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空の頬を ひらひらと伝い落ちる 涙のような落ち葉大地に吸い込まれていくたびに 悲しみが癒され 喜びは記憶となって静かに 積み重なってくれたらいいまだ 枝にしがみついている 葉たちは今までの自分を崩されまいと 必死に がんばっているようどんなに 離れまいとしても手を離さなければならないときは 必ず やってくる地面に 降り積もっていく 落ち葉はどれひとつとして 同じものはなくみんな それぞれに形や色や大きさの違う世界を もっている無数の落ち葉は それぞれの使命を 果たそうとそれぞれの想いを 積み重ねて それぞれの場所へと 落ちてゆく先に旅立っていく 仲間たちに 寂しさを 感じたとしても誰もが 土に還ってゆく 逃れられない宿命いつか また どこかで きっと 会える…だから 散り際は 何も恐れずに自然のままに 任せていればいい季節は 移り変わり 淀みなく 時は刻まれてゆく一葉一葉 それぞれのタイミングで 遅くもなく 早くもなく 絶妙の瞬間に 枝を手放す誰に言われたのでもなく 誰に教えられたのでもなくただ直感に従い 運命の流れに 突き動かされて旅路の果てに 何が待っていても 恐れることはないほんの瞬きの瞬間を 生きる意味問い続けても 何も変わらないし 何も分からない今にとどまることなく変わり続ける 天の意思に従うことが 自然の摂理「今」という時でさえ 瞬間瞬間 手放さなければならないのだから空の頬を伝う涙が 枯れ果てた時大地は さまざまな朽葉色で うっすらと覆われていくそして木々の隙間からは 充実した笑みを 空に解き放つだろう※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※無料遠隔レイキ募集開始します!基本的には、「夜の11時頃から」ということで、していきたいと思います。15分くらいです。もし希望の時間あれば、おっしゃってください。調整できれば、させていただきます。無料で体験していただけますが、条件として、感想を書いてくださる方ということで、お願いします。簡単でけっこうですし、感じたままを書いてくだされば、と思います。感じなかったら、そのまま素直に書いてください。遠隔レイキ体験してみたいという方は、受け付けておりますので、私書箱までお願いします。折り返し、日程、時間などご連絡ますので、お互いに、都合のよいときを、調整していきましょう。何度でも、受けていただいてかまいません。
November 30, 2005
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▲透萌(ともえ)と葵:葵は、ごはん粒、つけまくっているんですが、何か?今日は、手短に、本題へ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「ゴ」=「午」=「五」=「御」=「吾」=「語」=「ゴ」=「コ」=「子」=「古」=「故」=「イエス・キリストの象徴」●「悟」=「心」+「吾」 =「五十音(イエス・キリスト)の意味」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「古」=「フル」が「ヘブライ」のことである、ということをみていますが、そこから、「古」=「コ」の方へと、話は、それてきています。しかし、「古」=「コ」で見たとき、もうひとつ、重要な漢字がありました。「古」=「コ」=「許」!!「許」は「キョ」と読むのが普通ですが、「コ」とも言います。そして、さらに、「許」とは、「午」の漢字が含まれています!●「許」=「言」+「午」なぜ、「許」には、「午」という漢字が使われているのか…。疑問に思ったら、基本に戻る、ということで、漢和辞典です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【許】キョ・コ・ゆるす形声。言と、音符午・ゴ→キョ(同意する→与・ヨ)とから成り、相手の言葉に同意して聞き入れる、「ゆるす」意を表わす。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー要するに、「午(ゴ)」が、「キョ」となり、「与(ヨ)」となり、「ゆるす」意に、ということなのでしょうが。ただ、何となく、もうひとつはっきりとしません。しかし、漢字は、聖書と密接に関係していることから、考えれば、はっきり言って、「許す」という言葉に、「午」が使われている意味は明白です!漢字にヘブライ密教のカバラを仕組んだ集団の、大胆さというか、見えるところに堂々と組み込むやり方は、すごいと思います。シンプルに考えれば、「午」とは、今までの幕でも、何度か見てきたように、十二支の「午」=「馬」となり、「馬」といえば、「聖書」で言えば、「馬小屋で生まれたイエス・キリスト」の象徴以外の何ものでもない、ということになります。すなわち、「許す」という漢字に、「午」=「イエス・キリストの象徴」が組み込まれている!それは、まぎれもなく、「イエス・キリストの十字架での死と復活」へと繋がっていきます。なぜなら、イエス・キリストが十字架にかかった意味は、イエスが、すべての人類の罪を背負ったことだからです。それによって、言ってみれば、人類は、罪を「許され」地上に生きることができる、と。このシリーズのテーマでもある、イスラエルに伝わる「過ぎ越しの祭り」の食事は、イエスキリストと、十二使徒の「最後の晩餐」を模したものであることが、指摘されています。本来は、過ぎ越しの祭りでは、「子羊」をいけにえにして、その肉を食しました。今では、焼かれた羊の骨だけということが多いそうですが。「子羊」をいけにえにするとは、それは、ずばり、イエス自身の象徴です。なぜなら、イエス自身が、自分のことを「神の子羊」である、と言っているからです。ですから、こういう言い方は、キリスト教だけの考えだろうと、思われるかもしれませんし、日本人からしたら、やや奇異な考えに思われるかもしれません。私も、正直、言っていてやや違和感はあるのですが…。イエス・キリストがいけにえ(犠牲)になることで、人類は、罪を「許され」て、生きていることができる!だから、漢字の「許す」に、そのことを込めたということなのでしょう。●「許」=「言」+「午」「言」の意味は、「約束」という意があります。「午」には、「たてよこ」の意があります。事実「午」は「人+十」からなる漢字です。ですから、●「許」=「たてよこ(午)」の「約束(言)」=「十字架の約束」=「イエス・キリスト(午)の約束」=「人類の許し」と繋がる気がします。また、「言」とは、もと、口と、音符ケン(=辛。※(口の上の4本線)は省略形。こころの意→心・シン。一説に、美しく整う意→※ゲン)とから成り、口からの心のあらわれ、「言葉」の意を表わす。つまり、「言」の「口」の上の4本線は、「心」であると。「言」=「心」+「口」であり、「言」とは、心の中のことを口にするということでしょう。●「許」=「言」+「午」 =「心(シン)=神=真」+「口」+「午(イエス・キリスト)」 =「イエス・キリストの口からの心のあらわれ」!?それは、全人類の罪が許されるならば、罪を一身に背負うことをいとわないという、イエスキリストの口からの「神(シン)」に等しい「真(シン)」からの「心(シン)」のあらわれ、なのかもしれません…。「許」の漢字は、実に象徴的です。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、運が良くなる! はず・・・(^^;漢和辞典を見ていると、いろんな発見があります。最近は、夜、家で漢和辞典を見ていることがけっこうあり、妻には、「何を研究しているの?」と言われるのですが(^^;、「そういうんじゃないけれど、漢和辞典を見てると、おもしろいよ。」というと、「はあぁぁ・・・そうなのぉ・・・」といった反応で、変わり者扱いされている次第です(^^;うん、確かに普通からみたら、何で漢和辞典?って感じですし、もし、電車のなかで「漢和辞典」を読んでいたら、「何だこいつは?」と、変に思われるでしょう。気になる漢字が、出てきたら、とりあえず、漢和辞典をひいてみる。そうすると、意外な意味が出てくることがあるので、そういう点が、おもしろいのだと思います。「聖書」を基準に考えると、漢和辞典に載っていないことへと繋がっていきます。この過程が、うまく言えませんが、おもしろい。漢和辞典だけでは、分からないことも、聖書とあわせてみれば、見えてくるものがある。不思議ですが、そういう面が、次々に出てきます。「許」も漢和辞典だけなら、絶対に「午」がイエスキリストを象徴するなどと繋がりません。「聖書」と組み合わせて初めて、見えてくる。また、「御」の真ん中が、「午」+「止」から成っているというのは、漢和辞典を見てはじめて、気がついたので、漢和辞典も「基準」を押さえる意味で、大切だと思います。漢字と聖書を繋ぐ鍵が、「ヘブライ密教のカバラ」ということになるのだと思います。両者ともに、象徴が多用されています。漢字をつくった集団の底知れなさ、を感じます。最後に。「許」は、「キョ・コ」という読みですが、これと同じ読みをする漢字があることに気がつきました。次回、取り上げてみます。って、こんなことしているから、終わらないのですが(^^;漢字への謎、興味は、自分にとっては、枯れない泉のように、どんどんあふれてきます。それだけ、深いということなのでしょう。※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※無料遠隔レイキ募集開始します!基本的には、「夜の11時頃から」ということで、していきたいと思います。15分くらいです。もし希望の時間あれば、おっしゃってください。調整できれば、させていただきます。無料で体験していただけますが、条件として、感想を書いてくださる方ということで、お願いします。簡単でけっこうですし、感じたままを書いてくだされば、と思います。感じなかったら、そのまま素直に書いてください。遠隔レイキ体験してみたいという方は、受け付けておりますので、私書箱までお願いします。折り返し、日程、時間などご連絡ますので、お互いに、都合のよいときを、調整していきましょう。何度でも、受けていただいてかまいません。
November 29, 2005
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きのうは遠隔レイキ、夜10時から、20分ほどしました。ヒックルさまとそよかぜ♪さまと、むーみんさまと、私の4人で、しました。 ヒックルさま→私(ことは)→むーみんさま→そよかぜ♪さま→ヒックルさま 10分前くらいから、発霊法をして準備しました。5,6分前から、額の辺りにむずむずとした感じが少しありました。2,3分前から、シンボルを描いて、むーみんさまへ、送り始めました。手のぴりぴり感と、手と手の間の、圧迫感を感じました。目のあたりが、優しく撫でられるような感じもありました。しばらくして、紫色の光というのか、青っぽい光のようなものが、ぼわっと浮き出てきては、小さくなったりという現象がありました。あと、これはよく分かりませんが、影がよぎるような感じが2回ほどありました。途中自己ヒーリングの要領で、頭のいくつかのポジションにおいたりしましたが、今回は、目の前に対象の方がいるという感覚を主にしました。最後の方は、少し時間も過ぎていましたが、手の間に、非常に弾力のあるゴムのようなものがありました。終わってからは、すっきりした感じになりました。ヒックルさま、そよかぜさま、むーみんさま、ありがとうございます。また、やりましょう。 読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、運が良くなる! はず・・・(^^;きのうの朝は、会社に行く途中で、「※444」のナンバーをみました。さざなみインコさまの数字のメッセージを引用させていただくと、ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◇444◇今天使があなたを囲んでいて、その愛と助力があることを保障しています。天使の助けがそばにあるので心配しないこと。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー夕方に、「8888」をみる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◇888◇あなたの人生の一つの章が終わりを告げようとしています。そしてこれはあなたに準備ができるよう、警告をしているというしるしです。この数字の連続は、感情、仕事、あるいは恋愛関係のある段階を終えようとしている、ということも意味し得ます。さらにトンネルの向こうには、光があることも意味しています。そしてさらに「作物は実っている。収穫して楽しむのを先に延ばさないように」ということでもあります。言いかえるなら、何か行動を起こしたり、自分の労働の実りを楽しむのを後回しにしてはいけないということです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー夕方に、ふと時計を見ると、「5:55」をみる。夜、車のナンバーは、「※※55」をみる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◇555◇シートベルトをしっかり締めてください。大きな人生の変化がやってくるからです。この変化は「肯定的」「否定的」というふうにみるべきではありません。なぜならすべての変化は人生の流れの自然の一部にすぎないのです。この変化はあなたの祈りへの応えかもしれません。ですから心を静かにして自分自身を見つめ、感じ続けてください。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 夜帰りに、ふと時計を見ると「11:11」でした。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◇111◇ 自分の思考を注意深く監視していてください。そして考えたいことのみを考え、考えたくないことを考えないようにします。この組み合わせはチャンスの扉が開こうとしているサインです。そしてあなたの思考が記録的な速さで具体的な形になっています。111の組み合わせはフラッシュのまぶしい光のようなものです。その意味は宇宙があなたの思考の写真を撮り、それを具体的な形にしているのだということです。宇宙が撮ったあなたの思考に、あなたは満足していますか?していなければ、自分の思考を修正しましょう(自分の思考を制御したり監視したりするのが難しければ、あなたの天使に手助けを求めましょう)。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなるほど。「変化」がキーワードかなと。それと、自分の中では、「遠隔レイキ」がシンクロしたような気がします。個人的に、お遊びと思いつきで、みてみると、●「444」で、「4」で、死と蘇りで、新たな気持ちで。「4+4+4」=「12」で、「12」は、1年や12星座、時計のように、ひとつの巡りをへて、物事は螺旋構造を描くように、進化していく。●「8888」で、 末広がりに広がっていく流れ。「8+8+8+8」=「32」で「歯の本数」「歯」は、「4」であり、死と蘇り、そして、「3+2」=「5」で、中心軸が定まる時期。そして、次の「5」へ!●「555」で、「5」=「GO」で、前に進んでいこうという合図。「5+5+5」=「15」で、満月、15夜で、完全な形が整うとき。●「55」で、「5+5」=「10」で、「10」=「TEN」=「天」となり、「天」へと通じる道。●「1111」で、まっさらな気持ちに生まれ変われというメッセージ。「1+1+1+1」=「4」で、「4」=「私」となり、自分自身の再確認。さらに、「4」は死と蘇りで、新たなスタート!と、けんたまさまの解読を参考に、思いつきでしてみました。まあ、本当は解釈する必要はないのだと思います。現象をありのままに受け止めていく。それが一番かな、と。でも数字のメッセージは、おもしろいなと思います。
November 28, 2005
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きのうは、ヒックルさま主催のレイキのアチューメントが、大阪であったので、お手伝いに行ってきました。そのせいか、夜、9時前に娘と添い寝していたら、そのまま寝てしまいまして、ふと気がついたら、午前3時45分だったので、また、寝ました(^^;娘と添い寝して、寝てしまうということは、まあ、良くあるのですが、レイキのアチューメントをしたせいもあったように思います。毎度のことながら、大阪は、いまだに、よく分からない!JR大阪駅で、降りたまでは良かったのですが、JR森の宮駅に行くのに、環状線のホームへ行ったら、電車が両方に止まっていて、発車しそうだったので、こっちだろうと思い、あわてて乗りました。「ふう、良かった」と思って、二駅くらい過ぎた頃でしょうか、「うん?こっちでいいのかな?」とふと、不安に思いました。次の駅名のアナウンスを聞いて、ドアの上に書いてある環状線の図をみたら、何と、反対行きに乗っている!!「うえ?」と思い、慌てて、次の駅で降りて、また逆の方の電車に乗り換えました。これだから、大阪は、分からないんですよ(^^;と、大阪のせいにしてますが、要は、自分が、よく確認してないだけという、それだけのことなんですが…。他に責任をなすりつけたらいけませんね(^^;ということで、10分くらい遅れてしまいました。申し訳ございませんでしたm(_ _)mレイキのアチューメントは、とてもすばらしいな、と改めて思いました。するほうも、非常に心地よいエネルギーが、いただけます。きのうは、体が、かなり、あつくなって、頭の上とか眉間のあたりが、ジンジンしてくる感じで、終わった後は、非常に自分自身もすっきりしました。きのうの夜は、11時から、友人に、3日連続遠隔体験の3日目の遠隔だったのですが、書いたように、寝てしまい送れませんでした(^^;本当にごめんなさい!!m(_ _)m昼からは、速読セミナーに参加しました。途中、突然、右脳ワーク(?)があったり、スピリチュアルな話があったりと、いろいろしながらの速読。今回は、速読のコツ、レシピをつかみたかったのですが、それらはつかめたと思います。あとは、毎日、スピードを意識して、実践していきたいと思います。最後に、感想や、今後の目標、夢の発表みんなでしました。私は、月30冊の読書と、約半年間で、200名の遠隔レイキ。かなりきついかな、というくらいの設定にしました(^^;毎月30冊読む、という目標を立てたので、それに近づけるように、やっていこうと思います。あとは、読むだけではなく、実践もしながら、ですね。それと、もうひとつ、来年の6月までに、遠隔レイキを200名のかたにする、ということ。自分もエネルギーをもらえるし、どんどん使って、レイキのパイプを太くしていきたいという思いもあるので、レイキは、遠隔で体験したいという方へ、していきます。と、いうことで、無料遠隔レイキ募集開始します!遠隔も、対面も、基本的には、レイキのパワーは変わりません。ただ、やっていく上で、時間的には、仕事もあるので、夜の11時頃から、ということで、していきたいと思います。15分くらいです。もし希望の時間あれば、おっしゃってください。夜の8時以降であれば、会社からでも送れますので、調整できれば、させていただきます。レイキとは、どんなものか、体験してみたいという方は、私書箱にメールくださればと思います。フルネーム、年齢、住んでいる市町村は、お聞きすることになりますが、これ以外の目的などにはもちろん使いませんので、ご安心ください。また無料で体験していただけますが、条件として、感想を書いてくださる方ということで、お願いします。簡単でけっこうですし、感じたままを書いてくだされば、と思います。感じなかったら、そのまま素直に書いてください。レイキは、流れています。遠隔については、また、あたらめて、募集など書いてみますが、遠隔レイキ体験してみたいという方は、もう受け付けておりますので、私書箱までお願いします。折り返し、日程、時間などご連絡します。
November 27, 2005
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▲葵:あわわ。笑いながら、こっちに向かってきた~。パシャリ!今日は、前置きなしで、本題へ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「語」=「言」+「吾」 =「言」+「五」+「口」 =「言う」+「イエス・キリスト」+「口(くち)」 =「イエス・キリストの口から語られる言葉」!?●「語」=「言」+「五」+「○」 =「言」+「五○」 =「言」+「五十音(イエス・キリスト)」 =「五十音すべてを含む、日本語を言うこと」●「ゴ」=「午」=「五」=「御」=「吾」=「語」=「ゴ」=「コ」=「子」=「古」=「故」=「イエス・キリストの象徴」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「古」=「フル」から、見ていった言葉。「古」=「コ」という音から、いろいろな「コ」「ゴ」の漢字に広がっていくとは思いませんでした。早く、「古」から、抜け出したいのですが…(^^;これは、まあ、偶然かもしれませんが、「コ」という日本語は、あいうえおから、順に数えると…、「十番目」になります!!●「コ」=「古」「故」「子」●「ゴ」=「午」「語」「五」「吾」「悟」「語」「御」上記のように、「コ」「ゴ」の漢字は、「イエスキリストの象徴」であることを思えば、「コ」が「十」番目の日本語であることも、おもしろい偶然の一致だと感じました。なぜなら、「十」とは、イエス・キリストの「十字架」であり、「十」=「完全」=「神」へと通じるからです。「コ」というのは、「十」の数理をもつのかもしれません。「吾」「語」という漢字には、象形で、そのままみれば、「五口」→「五十」→「五十音」となるような気がします。そして、「吾」のついた、もうひとつの重要な漢字を、思い起こしました。それは…「悟」!!読みは、「ゴ」であり、「さとり」!!漢字破字法でみてみます。●「悟」=「心」+「吾」「吾」は、前回見たように、「五十音」であり、阿吽であり、私は、アルファ(最初)であり、オメガ(最後)である、と言った「イエス・キリスト」の象徴でした。「心」の意味は、「こころ。精神。かんがえ。意味。かなめ。」など。よって、●「悟」=「心」+「吾」 =「五十音(イエス・キリスト)の意味」となり、「日本語の五十音の意味」を理解することが、「悟り」なのかもしれません。あるいは、「イエス・キリストのこころ」を感じることが「悟り」へと繋がるのかもしれません。お遊び的にみると、日本語というのは、ある意味、こじつけの言葉でもありますが、「五十音」=「五十」=「五○」=「五口」→「ゴロ」となり、「五十音」すなわち、日本語は、まさに「ゴロ」合わせの言葉、というのを示唆しているのでしょうか。また、「五」=「いつ・い」ですから、「五十音」=「五十」から、「五十」は「いと」とも読めます。●「五十音」=「五十」=「いと」=「意図」「意図」とは、「物事をしようと考えること、また、その考え。」「物事をするのに、はっきりした目的や計画のあるようす。」「五十音」が、「あ~ん」までで、ひとつの宇宙全体を表わすのだとしたら、「五十音」=「この宇宙すべて」であり、この宇宙は、「五十」=「いと」=「意図」されたものなんだと、いう気がしました。だから、「意図(五十)」とは、大胆に言ってしまえば、この宇宙をつくった創造主の「意図」なのかもしれません。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 26, 2005
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▲葵と透萌(ともえ):葵は、手をかけて、えらそうにしていますが、何か?斎藤一人さん、100回聞きCD、85回突破。もう少しです。期限までには、聴けそう。認定賞ももらえます。ツヤって大切なんですね。聞くごとに発見があります。あとは実践、実践です。では、本題へ。★「五」=「中心」★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「故」=「古」+「攵(攴)」 =「十字架のイエス・キリスト」+「うつ・たたく」 =「イエス・キリストが十字架で死を迎えたこと」!?●「ふるさと」=「故郷」=「古里」=「故里」=「イエス・キリストが十字架で死んだ里」=「ヘブライの地」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「午」=「人」+「十」●「五」=「ゴ」=「午」=「コ」=「子」=「古」=「故」=「イエス・キリスト」=「中心」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「午」とは、「十」=「十字架」のうえに、「人」がのっている状態。または、十二支の第7番目で、「午」=「馬」ですので、馬小屋で生まれた人の象徴。すなわち、いずれにしても、「午」とは、「イエス・キリスト」の象徴になっています。今見ている、「古」も「故」も「子」も、イエスの象徴になっています。数字の「五」も「ゴ」で、繋がってきます。「五」は、1~9の「中心」であり、世界の中心軸となる数字なのでしょう。また、「五」は、「五十鈴(いすず)」と読むように、「五(い)」となり、「五十(い・いす)」といった読みにもなりそうです。「五十」=「いす」=「イエス」=「イエス・キリスト」に通じる気もします。で、あれば、「五」は、「中心」であり、「イエス・キリスト」の象徴とみれるでしょう。★「五」=「ゴ」=「御」★また、「五」=「御」になります。ここで、「御」を、漢和辞典で見ると、少しびっくりしました。気がつかなかったというか…。「御」の「古字」をみると、真ん中の部分が、「午」と「止」に離れています!「御」という漢字は、真ん中の部分が、「午」+「止」から成っている…。よく見れば、確かにそうです!「午」すなわち、「イエス・キリスト」が「止(とど)まっている」!やはり、「御(ゴ)」も、イエス・キリストとの関わりが深いということでしょう。また、意味として、馬をあつかう、馬車をあつかう者、馬車をあつかう術、とあります。「午」=「馬」=「イエス・キリストの象徴」であることと、シンクロしてきます。事実、「御者」とは、「馬・馬車をあつかって走らせる人」意味です。「御」は、「ゴ」であり、「神」に通じて、「馬」との関わりから、「イエス・キリスト」を示唆している気がしてなりません。★「吾」と「語」★「吾」という漢字がありますが、読みは、「ゴ」この漢字を、漢字破字法で分解してみます。●「吾」=「五」+「口」「吾」とは、通常、「われ。自分。」のことです。この漢字にも、「五」が含まれています。「五」とは、先に述べましたように、「イエス・キリスト」の象徴、「口」=「ひと」であれば、「吾」とは、「五」の「ひと(=口)」、すなわち「イエス・キリストそのひと」の象徴なのかもしれません。●「吾」=「五」+「口」 =「イエス・キリスト(中心)」+「ひと」さらに、「口」は、大きく口を開けると、まあるくなります。と、いうことは「口」とは、もともと、「○」に近い象形だった可能性もあります。そこで、もう一度、「吾」を見てみると・・・。「吾」=「五」+「口」 =「五」+「○」=「五○」=「五十」!?「吾」は、確かに、上から下に読むと、「五○」となり、数字の「五十」と、とれなくもない。ちょっと苦しいかもしれませんが。「吾」とは、「五十」である…。これは、「五十音」に通じて、「阿吽」であり、「アルファであり、オメガである」となり、「イエス・キリスト」の象徴にも、繋がっていきます。「吾」=「五」+「口」=「五十」 =「五十音」=「イエス・キリスト」!どちらにしても、「吾」から、「五十音」であり、「イエス・キリスト」が導かれます。と、言うことは、想像をたくましくすれば、「吾」とは、本来は、「吾」と言うことで、「五十音」や「イエス・キリスト」を表し、ひいては、「この宇宙すべて」が、ひとりひとりの内に存在し、満ちている!ということを、意味しているのかもしれません。次は、「語」という漢字。また、「語」という漢字も、「吾」を右側に含みます。さらに、「吾」は、「五」+「口」から成ります。このことから、「語」の意味を、漢字破字法からみてみると…。●「語」=「言」+「吾」 =「言」+「五」+「口」 =「言う」+「イエス・キリスト」+「口(くち)」 =「イエス・キリストの口から語られる言葉」!?または、先の「吾」から見るならば、「語」=「言」+「五」+「○」 =「言」+「五○」 =「言」+「五十音(イエス・キリスト)」 そのままとるなら、「語る」とは、五十音すべてを含む、日本語を言うこと、となるのでしょうか。または、五十音(=イエス・キリスト)とは、「この宇宙すべて」とも言えますので、「語」とは、 =「言」+「この宇宙すべて」 =「この宇宙すべて(=神)が言うこと」!?本来、「語る」というのは、「語」に、五十音(イエス・キリスト)が含まれている以上、「神」に通じるものがありますし、神の言葉を語る、神が言葉を語る、といった意味合いがあったのかもしれないですね。けんたまさまの、「濁音は清音に返す」から言えば、「ゴ」=「コ」なので、●「ゴ」=「午」=「五」=「御」=「吾」=「語」=「ゴ」=「コ」=「子」=「古」=「故」=「イエス・キリストの象徴」どうもすべて、「イエス・キリスト」という存在に、繋がってきてしまいます…。こじ付けと思われるかもしれませんが、日本語は、まさに、こじつけの言葉なのだとも、思います。それだけに、象徴を、言葉のなか、漢字のなかに、いくつも重ねる。おそらく、西洋の人は、こういったことを理解できないのではないかと思います。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;これは、意図したわけでは、全くなかったのですが、今回は、「コキョウ」について、書こうかなと思っていたら、なぜか、前回の「ゴ」の音に返す続きを書きました。同時に、「吾」や「語」について、みている。今回は、このシリーズも、「四十八幕」となり、日本語も、「いろは四十八音」があります。●「四十八音」=「48音」=「ヨハネ」斎藤一人さん、「つやこ49」のCDでも語られていましたが、「いろは四十八音」と「聖書」の「ヨハネの福音書」は、繋がってくると。なぜなら、「ヨハネの福音書」の冒頭部分には、「初めに言葉があった…」とあり、言葉の重要性が語られているからです。以下、その部分、引用してみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(聖書「ヨハネの福音書」第1章)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今回は「語」についても、みたので、「語」と「第四十八幕」(=ヨハネ=四八音)、「言葉」などが、ちょっとシンクロしてきました。
November 25, 2005
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▲葵:きのうに続いて、足湯の場面。自分から乗り出して足を入れようとするので、気持ちいいんでしょう。ご機嫌です。妻によれば、知らない人が、葵を見て言う言葉は、ほぼ100%男の子?と聞かれるようです(^^;「何で男の子っていうの?」と少し憤慨してましたが、その後、「でも、この顔というか、この「薄い髪」を見たら、しょうがないよねえ」と。うん。そうなんです。現実を、ありのまま見なくてはいけないのです。私も、他人だったら、まず間違いなく「坊ちゃんですか?」と聞くはずです。そう、だから、「男の子?」と聞いた人は、何も間違ってはいないわけです。あなたは正しいし、何ひとつ間違ってはいないのです。だから、「あ、しまったぁ」と、思う必要はないのです。はい。しかし、私は、この教訓がありますので、道端でもし、赤ちゃんを見かけたり、店に来たお客さんの赤ちゃんを見て、性別がどっちか分からないときは、必ず「女の子ですか?」と、聞くことにしています。なぜなら、「女の子?」と聞いて、女の子なら問題ないし、もし「男の子」だとしても、「あ、そうなんですか?かわいらしいですねえ」と言えばいいわけです。しかし、実際に、「男の子ですか?」と聞いて、「いえ、女の子なんですよ」と言われてしまおうものなら、フォーローするのが難しい(^^;しかも、言われたほうは、慣れているとはいえ、「ムッ」とするかもしれない。「あ…。少年っぽい女の子さんでかわいい…」と言うわけにもいかないですよね。ちょっと変です。まあ、うちは、ほぼ100%「男の子?」と言って下さるので、十二分に免疫力がついていますので、平気ですが(笑)えーと。何の話か、分からなくなりましたね(^^;本題も、シンクロして(^^;、急いでいるからか、まとまりに欠けてしまいました。あとで整理するかもしれません。最近は、強引にシンクロさせるくせが・・・。では、本題へ!★「子」について★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「故」=「古」+「攵(攴)」 =「十字架のイエス・キリスト」+「うつ・たたく」 =「イエス・キリストが十字架で死を迎えたこと」!?●「ふるさと」=「故郷」=「古里」=「故里」=「イエス・キリストが十字架で死んだ里」=「ヘブライの地」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー前回は、「故郷」の「故」を音に返して、「故」=「コ」=「古」=「子」などについて、見てみました。「子」という漢字は、「常識」からすれば、受け入れがたいと感じる方もおられるかもしれませんが、「イエス・キリスト」の象徴であることは、間違いないと思われます。皇室の「敬宮愛子さま」の「愛子」というお名前も、以前少し取り上げてみましたが、実に象徴的であり、この時代にふさわしいのかもしれないと思いました。これも、偶然ではない、何か目に見えない時代の流れのようなものを感じます。「愛子」というお名前が、ヘブライ密教「カバラ」から見れば、また、全く違う側面が浮かび上がってきます。「子」=「イエス・キリスト」そして、イエス・キリストの教えの中心には、「愛」があるということでしょうか。「愛子」は「愛の子」であり、「愛」に満ちた「子(=イエス・キリスト)」の象徴なのでしょうか。なかなか意味深いものが感じられます。また、●「愛」=「アイ」=「I(アイ)」=「私」となりますので、「愛子」=「私子」となります。そして、「子」=「一」+「了」に分解できましたので、「一」(最初)+「了」(最後)になり、「阿吽」であり、「アルファでありオメガである」となります。さらに、「阿吽」は、「あ」から「(う)ん」までの、五十音をしめしていますので、「アルファであり、オメガである」といった人物、「イエス・キリスト」と同時に「五十音」の象徴にもなっています。●「愛子」=「私子」=「私は子」=「私は「一」であり「了」である」=「イエスキリスト」!?これは、あくまで象徴でしょう。カバラを駆使した漢字は、象徴を幾重にも込めることに関しては、非常に優れた文字である、と言うことがいえるのかもしれません。全くの推測でしかないのですが、「愛子」さまのお名前の裏には、イエス・キリストの象徴が込められているということは、愛子さまのご時勢に、「イエス・キリスト」に関して、何か大きな動きがあるのではないか?と。なぜなら、日本という国の、ルーツ、それも天皇家のルーツは、ほぼ間違いなく「イスラエルの十支族」である、と言っていいでしょうし、そうなってくると、「イエス・キリスト」とも、密接な関係があると思われるからです。だから、「漢字」をみていくと、いたるところに、「イエス・キリスト」の存在が象徴として込められているのだと、感じます。神道の裏を見ていくと、多神教ではなく、唯一絶対神信仰へと集約されていきます。あるいは、絶対三神信仰でしょうか。唯一絶対神信仰と言えば、「旧約聖書」の「ヤハウェ」になりますが、この「旧約」の民が、おおざっぱに言えば、物部系の渡来人となり、日本へ先に来ているようです。そして、「新約聖書」の絶対三神、そのなかでも、イエス・キリストを信奉する集団「原始キリスト教」も、その後、日本に来ています。「原始キリスト教」とは、一言でいえば、イエスの教えを最も色濃く直接的に受け継いだ集団、という解釈でいいと思います。その日本へ来たという「原始キリスト教」の正体は、いったい何者なのか?三神たける・飛鳥昭雄氏の共著によれば、「原始キリスト教」の正体は、渡来人の中でも、もっとも謎多き「秦氏」である!!という結論を出しています。つまり、日本という国は、信じられないかもしれませんが、「旧約聖書」を信奉する集団と、「新約聖書」を信奉する集団の両方が、渡来人となって、日本に来ていることになります。そして、日本人自身をも欺いて、真の姿を、「漢字」をはじめ、日本の伝統や風習、神話、おとぎ話などのなかに、ヘブライ密教のカバラを駆使して、いたるところに張り巡らしたと、いうことのようです。「カゴメ歌」「通りゃんせ」などは、その際たるもので、ヘブライ密教の奥義が秘められていると言っても過言ではないようです。知らず知らず、子供の遊びとなって、伝えられてきた…。愛子様が、皇太子殿下の次に、天皇となるのかどうかは、何ともいえませんが、今、女性天皇に対しても、議論されていて、おおむね容認する方向へ流れています。賛否はもちろんあるでしょうが、少なくとも、なる可能性、なる条件は整いつつある、と言ってもいいのではないかと思います。★「子」を音に返して広がるもの★えっと、話がそれました…。「子」のほかに、イエス・キリストの象徴としては、「午」があります。「午」は、干支の動物でいえば「馬」になり、「馬」といえば、馬小屋で生まれた「イエス・キリスト」なりますから、「馬」はイエスの象徴だということになります。「午」は、十二支でいえば、第7番目になり、ちょうど真南にあたる方角です。ちょうど、「子(ね)」の第一番目とは、南北の軸上に位置するという、これまた、意味深な、というか、必然の配置をなしています。 子(北)第一番目 | | | | 午(南)第七番目そして、「午」の音読みは、「ゴ」!けんたまさまの述べられていました、「濁音は清音に返す」にすれば、「午」=「ゴ」=「コ」=「子」!結びついてきます。「午」=「人」+「十」と見ることもできますので、十字架の人ということです。ついでに、「ゴ」=「午」=「五」=「5」で、数字の「五」も導かれます。「五」は、0~9の数字の、ちょうど中心になります。●「五」=「ゴ」=「午」=「コ」=「子」=「古」=「故」=「イエス・キリスト」=「中心」不思議と、音に返すと、結びついてきます。「五」は、「いつ」とも読みますが、「五十鈴(いすず)」というような使い方もします。ここから、「五」=「い」という読みもできそうです。「五十」で「い」あるいは、「いす」でしょうか。けんたま様が、指摘されていましたが、「五十」とは、日本語の「五十音」を表わすのでしょうし、同時に、最初(アルファ)であり最後(オメガ)である、と言った「イエス・キリスト」をも象徴するのでしょう。このことを考え合わせた時、「五十」=「いす」=「イエス」!?となるような気がします。やはり、「五十音」の「あ」~「ん」は、この宇宙すべてを含んでいて、それは、「イエス・キリスト」の象徴にもなっているということなのでしょう。これは、けんたま様も指摘されていたかもしれません。また、「五」=「ゴ」=「御」となり、御は「神」に通じる漢字です。「五」=「い」とすれば、日本で最大の神社「伊勢神宮」の鎮座する地「伊勢」の「五(い)」にも、通じるような気がします。内宮は、「五十鈴川(いすずがわ)」のほとりにあります。地名に、「五」=「午」=「イエス・キリスト」が、それとなく組み込まれているのかもしれません…。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 24, 2005
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▲葵:足湯機の中に、足を入れて気持ちよさそうにして、ご機嫌ですが、何か?今日は、夜、お風呂につかりながら、レイキの自己ヒーリングを、適当にしつつ、なぜか、南野陽子が聴きたくなって、アルバム『グローバル』を持ち込んで、そのアルバムの中で一番のお気に入り曲「マイ・ハート・バラード」を、リピートで、しつこく聴いていました。(^^;たま~に、聴きたくなるんですよね。あはは。(^^;非常に恥ずかしいのですが。って書いてますが。要は、「失恋した」という話なのですが、この曲聴くと、逆に「元気」が出るんですよ。これが、ヒックルさんがおっしゃっていた、マイナスパワーを利用するかな…? いや違うかな(^^;まあ、ともかく、「元気、だそ~う~ね♪ マイハート明日~のほ~うが、素敵~♪違う風~が きっと吹くわ~♪」などと、決してうまくない素人っぽい歌い方だけど(^^;、甘くて、ちょっとせつない歌声で言われると、何か、がんばろうか、となるわけです。はい。そして、今は、これを書きながら、これまたしつこく、彼女のアルバム『ゴーシュ』を聴いて、しかも、「愛してる」「思いのままに」のリピート攻撃で、懲りずに聴いているというわけです。「愛してる」は、これも失恋で、まだ彼のことが忘れられないという、おセンチな歌なのですが、これが、なかなか、いいんです。はい。あはは…。「過去の 花びらを 抱きしめたぁあなたの ぬくもり まだ残る~愛してる~ 咲きほこる~想いを~ちりばめた~空い~ち~め~ん~♪」うーん、おセンチです…。でも、なかなか、いい…。30を過ぎたおっさんが、深夜一人で、パソコンをしながら、妻に何で南野陽子なの?と、呆れられながら、しつこく同じお気に入りの曲をリピートして聴いている構図も、かなり怪しい。というか、怪しすぎる!ことには、間違いないのですが…。まあ、たまにはいいでしょう。と自分を納得させるわけです。うん。ということで、今日は久しぶりに、南野陽子一色でした(^^;何で、南野陽子なんだと思っていたら、今日の話題と、南野陽子が、かなり強引に、シンクロしてきました。いや、シンクロとはいえないかな。強引に結び付けたような感じですね。最後に、ちょっと触れてみます。では、本題へ!★「故郷」前回の流れ★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「故」=「古」+「攵(攴)」 =「十字架のイエス・キリスト」+「うつ・たたく」 =「イエス・キリストが十字架で死を迎えたこと」!?●「ふるさと」=「故郷」=「古里」=「故里」=「イエス・キリストが十字架で死んだ里」=「ヘブライの地」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「故郷」というのは、懐かしく想うものであり、自分の原点にあたる場所。確かに、そうなのですが、漢字が、ヘブライ密教「カバラ」を根本としているという側面からみていくと、けっこう意外な一面が見えてきました。「故郷」は、「ふるさと(=古里)」で、「古=フル=ヘブライ」から、日本のひとつのルーツでもある「ヘブライの里」を想うことも含みます。同時に、「故郷」の「故」が、「イエス・キリストが、全人類の罪を背負って、十字架で死と復活をした」ことを含んでいる…。ということは、「故郷」というものは、イエス・キリストの十字架での死の意味を重く受け止めた集団…、もっと言えば、イエス・キリストの教えを受け継ぐ集団の「原点」を、意味するのではないのか?ということを前回は見ました。実際、「故郷(ふるさと)」という言葉は、実にいろいろな象徴が込められている、という感を強くしました。★「故」を音に返すたとえば、「故郷」は、「ふるさと」とも言いますが、音読みだと、「こきょう」です。音に返すと、いろいろでてきます。●「故」=「コ」=「古」これは、今まで見たように、「フル」=「ヘブライ」のことであり、「古」=「十」+「口」=「十字架」+「口(=ひと)」=「イエス・キリスト」●「故」=「コ」=「子」「子」も今までに、何度か見てきましたが、「子」=「一」+「了」で、「はじめ」と「おわり」、「阿吽(あうん)」、「アルファ」であり「オメガ」。「私はアルファであり、オメガである。」と言ったのは、まさに「イエス・キリスト」です!さらに、十二支の第一番目であり、ぐるりと一回りして、戻ってきますので、最初と最後を司っているといっていいでしょう。そして、最後は、第13番目。「13」は、「13日の金曜日」と言うように、イエス・キリストが十字架で死を迎えたときなので、「13」自体が、イエス・キリストの象徴にもなっています。けんたまさまの解読では、「13」=「トミ」=「富」で、富の象徴はまさしく「金」。「13」と、「金」は、切っても切れない関係上にあります。また、「金」は、「金星」に繋がることを思えば、「金星」と言えば、聖書で「明けの明星」であると、イエス自身が、述べていますので、「金星」=「イエス・キリスト」の象徴にもなっています。そして、何よりも、シンプルに考えれば、「聖書」には、「御父」「御子」「聖霊」の三神が基本となりますが、「イエス・キリスト」は、「御子」!!「御」が、尊称であることを思えば、「子」=「イエス・キリスト」!となりますので、「子」には、いくつもの面から、「イエス・キリスト」の象徴であることを、込めています。★「子」の漢字の読み★ここに来て、「子」について、せっかくなので、漢和辞典をひいてみましょう。まず、読みをみて、改めて、なるほど、と思いました。【子】シ・ス・こ●「シ」まず、「シ」の読みは、数字の「4」に通じます。これは、けんたまさまの数理解読で、何度も引用させていただきましたが、「4」は「死」と同時に、「蘇り」の「4」をも象徴しています。ですから、「死」と「蘇り(復活)」を経験した人物と言えば、「イエス・キリスト」にほかなりません。●「ス」「ス」=「主」「守」「数」などと、音に返せます。「ス」=「主」であり、「主」とは、まさに、三神のひとり「御子」の「イエス・キリスト」にふさわしい。●「ネ」十二支の第一番目「子(ネ)」の「ネ」ともいいます。「ネ」=「根」「値」「音」などとなりますので、「根」は、「根本」の意味になり、重要です。★「子」★また、漢和辞典には、古字として、「巛」が上で、「子」が下になった漢字が、記されています。ちょうど、下記の漢字です。「巛 子」 「巛」とは、「巛(川)部」です。要は、「川」です。これも、もともと、この部分がついていたということは、何か意味がありそうです。音読みは、「セン」これを音に返してみると、●「巛」=「川」=「セン」=「千」「山」「船」…。「山」も「セン」なのですね。「山」「川」といった漢字から、思い浮かぶ数字があります。そしてなにより、「巛」もそうですが、すべて、「三」という数字が、象形で示されています。漢字には、ヘブライ密教の「カバラ」が根本にある、ということを思ったとき、「巛 子」という「子」の古字には、「巛」が「三」を表わす…、すなわち、三本柱で象徴される「生命の樹」が秘められているのではないか!?と感じました。大胆に言ってしまえば、「巛」が、「生命の樹」であり、「子」が「イエス・キリスト」なのかもしれません。そして、「子」という字は、十二支の「最初」と、ぐるりと回って、「最後」のところに位置するということを考え合わせると…、「最初」は、アダムとエバの時代のエデンの園の「生命の樹」(=巛)を象徴し、「最後」の時に、イエス・キリスト(=子)の再降臨があり、人類は、再び「生命の樹」へと導かれる!?「巛」は、川の流れですから、「めぐり」「導き」といったことも同時に象徴している…。つまり、「イエス・キリスト」(=子)によって、生命の樹(=巛)へと、導かれる(=巛)ということなのでしょうか。「子」は十二支の起点と終点。「一」と「了」で最初と最後。さらに言えば、「子」というのは、陰陽五行でいえば、方角は「北」に位置します。これについては、また、取り上げたいと思いますが(っていつなるかは保証できませんが…)、どうも「聖書」をみると、最後の時、終わりの時には、何かが(救い?)「北」からやってくる、ということが、何ヶ所か記されているようなのです。ですから、「子」が「北」の方角を表わすというのも、決して偶然ではなく、必然であると思われます。以上、ざっと見てみましたが、「子」という漢字には、しつこいくらいに、象徴が込められているような気がします。シンプルなだけに、象徴がいくつも込められている…。これは、カバラを駆使する集団の「常套手段」のようです。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;うん? 「南野陽子」?と名前を見てて、ふと思いました。この名前は、「南」の方角が、十二支の第7番目の「午」になり、最後の「子」は「北」の方角。「午」=「馬」で、馬宿で生まれたイエスの象徴。つまり、「子」も「午」も、イエス・キリストの象徴。「陽」は、「日」であり、「光」となり、イエスキリストは「光」の象徴でもあるので、やたらと、イエスキリストが出てくるのですが…。何か、今日の話題とシンクロかな。あはは、まあ、こじつけですが…。
November 23, 2005
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▲葵:きのうと同じで、すっぱだかの格好で、「なんだこれは?」と、気になるおっぱいを、触っていますが、何か?今日は、というか、日付かわっちゃいましたが、11月22日は、「夫婦の日」なんですね。昼間、「1122」の車のナンバーを見ました。おお、シンクロだ!!と思いました。それだけなんですが(^^;では、本題へ!★天岩戸の神話から見る天照大神の真の姿とは?★前回の、天岩戸の神話の「核心部分」は、以下の部分です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーアメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」と言うと、アメノコヤネとフトダマがアマテラスの前に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿がその貴い神だと思ったアマテラスが、その姿をもっと良く見ようと岩戸をさらに開けたとき、隠れていたタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「天照大神」が、「八咫鏡」を見る。「鏡」に映った姿が、「真の自分の姿」。そして、「光」の世界が、再び戻った!「天照大神」=「八咫鏡」と言ってもよく、「鏡」は、「天照大神」の分身でもあり、非常に重要な役割をしています。よく言われるように、「鏡」=「カガミ」で、「カガミ」の「ガ(我)」をとって、素直に、ありのまま、自分の姿を見つめれば、そこには、「カ(ガ)ミ」=「カミ」=「神」が映るということなのでしょう。ですから、天照大神が、鏡に映ったその姿こそが、真の天照大神の姿となるはずです。前回に見たように、鏡に映るということは、「鏡像反転」することになりますから、天照大神が「反転する」とは、どういうことか?それは、「古」→「♀」へ鏡像反転するように、鏡に映すことで180度回転して、「陰陽」が逆転することになります。と、いうことは、「天照大神」である「女神」から、「男神」への反転を意味していることになります。つまり、「天照大神」の鏡に映った「真の姿」は、「男神」であると!!(『失われたカッバーラ「陰陽道」の謎』(三神たける・飛鳥昭雄)より)天照大神は、男神だった…!?。そんなことは、ありうるのか?と疑問があるかもしれませんが、この説は、古代史を研究している人たちからも、提示されている説です。となると、天照大神の正体も、見えてくるのですが…。これについては、また機会を改めて紹介してみたいと思います。★故郷の原点に戻る★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」→鏡像反転(180度ひっくり返す)→「♀」=「アンク十字架」=「金星」=「明けの明星」=「イエス・キリスト」!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「古」=「フル」で、「フル」は「へブライ」のこと。「古里」=「ヘブライの里」であり、「古里」=「ふるさと」とは、日本人のひとつのルーツである「ヘブライ」の地を想うことではないのか?という気がします。そして、通常、「ふるさと」とは、漢字で表記する場合、「故郷」となります。この「故郷」という漢字、何気なく使っているのですが、考えてみれば、ちょっと不思議です。「郷」は、郷土、郷国などで、「ふるさと」の意になるので、分かるとしても、不思議なのが、「故」という字です。なぜなら、「故」とは、普段、亡くなった人にも、使ったりもするからです。「故~氏」などと言います。「故人」とは、辞書を引くと、「古い友だち」という意味もありますが、「死んだ人」の意味もあります。妻に、「ねえ、何で、『故』は、死んだ人につかうのに、故郷の故として、使われているの?」と聞いたら、「そんなこと、私に聞かないでよ」と言われました…。それも、何の前触れもなく、唐突に言うので、しかも、よくあることなので、妻には、呆れられているというわけです。(^^;それは、ともかく、「故」という漢字を、「故郷(ふるさと)」に使うとは、不思議です。★「故」の意味と漢字破字法★疑問に思ったら、原点に戻る、ということで、漢和辞典を引いてみます。すると、ちょっと驚きの意味がありました…。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●【故】コ・ゆえ 形声。「攴」と、音符「古」(ころす意→歹古)とから成り、もと、人を無理になぐり殺す意を表わしたが、ひいて「ことさらに」の意に用い、また、古に通じて「ふるい」「もと」の意に用いる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー上記から、もと、「故」には、「なぐり殺す意」があった…。あまりいい意味ではありません。「故」を漢字破字法で分解すると、「故」=「古」+「攵」からなります。「攵」は「ぼくづくり」「ぼくにょう」という部首になりますが、漢和辞典をみると、「攴」と同じことになります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「攵(攴)」=「ぼくづくり・ぼくにょう」会意形声。卜(ホク・木のむち)を手に持つさまにより、うつ、たたく意を表わす、朴・撲の原字。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイエス・キリストは、「聖書」をみると、十字架上で死を迎えますが、その前に、こういう記述があります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。(マタイによる福音書 27章 26節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「攵(攴)」の、「うつ・たたく」意味と、上記がシンクロしてきます。「古」とは、「十」+「口」=「十字架」の「口(=ひと)」=「十字架上のイエス・キリスト」●「故」=「古」+「攵(攴)」から、「十字架上のイエスキリスト」+「うつ・たたく」となります。先の「故」についての、意味を見ていくと、これまた、びっくりします。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【故】の意味。(1)ころす(殺)。しぬ(死) (2)こと。(3)わざわい。非常のこと。むほん。うらみ。できごと。(以下省略)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「故」の意味は、「ふるい」という意味もありますが、本来は、「殺す・死ぬ」という意味だった…。と、いうことは、「故」という本当の意味が見えてきました。こうは、ならないでしょうか?●「故」=「古」+「攵(攴)」 =「十字架のイエス・キリスト」+「うつ・たたく」 =「イエス・キリストが十字架で死を迎えたこと」!?★「故」はイエスの死の象徴?★「故」が、イエスの死を意味するなら、「故郷」とは、「イエス・キリストが十字架上で死んだ里(地)」ということになるのでしょうか。このことは、イエスの死の場所、すなわち、「ヘブライの里(地)」ということになり、「ふるさと」=「古里」=「ヘブライの里」ともシンクロしてきます。●「ふるさと」=「故郷」=「古里」=「故里」=「イエス・キリストが十字架で死んだ里」=「ヘブライの地」!?ここから推測できることとしては、漢字をつくった集団は、明らかに、イエス・キリストとともに生きていた集団か、それに通じる系譜の集団であるということでしょう。でなければ、「ふるさと」に、これだけの意味を込める理由がありません。ということは、イエス・キリストの時代にあった、エルサレム教団「原始キリスト教」が、日本にやってきた可能性があります。日本にやってきた、「原始キリスト教」の正体は、どういった集団なのか?彼らは、中国の漢字をさらに、深化、発展させて、日本の漢字に、ヘブライ密教のカバラの思想を、組み込んだ、と思われます。だからこそ、「イエス・キリストが、全人類の罪を背負って、十字架上で死を迎えたこと」(=「故」)を忘れないために、自分たちのルーツ、原点である「ふるさと」(=故郷)という言葉に、そのことを、込めたのかもしれません…。あるいは、逆に、「故」という漢字に、イエス・キリストの十字架上の死の意味を封じ込めたという見方もできるかもしれません。いずれにしても、「故」という漢字に、イエス・キリストの十字架上での死が組み込まれていることは、間違いないような気がします。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 22, 2005
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▲葵:ちっちゃなおっぱいを自分で、不思議なものでもみるように、「なんだこれは?」と、ぷちっと触ってますが、何か?葵と透萌ふたりとも、風邪を引いています。葵は、きのう、39,5度の熱がでました。娘には、昨日、レイキをけっこうしていました。娘と一日一緒にいたせいか、今日起きたら、今度は自分のどが痛い…。(^^;あれれ?朝、しばらくしたら、鼻水も出てきました。うん…? 娘の風邪がうつったかな…。まずい…。と、いうことで、今日は、昼間ずっと、風邪の初期症状のようでした。娘は、今日は、妻が、迎えにいったら、それから2時間くらい、ふたりで、幼稚園で、しつこく最後まで残って遊んでいたということで(^^;、大丈夫のようです。夜、店を閉めた後、レイキの自己ヒーリングを30分くらいしました。体があったかくなりました。そして、体が、だいぶ楽になりました。やっぱり、レイキはいいです。夜家に帰ったら、のどの痛みはなくなっていました。レイキのおかげでしょうか?いつも風邪ひいても、薬は飲んだことないのですが、とりあえず、今回は、レイキを使って、これ以上ひどくならないように、できそうな感じ。こういうときこそ、どんどん活用しようと思います。では、本題へ!★「ヤタノカガミ」とは★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」→「180度ひっくり返す」→「♀」=「金星」!?●「古」=「アダム」と「イエスキリスト」=「♀」=「アンク十字架」=「生命・永遠の命」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「♂」=「アダム」=「火星」=「陽」=「最初」●「♀」=「♀」=「イエス」=「金星」=「陰」=「最後」●「金星」=「一番星」=「明けの明星」=「イエス・キリスト」=「堕天使ルシファー」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー前回の最後に出てきた、三種の神器のひとつ、「八咫鏡(ヤタノカガミ)」現在は、伊勢神宮の内宮に、安置されていると言われています。この鏡は、「咫」というのが、古代中国の「周」の寸法であり、「一咫」の長さが、「約18センチ」だといいますので、「八咫」で、「144センチ」、すなわち、「約1.4メートル」ということになります。約「1.4メートル」の鏡とは、かなりの大きさになります。●「八咫鏡(ヤタノカガミ)」=「約1,4メートル」★天の岩戸神話★この「八咫鏡(ヤタノカガミ)」は、記紀神話では、有名な「天の岩戸神話」に、出てきます。スサノオ命の乱暴狼藉によって、天照大神が、天の岩戸に隠れてしまいます。ちょっと長いですが、「天の岩戸神話」を引用してみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそこで、八百万の神が天の安河の川原に集まり、どうすれば良いか相談をした。オモイカネの案により、様々な儀式を行った。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師のアマツマラを探し、イシコリドメに命じて八咫鏡を作らせた。タマノオヤに命じて八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉)を作らせた、アメノコヤネとフトダマを呼び、雄鹿の肩の骨を抜き取り、ははかの木を取って占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、アメノタヂカラオが岩戸の脇に隠れて立った。アメノウズメが岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。この声を聴いたアマテラスは、何事だろうと天石戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているというのに、なぜアメノウズメは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」と言うと、アメノコヤネとフトダマがアマテラスの前に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿がその貴い神だと思ったアマテラスが、その姿をもっと良く見ようと岩戸をさらに開けたとき、隠れていたタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」と言った。こうしてアマテラスが岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。八百万の神は相談し、スサノオに罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%B8%E9%9A%A0%E3%82%8Cーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー天照大神の姿を「八咫鏡(ヤタノカガミ)」に映して、その姿を、貴い神と思ったことが、天照大神が、岩戸から出るきっかけとなります。ここには、「鏡に映った姿こそが真の姿である」という、ヘブライ密教のカバラがこめられている、ということが、『失われたカッバーラ「陰陽道」の謎』(三神たける・飛鳥昭雄)で指摘されています。★鏡像反転★たとえば、「木」という漢字をひっくり返すと、「三又の矛」であり、これは、三本柱の「生命の樹」の象徴になります。「木」をひっくり返すとは、「鏡」に映して、上下に反転させた状態です。そうすると、真の姿、「生命の樹」が姿を現す…。と、いうことは、それと同じように、「古」を180度ひっくりかえすと、「♀」になる、というのも、ちょうど、「古」を「鏡」に映して、上下にひっくり返すと、真の姿「♀」が、現われてくる、と見ることもできます。「古(フル)」を鏡に映して、真の姿、「♀」になる!ひとつは、「♀」=「アンク十字架」でした。もうひとつは、「♀」=「金星」であり、「金星」は、「明けの明星」。「明けの明星」とは、「聖書」によれば、「イエス・キリスト」!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(ヨハネの黙示録、第22章16節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれは、イエス・キリストが語った言葉です。●「古」→鏡像反転(180度ひっくり返す)→「♀」=「アンク十字架」=「金星」=「明けの明星」=「イエス・キリスト」!「古」を鏡像反転した「♀」には、「真の姿」が秘められているのだとしたら、「古」、すなわち、日本の「いにしえ」、日本の古代には、ひとつは「♀」=「アンク十字架」(=「永遠の生命)であり、「古代エジプト」が、関わっていることを示唆しているのでしょうか。さらに、「♀」=「金星」=「イエス・キリスト」で、日本という国の古代には、「イエス・キリスト」が、関わっているということをも含んでいるのかもしれません…。天岩戸神話で、天照大神がみた、「鏡」に映った、自分の真の姿とは、どんな姿だったのか…?ここには、天照大神の正体を解く鍵が、込められているようです…。そして、「鏡像反転」とは、ヘブライ密教の「カバラ」の奥義でもあり、日本の謎を解く鍵をも、握っているようです。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 21, 2005
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音もなく舞い降りてくる 白いきらめきには天使の魂が 宿っている月明かりに 優しく反射して闇夜に ほのかに浮かぶ 清らかな白足早に 家路に急ぐ人たちのはく 白い息も心なしか ふわふわとリズミカルに 街に溶けこんでいく空の彼方から次から次へと 尽きることなく落ちてくる 無数の純白耳をすませば 天使の息遣いが 辺り一面から 聞こえてくる一夜明ければ 窓からのぞく景色は光に照り返った 一面の銀色世界夢の中の 異空間に 迷い込み独りぼっちになったような 心細さと新しい限りない可能性に わくわくする気持ちが 交じり合う凛とした冷たい空気を 胸いっぱい吸い込んで白い息を はき出せば想いのすべてを この銀色の空間が優しく 包み込んでくれるような気がした天使たちの奇跡…あんなに小さくて 頼りない 雪の一粒一粒が一晩のうちに この世界を 真っ白な世界に 変化させる不思議光に反射して まぶしいくらいに 輝いている雪片を手のひらで受け止めると一瞬のうちに 水滴となって 流れ消えていく はかなさそれでも 僕の胸に染み込んだものは 小さなぬくもりと 明日への希望今はただ この白が奏でる 奇跡の世界を 見つめていたいたとえどんなに 些細なことでもいま 僕たちひとりひとりがやるべきことを ひたむきに ひとつずつ 積み上げていけば降り積もる雪のようにこの世界は 少しずつ きれいな白へと 変わってゆくいつの日か 無我夢中で駆け抜けた日々を 振り返ってみれば苦しかったことも 悩んだことも 傷ついたことも 何もかもが純白のなかに 溶け込んできらめきの光となっていることに 僕たちは 気づくだろう…
November 20, 2005
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▲葵(あおい):すっぱだかで、えらそうにして、歯ブラシを、くわえてますが(全然磨いてない…)、何か?透萌と、葵が、風邪ひいてしまっています。のどをやられているらしく、咳がでています。ちょっと長引きそうな感じ。レイキをしたり、会社から遠隔したり、レイキしています。みなさんも、風邪にはご注意ください。では、本題へ!★「古」についての前回までの流れ★第四十二幕「明けの明星と宵の明星を冠する金星の二面性」はこちら。ちょっと、間があいたので、前回までの流れを。「古」から、抜け出したいのですが、はまっています…(^^;ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「十(十字架)」+「口(ひと)」=「十字架の人」=「イエス・キリスト」●「古」=「遠く」=「もっとも古い人」=「アダム」!●「古」=「○」+「十」=「最初」+「最後」=「アダム」+「イエス・キリスト」=「この宇宙すべて(阿吽=五十音)」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」→「180度ひっくり返す」→「♀」=「金星」!?●「古」=「アダム」と「イエスキリスト」=「♀」=「アンク十字架」=「生命・永遠の命」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「♂」=「アダム」=「火星」=「陽」=「最初」●「♀」=「♀」=「イエス」=「金星」=「陰」=「最後」●「金星」=「一番星」=「明けの明星」=「イエス・キリスト」=「堕天使ルシファー」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー★古事記とは?★「古」について、見ていく中で、「古」の使われた言葉で、そういえば「古事記」があったな、と今さらながら思いあたりました。これは案外、おもしろいのではないかと感じました。古事記は、通常は、「コジキ」と読みますが、「フルコトブミ」と読む説もあります。「古事記」を、字の通り解釈すると、「古事記」=「いにしえの事を記した」となるのでしょうが、「古」とは「フル」であり、「ヘブル(ヘブライ)」であることを、思えば、「古」=「フル」=「ヘブル(ヘブライ)」となるので、「古事記」=「へブライの事を記した」!?と、見ることができそうです。「古事記」とは、何か?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日本書紀のような勅撰の正史ではないが、序文に天武天皇が「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と詔しているから、勅撰といってもいい。序によれば、稗田阿礼が暗誦していた帝紀(天皇の系譜)・旧辞(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。http://ja.wikipedia.org/wiki/ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー★古事記と日本書紀の関係★ついでに、「記紀」などと、セットで語られることの多い、「日本書紀」についても、簡潔に見てみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日本書紀日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、日本における伝存最古の歴史書で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。http://ja.wikipedia.org/wiki/ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「日本書紀」が、勅撰の正史に位置づけられ、他の国に向けても、自国の歴史を示した正式な書であり、「古事記」は、どちらかといえば、勅撰といっても、天皇家の私的書物といった面があり、文学作品のような面もある、といえるのかもしれません。この両者は、同じ神話を述べていても、微妙に違っていたりします。これは、どうも、意図的にしているようです。ですから、「古事記」と「日本書紀」は、ちょうど、二枚の鏡を前後に置いて、後姿を見るような「合わせ鏡」の関係であり、「表裏一体」の関係なのだと。ふたつが合わさって、謎が解けてくる部分もある、と。で、あれば、「日本書紀」とは、名称から、そのままとれば、「日本」のことを記した書物。「古事記」は先ほど見たように、「古(フル)」=「ヘブル(ヘブライ)」なので、「古事記」=「へブライの事を記した書」という意味も、裏にこめているのかもしれません。それは、同時に、古事記と日本書紀を両方編纂したことで、ヘブライと日本の繋がりをも示唆していると。★「古事記」の根底には「カバラ」がある★と、いうことは、「古事記」には、「ヘブライ」のことが、より色濃く、象徴的に組み込まれている可能性があります。そして、実際に、古事記の「造化三神」と、ヘブライの聖典「聖書」の「絶対三神」は、同じことを示しています。さらに神話も、よくよくみていくと、いたるところに、ヘブライの象徴が組み込まれていることが分かります。と、いうか、「古事記」も、ヘブライ密教の「カバラ」の思想が根底には流れていると思われます。冒頭の「造化三神」の「三」が、まさにそのことを示しています。「古事記」と「日本書紀」というのは、ある意味、天皇家の都合の良いように組まれた歴史書であることは、間違いないでしょう。天皇家のルーツが、おそらくヘブライ、すなわち、「失われたイスラエルの十支族」である可能性が高い以上、自分たちの出自を巧妙に隠す意図もあったはずです。ですから、それまでの先住民族の歴史を、日本から消してしまうということも、していると思われます。たとえば、大和朝廷の前にあったとされる、「邪馬台国」については、ほとんど記述がない。明らかに、邪馬台国の歴史を抹殺していると思われます。邪馬台国については、いまだどこにあったのか、それこそ無数の説が提示されていますが、いまだに決め手がない。しかし、今は、自分たちの出した説が間違いであることが証明されると、権力や名誉に関わってきますので、真実を証明するというよりも、自説をいかに固持するか、ということになってしまっているような気がします。邪馬台国の場所は、はっきり言って、ほぼ特定されています!しかし、その説が証明されると、他の説を提示した人が困るので、これはあってはならないことなのですが、その説が出ないような「圧力」「妨害」もあるようです…。と、話がそれましたが、「古事記」は、日本のそれまでの歴史を抹殺した、というのと同時に、天皇家の本当の出自をも、覆ってしまいました。しかし、天皇家の本当の出自を読み解く鍵が、無数にこめられています。それは「カバラ」が無数にこめられてもいるので、それによって、ヘブライのことを象徴で読み解いていくこともできる。「記紀」は「合わせ鏡」になっていますが、「合わせ鏡」は、日本の歴史を読み解く上で、重要になってくると思われます。たとえば、正月の門松も、三本に組まれた竹を、玄関前に、左右一対に置きます。「三」+「三」=「六」になります。伊勢神宮の内宮正殿は、本殿と東宝殿と西宝殿を結ぶと三角形が現われます。同時に外宮の正殿も、同様に、三角形ができます。そして、内宮の「▽」と、外宮の「△」を合わせると、「六芒星」ができる。これも、両者を合わせることで、象徴が浮かび上がってきます。こういうものが、いたるところに張り巡らされている、ということになります。「鏡」といえば、神話上でも重要な役割を果たす「八咫鏡(ヤタノカガミ)」は三種の神器の一つです。この鏡も、重要な役割を果たしますが、次回少し触れてみたいと思います。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 19, 2005
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空を見上げていると、雲の隙間から何かが出てきた。よく目を凝らすと、それは、まぎれもなくUFOだった!底に、三角形の頂点に円いものがついている「デルタ型」といわれるUFOだった。 ○ ○ ○ ←底が、こういうふうに見える。「ああ、やっぱりUFOは実在したんだ!」と思った。そして見ていると、「ぐわぁーーん」という感じで、急速に、接近してきたかと思うと、また翻って、上昇していったりと、そういう動きを何度か見せた。まるで、UFOの存在を、こちらに誇示しているように。しかし、怖いという感覚は、全くなかった。その後のことは、何かあったのかもしれないが、よく覚えてない。記憶で思い出せるのは、その程度。と、いうリアルな夢でした(^^;少し前にも、UFOの夢を見ました。そのときは、マザーシップ(母船)を見ました。そのときの夢はこちら。UFOの夢を見るということは、心が、現実逃避を求めているのでしょうか(^^;まあ、よく分かりませんが、UFO問題は、特にアメリカなどが、かなり複雑に情報操作している現実は、あると思われます。UFOと呼ばれるものは、99%が、誤認やトリック、あと固体、液体、気体に次ぐ、第4の状態「プラズマ」なのかもしれません。こういうことを書くと、変に思われるかもしれませんが、それでも、いろいろ見ていくと、やはりUFOは、実在する!と、思います。実際見たことは、ないのですが…。では、はるか遠い星から、宇宙人と呼ばれる存在は、はるばるやってきたのか…。以前はそう信じていましたが、どうもこれは、違うのではないかと思います。宇宙人と称する存在の話などを、本などで読むと、はるか昔、琴座とが、ベガとか、気が遠くなるほど以前に、人類のルーツは行き着く、といいます。本当にそうなのかという、「証拠」はありません。ただ、そういう長い長い歴史がある、と言っている「霊的な存在」がいることは、確かでしょう。そういう人たちには、肉体はないようです。その「霊的な存在」は、本当にそういうところから来たのかどうか…。その確証は、ないといえば、ない。意地悪な言い方をすれば、その存在が、そういう壮大な歴史を作り上げて、言っているだけかもしれない…。「霊的な存在」とは、いったい何者なのか?このことを、まず明らかにする必要があるかもしれません。また、こういう説も本で見ました。「聖書」というのは、ある月に住む住人(宇宙人?)が、地球の人間を管理するためにつくったものであると。ということは、聖書でいう「神」とは、「宇宙人」を指すということになるようですが…。これについても、個人的には、違うように思います。「聖書」は、宇宙人がいたとして、そういう存在が「聖書」をつくったとか、そういうレベルの聖典では、ないような気がします。宇宙人ということではなく、まさしく「神」の預言書なのではないかと。ただ、月にどうやら「先住民族」がいるらしい、ということも、確かです。これは、月に何度か行っている、アポロ宇宙船にも、実際にUFOに遭遇したと思われるからです。というか、表に出てこないだけで、UFOの存在は、乗組員たちにとっては、当たり前のことだったようです。宇宙人のことを「サンタクロース」と称して、UFOのことを、「そり」と呼び合っていたようです。「そり」に乗った「サンタクロース」がやってきたと。実際に一連のアポロ計画の時には、いつもUFOが、現れていたといいます。しかし攻撃などは一切せずに、見守るようだったとも。UFOの写真も、たくさん撮られているけれども、もちろん、アメリカのNASAなどは、表に出すはずがありません。月に「ある存在」がいることは、確かだと思われます。その存在とは、「宇宙人」というより、実はわれわれと非常に近い「異邦人」の可能性があるとも…。そして、このことは、『アポロ計画の謎と月空洞論』(三神たける・飛鳥昭雄)に書かれていますが、普通の人が読んだら、まず、あまりに「ぶっとんだ内容」であり、「常識を越えたありえない」話に、全く信用しないだろうとおもいます(^^;。ハリウッド映画では、よく宇宙人が地球を攻撃しにやってきて、それに対して、地球人は、対抗して、最後には地球を守る、というストーリーの映画が、けっこうたくさんつくられています。これは、ただ娯楽映画で作られているというよりも、一種の洗脳映画ともいえるようです。ここには、「宇宙人」は、怖いものというイメージを植えつけようとする意図が見え隠れします…。今後、月にいるある存在のことも、クローズアップされざるを得ない時がくると思います。そして、この存在と、日本のおとぎ話、かぐや姫の「竹取物語」とがシンクロして、さらに、月の存在と地球の歴史は結びつき、さらに、シャンバラ伝説や、「聖書」とも結びついてくるようです。と、何だか、非常に、非現実的な、怪しい話になってしまいました…。こういうことを、妻には、唐突に「月にはね、人が住んでいるんだよ・・・」とか、話しかけるので、最近は、慣れてきたのか、「ふ~ん、そうなの…」と、冷静に対応してもらうようになりました(^^;ただ、非現実的な話を、そのまま切り捨ててしまうか、そういう話は、じゃあ、実体はどうなっているのだろう?と見ていくか。不思議大好き人間としては、もちろん後者です。当然そこには、実際にありえない話や、うその話もあるでしょう。でも、興味が向いてしまうので、ついつい、見ていってしまいます…。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 18, 2005
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▲透萌(ともえ)と葵(あおい):葵は、常に動いてるので、ブレて写ることが多い…。まもなく、一歳4ヶ月になる葵は、ようやくよたよたと歩き始めました。ふらふらして、危なっかしいですし、よく倒れています。髪は・・・相変わらず、薄いです(^^;おさるさんみたいで、見ている方は、わが娘ながら、何でこんなにおもしろい顔をしているのだろうと、癒されるのですが。5歳の透萌は、日曜日など家にいると、よくしゃべりかけてきます。というか、ひっきりなしです。先日の日曜日は、朝ごはんを食べた後、会社のDMにいれる、私的通信、光透波の泉【アナログ版】を、書き始めていました。毎回切羽詰ってからでないとできない体質で、その日にある程度書かないといけないので、やや焦り気味でした。書き出した時、透萌は、目の前で、2本のはさみを並べて比べています。「あんなぁ、どっちが大きい?」と、関西弁まるだし(?)で、聞いてきます。書きながらなので「こっち」と、いい加減に返事をします。今度は、机を出してきました。「おとうちゃん、お客さんね!」と、よく分かりませんが、勝手にお客さんにされてしまったようです。「なにするの?」と聞いたら、「しましま(しまじろうの)レストラン!」と言って、いつの間にかエプロンまでして、やる気満々です。入れ物を持ってきました。なかには紙を棒状に丸めたものがたくさん入ってます。ポッキーのようです。葵は、机の前に座らされて訳が分からないまま、お客さん役にされています。今のうちに、書いておこうと思いました。…と、今度は、ポッキーや、メニューなどを、まさに私が書いている机の上に持ってきました。ゲッ…。こっちに来ないでよ…。書いてるんだけど、と思いましたが、そんな言い訳は、通用しそうにありません。「何がいいですかぁ?」と、しつこく聞いてきます。書いているのに、と思いつつ、紙で作ったメニューをみて、「じゃあ、ハンバーグを」というと、「ないんです!」と、あっさり。「え? だって、このメニューに書いてあるよ?」と。「(おもちゃの)冷蔵庫に入ってないので、ないんですぅ。ごめんなさいねえ。」じゃあ、ということで、ピザを頼みました。「じゃあ、ちょっとお待ちくださいねぇ~。」と向こうへ行って、おもちゃのレンジを開けて、ピザを入れています。ピザができたようです。「これで食べてくださいね~」と言って、「はい!」とご丁寧に、フォークを差し出してきます。書いているんだけど…と思いつつ、「ありがとうね」と受け取ります。「アイスもあります」と、注文してないのに、おもちゃのアイスを出してくれます。しょうがないので、「あむあむあむ。あ~おいしかった」と、我ながら、全然おいしくなさそうに食べるマネをします。(^^;葵は、「ふおー。うお、ふお」とわけのわからない奇声を発しながら、手に持った物を差し出してきます。いや、だから、書いているんだけど…。いやあ…。なかなか、良い環境で、書かせていただいているようです(^^;今度は、「はい、これ出してくださ~い」と、紙のお金を出してきます。要は、レストランで食べたので、お金を払ってということみたいです。紙の2千円札を出すと、おつりを千円くれました。「ありがとうございま~す」となりきっています。将来は、なかなか、立派な店員さんになれそうです。今度はバタバタと、トイレへ突進です。いつもぎりぎりまでこらえています。揺れだしたら要注意です。パンツにちびってしまうことも多いです。今度は歌いだしました。とにかく、途切れません。何でこんなにしゃべるんでしょう。2階へ行きました。まだ、歌ってます。自分の世界に入ってます。ごきげんです。しばらくして、また降りてきました。トイレです。「え?さっき行ったんじゃあないの?」と。トイレで、また歌ってます。なかなかすごいパワーです。見習わなくてはいけません。あんなに途切れなくしゃべるとは、いったい誰に似たんだろうと不思議でなりません。またレストランごっこを始めました。葵はペンギンみたいに、ひょこひょこ歩いて、「うあ~、うー、ふー」と奇声を発しています。ちょっと集中したいのですが…。それは無理のようです…。まあ、いいや。じゅうぶん楽しませてもらいました。なかなか、ハードなひと時を過ごしました。って、ただ、座って、呆然と娘を見ているだけなんですが…。葵がしゃべりだしたら、どうなるんだろうと、やや恐怖の念を抱きつつ、今このときを楽しんでいようと思った、日曜日のひと時でした(^^;読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 17, 2005
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「古事記」と「聖書」が繋がってくる。一番の核心は最初に述べる、というのがありますが、「古事記」がまさにそれです。古事記の冒頭部分の「造化三神」というのが、すべての神々の集約です。三神がそれぞれ独立して存在している。そして、「聖書」は、「御父、御子、聖霊」の三神。これも、「三位一体」という解釈よりも、「三位三体」といった方がすっきりします。ですから、「造化三神」=「絶対三神」となります。そして、「古事記」「聖書」の根幹を成しているのは、ヘブライ密教の「カバラ」であり、その奥義「生命の樹」ということになるようです。「生命の樹」を象徴図形とすれば、「三本」の柱に、10(あるいは11)のセフィロトが配置され、22本のパス(径)が張り巡らされている、という構図になります。「聖書」と「古事記」が、これら「カバラ」を知り尽くした、同じ系統の集団によって、記されたということは、一言でいってしまえば、日本のルーツのひとつは、間違いなく、古代ヘブライに行きつきます。つまり、アカデミズムからは無視されている、日本人とユダヤ人は同族であったという「日ユ同祖論」が、真実味を帯びてくると、いうことになります。ひとつの誤解としては、たとえば、イエス・キリストや聖母マリアは、西洋のキリスト教の画などをみると、ともに白人で描かれています。しかし、これは全くの誤りで、イエス・キリストやマリアは、黄色人種の種族に入ります。ノアの大洪水の後、聖書によれば、ノアの息子のセム・ハム・ヤフェトの三人の息子たちが、それぞれの妻の資質の違いにより、子孫は大きく3つの種族に分かれていったことが記されています。大雑把にいえば、「セム」はモンゴロイドとも称される、黄色人種。「ハム」は黒人の資質。「ヤフェト」は白人の資質。キリスト教は、いまは「ヤフェト」つまり白人の人たちの信仰が多いため、西洋の壁画などを見ると、イエスキリストや母親のマリアは、白人で描かれているものが多いことになります。ですから、先ほど述べたように、このことは厳密に言えば、誤りであるということになります。イエスキリストを含むヘブライ民族と、日本人は、系統的には同じということになります。「セム」の系統を受け継ぐ民族ということになります。彼らは、「聖書」に、「初めに言葉があった」とあり、また、日本は昔から、言霊といって言葉の重要性を知っていました。「セム」の資質というのは、一言でいえば、「言葉」の力や見えないものに重きを置く民族といえるのかもしれません。これは、聖書にも、古事記にも、通じるものがある、と思います。いまの白人のユダヤ人は、ある時期にユダヤ教に改宗したしたので、ユダヤ人といわれているということになります。本来の、という言い方が正しいかどうか、古代ヘブライの時代のユダヤ人というのは、黄色人種に近く、セムの資質を受け継いだ民族ということです。だから、ユダヤ人と、日本人は人種的に全く違うから、日ユ同祖論など、ありえない、ということも言えなくなります。 ※ ※ ※ よく、聖母マリアの奇跡ということで、聖母マリアが、霊体(?)となって現れたとか、金髪の美しい姿となって、見えたとかいう現象があります。実際のマリアが、白人ではなかったわけですから、もし、実際に金髪の女性が現れて「マリアである」と名乗ったのなら、これは非常におかしいことになります。というより、その存在は、マリアではない「別の存在」である、とういことになります。一番有名なのでは、「ファチマの予言」というものもありました。第一と第二の予言は見事成就して、後は第三の予言を残すのみで、これはまだ発表されていないようです。そこには、人類の将来に関わる重大な事が書かれているとか言われているのですが…。これも、奇跡とされますが、どうも、怪しい部分が多々あり、結論から言えば、聖母マリアの名をかたった「別の存在」が関わっているようです。 ※ ※ ※話がそれましたが、日本のルーツは、ひとつではないということだと思います。太平洋を隔てた向こう側には、南米大陸の海岸あたりから、縄文時代の土器とそっくりなものが出土しています。日本と南米大陸、もっといえば、マヤ文明あたりとも繋がりがあったようです。そして、南米大陸や北米大陸、マヤ、インカ、そして太平洋諸島、日本などを含んだ「環太平洋文化圏」なるものもあったと思われますので、かなりダイナミックな動きが古代にはあったことでしょう。もっといえば、マヤ、インカの人たちも、太平洋を横断して、日本へやってきた可能性があります。古代にそんなことは不可能ではないのか?というと、そんなことはなく、実際に、太平洋を小さな船で、自力で横断した人もいます。大きな動力船でなくても、可能だということになります。日本のルーツを手繰っていくと、いろいろな流れがありそうですが、古代ヘブライからの民族の流れというのも、そのひとつでしょう。ヘブライの地から、歴史上「イスラエル十支族」がどこかへ消えてしまったことと考え合わせると、結論から言ってしまいえば、日本へ来たことは確実であり、さらに言えば、日本の天皇家は、失われた十支族の末裔である可能性も、十分にあります。そして、渡来人たちもルーツは、非常に大雑把な言い方ですが、「ヘブライ」にあると思われます。秦氏、物部氏、賀茂氏、忌部氏など…。ですから「漢字」も聖書を見ると、繋がってきますし、「古事記」「日本書紀」も、聖書と繋がってくる。すべては、一本の糸で繋がってきます。非常に一般からしたら「奇異」な説に聞こえるかもしれませんが、いずれこういったことも、明らかになっていくと思います。思いつくまま書きましたので、間違いもあるかもしれません。大まかな流れは、こういうことになると思います。
November 16, 2005
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▲葵(あおい):おさるさんポーズ? 頭ポリポリしてますが、何か?今日は、そのまま本題へ!第四十一幕「古代エジプトに息づく永遠の生命の象徴」はこちら。前回までの流れ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「十(十字架)」+「口(ひと)」=「十字架の人」=「イエス・キリスト」●「古」=「遠く」=「もっとも古い人」=「アダム」!●「古」=「○」+「十」=「最初」+「最後」=「アダム」+「イエス・キリスト」=「この宇宙すべて(阿吽=五十音)」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」→「180度ひっくり返す」→「♀」=「金星」!?●「古」=「アダム」と「イエスキリスト」=「♀」=「アンク十字架」=「生命・永遠の命」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー前回は、「古」を、180度回転させた、「♀」について、みてみました。●「♀」=「アンク十字架」「アンク十字架」は「生命」「永遠の命」という意味があるといいます。「古」=「アダム」と「イエス・キリスト」であれば、不思議と「アンク十字架」の意味と符合してきます。すなわち、「生命」=「アダム」「永遠の命」=「イエス・キリスト」また、「古」を180度回転させると、「♀」になるというのは、何だかお遊び的な要素がありますが、案外これは、重要なのかもしれないと思いました。ヘブライ密教の「カバラ」の奥義のひとつに関わってくるのではないかなと。これについては、また見てみたいと思います。★陰陽の関係★もうひとつは、「古」と「♀」は、ちょうど180度の違いですから、これは、大極図の「陰陽」を表わすように、まさに「陰陽」を表わしているのではないか、と思いました。「♀」が女性であり、占星術では、「金星」を表わす記号です。そして、「♂」が男性であり、「火星」の記号。これは、自信ありませんが、もしかしたら、「♂」は、「♀」をひっくり返した形なのではないかなと。「♂」の上に伸びている棒を、まっすぐにしたら、そう考えられないこともない。さらにいえば、「♂」=「古」と言えないでしょうか?ちょっと無理があるかもしれませんが。●「古」=「♂」=「男性」=「アダム」=「火星」● 「♀」=「女性」=「???」=「金星」上記の「???」は、「アダム」との対応をみれば、「イエス・キリスト」となります。しかし、「女性」=「イエス」??となってしまい、「イエス」が女性?、のはずはないですが、日本との関係をみたとき、ある意味、的をついているかもしれないと感じました。これについては、日本のある存在の正体をまず明らかにしないといけませんが、いずれ機会があれば紹介してみます。とりあえず、「男性」「女性」を取り除けば、見事に意味は繋がってきます。もう1度整理してみます。●「古」=「♂」=「アダム」=「火星」=「陽」=「最初」● 「♀」=「イエス」=「金星」=「陰」=「最後」ここで、「火星」と「金星」と出てきたので、「火」と「金」から、陰陽五行をみていっても何か出てこないだろうか、という気もします。「木火土金水」について、「聖書」から見ると、ひとつおもしろい見方ができますが、また先で取り上げられたらと思います。お遊び的な発想ですが。えっと、わき道へひたすらそれていきそうなので、というか、この話自体がわき道ですね…。戻します。★聖書に記された「金星」★「イエス・キリスト」は、「金星」との関わりが深いことが分かります。これは、惑星の「金星」との関わりというより、象徴なのだと思います。あるいは「金」との関わりでしょうか。そして、聖書には、実は「イエス・キリスト」と「金星」との関わりが記されています!金星は、夜空に明るく輝く星でもあるので、古来より「一番星」と称されて来ました。また、夜明けと夕暮れ時にしか見えないことから「明けの明星」「宵の明星」とも称されます。『失われた堕天使「ルシファー」の謎』(三神たける・飛鳥昭雄)から、見てみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(ヨハネの黙示録、第22章16節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれは、イエス・キリストが語った言葉。しかし同時に、「堕天使ルシファー」(=サタン)に対しても、「明けの明星」に例えられています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。」(イザヤ書「第14章12節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「金星」=「一番星」=「明けの明星」=「イエス・キリスト」=「堕天使ルシファー」このあたりのところは、聖書が、簡単に善悪でわけられるものではないことを示しているようです。まさに「イエス・キリスト」と「堕天使ルシファー」は、陰陽の関係であり、「表裏一体」の関係だといえるのでしょう。金星の「金」は、けんたま様の解読で、「金」は富の象徴であり、「富」=「トミ」=「十三」=「13」にも通じますし、「13」は、最悪の数字とも言われますが、「トミ」→「金」さらに「黄金」へと繋がる最高の数字にもなります。まさに「陰陽」合わせ持つ数字とも言えます。これは、そのまま「金星」が、「イエス・キリスト」と「堕天使ルシファー」を象徴していることと繋がっていきます。「一番星」というのも、まさに善悪の頂点に両者が位置することを思えば、「一番」という言葉が、繋がってきます。★実際の「金星」の姿★そして、金星は、今でこそ「愛と美」の惑星という、非常に穏やかで華やかなイメージを持った惑星ですが、古代の神話の記録などを見ていくと、殺戮の神、凶暴な神とされ、非常に恐れられている時代があったといいます。それも、前の時代になるほど、そうだといいます。これはいったい何を意味するのか?このあたりについても、金星という惑星を見ていく上で、興味深いものがあります。「愛と美」と「凶暴」という、これまた、相反する金星の姿は、「イエス・キリスト」と「堕天使ルシファー」の姿とシンクロしてくるものがあります。ここにも、金星の二面性、すなわち「陰陽」の面が、見られます…。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 15, 2005
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▲透萌(ともえ)と葵(あおい):葵は、何があったのか、泣いてます。透萌は、神妙にカメラ目線。きのうは、家族で、実家に行っていました。兄夫婦も来ていました。最近、透萌(ともえ)は、兄夫婦に遊んでもらうのが何よりの楽しみ。でも実は、幼稚園に行くまでは、特に兄を見ると、泣き叫んでいました(^^;私と兄は、二卵性の双生児で、そんなに似ているというわけでもないけど、でもある程度は似ています。なのに、見ると、もうパニック状態になって、泣き喚く。「おじちゃんが来るよ。」と言うだけで、まだいないのに、もう涙ぐんでしばらく我慢するけど「わあーん」と泣き出す。「いないよ」と言っても駄目。兄夫婦には、何というか迷惑をかけました。(^^;でも、今はそんなことはもう何もなかったように、兄夫婦が、今日は来るよ、というと、喜色満面。えらい違いです。何だったんだ、あれは? と思います…。これが成長というものなのでしょうか。では、本題へ!★「古」の漢字について★第四十幕「天使と悪魔と始まりと終わりの宇宙」はこちら。前回までの流れを。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「十(十字架)」+「口(ひと)」=「十字架の人」=「イエス・キリスト」●「古」=「遠く」=「もっとも古い人」=「アダム」!「古」は、アダムとイエス・キリストの象徴?よって、●「古」=「○」+「十」=「最初」+「最後」=「アダム」+「イエス・キリスト」=「この宇宙すべて(阿吽=五十音)」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー★「古」をひっくり返すと…?★「古」という漢字は、シンプルながら、見ていくと、表音、表意、ともに深い意味がある、という気がします。音の「フル・コ」や、漢字の表意「古」の漢字破字法。そして、今回は、表意について、また別の側面から見てみます。「古」=「十」+「口」=「十」+「○」で、「陰陽」そのものを象徴している可能性があることを見ました。「古」という字体は、象徴図形とも見れます。漢和辞典を引くと、もともと「神を象徴するかんむり」の象形だったといいます。この「古」を右に90度、回転すると「口十」となり、「叶」という漢字になる。このことは、けんたまさまに教えていただきました。けんたまさまのHP「叶う」で、すばらしい解読をされています。では、「叶」をさらに90度回転させるとどうなるか。 口「叶」=「口十」→十となり、さらに「口=○」とすれば、○十→「♀」!?つまり「古」を180度ひっくり返すと、「♀」と見ることはできないでしょうか。「♀」と言えば、「女性」のマークでもありますが、本来は、西洋占星術でいう「金星」のマーク!金星といえば、愛と美の女神「ビーナス」です。ちなみに、「♂」は男性のマークの象徴ですが、これも西洋占星術から言えば「火星」のマーク!これは、戦いの神マルスを象徴しているといいます。「古」→「180度ひっくり返す」→「♀」=「金星」!?「古」と「♀」には、繋がりがあるような気がします。「金星」については、次回あたりに見てみます。★「古」から「古代エジプト」に繋がる?★今回は、「♀」から、ある形に繋がっていくような気がします。十字架と一口に言っても、いろいろな種類があるのですが、そのひとつのバージョンと言ったらいいのでしょうか。古代エジプトの、壁画などでも描かれている図形です…。「♀」=「アンク十字架」!?アンク十字架のペンダントの写真を、下記に掲載してみます。▲アンク十字架(http://www.rakuten.co.jp/hrshop/552731/555069/)アンク十字架とは、古代エジプトと関係が深いことが分かります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー頂部が楕円形の輪になった十字架で、古代エジプトにおける、生命を象徴する護符。これが何を象徴するかは明らかにされていないが、その意味する所は「永遠の命」で、エジプトの象形文字でもアンクは「生命」を意味している。http://www11.tok2.com/home/sacriface/a.htmlーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここから、「アンク十字架」は、古代エジプトでは、「生命」であり、よく分かってないものの、「永遠の命」を意味すると!「古」も、ひっくり返した「♀」も、ともに「十」+「○」から成り立っています。と、いうことは、「♀」も、前回まで見たように「陰陽」「阿吽」「五十音」「初めと終わり」、すなわち、「この宇宙すべてを包括する漢字」の象徴である、とも言えそうです。そして、「♀」が、「永遠の命」の象徴だとしたら、やはりこの人物に行き当たります!死と復活(陰陽)をして「永遠の生命」復活体をえた人物、「私は、α(アルファ)でありω(オメガ)である」と言った人物…、その名は…、イエス・キリスト!!さらに「♀」が「生命」そのものを象徴するのだとしたら、神によって、命の息を吹き込まれ、一番最初に命を与えられた人物「アダム」!をも象徴しているのかもしれません。「古」=「アダム」と「イエスキリスト」=「♀」=「生命・永遠の命」!?さらに、「♀」が古代エジプトの「アンク十字架」だとすれば、「アンク十字架」と「聖書」と「漢字」との繋がりも気になるところです。それは、とりもなおさず、「古代エジプト」と「古代ヘブライ」と「日本」が結びついてくる、ということになります。なぜなら、ヘブライとエジプトは、「旧約聖書」をみると、特に「モーセ」の時代に、非常に深い関係であることが分かるからです。エジプトではヘブライ人は奴隷として長年使役されてきましたが、「モーセ」が立ち上がって、エジプトを脱出したくだりは、「旧約聖書」の「出エジプト」に記されています。しかも、ヘブライ人は、エジプトで使役されていた時は、技術者の集団として関わっていたようです。「古代ヘブライ」→「古代エジプトでの奴隷生活」→「モーセによる出エジプト」→「カナンの地目指して砂漠での生活」という順になるのでしょうか。いずれにしても、エジプトとヘブライ人は、密接な関わりがあったということでしょう。「古」→「♀」=「アンク十字架」→「古代エジプト」となり、日本のルーツ、すなわち、「古(いにしえ)」は、「古」=「フル」=「ヘブル」から、「古代ヘブライ」との関わりを示唆するのと同時に、「古」をひっくり返した「♀」(アンク十字架)によって、「古代エジプト」との関わりをも示唆しているのかもしれません。実際に、エジプトのギザのピラミッドは、「三大」ピラミッドが中心です。また、エジプトの神々を見ていくと、一見、多神教のようでありながら、これも日本の神道と同じで、集約すれば、「太陽三神」になります。すなわち、「ラー」「アトゥム」「ケプリ」という「三神」をさします。エジプト文明も、「三」という基本、ヘブライ密教「カバラ」の根本教義が、散りばめられているようです。そうなると、「古代エジプト」(♀)、「古代ヘブライ」(古=フル)、「日本」(古)、が、ひとつに繋がってきます…。「古代エジプト」というのも、日本のルーツを考える上では、重要な地になるのかもしれません。次回は、「♀」=「金星」について、簡潔に見たいと思います。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 14, 2005
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きのうの夜は娘と添い寝してたら、そのまま寝てしまいました…。ということで、ざっといきましょう。日本という国と、それもとりわけ「神道」と「聖書」がなぜ、こうも不思議と結びついてくるのか。日本の神は、八百万の神で、多神教。「聖書」は、旧約聖書であれば、唯一絶対神、新約聖書であれば、三位一体ということになるのでしょうか。いづれにしても、常識で考えれば、「神道」と「聖書」は結びつくはずがないです。しかし、古事記をみると、一番原初の神は、一神ないし、三神であったことが、明確に記されています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)。次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は、みな独り神成りまして身を隠したまいき。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここからみれば、この三神は独り神であり、独立した神であったということです。ですから、原初には、正確には「三神」がすべてのもとである、と「古事記」には記されています。つまり、その後さまざまな神が、生まれていくことが記されてはいますが、集約すれば、原初の「三神」に行き着くと。これは、日本の神道の要となる部分でもあり、だから日本では、いたるところに「三」が重要視されている、ということになるのでしょう。正月の門松は、基本的には「三本」からなる竹の組み合わせで、それが玄関の両脇に対になっています。鏡餅も、二段とその上に柑橘類などを置くので、合計「三段」。「山」も「三柱」を示し、「木」もひっくり返すと、三又の矛のように見え、「三柱」。そして、キリスト教の三神は、「御父」「御子」「聖霊」になりますが、これは「三位一体」として、解釈されるのが通説ですが、三神は、独立している「三位三体」となるのではないか、との説もあります。こちらの方が、すっきりするようにも思います。仮にそう考えれば、「古事記」の「造化三神」と、「聖書」の「絶対三神」は、結びつきます。というよりも、同じことになります。『堕天使「ルシファー」の謎』(三神たける・飛鳥昭雄)によると、等式で結ばれると指摘されています。●「造化三神」=「絶対三神」!すなわち、「御父」=「天御中主神」「御子」=「高御産巣日神」「聖霊」=「神産巣日神」になります。と、いうことは、非常に大雑把にいえば「聖書」を聖典としていた集団が、西アジアから、ユーラシア大陸を「騎馬民族」と融合して、東へ東へと、長い年月をかけて移り住んでいき、中国へ流入。あるいは、朝鮮半島へ流入して、日本へやってきたと!そのときに気になるのが、西アジア、すなわち、ヘブライの地から、過去のある時期、突如、消えてしまった民族がいます。このあたりのことも、順を追って、紹介したいとは思いますが、ダビデ王のときに頂点を迎えたイスラエル王国が、その後、分裂し、北イスラエル王国と、南ユダ王国になり、他国からの侵入などで、北イスラエル王国が最初に滅びてしまいます。このとき、捕囚などがあり、北イスラエル王国に住んでいたのは、イスラエル十支族。彼らは、いつの間にか、北イスラエルから消えうせていました。彼らのことを「失われたイスラエル十支族」!!といい、このことは、歴史上の大きな謎になっています。彼らの本隊は、ユーラシア大陸を北へ向かったといいますが、別動隊は、ユーラシア大陸を、東へ東へ向かったとも言われています。ユーラシア大陸を東へ東へたどっていくと、そこにあるのは、中国、朝鮮半島であり、そのさらに東は…。極東の地「日本」!であれば、「聖書」と「古事記」が、同じ集団あるいは、同じ思想を持つ集団によって記されている、という事実とシンクロしてきます。さらに、付け加えるならば、イエスキリストが十字架上で死を向かえた時代、イエスの直系の弟子たちを中心にくまれた「原始キリスト教」という集団がいました。この集団も、イエスの死後と復活の後、しばらくしてから、これまた同じように「消失」しています。彼らは、どこへ行ったのか…。失われた十支族は、本当に日本へやってきたのか。北へ向かった本隊はどこへ行ったのか。そして、イエスの教えを直接受け継いだ集団「原始キリスト教」はどこへ行ったのか。こういったことは、アカデミズムでは、まずまともに取り上げられることがないですし、確実に「異端」あつかいされると思います(^^;。しかし、漢字を見ていくと、「聖書」抜きには考えられないことから見ても、古代ヘブライの思想と、日本の神道は、間違いなく結びついている、ということを思います。結論を言ってしまえば、イスラエル十支族は、日本に来ている!そして、イエス直系の教え「原始キリスト教」を信奉する集団も、ある渡来人となって日本へきている!ということになります。その謎を解く鍵は、神話や神社、神道、日本の風習、漢字に秘められているようです。日本という国は、いつも思うことながら、本当に不思議で奥深い国だ、というのが、偽らざる感想です。
November 13, 2005
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▲透萌(ともえ):デジカメを向けて、笑って、と呼びかけると、「ニッコリ」と投げやりに言いつつ、全然ニッコリしてないのですが…。今日は、会社の会議があったので、大阪まで行ってきました。電車で、一時間ほどあるので、その間の読書が、楽しみのひとつです。そして、早めにいって、喫茶店で、モーニングを食べつつ、また読書。自分にとっては、なかなか心地よい時間です。重度の活字中毒症状を、持病にもつ、私としては(^^;、贅沢な時間です。では、本題へ!★「古」の漢字★第三十九幕「遠い未来へと想いを馳せるいにしえの人」はこちら前回までの流れをあげてみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「十(十字架)」+「口(ひと)」=「十字架の人」=「イエス・キリスト」=「十口(=十九)」=「重苦」!●「古」=「十+口」=「遠く」=「先祖」=「最も古い先祖」=「アダム」!?●「古」=「十+口」=「十九」=「重苦」=「たえがたい苦しみ」=「原罪」!?●「古」=「遠く」=「もっとも古い人」=「アダム」!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「古」は、ふたりの人物、「イエス・キリスト」と「アダム」を象徴している可能性があることを、みました。★「古」=「アダム」★まずは、「古」=「アダム」について、気がついたことを。「古」=「十」+「口」=「十(陰)」+「○(陽)」となり、「古」は、陰陽を合わせ持つ漢字である、とすれば、「古」は、「陰陽合一」で、「完全」を意味する漢字にもなります。「古」とは、もっとも「古い」、つまり「最初」を意味するのと同時に、「完全」をも含んでいる…。つまり、「古」とは、「原初にして、すべてを含んでいる」、ということなのかもしれないと感じました。「古」すなわち、「アダム」は、神が、自分を模して造った「最初」の人だった。それは、同時に「完全」な神に等しい人であった。人間は、生まれながらにして、完全な存在である、と。そのことを「古」という漢字は、「十」+「口(=○)」の、「阿吽」で、示唆しているのかもしれない、と思いました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1章・27節) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「聖書」の記述をそのままとるならば、「神は人間と同じ形をしている」、ということになります。はたして、そんなことがありうるのかどうか…。そこには、もちろん、人間は猿から進化したという「進化論」の入り込む余地はありません。神が人を創造した、とあるからです。ごく一般的な、「常識」からすれば、神がいることさえ証明されていないでしょうし、百歩譲って、神がいると仮定しても、神が人間と同じ形をしているというのは、信じられないと思います。よって、「聖書」は、事実ではなく、荒唐無稽な古代の人の想像の産物であると一蹴されてしまうのが、普通の感覚だと思います。しかし、あえて言えば、異論はあるでしょうが、聖書は「事実」が記されている、と個人的には思っています。ヘブライ密教の「カバラ」がベースになっているので、象徴なども多数組み込まれていますが、「ノアの大洪水」など、基本的には事実だと思います。そして、神から言葉を預かった「預言書」であると(予言ではない)。★進化論は崩壊している★しかし、実際「進化論」について見ていくと、猿と人間に限らず、種と種の間の進化の過程を示唆する証拠は、何一つ発見されていないという事実があります。それは、発見されていないというよりも、初めから、そのようなものはなかった、と考える方が自然です。「進化論」については、「常識中の常識」ですので、異論を唱えること自体が、何を言っているんだ!と思われてしまうかもしれません。ただ、何においても言えると思うのですが、「常識」は「真実」とは、限らないということです。はっきり言って、進化論は「崩壊」してしまっている、と個人的には思っています。これについては、いろいろな書物にも、紹介されています。また、機会があれば紹介していきたいとは思っています。もしかしたら、人間は、「進化論」という壮大な幻想を、信じ込まされてきているのかもしれません…。話がそれました…。★それでも、「聖書」は「基準」かもしれない★「漢字」を見ていくと、「聖書」抜きには考えられないのですが、「聖書」や「イエスキリスト」がなぜ、「漢字」にこれだけ出てくるのだろう、と、正直不思議でなりません。誤解を恐れずにいえば、もしかしたら、「聖書」は、この世界の「基準」なのかもしれないと思いました。話は、またまたそれますが、聖書には、「霊」だとか「天使」とか「悪魔」、についても、記されています。今日読んでいた本、『失われた堕天使「ルシファー」の謎』(三神たける・飛鳥昭雄著)には、そのあたりのことがかなり、突っ込んで書かれていました。信じられない人は、信じられないと思います。これも、誤解を受けるかもしれませんが、「天使」や「悪魔(=サタン)」という存在は、本当にいるらしい…、ということです。また、「聖書」には、「霊魂」の存在もある、と記されているようですし、人は、生まれる前は、もともと「霊体天使」だったようです。このあたりは、慎重に見ていく必要があると思いますが、迷ったら、「聖書」を見れば、いいのかもしれません。「天使」や「悪魔」というと、何だか日本人からすれば、絵空事の世界にしか、感じられない部分もあるのですが、日本にもやはり、こういった概念は神話に形を変えて、あるようです。一言でいえば、「悪魔」とは、もともと「天使ルシフェル」だったようです。それが、結論だけ言えば、堕天使「ルシファー」(=悪魔)になったと。人間と違うところは、肉体を持っていないということ。それだけに、いろいろな存在としているようで、余計に厄介な存在のようです…。何だか、話がそれまくりましたが、機会があれば、少しずつでも、紹介したいと思います。天使と悪魔シリーズというのも、いいかも。かなり怪しいですが(^^;えっと、全然違う話になってしまいました(^^;今回は番外編ということに…。★「古」に含まれたふたりの人物★最後に、「古」について。「古」=「十」+「口(=○)」=「十(終わり)」+「○(始め)」ここから、「十」とは「十字架」と同時に、数字で言えば、「最後」の完成する数をも象徴します。すなわち、終わりの時に、再び降臨すると「聖書」に記されている人物「イエス・キリスト」の象徴なのでしょうか。また、「○」は、「始め」であり「阿吽」の「ア」で、一番最初、すなわち、「アダム」を象徴しているのかもしれません。よって、「古」=「○」+「十」=「最初」+「最後」=「アダム」+「イエス・キリスト」=「この宇宙すべて(阿吽=五十音)」!?読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になる!・・・かも(^^;
November 12, 2005
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▲葵:どこにも行かないのに、リュックしょって、ほっぺをふくらまして、ひとりの世界に没頭して、毛がまだまだ薄いので、何だか、地肌が透けて、「てかって」いますが、何か?今日も、いきなり本題へ。第三十八幕「たえがたい苦しみを一身に受けた霊止」はこちら。前回の流れをあげてみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「十(十字架)」+「口(ひと)」=「十字架の人」=「イエス・キリスト」=「十口(=十九)」=「重苦」!●「苦」=「艸(草冠)」+「古」!●「苦」=「艸(草冠)」+「古」=「茨の冠」+「イエス・キリスト」=「十九」=「重苦」=「茨の冠をつけたイエス・キリストが、十字架に架けられた、たえがたい苦しみ」!?●「苦」=「にがな(苦菜)」=古代イスラエルの「苦菜」=日本の「春の七草」!!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「古」が、ある形に見えるというのは、次回か、もう少し先に…。(^^;今回は、視点を変えてみます。ちょっとお遊び的な気もしますが。前回は、●「古」=「十(ジュウ)」+「口(ク)」=「ジュウク」=「重苦」と見ました。「十」は、「ジュウ」と読みますが、「トオ」とも読みます。ということは、●「古」=「十(トオ)」+「口(ク)」=「トオク」=「遠く」!?「古」=「遠く」というのは、意味的にみると、偶然なのか、繋がります。「古」の意味を漢和辞典でひくと、『(1)いにしえ。(ア)むかし。遠く過ぎ去った世。「古代」』とあります。「古」とは、「遠く」過ぎ去った世であり、遥か昔のことがらです。「先祖」という意味もあります。で、あれば、「古」とは、「先祖」であり、「神のかんむり」の象形でもあることから、「神」に限りなく近い先祖、最も「古い」先祖、ということも言えそうです。そして、漢字は「聖書」と密接な関係がある、ということをおもった時、「古」を象徴する、「イエス・キリスト」とは、別の人物に思い当たります。神に限りなく近い先祖…。最も古い先祖…。「聖書」に記されている人物…。そうです…。この人物しかいません。人類の祖にあたる「アダム」!!●「古」=「十+口」=「遠く」=「先祖」=「最も古い先祖」=「アダム」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1章・27節) 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」 (創世記第2章・7~8節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー主なる神は、神にかたどって「人」を造った…。「古」が「神のかんむり」の象形なので、「古」と「神」はシンクロしています。そして、エデンの園に住んだ、最初の人、もっとも「古い人」は、「アダム」!エデンの園で、永遠の生命を得ていた「アダム」ですが、一緒にいた「エバ」が、蛇にそそのかされて、知識の木の実を、食べてしまいます。そして、そのことが原因で、神によって「エデンの園」を、追放されてしまいます。つまり、「アダム」と「エバ」は、「原罪」を起こした張本人。アダムが、「古」に象徴されるとしたら、「古」=「十+口」=「ジュウク」=「重苦」で、「原罪」と「重苦」がシンクロしてきます。「原罪」とは、アダムにとっては、「たえがたい苦しみ」を一身に受けるということになります。●「古」=「十+口」=「十九」=「重苦」=「たえがたい苦しみ」=「原罪」!?●「古」=「遠く」=「もっとも古い人」=「アダム」!つまり、「古」とは、前回まで見てきた「イエス・キリスト」の象徴であるのと同時に、「アダム」の象徴にもなっていると。ふたりの人物は、ともに、「全人類の罪」を受ける形で、「たえがたい苦しみ」を受けます。そのことで、両者はシンクロしてきます。しかし、ふたりとも、「やむをえなく」この罪を引き受けたというよりも、「すべてを知っていて」受け入れた、ということなのだと思います。まとめてみますと、●「古(=アダム)」=「十」+「九」=「重苦」=「たえがたい苦しみ」=「原罪」!?アダムの「たえがたい苦しみ」でもある、「原罪」について、聖書の部分から見てみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。 お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。 塵にすぎないお前は塵に返る。」 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。 主なる神は言われた。 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。 (創世記・第3章・12~24まで)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になります! 少なくとも私は…。(^^;
November 10, 2005
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▲葵:「うはははっ。」って感じで、一人で笑って、髪薄いから、おでこも出てるんですが、何か?今日は、いきなり、本題へ!時間ありません・・・。(^^;第三十七幕「初めから終わりまで包み込んでくれている霊止」はこちら。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」●「ヘブライの里」=「フル里」=「古里」=「ふるさと」=「故郷」!?●「古」=「十」+「口」=「十字架」+「ひと」=「十字架のひと」=「イエス・キリスト」!?●「古」=「十」+「口(=○)」=「吽(ウン)」+「阿(ア)」=「阿吽(あうん)」=「あ・アルファ」+「ん・オメガ」=「五十音」=「イエス・キリスト」!?●「古」=「コ」=「子」=「ゴ」=「午」=「イエス・キリストの象徴」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「古」の漢字は、全体的に見ても、ある形に見えます。それは、次回にして、今回は、「古」が含まれた漢字が、気になったので、そちらから、見てみます。「古」を「数理」で見ると、どう見れるのか?「古」=「十」+「口」でした。「十」はいいとして、「口」を数理で表わすと、読みが「クチ・ク」ですので、「口」=「ク」=「九」!●「古」=「十」+「口」=「十」+「九」「ことたまワールド」のけんたまさまの数理解読を、参考にさせていただきますと、「九」=「宮」=「究」=「球」=「○」=「マル」=「完全・オールマイティ」また、完全な状態で、○ですから、「古」=「十」+「○」で、前回見た、「陰陽」「阿吽」にも通じます。●「古」=「十」+「九」=「10」+「9」=「19」=「1+9」=「10」これもけんたまさまの解読を使わせていただきますと、「10」=「Ten」=「天」であり、「神」の象徴にもなっています。事実、漢和辞典を引くと、「古」は、「神を象徴するかんむり」をかたどった象形でした。もとは、「神」の意に使われていましので、「神」の象徴で繋がってきます。●「古」=「神を象徴するかんむり」=「神の象徴」●「古」=「10」=「Ten」=「天」=「神の象徴」★「古」=「十」「口」を、音に返す★今度は、音に返すとどうなるのか?●「古」=「十(ジュウ)」+「口(ク)」=「十口」=「ジュウク」=「重苦」!?「重苦」かあ。あまりいい意味じゃないなあ…。まあ、関係ないだろうと、はじめは思いました。意味は「おもいくるしみ。たえがたいくるしみ。」しかし、「重苦」という漢字を思い浮かべて、「うん?」と思い、ドキリ・・・としました。なぜなら、「苦」という漢字には、「古」が含まれているからです!前々回、前回とみたように、「古」=「五十音」=「イエス・キリスト」でした。そして、「古」=「十」+「口(=九)」=「十九」=「ジュウク」=「重苦」!と、いうことは、●「古」=「十(十字架)」+「口(ひと)」=「十字架の人」=「イエス・キリスト」=「十口(=十九)」=「重苦」!ここから、こういうふうにいえないでしょうか。全人類の罪を背負って十字架に架かった「イエス・キリスト(=古)」は、「たえがたい苦しみ(=重苦)」を受けたのだと。そう考えると、「イエス・キリスト」と、「重苦」が繋がってきます。しかも、「重苦」の「苦」には、「古」が含まれている…。●「苦」=「艸(草冠)」+「古」!「艸(草冠)」は、イエス・キリストが十字架上でつけられた「茨の冠」の象徴でもありました。と、なると、「苦」の本当の意味が、浮かび上がってきたような気がします。●「苦」=「艸(草冠)」+「古」=「茨の冠」+「イエス・キリスト」=「十九」=「重苦」=「「茨の冠をつけたイエス・キリストが、十字架に架けられた、たえがたい苦しみ」!?「苦しい」「苦しみ」という言葉は、「全人類の罪を背負って十字架に架けられたイエス・キリストの苦しみ」を象徴しているのかもしれません。そして、さらに「苦」の意味を見ていく時、あることと繋がっていきます。★久々に本題「過ぎ越しの祭り」とリンクしてきた「苦」★「苦」を漢和辞典を引いてみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「苦」=「ク・コ」【なりたち】形声。艸と、音符古(コ)(きつく刺激する意→固)とから成り、にがな、ひいて「にがい」、転じて「くるしい」意を表わす。【意味】(1)にがな(苦菜)。キク科の多年生の草。山野に自生し、食用になるが、にがみがある。(2)にがい(3)にがにがしい。おもしろくない。不快な。(4)くるしい。(5)くるしむ。…以下、(略)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここで、以外だったのが、(1)にがな(苦菜)。「苦」の意味は「苦しい」くらいしか、思い浮かばなかったのですが、本来は「にがな(苦菜)」を意味する漢字だったようです。そして、にがな(苦菜)で、これまた、ドキッとしてしまいました。「にがな(苦菜)」を、新年の初めに、食べる風習のある国がありました。それは・・・、イスラエル!であり、正確に言えば、イスラエルの「過ぎ越しの祭り」です!!「過ぎ越しの祭り」とは、言ってみれば、年越しからお正月にかけて行われる、イスラエルの伝統的な行事です。この行事の由来は、「聖書」にある、出エジプトのモーセに時代にさかのぼります。古代イスラエル(ヘブライ)の「過ぎ越しの祭り」について、以下、「旧約聖書」の出エジプト記から、少し長くなりますが、見てみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。(中略)あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、鴨居に、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。(中略)腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。(出エジプト記 第12章1節~第12章14節 こちらで、改行を変更しています。」)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー上記から、「過ぎ越しの祭り」には、「羊の肉」と「苦菜」と「種を入れないパン」を食べる風習があります。「過ぎ越しの祭り」は、イエス・キリストが十字架にかかる前日、イエスの弟子たちの12使途と食事をする「最後の晩餐」を模しています。つまり「過ぎ越しの祭り」は、言ってみれば、イエス・キリストの十字架での死の痛みをともに分かち合う、イエスの死を祈る祭り、ということもできるのかもしれません。「羊」とは、「イエス・キリスト」の象徴です。そして、この「過ぎ越しの祭り」は、実は、日本の年越しから正月にかけての風習とそっくりなのです!!「種を入れないパン」とは、酵母のないパン、すなわち、日本で言えば「餅(もち)」に他なりません。そして、「苦」=「苦菜」はどうかというと、第三幕 「ふたつは一つ」(「蘇民将来」と「過ぎ越しの祭り」) で紹介しましたが、もう一度引用してみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーじつは、このそして、苦菜(マロア)。これについては、日本でも想起するものがあります。「菜」=「野菜」です。そして、「苦」い「菜」ということで、「野草」「野草」といえば、「春」ですが、体の毒素を排出する力が強く「苦い」ものが多いです。春は苦味のものを食べると良いとは、昔より言われてきました。そして、日本でも「野草」を食べる風習が、古来よりあります。それも、過ぎ越しの祭りが、一週間すなわち7日間行われるのと呼応するかのように、正月の7日目に食べる風習があります。そう…。「春の七草」です!古代イスラエルの「苦菜」=日本の「春の七草」!!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「苦菜」をたべるとは、日本で言えば、「春の七草」のことになります。「苦菜」とは、「苦」であり、「苦」とは、イエス・キリストの「苦しみ」。それを食するということは、「過ぎ越しの祭り」=「最後の晩餐」には、ふさわしい、ということがいえます。さらに、この祭りが、日本の年越しからお正月にかけて、非常に似ているものがあるとすれば…。日本という国は、自分たちの知らない「本来の姿」を何気ない風習の中にもっているのかもしれません…。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後に、ついでにポチッとしていただくと、元気になります! 少なくとも私は…。(^^;
November 9, 2005
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▲ポーズをとる透萌(ともえ)後ろに、髪が短くて、なぜかリュック背負って、自分の世界に没頭している、おさるさんみたいな、坊ちゃんみたいだけれども、一応これでも女の子がいますが、何か?(^^;えっと、1度、書いている途中で、消してしまいましたので(T_T)、前置きは簡潔に。斎藤一人さんの講演CD「つやこ49」の100回聞き、挑戦中。11月5日から始めたので、きょうで4日目。聞きながら、書いていますが、これで、34回目。1ヶ月以内に聞けば、塾生の認定証がいただけるということです。繰り返し聞くというのは、いいですね。より、身についてくる気がしますし、実践していきたいなと思います。「読んでくださった方に、すべての良きことがなだれのごとく起きます!」ありがとうございます。では、本題へ! ※ ※ ※第三十六幕「漢字に組み込まれた全人類の罪を背負った霊止」はこちら。前回は「古」の漢字破字法について、見てみました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」●「ヘブライの里」=「フル里」=「古里」=「ふるさと」=「故郷」!?●「古」=「十」+「口」=「十字架」+「ひと」=「十字架のひと」=「イエス・キリスト」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「古」は、非常にシンプルなつくりです。ですから、漢字破字法でみるにしても、前回見たように、「古」=「十」+「口」と分解するしかありません。しかし、シンプルなだけに、解釈もいろいろとできそうです。今回は、別の側面から、「古」に迫ってみます。まずは「口」について注目してみます。★「口」の意味★「口」は「部首」でいえば、「くちへん」です。漢和辞典を引くと、ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「口」=象形。口の形にかたどり、「くち」の意を表わす。これを部首にして、くう、のむ、声を出すなど、口の働きを示す字ができている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーまた、漢字の「口(くち)」を見てみると、ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(2)くちにする。(ア)飲食する。(イ)口に出して言う。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー本当に基本的な部分なのですが、「口」は、人の顔にある「口」をかたどった形です。そして、「食べたり」、「口に出して言う」状態とは、「口」が「開いている」状態を示しているのだと思います。●「口」=「口が開いた状態」そして、この「口が開いた状態」とは、象形で表わすとすれば、「口」より、「○」の方がふさわしいような気がしました。もしかして、「口」は、本来「○」か、あるいは、「○」に近い形だったのではないか?と。たとえば、「日」という漢字があります。「日」も、象形で、もとは「太陽」をかたどった象形です。太陽は、「○」です。「日」のもとは、「○」の真ん中に横線がひかれた状態です。「○(真ん中に横線)」→「日」になったということは、「○」→「口」に変化したと考えるのも、十分考えられることです。素直に考えて、口が開いた状態は、「○」に近いのではないかと。★「口」=「○」で導かれるもの★「口」=「○」であると仮定したとき、思い浮かんだものがあります。神社にあるもの…。そう…。 入り口の両側に鎮座している「狛犬」です!!「狛犬」は、ご存知のように、左右で、状態が違います。向かって右側が「口の開いた」狛犬。向かって左側が「口の閉じた」狛犬。これは「阿吽(あうん)」を表わしています。この「阿吽」は「陰陽」を表わしています。「口の開いた狛犬」=「阿(ア)」=「はじめ」=「陽」「口の閉じた狛犬」=「吽(ウン)」=「おわり」=「陰」そして、「口(くち)」=「○」であれば、当然、「口」は、向かって右側の「口の開いた」狛犬=「陽」になります。さらに、「○」は「太陽」に通じます。●「口」=「○」=「口の開いた狛犬」=「阿=はじめ=陽」=「太陽」そうか、「口」は、「○」で、「阿吽」の「阿(ア)」で「陽」なんだ。じゃあ、「阿吽」の「吽(ウン)」を表記するとなると…。ここまで思考を進めてきたとき、「古」という漢字を思い起こして、ドキッとしてしまいました。なぜなら、「吽(ウン)」は、「陰」であり、表記するとしたら…。「十」です!!「古」には、「十」が含まれていました。と、いうことは、「古」のもうひとつの解釈が、見えてきました。整理してみます。「古」=「十」+「口」=「十(陰)」+「○(陽)」=「吽」+「阿」=「阿吽(あうん)」!?「古」とは「阿吽(あうん)」の象徴でもある可能性があるのではないか、と思いました。そして、さらに、あることに思い当たりました。★「阿吽」から「イエス・キリスト」へ!★あることとは、以前の日記に書いたことなのですが、再度引用します。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「阿(あ)」は、口に出すと「口を開いた状態」であり、アイウエオ五十音の最初の音「あ」(陽)になります。対して、「吽(うん)」は最後の隠された音「ん」(陰)に対応します。つまり、阿吽で、「あ」から「ん」までを含む、日本語すべての象徴です。また、「おぎゃあ」と生まれる時に、口を開けていう「あ」(陽)であり、死ぬ時に口を閉じる「うん」(陰)です。「阿吽(あうん)」とは、「陰陽」であり、「あ」~「ん」のアイウエオ五十音を表わすと同時に、人の「生死」、この世界の「始まりと終わり」をも、表わしているということになります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「阿吽」は、日本語の「五十音」を表わしています。と、同時に、「聖書」に繋がっていきます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。 初めであり、終わりである。」(ヨハネの黙示録 22章12~14節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「α(アルファ)」であり「ω(オメガ)」とは、ギリシア語の24文字あるなかの最初と最後に位置する文字です。つまり、最初と最後。日本語の「あ」と「(う)ん」に対応しています。そして、このことを言った人物とは、とりもなおさず、「イエス・キリスト」!!と、いうことは、前回の「古」の漢字破字法と、同じ答えが出ることになります。前回の漢字破字法。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「古」=「十」+「口」=「十字架」+「ひと」=「十字架のひと」=「イエス・キリスト」!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今回の漢字破字法。●「古」=「十」+「口(=○)」=「吽(ウン)」+「阿(ア)」=「阿吽(あうん)」=「あ・アルファ」+「ん・オメガ」=「五十音」=「イエス・キリスト」!?★さらに連鎖していくもの★また、「古」とは、「ふるい」ですから、「一番最初のもの」という言い方もできると思います。●「古」=「一番最初のもの」=「五十音」であれば、何だか、聖書にある、「初めに言葉があった。」にも通じるものがありそうですし、日本の漢字と聖書がシンクロしてきます。そして、「古」は、最初と最後をも象徴していて、「五十音」そのもの、初めと終わりが、「イエス・キリスト」を示している…。と、考えた時、もうひとつの漢字が思い浮かびました。「子」です!!「子」=「一」+「了」で、「初め」と「終わり」そのものの象徴です。「古」と「子」は、「コ」という読みで共通します。さらに言えば、「こ」=「ゴ」=「午」!!「古」=「子」=「午」が、「コ(ゴ)」という音で、通じていきます。「子」と「午」は、「イエス・キリストの象徴」でもありました。繋がってきます…。「古」は、「○」=「ゼロ」とみても、「十」と対応させると、最初と最後とみることもできそうです。そして、「古」という字をみていると、ある形に似ていると、思えてきました…。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます。ありがとうございます(^^) 最後にポチッとすると、もっといいことが、起こる!・・・かどうかは、保証の限りではありません…。(^^;
November 8, 2005
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▲葵:出かけるわけでもないのに、家の中で、リュックをしょってますが、何か?先日、必要な書類があったので、会社で、数日にわたって、ちょこちょこと探していましたが、見つかりませんでした。妻が、必要なものだったので、早くしてと、つつかれていました。「会社にはないよ。家になかった?」と、責任をなすりつける私。日曜日に、ついでがあったので、妻も見てみる、とのことで、妻と店に寄りました。私が、見つけられないのに、そんなの無理だよ、と思ってましたが、しょうがないので、店に入って、探し始めました。「これじゃない?」と妻。「うえぇぇぇ!? うそでしょ?」と。わずか2,3分でした(^^;。その場所には、自分が置くはずがないと決め付けて、見もしない場所でした。置いたのは、私意外にはいません…。何で、そんなにあっさり見つけられるの?と、信じられませんでした。そして、自分の記憶力の悪さに、愕然としました。「何で、私が見つけるの?」と妻。「うーむ・・・・・・・・・・。」と、ショックで言葉なく、面目丸つぶれの私(^^;。人間、思い込みというのは、怖いですね。周囲が見えなくなるというのか、自分で、ここは絶対あるはずがないと「枠」をつくってしまっている。妻は、逆に、まっさらな目で見れるから、そういう「枠」がない。何だか、面目丸つぶれだし、第一、まずは整理整頓が、いかに出来てないかを痛感しましたが、「枠」という面で、教訓になったような気がします。自分自身の、「枠」「思い込み」を取り外す!そして、整理整頓から、少しずつしよっと…。書類探しに毎日けっこう時間をとられているような…。本末転倒ですね。反省です。では、本題へ! ※ ※ ※第三十五幕「はるか彼方にいた土地に想いを馳せる」(蘇民将来」と「過ぎ越しの祭り」)前回の流れをざっとあげてみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」●「ヘブライの里」=「フル里」=「古里」=「ふるさと」=「故郷」!?●「古」=『神を象徴するかんむりの形にかたどる。神の意から、転じて「古」の意に用いる。』よって、●「フル(古)の里」=「神の里」●「フル」=「Full」=「満ちている」=「完全」●「古里」=「フル里」=「満ちている(完全な)里」!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーまた、「フル」について、付け加えるとすれば、「降る」「振る」とも言えます。「降る」とは、「降臨する」などから、神の降臨を連想し、日本で言えば、記紀の「天孫降臨神話」に繋がっていきます。そして、天孫ニニギ命は、高千穂の「クシフル岳」に、降臨します。「クシ」は美称なので、重要なのは「フル」です。ここでも、「フル」がシンクロしてきます。神の降臨の「降る」と「クシフル岳」の「フル」、これは偶然の一致とは思えません。今度は、「振る」です。「振る」とは、「振動」であり、「震動」であり、「神動」なのでしょう。振り動かすとは、まさに神が動き出すことへと繋がっていきます。そして、「振る」の「振」という漢字を、漢和辞典で引くと、「すくう(救う)」という意味もあります!やはり、「振」=「シン」=「神」なのでしょう。★漢字破字法★漢字を分解すると、本来の意味が見えてくる「漢字破字法」漢字は、ヘブライ(ユダヤ)密教の奥義「カバラ」を知り尽くした集団が、つくったのではないか?と思います。それまでバラバラだった漢字を編纂したのは、前221年中国を統一し最初の皇帝となる、秦の「始皇帝」です。実は、彼は、中国人ではなくて、ヘブライ人であった、という説もあるくらいです。そうなってくると、漢字にもヘブライの思想が、入っている可能性もあります。「聖書」もいってみれば、幻視や数字の象徴など「カバラ」がいたるところに張り巡らされている書物ということも指摘されています。漢字が日本に入ってきたのはいつか?それは、「応神天皇」の時代である、と古事記に記されています。時代は、5世紀前後とされているようです。以下、インターネットより引用してみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「当時、朝鮮半島に百済という国があり、王の使いとして王仁(わに)という人が『論語』十巻と『千字文』一巻(漢字の「いろは歌」のようなもの。文字どおり千の文字が重複なしに使われ、しかも全体で詩になっているという書)という漢字で書かれた本を持ってきた。この本によって、わが国における漢字の文化が始まった。」(http://www.geocities.jp/honmei00/zasugaku/kanjiganihonnihaishutekitanowa.html)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「応神天皇」の時代は、渡来人が大勢、日本へやってきたと記されています。彼らが、中国の漢字を、さらに、発展深化させて、日本へ持ち込んだのではないでしょうか。さらに渡来人は、結論からいってしまえば、すべてではないにしても、西アジアあたりをルーツにもつ集団がいたはずです。すなわち、「フル」の地、「ヘブライ」に!そして、彼らが、仮に、へブライの地から来て、5世紀前後に、日本に集団で来たとすれば、ヘブライの地をたつころには、イエス・キリストのことも当然知っていたでしょうし、「聖書」もすでにあったはずです。もっといえば、漢字に含まれている「聖書」の思想を考えると、イエス・キリストを信奉していた集団の系譜が、日本へ来ている可能性もあります。なぜなら、漢字を見ていくと、いたるところに「イエス・キリスト」を象徴する漢字に出会うからです。「子」「馬」「午」「右」「又」「許」「集」…。まだまだ、出てきそうです。と、なると、漢字は、聖書や、イエス・キリストという存在と、合わせてみると、本来の意味が見えてくる、となりますし、事実、漢字と聖書は、不思議なほど繋がってきます。このあたりについては、ざっと書いてみたので、いい加減な部分もあると思います。漢字の起源については、興味があるので、また調べていきたいな、と思います。★「古」の漢字破字法★「古」という漢字を、漢字破字法で分解すると、どうなるか?この漢字は、シンプルで、分解は簡単です。●「古」=「十」+「口」シンプルなだけに、みていくと、けっこう深いものがあります。複雑なところに隠すのではなく、シンプルなところに、謎を堂々と隠す。誰もが、普段何気なく見ているけれども、実は深い意味が隠されている…。こういう手法で、日本の本来の姿を隠した集団は、国仕掛けを行ったようです。「古」は、正直、いろいろな見方ができそうです。★「古」=「イエス・キリスト」?★まずは、今まで何度か紹介しましたが、「十」は「十字架」で、「口」は、漢和辞典を引くと、「ひと」という意味があります。ですから、●「古」=「十」+「口」=「十字架」+「ひと」=「十字架のひと」=「イエス・キリスト」!?と導くことが出来ます。ただ、正直、全く、見当違いのことを言っているのかもしれません…。(^^;ただ、「古」=「イエス・キリストの象徴」と仮定すると、●「ふるさと」=「古里」=「イエスキリストの里」!?という見方もできます。イエス・キリストは、古代イスラエルの王、ダビデの直系の系譜と言われていますので、「ヘブライ人」であり、イエス・キリストの里とは、ヘブライの里とも繋がってきます。また、漢字を、持ち込んだ集団は、「イエス・キリスト」との関わりも、直接ではないにしても、あったと思われます。と、いうよりも、やはり、イエス・キリストの教えを受けた人たちか、あるいは、イエス・キリストを信奉している人たちが、「カバラ」を駆使して、漢字を深化させたように思います。それは、漢字の、いたるところに「カバラ」によって、「イエス・キリスト」の象徴がこめられているところからも、十分に考えられると思います。イエス・キリストや聖書と関係なければ、漢字に、そういったことを含ませる必要がないと思いますので。「古」の漢字分解については、次回も別の側面から、みてみます。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます! ありがとうございます! 最後にポチッとすると、もっといいことが、起こる!・・・かもしれない。(^^;
November 7, 2005
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▲葵:あわわ…、わが娘ながら、似合わな~い、と思いました。(^^; 髪が短くて薄すぎで、おさるさんみたいで、服と全然合ってなくて、違和感ありまくりですが、何か?『斎藤一人15分間ハッピーラッキー』舛岡はなえ『斎藤一人無敵の人生』(芦川政夫)『斎藤一人15分間ハッピーラッキー』に付属されている「つやこ49」のCDを最近聞き始めました。実は、この本ではなくて、通販でこの「つやこ49」のCDだけ買ったのですが、同封されていた「100回聴きゲーム マラソン大会」をすることにしました。このCDを、一ヶ月以内に100回聞いたら、塾生証明書などが送られてくるそうです。一ヶ月以内なので、一日3~4回のペースで聞く必要があるのですが、やってみようと思います。内容は、シンプルで、聞いているとすうっと入ってきます。幸せになる方法、言葉のことや、健康のことなど、おもしろく聞けます。楽しみながら、聞けそうです。では、本題へ。 ※ ※ ※★「集」から「フル」★第三十四幕「古から広がり散らばる遥かな旅路」はこちら「集」から、「隹(ふるとり)」になり、「フル」が、今度は気になってきました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」●古事記、日本書紀の「天孫降臨」神話。天孫ニニギ命が、高千穂へ降臨した地が「クシフル岳」!!「クシ(櫛)」は美称、本来の地名は「フル」!●古代朝鮮の史書『三国史記』高句麗の始祖「高朱蒙(こうしゅもう)という卵から生まれた伝説の英雄。彼の二人の息子は、長男を「沸流(ふる)」!!、次男を「温そ(おんそ)」という。そして、兄弟は、「負児(ふる)岳」の山頂で、自分たちの国を建てる相談をする。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー古代朝鮮で付け加えるとすれば、現在の韓国の首都は「ソウル」ですが、この語源は、「ソフル」である、ともいわれています。つまり、「フル」に繋がります。また、日本と北朝鮮、韓国ともに、外見など非常に似ています。それと、最近、ソン・イェジンちゃんのせいで(^^;、韓国映画をよくみます。その際に、映画のなかでの韓国語を聞いていて、日本語の発音と非常に似ている単語がちらほら出てくるので、え?日本語言った?と思うことが時々あります。妻に言ったら、韓国語は、日本語とよく似ているよ、と。少しだけ韓国語をかじったことがあるということなのですが、言葉の面からも共通点があるとなると、両者の関係は、なかなか興味深いものがあります。歴史的にみても、繋がりがあるはずですし、何年か前に、今上天皇が、天皇家が、朝鮮半島との繋がりがあることを示唆する発言もされていたと思います。おそらく、意図的にそういう発言をされたはずです。神話との共通点、外見や言葉の類似点、日本と朝鮮半島の関係、おもしろそうです。★「フル」=「ヘブル」=「ヘブライ」★「フル」とは、ヘブル、すなわち、「ヘブライ」のこと。そして、「フル」を含んだ地名が、日本、古代朝鮮、北東アジア、北アジア、さらにヨーロッパ、西アジア、古代ヘブライへ、繋がっているという事は、ヘブライの人たちの移動した「軌跡」ととることもできます。ヘブライと、ユーラシア大陸を縦横無尽に闊歩していた「騎馬民族」、そして、朝鮮半島と日本が結びついてくるということは、非常におおざっぱな言い方ですが、その始発と終着点に位置する「ヘブライ」と「日本」も繋がってくるということになります。詳しくは、『失われたイスラエル10支族「神武天皇」の謎』に記載されています。古代朝鮮の『三国史記』や、日本の記紀にも、建国に関わる部分で「フル」という言葉が使われていることも、「フル」という言葉が重要視されていることが分かります。それは、「フル(=ヘブライ)」という自分たちの歴史、ルーツを忘れないために、組み込んだ地名であり、神話だったのではないでしょうか。自分たちのルーツ、原点、ということに思いを馳せたとき、「フル」のつく、ある言葉が思い浮かびました。そう…。「ふるさと」!!これは、思いつきでしかないのですが、でも、「ふる」という言葉が、「ヘブライ」に繋がることを考えた時、「ふるさと」とは、「ふる」の「里」、つまり「古里」(=ヘブライの里)を意味するのではないかと思いました。通常は、「ふるさと」とは「故郷」と書きます。ただ、辞書を引いてみると、「ふるさと」とは、「古里・故里・故郷」とありますので、「古里」という表記もするようです。ついでに、意味を書き出してみると。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(1)自分の生まれた土地。郷里。(2)(古語)昔、特に何かがあった土地。古跡。古都。(3)(古語)古びて荒れた村里。(4)(古語)前に住んでいた土地。また、前に行ったことのある土地。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここで、気になったのは、(4)「前に住んでいた土地」これこそ、うがった見方をすれば、自分たちのルーツ、前に住んでいた土地の「ヘブライ」の地をさして、「ヘブライの里」=「フル里」=「古里」=「故郷」になったのではないだろうか…、などと思ってしまいます。★「古」の意味★「古里」の「古」という漢字に注目です。「フル」は「ヘブライ」ですが、「古」という漢字は何か?漢和辞典を引くと、「古」とは、『神を象徴するかんむりの形にかたどる。神の意から、転じて「古」の意に用いる。』とあります。「古」とは「神」を象徴する意味だった…。ということは、●「フル(古)の里」=「神の里」!そして、「ことたまワールド」のけんたまさまからいただいたコメントとも繋がるように思ったので、こちらに引用させていただきます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「フル」の音からの連想で、最近思うこととシンクロしてたので、書込みさせていただきました。「フル」の音は、「満ちてる」って意味なんだと。つまり、「Full」満タンとは、フルパワーの「フル」なんだと。「古」なる漢字を右回転すると「叶」となる。どちらも、「口」が「十」個ある。きっと、「口」は、音であり数なのではないか。すると、0、1・・・、8、9の10個の数字が全部そろってること、つまりフルラインナップしてることを、この漢字で表現してるのかも。願いが叶うことは、まさに、フル=満ちてる、ってことですよね。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーうーん、すばらしいです。感動しました。「古」と「叶」の漢字は、興味深いですね。「ふる」=「Full(満ちている)」にも繋がっていきます。そして、「口」が、音であり数となり、1~10の数字全部含んで「十」となる…。となると、「フル」=「満ちている」から、●「古里」=「フル里」=「満ちている里」!「満ちている」とは「完全」であり、「古」の「神」の意にも、繋がってくるものがあります。言葉というのは、本当におもしろいなと感じます。「ふるさと」を想うとは、自分の生まれた場所に思いを馳せると同時に、本来は、遠くはるかな自分たちのルーツである、「フルの里」、すなわち「ヘブライの地」に想いを馳せることをも含んでいたのかもしれません…。自分たちのルーツを忘れないため、あるいは、いつかまた、遠い将来の子孫が、自分たちの原点を思い出すために、「フル里」に、ヘブライの地と同時に、「神」なる地という意を重ね合わせて、「ふるさと」としたのでしょうか。「故郷」=「古里」=「フル里」=「ヘブライの里(神の里)」というふうに繋がるように思えてなりません…。さらに、次回は、「古」についての漢字破字法でみていきます。かなり妄想入ってきますが…(^^;最後に「つやこ49」のなかで、言われてた、他の本にも載っていましたが、口に出したり心で思ったりするといいこと。読んでくださった方に、すべての良きことが、なだれのごとく起きます!ありがとうございます。
November 6, 2005
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▲葵:おしりぽりぽりしてますが、何か?徹子の部屋に、韓国映画界の宝石「ソン・イェジン」がでました!私は、不覚ながら、全く気がつかなかったのですが、私の母親が、電話をかけてきて、「撮っておこうか?」とわざわざ電話してきました。それで、撮ってもらい、きょう見ることができました。周囲に言いまくっているので、それが功を奏したのか、見ることができました。ついてます。ラッキーです。感想は、「うおぉぉぉ!!! ソン・イェジーン!!!」って感じですね(^^;; こればっかり! すみません…。いろいろなエピソードも聞けて、何よりもソン・イェジンのかわいらしい表情がたっぷりと見れて、しあわせでした(^^;では、本題へ。★「集」の字の意味するもの★第三十三幕「あまねく散らばりめぐる12の星の行方」はこちら「集」という字、予想外の広がりで、いろいろ見えてきます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」●「隹」=「ふるとり」=「古鳥」=「フル鳥」=「ヘブル鳥」=「ヘブライの鳥」=「イスラエルの十二支族の象徴」!?●「木」=「十」+「人」=「十字架」+「人」=「イエス・キリスト」●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」=「イスラエルの十二支族」+「イエス・キリスト」!?よって、「集(=終)」とは、「終わり」の時に、イスラエルの十二支族の「集結」と、イエス・キリストの再降臨を、象徴している!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「隹」=「ふるとり」「もと、比較的小さい鳥(一説にふふどり)の形にかたどり、小鳥の意を表わす。これを部首にして、主に、小鳥の種類・状態などを示す字ができている。(中略)なお、日本では、鳥をとりへん、酉をひよみのとりというのと区別して、「隹」を、「舊(旧の旧字体。)ふるい」の一部になっていることから、ふるとりという。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー上記から、「集」の「隹」=「ふるとり」は、「ふるい」=「舊」=「旧」から、きていることが分かります。「舊」(ふるい)という漢字の一部、「隹」が使われているから、「隹」を「ふるとり」という…。基本的には、「隹」=「舊」=「旧」=「ふるい」となるのでしょうが、「隹」=「ふるい」ではなく、「隹」=「ふるとり」となるあたり、なかなか深い意味があるようにも思います。「とり」=「鳥」=「十理」で、「鳥」は神の象徴とも言えるので、「集」という漢字は、「神」に関わる漢字である、とも言えそうです。音に返すと「集」=「シュウ」=「シュ」=「主」に繋がり、同時に、「ジュウ」とも読みますので、「集」=「ジュウ」=「十」にも繋がります。と、いうことは、漢字と聖書、ヘブライとの関わりを考えれば、「集」=「主」、「十」から、大胆にいってしまえば、「イエス・キリスト」と関わる漢字だとも、言えます。★「フル」をたどっていくと★そして、「隹」=「ふるとり」の、「ふる」という言葉にも、重要な意味がありそうです。前回は、「フル」とは、朝鮮半島から、北アジア、北東アジア、ヨーロッパなど、ユーラシア大陸全体に、地名などに残されている言葉であるということをみました。「フル」を含む地名が残っているところは、「騎馬民族」との関わりが強いと指摘されています。「フル」は何も、ユーラシア大陸だけでなく、日本でも多く見られる地名です。「フル」=「古」となり、地名だけでなく、名前にも、けっこう使われています。「古川」「古田」「古谷」…など。たとえば、物部氏の氏神を祀る「石上(いそのかみ)神宮」には、「布留(フル)」の地名があります。しかも、石上神宮の祭神のひとりが、「布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)」この「布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)」とは、一言でいえば、物部氏の祖先とされる「ニギハヤヒノ命」が、携えてきた「十種神宝(とくさのかんだから)」の御霊のこと。「ニギハヤヒ命」は、神話には、初代神武天皇の前に、機内地方に天磐船(あめのいわふね)に乗って、天下ってきたとされる謎の人物。神武天皇との関係はどうなのか…。いずれにしても、初めのころの国づくりに登場人物ですので、「フル」との関係含めて、興味深いものがあります。そして、その「フル」のつく地名が、日本、朝鮮半島、ユーラシア大陸にかけて広がっている。さらに、「フル」の言葉をたどっていくと、「中近東」にいきつくことが指摘されています。すなわち、「ヘブル」!!「ヘブル」とは、ヘブル人といって、日本では「ヘブライ人」とも言われます。本来は「ヘブル人」と言うそうです。●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」!!言葉の面から、日本とヘブライが繋がっていきます…。★神話の「フル」★そして、驚くべきことに、「フル」という言葉は、神話の世界でも、出てきます。以下、『失われたイスラエル10支族「神武天皇」の謎』より見てみます。古事記、日本書紀をみると、有名な「天孫降臨」神話があります。天孫ニニギ命が、高千穂へ降臨します。降臨した具体的な地名は…。「クシフル岳」!!「クシ」=「櫛」で美称なので、本来の地名は「フル」になるといいます。そして、さらに、「フル」という言葉、古代朝鮮の神話にもでてくると!★古代朝鮮の「フル」★今度は、古代朝鮮の史書『三国史記』そこには、高句麗の始祖「高朱蒙(こうしゅもう)という卵から生まれた伝説の英雄がいます。彼には二人の息子がいました。長男を「沸流(ふる)」!!、次男を「温そ(おんそ)」といいます。そして、兄弟は、「負児(ふる)岳」の山頂で、自分たちの国を建てる相談をします…。不思議なことに、日本の天孫降臨の「クシフル岳」と、古代朝鮮、高句麗の始祖の息子の「沸流(ふる)」と、地名の「負児(ふる)岳」が繋がってきます。しかも、ともに、国の最初の重要な神話で!「フル」という言葉、なかなか重要であることが分かります。「フル」は、日本と古代朝鮮の神話に見られるように、両者の共通点も気になりますし、「フル」から「ヘブライ人」にも繋がっていきます。そして、このことは、「フル」という言葉だけが伝わったということは考えにくく、「フル」という言葉とともに、集団の移動があったはずです…。「フル」という地名を残していった集団が…。ヘブライ、北東アジア、西アジア、朝鮮半島、そして…日本へ!!「フル」については、もう1回か2回だけ、みていきます。
November 5, 2005
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きのうの夜は、パソコンを開いたものの、眠くて眠くて、結局寝ました。その分、朝早く起きようと思ったけれど、寝坊しましたと、いうことで、20分で書きます。(^^;最近の、「蘇民将来」と「過ぎ越しの祭り」のシリーズ、三十三幕まできましたが、はっきりいって、本題とはほど遠い話題にそれており、自分自身いつ終われるのか、全く分かりません。書きながら、興味の出てきた漢字や事柄の方へいってるだけなので、何も考えてない、というのが、本当のところです。このところ、「集」についてみています。「集」には、「聖書」に示唆されている、終わりの時の、イスラエルの12支族の集結を、含んだ漢字である、と言われても、そんなことありえないと思う方が、ほとんどだと思います。私も半信半疑です。でも、以前「園(エン)」について、見ていたとき、他の「エン」という漢字が、たとえば「塩」「円」「炎」「袁」「遠」「苑」といった漢字が、「エデンの園」に繋がっていくことをみて、びっくりしたことがありますが、それと今回の「集」も、同じです。「集」とは、「シュウケツ」であり、「集結」、「終結」と漢字に置き換えて、これらのことから「聖書」において、連想するのは、イスラエルの12支族の帰還です。そう仮定して、「集」の漢字を見ていくと、それに関することが次々に出てきて、やっぱり繋がっているのでは?となるわけです。そして、ある意味、恐ろしいことでもあるのですが、なぜ、「イスラエルの12支族の集結」や、「エデンの園」のことが、日本の漢字に込められているのかというと、それは、漢字を持つ日本という国が、聖書や、イスラエルの12支族と無関係ではないからです。もっといえば、漢字を作った集団と、聖書をつくった集団の思想は、同じ思想を受け継いでいる集団ということになり、漢字を持つ、日本そのもののルーツのひとつが古代ヘブライにある、といえるからです。これは、アカデミズムでは、全く認められていないことで、一般の人々もほとんどが、珍説奇説、トンデモ話として、片付けるであろう、ことです。少し前に、「騎馬民族」という言葉がでてきましたが、「騎馬民族」も、日本と無関係ではありません。これを唱えたのは、数年前に亡くなった江上波夫という方ですが、古代のある時期、日本に半島から騎馬民族が流入してきて、日本の中枢に入り込んだという説です。これも、アカデミズムでは全くといっていいほど認められていません。でも4世紀あたりの古墳の出土品や、朝鮮半島などに目を向けると、はっきり言って、「騎馬民族」はある時代に、数回かそれ以上にわたって、日本へ集団で来ていることが明白です。「騎馬民族」はやっぱり日本へ来ていた!と。そして、このことと、中近東のヘブライ民族との関わり、日本のルーツは、ひとつに繋がっていきます。と、ここまで書いてちょうど20分。時間オーバーです。いずれにしても、こういった謎、日本の本当のルーツは、明らかになっていくと思います。古代ヘブライ民族は、「ヤハウェ」という絶対神を信奉、日本は八百万の神、すなわち、多神教なのだから、両者は絶対に相容れない、とも言われるのですが、それこそ、日本の本当の姿を封印した集団にとっては、計算通りのことです。それは、古代ヘブライの関係と日本の関係を隠すために、ある時代に、ある集団によって、封印がほどこされたと思われるからです。しかし、同時に、封印を解く鍵も、神道や神話、伝統的な風習、伝統行事の中に、無数にちりばめている。よく、物を隠す時は、見えないところに隠すのではなく、見えるところに堂々と隠した方が、かえって見つからない、というのがあります。それと全く同じことが、この日本で、国仕掛けとして、なされています。それも、古代ヘブライ密教の奥義「カバラ」を軸にして、いたるところに隠され、仕掛けられています。神道を見ていくと、表面的には多神教なのですが、その実体をみていくと、唯一絶対神にたどり着きます。それは、「古事記」や「日本書紀」の冒頭部分にも、明確に示されています。見えるところに堂々と隠す。これは、日本の謎を解く上で、ひとつ重要なポイントだろうと思います。だから、漢字にもいろいろな象徴を組み込んで、分かるようにしている。と、なると、古代ヘブライ民族と、日本は、決して相容れないものではなく、繋がってくるのですが…。日本という国は、不思議であると感じるとともに、時にその奥深さに、恐ろしい国だ、と感じることがあります。
November 4, 2005
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▲葵:勝手に乗せられて、何だよこれは?と不安げな顔してますが、何か? ▲透萌(ともえ):葉っぱをもってます。ともに、ブルーメの丘でのスナップ。★ちょっとしたシンクロ★きのうの日記に、あまり考えることなく、馬に乗った透萌の写真を載せました。滋賀県の蒲生郡というところにある、「ブルーメの丘」というところに行ったときの写真です。なぜ、この写真を使ったかというと、ただ単に、そのさらに前日に、葵の写真を載せていたので、今度は、透萌のにしようか、という程度です。意図は、全く、ありませんでした。ところが!!きょうは、午前中、店にいたのですが、あるお客さんが、来られて、娘さんとそのお子さんと、娘さんのお友達も一緒でした。ジュースやお茶、お菓子などを買われていたので、「これから、どこかお出かけですか?」と聞いたら、「これから、ブルーメの丘へ行くの」と!!。「うえぇぇ!?」と、もちろん声に出しませんが(^^;、内心、驚きました。まあ、それだけ、といえば、それだけ、なのですが、「ブルーメの丘」で、ちょっとした偶然の一致でした。また、昨日の記事で、少しだけ「騎馬民族」について触れたので、馬に乗っている写真も、少しシンクロしてました。(^^;では、本題へ!★「集」はイスラエルの12支族の集結を意味する★第三十二幕「終わりの時に集結するイスラエルの十二支族」はこちら。前回の流れを、振り返ってみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」●「隹」=「ふるとり」=「古鳥」=「フル鳥」=「ヘブル鳥」=「ヘブライの鳥」=「イスラエルの十二支族の象徴」!?●「木」=「十」+「人」=「十字架」+「人」=「イエス・キリスト」●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」=「イスラエルの十二支族」+「イエス・キリスト」!?よって、「集(=終)」とは、「終わり」の時に、イスラエルの十二支族の「集結」と、イエス・キリストの再降臨を、象徴している!?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそして、「集」=「シュウ」=「終」=「祝」と、音に返せることを考えれば、「終わり」の時とは、まさに「集結」の時であり、「祝福」の時なのだな、と感じます。すべて、繋がっていきます。★「集」=「シュウ」から、もうひとつの漢字へ!★前回見たように、「集」の「隹(ふるとり)」の「ふる」という音に注目すると、「フル鳥」=「ヘブル鳥」へ繋がり、さらには、「ヘブル」とは「ヘブライ」、すなわち「ヘブライ民族」へと繋がっていきます。そして、もっと言えば、ヘブライ民族でもある、「イスラエルの12支族」へ!ただ、確かに、イスラエルの12支族は、ヘブライ民族であるのですが、「ヘブル」から、「12支族」へと、繋げるのは、やや強引な気もします。「12支族」に繋がるものはないのか?詰まったら、基本に戻る、です。「音に返す」でみると、ある漢字が、思い浮かびました。「集」=「シュウ」=「周」!!「周」という漢字の意味は、一周、二周と、ひとめぐりすることであり、円を描いてまた、戻る…。そうか…、周とは「ひとめぐり」であり、ひとめぐりといえば、「12」という数字に繋がる!と思いました。漢和辞典を引いてみると、たとえば、「周年」とは、「満1年」の意味。「1年」とは「12ヶ月」!!また「周星」とは、「木星が十二年で天を一周すること。転じて、12年」とあります。これも、「12年」!!考えてみれば、だいたい、ひとめぐりというのは、「12」という数字が多いです。ある意味、この世界の基準値的な数字であるのかもしれません。時計も、一周で「12時間」になります。「12支」も、12年でひとめぐりですし、、円周を、12分割して、「12支」を当てはめると、「子」から始まって、「子」に終わっています。占星術も「12星座」で、ホロスコープは当然12星座に対応して「12宮」です。こうしてみると、「周」とは、「12」と関わりが深い漢字であると言えます。そうなると、「集」=「シュウ」=「周」=「12」!となり、「集」が「12」、さらに「イスラエルの12支族」にも繋がっていくことが、分かります。★「周」の漢字の意味★ついでに、「周」という漢字についても、漢和辞典より見てみると、興味深いことがわかります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●【周】=シュウ、シュ、ス意味:(1)こまやか。(ア)ゆきとどく。(イ)きわめて。(3)ととのう。(4)あう。(5)かためる。(6)めぐる。めぐらす。(7)まわり。めぐり。(8)おわる。(9)くま(隈)(10)すくう(救う)。めぐむ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなかでも、特に意外だったのは、(8)おわる。と(10)すくう(救う)、です。「周」に「救う」意味があるなんて、普通は、考えたことありません。なぜ、「周」に「救う」という意味があるのか…?こういう点をみても、漢字は「聖書」がベースになっていることが、感じられます。「救う」とは、「聖書」からみれば、まさに、最後の時に、イスラエルの12支族の集結と、イエス・キリストの再降臨、つまり、「集」という字に集約されてきます。「周」=「シュウ」=「終」=「集」です。「周」に「終わる」という意味があるのも、意外ですが、「周」=「シュウ」=「終」と考えれれば、繋がります。さらに、「周」とは、この宇宙の初めから、終わりまでの「めぐり」をも示唆しているのかもしれません。そう考えれば、初めから「終わり」まで、すべて関わっているのが「周」という漢字なのかもしれません。そして、(3)の「ととのう」とは、準備が「ととのう」、時が満ちる…。すなわち、うがった見方をすれば、「周」=「12」から、時が満ちて、「終わりの時に、イスラエルの12支族が「集結」するということを、含んでいるのかもしれません。こうしてみてくると、いくつもの「シュウ」が、繋がってくることが分かります。不思議といえば、不思議なのですが、「聖書」を基準にすると、繋がってきてしまう…。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「シュウ」=「終」「秋」「舟」「集」「周」「祝」「シュ(ウ)」=「主」=「酉」→「鳥」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれら、一連の「シュウ」を、まとめてみると、時が満ちて、すべての準備がととのう(=周)終わり(=終・周)のときに、生命の樹(=秋)に象徴される絶対神(=主)の命のもと、散らばったイスラエルの12支族(=周・鳥)が、集結し(=集)、さらにイエス・キリストの再降臨で、祝福(=祝)の時を迎える!!ノアの大洪水で1度世界が滅びた時、ノアの箱舟(=舟)に乗り生き残った八人(秋の「火」=「八+人」)から、再びスタートした世界。地球は、ノアの大洪水という、最初の「水」の洗礼を経て、終わりのときの「火」の災いを経て、めぐり(=周)、「火水(カミ)=神・主」の祝福(=祝)に包まれる!この宇宙に、創造主なる存在がいるとすれば、すべては必然なのでしょう。そして、それは、「終」=「シュウ」=「祝」であり、「終」=「周」=「救い」の意味がある以上、未来は、決して悲観的に見るべきものではなく、神の「祝福」のうちにある!ということでしょう。何か、こう宗教的?な書き方ですが…。(^^;最後に、このクリックに「集約」されて、ポチッとしたら、完了!?(^^;
November 3, 2005
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▲透萌(ともえ):滋賀県の「ブルーメの丘」にて。★レイキの効果★先日、実家に行ったときに、母親にレイキをしました。母親は、冬になると、頭痛と肩のコリがひどくなる傾向があり、その時も、かなり頭が、痛いようなことを言っていました。「レイキしてよ」ということで、10分少々だったと思いますが、頭や肩の辺りを中心に、手を当てていたら、しばらくしたら、「あれ?何で? 頭がすうっとしてきた」と。手がぴりぴりするところはしばらく当てたりしていましたが、「あんなに痛かったのに、完全ではないけれど、痛みがとれた」と不思議がっていました。日々少しずつ、実践、という感じです。では、本題へ!★「秋」=「シュウ」=「集」★第三十一幕「生命の樹に降臨してくる絶対三神」はこちら。前回の流れをざっとあげてみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」「集」の本字は、「隹」という鳥が、「三」羽、「木」の上に、止まっている状態。 隹「集」… 隹隹 木●「3つの隹(ふるとり)」=「三羽の鳥」=「絶対三神」●「木」=「樹」=「生命の樹」!「集」とは、「生命の樹」と同時に、三本柱の「絶対三神」をも、象徴している。●「集」=「シュウ」=「終」よって、●「集」=「生命の樹」に象徴される「絶対三神」の命のもと、「終末に」イスラエルの十二支族が、「集結する」こと。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー★漢字は、ヘブライ密教の奥義「カバラ」がベース★漢字の成り立ちは、聖書を抜きには考えられない、と最近は思うようになってきました。なぜなら、「漢字破字法」や「音に返す方法」で、さらに、聖書をベースに見ていくと、おもしろいほど、するすると、繋がっていくからです。そこには、聖書と同時に、古代ヘブライ密教の奥義「カバラ」が、根幹にある、と思います。そう考えると、「集」は、一言でいえば、イスラエルの十二支族が「終わり」のときに、再び「集結」する、ということを示しているとしか思えません。「集」の意味を見ると、「隹(ふるとり)が木の上に止まるさまにより、多くの鳥が「あつまる」意を表わす。」とあります。これなど、散らばった十二支族(多くの鳥)が一ヶ所に「集まる」ことの象徴とも受け取れます。そして、仮にそういうことであれば、「集」には、「十二支族」を示唆するものがあるはずだ、と思いました。しかし、これが、なかなか分かりませんでした。われながら、あはは、とあきれるような思考もしていました。こねくり回すと、だめですね。ちょっと、迷走部分を書いてみましょう。★「集」の迷走、★以下は、お遊び的な思考ですので、本気にしないでください。(^^;「集」は「集う(つどう)」と読みます。ここから何か見えてこないだろうか…。●「集う」=「つどう」=「つ」+「どう」=「TU(ツウ)」+「トウ」=「2(ツー)」+「十(トウ)」=「2」+「10」=「12」!?むちゃくちゃ強引!!(^^;ここから、「集う」とは、「12」という数理が導かれるので、「集う」とは、これすなわち、「イスラエル十二支族の集結」を、意味しているのではないか?と。しかも、「2」と「10」になっているところが、またおもしろい。なぜなら、イスラエルの十二支族とは、南ユダ王国の「二支族」と、北イスラエル王国の「十支族」から成り立つからです。偶然ながらも符合しちゃってます…。(^^;うーん、まあ、お遊びということで。★「フル」の語源は…★行き詰まったら、基本に戻る。そして、物事をシンプルに考える。●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」でした。前回は、「隹」=「ふるとり」=「降る鳥」とみました。この「ふるとり」の「フル」という言葉、実は、見ていくと、語源は、日本語ではないようなのです。それこそ、日本だけでなく、朝鮮、東北アジア、北アジア、果てはヨーロッパと、言ってみれば、ユーラシア大陸全土にわたり、「フル」の地名がつけられているといいます。以下、『失われたイスラエル十支族「神武天皇」の謎』(三神たける・飛鳥昭雄・学研)より、見てみます。日本では、「フル」=「古」の漢字を当てて、「古川」「古江」「古野」「古田」「古町」…といった地名が、全国的にあるようです。そして、朝鮮半島では、「沸流(フル)」「負児(フル)岳」など、それこそ無数にあるといいます…。「フル」は「プル」「ブル」「ビル」「ビュル」「フン」などとも言います。同じです。さらにヨーロッパでは、「ブルガリア」「プラハ」「ブルノ」などなど…。北欧の「フィンランド」とは、「フン・ランド」であり、東欧の「ハンガリー」とは、「フン・ガリア」から来ているといいます。そして、この「フル」とは、ユーラシア大陸を縦横無尽に駆け巡っていた、「騎馬民族」のいた地につけられているということが、分かってきているといいます。このあたりの部分は、また機会があれば、紹介したいと思います。駆け足ですが、日本から、朝鮮、北アジア、東欧などなど、そして、行き着くところは、どこかというと、中近東!そして、そこに「フル」のつく名を探すと…。「ヘブル」!!では、「フル」を含む言葉「ヘブル」とは何を意味するのか?これは、そのものずばり、「ヘブライ」だと言います。では、「ヘブライ人」とは、どういう民族なのか?以下、引用してみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「ヘブル」と称する遊牧騎馬民族は、世界広しといえども、ほかにひとつしかない。そう、「ヘブライ」である。『旧約聖書』に登場するアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエル人。絶対神との契約によって、ユダヤ教を創始したユダヤ人。後にイエス・キリストを生む民族、それがヘブライ人である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそして、ヘブライ人とは、まさに「イスラエルの十二支族」も含まれています!!●「フル(古)」=「ヘブル」=「ヘブライ」となると、「隹」=「ふるとり」=「降る鳥」=「降臨する神(鳥)」は、「ヘブライの神(鳥)」ともいえます。それは、すなわち、唯一絶対神であり、「絶対三神」のことにほかならない、ということになります。と、と同時に、もうひとつ、こうも言えます。●「隹」=「ふるとり」=「古鳥」=「フル鳥」=「ヘブル鳥」=「ヘブライの鳥」=「イスラエルの十二支族の象徴」!?さらに「木」=「十」+「人」=「十字架」+「人」=「イエス・キリスト」と見れないこともない。で、あれば、●「集」=「隹(ふるとり)」+「木」=「イスラエルの十二支族」+「イエス・キリスト」!?となり、「集(=終)」とは、「終わり」の時に、イスラエルの十二支族の集結と、イエス・キリストの再降臨をも含む漢字、なのかもしれません。そして、そのことは、音に返すと、「集」=「シュウ」=「祝」ともなり、神の「祝福」をも、同時に意味する!、ということになるのでしょう。また、長くなった…。「シュウ」の連鎖は、抜け出したいのですが、もう少し続きます…。(^^;
November 2, 2005
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▲葵(あおい) 歯磨き:やや得意げな顔。 ▲うわははははっ。どうだ!!って感じ(^^; ▲かなり、得意げな顔。でも、磨いてるフリだけ!(^^;いっちょ前に、歯を磨いている形にはなってますが、歯ブラシを口に入れて、ちゅぱちゅぱ吸っているというのが、本当のところ。全然磨いてないよ…。あんた!って漢字…、じゃなくて、感じですね。(^^;さらに、最近は、歯ブラシを吸うどころか、コップの水をごくごく飲んで、5歳の姉の透萌(ともえ)のコップにまで、手を出して、ごくごく飲むということなので、要は、何も分かっちゃいない!!ということなのです。はい。しかも、頭はつるつる…ではないけれど、まだまだ薄いし…(^^;それと、女の子ですからね。女の子。先に言っとかないと、間違えられますので。はい。と、いうことで、写真を載せただけの「手抜き」の前置きは、この辺で(いつもいい加減ですが)、本題へ!★「秋」=「シュウ」=「集」へ!★第三十幕「水と火の災いを抜けて、歴史を貫く生命の樹」はこちらーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「秋」=「シュ」=「主」=「酒」=「酉」=「鳥」●「秋」=「シュ」=「ジュ」=「受」=「樹」=「生命の樹」●「秋」=「火禾」=「火の木」=「ヒノキ」=「檜」=「常緑樹」=「生命の樹」●「秋」=「シュウ」=「集」=「収」=「十」=「終」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「秋」=「シュ」または「シュウ」で、音に返していくと、いろいろと通じるものが見られることが分かってきました。そして、前回。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「秋」=「シュウ」=「舟」●「秋」の「火」=「八人」!?●「秋」=「火禾」=「八人ノ木(舟)」!?よって、「秋」=「舟」=「ノアの箱舟」!?ということを見てみました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今回は、「秋」=「シュウ」=「集」に興味が湧きました。「集」について、まずは基本を押さえる意味で漢和辞典より見てみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●【集】シュウ・ジュウ/あつまる・あつめる・つどう【なりたち】会意。隹が木の上に止まるさまにより、多くの鳥が「あつまる」意を表わす。【意味】(1)あつまる。つどう。むらがる。とどまる。いたる。(2)集める「収集」(3)あつまり。(4)いちば。まち。(5)とりで。……(以下略)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここで気になったのが、部首の「隹」という字。そこで、「隹」のところを見ると、読みは「ふるとり」というそうです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「隹」=「ふるとり」「もと、比較的小さい鳥(一説にふふどり)の形にかたどり、小鳥の意を表わす。これを部首にして、主に、小鳥の種類・状態などを示す字ができている。(中略)なお、日本では、鳥をとりへん、酉をひよみのとりというのと区別して、「隹」を、「※(←この字体なし)旧の旧字体。ふるい」の一部になっていることから、ふるとりという。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーつまりは、漢字破字法で分解すると、「集」=「隹(ふるとり)」+「木」。ここで、少し驚いたのが、「集」の「本字」として、「木」の上に、「隹」が、「3個」、三角形上にのっていたこと。ちょうど、「森」の「木」を、「隹」に置き換えた状態です。その下に「木」です。「隹」という鳥が、「三」羽、「木」の上に、止まっている状態。「隹」とは、「ふるとり(小さな鳥)」であり、一言でいえば、「鳥」です。「鳥」は、天と地の橋渡し、神と人との橋渡し的な役割をしますので、「鳥」は、「神」の象徴でもあります。神話や伝説では、よく「鳥」が神になっています。●「隹(ふるとり)」=「鳥」=「神」そして、この「隹(=神)」が「三」ということは、とりもなおさず、聖書からいえば、「絶対三神」の象徴です。その「絶対三神」が、「木」の上に止まっている…。「木」=「樹」であり、もっといえば、「生命の樹」!こうなってくると、「集」という字も、なかなか深い意味がこめられていることが分かります。なぜなら、「集」とは、「絶対三神」が、「生命の樹」に宿っていることになるからです。「生命の樹」の象徴図形は、「三本柱」であり、その「柱」は、それぞれ、「御父」「御子」「聖霊」の三神の象徴にもなっています。また、音に返すと、「隹」=「ふるとり」=「降る鳥」ともなり、「鳥」=「神」とすると、「降臨してくる神(鳥)」と見ることもできます。「本字」だと、「隹」が「三個」木の上にのっていますから、「集」とは、「生命の樹に降臨してくる三神」ということになるのでしょうか。★イスラエルの十二支族の役割★さらに、「集」とは、「集」=「シュウ」=「終」ですから、「終わり」の時に「集結する」ということになります。すなわち、大胆に言ってしまえば、聖書に預言されているように、「生命の樹」に象徴される「絶対三神」の命のもと、「終末に」イスラエルの十二支族が、「集結する」!?ということをも含んだ漢字ではないだろうか、ということです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「主なる神はこう言われる。私がイスラエルの家を、彼らの散らされた諸国の民の中から集めるとき、彼らによって、私は自分の聖なることを諸国民の前に示す。彼らは、私が私の僕(しもべ)ヤコブに与えた土地に住む。彼らはそこに安らかに住み、家を建て、ぶどう園を植え、安らかに住み着く。彼らを侮辱する周囲のすべての人々に、私が裁きを行うからである。その時彼らは、私が彼らの神、主であることを知るようになる。」(「エゼキエル書」第28章20節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそして、このことに関して、もうひとつの漢字へも繋がっていきます!感じ…、じゃなくて、漢字は、おもしろいと思ったら、ポチッと(^^;
November 1, 2005
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