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バック・グラウンド・ミュージックにと、1枚のCDを買った。クラシックのいわゆる名曲を、作曲年代順にならべ、それらの「さわり」だけ数10小節ほどを収録したものである。 私は「さわり」だけを聞くという志向がない。交響曲などの長尺作品でもある楽章だけを抜き出して聞くということもしたことがない。1曲まるごと聞く主義なのだ。主義などと言えば大袈裟だが、CDを前にしてあらためてそれは私の「主義」かもしれないと思った。昔あつめたレコードの中にもそのような編集物はない。ただ一枚だけCDにある。それはそのジャケットを旧友がデザインし、手ずからプレゼントしてくれたもの。異なる数人の作曲者の有名なカノンだけをあつめてある。 さて、忙しい仕事のBGMとしてちょうど良かろうと、開封してプレイヤーに掛けた。1曲2曲---たちまち6曲7曲となり、そのうちに私の気分がおかしくなりはじめた。気持が悪い。吐き気がするのである。わずか30秒かそこらの「さわり」が、まったく切れ目なく(一瞬のポーズもなく)連続的に鳴り続ける。交響曲もピアノ・ソナタもミサ曲もオペラも弦楽曲も、要するにあらゆるジャンルが鳴り続ける。 私の感覚は惑乱し、頭痛がしてきた。このCDの監修者はいったいどんな感覚をしているのだろう! こういう編集はクラシックだからおこなわれるのかもしれない。現代音楽なら作曲者が承諾しないのではないか。 つまり絵画にたとえるなら、名画のほんの一部分だけを切り取って画集にしたようなものだろう。そういう編集は虚仮おどかしの効果はあり、おもしろがって買う人もいるかもしれない。誤解しないでいただきたいが、画集のなかで全体を見せ、かつ部分を見せる---そういう部分の見せかたを批評しているのではない。作品という山にはえる沢山の樹木のなかから、良さそうな一枝を切り取って、しかもあっちの山、こっちの山から一枝づつ切ったものを並べたからといって、それが「山」になるわけではないだろう。 音楽という芸術は一瞬の感覚に訴え、消えてゆくものだ。その一瞬に、二度と取り返しがつかないことがオーディエンスの心身に起っている。音楽とはそういうものだ。 それならば、この摘み食いCDのような編集があってもよいだろう。好意的に言えばそう言えなくもない。 私は、音楽家とくに作曲者の気持を知らない。想像しても、はたしてそれが的を射ている想像かどうかは心もとない。ただ絵描きとしての私の気持に照らしあわせて、1曲の構成ということを思わずにはいられないのだ。全体の流れのなかで「さわり」と称される部分も、そうなるべく準備されて次第にそこに到達するものであろう。そして作品の構成というのは、聴く者・見る者の心理操作であるとも言える。これは演奏者にとってもまた、オーディエンスの心理操作の一面が出てくるのではあるまいか。 私が尊敬してやまないピアニストの山岡優子女史の演奏は、私にとってまるで音楽療法のようなある種の効果をもたらす。私の身体が内部からポカポカと温かく発熱しはじめるのである。これは比喩ではない。演奏会が終わるころには、私の顔は火照っているのだ。目と眼鏡の間に温気がたまり、視界が煙ったようになる。 そのような私の心身への効果は、山岡女史の演奏家としての曲つくり・構成の妙であるように思う。部分の演奏が傑出しているだけではなく、全体の流れのなかで作品が息づくのである。 摘まみ食いCDを聴いて私の感覚が惑乱してしまったのは、たぶん、音楽作品としての流れがまったくなかったからではあるまいか。始めから終りまで、「ワーッワーッワーッワーッ」と連呼しているようなもの。よほど強靱な神経の持主でなければ耐えられまい、と思った次第だ。
Aug 31, 2007
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フーッ、終わった終わった。12時間仕事しづめで、ただいま29日の午前4時半をまわった。2本のデザインを版下データ作製までやって、2本ともすべて完了。つぎつぎにクライアントに送信したところだ。 もう少し時間をかけずにすんだのだが、じつは、なんとファイル・ディスクが破壊してデータが全部おしゃかになってしまったのだ。私は保存メディアとしてMOを使用している。先日まとめ買いした某社製のMOディスクは質が良くなかった。で、新たにM社製のディスクを購入して、順次データーの移し替えをしていたところだった。そのなかに今日のデザインのオリジナル画像を入れてあった。 デザインやレイアウトができあがって、画像を埋め込み文字をアウトライン化し、すべてのレイヤーを統一して完成データが出来上る。しかし、ここまでやってしまうと、あとから別なアイデアが生まれて訂正したくなったときに、直すのが大変だ。----その直しをしたくなった。ごくごくわずかなところなのだが、やはり直したい。そこで基本のデザイン画像を呼び出そうとしたわけだ。 「予期せぬエラーが起り、このディスクは破壊されました。データが消失した恐れがあります」 オイオイ冗談じゃないぜ! 考えつくかぎりのことを、いろいろやってみた。が、復旧はしなかった。本当にデータは煙りのごとく消えてしまった。 こんなことに時間を使っていられない。作業途中にプリント・アウトしたものが沢山あるし、デザイン原理は頭のなかに入っている。もう一度振り出しにもどってオリジナル画像をスキャニングすることにした。まあ、悩んで愚痴を言っていてもしかたがないから。 脇目もふらずにやり直して、うん、これが意外に早くおしまいまで行ったのだ。やれやれ、である。もう絶対、某社のMOは使わないぞ! ところで、何かのはずみである種のデータが消えた時、場合によって使える手がある。コントロール・パネルの「日付&時刻」を開いて、それを作製したアプリケーションが正常に機能していた昔の日付に戻してやるのだ。そして再起動する。つまりハードディスクの記憶の階層の下に沈んでいる昔のデータを呼び戻すというわけ。必ずしも成功するとは限らないが、やってみる価値はある。もし戻って来たら、再び現在の日付&時刻に戻してもう一度再起動するのである。 私は「Illustrator」を使用中にエラーが発生して、あわてて何かをやった途端にこのソフトが壊れてしまったことがある。そのときに、上で述べたことをやって復旧したのである。 さあ、もうすっかり夜が明けてしまった。シャワーを浴びて、就寝だ。8時には起きなければならない用事がある。爺ちゃんは忙しい。
Aug 28, 2007
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ただいま午後5時ちょうど、ここ3日間ほどやっていたレイアウト&デザインを完成。校正用画像ファイルをクライアントに送信して、ちょっとコーヒー・ブレイク。セサミ・ブレッドを薄くスライスして二切れ、バター・トーストで。夜はまた別の仕事に入るので、それまでに気持を切換えておかなくては。 というわけで、いったんデスクを離れましょう。
Aug 27, 2007
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東京・浅草の鬼灯(ほゝづき)市は、たしか7月の9,10日。その頃に、我家の近所の園芸店でも、茜色をした袋をたくさんぶらさげた鬼灯の鉢が並んでいた。昔、子供の頃の我家の庭にも1,2本あったし、知り人の畑の隅にあった鬼灯も、それが誰の家だか忘れてしまったのに、その目に染む赤い色の背後にひろがっていた田園の風景だけは今も忘れてはいない。女の子たちが鬼灯の実の種子を抜き出して、口先でキュッキュッと鳴らしていたものだ。私は不器用で、いくらやっても上手く鳴ったためしがなかった。昔の映画で、子守女が鬼灯を鳴らしながら背中の赤ん坊をあやしている場面が記憶にある。なんという映画だったか。 記憶に残る赤い鬼灯の遠景は、たしかに夏の景色なのだが、「季寄せ」によれば鬼灯は9月の季語。これは旧暦のため。しかし私の感覚でも、鬼灯は秋の色である。 引渡し期限の迫った仕事の手を休めて、近くを散歩していると、他家の庭の葡萄棚に山葡萄のような葡萄がたわわに垂れていた。まだ固い青い実にまじって、すでに赤紫に色付いているのもある。 その家の老主人が何やら細杖を手に出てきて、庭木をコンコンと叩く。どうやら虫を落しているらしい。薬剤を散布すると、袋掛けしていない葡萄は、食べられなくなってしまうのかもしれない。 じろじろ見るのも悪いから、見るとも無く見ながら歩き出した私の背後で、いつまでもコンコンと木を叩く音がつづいていた。 葡萄の種吐き出して事を決しけり 虚子
Aug 26, 2007
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朝から自治会の仕事でたいへん、たいへん。悪質不動産開発業者が所有する広大な土地が数十年も手入れしないままで放置されている。一般住宅との境界まで2メートルを越す高さに雑草が繁茂し、樹木が鬱蒼と生い茂っている。まるで粗大ゴミ捨て場のように古タイヤ、冷蔵庫、はては小型ユンボ(シャベル・カー)まで放置し、露天のためすでに錆付いて崩壊しそうになっている。蛇の棲処となっていて危険きわまりない。 毎年、境界地の住人が、せめて草刈りだけでもするように、市の環境保全課を通して所有者に勧告してきた。しかし、いつでもナシのつぶて。市としても、私有地である限り、勧告以上の措置がとれないというのである。のみならず、事故が起きない限り市として何もできないのだとヌカシタ。 この対応に私が怒らないはずはない。しかも今年は私が衛生担当役員ということもあって、環境整備の問題をめぐる住民の苦情は私に寄せられるのである。 で、私は過日、市に電話を入れた。担当課でも長年のこととて、勧告書送付の履歴が保存されている。電話をはさんでお互いに住宅地図をにらみながら話しをすることしばし。この法律は適用できないか、この条例はどこまで有効なのかと議論。あげくのはては、またもや「事故がおきない限り何もできない」と云ったので、事故が起きたなら我々住民は行政指導の不行届きを指摘することになろう、と私は言う。二階の窓が雑草で塞がれ、湿気が充満するような不衛生な住環境になっているのに、所有者に管理の徹底を指導できないはずはあるまい。市街地はそのほとんどが私有地のはずで、その街の真中がわれわれの環境のようになっていたとしたら、それでも私有地だからと市の行政は放置しておくのか。そうではあるまい。そのときには何かしらの有効な法律を探して、事に対処するであろう。そのような具体策を探る頭をなぜわれわれ地域住民のために使わないのだ。なぜ数十年も環境が破壊されるにまかせて、手をこまねいているのだ。 と、まあ、このようなことを市の環境保全課に言ったわけだ。 そして、住民の人脈をたぐって今朝、市会議員と市の担当課長を現地に呼んだのである。 彼等がどんな言葉を言うかということは、私としては百も承知。そんな頭を使わないような仕事は御免である。こういう事例は建て前をならべて済むことではない。議員の本質を見極めずにいかにも何か仕事をしているようなそぶりも願い下げ。そんなことに付き合っている時間がない。一般市民の我々ができるようなことなら、もうとっくにやっていただろう。行政でなければできない事だから、こうして現地視察をたのんでいる。 私の頭はいたって合理的にできているので、解決策をもとめて前進することしか考えられない。無駄口をきいて遊んでいる暇はない。また、担当者を個人攻撃する気もまったくない。彼等は機関にすぎないからだ。しかし機関が、機関としての働きをすることを厳しく求めはする。自分の職業をきわめてプロフェッショナルに達成した人に接したとき、私は、彼等を機関を越えた思い遣るべき人としてとらえるだろう。 議員も市の課長も、私を恐い奴だと思ったかもしれない。 午後、自治会のほうに電話連絡があり、議員は役所に帰って早々に所有者やその周辺関係者にコンタクトして、今後の段取りをつけるまでに運んだと言って来た。「冷静に行く末を見てゆきましょう」と、私は自治会役員たちと話し合った。 普段はいたっておとなしいのだが、どうにかしてほしいと苦情を持ち込まれれば、憎まれ役でもなんでもやるしかない。そういう1年間なのだ、今年は。
Aug 24, 2007
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仕事が山積みしているのに、さきほどまで手持ちのDVDでスパイク・リー監督の映画『マルコムX』を観ていた。昨日マルコムXの演説集をみつけたので、ついでだから映画の出だしだけでも見直しておこうと思ったのだ。そして、結局、2時間半以上の長い作品を最後まで観てしまった。 主演はデンゼル・ワシントン(マルコムX)とアンジェラ・バセット(妻)。 マルコム・リトル(マルコムXの本名)は1925年5月19日、牧師の9人の子供のひとりとして生まれた。父親が白人の人種差別主義者に殺害され、警察は自殺として処理、そのため保険もおりず、生活苦におちいった一家は離散した。マルコムは施設から里親にひきとられるが、15歳で学校をやめ、やがてギャングの手下になりインチキ・ギャンブルがもとで命をねらわれる羽目になる。21歳のときに強盗の罪で刑務所送りになった。 刑務所で、同じ受刑者に導かれて、ネイション・オブ・イスラム(ブラック・モスリムズ)に入信。1952年に刑務所を出ると、ブラック・モスリムズの教祖エライジャ・ムハンマドに会い、教会建設に献身するようになる。 映画はここまでを前半とし、以後、マルコムの布教演説を通してブラック・モスリムズの思想が展開される。さらにブラック・モスリムズから独立する。マルコムがどのような考えを持っていたかを、この映画は彼の言葉、すなわち演説によって辿ってゆく。それらの演説は、まさに昨日買った『マルコムX・スピークス』に収録されている言葉である。デンゼル・ワシントンはまるでのりうつったかのようにマルコムXの演説スタイルを再現している。 映画の手法としては、ちょっと魔術的なことをやっていて、当時のニュース・フィルムのいわゆる実写も断片的に挿入され、マルコムXが暗殺された後には回顧的にマルコムX本人のフィルムも繋いである。魔術的というのは、本編のなかにもデンゼル・ワシントンが扮するマルコムの姿をモノクロで撮影してニュース・フィルムのように嵌め込んである部分があり、デンゼルがマルコムに良く似ているので、虚実の皮膜がゆらいでしまうのである。伝記的映画、しかも思想的なメッセージ映画としては実にうまい手法だ。実際、マルティン・ルーサー・キング師も本人のニュース・フィルムが使われているし、マルコム暗殺の根にあるケネディ大統領暗殺も実際のフィルムが使用されている。さらに、映画の最後には、マルコムXのメッセージを受け継ぐことを黒人の子供達に語りかけるのは、ネルソン・マンデラ氏本人である。 スパイク・リー監督自身もマルコムの昔友達ショーターに扮して、画面をとても面白くしている。 時間がないので粗雑な映画説明になってしまった。マルコムXが黒人運動をむしろ白人に対する闘争と見極めていたことに、黒人の全人的アイデンティティ確立のための見極めがあり、そのゆるぎない確信が異見者の暴力を誘発することにもなったのだろう。これは別に他国の話でもないのだ。
Aug 23, 2007
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どうしても出かけなければならない仕事上の用事があって外出。暑い日がつづいているのだから、暑い暑いとは云いたくないが、駅につくまでに出逢った知り人が3人、そろいもそろって「お暑いですね」と挨拶されては、当方も、「本当にお暑いですね」と鸚鵡返しに応えるしかない。「行ってらっしゃいませ」「行ってまいります」と、なんだか小津安二郎の映画みたいだ。ふと見上げれば、東南東の入道雲のうえに、ぼんやり昼の月がかかっていた。 用事はたちまち済んでしまった。このままどこかで遊んでゆくか、それとも帰って仕事をするかと、ぶらぶら歩く。すると、昨日我家の近所で立ち寄った大型古書店の系列店が目についた。ちょっと覗いてみることにする。 この書店は、全国に系列店があるようだが、すくなくとも東京都内の店の品揃えはどこもあまり変わり映えしない。ところが、私のお目当ての100円均一コーナーは、どういうものかわずかながらも地域性というか、集書に違いがある。個性というほど意志的なものではなく、要するに御当地住民の売った本が配本センターを通じずにそのまま店頭に並ぶのかもしれない。 そんなわけで私は、出先でこの系列店をみつけると一応覗いてみるのである。そして、覗いてみるものだと、あらためて思った次第。George Breitman編“Malcolm X Speaks”----Selected Speechs and Statements(Merit Publishers,1965)の全訳をみつけたのだ。 『マルコムX・スピークス』ジョージ・ブレイトマン編・長田衛訳(1993、第三書館) マルコムX(本名マルコム・リトル、1925-1964)は、1950年代から60年代半ばにかけてのアメリカにおける黒人運動の代表的指導者。その活動はブラック・モスリムズの建設に献身することから始め、のちにそこから離脱し、宗教とは無関係のオーガニゼーション・オブ・アフロ・アメリカン・ユニティ(OAAU)を設立。1965年2月21日にニューヨークで暗殺された。彼の生涯を知るにはグローブ・プレス版の『マルコムxの自叙伝』によるのが良い。あるいは1992年のスパイク・リー監督の映画『マルコムX』によるのも良い。デンゼル・ワシントンが主演している。 『マルコムX・スピークス』は、ブラック・モスリムズから離脱する直前の演説と、1964年3月12日に離脱しての「ブラク・モスリムズからの独立宣言」から死にいたるまでの演説を、集められる限り集めて年代順に収録したもの。編纂者ジョージ・ブレイトマンは、「この本の目的は、彼の生涯の最後の1年間にマルコムが述べ説明した主要な考え方を、彼自信の言葉で世に問うことである」と述べている。本文中の注釈は編者とマルコムX自身がしている。 ジョージ・ブレイトマンは大変誠実に本書を編纂しているようだ。マルコムXは「ライター;writer」ではなく「スピーカー;speaker」であったので、ほんとうはレコードを出版したかったのだが資金と時間が無く、とても高価なレコードになって多くの人に買ってもらえないものになってしまう。そこで次善の策として本にした、と。また、デトロイトのアフロ・アメリカン放送局の出したレコードは、マルコムXのすばらしい演説スタイルを知るうえで、本書よりも優れているとも述べている。 こういう編集者のつくった本は、それだけで読むに価する。 ざっと目を通しただけだが、マルコムXの演説が、次第次第に思想的に深く成熟してゆく過程がわかる。しかもその期間はわずか1年である。ひとりの人間が人類的な課題に真っ向から立ち向かったときに、いかに成熟への道が開かれるかがここに示されているような気がする。 きょうはこれ1冊のみ発掘。105円也。
Aug 22, 2007
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猛暑がぶりかえしたようだ。しかしやはり残暑というべきだろう、暑い暑いと云いながらも、どこかに初秋の気配が感じられる。空だろうか。蝉の遠鳴きだろうか。他家の塀際に丈高くのびた鶏頭の赤い花のせいだろうか。 散歩がてら近所の大型古書店をのぞく。読書についてしばらく書いていない。もちろん毎日何かしらは読んでいるし、専門書等も購入していたのだが。 大型古書店での私の楽しみは、以前も書いたことがあるが、100円均一本をじっくり眺めることである。きょうも見つけましたぞ、良い本、楽しそうな本を。 大久保洋子『江戸のファーストフード ----町人の食卓、将軍の食卓』(1998、講談社選書メチエ) 常盤新平『ニューヨーク知ったかぶり ----魅惑の都市の読み解き方』(1989、ダイヤモンド社) 清水晶子『ロンドンの小さな博物館』(2003、集英社新書) 奥本大三郎『東京美術骨董繁盛記』(2005、中公新書) 内海夏子『ドキュメント女子割礼』(2003、集英社新書) 松原謙一『遺伝子とゲノム ----何が見えてくるか』(2002、岩波新書) アゴタ・クリフト戯曲集・堀茂樹訳『怪物』(1994、早川書房) 杉本苑子『姿見ずの橋』(1985、中央公論社) 北原亜以子『傷 ----慶次郎縁側日記』(1995、新潮社) 以上、全部で9册購入。〆て945円也。 一々については、あまり解説する必要もないだろう。 アゴタ・クリフト戯曲集というのは、『悪童日記』で衝撃的なデビューをしたハンガリー生まれの著者が、そのデビュー作以前に執筆していた9篇の戯曲原稿を早川書房が入手し、そのうちの5篇を日本語版オリジナル戯曲集として編集したもの。「エレベーターの鍵」「贖い」「道路」「怪物」「ジョンとジョー」が収録されている。 『ドキュメント女子割礼』は、アフリカ大陸を中心におこなわれている女子性器切除という風習の実態を、現地取材によって明らかにする意欲作。私が製作している『新アダムとイヴの誕生』シリーズの、イヴのための参考資料。『遺伝子とゲノム ----何が見えてくるか』も、そのシリーズのための資料。 杉本、北原両氏は時代物短篇小説の名手。おふたりの作品集には外れがない。 残暑厳しき折、小生は、著者には失礼ながら、ゴロリと横になって昔ながらのアイスキャンデーを嘗めながら、ページを繰ることにしよう。
Aug 21, 2007
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日曜日だけれど昼前から仕事。まあ、絵描きは、と云うか私はだが、日曜日も一般の休日もあまり関係ない。まして夏休みなど。 大江健三郎氏がしばしば「ハビット」と書いておられる。「習慣」ですね、書くという習慣。毎日、絶える事無く書きつづけて行くこと。それが小説家としてやってゆくために大切なことだ、と。 大江氏にしてかくのごとしなのだから、凡才の私としてはむしろそれより術(て)はないかもしれない。でも、これがなかなか出来る事ではないんだ。そこが凡才のまた凡才たるゆえん。 午後3時過ぎに版下を1本仕上げた。版下というのは、作品をコンピューターでデ-タ化して、そのデータを印刷所に渡せば、そのまま製版機にかけられる状態のこと。つまりオフセット印刷版の元である。一般のカラー印刷は、すべての色をたった4色で出す。マジェンダ、イエロー、シアン、ブラックである。複雑な色彩の原画のデータが、特殊フィルターによって4色に分解され、マジェンダの版、イエローの版、シアンの版、ブラックの版となるのである。 カラー印刷の仕組みというのは、人間の目の錯覚を利用しているもので、決して色インクを混ぜて印刷しているのではない。版はルーペで覗くと、小さな点の集まりである。それを1版づつ重ねてゆくと、混色していない4っつの色の網点が、網膜上であたかも混色したように見える。網膜上で複雑な色彩の絵ができあがるのである。 テレビ番組に『なんでも鑑定団』というのがある。所有者はてっきり本物だと思っている絵が、「印刷です」とにべもなく判定される。所有者は信じられないような顔をするが、せめて鑑定を依頼する前に自分でルーペを覗いてみるとよろしかったのに----。点の集積が見えたはずだ。少なくともオフセット印刷という方式なら誰にでも見分けがつく。全然むづかしいことではない。 木版画や石版画(リトグラフ)、あるいは銅版画ももちろん印刷であるが、版画としてのオリジナルということを別にすれば、そのオリジナル版画をさらに大量印刷のオフセットで複製すると、それももちろん4色の小さな点の集まりである。 ただ作家物の美術作品というのは、いろいろな物があって、たとえば大量印刷物の上になんらかの理由で作家本人が鉛筆や種々の絵具でいわば手彩色することがある。鑑定に興味をもたれたかたは、そういうことにも注意して御自分が所有する作品を見直してごらんになるように。めったにない事だけど、印刷だからと捨てる前の注意という意味で。もっとも、今度はその手彩色が作家本人によるものかどうか、という疑問もでてくる。----アッハッハ、だからこそ、きちんとした作家には、所定の専門鑑定家がいるわけだ。 印刷の話が横道にそれた。 で、版下であるが、10数年前から出版業界の製作システムが大きくかわり、以前は専門の版下屋さんがい、あるいは美術印刷などは印刷所の極めて高度な技術をもった製版師がいて、出版社も画家やイラストレーターも、その技術者に一任していた。ところが最近では、グラフィック・デザイナーやイラストレーターはほとんどみなコンピューターによって、自分で版下まで製作してしまうし、4色分解データも製作してしまう。製作コスト削減の方向性が、結果的にそのような製作行程のシステム転換をもたらしたのだった。 もちろん私も、共同製作の場合以外はそのような方針で作品を提供している。3時過ぎに完成した1本というのは、まさに版下までつくる仕事だったのだ。 さて、今日は、夜には今度はキャンバスに向っての別な仕事のつづきをやることにする。その前に夕食、夕食。
Aug 19, 2007
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午後から仕事場にはいって作品の前に坐る。筆は遅々として進まない、というよりも、気持が遅々として進まないのだが、ともかく作品の前に坐りつづけなければ完成はしない。結局、コーヒーを3杯も飲みながら、描いたのは僅かなもの。現在、午前0時を回って18日になったが、これからもうしばらく描くことにする。 夜の9時頃、突然、大粒の雨が叩き付けるように降り始めた。縁先にいた猫のリコが背中を濡らして跳び込んできた。居間にいたサチは、激しい雨音に驚いて、2階に駆け上がって行った。 間もなくやんでしまったが、天気予報によると土曜日は「雨のち曇り」、どうやら猛暑も峠を越したのかもしれない。 ところで、夕刊に私の注意を引いた記事がある。 千葉県野田市が、18,19日に開催予定の市民団体による『平和のための戦争展』への後援要請に対して、憲法改正の手続きを定めた国民投票法の「公務員による地位利用」に抵触しかねないとして、7月に断りの文書を送達していたというもの。 この条文は、憲法改正が発議されてから投票までの間に適用される。しかし野田市の決定は、3年後に発議されるだろうこと及びその際、憲法9条の戦争放棄が改められるであろうことをあらかじめ見越したものと言えるだろう。つまり、法的には今のところまったく根拠がない議決である。 私が注意を引かれたのは、その点だ。ふわふわと或種のムードが行政を支配している。すでにしてファシズムの萌芽、それを支える危うい精神、行政的知性の希薄がみられるからである。戦争遂行を意図する者にとって、戦争反対は危険思想になる。つまりパワー・バランスから見ると、正義は不正義に、不正義は正義に、いとも簡単に逆転するのである。 憲法改正(改悪)の意図は、このようなパワー・バランスの危うさを、敢えて保障しようとするものと言えないだろうか。 憲法改正と一般の法律の改正はどこが異なるのか。それを知るには、憲法と一般の法律との違いを知らなければならない。 一般の法律は、社会における人間の行動・行為を規定している。わかりやすく言えば、人間の行動を縛るものである。それでは憲法は、----憲法は、その法律を縛るものなのだ。法律というものは、どんな内容で人間を縛ってもいいというものではない。憲法の容認する範囲に限る。逆に言えば、憲法が保障する限り、どんな内容で国民を縛ってもよい法律が作れるということだ。憲法を絶対的なものと考えるのが、現代の世界の憲法認識である。 したがって、戦後日本が、世界に唯一の戦争を放棄した平和憲法を打ち立てていたので、好戦的な法律が作られることを阻止できたのである。 死の商人といわれる兵器産業者ばかりではなく、戦争がしたくてたまらない人々、国民をゴミクズのように死へ駆り立てる無意識のサディズムあるいはタナトス(死への願望)に突き動かされている人達は、沢山いるのである。そのような人々が徒党を組んで戦争への道を開こうとしてきたことは事実で、しかし結局そのような法律が実現しなかったのは、戦争を認めない憲法があったからなのだ。 安倍晋三総理大臣の言う「戦後レジームからの脱却」というのは、つまりは世界唯一の平和憲法を廃棄して、戦争法をつくりやすくする憲法にしようと言うことで、それ以外ではまったくない。 「レジーム:regime」とは、「体制」という意味。美しい日本語で「体制」と言えばよさそうなものを、外国語を使うところに心理学的にみれば、この政治家の欺瞞があるだろう。でなければ、たんなるバカ者か。アメリカなど海外メディアが、「軍国主義の人物」と捉えているのは、たとえそれが本人の思惑とは異なっても一国の総理大臣の発言の力の方向性がいかなる結果を生むものであるかを、明確に認識しているからに他ならない。その自ら巻き込まれてゆくことの重大性を、安倍氏も日本国民も認識できていないということなのかもしれない。いつの時代でもファシズムという社会体制は、ひるがえってみれば「バカ者」によって煽動され、牛耳られてきた。 東京都条例が教育現場での「日の丸」掲揚を制定し、これに違反したとして現実に職を奪われる人達が出ている。東京地裁もそれを認める判決をしている。まさにファシズム体制は日本の首都から着々と進行している。 私から言わせれば、単なる一枚の旗のために、シンボルにとりつかれた文化的狂気のために、人生を支え家族を支えている職を奪い、場合によっては生命さえ簡単に奪う、それを平然として行なうことの残虐さ。まさに人間に対する想像力の欠如。いつから裁判所や教育委員会は、サディスト達の拠点になったのか。いや、そうではないのだ。悪法があって、彼等は忠実にその法を守っているにすぎない。シンボル崇拝の文化意識が、ヒューマニズムから反ヒューマニズムへとパワー・バランスを逆転させたのだ。国民はシンボルという生命空虚の奴隷になる。恐怖政治がしのびよる。法治国家だからこそ、悪法をもったときの自由への被害は、甚大になるのである。 国家への忠誠とは、いかなる条件下でも一個人の生命と引き換えになっているものだ。国家主義がある以上、国民はその軛(くびき)を逃れることはできない。せめて心の問題である「忠誠」の度量を最大限にひろげることが、いまや、国家に帰属する人間の自由というものなのである。 野田市の一件は、ささいなことと見すごせない、非常におおきな問題をはらんでいると、私は意にとどめた。
Aug 17, 2007
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東京は連日の猛暑、仕事場は冷房しているものの、老母も猫たちも冷房が嫌い。仕事場以外の他の部屋は、この世の地獄でござんす。母はもういいかげん血が冷えてきているから、地獄の暑さがちょうどいいらしい。猫達はさっさと何処かへ避暑に出かけて姿を見せない。庭の草むらの中に寝そべっているのか、屋根廂の風の通り道にでも横たわっているのだろう。 冷房が利いている仕事部屋で、さぞかし執筆がはかどっているかと云うと、それがちっともなんでござんすよ。いっこうに筆を執る気になれない。一層のこと休みにして、どこかへ遊びに行けばよさそうなものを、なにせ小心者でござんしてね、踏ん切りが付かないんでござんすよ。9月になったら老母もつれて、皆で一日何処かへドライブしようと云ってるんでござんすがね。と云うことは、そのときまであっしの仕事をおわらせなければならない訳。よわりやしたねー、気持が入らないってことは。 で、さきほどちょっくら自転車を引っ張り出して、気分転換のサイクリングをしたんでござんすよ。なんだか遠くで雷が鳴っておりやした。こりゃァ、ひと雨くるか、と思ったのもつかのま、でっかい粒のがザッと来たじゃござんせんか。「ひぇーッ」てなもんですが、何、これはあっしが子供みたいに面白がっている叫び声でござんしてね---- ザンブリ濡れながら、途中でついでの買い物などして帰宅したんでござんすよ。白いズボンを穿いていたんでござんすが、驚くじゃござんせんか、ここんとこ長い間一滴の雨もなかったからでござんしょうかねー、空気が埃で汚れきっていたんでござんしょう、ズボンが雨染みで濡れているのはいいが、その染みが薄墨を散らしたように黒ずんでいたのでござんす。あっしの白いズボンは灰色の水玉模様になってしまいやした。豹柄ルックというのはありやすが、年寄りの水玉ルックはどうもいけやせん。 先日も猛暑のなか、2時間ばかりのサイクリングに出かけたのでござんす。お茶のペットボトルを持って。だけど、なんでござんすね、水分補給をしていれば良いというもんじゃござんせんね。頭にキャップをかぶっていたんでござんすが、だんだんモーッとしてきて、熱が発散しないんでござんすよ。熱中症ってやつ、いや、それ寸前で家に帰り着いて、頭に水をかぶりやした。アブナイ、アブナイ。 家人には何食わぬ顔をしやしたが、だってあなた、何を云われるか分かりませんでしょ。 みなさんもご注意しておくんなさい。 てなわけで、雨に濡れ、水玉親父になるのは熱中症でポックリ逝くよりはましと云うもんでござんす。 ポックリ逝くと云えば、きょうは随分と蝉の死骸をみましたよ。道端に落ちてひっくりかえっているんでござんすよ。 蝉の命は7日とか云いやすが、精一杯鳴いて、交尾して、役目をおえたとばかりコロリと死んでゆく。それを儚いとみるか、いさぎよしと見るか。 あれはどうなんでしょうな、空中を飛んでいる最中に、急死して落下するんでござんしょうかね。蝉の死骸は見ても、死ぬところは見た事がござんせん。ちょいと興味がありますな。イメージがね、いろいろ湧いてくるんでござんすよ。哲学的な死でござんしょう? ぬけ殻に並びて死ぬる秋の蝉 丈草
Aug 16, 2007
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8月15日は終戦記念日。私はその終戦の日のちょうど3ヵ月前に生まれた。私の名前に両親の平和への祈りが込められている。「歴史があらたまるように」と。 さてここ数日来、婚約時代の父が戦場から母へ送った手紙のいくつかを掲載してきたが、今回で最後とする。はがき7枚綴りの此の手紙は暑中見舞いとなっているが、近いうちに除隊になって帰国するかもしれないことを、さりげなく伝えている。事実、父は兵役を終了して帰国し、長かった婚約時代にも終止符を打つ。したがってこの手紙が、現在残っている140通の手紙の中の最後の戦場からのラブレターということになる。 お客様にはながらく家族史の1ページにおつきあい下さり、まことに御退屈さまでした。-------------------------------------------暑中お伺い申上げます。度々お手紙を戴き有難うございます。日毎暑さ厳しくなってまいります御地の此の頃を、貴女はお元気でお過しですね。小生元来の筆不精を貴女はもう諦めておられることでしょうが----こんな事を云いますと亦ひとつやられそうですが、それでもお手紙書くような暇には休んでいるのでしょうと云われては申訳ありませんので、御機嫌伺いまでにと一筆ペンを取りました。当地はまさに三伏の候、大陸の夏に慣れた小生もいささか辟易の體ですが、大丈夫こんなに元気です。きょうも、くもひとつなく白く乾燥した空気に胡同(注:北中国の横町のこと)の埃がたち込め、真夏の太陽は大地に強く照り返っております。群青の空は確かに北支の秋色を飾る景物のひとつに違いありませんけれど、今日此の頃の真夏の空の晴上がっているのは、殊更に暑さを加えるような気がします。誰もがやはり夏の空にはくもが浮び、ふわふわ飛んでいるようでなければ、緑陰に椅子を出して涼を入れる気持にはならないでしょう。北支の夏はそんな夏です。内地の夏空に浮ぶ入道ぐもは、酷暑の夏に挑戦する男性的な美しさを感じます。こうした小生達を喜ばすのが雨です。南や西の城壁に乱雲が湧いて来ると、旱天に喘ぐ荘家人は此のくもが雨近きを思い、小生達はホットする。こうして乱雲ひとたび現われると大雨沛然、夏の一日の暑塵を洗い流して、都人は蘇生の思いにいたることが出来ます。今年は雨も順調で、作柄も上成績との噂です。作柄と云えば貴女も畑や田圃に労力奉仕をしておりますとか。たとえそれが小さな労力にもせよ、またぎこちなくても、食糧増産に真摯な活動をつづける皆さんにそうしたお手伝している貴女を想い、うれしく感じました。しらずしらずの間に身体も丈夫になることでしょう。いつだったか貴女は、菜でも茄子でも家庭の庭から自給自足するんだと張切っておりましたが、そうした奉仕の中からそんな楽しい経験をうる事もあるでしょう。とにかく小生、いつも御無沙汰つづきであやまってばかりいなければならない状態ですが、もうそうしたお手紙も後一二度で、その必要がなくなる事でしょう。ひょっとしたらお盆までにはと思っています。お兄様にも御無沙汰で、近い内に一度お手紙をと思っております。貴女からくれぐれもよろしく申しお伝え下さるようお願い致します。では、くれぐれもお身体に気を付けられますよう。(昭和十八年七月)北支派遣軍東第7394部隊宇美隊 山田守雄
Aug 14, 2007
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父が所属していたのは前線の医療救護隊であった。したがって砲弾をかいくぐって負傷兵士を担架で搬送することもあったようだが、父の手紙のおおきな特徴は、戦記や戦争映画等でほとんど語られることがなかった兵営の些細な日常、それも花々を飾り行く雲に心を慰める兵士達の姿をかいま見せていることである。もちろん手紙の検閲という関門を突破しなければならなかったので、軍事に関することは最小限にとどめなければならなかったであろう。一例が、駐屯地がまったく分からない。地名や山河の名称が注意深く除いてある。 婚約者に対するラブレターというためもあろうが、除隊後、元の鉱山技術者に復帰して当時大勢の朝鮮労働者をかげながら庇護して彼等に感謝されていたというから、そのような姿勢はすでにこれら戦地からの手紙にほの見えるのである。その息子の姿勢を良しとして、祖父もまたそれら労働者をいたわり、為に日本人同胞から袋だたきにされたようだが、親子の態度は一貫して変わらなかった。 私はその態度を、敵味方の問題ではなく、ただ人と人との偏見のないまじわりからであったと解釈し、いま祖父と父とに誇りをもつのである。-----------------------------------------------お元気でお過しですね。御無沙汰致しております間に、七夕月がやってまいりました。樹々の梢の青葉も生い茂って色深く、むくむくと浮く入道雲のその色にも夏の姿を頷き、新しい青簾を通しての香も恋しい此の頃かと思われます。麗しいリラの花も散った当地ではまさに三伏の暑中。真白な夏の太陽は容赦なくその猛威を逞しうして、今日も110度を昇っていることでしょう。空気が乾燥していて、内地で想像するような暑さとは異なりますけど、それでもいささかげんなりしてしまいます。人間の精神活動なんて案外はかないもので、こんな状態に在ると大抵の人はもう心の平静を失って、激情に似た感じに陥入ります。が、そこは精神の緊張を欠く事を最も厭(にく)む兵隊のこと、心頭滅却すれば火もまた涼しで(事実はそれ程でもありませんが)、暑さに対する感覚、観念も、内地に在りました時とおのずから異なります。それでも黄昏れる頃に入りますと、そよやかな涼風も出て、日中の暑さなどはまるで遠い以前のような気が致します。納涼時刻になりますと(特に許されます)、一角の望楼に上って、小さなグループをつくり色々な事を話し合います。時事の話、故郷の話、恋人の話----等々。月が出ておりますと此の頃は白夜のように明るく、くもひとつない澄んだ空は、星のまたたきが綺麗です。何とはなしに人と人の底に流れる感情の触れ合う爽やかな音が聞こえるような、好ましい気持を此処に味わうことが出来ます。今度のお手紙を拝見して、小生は、貴女は此の頃、貴女の生活に或る種の張りを失いかけているんじゃないかと感じました。今日は少し強く云いましょう。貴女の云わんとする事、またその気持を小生は充分わかりますし、またそう云わんとする事も無理ない事と頷きますが、けれど現在まで過して来て、そうして起った事を考えたりする由って起ったものが何処にあるでしょうか。理由、原因、必要、環境、そうしたものが何ひとつだって無いんじゃないでしょうか。そうした事が聡明な貴女に分からない訳がないと思いますが、貴女は貴女自身を包む環境から物事を判断する事が出来ない人だろうか、形をもって来なければその物が何であるか分からない人だろうか、水の流れは此れを敢えて押しやらなくても自然に低い方へ流れて行く簡単な事実を忘れてしまったのだろうか----と疑います。貴女は馬鹿だなァと小生は云う。固い自己の信念を強く生かして、総てを将来に尽くす事をお祈りする。疲れてはいけない。張りを失ってはいけない。もう少しだ。頑張れ。あんな事を言葉にしたら、貴女を馬鹿だと小生はもう一度云います。小生の云わんとする事が分かりましたね。牧場の畑へ行って、胡瓜や茄子をもいでみるといいでしょう。野に出て、胸いっぱいオゾン深呼吸するのもいいでしょう。取り越し的なことを思わないで、お母様の留守をまもり家庭の中から一革万新の時代の急におもむくように努めてくれることを希みます。日毎暑くなってまいります。くれぐれも御自愛なされるよう祈ります。皆様によろしく申しお伝え下さい。ではまた。冗長乱文失礼。さようなら。(昭和十七年七月十日頂く)(注:母の文字で小さく記載)北支派遣軍東2933部隊宇美隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇秋も愈々深くなりました。お元気で日々お過しの御様子お欣び致します。 小生元来が筆無精のため、いつも御心配をおかけ致し申訳ありません。悪しからず。今年は内地(注:日本)も豊作ですとか。勤倹増産農家の人達の丹精がたわやかな実に報いられて、どんなに喜んでいる事でしょう。ずっと南寄りの当地でも、朝夕の風のけはいは寒いような冷たさを覚える此の頃ですが、それでも黎明から朝へ黄昏れから夜へ静かに移動して行く雲風の流れから、生きる事の張り合い、生きる事の喜び、或いは肉体の生命感、そうしたものが此の頃の季節の清純な流れに洗われて、何かよみがえるような活力が湧いて来るような気が致します。当地の節季の中では、お正月はから風が吹いて寒いし、端午節は暑いし、やはり仲秋節(九月二十四日でしたね?)から此の頃にかけてが一番いいように思います。仲秋節と云えば、支那の家庭でもやはり内地のような鶏冠子花(鶏頭の花)や月餅、毛豆(枝豆)、藕(グウ:蓮根)等を飾り、一束の線香蝋燭をともして此の夜の一刻を楽しく過します。秋月明、秋風清。此の頃の秋の空気はそれをひそかに何の無理もなく吸い取ってくれるようです。季節の持つ愛情が人々の魂にひとつひとつ切実に迫って来るのも此の頃です。東洋的な素直な美しさを感ずるのも此の頃です。 小生達が此の月を、此の風を、こんな静かな眼で眺めることが出来るのも、今、アジアが本当のアジア一色に洗われて、悠久な歴史の頁の上を胸をぐっと張って歩いておられるからかもしれません。皆、勤務まで出て、閑散なうえに、窓に秋の光がゆるやかに拡がっております。いつか御地をお訪ねしたのも今頃。道端の小さな花に蟲が沢山飛んでおりましたが----。これから日毎寒さに向います。くれぐれも御自愛専一になされるよう。小生も元気で残る御奉公に懸命に頑張りましょう。ではまた。相変わらずこんな乱筆で----。お元気で。さようなら。(日付不明。昭和十七年九月初旬か)北支派遣軍東2933部隊宇美隊 山田守雄
Aug 14, 2007
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昨日掲載した手紙の日付と前後するが、140通の中で少しばかり筆の調子が異質なものがある。途中から突然のように時局の大論を演説口調で書き始めている。何か状況に変化があったのか、昂揚せざるを得ない心境の変化か。とはいえ、当時としてはむしろ戦意昂揚調のほうが一般的ではあっただろうが。 文中に、「卒業式」とあるのは、この頃、母が北海道手塩郡豊富村福永国民学校へ代用教員として赴任していたからである。4,5年生を担任した。また婦人たちに洋裁もおしえていたとのこと。おしえながら婚約者である父のことを考えていたのだろうか、諸橋という生徒を呼ぶときに無意識に「守雄さん」と呼んで、生徒たちに「先生、何ヘンなことを云っているんですか」と注意されたそうだ。 二番目の手紙も別な意味で少し異質。いささかそっけない。長い討伐戦から帰ったばかりで疲労していたのかもしれない。あるいは長過ぎる先行きの見えない婚約期間に、倦怠がおとずれていたか。------------------------------------------お元気ですね。昨日一日、細かに霧のように煙っておりました。雨もあがりました(雨量の少ない北支は雨は本当に稀な事です)。乾ききった木も葉も地面も久方振りのこの雨にいきいきと生気を見せ、雨あがりの微風もしっとりと湿りを持って心よく頬に触れます。雪もすっかり溶けてしまった頃の北海道の春、今日はそんな麗しの日です。赤土の禿山の処々に、廃屋の庭先のここかしこに、桃、杏子、梨と、綺麗に花がほころんでおります。迎春花(インチュンホア)(注:黄梅)の黄色な小さな花も可愛らしい微笑を見せております。桃梨の艶と云いますが、兵隊はそれぞれ思い思いの美しさを一枝一枝と手折って来ては、空罐やら空瓶の花瓶にいけて、対陣の徒然草を楽しんでおります。内地(注:日本)に在っては恐らく花などには興味を持ちそうにも見えない兵隊でも、真剣になって飾っているのを見ますと、こうした兵隊が内地へ帰ったとしたら、どんなに気立てのやさしい人になるだろうかと思ったりすることがあります。学年替りに家へお帰りになるとおっしゃっておりましたが、いかがですか? 卒業式も済みましたことでしょう。随分お忙しい事だったと思います。御苦労様でした。他ではマレー、ヒリッピン既にカン定し(注:兵力に拠って賊を平定する意。カンは甚ヘンに戈)、ボルネオ、スマトラ、ジャバと陥ち、蘭印は無条件降服しました。又、援将ルート(注:援軍輸送線)の牙城とし米英(の)東亜攪乱の策源地であったラングーンも潰え、東ではラエ、サラモアも陥ちました。こうして横暴武力に據った米英の勢力が土崩瓦解の一路を辿っている時に、雄渾なる日本の使命は、圧倒的勝利の中に推進して雲烟万里十億の同胞は栄光につつまれながら、東亜自主新生の第一歩を(2字不明)しようとしております。家(1字不明)って国治まるとか。特にこうした総力戦には女性の力に據るところが多いと云います。政府でも前に女子国民登録を行ない、そうした方面ばかりでなく、女性は次代の国を生むと云う言葉のように、健全な次代の日本を築くために母性の教育訓練とか家庭生活の刷新充実とかなどと、若い人、年とった人の別なく、国家は女性の協力を求めているようです。貴女のその真価を発揮する部面が広くなったようですね。職場々々にしろ家事の方面にしろ、お元気でしっかりやって下さい。春とは云え北海道の此の頃は、まだまだ寒いことと思います。くれぐれもお身体に気を付けられて毎日を過されますよう----皆様によろしく申し伝えて下さるようお願い致します。相変わらずの乱筆ですが、ではまた。お元気で。(昭和十七年四月十二日の消印)北支派遣軍東第2933部隊萩生田隊 山田守雄【注】軍事郵便葉書はすべて、事務煩擾を避けるためか検閲印だけで、消印がないのが特徴。この一通のみ例外的に消印があるが、じつは宛先人住所転送で、国内の手塩豊富局印なのである。◇ ◇ ◇ ◇ ◇お元気なお手紙拝見致しました。暫くお手紙を上げませんでしたが、その後もお変わりなくお過しの御様子なので何よりと思っております。 小生もお蔭でこんなに元気ですから御安心下さい。田舎の方から此方へまいり直ぐ討伐やらと、昨日帰ってまいりました。そんな訳で永いこと御無沙汰致しておりましたが、悪しからず----此処は以前おりました処です。昨日街へ出てみましたが、道に行き交う居留民の人達の浴衣姿から、内地(注:日本)の姿に久し振りに触れた気が致しました。リラの花も盛りです。六月も早なかば。そちらでも空の青さに、草のいきれに、初夏を身近に感じられることでしょう。庭の草花も美しく咲き揃っておりますとか。 小生が黙って座敷を抜けだして、そっと立っていた木(栗の木だったでしょうか?)の葉も、みどりみどりしている事でしょう。 御地は空気の澄んだ静かな土地。妹にも宣伝しようと思いますが、奴さんはあれでなかなかいそがしそうだから----日毎暑さを増して行きますし、くれぐれもお身体に気を付けられて下さい。此方はまさに三伏の暑中。昨日は日中120度(注:カ氏)も昇りました。空気が乾燥していて、内地のそれとは違いますが、寒いよりは暑い方がいい小生も、少しくげんなりしてしまいます。街へ来ましたので、その内に元気なところを撮してお送り致します。ではまた。こんな乱筆で。皆々様にくれぐれもよろしく申しお伝え下さい。さようなら。御慰問品ありがとうございました。お礼を申し上げるのが遅くなりまして申訳ありません。江差、熊石、乙部から来ている人達はとてもなつかしがり、故郷の味だと戴きました。では、お元気で。 守雄(昭和十七年六月二十五日頂く)(注:母の文字で小さく記されている)北支派遣軍東2933部隊萩生田隊 山田守雄
Aug 13, 2007
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父から婚約者である母への手紙。戦地にて二年目の春と夏。ホームシックもかすかに忍び込み。-----------------------------------------今日も天気晴朗、雲ひとつない群青の空は伸び伸びと拡がっております。大陸晴れとでも云うのでしょうか。陣中閑、軍衣の無い襦袢(シャッツ)だけで、前の山へ上ってみました。百米程の丘を大きくしたような黄土層の禿山です。チカチカと触れると痛いような枯れた草ばかりで、潅木ひとつありません。自分はそんな枯草に腰を下ろして暫く日向ぼっこをしてまいりました。此処は文字通り第一線なんですが、弾の音ひとつ聞こえてきません。○河の対岸が春日に薄紫に霞んで、水面がチカチカと輝いて永々つづいておりました。ずっと向こうのこんもり見える棗の木立の陰が、敵の部落なんですよ。グーンと音がしていたと思ったら、日本の飛行機が一台、高度千五百、銀翼が見えました。地上偵察なんでしょうか。○河を挟んで一望千里とも見える茫々とした平原がひらけております。昨年は此の平原を○○まで騎虎の勢いで進撃して行ったんですが、砂埃のひどい道でした。暑い日でしたが、此の道を僅かの高粱(注:コーリャン。中国産モロコシ)を日覆にした馬車に揺さぶられながら、小生に水を戴けませんかと云った患者さんは、元気になったろうか。南京豆の畑も麦畠も、今は人もなく黄土ばかりになっております。南京豆を蒔き、麦畠を刈って、○河に昇る朝陽を拝んだ支那の人達は、今何処にいるでしょう。林芙美子に「やがてまた春が来て 呼びかへされた鶯も鳴いて 新たなる至上のものに 明日ある生活を耕し給ひ 黄なる花ここかしこ 愛の花ここかしこあらむ」と云う歌がありますが、やがていつの日にかこうして耕す人の姿もあるのでしょう。爽やかな春のけはいを身に感じながら、ちょっぴり感傷的になった小生です。お元気でしょうね。いつのお手紙もピチピチと楽しそうな毎日らしいので喜んでおります。今日もまた、皆さん達と一所懸命お勉強なんでしょう。親切なやさしい先生だから皆さん喜んでおりますよ。素朴な人達に囲まれたそんな生活は羨ましいと思います。上巳の節句(注:桃の節句)も過ぎました。戦地にこうしておりますと流れて行く月日を忘れ、自分だけが一つ処に止っているような感じが致します。卒業期が近づきましたね。お家へ帰るのだそうですね。末っ子だからどちらへ行っても親しまれ可愛がられので、得だなァ。其方はまだ雪があるんでしょう。無理をしないようくれぐれもお身体に気を付けて下さい。春先に引いた風邪はなかなか抜けないんだそうですから。ではまた。お元気で。皆様にくれぐれもよろしく申し伝えて下さい。さようなら。昭和十七年三月北支派遣軍東2933部隊萩生田隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇久しく御無沙汰致しておりましたが、貴女のお手紙でお元気に過しておられる事をしり、喜んでおります。八月----御地も夏の盛り、あの綺麗な流れも雑魚獲りや水泳と子供達に賑わっていることでしょう。樹々の葉末も強い光に耀いて、広く開け放たれた縁先から部屋へ、みどり濃き木々の蔭が映えて、生々とした葉の香がいっぱいに拡がっていることでしょう。此方では近頃ずっと日照がつづいて、支那の人達は雨乞いなどしたり、街の人、部落の人、誰も彼もがただ一滴の恵みこそと待ちこがれておりました為か、此の二三日来、沛然とした降雨をみせましたが、今日はまた暑さが逆襲したようなお天気です。街を歩いている兵隊さんの軍衣が、汗でタオルのようにぬれておりますが、そんな暑さも八月に入りますと峠を越して、そんな感じも大分やわらいでまいります。夜になりますと矢張り内地(注:日本)の夏の夜のように、何処かで蟲のすだいているのが聞こえます。月の光の明らかさ、星のまたたきの美しさ。此の月の下で(文字不明)した支那の風物も美しい詩情をもって迫ってまいります。自分はその中になんとはなしにホームシックを感じるとともに、また、このひとときが東洋平和を建設しつつある尊いそして美しいひとときなるを感じ、静かな涼風を頬にうけながらしばらくたたずんでおります。貴女が此の暑さにも負けず、非常な熱意を持って、お母さんの留守をまもり、お義姉のお手伝いをしながら煩擾な家庭の雑用を処理して行くのを見て、たのもしく思いました。今までと生活方式の全然異なった生活を求めることは、貴女に課せられた時代の要求でしょう。女の家庭生活など自分にはしるよしもありませんが、新しい生活の価値を身に感じつつ、与えられた材料で料理をし、また洋裁などし、どうにか工夫し都合して生活するところに、自分達には分からない楽しみもあることでしょう。新しい物をつくる創造の喜びも感じることでしょう。生産部面にたづさわる女性が多いこのごろ、家にある自分を不生産的な不為不用のように考えることは誤りで、現在国家が家庭の生活に要求することは随分大きいと思います。したがって現在は家庭でも生活上に色々な事柄が山積して悩まされどおしでしょうが、そこを溌溂とした精神できびきび処理して行く事はそれ自身が立派な御奉公かとも思われます。家におりますと、とかく自己と云うものが小さく固まってしまいやすいのではないかと思いますが、貴女は若いんだしピチピチと色々な事をしてみて、自分を生かしながら毎日を送って下さい。平凡な家庭人になると云う事は、案外にむづかしい事でないでしょうか。貴女が現在なさっている事は、表面にあらわれなくても、大きな結果を得ることになるのでしょう。ではまた。御自愛を祈ります。(昭和十七年、日付け無し。文中に八月とあり。)北支派遣軍東第2933部隊宇美隊 山田守雄
Aug 13, 2007
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きょうは家族で墓参に行ってきた。墓のなかで父は、自分の青年時代の手紙を公表されてどのように思っているか。父は新しいものが好きで、亡くなる前もインターネットをおもしろがっていたから、案外手紙が公表されても平気かもしれない。息子が芸術家のはしくれなのだから、危険なのは息子だと覚悟していたことだろう。 さて、お客様には御退屈様。もうしばらく戦場からのラブレターにおつきあいください。------------------------------------------お手紙をありがとう。今日もお元気でお過しと思います。久しぶりにお家にお帰りになって、しみじみと胸の底まで吸い込むように、静かな古里のオゾンを吸ったことでしょう。お母様、お兄様、お姉様、皆々様お元気ですか?札幌へも寄ってくれまして有難う。姉から、貴女が「とてもお元気になって、以前よりずっとずっと丈夫そうですし、それに明るく朗らかです。姉妹に色々なお話を致しました」と来ておりました。「守雄さんの前ではネコを被っているんです----と、そんな冗談を云って笑っておりました」----とも書いてありましたよ。そんなにお元気なんだろうかと、心から安心しております。この前には、踊りは止めまして部屋にいることに致しましたとありましたので、いけないなァと思っておりましたが、二十日には御所河原まで行ってらしたと云うので、ホッとしたんですよ。部屋に一人いる静かさは自分も好きですが、いつもそうする事はともすれば自分だけ孤立してしまうのでないかと思うのです。一人でいるということは、自分の本当の姿、本質をそこに見出すことが出来るでしょう。即ち一人でいると云う安らかさに住むところから、自己の魂にしっかり根を下ろすことが出来るのだと思います。友を持つ、或いは慰安を求める、雑談をする----そうした事は、この根の枝葉の茂ることだと考えるのです。けれど孤立はそうしたものから離れる、退ける、自然でない淋しさだと思うのです。だから色々な話をしたり、笑ったり、聞いたり、見たり、ある程度色々な外気にふれて種々なものを吸い込み、枝葉の茂るにまかせる事もいいのではないかと思います。今年は全国的に盆踊りが復活され、瑞穂踊りと云うのを踊ったもだそうですね。瑞穂踊り、いい名前だと思います。お酒を飲んで野卑な拍子や、見よう聞きまね的な文化人のモダニズムに人情も風俗も蝕まれ歪められた、夾雑物的な歌謡曲性の盆踊りより、昔からの郷土の伝統がもつ盆踊りがどのくらい深く自分達になつかしさ、したしみを感じせしめるかじれません。瑞穂国と呼ばれた昔から今まで、自分達のお爺さんお婆さん父母、そして自分達をはぐくみ来った日本精神の根底が、こうしたところに多分に流れているのではないかと思います。余市におりました頃も、夕飯を終え、風呂へ入って、一人部屋にいるときなど、遠く近く笛や太鼓の音が響いて来るとなんとなく明るいそわそわした気持になって、見に行ったものです。踊りは大部分は大人ですが、一かたまりになって子供達が踊っていたりします。みんな揃ってながい袖の着物を着、うま味はなくとも習い覚えたとおりの型を一生懸命やっているのや、買ってもらった新しいポクリ(注:下駄)をはいて歌と筋かえる(注:間違える)足を出す子供の後ろで気をもんでいるお母さんや、まるい眼をして今度来たら入ろうと身構えているのや、見ていて微笑ましくなります。人も事物も笛や太鼓の律動の中に融け込んで、新しい生命がおこり出しているようです。めまぐるしい変転をつづける新聞面から、眼をそうしてたまには夜風に吹かれながら、こうした雰囲気にふれる事は自分達に必要な事だと思います。自分達の殆どは今まで、新しい物新しい物と憧れ、ただ外国の真似をしたり外国の資材によるものを使う事によって、文化人と自負していたのでないでしょうか?だが一番いいのは、純粋に日本人の手によってつくられ生かされて来たものでなければいけないと思います。旧弊打破、因習打破と一口に云っても、こうした伝統の中に流れるよさをくみ、老人の義太夫も聞いてやりまた歌謡曲も聞いて、はじめて革新或いは正しい建設が出来るのでないかと思います。盆踊りから随分おしゃべりになりました。自分の手紙はいつもまとまりのない、つながりの無い手紙です。でも、おしゃべりと云うものは結局まとまりのないものが多いでしょう。だから自分の手紙はいつもおしゃべりだと思って下さい。でも、書く事は心に思った事なんですよ。ではまた。お元気で----。御自愛を祈ります。(昭和十六年)九月九日北支派遣原田熊部隊小出部隊萩生田隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇お元気でお過しの事と思います。そちらも今ではすっかり雪につつまれてしまったことと思います。お風邪など引かないように気を付けて下さい。度々のお手紙で、お元気なんだと安心はしておりますが----。お家の皆様はお変わりありませんか。よろしく申し伝えて下さい。小生は相変わらずですよ。黄色な土、その土で造った泥の家、黄色く濁った河、木立のない禿山。こんな小さな支那の部落ですから、別におしらせするような変わった事もなく、至極平凡にただ元気に毎日を送っていると云うほか、何もないのです。今日は天気も良く部屋の中は上衣を脱している程の暖かさ----。明るい日射しが部屋いっぱいに広がっております。今日は去る○月に小生も行った○○攻略戦のお話でも致しましょう。小生達は救護隊ですから、肉弾で敵に躍り込む、そうした華々しい勇壮な立派な働きには到底及びませんが、それでも担架を握る時は銃剣をひらめかして突入すると同じ気持で、一生懸命頑張ってまいりました。小生達が属する○○支隊が、あの大黄河の敵前渡河を決行したのは十月二日、晩秋の冷気身にしむ、夜明けには未だ暇のある頃でした。夜露が深く霜夜のような冷気が身にしみました。そうした露を含んだ砂地に臥せ、疎らな雑草に頬をつけて、渡河の時機を待っている小生達に、渡河開始の木舟のエンジンの響きがかすかに聞こえておりました。あの時の興奮と緊張を忘れません。やがて小一時間も立っていたでしょうか、遥かな対岸でチェッコや友軍の機関銃の音が激しくなりましたが、やがてそれも遠のいて行きました。----渡河成功----。敵の予想外に出た勇猛果敢な奇襲は見事成功して、敵の第一抵抗線を突破したのです。夜が明けると同時に友軍が一斉に砲撃を開始しました。後方の堤や砂地には野砲や山砲の砲列がしかれておりました。小生達の頭上を砲弾がヒューンと強く空気を摩擦して飛んで行ったと思う間に、パッと対岸に黒煙が上がります。対岸のトーチカを砲撃しているのです。その度に一つ一つトーチカがその姿をけしてゆきます。砲声は殷々として、腹や胸をえぐるように、すさまじく響いておりますが、小生達はどんなにこれを快く聞いたことでしょう。大黄河の水は褐色に、且つ黒く、滔々と流れておりました。山と河の違いこそあれ、敵にとっては義経の鵯(ひよどり)越えにも似た晴天の霹靂だったと思います。河岸には雑然とした廃屋の並んだ小さな部落がありました。砲弾で叩かれた煉瓦塀、ブスブスいぶっている民家、縄片を絡ませたような狭い露路のあちこちに、青い中国兵の服が散らばっておりました。小生達はこうして○○へ進撃をつづけて行きます。しかし四日間の進撃行程がわずか四里(注:約16キロ)のこともあって、いかに敵が死にものぐるいで此の進撃を阻み、また、此処が重要であったかが分かります。耳を噛むような砲声、時にヒューンと敵から来る流弾は、ようやく芽を出した麦畠にヒュッと小さな土埃をあげ、棉の木にあたってサッと葉を散らせます。小生達は昼となく夜となく僅かの小休止だけで進撃をつづけて行きます。兵隊は行軍しながら夜になるとそのまま道端に横になります。星がキラキラして、耳元の此処彼処に虫がチロチロないております。これで夜露がなく夜冷えさえ来なかったら、とてもいい臥床だと思うんですが----。小生達の通って来たほとんどは一望たる麦畠や棉畠で、今では棉の葉のチリチリに縮んで白い実が処々はじけておりました。軍列はこうした平原を、あるいは広い車道を押し合うように前進して行きます。ポクポクに乾いた麦畠や棉畠を大河のような行軍です。馬の鞍に白菜や葱をつけたり、鶏をつけた車輌もあります。鶏と云えば野戦では鶏の料理は天国に昇るような御馳走なんですよ。黄金色の脂肪の玉がびっしり浮んでいるお汁を、飯盒の蓋に掬って吸うあの味覚は、一度でいいから貴女方に御馳走して上げたいと思うほどですよ。此処から貴女方の住んでいる故郷は遠い。こうした軍列の中に住む小生は、しかしそうした故郷も本当にあるのだろうか、その故郷の存在さえも嘘のような気がする時さえあるのです。こうした平原の中にも時々松林があったり、野菊や芒(すすき)の咲き乱れている小さな小川もあって、日本の田舎のどこにもある平和な、素朴な、晩秋らしい景色に出逢うことがあって、小生に故郷の姿を想い出させます。此の地方は七時か、半でなければ夜が明けません。爽やかな薔薇色の朝焼に兵隊の顔も美しく染まり、背の高い芒の穂が銀色に映えた上を雁が飛んで行くところは、「数行過雁月三更」と歌った上杉謙信でなくても、その脳裡にきっと故郷の姿を想い浮かべることでしょう。○日、小生達は○○に入りました。縣政府のあった処です。遠くから見れば木立の多い大きな城壁が豊かそうに見えた町でしたが、いざ入ってみると住民はとっくに逃げていて、埃っぽい味気ない町でした。昨夜先鋒部隊があんなに激しく戦っていたとはとても思われないほど、町中は深閑としていて、泥だらけの黒豚が道端に餌をあさっておりました。小生達は此処で仮営するために、宿舎を見付けに薬屋のような家へ入ってみましたが、ながらく中国兵がいたのか、中もすっかり荒されていて、火事場跡のようでした。一夜、藁を敷いた枕元に轟く砲声を聞きながら、小生達は色々な興奮でなかなか眠れませんでした。その夜はちょうど仲秋節で、澄んだ夜空に清浄な十五夜の月が皓々としておりました。此処から○○まで僅か二十粁(キロメートル)です。小生達は此処で、前日に前方部隊が既に○○壘城を攻略した快報を耳にしました。かつて蒋介石が黄河堤防を決壊し、数万の無辜の民を濁流の中に押し流して此れを護らんとし、今また十五万の軍隊を擁して此れを護りつづけようとしていたのです。しかしそれも陥ちました。○○は中華と云う名が出たと云われるくらい豊沃な平原の経済の中心地で、その郊外はみづみづしい白菜や大きな葱の植わった野菜畠がたくさん見られました。街の東小郊はいかにも都会の郊外のようでした。こんな処にアメリカの旗の教会堂があったりしました。小生達は○関区(一字不明)から汚い廃屋の並んだせまい往来を過ぎ、市街へ入ってみました。周の時代の都だったと云う、経済や工業の中心地だったと云う、しかし此の街もやはりどこか敗色的な灰色の感じの街でした。防空壕だらけの街路の此処彼処に様々な看板が散乱し、電線が絡まっておりました。メイン・ストリートのバリケードや信号機がひっそりした街に取り残されたように立っておりました。今また大平洋上では立ち騒ぐ波濤を制圧して精鋭は、アングロサクソンを相手に日毎その戦果を拡大しております。もう間もなく新しい年がまいりますね。たとえ歳の市がなくても、お餅が配給でも、なんの不安もなく新しい年を迎え、一億の民衆が全幅の信頼とその国力を捧げ得ることが出来る日本に住む小生達は、本当に幸福なんだと思います。今日此の頃は寒さも随分厳しいことと思います。くれぐれもお身体に気を付けて下さい。皆様によろしく申し伝えて下さい。ではまた。御自愛を祈ります。相変わらずの乱筆で----(日付け無し。昭和十六年十月頃か)北支派遣軍東2933部隊萩生田隊 山田守雄
Aug 12, 2007
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戦地からの父の手紙はしだいに内容が豊かになってゆくようだ。23歳の青年が戦場で何を見たかは語られることはないが、日常の任務のなかでおのずと美しいものへ眼がゆくようである。兵士達はみな小さな花にも心をとめる、と父は書いている。------------------------------------------------今日も一日お元気で過されたことと思います。お手紙を拝見致しました。自分が案じていたよりお元気な御様子なので喜んでいます。くれぐれもお身体に気を付けて下さい。生来静かな気性の貴女ゆえ、ともすれば落ち入りやすい孤独感に襲われ感傷的になる結果、お身体をいためるような事がないとも限りません。自分は非常にそれを案じておりましたが、お手紙を拝見して安心致しました。お説教がかって悪しからず。自分は相変わらず----何処を押しても病気にはなりそうもありませんから、決して御心配無く----。今自分はこの小部落に来ております。たとえ此処で孔子が生まれたとしても、こうした美しい木立さえないような土ばっかりに、あきる時があります。山や田圃のある日本が好もしく思います。綺麗な草花が見たいと思うことがあります。また、美しい匂いをかぎたいと思うこともあります。今自分がこのお手紙を書いている部屋の前の広場へ、内地で植木屋さんだったという兵隊さんが、何処かの野良から六七尺の樹を持って来て、是は柳、これは支那(注:中国)の桃の木などと自分に説明しながら植えております。やはり土の寂しさにあきて、一刻の無聊を慰めているのでしょう。今日も空は清澄、麦も生気をおび、雲にも風にも春の息吹が感じられます。三月----昨年、凍った道を貴女達に送られてから一年、過ぎてみると早いなァと思います。その間に、精神的にも肉体的にも種々な事を学び、将来自分の生活にきっと力になってくれることと思います。一昨々日はこの部落のお祭とかで、余暇をみて支那の田舎の芝居をみに行きました。戦地ですから暢気な気分で見れませんが、意味は分からないでも見聞をひろめるつもりで出掛けたのですが、結局、分からないで早々に引上げました。勤務の暇々に支那の子供達から支那語を一つづつおそわっておりますが、なかなかおぼえられません。そちらは日増しに暖かになって来ることと思います。お身体に充分気を付けられてお母様のお手伝いをして下さい。黒い土が現われたなら花など植えてみるといいでしょう。どんなに貴女が黒くなっても、決してボクは驚きませんから----ではまた。お母様お兄様皆々様にくれぐれもよろしくお伝え下さい。相変わらずの乱筆で----(昭和十六年)三月七日部隊名が表記のように変わりました。北支派遣原田熊部隊栗栖部隊土屋隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇お手紙を拝見致しました。お元気ですね。貴女のモンペをはいたり手拭やマスクをして掃除をしていられるお元気な姿を想像して、兵隊の戦闘に出掛ける姿を連想し微笑んでしまいました。お元気なので安心致しました。今頃もきっとお母様の傍でお裁縫にいそしんでいらっしゃることでしょう。今日は○○○から○○○に宣撫行に行って来ました。茫漠たる土を主調とする此の戦野も既に春訪れ、耕地の起伏からは青い麦の春がそよそよと吹いておりました。----この部落では沢山の人が集まっておりました。小さなきれいな小川のある小高い丘の家の前でした。顔見しりの保長(ポーヂャン:村長)が小生達の姿を見て出てまいりました。弟々(テイテイ)がお嫁さんを貰ってお里帰りとの事でした。暫くして、青い大褂兒(タークワル:外衣)を着た丈夫(チャンフ:夫)の後ろから、繻子の紅い褂衣(クワツ:上衣)、青いクーツ(衣ヘンに庫、そして子:ズボン)を着た可愛らしい涼毛生(リャンモウショウ:前髪)のある、まだ十七八の可愛らしいお嫁さんが出てまいりました。母親(ムーチン)が馬車(マーチョ)に敷いてくれる真赤な座布団に仲よく並んで、麦畠の中の路をゆらゆら揺れて行きました。小生は後ろからこの支那の若い二人の将来に対していつまでも幸福であることを祈りました。空は実に青く澄んで、白いまるい雲が静かに去来しておりました。緑毛氈の麦畠の所々には黄色な菜の花が咲き乱れておりました。此の辺は土地がいいのかみづみづしい野菜畠が多く、小生は青く肥えた蒜(スワン:にんにく)を抜いてかじってみました。一人のお百姓が井戸から水を汲んで畠にやっておりました。乾いた土はぐんぐんと気持よく水を吸って行きました。此の地方では珍しいほど透明な水----小生達は水桶に顔をつっ込んで、鼻も頬もぺちゃぺちゃに濡らして、ごくごく水を飲みました。「俺達が○○○に行った時は、赤く濁った水を青い苔を手で除けて、埃と一緒に飲んだものだが」と、一人が当時の苦労を想い浮かべたのか、呟きました。こんこんと湧き出る内地の清水をなつかしく想います。いつか歩いた円山(注:父の故郷札幌市の円山)の冷たい小川の水の感触を想い出しました。○○○の部落で昼食を戴きました。鶏蛋(チータン:卵)、南京豆、猪肉(チューロー:豚)の煮込み、麺(ミエン:支那そば)、饅頭(マントウ:麦粉のみの饅頭で支那では上等の常食)、野菜の油炒り、どれも強烈な韮菜(チョーウツァイ:にら)の臭いと唐辛子に、皆さすがに手を出しかねたが、内地にいる時より海鼠のはらわた、鮭のメイフン等、いささか臭いいか物を好んだ小生、腹一ぱい戴きました。いやしん坊と決して笑うなかれ。大食は健康の証しと安心して下さい。アハハ----。○○○の部落では、お下げ髪の十二三の姑娘(クーニャン:少女)が、紐の付いた大きな籠を枝に掛けて、木の実(風媒花で多分種子でしょう)を上手に木によじのぼっては取っておりました。此の地方で常食とする粟粥に入れ、食べるのです。脚の器用な支那の女の子は、平気でどんな高い枝でも上ることができ、今頃の大切な日課なのでしょう。だまって見ていたら、恥ずかしそうに笑って、一枝落してくれました。白いその種子は、お乳のような甘い味をもっておりました。此の部落はこの辺りでも相当な部落で、高い土の城壁が部落の周囲をかこんでありました。クリーク(注:運河)の水も温み、メダカや小鮒が銀色の腹を見せて水藻を縫っておりました。「オーイ、メダカだ。田螺(タニシ)もいるぞ」一人が大きな声を出しました。故郷の田圃の流れを想い出したのでしょう。クリークの堤や山廟の陰には菫や蓮華の可愛らしい姿が微笑んでいました。ついこの間までの土の淋しさと異なり、春が無限の生命を語っておりました。峻嶮と頑敵で激戦をつづけた○○○山脈のそそり立った山頂が、薄墨に浮きたって見えました。○○○山脈までは此処から眼と鼻の間です。あそこにはまだ何万の敵兵が籠っているのです。大きな楊柳や白柳の並木。牛車や馬車のゆるい歩み。小生達は小さな声で軍歌を口づさんでおりました。家では流行歌ばかり歌っていた小生ですが、戦線へ来ると、口づさむ歌はいつか軍歌に変わっております。軍歌は清新でいいものです。此の辺りはつい此の間、戦闘のあった処です。○○○の部落では或る農家の庭先に美しい海棠花(ハイタンホウ:カイドウ)が咲き誇っておりました。眼にしみるような美しさに小生達はしらずしらず庭の中へ入って行きました。‘花と兵隊’ 小生達はどんな小さな花の色彩にもなつかしさを感じます。こんなにまで強く花の美と愛の深さを感じた事はありません。義理、世間体、追従、こんなものに縛られない花をしたう、純粋な気持を尊く思います。部落を出たクリークの土橋で五つ六つから十二三までの女の子が草花を摘んでおりました。桃色や緑の毛糸でお下げ髪を結んだ可愛らしい子供達でした。さっきお内儀さんから貰って来た海棠花の小枝を頭に挿してやりました。「大人謝々(シャシャ)」と大よろこび。頭をなでてやる小生を見上げていた白い支那服の女の子の瞳は、媚び、嫉み、疑い、憎しみ、そんな一切の無い純真無垢な聡明な光に輝いておりました。五年後あるいは十年後にこうした子供達が美しい妻と賢い母に生長し、夫と共に一体一如、あるいは励まし、あるいは慰めて、夫を援け子供を育てて、ながい間の封建的生活と因循と搾取から脱却して、目覚めた力強い明朗な支那を建設するその一助となってくれるように祈ったのは、小生だけの感傷でしょうか?今日もまた、ながいおしゃべりをしました。ではまた。くれぐれも御自愛を祈ります。乱筆で----昭和十六年四月五日同封の海棠花のひとひら届く頃は色も香もさめているでしょうが。北支の部落の移った香だけはきっとする事と思います。北支派遣原田熊部隊栗栖部隊土屋隊 山田守雄-----------------------------------------上に掲載した「押し花」は、昭和十六年四月五日付けの手紙の便箋にはさまれて現在まで残っていたもの。
Aug 11, 2007
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婚約者である母宛ての父のラブレターは、いよいよ中国北方の戦地から発信されたものになる。封書も葉書も軍事郵便扱いで、部隊の検閲官の押印がされている。これらの手紙のひとつの特徴は、宿営地や差し出し地が明記されていないことである。部隊がどこにいるかは、軍事機密だったからだ。------------------------------------ 暫くお手紙を書きませんでしたね。お元気でお過ごしの事と思います。過日はお手紙を、また種々御心配下さって済まなく思います。いつも変わらぬお心づかい感謝しております。 小生も頑健です。過日、討伐行に参加致しました。幾台ものトラックが荒涼たる平原を部落から部落へ、夜も昼も走るのです。坦々たる原野が雄大に展けております。清澄に澄んだ空なのですが、トラックに揺られて走る自分達は黄塵もうもうとして、きな粉でまぶしたように、眼も鼻も、キリストのような鬚も、みんな埃だらけになります。どんな土の上でもいいから、ごろりと横になりたいと思う事もあります。夜、宿営地に着きますと、お寺や民家の土間に、付近の部落から集めて来た粟穀や高粱穀で寝床を作ります。寝返りを打つたびに、乾いた藁の匂いがこころよくします。これにもぐって寝(やす)む寝心地は極楽です。小さい子供の時に物置にかくれて寝てしまった事があります。自分がその時にかえったような気がしました。焚火で炊いた飯盒の御飯の味も忘れられません。真っ暗な寺の庭で、焚火に掛けた飯盒から噴き出る白い泡を、真剣に見つめている自分の顔を想像して下さい。御飯が出来ると、雑嚢から鰯の罐詰を出して、一つの罐詰を三人位で食べます。器用なのが鶏の料理や白菜のおしたしを作って御馳走します。不器用な自分は専ら御馳走になる方----兵隊さんはとても料理が上手です。どの部落もどの部落も乾いてばさばさの感じがします。戦争が起らない前も幸福であったとは到底考えられない、黄色な色の雰囲気がただよっておりました。土間に、中心を失ったようなぼんやりした老婆がおりました。家の中へ入って行くと、薄暗い部屋のペチカの傍に不安そうな瞳をした、明るさを忘れたような黙りこくった姉妹がたたづむのを見ました。頼り無い愛想笑いをする老爺をみました。赤ちゃんをあやして南京豆をやっている自分の姿を、力無いかすかな微笑を浮かべて見ている母親をみました。どの農家も決して豊だと感じられませんでした。支那(注:中国)のこうした人々に、こんな沢山の犠牲(生活上、精神上の犠牲だと思います)をはらわして尚超然としている蒋介石に対して、自分はどんなに憎しみを感じた事でしょう。日本に住む人達は本当に幸福だと痛切に感じました。お姉様が御退院なされたとか----喜んでおります。今日も貴女はお母様のお手伝ですか? 寒さが厳しい此の頃、折角体に気をつけて、風邪などにかからないで下さい。皆様によろしく申して下さい。相変わらずの乱筆まで。(昭和十六年)一月十九日北支派遣原田熊部隊見城部隊土屋隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇御手紙拝見致しました。過日(二十日)にはまた、お心のこもった品々お送り下さいましてありがとうございました。包の縫目の一針一針にもお心ざしの深さを感じ、感激致しました。いつかお訪ねしたことのあるあの部屋かしらと、その包む姿や部屋の様子が偲ばれ、なつかしく思いました。取出される品の一つ一つ、ただただ御厚情に感謝するばかりです。胴巻を有難うございました。色々な品、羊羹の美味しかったこと。舌にのせた羊羹に唾がよって行くのが勿体ない思いでした。久しぶりで内地の息吹きを感じました。御名号有難うございました。みんなのお心ざしに報いる為にもしっかり頑張ります。御身体もう良いのですか。気を付けてしっかりやって下さい。決して無理をしてはいけないと思います。寒さの厳しい時ですから、くれぐれも気を付けて下さい。 自分は元気です。金佛さんのような真っ黒な顔をしております。まだ書きたいのですが、また出掛けますので、帰ってからゆっくり書かせて戴きます。皆々様によろしく申し伝えて下さい。乱筆失礼ながら一筆お礼まで。御自愛を切に祈ります。(昭和十六年)一月二十四日しゃしんまだ写しておりません。機会をみて写してお送り致します。お元気で---- ではまた。見城部隊土屋隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇お手紙拝見致しました。あまりに突然の事、なんとお悔みを申してよいか自分は分かりません。一番可愛がられたお父様の亡くなられた貴女のお心持ち、どんなお悔みもどんな慰めも、貴女にとってなんの価値もなく、到底その悲しみを癒すことは出来得ないことでしょう。お訪ねした折、あの居間の爐(いろり)の辺りに莨(たばこ)を吸っていらしたお父様の姿が、今はっきり想い出されてまいります。お家の皆様のおなげきいかばかりと、お察し致します。貴女のお父様は天寿を全うされたのです。安らかに佛様になられました。貴女や自分達の不滅感は、その心の中にいつまでも慈愛深かったお父様を宿す事ができるのです。一度泣いたなら二度泣いてはいけません。自分から進んで悲しい感傷に入って行ってはいけません。貴女には貴女をよくしって下さる、そしていつも貴女を見守っていらっしゃるお母様がいらっしゃいます。貴女を愛してくれるお兄様、お姉様がおります。慈愛に満ちた家庭があります。人は雲光朝霧と例えております。生者必滅会者定離という言葉もあります。こうした言葉が自分達のために存在する以上、人として此の世に在る者の一様に持たなければならない因縁であります。貴女は決して一人ではない。悲しみをいつまでも嘆いていてはいけない。そうした事によって貴女の心を沈めてはいけない。そうした感傷を愛してはいけない。貴女を心配し見守って下さる人は、どんなに心配することでしょぷ。達観するのです。明りを見出すのです。元気を出すのです。自分の云う事を無理だとは聞いてくれないと思います。自分の云わんとする事が分ってくれることと思います。結婚の事を大変御心配していらしたとか。お訪ねした折におっしゃっていた言葉が想い出されます。自分が務めを果たしたその時には、二人で佛様の前で御挨拶いたしましょう。きっと喜んで戴けると思います。寂しくなったら自分に云うのです。一人でくよくよしていてはいけません。どんな小さな塊でも心の中にしまっておいてはいけません。みんな云って、心の中はいつもさっぱりと明るくしておくのです。強く生きますとの言葉から、貴女の明日への力と心強さを感じた自分は、どんなに喜んだことでしょう。元気を出すんです。皆さんに心配を掛けるような事があってはいけない。自然をみてごらん。山をみてごらん。山だけが喜びも悲しみも抱含し、そしてその総べてを統一し、調和し、巍然としてつっ立っております。無言で自分達を導いております。元気を出すのです。あまり悲しみなされてはお身に障ります。別して御自愛を祈ります。二月二十八日北支派遣原田熊部隊見城部隊土屋隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇
Aug 11, 2007
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88歳の老母の古い手文庫に、昔昔、婚約時代に父が母に宛てたラブレターが、およそ140通残っている。その半数は、結婚前に出征してしまった北方中国の戦場からの手紙である。一昨年、父が亡くなるほんの少し前のこと、病床から「お父さんの手紙、まだ持っているの?」と母に聞いた。私はそばにいたので、その言葉が耳に入ったのだ。 「持っていますよ」と母が言うと、「そうかい」と父は言って、あとは無言で目をつむってしまった。 あのとき、父が何を思ったのかと、私は気にするでもなく心に留めた。私はそれらの手紙を全部読んだことはないが、子供のときから目にしていたばかりではなく、切手収集に夢中になっていたので、じつは封書に貼ってある軍事切手をすべて切り取ってしまったのだった。そのため、手紙が書かれた日付はともかく、年号は判然としなくなってしまった。今になって、あの父の病床からの言葉を思い出しながら、罪ほろぼしのために、すべてを読んで、なんとか年代順に仕分けできないかと思っている。 そんな作業は、なにかきっかけを作らなければなかなか手をつけにくい。そこで来る8月15日の終戦記念日まで、わずかながらこのブログで紹介してみようかと考えた。ほとんどみな検閲印が押された軍事郵便なので、碌なことも書けなかっただろう。戦場のことに触れたものはひとつもない。若い兵士の婚約者に対する想いだけである。封書が使えず、中国の風景絵葉書を一度に何枚も使って、番号を打ち、糸で綴じたものも多い。 初めは昭和15年3月7日の日付がある、初めて兵役について旭川聯隊に入隊したことを伝える手紙である。父はこのとき22歳。まもなく東京の赤坂にあった近衛聯隊(皇居護衛)に配属され、そこからやがて戦地に出動してゆく。------------------------------------------御無沙汰致しました。お元気の事と思います。過日はまたお見送り下さいまして有難うございました。母も種々お世話になった事と思います。 自分もお陰で兵営生活にも大分慣れました。只今は鉄砲をかついでの行進の稽古をしております。お腹が空くので御飯もとてもおいしく戴けます。暇が無く、ここへ入ってからまだ一度より顔を洗った事がありません。唯、元気で勤務しておりますから安心して下さい。いつ頃まで旭川にいらっしゃいますか? お帰りになるときは、もう一度札幌へよって下さい。妹と一緒に映画でも見て遊んでいって下さい。姉も待っておりますから---一寸暇がありましたので此れを書きました。では又後ほど---お元気で---- さようなら。(昭和十五年)三月七日旭川浜ノ上部隊笹森隊第五班 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇久しぶりで貴女にお手紙を書く事に致します。いつもと異なって外出した後の静かな班内で、しとしと降りそそぐ雨の音を聞きながら----(注:兵士たちの外出許可日なのである)静かな此の雨を貴女も窓から見て、今頃は何を想い、何を考えていることでしょう。いつも、お逢いして別れる時は、満足なさよならも言うことが出来ずお別れをしております。此の間も電車の中から一人静かに帰って行く貴女の後姿をじっと見送りながら、貴女の愛情に対する感謝とともに、いつお逢いしたときでも自分に対して何かしら満ち足りない或物を感じるであろう貴女に、済まないと想い、貴女の歩いて行く姿をみておりました。いつお逢いしても黙り屋の自分から、貴女は何を得ているか----こんな事を考えてみました。そしてボク自身が一人で、貴女から生れでるあたたかな愛情の中に静かに浸って、その空気を呼吸している事を感じ、ボクは人の愛情をのみ受け入れ、人に対して愛情を施し得ないのかとも、想いました。でもボク自身は決してそうではなく、ただ、ある程度自由性が束縛されているからだ、と思うのでした。ボクは貴女が大好き----そして貴女はボクを愛してくれるから、現在はこれでいいんだと----でも、貴女の考えは?五日の日にはまた貴女をお訪ね致します。そのときはこうした愛情の問題についてお話してみましょうか、アハハハ----雨が前より激しくなってまいりました。皆ももう帰ってくる頃でしょう。お元気で----お逢いできる日まで。 さようなら。物凄い乱筆まで(昭和十五年)六月二日二伸今日は何故か貴女とたくさんお話がしてみたい気がします。お手紙も書き足りない気が致しますが、五日まで我慢して、今日は止めましょう。旭川内田部隊笹森隊 山田守雄◇ ◇ ◇ ◇ ◇今日もお元気の事と思います。 自分、昨日五時上野駅着、無事この赤坂の近衛へ入りました。出動まで幾日かを此処で過す予定であります。元気は益々旺盛----昨日も今日も上天気----営庭の裏から木立木立を通して国会議事堂の建物が見られます。宮城近くこの高台にある聯隊から、夕方など、涼しい風の夕靄の暮れて行く街をみられます。昨夜は久しぶりでよく眠りました。疲れも取れて爽やかな気分で、今日これを書きました。もう間もなくお昼です。では又書きましょう。相変わらずの乱筆お許し下さい。御自愛をいのります。(昭和十五年)十月七日宮城をあの玉砂利を静かに歩いて拝します時は、‘しっかりやらなくては’と、一層その心を固くしました。お元気で---- さようなら。◇ ◇ ◇ ◇ ◇今日もお元気でお過しの事と思います。皆様はお元気ですか? お兄様、お姉様はいかがですか? 自分は相変わらず元気---- 昨日、今日と靖国神社、明治神宮と参拝を致し、護国の神となられた人々に祈りを捧げると共に、自分達の武運に幸ある事を祈って来ました。午後はずっとこの班内に休んでおりました。今、消燈前の一時間を貴女に書き送っております。旭川のお姉様はお帰りになりましたか? 貴女のお風邪は? 寒い河原へ行って----与える事よりも奪う事より知らないらしい自分。我儘申訳なく思います。此の手紙が貴女の許へ行く頃は、自分はここを発っている事でしょう。東京からの終りの手紙です。窓を通して月が見えます。朧月です。貴女をもてらしている事でしょう。お元気で御無理をなさらず。お母様にお言伝をお願いします。 自分は元気だ。お元気で。御自愛を祈ります。乱筆まで。(昭和十五年)十月十三日二伸まだなにか書きたい様な気がする。けれど何を書いていいか分からない。あまり簡単な手紙だけれど仕方がないと思う。また此の次まで----消燈まで後十五分。貴女の安らかに寝まん事を祈る。 さようなら。 お休みなさい。東京市赤坂東部第六部隊鈴木隊 山田守雄(以下つづく)
Aug 10, 2007
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夏真っ盛りの街の散歩で目につくのは、まるでSFの世界に入り込んだような女性のファッション。紫外線除けのためだが、サングラスなんていうものじゃない、ヘルメットのようなフェイス・カバー。何という物でしょうか。顔全体を色付きのプラスティックでおおっている。腕には、どこの舞踏会に行くのかと思うような、肘上までの長い手袋。脚はパンツ・ルックですっかり固め、要するに肌の露出している部分がない。昨日、見かけた女性は、何から何まで黒ずくめ。ブラックのフェイス・カバーの留具が赤。そしてサンダル・シューズが赤。スタイル抜群なので、格好良いといえば格好良いが、なんとなくマンガチック、SFチック。まあ、私は嫌いではないのだが。 たしかに紫外線除けは必要。しかし男性はあまり気にとめる人はいないのかもしれない。私も鍔付のキャップを目深にかぶり、眼鏡のレンズはUVカットがほどこしてある。それだけだ。昨日も外出から帰宅したときには、腕が赤く陽焼けしていた。とはいえ、長袖シャツも着たくはない。長い手袋など、もってのほか。 ともかく、ファッションがかつての夏と冬とが逆になったような感じがしないでもない。 さて、話は変わって・・・ 買い物がてら街を散歩していたのだが、前を行く若い女性の大きめのショルダー・バッグから奇妙なものがのぞいている。何だろう? バッグの端にヌイグルミの飾りをつけているのか? すると、彼女は、そのヌイグルミ(?)を撫でながら何か言ったのだ。 「エッ?・・・まさか・・・」私は彼女に少し近づいて目をこらして見た。なんと、生きたほんものの猫なのだ。バッグの端から頭だけを出して、躯はすっかりバッグのなか。二人(?)で一緒にお出かけというわけ。子猫ではない。ペルシャ猫のような、純白の、なかなかの成猫なのである。 ときどきキョロキョロあたりを見回すが、おとなしいものだ。我家にも猫がたくさんいるし、25年以上の長きにわたって飼いつづけてきたが、バッグに入れて外出するなどしたこともないし、考えたこともない。第一、おとなしくバッグのなかに入ってはいまい。我家の猫達もいろいろな芸当をするけれど、一緒に散歩はできない。 そういえば、以前、肩に猫をのせて自転車で走っていた人を見たが、あのときはビックリした。それにくらべれば、バッグに入っての散歩ごときは驚くにあたらないかもしれない。可愛い。が、可愛いというより、なんとなくその若い女性の独身生活が透けて見えるような気がしたのだった。
Aug 10, 2007
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山田維史 《長崎原爆の日に》 CG 2007年8月9日
Aug 9, 2007
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ノー! ノー! ノー! 山田維史 もうたくさんだ 広島原爆 もうたくさんだ 長崎原爆 私が生まれた1945年以降 世界の戦争は300回以上 2,000万人が殺された もう戦争はたくさんだ もうたくさんだ アルジェリア戦争 もうたくさんだ キプロス紛争 もうたくさんだ コンゴ動乱 もうたくさんだ 中東戦争 もうたくさんだ ヴェトナム戦争 もうたくさんだ イラン-イラク戦争 もうたくさんだ アンゴラ内戦 もうたくさんだ ブルンジ内戦 もうたくさんだ ルワンダ紛争 もうたくさんだ バスク内乱 もうたくさんだ 西サハラ紛争 もうたくさんだ カンボジア内戦 もうたくさんだ カシミール戦争 もうたくさんだ タジキスタン戦争 もうたくさんだ 東チモール内乱 もうたくさんだ スリランカ民族紛争 もうたくさんだ ソマリア内戦 もうたくさんだ モザンビーク内戦 もうたくさんだ シエラレオネ内戦 もうたくさんだ アフガニスタン紛争 もうたくさんだ ダルフール紛争 もうたくさんだ ミンダナオ紛争 もうたくさんだ コソボ内戦 もうたくさんだ ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争 もうたくさんだ ユーゴスラヴィア戦争 もうたくさんだ チェチェン紛争 もうたくさんだ アメリカ9.11同時多発テロ もうたくさんだ イラク戦争 もうたくさんだ アフガン戦争 何が戦争を起すのだ? ノ-! ノ-! ノー! ノ-! ノー! ノー! もう戦争はたくさんだ もうたくさんだ 広島原爆 もうたくさんだ 長崎原爆 8月9日長崎原爆の日を前にして--------------------------------------------- NO! NO! NO! by Tadami YAMADA No more Hiroshima atomic bomb No more Nagasaki atomic bomb As from I was born in the year 1945 The world caused more than three hundred wars More than 20 million people were killed in wars Enough of that! No more war! No more Algerian War No more Cyprus Conflict No more Congo Crisis No more Middle East War No more Vietnam War No more Iran-Iraq War No more Angola Civil War No more Burundi's War No more Rwanda Genocide No more Basque National Liberation No more Western Sahara Conflict No more Cambodia War No more Indo-Pakistani Wars and Conflicts No more Tajikistan War No more East Timor 's War and Genocide No more Sri Lanka Civil War No more Somalia Civil War No more Mozambique Civil War No more Sierra Leone Civil War No more Afgan Civil War No more Darfur Conflict and Genocide No more Mindanao Conflict No more Kosovo Conflict No more Bosnia-Herzegovina War No more Yugoslavia War No more Chechen War No more 9.11 Attcks in U.S.A. No more Iraq War No more Afgan War What caused the war? No! No! No! No! No! No! Enough of that! No more War! No more Hiroshima atomic bomb No more Nagasaki atomic bomb in memory of Nagasaki in August 9, 1945
Aug 8, 2007
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今月末に刊行される予定だった画集が、12月に変更になった。そして、もう一点掲載しませんかと言うので、「10月まで待てますか」と聞くと、待てると言う。それならと、現在執筆している作品を10月までに完成する約束をした。最近は、1点を仕上げるのに随分時間を費やしている。さっさと仕事をすればよいものを、ぐずぐずやっている。今回の申し出は、渡りに船、待っていると言われれば筆を走らせなければならない。 そんな我身のなまけぐせに活を入れるつもりで、書棚から、愛読してやまないアレン・ギンズバーグの最後の詩集『DEATH & FAME (死と名声)』を取出してページを繰る。 アレン・ギンズバーグはアメリカのビートニックの詩人。1926年、ニュージャージー州ニューワークに生まれ、1997年4月5日、ニューヨークの病院で71歳の生涯を閉じた。 最後の詩集と銘打たれた『DEATH & FAME』は、ボブ・ローゼンタール、ピーター・ヘイル、ビル・モーガンの編集によって1999年に刊行された。最後の詩集であることはギンズバーグの意思であった。彼は病院のベッドで自らの死が迫っていることを悟っていた。そして、ある日、主治医から余命いくばくもないことを告げられると、その日々を最良のものにしようと決心し、最も親しい友人を呼んでその旨を宣言した。 『DEATH & FAME』には、1993年から1997年の死までに書いた全68篇の詩が収録されている。そして、私が胸を打たれるのは、そのうちの24篇が死の直前の3月に創られたものなのである。収録作品にはすべてそれが創られた日付けがある。3月の創作状況を書き出してみると次のとおりだ。()内が作品の数である。 3日(1)、4日(1)、7日(1)、8日(1)、10日(3)、12日(1)、13日(1)、18日(1)、23日(5)、24日(4)、25日(3)、27日(1)、30日(1)。 文字どおり最後の詩は、3月30日に書かれた“Thing I'll Not Do(Nostalgia)”、40行の詩である。そして6日後の4月5日に息を引取った。 71歳の死に臨んだ人のこの活力、この創作力に、私はただただ敬服するばかりだ。そしてその詩はことごとく鋭い社会批評であり、文明批評である。激しく、しかし諧謔的で、自己に誠実だ。晩年は仏教に傾いていたようだが、それは盲目的な信仰とはまったくことなる、何か新しい文明の地平を模索する、そのひとつのヒントだったのではないかと思われる。 『DEATH & FAME』の序文を書いているロバート・クリーリーは、アレン・ギンズバーグの全人生は、ホイットマンの「この本に触れる者は、一人の人間に触れるのだ」という感銘深い主張に対する信仰だった、と書いている。そして次のように結ぶ。 「そうだ、アレン・ギンズバーグは今もなお私たちから去っていったのではない」‘To see Void vast infinite look out the window into the blue sky’(窓をあけて青空の彼方にひろがる虚空を見るにつけても) (山田注:『死と名声』に収録されている「American Sentences 1993-1997」の3月23日の日付がある最終句) 私は詩集を開き、しばしそのなかの何篇かをくちずさんだのである。 詩集『死と名声』の表紙。(上)表、(下)裏。裏表紙は、ギンズバーグ自筆の「死と名声」の冒頭部。
Aug 7, 2007
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『戦争が大好きな家族』 山田維史 戦争が大好きな おじいちゃん 戦争が大好きな おばあちゃん 戦争が大好きな おとうさん 戦争が大好きな おかあさん 戦争が大好きな こどもたち 人殺しが好きな おじいちゃん 人殺しが好きな おばあちゃん 人殺しが好きな おとうさん 人殺しが好きな おかあさん 人殺しが好きな こどもたち 戦争で殺される おじいちゃん 戦争で殺される おばあちゃん 戦争で殺される おとうさん 戦争で殺される おかあさん 戦争で殺される こどもたち 人殺しを止められない おじいちゃん 人殺しを止められない おばあちゃん 人殺しを止められない おとうさん 人殺しを止められない おかあさん 人殺しを止められない こどもたち 涙をながす おじいちゃん 涙をながす おばあちゃん 涙をながす おとうさん 涙をながす おかあさん 涙をながす こどもたち 2007年8月6日 広島原爆の日に---------------------------------------------- ALL of US Really Love a Warfare by Tadami YAMADA Grandpa Really loves a warfare Grandma Really loves a warfare Daddy Really loves a warefare Mammy Really loves a warfare Children Really love a warfare Grandpa Loves to commit murder Grandma Loves to commit murder Daddy Loves to commit murder Mammy Loves to commit murder Children Love to commit murder Grandpa He'll be killed in a warfare Grandma She'll be killed in a warfare Daddy He'll be killed in a warfare Mammy She'll be killed in a warfare Children They'll be killed in a warfare Grandpa Can't quit doing warfare Grandma Can't quit doing warfare Daddy Can't quit doing warfare Mammy Can't quit doing warfare Children Can't quit doing warfare Grandpa Sheds tears Grandma Sheds tears Daddy Sheds tears Mammy Sheds tears Children Shed tears in memory of HIROSHIMA; August 6, 2007
Aug 6, 2007
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山田維史 《NO! NUKE》 CG 2007年8月5日広島原爆記念日のために
Aug 5, 2007
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「ブルーマングループ ついに日本出現!」と、きのう3日、新聞広告が掲載されていた。ニューヨーク・オフ・ブロードウェイの奇妙で魅力的なショーを、私が現地で観たのは、1992年のことである。『ニューヨーク・タイムズ』は好意的な評を何度も掲載し、『タイム』には、リチャード・ゾグリンによって長い紹介文が書かれたりしていた。観客席には前衛的な面白いパフォーマンスを見のがさない日本人も見受けられたし、当時、私は、まもなく日本公演が実現するだろうと思ったものだ。しかし案に相違して、ブルーマングループは日本にやってこなかった。あれから15年が経つ。 ブルーマングループとは、クリス・ウィンクが1988年に創立した、当時30歳の3人の男性ニューヨーカーによるパフォーマンス・グループ。「アートの遊び場を創造するつもりだ」とクリス・ウィンクは言っていた。ニューヨークの鋪道で活動を開始し、あふれた観客を有名ナイトクラブ「コパカバーナ」の向いの自分達のオルタネイティブなスペース「クラブ・ノーホェア」に誘い込んでいた。やがてマンハッタンのいろいろな場所での屋内パフォーマンスの形態をとるようになる。作品『チューブ』を創ると、それを持って1991年にハーレムの「ラ・ママ劇場」に出演、次いでオフ・ブロードウェイのラファイエット街434番地にある「アストーァ・プレイス劇場」で連続公演を開始した。私が観たのは「アストーァ・プレイス劇場」においてであった。 「最高におかしく、クレイジー、最も独創的で最も洗練されている」とか、「こんな発明的なエンターテイメントは観たことない」とか、「陽気にさせる純粋な戯れ」とか、ほとんど手放しの讃辞が寄せられていたショー・ピース『チューブ』について、簡単に述べることは、そう容易ではない。 スキン・ヘッドの、ロボットのように個性を隠して全身青いメーキャップをした3人の俳優が、ほとんど無言のまま、奇怪にステージを動き回る。ドラムの上に大量の絵具を注ぎ入れて強打する。絵具が火山の噴火のように飛散る。あるいは真っ白いキャンバスに絵具をぶちまける。たちまち原色の抽象画ができあがる。それはまるで現代抽象絵画をからかっているようでもあるし、痛烈な批評でもある。また単に子供のはてしなく繰り広げる悪戯のようでもある。シリアル・コーンを口いっぱい詰め込んで、噛み砕く音をアンプで増幅して交響曲と結合する。ステージで繰り広げられる宴会に無作為に選んだ観客を引っぱりあげて、共に食事をすることをすすめる。観客が食事を始めると、突然ものすごい量のクリームが3人の胸から噴き出す。俳優の一人がビデオ・カメラでステージ上の俳優の行為を撮影する。その映像がスクリーンに映し出される。すると行為する俳優は舞台裏にひっこみ、カメラはそれを追う。無人のステージにビデオ映像だけが映っていて、観客は俳優たちの行動をその映像によって見つめる。俳優はやがて劇場の外に出、ブロードウェイでタクシーをつかまえて夜の街へ去って行ってしまう。その様子がスクーリーンに映し出されているので、観客は出演者が劇場からいなくなってしまったことを呆気にとられて眺めている。と、突然、スクリーンの中から消えたはずの俳優が飛び出してくる(これは、どのような仕掛けになっているのか、私には分からなかった)。ストロボ・ライトが激しく点滅し、電子音楽が鼓動のように鳴り響くなか、観客席の後方のバルコニーのあちらこちらからトイレット・ペーパーの帯が繰出される。観客たちもおおはしゃぎで、紙の帯を繰出すことに参加する。観客の頭上を蜘蛛の巣のようにおおってゆく・・・ショーの終わりである。 ストーリーがあるわけではない。まさに子供がおもいっきり悪ふざけするように、おもちゃ箱をひっくり返したような陽気さが創りだされてゆく。ドラムの上で高く飛散る原色絵具の噴火は、ドラムのなかに仕掛けられた照明によって、実際、大筒花火のように美しい。どぎもを抜かれるような光景だ。ビデオ・アートの併用舞台は、おそらく1990年代初めの先端的技術だったであろう。魔術的な効果が観客を驚かせた。 さて、あれからちょうど15年経っているわけだが、ニューヨーク・オフ・ブロードウェイの前衛的なアーティスティック・テイストを味わいたい方は、ぜひご覧になったらいかがでしょう。 2007年12月1日から2008年1月31日まで東京・六本木のインボイス劇場にて。15年前のフライシート チケット・ブースの隣で売っていたポストカードに、まだメイキャップを落していないブルーマンが、私のためにキス・マ-クをつけてくれた。署名の代りの観劇記念というわけだ。
Aug 4, 2007
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大きな災害が起っても、被災者救済に手を拱いているというのが、日本の国家行政のごく普通の姿だ。何もしない、頭をはたらかせてやるべきことを考えるということをしない。ポカーンとしている。新潟県中越沖地震の被災者は、もう17日間も、共同避難場所でこの暑さの中、国からの救済もないまま放っておかれているようだ。満足な食事もできず、今夜あたりからの台風通過中は炊き出しも中止されてパンと握り飯が配給されるのだという。 避難場所での暮しを少しでも楽にしてあげるような何等かの手当てをすることが、国としてそんなに難しいことなのか? そんなこともできなくて、いったい何ができると言うんだ。国民を戦争に巻き込むような体制を準備しようとしている政府だが、どの面さげてそんなことを先導できるんだ? なぜこの国の政府は、国民のために当り前のことができないのだろう。国民の財布に手をいれる政治家は、国務大臣はじめ、ひきもきらないのに。 こういう恥知らずな政府が累々とつづいていて、それが日本の文化意識となっているから、曲学阿世のくだらぬ精神論に彩られた、ひんまがった愛国心が大手を振るう。悪の円環だ。 国際的にはさまざまな困難に直面している人々を救済する援助をすることが必要なのは言うまでもない。しかし、このたびの地震被災のように、緊急に救済しなければならない国民を放っておくというのは、国政としては本末顛倒だろう。 われわれは、政治から根深い棄民思想を捨てなければならない。われわれすべての日本国民の、生きやすさのために。
Aug 3, 2007
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関東地方は昨日あたりようやく梅雨があけたようだ。しかし台風5号が九州から中国地方を通過という予想が出ている。 雨が降りつづいていた間、庭木や鉢植えの植物の手入れもせず放っておいた。昼過ぎ、伸び放題になった枝を剪定をしたり、草取りをしたり、掃き掃除をしたりした。 庭の片隅にゼニゴケがびっしり生えている。このコケがはびこるのを嫌う人もいるが、私はあえてはびこるにまかせている。よく見ると花がついている。ふと子供時代のこと、苔の標本つくりに夢中になっていた小学1年生の夏休みを思い出した。 鉱山技師だった父の出社にくっついてゆき、坑内に連れて行ってもらい、そこに棲息する苔や地衣類を採集したものだ。この標本は担任の樋口カエ子先生が子供科学研究コンクールに出品してくださり、賞を獲得した。小学生が苔や地衣などという地味な植物を研究したのが珍しかったのだろう。70数種の分類標本だった。返却された標本は、学校の要望で寄贈した。その他の標本のごく一部は、54年後の現在も、じつは手元に保存してあるのである。 ゼニゴケだけを残して雑草を引き抜くと、昔なつかしい植物の匂いがたちのぼった。 青柿がたくさん落ちている。赤く熟すまで枝に付いていないというのは、何か理由があるのだろうか。あまり数が多いので、あるいは木が弱っているのかもしれない。 汗だくになっての一仕事。近い内に家の裏の草取りもしなければなるまい。
Aug 3, 2007
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アメリカの大統領は国民有権者による直接選挙によって決定する。その仕組みは、予備選挙などという、日本の選挙制度にはまったくないものがあり、複雑といえば複雑だが、分かりやすいといえばこれはまともに民意を反映している、まことに納得できる仕組み制度である。ひるがえって日本の首相は、一般国民にとっては、まるでボウフラが湧くように出て来る。おそらく誰も、自分が選んだ首相だという確たる意識はないのではあるまいか。なんだか知らぬ間に、与党の党利党略のなかからフラフラと浮き上がってくるような印象だ。あんな愚か者を首相に据えた覚えはないと、私は何度思ってきたことか。私は、なんだか野蛮な制度だとつねづね思い、国政の改革というならまず首相を直接選挙で決定するようにしたら如何かと考えるわけです。みなさんは如何なものでしょう。 きょうはちょっと忙しいので、これ以上は書かないが、われわれがあまりバカ者を首相に戴いていると、ニューヨーク・タイムズの社説で「軍国主義復活ばかりに熱心な首相」と、国民としては大迷惑なことを書かれるはめになる。的を射ているから余計困る。こういう国際的な影響に対して、誰がどう責任を取るんだね。
Aug 2, 2007
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映画の巨匠があいついで逝く。ベルイマン監督に永訣の辞を捧げたばかりなのに、ベルイマン氏と同じ日にローマにおいてミケランジェロ・アントニオーニ監督が亡くなったという。享年94。つい先日、NHK・BS2でアラン・ドロン主演作品を連日放映し、そのプログラムで同監督の『太陽はひとりぼっち』が放映されたばかりだった。私はあいにくこれを見ることはできなかったのだが、じつは先ほど手持ちのDVDで見直したところだ。 ミケランジェロ・アントニオーニは美術への関心からやがて学生演劇活動に加わり、20代前半には映画評論も発表し、当時のファシズムに操られた公式的・形式的な映画を粗暴なほどの筆致で攻撃した。この頃、16ミリ・フィルムで社会性あるドキュメンタリー短篇を撮り、この経験が、映画への道をめざすきっかけになったと伝えられている。 ナチス・ドイツによるイタリア占領時代にはレジスタンス行動隊として戦い、イタリヤ解放後に映画界に復帰し、フェリーニ監督作品『白い酋長』のシナリオを執筆している。 長篇劇映画第1作は『Cronica di un amore(邦題:愛の殺意)』(1950)。以後、『女ともだち』(56)、『さすらい』(57)、『情事』(59)、『夜』(61)、『太陽はひとりぼっち』(62)、『赤い砂漠』(64)、『欲望』(66)、『砂丘』(69)、『さすらいの二人』(75)、『ある女の存在証明』(82)。 晩年、脳卒中の後遺症で言葉が不自由になったが、1995年、83歳のときにヴィム・ベンダース監督とのオムニバス共作『愛のめぐりあい』を撮って、旺盛な創作意欲と健在ぶりを示した。 ミケランジェロ・アントニオーニの作品の主題は一貫して、愛する男女の心の空白、もしくは虚無的ともいえる絶望の孤独である。その映像は端正な、いわば歪みのない真正面から見据えたものだが、しかしまた切り取られる風景の積み重ねは心象風景のような意味合いをもちはじめる。ここは注意深く述べる必要があろうが、つまり必ずしも主人公の見た目の風景ではないので「主人公の心象」とは言い切れないのだ。この微妙な点を指摘する評論を私は見かけたことはないけれど、その点がミケランジェロ・アントニオーニ映画の魅力であり不思議なところである。私はたったいま『太陽はひとりぼっち』でそのことを再確認した。 『太陽はひとりぼっち』(1962)は、原題を『L'ECLIPSE(日蝕)』という。この原題は、おそらく、最後のおよそ5分間の、ほとんど無人の風景の積み重ねの後に黄昏れのなかで輝く街灯のクロース・アップで終わる、その映像を象徴的に言っているのかもしれない。 モニカ・ヴィッティ演じる主人公ビットリアは、美術評論家(らしい)リカルドのために外国語文章の翻訳を仕事にしているが、長い間、煮え切らない愛人関係を結んでいる。彼女はリカルドを心から愛しているような、いないような、結婚を申込まれればそこに踏み込む魅力も感じない。男を求めているかと思えば、それが一瞬で冷めてしまうこともある。自分がいったい何を求めているのか、また、求められているのか、おそらく分からないのだ。何事も解決する緒さえ見つけられず、一晩中、話し合って、夜明けとともに二人は別れてしまう。そして、証券取引所で働くピエロ(アラン・ドロン)の誘いに、心がうごく。しかし、ピエロがしだいに夢中になってくると、また虚しさが忍び寄る。楽しく笑い、ふざけあい、だが、次の瞬間にはただ倦怠感だけが彼女をとらえるのである。躰に触れられるのさへ鬱陶しい・・・。 郊外の人の行き来もないガランとした通り。横断歩道を渡る前に、ピエロが言う。 「向こうに着いたらキス」しよう。 ふたりは渡り始める。 「真中に来たわ」 渡り切る。ピエロ、キスをしようとする。ビットリアも唇を寄せる。そのとき、人の気配。あわてて離れて取り繕うふたり。が、ビットリアの気持はすでに白々と冷めている。 ピエロの部屋。帰ろうとするビットリア。 「愛している。明日も会おう。あさっても会おう」 「今夜もあいましょう」 「8時に。いつものところで」 「そうしましょう」 二人は別れる。 ピエロは扉を開けてビットリアを送りだす。今夜のデートを想いえがくような眼をするピエロ。 ビットリアは階段を下りながら、ふと足を止める。(階段の吹き抜けと手摺が、まるで廃材を組み上げたような奇怪なデザインである)。ビットリアは、しかし、思いきるように足早に通りへ出る。外光が明るい。行き違う人々が彼女にぶつかる。彼女はふらふらと近くの門扉に掴まる。 ・・・ピエロとビットリアが数日前に歩いた場所が、無人の風景となって延々と映し出される。陰鬱な景色。遠く、巨大キノコのような塔が鬱蒼とした森の上に見える。建築途中なのか廃屋なのか、砦のようなビルの黒い塊。横断鋪道の縞模様。何やら空っぽの箱のような物の集積。斜に勢い良く吹き上げる散水機。労働者がやってきてその水を止める。斜にそそり立つ水の出ない噴水口。道端の天水桶。前日ビットリアが捨てたゴミが浮んでいる。黄昏れの広い空にポツンと灯る街灯。その灯りのクロース・アップ。太陽のようにギラギラ輝く。その中に、「FIN」。 物語らしい物語があるわけではない。憂鬱と倦怠感が全編の主調である。ただ、冒頭に、ビットリアの無意識にある女心が、象徴的に映像化されていることを指摘しておこう。 映画は、途方に暮れて仏頂面したリカルドを正面から捉えるところで始まる。次ぎにカーテンで閉ざした窓辺に後ろ向きになったビットリア。彼女が振向く。髪が扇風機から送られてくる風に揺れる。机の上に額縁があり、ビットリアは手慰みにそのフレームの中にオブジェを構成する。たいして気があるわけではない。小さな細首の花瓶の口の縁を無意識に指でなぞる。これは自慰を表現している、と私は見る。ふたりの間に、煮え切らないやりとりがあって、それはこの時まで一晩中つづいたことなのだが、やがてビットリアは再び窓辺にゆきカーテンを開ける。もう夜が明けたのだ。窓の外は、もちろんこの部屋を出てゆく彼女の行く場所である。その窓外に、巨大なキノコのような奇妙な塔が、にょっきり建っているのが見える。私はこの奇妙な塔を男根の象徴と見た。・・・細口花瓶の縁を指でなぞる映像とキノコ状の塔の映像とを冒頭に置くことによって、ビットリアの無意識の底にあるものを示唆し、彼女の憂鬱と倦怠、そして愛の絶望を提示しているのである。リカルドやピエロにとって、そしてミケランジェロ・アントニオーニにとって、女は永遠の謎なのだ(ミケランジェロ・アントニオーニとモニカ・ヴィティは、実生活で愛人関係にあった)。 愛しあいながら、しかしお互の心と躰の間に吹くすきま風。それを詩的ともいえる映像に昇華したミケランジェロ・アントニオーニだった。 Michrlangelo Antonioni(1912.9.29-2007.7.30) さようなら、アントニオーニさん。
Aug 1, 2007
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東京の西部にある我家の近辺で、31日の午前、一斉にセミが鳴いた。「ミ~ン、ミ~ン、ミンミンミンミン」と、あの日本の夏を感じさせる鳴き声だ。喧しいけれど、耳障りというのでもない。私はたちまち山の中で育った子供時代を思い出した。 昨年の鳴き初めを、たしかこのブログに書いたはず。調べてみると、8月1日だ。今年は一日早い。一匹だけ鳴くというのでなく、一斉に鳴き出すというのがおもしろい。 さて、そんなわけでセミの声を聞きながら朝刊を開くと、スウェーデンの映画監督イングマル・ベルイマン氏が30日に死去したと報じられていた。享年89歳。 監督第一作の『危機』(1945)以後、『愛欲の港』(48)、『不良少女モニカ』(52)、『夏の夜は三たび微笑む』(55)、『第七の封印』(56)、『野いちご』(57)、『女はそれを待ってい』(58)、『処女の泉』(59)、『鏡の中にあるごとく』(61)、『冬の光』『沈黙』(63)、『仮面/ペルソナ』(66)、『夜の儀式』(69)、『叫びとささやき』(73)、『ある結婚の風景』『魔笛』(74)、『鏡の中の女』(76)、『秋のソナタ』(78)、『ファニーとアレクサンデル』(82)、『ベルイマンの世界』(85)・・・こうして列記してみると、文字どおり毎年、傑作を発表している。まことに壮観である。 そのなかで『ファニーとアレクサンデル』は、私自身の映画史で5本の指にはいる作品だ。 これはもともとテレビ用に製作された全5時間の作品である。日本でも前編と後編にわけて、オリジナル版がそのまま放映された。したがって私はこのテレビ放映を見たわけだが、日本のテレビ界のひとつの快挙として讃辞をおしまない。 地方都市の俳優兼劇場主エクダール一家をめぐる、プロローグとエピローグを含めて全7部におよぶ、長大な物語。その家族、そして宗教について、幼い子供たちファニーとアレクサンデルの眼を通じて、呵責ない追究がなされる。 ベルイマン自身が述懐している。「牧師の家庭に生まれた私は、非常に早くから、生と死の舞台裏を眺めることを学んだ」と。そして彼にとって映画作品をつくることは、魂の奥深くに下ってゆくことであり、子供時代の内面世界まで下降してゆくことなのだ、と言っている。 ベルイマン作品に一貫して表われる宗教的関心や信仰に対する鋭い批評性は、彼の生まれ育った環境を抜きにして語ることはできまい。『ファニーとアレクサンデル』においても、宗教の偽善をあばく鉾先は痛ましいほど鋭い。この映画への私の讃辞は、ふたつのエピソードもしくはシークエンスに係っているのだが、ひとつは、ファニーとアレクサンデルの母親が牧師と再婚したことにより、母子の豊かな人間性が神の名のもとに迫害され、心身が無惨に病んでゆくエピソード。神の名の裏にあるサディスティックな獣性を、母親の美貌と若さある輝きが、しだいしだいに衰えて、やがて青ざめた幽鬼のごとくになってゆく過程に写し撮る。私はこのような鋭利な信仰批判を、少なくても映画作品で接したことはない。神の名が、人間の最も悪らつな精神と行為の隠れ蓑となることは、われわれの歴史が証明しているのだけれど・・・。 もうひとつは、一家のお爺さんが、ふたりの孫にお伽話を聞かせるシーン。なんと、このシーン、およそ15分間。お伽話を淡々ときかせるだけである。これが、じつにおもしろい。お伽話がおもしろいというより、映像の存在感に圧倒されるのだ。お爺さん俳優の演技は、何のケレンもない。だが、15分間、私は引き込まれるように聞きいってしまった。そして、呆然とした。俳優の真の力量に! 名演というのは沢山あるが、この15分間の持続する緊張感に、そして固定カメラでそれがもってしまうという映像の凄さに、凡百の名演などフッ飛んでしまったのである。 『ファニーとアレクサンデル』はこうして私の最も大切な映画となった。しかし、もう一度見たいと思っているのだが、もう25年もその機会がない。なにしろ5時間の大作だけに、じっくり見たうえで、あらためてこの作品について語ってみたい気がしている。 Ingmar Bergman(1918.7.14-2007.7.30)。 さようなら、ベルイマンさん。
Aug 1, 2007
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