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石の世界石は地球にだけあるものではありません。 人間は月に行き石を待ち帰ってきました。 宇宙を漂う大きな石塊に向けて機械を飛ばし、石の粉を回収しました。 また、遥か昔に地球に落ちてきた石を調べて、水の起源を、そして生命の起源を探っています。 ”奇妙で美しい 石の世界 ”(2017年6月 筑摩書房刊 山田 英春著)を読みました。 さまざまな石の模様の美しい写真とともに、国内外のさまざまな石の物語を紹介しています。 石はあいかわらず世界の謎を解くカギなのです。 自然界の謎を石が背負っているように、石は人の心の謎を背負っています。 山田英春さんは1962年東京都国分寺市生まれ、1985年に国際基督教大学を卒業し、出版社勤務、デザイン事務所勤務を経て、1993年に装丁家として個人事務所を開設しました。 瑪瑙コレクターとしても世界的に知られ、いろいろな石を紹介した著書があるほか、ウェブサイト=LITHOS GRAPHICSでさまざまな石を紹介しています。 著者は鉱物学や岩石学の専門家ではありませんが、初めに基本的なことを説明しています。 石の模様に興味をもつようになったきっかけは、フランスの学者ロジエ・カイヨワの”石が書く”という、石の模様と人の想像力に関する、一冊の本だったといいます。 石の模様は人間が独自に作り出してきたと自負する芸術に先立って、より広く普遍的な美が存在するという事実を、つねに暗示し、思い出させる密かな声なのだといいます。 石の模様を見ると、人がものを見て美しいと感じる感覚とは何なのかということを考えずにはいられません。 また、人間が生み出してきた造形、とくに抽象美術をさまざまに思い起こします。 石を科学的に分類すると、鉱物と岩石に分けられます。 鉱物は一定の化学組成をもった結晶質のもので、単一の元素の結晶もあれば、複数の元素が結びついた物質の結晶もあり、化学式で表すことができます。 私たちが宝石と呼んでいるもののほとんどが、純度の高い鉱物の大きな結晶をカットして磨いたものです。 結晶は原子や分子が規則的なパターンで配列された個体で、それぞれの鉱物特有の形の癖である晶癖というものがあります。 たとえば水晶は先が尖った六角柱形、黄鉄鉱は正四面体や十二面体の姿になりやすいです。 この形の簡明な美しさ、そして色や透明感に惹かれ、鉱物の結晶を愛好、コレクションする人は多いです。 一方、岩石は細かい数種の鉱物の粒の集合したものです。 岩石は地中のマグマ由来の火成岩、泥や砂などの堆積したものが固まった堆積岩、岩石が熱や圧力の作用で変質した変成岩の三つに分類されます。 さらに火成岩は、地中のマグマがゆっくりと冷えて固まった深成岩と、流れ出した溶岩が固まった火山岩に分けられます。 深成岩には花尚岩、かんらん岩などが、火山岩には玄武岩、流紋岩などがあります。 河原に落ちているような普通の石ははとんどが岩石ということになりますが、鉱物の結晶の多くは岩石の穴の中に入っています。 日本で観賞石というと、主に天然の岩石の形を愉しむものが多いです。 石を本の台座に置き、その形を山景などにみたてて愉しむ水石も、ほとんどが岩石です。 本書で紹介する石のほとんどはいわゆる宝石ではありませんし、水晶などの大きな鉱物の結晶でもありません。 一部は岩石ですが、石の外形を見せるものでもありません。 ここで扱うのは主に、ある鉱物の微細な結晶が集合しつつ、他の鉱物と混じり合ってできた塊を切った断面です。 つまり、石の中に立体的に入っている造形を取り出し、平面的に見せたものです。 かなりの部分は瑠璃、ジャスパー、オパールといった、シリカ=二酸化ケイ素を主成分にしたものです。 シリカが結晶したものは石英と呼ばれます。 石英は私たちが上に乗っている地面を構成する鉱物で二番目に多いものです。 石英の大きな結晶は水晶と呼ばれ、石英の目に見えないごく微小な結晶が集合して塊になったものは玉髄=カルセドニーと呼ばれます。 この玉髄にいろいろな鉱物が混じることで、色や形のバラエティーが生まれます。 それらは日本では瑠璃と総称されていますが、欧米の宝飾の世界では色、模様の特徴別にさまざまな名が使われてきました。 オレンジ・赤茶色のサード、赤味の鮮やかなカーネリアン、緑色のクリソプレーズ、平行線の縞模様のオニキス、 そして、曲線の美しい縞模様のあるアゲート、樹木のような形が入っているデンドリティック・アゲート、苔のような、水草のような形が入っているモス・アゲートなど、 数十種にもおよぶ名前があります。 これら石英系の石が見せる色彩と造形には、他の鉱物を圧倒する多様性があり、名前の多さはそのバラエティーの豊富さを示しています。 こうした名前の使い方は地域によっても微妙に異なります。 日本語の瑠璃は英語のアゲートの訳として使われますが、イコールではありません。 アゲートは模様の美しい玉髄だけに使われる名前なのに対し、日本では無色透明な玉髄も瑞瑞と呼ぶことが多いです。 また、日本で玉髄という名は、地域によってはまた違ったタイプの石に使われることもあります。 本書では、やや日本での用法に寄せた形で、色のついた、模様のある玉髄全般を瑪瑙と呼ぶことにします。 本書では、三つのパートに分けてさまざまな石について紹介しています。 まず、石の特徴的な模様と、それを人々がどう受けとめてきたかという話”石は描く”、 次に石の造形にこめられた地球の歴史、地域の歴史、ひとつの時代の話についての”石は語る”、 そして、石を追い求めてきた人の歴史、私か石を探し求めた話の”石を追う”です。 それぞれの項はほぼ独立したものになっているため、読む順番は問いませんが、先に掲載されている項目で紹介したことがらを受けて書かれているものも多いです。石は描く フィレンツェの石/縞模様の誘惑/モリソン氏の芸術的なジャスパー/虹を探して/インドの「木の石」)石は語る オーストラリアの奇妙な石たち/ドラゴンの卵、亀の石/スコットランドの小石孔雀石の小箱石を追う 花の石/サンダーエッグの女王とその息子/「小さな緑色の怪物」/コロンビアの瑪瑙
2017.09.30
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古田織部を主人公として描いた歴史漫画作品として、”へうげもの”=ひょうげものが知られています。 第1巻は2005年12月22日に発売され、最近の第24巻は2017年6月23日に発売されました。 この作品の第1巻から第9巻までが全39話で、2011年4月から2012年1月にかけて、NHK BSプレミアムにて放送されました。 ”古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人”(2016年1月 中央公論新社刊 諏訪 勝則著)を読みました。 信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けた戦国武将で、「後に数寄者として多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となった織部の生涯を紹介しています。 ”へうげる”=剽げるとは、ふざける、おどける、の意味です。 織田信長に仕えて調略の才を発揮した古田織部は、のち羽柴秀吉に従って天下取りに貢献し、他方で茶の湯を千利休に学んで高弟となりました。 利休の死後は、特異な芸術センスで桃山文化に多大な影響力を及ぼし、公武にわたる広範な人脈を築きました。 しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣方への内通を疑われ、幕府から切腹を命じられました。 古田織部は、単なるへうげものではありません。 諏訪勝則さんは、1965年神奈川県生まれ、國學院大學文学部文学科卒業、同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了、現在、陸上自衛隊高等工科学校教官を務めています。 古田織部という名前は茶人としての呼称で、武人としては古田重然=しげなりという名前です。 1543年に美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟・古田重定の子として生まれ、後に伯父・重安の養子となりました。 織部の名は、壮年期に従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来しています。 古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていましたが、1567年に織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めました。 翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っています。 1569年に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚しました。 武人としての織部は、信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けました。 そこには、秀吉の名幕僚として出生街道を歩んだ華やかな姿は見られません。 代官・補佐役・調略役として着実に職務に専念する、地味な武人として活動しました。 美濃土岐氏の家臣から始まり、信長に属してからは、中川清秀と姻戚関係を結び、摂津・播磨攻略の一翼を担いました。 本能寺の変直後には秀吉に与し、明智光秀討滅に貢献しました。 賤ヶ岳合戦において清秀が陣没したため、その嫡男秀政を支え、小牧・長久手合戦や四国遠征に参加し、補佐役として活躍しました。 秀吉の晩年には御伽衆として活動しました。 千利休ほどではないにしろ、秀吉の側近くにあって、諸将への連絡調整や助言等を行っていました。 関ヶ原合戦では徳川方に属し、佐竹義宣の調略に成功しています。 武人との交流は盛んで、まず、伊達政宗・島津義弘・同家久・佐竹義宣・南部利直・毛利秀元・小早川秀包・北条氏盛ら、戦国大名とその一族の人々を門弟としていました。 次に、細川幽斎・同忠興・松井康之・織田有楽・黒田如水・浅野長政・同幸長・大野治房・和久宗是・猪子一時・有馬豊氏・小堀遠州・上田宗箇・金森長近・同可重・ 九鬼守隆・古田重勝・村上頼勝・桑山重勝・同元晴・寺沢広高・竹中重利・別所吉治・藤堂高虎・石川貞通・池田利隆ら、織田・豊臣系の武将たちとの交流がありました。 次に、徳川家康・秀忠を始め、本多正信・本多正純・土井利勝・榊原康政・松平正綱・水野守信・板倉重宗ら徳川家とその重臣たちにも茶の湯について指南していました。 このように、旧豊臣系、徳川系を問わず、分け隔てなく交流し、軍事・政治的なネットワークは確たるものでした。 文人との交流も盛んで、平時は文芸に勤しみ、秀吉・家康時代は、公家社会の最上位近衛信尹=このえ のぶただから連歌の指導を受けるなど、文事に一層精進していました。 師の千利休を始めとして、津田宗及・同宗凡・神屋宗湛・松屋久好・住古屋宗無・今井宗久・同宗薫・武野宗瓦・藪内紹智といった茶人と深く関わりました。 また、近衛信尹・今西洞院時慶ら公家衆とも交わりを持ちました。 さらには本願寺教如・万里小路充房・文英清韓・松梅院禅昌・木阿弥光悦・松花堂昭乗とも親しかったです。 市井の文化の担い手である京都の下京衆などにも、茶の湯を伝授しました。 こうして、茶の湯を趣味とする風流人の数寄者として、多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となりました。 誠実な人柄で周囲の人々に丁寧で気配りの利いた対応をしながら、最上を追い求める孤高の芸術家でもありました。 村田珠光によって創始され、武野紹鴎を経て、千利休が大成させたわび茶を継承しました。 そして、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって、織部好みと呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらしました。 千利休は自然の中から美を見いだした人ですが、作り出した人ではありません。 古田織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっていると言われています。 2014年の古田織部400年遠忌に合わせて、京都市北区上賀茂桜井町に古田織部美術館が開設されました。第1章 一犬茶人に至るまで-生誕から信長時代 織部の生い立ち/信長の家臣として/文芸活動第2章 利休の門人となる-豊臣政権確立期 秀吉に臣従/茶人としての道/中川家を支援/紀州・四国遠征/武将としての飛躍第3章 師の側近として-天下人秀吉の時代 武家茶人/小田原遠征/秀吉の茶頭第4章 天下一の茶匠-関ケ原合戦前後 合戦前夜/織部焼/関ヶ原合戦本戦/合戦後第5章 巨匠の死-大坂夏の陣まで 東奔西走の日々/将軍家の茶匠/織部死す終 章 織部の実像 武家文人/芸術家織部主要参考文献/古田織部略年譜
2017.09.24
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江戸幕府の八代“暴れん坊”将軍の年収は1294億円であったということです。 その将軍に勝るとも劣らない1000億円超の年収を稼いでいた人物がいたそうです。 ”江戸の長者番付 ”(2017年3月 青春出版社刊 菅野 俊輔著)を読みました。 歴史資料に基づいて、江戸時代の様々な職業の年収を明らかにしています。 菅野俊輔さんは1948年東京都目黒区生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業、3度の食事より江戸の咄が大好きという江戸文化研究家です。 現在、早稲田大学エクステンションセンターや毎日文化センター、読売・日本テレビ文化センター、小津文化教室などで、講師を務めています。 江戸のくずし字や江戸学など、江戸を楽しむというテーマで、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍しています。 もともと、番付は大相撲における力士の順位表で、正式には番付表といいます。 ここから転じて、その他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられています。 長者番付は、今でいう高額納税者公示制度です。 この制度は、政府が数千万~数億円単位の高額納税者を2006年まで公示していました。 公示された高額納税者の名簿は、一般的に高額納税者番付や長者番付として用いられました。 2005年4月1日から個人情報保護法が全面施行されたことを受け、この制度は廃止されました。 むかしの東京、江戸は、失われたワンダーランドで、たくさんの謎がありました。 江戸の長者番付とお金持ち事情は、その最大の謎といえます。 江戸は、18世紀の前半に100万都市になりました。 徳川将軍家の城下町であるため全国の大名や旗本・御家人の屋敷が並び、江戸の範囲といわれる四里四方の6割の広さに50万人の武士が住んでいました。 残りのうち、2割が寺社で、僧侶や神官が暮らしていました。 そして、残り2割の地に、50万の町人が住んでいました。 それゆえ、住宅に工夫を施した結果、裏店とよばれる集合住宅の長屋に7割の35万人が住んでいました。 御三家の紀州家から8代将軍となった徳川吉宗と町奉行の大岡忠相越前守が江戸の改革に努め、18世紀の後半は、江戸っ子にとって住みやすい大都会になりました。 歌舞伎や出版、料理ブームなど、いかにも江戸らしいユニークな文化がおこり、彩色の浮世絵も誕生しています。 19世紀になると全国的に旅ブームが到来し、武都の江戸は、古都の京、商都の大坂とともに三都と呼ばれ、観光都市になり、全国からたくさんの人びとが訪れました。 江戸のお金は複雑で、金・銀・銭の三貨があり、それぞれの単位が違っていました。 金貨は高額貨幣、銀貨は中間で、銭貨は低額貨幣で、19世紀に通用した貨幣には、一両小判、一分金と一分銀、一朱金と一朱銀、四文銭と一文銭などがありました。 18世紀の後半から、金貨と同じように貨幣一枚の価値が統一された計数貨幣も鋳造されるようになりました。 長屋住まいの江戸っ子は、文を単位とする銭貨で暮らしていました。 旅に出かける人は、小粒とよばれた一分銀や一朱銀をたくさん持ち、道中で銭に両替して、草鞋代、団子代、旅龍代などを払っていました。 本書では、金一両=約16万2000円、銀一匁=約2700円という算出で、今のお金に換算しています。 江戸には武士と町人が生活していて、武士の給料・収入は百石とか百俵というように米が基準となっていたが、町人の給料・収入はお金でした。 時代がくだると貨幣経済が進展し、武士も自家用分を除いて換金するようになりましたが、給料・収入がお金に変わることはありませんでした。 農村に住み、田畑を耕して米や野菜を生産する農民は、税金の年貢を現物で納めていましたが、時代がくだると畑作での収穫の分をお金で納めるようになりました。 そんな江戸時代に、人びとは、どのくらいの給料・収入を得て、どのように豊かな、あるいは、慎ましい生活を送っていたのでしょうか。 将軍・大名から下級武士、長屋に住む町人、歌舞伎役者、花魁、豪商まで、そのフトコロ事情を丹念に探ってみたということです。 ついに発表、江戸の長者番付ベスト10。 1位.吉宗 1294億円、2位.加賀前田家 1134億円、3位.越後屋 17億円、4位.寛永寺 7億3710万円、5位.大岡忠相奉行 2億2226万円、6位.歌舞伎役者 1億7820万円、7位.銀座大黒常栄 1億3300円、8位.花魁 1億2960万円、9位.長谷川平蔵 1億230万円、10位.奥女中 3502万円、次点.杉田玄白 2268万円。 1章 江戸の長者番付ベスト10―年収“億”をはるかに超えるお金持ちたちがズラリ2章 江戸時代、あの職業・この商売の意外な給料事情―貧乏武士は年収100万円以下、町人・農民は意外にも…3章 比べてビックリ!江戸のおもしろ給料比較―大岡越前と鬼平、金持ち大名と貧乏大名、千両役者と花魁…4章 江戸っ子はなぜ、“宵越しの金”を持たなくても生活できたのか-長屋暮らしの庶民はいくら稼いで、どう使っていた?5章 江戸の超大金持ちたちの華麗なる(?)生活-将軍とその妻から、百万石の大名、豪商、義賊まで6章 じつは一番貧しかった?武士の悲しいフトコロ具合-傘張り、金魚飼育、朝顔づくり…欠かせぬ内職で生活費はハウマッチ?
2017.09.18
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足利義稙=あしかがよしたねは、室町幕府第10代将軍です。。 父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟の義視、母は日野富子の妹に当たる裏松重政の娘です。 初名は義材=よしき、将軍職を追われ逃亡中の1498年に義尹=よしただ、将軍職復帰後の1513年に義稙と改名しました。 ”足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍”(2016年5月 戎光祥出版社刊 山田 康弘著)を読みました。 明応の政変で追放され全国を流浪するも、不死鳥のごとく舞い戻り二度も将軍の座に就いた、波瀾万丈な生涯を紹介しています。 山田康弘さんは1966年群馬県に生まれ、学習院大学文学部史学科、同大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了しました。 日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、学習院大学、国立東京・小山両工業高等専門学校非常勤講師を務めています。 足利義稙は、1466年に義視の子として、父の近習・種村九郎の邸で生まれました。 1467年1月に応仁の乱が勃発すると、父義視は兄である将軍義政と対立して、9月には東軍より山門に出奔し、ついで西軍に身を投じました。 この時、東軍の武田信賢が義材を護り西軍に送り届けたといいます。 1473年に義政の子義尚が9代将軍となり、1477年11月に応仁の乱が終結すると、義視・義材親子は西軍の一角であった美濃国の土岐成頼、斎藤妙椿の庇護のもとにありました。 1478年7月に大御所・義政と義視の和議が正式に成立した後も、美濃国に留まり続けました。 義材は1487年に義尚の猶子として元服し、義尚の母日野富子らの推挙で、美濃在国のまま従五位下左馬頭に叙位されました。 1489年に、義尚が旧西軍であった近江国の六角高頼征伐の在陣中に死去しました。 義稙は父義視、土岐成頼、斎藤妙純に伴われて上洛し葬儀に参列しようとしましたが、細川政元の反対で葬儀終了後に入京しました。 政元は、義尚と義材の従兄弟の香厳院清晃を将軍後継者候補に推していました。 しかし、義政・富子夫妻が義材を支持したため、義材の将軍就任がほぼ決定しました。 1490年に大御所足利義政が没してのち幕府の実権を握り、義尚の遺志を継ぎ第2次六角征伐、河内出陣の軍を起こしました。 これが原因で細川政元と対立し、1493年4月政元のクーデターにより逮捕され、将軍を廃立されました。 将軍職を廃され幽閉されましたが、脱出して越中国、ついで越前国へ逃れました。 1499年に京都奪回を企図しましたが果たせませんでした。 その後も諸大名の軍事力を動員して、京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送りました。 1507年に細川政元が暗殺され、細川家が分裂状態に陥りました。 義尹は将軍への復帰の好機と見て、1508年4月に大内家の軍事力に支えられ、中国地方や九州の諸大名とともに、山口から海路上洛しようとしました。 同年6月に京都を占領して、11代将軍義澄や高国と対立していた管領細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰しました。 政権は、管領となった細川高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていました。 大内義興が周防国に帰国すると、管領細川政元の養子の高国と対立し、1521年に細川晴元・持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われました。 戦国時代は、足利将軍家にとって厳しい時代でした。 各地の大名たちは、もはや将軍の命令をかつてのようにはきちんと遵守しなくなりました。 また、将軍は、政情不安によって京都から地方にその居所をしばしば移さざるをえなくなりました。 かつて戦国時代の足利将軍について、もはや権力を失い重臣たちの傀儡になってしまった、などと評価されてきました。 しかし、近年、戦国時代の足利将軍に関する研究は少しずつ着実にすすんでいて、そのような評価は誤りであることがしだいに明らかにされつつあります。 戦国時代の将軍たちは、決して傀儡ではありませんでしたし、決して無力でもありませんでした。 厳しい環境の故か、戦国期の歴代将軍は、足利義稙をはじめ、知将・名君が多かったようです。 将軍たちは、みずから登用した側近らの補佐をうけながら、戦国期にいたっても京都内から、将軍のもとになお大量に持ちこまれていたいろいろな訴訟をさばいていました。 さらに、全国各地の大名たちにさまざまな栄典を授与し、大名たちから依頼があれば紛争調停をおこなっていました。 このように、足利将軍は戦国時代にいたっても、一定の政治的役割を果たしていました。 この時代の足利将軍については、一般はもとより専門の研究者のあいだですら関心が低いようです。 織田信長と死闘を演じた足利義昭をのぞけば、戦国期における個々の将軍について論じた伝記すら今のところありません。 戦国期の将軍のなかでとくに足利義植をとりあげたのは、現代ではあまり知る人のいない義稙の波瀾万丈な生涯を広く一般に紹介したい、とかねてから願っていたからです。 足利義稙は、戦国時代を懸命に生き、いくども挫折しながらそれでもあきらめずに戦いぬきました。 義植の人生は、急上昇と急降下のくり返しでした。 しかもこの間、将軍の身でありながら逮捕されたり、毒殺されかかったこともありました。 また、大嵐のなかを脱獄したこともありましたし、夜中に刺客に襲われ、自ら剣をふるってこれを撃退する、といった危難に遭遇したこともありました。 義稙は戦国時代を懸命に生き、いくども挫折し苦悶しながら、それでもあきらめずに挑戦しつづけました。 とかく現代では無力・無能であったといわれる戦国時代の将軍たちが、本当はどのような人びとであったのかを知る手がかりもあたえてくれます。 近年、歴史学関係者のあいだでは、義稙のような隠れた英雄を発掘し、紹介していこうという動きが生じつつあります。 隠れた英雄から戦国時代を眺めてみるのも一興でしょうし、これまで気づかなかった戦国時代の新しい側面がみえてくるにちがいありません。第Ⅰ部 思いがけなかった将軍の地位 第一章 応仁・文明の乱はなぜ起きたのか/第二章 義稙はなぜ将軍になりえたのか/第三章 義稙はなぜ外征を決断したのか第Ⅱ部 クーデターと苦難の日々 第一章 義稙はなぜ将軍位を追われたのか/第二章 義稙はいかにして反撃したのか/第三章 義稙はなぜ大敗してしまったのか第Ⅲ部 ふたたびの栄光と思わぬ結末 第一章 義稙はなぜ将軍位に返り咲けたのか/第二章 義稙はいかにして政治を安定させたのか/第三章 義稙は賭けに失敗したのか/第四章 義稙の人生を振り返って
2017.09.08
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廃線とは、廃止になった鉄道路線のことです。 絶景廃線と呼びたくなる路線がある一方で、ありふれた景色の中を通っていますが、歩いてみると何とも楽しい路線も少なくありません。 ”廃線紀行 - もうひとつの鉄道旅”(2015年7月 中央公論新社刊 梯 久美子著)を読みました。 東北海道の根北線から鹿児島の交通南薩線まで、各地に散在する廃線から50を精選して踏破し、往時の威容に思いを馳せつつ現在の姿を活写しています。 もしあなたが鉄道が好きで、歩くことも好きなら、ぜひ廃線歩きを経験してみてほしいとのこと。 きっと、鉄道旅の新しい楽しみ方を発見できるはず、といいます。 梯久美子さんは1961年熊本県生まれ、父親は自衛官で5歳のとき熊本から札幌に転居しました。 北海道札幌藻岩高等学校、北海道大学文学部国文学科卒業後、社長室勤務を経て編集・広告プロダクションを起業しました。 2001年よりフリーライターとして雑誌にルポルタージュを執筆しています。 2006年に第37回大宅壮一ノンフィクション賞、2017年に第68回読売文学賞、第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞しました。 5歳になる年の夏の引っ越しは、親子5人、鉄道で日本をほぼ縦断する大移動で、子供たちにとってはまさに非日常の胸おどる経験でした。 車窓を流れる景色もシートに伝わる振動も駅弁の彩りも、幸福な記憶として刻まれたのしょう。 以来、鉄道の旅をこよなく愛するようになったそうです。 鉄道旅の楽しさの大きな要素は、心地よいスピード感です。 近くの景色はすばやく流れ、遠くの風景はゆっくり変化します。 だが、歩く速さでしか発見できないものもあります。 雑草の陰に隠れたキロポスト、錆びかけた信号機や警報機、蔓性の植物がからみついた架線柱などなど。 廃線に魅せられたのは、子供の頃から地図を見るのが好きだったことに加え、ここ10何年か歴史にかかわる取材を多くしていることが関係しているようです。 何の痕跡も残っていない区間を、古い地図を頼りにたどっています。 そのとき、いかにも鉄道の線路っぽくゆるやかなカーブを描いている道を見つけて、これは線路跡が転用された道路ではないかなどと推測します。 地面の上を水平方向に移動するのは地理的な旅ですが、廃線歩きにはこれに、過去に向かって垂直方向にさかのぼる歴史の旅が加わります。 廃線の旅の必携アイテムは地図と年表で、両方をポケットに入れて歩いていると、廃線とは、地理と歴史が交わる場所であることに気づきます。 天災、戦争、線路の付け替え、モータリゼーションの普及、そして過疎、さまざまな理由で鉄道は消えていきました。 だが昔の路盤を歩いていると、いま自分が踏んでいる土の上を、かつて多くの人々の人生を乗せて列車が走っていたことを実感します。 廃線歩きの基本は、かつての線路の跡を徒歩でたどることです。 線路が撤去されずに残っている新しい廃線では、レールや枕木を踏みながら歩く経験ができます。 また、明治時代に廃止になった路線でも、アーチが美しいレンガ造りのトンネルや、どっしりとした石積みの橋脚などが、ちゃんと残っています。 線路の跡を徒歩でたどると、走っている列車から見るのとは違った景色が見えてきます。 何度か廃線を歩いていると、だんだん痕跡を見つけるコツがわかってきます。 たとえば線路跡に沿って石やコンクリートの段差が続いていると、これはホームの跡だな、と見当がつきます。 靴底に硬いものが触れて地面を見ると、とっくにレールが撤去された道床から、白っぽく風化した枕木がなかば土に埋もれながら顔を出していたりします。 本書では、100年間の廃線の歴史をたどりました。 北海道から鹿児島県まで、古くは明治40年に廃止になった関西鉄道大仏線から、新しいところでは平成19年に廃止になったくりはら田園鉄道および鹿島鉄道までです。 平成22年1月から同26年12月まで、読売新聞の土曜夕刊に連載した紀行文の中から、50本を選んでまとめてみたものです。はじめに 歩く鉄道旅のすすめ北海道・東北 下夕張森林鉄道夕張岳線/国鉄根北線/国鉄手宮線/定山渓鉄道/岩手軽便鉄道/くりはら田園鉄道/山形交通高畠線/国鉄日中線関 東 鹿島鉄道/日鉄鉱業羽鶴専用鉄道/足尾線/JR信越本線旧線/日本煉瓦製造専用線/東武鉄道熊谷線/陸軍鉄道聯隊軍用線/東京都港湾局専用線晴海線/横浜臨港線・山下臨港線中 部 新潟交通電車線/JR篠ノ井線旧線/布引電気鉄道/JR中央本線旧人日影トンネル/国鉄清水港線/名鉄谷汲線/名鉄美濃町線/名鉄三河線(猿投-西中金)/名鉄瀬戸線旧線近 畿 三重交通神都線/国鉄中舞鶴線/蹴上インクライン/江若鉄道/JR大阪臨港線/姫路市営モノレール/三木鉄道/関西鉄道大仏線/天理軽便鉄道/近鉄東信貴鋼索線/紀州鉄道中国・四国 JR大社線/下津井電鉄/靹軽便鉄道/国鉄宇品線/JR宇部線旧線/琴平参宮電鉄(多度津線・琴平線)/住友別子鉱山鉄道(上部鉄道)九 州 JR上山田線/九州鉄道大蔵線/国鉄佐賀線/大分交通耶馬渓線/高千穂鉄道/鹿児島交通南薩線
2017.09.02
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