全31件 (31件中 1-31件目)
1
自己肯定感が低い人は、・自分には価値がない・自分には優れたところがない・自分は他の人より劣っている・自分はちゃんと評価されていない・自分は無能だ・やる気が起きない・頑張れない・何をしたらいいのか分からない・自分は一人ぼっちだと思い込んでいる・自分で決められない・相手の評価ばかりが気になって自分の気持ちを否定してしまう・一人でいるときには自分で自分を責め、他の人といるときには他の人から責められているように感じてしまう・物事を具体的に考えることが出来ない・論理的に考えることが苦手(学校の成績とは無関係です)・いつも頭にもやがかかっているような気がする・部分ばかりが気になって全体を見ることが出来ないなどの特徴があるような気がします。当然のことながらこういう状態の人は、自分の頭で考えて、自分の心と感覚で感じて、自分の意志と行動で主体的に遊ぶことが出来ません。また、「無駄なことを大切にする」とか、「意味のないことにも意味がある」とか、「役に立たないものにも役割と価値がある」というような考え方も出来ません。そもそも、こういう考え方をすることが出来るのなら「自己肯定感」という考え方に捕らわれることも、それが低いことに悩んだりするはずがないからです。「自己肯定感」という考え方自体が、「価値のあるもの」と「価値のないもの」を、「役に立つもの」と「役に立たないもの」分ける現代社会の価値観が生み出したものなんです。自己肯定感が低いと感じている人は、自己肯定感を高めたいと思っているのでしょう。でも、そのような「自己肯定感」という考え方に束縛されている発想自体が、自己肯定感が低い人を大量に生み出しているのです。「自己肯定感」なんかどうでもいいのです。「自己肯定感が低い」の反対は「自己肯定感が高い」ではなく、「自己肯定感のことなんか気にしない」なんです。「どうも私は自己肯定感が低いようです。でも、それが〝私〟なんですからしょうがありません。私はそんな自分を楽しんで生きています」と言ってしまえば、自己肯定感が低くても高くても、自分の人生を自分らしく生きることが出来るようになるのです。「自己肯定感」という考え方に捕らわれていること自体が、社会的価値観よって自分を評価しているのです。そして、自分で自分を評価してしまうから、自分の人生を自分らしく主体的に生きることが出来ないのです。現代社会を支配している・時間をかける、時間がかかるのは無駄なことだ・ゆっくりやるのは怠けです・結果を求めない、結果が出ない行為は無意味です・能率的、合理的でないことは悪です・手間暇かけるのは無駄なことです・「ちゃんと、きちんと、素早く、効率的、合理的に結果を出すべきだ」という考え方はよいことですというような考え方が、自分自身を評価する癖を創り出し、自己肯定感に捕らわれる人を大量生産しているのです。このような価値観の対極にあるのが、現代社会が否定している「遊び」と「アート」(芸術)の世界なんです。実際、コロナ騒動が起きたとき真っ先に否定されたのが、「無駄なもの」として認定されている「遊び」と「アート」(芸術」でしたよね。でも、そのような「無駄なもの」を否定し排除する社会は、活力を失い次第に衰退していきます。自然破壊が起きたのも、自然から「人間にとって価値のある資源」だけを取り出して、自然の循環を支えている多様性を「無駄なもの」として破壊し続けてきたからですよね。世界中のみんなが「遊び」と「アート(芸術)」の価値を見直し、そういうものを大切にする社会と生活を創り出せば、自然と「自然」も再生するのです。「壊れた自然を直そう」という発想自体が、さらに自然を壊しているのです。それは「問題児をよい子に矯正しよう」という発想と同じものです。そういう発想自体が子どもの尊厳を否定していることに気づいて下さい。
2023.05.31
コメント(0)
時間をかける、時間がかかるのは無駄なことですか?ゆっくりやるのは怠けですか?結果を求めない、結果が出ない行為は無意味ですか?能率的、合理的でないことは悪ですか?手間暇かけるのは無駄なことですか?「ちゃんと、きちんと、素早く、効率的、合理的に結果を出すべきだ」という考え方は、本当によいことなんですか。私はそうは思いませんが、現代社会、特に日本では(韓国も)、この価値観まっしぐらで経済を発展させてきました。それで一時期はすごい繁栄を誇りましたが、その繁栄を持続させるだけの基礎体力や能力を育てることを忘れてしまっていたので、その繁栄は一時的な「お祭り騒ぎ」だけで終わってしまいました。会社でもお祭りでも、立ち上げるだけならそんなに難しくないのです。全ての無駄(と思い込んでいるもの)を排除して、目的に向かって全ての力を集合させれば、立ち上げることは出来るのです。また、バブルの時のようにみんなお祭り騒ぎで盛り上がります。そのように、経済的に豊かになることだけを目指して進んできたこの数十年の日本は、赤ちゃんの時に「幼稚園に入ったときのために」という教育を受け、幼稚園に入ったら「小学校に入ったときのため」という教育を受け、「小学校に入ったら・・・」、「中学校に入ったら・・・」、「高校に入ったら・・・」と、念願叶って一流大学に合格した子どものようです。でも、そこで止まってしまったのです。目標を達成した途端にそこから前に進めなくなってしまったのです。そこから先は、自分の頭で考え、自分の心と感性で感じ、自分の意志と行動で生きていかなければならないのですが、その能力も、それを維持するための体力も育ててこなかったので、急に崖から突き落とされたような状態、迷路で行き詰まったような状態になってしまったのです。今の日本がそのような状態です。与党も野党も、政治家の能力は悲しいくらいです。「ぼっちと言われたと思って殺しました」という事件が起きましたが、「受けると思ったので・・・」とか、「死刑になりたくて・・・」とか、「誰でもよかった」などというような意味不明な事件もしょっちゅう起きています。「簡単にお金が手に入るから・・」という幼稚園児レベルの発想で悪事に手を出す普通の若者も増えて来ました。人類登場以来続いてきた子育てですら困難な人が増えてきています。「痛い出産」や「子ども主体の出産」を避ける人も増えてきました。実際、「痛くないお産」、「管理されたお産」を求める人が増えてきています。「簡単にしつけや子育てができる方法」を求める人もいっぱいいます。仲間作りが出来ない子、自分の意志で生きることが出来ない子、自分の頭で考えることが出来ない子、自分の心や感覚で感じることが出来ない子も増えてきました。そういう子は便利な道具や機械がないと遊べません。仲間と協力して遊べません。退屈を嫌います。楽をして簡単に結果を得ようとします。他の人の苦しみや、痛みや、悲しみが分かりません。我を忘れさせてくれるような強い刺激ばかり求めます。もちろんそういう子ばかりではありませんが、そういう状態の子が確実に増えてきています。私たちはもっと「無駄を楽しむこと」「ゆっくりを楽しむこと」「結果ではなく過程を楽しむこと」「手間暇かけること」を大切に生きるべきなのではないでしょうか。もっともっと遊ぶことの価値を大切にすべきなのではないでしょうか。江戸時代までの日本人はそうではなかったと思うのですが、現代の日本人は自分の頭で考え、自分の心と感性で感じ、自分の意志と行動で自由に遊ぶことが苦手です。でもまだ、映画「寅さん」の寅さんや、「釣りバカ日誌」のハマちゃんや、漫画「浮浪雲(はぐれぐも)」の浮浪雲にあこがれる感性は残っています。それが救いです。(そういう映画も消えつつありますけど・・・)自分の頭で考え、自分の心と感性で感じ、自分の意志と行動で生きる能力は、「子どもの遊び」のような「役に立たない活動」の中で育つのです。それが、子どもの成長における「遊びの意味と価値」なんです。だから、本能的にそのことを知っている子ども達は、親に叱られても遊ぼうとするのです。でも、簡単・便利・結果・効率を求める大人達は、「遊び」を「無駄なもの」として否定し、「遊び」を子ども達から奪ってしまいました。その結果が今の日本です。日本をもっと元気にしたいのなら、意味のないことや、無駄なことを楽しむことを大切にすべきなんです。本来、日本人はそういうことが得意な民族だったのです。だから、お茶を飲むだけなのにあんなにも面倒くさいことをやっていたのです。でも、明治に入って「西洋に追いつけ追い越せ」という運動が始まると、それまでの価値観や文化が否定されてしまいました。それと共に、「意味のないことや、無駄なことを楽しみ大切にする感性」も否定されました。私たちはもっと、「無駄を楽しむ活動」を大切にすべきなんです。それが、「人間らしさ」や「日本人らしさ」を取り戻すことにもつながるでしょう。生き生きとした心や、感性や、思考や、生命力を取り戻すことにもつながるでしょう。そんな時、子ども達が大人達の師匠になってくれると思います。
2023.05.30
コメント(0)
日々子ども達と接していて感じるのは、「待てない子ども達が非常に多い」ということです。待てない子どもは、「話すこと」は得意でも「聞くこと」が苦手です。こちらの都合も考えずにテレビのように一方的に話してきます。それで、「ちょっと待って」と言うと、すねたり、あっちへ行ったり、別のことを始めたりしてしまいます。工作などでも、すぐ「先生やって」と言ってきます。依存心が強いのも「待てない子ども」の特徴です。そんな場合、「この子には無理だな」と感じるようなことは手伝ってあげます。でも、待てない子は私が手伝っていても私がやっていることを見ようとしません。それで、「見ていなきゃ出来るようにならないよ」と言うのですが、「待てない子」は観察することも苦手なようです。「傍にいてちゃんと見てな」と傍にいさせても、いるだけで見ようとしません。どうも見方(観察の仕方)が分からないようです。よく仕付けられた犬は「待て!」と命令すれば待ちますが、でも、命令がない状態では待ちません。「待つことに対する内的な動機」がないからです。それと同じ状態なんでしょう。子どもでも、「命令に従わないと叱られる」という状況下では、命令に従って待つ事が出来ることがあります。でも、自分の判断と意志で待つことが出来る子は本当に少ないです。でもその一方で、最近の子は周囲からの刺激にはすぐに反応します。そして振り回されます。待てない子ほど刺激に対する耐性が低いのです。まあ、日常的にゲームをやっていればそういう状態になるのは当然の結果ですけどね。それがゲームをやっているときの普通の状態なんですから。ただし、4才ぐらいまでの子どもは待てないのが普通です。自分の感情や衝動を抑制する脳の機能が未発達だからです。これはしつけの問題ではなく、子どもの成長の問題なんです。人間以外の動物たちも、その機能が未熟なため自分の意志で待つことができません。だから、動物に芸をさせるためには特別な調教が必要になるのです。問題は、最近は「待てないのが普通の幼い子ども達」を待てない大人達が増えてきたことです。そのような人は、子どもが自分のペースでゆっくりと成長するのを待てないため、「アメとムチ」という方法を使って、犬を調教するように幼い子ども達を調教しようとします。「お母さんの言うことを聞かない子は嫌いになっちゃうな」などという脅しをかけるお母さんもいます。そして、その調教がうまく行けば、4才に満たない子でもある程度まではその行動をコントロール出来るようになります。そのため、「しつけ」と「調教」を混同してしまっている人がいっぱいいます。実際、「しつけの方法」として、「調教的なやり方」を書いている人もいます。「しつけ」を「ハウツー」として説明している人や、ハウツーとして理解している人はみんなそういう人です。でも、調教的なしつけを受けた子は、指示や命令を出すお母さんがいる場では「いい子」なんですが、お母さんがいない場では野生動物のように乱暴になってしまったり、逆に不安が強くで何も出来ずに小さくなってしまたりするのです。「人間としての成長」が損なわれてしまうからです。でもお母さんは、我が子のそういう状態を知りません。自分の前ではちゃんと行動しているからです。調教的なしつけを受けていると、お母さんの期待に応える能力は育っても、自分の心と頭で「何をしたらいいのか」「何をしてはいけないのか」ということを判断する能力が育たなくなってしまうのです。そのため、思春期が来ても自立が困難になってしまうのです。それが調教的なしつけの大きな問題点なんです。犬は、精神的に成長する必要がありません。人間の言うことに従っていれば死ぬまでちゃんと世話をしてもらえます。「人間としての能力」を育てる必要もありません。犬が人間と同じ立場になることは永遠にないのですから。でも、人間の子ども場合はそれでは困るのです。人間の成長は、社会の都合ではなく、命の都合、自然の都合に従って進行していきます。何でも早く簡単に出来るようになったからといって、妊娠にかかる時間や、成長にかかる時間を短くすることは出来ないのです。それを現代人の価値観に合わせて、人工的な方法でその自然な状態を変えようとすると、子どもの命の状態や成長プログラムが狂ってしまうのです。そしてその狂いは大人になっても矯正されません。幼い頃に「ボタンの掛け違い」が起きてしまうと、大人になっても掛け違ったままなのです。だから、「命のリズム」や「命のプログラム」に安易に手を加えてはいけないのです。でも、待てなくなってしまった現代人は、大人の都合に合わせて子どもの成長をコントロールしようとしています。出産も医者や病院の都合に合わせて赤ちゃんが引きずり出されています。テレビでは「待てない大人」に向けて「こうすると子どもの成績がアップしますよ」「こうすると子どもの好奇心がアップしますよ」というハウツーをいっぱい流しています。でも、待てない人ほど強い不安を感じながら生きているのです。「待てない人」を突き動かしているのは「不安」だからです。じゃあどうやったら、その「待つ能力」を育てることが出来るのかと言うことですが、「自然とのつながり」を取り戻すことがその手助けになるでしょう。人工物は思い通りになりますが、自然は思い通りにはなりませんから。あと、自分の心とからだの状態に気づくことも必要です。自分の心やからだと対話できる人は待てるのです。
2023.05.29
コメント(1)
昨日は「待つ」ということについて書きましたが、「待つ」といっても色々な「待ち方」があります。一般的な「待つ」というイメージは、人気のあるラーメン店で並んで待つ、ディズニーランドで順番を待つ、電車を待つ、食事が出てくるのを待つ、というようなものだと思います。でも、子どもとの間に信頼関係を築いたり、子どもの育ちを支えるために必要な「待つ」はそういう意味ではありません。それらの「待つ」は「待たされる」という受け身的な状態でもあります。待たされているから、しょうがないから待っているのです。だから、イライラしたり、暇をもてあましてゲームをしたりスマホをいじったりしてしまうのです。子育ての場でも、お母さん達は「待たされているからしょうがないから待っている」という「待つ」は日常的にやっていると思います。歩いてお買い物に行くときも、子どもは寄り道をしながら歩きます。また、マイペースでしか歩きません。「早くしなさい」とせかしても、子どもは言うことを聞きません。そのため、優しいお母さんは、イライラしながらも子どもを待ちながら歩くことになります。食事も、遊びながら食べるので時間がかかります。そのため、なかなか片付けに入ることが出来ません。この時も、「よいお母さん」を目指している人はイライラしながら待っています。時には「早くしなさいって言っているでしょ。なんべん言ったら分かるの!!!」などと子どもを叱ってしまうこともあるかも知れませんが、それでも子どもは早くすることはありません。というか、大人と違って、子ども自身にも自分の行動を早くすることが出来ないのです。早くするだけでなく、ゆっくりも出来ません。そんなことは叱っているお母さん自身がいつも体験していることなので経験的に知っているはずなのですが、それでも毎回同じように叱ってしまうのです。こんな時も待つしかありません。でも、イライラした状態で待つことになります。そのようなイライラが溜まると、肩がこって、頭が痛くなり、睡眠も呼吸も浅くなり、冷静に考えることが出来なくなります。ラーメン店で待っている場合には、「美味しいラーメン」という「待つことの対価」がちゃんとあるので、待っていてもストレスは溜まりませんが、子育ての場ではその対価がありません。待ったからといって、すぐに子どもが「よい子」になるわけでもありません。むしろ、追い立てなければ子どもはもっとダラダラし始めます。だから待つことが出来ないのだし、待つことの意味も分からないのでしょう。でも実は、それとは違う「待つ」という形があるのです。この「待つ」では、対価がなくてもイライラしません。「十時に渋谷のハチ公前でとデートの約束をした」という状況を思い浮かべてみて下さい。でも、その日は運良く電車の乗り継ぎがうまくいって九時半頃に着いてしまいました。それで、相手が来るまで待つことになりました。自分が早く着いてしまっても、約束が十時ですから、当然のことながら十時までは待つ義務があります。それが「受け身的な待つ」です。ですから、スマホなどをいじくりながらその時間が来るのを待ちます。そして、このような「待つ」は常識のある人なら普通に出来ます。でも、その相手が十時を過ぎても現れなかったとき、人によってその対応が変わってきます。イライラしながらでも10分ぐらいならなら待つ人もいれば、スマホなどで連絡を取って遅れている理由を聞こうとする人もいるでしょう。その相手が、スマホなどが嫌いで持っていなければ、その事にも腹が立ってくるでしょう。「すっぽかされた」と怒る人もいるでしょう。でも、「どうしたのかな」「事故でもあったのかな」「電車に乗り間違えたのかな」などと相手のことを心配しながら待ち続ける人もいます。自分の価値観だけで相手のことを判断するのではなく、相手の立場に立って理由を考えようとするのです。そのような人は相手の心配はしますが、イライラはしないでしょう。そして、やっとこ相手が現れてきたとき、イライラしている人は相手に怒りをぶつけるでしょうが、相手の立場に立って待っていた人は、相手の顔を見たら安心するでしょう。このような人は、ただ待っていたのではなく祈っていたのです。「祈り」もまた「待つ」の一つの形なんです。そして、私が「子どもの育ちを支えるには待つことが大切だ」という場合の「待つ」も、この「祈り」のことなんです。「何分待てばいいのですか」というような「待つ」ではないのです。この4月で新一年生になった子を学校に送り出すときも同じです。子どもにとっても初めての体験ですが、お母さんにとっても初めての体験なので、お母さんはものすごく不安を感じるでしょう。隠れて後ろからついて行きたくもなるでしょう。ナビを持たせる親もいるかも知れません。友達は出来るかな・・・いじめられないかな・・・先生は優しいかな・・・などと色々考えながら子どもの帰りを待つことになります。でも、心配だからといって子どもが帰ってきてから根掘り葉掘り聞き出そうとはしないで下さい。子どもが話しやすいような状況を作ることは大切ですが、聞き出そうとすると子どもはお母さんが喜ぶような嘘をつきます。ここでも「待つ」ことが必要なんです。「祈り」としての「待つ」が。
2023.05.28
コメント(0)
「なつこのママさん」から信頼関係を築けている親子の特徴というのをもう少し具体的に解説してもらえると嬉しいです。という質問を頂いたので、このことについて書いてみます。「信頼関係」というのは目には見ることが出来ません。機械で計ることも出来ません。本人達ですらよく分からないこともあります。親は「信頼関係が築けている」と思っていても、子どもは親を信じていないこともあるでしょう。以下は、昔あるお母さんから聞いたことです。子どもの頃お母さんが支配的でものすごく苦しかった。でも、お母さんが怖くて何も言い返せなかった。それでも、大人になって親から離れたらその問題は解決したように感じた。でも、自分に子どもが生まれて、自分自身が子育てを始めたら、その怖かった子どもの頃のことが思い出されてしまい、自分の子どもとも素直な関係が築けない。毎日毎日苦しくて仕方がない。それで、「我が子との信頼関係を築くためには、自分が子どもの頃に受けた苦しみをお母さんに伝え、お母さんとの関係を改善するしかない」と考え、ある日、意を決してお母さんに「子どもの頃苦しかったんだ」と、子どもの頃の苦しみを訴えたら、「あんた、狂ったんじゃない」と言われたそうです。そして、自分の正しさだけを訴えてきたそうです。で、お母さんとの信頼関係を取り戻すことを諦めたそうです。でも、「諦めることでお母さんへの想い」も断ち切れて、前を向いて子育てが出来るようになったそうです。きっとこのお母さんは、「こんなにも子どものために考え、色々とやっているのだから、きっと子どもも喜んでいるに違いない。今は苦しくても大人になったら感謝してくれるに違いない」と思い込んでいたのでしょう。子どもが大人になってまで苦しんでいるなんて想像もつかなかったのでしょう。こういう思い込みによるすれ違いはよくある話しです。「これがあんたのためなんだから」と自分の価値観を押しつけているお母さんやお父さんもいっぱいいます。「遊びたい子ども」、「遊びが必要な時期の子ども」を無視やりお勉強や「○○教室」に追い立て、「あんたのためなんだから」とか「大人になったら絶対に感謝するんだから」などと言うような人はそういう勘違いをしている人です。では、勘違いや思い込みではなく、実際に信頼関係が築けている親子はどういう状態なのかということです。信頼関係自体は見えませんから、信頼関係が築けているのではないかと思われる親子において見ることが出来るお母さんの状態や子どもの状態について書いてみます。まず、子どもを信頼しているお母さんは「待つこと」が出来ます。口では「子どものことを信頼している」と言っても、待つことが出来ないのなら信頼していないのです。太宰治が書いた「走れメロス」という小説がありますが、友人が自分の命をメロスに預け、メロスを待ち続けることが出来たのはメロスを信頼していたからです。それはつまり、「子どもを指示命令で動かそうとしているお母さん」も、「子どもの指示命令に従っているだけのお母さん」も子どもを信頼していないし、子どもとの間に信頼関係が築けていないのではないか、ということです。信頼関係が築けていると思っていても、それは一方的な思い込みです。待つことが出来るお母さんは、子どもの言葉に耳を傾けることが出来ます。子どもを監視するのではなく、子どもの気持ちを感じながら観察することが出来ます。まただから待つことが出来るのです。子どもが能動的に動き出すのを見守り待つことが出来ます。子どもの成長を周囲の子と比較せず、子どもが自分のペースで成長することを見守ることが出来ます。そして、待ってもらっている子は、自分を信じて待ってくれているお母さんやお父さんを信頼します。ただし、「待つことが出来る」というのは「叱らない」ということではありません。また、叱らないからといって信頼関係が築けるわけでもありません。子どもが困ったことをしたときに叱るのは親のつとめです。そして子どもは「ちゃんと叱ってくれる人」を信頼します。ただし、子どもを信頼しているお母さんは、「自分の価値観や考え方を一方的に押しつけるような叱り方」はしないと思います。子どもの気持ちも聞いて一緒に解決法を考えてくれるでしょう。そういう対応をしてくれるから、叱られても信頼することが出来るのです。これは何かの習い事でも同じですよね。皆さんは、何をしても間違っているところを指摘せずに、ただ褒めるだけの先生を信頼することが出来ますか。少なくとも私は「褒めるだけの先生」は信頼しません。当然のことながら、気分任せに叱るだけの先生も信頼しません。
2023.05.27
コメント(1)
食欲はお腹が空いているときにしか目覚めません。自分の意志で行動するのは退屈なときです。自分の意志で勉強するのは、あこがれや目標を持ち、そのあこがれや目標にはまだまだ届かない自分を自覚したときです。人は何らかの「不足」を実感じたときにしか、それを求める衝動が目覚めないし、能動的に行動を起こさないのです。お腹が空いていないときには何かを食べたいとは思いませんよね。そんな時に、無理矢理「食べろ」と食べ物を押しつけられたら苦しくなって逃げますよね。でもだからといって、お腹が空いていることを知っているだけではダメです。お腹が空いているときにいい匂いを感じたり、目の前に美味しそうなものがあるから人は強く空腹を感じ行動し始めるのです。勉強も同じです。「自分は無知だ」ということを知っていても、「知らない」が「知りたい」につながらなければ、勉強という行動にはつながらないのです。「お腹が空いている」が「食べたい」につながらなければ、実際の「食べる」という行動は始まらないのです。だから、子どもの能動的な行動を促すためには、「お腹が空くような活動」をさせると同時に、「食べたい」という意欲を刺激するようなきっかけが必要になるのです。そこで必要になるのが「あこがれを感じるようなものとの出会い」です。食欲で言えば「美味しそうな食べ物との出会い」です。「成長欲求」や「学び欲求」の場合も、「求めるもの」や「やりたいこと」が見つかったときに「飢え」が目覚め、子どもは自分の意志で行動し始めるのです。でも、現代の多くの親が子どもが退屈しないように「退屈だ」と言い出す前からいっぱい色々なものを与えています。空腹にしないように、次から次へと色々なものを与えています。これは食べ物の話しだけではありません。刺激も、遊びも、勉強も同じです。「食べたい」と言う前に食べ物を与え、「知りたい」と言う前に教えようとしています。学校の先生も、夏休みなどに子どもが退屈して困ったことをしないように宿題をいっぱい出します。お母さんも子どもが退屈しないように、色々なものを与えたり、色々な○○教室に通わせています。お腹が空くためには「からだを使った活動」が必要になるのですが、現代社会では子ども達の身近な生活環境の中にそういう場がありません。お菓子をいっぱい与えておいて、「これじゃ栄養が足らないから」と野菜や他のものを食べさせようとしても無理です。ゲームをしていてもお腹は空くはずなのですが、ゲームに夢中になっていると正常な脳の働きが押えられてしまうため食欲が目覚めません。「からだを動かすための栄養」ではなく、「頭を動かすための糖分」は求めるかも知れませんけど。また、日常的に強い刺激にさらされている子は、弱い刺激やデリケートな刺激を感じなくなります。微妙な変化にも鈍感になります。その結果、弱い刺激やデリケートな刺激を楽しむことが出来なくなります。人の心の変化にも鈍感になります。<続きます>
2023.05.26
コメント(0)
私は、「幼い子どもの子育て」で一番大切なのは「しつけ」よりも「楽しい」を伝えることだと思っています。歩くって楽しい。一緒って楽しい。遊ぶって楽しい。知るって楽しい。学ぶって楽しい。考えるって楽しい。感じるって楽しい。冒険するって楽しい。創るって楽しい。絵を描いたり、歌ったり、踊ったりして自分を表現するって楽しい。などなどです。こういう「楽しい」をいっぱい体験しながら育った子は「生きるって楽しい」という感性を持つことが出来るようになるでしょう。また、「生きるって楽しい」という感性が育てば自己肯定感も育つでしょう。そういう感性が育った子は自分の人生を自分のものとして、自分の意志で、能動的に生きていくことが出来るようになります。でも、どうやったら子どもに、これらのような「楽しい」を伝えることが出来るのかということですが、そのコツはお母さん自身も「楽しむこと」を大切に生きるようにすることです。他のお母さんの目を気にしながら子育てをしないことです。子どもを自分の思い通りに育てようとしないことです。「よいお母さん」を演じようとしないことです。幼稚園に入る前から幼稚園の準備をさせたり、小学校に入る前から小学校の準備をさせないことです。他の子と我が子を比較しないことです。自分と他のお母さんを比較しないことです。だからといって「ほったらかし」にするのでもありません。そこで大切になるのが「一緒に楽しむ」ということなんです。お母さんが「子どもと一緒に歩く」ことを楽しむようにしていれば、子どもも「歩くこと」を楽しむようになるのです。お母さんが「子どもと一緒に考える」ことを楽しむようにしていれば、子どもも「考えること」を楽しむようになるのです。お母さんが「子どもと一緒に学ぶ」ことを楽しむようにしていれば、子どもも「学ぶこと」を楽しむようになるのです。お母さんが「子どもと一生に生きること」を楽しむようにしていれば、子どももお母さんや他の人と一緒に生きることを楽しむようになるのです。「お片付け」のようなことでも、お母さんが子どもと一緒に片付けることを楽しむようにしていれば、次第に子どもも片付けることを楽しむようになるのです。その結果、しつけのことなんか気にしていなくても、大きくなるに従ってちゃんと育ってしまうのです。なぜなら、「楽しむ子育て」を受けた子は、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断する能力」が育つので、必要に応じて必要なことは自分で学ぶことが出来るようになるからです。その一方で「言われたから、叱られるからそうする」ように育った子は、親の見ている前でだけ「いい子」を演じるようになります。ただ私は「しつけなんて意味がない」などということを言っているわけではありません。「子どもが幼いうちは、しつけよりももっと大切なことがあるんです」ということを言っているだけです。「親と子の信頼関係」は、子どもがお母さんやお父さんを100%愛し、信じている幼児期のうちにしか育ちません。幼児期を過ぎてから、崩れてしまっている信頼関係を築き直すのは非常に困難なんです。また、その信頼関係が育っていれば、しつけは何歳になってからでも出来ます。「しつけ」は後回しに出来るのです。でも「信頼関係の構築」は後回しに出来ないのです。でも、多くのお母さんが、後回しには出来ない「信頼関係の構築」を犠牲にして、後からでも、というか後からの方が楽に出来る仕付けに夢中になっています。実は、子どもを自分の思い通りに仕付けようとしても、それは100%失敗してしまうのです。子どもが幼いうちは成功したように見えることもありますが、親の思い通りに育てられた子は、思春期が来ても精神的自立が困難になってしまうため、それまでため込んだ色々なことが一気に吹き出してしまうのです。子どもはお母さんの思い通りには育たないのです。また、思い通りになるように育てようとしてはいけないのです。そんなことをしたら親子の関係がこじれて、子どもだけでなくお母さん自身も苦しむ事になってしまうのです。子どもはお母さんとは別の人格で、別の心とからだを持ち、別の時間と空間と別の人生を生きているのですからそれは当然のことです。だからこそ、子どもが幼いうちは「仕付け」よりも「一緒に楽しむ」ということを大切にして欲しいのです。そのことで、子どもだけでなく、お母さんも幸せになることが出来るのです。そして「しつけなんかしなくても子どもはちゃんと育つんだ」ということを知るでしょう。
2023.05.25
コメント(2)
「まじめ」「一生懸命」「頑張る」「我慢」「調和」「几帳面」「みんなと仲良く」「和をもって貴しとなす」などというような考え方が大好きな日本人は、「楽しむ」ということに罪悪感でも感じているのでしょうか。実際、嫌いなことでもひたすら我慢してそれを行うことが美徳のように思い込んでいる人がいっぱいいます。勉強したくなくても、勉強をするのが子どものつとめだ。学校に行きたくなくても、学校に行くのが子どものつとめだ。宿題の意味も分からないしやりたくなくても、出された宿題はちゃんとやるのが子どものつとめだ。と思い込んでいるお母さんはいっぱいいます。先生達もまた同じように考えています。だから、子どもがその「正しい道」から外れようとすると、お母さんも先生も矯正しようとします。その時子どもが、「どうして勉強しなくちゃいけないの?」とか、「どうして学校に行かなくちゃいけないの?」などとと聞いても、「それがあなたの義務だから」という答えしか返ってきません。「わがまま言うんじゃありません」とか「学校に行かないと落ちこぼれるよ」などと脅かされることも多いです。校則もまた、子どもにその「ねばならない」を押しつけるために存在しています。最初、校則を作るときにはそれなりの理由もあったのでしょうが、一度作られてしまうとまじめにそれを守ることだけを求められるのです。何十年も経って、社会や人々の価値観が変わってしまっていても、その妥当性に疑問を呈してはいけないのです。「校則は守ることに意味がある」と考えている先生がいっぱいいるのでしょう。それが日本における「良い生徒のあるべき姿」なんです。マスクも「マスクをしなければいけない」と決められたら、「なんで?」「どうして?」を問うことなく、どうしてもマスクをすることが出来ない状況の時以外は、どんな時でもマスクをしていなければいけないのです。それが「よい人」の「あるべき姿」なんです。「マスクを外すと恥ずかしいから」と言う人も多いですが、「自分らしさ」を肯定できていないからそう感じてしまうのです。そういうことに疑問を呈して、表だって「それっておかしくない?」と言うような人は「おかしな人」「危ない人」「非国民」「陰謀論者」などいうような扱いを受けることになります。日本人のそういう「杓子定規的な考え方しか出来ない心と頭の固さ」が、社会の停滞を引き起こし、人々の心から活力や自己肯定感を奪ってしまっているのですが、権力を持っている人たちは自分達の立場を守るために今の状態に異論を唱える人たちを否定し、排除しようとします。学校でも校則や宿題やマスクなどに疑問を感じ、異論を唱え、先生や校長に自分の意見を言いに行くと「モンスターペアレント」扱いされます。確かに、自分の意見や価値観を学校に押しつけるだけの人は「モンスターペアレント」ですが、「疑問を呈し、話し合いを求める人」は、「一緒に考えようとする仲間」であって、「モンスターペアレント」ではないはずです。学校が、どうして「疑問を呈し、話し合いを求める人」までも「モンスターペアレント」として排除しようとするのかというと、学校自体が「子どもや親に対して学校の意見や価値観を子どもや親に押しつけるだけのモンスタースク-ル」になってしまっているからです。「モンスターティーチャー」もいっぱいいます。でも、学校のやり方に異を唱える「モンスターペアレント」は問題視されても、一方的に子どもを支配し管理しようとしている「モンスタースクール」や「モンスターティーチャー」は問題視されていません。確かに、今の日本には、自分の意見や、価値観や、やり方を相手に押しつけようとする「モンスターペアレント」がいっぱいいます。それで、幼稚園や学校の先生達が非常に困っています。それと同時に、自分の意見や、価値観や、やり方を相手に押しつけようとする「モンスターチルドレン」も増えてきています。「モンスターチルドレン」は、遊びの場でも自分勝手に行動し、自分に都合のいいルールをみんなに押しつけようとします。そして、自分のやり方に異を唱える相手を攻撃したりします。また、平気で弱者をイジメます。これは発達障害とは異なった今時の子どもの問題です。今の日本では、子どもも、大人も、社会も、政治もモンスター化しているのです。その状態から抜け出すためには、「人と人のつながり」を取り戻す必要があるのです。つながりが切れて一人一人がバラバラになり、支えてくれる仲間を失ったために、自分で自分を守るためにモンスター化して行くのですから。「モンスター○○」の目的は、相手を攻撃することではなく、自分を守る事なんです。だから、自分とは異なった価値観を持って自分とは異なったやり方をしている人や、自分のやり方に異を唱える相手に危険を感じて攻撃するのです。公園で子どもが遊んでいると「うるさい」と文句を言ってくる人も、子どもを攻撃したいのではなく、子どもの声から自分を守りたいのです。じゃあ、どうやったら「つながり」を取り戻せるのかというと、「ねばならない」とか「よい子」や「よい人」を求めることをやめて、もっと「楽しむ」ということを大切に生きるようにすればいいのです。人と関わることを楽しむ、遊ぶことを楽しむ、学ぶこと、発見することを楽しむ、感じ考え行動することを楽しむようにすれば「つながり」は自然に生まれるのです。なぜなら、「楽しい」はそれを共有する仲間がいると、さらに楽しくなるからです。
2023.05.24
コメント(0)
子育てでも、教育でも、仕事でも、自分がやっていることに「喜び」を感じ、その活動から学び、成長することが出来ているのなら、その活動はアート(芸術)です。逆に、絵を描くとか、何かを作るとか、楽器を演奏するといったような、社会的には「芸術的な活動」と呼ばれるようなものをやっていても、ただマニュアル通りに、評価や人目を気にしながら、正解に合わせてやっているだけなら、それは作業や労働と呼ばれるものと同じです。AIがいくら上手に絵を描いても、いくら上手に楽器を演奏しても、いくら上手に小説を書いても、それは「作業」であって「アート」ではないのです。アートには正解がありません。評価を得るための活動でもありません。「自分に与えられた自由」をどう楽しみ、使いこなすのか、という過程に現れるのがアートなんです。「自由=アート」ではありませんが、自由がないところにアートは生まれないのです。(だから昔から横暴な支配者は芸術家を恐れたのです。)子ども達は遊ぶのが大好きです。「時間」と「空間」と「仲間」の「三間」に満たされている子は、大人が「遊び」を教えなくても次から次へを「遊び」を発見し、「遊び」を創造し、「遊び」を通して成長していきます。そういう状態の「遊び」はまさに「アート」なんです。「作品」としては残りませんが歌や踊りと同じアートなんです。実際、そういう遊びの現場に出会ったことがある人は、子ども達が遊んでいる姿を見て、「素晴らしい芸術作品」に出会ったときのような喜びを感じることが出来るのです。それを証言してくれる人はいっぱいいます。でも、そういう現場に出会ったことがない人や、「子どもの遊び」や、「子どもの育ち」に興味がない人にとっては、「子どもの遊び」は「くだらないもの」「暇つぶし」「逃避」「意味不明な行為」としてしか見えないでしょう。だから「いつまでも遊んでいないで・・・」と、子どもを勉強に追い立てるのです。またそういう人は、子どもを人工的な環境の中に閉じ込め、人工的なオモチャを与えて暇つぶしをさせようとしています。でも、そういう状態の時の子どもは、アーティストではなく「邪魔者」「怠け者」「乱暴者」「困った存在」になってしまいます。そして、そういう状態の我が子しか知らないお母さんがいっぱいいるのです。そういう状態の我が子しか見たことがないお母さんが自然の中での遊びの会に参加して、今まで見たこともないような生き生きとした我が子の姿を見て驚くことがよくあるのです。それと、多くの人が知らないことですが、アートのように「遊び」を遊べない子は、勉強しても学べないのです。そのような子に出来るのは暗記だけです。
2023.05.23
コメント(0)
「アート」と聞くと「高尚で難しいこと」「自分には関係ないこと」と感じてしまう人が多いですが、実は「アート」は生活に密着した身近なことなんです。日本人は「アート=芸術」と訳します。そして「芸術」とは芸術またはアートとは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。文芸、美術、音楽、演劇・映画などが、芸術の諸分野である。旧字体では藝術。(ウィキペディア)と理解されています。でも、「アートの」本来の英語的な意味は「goo辞書」に(自然に対する)人為,人工(⇔nature)(◆人間の巧みな技が加わっていること);(ふるまいなどの)不自然さ,作為nature and art自然と人為と書かれているように、本来、活動としてのアート(芸術的行為)はもっと広範囲なものなんです。自分の感覚で感じ自分の頭で考えたことを、自分の意志で、自分のからだを使って表現する活動全般が「アート」(芸術的行為)なんです。だから「お料理」も、「日常的な手仕事」も、「家事」も、「仕事」も、自分が主体的に感じ、考え、活動しているのならアートなんです。主体的に子育てをしているのなら、子育ても「アート」なんです。「アート」が「芸術」と訳され、「身近なもの」から「高尚なもの」になったのは、欧米の文化や芸術品に対するあこがれをその言葉に込めたからなのでしょう。「スポーツ」という概念も同じです。その欧米で芸術は「鑑賞や娯楽の対象」として発達してきました。スポーツもまた「鑑賞や娯楽の対象」として発達してきました。だから「芸術」や「スポーツ」という分野や概念がはっきりと確立されていたのです。でも、それ以前の日本には「芸術」という概念や、芸術家という職業もありませんでした。「アート」はあったのですが、「鑑賞や娯楽の対象」としての芸術がなかったのです。「スポーツ」というジャンルも、考え方もありませんでした。今、美術館に飾ってあるような素晴らしい芸術品を作った人たちでも、昔は「芸術家」ではなく「職人」として扱われていたのです。その「職人」は「鑑賞するものを作る人」ではなく、「生活の中で使うものを作る人」でした。床の間などに飾る掛け軸も、「床の間」という空間の一部として作られたのであって、美術館や博物館で鑑賞するために作られたものではありません。今は芸術品として扱われている俵屋宗達が描いた「風神雷神図屏風」も、「観賞用の絵画」として描かれたものではなく、「生活の中で使う屏風の絵」として描かれたものです。明治以前の日本にも現代人の感覚から見たら素晴らしい芸術品がいっぱいあったのですが、当時の日本人いとっては、それは「生活の中で使うもの」に過ぎなかったのです。欧米から来たのが「芸術」であって、昔から日本にあったものは「生活の一部」であって「芸術」ではなかったのです。そのため、明治になって人々の生活が欧米化し生活の形が変化するに従って、それまで「生活の中で使われていたもの」は必要がなくなり、大量に廃棄されました。絵画だけでなく、各種工芸品や仏像までも大量に廃棄されました。欧米で浮世絵ブームが起こったのは、日本の商人が欧米に品物を送るときに、その品物を保護するための詰め物として浮世絵を丸めて突っ込んだからです。ちなみに、欧米から日本に送られてきたものの詰め物に使われていたのが「クローバー」(シロツメクサ・詰草)です。でも、日本人は「自分たちが使っていたもの」の芸術的な価値を知りませんでしたが、欧米の人には日本は素晴らしい芸術に満ちた国だったのです。それで、二束三文でバンバン買いあさりました。そういうものが現在欧米の美術館に飾られています。そんな状態を見て柳宗悦という人が「これはまずい、日本の宝がドンドン壊されたり海外に流れてしまっている。なんとかしなければ。」と、「民芸」という概念を創り出し、そういうものの価値を訴え、守ろうとしたのです。現代人は誇らしげに日本の美術品の素晴らしさを自慢しますが、でも、それは外国で評価されたから自慢できるようになっただけであって、自分でその価値を知っていたわけではないのです。日本ではよく見られる評価の逆輸入です。自分に自信がない日本人は、欧米で評価されるまで、それが「価値があるものだ」ということに気づかないのです。人は、「自分の生活の近くにあるもの」の価値になかなか気づかないものなんです。これは欧米の人でも同じです。でも欧米では、芸術もスポーツも「鑑賞する」という形で生活から切り離すことで、「特別なもの」としての社会的な価値を創り出しました。子ども達が広場で勝手にボールを蹴って遊んでいても、そこには社会的価値はありません。でも、ルールを決め、勝ち負けを競わせ、多くの人に見せるような形にすることで「社会的な価値」が生まれ、「スポーツ」として扱われるようになったのです。でも、スポーツが専門化するにつれて、勝ち負けを競うことだけが目的になり、「楽しむ」という「遊び」としての要素は消えてしまいました。お金儲けの手段としてスポーツを選ぶ子もいます。その結果、元々は「遊び」という「子どもの心とからだの育ちを支えるための活動」として始まったものが、逆に「子どもの心とからだの育ちに強い負荷を与える活動」になってしまったのです。でも、一流の選手になることが出来るのは「お金のため」や「勝ち負けのため」ではなく、「とにかく、それをやっている時が一番楽しい」と感じることが出来る人だけです。様々な芸術的な活動でも同じです。「素敵な作品を創ろう」としている人ではなく、「絵を描いているのが楽しい」「踊っているのが楽しい」「作っているのが楽しい」という人が、人の心を打つ作品や表現を創り出すことが出来るのです。勉強もまた同じです。「成績を上げるために勉強する子」ではなく「勉強することが楽しい子」が本当に身につく学びをすることが出来るのです。そして、子ども達が「楽しい」と出会い、子ども達の「楽しいを発見し創り出す能力」を育ててくれるのが、「遊び」という活動なんです。大人達は「遊び」には「遊び方」があると思い込んでいますが。「遊び」に必要なのは「遊び方」ではなく「楽しいを発見し創り出す能力」なんです。これがあればいくらでも自由に遊びを創り出すことが出来るのですから。そしてこの能力が育っている子は勉強すら遊びに変えることが出来るのです。そして、「楽しいを発見し創り出す能力」が「アート」を生み出す源泉でもあるのです。というか「子ども達の自由な遊び」はそのまま「アート」なんです。「楽しい子育て」をしている人はアーティストなんです。「楽しい授業」をしている先生も「アーティスト」です。
2023.05.22
コメント(0)
「文明」は、古今東西一様に「物質的豊かさ」を求めます。というか「物質的豊かさ」を実現した社会を「文明化された社会」と呼んでいるわけです。どんなに高い精神性を持ち、素敵な歌や踊りを楽しみ、素晴らしい絵画や工芸品を創り出し、そういうものが伝承されている社会でも、自然の中で、自然と共に暮らし、物質的豊かさが実現されていない社会を「文明化された社会」と呼ぶことはありません。でも、古今東西、物質的豊かさを求めて巨大化した文明は100%滅亡しています。例外はありません。100%です。これは想像でしかありませんが、縄文時代の人たちは、高い精神性を持ち、素敵な歌や踊りを楽しみ、絵画や工芸品を創り出し、そういうものが伝承されている社会だったのではないでしょうか。ただ、「文明」が創り出した物質的な豊かさは遺跡として残りますが、精神性や歌や踊りなどは遺跡という形では残りません。人から人へと伝承し、人々の生活や心の中にしか存在できないようなものは、それを受け継ぐ人や群れが消えれば、ほぼ100%消えてしまうのです。自然から頂いたものを利用して作った工芸品や道具も、自然のサイクルに従って消えて行きます。そのため、それを科学的に検証することも、その素晴らしさを知ることも出来ません。でも、今現在生きている私たちの精神性や文化はその「消えてしまったもの」の流れの中にあります。物質としての形はなくても、目には見えない流れが連綿とつながってきたからこそ私たちの「今」があるのです。ネイティブアメリカンやチベットの人たちの高い精神性や文化も何百年、何千年と受け継がれてきた流れの中にあるのでしょう。でも今、その人々の生活の中や心の中に「何百年、何千年と受け継がれてきたもの」が、消えつつあります。文明の力を見せつけられた人々が、「心の豊かさ」よりも「物質的豊かさ」を求め始めたからです。昔は、無償で人から人へと受け継がれてきた歌や、踊りや、精神性や、生活につながる文化は、そういうものを求める人が「お金を出して買うもの」になりました。「社会全体で共有出来るもの」ではなくなってしまったのです。今の日本には、祖父母、親子の三代で「一緒に歌う歌」や、「一緒に踊る踊り」は特別な例外を除き存在していません。歌や踊りだけではありません「言葉」すら世代間で通じなくなってしまっています。でも、歌や、踊りや、精神性や、生活につながる文化の伝承が途絶えてしまった社会は、過去の文明と同じように遺跡だけを残して消えて行くしかないのです。なぜなら、どんなに高度な文明でも、その文明を支えているのは「心の働きによって支えられている人間」だからです。人々の「心」が育たなくなれば文明も消えて行くのは当然の結果なんです。私たちは「高度な文明を支えているのは機械ではなく人間だ」ということを忘れてしまっているのです。でも忘れてしまっていても、どんなに高度な機械がいっぱいあっても、人間が育たなくなってしまったら文明は消えてしまうのです。その「人間を育てるために必要なもの」は「機械」ではなく「人と人のつながり」なんです。便利な機械が登場する以前の社会では、「人と人のつながり」がなければ生きていくことが出来ませんでした。でも、生活を支えてくれる便利な機械が登場することで、人々は「人と人のつながり」がなくても生きていくことが出来るようになりました。お母さんから「お料理の作り方」を受け継がなくても、お母さんよりも美味しいお料理を簡単に手に入れることが出来るようになったのです。現代社会で生きていくために必要なのは「その便利な機械を買うためのお金」だけです。じゃあそれだけ人々が幸せになったのかというと、どうもそうではなさそうです。物質的に豊かになればなるほど精神的には貧しくなってしまったようです。自己肯定感が低い人も増えました。というか、いまではそういう人の方が多いくらいです。自傷する若者、自殺する若者も多いです。こういう状態だからこそ、私たちは今「アート」と呼ばれるものの価値を再発見すべきなんです。機械やお金は共有出来ません。だから競争が生まれます。競争は破壊と、戦いと、崩壊を生みます。でも、歌や、踊りや、絵画や、詩や、文学はみんなで共有出来るのです。一緒に笑い、一緒に喜び、一緒に泣くことが出来るのです。そういうものには現代社会で失われてしまった「人と人をつなぐ力」と「人を育てる力」があるのです。そして「遊び」もまたアートです。以下は宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」の一部です。農民芸術の興隆曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐたそこには芸術も宗教もあったいまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落したいま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものであるわれらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬいまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ芸術をもてあの灰色の労働を燃せここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ農民芸術の本質もとより農民芸術も美を本質とするであらうわれらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現であるそは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造であるそは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとするそは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へるそは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとするかくてわれらの芸術は新興文化の基礎である
2023.05.21
コメント(0)
ここの所、アクセス数がどんどん減っています。こういうテーマには関心がない人が多いのでしょうか?でも、こういう本質的な問題をちゃんと考えずに、目先のトラブルを解決することだけに意識を向けていると、気づかないうちに流れがどんどん悪い方に進んで行ってしまうのです。そして、気づいたときにはどうしようも出来なくなってしまうのです。そして実際、どうしようも出来なくなってから相談に来る人が多いのです。でも、そこまで行ってしまった人に出来ることは限られています。だからそういうことにならないように、まだ子どもが幼い人たちに向けて色々なことを話したり、書いたりしているのですが、難しいのは、多くの人が、子どもが実際にそういう状態になってみないと私が言っていることの意味が分からないということです。テレビが出始めたときに、「テレビの害」について警告した人たちがいっぱいいました。でも、その流れは変わりませんでした。ゲームが出始めたときも、同じように警告を発した人たちがいっぱいいました。でも今ではテレビもゲームも「普通の子」の「普通の遊び」として定着してしまっています。じゃあ、そういう人達が警告したことは杞憂に過ぎなかったのかというと、実際に警告したとおりの事が起きてしまっています。でも、みんなが一斉に同じ状態になってしまったため、その状態が「最近の子の普通」になってしまいました。そして、我が子もみんなと同じ状態なので、その状態に問題を感じる人もあまりいません。その「最近の子の普通」が「子どもの成長」という視点から見たら困った状態であっても、みんなが同じ状態なので、それを「困ったこと」として認識できないのです。また今では、テレビやゲームに囲まれて育った子がお母さんやお父さんになってしまってる時代です。そのため、さらに問題を感じにくくなってしまっています。テレビやゲームの害を言うと、そういうものに囲まれて育ったお母さんやお父さんの育ちを否定することにもなってしまうので、私でも講演会などではあまりそういうものの害について話しません。言ったとしてもどうしようも出来ないからです。また、そのことに気づいて何とかしようとすると、他の人とは違うことをやらなければならなくなります。私の周囲には「テレビを見せない子育て」や「ゲームを与えない子育て」をしている人がいっぱいいますが、そういう人たちは社会全体から見たら「変わった人たち」になってしまいます。また、「そういう子育てを受けた子」と「テレビやゲーム漬けで育った子」とは感性も遊びも違うので、普通の幼稚園や普通の学校での仲間作りも困難になります。お母さんもまた「仲間作り」が困難になります。そのため、それはそれでまた別の問題を引き起こしてしまうのです。現代は、「子どもの成長を支えるような子育て」をするのが困難な時代なんです。テレビで流れているのも「大人の価値観に合わせて子どもを育てる方法」ばかりです。ただ私は「テレビやゲームを排除しなさい」ということを言っているわけではありません。そんなこと、今更不可能だからです。私が言いたいのは「テレビやゲームの奴隷にならないで下さい」ということだけです。テレビやゲームだけではありません。現代人の身の回りにはスマホに代表されるような簡単で便利な機械が溢れていますが、そういうものを自分の意志でちゃんと使いこなせているのなら何の問題もないのです。問題になるのはそういうものに依存しないと何も出来なくなってしまうことなんです。スマホがないと何も調べられない。自分の頭で考えることが出来ない。また、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心と感覚で感じて、自分の意志で行動することができなくなってしまうと、自分の人生を自分の意志で、「自分のものとして」生きることが出来なくなってしまうのです。そして、便利な機械や道具に支配されず、それらを道具として使う能力を育てているのが7才までの育ちなんです。だから、ゼロにする必要はないしそんなこと出来もしませんが、少なくとも7才くらいまでは、可能な範囲でそういうものを子どもから遠ざけて欲しいのです。そして、そういうものに依存しない遊びをいっぱい体験させてあげて欲しいのです。
2023.05.20
コメント(5)
「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉があります。人間が生き生きと生きるためには「食べ物」だけでなく「生きがい」が必要だと言うことです。「何を甘いことを言っているんだ」と思われる方もいるかも知れませんが、これは事実です。だから、「自分という存在」や「自分自身の人生」の意味や価値を失っただけで、命の危険がなくても、食べ物がいっぱいあっても、自分で自分の命を絶とうとする人がいっぱいいるのです。その逆に、自分の考えや自分がやっていることの意味や価値を守るために、自分の命を犠牲にする人までいます。そういう人にとっては「自分の考え」や「自分がやっていること」は「自分の命」よりも大切なんです。「承認欲求」と呼ばれるものも似たような心の働きの表れです。SNSの世界で「イイネ」を得るために命までかけている人がいるのもそのためです。みんなの注目を得るために犯罪まで犯してSNSにアップするのも、みんなに「自分」という存在を認めて欲しいからです。幼い子どもはお母さんに承認してもらうことで、自分という存在の意味やの価値を見つけようとしています。幼い子どもにとって一番苦しいのがお母さんが自分に関心を持ってくれないことなんです。だから、お母さんに無視されている子どもは、お母さんの目を自分に向けさせるために「困ったこと」や「悪いこと」をしてしまうのです。もちろん叱られるのは嫌です。でも、無視されるのはもっと辛いのです。それが「人間という動物」の不思議です。人間は「肉体を守るためだけに生きている動物」ではないのです。時には、「肉体」が満たされることよりも、「心」(精神)が満たされることの方を選ぶ不思議な動物なんです。実際、「肉体」が満たされていても「心(精神)」が満たされていないと、「心」が病んでしまうのです。そして「心」が病むと「からだ」も病みます。時には、自ら死を選んでしまう人もいます。テレビなどでは「命よりも大切なものはない」とか「生きていれば何でも出来る」などと言っていますが、それは妄想です。「命よりも大切なもの」があるから人は自殺するのです。「命よりも大切なもの」を失ったら生きていても何も出来ないのです。コロナ騒動に伴う政府や医者の様々な対応は「命を守るため」のものです。でも、「命」だけを守ろうとした結果、「命よりも大切なもの」が大きく破壊されてしまいました。親の死に目にも会えなかった人がいっぱいいます。子どもの成長にもゆがみが発生しました。希望を失った人もいっぱいいます。確かに「命を守ること」は大切です。でも同時に、「その命の働きを支えているもの」も守らないことには意味がないのです。動物を保護するために必要なのは、動物を檻の中に閉じ込め、快適な食や環境を与える事ではありませんよね。その動物が自然な状態で生き生きと生活し、自然な状態で子孫を残すことが出来るような環境も同時に守らないことにはその動物を守ることにはならないのです。そしてこれは人間でも同じなんです。人間を牢屋に閉じ込めても、肉体を維持するための「パン」(食べ物)を与えていれば肉体は生き続けることが出来るかもしれません。ても「人間」は死んでしまうのです。フランクルという人が書いた「夜と霧」という本があります。第二次世界大戦下でのアウシュビッツの収容所での自身の体験を書いた本です。アウシュビッツの収容所ではいつ殺されるかも分かりません。衣食住の全てにおいて最低最悪の状態だったので心や体を病んで死んでいく人もいっぱいいました。でも、そんな状態の中でも生き延びることが出来た人がいました。そういう人たちに共通していたのは「待ってくれる人」や「待ってくれる仕事」を持っている人や、「希望」を失わない人」だったそうです。人は「パン」だけで生きているのではないのです。「パン」は車のガソリンのようなものです。いくらガソリンが満タンでも、行きたいところがなければ車を持っている意味がないですよね。それと同じです。<続きます>
2023.05.19
コメント(0)
人間が人間らしい心とからだの状態を維持して、人間らしく生き生きと生きるためには「無駄な活動」が必要です。また子ども達の人間らしい心とからだの状態を維持して、人間らしく生き生きと生きるため能力を育てるためにも「無駄な活動」が必要になります。なぜなら、人間が、人間らしい心とからだの状態を維持して、人間らしく生き生きと生きるためには「精神の自由」が必要になるからです。「行動の自由」ではなく「精神の自由」です。でも現代人はその「精神の自由」という考え方や感覚が分からなくなってしまっています。現代人が求めているのは「行動の自由」です。そして、「行動の自由」は「与えてもらうもの」です。それに対して「精神の自由」は、自らの意志で感じ、考え、行動し、自己成長を通して自分自身で手に入れるものです。「精神の自由」を得るためには「成長」が必要になるのです。そして、その時に必要になるのが「無駄な活動」なんです。「無駄な活動」の中に「自分なりの意味」を見つけ、その「無駄なもの」を「自分にとって意味のあるもの」に変える行為を通して、人の精神は自由になっていくのです。「自分にとっての価値や意味」を自分の感覚や、思考や、行動を通して創造するのです。その「無駄な活動」の中で一番大きなものは「生きる」と言うことです。あなたが生まれてきた意味や価値は、「精神の自由」を得ることで、あなた自身が創り出すしかないのです。一方、「社会的な価値や意味」は「与えられるもの」であって、自分で「創造するもの」ではありません。その「社会的な価値や意味」には「正解」があります。そして、「正解」に合わせて感じ、考え、行動してもそこに「精神の自由」はありません。それはAIの思考と同じものです。「精神の自由」を持っていないAIは、「問いに答える能力」は持っていますが、「問いを発見する能力」は持っていません。そして子どもの教育で一番大切なことは「問いに答える能力」を育てることではなく、「問いを立てる能力」を育てることです。そしてそれは、子どもの「精神の自由」を育てることで可能になります。その能力を育てることが出来なかったら、人類は滅亡への道を進むことになるでしょう。なぜなら、「精神の自由」を失った人は、社会が間違った方向に進んでいてもその流れに合わせることしか考えないからです。そして、その「精神の自由」を育てるために必要なのは「社会的な正解や価値がある活動」ではなく、「自分で意味や価値を創造する活動」なんです。その「自分で意味や価値を創造する活動」をするためには、社会的には「無駄」と言われているような活動が必要になるのです。それは、コロナが流行り始めた頃に、政治家や医者によって「不要不急」と言われたような活動です。ちなみに、大人から何も言われず好き勝手に行動している子どもは、少なくとも肉体的には自由です。「行動の自由」は得ています。でもそれは、「野生動物の自由」であって「人間の自由」ではありません。「精神の自由」も得ることが出来ません。そこを分からずに、子どもに「野生動物の自由」だけを与えていると、子どもは自分勝手に行動する「野生動物」のような状態に育ちます。かといって、禁止や、指示や命令を押しつけられて育っている子は「野生動物の自由」も「人間の自由」も得ることが出来ないので、「生きている意味」を失います。そして今、子どもでも大人でも「生きている意味」を失ってしまった人が増えてきています。そういう状態の人の中には「自由」を求めて「死」を選ぶ人もいます。<続きます>
2023.05.18
コメント(0)
当然のことながら、人は自分が知っているものしか求めません。自動車を知らない人は自動車を求めません。それは当たり前ですよね。さらに、「知っているもの」の全てを求めるわけでもありません。その中から「必要を感じるもの」や「あこがれや魅力を感じるもの」しか求めません。歩く必要がない生活をしている人は、歩く能力を高めたいとは思いません。英語を必要としていない人や、英語にあこがれを感じていない人は、英語を学びたいとは思いません。ですから、お母さんや先生が子どもに勉強をさせようと思っても、学ぶことの必要性も、学ぶことの楽しさも知らない子が自分から積極的に学ぼうとするはずがないのです。求めていないものを無理矢理押しつけたら、逃げるか、嫌いになるか、捨てるかです。ピーマンが嫌いな子に無理矢理食べさせたら好きになると思いますか。逆効果ですよね。ゲームで遊ぶことしか知らない子どもに積み木を与えたら、喜んで遊ぶと思いますか。無理ですよね。ブランコで遊んでいる子を見たことがない子にブランコを与えたら、すぐに乗って遊び始めると思いますか。多分、そんなことしないでしょうね。私が言っていること変ですか。間違っていますか。そんなことないですよね。誰が考えても当然のことですよね。でも、もしかしたら私が間違っているのかも知れないと思うことがあります。なぜならみんな、その私が考えたら「ありえないこと」をやっているからです。ゲームで遊びたい子や部屋の中で遊びたい子を無理矢理自然の中に連れ出したり。勉強になど興味がない子に、勉強を強制したり。一人で遊びたい子を無理矢理子どもの群れの中に連れ出したり。「約束」って何かを知らない子に「約束」を守らせようとしたり。素敵な人間と出会ったことがない子に素敵な人間に育つように求めたり。自由を体験したことがない子に「自由に生きる能力」を求めたり。運動する必要がない生活をしている子どもに運動や体力を求めたり。実際、そういうことをやっている人が多いですよね。学校から帰ってきたら大抵家の中にいて、家族以外の人や、他の大人の人と積極的、肯定的に関わることがなく、情報はテレビやゲームやスマホからだけ得て、いつも同じ生活と同じ遊びをして暮らしている子どもが、外の世界に興味を持たなくても、外の世界に何も求めなくても当然ですよね。そのような生活をしている子どもに「人間としての成長」を求めても無理ですよね。まれに、釣りゲームやスポーツゲームをやって、「実際に自分もやってみたい」と思う子はいますが、子どもの周囲にその子どもの思いつきに付き合ってくれる仲間や大人がいなければ、子どもはすぐに諦めます。またやったとしても、それをフォローしてくれる人がいなければ、「ゲームの世界」と「リアルな世界」のあまりに大きな違いに戸惑い、簡単に挫折してしまう可能性も高いです。ゲームで遊んで「ゲームクリエイターになりたい」と思う子は多いですが、実際にゲームクリエイターになることが出来るのは、ゲーム以外の体験をいっぱいして、ゲーム以外の場で「作る」という体験をしたことがある子だけだと思います。なぜなら、実際に「作る」という体験をしたことがない子は、何かを創るときに必要になる手順や「必要なもの」が分からないし、色々な体験をしたことがない子は「人まね」は出来ても、「自分独自の作品」を作ることは出来ないのではないかと思うからです。工作とゲームとでは、同じ「作る」でも使う道具も方法も違いますが、でも、「作る」と言うことにおける手順は同じなんです。自然や、社会や、他者との直接的なつながりが薄い生活をしている現代の子ども達が求めるものは快適さだけです。快適な生活環境。快適な遊び環境。快適な食生活。そして、自分が積極的に何かをしなくても楽しませてくれる快適な遊びです。それしか必要がない生活をしているのですからそれは当然のことです。そういう状態の子どもは、外の世界で自立して生きて行くのに必要な能力を必要としていません。ですからそういう能力を求めません。外の世界に出て行こうともしません。ですから、子どもの要求に応え、待っているだけでは何も変わらないのです。昔は子どもの周りに様々な刺激がありました。家の中にばかりいることも出来ませんでした。普通に生活しているだけで、他の子や他の大人と関わらざる終えませんでした。一人で遊ぶことも出来ませんでした。子どもの世界が、家の外の世界や、大人の世界とダイレクトに繋がっていたからです。ですから普通に生活しているだけで子どもは様々な人と出会い、様々な体験をすることが出来ました。また、かっこいい年上の子や大人とも出会う事が出来ました。ですから、様々な事に興味を持ったり、あこがれを持ったり、目標を持つことも出来ました。そういう環境の中で育っていたから、昔は、子どもを肯定し、信じて待っているだけでもそれなりに育っていくことが出来たのです。でも今では、ただ子どもの要求に従い待っているだけでは何も変わらないのです。現代の子育てに必要なのは、働きかけ、そして信じて待つと言うことなんです。信じて待つだけでなく、「働きかけ」が必要なんです。その「働きかけ」とは、見せる、聞かせる、体験させるというようなことです。ただし、「働きかけ」の結果を求めてはいけません。うまく出来ても出来なくてもいいのです。結果を求めてしまったら、プレッシャーを感じて嫌いになってしまう可能性が高いからです。ただ楽しく体験できればいいのです。でも実際には、働きかけをするとすぐに結果を求めようとする大人が多いのです。絵本を読んであげたら、どういう話だったか説明させようとしたり、「楽しかった?」と問いかけたりする人が多いのです。それで結果が出てないと「無駄なことだ」と止めてしまうのです。習い事のようにお金がかかっていると、なおさら結果を求めます。結果を求めてしまうと、子どもはその働きかけを拒否するようになってしまいます。評価されるのがイヤダからです。働きかけをしても結果を求めないのです。そして、比較せず、強制せず、追い立てもせず、子どもの中で何かが変化するのを信じて待つのです。
2023.05.17
コメント(0)
簡単、便利、効率性を求める現代人は「無駄」を嫌います。「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除しないと効率的に結果を得ることが出来ないからです。簡単で便利な機械を使うのも、そういうものを使えば「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除し、簡単に、すぐに、効率的に、そして楽に結果を得ることが出来るからです。現代の社会システムはそのような考え方を基にして作られています。また、そのような考え方を基にして現代人は生活しています。「マイナカード」のようなシステムはそのような考え方の表れです。その結果、町の中から「無駄な空き地」が消えました。でもそれと共に子ども達は遊び場を失い、人々が集ったり、「自然」と出会う場所が消えました。人々の生活の中から「無駄な時間」や「無駄な活動」が消えました。でも、それと共に人々から「心のゆとり」と「自分の人生を自分らしく楽しむ余裕」が消えました。そして、「常に追われる生活」をせざるおえなくなりました。買い物もネットで注文すれば、「わざわざお店まで買いに行く」という無駄な時間や活動を必要としません。調べ物もネットで調べれば、わざわざ本を読んだり、図書館などに行ったり、自分の頭で考えなくても簡単に調べることができます。そのうち「子育て」も自動化出来るかも知れません。じゃあ、「私たちは幸せになったのか」、「本当に楽になったのか」、「賢くなったのか」というと、どうもそうは思えません。デジタルの進化について行くことが出来ない人は生きにくくなりました。お店で注文することすら困難な人が増えています。ついて行くことが出来きている人も、結果だけを求めて「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除することで、「自分の時間」や「自分のための活動」を失いました。「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除することで、「自分の時間」が増えるはずだったのに、実際には余計に忙しくなっただけだったのです。また、簡単で便利な機械は、人々から自分の頭で考え、自分の心や感覚で感じ、自分のからだを使って活動する必要を消しました。チャットAIの登場は「自分の意志で判断する必要」すらも消してしまうでしょう。必要がなくなれば、当然、そのような能力は育たなくなります。子ども達も、「自分の頭で考え、自分の心や感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」を育てることが出来なくなります。その結果、人々は、簡単で便利な機械の指示に従い、そういうものが与えてくれる刺激や豊かさを求めて生きるようになって来ました。その状態は、ご褒美を求めてご主人様に従い色々な芸をする犬と似ています。ゲームの言うことに従わないとゲームは楽しくなりません。だから、ゲームでばかり遊んでいる子はゲームの指示には従います。でも、そのような子は「ゲームが与えてくれる自由」の中では自由ですが、ゲームの外では不自由になります。「ゲームの外の世界で自由に生きるための能力」を育てることが出来なくなってしまうからです。その結果、「自分の人生を自分らしく生きる自由」を失ってしまいます。そして、人間は「便利な機械やインフラの主人」という立場を失い、逆に、そういうシステムの中に組み込まれ、そういうものを運用するための奴隷になりました。機械と人間の立場が入れ替わってしまったのです。人間は人間に取って一番大切なことを忘れていたのです。それは、科学や機械が作り出す効率や合理性という視点から見たら、「人間という生き物」、「人生という時間」「自分らしさという価値観」そのものが「無駄なもの」になってしまうということです。もし、神様が人間にその命と共に与えた課題があったとしたら、それは、「自分に与えられた無駄な時間をどう楽しみ、その無駄との関わり合いを通して何を学び成長するのか」ということなんだろうと思います。私は、「生まれてきてよかった」という学びをするために、人は生まれて来るのではないかと思っています。でもそのためには「無駄を楽しむ心」が必要になるのです。無駄なものなんてこの世界に一つもないのです。そこから学ぼうとしないから「無駄なもの」になってしまうだけなんです。「無駄なもの」が存在しているのではなく、人間の意識が「無駄なもの」を創り出しているのです。
2023.05.16
コメント(2)
「時間がない 時間がない」と忙しく生活している人は、基本的に待つことが出来ない人です。実際には時間がないわけではないのですが、待てないので空いている時間があると常に何かを詰め込んでしまうのです。その結果、常に時間に追いまくられることになります。つまり、実際には「時間がない」のではなく、自分で「自分の時間」を浪費してしまっているのです。まず、その事に気付いてください。そのことに気付かない限り、その時間を取り返すことはできません。次に、そのような人は目の前のことには心を向けていません。子どもと関わっている時も、家事をやっている時も、常に何か別のことを考えています。つまり、「心」がしっかりと「今」を生きていないのです。感覚が「今」を感じていないのです。だから、「時間」を感じることが出来ないのです。人間は、感覚が意識とつながっている時に始めて「時間」を感じることが出来るのです。「時間」を創っているのは「感覚」の働きだからです。だから、寝てしまうとアッという間に時間が過ぎ去ってしまうのです。今やっていることをしっかりと感じようとしない人は、眠っているのと同じなのです。眠ったまま時間を過ごし、眠ったまま年を取り、眠ったまま人生を終わりたくないのなら、しっかりと目覚めて、今やっていることに感覚を向けることです。そうすると、「時間」を感じることが出来るようになるのです。すると、「時間」を大切にすることも出来るようになるのです。私たちは「時間」というものが存在していると思い込んでいますが、実際には「時間」は客観的に存在しているものではありません。確かに、人間が「時間」として感じるものはありますが、それは「人間」という種に固有な主観に過ぎません。生き物の種類によって色や、光や、空間の感じ方が違いますが、それと同じように「人間が感じている時間」は、人間だけが感じている時間なんです。それは「言葉と記憶が創っている時間」でもあります。(その辺のことを扱った「メッセージ」というSF映画もありました。主人公の言語学者が宇宙人の言葉を学ぶうちに時間感覚が変容していったのです。)ですから、石には石の時間があり、猫には猫の時間があり、地球には地球の時間があります。「時間」というのは一つの「観念」に過ぎないのです。そして、「人類共通の時間」は「時計」の発明によって生まれました。その証拠に「時間」を見せることは出来ません。そこにあるのは常に「変化」だけです。「時計」を使わずに「時間」を計ることも出来ません。「時間」は「神様」と同じ性質の存在なのです。昔の人たちは、私たちが「時間」という存在を信じていたのと同じレベルで「神様」を信じていたのです。「宇宙に存在する全てのものに共通な客観的な時間」等というものは存在していないというのは、物理学では常識に属します。でも、少なくとも人間同士の間では「共通な時間」が必要になります。そうしないと「社会」を維持することが出来なくなります。一人一人がバラバラの時間感覚で動いていたら待ち合わせが出来ません。でも、先日も書いたとおり、実際には一人一人の生命は、一人一人異なった時間で働いています。血液が体内を一周する時間も、細胞が入れ替わる時間も、ものを考える時間も、刺激に反応に要する時間も一人一人違います。また、その人間の時間感覚は状況によっても変化します。人間の時間は「時計の時間」とは異なって、いつでも同じ早さで流れているわけではないのです。忙しい仕事に振り回されている人は、雲を見ても雲の時間が分かりません。だから、雲の変化を感じることも、雲からのメッセージを聞くことが出来ません。でも、同じ場所に座って、何も考えずにただひたすらに雲を見ているとやがて「自分の時間」が「雲の時間」に近づいていきます。すると、雲の変化を感じたり、雲からのメッセージを聞くことが出来るようになります。でも、その時間感覚のままで元の忙しい状況に戻ると、今度はその忙しい状況に自分の時間を合わせるのが困難になります。昔、インドに行っていた頃によく聞いたのが、「長いことインドにいると日本に帰ってから社会に復帰できなくなる」というようなことです。からだが「インド時間」になってしまうので「日本時間」に合わせるのが困難になってしまうのです。ちなみに「自然と調和したゆっくり流れる時間」は、そのまま「生命の時間」に近いので、慣れてしまうとその心地よさが忘れられなくなってしまうのです。そして、機械文明を支えている「客観的で早い時間」に違和感を感じるようになります。ワークでよくやることですが、目を閉じて、心の中で自分に心地の良いリズムで20から30数えてもらいます。すると、ものすごく個人差が大きいのです。すぐに数え終わって目を開けてしまう人もいれば、眠ってしまったんじゃないかと心配するほど長い時間かけて数える人もいます。これが「自分にとっての時間感覚」なのです。焦っている時にはこの時間は早く流れます。ゆったりしている時にはゆっくり流れます。「忙しい」という漢字の通り「心」を失っている時には、時間は早く流れるのです。だからあわただしくなってしまうのです。時間に追い立てられないようにするためには、まずこの時間の流れをゆっくりにしてあげる必要があります。簡単で具体的な方法としては、目を閉じてゆっくりと呼吸をしながら自分の息を数えるのです。一から十までを繰り返すだけでいいです。そして、少しずつ長い息でゆっくりと数えるようにします。吸って、吐ききるまでが「1呼吸」です。そして、吸う時より吐く時に長い時間を掛けるようにします。この訓練を繰り返して、無理なくゆっくりと数を数えることが楽に出来るようになったら、時間の流れも以前よりゆっくりになっているはずです。その時、以前には見えなかったものが見え、感じることが出来なかったことを感じることが出来るようになっているはずです。ちなみにこれは「数息観」と呼ばれるもので、昔からある修行法です。具体的には色々な方法があるようですが、普通の主婦の生活の中で出来る時に、出来る形で行えばいいと思います。お掃除をしている時、洗い物をしている時、子どもとお散歩している時などにやってみて下さい。目を閉じなくてもOKです。そんな時、携帯のことは忘れて下さい。実は、携帯電話には「心理的時間」を早くする働きがあるのです。そのため、携帯ばかりやっていると、時間の流れがどんどん速くなり、ますます忙しくなってしまいます。ですから、「自分の時間」を増やしたいと思うのなら、まず「携帯依存」から抜け出すことです。「携帯」をやっている時の時間は、子どもが「ゲーム」をやっている時の時間と同じです。ゲームに依存している子も、携帯に依存している大人も、いずれもその中にしか「自分の時間」がないと思っていますが、その「時間」は「現実の時間」ではなく、「架空の時間」に過ぎません。それは「現実の時間」を浪費することに他なりません。ちなみに、ゲームばかりやっている子が、「待つこと」が苦手なのも同じです。そのような子は「呼吸」も浅いはずです。
2023.05.15
コメント(0)
簡単で便利な機械は、簡単に結果を与えてくれます。失敗を繰り返してご飯の炊き方を学び、苦労してご飯を炊かなくても、便利な機械を使えば子どもでも簡単に「美味しいご飯」を炊くことができます。そこで必要になるのは「よい機械」と、その機械を扱うための「マニュアル」だけです。そして、その「よい機械」を得るために必要になるのは「お金」と「情報」だけです。その「お金」と「情報」を得るために必要になるのは「競争に勝つための能力」です。そして、競争に勝つためには効率的に勉強して、効率的に仕事をして、いっぱい結果を積み上げる必要があります。その際、実際に時間をかけて自分自身でやろうとするのは時間の無駄です。機械で出来ることは機械にやらせ、お金で買うことが出来るものはお金で買い、自分が体験しなくても、すでに体験した人の言葉を知識として学んでしまえば遙かに効率的です。情報化社会で必要になるのは「実際に出来るかどうか」ではなく、「そのことに関する情報をどれだけ知っているか」ということの方だからです。そして多くの現代人がそのような価値観に染まってしまっています。学校教育でも「体験」よりも「知識」の方を重視しています。お母さん達も体験を与えることなく、知識だけを覚えさせようとしています。道徳教育でも、「優しい子ども」を育てるのではなく、「他の人には優しくしなさい」という知識を与えています。競争に勝つことだけを大切にしている人にとっては、「人間としての成長」などというものには何の意味も価値もないのです。「私は子どもの幸せや人間としての成長を願っています」と言うお母さんは多いですが、でも、実際にそのようなものがどのようにして育つのかを知っているお母さんは少ないのです。そのため、多くのお母さんが「優しさ」を知識として教えるようなことしかしていません。「なんで優しく出来ないの」と怒鳴っているようなお母さんはそのような状態です。多くのお母さんが、子どもの幸せや成長を願いながら、実際には、子どもを追い立て、勉強を押しつけ、子どもから体験を奪い、子どもの成長や幸せを潰すようなことばかりをしています。私はそういうお母さんを見ていると悲しくなります。毎日の生活の場で「人間として成長するために必要なもの」を与えていなければその希望は叶わないのです。子どもが「人間として」成長するためには、自分自身の心と、頭と、からだと感覚を使った多種多様な体験が必要になるのです。「体験」を与えずに、優しさや、自己肯定感や、工夫力や、精神的自立といった結果だけを求めても無理なんです。「子どもの成長」を支えているのは「結果」ではなく、「体験」に伴う「過程」なんです。なぜなら、どんな場合でも、「学び」は過程の中でしか発生しないからです。炊飯器で美味しいご飯が炊けてもそこで学べるのは「炊飯器の使い方」だけです。でも、自分で薪を割って、自分でお米と水を入れ、自分で火をおこして、自分で炊いた子は、その過程で感覚の使い方、からだの使い方、イメージ力の使い方、火について、お米について学ぶことが出来ます。だから、結果を急ぐのではなく過程を充実させることが子どもの成長につながるのです。そして、「想い出」も過程の中にしか存在しません。薪でご飯を炊く体験した子は、そのことをズーッと覚えているでしょう。他にも色々な体験をすれば、その体験は感覚の記憶、からだの記憶、頭の記憶の中に残っていきます。そういう記憶が子どもの成長を支えてくれるのです。そして、その「記憶の時間」が、子どもが「自分で生きた時間」になるのです。同じ20年間生きても、「生き生きと思い出すことが出来る記憶(自分で生きた時間)」を育てることが出来なかった子にとっては、その20年間は空っぽなんです。どんなに素晴らしい結果を出せていても、過程を失った子は「結果」と引き替えに「自分の時間」や「自分の人生」を失ってしまっているのです。でも、「生き生きと思い出すことが出来る記憶」に満たされた子にとっては「20年以上の価値がある20年」になるのです。「想い出の量」が「その人が生きてきた時間の量」になるのです。どんなに多くの結果を出しても、その「想い出につながる過程」が存在していない人の人生は空っぽなんです。だからそういう人ほど、年を取ってから「俺は昔○○会社の部長だったんだぞ」などと虚勢を張るのです。私の父はそういう人が嫌いだったので、老人の集まりには参加しませんでした。
2023.05.14
コメント(0)
自然界にあるものは全て「固有のリズム」と「固有の時間」を持っています。多くの人がこの宇宙にあるもの全てが同じ時間の流れを共有していると思い込んでいますが、それは事実ではないのです。犬が生きているリズムや時間と、ネコが生きているリズムや時間は異なります。動物が生きているリズムや時間と、植物が生きているリズムや時間も異なります。生物が持っているリズムや時間と、岩などの無機物が持っているリズムや時間も異なります。私が生きているリズムや時間と、あなたが生きているリズムや時間も異なります。地球上の生き物と、地球自身が持っているリズムや時間も異なります。地球のリズムや時間と、月や太陽のリズムや時間も異なります。そして、大人が生きているリズムや時間と、子どもが生きているリズムや時間も異なります。でも人は機械で計ることが出来る時間や、自分の時間感覚を基準にして相手の時間を計ろうとします。だから植物や大地が生きている時間や、世界や、命が見えないのです。ネズミの寿命は平均で2年ぐらいだそうです。ペットなどで飼われているミドリガメの寿命は40年ぐらい。およそ、ネズミの20倍です。人間の寿命は今では80才ぐらいですが、動物しての人間の本来の寿命は55才ぐらいだそうです。象は、人間のように薬や医学に支えられなくても70年ぐらいの寿命はあるようです。なんと、ネズミの35倍です。では、ネズミ自身はたった二年で終わる自分の人生(?)を「あっという間」と感じているのかというとそんなことはないと思います。この2年は、ネズミ自身にとっては一生を生きるのに十分な時間だからです。そういう命のサイクルになっているのです。人間や象に比べて短くても、誕生から老化、そして死までの一連の流れはちゃんと完結しているのですから。ネズミが感じる「自分の一生」と「象が感じる自分の一生」に、違いはないのです。第三者の目にはネズミは「たった二年」で死んでしまうように見えますが、本人達の感覚では同じ一生、同じ時間なんです。「ゾウの時間ネズミの時間」(本川達雄著)という本がありますが、そこには一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー使用量は、サイズによらず同じなのである。と書いてあります。つまり、機械を基準にした客観的な時間ではみんな異なった寿命を生きているのですが、本人の生命時間を基準にしたらみんな同じ時間を生きているのです。昔の人は「人生50年」と言いましたが、現代人はその倍の「人生100年」と言ってます。でも、だからといって人生の充実度や中身の量が倍になったわけではありません。「人生50年」時代を生きていた人も、「人生100年」時代を生きている現代人も、「自分感覚としての一生の長さ」は同じです。科学が進歩すれば寿命はもっと伸びるかも知れません。そのうち「人生200年」という時代も来るかも知れません。でも、その200年は50年が引き延ばされただけのことです。今よりも人生を二倍謳歌できるようになるわけではないのです。だから、どんなに寿命が長くなっても「もっと長生きしたい」という願望は絶対に消えないのです。だから大切なのは「寿命を延ばすこと」ではなく、自分に与えられた時間、与えられた命を無駄にしないように大切に生きることなんです。今生きている時間を充実させれば、客観的な寿命は伸びなくても、長く生きたのと同じ感覚や充実感を得ることが出来るのです。でも逆に、ボーッと無為に生きていたら、100年生きても、200年生きても、あっという間に自分の人生が終わってしまうのです。実際、一分一秒を一生懸命に生きている子ども達の、「一日の体感時間」は長いですよね。ご自身の子どもの頃を思い出してみて下さい。でも、毎日同じ事を繰り返すだけの大人の一日の体感時間はあっという間ですよね。年を取れば取るほど一日の時間、一年の時間が短くなるのはそのためです。大人の「一年」という時間を圧縮したら、子どもの一週間や一ヶ月程度の量になってしまうのではないでしょうか。簡単で便利な機械は時間を短縮してくれます。でもそれと同時に自分の生活を単調化させることで、一日の実感時間も短くなってしまうのです。子どもの一日が長くて充実しているのは、機械に頼らないで遊んでいるからなんです。現代人は簡単で便利な機械を使うことが時間の節約につながっていると思い込んでいますが、それは自分の「人生時間」の浪費なんです。簡単で便利な機械は「モモ」(M.エンデ著)が言うところの「時間泥棒」の手先なんです。時間を節約できると思ってやっていることが、実際には、「自分にとって大切な時間」を失うことにつながってしまっているのです。実際、現代人は何でも手仕事でやっていた昔の人よりも心とからだのゆとりを失ってしまっています。肉体的には楽になっても精神的には忙しくなってしまっています。簡単で便利な機械を使うことは、社会や文明の効率や生産性をあげてくれます。でも、その一方で私たちの「(感覚的な)命の時間」は短くなってしまうのです。だから、何の充実感も得ることが出来ないまま一日があっという間に終わってしまうのです。その「あっという間に終わってしまった一日」は記憶に残らないでしょう。100年、200年と、いくら長く生きても「記憶に残らない一日」を積み重ねるだけの生き方をしている人の人生はあっという間に終わってしまうのです。子育ての場でも、便利な機械や道具を使ってパッパッと家事や炊事を済ませて子どもと遊ぼうとしても楽しく遊べません。また、簡単で便利な機械を使ってパッパッと仕事を終わらせることに慣れてしまっている大人は、始めも終わりもなく、ダラダラ続く子どもの遊びに付き合うことに苦痛を感じてしまいます。でも、料理や炊事や洗濯も、子どもと一緒に、昔の人のように手間と暇と時間をかけて楽しみながら行えば、時間が充実して体感時間が長くなるのです。「想い出の量」が増えると、実感として感じる時間も長くなるのです。私がそういうことを強く感じるのは旅に出たときです。特に外国に行ったときはたった一週間が一ヶ月ほどにも感じることがあります。日本に帰ってから日本の時間に戻るのに結構時間がかかります。バックパッカーで一年ぐらい外国を回って帰ってきた後、日本の時間に慣れるまでに数年かかりました。年を取ったから一日の時間が短くなるように感じるのではないのです。感覚や思考や生活のあり方を効率化させ、簡単便利に生きることに慣れてしまうから一日の時間が短くなってしまうのです。
2023.05.13
コメント(0)
幼い子どもは100%お母さんを信じています。でも、子ども自身はそんなこと意識していません。幼い子どもは、“君はお母さんを信じているの?”と聞かれても答えられません。だって、それしか知らないのですから。それは、“死”というものを知らない人に、“死ぬのは怖くないですか”と聞くのと同じ事です。人が何かを“信じている”という時は、その反対の“信じていない”という可能性についても知っている時なのです。お母さん達が素直に子どもを信じることが難しいのはそれまでの人生で“信じることが出来ない”状況をいっぱい体験したからなのです。だから“証拠”が欲しいのです。信じて裏切られてしまうことが恐ろしいからです。でも、裏切られる可能性を意識した状態では信じることは出来ないのです。信じると言うことは“任せる”ということです。実際、幼い子どもは生命もからだも丸ごとお母さんに任せています。神様を信じると言うことは“神様に任せる”ということです。それは観念的な理屈でも、信念や思想でもありません。生き方なんです。だからこそ裏切られた体験をした人にとっては信じることが難しいのです。任せていて裏切られたら自分の存在そのものが危険にさらされてしまいます。子どもであれば生命にかかわります。抱っこされていてそのまま投げられてしまうことすらあるのですから。よく人と神様の話をしていると、“私も神様っていると思っているよ”、“クリスチャンじゃないけど神様は信じているよ”という人が多いのですが、ほとんどの人が、自分と神様を分けて考えています。“私がいて神様もいる”という考え方です。でもそれは多くの場合、“私は人間を越えた何か不思議な力の存在を知っているよ”ということであって、“神様を信じている”ということではありません。「神様を信じている」ということは「神様と共に生きている」という事だからです。「そう思う」というレベルの話しではないのです。そして、古来からの日本人にとっての“神様”とはそのようなものっだったのではないかと思います。それが神道での“神様”です。日本人は特に教育を受けなくても感性的に神道の信者なんです。それがイエス・キリストも仏陀も八百万の神々の一人にしてしまう“日本教”の働きです。日本人には“唯一神”という考え方が理解できないのです。だから「私は神様なんか信じていない」などといいながら、ちゃんと神社に行ったら参拝するのです。それに対して、悪や地獄という思想を含んだ仏教やキリスト教では、「そのような世界に落ちることを防ぐための信仰」ということがもっとはっきりと意識されています。「地獄に落ちないために」信じている人もいっぱいいます。でも、神道にはそういう「信じなかったら」という思想がありません。だから、無自覚的に信じることが出来るのです。幼い子どもがお母さんを100%信じているのも、お母さんが自分を裏切ることなんか予想できないからです。お母さんが自分を嫌うことなんか想像できないからです。だから、お母さんに打たれても、罵られても「僕が悪い子だから」などと考えることでその状況を理解しようとするのです。でも、思春期が来てお母さんへの依存度が低くなるに従ってお母さんを客観的に見ることが出来るようになります。「無条件にお母さんのやっていることを信じる」ということも減って行きます。でも、強い虐待を受けていた子はお母さんを疑うことが出来ません。お母さんにやられたことを否定することは、そのまま「そのような行為によって育てられた自分自身」を否定することにつながってしまうからです。それに、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じる」という能力も育っていません。だから、「お母さんにやられたこと」をそのまま自分も繰り返してしまうのです。子育てにおいては子どもを信じることは絶対的に大切なことです。でも、「信じる」というのは結果であって努力して出来ることではありません。自覚も出来ません。「私は信じています」という言葉は「信じていない」という意識を否定しているから言える言葉です。でも、子どもを信じるためにはわざわざ「子どもを信じる」などと意識する必要はないのです。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に楽しみ、一緒に遊ぶことが出来ているのなら子どもを信じているのです。そして、子どもも無意識のレベルで「信じられていること」を感じています。お母さんは子どもの代わりに体験することは出来ません。子どもの代わりに学ぶことは出来ません。子どもの代わりに喜んだり、苦しんだりすることはできません。子どもの代わりに子どもの人生を生きることも出来ません。だから、そういうことは子どもに任せてしまうのです。そして、子どもの選択した結果は素直に受け入れます。そして、子どもが喜んでいる時には一緒に喜び、子どもが苦しんでいる時には一緒に苦しむのです。それだけでいいのです。“お母さんが言った通りにしないからケガをしたじゃない”などとは言わないのです。お母さんが注意することは大切です。でも、今ケガをして泣いているのなら子どもがその痛みや悲しみに耐えることが出来るように共感して支えてあげて下さい。その痛みや苦しみに耐えることは子どもにしかできないことだからです。だからお母さんに出来ることはその子どもを支えてあげることだけです。そのようにお母さんに支えてもらうことで、子どもはその痛みや苦しみを乗り越えることが出来るのです。子どもの心とからだの中で働いている「命の力」や「成長を求める働き」を信じ、子どもに任せることが“子どもを信じる”ということなのです。そして、信じられているから自立できるようになるのです。
2023.05.12
コメント(0)
みなさんは人間にとって一番苦しいのは何だと思いますか。人を苦しめるものとしては、お金がないこと、食べるものがないこと、愛するものと別れたり、愛するものを失うこと、理解されないこと、受け入れられないこと、否定されること、病気、イジメ、虐待、失敗、思い通りに生きることが出来ないこと、自己肯定感を持つことが出来ないこと、死ぬことなどなどいっぱいありますよね。ここに書いたことは具体的な表現ですが、実はこれらを抽象化すると、「食べるものがないこと」のように身体的な苦しみは別にして、ほとんどの場合苦しみの原因はたった一つのことに帰結していくのです。それは「孤独」です。人間にとって一番根源的な苦しみは「孤独」によってもたらされるのです。お金がないから苦しいのではなく、お金がないことが人を孤独な状態に追いつめてしまうから苦しくなってしまうのです。そして、現代社会はそのような仕組みになっています。だから、現代人は、孤独から逃れるために必死になってお金を稼ごうとするのです。実際、みんながつながり合い、支え合って生きている社会ではお金がなくてもそれだけで苦しくなることはないのですから。時には、つながりに支えられている時、人は死ぬことすら苦しみではなくなるのです。でも、衣食住には不自由がなく、便利で豊かな生活をしていても、つながりに支えられず孤独ならば、とくに苦しみの原因は存在していなくても、生きていること自体が苦痛になるのです。それは、「つながり」から切り離されることで、魂が孤独になってしまうからです。ただし、その「つながる相手」は人間でなくてもOKです。動物や草や木でも、心の底からつながることが出来る相手が傍にいるのなら、一人ぼっちでも孤独は感じません。でも逆に、お母さんやお父さんが傍にいても、虐待などされていなくても、お母さんやお父さんが優しくても、そのお母さんやお父さんとの間に「心のつながり」を感じることが出来なければ、子どもは孤独を感じ、生きることに苦しみを感じるようになってしまうでしょう。見守りカメラを設置して、常時子どもの状態を監視していればお母さんは安心を得ることが出来るかも知れませんが、子どもの方は孤独を感じ、生きることが苦しくなってしまうのです。そして、その苦しみは虐待を受けて育った人の苦しみと同じです。打たれなくてもこれは立派な虐待なんです。だから、「身体的虐待」にこだわってしまうと、本当の苦しみの原因が見えなくなってしまうのです。最初に書いたような「苦しみの原因」はみな「苦しみのきっかけ」に過ぎません。つながりを失ってしまっている人たちは、その「苦しみのきっかけ」が直接「苦しみ」に転換されます。でも、「つながり」に支えられている人は、その「苦しみのきっかけ」からも多くを学び成長することが出来るのです。時には「自分に与えられた苦しみ」に感謝する人すらいます。だからこそ人は、同じような状況にあっても「苦しむ人」と「苦しまない人」がいるのです。また、つながりを得ることで苦しみから救われていく人もいるのです。(そこにつけ込む宗教も多いです)いじめられたから苦しいのでも、虐待されたから苦しいのでもなく、共感し、つながり、支えてくれる人が傍にいないから孤独を感じて苦しくなるのです。苦しみを癒やすためには「つながり」が必要になるのです。でも実際には、人が競争に勝ち抜いて一人で生きていかなければならなくなってしまった現代社会では、みんな自分を守ることに精いっぱいです。昨日書いた「マスク」もその象徴なのでしょう。そのような状況の中では、人は利害関係に敏感になり、人が人を信じるということが困難になります。今では、夫婦や親子といった家族の間ですら「無条件のつながり」を失い、利害関係によってつながり、そして対立しています。その利害関係に捉われず「無条件のつながり」を求めているのは思春期前の子どもたちだけです。思春期前の子どもたちは、まだ神様や仏様を信じることが出来る感性を持っています。ですから、人を信じることも出来ます。ただしそれは、信じるに足る大人や仲間がいるときに限られます。その「信じるに足る大人」とは、「子どものことを信じてくれる大人」のことです。子どもは自分たちのことを信じてくれる大人を信じるのです。そして、そのことで「つながる喜び」を感じ、孤独を乗り越える力を得ることが出来るのです。ちなみに、マスクは孤独の象徴です。孤独だからマスクを外さなくても大丈夫なのです。でもだから「孤独」や「苦しみ」から抜け出すことが出来ないのです。でも、本人はそのことに気づいていません。
2023.05.11
コメント(0)
私は毎日あれこれ書いていますが、実は今一番言いたいのは「マスクを外して下さい」ということです。この問題を解決しないことには、私が何を言っても無駄なような気がしてしまうのです。恥ずかしいから外せない!!?自分の顔を他の人に見せるのがなんでそんなに恥ずかしいのか。そういう人は、「仕付け」に関しても、「人目を気にした仕付け」ばかりしているのでしょう。「生き方」においても、「自分を大切にしない生き方」をしているのでしょう。「自分」を見せたくない人は、自分の心や感覚で感じ、自分の頭で考え判断し、自分の意志で決断し行動することに対しても、「恥ずかしい」と感じるのでしょう。そういう人は、ただ常識を語るだけで、「自分の言葉」で語ることをしません。子どもが「なんで勉強しなければいけないの?」とか、「なんで学校に行かなくてはいけないの?」と聞いても、社会的な常識を語るだけです。そのため、ワークなどで、私が「なんで? なんで?」と突っ込むとすぐに言葉に詰まります。「常識」という名の知識を言っているだけで、「自分の体験とつながった、自分の頭と感覚から生まれた自分の言葉」で語っていないからです。「子育てで一番大切なこと」は「育児書などに書いてあるような正解」を知ることではなく「自分の感覚で感じ、自分の頭で考えること」なんです。たとえそれが「育児書に書いてある正解」とは異なっていても、お母さんやお父さんが自分自身の体験を通して「自分の感覚で感じ、自分の頭で考えたこと」の方が遙かに子どもの成長には肯定的に働くのです。「お化粧」は、「自分をよりよく見せるためのもの」です。でも、実際的な意味のないマスクは「自分を隠すためのもの」です。なんで日本人はみんな、そんなにも「自分」を隠したがるようになってしまったのでしょうか。それでも成長が終わってしまった大人はまだいいです。でも、今まさに心もからだも知性も人間性も育っている真っ最中の子どもにとって「マスク」は最悪の影響を与えているのです。そんなことは子どもの成長のことを少しでもちゃんと考えたことのある人ならすぐに分かるはずなんです。脳やからだの成長のために酸素を一番必要とする時期に、「酸欠になる」とか「いつも汚れた空気を吸っている」などということがどういう意味を持つのか。育ち盛りにおける日常的なマスクは、脳に対しても、心に対しても、からだに対しても悪い影響しか残さないでしょう。そして、この影響は「からだ」の中に記録されてしまうためなかなか消えません。さらに、マスクは人を無気力にさせます。能動的に感じ、考え、行動する意志を萎えさせます。もっとも、「顔を見せたくない」と感じるような人は、マスク以前からそういう状態なのかも知れませんけど。「遊び」にも影響が出ますが、「遊び」に影響が出るということは「仲間作り」や「社会性の育ち」にも影響が出るということでもあります。顔が見えない相手と遊んでも楽しいわけがないからです。人間関係作りにも影響が出ます。学校を卒業しても「先生の顔」はもちろんのこと、「友達の顔」すら思い出せないでしょう。先生も「生徒の顔」を思い出せないでしょう。いまだに、小学生でも「恥ずかしくてマスクを外せない」という子がいっぱいいます。積極的に外させようとする先生もいますが、でも、いまだに子どもにマスクをするように求めている先生もいます。人は「人と人のつながりの中で学び成長する動物」です。マスクは、その「つながり」を阻害することで、子どもから「人が人間に成長するために一番大切なもの」を奪ってしまうのです。(マスクだけではありません。ゲームもまた同じです。)子どもにマスクをさせている人はそのことを承知で子どもにマスクを強いているのでしょうか。だとしてらそれは立派な「児童虐待」です。マスクをしていなくても、コロナにかかるかどうかは不明です。また、かかったとしても大多数の子はそのまま治っていきます。でも、マスクの害は、「思考力の低下」「行動力の低下」「意志の低下」「感覚能力の低下」「社会性の低下」「自己肯定感の低下」という形で日常的にマスクをし続けている全ての子に現れます。しかも、成長期に受けた影響は大人になっても消えません。どうか「ありのままの自分」を見せることをためらわないで下さい。「自分」を隠して生きているだけなら、せっかく産まれてきた意味がないのですから。
2023.05.10
コメント(0)
皆さんは、幼い子どもの子育てにおいて「お母さんにしか出来ないこと」は何なのかということをご存じですか。衣食住の世話をすることはお母さんでなくても出来ます。オッパイですら、ミルクを使えばお母さんでなくても可能です。実際、自分自身のオッパイをあげていないお母さんもいっぱいいます。仕付けや教育もお母さんでなくても出来ます。でも、幼い子どもに「安心を与える」というのはお母さんにしか出来ないのです。実際、子どもがケガをしたとき、お腹が空いたとき、眠いとき、悲しいとき、苦しい時にはお母さん以外の人がなだめようとしても、子どもは泣き止みません。「ママー」と泣き続けます。お父さんですら手に負えません。でも、お母さんに抱かれるだけで、ピタッと泣き止んでしまいます。すぐには泣き止まなくても、しばらくすると落ち着いてきます。この「安心を与える」というのはお母さんにしか出来ないことであると同時に、一番、子どもがお母さんに求めていることでもあるのです。そして、子どもの「心の育ち」に欠かせないものでもあります。子どもが自らの成長本能で周囲を模倣し、様々な体験から「自分の育ちに必要なこと」を学び、成長していくためには、とにかく「安心」が必要だからです。その「安心」が満たされない状態で生活している子は、自分を守ることばかりに必死になってしまい、成長への意欲が目覚めないのです。そのため、「自由に生きるための能力」が育たなくなり思春期が来ても自立が困難になります。それでも、身を守るための技術は学びます。自分の置かれた状況の中でどう生きたらいいのかも学びます。ですから、普通に生活出来るようにはなるし、勉強だって叱られないため、見捨てられないために頑張ります。さらには、安心や自由を与えられている子よりも、仕付け的には「良い子」に育つかも知れません。成績も良いかも知れません。(少なくとも思春期頃までは・・・)でも、自分のために勉強することが出来ません。自分らしく生きることも出来ません。そのため、人間としての成長も困難になります。優秀な労働者にはなることが出来ても、「自分を生きる」ということが出来なくなくなります。そして、自分を生きることが出来ない人は他者と共存することも困難になります。夫婦生活や子育ても困難になります。「義務としての夫婦生活」や、「義務としての子育て」は出来るのですが、夫婦生活や子育てを楽しむ事が出来ないのです。子どもに安心を与えることも出来ません。自分のことだけで精一杯だからです。また、極度に「安心が満たされない状態」で育った人は、心やからだの深いところに「満たされない想い」や、「強い不安」や、「孤独から来る緊張」が固まりとして残ってしまいます。それでも、生活や仕事がうまく行っているときはいいのですが、何らかの「うまく行かないこと」が起きた時に、なかなか自分の力でそれを乗り越えることが出来ないのです。「安心」がない人は「自信」もないからです。そして、その苦しみを和らげるために、何らかの「苦しみを忘れさせてくれるもの」を求め始めます。買い物や食べることに癒やしを求める人もいます。ゲームなどに癒やしを求める人もいます。お酒や麻薬に癒やしを求める人もいます。万引きなどの犯罪行為に癒やしを求める人もいます。イジメやDVという行為の中に癒やしを求める人もいます。子どもに対する犯罪やストーカーのような行為に走ってしまう人もいます。でも、その状態が続けば簡単に依存症になります。何らかの犯罪を繰り返し依存症になってしまっているような人は、その背景に強い不安があるので、いくら罰則を厳しくしても効果がありません。確かに、安心に満たされた育った人でもゲームは好きになるかも知れません、お酒も好きになるかも知れません。子ども同士の遊びとしての万引きもするかも知れません。でも依存症にまでは行く人は多くないと思います。それに対して、安心が満たされない状態で育った人は簡単に依存症になりやすいのです。そして現代社会にはその「依存症予備軍」がいっぱいいます。
2023.05.09
コメント(0)
気質の違いによって「求めている自由の形」が異なっていることは昨日書きました。さらに、「求めている安心の形」も、気質によって異なっているのです。胆汁質と粘液質の人は「安心」を他者に依存しません。そのため比較的精神的に安定しています。ただ、胆汁質はいくら行動しても「自分が予想したとおりの結果」を得ることが出来ない時に不安を感じます。粘液質の人は自分のリズムが壊されると不安を感じます。つまり、両者とも、自分の長所が生かせないような状況で「不安」を感じるのです。それに対して、多血質や憂鬱質の人は他者の影響を受けやすいです。不安が強い人が傍にいるだけで不安を感じます。でも、ハッピーな人が傍にいると自分もハッピーになります。ちなみに、思春期前の子ども達は、全般的にみんな多血質が強いので自分の周囲にいる大人の気分の影響を受けやすいです。どの気質の人でも子ども時代はみんな多血質が強いのです。それがいわゆる「子どもらしさ」と言われる状態です。ただしそれは、「子ども時代はその人の人生の中では多血質が強い時期だ」というだけで、本来の「多血質の子」とはその状態が異なります。一番「子どもらしい子ども」は「多血質の子ども」です。一番「子どもらしくない子ども」は「憂鬱質の子ども」です。胆汁質の子は「やりたいこと」ばかりをやりたがります。粘液質の子どもは素直ですが反応が鈍いです。気質は「入れ子」になっているのです。だから分かりにくいし、「発達心理学」のように科学の対象にはなりにくいのです。多血質の人は、いつでも「楽しいこと」に意識を向けていたいのです。そして、「楽しいこと」をやっていたり、「楽しいこと」を考えていると心が落ち着くのです。他の人の目には「落ち着きがない」ように見えるのですが、本人的には「楽しいこと」をあれこれやっていたり、考えたりしているときが一番落ち着いているのです。でもそれ故に、結婚しました、友達がいないところに引っ越しました、妊娠しました、子どもが産まれました、その結果、「外に出ることが出来なくなりました」、「友達とも会えなくなりました」、「自由に行動することが出来なくなりました」という状況では必然的に不安が強くなってしまうのです。その結果、擬似的な憂鬱質になってしまう人もいます。気質の講座などやると「私は苦しくて苦しくてしょうがないので憂鬱質でしょうか?」と聞いてくる人がいるのですが、そのような人に「結婚する前のこと」や「子どもが産まれる前」のことを聞くと、全然憂鬱質ではないことが多いのです。ちなみに、元々の憂鬱質の人は「私は憂鬱質でしょうか?」などと聞いては来ません。このように多血質の人は自由を失うことで不安を感じるようになるのですが、憂鬱質の人の場合はあれこれ考えすぎることで、自分で不安を創り出してしまいます。憂鬱質の人は「食べたことがないから食べない」とか、「やったことがないからやらない」とか、「行ったことがないから行かない」などというような判断をよくします。また、失敗を恐れるので、失敗する可能性を感じるようなことには手を出しません。でもその結果、世界がドンドン狭くなっていきます。そして不安も狭くなります。また、多血質の人は「変化するもの」を楽しむことが出来るのですが、憂鬱質の人は「変化するもの」信用しません。「変化するもの」ばかりに取り囲まれていると不安を感じるのです。でもそれ故に、「変化しないもの」を求める傾向があります。だから、スピリチャルな世界にあこがれるのです。変化しない「普遍的な世界」を心の中に持つことで、「変化する世界」の中でも不安を感じないで生きることが出来るようになるのです。ただし、胆汁質が入っている憂鬱質の人は周囲に対して支配的になります。自分が支配者になることで安心を得ようとするのです。ただし、上に書いたようなことは「そういう傾向がある」「そういう状態になりやすい」というだけのことですからね。「○○質の人はみんなこうなる」ということではないのでその点はご了解下さい。****************茅ヶ崎で毎月「気質の勉強会」をやっています。土曜日や日曜日などの休日の午前です。ご興味のある方は「しの」までお問い合わせ下さい。
2023.05.08
コメント(0)
あと、「安心」とか「自由」ということを考えるときには「気質」という視点も必要になります。気質が違うと「求めている安心のあり方」や「求めている自由のあり方」が異なってくるからです。同じ状況でも、「ある人は安心を感じても別の人は安心を感じていない」とか、「ある人は自由を感じていても、別の人は自由を感じていない」などと言うことはよくあることです。その背景にあるのが気質の違いです。胆汁質の人は「行動の自由」を求める傾向があります。多血質の人は「表現の自由」を求める傾向があります。粘液質の人は「感覚の自由」を求める傾向があります。憂鬱質の人は「心の自由」を求める傾向があります。ですから、有形無形の檻の中に入れられたら、胆汁質の人は不自由を感じて自由を得るために戦います。厳しい規則で縛ろうとすると、規則破りを始めます。多血質の人は、一人ぼっちになると不自由を感じます。誰からも束縛されていなくても、「自分を表現する相手」や「感情を共有する相手」がいないと不自由を感じるのです。粘液質の人は追い立てられたりして、自分のリズムを狂わされると不自由を感じます。リズムが崩れると、感覚の働きも崩れてしまい、ちゃんと見て、ちゃんと聞くことが出来なくなってしまうからです。憂鬱質の人は檻に入れられても、一人ぼっちでも自由を感じることが出来ます。憂鬱質の人が求めているのは「心の自由」だからです。ただし、強い刺激は嫌います。外部からの強い刺激は自分の心との対話を妨げるからです。静かな自然の中で自分の心と対話しているときに自由を感じます。だから、他の人が外部から憂鬱質の人に不自由を感じさせることは難しいです。でも、憂鬱質の人は自分で自分を束縛して不自由になることが多いです。憂鬱質の人に不安を感じるような情報を与えると、ズーッとそのことばかり考えて不自由になります。<続きます>
2023.05.07
コメント(0)
「安心」も「不安」も、探し、発見することで生まれます。「安心」をいっぱい探して見つけられれば安心できます。「不安」をいっぱい探して見つけられれば不安になります。そして「安心」も「不安」も身の回りにいっぱいあります。ただそれだけのことです。「安心」とか「不安」というようなものは、「心が創り出しているもの」であって「実際に存在しているもの」ではないからです。ただ単に、「どちらに意識を向けているのか」というだけのことなんです。ただ、それはそうなんですが、実際には「安心を感じやすい状況」や「安心を感じやすい状態の人」と、「不安を感じやすい状況」や「不安を感じやすい状態の人」がいるのも事実です。「安心を感じやすい状況」とは、苦しいときには助けてもらえるようなつながりに支えられている状況です。ただし、それが自覚できているときに限ります。「不安を感じやすい状況」はその逆です。傍に「困ったときに助けてくれる人」がいなくて、何かあったら自分で自分を守らなければならない状況にいる人は不安を感じやすくなります。ただし、傍にそういう人がいても、「そういう人はいない」と思い込んでいる人は不安が強くなります。逆に、そういう人がいなくても「いる」と追い込んでいる人は不安を感じません。宗教はそういう働きをしてくれます。「安心」も「不安」も心が創り出しているものだからです。不安が強い人はいつも、自分を他の人を比較して、「不安探し」や「ないもの探し」ばかりしているのです。どうですか、思い当たりませんか。子どもの「短所探し」ばかりしている人も同じです。明日に続きます。
2023.05.06
コメント(0)
昨日は「子どもの幸せ」について書きましたが、でも、「子どもの幸せ」は「お母さんの幸せ」や「お父さんの幸せ」とリンクしているので、お母さんやお父さんが不幸なまま、子どもだけが幸せになることはありません。それは「不安」は伝染するからです。子どもが不安を感じている時はお母さんも不安を感じます。お母さんが不安を感じている時はお父さんも不安を感じています。家族の心の状態は共鳴し合っているのです。でも、不安は「意識の持ち方」、「からだの整え方」、「生活のあり方」を変えることである程度は取り除くことが出来ます。すると、「安心」が生まれます。そして、「安心」もまた伝染します。「与えられた安心」は、他者の不安に巻き込まれやすいですが、「自分の意識で獲得した安心」はそう簡単には「他者の不安」に巻き込まれないのです。そして、お母さんが安心を取り戻すと、子どもも安心する事が出来ます。安心すると、何らかの問題を抱えていても解決しやすくなります。不安を抱えたままでは、心の問題を解決すことは出来ないのです。ただ、大人は自分の意思と意識と工夫で「安心」を得ることが出来ますが、自我の働きが未成熟な子どもにはそういう事が出来ないのです。だから、子どもの幸せを願うのなら、お母さんもまた自分の安心と幸せをちゃんと求めた方がいいのです。子どもはお母さんに「自分の犠牲になって欲しい」などとは決して思っていないのですから。
2023.05.05
コメント(0)
私は「幸せは安心から生まれて来るのではないか」と思っています。どんなにお金持ちになっても、どんなに社会的に成功しても、どんなに有名になっても、「安心」を失い「不安」ばかりに付き纏われていたら人は「幸せ」にはなれないような気がするのです。でも逆に、お金がなくても、社会的に成功できなくても、全く無名でも、「安心」に満たされている人は幸せなのではないかと思うのです。皆さんはどう思いますか。そしてこれは子どもでも同じです。どんなに成績が良くても、どんなに親や先生からの評判が良くても、どんなに家がお金持ちでも、不安が強ければ幸せではないのではないでしょうか。ちなみに子どもが不安を感じるのは、お母さんやお父さんから愛されていないと感じる時。お母さんとお父さんの仲が悪い時。遊びや生活の場での刺激が強過ぎて、神経が披露している時。ちなみに、ゲームは子どもの神経を疲労させます。食べ物や生活リズムが狂っている時。遊びなどで思いっきりからだを動かしていない時。いつも怒鳴られていたり、指示命令ばかり与えられて、自分の意思や、考えや、感覚や、考えや、行動が否定されている時。自分の言葉に耳を傾けてもらえない時。などが考えられます。ここに書いたような要因は全て子どもから「安心」を奪います。そして「安心」を失っている子は、自分を守ることを最優先に考えるようになります。そのため積極的に仲間づくりをしたり、自分の世界を広げるような行動をしません。勉強にも興味を持てません。能動的に感じ、考え、行動しようともしません。こういう状態では「幸せ」を感じることも難しいでしょう。私はこのように考えるのですが、皆さんはどう思いますかあ。
2023.05.04
コメント(0)
私は、人間にとって一番本質的な「幸せ」とは、「つながる幸せ」と「成長する幸せ」の二つなのではないかと思っています。子どもにとって「遊び」はこの二つの「幸せ」を満たしてくれます。お母さんと遊べば、お母さんとつながることが出来ます。仲間と遊べば、仲間とつながることが出来ます。そして、遊びを通して成長する事が出来ます。子どもにとっての遊びは、単なる「消費行動」ではなく、自分自身の成長とつながる「創造行動」だからです。コマ回しでも、竹馬でも、縄跳びでも、基地作りでも、成長する事によって更に楽しく遊べるようになるのです。子どもは遊びを通して、仲間とのつながりや、自分自身の成長を楽しんでいるのです。そしてそのことに幸せを感じているのです。だから、いっぱい遊んでいる子は満たされた顔をしているのです。でも、近年、ゲームのように他者とつながらなくても、遊びを通して成長しなくても、お金さえあれば楽しく遊べる遊びが増えて来ました。その遊びでは、頑張って努力して成長しなくても、お金さえ払えば高い能力を得ることが出来ます。ゲームの世界では「自分の成長」をお金で買うことが出来るのです。でも、その成長はゲームの中でしか有効ではありません。「オンラインでもつながりは作れる」という意見もあるかも知れませんが、顔を見せないオンライン上でのつながりは、「見かけのつながり」であって「本当のつながり」ではありません。それは、仮面舞踏会のようなものです。仮面舞踏会では、一緒に踊ったり、話したりしても本当のことは話さないものです。仮面舞踏会は、現実世界から切り離された状況の中で、ただその時だけを楽しむための場だからです。ゲームの世界も同じです。ゲームの世界の中にいると現実世界を忘れさせてくれるから楽しいのです。でもだから、そればかりに浸っていると現実世界を生きる能力を育てることが出来なくなったり、現実世界を生きる楽しさが分からなくなってしまうのです。「他者とつながる能力」も「成長する能力」も育たなくなります。「つながる幸せ」は「横の世界」とつなげてくれます。人だけでなく、様々な文化や、自然や、生き物や、草花ともつなげてくれます。それは、「つながりの中の自分」への気付きにつながります。「成長する幸せ」は「縦の世界」とつなげてくれます。そして、自分の可能性や、自分の価値や、自分が生まれてきた意味とも出会わせてくれます。「個としての自分」への気付きにつながります。この二つの「幸せ」を求める衝動によって、人間は人間らしさに目覚め、様々な文化や文明を築き上げてきたのです。ですから、このいずれの「幸せ」が失われても、人は虚無感と不安を感じるようになります。「成長する幸せ」を失うと、生きる意味や目的を失います。すると、その代償として、「お金を得ること」や「競争に勝つこと」に、自分の価値や幸せを求めるようになります。でも、お金を得たり、競争に勝つことによって得ることが出来る幸せは一時的なものです。また、その幸せはすぐに「得たものを失うかも知れない不安」に移行します。さらに、仲間ではなく敵を作ったり、妬みや恨みを買うことにもなります。一方、「成長する喜び」を知っている人は、一生成長を求めます。そして、「敵」ではなく「仲間」が増えていきます。子どもは自分の成長を感じた時、幸せと喜びを感じます。だから、お母さんに「ママ見て!」と見せに来るのです。学校の勉強がつまらないのは、学校の勉強が子どもの成長につながっていないからです。「つながる喜び」を知っている人は、活動的に自分の世界を広げようとします。相手に勝とするのではなく、相手を支えようとします。だから「仲間」が増えます。仲間が増えれば安心も、自己肯定感も増えます。人間だけでなく、群れて生活する動物たちも「つながる喜び」は知っています。仲間と一緒に居ると安心します。でも、「成長する喜び」を知っているのは人間だけです。人間だけが、「見えない世界とのつながり」を感じることが出来るからこそ、成長する事を喜ぶことが出来るのです。「成長する」ということは「出来なかったこと」が出来るようになることだけではありません。「分からなかったこと」が分かるようになる、「見えなかったもの」が見えるようになる、「聞こえなかったもの」が聞こえるようになる、「感じることが出来なかったもの」を感じることが出来るようになることが「成長」の本質なんです。「出来なかったこと」が出来るようになるののはその結果に過ぎません。
2023.05.03
コメント(0)
現代人は「簡単で便利」が大好きです。でも「簡単で便利な生活」には充実感がありません。だから、ゲームをしたり、スマホを見たり、○○ランドのような所に行ったりして、「生活の場」以外のところで「充実感」を得ようとしています。山登でも、自動車やロープウェイが整っている山ならば、汗水垂らして苦労して登らなくても、簡単に頂上まで行くことは可能です。そして、汗水垂らして登って見た景色も、車やロープウェイで簡単に登って見た景色も物理的には同じです。写真に撮れば何の違いもありません。でも、「心とからだの中に残るもの」や「充実感」は確実に違います。想い出の量も違います。頂上から見える景色の精神的な見え方も違います。それは、「山登りという体験から学ぶこと」の量の違いでもあります。そしてその「想い出の量」と「精神的な見え方」の違いが、言葉の量と質の違いにもつながってきます。「車やロープウェイで簡単に登った人」と「自分の足で苦労して登った人」の両方を呼んでその山について語らせたら、「簡単に登った人」よりも「苦労して登った人」の方が、長く、豊かに、生き生きと、魅力的に話しをすることが出来るでしょう。「体験」が「言葉」に変換されるからです。ご飯の炊き方でも、「炊飯器でご飯を炊いた人」と「羽釜を使って薪で火をおこして炊いた人」を呼んで子ども達に「ご飯の炊き方」についての話を聞かせたら、子ども達はどちらの人の話の方に魅力を感じるでしょうか。子育ての勉強会などで、お母さん達にご自身の子ども時代の話を聞くことがあります。自分自身の子ども時代のことを思い出すことで、今目の前にいる我が子のことが理解しやすくなるからです。でも、「子どもの頃のことをあまり覚えていない」という人が結構いるのです。まだ20代を思われる若いお母さんから「そんな昔のことは覚えていない」と言われて驚いたことがあります。それでも、「どんな遊びをしていましたか」とか、「誰と遊んでいましたか」とか、「どういう所で遊んでいましたか」などと具体的に聞いていくと、「そういえば・・・」と少しずつ思い出すことも出来るのですが、思い出そうとしなければ思い出せないレベルなんです。その一方で、50代、60代、もっと年を取った人でも、まるで昨日のことにように生き生きと「子どもの頃のこと」を話すことが出来る人もいます。そしてその両者の話には決定的な違いがあるのです。なかなか思い出せない人の話には仲間や自然や、ハラハラ・ドキドキ・ワクワクした体験が出てこないのです。それに対して、昨日のことにように話せる人の話には、仲間や自然や、ハラハラ・ドキドキ・ワクワクした体験がいっぱい出てくるのです。当然、記憶の量や質も違います。それが言葉の量や質の違いにも表れます。これは「記憶法」などでも言われるのですが、「感覚や感情の働きとつながった記憶」は定着しやすいのです。それに対し、そういうものとつながらない記憶した記憶はすぐ消えてしまうのです。一人で、室内で、物や機械だけを相手に遊んでいたら、感覚や感情はあまり活性化しないでしょう。そのため、そういう記憶は簡単に消えてしまうのです。その結果、子ども時代の記憶が「空っぽ」になってしまうのです。そして、それはそのまま言葉の量と質の低下につながります。言葉の量と質の低下は思考力の低下にもつながります。私は年に数回、薪と羽釜でご飯を炊きます。(マイ・カマドとマイ・羽釜を持っています)年に数回だけですから、毎回ドキドキします。人に任せても気になって仕方ありません。実際、人に任せて真っ黒になってしまったこともありますから。子どもの頃の遊びも超ローテクでした。七輪で鉄を焼いて金床の上で金槌で叩いて、やすりで削って、砥石で研いで、殺傷能力があるような弓矢のヤジリやナイフを創っていました。そういう体験や想い出が私の言葉を創っています。ちょっと手間暇かけて生活する、手間暇かけて遊ぶようにすると、それだけで生活に対する充実感、遊びに対する充実感が格段にアップするのです。自動車で遠くに出かけるより、自転車でちょっと遠くに出かける方がズーッと記憶に残るのです。幼児期に、デジタル機器や便利なオモチャに依存せず、自然の中で仲間といっぱい遊んだ子は充実した幼児期を過ごすことが出来ます。そういう子は、小学生になって一度はゲームに夢中になっても、ゲームに取り込まれることなく、中学生頃から少しずつ自分で抑制できるようになるのです。「ゲームは楽しいけど充実感がない」ということが分かってくるからです。あと、大人になり、親になって「子育て」が始まっても、「子育て」を楽しむことも出来るでしょう。子育てに簡単便利を求めると、子どもも親も後で後悔することになるのです。「子育て」を楽しむこつは、「不便を楽しむ工夫」をすることです。いつもは自転車で行く買い物も、のんびりと歩いて行けば、お散歩が出来ます。色々なお話が出来たり遊んだりすることも出来ます。お料理も、お母さん一人で手早く終わらせるのではなく、子どもと一緒にやれば、家事の他に子どもと遊ぶ時間を作る必要がなくなります。そしてそれは、子どもにとっても、お母さんにとっても充実した時間になるでしょう。その「充実した時間」が子どもが幸せに生きる手助けをしてくれるのです。
2023.05.02
コメント(0)
心が自由な人は色々な視点から物事を見ることが出来ます。領土問題でも、韓国や中国の人たちの視点からも見ることが出来ます。子育てでは、子どもの視点からも見ることが出来ます。夫婦であれば、お互いの視点から物事を見ることが出来ます。また、人間以外の視点も持つことが出来ます。犬や猫や、熊やキツネの視点になって見ることも、100年前、100年後という視点に立って見ることも、宇宙からの視点に立って見ることも出来ます。思いやりも、優しさも、助け合いも、創造性も、その「心の自由」から生まれてきます。「戦いの無意味さ」や「苦しみの意味」に気付くのも「心の自由」があるからです。「想像」は誰にでも出来ますが、その「想像」が「創造」につながるためには「心の自由」が必要なんです。創造するためには「視点の切り替え」が必要だからです。「創造力」のない人はその切り替えが出来ないのです。「心が自由である」ということはそういうことです。ですから、人間らしい人間を育てるために一番重要なのは、この「心の自由」を育てることなのです。でも、この「心の自由」はなくても何も困りません。体に不自由があれば、色々と困ったことも起きますが、「心の不自由」は本人には自覚できないからです。だからやっかいなのです。そして、ただ単に豊かで便利な生活を送るためだけなら、「心の自由」は必要がありません。成績をよくしたり、様々な能力を高めるためにも「心の自由」は必要がありません。お金を稼ぐためにも「心の自由」は必要ありません。現代社会で生きて行くだけなら「心の自由」は何の役にも立たないのです。でも、人々がみんな「心の自由」を失ってしまったら、人類も地球も困ったことになってしまいます。未来からの視点、次世代の子どもたちからの視点、地球からの視点、他の生き物たちからの視点、海や川からの視点を持つことがなく、人間が「自分」という視点、「人間」という視点だけにこだわって活動していたら、確実に自然や地球や人類の未来は破壊されてしまうからです。自分だけを守ろうとする人は自分を守ることが出来ないのです。なぜなら全てはつながり、お互いに支え合っているからです。オンブされている人が、オンブしてくれている人を痛めつけてしまえば、結局は自分も同じ運命をたどることになるのです。今、人間は地球や自然に対して同じことをしています。でも、「心の自由」を失ってしまった人にはその事実が見えません。やっかいなことに、「心」はどんなに不自由になっても自覚症状がないのです。「心」を感じるのは「心」だからです。また、「他者の視点という鏡」を持っていないからです。では、どのようにしたら子どもたちの「心の自由」を育てることが出来るのかというと、そこで「言葉」と「物語」が必要になるのです。なぜなら、「他者からの視点」は「言葉」や「物語」の中にしか存在し得ないからです。「私から見たあなた」「あなたから見た私」という二つの言葉でこのことを考えてみます。私たちはいつも「私からあなた(他者)」を見ています。これが出来ない人はいません。でも、「あなたから見た私」をイメージできる人は多くありません。でも、そのような視点があるということは理解することが出来ます。それは「あなたから見た私」という言葉があるからです。「雲に乗って空から地球を見たらどんな風に見えるんだろうね」と、「空の上からの視点」に気付くことが出来るのも、「言葉」があるからです。言葉を使わなければ、この「他者からの視点」に気付くことも、説明することも出来ないのです。また、物語の中には、常に複数の登場人物の視点が現れます。「かぐやひめ」であれば、老夫婦の視点、かぐや姫の視点、かぐや姫と結婚したい若者たちの視点によって物語が展開していきます。ですから、「かぐや姫」のお話を聞いたり、読んだりすることで、子どもたちはそれぞれの登場人物の視点を疑似体験することになります。「物語」とはそういうものです。ただし、「物語」を聞いて育った人がみんな「自由な心」を持つことが出来るようになるわけではありません。自由な心を育てるためには「聞く」だけでなく、「語る」ことも必要だからです。「雲に乗って空から地球を見たらどんな風に見えるんだろうね」と問われて、自分の言葉で答えようとする時、初めてその視点を「自分の視点」として捉えることが出来るのです。物語を聞いているだけではあくまでも「他者の視点のまま」なのです。「聞くこと」と「語ること」がセットになって、「言葉」は完成するのです。でも今、現代人は「語る言葉」を持っていません。
2023.05.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1