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北海道ではアイヌ語地名が多いが、稚内などのナイは全道の地名の2割強、登別などベツ(ペツ)と妹背牛や羅臼などウシ(ウス、イシ)がそれぞれ1割強になるという。このほか、オマ(オマイ、マイ、マエ)もよくみられる(苫小牧、簾舞など)。ナイとベツは、川や沢の意味で、ウシやオマは(~が)あるところの意味とされる。山田秀三の踏査により東北北部にもアイヌ語地名が濃密に分布することがわかったが、遠く離れた地にそっくりの地名があらわれることがよくある。例えば、幌内(ポロ・ナイ。大きい沢の意)という地名は北海道各地にあるが、東北では、津軽半島に袰内(ほろない)、宮城県の荒雄岳北麓に保呂内があり、しかも、現地は語義そのままの地形である。また、北海道浦臼町の札比内(サッ・ピ・ナイ)は涸れた小さな川の意味だが、岩手県内に佐比内という地名が3か所もある。浦臼町と同様、遠野市の佐比内には砂利底の涸れ川が確認された。なお、栗原市の猿飛来(さっぴらい)もこれが訛ったものだろう。離れた場所にあるのに、地形まで一致する地名があると言うことは、アイヌ語系統の言葉を話す人々が東北に広く住んでいたのである。山田によると、宮城県北部、秋田山形県境から南におりるとアイヌ語地名が希薄になることから、このあたりを南限とした。宮城県では、北部に登米(とよま)、尿前(しとまえ)などのオマ地名があるが、仙台周辺にはみられない。これらの地域で人々がいつ頃までアイヌ語系統の言葉を話していたか。中世以降の蝦夷(アイヌ)は津軽下北両半島の突端部から北にしか住んでいないので、おおざっぱに、中世以前のことであることは間違いない。すると、古代の蝦夷(えみし)はアイヌ語系統の言葉を話した可能性が高いことになる。蝦夷の一部が倭人と異なる言葉を話したことは、古代の文献資料からも裏付けられる。日本語と区別して「夷語」とされ、しかも、平安時代の鎮守府には通訳が置かれていた。(『藤原保則伝』によれば、元慶の乱の直後に鎮守将軍に任命された小野春風は、幼少の頃陸奥で過ごして夷語に通じていたので、現在の鹿角市あたりの反乱軍に入って説得を行い、意気に感じた多くの蝦夷が投降したという。)当時、倭人のほとんどは夷語を話すことができず、通訳を必要としたのである。これとアイヌ語地名研究の成果をあわせれば、夷語とはアイヌ語系統の言語とみて間違いないだろう。■熊谷公男編『東北の古代史3 蝦夷と城柵の時代』吉川弘文館、2015年 熊谷公男氏執筆のコラムの部分を参考にしました。上記のホロナイ地名のうち、津軽半島の袰内は中泊町小泊にある。小泊とはいっても、小泊の町とははるかに離れており、龍飛崎のすぐそば。外ヶ浜町三厩と境を接している龍飛裏海岸に、袰内川が注ぎ込んでおり、その河口部付近の地名だ。青森県では、十和田湖の北に幌内の地名がある。大幌内川、小幌内川、大幌内牧場などが地図で確認できる。大崎市鳴子温泉鬼首の荒雄岳北麓には、岩入地区周辺に保呂内沢がある。県道沼倉鳴子線沿いに、保呂内の地名も地図上で確認できる。
2016.02.27
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ついに今日、全国集計がでた。報道としては、まず、国勢調査人口が初めてマイナスになったことや東京集中が進んでいることが言われている。だが、東北人としては、震災の影響を含む東北の真の姿がどうだったか、だ。今回は人口や世帯数だけなので、年齢区分別や通勤通学状況などがわからないから詳しい分析はできないのだが、それでも象徴的ながらも、かなりのことが浮かび上がっていると言えるだろう。まず、人口減少。秋田県が全国で最高(最低)の減少率。5.8%だ。下位から、秋田、福島、青森、高知、山形、和歌山、岩手...と、東北が際だっている。このうち、福島は前回国調より大きく下がったのは大震災の影響だが、その他の県は、前回も高い減少率であったのが更に低下していることは深刻だ。比較するに、鳥取、島根は前回の減少率よりは持ち直している。実は、東北では岩手もそうだ。秋田、青森、山形とはこの点で分かれた形だ。次に、大震災の影響。これは複雑だ。福島県が大きく減少したのは、全町避難で人口ゼロの4町を抱えるなどの特殊事情だが、市町村単位で見れば、岩手、宮城でも激減の市町村が多い。全国の市町村で人口減少数が高いのは、北九州市、長崎市に次いで、第3位が石巻市(13590人)だ。また、気仙沼市が12位。逆に仙台市は全国7位の増加数(36199人)で、これは震災の影響と無縁ではない。宮城県全体では前回より減少率が増加したものの、減少した道府県中では、大阪、広島に次いで3番目の「好成績」だった。大震災は、津波被害地で人口減少をもたらした一方で、内陸部に人口移動と集中を招いているのである。なお、人口減少率の高い市町村でみると(全域が避難指示区域の町村を除く)、楢葉町(-87.3%)を筆頭に、女川町(-37.0)、南三陸町(-29.0)、川内村、山元町と続く。悔しくて悲しいことだ。逆に増加率の高いのは、大和町(全国第3位で13.5%)、富谷町(全国第13位)がある。東北の各県も、地域によってずいぶんと事情が異なるということだ。最後に、世帯増減率について触れておきたい。沖縄がダントツで第一位。7.6%の増だ。次いで第2位が何と宮城県で、4.8%だ。以下、東京、埼玉、愛知と続く。宮城の2位はもちろん大震災の影響だろう。世帯あたり人員は、前回(平成22)の2.60から2.47と大きく下がった。東北各県の情勢、また前にちょっとふれたが、男女比などについて、後に調べて記します。■関連する過去の記事(平成27国勢調査関係) 福岡市の人口が神戸市を上回る(2016年2月21日) 人口の男女比の地域差を考える(2016年1月14日) 国勢調査速報と山形市の人口ビジョン(2015年12月28日)
2016.02.26
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先日、山形県で32年間無免許のまま県立学校教諭として教えていた件で、任用無効の法理などについて記した。■ 山形県教委の教員任用無効の法理を考える(2016年2月23日)この女性が受給した1億数千万円の給与は、全額返還となるのかどうか。ここには様々な論点が含まれている。前回の記事では、理論上は女性による根拠のない労務提供が県側の不当利得となり、県側はこれを女性に返還すべき義務を負うから、女性の負う給与返還義務と相殺できる余地があると書いた。より突っ込んで考えてみたい。(思いつくままに記す。判例や学説の検討などは後回しです。)1 労務提供による不当利得が成立するかまず、女性の給与返還義務については、受益者である女性は悪意というべきで(法律上の原因を欠くことを知っている)、利息を付して返還する義務を負う(民法704条)。ここは問題ないだろう。そして、労務提供という県の受益の返還義務が問題となるが、受益者の県が善意とみるならば、返還額は現存利益に縮減されることになる(703条)。(県側には、しっかり調べるべきだという落ち度には大きいものがあるが、まずは善意であることとする。)なお、受益及び現存利益の存否が一応問題となるが、ともかくも7700人に授業を教えて単位を与えて、あるいは生徒指導をして卒業させたきたのだから、当人がいなければ他の教員を一人任用して従事させねばならなかったはずで、利益は存在したのであり、また、生徒達が卒業したということからは高校教育を施すという県の「利益」は現存していると考えて良いように思われる。ただし、女性の労務提供は、その義務が本来存在しないことを知って行ってきたのだから、非債弁済(705条)であって女性側に返還請求権は生じないとも言えそうだ。この論点は相当に微妙な気がする。形式的にみれば、たしかに免許状がないことを知って任用されたし、いつでも白状して自ら違法状態を解消できた(そうすべき)だったから、法の保護に値しないというのは、正論だ。しかし、実質的に考えると、どうか。そもそも不当利得や非債弁済の制度があるのは、当事者の公平の観点から適正な結果を導くためのもの。実態としては、学校や生徒の求めに応じて長年にわたり教育活動を実践していたこと、教育を通じた人間関係を形成し、さらには給与が女性の生活基盤であったことなどを、どこまで評価してやれるか(やるべきか)。2 時効の適用不当利得の返還請求権の消滅時効期間は10年間。起算点は、請求できる時点であるから、県側の給与返還請求権は無免許を知った時点(つい最近)で、さほど問題はない。問題は、女性側の返還請求権(上記の検討で請求権が発生するとして)で、起算点は権利行使できた時点(166条)、すなわち最も早くには任用された時点にさかのぼるということができるだろう。そして、その後、継続的に労務を提供したから、その時点時点で返還請求権の消滅時効が起算しているということになるのではないだろうか。結果として、現在から10年前までの部分については、女性は県の時効援用を拒むことができる、つまり県に返還請求できるということになると考える。3 民法の適用があるかさて、ことは公務員の任免と公務労働の問題だから、一般私人関係を律する民法の適用があるかが、そもそも問題となる。時効の期間や援用の要否などで違いが出ると思われるが、任免関係を通説である行政行為とみるか契約説をとるかどうかにかかわらず、勤務に基づく給与支給や労務提供の問題は、公の債権としての規律をあてはめるべきではないと考える。以上、後に時間を見つけて補充します。
2016.02.25
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山形県で、県立高校の保健体育科教諭が32年間にわたり、無免許のまま授業を続けていたという。これまで4校でのべ7700人の生徒を指導した。22日、県教委は採用時に遡ってこの55歳の女性教諭の任用を無効にしたと発表。山形新聞によると、この女性は県外の大学で教職課程を履修したものの、免許状の申請をしないで1982年度末に卒業した。翌83年度の採用試験を受けて84年4月に採用された。その後、2009年度から教員免許の更新制度が導入されて、10年に一度を基本にして更新が必要となった。この女性の場合、2016年1月までに手続を完了させねばならないこととなったのだが、更新の際に必要な免許状の写しを提出できなかったため、勤務校の校長が本人に確認してわかったという。なお、県教委では、更新制度導入に備えて、08年8月に調査票を配って免許状の登録番号などを確認したのだが、この女性は提出しなかった。また、14年9月にも全教員に免許状のコピー提出を求めたが、女性は実家にあって手許にないなどと逃れていたのだという。勤務校では10回催促したと言うことだが、本人が一番悪いのはもちろんとしても、確認できないままに違法状態を長引かせてきた学校や県教委の責任は重い。ところで、なぜ大学卒業時に免許状を取得していなかったのかと素朴に疑問に思うのだが、山形新聞によれば、この女性はその頃体調不良で大学が一括して行う免許状申請の手続きができなかったのだとか。別の仕事を経験して、卒業した83年に採用試験を受験した。県教委は当時の資料を検証したが、本来あるはずの免許状の写しが無く、当時の関係者もいない。県教委では、これまで支払った給与1億数千万円の返還と教職免許法違反での告訴を検討するという。これまで担当した授業については、文科省の見解に基づき、学習指導要領に従った指導であったことから有効と判断して、(元)生徒の補修などは不要としている。こんなことは、極めてまれなケースだろう。しかし、あったのだ。県教委が任用を無効としたことについては、行政法上の非常に興味深い論点を含んでいるように思う。以下、述べてみる。まず、任用行為無効の点について。公務員の任用は、欠格条項に該当しないことなどの法定の要件を備えなければならないことは当然である。例えば、禁錮以上の刑に処せられて執行猶予中などは欠格事由だ。教員の場合は、教育法規上免許が必要なのだがら、これも採用時に資格として持っていなければならない。ただし、現実に、いったん任用が成された後に欠格が明らかになることがあり得ないではない。(今回の山形の件は、発覚したものとして過去最長のケースかも。)この場合に、欠格者の任用は当然に無効となる。任命者の何らかの行為(取消とか)が必要なのではなく、当然に無効だ。すなわち、任用の時に遡って何事もなかったことになる。(任用の際に備えるべき要件のうちでも、例えば健康診断書が適切でなかったとか、何らかの書類が不備だったなどのものなら、事後的に追完も許されようが、法が明確に定めている欠格事由であり、実質的にも公務員(教員)が信頼される行政(教育)のために備えるべき資質というべきものである以上、こう解する他はない。)従って、理由がなく支出されていた給与も当然に返還すべきことになる。もっとも、その者が労働をしていた事実はあるから、理論的には労務提供によって利得を得た役所側も、根拠なく受けた不当利得を(金銭で)返還すべき義務を負うことになり、任用された者の負う不当利得(給与)返還義務と相殺される余地があると考えられる。次に、この者が行った行為の有効性について。本来は無効の任用だから、教育活動もすべてなかったことにするのが、筋である。しかし、それではあまりに影響が大きい。7700人全員高校に戻ってこい、とは実際にできない。そこで、最低限、学習指導要領に従って授業内容は適切だったということを前提にして、この先生の授業や単位認定や生徒指導は、適法だったものとしているのだ。学習指導要領を持ち出すのはいかにも苦しい理由付けだが、それもこれも(元)生徒のためだ。この先生を擁護するためではない。ここで間違っていけないのは、この女性が(教員免許状を申請し忘れただけで)本当は正規教員と同様の能力があるから、授業を追認したという理由ではないということ。長年がんばった女性のための配慮、などではないのだ。車の運転は昔から知っているからとか、今まで全く事故もないから、といくら言われても(それが実際そのとおりだとしても)、ちゃんと運転免許を取得していない人間にハンドルを握らせるバス会社が許されるはずがない。あくまで、(元)生徒の不利益を回避するためだけなのだ。かりに、新任直後の1か月目で無免許が発覚したというのなら、サッサと別の本当の先生に一から授業をやりなおすようにするだろう。行政法総論でいうならば、先行行為が無効である以上、その後には何も生まれないはずだが、事実上の公務員の法理を持ち出して説明、だろうか。(画像は直接記事内容と関係ないです。山形市内の名店ですね。)
2016.02.23
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衆院定数の削減が現実的な段階に動き出した。先週の野田元首相と安倍総理の討論で思い起こす人たちも多いだろうが、自民が政権を奪還した12年末の総選挙の前提である解散の決断の際に、野田総理は定数削減を安倍総裁に確約させた。うろたえた安倍氏の姿が印象に残る。しかし、三党合意などの「証文」にも関わらず、自民は、ゼロ増5減だけは成立させたものの(14年総選挙で適用)抜本改革は先送りの姿勢だった。衆院の有識者調査会の答申があり、政治の世界はまた自らを律する力を問われる局面になった。そして、自民に追い打ちをかける議員の失態が相次いだこともあり、自民も改革を引っ張る姿勢を明確にし始めた。10減は先送りせずに実施し(小選挙区で6減)、アダムズ方式は採用しない(もっとも安倍総理は含みを残す)。野党はおおむね答申尊重であるなか、逆に目立つのが定数削減に反対する共産党の姿勢だ。その共産は、昨日、夏の参院選1人区での公認候補の取り下げを発表した。野党共闘を重視するという方針だが、安保関連法廃止などを公約とすることを条件に取り下げることで、政策実現に向けた歴史的な一歩を記したということになろう。私は、民主党の姿勢が試されると思う。もともと寄り合い所帯が、維新との合流も見えてきて、さらには共産と政策協定なのか、など国民はこの野党第一党の揺るぎない姿勢や信念や、あるいは疑似政権党として何をしてくれるのかという明確な印象を求めている。自民の選挙改革の姿勢を批判するのは良いが、「責任政党」自民も政治の現実を見据えて動き出した。共産も、ある意味現実路線戦略。民主が、従来の民主党から脱皮できるかの点こそが、いまの政界でいちばん問われているのではないか。参院選の対応、だいじょうぶか。
2016.02.23
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所さんの番組でやっていた。TV東京のやつなので、宮城県は再放送だろうが、それはともかく、日本全国隠し名物と銘打って、その地元でしか知られていない名物というのだ。出てきたのが、東北では大間の島海苔と、秋田の卯の花麺。大変興味深いのは、地元でしか知られていない理由があることだ。例えば、他に取り上げられた「松阪牛のホルモン」の場合は、牛の本体部位は高値で取引され地元の人は滅多に買わないが、逆に内臓は新鮮さが必要で遠くには出回らないということだ。秋田の「卯の花麺」は、稲庭うどんの切れ端など、商品にならない部分を短く切ったもの。稲庭うどんそのものは讃岐の3倍するため、地元の人も買わないが、卯の花麺なら病気の際のかゆなどとして食されるという。そして、大間の「島海苔」だ。TVでは、大間の先の無人島である弁天島にわたって、干潮の間に女性達が拾う。ウップルイノリというのが学名。海の漁は好調不調の波があるから、少しでも不漁に備えようと、昭和初期に女性達が始めたのだという。岩場についた海苔を拾い集め、丁寧に水の中で木枠で漉いて、家の軒先に干す。最近は温暖化で減少しているというが、アミノ酸が豊富で大変美味だという。大間のマグロは地元大間ではほとんど売られない。外で高く売れるからであり、その点は、松坂牛や稲庭うどんと同様だ。もっとも、例えば観光客が大間に行けばちゃんとマグロを食べられるように、飲食店や宿泊施設などでは提供するだろうが(地産地消バンザイ)、経済の実際として大勢をみれば、そういうことなのだろう。しかし、島海苔は逆に大間以外に流通しないのだそうだ。たまに土産物屋に並んでも、1枚千円ですぐ売り切れ。「隠し名物」のゆえんだ。さて、3年前の下北の一人旅で、大間を訪れた。海藻関係では「つるあらめ」のラーメンを食べ、おみやげには「寒ふのり」や昆布などを買ったが、たしかに島海苔は見なかったと思うし、事前の「予習」でも知らなかった。■そのときの記事です 秋田・青森の旅 連載を終えて(2013年7月5日) 海峡いさりび公園(風間浦村)と下北の道路交通(2013年6月30日) 大間町を訪れました(2013年6月29日)ただ、記事にも書いたように、大間から風間浦村に至る国道を走ると、随所で海岸の岩場に人が見える。何かを拾っているのだ。島海苔ではないかもしれないが(時期も違うだろうか)、何らかの藻類や貝類なのだろう。TVをみて、あの光景を思い出したので、画像のストックから引っ張り出して、掲げてみます。(人物は小さく写っています。)
2016.02.21
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数日前に新聞で小さく報道されていたが、昨年の国勢調査の結果、福岡市の人口が神戸市を上回った。指定都市中の順位は神戸市を上回って第5位に、ということだ。当の福岡や兵庫ではどんな報道をしているのかと思って、見てみた。西日本新聞では「福岡市、暮らしやすさが好評 魚おいしく、緑も豊か」との見出しで、上げ潮ムード。市役所庁舎各室の照明を利用して、数字の5をイルミネーションにしている写真が載った。対して、神戸新聞では「人口6位に転落」として、人口規模のみを追い求めず、神戸らしい魅力やブランド力に磨きをかけ、まちの総合力を高めたい」との市長のコメントを紹介。単に人口規模の序列を云々するだけなら、さほど意味はない。市域の物理的限界などの事情もあろうし、市長のコメントはそのとおりだと思う。ただし、人口動態には当然、マクロには経済の実勢、ミクロには人々の生活の実相の積み重ねが反映するのだから、そこをどう適切に解釈していくのかは非常に重要だろう。単なる優越(劣等)感をこえて、危機感にもつながるその実相はどうなのか、という関心があるから、人口順位という簡明で象徴的な数字も取り上げられるという訳だ。さて、数字だが、神戸市は1,537,860人0.4%の減。阪神大震災直後を除いて初めての減少。少子化や東京圏への流出と説明されている。地元としては衝撃ともいえる受け止めだろう。対する福岡市。以前から九州圏域での吸収力が指摘されていたが、1,538,510人で、何と5.1%の増加は指定都市中第一。こちらは一貫して増加を続けている。九州各県からの流入が多い。前回は京都市をも下回って7位だったのが、一気に5位だ。なお、京都市では、順位に着眼した目立った報道は少ないようだ。前回調査では京都市は減少だったが、今回は微増(+555人、+0.04%)で、1,474,570人。市中心部でマンションが増え、大学キャンパスの都心回帰もあった、などと説明されているようだ。あとから福岡市の速報値が報道されたところで、もともと都市の質や格(!)が違うのだから、動じないという姿勢か。(以上、数字は速報値です。)さて、人口順位だけで見れば京都や神戸という旧5大市を上回った福岡市の実力が浮かび上がっている形だが、指定都市の全体を見渡すと、まず、札幌市は既に200万人を伺う規模となり、4位で安定している。今回は2.1%増で、1,953,784人。福岡市と同様に旧5大市以外の新参都市である札幌市だが、昇格後の1975国調では、福岡市、川崎市、そして先輩指定都市の北九州市をすでに上回っているが、京都、神戸に次ぐ第6位。85年までに両市を抜いて4位にあがったが、昇格前(100プラス数万人程度)に比較して人口は倍近くに成長している。ここで、指定都市の上位各市の順位の変遷をみてみよう。まず、横浜市は1960年代に名古屋市を、70年代には大阪市を抜いて(なお合併による市域拡大などの事情もある。いか同じ)、第1位を不動にしている。今回3,726,167人。福岡市は昇格後の75年国調では、100万2千人で、指定都市中最下位の第9位だったが、翌調査から川崎と北九州を抜いて7位にあがっている。京都市と神戸市は、それぞれ第4位と第5位が指定席だったが、80年に札幌が5位に入り神戸が6位に。85年には京都が札幌に4位の座を明け渡して5位に落ちる。90年に両市同士で逆転して神戸5位、京都6位となる。いったん95年に再び順位が逆転するが(大震災の影響だろう)、2000年からふたたび神戸5位、京都6位である。今回は揃って福岡市に抜かれたわけだ。そして、わが仙台市だが、11番目に仲間入りした指定都市だったが、現在の順位も11番目。これまでに北九州市を抜いたが、後発参入のさいたま市が人口では上位にある。今回1,082,185人で3.5%増。150万都市クラスの福岡、神戸、京都、川崎の各市は目標としては上すぎるか。とすると、120万前後のさいたま市(今回1,264,253人、+3.1%)と広島市(今回1,194,504人、+1.8%)がいちおう「目標」だろうか。今後間違いなく、人口減少局面が予想される。数字は上昇したとしても、内実をよく見なければならない。仙台市の場合も、沿岸部と中心部での格差、また、女性が伸びていないことなどを重視すべきだ。
2016.02.21
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4月に行われる衆院京都3区の補欠選挙では、民主党現職の泉健太氏が立候補を表明している。しかし、泉代議士は、辞職した宮崎氏(自民)に京都3区で敗れているはいえ、比例近畿ブロックで復活した現役の代議士だ。わざわざ辞職して小選挙区で勝ちたいという本人の意向や政党の思惑はそれとして、選挙制度における有権者の立場から見れば、何の意味があるのか。素直に、そう感じていた。誰かこの点を指摘して論じてくれないかと思っていたら、河北新報の県内版によると、中野正志参院議員が、ズバリ泉氏の鞍替え立候補を批判したという。わが宮城の国会議員と我らが河北新報が報じたことに、感謝?の念。中野氏の論は、辞めて同じバッジをつけ直すのはおかしい、というのだが、中野氏本人にまつわる経緯があるのだ。04年に衆院宮城2区選出議員だった鎌田さゆり氏(民主党。現宮城県議)が辞職した際に、中野氏は自民党公認で宮城2区で鎌田氏に敗れ、比例で復活していた。ちょうど、今回の京都3区の泉氏の立場だ。鞍替え立候補を検討したが、自民党や他党から、現職が辞職して同じ選挙に出るのはおかしいとの批判を受けて断念したという。中野氏は、泉氏は当然のように立候補し、民主党は公認すると言うが、それはおかしい、議員と政党のわがままだ、と指摘したとのことだ。まさに簡潔にして明瞭。まったく同感だ。有権者からすれば、衆院議員として立候補した泉氏は、比例復活であってもとにかく衆院議員になったのだ。小選挙区当選議員も、復活議員も、あるいは比例単独議員も、議員としての責任や権能に何の違いもないし、もちろん任期が長くなるわけでもない。この人にとって言わば「立候補の大義」がない。かりに、晴れて小選挙区当選の栄誉を勝ち得たとして、有権者や国民からみて、泉氏に期待する国会議員活動に何の違いも出るわけでないから。(あえて言うならば、比例ではなく小選挙区なら、当該地域の有権者のためだけに仕事をさせてもらいます、という違いか。議員は全国民の代表(半代表)の建前とは言っても、現実的に選挙区を念頭に活動するのは当然だから。だがしかし、比例復活議員は小選挙区議員を目指して立候補して惜敗した人なのだから、実質は小選挙区の議員と言っていいだろう。これとは峻別された「比例議員像」を有権者が観念しているとは思えない。比例当選議員が、どの地域に根を張って活動するかは、それまでの経緯や事情で決まってくるのであって、(比例で復活したら)近畿とか東北とかのブロックを満遍なくドブ板活動しろとは有権者は思っていない。なお、以上の私の立場からすれば、比例単独で当選した人が小選挙区に鞍替え立候補するのは、多少は「立候補の大義」があることになろうか。小選挙区当選の現職が選挙区を替えて鞍替え立候補する場合に近いことになる。)さて、ならば、なぜ鞍替え立候補なのか。それは、政治的な事情だけだ。民主党が議席を増やせるからである。すなわち、自民は公認を立てないだろうから、小選挙区で悠々勝利した上に、比例で繰上を得られる。また、夏の参院選に向けて党勢に弾みが付くというものだ。ちなみに、繰り上げする人は、比例近畿で次点だった北神圭朗氏で、京都4区が地盤という。現職の参院議員が衆院補選に打って出ることはよくある。国会議員を大括りにしてみれば、それだって批判されるべきとも言えそうだが、しかし、少なくとも形式上、衆院と参院の議員に期待される役割は違うし、実質的にも選挙区の地域の広さや任期も違うから、有権者にとって「選挙の利益」はあると言えるだろう。これに比較して、まったく同じ衆院議員になるために現職をやめるというのだから、「投票の利益」などないのだ。あるとすれば、永田町の論理。政治的な思惑にお付き合いする(付き合わされる)ということだけだ。民主党の対応も、いかがなものか。私は、小選挙区は堂々と泉代議士以外の候補者を公認すべきと思う。勝てる候補で楽勝して党勢拡大、などと永田町の論理丸出しで、それは有権者に失礼というものだ。いったい選挙を何だと思っているのか。だいたい、今回の件も、敵失で喜んでいる程度の話だ。しっかり新人を擁立していくなどの対応もできないのか、と逆に底の浅さを示してしまうことにならないか。そもそも何でこのような事態が生じるのだろうか。そこには、複雑怪奇な選挙制度の存在がある。小選挙区と比例区の並立制で、しかも重複立候補を認める法制がとられていることだ。現実として(特に自民や民主では)重複立候補が多く行われ、惜敗率に基づき比例復活するという仕組みが、政治的な面では、候補者の救済の機能を果たすとともに、地方政治の世界で、「わが選挙区あるいは地域には現職衆院議員が2人いる。2人目は復活だけどね。」という状況を作り出す。ここから、一種の小選挙区「優位」観が生じてきて、何としても小選挙区勝利をめざすという思いが候補者や陣営にわき上がるという面があるだろう。また(より重要な点だろうが)、比例繰り上げ当選の仕組みとあいまって、選挙区で逆転勝利すれば、党の議席数拡大に寄与することが狙いとされることになる。そして、誰を立てるか。人材が豊富なら良いが、貴重な候補者(いわゆる総支部長)が比例復活していると、それをさしおいて新人を立てるより、総支部長ならまとまりやすい。だが、あくまで選挙制度として見た場合には、当選人決定の技術的な過程に過ぎない。一番大事なのは有権者がどう見るかだろう。例えば、わが宮城県の場合、1区では郡和子さん(民主)が、5区で勝沼栄明さん(自民)が比例復活だ。復活だろうが小選挙区だろうが、とにかく、しっかり仕事をしてくれれば良い、というだけなのだ。京都3区補選に際して、この論議が沸き起こるかどうか注目したい。とは言っても、つまらない制度論やスジ論が受けるはずもないか。ところで、京都3区は、1996年の初めての小選挙区選挙で共産党候補が議席をとっている。こんな選挙区は全国的にもまれだ。共産は、野党統一候補に含みをもたせる対応をしているようだ。維新は独自候補を擁立の構え。そして、補選の原因となった極めて情けない宮崎辞任の自民は、地元の主戦論をよそに党本部が不戦敗に傾いているという。何とも無責任なことだ。各党の対応についても、有権者、国民がしっかり評価していくべきだ。(補論)実は過去にも比例復活当選議員が、衆院補選で選挙区に鞍替え立候補した事例があることを知った。木下厚さんで、2003年埼玉8区で民主党公認で落選するも比例北関東ブロックで復活。直後に8区の当選議員(自民)が公選法違反で辞職。木下氏は翌年4月の補選に鞍替え立候補(衆院議員を自動失職)。自民新人に敗れた。この際にも、鞍替え立候補に批判はあったようだ。
2016.02.18
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来月26日、北海道新幹線が開業する。仙台と新函館北斗は2時間30分で結ばれるという。逆に、函館から見れば、札幌より仙台が近いことになり、私たちが実感してないような北日本の交流人口の構造変動が生じていく可能性がある。ある人の話では、道南地域の若者は、進学や就職で東京を目指す割合が相当高まるという。たしかに、これまでは札幌や、青森や仙台に親近感があったのだろう。しかし、新幹線でスイッと移動できるとなれば、日帰り可能という点で、仙台(最速達2時間30分)も東京(最速達4時間2分)も変わらないというわけで、実家としても「東北なら安心だけど」という距離感的優位性は、なくなってしまうのだろう。大学関係者に聞いたところでは、仙台の大学の中には、東京にストローされるとの危機感をもって道南の高校生向けに「営業活動」に注力するところもあるという。進学や就職のみならず、通勤地図も塗り替える可能性がある。もちろん、観光や週末の買い物、イベント、コンサートなどの行動範囲としても結合は高まるだろう。仙台に視点を置いて、考えてみる。2時間半というと、高速バスで気仙沼にいくのと同程度の時間だ。西に行くなら、鶴岡までの高速バスが同程度。もちろん、コストや頻度が違うので一概に時間だけで比較できないが、それにしても、ぐっと近くなることは間違いない。
2016.02.16
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今日の夜はだいぶ寒くなった。というのも、昨日が暖かすぎた。仙台では20度を越えて、6月の気温だという。2月としては観測史上最高の、20.9度。東北各地はどうだったのだろう。仙台のほか、福島でも2月の記録更新だそうだ。久慈では、22度と7月並みの暑さだったとのことだ。ついさっき車を運転してきた私だが、外気温はマイナスだった。何とも激しい寒暖差。このようなときに、体調を崩したり、おかしなミスをしたりするというのが、人生のこれまでの教訓だ。明日、深い後悔のないことを祈りつつ。
2016.02.15
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今年(平成28年)、岩切駅に新たに自由通路も建設が始まり、多賀城市新田や南宮地区、また宮城野区分の東河原の人々の通勤通学に便利な南口が開設されるという。たしかにこれら地区の人々は、目の前に東北本線が通って、駅のホームに並び立つ人たちの光景も眼前にあるというのに、狭くて暗い高架下ガードをわざわざ迂回して駅北側の出入口まで歩かねばならない。5分程度はロスしているし、何より朝は混雑、夜も道路交通が危険である。岩切駅周辺の歴史については、三浦昇さんが著した『郷土再発見 我がふるさと岩切』で読んだ。私の手許にあるのではなく、かつて公共図書館で読んだ記憶で書くのだが、高校の先生をしておられた氏が30年をかけて地元の歴史や風物を網羅的にまとめた本当にすばらしい労作だ。文献の博捜によって歴史を、また、肉声や写真などをもとに明治から昭和に至る生活の視点、またかつての町並みの姿など、すみずみまで生き生きと岩切のまさに全てを知ることができる一冊だと思うが、、同時に、地域を知り伝えるという姿勢の原点を私は思い知らされて大変勉強になったと感じたのだ。さて、その三浦氏の著作では、東北本線が塩竈まで開通したとき、岩切駅は現在より東の南宮の方で、現在の塩竈街道踏切の付近にあった。踏切からすこし岩切側で教会があったところで、1年後に現在の位置である洞ノ口に移されたという。また、その際に加藤某さんが移転を迫られたこと、鉄道の盛り土のために周囲から土を掘ったのでため池が発生したこと、七北田川の鉄道橋のすぐ下流側に人が通れる橋があったこと、さらには、鉄道開通で今市側の旧街道がさびれて洞ノ口や若宮など塩竈街道沿いが活況を呈したことなどが記されていた(と思います。私の記憶が違っている点はご容赦下さい。)多賀城市議会の議事録をみると、平成25年頃の段階では、岩切駅南口の連絡自由通路が取り上げられ、仙台市で平成22年度に岩切駅を橋上駅にする調査費が計上され、翌23年度にJRが実施設計という矢先に震災が発生した、という内容がある。かなり以前から新田地区などで、県道を2度もわたる危険を避けて南口を作ってほしいとの要望があったが、事業主体が仙台市であること、負担金が生じることもありうること、などのやりとりがあるようだ。平成26年になると、仙台市とJRが事業をスタートさせたとの答弁があり、直近の平成27年の12月には、工事は平成28年度から2か年で行われ、駅の橋上化と南北の出入り口を結ぶ自由通路ができること、南口には送迎車両の転回スペースと駐輪場ができること、などを市長が答弁している。負担金は生じないようだ。130年前の岩切駅(現在地点)の開業で、おおきく岩切は変わった。塩竈街道沿い、また、安楽寺に至る七北田川沿いの道筋などは、その後に宅地化が進んだと思われ、県道の踏切がガードになるなどの改良はあっただろうが、駅の利用の不便は解消されずにきただろう。他方で、北口(と今後は呼ばれるだろうが、要するに駅前)の付近は、昔ながらの狭い街道だったのが、近年大きな道路が開かれた。2年後にどんな「南口」ができるのか、楽しみである。(10年くらい前です。岩切駅ホームで見かけたオバケの木?)岩切駅周辺に関して、もう一つ気になっていること。七北田川をわたる橋のことである。現在、七北田川(冠川)をわたる橋は、今市橋と岩切大橋、それに鉄道橋(東北本線と新幹線の高架渡河橋)だ。上掲の三浦氏の労作に、岩切近辺ではかつて仮設の土橋のようなものがあったし、また(上記のとおり)明治には鉄道橋のすぐ下流に橋があったというのだ。たしかに、東北本線の南東に取り残された形の岩切東河原地区と、川向かいである鴻巣地区をむすぶ橋があっても良いような気がする。人が通れる橋があれば、東河原の小学生が岩切小に通うのにわざわざガードを回らなくて済むし、鴻巣や余目地区の人たちも、上流の岩切大橋を迂回することなく、川向かいの岩切駅に向かって歩ける(南口できればなおさら)。なお、かつては鉄道橋の保線用通路を小学生が歩いたという話も聞く。これも、明治の岩切駅開設にともなう地域の課題ではないのだろうか。仙台市議会の議事録をざっと見てみた。1992年頃の赤間議員の質問に、従来何十年と地域住民は本来国鉄職員限定の鉄道橋を渡ってきたこと、JRはこれを禁止としていること、余目や鴻巣地区に住宅が増えており、岩切駅に直結する道路が必要なことなどが言われている。市側の回答は、大橋を渡ってもらいたい、新橋については両地区の推移をみて検討する、などの内容。■関連する過去の記事(岩切大橋から見た七北田川と鉄道橋方面を望む画像あります。その他記事は、この記事の過去記事リストをご参照下さい。) 今日の七北田川(2015年9月13日)
2016.02.14
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昨日、新設校の校歌が披露されたとのニュースがあった。加藤登紀子の作詞作曲で、大高森や野蒜の地名も織り込まれているという。宮野森小は今年4月に開校。野蒜小と宮戸小が統合することになり、現在は野蒜小学校仮設校舎で学んでいる。この学校については何点か書きたいことがある。まず、学校の「作り方」だ。早くから学校の復興の方向を住民と話し合い、統合方針が出てからは、統合準備委員会が、校名やデザインを一般から募集。地域の新しい歴史と、子ども達の未来を、みずから守り育てようという取組ですばらしいことと思った。昨年1月に、155点の応募の中から10点に絞り、野蒜と宮戸の住民投票を経て決定。ネーミングは、両地区の統合と「森の学校」の理念をこめたもの。校章デザインは市内居住者からの公募。採用されたものが市のサイトに出ている。私は意匠や趣旨説明を評価できる能力がないが、率直に思うのは、願いをそのまま盛り込んだ手作り感がある。世界に通用する洗練されたプロのデザインとかでないのが、良い。ちなみに、小野小学校と浜市小学校はすでに、統合して鳴瀬桜華小学校としてスタートし、鳴瀬一中と鳴瀬二中は鳴瀬未来中学校になった。次に、新設校の場所。野蒜北部丘陵に移る。高台に森を活かした環境として、校舎や体育館も木造。子ども達が自慢できて、楽しく伸びやかに過ごせる学校になってほしい。そして、建設工事業者の問題があった。いちど、昨年夏にアルファー建設が落札したのだが、なんと、市の8月臨時議会で全会一致で否決されてしまった。木材調達の見通しがないというのが表向きの判断理由だが、西日本から震災後に宮城県に乗り込んできたこの会社が、県内でさまざまな問題を起こしていることが背景にあると報じられた。9月議会で住友林業の議案が承認された。結果として工事請負金額は、1.7億円ほど高くなっている。さいごに、校歌について。歌詞の全文がわからないのだが、新聞では大高森や野蒜の語があって地域の情景が盛り込まれたというのだが、TVニュースをみると「森、鳥、ふるさと」などの印象だった。耳ざわりはいいなあ。鳴瀬桜華小の校歌「花になろう」は、松井五郎作詞、中村雅俊作曲。鳴瀬未来中学校は、やはりり加藤登紀子の作詞作曲。いずれも、「新しい」歌だ。山や川などの風土や歴史から説き起こすような、従来の「校歌観」とはまったく違っていて、それはそれでと思うのだが、まったく個人的には野蒜の築港にかけた先人の思いや、宮城県と東北の将来をこの土地が担おうとしていたことなど、一言でいいから入れてほしかった。校歌は、子ども達が一生忘れない歌だ。むかし祖先が童歌や謡曲のなかに、地域や一族の誇り、あるいは戒めや災害の警句を盛り込んだように、現代の校歌とは、代々後輩達に引き継ぐ地域の辞典のような側面があると思う。「今」と「未来」を重視して、生徒達の楽しい生活を歌い込むことは実に賛成ではあるのだが、「太陽、空、喜び」など、全国どこでも通用するような校歌で、それだけで良いのだろうか、と私個人は感じたのだが。これも時代か。(野蒜築港を伝える遺構。津波被害を受けた。)■関連する過去の記事(野蒜築港、大高森など) 野蒜築港跡を考える(2015年5月18日) 野蒜築港跡をたずねて(2015年5月8日) 久々に登る 春の大高森(2015年5月7日)
2016.02.13
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東北本線を仙台から北に向かうと、かつては名勝松島の海が全く見えなかった。日本鉄道が敷設したルートが、利府経由の路線だったからだ。新線が建設された理由は、戦況切迫とともに多数の民間船舶が大陸間輸送に徴用され、国内海運需要を担うことが出来ず、また海上郵送の危険が高まったことから、貨物輸送を全国的に鉄道に転換する政策が実行されたためである。輸送量増加のため、複線化や信号場増設、線路勾配の緩和などが緊急に必要とされた。函館本線の「砂原回り」が戦争末期の勾配改良の例だが、東北本線では松島をはさむ岩切-品井沼間に、改良を要する区間があった。最大16.7パーミル(‰)勾配があり、長大列車は補助機関車を必要とした。海側に新線を建設して、急勾配を解消しようとしたのである。新線は、岩切から多賀城前(現陸前山王)の間は既存の塩竈線を流用し、その先は、宮城電気鉄道(現仙石線)の線路に沿って、松島海岸部をいくつものトンネルで縫い、高城町の西を抜けて旧松島駅の東方で旧線と並行し、品井沼に至る21.7kmで、勾配は最大10‰に、最小曲線も600mに抑えられた。着工は昭和18年4月。北方の最重要路線のため資材調達も優先され、昭和19年11月に単線ながら開通し、北日本の陸運転換に貢献。通称「東北海岸線」「海線」とされた。海線は当初貨物線として使われたため、途中駅は設置されず、北塩竈と新松島の2つの信号場が置かれた。しばらく、新旧両線が併存した期間に、海線には貨物列車と急行列車が走ったが、昭和31年7月には、塩釜(新駅)、新松島(もと信号場)の2駅が設置され普通列車も運転されるようになった。これにより普通列車は海線と利府経由(旧線、山線)の2ルートが走ることになる。新しい塩釜駅は旧駅(おだずま注:塩竈線の塩竈駅)の西1.5kmの郊外に建設され、同時に、明治20年以来の歴史ある塩竈駅は旅客扱いを廃止して塩釜港駅と改称。やがて昭和30年代に東北本線の複線電化が決まると、新線だけを複線化して、旧線の一部である利府-品井沼間は昭和37年に廃止。一方で、旧松島駅付近の住民の便のために、旧線の旧松島駅に新線上最も近い位置に愛宕駅が新設された。旧線のルートをたどってみると、盲腸線の終点として生き残った利府駅からさらに勿来川支流の谷を遡り、松島海岸裏の赤沼(赤沼信号場があった)の先で、小さな分水嶺を越えて松島町域に入り、谷に沿って右にカーブしながら勾配を下って旧松島駅(現松島町健康館)。その後は逆に左カーブして新線愛宕駅下をくぐって品井沼駅南方で新線に合流するものであった。配線跡はかなりの部分が生活道路として今も使われている。旧線廃止後、新線側では変化があり、仙石線の西塩釜-東塩釜の区間が海沿いに変更された。宮城電鉄が最初に通したとき、海に市街地がびっしり迫っていたため敷設の余地が無く、西側のトンネルで迂回するルートにしたと思われるが、海岸を埋め立てられ、戦後は塩釜港の北側の土地にも貨物線が敷かれた。それが鉄道貨物の衰退で廃止となり、その跡地に高架の仙石線新線が建設されたのである。本塩釜駅はかつての塩竈駅のすぐ近くに移り、東塩釜駅は少し東に移った。■今尾恵介『地形図でたどる鉄道史 東日本編 鉄道近代化の足跡を図上観察』(JTBキャンブックス、2000年)を参考にいたしました。利府経由の山線と、塩釜経由の海線。また、塩竈周辺の鉄道ルートの変遷などは、近現代の宮城の発展とともに、生活史にも関わり大変興味深いと思っているが、海線を急いだのは戦争が理由だった。こんなことからも、わが地域の歩みが、日本や世界と関わっているのだということを実感させられると思う。さて、上記の書には、「松島電車」のことが、次のように記されている。宮城電鉄が、大正14年の仙台-西塩釜開通の後、松島公園(現松島海岸)駅、陸前小野駅まで路線を伸ばし、昭和3年11月に石巻まで全線開通させている。開業時から営業は順調だったが、昭和5年に不況の影響で一時収入が落ちるがふたたび旅客収入は増加、松島遊園や自動車運輸事業を兼営するなど発展。昭和14年には、本線旧松島駅から五大堂の目の前まで、3.8kmの短い区間に電車を走らせていた松島電車(正式名称)を買収した。地図をみると、この松島電車とは、旧松島駅のあった初原地区から松島第二小学校の南を抜けて、高城川沿いに瑞巌寺方面に南下していたようだ。ちょうど後に建設される東北本線新線のルートあたりを通って、高城駅を設け、それ以南は現在の国道45号と並行あるいは路面に軌道を設けて、五大堂に至ったようだ。(松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)に旧松島駅の建物の画像をのせてあります。)明治末年の松島観光地化の大プロジェクト(過去の記事 寺田知事の松島公園化(2016年1月23日)をご参照下さい。)、大正2年にパークホテルができるなど、近代的な観光地として再生、大正11年にはアインシュタイン博士が訪問している(これも過去の記事あります。アインシュタインと仙台(その7)など)。鉄道は既に東北本線(山線)の松島駅があったので、宮城電鉄(仙石線)開通までは、この旧松島駅が玄関口となっただろう。松島電車は、大正11年に開業している。バスとの競合や宮城電鉄開業で経営は苦しく、昭和14年の宮城電鉄への合併も再建のためだったが、すでに営業は休止状態だったようだ。■関連する過去の記事(仙台以北の東北本線、仙石線などのルートに関して。他にもありますが。) 仙台駅の予定地について(その9)(2012年5月23日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) 仙台駅の予定地(その8)(2011年9月26日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙石線多賀城地区連続立体交差事業(2010年5月5日) 野田の玉川 歴史散歩(その4 天神川上流の鉄道廃線跡)(2010年5月4日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2016.02.11
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花巻には軌間762mmのナローゲージが3本も出ていた。花巻電鉄の2路線と岩手軽便鉄道(釜石線の前身)である。花巻電鉄軌道線(後の鉛線、西花巻-西鉛温泉)は、車体の幅わずか1.6メートル。マニアの間では有名という。面長の車体となった理由は、自動車とすれ違うことができるように、幅を狭くしたものであり、線路も道の片側に寄せられた。花巻電鉄には、ほかに鉄道線(花巻温泉線)があった。軌道線は、大正4年に(前身の花巻電気が)東北本線西側の西公園(花巻川口町)-松原間を開通させ、漸次延伸、豊沢川にそって大正10年には西鉛温泉まで全線開通。大正7年には花巻(後の中央花巻)まで開通して、釜石線の前身である岩手軽便鉄道と接続した。一方、鉄道線は、盛岡電気工業が大正14年に、軌道線との接続駅である西花巻と花巻温泉の間を開通。翌年には軌道線とともに花巻電鉄に。軌道線が花巻(中央花巻)で接続した岩手軽便鉄道は、軌道線の先に大正2年に既に花巻(中央花巻)-土沢間を開通させた。その後、軽便鉄道は釜石を目指し、仙人峠まで大正4年に開通。鉛線は昭和44年、花巻温泉線は昭和47年に廃止。■今尾恵介『地形図でたどる鉄道史 東日本編 鉄道近代化の足跡を図上観察』(JTBキャンブックス、2000年)を今回も参考にしました。
2016.02.08
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今夏には、仙台と石巻を最短路で直結する列車の仙石東北ラインが、女川駅まで直行すると報じられた。女川と仙台がワンサービスで運行されるのは初めてだ(NHKニュースによる)。石巻から女川までは石巻線を走ることになるが、同線の終点女川駅は、津波被害のあと場所を改めて開業し、温泉浴場と一体となった駅舎や駅前の新しい町の核づくりなど、復興の象徴でもある。この石巻線の歴史を振り返ると、仙石線に先立って遠田、桃生、牡鹿の地域の足として求められて誕生した経緯が浮かび上がる。東北本線の開業で商港としての石巻の機能が減少したことから、明治20年代は石巻と東北本線を結びつけようする動きが起こる。桃生郡北村の斎藤善右衛門など216人が発起人となり、27年6月、資本金百万円で、石巻-川渡間62キロの鉄道布設(石巻軽便鉄道)の免許を鉄道省に願い出る。しかし、この動きはさまざまな要因で挫折。やがて仙台の貴族院議員荒井泰治らが、明治43年に小牛田-石巻間の軽便鉄道を敷設したいと奔走し、同年8月に免許状を下付され、大正元年10月、石巻まで開業。(仙石線の全身の宮城電鉄全線開通は昭和3年。)これが仙北軽便鉄道で、のち大正8年に国鉄に買収され、大正10年には幅も軽便の76センチから現在の105センチにかわる。石巻線が女川まで延伸するのは、大正11年施行の改正鉄道布敷設法予定線18号によるもので、昭和11年に工事着手、昭和14年に全線開通した。なお、石巻と女川の間には、かつて金華山軌道というガソリン機関車牽引の軌道が活躍していた。さらにその前身は牡鹿軌道という馬車鉄道である。牡鹿軌道は石巻湊と渡波間。明治43年に人車軌道の敷設願が出され、大正元年に工事が始まったが、動力を馬車に変更し、大正4年に湊と浜曽根の間で開業。渡波女川間の軌道を計画していた金華山軌道が、牡鹿軌道を大正13年に引き継ぐことになり、動力を馬力から内燃に変更して女川まで全線開通したのは大正15年。その後、石巻線の女川延伸に伴い、昭和14年に、国鉄新線並行私鉄の政府補償を受けて休止し、翌年に廃止されている。しかし、並行線とはいえ、両者の経路はかなり異なっている。金華山軌道の起点は石巻湊で、石巻駅とは離れた旧北上川東側で、中瀬の対岸にあった。現在の日立造船所のあたりにあったようだ。ここから東進して伊原津を経て渡波に至るが、石巻北街道(現在の国道398号)の路面を走る区間があったようだ。渡波を過ぎると、万石浦の北岸に沿って浦宿の谷間を経て女川の町に入る。終点女川駅は、現在の石巻線の(あるいは津波前の)女川駅と異なり、鷲ノ神にあった。金華山軌道は石巻駅との連絡などに難点があり、地域は石巻線の女川延伸を運動、工事は昭和11年に着工される。石巻線は、石巻駅から陸前稲井駅に向かうこととなり、渡波までの間は全く金華山軌道とルートが異なる。大和田トンネルをくぐって南進してからは大きく180度円弧を描くように渡波市街地(渡波駅)を経て北に向きを変えて進むが、渡波駅の後は金華山軌道とほぼ同じルートである。ただし、石巻線は金華山軌道と異なり、国道の北側に女川トンネルをくぐって女川旧市街地の北に出て女川駅を設けた。昭和33年には商港整備の一環で女川港まで臨時貨物線1.4kmが建設され、昭和55年廃止された。■参考 吉岡一男『宮城の鉄道物語 宮城の街道物語』宝文堂、1987年 今尾恵介『地形図でたどる鉄道史 東日本編 鉄道近代化の足跡を図上観察』JTBキャンブックス、2000年■関連する過去の記事 牡鹿半島の先まで行ってきました(2015年5月8日)(女川駅、ゆぽっぽ) 石巻線 全線開通(2015年) 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)
2016.02.06
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白棚(はくほう)鉄道は、白河駅と棚倉町を結ぶ。開通は大正5年(1916)。終点の棚倉町は小さな城下町で、阿武隈川、久慈川の両川の谷中分水嶺的な位置もあって、東北、常磐どちらの線からも遠く、鉄道を望む声が強かった。なお、白河駅以南の東北本線は明治20年の開業から大正にかけて、勾配と曲線を緩和する改良工事が行われており、黒磯-白河間26.6kmのほとんどを新線にする大がかりな工事であった。上野を出た列車が初めてくぐることになる白坂トンネル(下り線のみ)も設けられた。この新線は、白河駅の南に新設(大正6年)された白坂駅から白河駅までは、旧線よりも西に大回りして白河駅に到達しているのだが、白河駅直前の旧線跡を、白棚鉄道が使用することとなる。白棚鉄道は沿線人口も少なく、当初から経営は苦しかった。決定的なダメージは、鉄道省による水郡線(水戸-安積永盛)の開通である。水郡線は、水戸方面から建設され、昭和2年常陸大子、5年東館、6年磐城塙と部分開通し、ついに昭和7年11月磐城棚倉まで開通した。これにより水戸と白河の双方に鉄道で結ばれた棚倉町民にとっては、歓迎すべきことだっただろうが、白棚鉄道には死活問題。白河経由で東京方面に出荷された貨物が、低運賃の水郡線常磐線経由となったからである。水郡線開通前後では、貨物運輸数量は48%減、運輸収入は68%減と深刻なものだった。営業収入は大正13年を100として昭和7年には32まで落ち込んだ。翌年昭和8年に会社は廃止を申請したが、沿線住民の要望で鉄道省が借り上げる形で存続。しかし、昭和9年の水郡線の全通が決定的打撃となり、昭和16年には救済買収の形で国鉄白棚線に、昭和19年には不要不急鉄道とされレールが撤去される。戦後は、線路跡を舗装した専用道路を国鉄バスが走ったが、現在でも、新白河駅を経由することとなる点が以前と異なるものの、やはりJRバスが走っている。白河駅-磐城棚倉駅間49分。■今尾恵介『地形図でたどる鉄道史 東日本編 鉄道近代化の足跡を図上観察』(JTBキャンブックス、2000年)を参考にしました。JRバス関東のサイトによると、一日20往復程度あるようだ。片道790円。いまでは専用道路区間も少なくなっているようだが、ぜひいつか乗ってみたい。■関連する過去の記事 バス専用道路の白棚線(2007年9月16日)
2016.02.06
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何が日本一かというと、120軒ある店舗の対人口比が日本一だという。札幌、博多と並んで日本三大ラーメンともされるというから、(失礼ながら)一地方都市のもつ特徴などというものではなく、堂々たる全国区の文化だと言える。以前も書いたが、単に観光客向けの商法に発したものではなく、地元の人が早朝の農作業の後に朝食として店に入るなど、地域に根ざした食文化として育まれてきたものだから、強いのだ。蔵の町、清らかな水。本当にすばらしいことだと思う。■関連する過去の記事 喜多方の朝ラーを考える(2008年10月11日)さて、石原文蔵と東北をこよなく愛する会編『「東北」知ってる?』(新講社、2011年)によると、喜多方ラーメンの原点は、昭和初期の源来軒の支那そばといわれる。蔵の町に観光客が増えた1980年前後に、支那そばの伝統を受け継いでいた「まこと食堂」などが、市からのアピールもあってメディアに多く取り上げられ、ブーム化。1987年には、ラーメン関係業種懇談会が開催され、蔵のまち喜多方老麺会が発足。店のレベルアップと伝統継承を目的に活動を始めた。■関連する過去の記事 ラーメン外食消費日本一の山形(2012年7月7日) ラーメン消費量日本一の山形市(2008年1月20日) 東北のめん類データを見る(2006年11月14日)
2016.02.04
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仙台駅で青森県の観光パンフを手にした。自然豊かで絶景あり奇景あり。食、温泉、歴史文化にパワースポット、と読むだけでも楽しい旅行気分だ。ところで、佐井村の願掛岩というのがでている。写真とともに、男女が抱き合っているような姿の大岩石、菅江真澄の記録にも見られると説明。どこが抱擁の形かと、写真をじっとみるが...実は2013年に下北半島を訪れた。そのときにもここを通っている。このとき記事にアップした画像を、上にも掲げてみた。■そのときの記事です R338海峡ライン、佐井村を行く(2013年6月28日)写真の左下の手前の大きな岩塊。男(岩の左側)が体を押しつけるようにしている、ということか。
2016.02.02
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