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赤ちゃんは、「産まれ方」や「産まれる家」や「産んでくれる親」を自分で選ぶことが出来ません。中には「自分で選んで産まれてきた」と言う子もいますがそれを確認する方法がありません。また、そういう子は少数です。だからまた「親ガチャ」なる言葉が流行るのでしょう。でも、「産まれ方」や「産まれる家」や「産んでくれる親」を自分で選んだかどうかは不明でも、「自分の生き方」は自分で選ぶことが出来ます。これは確かなことです。そしてそれが人間の能力でもあります。世界中の生き物の中で唯一人間だけが「自分の生き方を自分で選ぶことが出来る能力」を持っているのです。それは「自分の未来を自分の意思で変えることが出来る能力」でもあります。でも、話したり、走ったりする能力と同様に、その能力も生まれた時から使えるわけではありません。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と自分のからだを使って活動することで育っていくのです。そしてそれが「遊び」と呼ばれる」活動なんです。子どもたちは「遊び」を通して、自分の人生を自分のものとして生きていくために必要な能力を育てているのです。でも、現代の子どもたちはその遊びも、大人たちによって奪われてしまいました。現代の子どもたちの遊びのメインは「大人が作ったものに依存する遊び」ばかりです。古来から、遊びの場における主人公は「子ども自身」だったのですが、最近の遊びでは子どもは「お客さん」なんです。特にスマホやゲームといった電子機器類は、子どもをお客さんとして遊ばせてくれます。子どもは「ゲームで遊んでいる」のではなく「ゲームに遊んでもらっている」のです。ゲームの中の子どもは主人公として活動できますが、それは、ゲームが大人によってそういう仕様で作られているからに過ぎません。子どもが自分自身の能力で主人公になることが出来ているわけではないのです。そこを誤解してはいけません。でも、ゲームの外の世界では誰も主人公扱いなどしてくれません。時々、子どもを王様扱いしているお母さんもいますが、家来になってくれるのはお母さんだけです。王様ぶっている子と友達になりたいと思う子もいません。結果、「プライドばかりが高い一人ぼっちの王様」になってしまう可能性が高いです。ゲームの外の世界で主人公になるためには、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動する必要があるのです。そしてそれが「子どもによる、子どもたちのための遊び」なんです。でも、現代の子どもたちには、そういう能力を育てる場がありません。公園で遊んでいるだけで「うるさい」と言われてしまいます。木登りしていると叱られます。工作のためであってもナイフを持っていると取り上げられます。その結果、「自分の生き方を自分で選ぶことが出来る能力」を育てることが出来なくなり、「親ガチャ」なる言葉にリアリティー感じる若者が増えてきたのではないかと思うのです。でももしその状態が苦しいのなら、大人になってからでも自分を変えることでその状態から逃れることが出来るのです。難しいことなど考えなくていいです。何でもいいですから「新しいこと」に挑戦してみてください。朝起きる時間を変えてみる。歩き方を変えてみる。お買い物に通る道を変えてみる。姿勢を変えてみる。新しい趣味を持ってみる。「こんなことやって何になるんだ」などと考えても意味がありません。というかやっていることの内容に意味を求めない方がいいです。大事なのは自分で決めて自分で実行するという体験を繰り返すことの方なんですから。だから、三日坊主で終わってしまってもいいのです。一つ一つのことは三日坊主で終わってしまっても、三日坊主を繰り返せば必ず何かが変わるのです。大事なことは「諦めないこと」です。*************日・月と山中湖の方にソロキャンプに行ってきました。 で、車に積んでいった自転車で山中湖を一周してきたのですが、途中「アオサギ」に出会いました。「アオサギ」はここのところ話題にしている宮崎駿監督の「君たちはどう生きるのか」という映画の中で」重要な役割をもって登場してくる鳥です。それで勝手に偶然以上の何かを感じてしまいました。
2023.07.31
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(昨日書いた「人はなぜ生きるのか」の続きは、明日書きます。)自分の不遇を「親ガチャ」のせいにしている人は、多分、一人だけで頑張って生きている人なのではないかと思います。「一人だけで頑張っている」と言うことは「自分に与えられた初期条件だけで頑張っている」と言う事でもあります。だから、どんなに頑張っても、その初期条件に束縛されてしまうのです。だとすると、「親ガチャ」という運命から逃れるためには積極的に他の人と繋がればいいのです。それは、「与えられたものだけに依存する生き方をやめる」と言う事でもあります。そしてこれは、生まれた環境がどうであろうと自分の意思でできる事です。「この人は自分が持っていないものを持っている」と感じる人がいたら、頭をさげて「教えてください」「手伝ってください」「支えてください」「仲間になってください」と丁寧に頼めば、その願いを拒否する人は少ないのではないでしょうか。もし拒否されたら、その人がやっていること、その人のやり方をよく見て勝手に真似をしてしまえばいいのです。他の人の真似をすることで「初期条件」以外の新しい条件が加わるのですから、それだけで運命が変わるのです。私自身も色々な人に教えてもらい、色々な人の真似をして生きてきました。「真似をすると自分らしさが失われるのではないか」思う人もいるかも知れませんが、真似をする対象は自分で選んでいるわけですから、それは「自分らしさを失うこと」ではなく、逆に「自分らしさの強化」になるのです。ここから先は推測になってしまうのですが、親ガチャを理由に努力すること、頑張ることを諦めてしまっている人は、自己肯定感が低く自己否定しているのにも関わらずプライドだけは高いような気がするのです。それだけが「自分を守る砦」だからなのでしょうか。でも、「自分を守るはずの砦」が「自分を束縛する檻」になってしまっているのではないでしょうか。だから「新しい世界」に出ていく事が出来ないのです。親や生まれた環境を否定し、その結果としての自分も否定しているのにも関わらず、そういう人に限って強く「自分」に拘っているように感じるのです。まただから変われないのです。
2023.07.30
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「親ガチャ」という言葉があります。ウィキペディアには親ガチャは、日本のインターネットスラング。生まれもった容姿や能力、家庭環境によって人生が大きく左右されるという認識に立ち、「生まれてくる子供は親を選べない」ことを、スマホゲームの「ガチャ」 に例えている。「親ガチャ」という言葉はベースで人生の結果が決まるというニュアンスが強いために、この言葉への反感もある。と書かれています。「子どもが親を選んで生まれてくる」という考え方もありますが、そう考える人は少数です。また、そう考える人に、「じゃあ、あなたも親を選んで生まれてきたんですね?」と聞くと、急に声が小さくなることもあります。「我が子が自分を選んで生まれてきた」と考えるのは嬉しいですが、自分自身がお母さんとの関係がうまく行っていない人の場合、「私も親を選んで生まれてきた」と考えることには抵抗があるのでしょう。まあ、いずれにしても生まれて来ちゃったわけですから、「自分で選んだ」か「選んではいない」のかの議論をしても全く意味がありません。生まれて来ちゃった以上、自分に与えられた条件の中で生きるしかないのです。親ガチャはあくまでも「初期条件」の話であって、それがそのまま結果につながるわけではないからです。確かに、「初期条件」が良くて、それがそのまま「良い結果」につながる人もいます。でもその逆に、「よい初期条件」に依存してしまい、自分の能力を開花させることが出来ないまま成長してしまう子もいます。その結果は思春期頃になって表れます。金持ちの三世が家を没落させてしまう話はよくあります。私の祖父も、支店をいくつも持ち手広く商売をしている八百屋の息子として生まれ、ちやほやされて成長し、好き勝手に生きるようになり、家を潰しましたから。私の父親は、幼い頃はお手伝いさんがいっぱいいる環境で育ったのですが、その家の没落を目の当たりに見て育ったそうです。だから真面目でした。ちなみにその父は浅草育ちですが、露天でものを買って食べたことがなかったそうです。60才か70才の頃に、私が焼き鳥を買っていってあげたら、「焼き鳥を初めて食べた」と言っていました。幼い頃、使用人の人に「そういうものを食べるとお腹を壊すから食べてはいけません」と言われて育ったからだそうです。また、「初期条件」が悪くてもそれをバネにして色々学び、成長することが出来る子もいます。実際、そうやって偉大な仕事をなした人、偉大な人になった人もいっぱいいます。確かに「親ガチャ」と呼ばれるような不平等な初期条件は存在しています。そして、その初期条件はその人の生き方に大きな影響を与えています。初期条件が悪くて、教育を受けることが出来ない子もいます。幼いうちから働らかされている子もいます。日常的に、罵られたり、打たれたりしている子もいます。そういう子が「自分らしさ」に目覚め、自分らしく生きることが出来るようになるのは難しいと思います。でも、その状態を親ガチャのせいにすることなく、様々な活動をしている人との出会いを求めることで、その運命を変えることも出来るのです。「人の運命」は「人との出会い」によって大きく変わるのです。そして、その「人との出会い」は自分の意志で決めることが出来ます。初期条件だけで決まるのではないのです。ただし、親ガチャをそのまま自分の運命として受け入れてしまい、自分の今の状態を親のせいにして自分の意志で生きることを放棄してしまっている人の場合は、人生の結果も親ガチャの通りになってしまうでしょう。
2023.07.30
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宮崎駿の「君たちはどう生きるのか」は、宮崎駿自身の「生と死」についての感覚的印象を描いたものだと思います。ただし、宮崎駿監督自身が、映画の説明をしていないのであくまでもこれは「私の推測」に過ぎません。 でも、「このシーンはあの物語の焼き直しだ」とか、「これはあの象徴だ」というシーンが満載だったので多分間違いはないと思います。ちなみに一つだけ書くと、映画の中で重要な役割を担った「アオサギ」は、古代エジプトでは聖鳥で、「よみがえり」を象徴する鳥「フェニックス(不死鳥)」のもとになった鳥だそうです。で、映画のタイトルは「君たちはどう生きるのか」ですが、映画自体はこのタイトルの基になった吉野源三郎の小説の内容とは全く関係がありません。じゃあ、どうしてこういうタイトルにしたのかというと、見る人たちに「君たちはどう生きるのか」という言葉のまんまのことを問いたかったからなのではないでしょうか。もちろん、これは私の個人的な推論ですけど。それはつまり、「私たちはどう生きるのか」ということが問われているということです。現代人は「自分の生き方」を自分で決めることが出来ません。「学校に行け」と言われたら行かざる終えません。行かないと「問題児」扱いされてしまいます。お母さんやお父さんが子どもの気持ちを大切に考え、子どもを守ろうとしただけで「問題親」扱いされてしまいます。ちょっと前までは「マスクをしろ」と言われたらマスクをせざるおえませんでした。「群れて遊ぶな」「手をつなぐな」「近寄って話すな」と言われたら、そうせざるおえませんでした。親が病気でも、親が死にそうでも、傍にいることが許されませんでした。からだの具合が悪くても、自分の治療法を自分で決めることもが出来ませんでした。「歌うな」、「劇はするな」、「祭りはするな」と言われたら従わざるおえませんでした。もうだいぶ緩和はされましたが、「国には国民にそういうことを命令し、強制する権限があるんだ」ということを十分見せつけられました。「マスコミは国の宣伝機関だ」ということも十分に分かりました。(オリンピックの時も同じでしたよね。)でも元々、そういうことは「自分自身の生き方」としてやることであって、誰かの許しを得てやるものではなかったはずです。そしてそれが、戦後、戦争への反省から日本人が求めてきた生き方でもあったはずです。でもまた「自分の生き方」を国に管理されるようになってしまったのです。戦争中に起きたことと同じようなことが、簡単に起きてしまったのです。ただ太平洋戦争の時と違うのは、国が、「愛国心」ではなく「科学」を根拠にしていることです。でも、「科学」は使い方次第、解釈次第でどうにでもなるのです。「科学」は道具に過ぎないからです。それは「包丁」と同じです。美味しいお料理を作って人を喜ばせるために使うことも出来れば、人を殺すためにも使えるのです。そこで問われるのが「私たちは何を大切にして、どう生きるのか」と言うことなんです。そういうことをしっかりと自覚することが、科学を人の幸せのために使ったり、「誰かに支配されない生き方」をするためにも必要なんです。私は、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるのか」という映画からそういうメッセージを受け取りました。
2023.07.29
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この世界は「不思議」に満ちています。そして、それこそが自然が人間に与えてくれた「暗号」なんです。その「暗号」には「宇宙の謎」「人間の謎」「命の謎」「自分という存在の謎」が隠されています。でも、多くの人がその「暗号」に気づきません。そのため解読しようともしません。解読しようとしても「言葉」という「解読キー」を持っていないため解読できません。今上映している宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」という映画は、宮崎駿が受け取った「生と死に関する暗号」に対する一つの答えです。ですから、同じ言葉を持ち、同じ暗号を受け取っている人には理解が可能ですが、その暗号を受け取っていない人や同じ言葉を持っていない人には意味不明でしょう。子どもたちは、本能的にその自然が与えてくれる「暗号」に気づきます。そして、お母さんに「なんで?」「どうして?」と聞きます。それが人間が、この自然界で「特別な存在」である証拠でもあります。でも、お母さんたちはその問いに知識で答えようとします。「なんでリンゴは落ちてくるの?」という問に「重力があるからよ」とか「熟したからよ」とか「重いからよ」などというようにです。でも、幼い子どもには「重力」という言葉も、「熟す」という言葉も理解できません。「重い」は分かるかもしれませんが、でも「重いから」というのは「リンゴ」が落ちてくる理由の一部に過ぎません。それに葉っぱのような「重くないもの」だって落ちてきます。子どもは「物が落ちてきた理由」を知りたいのではなく「リンゴが落ちてきた理由」が知りたいのです。そして、「リンゴか落ちてきた理由」を知るためには「自然界を支えている命の仕組み」を知る必要があるのです。「なんでリンゴは落ちてくるの?」と聞く子供は、そういう内容の暗号を受け取ったのです。でも、自分の力ではそれを解読することが出来ないから、お母さんに「なんで?」「どうして?」と聞くのです。だからお母さんはそれを「知識」ではなく「言葉」で説明する必要があるのです。確かに「知識」も「言葉」の一部ですが、知識を並べただけでは「言葉」にならないのです。「言葉」にはまず「イメージ」が必要です。皆さんが「言葉」を話すときも、自分の中のイメージを探りながらそのイメージに合わせて言葉を選び、構造化していっていますよね。知識はそのイメージを補うためのものです。ですから、イメージがないまま、ただ知識を羅列しても相手には何も伝わりません。「言葉」を話すときには、まず「言葉化される以前のイメージ」が必要なんです。そして、そのイメージは様々な体験によって身に付きます。いくらいっぱい知識を覚えても、体験がない子はその知識に対して「イメージ」を持つことが出来ません。そのため、知識を「言葉」の中で構造化することが出来ないのです。知識に意味を与え、一つのイメージの中で多様な知識を構造化することが出来るようになるためには「多様な体験」が必要なんです。でも、だからといって体験だけ与えても「言葉」が勝手に生まれるわけではありません。体験とセットにして大人から「言葉」を学ぶ必要があるからです。「言葉」は伝承によらなければ学びようがないのです。転んで痛がっているときに「痛いよね」と言ってもらうことで、「痛い」という言葉と「イタイという感覚やイメージ」がつながるのです。そういう体験のない子は「痛い」という言葉を知っていても、「自分の言葉」としてその言葉を使えないです。でもだから、「様々な体験」や「言葉を介した大人との関わり合い」の機会を与えられないまま育った子は、「自分の言葉」を育てることが出来なくなってしまうのです。でも今、そういう状況の中で育っている子の方が圧倒的に多いのです。そして、自分の言葉を育てることが出来ないまま成長してしまうと、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で判断し行動することが出来なくなってしまうのです。ちなみに、「あなたの考えは?」と聞かれて「考え」ではなく「感想」しか話すことが出来ない人も同じ状態です。「考え」には言葉の論理がありますが「感想」にあるのは「感覚の論理」だけです。それは「Gは黒くてすばしっこいから嫌いです」というものと同じです。また、「自分の考え」を持っていない人には、「対話」も「議論」も出来ません。そういう人に対話の場を与えても、話が少しも進みません。議論の場を与えると罵り合いになります。
2023.07.28
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軍隊では秘密の情報をやり取りするときに「暗号」というものを使います。意味のある言葉を特別なルールに従ってバラバラにすることで、そのルールを知らない人には解読できないようにしてしまうのです。ですから、暗号だけを盗んでもそのルールが分からなければ解読できません。ルールが盗まれても、ルールは簡単に変えることが出来ます。そうやって、情報の安全を確保していたのです。そのルールを「キー」と言います。扉を開けるキーと同じです。そして実は、学校で学んでいる「知識」もまた暗号なんです。ですから、山のように知識を覚えても、それを解読するキーを持っていない子には中身が分からないのです。もちろん、自分の成長にもつながりません。子どもたちは学校でいっぱい知識を学ばされていますが、その知識によって成長している子、その知識を活用できている子、その知識によって自分の世界を広げることが出来ている子は少数です。また、親も先生もそんなこと求めていません。大人たちが求めているのはいっぱい知識を覚えてテストでいい点数を取ることだけです。知識の量だけが問題であって、その知識が子どもの成長や子どもの人生にどのような影響を与えているのか、などということには関心がないのです。でも、その「無駄な知識」を学ばされるために、子どもたちは自分の成長にとって最も大切な時期を、自分の成長に必要なことを学ぶことが出来ないまま過ごすことになってしまっています。さらに、なまじ知識があるために自分の頭で考え、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の感覚で感じて、自分でやってみて確認するということをしなくなってしまいました。また、正解に拘るようになりました。そして、成績の良しあしで人の能力を判断するようになりました。でも、いくらいっぱい知識を学んでも、その学んだ知識を消化吸収できなければそれは全く無駄なものなんです。無駄どころか有害です。じゃあ、その「知識」という暗号を解読するために必要なものは何なのか、ということです。実は、それが「言葉」なんです。「言葉」こそが知識という暗号を解読するためのキーなんです。この「言葉」という「暗号解読キー」が解読してくれるのは「知識」だけではありません。「命とは何か?」「なぜリンゴは上から下に落ちてくるのか?」「なぜ空は青いのか?」「なぜ、1+1は2なのか?」というような「自然界の暗号」も解読してくれます。それが「言葉の力」なんです。まただから、異なった言葉を持っている人は、同じ知識や事象に対しても異なった解釈をするのです。元データは一つでも解釈はキーの数だけあるのです。だからこそ、子どもの成長にとって「言葉を学ぶ」ということは非常に大きな意味を持っているのです。「自分勝手な言葉」しか学ぶことが出来ないまま成長した子は、「自分勝手な解釈」しかできなくなります。でも、それでは正しく暗号が解読できるようにはならないのです。その結果、意識も心も狭い世界の中に閉じ込められ、自分勝手な行動をするようになります。子どもの成長に必要なのは、「他の人と意思疎通ができる言葉」や「自分が考えたことや、感じたことを説明できる言葉」なんです。このような言葉を学ぶから、「人類が発見し作り上げてきた知識」を解読し、自分のものとして学ぶことが出来るようになるのです。
2023.07.27
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算数でまず最初に習うのは「1+1=2」なのでしょうか。お母さんたちも子どもに算数を教えるときには「1+1=2」から始めるのではないでしょうか。で、子どもは歌を覚えるように「1+1は2」と覚えていきます。でもこれは「歌」であって算数でも数字でもありません。実は「数の概念」というのは非常に難しいのです。鳥や人間以外の動物たちも2,3個の数の違いは分かるそうです。卵を三個温めていた鳥が餌を捕りに出たすきに一個隠すと、帰ってきた鳥は卵が少なくなっていることに気づくそうです。ただしこれは数を数えているわけではなく、感覚的な違いを基にしているのだと思います。ビー玉を一つ握った時と二個握ったときとでは感覚が違いますよね。三個でも違いは分かりますよね。目で見て数えなくても分かりますよね。そういう感覚です。でも、五個とか六個になるとその違いはなかなか分からなくなります。幼い子どもでも「一個」と「二個」の違いは分かります。だから、「1+1は2なんだよ」と言われるとなんとなく分かります。みかんを一個置いて「みかんが一個」と言い、もう一つ置いて「ほら、みかんが二個になったね。だから1+1は2なんだよ」と言われると、「一個」と「一個」が並ぶと「二個」になるということは感覚的に分かります。見ればわかるのですから「頭の理解」は必要がないのです。でも、「たす」(+)ということの意味が分かりません。この場合は横に並べただけですから。「横に並べる」ことと「たす」は全く違う概念なんです。「横に並べる」というのは文学的な表現であって、数学的な表現ではないのです。もっといえば「ミカン」と「ミカン」は足せないのです。足せるのは「ミカン」ではなく「数」なんです。でも、幼い子どもにはその「数」という概念が分かりません。だから「ミカン」のような具体的なものを使って説明するのでしょうが、だから分数とか小数点とか、マイナスという数が出てくると途端に理解することが困難になってしまうのです。「みかん一個」を「一個」と数えることは生活感覚的に分かりますが、「一個」の「一」は数学の「1」と同じものではありません。「一個」の「一」は「体験に基づいた具象」ですが、数学の「1」は「抽象的な概念」だからです。そのため、子どもは「みかん一個」は分かっても、「このみかん一個の中には房が12個入っている。だから房が12個で一個のミカンになっているんだよ」と言われると急に分からなくなります。1,2,3などの「一のけた」は分かっても、「二のけた」以上になって、「20は10が二個」、「30は10が三個」となると、急に分からなくなります。これは感覚的な問題なので、お母さんや先生がいくら易しい言葉で丁寧に教えても、子どもは理解できません。それでも繰り返し練習問題を解けば、問題の意味は理解できなくても、機械的な操作で「答えを出す方法」は分かるようになります。でも、理解できているわけではないので応用問題が解けません。また、数式ではなく文章で問題を出されても解けません。10、100.1000、さらには1/2とか、0.5といったような抽象的な概念としての数が理解できるようになるためには、「多様な数の体験」が必要になるのです。その数の体験がない子にとっては「10」も「100」も同じ感覚です。ただ「10」と書いてあれば「じゅう 」と読み、「100」と書いてあれば「ひゃく」と読むだけです。そこにあるのは「読み方の違い」だけです。でも、紙に「〇」を10個書かせ、その後で100個書かせればその違いは、単なる「読み方の違い」ではなくなります。一分間に〇をいっぱい書かせ、「さあ、数を数えて」と言われた場合、規則正しく〇を書いた子はすぐに数えられるでしょうけど、ランダムに描いた子は困難を感じるでしょう。そういう具体的な体験を通して子どもたちは「数に関する抽象的な概念」を得ていくのです。また、1mは100cmで10cmの10倍ですが、こういうことも言葉だけの説明で理解させるのは困難ですが、実際にヒモなどを使って体験させると分かりやすくなります。計算するときに指を使うと叱られますが、実際には指も使った方がいいのです。指を使って計算していくうちに数が抽象化されて、指を使わなくても計算することが出来るようになるのですから。指だけではなく使えるものは何でも使って計算すればいいのです。そういう工夫が「数への理解」を深めるのですから。頭の中だけで計算できる子が必ずしも「賢い子」ではないのです。「計算が得意な子」よりも「数の使い方」を知っている子の方が賢いのです。どんなに「計算が得意な子」でも、AIには適わないのですから。でもAIは「数の使い方」は知りません。「数の使い方」を知っていれば計算は電卓やコンピュータを使えばいいのです。(実際、意外なことに数学者は計算が苦手だそうです。個人差はあるでしょうけど・・・)計算問題をやらせるよりも、子どもと一緒に工作をした方がよっぽど算数(数学)の能力は高くなるのです。ということで、もし、自分の子を「賢い子」に育てたいのなら、夏休みはお勉強よりも遊びや工作などを楽しんでください。ただし、賢い子を育てるために必要なのは「自分の頭と、感覚と、心と、からだを使った遊び」です。機械や道具に依存した遊びではありません。
2023.07.26
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人間は「物事を抽象化する能力」を持っていまが、AIはこの能力を持っていません。AIも抽象化された言葉を使いますが、それは人間が作り出した言葉を調べることで人間と同じように使っているだけで、言葉の意味そのものが分かっているわけではありません。AIも「お風呂」について語ることはできるでしょうが、当然、それは自分自身の体験に基づいたものではありません。そして、その抽象化する能力によって生まれたのが「言葉」です。ですから「言葉の世界」は全て抽象だけで成り立っています。AIが使っている言葉は、抽象化されることがない「0」(非存在)と「1」(存在)の組み合わせです。「物事を抽象化する能力」という言葉の中の、「物事」も、「抽象化」も、「能力」も抽象的な概念です。言葉自体に中身はありません。ですから体験や学びを共有できる人同士では「あれのことだよね」で話が通じますが、体験や学びを共有できない人の間では、同じ日本語を話す日本人同士でも話が通じません。「木」という言葉でも、森の中に住んで森の中で遊び、森と共に生きている人にとっての「木」と、都会に住みテレビや図鑑の中だけでしか木を見たことがない人にとっての「木」は全く別物です。「木」という抽象化された概念を得るときのソースになっている、感覚や、心や、からだでの体験が異なっているからです。同じ「木」という言葉を使っていても中身が全く違うのです。だからこの両者が会って「木について」話し合っても、トンチンカンな会話にしかならないでしょう。人間が使う「木」と、AIが使う「木」も同じではありません。人間が使う「木」には命がありますが、AIが使う「木」には命がありません。そこは誤解しない方がいいです。「木」という言葉を知っているからと言って「木」について知っているとは限らないのです。でも現代人は「木という言葉を知っているかどうか」は問題にしますが、その言葉に中身が入っているかどうかは気にしません。実際、学校教育はそういう視点で教育を行っています。だから知識はいっぱいあっても「空っぽの言葉」しか使うことが出来ない子がいっぱいいるのです。知識としては「命は大切だ」ということを知っていても、「命」そのものを知らなければ「命」を大切にする行動を取ることはできないのです。お風呂という言葉も知らなければ、お風呂に入ったこともない子をお風呂に連れて行って「あー、気持ちがいいね。これがお風呂っていうんだよ」と、「お風呂」という言葉を伝えれば、子どもは中身が入った「お風呂」という言葉をつかえるようになります。でも図鑑や動画で「お風呂」を見せて「これがお風呂だよ」と教えても、「お風呂」という言葉を「自分の言葉」として使えるようにはなりません。そして、中身がない言葉を使う人ほど「教科書的な正解」に拘ります。また、この抽象化する能力を得ることで人間は、対象の全体を丸ごと認識出来るようになりました。「人間」という抽象化された言葉を使うことで、性別も国籍も、肌の色も違う世界中の人間を一気にまとめて扱うことが出来るようになったのです。また、感覚や、心や、からだの体験を言葉化(抽象化)することで、人間は見える世界も、見えない世界も自由に扱えるようになりました。AIにはこの能力がないので、「目で見ることが出来ない世界」を扱うことは出来ないでしょう。でも、現代の子どもたちもAIと同じように「言葉」だけを学ばされて、その「中身」を与えてもらっていません。だから、いっぱい言葉を知っていても「自分の言葉」をつかえないのです。まただから考えることも苦手なんです。当然のことながら、そういう状態の子は「応用問題」が苦手です。中身があればその中身を使って色々と工夫することが出来るのですが、中身のない言葉しか使えない子は工夫のしようがないのです。「考える」という言葉はみんな知っています。でも、「考えるってどういうこと」と聞かれて答えることが出来る人は少ないです。教室で、どうしていいのか分からなくて途方に暮れている子どもに「もっと考えな」と言っても、「考える」ということ自体が分かっていない子が多いのです。多いというより、今ではほとんどの子がそのような状態です。わが子に「自由な人間に育って欲しい」と願っている人は多いです。でも、「自由ってどういうことですか」と聞かれて、自分の感覚や、心や、からだとつながった自分の言葉で答えることが出来る人は少ないです。こういうことに「教科書的な正解」があるわけではありません。大事なのは「自分の感覚や心やからだの体験とつながった自分なりの正解(言葉)」を持っているかどうかなんです。「命」ということに対しても、道徳の授業で「教科書的な正解」を教えても全く無意味なんです。でもみんな、「自分なりの正解」に価値を感じていないのです。学校では「自分なりの正解」を書いても、それが「教科書に書いてある正解」と異なっていれば×になってしまうからなのでしょうか。でも、「自分の生き方」を決めているのは、「自分の感覚や心やからだの体験とつながった自分なりの正解(言葉)」の方なんです。教科書に書いてある正解に合わせて生きている人なんていないのです。
2023.07.25
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(今日はいろいろ事情があってまとまりがありません。お許しください。)AIは書きこまれたデータを忘れることがありません。勝手に消えたら故障です。そして子どもたちをAIに近づけようとしている大人たちも、「ちゃんと覚えて忘れるな」と言います。テストは「ちゃんと覚えているかどうか」を確認するためのものです。そしてちゃんと覚えているといい点数をもらうことが出来ます。「〇〇君は頭がいい」という評価ももらえます。じゃあ、徹夜して覚えてもすぐに忘れてしまうような人は頭が悪いのでしょうか。「忘れる」ということから逃れることが出来ない人間はAIよりも劣っているのでしょうか。そう思い込んでいる人もいっぱいいますが、そういう人たちは「人間の知性」というものを理解していないのです。人間は忘れることが出来るからここまでの知性と精神性を得ることが出来たのです。忘れることが出来るから、全体をつなげ、再構成し、知識や体験を抽象化することが出来るのです。AIにはこの「抽象化する」という能力がないのです。AIは人間が作り出したデータを基にしてそれらを操作し、目的に合った答えを得ようとします。AIにはオリジナルのデータを創り出す能力がないからです。AIが私たちに提供してくれるデータは100%人間が作り出したデータの二次加工品なんです。AIに「死とは何ですか?」と聞けば、古今東西の「死」に関するデータを分析して「死について」答えてくれます。でもそれは、AI自身が自分の体験を元に抽象化した答えではありません。じゃあ、人間はどのようにして「死とは何か」「木とは何か」「学ぶということはどういうことなのか」「命とはなんなのか」ということを知ることが出来るのかということです。「一万本の木」のことを調べて覚えても、「木とは何か」という抽象化された概念が分かるようになるわけではありません。これは10万本でも100万本でも同じです。「木とは何か」ということを知るためには、知識を覚えるだけでなく、多様な形で「自分」と「木」が一度つながる必要があるのです。「死とは何か」ということを知るためには、一度「死」とつながってみる必要があるのです。ただし、「死んでみなさい」ということではありませんからね。例えばですが「大切な人の死と出会う」というようなことです。「死についての哲学書」をいっぱい読んでも、そこで得られる「死について」はAIが出す答えと同じです。自分で抽象したものではなく、誰かが抽象化したものをまとめたものに過ぎません。物事を抽象化するためには体験したことや学んだことを一度感覚や、心や、からだの中に落とし込む必要があるのです。その時、頭で覚えることを求めると純粋な体験が出来なくなってしまうのです。知識は体験したことを整理するためには必要ですが、知識の方が先に入っていると「体験」が阻害されてしまうのです。また、学んだことも一度忘れてみると、学んだことが無意識の世界で統合化され、再構成されるのです。それは、夢がやっている働きと似ています。細かいことは忘れても漠然としたことは残ります。そしてその「漠然としたもの」が非常に重要なんです。それが地図を解読するときの「方位磁石」になるからです。地図に書かれたことをいっぱい覚えていても、方位磁石を持っていない子はその地図を使えないのです。いっぱい木登りをして、木で工作をして、木陰で休んで、木の枝でチャンバラして、葉っぱを川に流して、落ち葉に埋もれて、木漏れ日の中で仲間と遊んで、そういう体験を通して「木とは何か」ということが腑に落ちてくるのです。そして「木とは何か」という抽象化された概念が理解できるようになるのです。抽象化する能力が育つためには、知識ではなくまず体験が必要なんです。ちなみに自閉症の子はこの「抽象化する能力」が弱いそうです。「水」について教えようとして「水道の水」に触らせると「水道から出た水」だけを「水」として認識してしまうことがあるそうです。そういう子を小川に連れて行って「小川の水」に触れさせても、それを「水道の水」と同じものとして認識することが出来ないのです。(個人差はあると思いますけど)そして実は幼い子どもはみんなこのような状態なんです。家では眼鏡をかけていないお父さんがたまたま眼鏡をかけていると、幼い子どもはその人をお父さんとして認識できなくて泣きます。マスクをしているお母さんしか知らない子にとって、マスクを外したお母さんは「自分が知っているお母さん」ではありません。幼い子どもたちはまだ自分の体験を抽象化する能力が低いからです。でも、色々なお父さんを体験することで「自分のお父さん」を抽象化できるようになるのです。すると、変装していてもすぐに「あ、お父さんだ」と分かるようになるのです。
2023.07.24
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現代社会は何でも簡単に調べることが出来ます。昔は本を読んだり、図書館に行ったり、人に聞いたり、自分でやってみたりしなければ調べることが出来ないようなことでも、家にいながら、しかも椅子に座りながら、さらには指先だけで簡単に調べることが出来ます。なんと効率よく学ぶことが出来る便利な時代になったのでしょうか。というのはどうも幻想のようです。学者が「ネットで簡単に調べたこと」と、「いろいろ苦労して調べたこと」の頭の中の残り具合を調べたそうです。すると「簡単に調べたこと」は簡単に消え、「苦労して覚えたこと」はなかなか消えなかったそうです。これは学者のようにいちいち調べなくても、私たちは自分自身の生活体験として知っていることなのではないでしょうか。何かを効率よく記憶するための方法があります。感覚や、感情や、体験や、物語とつなげるような形で覚えると、覚えたことが消えにくくなるそうです。つまり、「外側にあるもの」を、「自分の内側にあるもの」とつなげてあげるのです。すると、消えにくくなるのです。ただ覚えただけの知識は、「頭の中」から、感覚や、心や、からだの中に落ちて行きません。だから、簡単に消えてしまうのです。テストの前に一夜漬けで覚えたことはテストが終わると簡単に消えてしまうのはそのためです。だからそんな勉強をいくら繰り返しても時間の無駄なんです。無駄なだけではありません。そういう勉強を繰り返していると、感覚や、心や、からだの働きとつながるような「本当の学び」が出来なくなってしまうため、「テストではいい点数が取れても実際には何もできない」という状態になってしまうのです。子どもの成長には、頭だけで処理するような学びではなく、感覚や、心や、からだの働きとつながった学びが必要なんです。そのため、感覚や、心や、からだの働きとつながるような「本当の学び」が出来なくなるということは、「自分の成長につながるような学び」も出来なくなるということを意味しているのです。「感覚や、心や、からだの働きとつながった学び」だから、子どもの感覚や、心や、からだを育てる力があるのです。だから、自然の中での仲間との群れ遊びや、様々なからだを使った遊びには子どもを育てる力があるのです。でも、頭だけを使ったお勉強や、ゲームのように頭だけを使って遊ぶような遊びには「子どもを育てる力」がありません。むしろ、そのような形でのお勉強や遊びは、子どもの「学ぶ力」を萎えさせてしまうのです。そういう、頭だけの学びをしてきた子は理屈は達者なんですが、「じゃあ、自分でやってみたら」と言うと色々理屈を言って逃げるのです。失敗すると人のせいにします。今、そういう子がいっぱいいます。自分の頭で考えようとしない、いろいろと試してみない、だから出来ないのに「自分が出来ないのは先生の教え方が悪いからだ」と言われたこともあります。
2023.07.23
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知識をいっぱい覚えることは「テスト」には役に立ちます。でも、覚えただけの知識は、テストとかクイズ番組でしか役に立ちません。また、知識そのものには子どもの頭や、心や、からだを育てる力がありません。生活や、子育てなどの場面や、自分の人生を自分らしく生きるような時にも役に立ちません。役に立っていないから、忘れてしまうのですから。「あなたは小学校5年生よりも賢いのか」というクイズ番組がありますが、ほぼ100%の人が高校ぐらいまでの教育を受けている国で、こういう番組が成り立つということは、「子どもたちは学校でいかに無駄な時間を過ごしているのか」ということの表れでもあります。無駄なだけではありません。子どもの成長にとって非常に重要なこの時期に「人生に役に立たないようなこと」を学ばされることで、「人生に役に立つこと」を学ぶ機会を失ってしまっているのです。だから、精神的に自立できない人、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で判断し行動することが出来ない人がいっぱいいるのです。自己肯定感が低い人が増えているのもその表れです。子育てに苦しむ人、仲間づくりに苦しむ人、子育てや仕事を楽しめない人も同じです。でも、周囲のみんなが同じ状態なので、そのことに気づかないだけです。「子育てがつらい」「自分の子と一緒にいるのがつらい」という人が増えてきているのは、動物としての人間にとっては異常事態なんです。また最近の子と話していると、「自分の考え」を説明できない子、そもそも「自分の考え」を持っていない子がいっぱいいます。「ぼやっとしたイメージ」は持っているのですが、体験と言葉(知識)がつながっていないため、それを言葉化できないのです。そういう子は具体的に行動することも出来ません。自宅でやっている造形教室では、子どもからその「ぼやっとしたイメージ」を聞いて、「君が考えていること、君がやりたいこと、君が作りたいものはこういうことですか?」と、子どものぼやっとしたイメージを具体的な言葉で、具体的なイメージに変換してあげることから始めています。そうでないと、子どもたちは「自分がやりたいこと」も分からないのです。そしてこれは子どもだけの問題ではありません。お母さんたちも同じ状態です。だから毎日同じことを繰り返していてその状態が苦しいのに、その状態から抜け出すことが出来ないのです。「早くしなさい」と言っても無駄なことは分かっているはずなのに毎日「早くしなさい」と怒鳴っています。「勉強しなさい」と言っても、「ゲームをやめなさい」と言っても無駄なことは分かっているのに、毎日同じことを繰り返しています。思考がループしてしまっているのです。子育ての勉強会で「子どもにどういう人間に育ってほしいのですか?」と聞いても、答えることが出来ない人がいっぱいいます。答えることが出来る人でも、その答えは抽象的で紋切り型です。「優しい人」「自立した人」「自由な人」というような漠然としたイメージでしか答えることが出来ないのです。漠然としたイメージしかもっていないので、「子どもが優しい人、自立した人、自由な人に育つように、子育てや毎日の生活で心がけていることはありますか」と聞いてもはっきりと答えることが出来ません。その目的達成のために何もしていないのに、結果だけは期待しているのです。でも、神様は求めるだけで何もしない人には何も与えてくれないのです。世の中、そんなに都合よくできていないのです。教室で「箱を作りたい」と言ってくる子に「どういう箱が作りたいの」と聞いても、多くの子が答えることが出来ません。それで「大きさは?」「なんに使うの?」「どういう箱?」「材質は?」などと聞いて行って、なぞ解きをする所から始めています。そして、「君が作りたいのはこういう箱なんだね」と確認をとってから材料を出したりしています。具体的なイメージを話してくれないことには材料も出せないし、手伝いも出来ないからです。でも中には、どうしても説明できなくて「もういい、やめる!」と言って何もしない子もいます。そういう子は「自分との対話」が出来ないのです。それでいて、そういう子に限ってすぐに「退屈だ!」と言うのです。「退屈だったら何かしたら」というのですが、何をしたらいいのかを自分で決めることが出来ないのです。いま、こういう状態の子がいっぱいいます。そして、お母さんたちも。自分が何のために、何をやっているのか自覚できないまま子育てをしている人がいっぱいいるのです。そういう人にとっては、子どもと一緒にいる時間は地獄です。そして、「地獄の夏休み」が始まりました。でも、自分の意識や気持ちを切り替えるだけで、地獄は天国に切り替わるのです。「夏休みになったら自分の時間や自由が奪われる」と考える人は「子どもに合わせる子育て」をしている人です。それに対して、「夏休みになったら子どもと遊べる」と考える人は子どもとの間に対等な人間関係が築けている人です。子どもに「優しい人」「自立した人」「自由な人」に育って欲しいと願うなら、是非、「子どもと一緒の時間」を楽しんでください。「優しい人」「自立した人」「自由な人」は、ほかの人との対等で幸せな関り合いの中でしか育たないのですから。
2023.07.22
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普通の学校教育では知識を覚えることを求められます。実際、とにかくいっぱい覚えれば成績も良くなります。理解していなくても覚えてさえいれば試験でいい点数を取ることが出来ます。そのため、親も、先生も、多くの大人が子どもに覚えることだけを求めています。そして色々なことを知っていて、成績がよい子が「頭のいい子」として扱われています。「1+1は?」と聞かれて「2」と答えることが出来れば、その意味を理解していなくても「分かっている」と判断するのです。でも、「1+1=2」を覚えているだけの子は、その意味が理解が出来ているわけではないので応用問題として別の形で聞かれると答えることが出来ません。「2×3は」と聞かれて即座に「6」と答えることが出来る子でも、「実が二つずつ付いているサクランボが三つあったら、全部で実はいくつですか」と聞かれたら答えることが出来ない子がいっぱいいるのです。(私は時々面白半分で、知ったかぶりをしている子どもにこういうことを聞いています。)式の形では覚えていても、ちゃんと理解できていない子は日常的な言葉で聞かれると分からないのです。うちは造形教室です。実際に何かを作る場です。ですから、ただ知っているだけでなく、ちゃんと理解していないと何も出来ないのです。「半分」という言葉を知っている子に紙を渡して、「半分で折って」と言ってもちゃんと折れるかどうかは不明です。先日は、板を持って来て「この木をここで半分に切って!」と言って来た子がいましたが、その子にとっての「半分」は端っこの方にあるみたいでした。そういう状態の子は、物事を具体的に考えることが出来ません。自分の頭の中にはボンヤリとあるのですが、その「ボンヤリ」をクッキリとさせることが出来ないのです。色々な体験が少なく、知識を覚えるだけのお勉強ばかりをしているような子は、「知識」と「現実」がつながっていないのです。だから説明できないのです。そして、それが「理解できていない」ということことでもあるのです。「理解する」ということは「知識と現実の世界がちゃんとつながる」ということなんです。そしてそれが「子どもの成長に必要なこと」でもあるのです。ちなみに、AIは何でも知っていますが、知っているだけで理解しているわけではありません。知識とつながるはずの「現実の世界の体験」がないからです。覚えるだけの勉強をしてきて「知識」と「現実」がつながっていない子は、中学生頃になって「抽象的な概念や、抽象的な思考とつながった学び」が始まると、急に勉強に着いていくのが困難になります。その頃から伸びるのは幼い頃から、自然や、仲間や、大人と関わりながらいっぱい遊んできた子です。読書が好きな子も伸びます。両方好きな子が一番伸びます。(ただし、親や先生がそのような子どもの眠っている才能に気づけばの話ですけど・・・)「抽象」は「具象」から生まれるものなんです。だから、具象の世界の体験が少ない子は、抽象の世界も分からないのです。いっぱい色々な木を見て、触れて、色々な形で様々な木と関わってきたから「木とは何か」という抽象的な概念が理解できるようになるのです。虫を捕り、魚を捕まえ、そして、死んでしまうという体験を通して「死とは何か」という抽象的な概念を理解することが出来るようになるのです。現代人にとって「勉強」は、「子どもの成長のため」ではなく「テストでいい成績を取るため」のものです。そして、子どもを「ちゃんと勉強しなさい」と追い立てているような人はみんなこの価値観に染まっています。そういう状態の人に「勉強ってなあに」「勉強って何のためのするの」と聞くと、答えることが出来ません。これは多くの勉強会で確認済みです。大人達は自分の言葉で説明することが出来ないようなことを、平気で子ども達に押しつけているのです。そういう感覚の人にとっては「遊び」は「無駄なこと」です。いくらいっぱい遊んでも、「テストで役に立つようなこと」は少しも学べないのですから。そして、そういう価値観の元に現代の日本の学校教育のシステムは作られています。日本の学校におけるテストは「覚えているか覚えていないかを確認するためのもの」です。ただそれだけのことです。まただから、一度覚えたことは忘れてはいけないのです。でも、シュタイナー教育では「覚えたことは忘れなさい」と言います。<続きます>
2023.07.21
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茶道や武道などの学びにおいては「型」を学ぶことを非常に大切にしています。でも、だからといって「型を学ぶこと」が茶道や武道における「最終的な目標」ではありません。繰り返し「型」を練習し、その過程で身についた様々な能力を「型」を超えて自由に使いこなせるようになるために「型」を学んでいるのです。なぜなら、「型の数」は有限ですが、現実の状況は無限だからです。そのため、有限な「型」に拘っていたら無限に変化する現実の状況には対応できないのです。でもだからといって、「じゃあ、型なんか学ばなくたっていいじゃないですか」ということではありません。皆さんは「自由に踊ってもいいよ」と言われて自由に踊ることが出来ますか。最初は自由に踊れても、しばらくすると同じ動きの繰り返しになってしまいませんか。(やったことないかもしれませんけど・・・) 「型」を学んだことがない人の場合、「動きの選択肢」が少ないので、必然的に同じ動きの繰り返しになってしまうのです。しかもそれは「自分の癖が染みついた動き」です。でもそれでは楽しくありませんよね。そんな時「型」を学ぶと選択肢が増えるのです。癖を超えた動きもできるようになります。すると、自分のイメージや気持ちに合わせて自由に動くことが出来るようになるのです。「型」は「不自由になるために」ではなく、「今よりももっと自由になるために」学ぶのです。以下は、日本における茶道の創始者である千利休の言葉です。茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし【利休百首】面白いですよね。「型」の集合体のような茶道の創始者がこんなこと言ってるんですから。そして、茶道や、踊りや、武道といったようなものの中にだけ「型」が存在しているわけではありません。実は、伝承によって成り立っているものには全て「型」があるのです。欧米文化にも「型」はあります。「お料理」にも「型」があります。「レシピ」と呼ばれるものは全て「型」です。だから、いろいろなレシピを学ぶことでレシピに拘らなくても自由にお料理を作ることが出来るようになるのです。お料理を作るときの道具や食材の扱い方にも「型」はあります。調味料を入れる順番としてよく言われる「さ・し・す・せ・そ」も「型」の一つです。「遊び」にも型があります。「型」があるからみんなで「遊び」を共有することが出来るのです。一人だけで遊ぶ時には「型」は必要ありませんが、みんなで遊ぶときには必ず「型」が必要になるのです。「わらべ歌」も「型」の一つです。「あいさつ」も「型」です。だから同じ文化圏では、同じ挨拶をするのです。そして、挨拶を学ぶことで人間関係を広げることが出来ます。数学における定理や定義や公式も「型」です。その「型」を知らないと自由に問題を解くことが出来ません。自然界にも「型」があります。様々な物理法則は、私たちが生きている宇宙を支えている「型」です。人間は、その「自然界を支えている型」を学ぶことでこの世界で自由を得ることが出来るようになりました。「言葉」にも「型」があります。「文法」とか「慣用的な表現」と呼ばれるようなものは「言葉」を支えている「型」です。また、人はそれぞれ「自分の言葉の型」を持っています。そして人は、色々な「言葉の型」を学ぶことで、自由に自分の言葉で語ることが出来るようになるのです。「型」を学ぶことで人は自由になることが出来るのです。人は自由になるために伝承されてきた「型」を学んできたのです。でも、現代人は「自由になるための学び」をしなくなりました。幼い子ども達の「何も学ぶ前の状態」こそが一番自由な状態だと考える人たちも増えてきました。そういう人の中には、我が子に「自由に生きることが出来る大人に育って欲しい」と願い、子どもをただ放任しているだけの人もいます。でもそうやって育てられた子は、子どもの群れの中に入るとすぐに不自由を感じるようになります。「型」の価値を忘れてしまった現代人は、学ばずに、ただ正解を覚えるだけの「お勉強」をするようになりました。その「お勉強」は、「自由になるためのもの」ではなく、「良い成績をとって、競争に勝つためのもの」です。学校では、「型」も「自分で勝手に変えてはいけない固定された正解」として与えられています。感想文に対してすら正解を作っています。そのため、お勉強をしても学びが生まれず、「自由」ではなく逆に「束縛」が生まれています。そういう「固定された正解を覚えるようなお勉強」ばかりしてきた人は、その知識を「自分の言葉」で語ることが出来ません。というか、そもそも学校では、「自分の言葉で語ること」は求められていません。「自分の言葉」で語っても、正解に合わせて修正されてしまいます。算数でも「自分で発見した解き方」で解いてはいけないのです。答えが合っていても「教わった解き方」で解かないと〇をもらえないのです。そうやって、自分の頭で考えることが出来ない不自由な子どもたちが量産されています。だから現代人は「型」を「自由を束縛するもの」として嫌うようになってしまったのかも知れません。でも、「正解としての型」に束縛されている子は学校の外では何もできません。将来、子どもが生まれて子育てをするようになっても、途方にくれます。
2023.07.20
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一般的には、自己肯定感が低い子に対しては「成功体験を積ませたり、ほめて育てることが必要だ」などと言われています。でも、「大人がやらせたいこと」をやらせて成功しても子どもは嬉しくありません。褒められても嬉しくありません。当然、自信にもつながりません。勉強が嫌いな子は100点取っても嬉しくないのです。いつも「勉強しろ」と追い立てられているような子の場合は、喜びよりも「叱られないで済む」という安心の方が大きいのではないでしょうか。でもその安心はすぐに「また100点取らなければ」という不安につながります。それに対して、「どろ団子作り」のような、大人から見たら下らないことでも、子ども自身がやりたいと思って取り組んだことなら、子どもはその成功を素直に喜びます。誰からも褒められなくても嬉しくなります。失敗しても自己肯定感は下がりません。「木登り」でも、自分の意思でチャレンジしたのなら、たとえその時は登れなくても、それは「成功への過程」であって、「失敗」ではないのです。自己肯定感も下がりません。大事なのは「成功したか失敗したか」ではなく、「本人の意思で取り組んだかどうか」なんです。本人の意思で取り組んだことだから、失敗しても、なぜ失敗したのかを考え、今度は失敗しないように色々と考えるのです。その過程で、自己肯定感も育っていくのです。「自己肯定感が高い子」とは、失敗した時でも「なぜ失敗したのかを考え、次はこうしようということを考えることができる子」でもあるのです。そういうことができるから、自分に自信を持つことができるのです。そういう子はまた「工夫ができる子」でもあります。そして、幼い子どもたちは、自分の意思で選んだ能動的な遊びの中でそういう能力を育てているのです。大人から見たら意味不明で取るに足らない遊びの中で、子どもたちは自己肯定感を育てているのです。でも今、自由にそういう遊びができる場が消えてしまいました。そういう遊びを温かく見守ってくれる大人も少なくなりました。音が出て反応してくれるおもちゃや機械に慣れてしまった子は、反応してくれないおもちゃや遊びを楽しめなくなりました。自分で遊びを探さなくなりました。日々、そういう状態の中で育っていたら当然、自己肯定感も育たないでしょうね。また、そういう状態の中で育っている子ほど「失敗」を恐れます。現代の子どもたちは、自分の意思で能動的に、そして自由に遊ぶことが出来ない状態の中で、常に大人の目や評価を気にしながら生きています。自己肯定感を高めるために必要なのは「成功体験」ではなく「自分の意思に基づく自由な遊び」なんです。現代社会ではそれが失われてしまっているから、自己肯定感が低い子が増えてきているのです。
2023.07.19
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昨日は、茅ヶ崎で毎月やっている「からだの会」でした。(月1、月曜、10:00~12:00、参加者募集中)それで昨日のテーマは、「不自由で遊んでみよう」でした。色々と不自由な状態を作り出して、その状態を解決しようとするとき何が起きているのかを遊びとして遊んでみました。例えば、運動会などでやる二人三脚も「不自由を遊ぶ遊び」です。二人三脚をやっていると、普段と同じようには走れません。自由にも動けません。だから面白いのです。そして、いつもと違うこと」をやってみると、その「新しい状態」に対応するため普段は眠っている感覚やからだの働きが目覚めます。問題を解決するために、頭の働きも目覚めます。子ども達も、自分の成長を促すために、色々なことに挑戦します。それは「新しいこと」や「難しいこと」です。でも、「新しいこと」や「難しいこと」に挑戦する時には、必ず不自由が生まれます。大人になるとその「不自由」を避けるようになりますが、子どもの場合は積極的にこの「不自由」を楽しもうとするのです。子どもの成長本能が、この「不自由」を「苦しいこと」ではなく「楽しいこと」に変換してくれるからなのでしょう。まただから、コマ回しや、竹馬や、木登りといった、「簡単にはできない遊び」に夢中になる事が出来るのです。そして、不自由を楽しむことで頭や、感覚や、からだの働きが成長していたのです。ベイブレードではなく、本物のベーゴマで遊ぶだけで頭や、感覚や、からだの働きが目覚めるのです。鉛筆を削るのだって、電動鉛筆削り器で削ってしまえば頭も、感覚も、からだも使わないで済んでしまいます。でも、ナイフで削れば鉛筆削り器を使った場合とは比較にならないほど頭も、感覚も、からだもの働きも必要になります。だから、いつも電動鉛筆削り器に頼っている子はナイフで鉛筆を削ることが出来ないのです。その逆に、いつもナイフで鉛筆を削っている子なら簡単に鉛筆削り器で鉛筆を削ることが出来ます。でも、いつも鉛筆削り器を使っている子はナイフでは鉛筆を削ることが出来ないのです。それはつまり、簡単便利な道具に依存することで「頭や、感覚や、からだの働きを育てるきっかけ」を失ってしまっていると言うことです。そしてそれが現代人全体の状態でもあります。簡単で便利な機械は大人になってからでも、身体の機能が衰えてくる老人になってからでも使えます。でも、そういうものを使わないやり方で挑戦することを楽しめるのは子ども時代だけなんです。子どもは、からだや感覚の働きが育っている時には、本能的にその育ちに繋がるような刺激を求めるからです。だから無駄にジャンプしたり、無駄に走り回ったり、無駄に高いところに登ったり、無駄に踊ったりなどと大人がやらないようなことをいつもやっているのです。またすぐに何でもかんでも自分でやりたがるのです。でも、「不便なもの」よりも先に「便利なもの」と出会い、それに慣れてしまった子は、感覚の働きが「便利なもの」に合わせた状態で固定されてしまうため、「不便なもの」を嫌うようになってしまうのです。その結果、感覚の働きが育たなくなってしまいます。エスカレーターやエレベーターを使うことに慣れてしまった子は、脇に階段があっても階段で上ろうとはしません。「階段で上ろうか」と言っても「えー、やだー、かったるい、疲れる」などと言います。これは体力だけの問題ではないのです。「階段を上る」ということに伴う、頭や、感覚や、からだの使い方が苦手になってしまっているからなのです。今の子どもたちは何かあるとすぐに「面倒くさい」と言います。「かったるい」「つかれた」も言います。また、考えようともせずにすぐに「わかんない」と言います。ちょっと見て難しそうだと、やっても見ないのに「できない」と言います。「もっと考えてごらん」と言っても、「考える」ということ自体が感覚的に分からないようなんです。具象の世界の体験が少ない子は、抽象の世界も分からないのです。だから、幼い頃に、現実の世界の中で思いっきり遊んだ体験がない子は、中学生頃になって抽象的な思考が求められるようになると勉強に追いついていくことが出来なくなってしまうのです。「絶対出来るからやらせて」と言い張るのでやらせたのに、ちょっと始めただけで頭の中の「ゲーム感覚的なイメージ」と「リアルな世界」の違いに出会い、簡単に「むり、できない」と放り投げてしまう子も多いです。ゲームではそれでもOKなんでしょうが、現実の世界では材料に下書きを書いたり、中途半端に切れ込みを入れた状態で放り投げられたら材料が無駄になってしまうのです。うちには教室の子どものやりかけのものがいっぱい溜まっています。どうして簡単に諦めてしまうのかというと、頭や、感覚や、からだを使うことを楽しめなくなってしまっているからです。昔の子どもたちは、頭や、感覚や、からだの使い方の基礎を、「不自由で不便な遊び」の中で育てていたのです。ちなみに、仲間と群れて遊ぶことですら、一人で遊ぶことに慣れてしまっている子には不自由で不便なんです。子どもは子どもに合わせてはくれませんから。だから「話し合う」という能力が必要になるのです。でも最近の子ども達は、簡単で便利な機械や道具に依存して遊んでいます。「遊び」それ自体はそれでも成り立つのですが、でも、そのような遊びでは「頭や、感覚や、からだの働き」が育たないのです。youtubeでノコギリの使い方を見て学んでも、実際にノコギリを使って「ノコギリを使うことから生まれる不自由」を体験し、それを乗り越えないことには、ノコギリが使えるようにはならないのです。でも、現代人はそういうことが分からなくなってしまっています。
2023.07.18
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お母さんたちの話を聞いていると、みんな「しつけ」のことで頭がいっぱいです。その「しつけ」の内容も、「日本人の基本的マナーとして伝承されてきたしつけ」ではなく、「お母さんの個人的な価値観に基づいたしつけ」がほとんどです。 「箸の持ち方」「鉛筆の持ち方」「歩き方「姿勢」「話し方」「言葉遣い」「お手伝い」などといったようなことには無頓着なのに、「勉強をしない」「片づけない」「けんかをする」「ゲームをやめない」「言うことを聞かない」「約束を守らない」「嘘をつく」などということには悩んでいます。そして、一生懸命に「お母さんの言うことを素直に聞くよい子」に育てようと頑張っています。実際、「しつけ」で悩んでいるお母さん達の話を聞いていると、その内容の多くが「子どもの成長を支えるためのもの」ではなく、「お母さんの安心」や「子育てを楽にするためのもの」ばかりです。他のお母さんに受け入れてもらうために、子どもに謝らせたりもしています。さらには、自分のために子どもが嫌がることを押し付けているのに、「あんたのためなんだから」などと恩まで着せています。でもその結果、子どもはお母さんを信用しなくなります。皆さんだって、会社の上司が自分の手柄のために、自分が上司から評価されるために、自分の仕事を楽にするために、皆さんに無理な仕事を押し付けていたり、気分に任せて罵ったり、脅していたらどんな気分ですか。そんな上司信用しませんよね。子どもだって同じなんです。幼い子どもの成長に一番必要なのは「安心」です。そして、子どもが本能的に一番安心を感じるのがお母さんです。だから子どもは、何かしらの不安を感じたときにはお母さんに「安心」を求めるのです。でも最近は、「安心」ではなく「不安」を与えてしまっているお母さんが多いのです。「いい子にしていないと愛してあげないよ」というようなメッセージを出していたら、子どもは不安を感じてしまうのです。さらに問題なのは、お母さんが「個人的なしつけ」にばかりこだわっていると、子どもが「仲間の作り方」や、「他の人とのかかわり方」を学べなくなってしまうことです。昔の子どもの周りには、お母さんだけでなく、祖父母がいたり、大勢の兄弟もいました。また、地域の仲間も多かったし、近所のおじちゃんやおばちゃんとの関りもあったので、そういう人間関係の中で「仲間の作り方」や「ほかの人とのかかわり方」を学ぶことができました。でも、最近の子どもの周りには基本的に「お母さん」しかいません。特に、仲間とつながらずに一人で頑張って子育てをしている場合には、お母さんが人間代表なんです。そのため、最近の子ども達は、「お母さんとのかかわり方」だけを通して「ほかの人とのかかわり方」を学んでいるのです。だから子どもとお母さんの間の人間関係が歪んでいたり、一方的なものであった場合には、子どもが保育園や幼稚園に行くようになってから色々と困ったことが起きてしまいます。お母さんとの関わり合いを通して学んだ「お母さんのやり方」で、他の子と関わろうとしてしまうからです。それ以外の方法を知らないのですからそれは当然の結果です。そういう子は「相手の言葉」に耳を傾けません。「相手の気持ち」に無頓着です。自分のやりたいことを相手に押し付けます。だから友達も仲間も出来ません。でも、そういう子は自分に原因があることが分かりません。それ故に、みんなが自分に意地悪をしていると思い込んでしまいます。お母さんが子どもに「自分に従うよい子」を求めるような子育てをしているとそういうことになってしまうのです。しつけよりも大事なことは、子どもを「一人の人間」として認め、受け入れることです。子どもが知らないこと、出来ないことは「先輩として」教えてあげればいいのです。お母さんは子どもにとって「人生の先輩」なんです。子どもはお母さんの後輩であって、部下でも、奴隷でも、家来でも、所有物でもないのです。だから子どもを支配し、管理し、コントロールしようとするのではなく、先輩として教え、導いてあげる必要があるのです。私は、それが「しつけ本来の目的」なのではないかと思っているのです。
2023.07.17
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現代人は、何でもかんでも支配し、コントロールしようとします。自然に対しても、物に対しても、人に対しても、環境に対しても同じです。そして、それを可能にしてきたのが「文明の力」です。ですから、「文明の歴史」は支配とコントロールの歴史でもあります。「国」や「経済」や「軍隊」も、支配とコントロールによって成り立っています。でも、人の苦しみの多くは、その支配とコントロールがうまく行かないことから生まれています。もちろん、子育てでも同じです。自然を支配し、コントロールしようとして、環境が壊れ、自然のバランスが壊れ、自然災害が頻発するようになりました。自然の一部としての人間の心とからだも狂い始めています。病気を支配し、コントロールしようとして薬漬けになり、からだが本来持っていた「自分のからだを守る能力」(免疫力)が低下しました。また、自分の状態を周囲の状態に合わせるのではなく、周囲の状態の方を自分に合わせることで、感覚や、様々なからだの調整機能も低下しました。便利な機械を発明することで、自分の頭や、感覚や、からだを使わなくても様々な活動をすることが出来るようになりましたが、それと同時に、自分の頭や、感覚や、からだの能力が低下しました。そして、そういう機械がないと生活することが出来なくなりました。その結果、機械を使うのではなく、機械に使われるようになりました。また、自然を破壊する行為が、古代から人々が持ち続けてきた「自然への畏敬の念」を破壊し、命の意味、命の価値、命の大切さ、命の素晴らしさを感じる感性も萎えてきました。人間と自然のつながりも崩壊寸前です。問題は、支配しコントロールする方法は最初のうちはうまく行くのです。だから、「これこそが救いの道だ」と思い込んでしまうのですが、支配しコントロールし続けることで、自分が支配している相手に依存するようになってきます。また、支配され続けていることで相手も疲憊してきて支配や命令に応える能力が低下していきます。「子育て」でも同じです。子ども達がお母さんが大好きで生活のほとんど全てをお母さんに依存しているうちは、支配とコントロールがそれなりにうまく行くのです。でも、子どもが成長し自立し始めると、急に、支配とコントロールが困難になります。何遍言っても言うことを聞かなくなります。そして親子の関係が悪くなります。以前、「うちの子、急に悪い子になってしまった」と言っていたお母さんもいました。また憂鬱質の子どもの場合は、成長しても、お母さんの支配から抜け出せなくなってしまうこともあります。自立すべき時期になっても自立できなくて、いつまでもお母さんに依存するようになってしまうのです。それで本人も苦しみますが、いつまでも自立できない我が子にお母さんも苦しみます。いずれの場合も、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」が育たないので、子どもは自分の人生を自分の意志で生きることが困難になってしまうのです。当然、自己肯定感も低くなります。それなのに、多くのお母さん達が、支配し、コントロールすることで、子どもを「自分の言うことをちゃんと聞くよい子」に育てようとしています。もういい加減、子どもを自分の思い通りに育てようとすることを諦めた方がいいのです。その方が、子どももお母さんも幸せになるのですから。だからといって、それは放任すると言うことではありません。子どものやっていることに無関心になることでもありません。子どもがやっていることをよく見て、子どもの気持ちや想いを肯定し、「子どもという自然」との関わり合いを楽しむようにするのです。7才前の子どもはまだ自然の一部ですから、お母さんの思い通りにしようとしても無理なんです。
2023.07.16
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昨日は、そして、子どもの聞く(聴く)能力は、お母さんの話しかけによって目覚めます。まだ何も出来ない寝たきり状態の赤ちゃんにお母さんがいっぱい話しかけることが、その後の「頭の使い方」、「からだの使い方」、「感覚の使い方」の育ちにも影響を与えているのです。ということを書きましたが、人は直接「自分」に話しかけられ、丁寧に「自分の話」に耳を傾けてもらうことで、「自分という存在」に気づき、「自分という存在」が肯定されていることを知るのです。でも、機械はそんなことしてくれません。テレビもタブレットもそんなことしてくれません。保育園の先生も生活や遊びの世話はしてくれますが、一人一人に話しかけたり、一人一人の話を聞こうとはしてくれません。お母さん達もまた、自分のことに忙しくて丁寧に子どもに話しかけたり、丁寧に子どもの言葉に耳を傾けたりはしていません。実際、「言葉が理解できない子どもに話しかけても無駄」「何を言っているのか不明な子どもの言葉に耳を傾けても無駄」と考えているお母さん達も多いのです。そして、子どもがある程度言葉が理解できるようになると、「あれしなさい」、「これしなさい」、「それはやっちゃダメ」、「早くしなさい」、などというような指示命令は出すようになります。でも、子どもを「一人の人間」として肯定して話しかけるということはしていません。そのため、子どもが理解できない言葉で、子どもにはできないことを押しつけたりしています。また、子どもが子どもの言葉でお母さんに何かを伝えようとしても、「今は忙しいから」というオーラを出して子どもの言葉を遮ってしまっています。それでいて、親の要求は子どもに押しつけています。早くしなさい、勉強しなさい、片付けなさい、ケンカは止めなさい、危ないことは止めなさい、優しくしなさい、静かにしなさい、などなどです。そして、ゲーム機のような機械やオモチャを与えて、「これで一人で遊んでいなさい」と、子どもとの関わり合いを拒絶しています。現代社会に生きている子ども達は「一人の人間」として肯定されていないのです。「子どもを一人の人間として肯定する」と言っても、そんな難しいことをする必要はありません。子どもの目を見て、子どもの顔を見て、子どもの気持ちやぬくもりを感じながら丁寧に話しかけ、子どもの気持ちに共感しながら、子どもの言葉に丁寧に耳を傾けているだけでいいのです。その際、子どもがお母さんの言葉を理解できなくてもいいのです。子どもは「お母さんの声」を通してお母さんの気持ちとからだを感じる事が出来るからです。子どもはお母さんが言っている「言葉の意味」によってではなく、「お母さんの声」によって「自分が肯定されているか」「否定されているのか」が分かるのです。また、ちゃんと自分の言葉に、耳と、心と、からだを向けてもらうことで、自分がお母さんにとって大切な存在であることを感じることが出来ます。そうやって自己肯定感が育つのです。子どもが自己肯定感を育てるために必要なのは「成功体験」ではなく、「一人の人間」としてちゃんと話しかけられ、ちゃんと耳を傾けてもらうことなんです。成功体験によって付くのは「自信」です。ただし、「一時的な自信」です。100点を取れば、その時は自信を得ることが出来ますが、同時にそれは「次も100%点を取らなければ」というプレッシャーになります。そして、次に100点を取れなければ成功体験によって得た自信は簡単に崩れます。でも今、そういう根本的なところで心が満たされない状態で育っている子が非常に多いのです。どんなに優しく、丁寧に世話をしていても、子どもを「一人の人間」として肯定し、一人の人間として関わろうとしていなければ子どもの自己肯定感は育たないのです。あと、「子どもを守る」ということの意味を誤解している人が多いです。子どもを守るために危険なことはさせない、子どもを守るために乱暴な子とは付き合わせない、子どもを守るためにナイフやハサミは持たせない、子どもを守るために外で遊ばせない、子どもを守るために毎回アルコール消毒させいつもマスクをさせる。子どもを守るために幼いうちから勉強させる。子どもを守るために・・・・・でもこれは、子どもを守っているのではなく、親の不安や理想を子どもに押しつけているだけです。こういう子育てを受けている子どもは、自分に合った年齢相応の発達をすることが出来なくなります。自分の気持ちや意志が否定されているので、能動的に考え、感じ、行動する能力も目覚めません。もし、皆さんの恋人やパートナーが「あなたを守りたい」と言って、このように皆さんの行動を束縛し始めたら嬉しいですか。精神的DVだとは思いませんか。私は、「子どもを守る」ということは、「子どもの気持ちにとって大切なこと」や「子どもの成長にとって大切なこと」を守ってあげることなのではないかと思っています。そしてそれが親の役目なのではないかと思うのです。子どもの気持ちを否定してあらこれやらせるのは、「子ども」を守っているのではなく「自分」を守っているのです。自分が大切にしていることを、その意味が分からなくても、相手も同じように大切にしようとしてくれている時、「自分が大切にされている」と感じるのではありませんか。どうでしょうか?
2023.07.15
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「頭と心とからだをつなげる方法」として、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」ということを書いてきましたが、あと大切なのは「ゆっくりと丁寧を心がける」ことです。だから、子どもを急かしてはいけないのです。大人でも同じですが、人は急かされると「頭」と「心」と「からだ」が対話できなくなり、「頭」でからだを道具として使うようになってしまうのです。その結果、頭と心とからだがバラバラになってしまうのです。でも実際には、お母さん達は一日中「早くしなさい」と子どもを追い回しています。お母さん自体の「頭」と「心」と「からだ」がバラバラになってしまっているので待てないのです。そして、自分自身も追いたてています。誰も追いかけていないのに、常に追われているような幻想にとりつかれているのです。だから心もからだも落ち着くことがないのです。自己肯定感が低いのも、頭と、心と、からだがバラバラだからです。そして、「発達障害と呼ばれるような子ども達」はみな一様に、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」というような活動が苦手です。こういうことを遊びを通してやらせてみようとすると、ただただ混乱が起きます。現代人は便利な機械に頼って生活しています。それは大人も子どもも同じです。そして機械の操作には「ゆっくり」も「丁寧に」も必要ありません。実際、子ども達はゲームをしているときはゲーム機を乱暴に扱っています。ボタンを押すときにはゆっくりも丁寧も必要ありません。ちなみに、学校から子ども達に貸し与えているタブレットが異常な割合で壊れているそうです。「落下」が多いそうですが、「ものを大切に扱う」という事が出来ない子が多いのです。その結果、修理する予算も、新しいタブレットを買う予算も足らなくて困っているそうです。昔の人は、「自分の代わりに仕事をしてくれる便利な機械」を持っていませんでした。だから人々は、頭を使い、感覚を使い、からだを使い、様々な道具を使って生活していました。お箸や、トンカチや、ノコギリや、包丁や、針などの「道具」は、「自分のからだの一部」として使うものです。ですから、からだを雑に使っていたら、箸で豆をつまむこともノコギリで木を切ることも出来ないのです。「機械」ではなく「道具」を使って生活していると、それだけである程度は丁寧が身につくのです。それは遊びでも同じで、丁寧が出来ないとコマも回せないし、竹馬に乗ることも出来ないのです。そういう状態の子ども達は「聞く」(聴く)ということも苦手です。対話も苦手ですが、それは聞く(聴く)ことが出来ないからです。まただから、学習も困難になってしまうのです。(特に、先生から直接学ぶ学習に於いて)もっと言えば、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」ということが出来ないのも「聞く(聴く)能力」が育っていないからなんです。自分の頭や、感覚や、からだと対話する能力が低いから「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」という事が出来ないのです。実際、「素話」のようなお話を喜んで聞くことが出来るような子や、ちゃんと相手の言葉に耳を傾けて対話できるような子は、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」ということも出来るのです。そして、子どもの聞く(聴く)能力は、お母さんの話しかけによって目覚めます。まだ何も出来ない寝たきり状態の赤ちゃんにお母さんがいっぱい話しかけることが、その後の「頭の使い方」、「からだの使い方」、「感覚の使い方」の育ちにも影響を与えているのです。でも、そういう視点が現代人には欠落してしまっています。そして「世話をする子育て」だけしています。保育園の先生も世話はしてくれますが話しかけてはくれません。結果、聞く(聴く)事が出来ない子が増えてきています。それでも、からだや道具を使って遊んだり生活したりしていれば、その状態もある程度は改善出来るのですが、便利な機械の普及がその改善を阻害してしまっています。「聞く(聴く)事が出来ない」という状態は目で見ることが出来ません。それが目に見える形で表れた時に、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」が出来ないということになるのです。どんな場合でも、「目に見える現象」の裏側には「目では見えない原因」がちゃんとあるのです。でも、現代人は「目に見える現象」しか見ようとしないし、「目に見える現象」だけを変えようとしています。
2023.07.14
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茶道や、踊りや、武道などのような「型を通して学ぶようなもの」では、それがどんなジャンルであっても初心者はまず「姿勢」を整えるように言われます。「躾」も「姿勢を整える」ことから教えようとします。太極拳もまずは姿勢からです。シュタイナー教育における、「オイリュトミー」という一見、体操や踊りのように見えるものでも同じでしょう。なぜなら、姿勢が崩れていたらそれがどんなジャンルであっても、正しい「型」を学ぶことが出来ないからです。その人の「姿勢」は、その人の「意識の状態」を表しています。「姿勢」は「外側に現れた心」なんです。だから役者は姿勢を工夫することで心の中の状態を表現しようとするのです。悩んでいる人がまっすぐに前を向いていたらおかしいですからね。やる気に満ちているときには、からだが起き、しっかりと前を向きます。森の中などで思いっきり遊んでいるような子ども達の姿勢も立っています。生きる力に満ちている幼い子ども達の姿勢も立っています。「姿勢が立っている」というのは、頭がちゃんと背骨の上に乗り、背骨や背中の力みがなくまっすぐに立っているということです。それは、全体を見通し、感覚を活性化させ、何かあったらすぐに動ける状態です。姿勢がちゃんと立っていると、頭も、感覚も、心も、からだも自由に働くようになるのです。こういう状態で学ぶから、学んだことが頭だけでなく、感覚や、心や、からだの中にまで入っていくのです。そしてそのような状態でないと「型」を学ぶことが出来ないのです。実際、悩みを抱えている人、生きる力が萎えている人、感覚が閉じている人、悲しみや怒りに囚われている人、部分ばかり見て全体を見ようとしない人の姿勢は崩れています。また、姿勢が崩れるような生活ばかりしていると、悩みを抱えやすくなります。生きる力が目覚めません。感覚が開きません。(細かいことは気になるようになりますが・・・)、悲しみや怒りに囚われやすくなります。部分ばかり気になって全体を見ることが出来なくなります。こういう問題は「心の問題」として扱われることが多いですが、実際には「からだの問題」なんです。だから、薬や「元気が出る」というサプリを飲んでも、一時しのぎにしかならないのです。部屋の中だけで遊んでいたり、ゲームばかりやっていると姿勢が崩れ、からだが歪みます。日常的に歩くことが少なかったり、生活の場でからだを使うことが少なければ姿勢が崩れ、からだが歪みます。そのことが現代人の悩み多さや自己肯定感の低さの背景にあるのです。そんな状態の子ども達でも、森の中に連れて行って仲間や自然と関わって遊ばせていると、姿勢が立ってくるのです。ただし、ある程度年齢が上がって、「歪んだ姿勢」が固定化されてしまっている子は、森の中に連れて行っても仲間や自然と関わりながら楽しく遊ぶことが出来ません。そして「たいくつだ」を繰り返します。じゃあ、歪んだ姿勢が固定されてしまっている子が素直にまっすぐな姿勢を取り戻すためにはどうしたらいいのかということですが、まずは「安心」を与えることです。「姿勢のゆがみ」は筋肉の緊張が創り出しています。感覚的、肉体的に偏った生活も不自然な状態で筋肉を緊張させますが、「自分」を守ろうとする心の働きが筋肉を緊張させることで、結果として姿勢が崩れてしまうことも多いからです。実際、常に人目を気にしているような子は、その緊張が姿勢を崩してしまうのです。これは、大人も同じです。だから、まずは安心を与えて無駄な緊張をほどいてあげるのです。次に「喜び」を与えることです。「喜び」にはからだにエネルギーを与え、からだをまっすぐ起こす働きがあるからです。そんな時、「姿勢をまっすぐにしろ」と見かけの形ばかりにこだわって、子どもに「よい姿勢」を強要すると、子どもはさらに別の筋肉を固め、その緊張によってからだをまっすぐにしようとします。その結果、見かけは「まっすぐ」になるのですが、そのまっすぐには柔らかさも、自由もありません。そして、緊張が創り出した檻の中で、子どもは苦しむことになります。姿勢は「頭や、心や、からだの状態の結果」なのですから、見かけの形だけを目的にしてはいけないのです。でもだから、崩れてしまった姿勢を整えさせるのが難しいのですけどね。また、気質によっても「自分に合った姿勢」は異なります。「胆汁質の人に合った姿勢」と「粘液質の人に合った姿勢」は姿勢は異なるのです。胆汁質の人は重心を上に持っていこうとします。だから胸が張ります。粘液質の人はその逆に下に持っていこうとします。だから胸は緩みます。その方が動きやすいのです。ちなみに、幼い頃から安心や喜びに満たされ、からだを思う存分使って遊んだり、生活している子の姿勢は整っています。そういう子は、学ぶことも楽しむことが出来るでしょう。
2023.07.13
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昨日は、武道や踊りや茶道などを学ぶ時に求められる「型」について書きましたが、今日はその「型」に着いての補足です。欧米には「型」のような思想はあまりないように思います。口では教えにくいようなものを専門とする職人や、バレーなどのような芸術の世界にはあるかも知れませんが、そういう世界を目指していない人にはあまり縁がない考え方のような気がします。その「型」を学ぶ方法では、初心者にもいきなり100%を求めます。型通りに動くことを求めます。そして、出来なければ「ダメ」と言われます。それで「どこがどうダメなんですか?」と聞いても「自分で考えろ」と突き放されます。ただし、学ぶべき型にも段階はあります。当然のことながらいきなり上級者の真似は出来ませんから。でも、段階はありますが、基本的にその型についての説明はありません。聞いても説明してくれません。「型」での学びの場には「言葉」はないのです。ただただ、自分の意志でお手本から何かを感じ取って真似をするしかないのです。意味を知りたかったら自分で調べるしかないのです。「なんて不親切な」と思うかも知れませんが、実は、子ども達の遊びの場でも同じようなことが起きているのです。子どもは子どもに言葉で説明したり、丁寧に教えたりはしませんよね。だから、上手になりたければ上手な子のやり方をよく見て真似をするしかないのです。太古の昔から、子ども達はそうやってコマの回し方や、竹馬の乗り方を学んで来たのです。幼い子が言葉や歩き方を学ぶ時も同じです。大人が教えなくても、子どもは自らの意志で大人を観察し、大人を模倣し、話したり、歩いたりすることが出来るようになるのです。これは、日本だけでなく世界中の子ども達が同じ方法で言葉や歩き方や遊びを学んでいます。だから大人は、子どもに合わせるのではなく、日常的に、子どものお手本となるような言葉遣いや所作をする必要があるのです。「学ぶ」という言葉は「真似る」という言葉から生まれたそうですが、子ども達は上手な子や大人の型を真似ることで遊びを学んでいるのです。武道のような「型」で教える教え方は、その「大人バージョン」です。でも、真似をするためには真剣に見て、真剣に取り組まなくてはなりません。本当にコマをまわしたい子はそうやってコマを回す技術を習得することが出来るでしょう。でも、苦労せず、楽に簡単に回せるようになりたいだけの子にはその「真似」が出来ません。真剣に見て、真剣に取り組むということが出来ないからです。学校の授業などで「コマ回し」を学ぶような場合も同じでしょう。それで心優しい大人達は、コマの回し方を学ぶ方法をマニュアル化して丁寧に教えようとします。そして、褒めます。本気で回したいわけではないので、叱ったらすぐに止めてしまうからです。でも、そういう子はある程度回せるようになるとすぐに止めてしまいます。さらに上を目指そうとはしません。自分で勝手に見て学ぶのではなく、大人に教えてもらいたがる子はマニュアル的な方法で教えないとついてこないのです。型での学びでは、子ども(学びたい人)が大人(学びたい相手)に合わせますが、マニュアル的な方法では大人が子どもに合わせるのです。勉強したい子よりも勉強したくない子の方が多い学校のような場でも、教え方がマニュアル化されています。学校は「見て学ぶ場」ではなく「教えてもらって学ぶ場」なのです。「ちょっとやってみたい」というだけの「○○教室」でも、マニュアル的な方法で教えます。初級レベルなら簡単に学ぶことが出来るからです。ただし、ある程度レベルが上がると言葉では教えることが出来なくなります。そして、言葉で教えてもらった子ほど、その先に進むことが困難になります。「型」を模倣する学びでは、やる気のない子は全然学べませんが、マニュアル的な方法ならやる気がない子でもある程度は学ぶことが出来るのです。そして、欧米の人たちはこのマニュアル的な方法を考えるのが得意です。まただから、機械文明が発展したのでしょう。兵士の教育にもこの方法が使われているようです。また、マニュアル的な思考が得意な人たちはシステムを作るのも得意です。型文化の人たちは高い能力を持った職人を育てるのは得意ですが、高い能力を持った職人はシステムの中で動くのが苦手です。変化に対応する能力も低いです。「型」は固定されているので、状況が変わったからといってそう簡単に変えることが出来ないからです。それに対して、マニュアルは簡単に作り替えることが出来ます。状況が変化したらマニュアルを変えればいいだけなので、柔軟に変化に対応できるのです。マイナンバーカードにまつわる混乱を見ていても、日本人がいかにシステム的に考えるのが苦手なのかよく分かります。ただし、マニュアルを使った方法は「教育の大量生産」には向いていますが、子ども一人一人の能力に合わせた教育には向いていません。マニュアル的方法は、一人一人の違いには対応出来ないのです。でも、型を模倣するような学びでは、その子に合った「型」を与え、方向さえ示してあげれば、自分なりのやり方で学ぶことが出来ます。でも、マニュアルを「型」として取り入れてしまった現代人は、そういう臨機応変な考え方が出来ません。でも、欧米の人は型に対するこだわりがないので、子どもに合わせた形でマニュアルを書き換えることが出来ます。だからどっちの方が優れていると一概には言えないのですが、「頭の働きと、心の働きと、からだの働き」を統合したいと思うのならば、「型」を使った学びの方が遙かに有効だと思います。そして、日本でも欧米でも子ども達の「群れ遊びの場」や、踊りや歌などの「からだで学ぶ伝承文化」を伝える場が、その「型で学ぶ場」として機能していました。でも、欧米ではどうか分かりませんが、日本ではその「型で学ぶ場」は消えてしまいました。
2023.07.12
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昨日は、現代人は「型」を「実用性がない無意味なもの」考えがちですが、「型」には頭と、心と、からだを統合する働きがあるのです。統合されるから「技」が効くようになるのです。という中途半端なところで終わってしまいましたが、今日はその続きです。踊りや、お茶や、武道など、日本古来のものを学ぶときには必ず「型」を学ぶところから始めます。「躾」もまた「型の学び」です。昔は生活の中にも「型」があったのです。歩き方や、姿勢や、動き方や、話し方や、立ち居振る舞いが美しくなるような「型」を子どもに伝えることもまた「しつけ」の目的だったのです。そしてそれを「躾」という字で表したのでしょう。日本以外のものでも、太極拳やヨガにも「型」がありますが、そういう学びに共通しているのは「年を取っても衰えない」ということです。むしろ円熟していきます。「型」を学ぶことで「からだ」そのものが変わってしまうからです。それに対して、西洋で生まれたスポーツの世界では「型」は大切にされていないような気がします。テレビなどで見ていても、「型」よりも、スピードとパワーをつけることの方を求めらているような気がします。でも、スピードとパワーは20歳前後から衰え始めます。そのため、スポーツは年齢別で行います。また、自分流でいくら頑張っても癖は矯正されません。「頭」と「心」と「からだ」が統合されることもありません。スポーツの世界でも、選手によっては上手な選手のやり方を「型」として学んでいる人もいるみたいですが、でもそれは選手の個人的な価値観に基づくやり方であって、スポーツの指導のあり方そのものの中に「型を大切にする」という思想があるわけではないような気がします。職人などの仕事は「見て学ぶもの」でした。先輩職人がやっている「型」を模倣することで、腕を磨いていたのです。でも、社会の近代化と共に、人々はその「型」を「自由な動きや、行動を束縛するもの」として嫌うようになりました。「型」の意味も分からなくなりました。そして、「型」を学ぶことなく、自分の感性や欲求に従って自由に感じ考え行動することを大切にするようになりました。でもそれ故に、「頭の使い方の癖」、「感覚の使い方の癖」、「からだの使い方の癖」が矯正されなくなったのです。また、それらの働きが統合されることもなくなりました。(数学を学ぶときに出てくる定理や定義は「型」と似ています。それを無視していては問題を解けないのです。)確かに、「型」を学ぶ時には強い不自由を感じます。でもそれは、「頭の使い方の癖」、「感覚の使い方の癖」、「からだの使い方の癖」が、「型の学び」を邪魔するからなんです。ちなみに「からだを使った遊び」にも「型」があります。コマ回しや竹馬のような「道具を使う遊び」には「型」があるのです。トンカチやノコギリなどの「道具」の使い方にも「型」があります。「やりたいようにやったっていいじゃん」などと、自分の動きをコマや竹馬に合わせなければコマは回せないし、竹馬にも乗れないのです。トンカチやノコギリも使えません。自分流では紙飛行機ですら飛ばせないのです。武道では「型」を学ぶことで、意識の使い方、感覚の使い方、心の使い方、からだの使い方を学んでいるのです。目で見ることが出来るような「形」を学んでいるのではないのです。ですから、youtubeなどで太極拳の動きを真似しても、それは太極拳に似た体操であって、太極拳そのものではないのです。太極拳などを学んだことがある人には分かると思いますが、型を学ぶ時には空間を感じる感覚や、自分のからだの位置や状態を感じる感覚も必要になります。動きながら常に手や指の位置や状態、頭や背骨の状態、全身の筋肉の状態、腰や足や足の裏の状態を感じ続ける必要があるのです。そのような感じる力が育たないことには「型」は学べないのです。でもそれ故に、人は「型」の学びを通して、頭と心とからだがつながり、統合されるのです。でも、慣れていないうちは、自分で自分の状態をチェックすることが出来ません。だから「型」の学びに於いては師匠が必要になるのです。ちなみに、シュタイナー教育でも「型」の学びは大切にされています。シュタイナー教育は、子どもが自分の意志で自由に生きることが出来るようになるための能力を育てる「自由への教育」であって、「子どもに自由を与える教育」ではないからです。ですから、絵を描くときにも、オイリュトミーと呼ばれる体操のようなことをするときにも「型」を学ばされます。自由に描かせてもくれないし、自由に動かせてもくれません。でもそれは、大人の価値観に従った絵を描かせるためでも、大人の価値観に従った動きをさせるためでもなく、子どもの頭の癖、心の癖、からだの癖を取り除き、頭と心とからだをつなげ、子どもの心やからだをより自由にさせるためのものなんです。「群れ遊びの場」などでは、「伝承されてきた遊び」が「型」として働いていました。でもそれも消えてしまいました。でも、「型」は共有出来ますが「型」を学んだことがない子ども達が「自由」を共有するのはほぼ無理なんです。そのため最近の子どもの群れは、趣味や、興味や、本能や、力関係だけで動いています。
2023.07.11
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頭と、心と、からだをつなげるための方法」としては、子どもの場合は、仲間と一緒に、感覚と、感情と、からだをいっぱい使った活動、つまり「工夫したり、冒険したり、ハラハラ、ドキドキ、ワクワクするような遊び」をやっていれば大丈夫です。 ただし、ゲームの中でではなく、リアルな世界でです。ゲームの中でも似たようなことはできますが、でも、頭の中の体験としては似ていますが、実際には感覚もからだも使っていないので、頭と、心と、からだが統合されるどころか、逆にバラバラになってしまうのです。ただし、大人の場合は「工夫したり、冒険したり、ハラハラ、ドキドキ、ワクワクするような遊び」をすることは困難です。というか、もうすでに頭と、心と、からだがバラバラになってしまっているような人には、「工夫したり、冒険したり、ハラハラ、ドキドキ、ワクワクするような遊び」が出来ないのです。じゃあどうしたらいいのか?、ということですが、大人の場合は感覚やからだを丁寧に使うことを心がけていると、頭と、心と、からだがつながってきます。 家事をする時も、歩く時も、動く時も、話す時も、「丁寧」を心がけていれば、頭と、心と、からだが再統合されるのです。 茶道や、武道や、太極拳や、ヨガなどの学びはその手助けになってくれるでしょう。そういう世界には「型」があるので、「丁寧」を学びやすいのです。現代人は「型」を「実用性がない無意味なもの」考えがちですが、「型」には頭と、心と、からだを統合する働きがあるのです。統合されるから「技」が効くようになるのです。(今、出先でiPadで書いているのですが、なんか接続がおかしくて、この倍くらい書いたのですが、以下が消えてしまいました。ということで、この続きは明日家に帰ってから書きます。)
2023.07.10
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現代人が疲れやすいのは、便利な機械や道具に囲まれて運動をしなくなったからだけではありません。子どもの頃に思いっきり遊んでいないので、頭の働きと、心の働きと、からだの働きが統合されていないことも、疲れやすく、自己肯定感が低い原因でもあるのです。人間の能力の多くは、産まれた時にはまだ「可能性」として存在しているだけです。最低限の「感じる能力」や「動く能力」は身につけて産まれてきますが、「人間らしく感じ、人間らしく動く能力」はまだ開花していません。「人間らしく歩くこと」も、「人間らしく話すこと」も、「人間らしく考えること」もです。「人間らしい頭と、心と、からだの使い方」も開花していません。そういう能力は全て、子どもの周囲にいる大人たちとの人間らしい関わり合いの中で開花するように出来ているからです。だから、日本に生まれ、日本人と関わりながら、日本語を母国語として育った子は考え方も、感じ方も、からだの使い方も日本人らしく育ち、フランスに生まれ、フランス人と関わりながら、フランス語を母国語として育った子は考え方も、感じ方も、からだの使い方もフランス人らしく育つのです。逆にいうと、日本に生まれても、周囲の大人たちとの人間らしい関わり合いがなく、一人で機械や物だけを相手に育っているような子は人間らしく考え、感じ、行動する能力が開花することなく、動物としての肉体だけが成長することになります。テレビやユーチューブでいっぱい見せても無駄です。実際の関わり合いがなければ、子どもの「人間としての能力」は開花しないように出来ているからです。その「人間としての能力」の中に、「頭と、心と、からだの使い方」があるのです。現代人は、この中の「頭の使い方」にしか興味を持っていません。そして「頭の使い方」だけを育てようとしています。でもそれは出来ないのです。「頭の使い方」と「心の使い方」と「からだの使い方」は密接につながり合い分離できないようになっているからです。そのため、全体を丸ごと育てようとしない限りどれも育たないのです。また、「頭の使い方」だけを育てようとすると、「頭の働き」と、「心の働き」と、「からだの働き」が分離してしまい、精神的にも身体的にも不安定になってしまうのです。そして、目的とした「頭の働き」も育たなくなります。からだが不安定で、精神的にも安定しない状態ではちゃんと考える事ができないからです。特別に「知育」などというようなことをしていなくても、日々の生活の中で「頭と心とからだが連動して働くような活動」(それが遊びです)を与えられていなければ、子どもは困った意味で「知的な能力」だけが育ってしまうのです。すると、頭も、心も、からだも疲れやすくなってしまうのです。仲間と一緒に、頭と心とからだを使って夢中になって遊ぶ遊びには、頭の働きと、心の働きと、からだの働きを統合する作用があるのです。子どもが人間らしく生き生きと育ち、自分の人生を能動的に生きる事ができるようになるためには、子ども時代の遊びは必要不可欠なんです。
2023.07.09
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現代人は基礎体力がありません。子ども達なんかひどいもんです。見かけは子どもでも、からだはご老人のようです。とにかく固い。筋力も体力もない。すぐに疲れる。ノコギリをちょっとやっただけで、「疲れた」とか「腰が痛い」などと言います。(免疫力も低下しています。)そのため、集中力がない。すぐ飽きる。我慢が出来ない。一つのことを考え続ける持続力がない。こういう状態の子を勉強に追い立てても、ちゃんと考え、ちゃんと学ぶことが出来るわけないのです。また、肯定的な感情に乏しく否定的な感情が強いです。だから簡単に人の悪口を言ったり、「バカ」「シネ」「ウザイ」などと言います。頭と心とからだの育ちが年齢に追いついていないため、精神的には実年齢よりも2,3才幼いような気がします。大人も本質的なところでは同じような状態だろうと思います。子どもの場合は生活の中に「責任」がないので、心やからだの状態がすぐ目に見える形で表れますが、大人は「他者の目」を意識したり、色々な責任があるので、疲れても頑張ろうとするので子どもほどには表に表れませんが、中身の状態は同じだと思います。でも、頑張りすぎると心が壊れます。子ども達は心が壊れることを避けるためにすぐに外に出すのですが、大人は外に出ないように頑張ってしまうので心が壊れてしまうのです。実際、テレビのCMを見ていても、「疲れたときには○○」という、薬やエネジードリンク系のCMがすごく多いですよね。「ご褒美にビール」というCMも、頑張って疲れている現代人に向けてのメッセージなんでしょう。鬱病や自殺も増えてきているようです。音楽でも癒やし系の歌詞の音楽が多いような気がします問題は、どうしてこんな状態になってしまったのかということです。私が感じているのは「頭と、心と、からだの使い方」が下手な人が増えてきたということです。「頭の使い方」を知らなければ効率的に考えることが出来ません。また、ちょっと考えようとするだけで疲れるので、考えなければいけないようなことでも考えないで済ませようとします。その結果、問題がこじれていきます。「心の使い方」を知らなければ悩みや苦しみから逃れることが困難になります。ちょっとしたことで簡単に傷ついてしまいます。「からだの使い方」を知らなければ当然すぐ疲れます。また、からだを痛めやすいです。そして、疲れてもなかなか疲れが取れません。「早くしなさい」といくら言っても無駄だと言うことを日々実感しているはずなのに、「早くしなさい」と言い続けているような人はそのような状態です。「勉強しなさい」「ゲームを止めなさい」も同じです。<続きます>
2023.07.08
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今日からテーマを変えます。お母さん達の話を聞いていると、みんな疲れています。「毎日が楽しいです」という人も時々はいますが少ないです。実際、体力も、筋力も低いお母さん達が増えてきています。ただしこれは急に始まったことではなく、2,30年前ぐらいから少しずつ進行してきたことです。簡単で便利な遊びや生活が普及した結果なのかも知れません。体力や筋力の低下と共に、精神的にも弱くなってきました。痛みや苦しみに対する耐性も弱くなりました。能動的に行動する意欲や、意志の力も弱くなりました。そして、優しいけれど、ナイーブで傷つきやすく、自分を守ることばかり考えている人も増えてきました。自分の頭で考えて失敗したくないので、他者に正解を求める人も多いです。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて、自分の意志と責任で行動する自信がないし、その方法も知らないので、簡単に誰かや何かに依存しようとするのです。でも、そんな自分を肯定することが出来ずに、自分で自分を否定し、自己肯定感が低いことに悩んだりしています。自分で自分を叩いているから痛いのに「この痛みからどうやったら抜け出せるのでしょうか」と悩んでいるのです。これは「お母さん」だけでなく「お父さん」も同じなんだろうと思いますが、ただ私は若いお父さん達との付き合いがないので、その実態を知りません。山登りでどんなに素敵な山に登っていても、体力がない人にとっては単なる「辛い山」に過ぎないでしょう。どんなに景色がよくても、辛くて下を向いているばかりの人にとっては退屈な地面の連続に過ぎないでしょう。顔を上げれば素敵な景色が広がっているのですが、顔を上げる余裕がないのです。そして、辛い状況から早く抜け出すことばかり考えているので、常に、簡単で便利で効率的な方法を探しています。自分には楽で、しかも、子どもは優秀でよい子に育つような方法です。その結果、「○○能力を育てます」などと謳っているような「幼稚園(保育園)」や「○○教室」を見つけると、喜んで我が子を預けます。「それが子どものためなんだ」という言い訳も立ちます。実際には、幼い子どもの心とからだの育ちには、「子どもが無条件に信じているお母さん」との関わり合いが必要なんですが、子どもと一緒にいること自体が辛いお母さん達には、そんな子どもの気持ちを受け入れる余裕がないのです。みんな、自分を守ることに精一杯で、子育ての意味や、子どもの心やからだの育ちのことなんか考えている余裕がないのです。またそのため、子どもの笑顔や悲しい顔にも気づきません。このような状態から抜け出すためには、まず、自分のからだの状態に目を向ける必要があるのです。<続きます>
2023.07.07
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昨日は「言葉の論理」について書きましたが、言葉の論理は言葉ごとに違います。日本語の論理と英語の論理も違います。ですから、日本語で考えたり表現したりできることでも、英語では考えたり表現できないこともあります。「葉っぱが散るさまをなぜ〝ヒラヒラ〟と表現するのか」ということを英語で説明するのは困難です。ヒラヒラという音に対する感受性が異なっているからです。また、その人が使っている言葉は、その人の感覚にも影響を与えています。日本人には、ニワトリの鳴き声は「コケコッコー」と聞こえますが、英語圏の人には「cock-a-doodle-doo」と聞こえるようです。「クック・ドゥードゥルドゥー」ではありません。「cock-a-doodle-doo」です。カタカナ表記の「クック・ドゥードゥルドゥー」は日本語の音ですから。日本語の「おはよう」は英語では「Good Morning」であって「グッド モーニング」ではありません。実際、日本語読みで「グッド モーニング」と言っても通じにくいのではないかと思います。英語の「d」は「ド(do)」ではないし、「g」は「グ(gu)」ではないのですから。日本語を母国語にしている人は、「自然の音」も「日本語の音」で聞き取ろうとするのです。英語を母国語にしている人は、「自然の音」も「英語の音」で聞き取ろうとするのです。このように、その人がどのような言葉を使っているのかと言うことが、その人の感覚の状態にまで影響を与えているのです。「木漏れ日」という言葉を知っている人には「木漏れ日」が見えますが、その言葉を知らない人には見えないのです。「萌葱色」という言葉を知っている人には「萌葱色」が見えますが、その言葉を知らない子ども達には「緑色」しか見えません。ヨモギ色も「緑」です。以前、色々な緑の葉っぱを持ってきて、教室の子どもに見せて「この葉っぱは何色?」と聞いたら、全部「緑」という一つの言葉で表現していました。ですから、「豊かな言葉」を持っている人は「豊かな世界」で生きることが出来ますが、「貧弱な言葉」しか持っていない人は「貧弱な世界」でしか生きることが出来ないのです。また、「豊かな言葉」を持っている人は「豊かな思考」をすることが出来ますが、「貧弱な言葉」しか持っていない人は、「貧弱な思考」しかすることが出来ません。でも、本人はそのことに気づきません。でも、言葉の論理は人それぞれです。同じ「日本語」であっても、いわゆる「若者言葉」のような「特殊な人たちの間でしか通じない言葉」を使っている人と、私のような「普通のおじさん」とでは話が通じないでしょう。また、最近の子ども達は「ゲーム語」を使っているので、ゲームを知らない私には子ども達の会話を理解するのが困難です。また、業界語というのもあります。シュタイナー教育を学んでいる人は「エーテル体」とか「アストラル体」といったような概念を使った「シュタイナー語」を使います。でも、「シュタイナー語」はシュタイナー教育を学んでいる人にしか通じません。そこで、価値観や言語にかかわらず、色々な人が同じ事を同じ論理で扱うために必要になるのが「客観的な言葉」なんです。それが「科学」で使われている言葉です。言葉と言っても「数式」のような言葉ですけど。数式もまた「意味を伝えることが出来る言葉」なんです。「この宇宙の原理を説明するための言葉」です。ですから、「1+1=2」とか、「E=mc2」(この2は二乗という意味です)とか、というものも「言葉」の一種なんです。こういう言葉を使わないと世界共通、人類共通、宇宙共通のことを伝え合うことが出来ないのです。世界共通、人類共通、宇宙共通のことを知るためには数学や科学を学ぶ必要があるのです。そこに、理工科系の子ではなくても、数学や科学を学ぶことの意味があるのです。でも、数学や科学の言葉では、人の心やからだのことは扱えません。「命の仕組み」は扱えますが、「命の意味や価値」は扱えません。そういうことを扱うのが得意なのが「宗教の言葉」です。科学は宗教を否定しますが、もともと扱う対象が違うのですから否定すること自体が的外れなんです。「海の漁師」が「山の猟師」のやり方を非難しても意味がないですよね。
2023.07.06
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(昨日からの続きです)子どもは最初は「感覚の論理」で考え始めます。大ざっぱに言ってしまうと、「感覚の論理」では「快・不快」で論理が展開していきます。全ての動物はこの論理で生きています。次に、感情の目覚めと共に「感情の論理」で考え始めます。これは「好き・嫌い」「楽しい、嬉しい、怖い」などという感情に従って論理が展開していきます。犬やイルカのような感情の働きに目覚めたほ乳類は、感覚の論理の他に感情の論理でも考えています。そして、「感覚の論理」や「感情の論理」が目覚め始める時期に、「気持ちがいいこと」「好きなこと」「楽しいこと」に満たされて育っていると、肯定的な感覚や肯定的な感情が目覚め、肯定的な論理で考え始めるのではないかと思います。これは私の推論ですが、時々「人が触ったものには触れられない」という潔癖症の人や、知らない人がいると過剰に緊張してしまうというような人がいますが、そういう人は幼児期に否定的な感覚体験や否定的な感情体験が多い環境で育ったのではないかと思います。その後、子ども達が言葉の学びと共に学び始めるのが「言葉の論理」です。「言葉」は論理の集合体です。だから、色々なことを伝えることが出来るのです。子ども達は、言葉を学ぶ過程で「言葉の論理」で考えるようになって行きます。でもそれ故に、「どういう言葉をどういう風に学んだのか」ということが、その子の思考方法を決めてしまいます。(でも、言葉は学び直せるので固定されたものではありません)感情的な言葉が多い環境で育てば、感情的に考える能力が育ちます。感覚的な言葉が多い環境で育てば、感覚的に考える能力が育ちます。論理的な言葉が多い環境で育てば、論理的に考える能力が育ちます。日本語は「感覚的な言葉」が多い言語ですから、日本語を学ぶことで感覚的に考える能力が育ちます。日本語しか学ぶことが出来なかった人が論理的に話すのはかなり困難です。それに対して、ドイツ語は「論理的な言葉」が多い言語です。でも、これだけではみんなバラバラになってしまいますから、他の国の人、他の考え方の人と話し合うためには、共通の言語、共通の論理を学ぶ必要があります。そこで「教育」というものが意味を持ってくるのです。ものを作るときの思考も世界共通です。科学的な考え方も世界共通です。あと、「物語の言葉」もなぜか世界共通なんです。<続きます>
2023.07.05
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人は誰でも、いつでも考えています。寝ているときでも考えています。死ぬまで考えています。臨死体験をした人の話を読むと、死んだ後でも考えているようです。人間は「考えることを止められない動物」なんです。では、人は皆同じように考えているのかというと、その「考え方」は人それぞれです。「からだの使い方」が人それぞれなのと同じように、「頭の使い方」も人それぞれなんです。そして、「頭の使い方」が似ている者同士では話が通じますが、「頭の使い方」が似ていない人と話しても話が通じません。どんなに言葉を尽くしても通じません。それで「どっちの方が正しい」という議論や戦いになるのですが、「正しい」ということの認識の仕方自体が人それぞれなので平行線になるばかりです。それで結局、罵り合いになったり、戦いになったりします。考えるときには「論理」が必要になります。論理がないと言葉がつながっていかないからです。問題は、その「論理」が人それぞれだと言うことです。「言葉の論理」で考える人がいます。そして、「言葉の論理」で考える人の言葉は、「言葉の論理」で考える人にしか通じません。まただから、使っている言葉の制限を受けます。「日本語しか知らない人」の思考は、「英語しか知らない人」には通じません。自然の中で暮らしている人の言葉は、機械や人工物に囲まれて生活している人の言葉とは異なります。そのため、言葉も通じません。「数学的、科学的な論理」で考える人がいます。そして、「数学的、科学的な論理」で考える人の言葉は、「数学的、科学的な論理」で考える人にしか通じません。その「数学的、科学的な論理」は世界共通ですが、扱える内容が大きく制限されます。物質のような「世界共通なもの」は扱うことが出来ても、心やからだや感覚といった「個に属するもの」は扱えないのです。「哲学的な論理」で考える人も、「感情の論理」で考える人も、「感覚の論理」で考える人もいますが、それぞれ同じ論理で考える人にしか「言いたいこと」が伝わりません。ちなみに、感覚の論理で考える人は直感で考えます。人間以外の動物たちも直感で考えています。赤ちゃんや幼い子ども達もまた「感覚の論理」で考えています。「感覚の世界」には論理などないように思えるかも知れませんが、感覚の働きの中には「37億年の生命の知恵」が詰まっているので、それが論理として働くのです。細胞達も「感覚の論理」で考えています。だから、からだがバラバラにならずに、システムとしてちゃんと機能し、生命を維持できるのです。細胞達がちゃんと考えて働いているから、私たちが存在できているのです。赤ちゃんがおっぱいを吸うのも、苦しいとき、違和感を感じたときに泣くのも、安心を得るためにお母さんを求めるのもみんな「感覚の論理」の表れです。身近にあるものを何でも触り、口に入れてしまうのも「感覚の論理」の表れです。大きな声で騒ぎ、動き回ってばかりいるのも「感覚の論理」の表れです。ですから、そこにはちゃんと「感覚の論理に基づいた意味」があるのです。子どもの行動や、表情や、声は、そのまま「子どもの言葉」なんです。問題は、その「意味」や「言葉」を聞き取ることが出来る人がドンドン減ってきてしまっているということです。そして、大人の言葉や意味を押しつけようとしています。でも、大人の言葉や意味は、大人とは異なった論理世界に生きている子ども達には通じません。でも、感覚の論理を否定されている子ども達は、感覚の働きが肯定されないため次の論理の段階にうまくステップアップすることが出来なくなってしまうのです。「感覚の論理」の後にやってくるのが「感情の論理」です。「感覚の論理」は、個を超えた「命あるものとしての論理」「動物としての論理」「人間という種の論理」といった普遍的な論理によって支えられていますが、「感情の論理」の段階に入ると「個人としての違い」が目立つようになってきます。幼児期に、「感覚の論理」を肯定され、ちゃんと読み取ってもらえた子は「肯定的な感情の論理」を使うようになります。逆に、幼児期に「感覚の論理」を否定され、大人の論理を押しつけられて育った子は「否定的な感情の論理」を使うようになります。ここで大きく論理の形態が分かれてしまうのです。すると次第に話が通じなくなります。「肯定されて育った子」と「否定されて育った子」は異なる論理、異なる言葉を使うようになってしまうからです。<続きます>
2023.07.04
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人は「人と人のつながり」の中でないと人間らしく生きることが出来ません。これは、誰も否定できない事実です。ですから、「自立して自由に、幸せに生きる」ということも、「人と人のつながり」の中で実現するしかないのです。だからこそ、「自立して自由に、幸せに生きる能力」を育てるためには、「他の子や他の大人と幸せな関係でつながり合う能力」を育てることとセットにして考える必要があるのです。どんなに成績優秀で、英語がペラペラで、知能指数が高くても、「他の人と幸せな関係でつながる能力」が育っていない子は、自立して自由に幸せに生きることは出来なくなってしまうからです。海の中で自由に動けるようになるためには「泳ぎ方」(海の水との関わり方)を学ぶ必要がありますよね。「水があるから自由に動けないんだ」と海の水を排除しようとしてもそれは不可能だし、そんなことしていたらおぼれてしまいますよね。それと同じように、「人と人のつながり」の中で自由に生きることが出来るようになるためには、自分の周囲にいる人との間に、「支え合い、助け合うことが出来る関係を築くことが出来る能力」を育てる必要があるのです。その能力が育つことで、人は「一人では出来ないようなこと」でも出来るようになる自由を得ることが出来るのです。そしてそれが「仲間作り」の能力なんです。でも最近、「仲間作り」がうまく出来ない子ども達が増えてきています。大人も同じです。というか大人が出来ないから子どもも出来なくなってしまったのでしょう。でも、子どもも大人も困っていません。なぜなら、他の子や人とつながらなくても遊んだり生活していくことが出来るような便利な機械やインフラがいっぱいあるからです。でも、そういう便利な機械やインフラに囲まれて遊び、育ってしまったため、そういう便利なものがないと遊んだり生活できなくなってしまいました。子育ても、「一人で遊び、一人で生活することに慣れてしまった人」は一人で何とかしようとしてしまいます。でも、「子育て」はお母さん一人では絶対に出来ません。「遊び」や「子育て」についてどんなにいっぱい知っている優秀なお母さんでも、一人で子育ては出来ないし、やろうとしてはいけないのです。お母さん一人では、子どもに「人と人のつながりの体験」を与えることが出来ないからです。お母さん一人でも「子どもの世話」は出来ます。安心を与えることも出来ます。でも、子どもを「将来、自立して自由に幸せに生きることが出来る人間に育てるような子育て」は、お母さん一人では不可能なんです。「お母さん一人の子育て」で子どもが学ぶことが出来るのは「お母さんとの関わり方」だけだからです。だからこそ、子育てでは「仲間」が必要になるのですが、今、その「仲間作り」が苦手な人がすごく多いのです。子どもの頃から仲間と群れて遊んだ体験がないまま大人になってしまったからなのでしょう。ちなみに、「群れ遊び」における「群れて遊ぶ」というのは「みんなが同じことをして遊ぶ」ということではないですからね。大人がオニになって、子ども達が逃げ回るのは「群れ遊び」ではないですからね。同じように逃げ回っていても、それだけでは「仲間」ではないですからね。自分たちでルールを決め、自分たちでルールを守り、ちゃんとオニが交代して、子ども達だけでズーッと楽しく遊ぶことが出来るつながりが「仲間」という関係なんです。そして、子どもが大人になって自立して自由に幸せに生きて行くためにはそういう能力が必要になるのです。また、子どもを保育園に預けても仲間作りが出来るようになるわけではありません。お母さんは、「保育園には子どもがいっぱいいるから仲間作りも出来るようになるだろう」と考えますが、先生の指導の下に一緒に遊んでいるだけでは、大人に対する依存心が育つだけで「仲間作りの能力」は育たないのです。「友達」は出来ても「仲間」は出来ないのです。保育園の先生達は子どもの世話はしてくれますが、仲間にはなってくれません。子どもと一緒に遊んでくれているように見えても、「一緒に遊んでくれている」だけであって、子どもと同じ意識で一緒に遊んでいるわけではありません。そういう人は仲間ではないのです。また、「一緒に遊んでくれる先生」にリードされて一緒に遊んでいる子ども達もまた「仲間」ではありません。遊びをリードしてくれる人がいなければ一緒に遊べないような関係を「仲間」とは言えないのです。昔は、「子どもによる子どもが主人公の伝承遊びの場」が「仲間作りの場」でもあったのですが、今、そういう場はほぼ消えかかっています。だから、そういう場をもう一度再生しなければならないのですが、でもそれが非常に難しいのです。社会の流れに逆らって、子ども達の「仲間作りの場」を作るためには、「大人の仲間」が必要になるからです。消すのは簡単でも再生するのは非常に難しいのです。
2023.07.03
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私は色々な肩書きで、色々な活動をしていますがその中の一つに「親子遊び研究家」というものがあります。ただし、多分世間一般にそのような肩書きの職業などないと思います。私が勝手にそのように名乗っているだけです。それは今お母さん達に、「親子遊び」を伝えることの重要性と、具体的なその方法を使えることが、子どもにもお母さんにも必要不可欠な時代だと思っているからです。でも、実際にはほとんどのお母さんが「親子遊び」の重要性を認識していません。そもそも、「親子で遊ぶ」ということ自体が理解できないお母さん、「子どもなんか放っておいても育つもの」と考えているお母さんの方が多いかも知れません。ただ、「しつけ」だけは放っておいたら伝わらないことを知っているので、熱心に子どもを追い回して「しつけ」を押しつけようとしています。「子どもなんか放っておいても育つもの」と考えているお母さんは、「昔のお母さんは子どもとなんか遊ばなかった」と言います。それはその通りです。ほんの50年くらい昔の、冷蔵庫も、洗濯機も、電子レンジも、スーパーも、冷凍食品も、インスタント食品も、電話も、車もなかった時代のお母さんは毎日、朝から晩まで忙しくて、子どもと関わっている時間などありませんでした。(電話と車は、仕事で使う人か、ほんの一部のお金持ちしか持っていませんでした。)でも、その代わり、地域や家庭の中に子どもを育てるシステムが存在していました。まず、地域の中に一緒に遊ぶ異年齢の仲間がいっぱいいて、自由に遊ぶことが出来る空間や自然がいっぱいあって、大人達は「子どもは元気が一番」と勉強になど追い立てなかったので遊ぶ時間もいっぱいあったのです。また、お年寄りや地域の大人達が、積極的に子どもたちと関わってくれていたので、子どもたちは大人とのつながりもありました。家庭の中や地域の「お手伝い」もまた「子どもを育てるシステム」として機能していました。だから子どもは放っておかれても育つことが出来たのです。映画、「ALWAYS 三丁目の夕日」で描かれている昭和30年代頃まではそういう状態だったのです。有史以来ズーッと子どもたちはそのような環境の中で育ってきたのです。でも、みなさんのお母さんやお父さん達が子育てを始めた頃、つまり皆さんが生まれ育った頃には社会の情勢が全く変わってしまいました。有史以来続いてきた「地域の中の子育てシステム」が崩壊してしまったのです。その「子育てシステム」が崩壊してしまった時代に皆さんは生まれ、育ってきたのです。でも、ここで問題が起きました。社会は変わっても人間自体が変わったわけではないので、「子どもの成長に必要なもの」が変わったわけではないからです。仲間との関わりや、大人との関わりが子どもの成長に必要なことは昔のままなんです。でも、「仲間とのつながり」も、「地域の大人とのつながり」も消えてしまったのですから、それらに代わって子どもの一番傍にいる「お母さん」が積極的に子どもと関わって、子どもを育てなければならなくなったのです。でも、実際にはそうなりませんでした。地域の中で遊ぶことが出来なくなった子どもたちは家の中で遊ぶことが多くなりました。でも、お母さん達は子どもとなんか関わりたくありませんでした。自分も関わってもらった記憶がないし、当時は女性達が家庭や地域などの様々な束縛から自由になっていくことが奨励された時代でもあるからです。高度経済成長によりお金持ちになり、また、様々な便利な家電が発明され、女性達は社会に出ていく自由な時間と資金を手に入れることが出来るようになったのです。ですから、「今更、子育てなんかに縛られたくない」と考えた女性がいっぱいいたのです。女性達は「自分たちは今まで被害者だった」と訴え、もっと自由になるための「ウーマンリブ」という考え方や活動も広く一般的になって来ました。そして、お金を稼がない専業主婦をバカにするような女性達も増えてきました。それがみなさんの親の世代です。そして、そのようなお母さん達の活動を助けるための様々な家電や、冷凍食品などの便利なものも増え、子どもの相手をするテレビや様々なおもちゃもどんどん普及してきました。子どもを預ける場所としての保育園もどんどん増えました。当時は、おもちゃを与えて、テレビを見せておけば、わざわざ親が子どもの相手をする必要はないと考えているお母さんも多かったのです。それどころか、テレビを見せていおけば「賢い子に育つ」と考える人も多かった(今でもいます)ので、みんなその方法に飛びついたのです。「テレビに子育てをさせないで」という本が出たのもその当時です。結局、自分の権利を主張することが出来ない子ども達が、最大の被害者になってしまったのです。そんな子どもが寂しくて、苦しくて泣くと、「何であんたはそんなに私を苦しませるの!!」、「あんたのせいで・・・」と逆に怒鳴られてしまう子どもたちがいっぱいいました。(今もいます)子どもは直接話しかけられたり、実際に体験することで言葉や様々なことを学んでいます。ですから、一日中テレビを通して言葉に接していても言葉の学習は出来ません。また、色々な情報に接していても、見ているだけでは何の学びも出来ません。また、毎日コンピュータゲームをやっても、コンピュータに詳しくはなりません。コントローラーやキーボードに上達しても脳の成長は促されません。(そう考えているお母さんもいるのです。)つまり、当時は国民全体が「子どもには衣食住を与え、教育を受けさせ、物質的に恵まれた生活をさせれば充分」という「飼育のような子育て」をやっていたのです。その結果、「家族」も崩壊しました。今でもそれが、「子育ての全て」と考えている人は非常に多いように感じます。でも、子どもは人との関わりを通してしか人間として成長しません。「人間らしい人」との「人間らしい関わり」が、子どもを人間らしく成長させるのです。どんなに衣食住や物質的に恵まれ、毎日塾に通ってお勉強や習い事をしても、「人間らしい人との人間らしい関わり」がなければ、決して「人間らしい人間」には成長しないのです。とはいっても、ではその「人間らしい関わり」とはどのようなものなのかということです。実はそれこそが「遊び」なんです。「子どもの遊び」の中には「人間らしさ」の全てが含まれているのです。「人間らしさ」だけではありません。すべての芸術や宗教や学問の萌芽が「子どもの遊び遊び」の中には含まれているのです。それを私は「親子遊び」という形で提案し、皆さんにお伝えしているのです。ですから、「親子遊び」で遊ぶと、子どもは「人間らしさ」を育てることが出来ます。社会性も知的な能力も育ちます。それと同時にお母さんもまた、「人間らしさとは何か」ということを学ぶことが出来ます。「人間らしさ」は子どもの笑顔を通してしか学ぶことが出来ないのです。今の時代、子どもを「人間らしい人間」に育てるためには「親子遊び」が不可欠なんです。また、親子遊びは子どもの仲間作り、お母さん同士の仲間作りの手助けもしてくれます。確かに、みなさんは子どもの頃にお母さんと遊んでもらった記憶がないかも知れません。でもそれがみなさんの自己肯定感の低さとつながっているとしたら、みなさんの子どもにも同じような子育てをしたいですか。だから私は「親子遊び」を伝えるような活動をしているのですが、最近はそういう場でも、他のお母さんとおしゃべりするだけで積極的に我が子と関わろうとしないお母さんも多いです。
2023.07.02
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私たちの命や生活を支えている感覚の働きには、よく知られている「五感」(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚)の他にも、「バランス感覚」や「空間感覚」のような感覚もあります。これが狂うとうまく歩けなくなったり、動けなったり、簡単に迷子になったりします。シュタイナー教育では、「人間には五感の他に熱感覚、運動感覚、平衡感覚、生命感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚の7つを加えて12の感覚がある」と説明しています。実際には、これらの感覚を原色のように組み合わせることで、「時間感覚」とか「美的感覚」とか「空間感覚」と呼ばれるような感覚も生まれています。これらの五感以外の感覚は、特定の感覚器官に依存しない「脳が感じる感覚」です。また、「五感」で得られるのは「外部からの情報」であるのに対して、五感以外の感覚で感じることが出来るのは「内部からの情報」です。実際、お酒を飲んだだけで「時間感覚」や「空間感覚」は狂ってしまいますよね。「見える」か「見えないか」を決めているのは「目の働き」です。でも、「どう見えるのか」「見えたものに何を感じるのか」を決めているのは、心やからだの状態とつながっている「脳の感覚」です。絵が見えるか、見えないかを決めているのは目の働きです。でも、「そこに美を感じるかどうか」を決めているのは「脳の感覚」です。「世界は美しいものに満ちている」と感じるか「世界は醜いものに満ちている」と感じるのかを決めているのも「脳の感覚」です。「味覚」でも、いわゆる五味(甘味・塩味・酸味・苦味・うま味)を感じるのは口の中の感覚器官の働きですが、「美味しい」とか「まずい」という感覚は、心やからだの状態とつながっている「脳の感覚」によって生まれています。世の中には、「人生は不思議で、美しくて、楽しいことに満ちている」と感じている人もいますが、「人生はくだらなくて、醜くて、退屈なことに満ちている」と感じている人もいます。そのような違いを創り出しているのが「脳が感じる感覚」なんです。自分の人生を自分らしく生き生きと、幸せに生きる事が出来るか、出来ないかを決めてしまうのがこの「脳が感じる感覚」なんです。だから、子育てでは「脳が感じる感覚」を育ててあげる必要があるのです。「五感の働き」は基本的に生まれつきですが、この「脳が感じる感覚」の方は、様々な体験を通して育ちの過程で育って行くものだからです。「育ちの過程でどのような感覚体験や、感情体験や、からだの体験をしたのか」ということが、成長しつつある脳の中で「感覚の働き」として定着してしまうのです。幼い頃からお母さんやお父さんに信じてもらえた子は、「人を信じる感覚」を育てることが出来るでしょう。でも、幼い頃から疑われ、虐待を受けて育ったような子は、人を信じる感覚が育ちにくくなるでしょう。虐待され、叩かれて育った子は、大きな声や、肌に触れられることに恐怖を感じる感覚が育つでしょう。一緒に色々と体験しながら、「きれいだね」「美味しいね」「嬉しいね」「楽しいね」「幸せだね」などというような肯定的な言葉をいっぱい聞いて育った子は、肯定的に物事を感じる感覚を育てることが出来るでしょう。否定され、拒否され、「バカ、間抜け、嘘つき、死んじゃえ」などという言葉をいっぱい浴びせられて育った子は、負の感覚を感じる感覚が育ちます。そして、他の子にも否定的な言葉を浴びせ、否定的な行為をするようになるでしょう。そういう状態の子に「もっと優しくしなさい」と言葉で指導しても無意味です。「感覚の働き」につながるようなことは言葉では教えることが出来ないからです。「世界は美しいもので満ちているんだよ」といくら言われても、「自分の身の回りのものに美を感じる感覚」が育っていない子は何を言われているのかが理解できないのです。優しくされたことがない子に「優しくしなさい」と言っても、「優しさを感じる感覚」が育っていなければ、何を言われているのかすら分からないのです。でも現代人は、子ども達の「頭の育ち」には興味があっても、「感覚の育ち」には興味がありません。また、簡単で便利な機械の普及が、子ども達の感覚の育ちを阻害しています。だから、子ども達の育ちに様々な問題が起きているのですが、子どもが問題行動を起こすと言葉だけで指導しようとします。でも。大人自身がお手本を示さず、子どもの感覚の状態を無視するような道徳教育は有害無益なんです。だから、こじれてしまうのです。問題行動が多い子でも、「感覚育て」をすれば落ち着くと思うのですが、そういう発想をする人は滅多にいません。また、その方法も知りません。
2023.07.01
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