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聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんは、105歳でも現役の医師として活動されておられました。 自宅で静養を続けていましたが体調を崩し、2017年7月18日午前6時半に呼吸不全で死去されました。 著書を一つ読みたくなって、”いのちの器 - 医と老いと死をめぐって ”(1994年8月 PHP研究所刊 日野原 重明著)を読みました。 著者が70代のときに、医と老いと死をめぐって思うところを執筆した随筆集です。 日野原重明さんは1911年に山口県で生まれ、京都帝大医学部を卒業し、1941年から聖路加国際病院に勤め、同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを務めました。 また、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等も務めました。 京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士、マックマスター大学名誉博士で、日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章しました。 予防医療の重要性を唱え、1954年、聖路加病院内に民間として初の人間ドックを開設しました。 また、成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを習慣病と呼んで病気の予防につなげようと1970年代から提唱しました。 子供のころはステンレスやプラスチックやディスポーザブルの器はなく、たいていの容れ物は土でできた陶器や磁器の容れ物でした。 小さな手に待った大切な器を落として当惑したり、叱られたことを思い出す、といいます。 私たちの今のからだは、ステンレスでもプラスチックでもなく、朽ちる土の器です。 その中に何を盛るかが、私たちの一生の課題です。 若い時から、一生をかけて盛る、土でできたいのちの器を、いのちゆえに器も大切にしたいものです。 1911年に山口県吉敷郡下宇野令村にある母の実家で、6人兄弟の次男として生まれました。 父母ともにキリスト教徒で、父親・日野原善輔はユニオン神学校に留学中でした。 日野原さんは父親の影響を受け、7歳で受洗しました。 1913年に父親が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居しました。 1915年に父親が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会に移り、神戸に転居しました。 1918年に神戸市立諏訪山小学校入学、1921年に急性腎臓炎のため休学、療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始めました。 1924年に名門の旧制第一神戸中学校に合格しましたが、入学式当日に同校を退学し関西学院中学部に入学しました。 1929年に旧制第三高等学校理科に進学し、1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格し入学しました。 大学在学中に結核にかかり休学し、父親が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間の闘病生活を送りました。 1934年に京都帝国大学医学部2年に復学しました。 父親はいつも前向きに新しいものを求めて、いきいきと生き続けました。 生前、骨になるまで伝道し続けたいと口ぐせのように言っていたといいます。 その言葉通りに、81年の生涯を最後までキリスト教の伝道に捧げ、神から与えられたいのちを燃焼し尽くしました。 信仰の人、努力の人、実践の人でした。 それにも劣らぬ強い信仰心をもち続けた母親によって、自分の小さないのちを生かす道を示され、今日までの医師としての歩みを続けてきたといいます。 第二次世界大戦勃発の翌年に、戦時下で燈火管割下の暗い式場で静子と結婚の式を挙げ、戦後に三人の男の子が生まれました。 第二次大戦中は、応召した海軍で少尉となったものの、学生の時に病んだ胸の傷痕のために召集はありませんでした。 東京・築地の聖路加国際病院で昼夜を分かたず忙しく診察に明け暮れしているうちに、やがて終戦を迎えました。 壮年期を、戦前、戦後の激しい時代の中に過ごし、それから、はや半世紀が経過しようとしています。 医学の研究と教育と臨床に熱中して働き、自分の壮年期の終わりを意識しないうちに還暦を迎えていました。 それから矢のように年月が過ぎ、親しい後輩と教え子の数人に招かれた席が喜寿の祝いとなりました。 還暦の2年前には、思わぬアクシデントとして、よど号のハイジャックに遭遇しました。 生還してからは全く刷新された思いで、今日までの生活をフル回転し続けました。 貝原益軒も、老後の一日は若き時の十日に、一月は一年に値し、老後は、あだに日を暮らすべからずと言っています。 喜寿を過ぎて今を生き、高等学校や大学での良き友、良き師、良き文学や美術、音楽との出会いでとり入れられたことを感謝しているとのことです。 この本の中で、第一部は昭和63年に一年にわたって中日新聞(東京新聞)に連載したものに加筆したものです。 第二部のうち最初の5篇は、平成元年に、雑誌、歯界展望に連載したものに手を加えて転載したものであるということです。いのちの四季 いのちを考えよう・正月はよい習慣を身につける絶好の機会/健全な心を宿す・たとえからだは病んでも心こそ朽ちない宝/成人病・医学の進歩よりも意識の革命を/人生の半ば・最後の審判のための意義ある記録を残す/脳死・市民が参加する英国の倫理委員会に学ぶ/病者・じっと耐えて雪解けの春を待つ細い竹/耐寒と心・春を待つ思いは生きるエネルギー源/入試と人間形成・創造力と高い感性は受験では育たない/卒業式・山また山の人生への出発点/難聴・音の世界から隔離される人間の孤独/お墓・家の中にも故人が愛用した品物を/季節の言葉・自然への共感性を絆としてきた日本人/花冷え・老人のカゼは軽くても早く受診を/習慣病・「人は習わし次第」病気予防は各自の責任/婦人の健診・奥さんの健康にも愛のこもった配慮を/科学技術・最先端の技術よりも「養生」あっての医学/人生の第六期・健やかな老後は誕生日の禁煙から/急病に備える・かかりつけの主治医を持つことの大切さ/母への言葉・成人してからも時には心の会話を/老齢者社会と男性・家庭中心の生活が老人の健康を育む/先人の医師に学ぶ・医師を正しく選択し心の交わりを持つ/病気の一次予防・衣食住の悪習慣を改める生活のデザイン/音の公害・駅や空港を騒音のない健やかな環境に/いのちと時間・かぎりある未来の「時」をどう刻むか/第三の人生・定年十年前から生き方を組み立て直そう/ヘレンーケラーに学ぶ・心やからだに痛みのある人の友となる/自助と庇護・病から立ち上がる心を支えるもの/エイズ・患者と共存しながら蔓延を防ぐ教育を/自殺を避ける術・うつ病の早期治療で悲劇を防ぐ/言葉と手紙・手で書かれた「ふみ」の中のさまざまな人生/義務教育と生涯学習・何をどう学ぶかこそ、生き方の選択/ハートの日・文明国家の病から心臓を守ろう/終戦記念日・耐えることを経験しない豊かな時代の不幸/北米のホスピス・生涯の終わりに贈る優しく気高い愛/気象情報と健康情報・医師の言葉を生活に上手に取り入れる/リハビリ会議に思う・「世話される」日は誰にも必ず訪れる/文明国の怠慢・聴診器・血圧計もない救急車のお粗末さ/ガンは避けられる・生活習慣を改めることで予防できるガン/老人国家と病気・北欧で学んだ尿失禁者への温かな配慮/糖尿病・「肥ゆる秋」でなく「心高める秋」に/老いに再び光を・医学の進歩で取り戻す「心の窓」/心身のリハビリ・周囲の接し方でボケは正常に戻る/セルフ・チェック・通信サービスの進歩でより正確な健康管理/「文化」の本質・からだという朽ちる土の器に健やかな精神/中高年のストレス・医師に「自分」を打ち明け、行く道の指針を/三歳児・周りの人との距離を直感で判断する子供/健やかな人間自然からの恵みに感謝しよう/紅葉に寄せて・自らを自らの色素で染める人生の秋/自己投資・いのちのサポートとしての定期健診/ノーベル週間・医学研究者に愛の心をどう育てるか/人生の冬に・「最期の光」に人は何を求めるか/心の中の春・健やかな魂はいつまでも生き続ける医と老いと死をめぐって 病人と医師・もっと心と肌で触れ合う信頼関係を/言葉と医療・病は語り合いの中で癒される/患者の生き甲斐・病人を孤独にさせてはいけない/死を学ぶ・自分のものでない痛みや不安を汲み取る感性/病名告知・死んでいった友の遺した言葉の重さ/老いる・外の世界とふれあう場を作ってあげよう/人間ドツク・病気とは発見すべきものでなく予防すべきもの/老人の正常値・老人の健康評価にはゲタをはかせて/老人医療の行方・患者とコンピューターの間で/人生の苦しみ・生・老・病・死を超える出会い/人生の悦び・患者の側に立った終末医学の確立を/死を看取る・もの言えず死んでいくことの淋しさ/いのちのうつろい・生と死の狭間で精一杯生きる
2017.08.24
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平田篤胤は、戦後、皇国史観の元祖、狂信的国粋主義者という偏った見方でしか語られず、また、無視され続けてきました。 しかし、平田家に伝わる膨大な新資料を整理すると、その実像は、若くして亡くなった妻や、幼くして亡くなった子を思う、家族愛にあふれています。 また、現代にも通ずる日本独自の豊かな死生観を探究した、江戸後期を代表する思想家でもありました。 ”平田篤胤: 交響する死者・生者・神々”(2016年7月 平凡社刊 吉田 麻子著)を読みました。 かつて国粋主義の元祖とされ国学において宣長学の俗化と捉えられてきた、篤胤の知られざる生涯を紹介しています。 吉田麻子さんは1972年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学し、現在、学習院女子大学・相模女子大学・東海大学などで非常勤講師を務めています。 1998年に、それまで未公開だった先祖伝来の気吹舎資料の調査を、平田篤胤神道宗家当主より許されたそうです。 また、2001年に、当時、国立歴史民俗博物館館長だった宮地正人さんと出会い、その指導を仰ぎながら共に調査を進めました。 平田篤胤は江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者で、1776年出羽久保田藩生まれ、成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となりました。 幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称しました。 号は気吹舎=いぶきのや、家號を真菅乃屋=ますげのやといい、医者としては玄琢を使いました。 1843年に67歳で亡くなり、墓所は秋田市手形字大沢にあり、国の史跡に指定されています。 東京都渋谷区に篤胤を祭った平田神社があり、千葉県旭市に平田篤胤歌碑が残されています。 死後、神霊能真柱大人=かむたまのみはしらのうしの名を、白川家より贈られています。 復古神道、古道学の大成者であり、大国隆正によって、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人=うしの中の一人として位置付けられています。 平田篤胤という人物について、これまである偏ったイメージをもって批判的に語られてきました。 たとえば、倫理学者の和辻哲郎は篤胤を、”日本倫理思想史”の中で、狂信的国粋主義の変質者と呼んでいます。 また、思想史研究者の安丸良夫は篤胤の思想を、”日本ナショナリズムの前夜”の中で、人間の頭脳か考えうるかぎりもっとも身勝手で独りよがりな議論と評しています。 篤胤の語る死後の世界は、実は日本神話の神々の織りなす壮大なコスモロジーの中に含み込まれて構想されています。 そこでは、日本を中心とした世界観が思想全体を覆っていて、日本が世界のもとの国であると主張しています。 日本の万事万物は万国にすぐれている、あるいは、わが天皇が万国の大君などといった、極端な文言か並んでいます。 そのような側面が、篤胤没後の幕末維新期に、尊皇攘夷と王政復古運動、廃仏毀釈、祭政一致など、一連の社会的な情勢や展開に多大な影響を与えたと言われています。 さらに、戦前の国家主義に利用されるといった、大きな歴史的経緯にも関わることとなったことから、篤胤についての偏った見方が生まれ無視されることとなりました。 しかし、未公開だった気吹舎資料の厖大な書簡や草稿類は、これまでのような単純な裁断を許さない迫力を有していました。 そこには、戦前の国家主義や国粋主義といった言葉には、とうてい収まりきれない、豊かな感性と思想がありました。 そのことによって、もういちど篤胤の書いた書物に立ち戻って考えたいという欲求が湧き上がってきた、といいます。 篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらしました。 神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えました。 また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していました。 西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などに精通し、心霊現象、死後の世界、霊魂の実在、パワースポット、生まれ変わり、神などなどを考察しました。 人が生きているあいだには、どうしてもそのように穏やかな波間にたゆたっているわけにはいかなぐなることかあります。 なんとなく、あるような、ないようなではすまされない、この世ならぬものへの止みがたき希求の瞬間が訪れる場合かあります。 それは、社会的環境やその変化によってもたらされることもあり、また個人の人生における何らかの衝撃による場合もあるでしょう。 平田篤胤は、江戸時代後期の日本でその瞬間を迎え、自身の強い実感と現実とのあいだにある混沌とした大きな闇をなんとか言葉で解明し、他者に説き広めようとしました。 死後の魂の行方や、この世ならぬものの存在の有無といった問題は、実は私たちか死んだ後に関わってくる話ではありません。 まさに生きている私たちの世界がどのように成り立っているか、あるいは人間が生きるということはどういうことなのかを捉え直すことに他なりません。 少なくとも篤胤は、人間を、そのいとなみを、間違いなく愛しています。 名も無き庶民を、人間か生きることを、まるごと肯定しています。 にもかかわらず、中心としているのは人間ではありません。 では何を中心としているのかといえば、海、山、川、雨、風、稲など、万物にやどる八百万の神々とそこら中にある亡くなった人たちの魂です。 生きている人間だけを大切にするのでは、真の意味で人間を大切にすることかできないということです。 この篤胤独自の哲学は、江戸時代の平田門人たちだけでなく、現代社会に生きる私たちにとっても、けっして見過ごせないものであるように思われます。 篤胤の、生きている人間を中心としないヒューマニズムと、支えていた日本の前近代的な感性は、現代社会のありようを見つめ直す、大きなヒントになるのではないでしょうか。第1章 平田国学の胎動/第2章 西洋の接近と『霊能真柱』/第3章 地城の奇談と平田門人/第4章 世界像と祈り/第5章 生の肯定、死生の捉え直し/第6章 近世後期の知識人たち/第7章 平田国学における倫理/第8章 広がりゆく書物と篤胤の最期
2017.08.17
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大江匡衡=おおえのまさひらは、平安中期の詩文の才に秀でて優れた漢詩文を制作した文人官僚です。 一条天皇の侍読などを歴任し、藤原道長と緊密な関係を築き、晩年は尾張・丹波の国守を務めました。 ”大江匡衡”(2006年3月 吉川弘文館刊 後藤 昭雄著)を読みました。 平安中期に漢詩文の才で栄達をめざした文人官僚、大江匡衡の生涯を紹介しています。 後藤昭雄さんは1943年生まれ、1970年九州大学大学院文学研究科博士課程修了し、1982年に九州大学文学博士となりました。 鹿児島県立短期大学講師、静岡大学教育学部講師を経て、1983年大阪大学教養部助教授、1994年同文学研究科教授となり、2007年定年で名誉教授となりました。 2008年から2013年まで成城大学教授を務めました。 大江匡衡は村上天皇の代である952年に、大江音人を祖とし菅原氏=菅家と並ぶ学問の家柄の大江氏=江家に生まれました。 平安時代中期の儒者・歌人で中納言・大江維時の孫、左京大夫・大江重光の子で、官位は正四位下・式部大輔、中古三十六歌仙の一人でした。 大江氏は菅原道真の失脚後に飛躍し、聖代とされている村上朝には、匡衡の祖父にあたる維時や一族の大江朝綱らが儒家の中心的存在となりました。 父の重光は、対策に及第している文人官僚でした。 晩年に自身の半生を回顧した長編の述懐詩によれば、大江匡衡は7歳で読書をはじめ、9歳で詠作を行ったといいます。 964年に13歳で元服し、祖父の維時から教戒を受けたということです。 ただし、維時は実際には963年に死去しています。 966年に15歳で大学寮に入り、翌年には寮試に合格して擬文章生となりました。 紀伝道を学び、973年に省試に合格して文章生となりました。 なお、この時期に父の重光が死去しています。 976年~978年ころ、赤染時用の娘で歌人として知られる赤染衛門を妻としています。 匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られ、仲睦ましい夫婦仲より匡衡衛門と呼ばれたということです。 979年に対策に及第しました。 985年に襲撃され、左手指を切断されました。 犯人は藤原保輔とされていましす。 991年に仁康上人が河原院で五時講を行った際に執筆した願文により名声を高め、侍従に任官しました。 998年に従四位下に叙され式部権少大輔に任官し、一条天皇の侍読となりました。 1009年に文章博士となり、尾張守となりました。 東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至りました。 匡衡が文人として活躍するのは一条天皇の時代ですが、一条朝こそ平安朝文学の精華の”源氏物語”や”枕草子”を生み出した時代です。 それぞれの作者の紫式部と清少納言は、一条天皇の后として寵愛を競い彰子と定子に什える女房でした。 さらに、歌人として和泉式部、また匡衡の妻である赤染衛門があります。 一般的には、一条朝は女流文学が華やかに花開いた時代、というイメージで理解されているに違いありませんが、それだけではありませんでした。 文字に仮名に対して真名があるように、文学にも仮名の文学に対して漢字の文学=漢詩漢文がありました。 仮名文学全盛の時代と見える一条朝においてさえ、男性の貴族たちの間では、和歌よりも漢詩の方が、文学として正統な、より価値のあるものと評価されていました。 平安朝の漢文の名篇を選録した”本朝文粋”には、匡衡は作者別では最も多い数の作品が収められています。 ただし、表や願文、奏状など、上流貴族の依嘱を受けて制作した作品がかなりあります。 このことは、文人として匡衡が重要な位置にあったことを示すものです。 また、広く貴族社会の中にあっては、詩文制作の専門家という限定的立場に置かれていたことを物語ります。 匡衡の伝を叙述していくに当たって最も基本となるのは、もちろん匡衡が作った詩文です。 匡衡には詩集”江史部集”があり、130首余りの詩と29首の詩序が収められています。 平安朝には多くの文人詩人が登場しましたが、その詩文集が現存するのはごくわずかな人々であり、匡衡はその数少ない幸運な詩人の一人でした。 また、匡衡は歌人としても、中古三十六歌仙の一人で、歌集”大江匡衡集”を持っており、すなわち和漢兼作の詩人でした。 匡衡の生涯を追っていくうえで、妻で歌人である赤染衛門の存在は大きいです。 匡衡は一条天皇期に文人として活躍し、藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、時折彼らの表や願文、奏上などの文章を代作し、名儒と称されました。 また地方官としても善政の誉れ高く、尾張国の国司としての在任中は学校院を設立し、地域の教育の向上に努めました。 公卿としての地位を望みましたが果たせずに終わりました。第一=稽古の力(誕生とその時代/少年期/大学での修学/赤染衛門との結婚)/第二=帝王の師範(官途に就く/文章博士/帝師として)/第三=学統の継承(尾張赴任/京へ帰還/再び尾張へ/丹波守への遷任と死/詩文と和歌/子供たち)/人と文学/系図/略年譜/参考文献
2017.08.11
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サハラ砂漠はアフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大の砂漠です。 南北1,700千米に渡り面積は約1,000万平米であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占めています。 ”サハラ砂漠 塩の道をゆく”(2017年5月 集英社刊 片平 孝著)を読みました。 ラクダのキャラバンで運ばれる塩の交易アザライに密着した、往復1500キロ、42日間の大旅行を写真と文章で紹介しています。 サハラ砂漠全体の人口は約2,500万人であり、そのほとんどはモーリタニア、モロッコ、アルジェリアに住んでいます。 サハラ砂漠内で最大の都市は、モーリタニアの首都ヌアクショットです。 その他、重要な都市としては、ヌアディブー、タマンラセト、アガデズ、セブハ、インサラーが挙げられます。 かつてこのサハラの奥地に、金と同じ重さで取引された岩塩がありました。 いにしえの黄金都市トンブクトゥからサハラ砂漠奥地のタウデニ岩塩鉱山への、いのちの塩を求めての旅でした。 片平孝さんは1943年宮城県生まれの写真家で、1969年からサハラに魅せられ、砂漠の旅を続けました。 1972年にハウサ族のラクダのキャラバンに密着し、サハラの塩の道の東西ルートを踏破しました。 この時、命懸けで塩を運ぶ人々の姿に感動し、以来、塩を産出する土地を求めて、世界中で取材を続けています。 サハラにおいてもっとも希少な資源は水ですが、サハラは数千年前までは湿潤な土地であり、そのころに蓄積された化石水が地底奥深くに眠っています。 この化石水は現在の気候条件下では再生不可能なものであり、使用しきってしまえば一瞬にして無用の長物と化すと言われています。 サハラはさほど鉱物資源の多い地域ではありませんが、それでもいくつかの大規模鉱山が存在します。 サハラでもっとも豊富で価値のある資源は石油です。 とくに、砂漠北部のアルジェリアとリビアには豊富な石油が埋蔵されています。 アルジェリアのハシメサウド油田やハシルメル油田、リビアのゼルテン油田、サリール油田、アマル油田などの巨大油田が開発され、両国の経済を支えています。 また、モロッコと西サハラには燐酸塩が埋蔵されています。 西サハラのブーカラーで採掘されるリン鉱石は全長約90千米以上のベルトコンベアーで首都アイウンまで運ばれ、船に積み込まれます。 この採掘は全域が砂漠の西サハラにおいて最大の産業となっています。 このほか、砂漠西部のモーリタニア北部、ズエラットには巨大な鉄鉱床が存在しています。 ここで採掘される鉄鉱石は近年大西洋沖合いにて石油が発見されるまでモーリタニア経済の柱となってきました。 また、砂漠中央部、ニジェール領アーリットにはウランの鉱床があり、アクータ鉱山とアーリット鉱山の2つの鉱山が開発されています。 ほかに見るべき産物のない、ニジェール経済の牽引車となってきました。 また、北東部のリビア砂漠においては、リビアングラスという天然ガラスが埋蔵され、古代エジプト時代より宝石として珍重されてきました。 また、サハラ北部には砂漠のバラが多数存在し、土産物となっています。 歴史上においては、サハラでもっとも貴重な鉱物は塩でした。 古来、人々は、塩を手に入れるために命を賭して戦い、様々な工夫と知恵を絞ってきました。 古代から近代に至るまで、多くの国の財政は塩にかけた税金で賄われていました。 フランス革命は、塩にかけた重税に対する民衆の怒りの爆発でもありました。 塩は時に思いもよらない力と価値を生み出します。 かつて金と同等の希少価値を持つ塩がありました。 塩が奴隷の体重と同じ重さで取引された時代もあります。 しかし、現代の塩は台所の隅っこでただの調味料として無関心に扱われ、塩の摂り過ぎは健康を害するとして悪者扱いされることさえあります。 塩は、人の命を繋ぎ、人の命を破壊する諸刃の剣でもあります。 塩のふるさとは太古の海です。 大昔に海だったサハラ砂漠には、海塩をはじめ、湖塩、岩塩など、地球上のすべての塩が存在しています。 なかでもサハラ砂漠の奥地に産出する岩塩は、かつて王者の商品とまで呼ばれ、塩の採れない西アフリカ内部の森林地帯では金と同じ重さで取引されるほど、大変な貴重品でした。 アフリカの政情は、空模様のように変わります。 たまたま治安が良くなった年がありました。 2002年に世界遺産の撮影で28年ぶりにトンブクトゥを訪ねた時、外国人でもタウデュ鉱山に行けるようになったことを知りました。 2003年12月にアザライと旅をするという夢を実現させるために、4度目のマリに飛びました。 初めてアザライを目にしてから、すでに33年の時が流れていました。 本書はこのときの記録です。第1章 タウデニ岩塩鉱山への旅立ち/第2章 タウデニ岩塩鉱山/第3章 タウデニからの帰り道/第4章 旅の終わりの試練
2017.08.05
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