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土曜日、宝良ちゃんの運動会でした。 うちの近くは、公立の保育所と幼稚園と小学校がほぼ一カ所にまとまっていて、なので、春の運動会は地域の運動会として、小学校の校庭で、保育所・幼稚園・小学校の合同で行われるのです。 0歳児クラスのときは、パパに抱っこされて、結局パパが走っただけの運動会だったけど、今年、1歳児クラスになって、パパといっしょにだけど、自分の足で歩いて(走っているつもり?)ゴールした宝良くんでした。 その後は、お兄さんお姉さんたちの演技を見る立場で、午前中を過ごして、当然いい子で見る筈もなく、仲良しのはやと君といっしょに遊んで過ごしました。午後からは小学生中心になるので、保育園児は午前中で解散。 やっと、介護やお葬式なんかと違う場面になって、とても気分転換になりました。 さて、車に乗ったところで、宝良ちゃんが寝てしまったので、ちょっとお仏壇を見に行こうと言うことになりました。 というのが、お葬式が終わって帰った夜、新聞広告で見かけたお仏壇が格安だったのです。 地元で石材屋さんをしている会社が、お仏壇を扱う部門を新たに立ち上げ、そのお仏壇館のオープニングイベントを土日に行うため、そのイベント価格で、大特価という……。 イベント中は、様々な催しがあり、マグロの解体ショーとかうどんの屋台とか、輪投げコーナーとか、本当に、お祭り騒ぎ。 だから、質流れ品とかじゃなくて、イベントだから出血大サービスのお値段だったの。 で、ちょっと見に行ってみることに。 でね、土日それぞれに1台だけ、朝から並んで抽選券を出して、昼に抽選をして、約80%OFFというお仏壇が、イベントとして用意されていたの。 私たちは、夫の実家の宗派(浄土真宗)に合わせて、日曜日に抽選になるものが当選できたらラッキーだけど、そこまで望むのも無理があるよな……ってことで、もう、土曜日だけど、抽選のものじゃなくて、普通に並べてあるお仏壇の中から、特価のもので、ご縁のあるものを購入できれば、それで良いんじゃないかなあ……と、夫と車の中で話し合っていたのです。 で、到着してみると、広告にあった安いものから順に、宝良ちゃんの運動会に参加していた時間分、もう売れてしまっていて、うーん、どうする60万円もするよ…とか思っていたら、奥の方に、「えっ?」半間幅のお仏壇「定価80万円」が、仏具全部込みで「25万円」と書いてある。 もう、即決。お寺さんにお支払いする為に、そのときたまたま現金を30万円持っていて、契約。お支払いも済ませた。「すごく安くて、いいお買い物ですよ。私も、不思議に思うくらいお安いですから、本当に、いいお買い物ですよ。」とお店の人がしきりに言う。何と言っても、仏具のお値段まで入れると、定価100万円は超えるもの。仏壇は平均40%引きになると聞いたことがあるけれど、それでも、60万円するものが、25万円で消費税もなく買えちゃったわけで、そりゃあ、びっくりするほど、ラッキーだ。何と、こんなときに、オープニングイベントを開催してくれるとは、ありがたや、ありがたや。 何はともあれ、よかったなぁと、目も覚めた宝良ちゃんを連れて屋外へ出て、イベント会場で、うどん券を引き替えて、ありがたく昼食タイムを楽しんでいた私たち。 先ほどの女性店員さんが血相を変えて飛んできた。 何と、明日の日曜日の抽選用お仏壇を、抽選の金額で間違って売ってしまったと。 お店の人は大混乱。「明日、抽選にもう一度形だけでも来てくれませんか。広告を見て、朝から並ばれるお客様に、もう実は無いとは言えないから、あなたに当選を出すようにしますから、形だけでも、抽選に来て貰えませんか。」「いや、それでも、お客様をだますことになってしまう…」とか、何度も屋内へ相談に戻り、外のテントで宝良ちゃんにおうどんを食べさせていた私たちは、どうなるんだろうと思っていたら、結局、「すみません、あのお仏壇はやはり、広告に出してしまっているので、お売りできません。明日の抽選に必要です。それで、全く同じものでは無いかもしれませんが、誠意を持って、同じランクのものを、改めて仕入れます。それを納品させていただくのでよろしいでしょうか。」と。 うちは、全く問題ないので、それで了承。なんだか、すっごくラッキーな、小説より奇なり…な出来事でした。 でも、接客してくれた女性店員さん、気の毒だったなぁ。「墓石販売の接客はなれてるんですが、何と言っても、お仏壇はまさに今日が初日で……。」と、途中でも言っていたもの。 というわけで、夫の実家には、ばかでかい一間幅のお仏壇があるのだけど、お舅さんは、我が家のワンルームお仏壇に暫く下宿ってことで、「おとうさん、まぁ、しばらく一人暮らしで、のんびり休んでくださいね」という運びになったのでした。
2007.05.26
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お葬式は、どうしてああいう座り順なんだろうか。 喪主の夫がいて、次に姑が「故人の妻」として居て、そしてその横に私が「喪主の妻」として居て、その横に宝良ちゃんがいる。 朝、熱は取り敢えず下がっていたものの、調子がいいわけがない宝良ちゃん。 それより、私は姑の隣になんか座りたくない。私はちょっとでも椅子をずらして、姑の椅子との間に隙間を拡げ、ちょっとでも肩さえ触れないようにと、思った。 弔問客に姑が答えている言葉が聞こえてくるたびに、嘘ばっかりで、本当にはらわたが煮えくりかえる。 お通夜の晩、親戚のおじさんたちに様子を聞かれた同居していた中学生の孫は、何と言っても、亡くなる前夜にやっと病室へ連れてきて貰っただけで、全然状況は知らないが、それまで、家で姑からどんな風にされてきたかは一番近くで見て良く知っている。 わきまえているから、親戚の大人たちにそんなことは言わないけれど、あとで、私と孫のお姉ちゃんたちだけになったとき、彼はぽつりとこういった。「出会わなかったら良かったんだよね。じいちゃん、車も、トラクターも、運転免許証も、お金も、健康保険証も、(命も)、大事なものは全部、ばーちゃんに取りあげられた。じーちゃん、ばーちゃんと出会わなかったらよかったんだよね。」と。 中学一年生だもの、全部分かって居るんだよね。そんな毎日を目撃させられていた孫もかわいそうだ。でも、夫婦って、それも50年金婚式さえ迎えた夫婦って、他人には分からない。 私は、意識が混濁したときの話を彼に伝えて、「でも、じいちゃんはばあちゃんのことを愛していたんだと思うよ。夫婦のことは、他の人にはわからないんだよ。だから、ばあちゃんのことをそんな風に言ってはいけないと思うよ。多分、じいちゃんはばあちゃんのことをそんな風に言って欲しくないと思うんだよ。」と言ったものの、内心、口には出さないけど、私だって、はらわた煮えくりかえっている。はっきり言って、お舅さんは姑に殺されたと、私は思っているし。 ただ、それを聞くと傷つく人がいることを、(それは多分、私の夫やその兄弟やお舅さん自身)中学生よりは分かっているから、思っていても、家族の前では面と向かって口には出さないんだ。(だから、王様の耳はロバの耳、匿名性のあるこんな場所に吐き捨てるんだよ) 葬儀では、私は姑が不愉快で、何を思って泣けるのか、どの面下げて、この場に居られるのか、私は不思議で仕方なかったため、私自身はちっとも泣かなかった。 お葬式が終わり、火葬された遺骨が戻り、繰り上げの初七日が執り行われた後、さて、49日(満中陰)までの毎週、7日ごとに中陰の法要があるのを、どこでどうするかという話が佳境になり、自分の家が汚くしすぎていて、それを何とか取り繕うことはできないと考えた姑は、毎週どこか会場を借りて法要をおするから、その費用を全部出せとか勝手なことを言っていたと思ったら、 最終的に、「お前がお父さんを連れて行ったんだし、勝手に最期まで面倒を見ろ」と、法要は全部我が家でやるから、と、親戚にもお寺さんにも言ったそうな。 で、びっくりあんぐり。葬祭会館の初七日の会場から、夫の(お舅さんの)「お写真(遺影)も、お位牌も、そして、お骨(遺骨)も持って帰らない」と言いだし、「お前が全部しろ、私はお前の家なんか行かないから、法要には行かない」と言い放った。 駐車場にいた私のところへ夫が、おかあさんがこんなことを言い出したからと言いに来たので、「もういいよ、全部するから、そのかわり、もう一切姑とは関わりたくない。」と即答。 そして、お舅さんの遺骨も全部、我が家へ連れて帰ることになった。これにはびっくりだ。 しかし、家に帰って、お舅さんが退院してきたら使うために買った、プラスチックの衣装引き出しの上に、白い布をかけて、取り敢えずの中陰段をつくり、お舅さんの遺影と遺骨とお位牌を奉り、ふと、夫と、「そう言えば、おとうさん、病院で、退院してももうあの家には帰れないから、お前の家に世話にならせてくれって言って、住民票まで移したんだよ。おとうさん、この家に帰ってくるんでよかったんだよね。」と言うと、夫の顔が明るくなって、そうだねと、「お父さん静かなところで、ゆっくりすればいいよ」と言った。 はぁ、疲れた~と、ソファーに腰を下ろし、テレビをつけて、新聞のテレビ欄を拡げたら、その下欄に、墓石を扱っている石材屋さんがこれから新たにお仏壇も、扱うことになり、明後日の土曜日から、オープニングセールをで、大々的にイベントをして、大特価販売すると大きな広告が載っていた。 私たちがローンを払い続けている部屋数10もの大きな家には、仏間に一間幅のどデカイお仏壇があるけれど、この借家にやってきたお舅さんに、ワンルームマンションくらいのお仏壇でもいいから、お仏壇を買いに行かなくちゃね。 それにしても、この我が家で、これから毎週二七日三七日四七日五七日六七日と、30人規模の中陰法要をしなくちゃいけなくなって、とにかくお葬式が済むまで頑張ろうと思っていた私は、その先の方が、もっと途方に暮れるハードな日になった。 何たって、年末大掃除どころじゃない。スペース作るために、ダイニングテーブルから何から全部取っ払い、その分、寝室などあちこちは、物置となり、座布団を買いそろえ、湯飲みを買いそろえ、お経本を揃え、うどんの準備にそれ以外の食べ物の準備に、お茶菓子に……、親戚への説明と案内回りに、お寺さんへの挨拶、まだ、お香典返しの準備は済んでないけど、葬祭会館なんかのお支払いのことは追いかけてくるし、部屋が広くなったら、宝良ちゃんが喜んで、あーーーーーーって言ったけど間に合わず、障子に両腕が突き刺さり、この上、障子の張り替えかよ! と思った瞬間、ぎゃーーーーー、と大声を張り上げて宝良ちゃんを叱ってしまった。 ごめん、大人の都合で、八つ当たりした。 ふぅ~。 というわけで、怒濤の日々はつづく。
2007.05.24
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朝の宝良ちゃんは、37.2℃。保育所は37.5℃で呼び出し。ギリギリ預かって貰える体温だけど、怪しい。でも、お舅さんの様態がこんなとき、いつ何が起こっても不思議ではないので、宝良ちゃんをまず小児科へ連れて行く。 小児科の診察室に着いて、問診票を書くためにそこで再度熱を測ったら、すでに、37.8℃に上がっていた。あちゃ~。 風邪の薬を貰ってお会計しようとしていら、病院から電話。お舅さんの血圧が下がってきて、家族の方来てくださいとのこと。 宝良ちゃん、ゴメン。保育所どころか、もう38℃でも、連れ回すしかない。お昼前なので、夫と妹さんと宝良ちゃんと、長丁場になっても、取り敢えず何人かは食べられるように、5.6人分のペットボトルとおにぎりを10個くらいコンビニで買って、病院へ向かう。 体調は悪いし、緊迫した雰囲気で、宝良ちゃんはぐずって、「あっち行こう」「帰る」と連発。 お舅さんは、もう数日前から心電図モニターが着いた状態で、でも明らかに、昨日はまだ少しは体を動かしたり話したりできていたのに、今日は全くぴくりとも体を動かさず、かろうじて少し目を開けるかどうかというくらい。ただ、口でする呼吸だけが、大きく、がくっがくっと顎を揺らしながら苦しそうに目立っていた。 付き添いさんのおばさんが、小さい声で、「昨日のあのお姑さんのが、きつかったですよね。もう昨日と全然様子が違いますもんね」と私に言った。 夫も看護師さんをしている妹さんも来て、どこまで連絡を拡げるか相談。急変ばかりは誰にも分からないけれど、さすがに大きな病院でずっと看護師をしてきただけあって、妹さんには、感覚で、もう危ない感じがすると分かるらしい。 それで、もう一人の妹さんも会社へ早退するように連絡。 タクシーを手配して、姑を拾って中学生の孫を学校へ迎えに行かせて、また、看護師をしている妹さんの子どもたちも、それぞれに学校を早退してタクシーで駆けつけるように連絡。こちらの孫たちは、昨日やっと姑へ伝えたばかりで、それまで隠していたのがあり、おじいちゃんがこんなことになっているとは全く知らされて無くて、いきなり学校へ「祖父危篤、すぐ病院へ」の連絡になった。 でも、こちらの孫たちはもう大きくて、一番上のお姉ちゃんは看護学生なので、先日の法事の際のおじいちゃん(お舅さん)の弱り方から、病気だろうと言うことは感じていたし、そのときの、おばあさん(姑)の仕打ちの意味も、黙っていても理解していて、だから、駆けつけたとき、余計なことは何一つ聞かずに、ベッドの横で泣いていた。みんな幼稚園バスに乗れない日の送り迎えとか、おじいちゃんにはいっぱい世話になって、大事にして貰った孫ばかりで、おじいちゃんのことが大好きだった。 健康保険証再発行のことでお世話になった親戚のひとたちが、前日姑が来る前に来てくれて、まだ入院してすぐ、点滴をして元気が出て、食欲も戻りかけて色々元気に話せるようになった姿を、前回のお見舞いの時は見てくれていたので、今回、もう随分元気になっただろうと思って、お見舞いに来てくれたら、もう、癌で手遅れで……ということを伝えなくてはならず、でも、姑が来る前だったので、まだ、何とか少しは話が出来ていて、……、また、明日も来ると言ってくれていたのだった。 そして、今日、お見舞いに来てくれたときには、もう危篤。兄弟のように育った近所に住むいとこのおじさん。姑に伏せていたために、親戚には誰にも入院のことを伝えられず、結局、誰にも会わせてあげられなかった。このいとこのおじさんご一家が何度か来てくれたのが、本当に救いだった。 5月5日、おばあさん(お舅さんのおかあさん)の法事、あの法事までは何とか頑張ろうと思っていたんだとうちに来た頃お舅さんが言っていたけど、ああ、あのとき、法事に来てくれた親戚の方々に何とか会えたのが、お舅さんには最後の挨拶だったんだな。 付き添いさんが、雰囲気からして、居づらくなって、もう必要ないですねということで、14時で帰ることになった。何ヶ月もお願いするつもりで依頼の電話をしたのは、まだおとといの夜中。なのに、ちょうど、前日から24時間、たった丸一日しか…。 付き添いのおばさんが帰られたあと、本当に数十分、最後の孫が間に合って、1時間ほど、5月22日 14:42お舅さんは帰らない人になった。 ずっとずっとぐずって泣いていた宝良ちゃん。この雰囲気だって怖いし、何たって熱があるんだよ。そのうえ、昼寝の時間だし……と思うのに、糞姑は、「こういうときは、一番小さい子どもが何かを感じるんだ。」と。ふざけたことを言ってるんじゃねえよ、ばばあ。 亡くなる少し前まで、まだ自分ではお舅さんに声をかけることもせず、一緒に住んでいる孫に、「ほら、じいちゃんに、『頑張って、大好き』と大きな声で言え、じいちゃんは聞こえているから」と指示をする。お前が言えよ、お前の口で、お前が言えよ、お前が、おとおさんに、ありがとうって言えよ。 本当に亡くなる2.3分前になって、家族に促されて、やっとベッドの枕元、顔の一番近いところに来て、最後の最期、息を引き取るそのときになって、やっと、「おとうさん、おとうさん、おとうさん、おとうさん」と、姑は自分の口でお舅さんに語りかけた。 家はゴミ屋敷で、とてもお葬式が出来る状態ではないので、病院から葬儀社へ連絡して、そのまま葬儀会館を借りた。 私はお舅さんが気の毒で、でも、姑への怒りのが強くて、その場では全く泣かなかった。ふざけんな糞ばばあ! 葬儀社の車が迎えに来て、病院から出るとき、葬儀社の車に誰か同乗しなくてはならない。こういうとき、周囲が乗ってはいけないと言っても、制止を振り切ってでも乗り込みたいものだろうとおもうけれど、姑は誰か乗れと四の五の言っていたが、こういう経緯で、急遽呼ばれて家族が集まったので、子どもたち以外はみんな、自分で自分の車を運転してきている。必然的に姑しかいなくて、姑が、葬儀会場までお舅さんの亡骸と一緒に車に乗っていった。 私は、よかったなと思った。せめて、この数十分だけでも、夫婦二人きりで、お舅さんに声をかけてあげて貰いたかった。意識が混濁したときの、お舅さんが姑にかけてあげていたあの優しさを見ていた分、どうして、最期くらいありがとうって、優しい言葉がかけてあげられないのかと、だから、せめて、この車のなかだけでも、二人だけにしてあげられてよかったとそう思ったんだ。 病院を出るとき、病棟の看護師さんも主治医も泌尿器科の先生も、関係してくださった病院の方々が、皆さん揃って、遺体と私たち家族を深々と頭を下げて、ずっと病院の出口で見送ってくださった。 本当にお世話になった、優しい主治医の先生のお顔が見えたとき、最初診察室へ付いて入ったときからのことが、一気に思い出されて、本当にお世話になりました、ありがとうございました、という気持ちで、涙が溢れた。 熱を出して辛い宝良ちゃんを、車に乗せて、葬祭会館へ向かって走り出すと、車の揺れでやっと眠った宝良ちゃん。静かになると、私はお舅さんの人生を思い、本当にずっと涙が止まらなかった。 葬祭会館へ着くともう夕方で、そこから打ち合わせが始まったので、その日はお通夜にならず、翌日お通夜、翌々日が告別式と繰り上げの初七日ということになり、3日に渡ることになった。 たまたま、亡くなるときに近所に住むお舅さんのいとこご家族が来てくださっていたので、そこから連絡が行って、お通夜は次の日の予定だったけど、近所の方は、当日の夜からずっとおいでて下さって、長い長いお葬式が始まった。 近所の方は、びっくりで、姑に「どうしたの、急なことで…」と声をかける。すると、姑は、「ええ、急なことで」(嘘付け、何ヶ月も前からお舅さんは辛いから病院へ行きたいと言っていたのに、お前が保険証を取りあげて隠して行かせなかったんじゃないか!!!!) と、聞こえてくるとむかつく私。とうとう言うに事欠いて、「私は病院に行きなさい、検査に行きなさいと何度も言うのに、わがまま勝手でひとの言うことなんかちっとも聞かない人だったから……」と言いやがりやった。 もう、虫唾が走るくらい、何者じゃこいつはと思うくらい、たまらなく嫌悪感が涌いて、どんなにできの悪い嫁と思われようと構わないので、姑が居る部屋には私はもう居たくなくて、廊下で宝良ちゃんをベビーカーに乗せて揺らしながら寝かしつけていたり、とにかく、姑が居ないエリアで、来てくださった方へ挨拶をしたり、お茶を出したりしていた。 一段落ついたところで、夜、一度宝良ちゃんを連れて家へ帰ることにした。夫にも、泊まり込むのは交代にしようと話て、先は長いから、順番に帰るように伝えて帰宅。 でも、結局、何とか宝良ちゃんを寝かしつけて、自分や宝良ちゃんの喪服の用意や、色々と準備をしていたら、朝5時になっていた。9時には出かけないといけないので、2時間ばかり睡眠をとってシャワーを浴びて、また姑が、葬儀だけじゃなく、今後の法事関係も含めて、訳の分からないことをごちゃごちゃと言い出しているので、はぁ~と思いつつ、23日お通夜の日の朝が始まった。 つづく。
2007.05.22
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翌 月曜日、看護師をしている妹さんが日中時間を作ってくれるというので、熱を出した宝良ちゃんを私の実家に預け、私が仕事も学校も休んで病室に付いていることにし、仕事を休んだ夫とその妹さんと二人で、姑のところへ出かけていった。 家政婦さんの手配が付いたとのことで、月曜日の14時から感じのいいおばさんが来てくれて、私たちは来られるときはくるけれど、無理なときは帰るということが可能になった。 二人が姑を説得している間、付き添いさんに、このあと起こるであろうこと(姑のこと)を掻い摘んで説明して、驚かれると思うけど…と伝え、お舅さんに、「おとうさん、ごめんね。おかあさんに言わないで欲しいっておとうさん言っていたけれど、ちょっと、おとうさん病気がしんどいから、やっぱり黙っておくわけにはいかないなって、二人がおかあさんを迎えに行ったんだ。この後、おかあさん来ると思うし、そしたら、また、しばらくうるさくいっぱい言うと思うけど、ごめんな。」と私が言うと、「うん。うん。」と頷いた。 食欲がなかったり、もう、何も食べられなくなって、点滴に頼っていたこの数日だったけれど、アイスクリームだけは、美味しいと言って食べることが出来、私は短大を出るとまずコンビニに寄って、クーリッシュを買うことにしていた。で、病院へ運転して到着すると、クーリッシュがかなり柔らかくなっていて、寝たきりの状態でも食べやすかったのだ。「冷たくて、甘くて、おいしい」と、初めは半分くらい食べられていたクーリッシュも、段々一口二口しか食べられなくなっていたけど、とうとうこの日から、絶飲食指示になった。もう口からお水も飲ませてあげられない。 付き添いさんに気を遣って、何か飲まれますかと声をかけたら、お舅さんが水が欲しいという。もう、口で必死の呼吸をしているから、唇も舌もバリバリに乾いていて、スポンジが付いた棒に水を浸して、唇や舌を濡らしてあげる。こんなんじゃ、足りないだろうなぁとかわいそうに思う。 お舅さんに、「この後、おかあさんが来ると思うけど、前の入院のときのように、おかあさんが自分で泊まり込んで付き添いをすると言い出したら、おとうさんどうする?構わない?」と事前に意向を聞いておこうと思ったら、お舅さん、思いっきり胸の前で手をぱたぱたと左右に振って、勘弁してくれ! と言わんばかり。「うん、分かった。 じゃあ、今日は来るのは来るけど、泊まり込むって言い出したら、何とかみんなで帰って貰うようにするね」と答えた。 夫と妹さんは、約一時間半ほど姑の独演会を散々聞かされて、勝手に~だから、私は病院へは行かないという姑を説得し、姑が盲信している医者のところへ立ち寄ってから、やっと病院へ姑を連れてきた。この時点では、大変な癌だって伝えているのに、まだ、入院なんかしなくて良いとか、その御用達医師の医院へ転院させろとかわめいていた。健康保険証は再発行したんやな、と、自分が隠しているのに病院へ行けたことをはっきり認識していて、この婆さんどういう神経しているんだろうと、気持ち悪かった。 来た瞬間の姑の顔、あの表情を私は忘れられない。勝ち誇った、軽蔑したような、見下した顔。ベッドに横たわって弱り果てている夫を、ベッドの足下の角から見下して、枕元へも行こうとしない、その瞬間の顔、表情。本当に、目は口ほどにものを言うというが、あのときの姑の表情ほど、ぞっとしたことは、久しくない。 それから、おもむろに、「おとうさん。何寝とんな、みんなに迷惑かけて、自分が頑張らんでどうするんな。はい、頑張りまいよ。」と言い放ち、夫や妹さんに手足をギュウギュウとこするように指示する。そして、自分もやってあげているという姿勢を見せつけるように、あざが出来るほど強くギュウギュウとふくらはぎなどをこする。 血栓が飛ぶように、癌の組織が血流に乗って飛んで、それが肺を詰めると急変する。そのことを恐れて、なるべく動かさないようにしている患者の血流を無理に起こす行為。お前、殺しに来たんか!!!!!!! もう、意識レベルまで落ちて、二晩続けて危険な状態があって病院から呼び出しがあるほどのしんどいお舅さんなのに、お舅さんが目を瞑って眠りそうになると、「おとうさん。今昼よ、何寝てるの、はい、目開けて!」「本当に、自分じゃ楽することばかりで。運動だってあれほどしなさいって言ったのに。はい、足動かして。ちょっとは自分でしなさいよ」と。 私はもう見ていられなくて、聞いていても気分が悪いし、10分もしない内に病室から出て、廊下で立っていた。付き添いさんも見かねて、「あんなことしちゃあ……。誰か止められないんですか?」と廊下へ出てきた。 ちょうど巡回に来た泌尿器科の先生に「ゆっくり休んで貰っていて構わないんですよ」とやんわり言って貰ったけれど、聞く耳なんて持っている人じゃ無し……、 仕方ないので、看護婦さんにお願いして、「もし可能ならでいいのですが、私たちは何度も時間をいただいているので、3度手間で申し訳ないれれど、主治医の先生から姑に病状説明インフォームドコンセントをしてやって欲しい」と頼んだ。 病状を理解して欲しいというよりも、説明するための部屋へ物理的に姑を移動させて、病室から姑に出ていって貰いたかったからだ。 主治医は以前の入院のときのことも、今回健康保険証を取りあげて隠して通院させなかったため、手遅れになったことも、姑のことは全部ご存じで、そういう話の分からない人相手でも、丁寧に説明をしてくださった。 その説明を聞いているときも、初めは鼻息が荒い姑。「若い頃に腎臓に結石ができたのに、辛い食べ物が好きで、控えなさいと言ってもわがままで聞き入れなかったし、野菜もあまり食べずに魚が好きで、(嘘ばっかり。魚が好きなのは本当だけど、野菜の好き嫌いなんて無かったよ)、水もたくさん飲めというのに、わがままだか。」とか、とにかく、病気が悪化したのは、お舅さんがわがままだからと主張。主治医に「あまり癌には関係ないと思いますよ」と言われると、段々話している内に、前年の写真にはまったく癌の影が無く、前の検査の時に来なかったというところになると、あの姑、いけしゃあしゃあと、「検査に行きな、病院へ行きな、と言っても、本当にひとの言うことを聞かないわがままな人で…」と言い出しやがった。さすがに、後ろで座っていた私はぶち切れて、小さい声で「うそつけっ!」って声が出て、壁を小さく蹴ってしまったよ。はらわたが煮えくりかえりそうになって、病室にお気に入りネズミ講健康器具を持ち込みたいそうで、空気清浄機や電磁治療器を持ってきても良いかと主治医に尋ね、「余命一ヶ月の癌の人も治るし、肩こりも便秘にも効くし…」といつも自分がネズミ講セールスで言っていることを主治医にいうと、「今は、肩こりや便秘の話をしているわけではないですし、癌自体の進行であと一ヶ月持つかどうか、それ以前に、急変でいつか分からない状態、この週末も、二度ほど危険なときがあって、この二回は何とか乗りきってくれたけれど、次にまた乗りきってくれるとは限らないのですよ。 その治療器に期待するような効果は無いと思いますが、それでご家族の方の気持ちが収まるのでしたら、病室に持ち込まれるのは構いませんよ。」と冷静に主治医の先生は答えてくださり、お陰で、その治療器を取りに帰るという目的が出来たので、姑は病室に泊まり込んで付きそうという話にはならず、夫が姑を病院から連れだした。 とにかく姑に隠す必要が無くなったから、その後、やっと姑と同居している中学生の孫に入院のことが伝えられ、その夜おじいちゃんの病室にお見舞いに来ることが出来た。命を張って守った、おじいちゃんにとって誰よりかわいい娘と孫だもの、姑のことはともかく、隠さなくて良くなって、それだけは本当に良かった。 私は、インフォームドコンセントのときの、スッペラコッペラ嘘ばっかりいう姑の姿に、もう、我慢の限界で、不快きわまりなく、後は、付き添いの方にお願いして、帰ることにし、お熱を出して実家に預けられている宝良ちゃんを迎えに行った。やはり38℃くらいで、グズグズとしんどそうな宝良ちゃんだった。全部しわ寄せが宝良ちゃんに行ってしまって、グズグズ言っている宝良ちゃんの姿がかわいそうで、申し訳ない気持ちで、添い寝していた夜だった。
2007.05.21
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金曜日に私の車に乗り、自力で歩いて入院したお舅さん。点滴を受けてから、食欲も出たと元気さを取り戻したように見えた。 大部屋へ入院して、トイレだって自分で歩いて行っていたのに、次の日、ベッドの横にポータブルトイレが置いてあり、夜中にトイレへ行っていたら転んだから、夜だけはポータブルでと看護師さんが貸してくれたと。 そして今度は、病室が個室に移っていて、酸素を使い始めていた。その次には、導尿の管が入り、一週間後の金曜日にはびっくりするほど衰弱が進んでいた。 まだ病状をお舅さんに告知していないので、お舅さんとしては、今は静かに治療したいから姑には来て欲しくないということがあり、何度聞いても、「おかあさんには、言わないでくれ」という。なので、どうしても姑にお舅さんの入院を知らせることができず、そうは言っても、急変の恐れもあるので、姑のまだ一緒に住んでいるもう一人の妹さんには伝えてあげないとかわいそうだと言うことで、夫が携帯電話をもう一台契約して、仕事帰りの妹さんを呼びだして、ファミレスで状況を説明し、携帯を持たせた。その妹さんはとても節約家でコツコツとお金を貯めるのだが、姑がネズミ講健康器具? や、石仏などを、何十万・何百万と買ってしまい、それにお金を取られてしまっていて、節約のため、携帯電話も持たず、更に、あの家は、もったいないからと新聞の購読も姑が中止させたそうで、直近でお金の工面を言ってきたときは、先日の法事の為に10万円先に出せというのと、何とかマットを健康のために買ったのの支払いを電話してきていたが、そのマットも、お舅さん曰く、もったいないから、コンセントは差し込んでないということで、スイッチ入れて無かったって………。アホらし~。意味無いじゃんと思った次第。まあ、そうやって、姑には知らさず、でも、何とか夫の兄弟3人(夫・看護師さんの妹さん・姑と同居の妹さん)は連絡が取り合えるようになった。ちなみに、自宅の電話と誰宛であっても郵便物全ては、全部姑のチェックが入るので、自宅の電話で妹さんにお舅さんの大事な話は出来ないのだった。で、夫名義の携帯を下の妹さんに持ってもらうことにしたのだ。 ファミレスで話した後、下の妹さんは、息子のお稽古ごとの送り迎えがあったので、姑にとやかくいわれることなく、家を出てお舅さんの病院へ駆けつけることができたそうで、本当に、急変する前に伝えられてよかった、と安堵した。お舅さんが姑のノイローゼのような一日中続くわめきごとに耐えていたのも、離婚して息子を連れて帰ってきて、同居していたその妹さんと息子、つまりお舅さんにとっての娘と孫がかわいいからで、姑のいらいらのはけ口が、その娘さんと孫に向くよりは、自分さえ我慢すれば……、と、常々以前から、お舅さんは言っていたのもあって、本当に、一番かわいくて大事で大事で、命を張って守ってきた娘と孫なわけで、………、急変というのは、いつ起こるかわからないから「急変」な訳だから、ああ、急変が起こる前に、その妹さんがお舅さんに会いに行けて、元気にまだしっかりとたくさん話もできる状況でお見舞いに来てくれる状況がつくれたことに、ほんとうに、よかったと思ったのだ。 さてさて、土曜日には、私たち夫婦は用があり、日中にはあ病院へ行けないのだけど、看護師をしている妹さんがこの日は付いていられると言うので、お願いしていた。 妹さんの電話で、今日、時々意識がおかしくなることが出てきたという。自分のいる場所が大部屋か個室か分からなくなったり、病院に居ること自体が分からなくなったりする場面が出たり、でも、ちゃんと説明してあげると、ああそうか、と正常にコミュニケーションできたり、という感じになったと。 私たち家族の用が終わって、帰宅の途についたとき、私が運転して、夫が携帯でまさに妹さんとそういう報告を聞いて、しかし、いつまでもこのまま姑にお舅さんの病状を伝えないままでいいのかなどと、夫たちが話している間、運転手の私は、さて、このまま自宅へ戻るか、妹さんに今日は頼んであるとは言え、一日に一度はやっぱり病院へ顔をだそうか、と運転していたら、夫の携帯が話し中だから、次の順番で、私の携帯へ病棟の看護師さんから、電話。すぐに病院へこれから来て欲しいと。 というわけで、また、宝良ちゃんも疲れているのに、そのまま20時頃から病院へ向かうと、お舅さんが、意識が混濁して、ベッドから自分で降りて歩けなくて転んで、「自分は入院して処置して貰っているが、自分の家内も体調が良くないので、家内を入院させて点滴してやって欲しい」とナースステーションへ言いに行きたかったという。その後も、ナースコールで、家内のことはどうなったかと、聞いてきたと。また、意識が混濁したときは、自分で点滴を抜いてしまうことがあり、太股に点滴の場所を変えさせて貰ったとのことだった。 この意識レベルの下がり方は、後で聞いたら、危篤とまでは言えなくても、急変する兆しはあって、危機的な状態ということで、もしかしたら、息を引き取る恐れもあったので、家族を呼ぶということだったらしいのだが、私たちは、勝手に、徘徊などに困るので、家族が呼ばれたとこの時は思った。 でも、まだ土曜日は、意識がまともに戻るときの方が多く、私たちが駆けつけたときは、おかしいながらも、まだ、私たちが、「そうじゃないよ、今は~だよ。」と説明するとああそうか、とお舅さんは分かる感じで、その夜は暫く病室に居て帰った。でも、病院からは、もう、24時間どなたかご家族の方が側に付いて欲しいと相談を持ちかけられた。 私は、毎日学校と仕事の合間に病院へ通って、洗濯や身の回りの洗い物などはしていたけれど、ずっと病室に泊まり込んでいたわけではない。 子どもの頃、祖母が進行性筋ジストロフィーという病気で寝たきりなのを自宅で介護しながら暮らす家庭で私は育ったので、晩年私が中学生の時、2年ほど祖母が入院していた間は、母が36時間病室に付いて、仕事を持っている親戚のおばさんが2日に一晩ずつ、病室に寝泊まりして、ということを続けて介護してきた姿をはっきりとイメージすることが出来た。 簡単に、「はい分かりました、これから毎日ずっと私が病室に付き添います」とは、返事できなかった。取り敢えず、土曜日の夜は、お舅さんも落ち着いたこともあり、その宿題を持って、相談しますと答えて帰った。 さて、日曜日、また病院から、緊急に呼び出しがあった。すぐには行けなくて、病院に着いたのが、20:30頃。看護師をしている妹さんにも夫が電話で連絡。妹さんが来てから、相談ということになった。 夫が病室の外で電話連絡などをしていたとき、昨夜の「姑に点滴してやって欲しい」のことを思い、ちょっと落ち着いていてまともに話が出来る状態だったお舅さんに、「おとうさん。おかあさんは元気だから、心配しなくて大丈夫だよ。毎日、電話で何時間もガンガン怒鳴ってくるよ。それほど元気だから、安心して良いよ。」と話しかけた。すると、お舅さんは、(私たちはまだ告知も何もしていないのに、)「おとうさんは、どうもおかあさんより先に死なないといけないみたいだ。おとうさんが死んだら、あれを守ってやる者がいなくなる。」と言った。 昨晩の、姑へ点滴……は、混濁した意識でのことなので、お舅さん自身は覚えていないのだけど、意識の底からそうやって姑のことを心配しているからこそ、そういう形の徘徊や言動になったんだと思うと、本当にたまらなく切なくて、ああ、おとうさんは、それでもあの妻を愛していたんだなと、周囲が何をどう言っても、こんな健康状態にされて、いじめ抜かれても、(姑にはいじめている意識は無いんだろうけど、)根本には、お舅さんには愛があったから、ギリギリまであの家を出なかったんだな、と思った。今こうして書いていても涙がポトポト落ちるくらい、お舅さんのこと言葉を聞いて、私は本当に本当に切なくて、まだ全部の結果が出ていないし、癌自体の進行によって、これから一年、いや何ヶ月生きられるか分からないけれど、でも、癌の進行の前に、癌が飛んで肺を詰めることによる急変があって、今日明日どうにかなってしまうこともあるかもしれないわけで、お舅さんには告知していなくても、このまま姑に知らせないとか会わせない訳にはいかないと思った。 知らせて、病床のお舅さんをまた苦しめるような言動を取られるのも困るけど、でも、万が一のことがあったしまった後で姑に会わせるのでは間に合わない。だって、おとうさんは姑のこと、それでも愛していたんだよ。 電話を終えて病室に戻ってきた夫に、後で、そのことを伝えて、何とか姑を病室に呼んできて欲しいと頼んだ。 看護師をしている妹さんが到着して、取り敢えず、家政婦協会さんへ24時間付いてくれる人を依頼。一日約15000円で来てくれることになり、人の手配が出来るまでは何とか私たちが繋ぐということになった。 もう23時を過ぎていて、宝良ちゃんは眠いのと病棟のびりびりした雰囲気で落ち着かずに泣いてしまう。でも、他の病室の患者さんに宝良ちゃんの泣き声が迷惑になってはいけないと、宝良ちゃんが泣くたびに、駐車場へ連れ出して、抱っこで寝かしつけていた。日中は温かいので、半袖だったが、夜風の中でそんなことを繰り返していて、無理をさせ続けていたのもあり、見る見るうちに、宝良ちゃんは風邪ひきに。ごめんよ。こんなとき、一番にしわ寄せがくるのは、小さい子ども。 結局、日曜日その晩は、一旦家へ帰り、泊まり支度をして、夫が再度深夜01時頃病院へ戻って泊まり、私は宝良ちゃんを連れて帰って、家で寝た。
2007.05.20
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宝良ちゃん家庭訪問の日。夕方18時からの今年の担任の先生がやってきてくれた。その時間に予約していたので、夫も事前に手配して、早めに仕事から帰ってきてくれていて、我が家はいつも、保育所行事はパパも参加。と言うわけで、宝良くんはお気に入りのおもちゃなどを先生にいっぱい次から次へと先生に見せながら、パパとママを従えて、楽しそうな家庭訪問の時間。 今年の1歳児クラスは3人の担任の先生が居て、一人は昨年0歳児クラスからの持ち上がりで、宝良ちゃんにとって、だーーーい好きな先生、もうひとりも、居残りさんなどでお世話になっていて、最後に今年移動でやってきた若い先生が加わっての3人。 家庭訪問では、新しい若い先生が来てくれた。 先生も知っておいた方がいいだろうし、私たちも、その先生のことを知りたかったので、ヨカッタナ。 一般的なセオリーとは違って、部屋に上がって、45分くらい色々な話をして、お茶もちゃんと飲んでくれて(お菓子は最初から出してないけど)、とても気さくで保育士になって5年目くらいの先生、感じ良かったです。 急な話なんですが、3人家族じゃなくて、宝良くん父方の祖父と同居になったんです、週末から検査入院したんだけど、退院後はいっしょに暮らすので、これから、ちょっと生活に変化がありますってことを家庭訪問に来てくださった先生に話していたとき、病院から電話があって、夫が電話の子機を台所へ持っていって話を聞いていた。そこそこ長い電話だったな。 電話が終わって部屋に戻ってきて、まだ暫く先生と宝良くんのことについて話して、そして先生が19時前に帰って行かれた後、「実は病院から電話で…」という。 金曜日に入院して、その日はレントゲンと血液検査と胃カメラだけしたんだな。で、土日は検査はお休み。そして月曜日の日中に全身のCTを撮った。その夕方、主治医の先生から自宅への電話だった。「左の腎臓が、もう原型も無いほどの大きな癌になっており、それが、肺全体にも肝臓全体にもびっしりと転移しています。また、癌細胞が心臓へも飛んでいて、癌細胞も血栓と同じように飛んで肺などで詰まってしまうことがあるのですが、心臓に見える癌は心臓自体に癌が出来ているのではなく、そうやって飛んできている癌組織です。なので、この心臓のようなのが、肺へ飛んだら、急変(そこから早ければ数十分で息を引き取る)恐れがあります。急変の可能性があるので、ご家族にすぐにご連絡をしなくてはならないということで、お電話させていただきました。」ということだった。 19時、急変の恐れがあるということだから、看護師をしている夫の妹さんにまず取り急ぎ電話して、それから、あ宝良ちゃんに夕飯も食べさせず、車の中でおにぎり煎餅をかじらせながら、夫と宝良ちゃんと3人で、お舅さんの病院へ飛んでいった。 インフォームドコンセントのしっかりしている病院で、丁寧にしっかりと分かりやすく説明を受けた。宝良ちゃんは、もう眠いのとろくに夕飯も食べさせてないのとで、グズグズ。それを抱っこであやしながら、説明を聞いた。 お舅さんは2年前、ちょうど宝良ちゃんの妊娠が判明したそのとき、トラクターから落ちて腹部を強打し、腹膜炎になってこの病院で手術を受けた。そして、一年後、その手術の傷をメンテナンスする手術で、再度入院。そのときから、この主治医と看護スタッフにお世話になり、本当に良くして貰って、人柄も技術も良く、とても信頼しているのだ。 と同時に、前回の入院時、完全看護で泊まり込まなくてもいいというのに、姑が自分は立派な妻であると演じたいばかりに、ずっと病室に付き添い、疲れるとお舅さんや周囲に当たり散らすので、大変だった経緯があり、(このブログの2004.12.10がそのときの日記)お舅さんは今回、この体調の苦しいときに、一日中姑(自分の妻)に病室でわめき散らされるのは耐えられないから、入院していることは絶対に知らせないで欲しいと希望していたのだった。 だから、病院からの連絡も今後入院に関する保険の書類もあちらの家へ行くと困るということで、結局、住民票までも私たちの家へ移し、郵便物も転送する手続きをしたところだった。 さて、その時からの検査資料があり、そして、その続きで昨年8月に検査の予約が入っていたのに、その8月の検査の頃から、姑が、お舅さんの健康保険証を取りあげて、お金も取りあげて、病院へ行かせなくしていたわけだ。 インフォームドコンセントの際、昨年の3月のデータでは、どこにも癌の影も無く、………、つまり、8月に検査にさえ行っていれば、そして、その後、体調が悪い、しんどいとお舅さんが言うときに、病院へ行かせてあげていれば、こんなに、ひどいことにはならなかった筈なのに……。 はっきり言う!おとうさんをこんなことにしたのは、あんただよ!!!!姑よ! 法事の席でも、親戚中に、おとうさんの大げさで、しんどくても毎日努力する私とこの怠け者の差なだけで、と、みんなに大声で言いふらしていたあなたよ、痛い、しんどいという夫に、大声で怒鳴りながら、痛い脚をギュウギュウと曲げさせて、私は優しいからリハビリを手伝ってあげるのだと言い放ったあたなよ、孫の野球のバットで、背中がジンジンして麻痺するほど、”優しさ”でゴリゴリいじめ抜いたあなたよ、そんなお舅さんが、あなたの傘であり、あなたを守り抜いて来てくれたいたことが、分からないのかよ。 インフォームドコンセントの悲惨な写真。「ここにあるこれが悪性の腫瘍です」なんて一カ所を差していう説明ではなく、もう、肺も肝臓も、臓器全体、どこで輪切りにした写真にも、夜空にきらめく星々のように、無数の白いもの(癌)がちりばめられていて、そして、左の腎臓は真っ白。原型がもうCTに映らないほど、骨盤から肋骨の下くらいまでの巨大な癌だった。 こんな体で、病院へ行きたいから健康保険証を再発行して欲しいと、必死で歩いて、自分で歩いて、親戚の家へ頼みに行って、着いた時点で、話を始める前に、暫く休ませて欲しいと玄関先で体を横たえてから、やっと頼んだと、後で聞いた。 健康保険証のことがあって、このご家族だけが、お舅さんがもう我が家に引き取られて、検査療養入院できたと知っていたため、入院できて本当によかったな、と土日に家族全員でお見舞いに来てくださっていたのだった。 取り敢えず、お舅さんには、全部の検査結果が出るのを待って、余命の見通しを主治医から聞いてから、話をしよう、そして、会いたい人に会って貰おう、と、その場では話さず、病院を後にして、すぐに、看護師をしている夫の妹さんに、詳しく聞いたことを伝え、21時、閉店ギリギリのうどん屋さんを見つけて飛び込んで、宝良ちゃんに遅い夕飯を。 放心状態で帰宅。夫はまだ現実のこととは思えないんだけど…といいながら、お舅さんが退院してきたら使うために、百均で取り急ぎ5つも買った度数3.5の老眼鏡を見ていた。 少子高齢化の時代、高齢出産のママは育児と介護が重なることがある、そのためにも、私たちのような育児支援の仕事は必要なんだとそう思ってやってきたけど、そうか、まさに、私がそうなったんだな、と思った。 私の人生に「育児しつつの介護」期が訪れたんだな、と。 それにしても、私は以前から、あの姑とは相容れなかったが、偶然にも先日法事があり、姑のお舅さんへのまさに虐待な現場に私も同席してしまったため、本当に、理性だけではなく、もう生理的に、その場に居たくないほど、嫌悪感を抱いてしまった。それがまだレアな感覚で残っていての、今回の現実で、私の姑に対する嫌悪感はもう、ヘドが出そうだというくらい、気分が悪かった。 でも、夫にしたら、辛いことだけど、その両方が親なのだ。だから、同じように感じていても、私の口からはそれでも母親のことを悪く言われるのを耳にはしたくないだろうとそれは分かるから、なるべく言わないようにしようと思うのだけど、…………、でも、でも、 お舅さんが入院していることや、ましてやこの病状を知らない姑は、お舅さんが我が家に来て以来、一日に何度も、うちの留守電や夫の携帯に、お舅さんは我が家で呑気に遊んで笑い暮らしていると思い、一回に1時間半ほども、わめき散らす電話をかけてきていて、ついには、自分の言うことを聞かないのであれば、夫の職場に給料を差し押さえて母親である姑に息子の給料を渡すように言いに行くと、わめくようになっていて、ネズミ講みたいな健康器具を売りつける人たちとつるんで、あの人には幾らお金の後始末をしてもキリがない。私の姑への嫌悪感は増すばかりだわ。どうして、あんなひととご縁ができちゃったのかな。反面教師にして、わが身を振り返りながら生きて行かなくちゃなぁ。年を取っても、正直、ああはなりたくないよ。 そして、怒濤の日々は続くのだった。
2007.05.14
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えーと、お舅さんがうちに来た経緯にはもうひとつある。 お舅さんは退職するまで役場に勤めていたことがあって、家から数百メートルくらいのところに住んでいる親戚(お舅さんのいとこ)の息子のお嫁さんも、役場に勤めていた関係で、気心が知れていたため、法事の翌日、どうしても体調が辛くて耐えられないと思ったお舅さんは、病院へ行くために健康保険証が必要で、自分の妻が「病院なんて行かなくて良い、あなたは、病気でも何でもなくて、タダの怠け者で、運動をしないからいけないだけなのに、大げさに言うんじゃない」と相変わらず健康保険証を取りあげて隠してしまって居たので、そのいとこの家へ、自力で必死で歩いて行って、そこの嫁さんに、代理で役場へ行って、健康保険証の再発行をしてきて貰えないかと頼みに行ったのだ。 それまで、愚痴ひとつ外へこぼしたことがない人が、初めて、実は……と状況を話し、驚いたいとこ家族が、健康保険証の再発行手続きだけでなく、自分の家の人が通院するときに、いっしょに病院へも送り迎えしてあげるから…と言ってくれていたのだ。 それを聞いて、お舅さんが自分でアクションを興して、物事が動き始めたことで、私たちも、お舅さんが本気なのだと分かり、手伝うのが余計なお節介ではないと確信できたのだった。 しかし、その翌日、親戚にそのように頼んだことを知った姑が、自分が健康器具をネズミ講のようにいっぱい買っている病院の医師を裏切るようなことをして…とお舅さんに激怒し、その親戚へも、余計なことをするなと言わんばかりに、前日お舅さんがしんどい体を必死で引きずって頼みに行った内容(健康保険証の再発行と、病院への通院送り迎え)を全て、姑が断ったしまった。 そのため、いよいよ困って、お舅さんはうちへ連れて行って欲しい、もう自分の家では住めないと夫に懇願したのだった。 さて、お舅さんがやってきた夜は、取り敢えず、食欲がなくて食べられないという。何とか、子ども茶碗に一杯くらいのご飯と卵焼き、インスタントみそ汁を飲んで、「あぁ、みそ汁が旨い」と言う。(インスタントみそ汁を一番喜ばれても…な嫁の私。) 聞いたら、ここ一ヶ月くらい、一日に一食程度お粥を食べるかどうかの毎日だったという。えぇぇぇ、幾ら何でもそれはひどすぎるよ! 私の実家側のおじいちゃんには、お熱で保育所へ行けないときなどに預かって貰ったりしていて、結構面識があるので、「じーちゃん、じーちゃん」となついている宝良ちゃんだけど、夫側の家には、その困った姑が居るので滅多に行かないため、この人誰?って感じで、何だか遠巻きに見ていた宝良くんだが、おじいちゃん用にお布団を敷いていると、その上でマット運動のようなことをしたり、シーツで「いないいないばぁ」なんかして、大はしゃぎ。 それから、じーちゃんと呼んでなつき始めました。 一晩寝て、翌朝は宝良くんも保育所、夫も私も出かけて、昼ご飯の準備に一度家へ戻る。お魚好きだったので、お刺身を揃えてみた。ハマチ、タイラギ、さより、鯛。せっかくだからと全部一切れずつ食べたけれど、結構無理に気を遣って、頑張って食べてくれたのかもと思ったよ。 午後も、お舅さん一人で、ゆっくり寝ていて、夕方、近くへみんなで買い物に。着の身着のままだったからね。お舅さんの、パンツ、靴下、ズボン下、シャツ、ズボン、ベルト、ポロシャツ、上着、部屋着、などなどね。サイズが分からないから一緒に出かけたけど、一緒に歩いているのがしんどいからと、お舅さんは店内の椅子に座っていて、夫と私が選んで、お舅さんのところへ持っていって見せて、買うって感じ。 日中昼休みに、役所へお舅さんの健康保険証の再発行に行ってきていたので、明日にはやっと病院へ行ける状態になった。 夕飯に、小エビとタマネギのかき揚げを少々載せたおうどんを半玉くらい、小さなお丼にしてあげると、「久しぶりに、うどんが旨いなぁ」と言うお舅さん、しんどい体だけど、翌朝には病院だからと、ちょっと頑張って、ザブンと浸かるだけだけどお風呂に入いる元気も出て、「あぁ、今日はいい日だった。家では朝から晩までずっと文句を言われっぱなしだったけど、今日は静かにゆっくり寝られて、つらつら、つらつらと、本当によく寝た。」と笑っていた。「明日病院行ったら、先生、入院しろっていうかな」とお舅さんがいうので、「それなら、先生の言うことを聞いて、入院したらええよ、それで、ゆっくり直して貰って、退院してから無理のないように通院したらいいし」と返事する私。 何たって、私の家と私がマイカー通学している短大の中間地点にある病院なんだ。で、うちから歩いて5分くらいのところにある駅からも直に、病院までの最寄りの駅まで行ける立地。 そんなこんなで、翌朝も、夫は保育所へ宝良ちゃんを送ってから出勤、私はお舅さんを病院へ送ってから1限2限の二コマ授業に出てから、昼過ぎに病院へお舅さんを迎えに寄ろうという計画で家族全員、家を出た。 その日は、午前は学校、午後からは、どうしても重要な仕事があり、県外からわざわざ人を招いての打ち合わせで、もしかしたら徹夜かも…という、私としてはヘビーな日だった。なので、病院が終わったら、お舅さんには、前日同様、家で一人でゆっくり寝ていて下さいね~って予定だったんだわ。 しかし、病院へ行ってみると、健康保険証だけでは受け付けてくれないと言う!!「老人健康保険証とセットで出して下さい」「は?」 てなわけで、私その日の学校は欠席確定。今日は最悪実費でも良いですから受け付けて下さいと、お舅さんを診察待ちして貰って置いて、役場へ電話し、老人健康保険証の再発行を頼んで置いて、車で役場へ取りに行き、病院へとんぼ返り。 その間、血液検査とかして、診察を待っていたお舅さん、私が到着してから、診察室へ呼ばれて、 あまりの痩せ方と、血液検査の結果がひどすぎ。貧血、栄養不良、脱水。 それまでの様子を聞かれても、私は答えられないので、二日前から同居し始めたんで、と言うと、「よかったですね、このままおとうさんを一人暮らしさせていたら、数日後に朝起きてこなくて冷たくなってましたね。」と主治医に言われ、(お舅さん、一人暮らしじゃなかったんだけどなぁ………と言葉に詰まる私だったよ) 「去年の8月に検査に来ることになってたのに、どうして来なかったの?」という主治医に、「いや、うちの家内が、もう、病院なんか行って贅沢しなくて良いと、行かせてくれなくて、……」と答えるお舅さん。 姑は、自分は病院三昧で、送り迎えして貰ってのデイケアとかで遊んで来たりするのにね。「私の方が内臓もボロボロで、足腰だって痛くて、大変なんだよ。それでも、毎朝頑張って、運動して、努力しているんだっ!!」が、先日法事の席で、お舅さんをいじめていたときの姑の元気な大声。 随分以前に、小さな超初期の胃潰瘍がお舅さんにはあったので、それが胃ガンにでもなっていて、大変な出血を起こしているのかもしれないし、食べられないのとか、目が回ってふらふらするのとか、とにかく、胃カメラとレントゲンを撮ろう、そして、何がどうあれ、「栄養障害と脱水」がヒドイからまずは入院してゆっくりしながら検査しましょうとの方針になった。 胃カメラの結果、大きな腫瘍もなく、でも、あまりに弱っていて免疫が落ちすぎているため、本来誰にでも口の中に居る黴の菌が腸の壁にたくさん繁殖しているのが分かった。 診察室から出て、検査や入院の準備をするまでの少しの時間、待合室のロビーで、情けなくてかわいそうで、ちょとばかり、涙でたよ。 ずっと役場に勤めながらの兼業農家で、こんなに歩いたり座ったりできないほどの健康状態でも、退職後うちにくるまでずっと、産直市場に野菜を歩いて売りに行って、こんなに頑張って生きてきた人が、 現代のこの日本で、「栄養障害と脱水」って、つまり、栄養失調だよ!それも、自分の家で、自分の嫁と娘と中学1年生の孫の4人暮らしで……、自分の妻にいじめ抜かれて、それを見ている娘と孫も分かっていても、もう狂った姑を止められなくて、栄養失調だよ!!!!!! おとうさん、かわいそう過ぎるよ。我慢強いにも程があるよ。情けない。 涙ちょちょ切れた。 胃カメラ後、急遽入院になったので、午後からの仕事に間に合わなくなり、電話で遅刻のことと先に進めておいて欲しいと連絡し、(検査後1時間は点滴でじっとしていてくださいとのことだったので)お舅さんを病室に残して、取り急ぎの物品(スリッパ、ティッシュペーパー、タオル、湯飲み、お箸セット、保温水筒、テレビカード、……)をスーパーで買って、病室へ。 「点滴したら随分楽になった。食欲が出てきた。やっぱり病院来てよかったなぁ、いやぁ、点滴はやっぱり良く効くなぁ」と元気が出てきた様子。 そうだよな。病気の根本治療はこれからの検査を待ってだけど、まずは、今目の前の症状としてある、低栄養と脱水を、点滴で回復させることは出来るわけで、それだけでも、ここずっとの苦しみの一部はぐ~っと改善されるもの。 お舅さんは私がお箸セットなどを買って戻るのを待ちかねたように、病院食を食べることが出来て、頑張って食べて元気にならないと…と、一生懸命、お粥全部と、鶏肉の照り焼き、オレンジ、などを食べ、大根の煮物を、「この馬鈴薯の煮付けが旨い」というので、「おとうさん、それ大根やろ?」と笑ったりした。 滅多に、愚痴も姑の悪口も言わないお舅さんだけど、この時ばかりは、元気が出てきて、「おかあさんが~~」と、私に色々と姑の愚痴を話した。私は、そうだろうそうだろうと思いながら聞いていたけど、人の愚痴や悪口には、一緒になっては言わない嫁の智恵、そこのところはわきまえて、ただ、「はぁ。」「そう。」と相槌だけ返しながら、お舅さんも優しいなぁと思っていた。だって、「でも、おかあさんも、昔はあんなんじゃなかったんやけどなぁ」なんて、この期に及んで言うんだよ。「とにかく、退院しても、もう、自分の家では住めないから、退院後も、お前たちの家で住まわせてくれ。」 まぁ、そりゃそうだろうなぁと思いつつも、退院後は、これから本格同居生活が始まるのね~と思う私。 夫に早退してきて貰って、病院でバトンタッチして、入院書類手続き諸々は夫に引継いで、私は遅刻ながら仕事へ合流。結局その夜、私の帰宅は深夜02:30頃で、本当にヘビ~~~な一日となった。 それが金曜日の話で、週明け月曜日は宝良ちゃんの家庭訪問の日だったので、土日は大掃除。 お舅さんのお布団も服も、居間に住んで貰うことになるので、家庭訪問で丸見え。服などを収納しないといけないので、急遽、ホームセンターでお舅さん専用の簡易箪笥(プラスチック4段引き出し)を購入。ついでに、お舅さんが自宅へ帰ってきて暮らすとき用の、お茶碗・湯飲み・お箸・インスタントみそ汁各種・お汁椀などなども購入。 同居かぁ、大変だろうなぁ。(新婚当初、姑に追い出されるまでの1年半は同居してたから、まぁ、それほど抵抗も無いけどね、でも、どうなるのかぁ)ひとりっこの宝良ちゃんには、おじいちゃんとの生活というのも、ありがたいことかもね、お舅さんがそこそこ元気になったら、保育所のお迎えなんかもお舅さんが行ったりして、じーちゃんにいっぱい遊んで貰える孫になるのかなぁ、などと思いつつも、 やっぱり、実際本格的に入院道具を揃えて病院へ行ったりと、私自身も大変疲れた週末だったのでした。 つづく。
2007.05.11
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疲れたぁ~でござる。本当に、怒濤の日々でした。 5月5日は、夫の祖母の23回忌の法事でした。私は4月30日に10年ぶりくらいで椎間板ヘルニアをやってしまい、3日寝込んで何とか動ける程度になったところで5月5日を迎え、8時半に会場にお願いしていたお寺へ向かいました。 以前からこのブログを読んでくださっている方はご存じですが、うちの姑は手に負えなくて、同居して家のローンを抱えていた私たち夫婦は家を追い出され、自分たちの住んでいないその家のローンを払い続けつつ、今住んでいる借家の家賃も払っている現状、その上、私のことは「キチガイ嫁」と呼ぶだけではなく、実家の親もボロクソな扱いで、(それは、妹さんの嫁ぎ先のご主人やそのご家族も同様のため、そちらの家とも、交流は断絶状態)その法事は、本当に気が滅入った。 更に、憂鬱だったことに、その一月前あたりから数回、電話でお舅さんが話していた内容だった。 その内容は、(お舅さんは、)ここしばらく、あまりにもお腹が痛くて、背中も腰も痛くて、寝込んでいることが多くなった。それで、病院に行きたいけれど、妻(姑)が、「怠けているだけで、大げさに辛抱せず言うだけで、あなたは病気でも何でもない、年を取れば誰でも少しくらい体調にスッキリしないところは出てくるが、それを日々の体操など心がけの努力で補うものであり、病院なんか行く必要がない」と言って、国民健康保険の保険証を取りあげて隠してしまい、病院へ行けない、というものだった。 それは、人権相談でも行って、保険証の再発行をしてでも、病院へ行かないといけないよ、と電話では話していたのだった。 法事の席では、お舅さんは目が回るとかで、座っていることができず、途中で体を横たえるほどで、聞いたら、血尿が出たりすると言う。それを姑はまた、「大げさに…」と更に罵って、痛いと言っているのに、無理矢理脚を頭の方まで持ち上げて、「怠けずに体の筋を伸ばさないからだ」とギュウギュウ曲げていて、見ていられなかった。 帰宅後、あまりのことに、このまま何もしなくて、お舅さん亡くなってしまったら、本当に後悔してもしきれないよ、何とかしなくていいの? と夫と話した。 家を追い出されて家のローンや固定資産税、火災保険や、何か取り憑かれたように買う健康器具のお金の後始末や、自分の思い通りにさせたいことだけ押しつけてくる姑に辟易していて、もうなるべく関わらないようにしていたのだけど、それでも、見るに見かねて、「最悪、このまま病院にも行かせて貰えないのを見捨てておけないから、お舅さんだけなら、今の家に引き取って同居してもいいよ」と夫に話していた。 数日後、別件の要件で、姑から夫がアッシーに使われ、相手を直接は知らなかったため、お舅さんが夫の車に同乗した。そのとき、ずっと辛抱してきたけれど、もうどうしようもないので、このまま姑の居る家に帰らずに、お前の家へ連れて行ってくれないかとお舅さんがいうそうで、聞いたら、その日は姑に、怠けて体を横たえていないで筋を伸ばす努力をしろと、中学一年生の孫の野球バットで痛い背中をガンガンゴリンゴリンされて、辛くて痛くて仕方がないとお舅さんが言う。それを聞いて、夫は私に電話をかけてきて、「もう今から、お父さんを連れて帰る。着の身着のままだけど、お父さんを引き取るから」と。私も今までの流れがあるので、「いいよ、分かった」と即答した。 と言うわけで、5月9日夕方、お舅さんがやってきた。
2007.05.09
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3月31日の日記です。ほとんど書いていたんだけど、途中保存したまま、忙しくて書き上げないままにしていたもの…、腰痛で動けなくなって時間ができたので、今だ~と、送信します。d(^^) 今年の車検で夫の車を買い替えることになっていた。 夫の職業は会計事務所に勤めている税理士で現在51歳。 例えば、お客さまが「どこかにお勤めしながら農業や不動産収入があって確定申告する」なんて打ち合せなら、当然土日に出向いて行く訳で、平日は企業さまへ、土日は個人さまへと、本当にお休みにできる日なんて滅多に無い。 お客さまのご都合の良いところへどこへでも出向いて行くので、地方暮しの私たち、夫の車は本当に必需品なのだけど、 前回の車検で、かなり大がかりな修理が必要かも…、そしたら金額も何十万円という高額になるかも…、と言われたの。 修理代が何十万円なんてもったいなさ過ぎるので買い替え?! と急に浮上しても貯えが無い。(私の仕事の赤字補填に突っ込み、不妊治療とハイリスク妊娠の管理入院に突っ込み…、で、車を買い替えるための貯えなんて考えて毛頭無かった~(>。☆)。 結局その時は最低限の修理と車検で何とかなって、でも次回の車検タイミングでは買い替えを覚悟しなきゃと自覚して、頭金貯金を始めたのでした。 夫の職業や年令から、車買い替えなんて余裕じゃんと思われがちだけど、なんたって私の仕事がズルせず法令遵守・監査基準遵守という信念だと、赤字垂れ流しですから、とんでもないのです。 で、とうとう今年、その車検の年がやってまいりました。 いつも荷物(資料)をたくさん積んでいて、その上息子のチャイルドシートを据え付けているので、人様が同乗した方が良いときに今までの車では少し不自由をしていたため、今回は5人乗りではなく7・8人乗りにしたかったけど、仕事で様々なお客さまのところへ伺う夫の車は、どこの立体駐車場にも入るサイズが望ましい…と絞り込んだら、 現時点ではホンダのオデッセイかストリームの新しいモデル(なのでまだほとんど中古車に出回っていない(T_T))しかなかった。 もちろん、オデッセイはストリームより高いという理由で却下。消去法でストリームに決定。 それでも、私たち夫婦はお互いにそれぞれ中古車を乗り継いできた人生で、親や兄弟がどうあれ、私たち夫婦の分相応な暮らしとしては、中古車を買うことしか考えていなかったので、新車を買うことになり、あわてたよ。 何とか安く買えないかと調べたら、 年度末に在庫を整理したいので3月31日までに納車できる一番安いタイプを契約するのが、最大値引きになると教えてもらい、 慌ただしく急遽、アレよアレよと言う内に、3月31日の夜20時前に、家族3人ストリームに乗って家路についていたのでした。(もちろん、納車は自分たちで引き取りに行きました。) 帰りの車の中で、夫が 「そういえば、ちょうど10年前の今日、初めて出会ったんだなぁ」と、しみじみ。 おー、そうだったかぁ~。いや、そういえば、そうだよねぇ~。 10年間、いろいろありましたが、本当にありがとう。ダーのお陰で今の毎日があるよね…。 結婚記念日は6月なんだけど、 新しい車の中という空間でコッポリと、家族という大切な共同体のチームメンバー3人で家に向かいながら、(家も借家なんだけど 笑 )しみじみ、10年という年月と今在ることの感謝を思ったのでした。 ダーパパ、宝良くん、これからもよろしくお願いします。 そして、ストリームさん、 これから少なくとも10年はダーパパと宝良くんの安全を、本当に本当に、よろしくお願いしますね~。 (*^o^*)
2007.05.07
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