だろう)のに比較すると、必要度は下がるというべきであると思われる。とすると、やはりセット公選の構想は、自治体のあるべき組織体制というよりは、コスト論や選挙の(不)効率性を重視したものということだろう。憲法問題に関して参考になるのは、93条2項の解釈において、首長の公選制が要請されている(間接選挙は認めない)のは当然だが、そもそも首長の必置までを要請するものではないとする学説があり、この解釈に立てば地方自治法を改正して、公選の知事という制度にかわって、議会やその任命する者(例えばシティ・マネージャー)が執行機関となることは可能である余地がある。実際に、93条1項は「法律の定めるところにより(中略)議会を設置する」と定めるが、議会の設置を憲法上必須の要請としたものとは解釈されていない(現実に地方自治法は、議会を置かず条例により有権者全員の総会(町村総会)を設けることを規定する)。このように、93条2項についても、その核心は直接公選制にあり、首長や議会などの組織のあり方については、憲法が(少なくとも長や議員の語を用いている以上、その存在を想定ないし奨励しているとは言えるとしても、)長なる執行機関または議会なる合議機関を必ず置けと言っているわけではないから、執行や合議のための組織のあり方については、憲法は一定の立法裁量を許しているという見方が可能かも知れないことになる。この論点(論点Bとしよう。)は、長や議会が必置でなく自治体の組織については一定の柔軟性を憲法も容認しているのではないかとの点であり、上述の河野構想が「長の直接公選」に反しないかの論点(論点Aとしよう。)とは、議論の対象を異にする。しかし、「長」の選び方として「直接公選」と見ることができるのかできないのか、という論点Aの議論はしっかり検討されるべきとして、そもそも「長」のあり方をどう構想するかについては(論点Bの憲法解釈の柔軟性を踏まえて)さまざまな観点から合目的的に考えて、ある程度柔軟に立法できるものと考えるとすれば、結局は、新しい形の「直接公選」を伴った長とナンバー2の組織体制のあり方という議論ができるのではないかという気もする。さて、河野構想は広がりを得られるか。憲法論議や自治制度の観点で見ると、高市総務相の答弁は否定的だが、おそらく、地方自治制度の従来の論議の図式には全くないような異次元なものを取り上げるわけにはいかないという官僚側の原稿を読んだだけだろう。異次元の異論と書いたが、私が不勉強なだけで、実はこれまで地方制度の議論で俎上にのぼったのかも知れない。知事の度重なる辞職という場合よりも、長の不信任と議会解散などで選挙が連発されるような場合はたびたびクローズアップされたから、これにともなうコストや行政の混乱停滞を回避するような制度の可能性について議論がなされてきているのかも知れない。■関連する過去の記事 大衡村の議会解散を考える(2015年3月18日)副知事の存在や機能は一般にどう認識されているだろうか。膨大な事務を抱える都道府県にあって、トップを補佐しつつ、あるいは政治情勢と行政ニーズの相克する場合にいわばクッション役となって、事実上は組織を統率して地方行政を牽引する、という姿だろうか。一般に、当該都道府県職員OBが就任したり中央官庁の職員が出向で務めることが多いのは、職員組織の統轄や行政実務の実質的な調整を担うという側面を反映している。また、この事実上の重要な職責に着目して、長が自らの施政方針の実現のために主体的に任用することもある(民間人や政治家の起用など)。このため、自治体事務の管理執行の責任はすべて長が負う建前ではあるけれども、副知事の地位の行政上や政治上の実質的な重要性から、議会の同意を必要としたもの(住民リコールの対象にもなる)と考えられるだろう。少なくとも現時点では、副知事が制度的に「次の知事」になるポストだという認識は、議会など政治の側にも、住民の側にもないだろう。実際に副知事から知事に立候補したり、知事が後継指名に副知事を挙げることはあっても、あくまで多数の選択の中の一つだ。これを、立法で(上述の憲法論議をクリアする前提で)セット選挙と自動昇格なる制度を導入するとしたら、政治側や有権者はどう考えるだろうか。政界の側では、勢力(与党、野党など)の内部が一本化するような配慮のもとに正副知事候補を擁立することが、まず考えられる。米国大統領選のように、与野党の指名を受けた大統領候補が、政党内の勢力バランスをみて副大統領補を指名するような図式だ。おそらくは、職員OBや中央省庁職員は擁立されにくくなるだろう。住民の側としては、どうだろうか。少なくとも、選挙に際して副知事候補の「独自の」政策などの訴えはなされないだろうから、人物の知名度やイメージぐらいしか認識しない可能性がある。自治体の内部で考えると、副知事が政治任用の側にすっかり振れてしまって、調整やクッションの役割が期待できなくなり、選挙に際する争点を中心にトップの意向が直裁に行政組織を動かすことになり、行政の継続性中立性のような側面は後退するのではないか。さらに、都道府県議会としても、公選の知事の施政方針を質しつつ、職員組織には法制面や予算面での実行可能性の検討などを迫るなど、ある意味で県政チェックの実効的な作法が積み重なってきたと言えるように思うが、このようなチェック手法もやりにくくなるかも知れない。もっともこれらは、程度の問題で、本質的な変革というべきものではないかも知れない。以上のようなことを考えると、やはり、河野構想の核心は、やはり自治の組織論ではなく、選挙コスト回避の観点と選挙の効率性(知名度選挙に流れるのではなく真っ当な候補者をじっくり選ぶという意味での効率性)なのだろう。しかし、効率性の点に関しては、逆に副知事候補に知名度ある人を挙げて(ドリームチケット)、当選可能性を高めるという政治側の行動が容易に予想されてしまい、むしろ河野氏の問題意識からかけ離れていく気もする。重要な問題提起だが、まずは自治の組織論としてしっかり検討されねばならないと思う(その上で、或いは同時に憲法論議も)。今回の舛添辞任については、都民には申し訳ないが、住民の判断のツケというしかない。本当にコストの点だけを重視するなら、辞任させないよう議会や都民が声を上げるべきことだ。住民に非があると言っているのではなくて、政治組織や選挙制度について合意がない以上、ルールに従わねばならないということだ。もちろん、辞職や不信任の判断をする長や議会においても、コスト論を十分考慮して行動すべきことは当然だが、長も議会も判断は「選挙」だったのであり、その判断はルールに反していないのはもとより、都民の多くの支持に依拠してもいるだろう。選挙のコストや効率性は重要な問題だ。だが、表面的や即応的な感覚の論議ではなくして、地方自治のあり方に根ざして考えていかなければならない。
2016.06.18
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福島の復興と再生のため、4度目の挑戦で今年5月にエベレスト登頂を成功させた福島出身のタレント「なすび」が、内堀知事を訪問したという報道があった。このとき、なすびは、ふくしまデスティネーションキャンペーンの「県北応援団長」として法被を身につけていた。その法被には、河北新報記事の写真によると、「けんぽく」と表記されていた。やっぱりね。■関連する過去の記事 地下鉄東西線乗りました(2015年12月6日) 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年11月24日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月16日)
2016.06.17
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大震災の一年ちょっと前だった。石巻市の中心部、私もかつて住んでいた場所にほど近い、JR仙石線沿いの住宅で2人が殺害され1人が重傷を負う悲劇があった。当時18歳の少年の犯行で、第一審の仙台地裁では死刑判決。少年事件で裁判員裁判で死刑が宣告された唯一の事件。そして、今日、最高裁は元少年側の上告を棄却して、死刑が確定。許される余地のない悪行だが、元少年の育った家庭環境なども報道され、更正の可能性の判断もそうだが、事前の警察の指導状況などを含めて、家庭や個人に社会や行政がどう関わるべきかなど、考えさせられる事件ではあった。裁判の結果はそれとして受け入れるべきものと思う。ところで、死刑が確定したことを受けて、メディアは元少年を実名で報道している。NHKの場合は、凶悪な犯罪で社会の関心が高く、また、死刑確定で社会復帰の可能性が事実上なくなったため、と断りを入れていた。メディアも慎重に検討したと思われるので、いまその判断については議論しない。ただ、気になるのは、社会復帰や更正の可能性が無くなったから実名で報道する、というのは、論理的はわかるが、それこそ文字通り一人の人間の存在や配慮を「切り捨てる」ような感覚に襲われて、そら恐ろしい気もする。更正可能性があるから原則の実名報道を曲げて来ただけで、原則に戻るだけのこと、としても。朝日新聞も実名だが、その理由は、国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにすべきだから、という。事件当時が少年であっても同じで、その方針は2004年に決めたのだそうだ。NHKとは明らかに根拠が異なるが、その意図はわかりにくい。極刑に処せられる者の犯罪の重大性が根拠なのか、それとも、死刑という制度の是非を議論するために実名を出すということなのか。時事通信は、(1)死刑確定で社会復帰可能性なくなること、(2)国家が命を奪う死刑の対象者の情報は広く社会に共有されるべきこと、(3)事件結果が重大で社会的関心が極めて高いこと、の3点を総合判断する、として本件を実名報道としている。今日の時点で幾つか報道をみてみると、放送も新聞も実名が多いようだが、新聞でも読売は毎日は(ネットで見る限り)匿名のようだ。河北新報は実名だが、その理由が、(a)死刑が確定することで更正・社会復帰に配慮する必要が無くなったことに加えて、(b)事件の凶悪さや社会的影響、(c)一人の命が匿名のまま奪われることへの懸念、なども考慮した、という。(a)と(b)はNHKの根拠と同じだろう。ただ、(b)について厳密に考えると、本来(b)が原則だが少年事件の場合は(a)を優先して匿名にする、という関係なのか、それとも、少年の場合でも(b)を重視して実名報道もある、という論理関係なのかは明らかでない。それはともかく、不思議なのは、根拠(c)だ。何を言っているのか不明。匿名のまま命が奪われた場合に困ることとは何だろう。朝日の根拠(これも必ずしも明確でないこと上述)と同じことなのかも知れないが、朝日は死刑制度を前提にしているのに対して、河北の場合は文理上はそうではない。死刑に限っていないから、「およそ人間は命を奪われるという事態に遭遇する場合(殺害される場合も死刑執行の場合も)、その事態(殺人事件、死刑執行)の重大性に鑑みて、広く社会の関心や論議の対象とされるべく、当該の事態について具体的に明らかにされるべきであるから当然に氏名も明らかにされるべきものだ」ということだろうか。
2016.06.16
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女川町の江島について。下記の文献で、江島中学校校長や江島漁協組合長などを経て地元のコミュニティ推進協議会会長をされている方が説明している。■『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)無人島が大小7つある。足島は、人が近寄れないこととヘビがいないことがウミネコの繁殖に役立っている。ウトウは海に潜って魚の群れを水面に浮かせてくれる。笠貝島の球状斑れい岩は、持ち去られたりして少なくなった。世界でもイタリアとここにあるだけと言われる貴重なもので大切にしたい。このような説明の後に、交通の解説。「女川港から丸中金華山汽船の女川-金華山航路。足島を回るのは4月以降の日曜祝日と7月からの夏休みの毎日5便。所要時間約50分。」とある。もちろん、昭和62年当時のものだ。足(あし)島と笠貝(かさがい)島は、無人島だが、女川町の公式サイトには、次のような説明がある。------------足島 江島の南東約1.2kmにある無人島。ウミネコ・ウトウの繁殖地として有名。国内のウトウ繁殖地の南限で、また、オオミズナギドリの巣もあり、この両種が同じところで繁殖する、ほかにはない珍しい島です。国の天然記念物「陸前江ノ島のウミネコおよびウトウ繁殖地」に指定されています。笠貝島 江島の北約2.5kmにある無人島。島の北西部では、世界的にも珍しい球状班れい岩が産出され、県の天然記念物に指定されています。東日本大震災の津波では、島の一番高いところまで波が遡上しました。また、数年前からラッコが住んでいるとも言われてます。------------笠貝島では津波の遡上がコメントされている。枯れた木などから計算して、島の周囲の浅い海を渡った津波が島に集中する形となって、何と43.3mの高さまで登ったと考えられている(東大地震研究所)のだそうだ。球状斑れい(糲)岩とは、県の天然記念物(説明)。このため、島への出入りは制限されているという。
2016.06.14
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加美町(旧小野田町)、漆沢ダム沿いの林道を昇と左手に見えるのが黒森。森は山の意だ。更に進むと右に見えるのが前森。この山の南東斜面に、前森風穴がある。岩場の間の地表からヒヤッとした風が吹き上げている。標高570mに位置し、ブナはなく、森林限界の植物であるダケカンバが目に付く。それだけ温度が低いということ。ここは標高1400mと同じ気温で、1000mもの植生のズレが生じている。ナナカマド、ハクサンシャクナゲ、岩の間には風穴特有のウサギシダなど、亜高山帯の植物が見られる。風穴を取り囲んで守ってきたブナ森は、その外側から伐採の心配がある。昨年3月(おだずま注、1988年ということだろう)に風穴付近の123haの伐採は中止になったが、いまは前森西側の唐府沢付近のブナが切られる心配。■『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)から (当時古川高校の先生(山岳部顧問)で船形山のブナを守る会会員の方が説明しておられる。)前森風穴。夏でもひんやりとした風を吹き上げるのか。いままで、知らなかった。宮城県公式サイトでは、県立自然公園船形連峰の説明として、鏡ケ池、鈴沼、桑沼、白沼などの湖沼や大倉川の渓谷、色麻の大滝、三光宮の溶岩流、前森の風穴、さらに薬莱山や七ツ森の火山岩頭など、変化に富んだ特色ある風景地があると、解説されている。
2016.06.14
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集団的自衛権行使を可能とする政府の憲法解釈や法律成立に関して、「違憲性」を主張する憲法学者や法制局長官OBの側の対応に対して、規範論理的な見地から大きな問題提起をしたのが、話題の藤田名誉教授・元最高裁判事の論文ということだろう。その内容については、拙ブログにても要約した。 → 藤田論文を読む(2016年5月30日)従来の政府見解を変えようとすることが(それだけで当然に)憲法に反する、歴代の内閣法制局長官ができないと言っているのに変更する総理の姿勢は違憲だ(or立憲主義に反する)、などの論議がなされた。たしかに内閣の姿勢は、安全保障情勢や紛争地での活動に関する認識の点でも、憲法解釈論の理論的な説明の点でも丁寧さを欠き、さらに、審議時間を重ねたからなどと強引な姿勢も残した。だが、最後まで噛み合わなかった感じがするのは、根本的に何が原因だったのだろうか。私は、漠然とこう考えていた。久々に憲法が国民の前にクローズアップされた舞台で、憲法学者(の多く)は、集団的自衛権を(憲法改正を経ずして)解釈で導くのは無理だから違憲だという。だが、解釈にも柔軟性や変遷があっても良いはずで、70年間の世界情勢の変化をすくい上げながら(だって昔は自衛隊の存在さえ否定していたでしょ!)どこまでが(憲法の改正をしなくても)認められてどこからが憲法に反するか(やるなら憲法改正せよ)、学者にこそ明確にしていただきたいと思う。だが、国際情勢には冷淡で超然としているのか、いやむしろ、憲法解釈とは私らの専権事項とばかり、政治が(原子力ムラならぬ)憲法ムラに容喙するのを忌避しているような風さえ感じられた。そして、野党が露呈した自らの問題は、憲法学者が不得意だというのなら、政治家こそが、国際政治の現状をどう理解して国防の方向を導くかの議論をしていくべきところを、自衛隊員を危険にさらすとか、9割の学者も言っているのだから憲法を守れとか、社会党がよみがえったかのように硬直的で金科玉条的だったことにあった(だからこそ一致団結できたのか)と言っては言い過ぎか。国の守りを真剣に考えることを放擲する理由に憲法を挙げてはダメでしょう(憲法守って国滅ぶ。小林節の本の名)。このように今回の論議の「わかりにくさ」又は「消化不良感」は、国防政策論でも憲法論としても残ったのだが、このうち憲法論の側面で、より個別的な問いかけで具体化するとすれば、例えば、・憲法解釈は誰か(例えば内閣法制局長官の答弁で)行ったら、そこからどこまで変えられる/変えられないのか。・国会で何度も答弁した憲法解釈だとして、そのことから解釈を変えるのは憲法(立憲主義)に反するのか。・内閣法制局長官がダメと言ったら総理も従うのか。そんな点だろうか。これを思い出したのは、3月の読売新聞の記事だ。憲法学界でも、(ダメだからダメ、ではなく)この問題を理論的に考える見解が出ている。当ブログでも勉強した。(安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1)(2016年5月22日))藤田論文は、私自身のような一般人の漠然とした問いかけを含めて、今回の事態を法律学が規範論理的にどう考えるべきかを論じたものだと自分では理解した。もとより私には憲法も行政法も理論的な知識は薄いが、氏の意図を一言でいえば、(おそらく一般国民も安倍政権は不誠実だと思う一方で感じていた)憲法学の側の硬直性、言い換えれば、現実(国際)社会の問題の解決を導くために理論の発展を目指すという、およそ法解釈学や法律学者の存在意義ともいうべきものを、皆さんは(長らく)忘れておられるのではないか、の点を指摘するものだと言えよう。藤田名誉教授は、今回の法制が憲法に反するのかの結論については慎重にして言及しておらず、あくまで規範論理的な議論がしっかりと行われるべきだという立場から論じている。ただし、「憲法学界は戦略的に違憲論を振りかざすだけではなく、法案が現実に成立したのだから、(基本は反対だとしても)運用上の具体的な問題について学者として責任を持って見解を示す姿勢をとるべき」(この表現は私の意訳含む。)というのは、挑戦的ではある。省庁再編に携わり、最高裁判事も務められた氏が、(違憲合憲の結論に言及しないまでも)行政法分野での法解釈学の努力の事例をわざわざ引用しながら(憲法学者だって知らないはずもない)、憲法学界の(努力不足との)姿勢を批判するものである。従って、伝統的(?)憲法学者からは煙たがられる可能性があり、野党や一部マスコミからは「御用学者」とレッテルを貼られるかも知れない。もちろん、氏はそんなことは織り込み済みだろう。かくいう私も、かつて藤田教授の行政法の講義を聴いた。定義すら確定しない行政法(総論)の深みに戸惑ったが、例えば行政行為の公定力とは何か、行政裁量とは何か、民事法関係の適用の有無など、現実に事は進んでいるのに理論的には未だ整理されていない問題をどう考えていくかの点が、(理解がどこまで追いついたかは別として)興味深かった。とにかく論理的に考えること。現実の問題があるとすれば、さしあたりどのような理解や整理ができるか提示しながら検証していくこと。そんな印象があった。その後、行政関係をめぐる法整備は飛躍的に進んだ。通則的な部分では、手続法や救済法が格段に整備されてきた。戦後の公害問題、都市の土地利用と収用問題、情報公開、財政問題、住民訴訟などなど、社会や国民意識の変化とともに、行政法学も現代的に発展してきたと言えるだろう。個人的には、いまでも実定法規や行政法理論が本当のあるべき姿(住民の権利救済、行政コストの極小化など)に沿っていないと思う点は少なくないと思う。それでも、様々な法益のバランスを踏まえながら真剣に議論して、立法や運用に反映させてきたことは間違いない。その点で、憲法学の分野とは全く雲泥の格差なのではないか。(森羅万象の実定法規を対象とする行政法学と異なり、改正すらされていない実定憲法法規を扱う憲法学は事情が異なるという面はあろう。しかし、だからこそ、行政法学の場合と比べてあまり多くないはずの「現実世界」と接する機会に、学問の側がまさに学問の成果として、解釈論を丁寧かつ真剣に紹介する姿勢であるべきだということでないか。)憲法学者はどう受け止め、とりわけ集団的自衛権を違憲と結論づけている論者はどう反応・反論するのだろうか。9条の解釈を踏み越えることは説明済みだ、安倍内閣の行動は立憲主義に反することは十分に明らかになったはずだ、と主張するような気もする。しかし、具体的争訟に至らないと憲法判断に踏み込まれず、また統治行為とされる可能性もあることから、現実の権利救済や国のあるべき形に責任をもった議論を避けて、むしろ気安く違憲だと決めつけてきた風潮もあるのではないか。少なくとも、藤田論文の提起する規範論理的な検討の枠組にどうコメントし、あるいはその枠組じたいをどう批判できるのか、(非才ながら憲法学者の主張に)関心を持っていきたい。そして、学界論議のメディアによる正しい解説などを通じて、我が国の根本constitutionをどう考えるかが、本物の国民的論議として深まっていくとすれば、藤田先生の本当の願っておられることなのでないか。久しぶりに先生の下で勉強させていただいた気分である。そして、社会と学問のあり方を真剣に考えた学者としての良心と気概には、深く敬服申し上げたい。■藤田宙靖「覚え書き - 集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」 (第一法規『自治研究』92巻2号(通巻1104号、平成28年2月)pp3-29)■関連する過去の記事 藤田論文を読む(2016年5月30日) 安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1)(2016年5月22日) 気仙沼の九条(2015年9月19日)(安保法案成立に寄せて) 新安保法制と憲法学者(2015年6月6日)
2016.06.12
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歌枕の小黒ヶ崎(おぐろがさき)は、大崎市の旧鳴子町と旧岩出山町にまたがる小黒ヶ崎山のこと。地図で見ると、大崎市岩出山池月上宮(かみみや)小黒崎(おぐろさき)と、同市鳴子温泉黒崎(くろさき)が、小黒ヶ崎山の南と西のそれぞれ麓に位置する形で国道47号沿いに並んでいる。並んでいると言ったが、厳密にはその間に、鳴子温泉竹原という地名が挟まっているようだ。『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)には、アカマツの景観がすばらしいと、地元鳴子町黒崎の中鉢さんが紹介している。家の真ん前にあるので毎日眺めている。古来紅葉の名所で、急斜面にナラ、ヤマモミジ、カエデ、ツツジ、イチョウなどが露出した岩肌を避けるように生えている。その斜面を引き立てるのがアカマツで、すばらしい景観をつくってくれている。昭和初期には紅葉時にわざわざ汽車を臨時停車させた風流機関士もいた。江戸時代に芭蕉も歩いて通ったが、新緑の初夏だった。紅葉の時期に通ったら小黒ヶ崎を必ず詠んだと思う。残念だった。古今和歌集にも読み人知らずで載っている。自慢だが、息子の嫁が俳句で小黒ヶ崎を詠い朝日新聞の俳壇で最優秀賞(昭和61年)に選ばれた。「立春の雑木林がふとちがふ」このような事を書いておられる。古今和歌集巻二十の「東歌」の「陸奥歌(みちのくうた)」には、阿武隈、塩釜の浦、塩釜のまがきの島、をぐろ崎、宮城野の木の下、最上川、末の松山、のみが載っている。(細川純子『菅江真澄の見た仙台』国宝大崎八幡宮仙台・江戸学叢書58、2013年、から。)■関連する過去の記事 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日)
2016.06.05
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ノンちゃん牧場が栗原市鶯沢にあったという。「ノンちゃん雲に乗る」を書いた石井桃子さんが友人の女性とともに開墾した。■『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』(2011年10月、仙台市市民文化事業団)による。1945年8月15日に、狩野ときわさんと石井桃子さんが開墾を始める。1947年に『ノンちゃん雲に乗る』が出版される。いつしか牧場はノンちゃん牧場と呼ばれる。1956年に石井さんは鶯沢小学校5年B組で読書の授業をはじめた。お昼には牧場のノンちゃん牛乳を飲ませた。卒業まで2年間授業は続いた。いま牧場だった土地は、狩野さんという方が守っている。ご主人とともに跡を継いでやってきたのだという。宮城県図書館の資料(ことばのうみ、2000年7月)に、その5年B組で授業を受けた鶯沢町教委の課長さんの話が出ている。担任の先生から、2年間読書の授業と牛乳の試飲があると知らされた。当時はまだ給食がなく、他学級に申し訳ない気持ちだったが、昼時間が待ち遠しかった。石井さんは週1回国語の時間に朗読。読書の習慣がなかったが、だんだん関心が高まり、1週間が待ち遠しくなった。平成10年に、鶯沢小学校に「石井桃子文庫」コーナーを作ることに石井さんの了承を得て、教育長とともに東京に石井さんを訪ね、40年ぶりに会うことができた。小学校の文庫には先生から送られた本も並び、子ども達が楽しく利用している。「ノンちゃん雲に乗る」というと、私には岩手県の小学校の図書室にあった記憶がある。図書室はあまり豊富な蔵書とは言えなかったと思うが、学校が子ども達のために買いそろえたり受け入れたりしてきたのだろう。先生方は読書指導にずいぶんと力を入れていたのだと思う。私も家に本など無かったから、いろんな分野の本をよく借りた。感想文の指定図書のようなものより、科学、地理、歴史やノンフィクションなどを広く読んでいたように思う。借りてきた本を自宅で祖父が読んでいて、続きを借りてこいと言われたこともあった。旧字体の本や、例えば日本がまだ国連に加盟していない段階の記述となっている書物などもあって、その分知識も広がったのかも知れない。自分にとって「ノンちゃん」の印象だが、その内容(記憶にない)よりも、「つづり方兄弟」などあの頃図書室にあった本や児童文学シリーズ的な書物らとともに、なにやらあの頃高まっていたと思う読書や作文の指導教育の代表みたいに子どもながら受け止めていた。また、「ノンちゃん」が本当はどうか解らないが、教育の自由や戦争反対を掲げストライキもあった岩手県教組の活動とも自分の感覚ではつながっている。いずれにしても、ノンちゃん牧場が宮城県にあるとは、今まで知らなかった。さて、鶯沢小学校の石井さんの授業の話だが、昭和31年には石井さんは東京で活動していたのだと思うが、毎週鶯沢まで来ていたということになるだろう。新幹線もなく、来るだけでも一日がかりだ。誰かが車で送迎したのだろうか。石井さんの熱意もあってのことだろうが、支えている人たちもいたのだろう。そもそも、学校で、そのような授業をやることも普通ではないが、5年B組の先生が前向きで、また校長や教委の理解もあったからか。「ノンちゃん牧場のこころみ」という映画が昨年、仙台で上映されたという。そう遠くない、今に繋がっている私たちの地域の歴史。■関連する過去の記事 鶯沢・文字地区の新小学校(2012年2月26日)
2016.06.04
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