全4件 (4件中 1-4件目)
1
宿題嫌い、英語嫌いがノーベル賞を受賞するまでの来し方行く末をユーモアあふれるエピソードでつづった自伝です。 ”僕はこうして科学者になった”(2016年7月 文藝春秋社刊 益川 敏英著)を読みました。 中日新聞・東京新聞に掲載された連続コラムをまとめたものに、ノーベル賞受賞講演録を加えています。 益川敏英さんは1940年名古屋市中川区生まれ、昭和区、西区で少年期を過ごし、向陽高等学校を経て名古屋大学理学部を卒業しました。 1967年に同大学大学院理学研究科博士課程修了、同大学理学部助手、1970年に京都大学理学部助手、1976年に東京大学原子核研究所助教授、 1980年からから2003年まで京都大学基礎物理学研究所教授、理学部教授、大学院理学研究科教授、基礎物理学研究所教授、基礎物理学研究所所長を歴任しました。 2003年に京都産業大学理学部教授、2007年に名古屋大学特別招聘教授、2009年に京都産業大学益川塾教授・塾頭、名古屋大学特別教授を務めました。 第25回仁科記念賞(1979年度)、第1回J.J.サクライ賞(1985年)、第75回日本学士院賞(1985年度)、朝日賞(1994年度)、第48回中日文化賞(1995年度)、 欧州物理学会2007年度高エネルギー・素粒子物理学賞を受賞し、2008年にはノーベル物理学賞を、南部陽一郎、小林誠と共同受賞しました。 また、2001年に文化功労者となり、2008年に文化勲章を受賞しています。 なぜ科学に興味を持ち研究者を目指したのか、どんないきさつでノーベル賞を受ける研究に収組んだのか、そしていまどんなことを考えているのかなどを綴っています。 生家は戦前は家具製造業で、戦後は砂糖問屋を営んでいました。 科学や技術の雑学に詳しかった父親の影響で、科学に興味を持ちました。 しかし学校の勉強は大嫌いで、宿題など一回もやったことがなかったそうです。 次第に数学や理科は進んで勉強するようになりましたが、英語嫌いは今に至るも直っていないとのことです。 英語の論文は書きませんし、ノーベル賞受賞記念のスピーチも初めて日本語でやらせてもらいました。 高校の成績も悪かったですが、新聞で名古屋大の物理学者・坂田昌一教授が発表した画期的な学説を知り、大学進学を決意しました。 父親との大ゲンカの末に進学を果たしたそうです。 同級生との激論や、思わず吐いてしまう暴言の影響などものともせず研究に取り組み、ノーベル賞を受賞することになるテーマ”CP対称性の破れ”に出会いました。 学生時代から議論好きで、違った視点や仮説を提起して議論を活性化させました。 その背景には、仁科芳雄から、武谷三男、坂田昌一に至る研究環境と、坂田モデルに始まる名大での活発な研究活動があるようです。 ノーベル物理学賞を受賞して生活がいろいろ変わったそうですが、一番変わったと思うのは駅のホームの歩き方とのことです。 それまでは勝手な場所を歩いていましたが、賞をもらってからは線路から離れて必ずホームの中央を歩くようになりました。 なぜかというと、握手を求めて突然に手が飛び出てくるからです。 考え事をしながら歩いているとき、目の前に急に何か出てきたら人間はびっくりして飛びのくものです。 もしホームの縁を歩いていたら、レールの上に飛びのかないとも限りません。 最近はだいぶなくなってきましたが、もうそういう癖がついたといいます。 特に東京からの下りの新幹線は名占屋の人がたくさんいますので、よく声を掛けてもらい色紙を出されたこともあるとのことです。 とっさに思い付きで、”よく間違えられるんですが、私は双子の兄弟のデキの悪い弟の方なんです”と言うと、さっと色紙を引っ込めて立ち去ってしまったそうです。 兄弟はなく、ちょっとした冗談のつもりだったが悪いことをしたとの付記があります。 受賞の知らせのノーベル財団からの電話が高飛車で、腹が立ったといいます。 それゆえ、大してうれしくない、バンザーイなんてやらないよと述べました。 若いいころアインシュタインの相対性理論を勉強して不思議に思いましたが、いまふたたびその謎にあこがれて同時ということの意味を考え続けているそうです。 時間は実に不思議で、いつかあなたと払の時問が交差して、もしかしたらどこかの駅のホームに同時に存在することだってあるかもしれません。 あとがきで、若い人には憧れとロマンを持ってほしいということです。握手/予感/カチン/泣いた/爆弾/砂糖問屋/砲台/銭湯の道/図書館通い/ばれた/英語嫌い/卒業文集/坂田教授/尾頭付き/決闘状/調べろ/ぶつけ合い/六〇年安保/暴言/浮気性/さん付け/坂田研究室/奇妙な現象/入試廃止/恋人は/式の真実/不採用/十年遅れ/組合活動/湯川先生/小林誠君/やろうか/だめだ/六種類だ/理解されず/目利き/お墨付き/仁科賞/空白の十年/親孝行/ばかやろう/博士論文/最後の一つ/最大の危機/予知能力/予言通り/突っ切れ/もてなし/どっちだ/消える本/ダーチャ/私と猫/ごちそう/入院/原発講義/原発の後始末/科学と戦争1/科学と戦争2/科学と国境/平和憲章/科学とスパイ/恩師の言葉/二百年後/井の中の蛙/ドンーキホーテ/棚上げ/英語は大事/まだ謎解き/CP対称性の破れが我々に語ったこと
2017.12.17
コメント(0)
ホスピスは緩和医療のことで、治る見込みのない病気の患者の苦痛や死の恐怖を和らげ、尊厳を保ちながら最期を迎えるケアです。 近代ホスピスの5人の母と称されるのは、 マザー・メアリー・エイケンヘッド(1787-1858)、フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)、シシリー・ソンダーズ(1918-2005)、キュプラー・ロス(1629-2004)、マザー・テレサ(1910-1997)です。 このうちマザー・エイケンヘッドは、ホスピスケアの原点を創ったことで知られています。 ”ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド ”(2014年7月 春秋社刊 D.S.ブレイク著/細野容子監修/浅田 仁子翻訳)を読みました。 19世紀植民地下のアイルランドで世界初のホスピスをつくった、マザー・エイケンヘッドの生涯と功績を紹介しています。 著者のジューナル・S・ブレイクさんは、アイルランド・コーク生まれ、コーク大学にて修士号、ハル大学にて博士号取得しました。 現在、ダブリンのマリノ・インスティテュート・オヴ・エデュケーションの学寮在住の、著述家・修道士=クリスチャン・ブラザーズです。 監訳者の細野容子さんは京都府生まれ、住友病院、新生会第一病院などで臨床看護を経験し、広島国際大学をへて、岐阜大学医学部看護学科教授を務めています。 訳者の浅田仁子氏は静岡県生まれ、お茶の水女子大学文教育学部文学科英文学英語学専攻卒業の翻訳家です。 ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指していました。 そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになりました。 近代的ホスピスの源はアイルランドのメアリー・エイケンヘッドの働きに遡ります。 しかし、ホスピス運動が普及するには1967年に創設された英国:聖クリストファーズ・ホスピスを待たねばならりませんでした。 メアリー・エイケンヘッドは1787年にアイルランドのコークで生まれ、1858年にダブリンで71歳で亡くなりました。 当時のコークは人口8万人の港町で北玄関橋と南玄関橋の間には、旧市街の壁に囲まれた地域が広がり、住民の多くが密集して暮らしていました。 メアリーの父親のディビッドはスコットランド出の医師で、薬局を運営する薬剤師でもありました。 ディビッドはプロテスタントでしたが、母親のメアリー・スタックポールはカトリックで商家の出でした。 当時、宗派の違う者が結婚した場合、息子は父親の宗派を継ぎ、娘は母親の宗派を継ぐのが普通でした。 しかし、エイケンヘッド夫妻の場合は、まだ若くて愛に夢中になっていた母親が、生まれる子供はみな父親の宗派で育てることに合意していました。 子供は4人で、メアリーを筆頭に、ふたりの娘アンとマーガレット、息子セント・ジョンを授かりました。 息子は病気がちで、10代後半に亡くなりました。 メアリーは、1878年4月4日に、父親の教区教会のセント・アン教会、通称シャントン教会で英国国教会派聖公会の洗礼を受けました。 メアリーは体が丈夫でなかったため、当時の医療通念に従い、イーソンズ丘に住んでいた乳母のメアリー・ローク夫人に養育してもらうことになりました。 イーソンズ丘はシャントン教会北の高台にあり、低地より健康に良いとされていました。 また、若いエイケンヘッド夫人は、自分の子供たちがプロテスタントとして育てられることを気にかけて、敬虔なカトリック信者のローク夫人に娘を託したようにも思われます。 ミー・ローク、つまりロークお母ちゃんと、その優しい夫のダディー・ジョン=ジョンお父ちゃんは、この後メアリーの教育に重要な役割を果たすことになりました。 ローク夫人は成長の段階に合わせて幼子の世話をし、メアリーは深い愛情を込め、夫人を第二の母として生涯敬慕しました。 夫人はカトリック教会の儀式に従い、秘かに幼いメアリーにカトリックの洗礼を受けさせたといわれています。 エイケンヘッド医師と若い妻は週に一度やってきて、娘の健康の改善状況を調べ、維持費と衣類を渡していました。 ローク夫人はメアリーを実の子のように世話をし、自立することを教えました。 メアリーもときどきはグランド・パレードを訪ね、妹たちに会っていました。 1793年にメアリーが6歳になったとき、エイケンヘッド医師はドーンツ・スクェアの家族のもとにメアリーを戻そうと決意しました。 メアリーは近くのプロテスタントの学校に通って、読み・書き・計算にフランス語、刺繍、音楽、ダンスのほか、社交上のたしなみなどを教わりました。 エイケンヘッド医師はフランス革命のスローガンである、自由、平等、博愛に大きな影響を受けていました。 そして、プロテスタント、カトリック、非国教徒の尊厳と雇用に対する公正な扱いに賛同していました。 この運動の国民的指導者に対し軍の報復運動が発生したとき、その指導者をエイケンヘッド家にかくまったりしました。 エイケンヘッド医師には、信仰の問題や病弱な息子の健康問題で悩まされていた上に、1798年の暴動による政治的副産物に悪影響を受けるようになりました。 そこで、今までずっと働きつづけ充分な蓄えもできたので、診療所を売り引退して暮らそうと決意するに至りました。 その結果、一家は転居しなくてはならなくなり、1799年にコーク市南部のラトランド通りにある、以前よりはるかに大きくて広々とした家を購入しました。 このころ、エイケンヘッド夫人の姉妹の未亡人で、修道女の生活を忠実に真似た信仰生活を送っていたレベッカ・ゴーマン夫人がアイルランドに帰ってきました。 夫人は長く大陸で暮らし、夫の死後、ブルージュのあるカトリックの修道院に付設された賄いつきの寄宿舎に移り住んでいました。 ゴーマン夫人は、12歳となった利発なメアリー・エイケンヘッドに多大な影響を与えることになりました。 メアリーは信仰について何度も長く話しこみ、借りたさまざまな本を熱心に読みました。 やがて、エイケンヘッド医師は1801年の年末に重体に陥り、所属する教会から牧師が来て共に祈ったのですが亡くなりました。 死に瀕して、自分からカトリックの司祭に会わせてほしいといい、妻の教派のカトリック教会に入りました。 父親の改宗と死は、メアリーがカトリック教会に入る道を開きました。 それから何年もの後、メアリーは、 貧しい人びとのひどい状態を思うと、心が震えてなりません、でも、みじめな金持ちのことを思うときのほうが、はるかにおぞましくなります、と書いています。 メアリーは、心から神を信じ熱心に祈りを捧げた敬虔な女性でした。 しかし、数多くの心配事や問題に対処しなくてはならなかった上に、病気や激痛にも苦しみました。 体の痛みは年齢と共に悪化していき、晩年はベッドから離れられないようになり、移動には車椅子が必要でした。 メアリーには長年抱いていた夢があり、貧しい人びと、特に、貧しさゆえに医療を受けられない人びとが年齢にも信条にも関係なく診てもらえる病院を開こうとしました。 こうして、1834年にダブリンにセント・ヴィンセント病院を開院し、一病棟にシスターをふたり、医師をひとり置きました。 この病院は、神に仕える女性たちが開き経営した最初の病院になりました。 この種はしっかり根を張り、オーストラリアを含む世界の数多くの地域に広がり成長しつづけています。第1章 幼少期―里親に育てられたコークでの日々/第2章 慈愛の種―シャンドンの鐘の近くで/第3章 貧しい人びとの叫びを聞く/第4章 使命を明確に―「神さま、道をお示しください」/第5章 成長と拡大―駆け出しの修道会/第6章 新たな冒険と先駆けの日々/第7章 混乱期―成長の痛み/第8章 病床からのリーダーシップ―衰弱と苦悩の只中で/第9章 ハロルズ・クロス―「主よ、汝の与えたまいしときは尽きました」/参考資料
2017.12.14
コメント(0)
中村正義は1924年に愛知県豊橋市の蒟蒻工場を営んでいた家に生まれ、1931年に松葉小学校に入学しました。 卒業後、豊橋市立商業学校に入学しましたが、1940年に病気のため中退しました。 療養中に南画家の夏目太果に水墨画を学び、日本画家の畔柳栄子に膠彩画を学びました。 ”中村正義の世界 反抗と祈りの日本画”(2017年8月 集英社刊 大塚 信一著)を読みました。 病魔と闘いつつ日本画壇の閉鎖的な風土のなかで多数のユニークな業績を残した、中村正義の生涯と作品を紹介しています。 1942年に畔柳の先生だった杉山哲朗に師事しました。 1943年には父親が死去し1946年に母親が死去しました。 空襲で家を失った正義は、豊橋郊外に仮住まいをした後、松葉町の焼け跡に一間のバラックを建てて仮住まいから通って絵を描きました。 1946年に上京して中村岳陵の蒼野社に学びました。 同年に第2回日展に”斜陽”が初入選し、翌年に第32回院展に初入選を果たしました。 その後、戦後の日本画壇において異端的な作品を数々発表し、日本画壇の風雲児と呼ばれました。 大塚信一さんは1939年東京都生まれ、聖学院高校を経て、国際基督教大学教養学部卒業後、1963年に岩波書店へ入社しました。 思想編集部、岩波新書、現代選書、著作集など数々のシリーズ・講座・著作集を企画・編集しました。 1990年に編集担当取締役、1996年に代表専務取締役を経て、1997年から2003年まで代表取締役社長を歴任しました。 中村正義は子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできませんでしたが、22歳で日展に初入選したちまち頭角を現しました。 1950年に第6回日展に”谿泉”を出品し特選となりました。 1952年にも”女人”で特選を受賞しました。 その後肺結核療養のため、1957年まで制作を中断しました。 1960年に第3回新日展の審査員となりましたが、1961年に神奈川県川崎市細山に転居し日展を脱退しました。 以後、個展を開きながら活動し、1967年に直腸癌の手術を受けました。 1970年に東京造形大学の日本画教師となり、1974年に人人会を結成し、第1回人人展を開催しました。 1975年に東京展実行委員会事務局長として展覧会開催に奔走し、第一回東京展を実現させました。 1977年4月16日に肺癌のため享年52歳で死去しました。 速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されましたが、その後、破天荒な画風に転じ、日本画壇から激しいバッシングを受けました。 外の世界に仕事を求めた結果、映画用の注文作品や、雑誌の表紙や、リアリズム風の絵も手がけました。 スキャンダラスな舞妓、300を超えるグロテスクな顔、奇妙な仏画などを描きました。 中村正義の作品には、自画像、風景画、舞妓、花、仏画、歴史に題材をとった絵、人物画、社会風刺画、顔の連作など多様なものがあります。 しかし、それらがどう関係しているのか、正義のなかでそれぞれどのような位置を占めているのか、もう一つはっきりしません。 近年、正義の画業の本質を、閉鎖的で封建的な日本画画壇、あるいは政治や社会の動向、つまり時代に対する鋭い批判を前面に置いて捉えようとする考えがあります。 それはそのとおりですが、正義の作品から強い批判精神を除いてしまっては、その本質はけっして捉えられないでしょう。 でも正義の作品を見ていると、どうしてもそれだけだとは思えなくなってきます。 画壇のエリートだった男が、なぜそのような絵を描き続けたのでしょうか。 異端の画家の生涯を見直し、その作品を解読を試みることにします。 中村正義の生涯について、骨太なタッチで提えるとどうなるでしょうか。 そこから、正義の芸術家としての独自なあり方が浮んでくるかもしません。 なぜ、正義は舞妓を描いたのでしょうか。 そしてなぜ、あのような特異な舞妓像を生涯描き続けたのでしょうか。 なぜ正義は多くの仏画と風景画を描いたのでしょうか。 また生涯描き続けたのでしょうか。 正義はなぜ多数の自画像を含めて顔の連作に取り組んだのでしょうか。 顔にこだわった理由は何なのでしょうか。 どうして自分か描いた顔の絵に、何回も何回も手を入れなければ、気がすまなかったのでしょうか。 このような視点から、中村正義という近代日本が生んだ特異な画家の生き方と作品に迫ろうとしています。 正義は1965年に、ルオーの作品の前に立って、少なからぬ心の動揺を禁じえないことを、しばしば経験すると書き始めています。 ある時は、その激しさが、狂気の如く、ある時はそのお道化ぶりが、人を嘲笑するかの如く、圧倒的におおいかぶさってきます。 そしてその激しさは、誠実に、厳しく、生きぬいた、人間の努力の、熱烈な、証でもあるかの如くと続けました。 この正義の言葉は、そのまま正義自身について妥当すると思う、といいます。 ルオーはキリスト教の信仰をもって、キリスト、道化、娼婦などを描きました。 そして修正と加筆をくりかえしました。 それは神への祈りそのものの作業であったはずです。 正義は舞妓像を、仏画を、山水画を祈りとして描きました。 それは、自分の仏性に根拠を求めて祈り、描いたといえるのではないでしょうか。 また、最後の最後まで顔を描き続けた正義と比する意味で、正義と同じく52歳で1993年に亡くなった女性画家ハンナ・ウィルケについて考えています。 ウィルケは自らの肉体を素材に作品を制作しましたが、そこに祈りはありません。 正義は面話という手法で自分の内面を徹底的に探求しつつ、まるで化物のような顔を描き続けました。 正義は舞妓という日本社会の歪んだあだ花を糾弾し、水俣などの公害問題、汚職事件を追及しました。 また、日本画壇の古い体質とその伝統的美意識の虚妄性に果敢に挑み続けました。 その意味で、徹底した反抗心の持ち主だったといえるでしょう。 しかし、舞妓・仏画・山水画そして顔を描き続けているうちに、自らの死の自覚とあいまって、それは祈りへと変わってきたのでした。 なお、主要作品116点がオールカラーで掲載されています。プロローグ Kさんへの手紙/第1部 中村正義の生涯/第2部 中村正義の絵画、その秘密(なぜ舞妓を描き続けたのか;仏画と風景画の意味;顔の画家)/エピローグ Kさんへの第二信
2017.12.08
コメント(0)
グローバリゼーションを否定するかのような動きが、先進国の国民のなかで急速に広がっています。 利潤をもたらしてくれるフロンティアを求めるために地球の隅々にまでグローバリゼーションを加速させると、地球な有限では、いつか臨界点に到達し、膨張は収縮に反転します。 ” 閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済”(2017年5月 集英社刊 水野 和夫著)を読みました。 資本主義の終焉によって経済成長の時代は終わり、これから生き残るのは閉じた帝国であるといいます。 経済成長を追求すると企業は巨大な損失を被り国家は秩序を失う時代になり、これまでの世界経済の常識が逆転しています。 これは、保護主義的な政策を打ち出している米トランプ大統領の登場や、欧州連合からイギリスが離脱を決めた動きにも如実に表れています。 21世紀は大転換期であり、米英・欧州・中露・日本の経済はどう変わるのでしょうか。 水野和夫さんは、1953年生まれ、1977年早稲田大学政治経済学部卒業、1980年早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了、国際證券、三菱証券、三菱UFJ証券に勤務しました。 その後、三菱UFJモルガン・スタンレー証券に入社し、金融市場調査部長、執行役員、理事・チーフエコノミストを経験しました。 2008年東洋英和女学院大学院非常勤講師、2009年埼玉大学大学院客員教授、2012年12月経済学博士(埼玉大学)を経て、2013年から日本大学国際関係学部教授を務めています。 歴史、哲学、宗教、社会学、文学など様々な本に歴史の危機を読み解く手がかりを求め、現代の長い21世紀が長い16世紀以来の大転換の時代であることに思い至ったといいます。 長い16世紀に起きた最大の転換とは、古代・中世と続いた閉じた宇宙という世界観が、無限空間という世界観にとって代わられたことでした。 ローマ帝国以来の陸の時代から、オランダ、イギリス、アメリカが覇権を継承していく海の時代への転換でもありました。 そして、人類を救済するために蒐集が行われたのですが、21世紀の現在、資本を蒐集すればするほど、能力差では説明ができないほどに格差が広がっています。 その結果、アメリカで白人の自殺率が高まったり、ヨーロッパでテロが横行したりするなど、社会秩序が乱れてきています。 もはやフロンティアがなくなった長い21世紀は、時代の歯車が逆回転しています。 つまり、世界史は再び、閉じてゆくプロセスに入ると同時に、陸の時代へと舵を切ろうとしています。 事実、アメリカの衰退とともに、EU、中国、ロシアといったかつての陸の帝国が存在感を強めています。 長い目で見れば、国民主権国家と資本主義からなる近代システムも完璧ではなく、近代システムを解体するときもいつかはやってきます。 その先に展望されるポスト近代システムとして、閉じた帝国と定常経済圏のふたつがあります。 長い21世紀という混乱期を経て、世界は複数の閉じた帝が分立し、その帝国の中でいくつかの定常経済圏が成立します。 この理想に近づくことができた帝国こそが、うまく生き延びていくのであろうということです。 閉じた帝国という中世回帰の動きは始まったばかりで、建前上は主権国家システムが継続しています。 近代を維持・強化しようと考える勢力と、ポスト近代への移行を目指す動きとのせめぎあいが起きているのです。 その機能不全が、歴史における危機となってあらわれているのが現在の状況です。 歴史の危機を前半と後半に分ければ、前半は既存システムが優勢で、後半は新しいシステムを目指す勢いが徐々に増してくるというのが、これまでのパターンです。 資源争奪戦争が起こる前に、各国が自国の生存にのみ興味を払う主権国家システムを捨て、閉じた帝国が定常経済を築き、帝国内の秩序に責任をもつようにしなくてはなりません。 その新しい時代に向けて先頭を走る国や地域は、どこでしょうか。 2008年から鈴木忠志さんが演出する演劇を富山県で毎年観続け、そこから大きな衝撃を受けたといいます。 日本の国には灯がついているかい、と主人公の娘がたずねると、父は、どの国にだって灯なんかあるはずがないじゃないかと答えます。 娘に、アメリカはどうだろとたずねられ、父は、もちろん消えたよ、おまえ、今日はどうかしているぞと答えます。 そしてしばらくして外で騒ぎがあり、それを見に行った娘が、日本が、父ちゃん、日本が、お亡くなりにと報告します。 初演された1991年という年は、生産力競争の破綻がソビエト連邦解体と日本のバブル崩壊で明らかになった年です。 この中で、父が、日本にもアメリカにも灯なんかついていない、というのは、資本主義の終焉と結びつくように思ったそうです。 これからも、アメリカとともに成長教の茶番劇を演じ続けるのでしょうか、ポスト近代システムの実験へと一歩を踏み出すのでしょうか。 世界的ゼロ成長が完成しつつある今、日本は危機の本質に立ち戻って考えなくてはなりません。はじめに-「閉じていく」時代のために/第1章 「国民国家」では乗り越えられない「歴史の危機」/第2章 例外状況の日常化と近代の逆説/第3章 生き残るのは「閉じた帝国」/第4章 ゼロ金利国・日独の分岐点と中国の帝国化/第5章 「無限空間」の消滅がもたらす「新中世」/第6章 日本の決断―近代システムとゆっくり手を切るために/おわりに-茶番劇を終わらせろ
2017.12.02
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1

![]()
