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昨日、あるお母さんから「子どもの声を騒音として扱うことを禁止する法律を作って欲しい」という声がありました。全くその通りだと思っていたら、ドイツにはもうすでにそのような法案があるそうです。ですから、全く荒唐無稽な話ではないのです。日本でもそういう案が国会でも出たようです。でも、積極的に審議されてはいないようです。金をばらまいたり、お母さんが仕事をしやすい環境作りには力を入れても、お母さんが「幸せな子育て」をしやすい環境を作ることには力を入れる気がないのでしょう。「東京新聞 TOKYO Web」参考https://www.tokyo-np.co.jp/article/246934「少子化は金をばらまけばなんとかなる」というのが日本の政治家の発想なのでしょう。でも、今の日本の社会の「子育てのしづらさ」は異常だと思います。「子どもの子どもらしさ」や、「子育てをしているお母さん」に対する不寛容は目に余ります。つい先日も、公園で遊んでいたら「子どもの声がうるさい」と公園の近くの人に文句を言われたお母さんがいました。幼稚園の隣の家から文句が来て、子どもを園庭で自由に遊ばせることが出来なくなってしまった幼稚園もあります。知り合いがやっている幼稚園でも、同じような問題で悩んでいます。子どもの泣き声が外に漏れないように一年中窓を閉め切りエアコンを付けっぱなしにして、外で泣かれるともっと困るので外にも出さず、子どもを付けっぱなしのテレビの側で寝かせたままにしているお母さんの話も聞きました。これはもう立派な虐待です。子どもの子どもらしさに対する周囲からの文句がお母さんに虐待を強いているのです。それで、ストレスに耐えかねたお母さんが何か事件を起こすと「全くひどい親だ」と親を責めます。江戸の末期に日本にやってきた欧米の人たちが驚き、感心した日本人の子どもに対する寛容さと優しさはどこに消えてしまったのでしょうか。子どもが泣くのは言葉を話すことが出来ない子どもが行うことが出来る唯一の自己表現であり、それは権利でもあります。子どもが大きな声を出すのは感情のコントロールを学ぶためです。子どもがジーッとしていないのは、成長しつつある感覚や筋肉が刺激を求めているからです。子どもは自分の意志で動き回っているのではなく、子どもの中の成長本能が子どもを動かしているのです。そして、同じような状態の子がいると共鳴し合い大騒ぎになります。よく公園遊びで問題になるのはこの声です。でもその姿はすごく楽しそうです。心もからだも緩んでいます。そんな楽しそうな姿を見ていると、「このような活動が子どもの成長には必要なんだ」ということがよく分かります。その一方で、子どもの成長にとって自然な環境や刺激を与えられることなく、自然な成長が阻害されてしまった子もジーッとしていることが出来なくなります。でも、このような状態の子の心とからだには強いストレスがあり、心もからだも緩みません。だからジーッとしていることが出来ないのです。そしてそれは表情の違いとして表れています。また、自分を守ることばかり考えているのでトラブルも起きやすいです。今、発達障害の子が増えていますが、実際に増えているのは先天的な発達障害の子ではなく、成長に必要なものを与えられることなく育ってしまったことで成長が歪んでしまい、擬似的に発達障害のような状態になってしまった子です。外に出ることも他の子や他の大人とも関わることなく、一日中テレビやゲームだけを相手にして遊んでいる子は、当然のことながら「他者と共存する能力」や「他者とコミュニケートする能力を育てることができません。話しかけられもせず、言葉がない環境で育った子は言葉で表現したり、他者の言葉を理解する能力も育ちません。言葉が育っていない子は、思考力も自分の感情をコントロールする能力も育ちません。自由に声を出し、自由に動き回ることを禁止された状態で育っている子は、心とからだの働きがつながりません。そのため、心とからだの状態が不安定になり、不安が強くなります。当然のことながらそういう子が増えれば、社会は混乱していきます。やがて学校も崩壊するでしょう。政治家はもっと真剣に子どもが幸せに生きることが出来る社会、お母さんが安心して子育てが出来る社会を作ることに力を入れるべきなんです。そうでないと、日本はますます衰退していきます。**************横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」です。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.31
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よく「子育てに正解はない」と言われます。でも、実際には本屋さんに行くと子育て関連の本がいっぱい並んでいます。そしてそれらの本には「正解」が書いてあります。でも、ここで問題になるのはその「正解」が本によってみんな違うことです。ですから、子育てに悩んでいたり、一生懸命子育てをしようとして色々な本をいっぱい読みあさる人ほど混乱して、子育てへの自信を失っていきます。すると子どもの状態はますます手が付けられなくなり、お母さんはますます自己嫌悪が強くなります。人間にとっての「子育て」とは、何にも知らない、何にも出来ない状態の赤ん坊を、「一人前の人間」に育てる行為です。これが「子育て」の原点です。ここに異論を挟む人は滅多にいないと思います。問題は、その「一人前の人間」とはどのような人間なのか、という「人間像」が一人一人違うことです。経済的に自立した人間を「一人前の人間」と考える人がいます。また、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動することができる人間を「一人前の人間」と考える人がいます。きちんとした仕事が出来る人間を「一人前の人間」と考える人がいます。人格的に優れた人を「一人前の人間」と考える人もいます。みんなと助け合うことが出来る人間を「一人前の人間」と考える人もいます。有名人や社会的地位の高い人を「一人前の人間」と考える人もいます。子育てが出来る人を「一人前の人間」と考える人もいます。実際にはもっともっと色々な「一人前」があるでしょう。これだけ色々な「一人前」があったら、一人前の人間を育てるための方法にだって色々な種類があって当然です。さらには、(例えば)「経済的に自立した人間」を育てるための方法論にだって色々なやり方があるでしょう。「小さい時からびしびし鍛えた方がいい」と考える人もいれば、「小さい時は充分に遊ばせた方がいい」と考える人もいます。その結果、本屋さんには数知れぬほどの「子育て書」が並ぶことになります。そして、人は自分の好みに合わせて、子育て書を選んでいきます。つまり、自分の人間像を肯定してくれている本を選ぶわけです。多くの場合、人は自分が育てられた方法を肯定してくれるような子育て方法を肯定します。厳しく育てられた人は「厳しく仕付ける子育て」を肯定します。優しく育てられた人は、「優しく育てる子育て」を肯定します。時に、厳しく育てられたが故に「厳しく育てる子育て」を否定する人がいますが、でも感覚的に、「厳しくしない子育て」がどのようなものか分からないので、色々本を読みあさることになります。そして、不安になります。「自分が受けた子育て」を肯定することが出来ない人も、色々な本を読みあさり、不安になります。自分が受けた子育て以外の子育てのイメージが分からないからです。人は体験したことのないことをイメージすることは出来ないのです。親が、自分を肯定するための子育て方法を子どもに押しつけると、子どもは「おれはあんたじゃない」と反逆します。逆に、子育て方法に不安を感じながら子育てをしていると、子どもも不安を感じ不安定になります。でも、ここで見落とされている大事なことがあるように思うのです。それは、「子どもは親の思い通りに育つようには出来ていない」ということです。これは子育てを終えた人なら誰でもが知っている事実なのではないでしょうか。でも子どもがまだ小さい時には、お母さん達はこの事実をよく知りません。「自分が頑張れば子どもは思い通りに育つ」と思い込んでしまっているお母さんもいっぱいいるように思います。その思い込みが間違えであったと気付くのは、子どもが中学生頃になってからです。改めて言いますが、子どもは親の思い通りに育つようには出来てはいないのです。そのことを理解していないと、理想通りに育てようと頑張れば頑張るほど子どもはお母さんやお父さんの理想から遠ざかっていきます。子どもは自らが育ちたいように育つのです。その育ちを支えているのは「あこがれ」です。子どもは「あこがれ」に導かれるように育っていくのです。ですから、子どもはいつでも「あこがれ」を探しています。それは本能です。小さな子どもはアンパンマンやウルトラマンにあこがれを感じます。そして「アンパンマンになりたい」などと言います。時にはそれはお母さんかも知れません。テレビの中のアイドルかも知れません。でも、大人になってまで「アンパンマンになりたい」などという人はいません。小さい時には「アンパンマン」であっても、成長するにつれ、それがもっと現実的なスポーツマンや、お花やさんや、学者などに変化していきます。子どもは自分の成長に合わせてちゃんと「あこがれ」も変えて行くのです。だから、お子さんが「アンパンマンになりたい」などと言っても心配する必要はありません。そんな風に「あこがれ」を持つことが出来た子どもはまっすぐ育ちます。でも、あこがれを持つことが出来ない子は不安になり、迷子になり、苦しみます。それは多くの場合、親の期待を押しつけられてしまった子どもたちです。親の期待を押しつけるということは、子どもの「あこがれ」を否定することになってしまうのです。でも、それでは子どもは自分が育つべき方向を見失うことになってしまいます。子育て書の多くは大人からの視点ばかりで書かれています。子育てが楽になるような方法ばかり書かれています。親の期待通りに育てる方法ばかり書かれています。でも、子どもを「大人の製品」ではなく、「一人前の人間」に育てたいのなら、子どもの視点に立った、子どもの「あこがれ」を育てる子育てが必要になるのです。ちなみに、私が言うところの「一人前の人間」とは、自分の大切さも、仲間の大切さも知っていて、自分一人でも、またみんなと一緒にでも色々な活動をすることが出来る人間のことです。難しく言うと「全体から切り離された個でも、全体に縛られた個でもなく、全体とつながりながらも縛られず自由に生きることが出来る個」ということです。
2023.10.30
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「苦しみ」にとらわれて抜け出すことが出来なくなっている人の考えをよく聞いていると、共通してみんな何らかの「正解」を求めているような気がします。「子育てを楽にする正解」、「優秀な子どもを育てる正解」「苦しみを消してくれる正解」「子どもが言うことを聞くようになる正解」「幸せを手に入れる正解」などなどです。そして、「正解」を求めてネットで情報を探したり、色々な本を読んだり、色々な講座に行ったり、セラピストやカウンセラーの所に行ったりしています。でも、固定された「正解」があるのは「頭の中」と、その「頭の中」の働きによって「人工的に作られたもの」だけです。「生命の世界」や、「心やからだの世界」や、「自然界」や、「私たちが生きている現実の世界」には「正解」など存在していないのです。私たちは、もともと「正解がない世界」に生きているのに、頭の働きや社会の都合で「正解」を決め、それに束縛されてしまうから、生命がゆがみ、心やからだがゆがみ、苦しみが生まれてしまうのです。じゃあ、どうやったら「正解がない世界」を幸せに生きていくことが出来るのかというと、そこで必要になるのが、「自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意思と責任で行動する能力」なんです。結果にこだわらず、過程を「味わい、楽しむ能力」も必要になります。出来合いの「正解」を求めるのではなく、自分にとって必要なものは自分の力で発見し、創り出していくしかないのです。そしてそれは、「遊び」を創造する子どもたちの行為に似ています。自然の中に子どもたちを連れて行くと、大人が教えなくても子どもたちは「遊び」を創って遊び始めます。ただし、それが出来るのは普段から自然の中で遊んでいる子どもたちです。大人に買ってもらったおもちゃでばかり遊んでいる子は、なかなか遊びを創造することが出来ません。そして自然の中に連れて行っても、どうしていいのか分からず「退屈だー」と言うばかりです。またそのような子に限って「正解」を求めます。「自然」の中には「正解」はありませんが、「人工物」の中には正解があるからです。森の中で拾った木々や木の実は、切っても、貼っても、投げても、振り回してもOKですが、買ってもらった「積み木」を、切ったり、貼ったり、投げたり、振り回して遊んではいけないのです。「遊び方」が決まっているからです。また、カードゲームでも勝手に絵を描いて自分のカードを作ってはいけないのです。買ってきたカードでないと有効ではないのです。でも、そんな「正解」が通用するのは、人間が作った世界の中だけです。学校で教えてくれる「正解」は、学校の中だけでしか通用しない「正解」です。しかもその正解は先生によっても違っています。同じ答案用紙でも、採点する先生が違えば違う点数になることもあるのですから。だからそんなものに縛られる必要はないし、縛られてはいけないのです。でも、学校で「正解」を学び、「正解」に束縛され、幼い頃から人工物だけに囲まれて育っている現代人は、子どもや、子育てや、心や、からだや、生き方にも正解があると勘違いしてしまっているのです。そのような人に、「正解などありません。自分で考えて自分で決めればいいのです」と言うと、みんな戸惑ってしまいます。でも、多くの人の苦しみは、その「正解へのこだわり」によって生まれているのです。「正解」を手放せば楽になるのです。
2023.10.29
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東洋経済onlineというサイトに、以下のような記事が出ていました。「成績が良いといじめられる」日本人の特殊性能力が低くていじめられるケースは世界中にあります。でも、みんなよりも能力が高くてもいじめられてしまうのは、あまり日本以外の国では見ない現象のようです。とにかく日本では、良いことでも悪いことでも、人と違っていて目立ってしまうといじめの対象になってしまうのです。そのため、常に相互監視や足の引っ張り合いをします。未だにマスクを外さない人たちも「目立ちたくない人」なんでしょうか。この記事の中に以下のようなエピソードが紹介されていました。認識の甘さを痛感しつつも、1つのエピソードを思い出した。先日訪問したある中学校の校長先生によれば、生徒から「褒めないでほしい」と言われることが少なくないそうだ。よくよく聞いてみると皆、「みんなの前で」褒められるのは困るのだという。一人だけ目立ってしまい、仲間はずれにされる可能性が高まるというのだ。うちの教室でも、誰かが「ぼく、○○が出来るんだ」とか「○○が得意なんだ」というと、周囲にいた子が数人「自慢かよ」と冷やかしたことがありました。それで私が、「なんで自分が得意なことを自慢しちゃいけないの?」と子どもに話したことがあります。こんな足の引っ張り合いをしていたらみんな不自由になって苦しいはずなのに、「自分らしさ」を肯定されないで育っている日本の子ども達は、「みんな一緒」の中に安心を感じるのでしょう。そういう感覚の子ども達にとっては「他の人と違う子」に違和感と不安を感じ排除しようとしてしまうのでしょう。発達障害の子が問題視されるのも、発達障害の子は「みんなと一緒」が出来ないからです。というか「みんなと一緒」が出来ない子は、それだけで問題児として扱われてしまうのです。日本の保育や教育システムでは、「みんなと一緒」が出来ない子が一人でもいると保育や教育がしにくくなってしまうのです。なぜなら、日本では「みんなと一緒」を前提にして保育や教育のシステムが作られているからです。だから、一人でも「みんなと一緒」が出来ない子がいるとみんなが困るのです。問題があるのは「その子」ではなく「そのシステム」の方なんですが、みんな国が作ったシステムには従って、子どもの方を否定するのです。そして、「エジソンはすごい人」と歌いながら、実際にエジソンのような協調性がない子が周囲にいるとみんなで叩くのです。日本で行われているのは、国や先生が「右向け右」と言えば、みんなが一斉に右を向くように指導する教育です。そのため、個性や自分らしさを大切にする芸術教育や表現教育には全く力を入れていません。むしろ否定しています。芸術教育や表現教育では「一人一人の違い」が大切にされなければならないからなのでしょう。日本では、「上手な絵」は褒められますが、自分が感じたことを大切にした「自分らしい絵」は指導の対象になります。感想文も「先生が求めるもの」を推測してそれに合わせて書けば褒められますが、本当に自分が感じたまま書くと指導の対象になります。そういう日本の教育の状態に対して、この記事を書いた人は子どもたちを「皆と同じであるべき」といった無意識の思い込みから解放しようとするなら、義務教育のうちに適切な介入が必要だ。1つの有望な方法が、「異年齢学級」の導入だと筆者は考えている。異年齢学級の目的は、均質性とは正反対の、「差異」や「異質性」を集団内に求めることにある。学級内でさらに年少〜年長の混成グループに分かれ、自分たちでテーマを決定し、「遊び・学び・対話・催し」をバランスよく行う。その中で、教え合い、助け合い、また年上は年下に模範を示そうという自覚が生まれる。「学び」の場合も一斉授業ではなく、子ども同士、わかる子がわからない子に教えるというスタイルが基本だ。そこでは、子どもたちの「生きる力」「学ぶ力」を引き出すために、先生の役割は、一方的に「教える」立場のティーチャーから、子どもたちの学びを「支え見守る」コーチャー(コーチする人)へと変わる。ということです。と書いています。でもちょっと待って!これって、昔から続いてきた群れ遊びの現場で起きてきたことそのまんまですよね。群れ遊びで大切なことは「みんな一緒」ではありません。また、指導者がいないのですから、「何をするのか」をみんなで話し合う必要があります。ルールも自分たちで決めなければなりません。でも、「みんな一緒」という子育てや教育を受けてきた子をいっぱい集めても、この「話し合う」ということが出来ないのです。そのため「群れ遊び」も始まりません。そして簡単にイジメが始まります。ちょっと目立つ子がいると、みんなが同じ事を言ったりやったりするのです。そうやって安心を手に入れようとしているのでしょう。それに、子どもの頃から同調圧力の中で育ってきた先生達に、このような指導が出来るのでしょうか。
2023.10.28
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幼い子ども達は、描くことも、歌うことも、踊ることも、何かを作ることも、お話を作ることも大好きです。「遊び」もいつも創りだしています。大人は「遊びの方法」を知りたがりますが、子どもは誰からも教えてもらわなくても、自由に遊びます。絵を描く時も、大人は「描き方が分かんない」とか「上手に描けない」などと言いますが、2,3才までの子どもで、そんなことを言っている子どもとは会ったことがありません。どんな下手な歌を歌い、下手な踊りを踊っても、恥ずかしがる子もいません。この時期の子ども達は、心が目覚め始めたばかりなので、芸術的な活動がしたくてたまらないからです。それが本能的な「心の欲求」なんです。心が育つための栄養素として「芸術的な活動」が必要になるのです。そして、それが想像力や創造力や人間性の育ちに大きな影響を与えているのです。でも、4,5頃から大人のようなことを言い出す子が現れます。つまり、上手下手を気にする子が現れるのです。そして、「ぼく下手だから・・・」と言って、描かなくなったり、歌わなくなったり、踊らなくなったりします。失敗を恐れる子も出始めます。周囲の大人によって、「子どもらしさ」を肯定されながら育っている子はまだまだそんなことは言い出さないのですが、常に大人によって評価されながら育っている子は、そういう意識が目覚め始めてしまい、自分を表現しなくなるのです。大人はそのつもりがなくても、子どもが描いたり、創ったりしているときに、その「行為」ではなく「結果」を評価していると子どもも結果を気にするようになるのです。特に、憂鬱質の子は「結果」を気にします。憂鬱質の子は大人が自分に求めているものを敏感に感じ取るからです。実際にはそう言わなくても、憂鬱質の子は「大人の無意識」まで感じ取る能力があるのです。そんな時は、お母さん自身が上手下手にこだわらず、創ったり描いたりすることを楽しんでいる姿を見せて上げればいいのですが、多分それは無理でしょう。ですから、自由に描かせようなどと思うことは諦めて、「そのままの子ども」、「そのままの状態」を肯定して下さい。「結果にこだわる描き方」があってもいいのです。でもそれが絶対ではないということです。ただそれだけのことです。子どもはハサミで何かを切ったり、セロテープをペタペタ付けたりするのが大好きです。それなのに、大人は「何を作るの?」とか「何を作ったの?」などと結果ばかりを気にします。そして、結果がはっきりとしていないと「無駄なことはしないで」といいます。大人の価値観的には「ただ切るだけ」、「ただ貼るだけ」ということが理解出来ないからです。「色水遊び」をするときも、2,3才頃の子ども達は、ただ色を混ぜるだけで、特別「きれいな色」を作ろうとはしません。なぜなら、子どもにとっての興味は、「きれいな色」ではなく、「色が変わること」の方だからです。子どもは「変化」そのものを楽しんでいるので、「結果」のために活動しているのではないのです。そこが大人とは違うのです。「絵を描く行為」を楽しんでいるのであって、「絵」を描いているのではないのです。「創る行為」を楽しんでいるのであって、「何か」を創っているのではないのです。「字」を書くのも同じです。幼い子どもが「字を書いた」と言って持ってきたものを見ても、とても「字」とは思えません。それで大人は「正しい字」を教えようとしてしまうのですが、子どもは「字を書くという遊び」をしているだけで、「字」を書いているのではないのです。そこの所を誤解してしまうと、困ったことになってしまいます。幼い子どもの活動は「楽しむためのもの」であって、「作品を作るためのもの」ではないのです。だからこそ芸術的に展開するのです。子どもが「結果」を意識するようになるのは4,5才頃からです。「社会的な意識」が目覚め始めると、子どもは「結果」を気にするようになるのです。その時、周囲の大人が「結果」よりも「楽しむこと」を大切にしているなら、子どもも「自分を自由に表現し、その喜びを体験することが出来るのですが、大人が「結果」ばかりを求めていると、子どもは大人の期待に応えようとするばかりで、自分を表現しなくなるのです。でも、そんな子ども達でも自由に自分を表現したいのです。それが心の成長に伴う「心の欲求」だからです。ですから、大人が「大切なのは結果じゃないんだよ」と言うことを伝えてあげると、子どもは人が変わったように生き生きと自分を表現し始めるのです。その落差を見ていると、子どもがいかにいつも「子どもらしさ」や「自分らしさ」を抑えて生きているのかがよく分かります。遊びでも同じです。仲間と一生にからだを動かして遊んでいるとき、自然の中で遊んでいるときの笑顔は、部屋の中で遊んでいるときには見ることが出来ない笑顔です。「我が子のこんな笑顔初めて見た」と素直に言ってくれるお母さんもいます。でも、そのことに気付いている大人は非常に少ないです。***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.27
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最初に、横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」の告知を書かせて頂きます。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************古来より、「しつけ」は、ご先祖さま達が自分たちのアイデンティティーとして、守り、伝えてきた大切な文化を、次世代につなげていくためのものでした。そしてこのような「しつけ」を伝えてこなかった民族はいません。「しつけ」を失ってしまったら民族も崩壊してしまうからです。(実際、そうやって崩壊してしまった民族がいっぱいいます。)その「しつけ」の内容は民族によっても違うし、また、時代と共に変化もしますが、「世代から世代へと受け継がれていく」というシステム自体は普遍でした。言葉や、立ち居振る舞いや、服装や、状況に合わせた行動の仕方や、生活の仕方、歌や踊りや手仕事などを伝えるのも「しつけ」でした。「母の味」を伝えるのも「しつけ」でした。そのようなものを学び、身につけることで、子どもは自分が属している文化圏の中で一人前の大人として自立して生きていくことが出来るようになったのです。日本語を話す文化圏に生まれたのに、ちゃんとした日本語を学ぶことが出来ないまま育ってしまったら、大人になって社会に出たとき「一人前の大人」として生きていくのが困難になってしまうのは明らかなことですよね。だから「言葉」を伝えることも、大切な「しつけ」なんです。でも、今の日本では「伝承されてきたしつけ」は消えてしまいました。代わりに生まれたのが、「親の思い通りに子どもの行動などをコントロールしようとするしつけ」です。でもこれは昨日も書いたように「しつけ」ではなく「調教」です。そして、お母さんの支配下で、調教的な方法で育てられた子は家の外の世界での生き方を学ぶことができなくなります。そのため、外の世界に出て行くことが出来なくなったり、マニュアル的な方法に頼るようになります。人々が、まだ地域社会とのつながりが強い中で生活していた時代は、お母さんもまた地域とつながって生活していました。子育ても、子どもも、地域とつながっていました。だから子どもは地域とのつながりの中で、親からだけでなく色々な人から様々な「しつけ」を学ぶことができました。その学び方の基本は「見て学び、やって学ぶ」というものです。叱られて学ぶこともありました。でも、現代社会では周囲から孤立した状態で子育てをしている人がいっぱいいます。子どもも外では遊びません。それは子育てにおいては重大な問題なんですが、さらに家の中でも子どもはお母さんから切り離されています。お母さんは一人で家事や仕事をして、子どもも一人でテレビを見たりゲームをしています。食事の時も、お母さんは別のことをして、子どもだけで食べています。こういう生活では「しつけ」を伝えることは不可能です。「ちゃんと食べなさい」、「きれいに食べなさい」と言われてもその「お手本」がないのですから。そもそも一人で食べても楽しくありません。楽しくない状況で食べていれば、好き嫌いが出やすくなります。食べ方も汚くなります。基本的に、「しつけ」は伝承によって伝えるものですから、必ず「お手本」が必要になるのです。言葉を伝えることは、子どもの人間らしさを育てるしつけにおいて最も大切なことですが、言葉を必要としないような生活をしていたら、子どもに言葉を伝えることは出来ません。「言葉の大切さ」をいくら説いても、言葉と出会う機会を与えなければ子どもは言葉を学びようがないのです。子どもを支配するような子育てをしていると、子どもはそんなお母さんを模倣して、他の子を支配しようとするようになります。お母さんが「良いお母さん」を演じていると、子どもはそんなお母さんを模倣して「よい子」を演じるようになります。でも、その「よい子」はお母さんがいないところでは消えます。子どもに乱暴な言葉を使っていると、子どもも乱暴な言葉を使うようになります。子どもの言葉に耳を傾けていないと、子どもも他の子や大人の言葉に耳を傾けなくなります。子どもが言うことを聞かないのは、お母さんが子どもの言葉に耳を傾けていないからです。お母さんが理屈で子どもを叱っていると、子どもも理屈で返すようになります。お母さんと仲がいい関係を築けていない子は他の子とも仲の良い関係を築くことが出来ません。そして、自分中心に感じ考え行動するのですぐにケンカが起きます。そんなことを意図していなくても、子どもの方は「お母さんがやっていること」を「しつけ」として受け取ってしまうのです。
2023.10.26
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子どもが、精神的にも経済的にも自立して、自分らしさを大切にしながらも他者とつながり、自由に幸せに生きていくことが出来るように育てるためには「しつけ」が必要です。でも見ていると、「しつけ」と称して「調教」をしている人がいっぱいいます。でも、「調教」では子どもは育たないのです。そして、いつまでも自立できないままになってしまいます。「しつけ」は「子どもの育ちを支えるためのもの」です。でも、「調教」は、「大人の都合に合わせて子どもの行動を管理するためのもの」です。そこには、「子どものためのもの」なのか、「大人のためのものなのか」という違いがあります。犬などの動物を調教するのは、人間の都合に合わせて「犬の行動」を管理するためです。それでも犬が困らないのは、犬は、成長しても自立する必要がないからです。飼い主の言うことを素直に聞いていればかわいがってもらえるし、死ぬまで住むところも食べ物も与えてもらえます。そして犬はそれ以上を望みません。でも人間の子どもの場合はそれでは困るのです。もし子どもが、お母さんの言うことを素直に聞いて、言われた通りにお勉強をして、言われた通りにお片付けをして、言われた通りに「ゴメンナサイ」を言い、言われた通りに一人で大人しく遊んでいることが出来るような子に育ってしまったら、子どもは、思春期が近くなってもお母さんから離れることが出来なくなってしまうでしょう。「自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」が育たなくなってしまうからです。出ていきたくても出ていけなくなってしまうのです。そして子どもは苦しみます。親もまた外に出ていけない子どもを抱えて苦しみます。そう書くと「うちの子は私の言うことを聞かないから大丈夫だ」と思う人もいるかも知れませんが、実際には「言うことを聞かない」のではなく、お母さんの要求が子どもの能力を超えてしまっているため、「言うことを聞くことが出来ない」のです。「静かにしなさい」「ジーッとしていなさい」と言われても、幼い子どもは自分の意志で自分の感情や行動をコントロールすることが出来ません。一人でジーッとしていることが出来るのは楽しいことに集中している時だけです。お母さんもそれを知っているので、静かにして欲しい時にはスマホやゲーム機を与えます。すると子どもは、スマホやゲーム以外の「楽しいこと」には興味を感じなくなります。外に出ていかなくなります。仲間を求めなくなります。その結果、お母さんは子どもの相手をしなくて済むようになるので楽になります。また、それらの電子機器での遊びはすぐに中毒になるので「言うことを聞かないとスマホ(ゲーム)をやらせないよ」と、子どもを脅し、調教する便利な道具としても使うことができます。でもその結果、子どもは「学ぶ楽しさ」、「工夫する楽しさ」、「発見する楽しさ」、「外の世界の面白さ、楽しさ」を知るきっかけを失ってしまいます。そんな時、スマホやゲームではなく「折り紙」や「パズル」や「図鑑」などを与えるお母さんもいます。そして、スマホやゲームは会話を遮断しますが、「折り紙」や「パズル」や「図鑑」は、子どもと一緒に楽しむ事も出来ます。会話のきっかけにもなります。そして、日常的に子どもと会話する習慣が出来ていると、お互いの意思の疎通がしやすくなるので「調教」ではなく「しつけ」がしやすくなります。会話がない関係では力ずくになるか「アメとムチ」を使って調教するようになります。また、「早くしなさい」「ちゃんと片付けなさい」という要求も子どもの能力を超えています。子どもには、「早く」とか「ちゃんと」の基準自体が理解できないからです。それに、子どもには「義務感」はありません。楽しければやるし、楽しくなければやりません。ただそれだけのことです。だから「楽しさ」を教えてあげたり、「楽しく出来るような状況」を作ってあげれば子どもは進んでやります。「学ぶ楽しさ」を知った子どもは、追い立てられなくても勉強するようになるのです。先日テレビで、お母さんに何かをねだっている子が「成績が上がったら買ってもらえることになった」と嬉しそうに言っていました。それを見ていた出演者たちもみんな「良かったね」と反応していて強い違和感を感じました。これって調教の常套手段ですよね。勉強はお母さんのためにするものではないのですから。
2023.10.25
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町を歩いていると「歩きスマホ」をしている人を時々見かけます。スマホを見たり、操作しながら自転車に乗っている人さえいます。そういう人を見ると、他人事ながら「怖いな」と思うのですが、なぜか本人は怖いとは感じないようです。実際に死亡事故を起こして禁固刑になったり、何千万円もの罰金を払うことになった人もいるのに、「自分は大丈夫」と思っているのでしょう。近所の八百屋さんの脇に、自動車道路から自動車道路へと抜けることが出来る細い道があります。歩行者と自転車しか通れない細い道です。その道を抜けるといつも自動車が走っている道ですから、道を抜け、道路に出る時には十分に左右を確認する必要があります。少なくとも私はそう思います。でも、多くの高校生たちが左右を見ないまま飛び出してきます。「自動車が来るかもしれない」と想像することが出来ないようです。幸いにその道は買い物客も多い道なので、車も速度を緩めているので大きな事故を見たことはありませんが、でも、いつもハラハラしてしまいます。真夏の炎天下の中、幼い子どもを車の中に残したまま買い物に行って、帰って来たら熱中症になっていたというようなニュースもよく聞きます。止めた自転車の後ろに子どもを座らせたまま、自転車を離れ立ち話をしたり、買い物をしたりしているお母さんも時々見かけます。子どもがお母さんを追って降りようとしたり、誰かがぶつかったり、強い風が吹いたら、自転車が倒れ、子どもは大けがをしてしまうでしょう。でも、そのような行為をしているお母さんはそういう想像をしないのでしょう。先日、電車の中で、ハイヒールを履いて、オシャレな服装をして、子どもを抱いて歩いている人を見かけました。「しつけ」と称する虐待で子どもを死なせてしまう親もいますが、そのような親は、「まさかこんなことで死ぬとは」と思っていたのでしょう。このような行為の背景には、想像力の欠如があります。だから、「歩きスマホをしているとこういう事故が起きる可能性があるよ」などというような情報を流して、想像力を喚起しようとしているのでしょう。でも、いくら情報を流したり注意を喚起しても、「その情報につながるような体験」のない人は、そのことを自分自身のこととつなげて想像することが出来ないのです。そして、体験がない人ほど「そんなことは知っているけど自分は大丈夫」という根拠のない思い込みを持っているのです。だから、いつまで経っても「オレオレ詐欺」も「歩きスマホ」も減らないのです。知識は可能性を示してくれます。でも、実際の体験に裏付けされていない知識は、その可能性を自分自身のこととつなげてくれないのです。スマホを見ながら自転車に乗っていたら事故を起こす可能性があることは誰でも知っているはずです。ても、まさか自分が事故を起こすとは思っていないのです。それにつながるような体験がないからです。棒やノコギリやトンカチを、ゲームの中の勇者のように振り回す子がいます。それで、「誰かに当たったらどうするんだ、アブナイからやめなさい」と言うのですが、「大丈夫」と返事をしてくる子がいます。でも、その「大丈夫」には何の根拠もありません。何の根拠もないのに分かったつもりになっているからこそ怖いのですが、でも、「分かったつもり」になっている本人はその事を知りません。「だいじょうぶ だいじょうぶ」と分かったつもりになってカッターを使い、指を切り、以来、怖くてカッターを使わなくなってしまった子もいました。外で子どもが騒いでいると「親がちゃんと仕付けないから子どもが騒ぐんだ」と文句を言う人がいますが、そのような人は「子どものリアル」を知らない人です。「子どものリアル」を知らないから、「子どもは親がちゃんと仕付ければちゃんと育つんだ」と思い込んでいるのです。でもそれは空想であって想像ではありません。「実際の出来事」とつながるような想像は、「実際の体験」の延長にしか生まれてこないのです。「現実の世界での様々な体験」が、「現実の世界とつながった想像」を可能にしてくれるのです。実際に木登りをして落ちたり、ケガをしたり、怖い想いをしたりした経験があるから、木を見て「登り方」を想像することが出来るようになるのです。そういう体験のない子は「非現実的な登り方」を空想することしか出来ないのです。でも、そういう子に限って、実際に登っている子を見て「下手だな、僕だったらもっと上手に登れるのに」などと言います。それで「じゃあ、登ってみて」と言うのですが、でも、実際には登ろうとしません。登ろうとする子もいますが、すぐに「こんなはずじゃあ・・・」という反応をします。そしてやめてしまいます。ゲームの中でやっている釣りが得意だから、現実の釣りも上手なはずだと思い込んでしまう子もいます。そういう子に限って、実際にやらせると「こんなはずじゃ」という反応をします。最近は、この「こんなはずじゃ」で、頑張って入学した大学や、頑張って就職した会社をすぐにやめてしまう若者も多いそうです。リアルな子どもを前にして、「子育て」に挫折する人も多いです。その自分の想像力の原点となるような体験をするのが7才までの幼児期なんです。「7才までにどういう体験をしたのか」ということが、その子の想像力の原点になっていくのです。ゲームは子どもたちから、その想像力の原点となるべきリアルな体験を奪ってしまうのですが、リアルな体験を奪われた子は、今度はゲームの中の体験を通して、現実の世界を想像するようになります。でも、その世界には「リアル」がありません。それでも子ども時代はなんとかなります。でも、大人になり、社会に出て、現実の世界の中で生きなければならなくなった時、「こんなはずでは」という「現実の壁」に突き当たってしまうのです。でも、リアルな体験の乏しい子はそこで途方に暮れてしまうのです。だからといって、単にゲームを取り上げればいいということではありません。本当は、ゲームがなくても自由に楽しく遊べるようになるのが理想なんですが、もうすでにゲームでの遊びにはまってしまっている子の場合は、ゲームとの関わり方を大人が教える必要があるのです。それも7才までに教えた方がいいです。7才までの子はまだ親の言葉に耳を傾けてくれるからです。ゲームに子育てを依存してしまっているとそれが出来なくなってしまうのです。テレビやスマホやyoutubeも同じです。
2023.10.24
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人間であろうと、地球であろうと、足下の小石や野の花であろうと、全てのものに「歴史」があります。突然そこに生まれ、突然その状態になったわけではありません。あなたの「怒り」や「悲しみ」や「喜び」にも「歴史」があります。その歴史の流れの中で人は怒り、悲しみ喜ぶのです。皆さんの「からだ」も、長い歴史の中で生まれてきたものです。血の中の鉄は、地球が生まれる以前に起きた星の爆発の結果生まれたものです。あなたの考え方、感じ方の癖は、あなたの生命がたどってきた歴史の中で生まれたものです。みなさんが子育てをしているときに感じる子どもに対する怒りの中には、皆さんの子どもの頃からの歴史が隠されています。今、世界のあちこちで戦争が起きていますが、この戦争にも長い歴史があります。いきなり戦争が始まったわけではありません。そして、流れの結果、戦争をしざるおえない状況になると、人々は自分がやっていることを正当化(物語化)し始めます。そして、積極的に戦争をし始めます。イジメや虐待をやっている当事者も、一度それをせざるを得ない状況に追い込まれると、自分がやっていることを正当化(物語化)し始めます。すると、ドンドン、エスカレートして行きます。あなたが怒るようなことでも、あなたとは違う歴史を生きてきた人にとっては怒るほどのことではないかも知れません。「物質の世界」も、「自然の世界」も、「人の心の世界」も全て、長い長い歴史の結果、今の状態になっています。その「歴史」を言葉で読み解くと「物語」が生まれます。ですから、この世界は「物語」で出来ているといってもいいかも知れません。あなたの足下に転がっている小石でさえも、長い長い「物語」の結果、あなたの足下にたどり着いたのです。その「実際」は知ることが出来ません。でも、想像することは出来ます。そして、想像することで、世界も、自分も、足下の小石も、目の前の子どもも、「生命」を得ることが出来るのです。「小石」には生物学的な「生命」はありませんが、「物語」(想像された世界)の中では「生命」を得ることが出来るのです。人の想像力には「生命を与える働き」があるからです。だから、「石」や「山」や「太陽」が神様になったりするのです。「希望」もその想像力によって生まれます。逆に、想像力を働かせない時には「実際に生命あるもの」でさえも「生命」を失います。そのような時には、「人間」でさえ「生命あるもの」ではなく、「動く肉」にしか見えなくなることがあります。そのような感覚の状態になっている人は、人を殺すことに罪悪感を感じることもありません。皆さんがお肉屋さんで買って来たお肉を包丁で切っても罪悪感は感じないですよね。それと同じです。私たちは、「人を殺してバラバラにした事件」の話など聞くと、「罪悪感は感じないのか」、「どうしてそんなひどいことが出来るのか」などと思いますが、想像力を働かせなければ、そのような感覚は生まれないのです。その一方、「お肉屋さんのお肉」にすら、「生きている時の牛や豚の生命」を想像する人達もいます。そのような人にとっては、お肉は「物」ではなく、人が命を奪った「死骸」であり「死体」です。そして、普通に肉を食べている人達を「残酷な行為をする人達」と感じているかも知れません。更にまたその一方、「牛や豚の生命を私たちが受け継ぐんだ」と考える(想像する)人達もいます。そのような人にとっては「お肉」は「牛や豚の命を伝えるもの」であって、単なる「物」でありません。死んでいるのに「生命を持つもの」なのです。このように、人間においては「想像する働き」が世界を創っているのです。そして人は「自分が想像した世界」を生きているのです。「想像する能力」を育てる事は、「世界を創り出す能力」を育てる事になるのです。子ども達は、言葉と出会い、物語と出会い、仲間と出会い、自然と出会う事でその能力を育てています。でも、大人達は子ども達に「言葉」を伝えていません。「物語」を与えていません。「仲間」や「自然」と出会う機会も与えていません。そして、つながりから切り離された「物の世界」に閉じ込めようとしています。ちなみに、想像力が欠如した子は群れて遊ぶことが出来ません。工夫することも、失敗から学ぶことも出来ません。そして自分のことばかり考えています。***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.23
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最後にワークの告知が書いてあります。昨日は、見ただけでは「リアル」と「非リアル」の区別がつきにくくなってしまった時代、「リアル」と「非リアル」の溝を埋めるのは「想像力」だけなんです。でも、今の時代、その想像力が欠如している大人があまりにも多すぎるのです。子どもの想像力を潰すような活動はいっぱいありますが、子どもの想像力を育てるような活動はあまり見かけません。と書きましたが、これは、子ども達と話をしていても、お母さん達と話をしていても強く感じることです。お母さん達は子どもの成績を気にします。成績だけを気にします。良ければ喜び、子どもを褒めます。悪ければ悲しんだり怒ったりして、子どもを叱ったり、追い立てたりします。でも、その成績が何を調べているのか、何を意味しているのかということについては考えません。成績は子どもに関するデータの一つですが、「何を調べた結果のデータなのか」「それはどういうことを意味しているのか」ということを考えることなく、先生によるデータ評価の結果だけを見て子どもを褒めたり、追い立てたりしているのです。ここにも「想像力の欠如」があります。自分で調べ、自分で考え、自分で想像することなく、テレビや、政治家や、医者や、学校や、先生や、身近な人の言うことをそのまま信じてしまう人も、「想像力が弱い人」、「自分の頭で考えない人」です。コロナ騒動下で露呈したようにそういう人の方が扱いやすいですから、子どもや大衆を思い通りに管理したい人たちは、子どもの想像力や思考力を育てるような教育には力を入れません。戦争中の教育でも、子ども達は自分の頭で考えることを否定されていました。そして、その流れは戦後も続いて来ました。なぜなら、戦争中に自分の頭で考えることを否定するような教育を受けた人たちが、「追いつけ、追い越せ、消費は美徳だ」というスローガンの基に、ロボットのように頑張って日本の社会を再生してきたからです。そのため、戦争が終わった後でも価値観や思考の多様性が生まれなかったのです。今の日本にあるのは「バラバラ」であって「多様性」ではありません。その違いは、「バラバラ」はぶつかり合いますが、「多様性」は支え合い、共存することができます。(「みんな違う」というだけでは「多様性」ではないのです。これは子どもの群れでも同じです。)教育現場では「正解」を固定しています。答えは合っていても、「先生が教えた解き方」で解かないと×にされてしまいます。感想文も、本当に自分が感じたことをそのまま素直に書くと指導されてしまいます。学会でもまだ確定されていないようなことでも、学校では確定された事として教えています。皆さんは「1192(いい国)つくろう 鎌倉幕府」と覚えたかも知れませんが、皆さんが覚えた正解は、今では正解ではないですからね。ちなみに宮沢賢治は生徒に質問されたとき、最先端の研究を紹介しながら「こういう意見もありますが、こういう意見もあります」と色々な意見を子ども達に伝え、正解を固定しなかったそうです。こういう教育を受けた子ども達は自分の頭で考えるようになるでしょうね。以下は、谷川俊太郎が描いた絵本です。「考えるとはどういうことなのか」、「想像するとはどういうことなのか」ということの一つの形がこの中に描かれています。えをかく 新版 (講談社の創作絵本) [ 谷川 俊太郎 ]***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.22
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昔は、たとえ子どもに嫌われても、「これはまだ子どもには早い」とか、「これは子どもに与えない方がいい」などという「大人の判断」をする大人がもっといたような気がするのです。でも最近は、そういう判断をする親も大人も減ってきたような気がします。最近の大人たちは、「子どもの成長」、「心の成長」、「人間としての成長」という視点から、「子どもに与えてもいいもの」、「与えるべきもの」、「与えてはいけないもの」を判断しなくなりました。というか、「判断基準」そのものが消えてしまいました。むしろ、子どもの欲求をお金儲けにつなげようとする大人や、子どもが望むものを子どもに与えて子どもに好かれようとする大人の方が増えてきたような気がするのです。そこで求められているのは「安全性」だけです。ただし、「身体的安全性」だけです。「心への安全性」は無視されています。それを買い与える親たちも「身体的安全性」は気にしても「心への安全性」は、ほとんど気にしません。からだに害があると大騒ぎしますが、心に害があっても気にしません。そもそも気付きません。そういう視点を失ってしまっているからです。子どもたちの話を聞いていると、ホラー映画を見ている子が結構いるようです。血が飛び散るようなスプラッター映画を見ている子も多いようです。聞くと、お父さんと一緒に見ている子が多いです。そしてお父さんはそれを止めません。しばらく前に話題になった「鬼滅の刃」でも、リアル映画化したら見るに耐えないようなホラーシーンの連続ですよね。「話題の映画だったら見たけど、途中まで見て気持ち悪くなったのでやめた」と言っていたお母さんがいましたが、私はその反応の方が正常だと思います。(ちなみに、私はあの映画は見ていませんが、「鬼滅の刃」が話題になり始めたころに、興味があったのでネット動画で基礎知識を得る程度には見ています。)「リアルじゃないんだからいいじゃないですか」と言う人も多いと思いますが、今の時代「リアル」と「非リアル」の間の境界は曖昧です。実際、軍隊には、ゲーム感覚で実際に人を殺すシステムだって存在しているのですから。兵隊が罪悪感を感じたりPTSDに苦しむことがないように、意図的に人を殺すリアル感を消しているのです。見ただけでは「リアル」と「非リアル」の区別がつきにくくなってしまった時代、「リアル」と「非リアル」の溝を埋めるのは「想像力」だけなんです。でも、今の時代、その想像力が欠如している大人があまりにも多すぎるのです。また、想像力を育てるような教育も存在していません。子どもの想像力を潰すような活動はいっぱいありますが、子どもの想像力を育てるような活動はあまり見かけません。「鬼滅の刃」が大好きな人は、「家族愛を謳った素晴らしい映画だ」と言いますが、どれだけ作品の質が高くても、「それを子どもにも見せていいものなのかどうか」ということは別の問題のはずなんです。「家族愛がテーマだからOK」、「子どもが主人公なんだから子どもが見てもOK」ということなのでしょうか。それだけで、その是非を判断しているのでしょうか。家族はバラバラ、夫婦の会話もない、日常的に子どもを叱り、追い立て、子どもの言葉に耳を傾けない子育てをしているような人から「家族愛が素晴らしいのよね」という感想を聞くと、何と答えていいのか困ります。
2023.10.21
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(昨日の続きを書こうと思っていたのですが、強く気になることがあったので、違う内容になってしまいました)日々、色々なお母さんたちと話をしていて強く感じることがあります。それは、最近のお母さんたちの子育てには「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」と、「大人の都合や欲求を子どもに押し付ける子育て」の二種類しかないのではないかということです。親と子の間に「支配するか」「支配されるか」の一方通行の関係しかないようなのです。どうやら、「人間として対等な関係」、「支え合う関係」、「つながりあう関係」、「伝承する関係」が親と子の間から消えてしまったようなのです。このような変化が起きたのは「親と子の間」だけではありません。社会全体において大人と子どもの間の人間関係がこの二種類だけになってしまったような気がするのです。企業は、そんな「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」をしているお母さんに向けて、子どもの要求をかきたてる様々な商品を開発したり、子どもが行きたくなるような場所を作ったりしています。お母さんたちも、頑張って子どもの要求に合わせているお母さんを「良いお母さん」だと思い込んでいます。子どもも、いつも「自分の欲求をかなえてくれるお母さん」のことが大好きです。そして、幼いころから自分の欲求を満たすような遊びしかしてこなかった子は、「自分の成長を支えてくれるお母さん」よりも「自分の欲求を満たしてくれるお母さん」の方が好きになるのでしょう。そのため、お母さんたちは子どもに嫌われないように、一生懸命に子どもの期待に応えようと頑張っています。でも、いくら子どもの期待に応えても、子どもがちゃんと成長していくわけではありません。大人が道を指し示さなければ、子どもは自分の成長の方向性を見失い、進むべき道が見えなくなり、不安になり、どんどん迷路にはまって苦しくなっていきます。その結果、自分と他の人と比較する事でしか自分の価値を感じることが出来なくなってしまっています。それは例えば、子どもを全く知らない土地に連れて行って「自由に好きなところに行っていいよ、何をしてもいいよ」と放り出すようなものです。これは大人でも同じですが、知らない場所で放り出されたら、まず自分の安全を確保しようとします。そして、目に見える範囲で面白そうな所に行き、目に見える範囲にいる人と同じように行動しようとするでしょう。とにかく「見える範囲」のことしか分からないのですから。目に見える世界の向こう側にどんなに素晴らしい世界が広がっていても、そこに行こうとはしないでしょう。それを教えてくれる人がいないのですから。それを伝え、そこに導いてあげるのが「子どもの成長を支える」ということだし、「大人の役割」なのではないかと思うのですが、自分もまた、「その向こうの素晴らしい世界」を知らないまま育ってしまった人にはその導きが出来ないのです。そして、自分自身もまた「自分の可能性」に蓋をして「目に見える身近な世界」の中だけで生きています。でも、「自分自身の可能性」を大切にしようとしていない大人に、「子どもの可能性」を育てることが出来るわけがないのです。最初に、最近の子育てには、「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」と、「大人の都合や欲求を子どもに押し付ける子育て」の二種類があると書きましたが、でも、この二つは基本的には同質なので簡単に入れ替わります。子どもが幼くて、簡単にその要求に合わせることが出来るうちは子どもに合わせることでよいお母さんを演じようとします。でも、子どもが成長して活動範囲が広がり、自分自身の欲求や意志が強くなり、そう簡単にその要求に合わせることが難しくなってくると、今度は一転して、子どもに自分に合わせるように求め始めるのです。子どもに対して、「お母さんの要求に応えるように」、「お母さんの生活リズムを壊さないように」求めるのです。そのようなお母さんは子どもの言葉に耳を傾けません。子どもの気持ちを無視します。自分に都合が悪いことは全部無視します。何かあったらその責任を全て子どもに押しつけます。そして「あんたのせいで」と叫びます。先日もスーパーでそういう状態の親子を見かけたので、ちょっと吐き出したくなって書かせて頂きました。
2023.10.20
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最初に、ワークの告知をさせて下さい。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>***************子どもにとって「遊び」は「呼吸」のようなものです。ただし、呼吸を止めたら死にますが、遊びを止めても子どもが死ぬことはありません。だから大人達はそんなに深く考えることなく、子どもの遊びを止めてしまうのでしょう。でも、死にはしなくても、子どもから遊びを奪ったら子どもの「成長」は止まります。「肉体の成長」ではなく「心の成長」が止まるのです。それは、「人間らしさの成長」、「魂の成長」といったようなものです。でも現代人は、「知能の成長」には興味があっても、「心の成長」にはあまり興味がありません。また、それがどういうものなのか深く考えようともしません。子どもは本能的に「心の成長」が止まる危険性を感じているので、大人の目を盗んで必死になって遊ぼうとします。大部分のお母さんは、そんな子どもの姿にあきれ、諦めて、ある程度の遊びは許容していますが、堂々と遊ぶことが出来る時間も、場も、一緒に遊ぶ仲間も与えてもらえません。現代の子ども達は「子どもの正当な権利」としては遊ばせてはもらえないのです。そんな「大人の目を盗んでやる遊び」はどうしても歪んでしまいます。「イジメ」という形で遊ぼうとする子もいます。自分の世界に閉じこもって一人だけで遊ぼうとする子もいます。また、一人だけで出来る遊びが中心となってしまうため、子どもの世界が広がりません。それは、「好奇心の欠如」、「他者への無関心」、「成長欲求の低下」という形で表れています。最近の子ども達と話しているとそいういうことを強く感じるのです。<明日に続きます>
2023.10.19
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科学には「再現性」が求められます。同じようにやったら同じ結果にならなければ「科学」としては認められないのです。その対極にあるのが「芸術」です。絵を描くことや踊りを踊ることそのものが「芸術」ではありません。もう二度と再現できない「一期一会」の世界で色々体験し、学び、それを楽しむのが「芸術」なんです。再現不能なものに真剣に取り組むからこそ価値があるのです。ですから、AIロボットが絵を描いたり、踊りを踊ったりしてもそれは芸術ではないのです。また、マニュアルに従って描いたり、踊ったりしてもそれは芸術ではありません。幼稚園の子に絵を描かせるとき、絵の描き方をマニュアル化して描かせている幼稚園もあるようですが、それは「作業体験」であって「芸術体験」ではありません。またそれは「人生」そのものでもあります。「人生」は「芸術」なんです。それなのに多くの人が人目ばかりを気にして、人と競争ばかりして、自分の「芸術としての人生」を台無しにしています。まあそれも「人生」なんですが、死ぬ前になって「私の人生空っぽだった」と気付いてもやり直しが出来ないのです。自分の人生を自分のものとして大切に生きるためには、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意志で判断し行動する必要があるのです。とにかく「あなたの人生」は「あなたのもの」なんですから。自分の人生には自分で責任を取るしかないのです。そして、「子どもたちの遊び」もまた芸術です。子どもたちは「一期一会」の世界で遊んでいるのです。よく「子どもとの遊び方を教えてください」という人がいますが、子どもとの遊びで一番大切なのは「一期一会」を共有し、一緒に楽しむことなんです。「方法」ではないのです。方法論には再現性があります。そして、方法を学んだ人はその方法を繰り返すことで遊ぼうとします。でも、そのような遊びには「形」はあっても「命」がありません。また、方法にこだわる人は「遊び」を「生き物」として扱うことが出来ません。そのため、最初はいいのですがすぐ飽きます。子どもの遊びは「生き物」なんです。ですから、常に変化しています。それは遊びを通して子どもが成長している証でもあるのです。遊びを方法論で考えてしまうと、その「子どもの成長」に対応できなくなってしまうのです。「子どもの遊び」に付き合う場合も同じです。子どもと「一期一会」を共有し、今しかできないことや、今という瞬間を一緒に楽しめばいいのです。すると子どもは、大人であっても「仲間」として受け入れてくれるのです。でも、人目を気にしながら生きている人にはそれが難しいみたいです。
2023.10.18
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昨日は、古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。と書きましたが、今日はこの「芸術」について考えてみます。国語辞典には、「芸術」(gooのネット辞書から)(1)特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられる。(2)芸・技芸。わざ。「凡(およそ)―は、…切差琢磨の功を積まざれば、その極に至りがたし/読本・弓張月(前)」英和辞典では「Art」芸術, 美術; 技術, 技能; ((集合的)) 芸術作品; (pl.) 学芸 (liberal arts), 人文科学; 人工; 技巧, 熟練; (時にpl.) 術策; 〔古〕 学問.と書いてありました。この両者を比べてみると、日本人が感覚として持っている「芸術」と、英語の「Art」は同じではないことに気付きます。日本人が「芸術」という言葉を使うと、なにか「高尚」な感じがします。それは「芸術」という概念が、明治の頃に欧米の美術品や、美しさを見せる芸術的な活動と共に入ってきたからなのでしょう。でも、英語のArtの方はもっと生活に即したもののようです。英語では、料理人や大工まで熟練するとArtになるのですから。どうも日本人は“美”にこだわる民族のようです。そして、私の印象では一般的に“美”という言葉は、“俗”という言葉とは対立したイメージを持っているようです。日本人は、“美”に“聖”なるものの匂いを感じるのかも知れません。武士道、茶道といった“道”のつくものも一つの“美学”によって支えられています。そこで語られる美学は“俗”と対立した論理、概念で語られています。そのような日本人にとって芸術は特別なものなんです。そして、実際多くの人が芸術は美術館や劇場にしかないと思いこんでいます。でも、欧米におけるアートは必ずしも“美”を目的としたものではありません。日常生活における自己表現も、歩き方も、話し方も“技術”と言う視点で見れば全てアートなのです。つまり、日本人が考えるような“芸術”は、欧米人から見たら“美を目的としたアート”と表現するしかない、狭い領域のことなのです。(つまり、欧米には美を目的としないアートもあるということです。)この違いは受動的に生きてきた日本人と、能動的に生きようとしてきた欧米人の感覚の違いかも知れません。日本人は芸術を“感覚に響くもの”として捉え、欧米人は“行動によって表現するもの”として捉えているのだろうと思います。もしかしたら欧米人は、“行動すること”、“表現すること”の中にこそ、“美”を感じているのかも知れません。そして、私が“芸術”という言葉を使う時には実はこの英語の“Art”に近い意味で使っています。多分、シュタイナー教育の中で“芸術”と訳されている言葉も、本来の意味はこの“Art”に近いものだろうと思います。つまり、私から見たらけん玉も、コマ回しも、竹馬も、お絵描きも、ダンスもみんな“芸術”(アート)なんです。普通は、子どもの歌や絵は“芸術”としては扱われていませんが、私から見たらそれらも立派な“芸術”です。私は、子どもの生命活動から生まれたもの、また子どもの生命活動と共鳴するものを“芸術”と言う言葉で表しています。そして、それは大人の芸術とは異なります。なぜなら、大人の芸術は自由意志の現れですが、子どもの芸術は生命活動の現れだからです。でも、その子どもの芸術の中には大人の芸術の全てが含まれています。絵画も、歌も、踊りも、文学も、演劇も、技術も、学問も、「Art」のところに書いてあった全ての要素が、子どもの芸術の中には入っているのです。大人の芸術と子どもの芸術は異なりますが、大人の芸術は子どもの芸術の延長にしか存在できないのです。大人は幼い時に直感で得たものを意識を使って再現しているだけなのです。それが大人の芸術なんです。人々がまだ自然の中で素朴な生活をしていた頃には、大人の芸術も子どもの芸術と似たようなものでした。でも、、文明や文化の進歩とともに、大人の概念世界が複雑になり、それにともなって大人の芸術が芸術本来の生命活動からどんどん離れ、知的で難しくなってきてしまったのです。だから、大人たちは子どもの芸術を幼稚なものとしてしか理解できなくなってしまっているのです。でも、私は原点に立ち返って、子どものそのような活動をあえて“芸術”と呼んでいます。大人たちは意識によって芸術を作りますが、子どもたちは生命活動によって芸術として生きているのです。ですから、子どもたちを芸術として関わろうとする時、子どもたちは生き生きとしてきます。子どもたちが幼い時に、意識的にそのような子どもの芸術的な活動を支援することは、子どもの生命活動を支えるだけでなく、子どもが大人になった時の可能性を大きく広げることにもつながるのです。子どもが大人になった時に花を開かせるための種は、すべてこの時期の芸術的な活動の中で生まれるのですから。
2023.10.17
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人類は、不便、危険であることを嫌い、どのようにしたら不便や危険を解消出来るのかということを色々と考え、研究してきました。その結果、世の中はどんどん便利で安全になりました。今では、お料理の作り方など知らなくても、包丁など使えなくても、美味しいお料理を食べることが出来ます。歩くのが苦手でも、乗り物を使えば歩くよりずっと早く移動することが出来ます。昔は鉛筆はナイフで削りましたが、今では電動鉛筆削機の穴に差し込むだけでアッという間にきれいに削れます。自分で考えなくても、本やインターネットなどで調べればすぐに答えが得られます。また、外灯で夜は明るくなり、道は平になり、突然襲ってくる獣はいなくなりました。(今では人間が一番危険です)“食べ物が腐っているかどうか”、“これは食べられるかどうか”などということを自分で判断しなくても済むようになりました。子どもが木登りしていて木から落ちてケガをしたら、昔は“木から落ちか子が下手だった”で済まされましたが、今ではその木の管理者が責任を求められ、下手をすると木が切られてしまいます。道の段差にけつまずいて転がれば、昔は“気を付けなさい”で終わりでしたが、今では道の管理者が文句を言われます。便利が増え、危険が少なくなればそれにともなって、人間の機能は低下します。人間の機能はそのように出来ているからです。お年を召して機能が低下した人や、障害を抱えている人にとってはそれは意味のある大切なことだとは思いますが、今その機能を育てなければならない年齢の子どもたちにとってはそれはあきらかに子どもの成長を妨げる邪魔者なんです。それでも、昔のように大人の社会と子どもの社会が分離していた時代には大人の社会が便利になっても、子どもたちは外で走り回っていました。でも、今、子どもたちは大人と同じ空間で生活しています。同じ物を使い、同じ環境で生活しているのです。ですから、当然子どもたちもその“便利”と“安全”を享受しています。但し、“自分の成長”と引き替えにです。昔の子どもは平気で何時間も歩き、遊び回りました。でも、今の子どもはそんなには歩きません。移動する時には自転車を使います。何時間も子どもを歩かせるイベントもあり、何時間も歩き通す子どもも確かにいますが、でも、イベントとして歩くのと生活の中で歩くのでは心とからだに対する影響の与え方が根本的に異なります。現代人は不便や苦労を楽しみません。昔は、“若い時の苦労は買ってでもしろ”と言いましたが、今の若者にはその意味は理解出来ないでしょう。苦労したら、苦労した分のお金をもらわないことには割が合わないと思っています。でも、こんなに便利になった世の中にもまだ何百年も前と同じように“不便を楽しむ”活動もあるのです。それが、手仕事や芸術の分野なんです。それらの分野ではむしろ“便利・簡単”は嫌われます。不便だからこそ楽しいのです。そして、自分の心とからだと知性と魂の全てを注ぎ込む必要があります。つまり、丸ごとの自分を投入しないことには芸術的な活動は出来ないのです。でも、簡単便利を求める現代人は芸術的な活動を楽しむことも放棄し始めています。活動自体を楽しむことよりも、上手を求めるようになったからです。AIを使えば簡単にプロが描いているような絵を作ることが出来ます。そのうち絵描きは絵筆を持つのではなく、キーボードを叩くようになるでしょう。でも、人間が芸術的な活動を楽しむことが出来なくなったら、その時点で人間から「人間らしさ」は失われてしまうのです。古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。
2023.10.16
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子どもの育ちに一番大きな影響を与えているのは、「お母さんの生き方」です。どういうしつけをして、どういう教育をして、何をやってあげて何をやってあげなかったかではありません。「お母さんの生き方」は「お母さんの価値観」によって導かれます。そしてその価値観に従って子どもをしつけ、子どもと関わり、子どもと会話し、子どもと遊び、子どもにオモチャを与え、子どもに色々な学びや体験を与えようとしています。「どういうおやつを与えるのか」という事まで、お母さんの価値観が影響しています。その時、お母さんの生き方や価値観がしっかりとしているのなら、そのような「子どもの育ちに関わる全てのこと」に一貫性が生まれます。一貫性があるので子どもの心やからだの中にお母さんの価値観が定着していきます。子どもも安心します。そして、自分の考え方や生き方を育てる事が出来るでしょう。先日、「兄弟げんかを止めさせるにはどうしたらいいのでしょうか?」などと聞いてきた人がいましたが、その時私は「では、お母さんはどういう解決法を求めているのですか?」「兄弟の関係がどのようになって欲しいと思っているのですか?」と聞きました。ケンカを止めさせるだけなら、二人を引き離したり、大きな声で叱れば止めるでしょう。でも、それを繰り返していると兄弟の仲が悪くなります。ケンカから痛みや悲しみを学ぶことも、仲直りの仕方も分からなくなります。そして、お母さんとの関係も悪くなります。そして、仲良く遊ぶのではなく、お互いに関わらないで別々に遊ぶようになるでしょう。「そういうことを望んでいるのですか?」ということです。また、自分の生き方や価値観がしっかりとしていない人は、社会の流れや、周囲のお母さんの考え方ややり方に振り回されます。「優しい子に育って欲しい」と願っている人は多いですが、願うだけで結果が得られるのならそんな楽なことはありません。そんな時は、お母さん自身が困っている人を助けたり、子どもに苦しんでいる人のことを伝えたり、絵本やお話しをいっぱい聞かせて「人の心」に対する感受性を育ててあげるしかないのです。「なんでもっと優しく出来ないの!!」と怒鳴っているお母さんがいますが、子どもに優しさを求めるのなら、それを自分自身の生き方の中で子どもに見せていくしかないのです。お母さんや大人が、「言っていること」と「やっていること」が違うと子どもは混乱するのです。そして、楽や自分を守ることばかりを考えるようになるでしょう。テレビやゲームに関しても、単に「みんながやっているから」とか「自分が楽だから」ではなく、お母さん自身の生き方や考えの基に与えるのならそんなに心配しなくて大丈夫なんです。時々、幼稚園時代はテレビもゲームもスナック菓子も与えず、「子どもは遊ぶのが一番」という子育てをしていたのに、小学校に入って他の子は字が書けて、算数が分かって、英語が話せたりすると急に焦ってしまい、突然、それまでとは180度違う子育てを始めてしまうお母さんがいます。子どもは混乱するでしょうね。また、「幼児期には勉強を教えない」という思想を持ったシュタイナー幼稚園に通わせているのに、幼稚園から帰ってきたら塾に通わせているお母さんもいます。心配なのでしょうね。でも、そういう一貫性のない子育てを受けた子は、自分の価値観や考え方を育てることが出来なくなるでしょうね。それは、子どもが思春期を迎えることに問題になってきます。また、自分の生き方や価値観がしっかりとしていないお母さんは、周囲の声に振り回されてしまいすぐに「子育ての迷路」に入ってしまいます。そして苦しくなります。そしてそういうお母さんを見て育っている子も、自分の人生の道筋を描くことが出来なくなります。子育てで一番大切なのは、どういうしつけをして、どういう教育をして、何をやってあげて何をやってあげなかったかではなく、お母さん自身が自分の人生を自分の価値観に従ってちゃんと生きているかどうかなんです。
2023.10.15
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12日に群馬に呼ばれてワークをしてきました。私は色々なところから呼ばれていますが、群馬は初めてです。大勢の方が参加して下さいました。みんな素敵なお母さん達でした。20名定員でしたが、「ベーゴマをやったことがある人?」と聞いたら、2/3ぐらいのお母さんが手を上げたのにはビックリしました。他の所でそんな質問をしても2,3人いるかいないかですから。これだけで、どういうことを大切にして、どういう生活をしているお母さん達が参加して下さったのか分かりますよね。で、その夜は呼んで下さった方の家に泊めて頂きました。その方の家は古民家を買い取りリフォームしたすごく大きな家です。二階は蚕を飼っていた巨大な空間がそのまま残っていました。その方は昭和の初め頃にタイムスリップしたような家で、昭和の初め頃にタイムスリップしたような生活をしていました。お子さんは小二(女子)、年中(男子)、2才(?・男子)の三人ですが、テレビもありません。もちろんゲーム機もありません。小二のお姉ちゃんの好物は「ニンジン」で、自分でニンジンを切ってパクパク食べていました。おやつで柿が出たときは、小二(女子)、年中(男子)の二人は自分で包丁で切って好きに食べていました。普通の家ではハサミすら「あぶないから」と言って自由に扱わせないのに、この二人は包丁も普通に使っていました。テレビもゲーム機もない、オモチャすらほとんどない状態で子ども達は退屈していたか、お母さんにまとわりついていたか、というと全くそんな事はありませんでした。にぎやかなくらいズーッと遊んでいました。その家の中にはハンモックが二つと縄ばしごがかけてあって、置いてあるのはジャンベ(太鼓)や様々な楽器類です。レゴのようなオモチャもちょこっとありましたが、本当に「ちょこっと」です。お父さんの仕事は農業で、子ども達も時々手伝うようです。こういう生活は今の時代では珍しいですが、でも、私が幼い頃はこれが当たり前でした。(ハンモックや縄ばしごやジャンベは当たり前ではありません出したけど・・・)私が子どもの頃だけではありません、人間は何千年、何万年とこのような生活を繰り返してきたのです。私が幼稚園ぐらいの時には、家にテレビがあるのは相当なお金持ちだけでした。ゲーム機なんてまだ発明すらされていません。オモチャも、木やブリキで出来たものはありましたが、プラスチックで出来たものはほとんどありませんでした。(セルロイド製はありましたけど)電気で動くオモチャもなければ、ベイブレードのような簡単に回せるコマもありませんでした。凧などの「あそぶもの」はみんな自分で作りました。ですから、男の子はみんな「肥後守」というナイフを持って歩いていました。「遊び」は、自分一人で何かを作ったり、探検や冒険をしたり、仲間と群れて昔遊びをしたり、大人に隠れて「危ないこと」をやったりしていました。そして子ども達はそういう生活に満足していました。そういう「なにもない」状態の中で、自分の力で色々発見し、色々な遊びを創り出していました。遊びの伝承もあったし、子どもと子どもだけでなく、子どもと大人の間にも様々なつながりがありました。お店に買い物に行けば「○○ちゃんお使いかい」などと、名前で呼んでもらえました。そういうつながりがいっぱいあったので、寂しいと感じることも、退屈だと感じることもありませんでした。路上で遊んでいても、大きな声で遊んでいても叱られませんでした。最近の子は「遊んでくれるもの」がなかったり、「遊んでくれる人」がいなかったりするとすぐに「退屈だ」と言いますが、そういうものがない時代の子ども達の方が退屈を感じなかったのです。「遊んでくれるもの」がなくても、「遊んでくれる人」がいなくても、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動することで、自分自身の「学び」と「成長」を感じることが出来たからなのでしょう。実際、子ども達はそういう素朴な生活の中で色々な体験をし、色々なことを学んでいたのです。他の人と幸せな関係を築く能力、他の人に自分の考えを伝え、他の人の考えを聞き、理解し、共感する能力、目的を共有し助け合う能力、自分の頭で考え、工夫し試行錯誤して、頭の中のイメージを具体的な形に作り上げていく能力、昔の子ども達は毎日の生活や遊びの中でそういう能力を育てていたのです。でも、テレビやゲーム機や、便利なオモチャや、楽しく遊ばせてくれる場が色々と登場することで、そういう能力を育てる必要が消えてしまいました。人間と関わらないのですから、人間として成長する必要もなくなりました。子どもが「退屈だ」と言うと、「自分の子育てがちゃんと出来ていないのではないか」と感じ、退屈しないように先回りして、色々な刺激を与えるお母さんも増えてきました。で、どうなったか・・・・。渡りをする蝶、「アサギマダラ」もいました。
2023.10.14
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人間は感覚の働きを通して、世界と、自然と、社会と、自分自身とつながり、幼い頃からのそのつながりの中で「心」や「からだ」が形成されるので、その人の感覚の状態が、そのまま「その人の心とからだの状態」に直結してきます。ですから、「その人はどういう感覚を持っている人なのか」ということが分かれば、「その人はどういう人なのか」ということまで大まかに分かります。また、「子どもの感覚育て」がそのまま「子どもの心とからだ育て」にもつながります。現代人は子どもの「頭」ばかりを育てようとしますが、「頭の働き」もまた「感覚の働き」の支配下にあるので、「頭育て」ばかりをさせられ「感覚育て」が出来なかった子は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動することが困難になります。ただ、赤ちゃんはみんな同じ感覚の状態で生まれてくるわけではありません。「感覚の初期値」にはかなり大きな個人差があるのです。最初から匂いに敏感な子、音に敏感な子、色に敏感な子、触覚に敏感な子、味に敏感な子、そしてその逆に、それらに鈍感な子もいます。この違いが気質の違いとなって現れて来ます。実は、「気質の違い」は「性格の違い」ではなく「感覚の違い」なんです。それと、「五感」と呼ばれる感覚は「自分と他者との関係性の中で必要となる感覚」ですが、「バランス感覚」のように、「自分自身を維持するために必要な感覚」もあります。からだを動かしたときに、自分のからだの動きを感じる感覚もあります。それらの感覚があるから、目を閉じた状態でも歩けるわけです。また、「お腹の調子」や「からだの調子」や「意識や心の状態」を感じる感覚もあります。みなさんにも「今日はなんか頭がすっきりしない」ということがあると思いますが、そういうことを感じるための感覚もあるということです。最近は自己肯定感が低い人が多いですが、その自意識を支えている感覚もあります。「自分」を感じることが出来るから、人は「自己肯定感が低い自分」を感じることが出来るわけです。「自分」を感じる感覚がなければ、自意識も生まれないし、自己肯定感が低いことに悩むこともないのです。これらの「からだの働きとつながった感覚」は、様々な「からだの体験」を通して育って行くので、子ども時代にどのような体験をしたのかによって、育ち方に大きな違いが出てきます。「バランス感覚」自体は誰にでもありますが、室内でばかり遊んでいた子と、屋外で野山を走り回り、木登りをしたりして遊んだ子とではその育ちに大きな違いが生まれるのです。「からだの動きを感じる能力」も、子どもの時の体験の質によってその育ちに大きな違いが生まれます。「自意識の育ち」もまた、「からだの活動」とつながっています。「からだの活動」を通して他者と出会うことで、人は「自分」という存在とも出会えるからです。木登りをすることで「木とは違う自分」に気づきます。犬と遊ぶことで「犬とは違う自分」に気づきます。他の子と遊ぶことで、「他の子とは違う自分」に気づきます。何かを作ったりする活動でもその素材との対話や、自分が作った作品を通して「自分」と出会えます。つまり、子どもが「自分」に気づき、「自分」を育てるためには、感覚の働きを通した「他者との出会い」が必要だと言うことです。ただし、「支配できない相手」との出会いでないと意味がありません。「支配できる相手」は自分を映す鏡になってくれないのです。ですから、室内で、自由に支配できるオモチャやゲームなどで一人っきりで遊んでいるだけでは、自分でも「自分」が分からなくなってしまうのです。そしてそれは、大きな不安につながります。これらの「からだの働きとつながった感覚」の他にも、さらに他の感覚もあります。それは、「心の働きとつながった感覚」です。「五感の働き」や「からだの働きとつながった感覚」は、人によって程度の差は大きいですが、その違いは「程度の違い」に過ぎません。ですから、古代の人も現代の人も、日本で育った人も、アメリカやアフリカで育った人も、「五感の働き」や「からだの働きとつながった感覚」の質にはそれほど大きな違いはありません。だからオリンピックでも、世界中の人が共通のルールで戦えるわけです。でも、「心の働きとつながった感覚」は、全く人それぞれです。その感覚に優れている人もいれば、その感覚が全くない人もいます。その違いは「文化の違い」として現れます。日本語には、「オノマトペ」と呼ばれる「視覚的な感覚を音化した言葉」がありますが、これは欧米の人にはない感性のようです。「美醜を感じる感覚」も全て「心の働きとつながった感覚」です。ですから、分かる人もいれば、どんなに説明しても分からない人もいます。このような「心の働きとつながった感覚」は先天的なものではないので、後天的に学ぶことが出来なかった人には理解出来ません。日本人にはワビ・サビを感じる感性や、視覚的な現象に音を感じる感性があります(大分弱くなりましたけど)が、これらの感覚は日本語を学ぶことで育ちます。日本語が日本人の心を作り、日本人の感性を目覚めさせているのです。ちなみにシュタイナー教育では人には12種類の感覚があると言っています。それは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、熱感覚、運動感覚、平衡感覚、生命感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚などです。詳しいことはご自分でお調べ下さい。
2023.10.13
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昨日、「心の問題」の背景には「からだの問題」があり、「からだの問題」の背景には「感覚の問題」があるのです。でも、現代社会では「感覚の働き」は必要とされていません。また、それを育てる場もありません。と書きましたが、でも、このことがなかなか理解されません。シュタイナー教育にはこのような視点からの教育法があるのですが、他には見当たりません。モンテッソーリ教育も「感覚の育ち」は大切にしているようですが、シュタイナー教育とは視点が異なります。「モンテッソーリ教育」で大切にしている感覚は「客観的に観察し、判断するための感覚」です。この感覚能力が育つと「客観的に見、感じ、考える能力」が育ちます。これはこれで大切な能力なんですが、今の時代、決定的に足らないのが「その対象とつながり、味わうための感覚」なんです。それは、「青い色」を「これは青だ」と判断する能力ではなく、「青とつながり、青を味わう能力」です。「あ」という声を聞いて「これは〝あ〟です」と判断する能力ではなく、「あ」とつながり、「あ」を味わう能力です。どうですか、意味不明でしょ。そして実は、この感覚能力は、先日来書いていた「武道」でも必要になるのです。武道においても「客観的に観察し、判断するための感覚」は必要です。でも、それだけでは深い世界に入っていけないのです。スポーツにおいては相手は敵であり、他者です。だから「客観的に観察し、判断するための感覚」が必要になります。でも、力を使わず、相手と対立せず戦う武道ではこの感覚はかえって邪魔になるのです。力も使わず、相手と対立することもなく相手を倒すためには、相手と一体化する感覚が必要になるからです。一体化した状態で相手の力を使い、それに合わせることで相手の動きを誘導するのです。だから相手は戦っている気がしないのに倒されてしまうのです。ブルースリーは「Don't think! Feel.(考えるな!感じろ)」と言いましたが、それがこれです。太極拳には、その感覚を養うための「推手」(すいしゅ)という練習法もあります。こちらを見ると、それがどんなものか分かります。それほど多くはありませんが、私もやりました。ですから、ブルースリーが言うところの「Feel」は私たちが一般的に使っている「感じる」ではないのです。私たちが一般的に使っている「感じる」は「客観的に観察し、判断するための感覚」の方だからです。そしてそれは「考える」という頭の働きとつながっています。ブルースリーは「Don't think」という言葉でそれを否定したのです。川や海などで泳ぐときには、いちいち頭で考えずに川の流れや波と一体になって泳ぐ必要がありますよね。自分の想い通りに泳ごうとするのではなく水の流れや波と一体になって、それに逆らうのではなく、むしろそれを利用して泳ぐのです。それが出来ないと溺れてしまいます。それが、ブルースリーが言う所の「Feel」なんです。これは、人々がまだ自然とともに生きていた時代には当たり前の感覚だったでしょう。でも、便利な機械があればこの感覚は必要がありません。川の流れや波を感じ、それを利用する能力がなくても、船があれば好きなところに行くことが出来るのですから。その場合、必要になるのは「流れや波を感じる能力を育てる」ことではなく、「船の操縦法を学ぶこと」です。問題は、現代人が私たちの一番身近にあって、絶対に離れることが出来ない「からだという自然」まで、この感覚で支配しようとし始めたことです。その結果、人々は「からだの声」を聴こうとはしなくなりました。具合が悪いときには薬を使って黙らせようとします。でもそれを繰り返していると、心の方に問題が表れてくるのです。心とからだは一体ですから。
2023.10.11
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今、「自分に自信がないお母さん」や「不安が強いお母さん」が非常に多いです。あきれるくらい多いです。そういうお母さんは、分からないことがあっても自分の頭で考えようとしません。考えるのではなく正解を探そうとするのです。そして、正解が見つからないと悩みます。でも、子育てや人生の正解なんてどこにも存在していません。だから、自分の頭で考えて色々と工夫し、やってみればいいのですが、自分に自信がないお母さんにはそれが出来ないのです。そして、毎日同じことを繰り返します。でも、当然のことながら、同じことを繰り返しても同じ結果にしかなりません。そのため、「抜け出すことが出来ない檻」の中に閉じ込められているような苦しさを感じます。そういうお母さんに育てられている子だって苦しいでしょう。自分の人生に希望を持つこともできなくなるでしょう。そういう状態のお母さんにはいくつかの共通した特徴があります。まず、興味の範囲が非常に狭いということです。毎日の家事や、目先のことや、子育てや自分のことしか考えていません。そして、自分の時間を楽しむための趣味を持っていません。そういう人は「趣味を楽しむ時間なんかない」と言います。でも、「自分の時間」は「与えてもらうもの」ではなく、色々と考え、工夫し、「自分で作り出すもの」です。実際、そういう言い訳をする人に限って、「自分の時間を」作ろうとしていないように見えます。「自分の時間」を作っても「やりたいこと」がないからです。むしろ、「自分の時間」があったとしても、そこに、それほど必要がない家事や子育てを詰め込んで忙しくしてしまう人がいっぱいいます。忙しくしていると安心するのでしょうか。「自分の時間」は「自分と向き合う時間」でもあります。「自分の時間」を作ろうとしない人は、それを避けようとしているのかも知れません。現代人は子どもも大人も「暇」を嫌いますが、それもまた「自分と向き合うこと」から逃げようとする表れなのでしょう。それに対して、色々なことに興味を感じて色々と考えたり勉強しているような人や、色々な趣味を持って楽しんでいるような人は「悩みのループ」にはまりにくいのです。それほど自己肯定感も低くありません。意識が「外の世界」とつながっているからです。他にも、私が「自分に自信がないお母さん」「不安が強いお母さん」の特徴として感じるのは、「からだ」が育っていない人が多いということです。「肉体」は育っていても、「自分の命の働きを支えているからだ」が育っていないのです。だから生命力が弱いのです。そして人は、生命力が弱くなると自分を守ることばかりを考えるようになるのです。一般的に、年を取ると生命力が衰えてきます。すると自分を守ることばかり考えるようになります。今の人たちは実年齢は若いのに、からだの状態に関しては老人達と似ているのです。そしてそれは「感覚の働き」が萎えていることの表れでもあります。「生き生きとしたからだ」は「生き生きとした感覚の働き」によって支えられているからです。「生き生きとした心」もまた、「生き生きとした感覚の働き」によって支えられています。「心の問題」の背景には「からだの問題」があり、「からだの問題」の背景には「感覚の問題」があるのです。でも、現代社会では「感覚の働き」は必要とされていません。また、それを育てる場もありません。私はそれが「自分に自信がないお母さん」や「不安が強いお母さん」、そして「心を病む人」が増えてきた原因なのではないかと考えています。
2023.10.10
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日本の武道について説明するのは難しいです。武道で大切にされているのは「からだの使い方」以上に「感覚や意識や心の使い方」だからです。「からだの使い方」は目で見ることが出来ます。目で見ることが出来るので説明することもできます。youtubeでも見て確認することが出来ます。でも、「感覚や意識や心の使い方」は、目で見ることが出来ません。その違いは触れればわかりますが、触れてみて「違う」ということは分かってもどうしてそういう違いが生まれているのかは分かりません。見かけは同じなのに、「感覚や意識や心の使い方」が違うと、触れたときの感覚が全く違うのです。たとえば、ただ腕をつかんだ場合と、相手のからだ全体を意識して腕をつかんだ場合とでは、見かけは同じでも、「つかまれた感触」が全く違うのです。ちなみに武道では「触れる」という感覚を大切にしています。これは太極拳でもシステマでも同じです。これは、力と力がぶつかり合って戦うスポーツにはない感覚です。柔道もスポーツ化される過程でこの感覚を失ってしまったようです。「武道」は「肉体と肉体の戦い」ではなく「心と心の戦い」なんです。だから、からだの大きさにも、年齢にも関係しないのです。江戸時代の話ですが、少しぐらい道場剣法で強い人でも、竹刀ではなく真剣で戦ったら町中のケンカ慣れしているやくざに簡単に切られてしまったそうです。命知らずのやくざに、心で負けてしまったからなのでしょう。スポーツは決められたルールの中で、勝ち負けを競うだけです。負けても死にはしません。でも武道は、ルールのない戦いの中で、命のやり取りをしながら生き延びるために生まれてきた技術です。今では命のやり取りはしませんが、それでもそれが武道の原点にはあるのです。まただから試合はしないのです。試合をするためにはルールが必要です。ルールなしで武道の試合をしたらけが人が続出するでしょう。私が学んでいる古武術の先生も「ここでこう力を入れたら腕が折れるから」と言って指導しています。でも、ルールを決めたらもうそれはスポーツであって武道ではなくなってしまうのです。根本的なところで両者は全く違うのです。そんな武道は日常生活の中でも使えます。武道で一番大切なのは戦わなくてもいい場合は戦わないことです。小さなことでいちいち戦っていたら命がいくつあっても足りませんから。また、安易に敵を作らないのも大切なことです。相手が怒ってきたときにも「ニコッ」と返すのも武道の技です。これが出来ないと、押されたら無意識的に反応して押し返してしまいます。すると、そこを突かれて技をかけられてしまいます。武道は「心の使い方」とつながっているがゆえに「生き方」ともつながっているのです。今の時代、命のやり取りはしませんが、武道を学ぶことで敵を作らなくても自分らしく生きることが出来る手助けになると思います。また自分の心や、からだや、感覚との関わり方も分かります。「自分」を知る手助けにもなります。そして「自分」に振り回されなくなります。姿勢もよくなるでしょう。身近なところでは合気道なんかいいと思います。社会が近代化する過程で子どもの生活の中から失われてしまった心や、感覚や、からだの使い方を学ぶこともできると思います。
2023.10.09
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最初にお断りしておきますが、武道にも色々とあります。考え方も、修行方法も様々です。どの流派でも姿勢は大切にされていますが、どういう姿勢がいいのかは流派によって異なります。技が異なるからなのでしょう。ですから異論反論色々ある方もいらっしゃるかも知れませんが、ここで書いているのは私が学び、私が知っている範囲での武道やからだの使い方に関しての知識に過ぎません。また私は偉そうなことを書いていますが達人ではありません。まだまだ初心者です。その辺はご理解ください。****昔の日本人の「からだの使い方」は現代人の「からだの使い方」とは大きく異なっていたようです。欧米の人の「からだの使い方」とはもっと大きく異なっていました。わかりやすいところで言うと、日本と欧米とでは「ノコギリの使い方」が逆です。日本では引いて切りますが、欧米では押して切ります。引いて切るときには腕よりも腰を使います。押して切るときには腰よりも腕や体重を使います。それは日本人と欧米人の骨格や筋肉の違いとも関係しているのかも知れません。日本の刀と、欧米の剣やサーベルの使い方も違います。からだの使い方がそもそも違います。欧米では剣やサーベルを道具として使っていましたが、日本における刀は自分のからだの一部です。だから、「剣術を学ぶ」と言うことは「剣の使い方」を学ぶことではなく、「剣と一体になったからだの使い方」を学ぶことです。そしてそれがそのまま今の柔道の源流である柔術につながっています。もともと、「剣術におけるからだの使い方」と「柔術におけるからだの使い方」は同じだったのです。そのため、古武術では、体術だけでなく刀や杖を使った稽古もやります。合気道も同じでしょう。合気道の動画などを見ていると、手ではなく刀や杖(じょう)を使っても合気をかけることが出来るようです。日本人にとって刀や杖は道具ではなく手の延長なんです。西洋で生まれた「勝ち負けを競うスポーツ」を学ぶ時に必要になるのはパワーとスピードを身につけることです。それは剣やからだを道具として使ってきた人たちの発想です。でも、勝ち負けを競わず、力を使わないで戦う武道の学びにおいては、パワーやスピードはあまり意味がありません。それよりも、「感覚や心やからだの使い方」を学ぶ必要があるのです。そこで求められるのは、「現代人のからだの使い方」とは全く異なった「からだの使い方」です。皆さんは「ナンバ歩き」というものをご存じですか。現代人は手を振って歩きますが、昔の人は手を振って歩きませんでした。そもそも、手をぶらぶらさせていませんでした。さらに、「着物」という大股では歩くことが出来ない服を着ていました。この状態で歩くと自然と「ナンバ」になります。それは「からだをひねらない歩き方」です。よく「ナンバ歩き」というと「右手と右足、左手と左足を一緒に動かす歩き方」というような説明をする人がいますが、そんな変な歩き方はしません。そもそも手をブラブラ振らないのですから。皆さんが靴を履いて普通に歩くときには、後ろ足を蹴って歩きますよね。でも、「ナンバ」で歩くときには後ろ足を蹴らないのです。後足に力を入れて蹴って前に進むのではなく、前足の力を抜いて前に倒れるようにして前に進むのです。方向転換するときも、行きたい方向の足の力を抜けばそちらに進むことが出来ます。そうするとからだをねじることが困難な着物を着ていても、早く歩けるのです。両足で立って見て下さい。その状態から右側に歩いてみて下さい。左足で蹴っていますよね。でもその時、左足で蹴るのではなく右足を抜いてみて下さい。すると、からだが右に傾きますよね。それに合わせて足を出せばいいのです。この方が蹴るよりも力は少なくてすむし早いのです。欧米の人や現代人は力を入れて動いていますが、昔の日本人は逆に力を抜くことで動いていたのです。刀も、腕に力を入れて振るのではなく、腕の力を抜いて振ります。そうしないと日本の刀は切れないし曲がったり折れてしまったりするのです。あと、からだをつながりの中で使おうとします。簡単に言うとからだを固めないのです。何か重いものを持ち上げるとき、普通は、下半身を固めて、それを土台にして腕や上半身だけで持ち上げようとしますがそれをやると腰を痛めます。そうではなく、腕も、足も、腰も固めないのです。力も入れません。そして、からだに重さを預けてしまうのです。すると楽に上がります。右手で技をかけるときには左手も生きている必要があります。上半身を使うときには下半身も生きている必要があります。そうしないと力ずくになってしまうからです。あと重要なのは姿勢です。仲間と技を掛け合っていてどうしてもかからないのに、指導してくれている人に姿勢を直してもらうだけで、さっきまで力いっぱいやってもかからなかったのに、力を入れなくても簡単に技がかかるようになるのです。ものすごく不思議です。他にもまだまだ不思議なこと、面白いことが山のようにあるのですが、これくらいにしておきます。ちなみに、私は茅ヶ崎でからだの教室をやっています。ご興味のある方はこちらにご参加下さい。
2023.10.08
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スポーツと呼ばれるものには必ず「試合」があります。そして、勝ち負けを競うのがスポーツの目的でもあり、面白い所でもあり、スポーツがイベントとして成り立つ所以でもあります。でも、合気道や古武術と言われるものには試合がありません。私は、システマというロシアの格闘技も学んでいますが、システマにも試合はありません。太極拳にも試合はありません。(実力の確認や腕試しとしての試合はあるでしょうが、それをするかどうかは個人の趣味であって、スポーツのように必ず必要なものではありません。)なぜなら、合気道にも、古武術にも、太極拳にも、システマにも攻撃技がないからです。「攻撃を受けたときの受け」しかないのです。受け技しか持っていないものが立ち会っても戦いが起きるわけがないのです。スポーツではそれだけで負けになってしまうでしょう。練習の場では、一方が「仮想敵」になってそれを受けて練習するのですが、これは型の正確さの確認のために行うものであって、勝ち負けとは関係がありません。型が正しく出来ていないと受けられないのです。(型がないシステマでは、型の確認ではなくからだの使い方の確認をします)太極拳のあの型も「こう来たらこう受けてこう返す」という「型」なんです。そして、攻撃には力が必要ですが、受けて返すだけなら力は必要がないのです。相手の力を利用すればいいのですから。ただし、どんな攻撃でも自由に受け流すためには、心やからだの自由と、その自由を支えるためのしっかりとした土台(からだ)が必要になります。そして、その時に必要になるのが「正しい姿勢」なんです。そして、姿勢に厳しいのがこれらの「試合をしない武術(格闘技)」の特徴でもあります。ロシア生まれのシステマでもそれは同じです。それに対して、勝ち負けを競う柔道では姿勢は無視されています。ただし、柔道の開祖の加納治五郎の姿勢はいいですよ。(youtubeで古い動画を見ることが出来ます)そうでないと「柔よく剛を制す」といった柔道は出来ませんから。スポーツ化され、勝ち負けを競うようになる過程で姿勢は二の次になってしまったのでしょうね。でもだから、体重別を取り入れる必要が生まれたのでしょうね。ちなみに、私が小・中と通っていた柔道の道場の先生も姿勢には厳しかったです。ちゃんと背筋を立てて組み合っていないと注意されました。私が昔太極拳を学んでいた先生は実践派の人だったので、型を覚えるだけでなく実際に使ってみる練習もしていました。でも、必ず先生本人が相手をして、生徒同士は戦わせませんでした。その時、先生は「下手な者同士が戦うと、力ずくになってしまい変な癖がついてしまうから」と言っていました。力ずくの戦いでは技よりも体格や、筋力や、体力の方がものを言います。だったら長い時間をかけて技を学ぶよりも、筋トレをした方がすぐに強くなれるのです。でも、この強さはからだが衰えるとともに簡単に消えていきます。合気道の動画を見ると、お年寄りの先生がポンポン若者を投げています。あれを「やらせ」だと言う人もいますが(中にはそういうものもあるようですが)実際にそういうことが出来る人もいるのです。太極拳の世界にもそういう人はいます。あれは、相手の力をまともに受けず、戦っていないから出来ることなんです。確かに、試合をしない武道や格闘技では、その人が本当はどれくらい強いのか分かりません。でも確実に言えるのは、そういう武道は、年をとっても、やればやるほど「からだが持つ深い世界」を知り、楽しむことが出来るということです。また、心の成長にもつながります。中国の少林寺で生まれた小林拳は、敵と戦うためでなく、お坊さん達が自分たちの心とからだの修行のために考え出したものです。
2023.10.07
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「めげぞう」さんから以下のような質問を頂きましたのでお答えします。最近、武道の世界を親子でのぞいてみたいのですが、武道は勉強やスポーツとは全く違う世界なのでしょうか?もし可能でしたら教えていただけたら嬉しいです。武道は、頑張っている感じはしないイメージです。武道にも色々とあって一概に論じることは出来ないのですが、「めげぞう」さんが「頑張っている感じはしないイメージです」と書いていらっしゃるので、多分、合気道や古武術系の武道をご覧になったのでしょう。実は日本古来の武道は、一見、スポーツに似ていますがその内容は全く異なっています。まず、目的が全く違います。練習方法も、からだの使い方も全く違います。スポーツでは勝ち負けを競います。でも、武道では勝ち負けを競いません。「じゃあ、どんだけ強くなったか分からないじゃないですか」と言われたらその通りです。でも、上達すれば意識や、感覚や、心や、からだの状態が変わってきます。また、見える世界、感じる世界も変わってきます。それまで感じることが出来なかったものを感じることが出来るようになったり、見えなかったものが見えるようになるのです。これがなかなか面白いのです。また、スピードとパワーを重視するスポーツでは「フィジカルトレーニング」(肉体訓練)がメインですが、武道では感覚や、精神や、心の鍛錬の方が重要になります。武道には「肉体を鍛える」という発想がないのです。時代劇を見ていても、重い刀を振り回すのに筋トレなどをしてからだを鍛えているお侍さんは出てきませんよね。宮本武蔵なんか3年間も本ばかり読んで過ごしたのですから。ただし、だからといって「肉体がか弱くてもいい」という話ではありません。実際、かなり過酷な練習を求められます。でも、その目的が勝ち負けを競うスポーツとは異なっているということです。「相手をやっつけるための筋肉」は必要はなくても、「自由に自分の姿勢や動きや感覚や精神を制御するための筋肉」は必要になるからです。それは、からだを動かすための「外側の筋肉」ではなく、内蔵や骨格を支えている「内側の筋肉」です。また、スポーツでは勝ち負けを競います。でも、武道では勝ち負けを競いません。なぜなら武道は「相手に勝つためのもの」ではなく「自分を守るためのもの」だからです。ですから、戦わなくても逃げられるなら逃げた方がいいのです。そして、実戦の場では心もからだも自由に動かせる方が生き延びる可能性が高くなるのです。ただし、名を上げるために戦うときには勝つために戦います。でもそれは、武道本来の目的ではありません。太極拳も力を使わないで戦う武術ですが、昔の中国では、初心者は空気イスのようなトレーニング(站椿功)を3時間続けて出来るようにならないと教えてもらえなかったそうです。これもまた筋トレではありません。私も、昔太極拳を学んでいたときはこの空気イスをしょっちゅうやらされました。かなりきついです。だから頑張ります。すると先生が来て「頑張るな」と言うのです。で、「頑張るな」と言われたので立ち上がりました。すると「立つんじゃない」と叱られました。中腰のままで、しかも姿勢を崩さないで「頑張るな」と、無茶なことを要求されるのです。さらには、「からだを緩めろ」、「笑え」などとも言われました。足がきつくてきつくてしょうがない状態なのに。この時、「腰が抜ける」という状態を初めて体験しました。急に足に力が入らなくなってストーンと倒れてしまったのです。これは筋肉的にはかなりきつい練習ですがこれもまた筋トレではないのです。筋肉を付けるのが目的ではないからです。合気道でも「膝行」というものをやります。膝立ちのまま歩くのです。動画で見ると分かりやすいですが、これもやってみるとかなり筋肉がきつくなります。動画を参考にしてやってみて下さい。きっと明日は筋肉痛です。でもこれも筋トレではありません。最初に太極拳を学んでいた先生が柳生診陰流もやっていたので、その先生に連れられて柳生診陰流の練習を見たことがあります。その時は「振り棒」という、ほとんど家の柱レベルの太さの棒を振っていました。それを千回以上振ると言っていました。https://www.youtube.com/watch?v=0qFLjwLLf4U先生の腕もまた丸太のように太かったですが、これもまた筋トレではありません。長くなりそうなので明日に続けます。
2023.10.06
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多くのお母さんたちが「子どものために」と頑張っています。子どものために食事を作り、子どものために洗濯をし、子どものためにあれこれ考え、子どものために仕事をして、子どものために時間を作って公園に行ったりして、子どものために習い事に通わせ、他にもいろいろ「子どものために」とやっています。そして、それが「母親としての勤め」だと思い込んでいます。そして周囲も、子どものためにあれこれやってあげているお母さんを見て「良いお母さん」だと評価します。お母さん自身も、そのように子どものために色々とやってあげないと子どもはちゃんと育たないと思っています。だから必死になって「子どものために」と頑張っているのでしょう。自分の人生や、やりたいことや、自分らしい生き方まで放棄して・・・。というか、最初からそういうものを持っていない人ほどそういう子育てにはまっていきます。そして、追い詰められていきます。その結果、子どもに対して「あんたのせいで」という感情を持ってしまうお母さんもいます。自分でそういう状態を作り出しているのに、思い通りにならないとその責任を子どもに転化してしまうのです。でも、子どもの育ちに必要なのは「色々とやってあげること」ではないのです。お母さんが子どもの犠牲になることでもないのです。そもそも、子どもはそんなこと求めていません。多くのお母さんが、「子どもが求めていないもの」や、「子どもの育ちに必要がないもの」や、「子どもの育ちを阻害するようなもの」を子どもに与えるために一生懸命に頑張っているのです。その一方で「子どもが求めているもの」や「子どもの育ちに必要なもの」は与えていません。そういうものに気付いてもいません。それは、お母さん自身が自分の人生をちゃんと生きていないからなのではないでしょうか。お母さん自身が、「自分の人生を幸せに生きるためには何が必要なのか」が分かっていないから、「子どもの育ちに必要なもの」も分からないのです。あれこれやってあげてしまうのも、「子どものために」というより、あれこれやってあげていないと不安になってしまうからに過ぎません。子どもを「早くしなさい」とか、「勉強しなさい」などと追い立てるのも、追い立てていないと不安になってしまうからです。子どもに色々と習い事をさせるのも、みんなと同じようにしていないと不安になってしまうからです。でも実際には、子どもがお母さんに求めていることも、子どもの育ちに必要なことも、もっとシンプルなことなんです。幼い子どもはただ、お母さんの傍にいたいだけなんです。子どもがお母さんに求めているもの、そして、子どもの育ちに必要なものは、お母さんと感覚や、感情や、体験や、言葉や、物語を共有することだけです。「何かをやってあげること」ではなく、「子どもと色々なことを共有すること」が大切なんです。だから、色々なことを子どもと一緒に楽しめばいいのです。それだけで子どもはちゃんと育つのです。「美味しいご飯を作ってあげる」というのも母心かも知れませんが、子どもに手伝ってもらいながら一緒に楽しくご飯を作る方が子どもの育ちを支える力になるのです。また、子どもが食べている間に別のことをするのではなく、素朴な食事であっても「美味しいね」と顔を見合わせたり、色々と楽しいことをお話ししながら一緒に食べた方が美味しく感じるものです。また、作ってもらったものだけを食べている子よりも、お母さんと一緒に作っている子や、お母さんと一緒に食べることを楽しんでいる子の方が食べることを楽しむことが出来るようになるでしょう。また、好き嫌いも少なくなるでしょう。子育ての世界に「簡単便利」の思想を取り入れてはいけないのです。お母さんと一緒に歌を歌って育った子は歌が好きになるでしょう。お母さんと一緒に感じたり考えたりして育った子は、感じたり考えたりすることが好きになるでしょう。お母さんと一緒に仲間と遊んだ子は、仲間と遊ぶことが出来るようになるでしょう。でも、そのためにはまずお母さん自身が、自分の感覚や、感情や、やりたいことや、生き方をちゃんと取り戻すところから始める必要があるのです。自立していないお母さんに子どもの自立を支えることが出来るわけがないのです。
2023.10.05
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「私たちの行動」は「私たちの心」が決めています。これは子どもでも、大人でも同じです。大人になると頭で考えて行動することも多くなりますが、でも、頭が「自分の心」と矛盾する行動を求めてきたとき、「自分の心」を否定して頭の判断に従ってばかりいると、「心の働き」がどんどん萎えてきます。そして、否定的な感情に囚われやすくなります。からだも固まってきます。それでも、頭の指示に従ってからだを動かしていると非常に疲れます。だって、ブレーキをかけたままアクセルを吹かしているようなものだからです。度を超せば、心やからだが壊れます。でも、「心の声」に従って行動しているときにはからだは緩みます。からだが軽くなります。感覚も働き始め、色々なことに気付くことが出来ます。また、頭の働きも活性化します。子どもたちが夢中になって遊んでいるときはこのような状態です。でも、大人達は子どもたちがこのような状態で楽しく遊んでいると、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と叱ります。また、このように自由に遊べる場も、時間も与えません。勉強だって楽しくやれば効率よくなるのに、なぜか頑張らないとできないような退屈なものに変えて子どもたちに押しつけています。そのため非常に効率が悪くなってしまっています。だから、さらに自分の気持ちを否定して頑張らないと付いていくことが出来なくなってしまっているのです。日本の大人達は「頑張らない人間はダメ人間だ」という教えの、怪しい新興宗教にはまってしまっているのでしょうか。でも、自分の気持ちを否定して頑張って勉強しても、「自分の気持ちを否定して学んだこと」は身につきません。子どもの心とからだを育てる力にもなりません。せいぜい、成績という記録を伸ばすのに役に立つだけです。でも、記録を伸ばすことが出来れば、記録と引き替えに子どもたちが疲れ果てても親や先生は喜びます。子どもの方も、勉強が自分の成長にはつながっていなくても、成績がアップすれば親や先生が喜んでくれるので、それで自分を納得させようとします。そして「記録アップ=自分の成長」と思い込みます。本来の「成長する喜び」を知らないからです。問題は、学校を卒業した後です。スポーツ選手なら引退した後です。良い成績を得るためにだけに頑張って勉強してきた子にとっては「卒業」は「勉強からの引退」と同じです。大学に合格した途端に勉強を引退してしまう子もいっぱいいます。そして、勉強以外のことを知らない自分に気付き戸惑います。それでも「自分の思い通りに生きる生き方」も、「自分の成長につながるような学び方」も、「他の人とのつながり方」も知らないので新しい依存先を探します。そこでまた頑張ることを求められます。でも、やがてそこも定年という形の卒業を迎えます。そしてまたどうしていいのか途方に暮れます。趣味に生きることが出来る人は幸いですが、ただ頑張って生きてきただけの人には趣味などありません。ただ、死ぬまでお金を稼ぐために頑張るだけです。息を引き取るまで息を詰めて生きるのです。パラリンピックでは「障害があっても頑張れば報われる」というメッセージを流しています。「だからみんなも負けないでガンバレ!」ということなんでしょう。でもそれは幻想です。世の中には死ぬほど頑張っても報われない人もいっぱいいるのですから。実際、みんな頑張っています。頑張っていない人を探す方が難しいです。子育て中のお母さん達もみんな頑張っています。でも、その頑張りが報われないのでみんな苦しんでいるのです。それでも頑張らないと世間は冷たい目で見ます。へそ曲がりの私には、「頑張れば報われる」というメッセージは、人々を永遠に頑張り続けさせるためのトリックに過ぎないように思えるのです。そこで目的にしているのは「個人の幸せ」ではなく、社会の維持です。スポーツでは頑張った結果が記録に表れます。メダルをもらえる人もいます。でも、子育てや人生では、いくら頑張っても記録は出ません。メダルももらえません。むしろ頑張れば頑張るほど苦しくなります。世の中には「頑張ることでうまく行く世界」と「頑張らない方がうまく行かない世界」があるのです。「頑張らない方がうまく行く世界」を支えているのは「楽しむ力」です。勉強が楽しい子は「ガンバレ」と強制されなくても勉強するのです。「もう止めなさい」と叱られるまで勉強することだってあるのです。私は「頑張れば報われると嘯いている社会」や「頑張らないと生きていけない社会」よりも、どんなに障害があっても、頑張らなくても幸せに生きていけるような社会の方が好きです。それは競争社会ではなく共存社会です。「頑張る子育て」よりも「楽しむ子育て」の方が好きです。「頑張る生き方」よりも、「人生を楽しむ生き方」の方が好きです。子どもがお母さんに求めているもの、そして、子どもの育ちに必要なものは、お母さんと感覚や、感情や、体験や、言葉や、物語を共有することだけです。「頑張って何かをやってあげること」ではなく、「楽しみながら子どもと色々なことを共有すること」が大切なんです。だから、色々なことを子どもと一緒に楽しめばいいのです。それだけで子どもはちゃんと育つのです。
2023.10.04
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私たちの「からだ」は、生まれる前に「人類が体験してきたこと」と、「生まれてから体験したり学んだりしたこと」と、それまでに「食べてきたもの」で出来ています。「生まれてから体験したり学んだりしたこと」の中には「言葉」も含まれます。「からだ」は「言葉」によっても育っているからです。「違う言葉」を持っている人は「違うからだ」を持っているのです。また、この「食べてきたもの」にはお母さんや、ご先祖が食べてきたものも含まれます。日本人の腸は欧米の人よりも長いそうですが、これもまた「ご先祖が何を食べてきたのか」ということと関係しています。日本人は「海藻」をよく食べますが、この海藻を消化できる腸内細菌を持っているのは日本人だけだそうです。「日本人の腸だけに存在?:海藻を消化する細菌」(wired)皆さんもまた海藻を消化できるでしょうが、それはご先祖のおかげでもあります。私たちのからだの状態は、「ご先祖が何を食べ、どう生きてきたのか」ということと切り離せないのです。腸内細菌は人の健康状態だけでなく意識や心の状態にも強く影響を与えているそうですが、その腸内細菌も、産まれてくるときや毎日の生活の中でお母さんから受け継いでいるものが多いのです。自分が住んでいる環境や、どういう所でどういう遊びをしたのかということも腸内環境には影響しているのです。お母さんのからだの中の卵子は、お母さんが産まれたときにはもうすでに一生分出来上がっているそうです。ですから、お母さんの食生活や、生活状態や、心やからだの状態もお母さんのからだの中の卵子の育ちに影響を与えています。私は「気質」という考え方を色々学び皆さんにもお伝えしていますが、その「気質」も、その人が「どういう環境で、どういう生活をしてきたのか」ということや「何を食べてきたのか」ということと関係しています。その人の母語もまた気質の状態に影響を与えています。日本人の気質は日本語によって作られている部分が大きいのです。そしてその「気質」もまた「からだ」に属しています。「気質」は「心」ではなく、その「心」を作り出している「からだ」に属しているのです。だから「しつけ」では変えようがないのです。叱ったり、説得したりしても変わらないのです。でも、食生活や日常生活を変えることで子どもの気質の状態も変わります。多動性のある子は「甘いもの」を減らし、刺激が少ない環境で育てた方がいいでしょう。それと下半身が育つような生活や遊びが有効だと思います。ゲームのような目や頭だけに働きかけるような遊びは、多動性を強化します。それは「学び」全般に悪い影響を与えます。ちなみに、子どもは普通の状態でもうすでに多動性が強いです。だからゲームはほどほどにした方がいいです。でも、その多動性を失った老人はゲームをすることで元気が出たりします。乱暴な子は「肉」を減らし、野菜を多く食べるようにした方がいいでしょう。それと手や指先を使うような活動も必要です。乱暴な子は「太い筋肉」を使うのは得意なんですが、「細い筋肉や神経」を使うのが苦手だからです。怖がりの子は本をいっぱい読むといいです。「言葉の学び」が安心を育ててくれるからです。また、上半身の筋肉がつくような活動も有効です。食べ物としては体を温めてくれるようなものを意識して食べた方がいいと思います。いつもボーっとしているような子は、トラブルは起こしませんが、放って置かれがちなのでもっと積極的に関わってあげた方がいいです。また、手仕事に向いています。お肉も食べた方がいいと思います。今日、「食べ物とからだ」について書こうと思ったのは、昨日、以下の記事を読んだからです。「カップ麺の牛乳戻し」子どもの食生活が危機的だぜひ、お読みになって下さい。子どもの食生活が危機的な状況になっています。それは子どものからだが危機的な状況になっていることと同じです。子どものからだが危機的な状況になっているということは、子どもの意識や、心や、感覚の状態も危機的な状況になってしまっているということです。
2023.10.03
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現代人は「からだ」を道具のように使っています。体調が悪くても薬か何かを使って「からだからの声」を押さえつけてしまいます。テレビを見ていると、「○○を飲んで元気になろう」などというようなCMが溢れています。人間以外の動物たちはみんな、元気がないときには活動を休止します。元気が出ないときにまで無理をしてからだを動かそうとするのは人間だけです。人間は「からだからの声」を「頭の働きを阻害する邪魔者」として否定しようとします。そして、「頭からの指示」に従わせようとしています。そして、同じようなことを自然や子ども達に対しても行っています。「自然からの声」にも、「子どもからの声」にも耳を傾けません。自然災害は「自然からの声」です。子どもの問題行動も「子どもからの声」です。言葉化されてはいませんが、ちゃんとしたメッセージを含んだ声なんです。その「言葉化されていない声」からのメッセージを読み解くことで、自然や、子どもや、自分のからだとうまくやっていくことが出来るのです。「からだからの声」を無視し、無理に頑張ったり、薬などを使って無理矢理言うことを聞かせていると「からだ」が壊れる前に「心」が壊れます。本当は「心」が壊れる前に「からだ」が壊れているのですが、無理して頑張ったり、薬の力でそれを押さえつけているので外側にまでその状態が表れないのです。頑張りや薬でも抑えきれなくなったときには表に出てくるのですが、その時には重大な状態になっています。自分の「からだ」がいっぱいいっぱいになっていると、「頭の働き」や「心の働き」や「感覚の働き」に余裕がなくなります。部分ばかり見るようになり、全体が見えなくなります。そのため、物事をつながりや関係性の中で見ることが出来なくなります。肯定的なことは見えなくなり否定的なものばかりが見えるようになります。美味しい、気持ちがいい、楽しい、嬉しいというような肯定的な感覚や感情が働きにくくなります。その一方で、まずい、怖い、気持ちが悪い、つまらない、腹が立つというような否定的な感情はすぐに起きるようになります。人工的な強い刺激には反応できても、自然からの優しい刺激には反応できなくなります。子どもの笑顔や子どもの心が見えなくなります。空の青さや、お花や、自然の美しさを感じることができなくなります。全般に「美しさ」を感じなくなります。「判断する」ことは出来ても「味わう」ということが出来なくなります。そして、自然に対して「美しさ」を感じることが出来なくなると、道徳的な感性も消えます。自分を支えてくれている無数のつながりも見えなくなり、孤独になります。孤独になると自己肯定感も消えます。自己肯定感が低くなるのは成功体験が少ないからではありません。「自分を支えてくれているもの」を感じることが出来なくなるからです。そして、自分のことばかりを考えるようになり、人と人のつながりを大切にする「人間らしさ」を失います。そのからだの状態は「表情」や、「姿勢」や、「声」や、「目つき」や、「感覚の偏り」や、「筋肉の緊張状態」の中に表れています。ゲームは子どもに「不自然なからだの使い方や、頭の使い方や、心の使い方や、感覚の使い方」を求めています。そのため、日常的にゲームばかりやっている子のからだはいっぱいいっぱいです。そういう状態の子は、強い刺激がないとすぐに退屈します。自分の意志で能動的に動けません。聞くことや対話することが出来ません。作業することは出来ても創造的な活動をすることが出来ません。からだや、脳や、感覚の働きが育っている最中の子どもにゲームを与えると、自由に考え、自由に感じ、自由に行動する能力の育ちが阻害されてしまうからです。洗脳されやすくもなります。ゲームには、人のからだを固め、脳の働きをパターン化させ、感覚や心の働きを麻痺させる働きがあるのです。でも、幼児期に様々な体験を通してそういう能力がある程度育った子なら、ゲームで遊んで一時的にそういう状態になってもしばらくすると元に戻ります。だからそれほど心配する必要がありません。ゲーム自体に問題があるわけではないのです。問題があるのは「与える時期」と「与え方」の方なんです。
2023.10.02
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昨日も書いたように、人間の知的な能力は指や手を使うことで育ってきました。そしてそれは、現代社会に生まれた子ども達についても言えることです。子どもの成長は人類の進化とリンクしているからです。古代人と同じような状態で生まれてきた子ども達も、指や手を使う活動を通して意識や知性の働きを目覚めさせているのです。指や手は、頭の中のイメージを現実世界の中で実現するために使われます。先日、竹をナイフで削って「お箸を作る」という活動をしたのですが、頭の中に「お箸」のイメージがない子は、いくら上手に竹を削ることが出来ても「お箸」を作ることは出来ません。そして、「お箸」は知っているのに「お箸」をイメージすることが出来ない子が多いのです。毎日使っているものなのにイメージできない子がいっぱいいるのです。そういう子は「お箸の見本が見たい」といいます。古代の人が石を割ってナイフやヤジリを作るときも、頭の中に、しっかりとしたナイフやヤジリのイメージを持って作っていたでしょう。粘土で何かを作るときも同じです。頭の中のイメージを現実世界の中で実現してくれるのは「指や手の働き」です。絵を描くときも、文字を書くときも同じです。イメージが先にあって、それに従って指や手が働くのです。でも、幼い子ども達はまだ頭の中だけでイメージを作ることが出来ません。ですから、グチャグチャ描いて、グチャグチャいじくり回します。粘土を渡してもグチャグチャやるだけです。でも、そのグチャグチャの過程で、目と指や手の感覚や頭の中のイメージがつながり、頭の中だけでもイメージを作ることが出来るようになるのです。頭の中でイメージしたものを指や手を使って描いたり作ったりすることが出来るようになるためには、十分な「グチャグチャ体験」が必要なんです。そしてそれが思考力の育ちへとつながっていくのです。普段から手を使って活動することで「頭の中でイメージする能力」が育ち、それが「思考力」を目覚めさせるのです。でも、その子どもの「グチャグチャ」を受け入れることが出来ない人がいます。そういう人は、ちゃんと描いたり、ちゃんと作るのならいいのですが「グチャグチャ」は無駄な行為だと思い込んでいるのです。幼稚園などでも「グチャグチャ遊び」を十分にさせずに、いきなり、素敵な作品を描かせたり作らせたりするような所があります。そういう園では見本を真似させたり、マニュアル的な描き方を指導しているようです。結果として、お母さん達を喜ばせるような「素敵な絵」や「素敵な作品」が出来るのですが、でもそれは「子ども自身が育った結果」ではありません。頭の中でイメージできるようになったわけでもありません。そういう子はお手本やマニュアルがないと描いたり作ったりすることが出来ません。そして今、そういう状態の子がいっぱいいます。そのまま大人になると、子育てでも苦しむようになります。子育てには正解がないのですから、とにかくグチャグチャ、あれこれやってみるしかないのです。その過程で、「子ども」や「自分」の何かが見えてくるのです。すると、「どうしたらいいのか」というイメージが見えてくるのです。でも、それが出来ない人はいきなりお手本やマニュアルに頼ろうとするのです。でも、「皆さんのお子さんのことを書いた子育て書」なんて、この世に存在しないのです。それが書けるのは、お母さんだけなんですから。
2023.10.01
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