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高等学校用歴史教科書における「沖縄戦において日本陸軍が住民に集団自決を強制した」という記述に対して、学術的に疑義ありとして、文部科学省教科書検定委員会はその記述を削除する旨を決定した問題について、昨日6月28日の新聞等のニュース報道によれば、沖縄県内の41市町村すべての議会が同日までに検定意見の撤回を求める意見書を可決したという。 私は個人の名において沖縄県民に賛意を表し、文部科学省と教科書検定委員会に対して「学術」の名を冠した、むしろ非学術的な恣意的な教科書検定のありかたに疑義を呈し、そのシステムの危険性を指摘する。 文部科学省と教科書検定委員会は常に国家主義的愛国者の恣意に動かされる体質を維持してきた。それは学問的教育管理システムではなく、幻想的国家主義教育システム、いいかえれば神経症的国民育成管理システムと言うべきものだ。自己の姿を直視できない、自己愛が肥大したいつ破裂するかもしれない風船のような国民的人格をつくりだすことにこそ力があった、と私は考えるのである。 世界が独立国家の厳密な集合であるかぎり、自国主義(ナショナリズム)は必要である。だが、自他を区別する認識とは、自らの姿をできるだけ正確に認識することと結局は同じなのだ。ナショナリズムの発揚のさまざまな様態については、精神病理学の成果を援用することは不可能ではない。自分のことは見えないけれど他人のことは比較的見えるというのなら、ドイツの戦後体制におけるナチズムの狂気の表白を考察すればよい。戦後ドイツは、ナチス政治体制が内包していた人類的犯罪体質を、国民の総意として世界に懺悔し、みずからの狂気から立ち直るための努力を徹底してきた。そして現在もなお努力している。そしてその努力が世界に評価されて、大きな発言力をもつ国家になっていることは誰知らぬものもあるまい。 ひるがえってわが日本はどうであろう。安倍晋三総理大臣は、「戦後レジウム(体制)からの脱却」などと唱いあげて、再軍備へ可能な体制を築こうとしている。 この人の思想がファシズムときわめて近親関係にあるのは、たとえば、「美しい日本」などという言挙げである。政治の実行から見た場合立法・司法・行政的に何も言っていないのだ。美しい日本などというのは1億総国民の心のなかにそれぞれ異なるイメージがある。立法・司法・行政的に何も言っていないということは、したがって安倍晋三の気まま勝手な思いのなかにあるイメージで立法・司法・行政が動く可能性が大きい。危険なのは彼の政治運営に反対するものは、「美しい日本」をつくることに反対すると糾弾され、国家に対する反逆にほかならない、という反対潰しがおこなわれやすい。安倍晋三の「美しい日本」という「政治的」言葉は、そのようなきわめてあいまいな言葉なのである。事実、今日の国会で野党が提出した安倍総理不信任案は、いま上に述べたとまったく同じ文言で否決されたのである!(このことは重大でありますぞ)。 あるいは、法案に「改正」とか「改革」という名称を付与するのも、同じ手口である。反対意見は、「事をただしく改めない輩」となるのである。 そういうふうに、人間の良心の虚をつくような言葉使いは、小泉・安倍に共通する政治技術である。しかし、これは人間の良心の虚をつくということで、つまり、イメージは異にするのに言葉としては大概の場合反対するに当らない心のありようを利用するのはファシズム政治の常道である。その言葉を使っている当の政治家は意識していない場合もあるが、そこに権力の秘密があり、いつしか社会はファシズムに流されはじめるのである。「こころ」とか「道徳」を政治の場に持出す人物は、政治家として要注意人物なのである。「こころ」とか「道徳」は、概して政治の議論にはそぐわないものであると、私たち国民は認識をそだてる必要があろう。 さて、「戦後レジウム(体制)からの脱却」と再軍備へ可能な体制への進み行きは、文部科学省と教科書検定委員会が国民教育の現場で強制しようとしていることと軌を一にするように私には見える。もちろん、即座に否定意見がでるであろう。だが、過去の教科書裁判をふくめて、教科書検定委員会のとってきた態度は学問的というより病的ナルシスティックな精神論に傾くものであったとは言えるであろう。 私が、教科書検定委員会が「沖縄戦において日本陸軍が住民に集団自決を強制した」という記述を削除するという決定について、精神病理学的な連想をするのは、文部科学省のおこないはかつての日本軍の行為の再現のようだからである。土壇場に追い詰められた自国民に対する想像力を欠く、日本政治のきわめて奥深いところにある「棄民」思想の発露である。 文部科学省はその傲慢体質のなかにあるjingoismを脱却し、理想主義的humanismの真摯さを制度化すべきである。悪臭芬々たる組織は日本の将来におおいなる損失をもたらすに間違いないのだ。
Jun 29, 2007
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先日買ったDVDの『透明人間』を観た。いやァおもしろかったです。 導入部がいい。真っ黒い防寒コートに身をつつみ、帽子をかぶった男が雪が霏霏(ひひ)と降る田舎道を行く。黒い眼鏡をかけた繃帯をぐるぐる巻きにした顔がちらりと見える。たどりついたのは小さな酒場兼旅籠〈ライオン・ヘッド亭〉・・・ 科学者助手が功名心にかられて秘かに研究していたのは、生き物を透明にしてしまう薬品の製造だった。自らを実験台にして、それは見事に成功した。が、元にもどる薬がまだ研究途上にあった。透明になってしまった助手は、研究室にいるわけにはゆかず、田舎の旅籠にこもって研究をつづけるつもりであった。 しかし、旅籠の女将にじゃまされて思うように研究がはかどらない。苛々はつのり、のみならず透明薬は心性を凶暴化する作用もあった。彼は宿の亭主を殴り倒したのを手始めに、やがて20人の警察官を殺害し、列車を転覆させて大量の乗客を殺害する。殺人鬼と化した科学者は、恐怖政治による世界征服の野望を抱く。 警察の抱囲網をかいくぐり、文字どおりの神出鬼没。 農家の納屋に隠れ、藁のなかにもぐりこんで眠っていると、やってきた農夫が寝息をたてる敷き藁にびっくり仰天。警察に駆け込む。そして・・・納屋に火が放たれれ・・・ 先日も少々述べたが、ジェイムズ・ホール監督のこの『透明人間』はホラー映画史のなかに新しいキャラクターを創りだすことに成功した。それだけではなく、恐怖のなかに思わぬ笑いをもたらすことにも成功した。それはかつての恐怖映画にはなかった新局面だったのである。 たとえば、納屋の異変におどろいた農夫が警察に駆け込んで言うセリフ。‘There's breathin' in me barn!’(ワシの納屋が息してるでやんす!) あるいは、夜道を農婦が悲鳴をあげて走ってくる。その後ろから顔も手足も見えないパジャマだけが大声で‘Here we come gathering nuts in May’(ぼくらは胡桃を拾いにここに来るのさ、5月だよ)と唄いながらスキップしながらついて来る。‘nuts’という言葉には「変わり者」という意味がある。そりゃそうだ、顔も手足も見えないパジャマだけの存在なんて、「変わり者」以外の何者でもない! それまで緊張してスクリーンに釘付けになっていた観客は、こういう場面で思わず笑い、ほっと息抜きしたのだろう。警察に銃撃された男は、恋人に見守られながら死んでゆく。命の火が消えてゆくにしたがって、透明な状態から次第に肉体が現われてくる。美しい男の静かな死顔。主演俳優クロード・レインの顔を、観客はエンド・マークが出る直前に知るのである。 この作品を透明人間ものの嚆矢(こうし)として、以後、近年まで透明人間映画は創られつづける。 もちろん日本でも製作されている。戦時中の昭和17年(1942)に山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』で特撮監督だった円谷英二の戦後復帰第一作として企画されたのが、大映作品『透明人間現わる』である。 『透明人間現わる』 昭和24年(1949) 大映作品 企画:奥田久司、監督:安達伸生、原案:高木彬光、脚本:安達伸生、特撮:円谷英二、撮影:石本秀雄、音楽:西梧郎、美術:中村能久、照明:岡本健一、編集:西田秀雄、出演:月形龍之介、杉山剛、喜多川千鶴、水の江滝子、夏川大二郎、羅門光三郎、上田吉二郎。 つづいて昭和29年(1954)に東宝がやはり特撮監督円谷英二で『透明人間』を製作した。私は初公開より2,3年後にこの映画を観ている。我が八総鉱山小学校の、土曜日に映画館になった講堂兼体育館においてである。 『透明人間』 昭和29年(1954) 東宝作品 製作:北猛夫、監督:小田基義、原案:別府啓、脚本:日高繁明、特撮:円谷英二、音楽:紙恭輔、出演:河津清三郎、三條美紀、土屋嘉男、村上冬樹、高田稔、近藤圭子、藤原釜足。 さらにもう一本、 『透明人間と蠅男』 昭和32年(1957) 大映作品 監督:村上三男、特撮:的場徹。 これはもう、ストーリーの細部はともかくアイデアはハリウッド映画の模倣といってよかろう。 日本の透明人間もの映画は、たぶんこの3本だけではなかろうか。いや、正確には、ポルノ映画としてかなりの数が製作されている。透明人間になってチョメチョメしたいというのは、男の願望なのであろう。日本のポルノ文学の系譜でいうと江戸時代の「豆男」に連なる、そのヴァリエイションと考えてもよいかもしれない。このあたりの考察は、いずれまた機会があればということにしよう。 故淀川長治氏がジェイムズ・ホール監督の『透明人間』を観て、繃帯がくるくると解かれてまるで提灯の内側をみるような具合になってゆく過程を、どうやって撮影したのだろうと不思議に思ったと言っている。金次第でCGで何でも可能になってしまう現代の映画作りと違い、映画人たちが鳩首を寄せて工夫していたのだ。それを想像すると、私は胸に熱いものがこみあげてくる。
Jun 27, 2007
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郵便物のなかに往復葉書が1枚まじっていた。中学生時代の私の卒業年度の同窓会開催の知らせ。卒業から50年目の知らせである。 たぶんその間に同窓会は何度か開催されてきたのであろう。が、私の所在が尋ねあてられなかったらしく、私はかつて一度も同窓会というものに出席したことはなかった。私は大学の法学部を卒業したものの在学中に美術家になることを決心し、いわば二足の草鞋の勉強をはじめた。何もかにも振り切ったような進み行きだったので、過去を振り返っている暇はなかった。今でこそこうしてブログ日記で自らの過去の思い出を書きもしているが、過去に拘泥する性格ではないし、楽天的に先の先の目標を広言して自分をのっぴきならない状態にして生きてゆくのが好きだ。したがって、自分の所在を卒業校に報告することもなく各地を転々としていたのだった。 それが4年前のこと、ひょんなことから中学時代の恩師と連絡がついた。「山田くんをずっと探していたんだ。中学生の頃はひょろひょろ痩せてあまり丈夫そうでもなかったから、ひょっとしたらもう死んだのかもしれないと思っていた」と電話で先生は言われた。今の自分が40年も50年も病気ひとつ知らない頑丈な身体なので、笑いながら長い長いご無沙汰をおわびした。その先生が卒業生名簿への私の名前の復活をしてくださったのである。 一昨年、私は60歳になった。還暦である。そして、還暦祝賀会をかねた同窓会を開催するので出欠を問う連絡が、2件あった。いずれも私は仕事のスケジュールを調整できず欠席してしまったが、連絡をくれた昔の級友に電話をいれた。48年間の空白を埋めることができるとは思わなかったけれど。 友人の口から、同級生数人の死を聞いた。ここ1,2年のうちにつぎつぎに亡くなったのらしかった。 私がどう言うべきかためらっていると、「60歳にもなれば、死ぬ者もでてくるさ」と友人は言った。私はその事実よりも、中学生の頃の彼がとてもそのような言葉をくちにする少年からは遠いイメージで記憶していたので、私は吐胸を突かれるように驚きながら、そこに彼のなかに積った60年の歳月を感じたのだった。私の眼前には今そこにいるかのように少年の彼等の姿がはっきりと記憶のなかから蘇り、活動していた。 私は過去を振り返って思い出すこともないのに、記憶はまったく色褪せることがなく、映画をみているように浮んでくるのである。そのような私の記憶力の特質については、すでに何度も語ってきた。他人の記憶がどのようであるかは分らないけれど、私の場合、何があったというような項目的な事実の記憶ではなく、その事実をとりまくパノラミックな光景として浮んでくる。服装や色彩や音や道端の草花まで・・・。何等特別なこともない日常の片言隻句まで・・・。 こういう記憶力というのは、じつのところ、なんとも哀しいものである。40年も50年も昔のことがそのように鮮やかであるのを、いったい誰と共有できるであろう! 人々の記憶からはみな忘れさられているのだ。ただ私の記憶のなかにだけ残っていたとして、それが何になる? 消えるものは消えたほうがよいのだ。 私は同窓会への出欠を問う葉書をながめながら、たぶん今回もまた仕事のスケジュールの調整がつかないだろうと思った。
Jun 26, 2007
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外出したついでにDVDショップをのぞくと、タイトルのみ知っていて未見の古典的ホラー映画の名作3本をみつけた。「ウヒョー!」と奇声を(気持のなかで)発して、すぐさま購入。 ★『狂へる悪魔』 ジョン・S・ロバートソン監督、クララ・S・ベレンジャー脚本、ジョン・バリモア、マーサー・マンスフィールド主演(1920年パラマウント映画) ★『透明人間』 ジェームズ・ホエール監督、R・C・シェリフ、フィリップ・ワイリー共同脚本、クロード・レインズ、グロリア・スチュアート、ウナ・オコナー主演(1933年) ★『幽霊と未亡人』 ジョセフ・L・マンキウィッツ監督、フィリップ・ダン脚本、ジーン・ティアニー、レックス・ハリソン、ジョージ・サンダース、ナタリー・ウッド主演(1947年) 『狂へる悪魔』は、ロバート・ルイス・スティーブンソン原作の小説『ジキル博士とハイド氏』(1885)の映画化。映画原題も‘DR. JEKYLL and MR. HYDE’である。 『ジキル博士とハイド氏』の映画化作品は、1908年のPolyscope Company; Selig's studio製作作品が一番最初らしい。『狂へる悪魔』がパラマウントで製作された1920年は、そのパラマウント・プロダクションのすぐそばで、メイヤー・プロダクションがジェス・L・ラスキー監督でルイス・B・メイヤーとルーイス・シェルドンのダブル・キャストでまったく同名の『ジキル博士とハイド氏』を製作した。ハンサムなジキル博士が邪悪なハイド氏にメタモルフォズする過程が映画的で、また初期映画製作者たちの工夫はその点にあった。今日現代のように、何でもディジタル処理ですましてしまうのとは大いに違う。 私の手元に1912年にThanhouser映画製作の『ジキル博士とハイド氏』の新聞広報が掲載された資料がある。参考までに原文のまま掲載してみよう。 「RELEASED TUESDAY, JANUARY 16th : This is the famous story of the physician who tasted of the drug that changed one from a good man to an evil one. A conscientious man who has devoted his life to the saving of human life, a swallow of the drug makes him a beast who would destroy all within his reach and another swallow restores him to his normal balance. But one day the drug-bottle breaks, while he is in the evil state, and he can't GET the OTHER swallow! The film tells the thrilling rest.」 「1月16日 火曜日 公開 : これは、善良な人間から邪悪な人間に変身する薬を実験した医者をめぐる有名な物語。人類の生命を救うために生涯をささげていた良心的な男、その薬を呑み込むと触れるものすべてを破壊しつくさずにはいられない野獣と化し、また別の薬を呑むと平常に回復するのだ。しかしある日、邪悪な状態のままその薬瓶が割れてしまう。彼は別の薬を呑むことができない! さあ、どうなる。そのスリル。」 ところでデニス・ギフォード著『絵入り恐怖映画史』によれば、『狂へる悪魔』に出演したジョン・バリモアは「ブロードウェイ王家の甘い王子」と言われていたが、当時38歳、しかしこの映画のなかでは18歳も若く見えると書いている。 さて、次の『透明人間』。 原題は‘THE INVISIVLE MAN’、H・G・ウェルズの科学小説の映画化。ほかにも『透明人間ふたたび』とか『透明人間の復讐』などが製作されていて、やはりとても映画的な感興を刺激される素材だったのだ。 ジェームズ・ホエール監督のDvD作品は、主演のクロード・レインズは繃帯で顔をぐるぐる巻きにして覆い隠し、黒いサングラスをかけている。繃帯を解くと透明で何も見えない存在なので、クロード・レインズはじっさいのところ声だけで観客に知られたようなものだ。上記の『絵入り恐怖映画史』は、1920年代初めにイギリス映画界では不運だったクロード・レインズは、この映画によって一夜にして世界的なスターになったと述べている。そしてまた、ホラー映画が新しいスターをつくりだす能力があることを再認識させたのだ、と。映画史のなかにドラキュラやフランケンシュタインと肩をならべるキャラクターがこの映画によって生まれ、定着したのである。 『幽霊と未亡人』は、ホラー映画とはいえないかも知れないが、まあ、カテゴリーなどはどうでもよろしかろう。この映画について私は映画史的な資料を何も持っていない。淀川長治・蓮實重彦・山田宏一共著『映画千夜一夜』の第9章「幽霊か悪魔か ― 恐怖の怪談映画ばなし」にタイトルのみ登場する。レックス・ハリソンが幽霊というのだから面白い。 以上、3本のDVDを購入したわけだが、いずれも未見作品なので、「お楽しみは、これから」である。
Jun 25, 2007
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音楽という芸術は、楽譜において一応完成しているのだけれど、演奏するとそれはまた別の評価がでてくる。優れて音楽的にもなれば、音楽を喪失してしまうことだって起らないわけではない。聞き手にとっては、たとえばクラシックなどは何度も何度も演奏に接して耳を肥やしてようやく演奏者の音学性を判別できるようになることも多かろうが、歌謡曲などは必ずしも高度な音楽的素養がない聞き手でも瞬時に善し悪しを判断できるものだ。 もってまわった言い方をしたけれど、歌謡曲の場合、歌い手が曲想を歌唱法としてどのように構成するかということは、重要な問題になってくるにちがいない。それは楽譜に表現されたことを超えることもあるかもしれない。また歌い手の資質によって同じ曲でも、まったくことなる肌触りにもなりうる。歌の深さとか大きさというのは、そういうことだろう。 美空ひばりの代表曲『リンゴ追分』は、彼女の歿後、他の歌手によって唄われることもあるが、まあ、私はいまだにどれも感心したことがない。芸の不思議はそういうときに考えさせられるのである。もっとも『リンゴ追分』に関しては、ただ一人だけつくづく感じ入った歌唱を聞かせてくれた人がいる。美空ひばり本人がまだ存命中のテレビ番組でのことであったが、その人とは勝新太郎である。30年くらいも昔のことだが、私の耳にはいまだにその歌が残っている。『リンゴ追分』のメロディー・ラインはそんなに難しくは無い。しかし、唄うとなると、これは難曲なのではあるまいか(私はアマチュアの芸事に関心がないので、私が言及するのはプロフェッショナルについてである。念のため)。 難曲と言えば、『ひばりの佐渡情話』(西沢爽作詞、船村徹作曲)は、美空ひばりの厖大な曲のなかでも屈指の難曲なのではないだろうか。同じ船村徹氏作曲の『哀愁波止場』(石本美由起作詞)と双璧かもしれないが。 『ひばりの佐渡情話』を美空ひばりはどのように唄っているかを分析してみると、興味深いことがわかる。 「佐渡の荒磯(ありそ)の岩かげに 咲くは鹿の子の百合の花 (略)・・・・」 このような唄い出しを、彼女は、野太いドスのきいたような声で、ぶつけるように、「佐渡~~~のー」と入る。その迫力は凄まじく、ただこれだけで聞き手のこころを鷲掴みにしてしまう。だがその歌唱法は聞き手の心を掴むだけではなく、荒磯に砕け散る日本海の怒濤の表現であり、さらに彼女が巧みなのは、つぎのフレーズ「咲くは」が高音のファルセット(裏声)、つづいて「鹿の子の百合の花」を柔らかく優しく唄うのである。第1小節とのみごとな対比で、荒磯の岩かげの可憐な百合を表現しているのだ。絵がまざまざと浮んでくるではないか! もちろん作曲家船村氏の音列がたくみに配置されているのではあるが、美空ひばりの研ぎすまされた音楽構成であることは、三番の歌詞をどのように唄っているかを検討してみると分る。 「佐渡は四十九里 荒海 ひとりしょんぼり離れ島 (略)・・・・」 一番と同じ「佐渡」という言葉で始まっている。けれども彼女は、この「佐渡」を、一番のように野太いドスのきいた唄い方でうたいはしない。どう言ったらよいだろう、たゆたうような、うねるような唄い方をする。場合によっては右手で波のようなフリをつけながら・・・ このとき表現は「四十九里」という距離感と次の「離れ島」を先取り表現しているのである。船村氏の楽譜上の表記は同じであるはずだから、これは明らかに美空ひばりの歌唱的創意なのである。 このような歌唱的工夫はプロフェッショナルな歌手なら誰もがやっていることではある。だが、美空ひばりの場合、みずからの表現を聞き手の側にたって批評する客観性がきわだって優れているように私には思える。あるいは言い方をかえて、歌のイメージの造形が絵空事に終わっていない、と言ってみようか。つまり、リアリティーがあるのである。 「こころで唄う」とは、凡百の歌手が口にすることだが、そう言ったからといって実現されるものでもない。また私は意地悪なことを言ってしまったが、芸というのは「言った者の勝ち」ではないから、じゃあ心で唄うとはどういうことで、どういうことが聞き手と歌手との間でおこるのか、それに答えられる歌手はなかなかいないのではないか。 私に言わせれば、それは聞き手がリアリティーを感じるかどうかということだ。 歌手の側からは、書かれた歌詞、書かれた文字をメロディーにのせて唄っているのではなく、文字は消えてしまっている状態。自分の身に添った、自らの人生を歌い上げること。つまり歌手自身のリアリティーこそが「心」なのだ。 美空ひばりが『悲しい酒』をうたいながら涙を流すことは、知らない者がいないほどである。元NHKアナウンサーの生方恵一氏が彼女と一緒に仕事をし、その涙が「美空ひばりの涙なのか、加藤和枝(本名)の涙なのか分らなかった」と言っている。何百回、何千回とうたい、そのつど同じところで涙を流すのだから、それは「芸」なのである。観客は彼女がいつ泣くだろうかと思い、泣くことを期待している。彼女はその期待に見事に応えてみせるのである。「芸」の涙とはいえ、人間の情動と生理作用との関係で、泣きながら正しい音程・かくあるべき歌唱表現を実現することはほとんど不可能にちかいので、美空ひばりはそこにも音楽的な統御という「芸」を見せるのである。そして、生方氏の鋭い観察にも「馬脚」をあらわさないほど、『悲しい酒』はリアリティーがあるのである。 美空ひばりの御子息加藤和也氏が以前どこかで語っていたが、彼女は自宅で手仕事をしながらも何度も何度もひとつのフレーズを口ずさんで練習するのだそうだ。そのような姿は和也氏以外はほとんど目撃した人もないのであろうが、私は美空ひばりがどのように歌唱を構成しているかを検証すればするほど、和也氏の証言に「さもあらん」と納得する。天才であることは間違いない。だが、天才と言ってしまえば何もわからなくなる。和也氏の話にとても嬉しいものを感じるのだ。
Jun 24, 2007
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明日6月24日は美空ひばりの18回目の命日である。存命であったならば今年は70歳のはず。ここ数年来、NHKTVは恒例のように命日がちかづくと美空ひばり特別番組を放映している。きょうもBS2で、午後8持から11時まで、『美空ひばり生誕70周年 珠玉の70曲』を放映した。私はたったひとりで先ほどまでその番組を見ていたのだった。 私がこのブログ日記で美空ひばりに言及するのは、もう何度目になるだろう。まず私の映画史の最初に彼女が登場する。昭和24年作の『悲しき口笛』と27年の『牛若丸』。この2本を26年から27年にかけてほぼ同時に見た。したがって美空ひばりの唄は、『悲しき口笛』が私の記憶に残る最初の曲である。映画を見ながらその歌を覚えてしまったのだった。 私が育った家庭環境は、歌謡曲(昔は流行歌と言った)とはほとんど無縁であった。NHKラジオの人気番組『三つの歌』などから流れてくるのを聞き流すくらいのもので、すくなくとも家のなかで歌謡曲が流れていることはなかった。私が歌謡曲を意識するようになったのは、高校三年くらい、いやその頃でもまだ聞き流す程度。たぶん20歳くらいで初めて、あまたの音楽分野のなかのひとつの楽曲として耳をかたむけるようになったのだった。 それでは私は、歌謡曲についてまったく無知であったかというと、自分でも不思議なことにどこかでちらりと聞いた曲を、歌えるほどにすぐに覚えてしまっていた。書かれた歌詞を見れば、メロディーはくちずさむことができた。昔、『平凡』という芸能雑誌があり、分厚い一冊の『流行歌集』が付録についていた。それをみせてもらったことがあるが、私はずいぶんたくさんの曲を知っていたのである。また、どういう関心からだったかは忘れてしまったけれど、大学生の頃に、歌謡曲の楽譜をノートに筆写したこともある。 どうやら私はみずからの日常的な娯楽のためというよりも、「芸」の本質についての探究がはじまっていたようなのだった。 そしてその私の網にかかったアーチストが美空ひばりと越路吹雪だった。私は20歳前後の若造だったが、この二人が他の大勢の芸能者からまったく特別な資質をもって屹立していることを感じたのである。共通しているのは日本語の明瞭な発音と、言葉に血肉を与える魔術的な芸の力である。この感想は、現在でも変わらない。歌がうまいと世間が認める歌手はたくさんいる。そして私もそれらの歌手の歌を楽しみはする。けれども、「芸」の力を論じながら、そこにとどまらない人間のきわめて高度なところでの可能性の「標本」を得ようとすれば、私にとっては美空ひばりと越路吹雪しかいないのである。 芸能者には名人といわれる人たちがいる。歌舞伎や能の世界で、伝説となって語られる名人は、しかし私に言わせると「捨てるものがない舞台成果の経歴」というのではなさそうだ。できなくて舞台を投げ出して、その気まぐれがかえって名人伝説を生んでいる、いわば真実は「裸の王様」ということもなくはない。ずいぶん意地悪で厳しい見方かもしれないが、しかたがない、それが私の目であり耳であり感覚なのだから。そういう意地悪な目でためつすがめつして、美空ひばりと越路吹雪には捨てるべき不出来な仕事が無い。 たとえば、美空ひばりは日本の音曲といわれるもの、端唄や都々逸、果ては浪曲までこなして、それは手慰みの領域ではないし、「下手なんどすけど、いっしょけんめいやらせてもらいますさかい、どうぞ堪忍どすえー」ってなもんじゃない。昔も今も観客を舐めた芸能者はひきもきらないのだが、彼女の場合、観客に対するそんな甘えは微塵も無い。天才と言ってしまえばそれまでだが、私としては表現の秘密を彼女の芸にさぐりたくなるのだ。 私は画家として、人の顔の表情や身体すべての肉体的表現に敏感である。電車に乗っていても、喫茶店でお茶をのんでいても、ほとんど無意識のうちに人の表情を観察している。そんな私が原節子の表情に感嘆するのは、彼女は対立する内的感情を同時に表現することができるからだ。これは近頃の「女優」とは名ばかりの無芸の女優たちのまったく及ばぬところ。 きょう、TVを見ながら、唄と唄とのあいだに挟み込まれた存命中のインタヴュー画像を見て思ったのだが、美空ひばりという人は唄うことが魂を純化したにちがいないと思ったのだ。表情筋に分裂がない。笑顔の陰につつみかくしているものがない。歌謡曲の女王といわれ、さまざまな駆け引きや妬み嫉みのなかで生きているはずなのだが、舞台からおりて、一個の人間に返った彼女はたぶん性格の柔和な、人格的に優れた人だったのではあるまいか。それが彼女の表情筋にあらわれている。ひとすじの乱れもないのだ。 優れた仕事は人格を陶冶する、というのが私の人間観察である。生まれたときから人格者という人がいるかどうかは知らないが、もしいるとするなら、人格者が必ずしも優れた仕事をしはしないだろう。逆は成立しないのだ。優れた仕事が人間の心性を純化し鍛えあげてゆくのだ。それは、人間とはまったく「社会的人間」の謂いにほかならないからだ。仕事は人とのまじわりの内にあり、人とのまじわりなくして人格は育たないのである。私は今日、まさに美空ひばりにそれを見たのである。彼女の至芸が彼女の魂を純化したのだということことを。
Jun 23, 2007
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門前に立つとクチナシの花の香がつよく漂う。それは隣家の庭の植栽なのだが、垣根越しに我家の庭の「借花」となっている。 俳句の「季寄せ」では、「クチナシの花」は6月の季語。しかし「クチナシ」となると、これは10月の季語となっている。10月のほうはクチナシの「実」に注目しているのだ。 クチナシの花は目にあざやかな白で、ハナミズキの白が消える頃に替わって咲き始める。 クチナシの花といえば、30数年前に流行した渡哲也氏の歌を思い出す。 「いまでは指輪も回るほど 痩せて窶れたお前の噂 くちなしの花の 花のかおりが 旅路の果てまでついてくる くちなしの白い花 お前のような花だった」(水木かおる作詞) この歌詞、なんとなく聞き流していると、クチナシの花のように淋し気な痩せて窶れたお前、とうたっているように思える。ところが実際にクチナシの花を見ると、花の白さはともかくもその強く甘く漂う香りをきけば、なんだか歌詞のイメージとちぐはぐな感じがする。そう思うのは私だけかもしれないが、私はヘンだなと思ったものだ。 そこでもういちど歌詞を読み直してみると、じつはクチナシの花は「お前」と呼ばれている女性の昔の姿であることに気がついた。つまりクチナシの花は幸福であった恋愛の象徴であり、女として花開いた恋人の姿を思い出している。そしてそれ以上に、その濃厚な香りから、男と女のセクシャルでエロティックなイメージがたちあらわれる。なるほど見事なものである。 そうそう、思い出した。ミステリー映画の傑作、ジョン・ヒューストンの監督デビュ-作『マルタの鷹』。私立探偵ページ(ハンフリー・ボガート)の事務所に得体のしれないキザな男(ペーター・ローレイ)が訪ねてくる。その名刺から、クチナシの香りが匂った・・・。 ところでクチナシは実際、生命力の強い植物かもしれない。今年の春先に、隣家の夫人が立ち話をしながら老母にクチナシの枝先を手折ってくれた。それはほんの5cmばかりの枝だったが、母は植木鉢に挿した。たぶん1週間目くらい経ったころだと思うが、私は母が隣家からその木をもらったことを知らず、使っていない鉢を洗浄しているときに小さな木を捨て去ろうとした。で、その枝を引き抜いたのである。ところが沢山の髭根がからみあいながら伸びていて、私は「おや?」と気にとめた。そして、何も知らないままその小さな木をもう少し大きな鉢に植え直したのだ。 後にそれが母が隣家からもらったクチナシであることを知ったのである。「もうすこしで捨ててしまうところだった」と、私は母に言った。 しかしふと、母の記憶になにかうっすら翳りが生じて来ているのではないかと不安になった。手折られてわずか1週間たらずで、もっさりという感じで髭根が生じるものだろうか? 母は記憶違いをしているのではあるまいか? が、私の不安をきっぱり否定し、「数日前にお隣の奥さんがくださった」と母は言った。「だとすると、すごいものだねー。もう、根がびっしり生えてきているよ」 その枝はいまや10cmほどに育った。いやそればかりではない。なんと3日前に花を咲かせたのである。 たった1輪ながら花径は4cmほど。りっぱにイッチョマエなのだ。 つくづく生命力の強いこと、と賛嘆しているのである。まさにエロティックに私の五感をとらえるのである。
Jun 21, 2007
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しばらく閉じこもりがちだったので、少し運動をしようと、昼食後に自転車をひきだして遠出をした。「暑いからやめたほうが・・・」という家人をふりきって、「だいじょうぶ、だいじょうぶ。途中で水分補給するから」と、しかしキャップを目深にかぶって出発。 気温は29度とか報じられていた。昨日は空気に湿り気が多く、仕事場の窓から遥かにのぞむ街がグレイに霞んでいた。しかし今日は意外に風もあり、街に滲みはない。 いつものコースを鼻歌まじりに走る。走りながら、ふと、描きかけの作品に思いがいき、コースを変更して画材店に向った。おおきなイヴの裸像を描いている。モデリング(絵具によって形や量感をつけること)はすでにできあがっているのだが、これを下絵としてあらたな画肌をつくってゆくつもりだ。が、その頭のなかにあるイメージをつくりだすためには、絵具操作の工夫が必要で、従来の私のパレットではうまくいかないだろう。その解決を筆を止めてずっと思案しているのである。 頭のなかで、これはどうだろう、と考えた絵具を画材店で買い求める。 画材店を出て、こんどは高幡不動尊・金剛寺に向った。紫陽花を見るつもりだ。 先日の日記で触れたが、この時期、同寺山内には150種7,000株ともいわれる紫陽花が咲き、7月8日まで「あじさい祭り」が開催されている。開催と言っても特別のイヴェントがあるのではなく、要するにこの期間が最も見頃というわけである。 櫻の頃は、はなやかなピンクに覆われる山が、青や白の手鞠模様になっている。 150種をここに網羅することはできないが、ちょっと名前を列記してみよう。 高幡の雫、大虹、みやび、秋篠手鞠、伊予手鞠、黒姫あじさい、笹の舞、富士の滝、しちだんか、えぞあじさい、富士の白雪、伊予小町、剣の舞、花笠、のりうつぎまいなづき、わしの葉あじさい、深山八重柴、まいこあじさい、伊予の五月雨、みやまやえむらさき、山紫陽花白鳥、伊予のほしくず、美方八重、八重咲きあまちゃ、白富士、伊予しぼり、桃花やまあじさい、虹、伊予のさかずき、やまあじさい・・・ 風が吹くたびに五重塔の軒下四方にさがる風鈴がシャラシャラと鳴っていた。私はこの音をはじめて聞いたのだった。
Jun 20, 2007
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お客様の釈迦楽さんへ。私が愛読しているヘミングウェイ短篇全集の書影を掲載します。
Jun 19, 2007
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「日本情動研究会」の講演会プログラムのデザインです。
Jun 19, 2007
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さくらんぼが美味しい季節。我家でもすでに何度か食後のデザートになっている。 きょう19日、太宰治の命日にちなんだ法要が、長らく太宰文学愛好家によって東京・三鷹市の禅林寺で修されてきた。桜桃忌と称している。太宰が亡くなったのは13日であるが、なぜか誕生日である19日が桜桃忌となった。 桜桃忌と命日との違いは太宰には何の責もあろうはずはない。しかし、どうせ心中自殺するなら決行日をもう1週間ほど延ばして誕生日と同日にすればよかろうに、と私は意地悪い感想をもっている。ナルシスティックで破滅型の文学者像など、いまでは廃れてしまったが、そういういいきなところが私は嫌いなのだ。三島由紀夫は太宰嫌いを公言してはばからなかった。が、じつは同じ穴のムジナといってもよいキャラクターである。 私が高校生時代に買った太宰治小説集にはたくさんの太宰の写真が収録されていた。そのなかの1葉、少年時代の写真の顔に、私は何か曰く言いがたいヘンなものを感じていた。何だったのだろう? その写真の太宰は頬笑んでいるのだが、・・・無邪気とは言い切れない、だが決して悪意はない・・・たぶん私は、その笑顔に彼の本質的なナルシズムを嗅ぎとったのだと思う。 三島由紀夫が具体的に指摘する小説上の批判は、たとえば『斜陽』のように、東京の上流社会を描こうとしているものの太宰はそんな社会を知らない、というもので、「あんな言葉使いはしない」と否定した。 つくりものの小説世界ということでは両者同じなのだが、太宰の場合は少女漫画になってしまった、と私は思ったものだ。高校時代以後、私は太宰治をただの一度も読み返してみたことがない。いま読んでも、たぶん読み続ける気力がおこらないのではないか。三島についても似たようなもので、彼の死後、私はやはり一度も読み返していない。少なくとも小説はほとんどの作品を所蔵し、読破していたにもかかわらず。 誰の考察か知らぬが、小説の読者というものは作者の年齢よりやや若いことが多い、と言われている。実状はどうか分らないが、たしかにそうかもしれないと思わぬでもない。行間に滲むものに作者の年齢がでる。私は若い人は好きだが、好きだからといって自分の人生に引き受けるほど共感しているのでもない。小説についてもまったく同じ、若い作者に人生を叩きのめされるほど新鮮な衝撃を受けることはない。ない、と言い切れはしないが、しかしその確信はヴァーチャルなものに自分が取り込まれることがないことと、ある面で共通しているのである。 年をとって感受性が鈍ったのか。そうかもしれない。年をとって自己確信がおおきくなったのか。そうかもしれない。 要するに、私は年をとるにしたがって、いよいよ世界の多層性が見えてきたとは言える。「おもしろい」と思うことが変化しているのである。 門前やおちこぼれたる櫻んぼ 三丘子
Jun 18, 2007
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日曜日、家人達は出かけてしまい、私は仕事。プレス・シートのデザイン。ただ黙々と。 ところで、我家の日用食器がきょうから夏用の物に変わった。アイスクリーム等のデザート食器や、冷や麦などを盛る器、冷茶々碗、サラダ・ボール等々のガラス器。ニューヨークでみつけた向日葵(ひまわり)の陶器の大皿。皿全体が半立体的な浮き彫りの向日葵になっている。これはグリーン・サラダやミモザ・サラダに活躍する。 近年、気が付くと食べる量が若いころの半分ほどになっていた。意識して食の内容を変えてきたものもある。分厚いビーフ・ステーキをペロリとたいらげるような肉食から、種々の野菜を添えて肉は1日に80グラムに制限し、さらに母は別メニューで肉はほとんどやめて魚料理にした。 朝食はしっかり摂っている。緑黄野菜とキノコのソテ、トマトかキウイフルーツ、林檎かバナナ、煮豆、梅干し、漬け物少々、こなごの佃煮、それにハムエッグ(ソーセージやベーコンの場合もある)、あるいは焼き鮭とか子持ちシシャモの目刺、そして御飯1杯。乳酸菌飲料。 昼食はトーストしたパン1枚に牛乳入りコーヒー。あるいは饂飩や蕎麦、今の時期なら冷やし中華や素麺、冷や麦、または冷たいバジリコ・スパゲッティー等々。きょうのように茹で玉蜀黍などということもある。 家族そろって食卓につくので、基本的にはすべて手作り料理である。それには理由があり、まず、減塩食であるということ。しかし、なにもかにもが減塩というのではなく、メニュー全体で調節しているので、薄味だから不味いというわけではない。不味いものは食べない、それも信条なのだ。第二の理由は、自分で作ると、何を使っているかが明確で、化学合成したものをすべてではないにしろかなり排除できる。いや、できるかもしれない、と思っているわけである。 私はことさらスポーツに精をだし時間を使っているわけではない。しかし、62年間、病気らしい病気をほとんどしたことがないのは、本来肉体が強壮なのかもしれないが食生活に負うているのではないかと思っている。とはいえ、ちっとも神経質ではない。食に頭を悩ますことなどない。ただただ動物的、野性的なほどにも自然体である。 この「自然体」というのがどのような性質のもであるかというと、・・・さきほど見るともなくテレビを見ていると、頭髪が薄くなる悩みをめぐる商品のコマーシャルをやっている。そのときふと気が付いたのだ。私は自分の頭髪がどうなっているかを、一度も気に掛けたことがないことを。外出するときくらいしか髭もあたらないし、鏡をのぞくこともないが、鏡をのぞいても頭髪のことなど気にもとめなかった。どうでも良かったのだけれど、そんなことを悩まないというのが私の言う「自然体」である。 要するに、お気楽な奴なのでしょう。ストレスがたまりにくい性格なのだ。私が病気をしたことがないのは、この楽天性ではないかとあらためて思うのである。 ざぶざぶと素麺さます小桶かな 鬼城
Jun 17, 2007
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土曜日、午後2時から5時半まで新宿京王プラザホテルにて、新作能『オンディーヌ』公演のための宣伝その他の打ち合わせ。今月末までに、私は、あらたにプレス・シート(報道メディア用の提供情報紙)をつくることにする。これは主として主催者である日本情動研究会の研究講演について情報を発信しようというもの。この学会は人間の情動について医学的・科学的見地に立って研究を重ねている。能公演に先立って、一般には非公開であるが、同じ国立能楽堂の講堂で学会員による研究発表会が開催されることになっているのである。 この能公演は〈能と息 息とこころ〉というサブ・タイトルが付いているが、脚本作者である本間生夫氏は昭和大学医学部第二生理学教室教授で、その研究主題である「能における、心を呼吸すること」が『オンディーヌ』の創作動機となっている。 医学的・科学的な事実がかならずしも「芸術」と反りが合うものではないが、そのかなり困難なマッチングをめざして演出・主演する梅若猶彦氏の情熱が萌え立っている。また、及ばずながら私が助力するのもその点にある。梅若氏と私とに何か共通点があるとしたら、ハードルが高ければ高いほど燃えるというところかもしれない。そのような事態において「ウーン!」と呻吟しながらも、ちっともマイナス・イメージが出てこないのだ。いや、このような精神はアーチストの特徴かもしれない。私はいままでマイナス・イメージにウジウジと拘泥しているアーチストに出会ったことがない。なんにも無い白紙の状態から何かを創造しようというのだから、マイナス面を数えあげていては駄目なのだ。あまり上等でない状況でさえプラスに変えて行く能力は、アーチストの重要な能力にちがいない。 まあ、そんなことは特に語らなくともよい。とにかく私は、2,3日のうちにプレス・シートをつくりあげなければならない。三つ四つ仕事をかかえているので忙しい忙しい。そういえば梅若氏も少々睡眠不足の顔をしていたなー。
Jun 16, 2007
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仕事場の窓一面に青空がひろがり、白い夏雲が群れ飛ぶ。きのう梅雨入りしたばかりだというのに、あれれと思うような本格的な夏の気配だ。 私は夏が好き。裸になって良く仕事にはげむ。「芸術の秋」と言う。たしかに秋には芸術的なイヴェントが多い。しかし秋になって製作しては間に合わない。若いころの習慣で、夏の盛りは私の仕事の盛りなのである。 季節によって筆捌きがことなる。つまり、気温によって溶き油の蒸散速度がかわってくるからだ。夏は蒸散が早い。粘度が強くなり、筆捌きが鈍る。オイルの配合を変えてしのいでいるが、細密描写はやりにくくなる。金箔や銀箔を使用する場合は、室内の気流が絶対的に禁物(箔はミクロン単位の薄さなので、空気が動いているとたちまち舞い上がってしまう)。窓も閉め切るので、汗だくの作業になる。・・・それでも、私は、もしかすると夏にいちばん仕事をしてきたかもしれない。草木の繁茂する勢いが、私のエネルギーと合体するような気がしないでもない。万物感応!・・・かな? 午後、自転車に乗って買い物に出た。通りすがりの女性たちのなかには紫外線除けの手袋をしている人もいた。 昔、ニューヨークに滞在していたある日曜日、船でマンハッタン島を一周しようと思い立ち、日盛りのなかを帽子もかぶらずに出かけた。ホテルに帰ってきたとき、私は真っ黒になっていた。リセプショニストが、「オー、ボーイ!」と声をあげた。 そんなことを思い出しながら、かぶっていたキャップを目深に直しながらペタルをこいだ。 わずか1時間ばかりの外出だったが、帰宅した時は下着は汗みずく。急いで脱ぎ捨てて、今年はじめての水シャワーを浴びた。
Jun 15, 2007
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東京も午後3時に梅雨にはいったと気象庁が発表した。近畿、東海と刻々と梅雨入りの報告がなされたようだが、ことしは空梅雨も予想されるようで気象庁は発表に慎重だったのではあるまいか。長雨ともなれば毎日が鬱陶しいが、降らなければ降らないで水不足を心配しなければならないし、農産物の作柄にも当然影響してくる。しかし雨にうたれる紫陽花の青はしっとりと美しい。 隣家との境にある柵のあいだから隣の紫陽花が我家の庭にのびてきて、これは白い手鞠のようだ。鉢植えのやや小振りの木なので、花数は少ない。それが本家にそっぽを向いて我家に顔をだしているのだ。隣家にはまことにお気の毒、我家では借景ならぬ借花でおもわぬ風情を楽しませてもらっている。 紫陽花といえば、我家からそう遠くない高幡不動尊は紫陽花の名所で、約150種、7,000株が境内山中を彩る。7月のはじめまでが見頃、その期間を「あじさい祭り」と称し、見物客がおおぜい訪れる。私も毎年、サイクリングがてら訪れている。山中に八十八カ所めぐりの道が拓かれており、自然の山肌に紫陽花が咲いている。人為的に移植された種類も多いのだが、いかにも自然のままの風情に自然林のなかに植えられているので、すでに長い年月のうちに良い具合に景観をつくっている。蛇の目の傘などをさして散策したくなる。いや、そんな女人の後ろ姿を思い描きたくなるのである。 つぎの日曜日にでも行ってみようか・・・ 草の戸の開きしままの梅雨かな 高浜虚子 山村の藁葺家であろうか。土間につづく板戸が開いていて、ほの暗い屋内から雨に青く煙る戸外が見える。・・・そんな光景が目にうかぶ歌である。私の古い記憶のなかにも思いあたらないでもない。遠い遠い日の記憶である。 紫陽花にけむる東都の梅雨かな 山田維史
Jun 14, 2007
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近所の大型古書店にヒッチコック映画のDVDが廉価で出ていると聞いて出かけた。 なるほど初期作品で私が所持していないものがある。『恐喝(ゆすり)』と『暗殺者の家』を購入した。 ついでに書棚を見てまわり、船越亮二『花木・庭木の整枝・剪定』と南條範夫『三世沢村田之助 --小よし聞書--』、そして遠藤誠『帝銀事件裁判の謎:GHQ秘密文書は語る』を買う。 ところで『帝銀事件裁判の謎』は、扉に遠藤誠氏の直筆署名があったので驚いた。ある機関の副事務局長だった某氏への献辞がそえられている。 遠藤誠氏(1930-2003)については、1900年代初めしばしばテレビ出演をしていたので御記憶の方も多いであろう。人権派弁護士として知られ、上記の書名にあるように帝銀事件の平沢貞通死刑囚の再審請求弁護団の団長だった。参議院法制局主事、千葉地裁判事補を経て弁護士になった。 平沢貞通は昭和62年(1987)に八王子医療刑務所において死亡した。享年95歳であった。帝銀事件については改めて述べるまでもあるまい。昭和23年1月26日に、東京豊島区南長崎の帝国銀行で防疫医療関係者を装った人物が、青酸カリを嚥下せしめて12人を殺害(16人のうち4人がかろうじて命をとりとめた)し、金品を強奪した事件である。同年8月21日、将来を有望視されていた一人のテンペラ画家が犯人として逮捕された。裁判は困難を極め、冤罪の疑いも出て来るなかで、昭和30年5月最高裁は上告を棄却して平沢貞通の死刑が確定した。 平沢は30年以上死刑を執行されないまま獄中にあり、その間、無実を訴えて再審請求をしてきたが裁判所は無回答のままであった。遠藤誠氏が帝銀事件の弁護士に選定されたのは昭和53年9月だという。そして第17次再審請求の最中の1987年に平沢は死亡。死後、「賠償請求権」を相続した養子武彦氏によって「死後再審請求」が継続された。遠藤弁護士は『帝銀事件裁判の謎:GHQ秘密文書は語る』を執筆当時の1990年、その「あとがき」によれば、犯行当時の平沢のアリバイを握っている人物に証人として出廷を承知してもらうことができた、と述べ、「この事件は、これからが面白くなるのである。1990年10月10日」と結んでいる。 しかし、この人権派弁護士も2003年に72歳で亡くなっている。 いま、私は、古書として入手した著書の扉にある署名の文字をつくづくと眺めている。日本の現代裁判史において、冤罪事件は少なくはない。ざっと思い出すだけでも、松川事件、八海事件、清水局事件、青梅事件、弘前事件、免田事件、財田川事件・・・等々。 私は画家であるけれども、法学部出身ということもあって、学生時代から冤罪のメカニズムについておおいに感心を抱き、それに関する書物にも目を通してきた。冤罪という重大な人権侵害が、国家権力のもとで如何にして起るのか。そしてなぜそれが改まらないのか。改まる機縁はあるのか。等々について、自分自身の問題として意識を明敏にするべく心掛けてきたのである。 国家の法意識がどのようなものであるかは、やはり国民一人々々が認識すべきことだと私は思うのだ。 折も折り、去る5月22日、新聞メディアとNHKニュースは、国連の拷問禁止委員会が日本に対し、「代用監獄の見直し」を勧告したと報じた。 「代用監獄」とは、警察の留置場のことである。被疑者を勾留した場合、本来は拘置所に収監しなければならないのだが、明治41年(1908)に定められた監獄法で、便宜的に警察の留置場を代用することが認められ、これを「代用監獄」といい、現在も継続しておこなわれている。 この制度がなぜ国連から勧告されるような問題をはらんでいるのかというと、被疑者が警察の留置場に勾留されているため警察の恣意的な取り調べや暴力行為がおこなわれやすく、冤罪の温床になっているからである。恣意的な取り調べというのは、たとえば深夜の取り調べや長時間の取り調べで睡眠を与えないとか、警察署内の柔道・剣道場に被疑者をひきずり出して暴行を加える、そのようなことが隠密裡におこなわれやすいのである。事実、八丈島事件、二俣事件、花巻事件等々において、警察は代用監獄を利用して被告人に対して暴行凌虐を加えた。 この「代用監獄制度」については、すでに何度か国際人権(自由権)規約委員会からも国際規約の9条と14条に違反していると勧告されており、1995年には国連拷問特別報告官が国連人権委員会に提出した報告書にも問題が指摘されているのである。しかし、なぜか日本の法務省は制度改正には向わず、今回の勧告に対しても、新聞によれば、勧告は残念だというようなコメントを出している。それはまるで、国際社会が認識する人権(自由権)をあざわらうかのような、余計なお節介だといわんばかりのニュアンスである、と私は思った。自分を利口者だと思っている、本質的にはバカな奴のその場しのぎの反応のようだ、と。 冤罪を生む構造は、法制度のなかにあるのみではなく、その法を維持する意識のなかにあるのであろう。 「誰が」「何のために」・・・・私は考えるのである。
Jun 13, 2007
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昼食後、仕事場に入る前に庭掃除と花柄摘みなどをしていると、縁の下からピンク色をした小さな見たこともない花がのぞいていることに気がついた。 やわらかい密毛をまとう細いひょろっとした華奢な茎に五裂の咢、細くて先がとがった桜草のようなピンクの五弁の筒状の花をつけている。1本の茎の上部にやや茶色をおびた袴状のものをつけ、そこから四本の花茎が出ている。そのうちの1本はさらに二股にわかれて花茎が出る。花をつけている茎には葉はまったくついていない。葉の茎は独立して根株から十数本がひょろひょろと出て、あるものは曲りながら意外に強く立ち上がり、あるものは地を這っている。茎の先端は三つのこぶ状に分かれ、そのひとつづつに丸みをおびたハート型の葉がテーブル状に開いてついている。(この葉は夜間にはつぼめた傘のように下に垂れる。その状態は固く、人為的に開こうとしても開くことができない。)1本の茎には、先端にこの三つ葉がついているだけである。 私は、かつて一度も見たことがない植物だった。数種の植物図鑑をひもといて調べているのだが、まだ同定できるものに行き当たっていない。【追記】 この植物は、「むらさきかたばみ」であろうと思われる。『牧野新日本植物圖鑑』(第27版)によると、「むらさきかたばみ」は葉の裏面に褐色の点があると書いてあるが、私の上記の植物にはその褐色の点がない。しかしそれ以外の記述は当てはまる。 和名:むらさきかたばみ(ききょうかたばみ) [かたばみ科] 学名:Oxalis Martiana Zucc. 南アメリカ原産の多年生草本。江戸時代(18世紀頃)に渡来し、旺盛な繁殖力で現在では各地に帰化している。なお、牧野の説明によれば、葉茎の間から花茎がのびはじめ、やがて葉茎の丈を抜くのだとある。
Jun 12, 2007
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私はコンピューターで制作した文章や画像のファイルをJIPとMOにコピーして保存している。現在製作中のもののバック・アップとしてもそれらのメディアを使用する。 ところで今日、過去のファイルを開いて、一部書き直しをしている最中に突然エラー表示が出た。いわく、「このディスクは壊れてしまったおそれがあります。最近のファイルが開くかどうか確認した後、アプリケーション・メニューからディスク修復を選択して修復してください」「ギョエー!!」ってなもんである。そのディスクには18のファイルを収めてあった。それが唯一の保存版だったので、破壊してしまったとなると・・・ ゾッとしてしまった。一呼吸して、まずこれから試みようとする操作のあれこれを頭に思い描いてみた。それからおもむろにモニター上のウィンドのなかから、ポジ・フィルムに撮影済みの作品の画像ファイルを開いてみた。しかしそれは途中まで開いただけで、完全な状態ではなかった。 「ウウーッ!」私はほとんど呻かんばかりになって、つぎに最も重要度の低い文章ファイルを開いてみた。 するとそれは完全に開くことができた。 「どうなってるんだ?」 私は意を決して、ディスクを取出すことにした。取出してから、再び挿入しなおしてウィンドを出した。18個のアイコンが並ぶ。・・・私はさきほどまで書き直していたファイルを開いてみた。なんと、まったく壊れていなかった。画像ファイルも完全に開くことができた。 なぜエラー表示が出たのか、原因はまったく分らなかったが、私はこのデータを新しいディスクにコピーすることにした。 一日の仕事が終わったら必ずバック・アップをとるようにと、若い人と共同作業をした折りには注意していたが、まさかそのように私自身がつくったバック・アップ・ファイルのディスクに異常が起るとは予想しなかった。今日の事故は、結果としては幸いなことに破壊にはいたらなかったが、しばらく私は考えこんでしまった。
Jun 11, 2007
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東京の西部地方は、午前中、激しい雷雨であった。我家の比較的近所に落雷したのかもしれない。耳許で、という感じで地響きをたてて轟音がとどろいた。猫達がおどろいて一斉に身を隠してしまった。後刻、気分がすぐれず臥せっている母を訪ねると、その蒲団のなかにリコがいるのだと言った。雷が鳴ったとたんに飛び込み、ずんずんもぐりこんで、母の足許ちかくにひそんでいるのだ、と。母は案外にそれが嬉しいのである。 我家では老人介護のために沢山の猫がいるようなものだ。人間は年をとると次第に我がままになり、家族間にジェネレーション・ギャップも頭をもたげてくる。他人同士のギクシャクとはまったく異なる、意外にタチの悪いズレが生じることも稀ではない。そうなると外界に行動がひらけている若い世代は良いが、老人はいやがうえにも孤独になってゆく。しかし家族間で問題なのは、四六時中接触しているため、壁を強固にしないと我の強い者に侵食されてしまうのだ。そのようなところに、猫や犬の存在がおのずと和みをもたらすのである。 亡父は、背が高く、体型は痩せすぎず太りすぎずだったが骨太な頑丈な人だった。それが70歳半ばを過ぎて前立腺癌が発見され、発見したときには脊椎をとりまくように全体にひろがっていて、手遅れの状態だった。我慢強く、痛いとか苦しいとかを一言ももらさないので、家族は誰も気がつかなかったのだった。前立腺といういわば陰部におこったことであったので、息子の私にも言えず、ひとりで始末をしていたのらしかった。 入退院をくりかえしていたが、体力的に手術もできず、大量の薬を飲みながら在宅治療していた。亡くなるまで5年間、病床の父が慰めを感じていたと思われるのは猫のマスクの存在だった。蒲団のなかにもぐりこみ父の胸に抱かれていた。マスクのイタズラが過ぎて私が叱りつけると、父は自分が叱られたような顔をしたものだ。たしかに父を叱りたいような気持をマスクにぶつけていたのかもしれない。老人二人の在宅介護は私たちを疲労させていた。末期癌のような場合の在宅治療に、介護保険による介助などまったく、ほんとうにまったく役に立たないのだった。我家では5年間、一度も他人の介助を依頼したことがなかった。なぜなら、このような病人の場合、介護は24時間必要だからであり、死までの数カ月間は夜中に20分ごとの世話をしなければならなかった。 しかし父は、その数カ月間にのみ、時に幻想と現実とが混乱することがあったけれども、いわゆるボケることがなくてすんだのは、猫達の存在がおおいにかかわっていたと私は思っている。彼等の無邪気さや無償の愛もさることながら、行動の敏捷さが、老人の脳を活性化していることは間違い無い。それは現在、母についても言えそうである。私たち家族にとって、老人ボケがないということはどれほど救われることか。 沢山の猫を飼うということは、じつは猫の世話だけでも大変なのだ。が、そのための労力や費用にかえられないものを彼等は家族の一員として立派にはたしているのである。 遠雷やいと安らかにある病婦 高浜虚子 雷鳴や頭も尻もかくす猫 山田維史
Jun 10, 2007
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ジョン・ウェイン主演の映画『オレゴン魂』をテレビで見たことを7日の日記で触れた。しかしその記事は映画字幕の誤字について述べただけで、映画そのものについては何も述べなかった。6日には『オレゴン魂』の前作ともいうべき『勇気ある追跡』を見、さらにその前日には『マクリントック』を見てパンに関する短いセリフについて私の考えを書いた。『オレゴン魂』にも、とても感心してしまったシーンがあったので、きょうはそのことをメモのつもりで書いておこう。映画『オレゴン魂』についての論評はあるであろうが、これから述べようとしていることについては、おそらく誰も書いてはいないのではあるまいか。キリスト教神学的に、またその図像学的見地から大変興味深いシーンである。 まず、あらすじを述べておこう。 ジョン・ウェインが演じる大酒飲みの片目の保安官ルースター・コグバーンは、犯罪者を射殺してしまうためにその時代遅れを糾弾されて解任されてしまう。しかし、以前コクバーンの犯罪者追跡案内人だったブリードという男が、よりによって悪漢ホーク一味に加わり、騎兵隊を皆殺しにして大量のニトログリセリンを盗むという事件が発生。判事はその逮捕を条件に再びコグバーンを連邦保安官に任命する。 さて、ホーク一味はニトログリセリンを金に替えるために馬車を駆って旅をつづけるが、途中で、先住民を教化している宣教師とその老嬢のいる教会の広場で休憩する。宣教師父娘は盗賊とは知らずに彼等を迎え、先住民たちを堕落させる銃や酒を売らないでほしいと言う。ホークは老嬢(キャサリン・ヘップバーン)の説教を拒絶し、彼女の足許にむけて銃を発射する。が、老嬢はまったく動じない。聖書のことばを引用しながら弁舌あざやかに説教しつづける。そのそばで案内人ブリードが鏡を覗きながら髯を剃っている。彼は鏡のなかからホークにむかって、「心が動揺したのじゃないか?」と言う。するとホークは銃で鏡を撃ち砕く・・・ さしあたりこのくらいにしておこう。 私がいささかの驚きをもって見たのは、この鏡を撃ち砕くシーンだ。 キリスト教神学において鏡が問題になるのは、『コリント人への第一の手紙』における聖パウロの次の章句である。要約してみよう。「私たちは、今、鏡に映し見るようにおぼろげに見ている。しかし神の国が到来したときには(パウロは「その時」と言っている)、顔と顔とを合わせて見るであろう。私が知っているのは、いまは一部しか見えていないということだ。しかし、その時が来たなら、私のすべてが知られているように、私はすべてを完全に知るであろう。」 神学的には鏡の象徴は「非実体性」ということで、きわめて重要になってくるのだが、いまここでそのことについて詳しく述べることはできない。ただひとつ言えるであろうことは、鏡に映った像が非実体のものであろうとも、心が真実に目覚めるための機縁であるということである。おぼろげな「暗い鏡」から「光」が開示されるのである。 そこで再び『オレゴン魂』の例のシーンに戻る。 老嬢のゆるぎない確信に満ちた説教によって、悪漢ホークの心は掻き乱される。その揺れを鏡のなかからズバリ指摘されるのである。彼は己の真実の顔におぼろげながら対面し、そしてそれを銃で撃ち砕く。・・・おそらくホークは、この映画のなかで、神に出会うことなく死ぬであろう。 この映画がおもしろいのは、こうしてキリスト教神学を持出して倫理観を立て、一方で、キリスト教神学によらずして人間性と倫理性とをさぐる道があるかもしれないということを、ジョン・ウェイン演じるコグバーンによって表現していることである。 ちなみに原題は『ROOSTER COGBURN』である。主人公の名前を題名にしているだけだ。したがって邦題の『オレゴン魂』はいわば「大和魂」的な命名なのだが、、じつは思想的・宗教哲学的な本質を掴んだ秀逸な命名だと私は思った。キャサリン・ヘップバーンがホークに向って説くことばは、西部劇映画のセリフとしては異質で、また執拗感さえある。キャサリン・ヘップバーンの堂々とした低く野太い声が、むずかしい役回りを見事に存在感をもって画面に定着している。彼女以外でこの役をこなせる女優はちょっと思いつかない。つまり、この役は、西部劇一般の男世界のちょっとした味付けとしての女性ではなく、思想的なバックボーンなのである。ジョン・ウェインとキャサリン・ヘップバーンの打々発止は、まるで息の合った漫才コンビのようだが、内実は思想的なバトルといってよい。キャサリン・ヘップバーンのくっきりした役作りがあってはじめて、ジョン・ウェインのルースター・コグバーンの「オレゴン魂」が浮かび上がってくるのだ。 聖パウロが民衆教化の政策としての教会設立を重要視していたことを、映画のなかでは宣教師父娘の教会的フロンティア・スピリットに具象化し、片や、アメリカの西部開拓時のフロンティア・スピリットをルースター・コグバーンに具象化しているのである。 その意味でも、『オレゴン魂』のなかの「鏡」は、「聖パオロの鏡」としてなかなか興味深い象徴表現、私にとっては嬉しき「おとな」の映像である。
Jun 9, 2007
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推理作家の折原一氏から展覧会の案内。氏の絵画コレクションの中心をなす幻想画家・石田黙(1923-84)の作品展である。6月25日-30日、東京・銀座の文藝春秋画廊ザ・セラー(地下室)において。 折原氏は、5年前にあるオークションにおいて、未知の画家・石田黙の小品をきわめて低額で落札した。折原氏はこの画家について調べはじめたが、資料は発見できず、謎だけが残った。とはいえ、注意しているとその作品は意外にしばしば中古美術品市場にあらわれた。そのたびに買い求め、するうちに氏は次第にその作品の魅力、・・・あるいは魔力ともいうべきものに囚われていった。 私は折原氏の石田黙コレクションが大小10点ばかりになった頃、氏の仕事場におじゃましてそれらの作品を見せてもらった。その頃は氏の探索力によって、この画家のおおよその素性は調べがついていたようだ。私自身にとっては、はじめて知る画家であった。・・・いや、そのつもりであったのだが、コレクションのなかの6号サイズほどの一作をみて、私はずっと以前、70年代の中頃に、美術雑誌『みづゑ』に掲載されていた画廊広告としてその作品を見ていることを思い出した。その広告には、石田黙とともに、私が対面したことがある画家の作品も並んでいたのだった。広告なのでわずか3,4cm程度のモノクロの写真だったが、私は一度目にとめた絵画作品を忘れはしない。画廊の名前も覚えていた。折原氏によれば、たしかにその画廊がかつて石田作品を取り扱っていたのだという。 折原氏はそのご間もなく石田黙の画集兼伝記的ミステリー小説という本を文藝春秋から上梓した。私もプレゼントされたが、いわばミステリーのまったく新しい手法を開拓した意欲的な作品である。 こうして折原一氏の石田黙作品への思い入れと愛は深くなるばかりで、氏は、この埋もれた幻想画家を自身の手でもういちど現代に蘇らせようと企てているようだった。今年の御年賀状で、コレクションを中心に作品展を開催する準備をしていると書いておられた。 それが今日とどいた案内である。 文藝春秋画廊:東京都中央区銀座5-5-12;TEL(会期中のみ)03-3571-3473
Jun 9, 2007
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何やらスケジュールが重なってしまい慌ただしかった。 今日は、母の88歳つまり米寿の誕生日なのである。で、ささやかな祝いの夕食会を予定していた。しかしその前にまず午前中、家人が母を定期検診のため病院に連れてゆく。その間、およそ4時間、私は製作の仕事をすませる。 じつは午後6時から、私は梅若猶彦氏が制作した映像作品の上映会の案内を頂戴していたのだが、結局、こちらは失礼して欠席。内祝いとはいえ、母の米寿の夕食会を選択した。 夕食の最中、母は一日の疲れがでてきたのか、気分が悪くなって床に就いてしまった。まあ、老人を中心にすえた催しでは、こういうことはしょっちゅうなのだ。あわてず騒がず、たんたんと事を運ぶにかぎる。 週末は雨の予報だ。遠雷がきこえている。私は仕事場に入って、午前中に途中までやった純金箔を貼った部分を点検し、次の作業に取りかかった。
Jun 8, 2007
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私自身もワード・プロセッサー(私はワープロという奇怪な略語が嫌いだ)で文章を綴っていると、タイピングの間違いをしょっちゅうやらかす。あるいは変換間違いもだ。だから文字の間違いについて大きなことは言えない。しかし、弁解がましいが、それは私的な文章でのこと。新聞やテレビのような「公器」となると、辛口を飛ばしたくもなる。というのも、入力オペレーターの間違いを、普通なら校閲者が正すはずと当方は思っているからで、間違いがこれら二人をすり抜けて読者や視聴者の目にさらされているとなれば、事は単なるミス・タイピングというより、職業的怠慢とみなせるからだ。 じつは、NHK・BS2でジョン・ウェインとキャサリン・ヘップバーン主演の映画『オレゴン魂』を観た。これは昨夜放映された『勇気ある追跡』の続編ともいえる作品で、『勇気ある追跡』でジョン・ウェインは1969年度アカデミー主演男優賞を受賞している。『オレゴン魂』に出演しているキャサリン・ヘップバーンは、私が大好きな女優のひとり。 というわけで、作品製作を放り出してテレビの前に陣取っていたのだ。すると字幕に間違いが出てきましたがな。「お祖末」とネ。 これは「お粗末」でしょう! よりにもよって、間違ったことばが「オソマツ」とは、なんともお粗末。笑う気にもならない。 テレビで放映する映画の字幕の間違いは、いったいどこの責任なんだろう? 既成のDVDを放映しているのだとしたら、そのDVD製作会社だろうなー。もしフィルムでの上映権をNHKが買い、字幕を製作したのだとしたら、これはもちろんNHKの責任だ。どっちなのだろう・・・ 映画の字幕の誤字は、『オレゴン魂』に限ったことではない。多いというほどではないにしろ、なくはないのだ。たとえば某映画評論家が監修した名作シリーズのDVDにも間違いがある。この場合は、監修者の責任だろう。 これがテレビ番組のフリップだと、指摘するのさえイヤになってしまうほど頻出する。民放の女性キャスターの言葉の無知にもあきれてしまう。放送局の教育がなっていないというのも当らない。なぜなら、言葉の教養は、どうしようもないほど個人の問題だからである。民放さんよ、社員を顔の美醜で採用してはマズイんじゃないの? 相当教養の程度が低くなっていますよ。 ・・・と指摘してみると、言葉の間違いや誤字脱字は、ワード・プロセッサーのミス・タイピングばかりではないかもしれない。そして、大出版社や新聞社には必ずいた伝説的な慧眼の校閲者も、いまは昔のお話なのかもしれない。 いやいや、他人事ではないぞなもし。
Jun 7, 2007
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昨夜、作品の指触乾燥を待ちながらNHK・BS2でジョン・ウェイン主演の映画『マクリントック』を観た。アンドリュー・V・マクラグレン監督の1963年作のデジタル・リマスター版である。ここ3日間、BS2はジョン・ウェイン主演作品を集中的に放映している。 『マクリントック』は、ジョン・ウェインが演じるジョージ・ワシントン・マクリントックという名の大牧場主の物語。大統領ジョージ・ワシントンとは何のかかわりもない。 かつては先住民と戦闘を交えたものの、いまは居丈高な政府から彼等を保護して活躍するマクリントック。彼の唯一の弱点が、愛する気の強い妻キャサリンである。キャサリンは西部男の粗野が耐えられない。家庭を放り出して都会にでかけ、ヨーロッパの最新流行のドレスに着飾って「教養高い紳士」にとりまかれている。彼女は昔なじみからケティーという愛称で呼ばれることさえ嫌い、なんどもなんども「キャサリン」と訂正するのである(このシークエンスはシェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』の引用)。 そんな妻が大学を卒業した愛嬢を、ひきつづきニューヨークや首都ワシントンで育てるべく、夫マクリントックに離婚を要求するために牧場に帰ってくる。映画はここから始まるのだが、この作品、いわゆるドタバタ喜劇の味付けと云ってよいだろう。石灰の泥沼で大勢が組んずほぐれつの格闘シーンがえんえんとつづいたりする。 西部男の粗野のかげにあるデリカシーを引出していて、なるほどと思いつつ、ジョン・ウェインが意外にも手当たり次第に映画出演していたような感じもいだかせられた。 ところで、そんな作品をあらためてここに述べたのは、「あっ!」と思ったセリフにひとこと注意を喚起したかったためだ。 父親に死なれ、学資を断たれて大学を中退して職を求める青年を、マクリントックは、料理の上手なその母親ともども屋敷の下働きとして雇った。キャサリンは家に帰って来た夜、料理女と知らずに家に女がいることに、キッとなって身構える。が、すぐに料理女だということを納得する。二階の寝室にひきあげるキャサリンは、階段の中途で振り返り、料理女に言う。 「パンはトーストにしてちょうだい。バターはぬらないで」 私は先日、5月30日の日記で、最近の日本のパンが歯切れの悪さを「モチモチ感」と称して流行していることに、軽いイチャモンをつけた。トーストしたときの「サクサク感」こそ、本来的なパンの食感ではないか、と。そして、トーストはイギリスの習慣らしいと述べた後、私はつぎのように書いた。 〈イギリス人は、トーストしたパンのラスクのような「サクサク」した食感を好むのだという。ラスクのようなというのが肝心である。もしイギリスに行き由緒あるホテルで食事をされたら、間違い無くこのラスクのようなトーストが食べられるはずだ。バタを塗るもよし、しかし、食通を自負するなら何もつけないでまさにラスクのように食べるのがよろしかろう。〉 キャサリンのセリフは、彼女のヨーロッパ志向をあらわしているのではあるまいか? 私が「アッ!」と思ったところである。この2つのセンテンスは、単にキャサリンの個人的な嗜好を表明するためにここに置かれたのではあるまい。 この映画には、ドラマを構成するための思想的な対立がいくつかある。この対立がダイナミズムとなってドラマを進行してゆく。対立しているのは決して個人の嗜好に帰すべきことではない。したがって単なるキャサリンの個人的嗜好のみをきわだたせる必要はなく、役のキャラクターとしての個人的嗜好はすべからく背後に対立思想の一方の具体的表現という役目が負わされている。 キャサリンのトーストしたパンへの嗜好は、ニューヨークやワシントンという東部の都会文化、ということはイギリスやフランスの文化的先進国の嗜好に影響されているとみなさなければならないだろう。そのような東部のありかたは、町の「なんでも屋」で婦人たちがドレスの生地について店主の誤りを正すシーンにもあらわれている。マクリントックが料理女を雇った経緯もパンに関係している。たまたま食べた小型ロールパンが彼の口にあった。それを焼いたのが料理人となる女だった。 ちなみにアメリカではパンはロールとブレッドとに区別して言われる。ロールというのは半ポンド以下の小型パン。それ以上の大型パンがブレッドである。ロールはスイートロールとバターロールにわけられ、食卓でバターを塗る手間をはぶくために、塩味のパン生地にあらかじめバターを練りこんである。ブレッドは枕状のワンローフと、角形の焼き型でつくったブルマンにわかれる。ブルマンはイギリスからの伝承である。 開拓時代のアメリカのなかの二つのパン文化を、この映画ではひとつの家庭のなかでの二人のやや対抗的な女に具象化しているのだ。ドタバタ喜劇風な作品ながら細部を考察するとなかなかおもしろい。 「パンはトーストにしてちょうだい。バターはぬらないで」 『マクリントック』をご覧になった方は、このセリフをどのように受け取られただろう。 あらためて言うまでもないが、このパンは決して「モチモチ」した歯切れの悪いパンではない。ラスクのような「サクサク」したパンであります。
Jun 6, 2007
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家人たちはみな揃って外出。私はひとりで仕事。猫たちは淋しくてどこかにもぐりこんでしまい、リコとフクだけがときどき仕事場をのぞいている。彼等は家人たちの動静に敏感で、外出の準備をはじめると、一緒に連れてゆけとまといつく。しかしその願いが叶わぬとさとり、外敵から身をかくすようにどこかにもぐりこんでしまうのである。 製作にとりかかってしまうと、私の行動はいかにも単調だ。外出もしないし、仕事関係以外の電話はしないし、かかってくる電話にも出ない。その点、電子メールはこちらの時間にあわせて読めばよいので、製作に集中できる。 さて仕事は、昨日やった部分が乾燥したので次ぎの段階に進む。午後3時までにその部分を終了。手触乾燥をまつ。手触乾燥というのは、油絵の具が完全に乾燥してはいないけれども、表面を手で触れて絵具がくっつかない程度の乾燥のことである。それに要する時間は一様ではないが、用いた色と媒介油によっては10時間程度で乾燥する。・・・午後3時に終了した部分は夜11時過ぎに手触乾燥した。で、さきほど再びつづきの作業をしたところである。あしたからは次第にやっかいな部分にはいってゆく。しかしそれと同時に気持も乗ってくるわけで、仕事が楽しくなってゆくのである。
Jun 5, 2007
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ガーデニングの後は仕事場に入り、先日から始まった新作(117cm×91cm)にとりかかる。 きょうの作業は時間を要しない。乾燥をまたなければ続行できないのだ。筆を走らせるというより、工芸的な手順を踏まなければならない部分なのである。基礎的な部分を、じっくり丁寧に組み立ててゆく。
Jun 4, 2007
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日曜日は外出していたので日記は書かずじまい。 きょうは昼前にガーデニング。 ★ ビオラを株分けして別の大きな鉢に移植。この花は同じ種類でも個性があるのか、御近所の家のものは真直ぐ立っているのに、我家のものは枝垂れるように咲いている。植え付けが浅いせいかと思い、このたびは丈のある鉢にやや深めに植えてみた。 ★ 芝桜も移植。寄せ植えにしていたのだが、独立させておおきな鉢にした。花期はもう終わっている。 ★ チョコレート・コスモスの消毒。この花の名前の由来は、チョコレートに似た香りがするところから命名されたという。鼻を近付けると、そんな気がしないでもない甘い香りがする。ダニが好み、うどんこ病も発生しやすいので、夏の消毒が欠かせない。我家のチョコレート・コスモスはここ2ヵ月ばかりの間に、つぎつぎと新しい莟をつけては咲きつづけている。 ★ 蔓薔薇の花柄摘み。四季咲なので、こまめに花柄を摘んでおくと11月ころまでつぎつぎに咲きつづける。花の下の五枚葉の上で五枚葉の出ている方向に斜に枝を切るのがコツ。消毒もする。 ★ その他の花、ペチュニアやマリーゴールド等々の花柄も摘み取る。花がしおれかけたらこまめに摘むと、良く花を咲かせる。 ★ シャコバサボテンが葉の先端に赤い新しい芽をたくさん出している。この植物は3年も経つと鉢の土を取り替えたほうがよいという。そのおしえに従って4月末に土替えをした。すると数日後には葉が活き活きとなり、植物の勢いがちがってきた。肥えてもいる。新芽が出始めたのは1週間前である。 作業をしている側で、猫たちがじっと見ていた。みんなで(つまりわれわれ人間とともに)日当りの良い場所で遊ぶのが大好きなのだ。すべての花に10日毎の液肥をあたえるために、計量している私の手元をフクがのぞきこむ。「見ていて、見ていて」と私は言いながら、如露の頭をはずしてつぎつぎに根元に注いでゆく。
Jun 4, 2007
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俳優の石立鉄男氏が昨日急逝されたという。70年代のテレビ・ドラマ『奥さまは18歳』とか『パパと呼ばないで』で人気を博した。 私が一番最初に石立氏の出演作品を観たのは1965年の日活映画『城取り』においてである。司馬遼太郎の小説『城を取る話』を舛田利雄が監督した。石原プロの製作で、主演は石原裕次郎。石立鉄男氏は〈木樵彦十〉という役だった。 私はこの映画の撮影台本を所持している。どういう経緯であったか忘れてしまったが、なんでも私は石原プロダクションに「撮影用台本をプレゼントしてほしい」という意味の葉書を書いた。すると数日後に『城取り』の台本が送られてきた。1965年といえば私は20歳で、大学2年生である。完成した映画を観ながら、台本がどのように撮影されているかを研究した。 それから2年後の1967年、石立鉄男氏は三島由紀夫原作の映画『愛の渇き』に出演している。石立氏は当時、劇団文学座に所属していたので、文学座の座付き作者だった三島作品に出演することになったのであろう。〈三郎〉という特異な役であった。 私は見ていないのだけれど、文学座アトリエ公演の三島の一幕物にも出演していたのではなかったか。文学座若手の注目株だったのかもしれない。 しかしやがて氏が演じるキャラクターは先に述べたテレビ・ドラマにひきづられたのか、それともみずからそのような「線」でゆくことを決意したのか、アフロ・ヘアのコミカルな役が多くなったように思う。そのため、私の関心は薄れてしまった。70年代後半から亡くなるまでの活躍を私はまったく知らない。 昨日、訃報に接し、パッと思いだした光景がある。明確な年月は覚えていないが、『パパと呼ばないで』の後か、その最中のことではなかったか・・・ 私は30歳前後だったが、友人たちと徒党を組んで深夜の街を徘徊していたころだ。その日も何かの会合の流れで六本木界隈を徘徊し、深夜におよんだ。終電車もおわり、六本木からタクシーを飛ばすつもりもなく、4,5人のいつもの仲間とうだうだ歩いていた。たしか俳優座の裏手、防衛庁の近くだったと覚えている。とあるビルにごくごく何気ないたたずまいのナイトクラブをみつけ、そのドアを押してくりこんだ。入ったとたんに、事情通の友人が「ここはまずい」と言った。われわれが飲めるようなところではない、と。 店内は40畳ほどか。おちついたブル-・グレーの厚いフェルトのような布を張り巡らし、中央をダンス・フロアのように広く取り、周囲にわずかばかりの上等な革張りのソファとテーブル。グランド.ピアノも置いてある。なるほど高級クラブであることは、そのインテリア・デザインとゆったりしたテーブルの配置でわかった。 「一杯だけにして、すぐに出よう」と、例の友人が言った。私たちはピアノの側の席についた。 見回しても客はほかにたった一人だけだった。その男はしたたかに酔っていた。ふらふらと立ち上がったその姿は、すらりと背が高かった。それが石立鉄男氏だった。 人気者の俳優がたった一人で、しかも尋常ではない酔いかたをしているので、私はなんだか見てはいけないものを見たような気持になった。立ち上がった石立氏はよろめきながら店を出て行った。 私たちもそうとう飲んでいたが、それ以上に財布の中身のほうが心配で、運ばれてきた酒をそそくさと喉に流し込んだ。そしてまるで石立氏のあとを追うように立ち上がった。 友人の見立ては正しかった。水割り一杯の値段が目の玉がとびでるほどだった。よくもそんな金が私の財布にあったものだ。「危なかった危なかった」私たちは店を出てから顔を見合わせた。数十メートル先に、千鳥足で行く石立氏の後ろ姿があった。 私たちは石立氏とは反対方向へ歩きだした。途中で連れ込み旅館があったので、友人が泊りの交渉に行ったが、「男4人だというと、ことわられた」と戻って来た。私たちは腹をかかえて笑った。それから檜町公園に向い、そこのベンチで夜を明かした。 若いころのしょうもない遊びの1ページに、ちらりと石立鉄男氏が「出演」していたことを不意に思い出したのだ。その、なんとなく寂し気だった後ろ姿を、私は忘れていなかった。
Jun 2, 2007
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月日があっという間に過ぎ去って行く。きょうは6月1日。1年の前半、最後の月がはじまった。「光陰矢のごとし」というが、どうやらそのスピードは年齢を重ねるに比例して加速してゆく。死のブラック・ホールへものすごい速度で吸引されているのだと、そんなイメージが浮ぶ。そしてそれは、まさにその通りなのであろう。 ところでこのブログの管理画面によると、「山田維史の遊卵画廊」を開設して、きょう6月1日がちょうど700日なのだそうだ。毎日書いてきたのではないが、わりと几帳面に日記をつづってきた。バックアップ・ファイルを開き、B5判でプリント・アウトした場合のページ数をしらべたところ、1204ページであった。これは写真画像を除いて文章だけをピック・アップした数字である。なかなかのものだと我ながら感心した。書いてみたい論文の主題があるのだが、ちっとも手をつけていない。それを横目にみると、「しまった!」という感じが心のどこかにないとは言えない。「光陰矢のごとし」の次に、「学成りがたし」という句がつづく。 まったくだ! たまたま家にいた弟が、上に述べた事情を知らずに、「インターネットで日記風なものを書いているようだけど、時間は大丈夫なの?」と言った。そんなことをしているより、絵を制作しなければならないのではないか、という意味あいである。私は画家として多作ではない。ピカソによれば1万点以上描かなければ現代の画家とはいえないそうだ。私は今からではとても間に合わない。死が迫っているのに、うまく人生が締めくくれないのではないのか、と弟は心配しているのである。 まったくだ! とは思ったが、あまりにも的を射た批評だったので、「大丈夫、大丈夫。ブログはちょいちょいと書いているのだから」と私はこたえておいた。 さて、701日目からいつまでつづけることができるやら。
Jun 1, 2007
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