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藤原伊周=これちか、隆家は平安期の公卿の兄弟で、父道隆に引き立てられましたが、伊周は父死後叔父道長と対立しました。 そして、花山上皇と闘乱した等の罪で大宰権帥に左遷され、隆家は兄に連座して左遷されましたが後に復帰しました。 ”藤原伊周・隆家”(2017年2月 ミネルヴァ書房刊 倉本 一宏著)を読みました。 栄華を誇る藤原道長の陰で生きた中関白家の栄光と没落、そしてその後を描いています。 隆家は、満州民族を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した1019年の刀伊の入寇事件で海賊を撃退しました。 倉本一宏さんは1958年三重県津市生まれ、1983年東京大学文学部国史学専修課程卒業、1989年同大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学。 1997年博士(文学、東京大学)で、現在、国際日本文化研究センター教授を務めています。 中関白家は藤原北家の中の平安時代中期の関白・藤原道隆を祖とする一族の呼称です。 道隆は摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男で、花山天皇退位事件で父の意を受けて宮中で活動し、甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進しました。 妻・高階貴子は女房三十六歌仙に数えられる歌人です。 花山天皇は第65代天皇で、冷泉天皇の第1皇子、母は藤原懐子、円融天皇の譲位をうけ984年に17歳で即位しました。 しかし、右大臣藤原兼家・道兼父子にはかられ、986年に在位1年余で退位し元慶寺=花山寺で出家しました。 道隆は990年に父の後を継いで摂関に就任し、自己の系統を摂関家の嫡流にすべく尽力しました。 関白道隆が全盛期を迎え、個人的能力に秀でた嫡男の伊周は異数の昇進を続け、994年に道長など3人の大納言を超越して内大臣に任ぜられました。 次の世代の政権担当予定者としての地歩を固めつつありました。 その弟の隆家は参議、庶長子の道頼は権大納言に任ぜられ、娘の定子は一条天皇の中宮、同じく原子は東宮居貞親王=後の三条天皇の妃となりました。 定子の女官には、”枕草子”の作者清少納言がいました。 しかし、彼らの春は永くは続きませんでした。 995年に道隆と道頼が急死し、中関白家は政権交代のレールを敷き終わらないまま、その中心を失ってしまったのです。 その運命の変転の前には、残された者は、あるいはまったく無力に立ちつくし、あるいは空しい足掻きを行って、没落を早めるのみでした。 中関白家は、あたかも彗星のごとく光り輝き、そして消え失せていきました。 その後叔父である道長との権力闘争に敗れた伊周が、花山院闘乱事件などによって大宰権帥に左遷され、隆家もこれに加担したとして連座しました。 996年頃、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君に花山法皇が通いだしました。 花山院闘乱事件は、伊周が自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家が従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いたとされる事件です。 花山法皇は出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていましたが、この事件の噂が広がり隆家は4月に出雲権守に左遷されました。 また伊周は、勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法をひそかに行ったとして、大宰権帥に左遷されました。 どちらも実質的な配流であり、姉弟であった一条天皇・中宮定子の落飾という事態をも招きました。 その後、定子は道長の娘である彰子に追いやられるように病没し、遺された敦康親王も皇位に就くことなく病死したため、外戚になることもありませんでした。 伊周の子である道雅も問題行動が多く不遇のまま没し、隆家の家系のみが続きましたが、大臣以上を輩出することはありませんでした。 中関白家の人々は、単純に言うならば、父の道隆が戯の人、母の貴子が才の人とすると、伊周が才の人、隆家が戯の人、定子は両方を受け継いだと言えるでしょう。 それに清少納言の影響もあり、笑いに包まれた一家でした。 嫡男の伊周は家柄がよくて容貌がよく、学問があって、女性にもてて、自己主張が強く、若くして親の引きで出世しました。 隆家の方は豪毅にして竹を割ったような性格、また権力者に対しても物怖じしない態度、すぐに暴力に訴える行動様式がありました。 にもかかわらず、誰からも好か札る立ち位置と、伊周とはまことに対照的な人物像が浮かび上がります。 また、結構長寿を得ることができ、多くの子女を儲け、子孫はそれなりに繁栄するなど、伊周とは好対照でした。 たとえ不遇な境地にあっても、与えられた立場をしっかり守り、その立場の中で最善を尽くす。 そして自らの誇りと矜持は守るといった生き方は、千年を経た今でも強く心を打ちます。第一章 道隆政権誕生まで 兼家雌伏の時代/摂政兼家の誕生と道隆の昇進第二章 中関白家の栄華 摂政道隆/「中関白道隆」と『枕草子』の世界第三章 「内覧」伊周 中関白家最後の栄華/伊周の内覧宣旨と道隆の死第四章 道長政権の成立と長徳の変 道長政権の成立/長徳の変/伊周・隆家の召還第五章 道長政権下での復権 敦康親王の誕生と定子の死/道長政権下での復権/道長家栄華の「初花」第六章 呪詛事件と伊周の死 道長・彰子・敦成呪詛事件/伊周の死第七章 道長の栄華と「刀伊の入寇」 「この世をば」と敦康親王の死/「刀伊の入寇」と隆家/隆家の死おわりに――中関白家の末裔
2017.07.29
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私たちが日常的に使う”体が疲れている”とは、実は脳の疲労にほかなりません。 栄養ドリンクや運動は疲れに効くとか、乳酸=疲労物質はすべてウソであるといいます。 ”すべての疲労は脳が原因”(2016年4月 集英社刊 梶本 修身著)を読みました。 疲れているのは体じゃない脳だったということで、最新科学が解明した疲労の正体を明らかにしています。 梶本修身さんは1962年生まれ、大阪大学大学院医学研究科修了、医学博士で、大阪市立大学大学院疲労医学講座特任教授、東京疲労・睡眠クリニック院長を務めています。 10項目のうち、1つでも思いあたることがあれば、脳疲労が蓄積している可能性があるといいます。・ものごとはきりのいいところまでやらないと気が済まない、・ストレス解消のために体を動かすのが習慣である、・責任感があり遅くまで残業しても苦にならない、・日中に眠気があり大きないびきをかくと言われる、・集中力が高く何かに没頭すると周りが見えなくなる、・疲れたら栄養ドリンクをよく飲む、・屋外ですごす時間が長い、・長時間のドライブでも途中休憩をあまりとらない、・熱めのお風呂に長湯をするのが好きである、・休日は遠くのテーマパークやアウトレットに足を延ばす、 世界的にみて疲労の研究の歴史はまだ浅く、日本において国が研究をスタートさせたのは1990年代です。 1984年にアメリカのネバダ州で慢性疲労症候群の患者が発見されたのを機に、日本では1991年に厚生労働省がこの病態の対策として研究班をスタートさせました。 そして、1999年に文部科学省の研究班があとを継ぐ形で、疲労および疲労感の分子・神経メカニズムとその防御に関する研究班を発足させました。 日本は疲労大国ですので、その分野の研究はいまや世界でトップクラスの水準となっています。 疲労と聞くとガス欠のイメージを持っている人も多いと思われます。 また、仕事や運動をすればエネルギーを消費するから体が疲れるのは当たり前と思っている人も多いです。 しかし、エネルギー自体が枯渇して疲労を起こすことは滅多にありません。 仕事や運動をして体の疲れを感じるのは、エネルギーが不足したからではありません。 日本では疲労が浸透しているにもかかわらず、一方で、実は、疲労の原因や科学的なメカニズムはほとんど理解されていないのです。 疲労が起きるのは細胞のサビに原因があり、細胞が酸化ストレスにさらされることでさびてしまい、細胞本来の機能を維持できなくなることで起こります。 酸化ストレスは、体内で活性酸素が過剰に発生することで引き起こされる有害な作用です。 ただし、疲労を起こす原因のすべてが酸化ストレスというわけではありません。 たとえば、がん患者の場合は、がん細胞による体全体への悪液質が発生し、それが疲れの原因になります。 疲労とは症候群であり原因はさまざまですが、大多数の健康な人においては細胞への酸化ストレスが大きく関わっています。 酸化ストレスがもっとも激しいのは、筋肉や肝機能などではなく脳の自律神経の中枢です。 たとえば、長時間のジョギングや暑い中ゴルフをしていると、体が疲れたと感じます。 ヒトは運動を始めると数秒後には心拍数がにがり呼吸が速く大きくなりますが、それを秒単位で制御しているのが脳の自律神経の中枢と呼ばれる視床下部や前帯状回なのです。 運動が激しくなると脳の自律神経の中枢での処理が増加し、脳細胞で活性酸素が発生し、酸化ストレスの状態にさらされてさびつき、本来の自律神経の機能が果たせなくなります。 これが脳で疲労が生じている脳疲労であり、ヒトはそのときに体が疲れたというシグナルを眼窩前頭野に送り、疲労感として自覚します。 健康な人における疲労とは、日本疲労学会では、 一般に運動や労力などの身体作業負荷あるいはデスクワークなどの精神作業負荷を連続して与えられたときにみられる、身体的あるいは精神的パフォーマンスの低下現象と定義されています。 パフォーマンスの低下現象とは、本来の能力を発揮できない状態であり、たとえば、 思考力が低下する、刺激に対する反応が鈍くなる、注意する力が衰え散漫になる、動作が緩慢になる、行動の量が低下するという変化であり、 さらに、目がかすむ、頭痛がする、肩こりが起こる、腰が痛いなどの症状を言います。 疲労とは、医学的には、痛み、発熱と並んで人間の生体アラームのひとつと考えられています。 つまり、これ以上、運動や仕事などの作業を続けると体に害が及ぶという警報です。 もしも警報を発することができなければ、死にいたるまで作業を続けてしまう恐れがあります。 その危険を回避するために、痛みや発熱と同様に疲労という警報を発し、それ以上の活動を制限するように働いています。 疲労とは、生物が生命を守るために体の状態や機能を一定に保とうとする働き、ホメオスタシスのひとつです。 アラームが効かない状態で、疲労感を覚えることができずに運動や仕事の負荷作業を連続して行ってしまうと、過重労働で重篤な病気、また過労死につながることがあります。 本書では、疲労とは何か、最新の抗疲労研究の結果から現代人の疲労の本質である脳疲労のメカニズムを探って、その解消法を伝えています。 前半の第一章から第三章は脳疲労と疲労について解説し、後半の第四章から第六章では脳疲労を解消するための科学的に根拠のあるメソッドを具体的に紹介しています。はじめに疲労を科学することとは/第一章疲労の原因は脳にあり/第二章疲労の原因物質とは/第三章日常的な疲労の原因はいびきにあった/第四章科学で判明した脳疲労を改善する食事成分/第五章「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減する/第六章脳疲労を軽減するためにワーキングメモリを鍛える/あとがきにかえて
2017.07.24
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隕石とは、惑星間空間に存在する固体物質が地球などの惑星の表面に落下してきたものを指し、分類すると、鉄隕石、石鉄隕石、石質隕石の3つの種類に分けられます。 鉄隕石は主に金属鉄からできている限石で、ニッケルも多く含んだ鉄ニッケル合金で、コバルト、金、白金、イリジウムのような貴金属もわずかながら含まれています。 石鉄隕石は鉄ニッケル合金と石質のケイ酸塩鉱物がまざった成分の隕石で、石質隕石は主にケイ酸塩鉱物からなる隕石です。 ”隕石”(2017年5月 白水社刊 マテュー・グネル著/斎藤かぐみ訳/米田成一監修)を読みました。 隕石の基礎知識から、発見の歴史、宇宙科学の現在までを詳細に解説し、隕石研究の現在の状況を知ることができます。 マテュー・グネルさんは1971年生まれ、1994年に物理学で修士の学位を取得し、1995年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジで研究を行いました。 1996年にパリに戻ってからさまざまな阻石研究者と交流し、2000年にパリ第7大学から博士の学位を取得し、大英自然史博物館研究員、パリ第11大学講師を経験しました。 2005年よりパリ国立自然史博物館に勤務、2006年に国際隕石学会ニーア賞を受賞し、2008年からパリ国立自然史博物館の教授に就任しました。 斎藤かぐみさんは1964年生まれ、東京大学教養学科卒業、欧州国際高等研究院修了のフランス語講師・翻訳家です。 米田成一さんは1960年生まれ、1982年東京大学理学部化学科卒業、1987年東京大学理学系研究科化学専門課程卒業しました。 その後、東京大学大学院理学系研究科化学専門課程博士課程単位修得退学、1987年から日本大学文理学部助手、1992年からシカゴ大学博士研究員を経験しました。 現在、国立科学博物館理工学研究部理化学グループ長、理学博士で、専門は宇宙化学、隕石学です。 パリ国立自然史博物館の隕石研究者である著者が、私たちをマクロとミクロが行き交う世界へと誘います。 隕石は天空から地球に飛来した石であり、その年齢は太陽系の年齢であり、人類が手にできる最古の物体です。 隕石は神秘のしるしとして、地と天を同じ目で見るようにと私たちを促すと同時に、最先端の機器を使った科学研究の対象として、現在の研究の様子をかいま見せてくれます。 過去と現在を結び、博物学と先端科学を架橋してくれる、そんな存在は阻石の外にはありません。 隕石の研究は、仏語では宇宙化学、英語では隕石学と呼びます。 地球外天体と生物圏の相互作用、私たちの太陽系の形成、天体の地質進化、地球上の生命の起源などが課題となります。 ヨーロッパで隕石が地球外から来たことが科学者に受け入れられたのは、18世紀末から19世紀初めのことで、以後、本格的な収集・保存が行なわれるようになりました。 1985年までに発見された2700個の隕石中、落下するところが目撃されたのはおよそ45%です。 南極では日本をはじめとして、各国の南極観測隊が1985年まででも7500個の隕石を回収しました。 隕石カタログ2000年版には、南極隕石17,808個を含む22,507個が掲載されています。 このうち21,514個が石質隕石、865個が鉄隕石、116個が石鉄隕石です。 隕石の多くはおよそ45億年ほど前にできたもので、太陽系の初期、惑星が形成された当時の始原的な物質であろうと推定されています。 隕石は地表に到達するまでに破片になることもあれば、大きな塊のまま到達することもあります。 大気との衝突によって多数の破片になり、楕円形の長径数kmから数10kmの地域に、数10個から数100個程度、まれに数万個程度の隕石となって落下します。 この場合は数100gから数kg程度のものが多いようです。 大きな塊のまま落ちてくることもあり、北アメリカのバリンジャー隕石孔は直径1.2kmあり、数万トンから数10万トンの質量だったと推定されています。 隕石そのものが発見された中で最大なのはナミビアのホバ隕石で、重さ66トンです。 隕石の真の価値が理解されるようになるのは、20世紀後半になってからです。 これは、さまざまな分析技術の進歩によるところが大きいです。 特にウランの放射壊変を利用した年代測定法か開発され、1956年に地球の年齢が推定されました。 これは、地球の岩石とウランをほとんど含まない鉄隕石とを比較することによってなされた成果です。 また、一部の例外を除くと隕石の種類にかかわらずほぼ全ての隕石が約46億年の年代を示すことから、太陽系か形成されたのは約46億年前と推定されています。 地球の年齢は、地球が小さな原始地球から現在の大きさまで成長する時間が必要なため不確かさが残りますが、成長を始めたのはやはり約46億年前と考えられています。 なお、地球の内部は現在でも熱く、地球表面が絶えず新しく作り替えられているため、地球の岩石は最も古いもので約40億年、岩石に含まれる鉱物でも約44億年が最古です。 地球の岩石の分析だけでは、地球の年齢を求めることはできません。 隕石の構成成分をさらに詳しく年代測定すると、炭素質コンドライトに含まれるCAIと呼ばれる包有物が太陽系で最古の年齢を示しえちます。 ある分析では、45億6720万年±60万年という精度で求まっています。 このように、隕石は太陽系の形成から惑星の成長までを記録した物的証拠として計り知れない科学的な価値を持っています。 本書はこれらの科学的成果を詳細に解説しており、隕研究の現在の状況を知ることか可能です。 日本の隕石についての補足説明もあり、九州の直方隕石は落下が目撃され現代まで破片が保存されている世界最古の隕石であるということです。 また、東京のコレクションは、国立極地研究所が保有する南極隕石の数は、現在約1万7000個で、その数量は世界有数のものとなっています。第1章 惑星科学と宇宙化学の基礎知識 基本的な定義/惑星科学の基礎知識/地球化学の基礎知識/同位体宇宙化学の基礎知識/始源的な天体から物質分化した天体へ/宇宙の玉突き/隕石の分類第2章 隕石小史 迷信と驚嘆/十八世紀末の転換点/十九世紀―系統的な研究の始まり/二十世紀―宇宙の時代第3章 地球上の隕石 大気圏突入/地球外物質の採集/地球外物質のフラックス/衝突と生物圏/隕石の落下年代/こなたの隕石、かなたの隕石第4章 隕石の見分け方第5章 母天体から地球へ 隕石の起源/隕石の照射年代/隕石の地球までの移動第6章 コンドライトと太陽系形成 コンドライトの化学組成と同位体組成/コンドライトとその構成要素の形成年代/カルシウム・アルミニウムに富んだ包有物と鉄苦土性コンドルールの形成/酸素同位体組成の進化/短寿命消滅核種/基質―出発物質/昔の光沢いまいずこ第7章 天体の地質進化 衝突と衝撃/コンドライトに見られる熱変成と熱水変成/物質分化第8章 隕石と生命の起源 隕石中の地球外生命/隕石中の生命前駆分子/宇宙化学と生命出現の背景状
2017.07.16
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阿倍仲麻呂は698年に大和国に生まれ、筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫、中務大輔・阿倍船守の長男でした。 若くして学才を謳われ、717年多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して、唐の都・長安に留学しました。 ”遣唐使 阿倍仲麻呂の夢”(2015年9月 角川学芸出版刊 上野 誠著)を読みました。 科挙を突破し希有の昇進を遂げ唐の重臣閣僚となった阿倍仲麻呂の、苦難の生涯をつらぬく夢を日唐交流史をふまえて描きだしています。 同次の留学生には、吉備真備や玄昉がいました。 唐名を朝衡または晁衡といい、唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登りましたが、日本への帰国を果たせずに唐で客死しました。 上野 誠さんは1960年福岡県生まれ、国学院大学大学院文学研究科博士課程後期単位修得満期退学、奈良大学文学部教授(国文学科)、博士(文学)です。 万葉挽歌の史的研究と万葉文化論により、第12回日本民俗学会研究奨励賞、第15回上代文学会賞、第7回角川財団学芸賞を受賞しています。 当時、唐の国力に及ぶ国はほかになく、都・長安は人口100万人の大都会でした。 日本の平城京はわずか10万人でした。 唐こそ世界を支配することのできる唯一の帝国でした。 8世紀の東アジア世界においては、唐の文明を受け入れることで各国の国作りが進められていました。 日本はそのうちにあって、世界帝国・唐の文明の果つるところ、辺境の一小国に過ぎませんでした。 ほぼ20年に一度派遣される遣唐使は、国家の存亡に関わる重い任務を負って、唐に旅立っていったのです。 阿倍仲麻呂も、遣唐留学生の一人として唐に渡った人物です。 なお、姓は史料ごとに異なり、”阿倍””阿部””安倍””アベ”の表記となっています。 本書では、”阿倍”に統一して記すことにしています。 唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えました。 太学は古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関で、官僚を養成する機関でした。 科挙は、中国で598年~1905年まで約1300年間にわたって行われた官僚登用試験です。 玄宗は唐の第9代皇帝で、治世の前半は太宗の貞観の治を手本とし、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えました。 しかし、後半は、楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作ったと言われています。 仲麻呂は725年に洛陽の司経局校書として任官、728年に左拾遺、731年左補闕と官職を重ねました。 仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していました。 733年に多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐しましたが、さらに唐での官途を追求するため帰国しませんでした。 翌年帰国の途に就いた遣唐使一行は、かろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破しました。 この時帰国した真備と玄昉は、第1船に乗っていたものの助かっています。 副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻りました。 名代一行を何とか帰国させると、今度は崑崙国に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきました。 広成らは仲麻呂の奔走で、渤海経由で日本に帰国することができました。 734年に儀王友に昇進し、752年に衛尉少卿に昇進しました。 この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐しました。 すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図りました。 この時王維が秘書晁監の日本国へ還るを送るの別離の詩を詠んでいます。 しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流されました。 このとき李白は仲麻呂が落命したという誤報を伝え聞き、明月不歸沈碧海の七言絶句、哭晁卿衡を詠んで仲麻呂を悼みました。 しかし、仲麻呂は死んでおらず、船は唐の領内である安南の驩州に漂着し、755年に仲麻呂一行は長安に帰着しました。 この年、安禄山の乱が起こったことから、日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来しましたが、唐朝は行路が危険である事を由に清河らの帰国を認めませんでした。 仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、760年に左散騎常侍から鎮南都護・安南節度使として再びベトナムに赴き総督を務めました。 761年から767年まで、6年間もハノイの安南都護府に在任し、766年に安南節度使を授けられました。 最後は?州大都督を贈られ、770年1月に73歳の生涯を閉じました。 歌人として”古今和歌集””玉葉和歌集””続拾遺和歌集”に、それぞれ1首ずつ入首したとされます。 ”続拾遺和歌集”の1首は、万葉集の阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したものと言われています。 百人一首に、”天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも”が選ばれています。 753年に帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説です。 ただし、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え福岡県春日市の御笠山から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在します。第1章 新生「大宝律令」の子/第2章 日本から唐へ/第3章 科挙への挑戦/第4章 官人として宮廷社会を生きる/第5章 知恵が救った四人の命/第6章 阿倍仲麻呂帰国/第7章 阿倍仲麻呂と王維/第8章 天の原ふりさけ見れば
2017.07.11
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カレーは、インド系、東南アジア系、洋食系の何れも現在では国際的に人気のある料理のひとつとなっています。 ”カレーの歴史”(2013年8月 原書房刊 コリーン・テイラー・セン著/武田円訳)を読みました。 いまやグローバルとなったカレーについて、インド、イギリス、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアの世界中のカレーの歴史を読み解いています。 現在私たちが食べているカレーには大きく分けて2つの源流があります。 1つは、185世紀後半、インドの広城を支配していたイギリス東インド会社の商人たちが、自分たちの舌に合うように現地の料理を大胆にアレンジしたアングロ・インディアンカレーです。 もう1つは、古くは商人たちの手で、19世紀にはいわゆる離散インド人によって草の根レベルで伝えられ、世界各地の食材や食文化と融合したカレーです。 そして、今日では、ヨーロッパや北米、中南米、アフリカ、オセアニアなど、世界中でカレー文化が根付いています。 本書には多くのカラー図版とともにレシピも付いていて、料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞しています。 コリーン・テイラー・センさんはシカゴ在住のフードライターで、インドの食物についての造詣が深く、”シカゴトリビューン””シカゴサンタイムズ”などに寄稿しています。 竹田円さんは東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了、専攻はスラヴ文学で、訳書と翻訳協力が多数あります。 カレーは、多種類の香辛料を併用して食材を味付けするというインド料理の特徴的な調理法を用いた料理です。 それを元にしたヨーロッパ系の料理や、同様に多種の香辛料を併用して味付けされる東南アジアなどの料理も指す場合があります。 カレーは18世紀にインドからイギリスに伝わりました。 当時、イギリスはインドを植民地として支配し始めていて、インドのベンガル地方の総督だったイギリス人が紹介したといわれています。 19世紀に、イギリスで初めてカレー粉が作られました。 インドにはカレー粉というものはなく、いろいろなスパイスを組み合わせて、カレーの味をつくっていました。 インドのカレーとの違いは、小麦粉でとろみをつけたところにもありました。 日本では、明治時代に当時インド亜大陸の殆どを統治していたイギリスから、イギリス料理として伝わりました。 カレーという言葉の定義は曖昧で、何かと議論の種になります。 本書では、カレーとは、スパイスを効かせた、肉、魚、または野菜の煮込み料理で、ライス、パン、コーンミールなどの炭水化物が添えられた食べもの、と定義します。 スパイスはその場で手作りしたパウダーでもペーストでも、店で売られている既成のスバイスミックスでもよいです。 この非常に広い定義には多くの料理が含まれます。 イギリス統治時代のインドで生まれた古典的なアングロ・インディアンカレー、タイの洗練されたゲーン、カリブ海の活力みなぎるカレー、日本人が大好きな庶民の味カレーライス、 インドネシアのグライ、マレーシアの絶品ニョニャ料理、南アフリカのバニーチャウ、ギボテイ、モーリシャスのヴィンダイ、そしてシンガポールの屋台に並ぶ激辛料理などなどがそれです。 カレーの第2の定義として、汁気のあるものもないものも、カレー粉で味つけした料理はすべてカレーと認めることにします。 カレー粉とは既成のスパイスミックスのことで、一般的なスパイスミックスの成分は、ターメリック、クミンシード、コリアンダーシード、トウガラシ、フェヌグリークです。 こちらには、ドイツのカレー・ヴルスト、シンガポールヌードル、カレーケチャップがかかったオランダのフライドポテト、アメリカのカレーチキンサラダなどの異種族混血料理が含まれます。 カレーという言葉の起源についてたくさんの説がありますが、おそらく、スバイスで味つけした野菜や肉の炒めものを指す南インドのカリルまたはカリという言葉が元になっているのでしょう。 そもそもインド人はカレーという言葉を使っていませんでした。 しかし今日では、インド人も、とくに外国人と話をするときには、家庭で作る煮込み料理全般をカレーと呼ぶことが多いです。 15世紀後半、ポルトガルが香辛料貿易を支配し、ペルシア湾、マラッカ海峡、インドネシア、インド、南アフリカという広域にまたがる一大交易網を築きました。 17世紀、ポルトガルはイギリスとオランダに植民地の大半を奪われました。 1807年に大英帝国で奴隷貿易が違法とされ、1833年に奴隷制度そのものが廃止されました。 これを受けてイギリスは、解放された奴隷に代わる労働力として100万人を超える長期契約労働者を連れてきました。 インド亜大陸から、西インド諸島、南アフリカ、マレーシア、モーリシャス、スリランカ、フィジーのプランテーションへです。 新参者のインド人たちは移民先の土地の食材と自分たちの食習慣を合体させて、新種のカレーを作り出しました。 今日イギリスでは、数千軒のレストランやカレーハウス、ほぼ同数のパブでカレーを食べることができます。 また、オランダのハーグやアメリカのニューヨークなどの都市の多くのレストランで、地元の素材で作られる洗練されたカレーを味わうことができます。 カレーというグローバルな料理は今も進化し、変化する時代に適応し続けています。序章 カレーとは何だろう?/第1章 カレーの起源/第2章 イギリスのカレー/第3章 北米とオーストラリアのカレー/第4章 離散インド人たちのカレー/第5章 アフリカのカレー/第6章 東南アジアのカレー/第7章 その他の地域のカレー/第8章 カレーの今日、そして明日
2017.07.01
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