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中国を代表する文豪・魯迅=1881~1936は、内山完造=1885~1959が上海で開いた内山書店と交流があったそうです。 ”魯迅の愛した内山書店”(2014年2月 かもがわ出版刊 本庄 豊著)を読みました。 上海にあった内山書店店主の完造と妻の美喜の視点で、当時の国際連帯の物語を描いています。 本書は、週刊”京都民報”に掲載されていたものに、加筆・修正を加えたものです。 完造の妻・美喜=1893~1945の甥の宇治市小倉町在住の井上浩さん宅に残された手紙や写真をもとに、史料発掘に乗り出して、成果を1冊にまとめました。 副題に”上海雁ヶ音茶館をめぐる国際連帯の物語”とあります。 雁ヶ音は内山書店で客に出していたお茶の銘柄のことで、妻の美喜の実家は宇治で、そこで仕入れたお茶をサロンで振舞っていました。 本庄 豊さんは1954年群馬県安中市生まれ、前橋高等学校、東京都立大学卒、現在立命館宇治中学校・高等学校教諭、立命館大学兼任講師を務めています。 京都歴史教育者協議会副会長で、専門研究は近代日本社会運動史、平和教育学です。 魯迅と、内山完造が上海で開いた内山書店との交流を軸に、宇治、とりわけ内山夫妻とゆかりのある小倉の”山政”小山園の往時が描かれています。 魯迅は本名を周樹人といい、浙江省紹興市出身で、牛込の日本語学校・弘文学院で日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校に留学しました。 内山書店は1917年から1947年まで上海にあり、日中の文化人・作家の交流の場になりました。 魯迅は、中国の圧政に抗しつつ、同じく日本の圧政と闘う小林多喜二や尾崎秀美ら多くの日本人と交流し、連帯を深めました。 その拠点となったのが、1917年に上海に誕生した内山書店でした。 魯迅はここで日本語の書籍を1000種類以上購入し、バーナード・ショーやアグネス・スメドレー等と交流したといいます。 内山完造は1885年に岡山県後月郡芳井村、現・井原市で生れ、1897年に秋郷里の高等小学校を退学し、大阪の丁稚奉公に出で、以後27歳まで商家の店員として働き社会の辛酸を体験しました。 1913年に京都教会牧師牧野虎次の紹介で大学目薬の海外出張員となり、上海へ渡航して中国生活の第一歩を開始しました。 1916年に井上美喜と結婚し、上海呉淞路義豊里に間借りの新居を構えましたが、すぐに北四川路魏盛里に移転しました。 1917年に魏盛里の自宅玄関先を利用して、妻美喜が小さな本屋を開きました。 上海内山書店の誕生でした。 1924年に向かい側の空家も購入し、本格的な書店となりました。 この頃から、内山書店は在上海・日中文化人のサロンとなり、やがて文芸漫談会が生まれ、機関誌”万華鏡”が発行されました。 中国人メンバーは、田漢、欧陽予倩、鄭伯奇らで、のち郭沫若、郁達夫らも参加しました。 1927年に円本ブームにより、内山書店は急速に発展しました。 10月に広東を脱出して上海に移った魯迅と会い、以後両者の聞には深い親交が結ばれました。 翌年2月、日本へ亡命する郭沫若を援助しました。 1929年に内山書店は北四川路底に進出し、四馬路に支店を開きました。 翌年、大学目薬の仕事をやめました。 1931年1月に左連作家虐殺事件が生じ、危険の迫った魯迅を庇護しました。 3月に来遊した増田渉を魯迅に紹介しました。 内山完造の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、谷崎潤一郎、岩波茂雄ら多数にのぼります。 日中関係のもっとも険悪・困難な時期に、上海を訪れる日本人の案内役をし、日本の作家たちと中国文学者との交流の場を提供しました。 1936年に魯迅が逝去すると、”魯迅文学賞”を発起し、”魯迅全集”の編集顧問にも選ばれました。 1945年に戦争が終わり日本に帰国しましたが、その後も日中友好に尽力し、日中友好協会の創立メンバーの一人になっています。 その後、1947年に古本屋を開業し、1950年に日中友好協会理事長となり、1959年に病気療養のため中国にわたり、北京で脳溢血のため死去しました。 今、東京・神田にある内山書店は、弟の内山嘉吉が1935年に開いたものだそうです。 1981年9月に、上海市民は内山書店の跡地に記念碑を建てました。 その碑には”この店は日本の友好人士 内山完造が設立した店である。魯迅先生はいつもこの店で本を買い、客と会い、更にはここに避難したこともある。これを特に石に刻み、記念とする”と、刻まれています。序章 多喜二虐殺1章 結ばれるまで2章 北四川路魏盛里内山書店3章 谷崎潤一郎と中国青年たち4章 周樹人先生登場5章 魯迅と日本文化人たち6章 革命の上海で7章 魯迅臨終8章 再び日本へ、そしてまた上海へ終章 内山書店の終焉
2014.10.27
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新渡戸稲造博士の英文”武士道”=BUSHIDO: The Soul of Japanは、1900年に初版が出版されました。 ”武士道と修養”(2012年8月 実業之日本社刊 新渡戸 稲造著)を読みました。 日本人の原点にある武士道精神についての新渡戸哲学から、克己をテーマに精選したものです。 新渡戸博士は、日本の農学者、教育者、思想家です。 1862年に盛岡藩の当時、奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれました。 1871年に兄道郎とともに上京し、叔父太田時敏の養子となりました。 1873年に東京外国語学校英語科に入学し、1877年に札幌農学校に第二期生として入学し、卒業後、東京大学選科に入学しました。 同時に、成立学舎にも通いました。 1882年に農商務省御用掛となり、札幌農学校予科教授となりました。 1884年に渡米してジョンズ・ホプキンス大学に入学し、1886年にクェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢いました。 1887年に独ボン大学で農政、農業経済学を研究し、1889年にジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号が授与されました。 長兄七郎が没したため、新渡戸姓に復帰しました。 1891年に米国人メリー・エルキントンと結婚し帰国し、札幌農学校教授となりました。 1897年に札幌農学校を退官し、群馬県で静養中に”農業本論”を出版し、1900年に英文”武士道”を初版出版しました。 その後、国際連盟事務次長も務め、東京女子大学初代学長、東京女子経済専門学校初代校長を務めました。 1933年にカナダ・バンフにて開催の第5回太平洋会議に出席し、ビクトリア市にて客死しました。 本書は、本年2012年9月に生誕150年を迎えた新渡戸稲造博士の大ベストセラー”武士道””修養”から、克己をテーマとして項目を精選したものです。 武士道については、江戸時代初期に武田家臣春日虎綱の口述記とされる”甲陽軍鑑”の中で、個人的な戦闘者の生存術としての武士道についての記述があります。 武名を高めることにより、自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いています。 家臣としての処世術にも等しいもので、普遍的に語られる道徳大系としての武士道とは趣が異なっています。 道徳大系としての武士道は、主君に忠誠し親孝行して弱き者を助け名誉を重んじよ、という思想です。 家名の存続という儒教的態度が底流に流れているものが多く、江戸期に思想的隆盛を迎え武士道として体系付けられました。 そして、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに武士道の概念が確立されました。 これによって初めて、儒教的な倫理が武士に要求される規範とされるようになりました。 ほかに、”葉隠”の武士道や、山岡鉄舟の”武士道”もあります。 新渡戸博士の”武士道”は、外国での教育関係者との会話において、日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、日本の武士道を解説したという背景があるそうです。 1900年に英語で出版された”武士道”は、セオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン・パウエルなど、多くの海外の読者を得て、1908年に日本語訳が出版され、1938年に新渡戸門下生の矢内原忠雄訳により岩波文庫版が出版されました。 本書は、現代仮名遣いを用いた平易な日本語で再編集され、新たに編纂されたものです。 明治、大正、昭和の時代、国の復興、発展に尽力した“真の国際人”新渡戸博士の教えは、多くの人々に大きな感化を与え、今もまったく色あせることはありません。 武士道の教えは永遠に続く、という言葉で締めくくられています。【修養篇】第一章 折れぬ心を欲する者へ(『修養』第五章「勇気の修養」より)第二章 敵を見極め、己に克つ(『修養』第六章「克己の工夫」より)第三章 天を楽しみ地を楽しんで、世を渡る(『修養』第十三章「道」より)【武士道篇】序文 僕が『武士道』執筆に至った動機(『武士道』「原序」より)第一章 武士道とは何であるのか(『武士道』第一章「武士道の倫理系」より)第二章 武士道の源にあるもの(『武士道』第二章「武士道の淵源」より)第三章 正義―もっとも厳しく、率直で男らしい徳(『武士道』第三章「正義」よ第四章 勇気―勇敢で冷静沈着な心(『武士道』第四章「勇気」より)第五章 仁―君主たる者が持つべき資質(『武士道』第五章「仁」より)第六章 礼―人に対する同情の優美な表れ(『武士道』第六章「礼儀」より)第七章 誠―地位の高い者の徳(『武士道』第七章「至誠」より)第八章 名誉―恥を知り、試練に耐える(『武士道』第八章「名誉」より)第九章 忠節―命をかけて守るべきもの(『武士道』第九章「忠節」より)第十章 現在に活かす武士道―不死鳥のように蘇る(『武士道』第十七章「武士道の将来」より)
2014.10.12
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カタルーニャでは、2014年11月9日にカタルーニャ独立への賛否を問う国民投票の実施が予定されています。 ”カタルーニャの歴史と文化”(2006年1月 白水社刊 M.ジンマーマン/M=C.ジンマーマン著/田澤 耕訳)を読みました。 かつて一大地中海帝国であった、カタルーニャの歴史と文化を紹介しています。 バルセロナを州都とする、スペイン北東部の自治州カタルーニャは、かつて、南仏、地中海に進出し、遠くギリシアにまでその支配を広げていました。 その後、王家の断絶によって15世紀頃から衰退していき、以降、不遇をかこつことになりました。 M.ジンマーマン氏は、1937年に生れで、ドゥルーズ大学でカタルーニャの歴史を学んだトゥルーズ学派に連なる歴史家で、専門はカタルーニャ中世史で、ベルサイユ大学教授を務めています。 M=C.ジンマーマン氏は、1937年生れで、ソルボンヌで文学を学び、現代詩に造詣が深く、専門はカタルーニャ中世文学で、パリ第四大学教授を務めています。 田澤 耕氏は、1953年生れ、一橋大学社会学部卒業、大阪外国語大学修士課程修了、バルセロナ大学博士課程修了、カタルーニャ語カタルーニャ文学専攻で、法政大学国際文化学部教授を務めています。 カタルーニャの地には、昔、この地方に多くの先住民のイベリア人が住んでいました。 紀元前7世紀に、ギリシャ人が交易を目的に住みついて、海岸沿いにアンプリアス市が作られました。 紀元前3世紀から後5世紀にローマ人に征服され、ローマの植民地になりました。 5世紀から7世紀にローマ帝国が滅亡し、西ゴート王国が建設され、バルセロナは西ゴートの首都になりました。 7世紀から、イスラム教徒がイベリア半島を侵略しました。 732年に、イスラム教徒がフランス西部のプアティエ市まで侵略し、イスラムによって支配されました。 8世紀に、フランス国王がフランスを守るため、ピレネー山脈に辺境領を作りました。 辺境領とは、国境付近に防備の必要上置いた軍事的領地で、後、このエリアがカタルーニャになっていきました。 988年に、辺境領を統治していたバルセロナ公爵によってフランスから独立しました。 12世紀から15世紀に、バレンシア州、アラゴン州、バレアレス諸島、南イタリア、南ギリシャ、シシリア島、サルデーニャ島などがカタルーニャの植民地になり、カタルーニャは地中海貿易で栄えました。 15世紀の終わり頃、カトリック両王の政略結婚でカタルーニャ、アラゴン、レオンとカスティヤが連合し、スペイン国の始まりとなりました。 1700年から1751年に、スペイン継承戦争を負けたカタルーニャは自治権を奪われ、スペイン王国の州になりました。 カタルーニャ政府がなくなり、カタルーニャ語使用は公衆の場で禁止となりました。 1975年にフランコ独裁者が死亡しました。 1977年にカタルーニャ自治州政府、ラ・ジェネラリタットが復活しました。 1988年にカタルーニャが誕生し、1000周年となりました。 カタルーユヤは1000年以上の歴史を有する国です。 カタルーニャは、周辺諸国に対抗して国としての意識を持ちはじめたのちにも、完全な主権を有無を言わさず認めさせる機会にほとんど恵まれませんでした。 カタルーンャは、単独の君主というものを待ったことがありません。 約1000年の間、隣国の歴史に束縛されたり、統合されたり、同化させられたりしてきました。 国家を持かなったために、カタルーニャ民族は9かの国家の一部を成さざるをえなかったのです。 自分の領土にしがみつく、典型的な国家なき民族の地位に甘んじてきました。 しかし、カタルーニャでは、ある明確な歴史感覚が共有されていることも確かです。 それは、民族の創成期にあたる中世を重視する歴史感覚です。 2006年に、カタルーニャ州議会がカタルーニャ自治憲章を改正しました。 2010年に、スペイン憲法裁判所は、3年をかけてカタルーニャ新自治憲章のいくつかの段落を破棄しました。 2010年に、カタルーニャ人が怒り、バルセロナでは150万人がデモを行い、カタロニアの独立を求めました。 2012年に、景気が悪化し、スペインとカタルーニャの間で、文化、教育、言語、政治、税収等のトラブルが多発しました。 2012年に、バルセロナで、スペインからの独立や自治権拡大を求める大規模なデモが行われました。 そして、今回の住民投票はどのような結果になるでしょうか。 本書は、独自言語と独立志向を保ちつづけた民族的アイデンティティー確立の道のりと、その豊かな文化を解説しています。第1章 カタルーニャの先史時代第2章 中世カタルーニャー民族の誕生、そして国家の形成と拡大(785~1412年)第3章 低迷と従属(1412~1833年)第4章 カタルーニャのルネサンス-政治的自立回復と挫折(1833~1975年)第5章 カタルーニャ文学-世界的遺産への道第6章 芸術的創造の実験室-ロマネスク教会から2000年代の都市計画まで
2014.10.05
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