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これからは、文化・精神・思想・道徳が問題になり、グローバリズムからローカリズムに変わり、世界は自分を発見し新しい時代に入るのでしょうか。 ”日本と世界はこうなる”(2013年12月 ワック社刊 日下 公人著)を読みました。7 2014年を読み解くキーワードはアイデンティティークライシスだ、といいます。 やがて、中国の分解、米国の自信喪失と迷走がはじまり、EUは衰退の一途で、残るのはドイツだけだ、といいます。 日下公人さんは、1930年兵庫県生まれ、1955年に東京大学経済学部を卒業し、日本長期信用銀行に入行し、調査部社会ユニット副長、業務開発第1部長、取締役業務開発部担当を歴任しました。 多摩大学教授、同大学院教授、ソフト化経済センター理事長を経て、東京財団会長を務めています。 ワシントンの本屋にはローカルという売り場があって、そこではワシントンの地図や名所案内やレストランめぐりの本がありました。 ローカルは地元というのが本来の意味で、田舎とか周辺の意味になるのは、中心やコアが誕生したときその周りにいたもともと劣等感が強い人が考えたことだそうです。 日本の学者、評論家、言論人、歴史家、マスコミにはそんな人が多くて、その人たちは情報生産をせず、情報のブローカーばかりをしているから、知らず知らずのうちに劣等感がわが身に侵入するのだといいます。 著者は子どもの頃から理科少年だったので、劣等感とか優越感とかの感にひたる余地が頭の中にはありませんでした。 そのような目で時代を見て、来年の世界と日本を展望して要点をまとめています。 来年は、グローバリズムからローカリズムヘ世界が変わります。 そのとき、土着文明、文化がない人・国・地域はアイデンティティークライシスに襲われます。 アイデンティティークライシスとは、若者に多くみられる自己同一性の喪失のことで、自分は何なのか、自分にはこの社会で生きていく能力があるのかという疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ることです。 金、学歴、出自、地位、名誉など、アイデンティティのよりどころはいろいろありますが、どこに自分のアイデンティティを置くかは、人それぞれで、多様化してきました。 自由になってしまうと、かえって、自分のアイデンティティをどこに置いていいかわからなくなって、周りの人からも信用されなくなります。 国にもそれがあり、中国は領上が広いこと、人目が多いこと、歴史が長いことで、アメリカは軍事力が強くてドルが世界に通用することです。 それが揺らぐと両国は自信を失って迷走しますが、それは世界全体にとっても人迷惑です。 2014年は、どうもそういう年になりそうだといいます。 一番アイデンティティがある大国は日本だから、世界は日本を学ぶようになります。 安倍首相が登場して、日本を取り戻そうと総選挙のポスターに掲げ、国民がそれを支持したのは、世界的な大事件ですが、日本は一体、何年前を取り戻すのでしょうか。 日本は縄文時代に戻っても日本語を話すご先祖様に会えますが、他にそんな大国はありません。 来年はアイデンティティークライシスに起因する混乱と分解が多発しますが、それを説明できる世界史はまだない、といいます。第1章 これからの世界情勢―EUは衰退の一途でアメリカ、中国は分裂する EUで生き残るのはドイツだけ/アメリカでは、人種戦争がはじまる/これから出てくる世界的な問題は、人種問題/中国の分解要素は、言語と都市戸籍・農村戸籍の問題/三十年周期でとらえても、中国はそろそろ分解する/日本版CIAが必要だ第2章 日本は米、中、韓とは、どんどん距離を置け 日本はアメリカ、中国とはどんどん離れればいい/いまの韓国の対日姿勢は、日本が甘やかしてきた結果/毛沢東は、共産党が政権をとれたのは「日本軍のおかげ」と言っていた/アメリカとは、州とつき合う第3章 日本は海外に対して「優位戦」を展開せよ 下手に出る「劣位戦」から「優位戦」へ/日本人も中国、韓国の態度にはさすがに腹を立てはじめた/現地の裏情報がとれるくらいでないと、本当の仕事はできない/ビジネス界から優位戦のできる人材を入れる/オールジャパンの団結をつくるのもビジネスの一つ/日本が国際社会のルールをつくる国になる/すでに安倍首相は「優位戦」を展開している第4章 財政再建はいくらでも方法がある 財政赤字の諸悪の根源は財務省である/消費税を上げる前にやるべきことはいくらでもある/財政赤字を言うなら、まず役人が身を慎んでもらいたい/第5章 これからの日本の課題 第1節 成長戦略をどうとらえるか アメリカは自国の利益を守るためには、あらゆる手段をとる/いますぐには必要ない不要不急産業が、成長産業/高齢化を活かせばいくらでも新たな産業は生み出せる/元気な高齢者が社会を変える 第2節 日本が直面している問題を一挙に解決する 「スパイ防止法」を持っていない国は、一人前とは言えない/自衛隊のイメージがよくなり、海上保安庁志願者が増えている/全国一区の選挙制度にすれば日本は変わる/落選議員に退職金を五億円出せば、現職議員も賛成する
2014.07.28
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UAEのドバイは、世界一の高さを誇るビルや街中どこでもつながるWiFiなどのある先端的な近未来都市です。 一方、そこに暮らす人々はイスラームの教えに忠実に生きているそうです。 ”住んでみた、わかった! イスラーム世界”(2014年3月 SBクリエイティブ社刊 松原 直美著)を読みました。 イスラーム世界に飛び込んでドバイで6年間暮らした、日本人女性による体験記です。 松原直美さんは、1968年東京生まれ、上智大学経済学部卒業、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係学専攻博士後期課程退学、タイの公立高校日本語講師を経て、ドバイへ2006年に移動し、6年間をそこで過ごしました。 現在はロンドン在住ですが、ブログ”ドバイ千夜一夜”で、2007年から連載をはじめ、今日現在で第959話となり、もう少しで1000回を数えます。 商社勤務の夫の転勤で、2006年からドバイに住むことになったそうです。 それまでは、とくにイスラーム教徒との接点はなく、イスラームは自分とは関係のないもので、興味もなく、イスラーム教徒と理解しあえるとも思っていなかった、といいます。 2007年から2012年まで、UAE国立ザーイド大学にて、日本語指導と空手道の初代講師として勤務しました。 その際に、イスラーム教徒たちと過ごすことによってイスラームに馴染んでいった過程が、追体験できるように具体的に書かれています。 いろいろなタイプのイスラーム教徒と知り合う過程で分かってきたのは、イスラーム教徒がイスラームをどれだけ信仰するかは一人ひとりが自分の意思で決める、ということでした。 このような観点から、現地の人々と接して実感したさまざまなことが紹介されています。 異文化との交流や異文化の理解は、個人的なお付き合いや個人的な経験の積み重ねからしか得られません。 UAEの人たちと過ごす日常生活は、驚きと発見の連続だったそうです。 彼らの行動をながめたり、話していることを聞いたりしながら、わからないことは何でも訪ねて行きました。 そうこうしているうちに、日本人には不可思議に思えるイスラーム教徒の行動に、一つひとつ意味や目的があることが分かってきました。 また、日本では常識であることも、イスラーム教国では非常識になりうることもあります。 基本的なことは、イスラームの基本的な教えにはどんなものがあるか、その教えに従って教徒はどう行動するのか、ということです。 本書では、イスラームの教えを深く信奉している人々の、日常生活、食材、料理、ラマダーン、身なり、社会の仕組みなどが紹介されています。 また、イスラーム教徒が日本を好きな理由や、イスラームに対するありがちな誤解についても分かりやすく述べられています。第一章 誕生から葬式まで、信仰とともにある生活 1.家庭内の出来事 2.日々の生活で実践される行い第二章 食材と料理第三章 イスラームの成立と制度第四章 ラマダーン(断食月)体験第五章 イスラームに基づく身なり 1.女性 2.男性 3.UAEに住む外国人第六章 男女別々の社会第七章 イスラーム教徒が日本を好きな理由第八章 イスラームに対するありがちな誤解
2014.07.22
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橋は、人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物です。 起源ははっきりは判りませんが、偶然に谷間部分を跨いだ倒木や石だったと推測されています。 その後人類が道具を使うようになってからは伐採した木で丸木橋が造られるようになりました。 紀元前5世紀から6世紀ごろには、バビロンや中国で石造の桁橋が架けられていました。 ”橋をめぐる物語”(2014年3月 河出書房新社刊 中野 京子著)を読みました。 北海道新聞夕刊で2011年4月から月一で連載中の、橋をめぐる物語2年7月分を31話でまとめたものです。 著者は若かりしころ、まるで夢占いのお手本になりそうな夢をみた、といいます。 それは、大きな歩道橋を高らかに笑いながら渡ってゆくというもので、人生の転機を迎え、いよいよ新たな世界へ進むと決った日の吉夢だった、とのことです。 この夢の記憶が鮮烈だったので、橋への関心はすっと持ち続け、橋にまつわるエピソードをまとめたいと気になったそうです。 中野京子さんは、1956年北海道生まれ、早稲田大学大学院修士課程修了、現在、早稲田大学講師で、専門はドイツ文学、西洋文化史です。 オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆し、新聞や雑誌に連載を持ち、テレビの美術番組にも出演しています。 ローマ時代になってから、道路網の整備に伴い各地に橋が架けられ、架橋技術は大きく進歩しました。 ローマ帝国が滅んだ後、優れた土木技術は失われてしまいました。 このため、流失した橋には再建されず放棄されたものも多いようです。 その後、産業革命によって生じた鉄を用いた橋が出現します。 さらに、鉄道網の進展、自動車の普及、交通量の変化に合わせて、重い活荷重に耐えられる橋が要求されるようになりました。 橋は、困難を乗りこえる表象であり、人生が交差する場であり、この世ならぬものと出会う所、異界そのものです。 諺や言い回しに橋がひんぱんに出てきますし、小説、オペラ、美術作品にも、橋は重要な意味合いで登場します。 実在の橋には、埋もれた歴史や驚くような秘話が詰っています。 紹介されている31の橋の中で、日本にまつわるのは、味噌買い橋、鳴門ドイツ橋、双体道祖神、祈願の橋の4つです。 味噌買い橋は、岐阜県高山市の宮川にかかる筏橋のことで、遠いペルシャの物語を引用した、橋の上の宝の山という面白いエピソードがあります。 ドイツ橋は徳島県鳴門市の坂東谷川の支流にかかる橋で、1919年に鳴門のドイツ人たちが壊れた木橋の代わりに3000個の石を集め、3ヶ月かけて建造したものです。 彼らは橋梁の専門家ではなく、神社から2キロ離れた板東俘虜収容所のドイツ人捕虜達で、強制されてではなく自主的に作ってくれたといいます。 道祖神は特に、関東甲信越に多く、村の境域に置かれて外部から侵入する邪霊、悪鬼、疫神などをさえぎったりはねかえそうとする民俗神です、 双体道祖神は陰陽石や丸石などの自然石をまつったものから、男女二神の結び合う姿を彫り込んだものです。 祈願の橋は、東京都中央区の築地川にかかる、三島由紀夫の短編小説「橋づくし」に出てくる7つの橋です。 三吉橋、築地橋、入船橋、暁橋、堺橋、備前橋で、7つとなるのは、三吉橋がY字になった三叉橋で2辺を渡って2橋と数えるからです。 橋は異なる世界を結ぶものであり、ドラマが生まれる舞台だ、と感じました。奇 悪魔の橋/味噌買い橋/犬の飛び込み橋/エッシャーの世界のような/透明な橋/行きどまりの断橋/小役人の幽霊驚 金門橋/水面下の橋/ペルシャ王の舟橋/ブルックリン橋/暗殺者の橋/樵のろうろく橋/ツイン・タワーに架けられた橋史 ポンテ・ヴェッキオ/鳴門ドイツ橋/古城の跳ね橋/ロンドン橋、落ちた/美紀の橋/橋の要塞化/レマゲン鉄橋/印象派が描いたポン・ヌフ/双体道祖神怖 流刑囚の渡る橋/若きゲーテの渡った橋/地獄も何のその/アントワネットは渡れない/グリム童話「歌う骨」/テイ鉄道橋/祈願の橋
2014.07.14
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日本のシンドラーと言えば、杉原千畝氏のことを指しています。 1900年生れの日本の官僚、外交官で、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館で、ナチスドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に反して、大量のビザを発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られています。 この命のビザで日本に逃れたユダヤ難民に許された滞在期間は、わずか10日あまりだったそうです。 そんなユダヤ人たちに命を賭して救いの手を差し延べたのが、ヘブライ語学者・小辻節三氏でした。 ”命のビザを繋いだ男”(2013年4月 NHK出版刊 山田 純大著)を読みました。 ナチスの恐怖からユダヤ人を救った、これまであまり知られていなかったもう1人の日本人について紹介しています。 小辻は、杉原と接点はありませんでしたが、シベリア鉄道でウラジオストクに着いた難民を日本に誘導し、無事に希望国へ送り出した人物でした。 山田純大さんは1973年東京生まれ、ハワイの中学・高校を経て米ペパーダイン大学国際関係学部を卒業しました。 1997年に、NHK朝の連続テレビ小説でデビューした俳優です。 小辻は1899年に京都の神道の家系で生れ、大学で神学部を目指すため、親の反対を押し切って勘当同様にして明治学院へと進みました。 卒業後、北海道旭川の教会の主任牧師となり、1923年に日高の牧場主の娘・美禰子と結婚しました。 1927年に米国に留学し、ニューヨーク州北部のオーバーンの大学でヘブライ語と旧約聖書を学びました。 バークレーのパシフィック宗教大学で、バデー教授について学識を深め博士号を取得して、1931年に帰国し、青山学院で教壇に立ちました。 しかし、腸チフスに罹患して失職し、回復後の1934年に聖書原典研究所を開設し、ヘブライ語と旧約聖書を教え始めましたが、生徒を取られた大学や教授陣、宗教関係者らからの迫害にあって3年で閉鎖しました。 その後、満鉄顧問として渡満し、2万人のユダヤ難民と満鉄とのパイプ役を務めました。 この原体験が、後の難民救出へと繋がっていったそうです。 かつては、神戸と長崎に比較的大きなユダヤ教徒のコミュニティがありました。 ユダヤ協会の働きかけで、ユダヤ難民の代表がユダヤ教の研究者であり信者である小辻を訪問し、日本滞在延長への協力を要請しました。 小辻は快く引き受け、彼らと一緒に何度も外務省へ出向きました。 しかし、全く相手にされず困った小辻は、ついに外務大臣松岡洋右に直訴することにしました。 松岡が南満州鉄道の総裁をしていたとき、小辻は松岡の部下でした。 松岡自身はこの2年前、満州国とソ連との国境近くにあるオトポール駅での事件でユダヤ人救済に協力していました。 小辻に相談された松岡は、立場上規則を曲げることはしませんでしたが、ある抜け道を示唆しました。 それは入国特許というゴム印を作ってビザに押印することで、10日は1箇月、1箇月をすぎたら無期延長を黙認するということでした。 こうして、ユダヤ人達は出国するまで何日でも日本に滞在できるようになったそうです。 その後ユダヤ難民は、日本国内で受入れ国の正式ビザを取得できた人はアメリカやイスラエルへ行き、ビザを取れなかった人は上海へ旅立ちました。 当時の上海は、ビザなしでも行くことが可能でした。 小辻は1959年にユダヤ教に改宗しアブラハムの名前を受け、1973年に鎌倉で亡くなると遺言によって遺体はエルサレムに運ばれ埋葬されました。 少年期、青春期の小辻/ナチスによるユダヤ人迫害/奇想天外な『河豚計画』/満州へ/小辻と松岡洋右/杉原千畝の『命のビザ』/日本にやってきたユダヤ難民/ビザ延長のための秘策/迫るナチスの影/神戸に残ったユダヤ人/反ユダヤとの戦い/再び満洲へ/ナチスドイツの崩壊/帰国/小辻を支えた妻・美禰子/改宗の旅へ/小辻の死/エルサレムへ
2014.07.06
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