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■前回 東北の旧石器時代(2016年3月6日)1 環境変動と東北の適応行動(1万8千年前から7千年前まで)旧石器時代から縄文時代にかけて、環境は大きく変わった。1万年前の更新世から完新世への移行期の気候変化は大きく、短期間で気温が上昇した。日本列島でも海水準があがり降水量が増加した。この中で人類は定住生活を採用し、地域性が形成され現代社会に繋がっている。縄文時代への移行は温暖環境への人類の適応行動と捉えられる。1万8千年から1万6千年前頃は、現在より気温は4から5度低く降水量も少なかった。津軽海峡は存在したが、一時的に凍結した海面を歩いたのか航海技術を持っていたのか、湧別技法という細石刃製作技術を持ち北海道から渡ってきた人たちがあった。シベリアを含め東北アジアに広く分布する石器群であり、北方系細石刃石器群と呼ばれる。北方系の人々は主に利根川流域以北の東北日本で暮らした(分布範囲はサケマスの遡上地域に一致)。石器のほとんどは東北日本海側産の頁岩であり、定期的に長距離を移動して産地に戻り石器を補給したのだろう。各地の石器は器種が共通しており、狩猟のための骨角器づくりや皮なめしの道具として使用された。人々は動物を追って移動していたが、新潟県荒屋遺跡は竪穴住居状遺構や多くの土坑をもち、繰り返し遺跡が利用された証である。オニグルミなどの堅果類の採取や火の利用もみられた。東北地方には、北方系のもう一つの石器群である白滝型細石刃核であり、打面に擦痕があるのが特徴。山形県湯ノ花遺跡では北海道産の黒曜石が含まれていた。1万6千年から1万4500年前、最古の土器が出現する。青森県大平山元1、赤平(1)など。文様がなく平坦な口縁と平らな底をもち、煮沸用と考えられる。この頃、気候は依然として乾燥、冷涼であった。1万4500年から1万3千年前は気温が2度ほど上昇し降水量も増加する(ベーリング/アレレード期と呼ばれる世界的な一時的温暖期)。本州から四国九州では、隆線文土器が主体となり、遅れて爪形文土器に徐々に替わっていく。北海道と沖縄を除き土器文化圏が形成された。かつて土器は完新世の温暖化に伴って発生し堅果類の煮沸用の鍋と予想されていたが、上記のようにそれ以前の寒冷期に出現したことが明らかになり、サケなどの遡上魚類を含む海洋資源の煮沸に使用された可能性が高い。一時的温暖期には、本州では細身の尖頭器、有舌尖頭器、石鏃などの狩猟具が登場し、弓矢猟が開始された。北海道と九州では後期旧石器以来の細石刃が残存する。竪穴住居がこの時期から各地で認められる用になり、洞窟の利用も増加する。南関東から西では、温暖化に伴う食糧の加熱薫製のための炉穴もみられる。しかし、1万3千年前から1万2千年前、再び寒冷で乾燥した時期になる(ヤンガードリアス期と呼ばれる寒の戻り。日本への影響は比較的小さいとされる)。この時期の初期は爪型文土器、やがて縄による文様があらわれ、押圧施文から回転施文に変化し列島規模に広がる。関東以南では竪穴住居跡が確認される。狩猟具は石鏃が主体となり、宮城県野川遺跡の石鏃には、弓矢の突刺の結果と思われる縦断の破損がある。秋田県岩瀬遺跡では石匙が出土し、イネ科植物を切断した使用痕が確認されている。石核が集積された非住居遺構が各地でみつかり、回帰的使用を前提に設置された道具箱であろう。1万2千年から1万500年前、気温は再び上昇し海水面もあがる(冬季降水量はまだ増えない)。東北地方でも関東以西と同様に竪穴住居が出現する。青森県櫛引遺跡、岩手県上台1など。東北の土器は、多縄文(回転縄文)から薄手無文の平底土器主体に変化する。石器では、狩猟具は石鏃にほぼ限定され、石匙はまだ多くなく、スクレイパー類が多い。櫛引遺跡では網漁に使われた石錘が出土。この時期になって、やっと狩猟、植物採集、漁労の生業が組織的に開始されたと評価できる。1万年前から以降、気温は7千年前をピークにどんどん上昇し、最終的に現在より1から2度高い気温になる。約8500年前からは、対馬海流の日本海流入により冬季降水量もあがり、日本海側の多雪化をもたらし東北地方でもブナ林が成立する。土器は撚糸文や押型文が主体で、尖底が一般的になる。竪穴住居は後半になると長軸10メートルにも及び(青森県中野平遺跡)、定住による大型化といえよう。気候変化で堅果類利用にも変化があり、クルミなどが出土。これに連動して敲石や磨石などの礫石器も増加し、石匙も増加した。関東東海では貝塚が形成されはじめるが、東北地方では認められない。東北南部の住居数は、1万年前から7千年前までの間徐々に増加するが、東北北部では8500年前頃にピークを迎える(一つの遺跡で10棟程度)。7千年前以降には、一遺跡数十棟と集落規模の拡大があった。植物利用では、クルミに加えてクリも増加する。縄文前期には三内丸山でクリ主体への移行が確認される。8500年前頃から沿岸部で石錘が増加。北海道南西部も同様で、北部東北と一つの文化圏を形成し、その後の縄文時代前期中期の円筒土器文化につながるものである。また、貝塚も増加し、沿岸部への住居域が拡大する。集落間の住居数の格差も少なく、階層化社会には至らなかったと考えられる。墓域の形成もなく、土偶や祭祀的遺物も少ない。2 縄文土器東北地方の縄文時代前期・中期は大きく2つの土器形式からなる。南部の大木式土器と北部の円筒土器。円筒土器は、北緯40度付近を南限に北海道石狩低地帯に主体的に分布する。縄文時代早期の尖底土器は厚い底を持たない分、持ち運びやすい。移動生活での効率的な煮炊きに適する。前期になると、関東地方で平らな底の土器が登場し、東北でも同時に、不安定ながら平底化する。その変化に呼応するように、器面は多様な縄文原体で飾られるようになる。前期後半になると、繊維土器からの脱却(大木4式)、粘土紐による加飾化の開始など東北地方独特の個性の発揮が特徴となる。山形県押出遺跡では、住居の木柱が並び、漆の精製に使われる要具として大木4式土器が出土していることから、漆の乾燥作業に不可欠な高湿度を求めて、あえて大谷地の低地に平地式住居からなる集落を作ったと考えられる。大木5式になると加飾化はさらに進行。大木6式になると、球胴器形や長胴器形が特徴。南は伊豆諸島八丈島や北陸方面に搬出され、北はそれまで影響関係が乏しかった円筒下層d式の一部にも取り入れられる。前期末は、北陸の土器が東北日本海側で、関東の土器が南東北で出土することも多く、広域的な動きが活発化した時期である。中期には、大木式も円筒上層式も器種が増加し、食物資源が多様化している。大木7a、7b式のあと、8a式は加飾化のピークで、福島県域で特に資料が充実。円筒土器のピークは上層b式。大木8aに並行する円筒上層e式のあと、大木8bのB類型と器形と文様帯を共有する榎林式に引き継がれ、東北北部まで大木式系土器が拡大する中、円筒土器は終焉する。中期後葉から後期には、大木9式、10式。後期中葉には、加曽利B式系の土器が関東から北日本全体へと拡大していく。ただ、文様としては沈線の区画に地文を充填する手法が踏襲され、これらは縄文晩期の亀ヶ岡式の母体となるとともに、人の移動によって西日本でも製作されている。3 土器の変化にみる縄文社会の姿(縄文時代の時代区分について)(草創期)、早期、前期、中期、後期、晩期総体としてみると、中期にかけて加飾化が進み、その後、後期に向かって器種の文化と実用化の方向がある。加飾化は大木8b式で一気に収束に向かい、文様のバリエーションも少なく斉一性が高くなる。文様の流れを概観すると、当初は隆帯、沈線、隆沈線を問わず線描によって直接的に刻んだり貼付していた。大木3式にはじまり8a式で頂点。ところが、8b式の半ばから沈線間の磨り消しが始まり、隆帯の連結が増し、囲まれた領域は区画化する。9a9b式では隆帯、沈線の表現が徐々に欠落し区画のみが顕在化するに至る。つまり、直接線で表現する手法から、中抜き文字のように、区画による図像表現手法に転換している。やがて区画は、アルファベット的な様々な形に変化していく。その理由は明らかでないが、土器文様の役割の変化、例えば集団の中で神話や伝承を物語る機能から、より遠くの人から見える伝達手段への変化などが想像されようか。このように器種の文化と文様の変化のある中期後葉の考古資料の総体をみわたすと、拠点的な大規模集落が点在し遺跡数も増加する中、呪術や儀礼に関わる土製品、石製品が多様化し、複式炉が成立する。関東中部では、敷石住居がさかんに作られ、後期には配石墓が出現する。想像の域だが、これは縄文世界に起こった何らかの不調和への生態的精神的な対応であり、それを調整・修正するための装置とも考えられる。土器形式は一定の地域で似通った特徴を持ち、時間の推移の中で同様な変化をたどる。なぜ、そのような減少が起きるのか。それを考える前提として、土器づくりを担うのは古今東西女性が多い。この前提からすると、女性が結婚によって移動して故郷の土器を作る結果、土器が斉一化するとの仮説が支持されてきた。しかし、土器の文様表現の転換や器種多様化などの変化が、呪術具の増加、住居や炉の変化などの転換の時期と類似する現象も総合的に考察すると、女性が婚家で作るとの仮説だけで斉一性が起きるとは考えがたい。さらに、縄文時代は、植物質食料に依存し、平和を維持して政治的統合が低い社会であり、このような社会では妻方居住婚が多いとされる。これは抜歯研究やミトコンドリアDNA解析などでも否定されない。さらに、結婚後の居住形態は妻方夫方の二重居住が平安時代末まで続いた(鎌倉時代にようやく父系直系家族)とされることからは、妻方居住婚を含む形態が縄文時代にも存在したとも考えられ、前提自体が成り立たない。土器の作り手が移動しないのに一定の地域の土器が似通うのは、土器文様が集団間の区別を意識した積極的な役割を担っていた可能性がある(北米先住民の衣服やトーテムポールの文様、アイヌ文様が部族の神話の記憶装置であったように。)土器の搬入、製作者の移動などが考えられるが、関東甲信越に対して東北地方は土器形式の系統性が強く、胎土のバリエーションが乏しいのは、製作者集団の系統が世代を超えて錯綜しなかったからでないか。一方で、北緯40度を越えて大木式は円筒土器文化圏へ、円筒土器は北陸へ到達したことから、相互の交流は活発だった。交易を担う男性の動きを反映したものだろうが、大木8a式までは従来の系統を突き崩すまでに受容はされなかった。やがて、大木8a式末から8b式の土器の南への大拡散が起こり、大木式は積極的に受容される。これは、通常動きにくい土器製作者を含めて大規模なムラ単位の移動が繰り返し起こっていた可能性がある。寒冷化や何らかの外的要因か。一万年を越える縄文文化の中で、大木式と円筒土器の緩やかな形式変化は、関東や中央高地の多様な土器形式に比較して、人口密度や集団間の交流頻度の差などが予想されてきた。ミトコンドリアDNA分析では、関東に比べて東北北海道は地域集団の系統が複雑ではない予想を支持している。そして、穏やかな東北の土器が大量に関東や中央高地に大量に南下したことの意味は大きい。今後の実証的研究の進展に期待。■阿子島香編『東北の古代史1 北の原始時代』吉川弘文館、2015年 を参考にいたしました。(鹿又喜隆氏、水沢教子氏の執筆部分)
2016.03.28
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子が問う。都道府県名だけ大学名となっているのは国立が多いが、ない県もあるかな。事の発端は、仙台や東北大学は有名だが、宮城県は知られていないんじゃないか、仙台大学はあるが宮城大学は知られているだろうか、などという話題から。県立の「宮城」大学はあるが、「青森」大学はあるのか(子)、たしかに国立は弘前だが、私立で青森大があるぞ(親)。すると、影の薄い県、石川県とかは怪しいよ、私立でも金沢医科大とかいうし(子)。長野県もみんな信州と自称するから、私立でも長野大学は無いような気がするな(親)。愛知大はないんじゃないか(子)。それは私学であるが、栃木はどうか(親)。奈良も国立は奈良女子大で、奈良医科大もあるけど、奈良大学はないんじゃないか(子)。ということで、調べてみました。結果は、存在しないのが「石川大学」、「栃木大学」。奈良、沖縄、長野はそれぞれ存在する。石川県については、石川県立大学があるが、ほかは都市名の金沢を冠するものが多いようだ。栃木県は、宇都宮を冠するもののほか、自治医科、国際医療福祉、白鴎、獨協医科など独自のものがあるが、ずばり栃木を標榜する(四年制の)大学はないようだ。県立大がない事情も関係しそうだ。■関連する過去の記事 大学名あそび(2012年10月14日)(県名や都市名ごとに、それを冠する大学の数を拾ってみました。)
2016.03.23
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遠野市宮守の有名な陸橋。めがね橋。賢治の銀河鉄道の夜のイメージとされる。道の駅みやもりに駐車して、猿ヶ石川のほとりから見上げてみた。写真を撮ったとき、ちょうど正午のメロディが流れていた。実は花巻方面からここに向かう国道を走っているときに、花巻に向かう3両の汽車とすれちがった。時刻表を確認したら、宮守駅を出た快速のようで、この後しばらく列車は橋を通らないようだ。暖かい春の陽に包まれた川の水の冷たさを確認して、駐車場に駆け上がると、河畔の階段をゆっくり下りて来る若いカップルに出会った。遠野市内に足を伸ばしたい気持ちもあったのだが、3時には帰宅しなければならない。道の駅でわさびソフトを子ども達に買い求めて、高速道を仙台に戻ったのだった。
2016.03.21
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晴れた春の日、花巻市の中心部。マルカンデパートに行く。市内は人通りも見えない。この老舗百貨店も、ほとんどのフロアに来客はないようだ。しかし、6階だけは、びっくりするような数の人々。行列は階段を経由して7階のスペースにまで及んでいる。1時間ほど待っただろうか。家族は思い思いの注文。私はマルカンラーメン。名物のソフトクリームもいただく。昭和の雰囲気の大食堂として人気が高いらしい。すでに訪問暦のある家族は、行列もいとわず得意になっている。私はあまり乗り気ではなかったが、県中の拠点都市花巻の街中を訪れることはあまり無かったし、展望もすばらしいので良い思い出になった。子ども達も思い思いに写真を撮ったりしたようだ。同様の思いを抱いているような家族連れやシルバー世代で、本当に賑やかだった。この建物は1973年開店。耐震性に問題があるということで、今年の6月で全面閉鎖する予定。張り紙も出ていた。スーパーや郊外型立地の複合商業施設に客足を奪われたのだろうか。百円ショップや市内高校の制服を承る衣料フロアなどが目につくが、来客はほとんどが6階の食堂と言って良いようだ。ところで、花巻市内に宿泊して今日の朝、ホテルロビーの河北新報と岩手日報に記事が出ていた。市内で空き店舗のリノベーションを手がける会社が、マルカンの運営の引継を目指してテナントの募集を企画しているという。この会社がマルカンから転貸の権利を得て、1階から5階までのフロアにはテナントを募集し、物販や事務所を入れる。金融機関やクラウドファンディングで融資を得て、耐震改修コストを10年程度で回収できるか。食堂も継続を検討している。5月までに結論を出すという。まさに、今ドキのビジネス。市長も支援を検討するという。町の再生として成功できるかどうか、大いに見守りたい。■関連する過去の記事 東北のデパート(百貨店協会加盟店)(08年4月24日)
2016.03.21
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離島の水道はどうなっているのか気になった。あれこれ調べてみると、本土側から海底の送水管で供給しているそうだ。宮城県内の有人離島はすべて普及率100%となっている。簡易水道施設もあるようだが、安定供給のためには送水管が必要なのだろう。5年前の大震災ではこの海底の配水管に破断や漏水があったという。塩竈市のサイトに、浦戸諸島の水道について説明がある。面積が狭く河川もない島のため、雨水の表土浸透水に依存していた。昭和40年から41年に簡易水道を敷設。浅い湾内のため、国内で初めて台船布設という工法がとられた。伊保石砂防ダムから取水し、松島湾海底を125ミリ鋼管で送水。石浜配水池から自然流下によって4島5地区に供給するというもの。さらに昭和50年からは海底送水管250ミリを設け、配水池も増設。大倉ダムや七ヶ宿ダムから長い距離をかけて水が送られている。
2016.03.17
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昨日は仙台防災未来フォーラム2016に参加した。国際センターと博物館で行われている各セッションを行ったり来たり、大変充実した内容で、防災行動を仙台から世界に発信する意義を改めて強く感じた。防災・減災のために何をすべきか、どのような課題認識を持って我々は対応していくべきかの私の本業に関する中身の議論はさまざまあるのだが、当ブログ編集長としては地域づくりの視点で大変興味深く思ったことを記したい。内閣府主催の地区防災計画フォーラムでは、地区防災計画づくりと実践に関する全国20の取組事例が紹介された。高齢者、学校との関係、企業との連携、活動承継の課題などなど非常に多くの論点が浮き彫りとなり、同時に解決への鍵も多かった。また、応急対応だけでなくその後の5年10年の取組プロセスも視野にいれた「事前復興」の考え方、また、自治会に入っていない人への対応、別荘滞在者などの対応なども視点も提示された。こう考えると、地区防災計画づくりは、まさに地域づくり、まちづくりと重なってくる。お仕着せのプロトタイプでは役に立たないのであって、その地域の生の姿に見合って地域を生かし続けるための計画だからだ。中でも一つ。福井県あわら市の吉崎地区の方のお話があった。まず、吉崎地区の市街地の中を、福井県と石川県(加賀市)の県境が分断している。県境またぐ町なのだ。日本海地震の津波想定は、両県で異なる。そして、避難場所は、石川県域も含めて、福井県側にある吉崎小学校に指定されている。県境をまたいで共同で防災訓練を実施しているという素晴らしい取組が行われている。まさに、命は一つ。こんな「県境またぐ町」の存在が、まず驚きだった。かつて石井裕さんの県境に関する本を読んで、山形県の鼠ヶ関が同様に新潟県境を抱えているのを知った。十和田湖のほとりでも青森秋田両県の境がある。■関連する過去の記事 鼠ヶ関と県境(10年9月25日)市町村境をまたぐ市街地という視点で探してみると、もっとあるように思う。仙台市縁辺のように市街地膨張で市境を突き抜けて連たんしたケースを別にすると、どこがあるだろうか。例えば、大河原町と柴田町(旧船岡町)。距離は近いながらも間に丘陵地を挟み、かたや船岡城をいだく城下町、かたや宿場町として形成されただろう。明治以降だと思うが、大河原駅の周辺の住宅地形成が船岡町分に入り込んだ。現在の西住町(西住小学校は昭和58年開校)の名も船岡(柴田町)の西という意味だろうか。■関連する過去の記事 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日)また、旧築館町と旧志波姫町。築館市街地を南北に縦貫する国道4号は、東北電力支店のあたりで旧志波姫町域を走っている。ここの辺りは、比較的最近まで旧築館の町場の外の田畑地帯だったろう。福井・石川の吉崎の場合は、古く藩政時代に町場を両国に分けたか、あるいは地物による境界にある寺社などの拠点的施設の両側に宿場が形成されたなどの事情だろう。このように古くから境を抱えてできた町というのは、宮城県内にはないように思う。
2016.03.13
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今日は東日本大震災から5周年。自分の脳が記憶を消そうと動いているのを感じていたから、先週から当時の記録本を読み込んでいた。事実や報道を、思い出すと同時に、自分は何ができたのだろうか、という反省や自責が沸き起こる。これが当時を思い出したくないという自動的な脳内の機制なのだろうが。震災に関しては、実にさまざまなことを論じたいが、ここでは一つだけ。2月24日(火)の朝日新聞の声の欄にあったもの。どうも今でも頭に残っている。「どう思いますか」のコーナーで、1月19日付の茨城県の読者の投稿「指定廃棄物は福島県内で管理を」について、4人の読者の意見が掲載されている。その1人目の方の意見だ。「地元は原発を受け入れ、潤沢な交付金を受けてきました。受け入れの恩恵は享受するが、原発から出た汚染廃棄物は管理しないというのは無責任ではないでしょうか。原発の廃炉に伴って出るものも含め、廃棄物については立地自治体が引き受けるのは、やむを得ないと思います。国の政策の結果として原発を受け入れたとはいえ、立地自治体としての責任を免れるわけではないからです。」という記述(文中の赤字は当ジャーナルで施した)。これに続いて、1月19日付けの投稿のような意見をこれまで議論して来なかった政治やマスコミの怠慢を指摘している。角を立てるのを避けるのではなく、あえてこうした問題提起をする趣旨だと結んでいる。これは、大変驚いた。端的に言えば、福島原発事故の影響を地域の住民が受けている現状は、電源交付金などの恩恵を受けてきたのだから仕方ないという論旨だ。いくら、多角的な意見を広く紹介するという趣旨だとしても、大新聞がこんなおかしな意見を載せるのか、という率直な感想だ。この人の論理は、全く誤っている。論理的に反駁する気も起きないほど悲しい意見だと反射的に感じてしまい、忘れようとしたのだが、逆に頭に残ってしまっているので、いま、多少論理的に考えてみよう。まず、論評の対象とされた1月19日の投稿。指定廃棄物の管理は宮城を含め各県で問題となっており、環境省は各県ごとの処理を進める方針だ。私は、指定廃棄物の管理や処分の場所をどうするかは、政策選択の問題だと思っている。投稿者のように福島で管理するのも結論としては一案だ。福島は大変なのだからこれ以上不都合を押しつけるな、という論調も非常に強いが、他県でも不都合を押しつけられている状況は同様であって、そこに、福島の被災者や被災地をことさら優先するかのような「情の先行」があるとすれば、そうではなくてより客観的で合理的な解決策として論議されても良いとは思う。その意味で、1人目の意見が、あえて角を立てようと論陣を張ることはわからないではない。問題は、その立論のあまりにひどい内容。とんでもない「情」の暴露だ。まず、原発立地地域はカネもらったのだから何かあったときの不利益を甘受していいというのは、全く筋が違う。立地地域の意識としても、カネを受けて原発立地を許容したのは、雇用が生じる、学校教育施設が向上するなどの地域活性化を期待したからだろう。そういえば「最後は金目(カネメ)でしょ」と発言した閣僚がいたが、まあたしかに最後はカネだとして、そのカネは危険性を引き受けますからという対価ではないのだ。国策として原子力を推進するため、科学的に検討して選んだ(はずの)特定の地域に対しての折衝を進める上での解決金とでもいうべきものであって、地域側から主体的にアプローチできたものでもない。百歩も千歩も譲って、電源交付金を配った側の東電や国に、何らかの地域に対する「免責」がある(地域からすれば何らかの不利益を引き受けた)としても、それは、例えば避難訓練の手間や近くに異質なプラントを置くことの抽象的な不安感などを、少し和らげるためという程度というべきでないか。原発運転上の具体的な過誤まで免責するものであるはずがない。被害は極めて広汎で甚大で長期間に過ぎて、この投稿者はたっぷり配ったというかもしれないが、電源交付金の比では全くない。住んでいた地域に戻れない、コミュニティも分断された、先が見通せない。投書した人は明日に被災地に足を運んで見てほしい。明後日には、離れた場所でまだ何年も暮らさねばならないお年寄りの話でも聞いてほしい。時間が止まったとよく言うが、人間の年齢は進んでいく。そもそも、この意見はおそらく、まずは(非論理的レベルで)福島事故は人災だ、原発は悪だ、原子力ムラの閉鎖体質が根源、立地地域をカネで黙らせる、などの方式の原子力悪者論が先にあって、そこから後付け的な理屈で、立地地域はカネでこんな悪いことだらけの原発を受け入れたのだ、と一方的に決めつける。カネで受け入れたというだけならまだ良いのだが、それを地域住民が悪の原発コンプレックスの一味だと単純に位置づける。非常に困った見方だ。たぶん、従来から原発銀座はカネで潤っているとラベルを貼っている人なのだろう。汗流して働く生活を放棄したとでも見ているのか。美しい野山を放射能汚染に晒しても構わないと判断したとでも思っているのだろうか。そうかも知れないというより、そうなのだろう。悲しいことだ。電源交付金くらいで、その住民と茨城や東京都民とで何がどう違うというのか。ちなみに、合計で4人の読者の意見があるが、2人目の方は、好きこのんで福島の立地地域が受け入れた訳ではない、豊かな都民が不利益をいやがって地域に押しつけする論理に過ぎない、とする。これは冷静で適切な見解。もちろん私としては、福島で管理すべきかどうかの結論はどちらでもいいのであって、好きこのんで立地地域が原発を受け入れたのではないという見方について、正しいと言いたい。3人目の方は宮城県の人。事故の影響を受けている福島は負担が大きいことを重視。1人目の投稿者からすれば、それこそ情に流された見解と評されるだろう。同じく宮城県の4人目の方は、情に流されがちな中で勇気を持った投稿だと敬意を示している。立地自治体も安全神話を信じて国策に協力した自分たちを責めているのではないか、とまで述べている。電力自由化になるので、消費者は事故などにも想像力を働かせて電力会社を選ぶべき、という全くトンチンカンな意見で結ばれている。被災地域は災害直後の対応や復興に際して、これまでさまざまな局面で反省や後悔はあるだろう。震災前に原発立地を受け入れた判断についても当然さまざまな評価があろう。しかし、原発立地自治体が原発の安全性に関して自責の念をもっているはずなどという論評はまったく当てはまらない。そもそも安全性を担保する立場ではないし、従って(いくらカネをもらったとしても)事故について帰責されるいわれがない。これも1人目と通底したラベリングだ。朝日新聞によると、(単純化して言えば)国民の半分はこのような極めて硬直な思考方式で、福島原発立地地域は自治体も住民も悪だと見ていることになる、のか。私自身は、こう考える。たしかに被災者優先論のような情に流れる風潮があるかも知れない。これと表裏をなして、相当なやっかみ意識が一部国民にあることも事実だろう。具体的には、医療費、学費、生活環境などで国民全般の負担のもとに過度の恩恵を受けているなどとする見方だ。そんな反作用的な「情」の流れがほとばしって、原発事故被災地も過去に恩恵を受けていたなどと決めつけるのだろう。東京など原発立地地域ではない大多数の国民は、もっぱら原発事故を被害者の立場でしか考えないだろうことが、このような流れを増幅させる。だが、この反作用的な流れは、大変危険だ。メディアには、こんな「情」の善し悪し論議ごっこよりも、せめて率直に被災の実態を読者に報じることに注力してほしい。
2016.03.11
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きのう東北大学の前期の合格発表があり、今朝の新聞には大手予備校の「合格体験記」がさっそく載っている。わが家の大学一年生は、一浪した高校の同級生たちの名を続々と見つけては、大いに喜んでいた。良かった良かったと。ところで、雑談の中で素朴な疑問がいくつか出てきた。(1)昨日の発表で、昨日のうちに新聞広告用の原稿を合格者に書かせて出すとは、何と早いことか(2)なぜ現役合格者でなく過卒者を中心にするのか(3)卒業した高校名まで出す必要があるのか(1)については、どうせ受験生は後期日程のために予備校に通っているから、予備校の建物内で呼びかけて書かせたのでないか、というのが子の推測。そうかも知れない。(2)は、広告を出す予備校の側からみれば、前期日程で合格しなかった人に見てほしいのだ。つまり、現役合格者はビジネスの相手でないのだ。合格できなかった受験生に、わが予備校でがんばりませんか、というメッセージなのだ。これは私の推測。予備校には現役向けのコースもあるし、そのための営業も必要ではあるが、それは今このタイミングで打つ必要はない。合格発表のタイミングですべきことは、不合格者あるいは後期日程に迷いを持ったり併願私立に入るかどうか悩んでいる受験生達に向けて、予備校生活を選択させることなのだ。これに、子も納得。こう考えると、(3)もうなずける。自分の学校の先輩が、1年がんばって合格したのだ。かりにその人のことを知らなくても、親近感や現実感がわいて1年間予備校生活をする決意に繋がる...と。
2016.03.10
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■人類の渡来人類が日本列島に現れたのは最後の間氷期(リス・ウルム間氷期)になってからであり、約13万年前(酸素同位体ステージ5e)以降。このとき気候は一時的に現代よりも温暖とみられており、その後約7万5千年から6万年前がステージ4の寒冷期、約2万8千年から1万2千年前がステージ2の寒冷期(ウルム氷期の最氷期)。新人(現生人類)の渡来は約4万年前で、アフリカ起源の新人類の世界的拡散の流れと一致する。(年代の説明)・地球は寒冷な時期(氷期)と温暖な時期(間氷期)を繰り返してきた。・現在は温暖な間氷期。・その前の間氷期(最終間氷期)は、約13万年から7万5千年前である。・その後、氷期があり(最終氷期)、約7万5千年から1万5千年前。・最終氷期のうち、約6万年前までが寒冷期で、その後約3万年間の比較的温暖な「亜間氷期」があり、続く約2万8千年前から1万5千年前に厳しい寒冷期が存在した。・2万8千年前から2万4千年前は、特に寒冷な最終氷期最寒冷期とされている。・氷期には大陸氷床が拡大して海水面が低下。最終氷期最寒冷期には現在より約120m海面が低下したと考えられる。・寒冷期の日本は、北はサハリンから北海道、南千島までが陸続きで、西は九州、四国、瀬戸内、本州がつながっていた。・津軽海峡と朝鮮海峡は寒冷期にも存在した。日本海に入る暖流はほぼ遮断されたため、日本海側の多雪はなく、降水量の少ない乾燥した気候だったと考えられる。・後期旧石器時代は、約4万年から1万5千年前の最終氷期後半の特に寒冷な時期にあたる。泥河湾盆地(河北省、山西省)の遺跡など100万年以上にもさかのぼるアジア大陸と比較すると、列島の古人類の適応放散はかなり遅れているが、愛知県加生沢、岐阜県西坂などの遺跡が最終間氷期にさかのぼる可能性が指摘されている。すなわち、後期旧石器時代の開始時期である約4万年から3万6千年前より以前(前期旧石器時代)の可能性である。■学界の状況長い間、縄文時代が日本列島最古の文化とみられてきたが、縄文以前の可能性は1949年の岩宿の発掘によって切りひらかれた。芹沢長介は大分県早水台(1964年調査)を10万年以上前の遺跡として、3万年前より遡る時代を日本の前期旧石器時代と区分した。しかし学界の多数の認めるところとはならず(前期旧石器存否論争)。一方、宮城県では石器文化談話会を中心に、宮城県座散乱木遺跡で確実な旧石器が出土したとして論争は終結したとされた(1981年)。最古の人類は70年前にまでさかのぼると誤った考えが教科書にまで掲載された。2000年の毎日のスクープで捏造が発覚。前期旧石器研究は70年代の状況に後退。いまだに、後期旧石器以前の文化については学説は分かれており、新たな調査研究が行われている一方で、以前の文化を認めない考えも強く、列島には新人段階ではじめて人類が渡来したとの立場をとる研究者も多い現状である。■旧石器時代人の活動早水台は調査により、5万年前より以前と考えられる。栃木市向山遺跡、遠野市金取遺跡、桐生市鶴ヶ谷東遺跡など、5万年から7万年前の日本列島の石器は、全体としてみれば東アジアに拡散した中期旧石器文化に位置づけすることができる。狩猟と採集を主とした後期旧石器時代の人類は、動植物の変化に影響を受けた。最終氷期最寒冷期の東北は、グイマツを伴う亜寒帯性針葉樹林が広がっていたと考えられる。仙台市富沢遺跡。また、東北南部の日本海側ではブナを伴う冷温帯針広混交林が広がっていたと考えられる。最終氷期の動物相は、2つの要素からなる。1つは、東シナ海に陸橋が形成された約43万年前に成立した動物群で、ナウマンゾウ、ヤベオオツノジカ、ニホンムカシジカ、ツキノワグマなど。他の1つは、最終氷期最寒冷期にサハリン経由で北海道、さらに本州に流入したマンモス動物群であり、岩手県花泉のヘラジカ、オーロックス、ステップバイソンなど大型哺乳類の化石が確認された。しかし、本州ではマンソスゾウは確認できず、流入は限られていたが、これは動物群が閉鎖していない津軽海峡の「氷橋」を渡ったためと考えられている。後期旧石器時代の人類は移動する動物群を追って居住地を転々する居住形態(遊動)と考えられ、数家族20人前後の集団が単位だった。石器群の変遷をみると、まず、後期旧石器時代前半は台形様石器とナイフで構成され(3万6・7千年前から3万2・3千年前)、東北日本全域で確認される。最終氷期最寒冷期の前の比較的温暖な時期で、ナウマンゾウなど大型動物がまだいた。これに続いて、石刃技術を主体とする石刃石器群が盛行する(2万5千年前まで)。これまで東山石器群と呼ばれたものが中心で、ナイフが槍先の主体を占め、エンドスクレイパーは皮の加工に使用されたと考えられる。東北日本のほぼ全域で出土し、遺跡数が最も多い。石材消費が組織化され、原産地で集中的に製作した石器を携帯するなど、計画的な生業があったと考えられ、深浦産黒曜石など石材の広域移動から、列島縦貫方向など遊動範囲の広さも想定される。最終氷期最寒冷期の最も寒い時期であり、草原や湿地が拡大した時期。ヘラジカ、ヤギュウなどのマンモス動物群が流入したと考えられ、移動する大型動物を追ったため広範囲を遊動したと考えられる。富沢遺跡で復元されたような湿原・草原と明るい林のような開かれた景観での狩猟が主だったと思われる。その後には、薄型の石刃を素材とする基部加工や二縁側加工ナイフなどが盛行する。約2万3千年前後。杉久保石器群が代表で、神山型彫刻刀を使用した作業量の多さが推測される。森林環境にあった東北日本南部の日本海側に遺跡が多いことから、シカなどの中型小型動物を対象として森林の中で待ち伏せ猟が行われたのではないか。これに応じて遊動範囲も狭くなった。その後続は、尖頭器石器群。和賀仙人遺跡では杉久保型も出土し、連続性がうかがえる。年代は約2万年前後。東北日本全域で確認され、他では関東から長野県に多い。石材は山形県上野A遺跡で珪質頁岩の原産地が確認された。後続する縄文時代初頭の石器群に受け継がれている可能性が注目される。以上の変遷のなかで、AT降灰(鹿児島県を給源とする約3万年前の姶良丹沢火山灰)後の大型石刃石器群の時期に西日本の要素(国府形ナイフなど)を持つ石器群がある。山形県越中山遺跡K、山形県上ミ野A遺跡など。北は秋田県まで分布が確認される。これは、異文化集団の接触の視点が想定される。西日本由来の集団との接触や技術の伝達などの交流がうかがえる。国府石器群の本場の近畿・瀬戸内の遺跡数が急激に増加する時期なので、環境を要因として西日本で人口増加があったのでないか。■阿子島香編『東北の古代史1 北の原始時代』吉川弘文館、2015年(うち阿子島香、沢田敦の両氏執筆部分)を参考にいたしました。このシリーズは、東北古代史の最新の研究状況をわかりやすく勉強できる最適のテキストと思う。第3巻まで出ているので、日曜や平日の深夜などに一気に読み進めたいと思っています。読みながら自分の整理として当ブログにつづっております。
2016.03.06
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民主と維新が合流することになり、党名を公募するという。ところで、複数の週刊誌が報じていることだが、寡黙ながら野党大連合に向けて布石を打ってきた岡田代表を突き動かしたのは、ほかならぬ昨年の宮城県議選。共産が倍増の8議席、民主は2議席減らした。今のままの民主党の末路を予感し、また、安倍政権の批判票を受け止める野党の体制の必要性を痛感したということだろうか。その宮城では、夏の参院選で共産党が候補者取り下げを決定。野党が民主の桜井参院議員に一本化する体制ができた。自民は熊谷氏が再選をめざすが、今回から定数が1人に減り、相当激戦が予想される。第三極を目指してきた勢力が離合を繰り返して残ったのが維新。民主とは、例えば公務員制度改革などで温度差が大きいだろう。そして、共産党だが、さすがに革命を実行するとの言葉は消えているだろうが、共産主義社会実現を綱領に明記した政党であって、野党と言うだけが共通点であって政治観は根本的に違う。国民生活に影響する政策などでの共通性はあるとしても、国会での活動に際しての協定や統一行動はありえようが、有権者との接点であり政治への窓口である選挙の段階で既に「一本化」してしまっては、当の有権者はどうすればいいのか。もっとも、大多数の国民はそこまで深刻には考えないだろうが、(政治観はともかく)少なくとも主要政策についてしっかりと「統一候補」が語れるようにしなければならない。なりふり構わない民主党の対応のようにも見えるが、党勢の今後を熟考していることは間違いない。それに、党衆参同日選の可能性もある。安倍総理が党内の反対を抑えこむようにあえて衆院定数削減の発言をしたり、野党のみだれをつくような改憲発言。さらには辺野古の訴訟和解で知事と握手してみせたり。同日選挙があるかも知れない。
2016.03.05
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